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◆ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度機
写真(上)1931年10月以前、ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機
:成層圏に達する高度 1万8,000 メートルに到達することを目標に開発された。
写真は, Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10 3924091021 引用。


1.ユンカース(Junkers)W 34 be/b3e 高高度実験機

写真(右)1929年7月、ドイツ、ユンカース(Junkers)W 34 be-b3e 高高度実験機(D 1119)と操縦士のウィルヘルム・ノイエンフォーヘン(Wilhelm "Willy" Neuenhofen :1897–1936)
English: Willi Neuenhofen and the Junkers W 34 be/b3e he flew to a world altitude record on May 26, 1929. Photo from L'Aéronautique July,1929 Deutsch: Willy Neuenhofen mit der Junkers W 34 „D 1119“, mit der er am 26. Mai 1929 den Höhenweltrekord erflog. Photo aus L'Aéronautique Juli 1929 Date 1 July 1929 Source https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k65549538/f487.item Author L'Aéronautique magazine
写真は , Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy File:Junkers W 34 be-b3e Neuenhofen L'Aéronautique July,1929.jpg 引用。


1929年5月26日, ドイツのユンカース(Junkers)W 34 be/b3e三発輸送機(登録コード:D-1119、製造番号:2600)をウィルヘルム・ノイエンフォーヘン(Wilhelm "Willy" Neuenhofen :1897–1936)の操縦で、高度12,739 m (41,795 ft) に到達し、世界記録を更新した。Junkers W 34 be/b3eの発動機は、ブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter)VII空冷星型9気筒エンジン(排気量28.7 L)441 kW である。

写真(右)1929年7月、ドイツ、ユンカース(Junkers)W 34 be-b3e 高高度実験機と操縦士のウィルヘルム・ノイエンフォーヘン(Wilhelm "Willy" Neuenhofen :1897–1936)
English: Junkers engineers Thiedemann, Schinzinger and, standing at the right, Willi Neuenhofen in front of the Junkers W 34 be/b3e that Neuenhofen flew to a world altitude record on May 26, 1929 . Photo from L'Aéronautique July,1929 Date 1 July 1929 Source gallica.bnf.fr Author L'Aéronautique magazine
写真は, Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy File:Junkers W 34 be-b3e Thiedemann, Schinzinger and Neuenhofen L'Aéronautique July,1929.jpg引用。


⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)W33輸送機を見る。 


2.ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機

写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機:オリジナル解説には「この成層圏航空機では高度 1万8,000 メートルに到達することが求められるが、そのために新型ユンカース成層圏航空機Ju.49が初飛行し、その試験飛行が無事に終了した」
Junkers Ju 49, an experimental aircraft designed for high altitude flight and cabin pressurization technique testing first flown in 1931. Powered by a Junkers L88 V-12 engine, the experience gained on this aircraft lead to the development of pressurized military aircraft such as the Junkers Ju 86P.Ju48は1機のみしか生産されていないが、後方には、複座のユンカースA.50ユニオール軽飛行機が生産ラインが見える。
写真は , Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10 3924091021 引用。


ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機は、の高高度飛行中の操縦士・搭乗員・乗客にとって低温、薄い空気、そして低気圧は大きな障害になる。海面上で1気圧の大気は、高空になるにつれて低下する。例えば高度27000フィート(8230m)で気圧は海面上の1/3に低下し、38000フィート(11582m)では1/5に低下、50000フィート(15240m)で1/10と大きく低下する。このような低気圧には、人体に悪い影響を与える。そこで、キャビンを与圧構造にして、高高度でも気圧がほとんど低下しないようにすればいいが、これは密閉構造、空気注入など方策がある。

写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機:Ju48は1機のみしか生産されていないが、後方には、複座のユンカースA.50ユニオール軽飛行機が生産ラインが見える。
写真は , Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10 3924091021 引用。


『成帯圏』のコロンブス ピッカール教授の偉業に就て
著者 ドイツにて 長岡半太郎

掲載誌 大阪朝日新聞 Vol: 第 46巻 Page: 176 出版年 1931-06-17/1931-06-19
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100359047 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

気球で一万六千メートル、ピッカール[オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)]教授の成帯圏探検につき滞独の長岡半太郎博士から面白い解説が届いた、世人は昨年十一月の失敗以来ピッカール教授を「空のドンキホーテ」と呼んだが、五月二十七日の成功以来は「ストラトスフェア(成帯圏)のコロンブス」なる尊称を奉った、さてストラトスフェア(成帯圏)とは?

写真(右)1930年9月、スイス、ベルギー国立科学研究基金(FNRS)の水素気球FNRS-1と白衣のオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard:1884年1月28日 - 1962年3月24日)教授とパウル・キッファー(Paul Kipfer):成層圏への気球の飛行打ち上げ式典に出席するオーガスト・ピカール教授とその家族。
Photographer Unknown Auguste Piccard mit Gattin und Tochter Original caption Der Stratosphärenflug Prof. Piccards und seines Assistenten Kipfer! Wird die Gattin ihn wieder lebend begrüssen können? Der Abschiedskuss Prof. Piccards vor seinem Aufstieg in die Stratosphäre. Depicted people Piccard, Auguste Prof.: Physiker, Ballonfahrer, Stratosphären- und Tiefseeforscher, Schweiz Date May 1931 Collection German Federal Archives Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-11768
写真は Wikimedia Commons, Category:Auguste Piccard・File:Bundesarchiv Bild 102-10394, Prof. Auguste Piccard im Kreise seiner Familie.jpg引用。


写真(右)1930年9月、スイス、ベルギー国立科学研究基金(FNRS)の水素気球FNRS-1前のオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard:1884年1月28日 - 1962年3月24日)教授とパウル・キッファー(Paul Kipfer):教授の家族も中央に並んでいる
SFA002024758 Nationaal Archief/Spaarnestad Photo Nederlands: Professor Auguste Piccard (rechts vooraan) met zijn gezin en ingenieur Kipfer voor de capsule van de ballon waarmee een stratosfeervlucht gemaakt gaat worden. Op hun hoofd dragen de wetenschappers helmen gemaakt van naaimandjes en kussens. [27-05-1931] English: Professor Auguste Piccard (front right) with his family and engineer Kipfer in front of the capsule of the stratospheric balloon with which a flight will be made. The scientists have on their heads helmets made from sewing baskets and pillows. [05/27/1931] September 1930 Source Flickr: Piccard met gezin bij capsule stratosfeerballon / Piccard with his family and engineer in front of the capsule of a stratospheric balloon
写真は Wikimedia Commons, Category:Auguste Piccard・File:Auguste Piccard with his family and engineer in front of the capsule of a stratospheric balloon.jpg引用。


一、上昇の目的

五月二十七日、二十八日の両日は、日本ではロシヤとの戦争中、日本海海戦とその勝報を得た、誰も記憶に存する日である(予が日露戦争を知らなかったとの報告は全然虚報である)。丁度この両日はまた欧洲人が片唾を呑んで、[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授がストラトスフェア[成層圏:stratosphere]に乗り込んだ報告を待った日に相当するのは、奇怪な偶合であった。人間は地上の動物である。地上七千メートル昇れば酸素の供給がなければ生きておられぬ。

気球や飛行機でまだ高く昇ったためしはあるけれども、空気は稀薄になって、人間はこれに長く堪え得ない。エヴェレスト登山がしばしば失敗に終ったのも、専らこの困難と打勝つことができぬからであろう。それゆえ大気の上層を調べるには、自由気球を放って、それに自記記録機械を載せ、下降した後の記録を検査するより他に方法はなかった。この遣り方で二十五キロメートル以上の高さまで温度の記録を得ている。

しかし科学者の要求する調査は、近年やかましくなった宇宙放射線と称するものであるとか、また太陽から放出するエレクトロンとか、大気の電離状態などである。

宇宙放射線は最初にオーストリアのヘッス、つぎにドイツのコールヒョルスター、アメリカのミリカンらが研究したもので、太陽系の外から来る放射線であって、水の二十メートル、金属の数メートルを通過する激甚なものである。物質の崩壊で生ずる線であると信ぜられている。この線が大気の上層においてはどんなに変るかが問題であった。

電子その他の事柄も、無線電波の伝播とか、北光の出現とか、雷雨の発生とかに直接大関係があるけれども、人の乗っていない自由気球では何とも致し方がなかった。自由気球での観測によると地上十キロメートル附近から大気の上下運動は殆どなくなる。従ってその流れはその上では水平になる。また水蒸気も殆どなくなるから雲はない年中晴天である、温度は零下五十五度位であるけれども、それは欧洲での値であって、赤道ではもっと寒く、しかもその境は十六キロメートル位である。

かような大気の層がストラトスフェア[成層圏:stratosphere]と名づけらるる部分であって地上一万五、六千メートル上ればその真の状態が判然する。どうしても観測者が上って機械で精しく調べねば明瞭にわからない。それでピッカール教授はこの面白い宇宙放射線と電離状態とを観測する目的をもって特殊の装置を作り、観測を実施したのである。(つづく)

写真(右)1931年5月、ドイツ、アウグスブルク、ベルギー国立科学研究基金(FNRS)の水素気球FNRS-1アルミ製密閉球形ゴンドラ(直径2.5m)で高高度飛行に挑戦するオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard:1884-1962)教授とパウル・キッファー(Paul Kipfer):気球で成層圏高度16kmを目指すピカール教授。アウグスブルクの高度 16,000 メートルでの成層圏飛行の準備をしている。
Photographer Unknown Title Auguste Piccard und Assistent Paul Kipfer Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Der Stratosphärenflug Prof. Piccards und seines Assistenten Kipfer! Die beiden kühnen Forscher Prof. Piccard (rechts) und sein Assistent Ing. Kipfer (links). Depicted people Piccard, Jean Felix: Ballonfahrer, Zwillingsbruder von Auguste Piccard, Schweiz (GND 12554880X) Kipfer, Paul Ing.: Assistent und Begleiter von Prof. Piccard, Date May 1931 Collection German Federal Archives Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-11765
写真は Wikimedia Commons, Category:Auguste Piccard・File:Bundesarchiv Bild 102-11752, Augsburg, Stratosphären-Flug mit Ballon.jpg引用。


二、観測の装置

[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授は、数年前からアルミニューム製の球形ゴンドラを考案した。その球の中には、観測機械だとか、酸素吸入器、酸素の缶、呼吸して排泄した空気の吸収器、二日分の食糧、自分と助手とを容れ、外部を観察するための透明な窓を設けて、全く外気との交通を絶つように密閉し得るようにした。このゴンドラの目方が八百キログラムで、気球の目方も殆どこれと均しかった。

気嚢は単に綿布の内部にゴムを塗ったものであった一昼夜水素を包容すればよいからである。器械は何を持っていたかは不明であるけれども、宇宙放射線はアルミニューム球内で観測可能である。また電離状態も可能であるから、別に困難はない。高さを測る気圧計や温度を測る寒暖計は自記装置をゴンドラ外に設けて置けば差支えないから、容易である。
[写真(気球ゴンドラ内のピ教授)あり 省略]

写真(右)1931年5月、ドイツ、アウグスブルク、ベルギー国立科学研究基金(FNRS)の水素気球FNRS-1(直径6.5m)とアルミ製密閉球形ゴンドラ(直径2.5m)で高高度飛行に挑戦するオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard:1884-1962)教授とパウル・キッファー(Paul Kipfer):気球で成層圏飛行を目指すピカール教授と同乗者の巨大気球が発射された。
Photographer Unknown Title Augsburg, Stratosphären-Flug mit Ballon Info non-talk.svg Prof. Piccard wieder startbereit zu seinem Stratosphären-Flug in 16.000 m Höhe in Augsburg! Der Ballon Prof. Piccards fertig zum Start. Depicted people Piccard, Auguste Prof.: Physiker, Ballonfahrer, Stratosphären- und Tiefseeforscher, Schweiz Depicted place Augsburg Date May 1931 Collection German Federal Archives Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-11754
写真は Wikimedia Commons, Category:Auguste Piccard・File:Bundesarchiv Bild 102-11754, Augsburg, Stratosphären-Flug mit Ballon.jpg引用。


三、記録を破ぶる

気嚢には約その七分一容量の水素を詰めた。これでストラトスフェア[成層圏:stratosphere]に上れば、丁度一杯に膨れて来るからである。実際昨年九月以来、四度も上昇を試みて失敗したのであるが、本年五月二十七日朝四時には好天気を幸いに旨く上った。正午ごろには既に最高位置にあって、一万六千メートルの記録を得たのである。

出発地は南部ドイツのアウグスブルヒであったが、正午ごろには遂にスウィスとドイツの国境に達し、南東に流れていた。そのころ肉眼で見たところでは、止め針の頭位であったそうだ。その後暫らく白簀雲に蔽われて所在を失い、皆心配していた。

高空に昇った経験者は、[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]と助手キブフェルは、ゴンドラ内で死んでいるであろうと気遣っていた。自動車で気球の跡を追ったり、飛行機で捜索したりしたけれども、追跡することができなかった。然しオーストリアとイタリーの国境にあるグルグル山の附近を通過したことは、その辺の旅館の主人が望遠鏡で認めたから翌朝捜索隊は隈なく探して、[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授が氷河を渡って村に出ようとするに出会った。

実際二十七日午後十時、氷河の側に下降して、ゴンドラ内に夜を明し、側の断崖を攀じて村に出ようとするところであったそうだ。かくして在来の高さの記録は三千メートル程突破されたが、この飛行は悠々ゴンドラ内で科学上非常に価値ある観測を遂行したのであるから、尋常の記録破りと一様に見るべからざるものである。

これまで臆測のみに止っていたストラトスフェア[成層圏:stratosphere]内の、宇宙放射線とその電離状態を観測するを得たのは、貴重なる学問上の材料を得たのである。殊に喜ぶべきは、高空で使用した器械が全く無事であって、前後の比較が完全に行われ得るからである。(つづく)

[写真(将に上昇せんとする気球 下方がしぼんでいるが、成帯圏に達すると一ぱいに膨れる)あり 省略]

[写真(成層圏を正服した軽気球 これは先月二十七日早暁飛び上ったままオーストリアの上空をさまよい続け遂に目的たる成層圏内、地上一万六千メートルという未曾有の高度を征服した軽気球のゴンドラに冒険者[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]博士と助手のキッフェル氏が納まっているところ、この成功は将来の気象学界と航空界に多大の貢献をもたらすものとして非常に注目された)あり 省略] [写真あり 省略]

写真(右)1931年5月、ドイツ、アウグスブルク、ベルギー国立科学研究基金(FNRS)の水素気球FNRS-1アルミ製密閉球形ゴンドラ(直径2.5m)で高高度飛行に挑戦するオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard:1884-1962)教授とパウル・キッファー(Paul Kipfer):気球で成層圏飛行を目指すピカール教授。アウグスブルクの高度 16,000 メートルでの成層圏飛行の再度の準備をしている。ここらピカール教授と同乗者を成層圏まで運ぶ巨大気球が発射された。
Photographer Unknown Title Augsburg, Stratosphären-Flug mit Ballon Prof. Piccard wieder startbereit zu seinem Stratosphären-Flug in 16.000 m Höhe in Augsburg! Der Riesenballon, welcher Prof. Piccard und einen Begleiter in die Stratosphäre tragen soll, auf dem Startplatz. Depicted people Piccard, Auguste Prof.: Physiker, Ballonfahrer, Stratosphären- und Tiefseeforscher, Schweiz Depicted place Augsburg Date May 1931 Collection German Federal Archives Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-11752
写真は Wikimedia Commons, Category:Auguste Piccard・File:Bundesarchiv Bild 102-11752, Augsburg, Stratosphären-Flug mit Ballon.jpg引用。


四、飛行中の状況

[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授は、二十八日から新聞記者団に取囲まれて、飛行中の状況を話すことを強要されたそうである。上昇の際は無風で、気球は急速に高空に達し、僅に二十五分間で一万五千メートルに上ったから、その間の逐次観測をなすことを得なかったのは残念であった。

しかしアルミニューム球のゴンドラは、旨くできていたから、外部の気圧が七十六ミリメートル(地上の十分の一)に下っても、球内は地上におけると同様であったから、観測には何の支障がなかった。

山登りをして六、七千メートルの高さに達すると、非常に疲労を感ずるものであるけれども、高空飛行を、密閉したゴンドラで行うと、平常と異ならず仕事ができる。これが今度の上昇で得た面白い結果である。

ストラトスフェア[成層圏:stratosphere]における宇宙放射線とか電離状態とかは、観測録を整理し、計算をしてから公表するとのことである。教授は今度得た経験に本づき、将来幾度も観測上昇をなすとの話である。

このように易しく昇れるならば諸国でこれに類した自由気球を飛ばす人が出るであろう。これによって上空の概況が判明するのは喜ぶべき次第である。密閉したゴンドラを利用する方法を授けたのは[オーギュスト]ピッカール[ピカール(Auguste Piccard)]教授であって、今後幾多の改造は行われても、この方法の創始者としての栄冠はピッカール教授のものである。

写真(右)1931年5月、ドイツ、アウグスブルク、ベルギー国立科学研究基金(FNRS)の水素気球FNRS-1アルミ製密閉球形ゴンドラ(直径2.5m)で高高度飛行に挑戦するオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard:1884-1962)教授と妻と子供たち:気球で成層圏高度16kmを目指すピカール教授。アウグスブルクの高度 16,000 メートルでの成層圏飛行の再度の準備をしている。ここらピカール教授と同乗者を成層圏まで運ぶ巨大気球が発射された。
Photographer Unknown Prof. Auguste Piccard mit Frau und Kindern Info non-talk.svg Prof. Piccard wieder startbereit zu seinem Stratosphären-Flug in 16.000 m Höhe in Augsburg! Prof. Piccard mit Frau und Kindern auf dem Startplatz. Depicted people Piccard, Auguste Prof.: Physiker, Ballonfahrer, Stratosphären- und Tiefseeforscher, Schweiz Date May 1931 Collection German Federal Archives Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-11755
写真は Wikimedia Commons, Category:Auguste Piccard・File:Bundesarchiv Bild 102-11752, Augsburg, Stratosphären-Flug mit Ballon.jpg引用。


五、教授助手の来歴

[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授は本年四十七歳スイスのバーゼルの近所で生れ、チューリヒ工科大学で初め機械工学を修め、その後物理学に転じ磁気学の大家ワイスの高弟である。その研究も専らその方面にある。その後ベルギー国に招かれ、新に物理学教室を建築して大に面目を刷新した学者である。至って風采の揚がらない、痩せたひょろ長い男である。

二十年前には、ブラッセルの大学はひどく疲弊していたが、ピッカールやドンデアホが改革を行い、今は大いに揮っている。助手のキプフェルも同じくバーゼルの産で、矢張りチューリヒ工科大学の機械工学出である。

専らゴンドラの構造を研究していたそうだが、成功の一部はキプフェルも与って力がある。両人ともスイスに国籍があるから気球にはスイス旗を掲揚していたそうだ。

写真(右)1932年8月20日、ドイツ、アウグスブルク、ベルギー国立科学研究基金(FNRS)の水素気球FNRS-1アルミ製密閉球形ゴンドラ(直径2.5m)内部のオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard:1884-1962)教授とベルギー国王ル・ソワール・イラストレ - アルベール1世(Albert Ier:1875年4月8日 - 1934年2月17日)、エリザベート・ド・バヴィエール(Élisabeth de Bavière: 1876年7月25日 - 1965年11月23日)王妃:バイエルン公爵夫人エリザベート・ド・バヴィエール王妃は、ドイツのバイエルンで生れ、オーストリア皇后エリーザベトの姪。ベルギー王室は、ピカールの成層圏気球計画を支援していた。
Français : 20 août 1932 - Le Soir Illustré - le roi Albert, la reine Elisabeth et Auguste Piccard Date 20 August 1932 Source https://soirmag.lesoir.be Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons, Category:Auguste Piccard・File:Bundesarchiv Bild 102-11752, Augsburg, Stratosphären-Flug mit Ballon.jpg引用。


しかしてベルギー王[アルベール1世(Albert Ier)]はブラッセル大学教授がこの壮図を決行したのを喜んで翌五月二十八日にはレオポルド勲章を[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授に授与し、キプフェルにも勲章を贈ったそうだ。

ベルギーの物理学は一時盛んであったことがあるが、今世紀の初めになってから研究するものは頗る少くなった。然し英断でピッカール[オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)]のような人を他国から抜擢したのは具眼であったといわねばならぬ。

日本の古い大学は殆どその大学から出た人でなければ採用せぬようである。恰も同系結婚で子孫が退化すると同様な結果を生じはしまいか。この際人材擢用の実を挙げねば学問の振興は覚束ないと思う。[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]の壮挙を記する際、自分の感想をもあわせて記して置く。(おわり)
[写真(アルプス山中に下りたゴンドラ)あり 省略](大阪朝日新聞 Vol: 第 46巻 Page: 176 出版年1931-06-17/1931-06-19引用終わり)

⇒写真集Album:オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)の成層圏気球を見る。 

写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の与圧式コックピット:操縦士、機関士の搭乗するスペースは、高高度の低い空気密度とコックピット内の高い気圧の格差を支えるだけの気密性と強度が求められた。そのため、開口部を極限まで縮小し、視界を得るためのガラス窓も気圧差に耐えられるように小さく円形なものを少数並べるにとどめている。
写真は, Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10 3924091021 引用。


写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の与圧式コックピット
写真は, Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10 3924091021 引用。


八マイルの上空を時速六百哩で飛ぶ : ユンケルスの成帯圏飛行機 : 発動機の試験良好

掲載誌 報知新聞 Vol: 第 1巻 Page: 132 出版年 1930-10-22
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100088746 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

ベルリン二十日初聯合=今回デツサウユンケルス飛行機製造工場Junkers Flugzeug- und Motorenwerke AG)はドイツ科学研究諸団体の財政的援助の下に『成帯圏飛行機』の建造に着手した、動機は時速六百哩で八哩の高空を飛行し得べくその飛行機に使用する発動機は空気の稀薄なる上空にあって大に能力を発揮すべく特別の工夫を施したもので、最近試験の結果満足なる成績を示したと。

ユンケルス代理店語る

右につき丸の内三菱二十一号館のユンケルス日本総代理店では語る『この飛行機は一年前から製作に着手することになっいたものでいよいよ建造に着手したのでしょう、成帯圏飛行機というのは空気のない処をまたは稀薄な処を飛行するので真空装置になっているのです、発動機もユンケルス会社のもので、完成の上は素晴らしいものになるでしょう』と。(八マイルの上空を時速六百哩で飛ぶ : ユンケルスの成帯圏飛行機 : 発動機の試験良好引用終わり)

写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の与圧式コックピットの内部:正面に操縦席・操縦桿と計器盤が見える。
写真は Wikimedia Commons, Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10 3924091021 引用。


ユンカース(Junkers)Ju 49 のように、10km以上の高高度を飛行する高高度飛行機、すなわち「成層圏航空機」は、操縦士、機関士などの搭乗するコックピットの低気圧を、人間が長時間耐えられるような低高度の気圧にまで高める「与圧室」も設ける必要があった。室内と外気の気圧格差が大きいので、与圧室は隔壁の強度を維持するために繭のような形状にして、気密性と強度の両立を図っている。気圧格差が大きい高空を飛行するには、低気圧の高高度まで上昇できるように航空機は軽量であり、かつ気圧格差に耐えられるだけの強度が与圧室に求められた。

つまり、ユンカース(Junkers)Ju 49 のような高高度を飛ぶ航空機には、深海の高い水圧の中を航行する潜水艇と同じように、呼吸用の酸素供給が溜まった居住空間を隔壁で覆って密閉する必要があった。他方、潜水艇では、重量の影響をあまり配慮する必要がないが、航空機では、軽量化しないと高高度にまで上昇することができなかった。

地球の大気圏は、下層から対流圏[troposphere]成層圏[stratosphere]・中間圏(100km)・熱圏(500km)・外気圏と層をなして低気圧になってゆくいる。成層圏[stratosphere]とは、地球大気の対流圏の上空にある大気圏である。対流圏と成層圏との境界は、高緯度の極地では高度8km、低緯度の赤道では高度17kmである。成層圏と中間層の界面高度50kmである。

写真(右)1931年10月、離陸し上昇飛行するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ):大直径プロペラは、高高度で空気密度の低い大気で威力を発揮したが、地上にあるときには、地面とのクリアランスを確保するために、全高を高くするために、長大な脚が必要になった。
写真は, Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10 3924091021 引用。


ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機は、固定脚だが、重量軽減のために脚は細く車輪カバーも取り付けていない。ただし、空気密度の低い高高度用の大直径プロペラを装備したために、降着装置の脚は以上に長い。なによりも、ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の特徴は、与圧コックピット操縦室で、高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる点にある。

ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機には、酸素マスクだけでなく与圧式コックピット操縦室が設けられている。気圧格差に耐えるために、堅牢な繭型で、気密性を高めるために、出入り口は小さく、視界を得るためのガラス窓も小さな円形にとどめている。高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる 与圧コックピットには、気密性と軽量で高い強度が求められた。

高度と気圧の低下は、
18000フィート(5486m)1/2
27000フィート(8230m)1/3
38000フィート(11582m)1/5
50000フィート(15240m)1/10
と 加速度的に気圧は低下する。

写真(右)1931年10月、離陸し上昇飛行するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ):オリジナル解説には「この成層圏航空機では高度 1万8,000 メートルに到達することが求められるが、そのために新型ユンカース成層圏航空機Ju.49が初飛行し、その試験飛行が無事に終了した」
Title Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49 Info non-talk.svg Original caption Mit diesem Stratosphärenflugzeug soll eine Höhe von 18.000 m erreicht werden ! Das erste neue Junkers-Stratosphären-Flugzeug "Ju. 49" hat seinen ersten erfolgreichen Probeflug beendet. Aufnahme während des Startes. Date October 1931 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-12368
写真は Wikimedia Commons, Category:Portraits of Amelia Earhart・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。


高空気象観測の充実 : 航空会社の事業開始と共に着手 : 大体決定した主なる施設

掲載誌 大阪毎日新聞 Vol: 第 45巻 Page: 130 出版年 1928-01-06
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100358846 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

現時のわが高空気象の観測事業東京中央気象台の一部で僅数ヶ所の不十分な地方測候所の報告に基づき極めて小規模な設備をもって断片的に取扱われているが、ようやく発展の域に向って来たわが航空界に対する施設としては甚だ物たらず、しばしばこれが充実拡張を企図したけれども、その都度財政難のため葬られ今日におよんでいるが、今回多年の懸案であった官民合同の航空会社の創設が実現することとなり第一期線として東京、大連間および大阪、上海間の二航空路が設定され明年度から輸送を開始すべく目下種々具体的に準備が進捗している、

これが輸送開始の上は高空気象の観測はいよいよその重要性を増し完全を期せねばならず在来の施設では到底用をなさず、その不完全から折角擡頭して来たわが航空界の発展の前途を阻止するおそれがあるので航空路の内地沿線(第一期線では東京、福岡間)の高空気象の観測事業をなすこととなっており文部省では本年度から三ヶ年の継続事業として観測施設の拡張充実を期することとなり、これが経費として設備費十七万四千円、建設費三十五万三千円総計五十二万七千円(昭和三年度十六万一千円、四年度二十一万二千円、五年度十五万四千円)を計上し今期議会に該予算を提出することとなっている、しかしてこの拡張案は議会の協賛を経た後具体化されるのであるが、すでに大体決定した施設計画の主なるものは次ぎのごとくである

東京 東京国際飛行場附近に庁舎約八十坪の中央気象台の出張所を設置する

箱根山 適当の地点に庁舎約一百坪の国立高空気象台を設置する
伊吹山 現在の滋賀県立伊吹山高層気流観測所を国立となし文部省に移管、観測費四万六千円および経常費一万三千円をもって拡張することとなった(同観測所は大正八年下郷伝平氏、本山本社長等の寄附によって開設され高空気象の観測上すこぶる重要な地点である)
奈良 県立八木測候所に補助金を交付し同所の施設を利用する
大阪 大阪国際飛行場附近に庁舎約八十坪の神戸海洋気象台の出張所を設置する
神戸 海洋気象台に経費約三万円をもって上層気象観測の施設をなす
福岡 福岡国際飛行場附近に庁舎約百五十坪の国立高空気象台を設置する

なお観測の万全を期するため石垣島、八丈島をはじめ各地の測候所ならびに茨城館野の国立高層気象台などと互に連絡をとるはずで、かくて航空会社に対し航空路沿線の気象状況を情報するのであるがこれは単に国際航空条約による高空気象情報の義務を果すばかりでなく、いわゆる産業気象の上から見て霜害、雹害、暴風雨など産業の自然的妨害現象の科学的対策ともなり、農業、漁業などの方面に多大の効果を与うべく、またこの施設完成の上はわが国の気象一般の観測が行われることとなるので従来の変則的な地上観測からくる幾多の欠陥を補い、わが気象観測界に劃一的の発展をもたらすものと見られている、

なお将来財政に余裕ある場合は、さらに石垣島、八丈島、南洋諸島の重要地点に対しても相当の施設をなし、また東北、北海道方面に対しても航空路開通までは相当完備した航空気象の観測施設をなす方針であると(引用終わり)

写真(右)1937年、滑走路で待機中のユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ)の左前方:垂直尾翼には赤帯白丸黒スワスチカ卍のドイツの国籍マークが描かれている。本来、NSDAPナチ党の党旗は、1933年1月30日にアドフル・ヒトラー政権が成立後に、国旗として昇格した。1933年2月27日のドイツ国会議事堂放火事件を契機に、「民族・国家防衛の大統領緊急令」がだされ、人権が制限され、3月24日には、全権委任方が成立して、ナチ党による独裁政治が合法化された。ドイツ共産党党員が禁止され、社会主義、自由主義の政党が抑圧された。
unkers Ju 49 Vor 1937 entstanden, daher nach deutschem Urheberrecht gemeinfrei Date 3 December 2003 (original upload date) Source Transferred from de.wikipedia to Commons. Author Head at German Wikipedia
写真は Wikimedia Commons, Category:Portraits of Amelia Earhart・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。


成層圏の上空は、中間圏で、その境界は、高度50kmである。したがって、成層圏に達するには、中緯度であれば高度12−13kmである。つまり、成層圏飛行機とは高度1万2000m以上まで上昇、高高度で飛行し続けることの可能な航空機ということになる。

成層圏では強い対流は見られないが、対流圏上部の偏西風の影響を受ける。他方、成層圏上部では、気圧差とコリオリから、地軸の傾きに応じて冬は成層圏偏西風、夏は成層圏偏東風が吹いている。

現在のジェット旅客輸送機の巡行高度は、高度1万メートル(10km)程度であるが、その理由はでは、空気密度の抵抗とエンジンの稼働に必要な大気(酸素)との関連である。つまり、空気密度は、海面上(標高0m)に比して、高度10kmでは、33.7%に低下するが、これは飛行機の空気抵抗は、高高度ほど減少することを意味する。

しかし、高高度であれば、エンジンの燃料燃焼のための酸素も減少しているので、エンジン駆動には向いていない。例えば、高度50kmでは、空気密度は海面上に比較して0.08%しかなく、酸素不足でジェット・エンジンもレシプロエンジンも燃料燃焼に必要な酸素部不足で稼働できなくなる。したがって、航空機が飛行可能な高度は、エンジンの関係上15kmが限度である。

写真(右)1931年10月、舗装滑走路に待機するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ)の左後方側面:垂直尾翼には赤帯白丸黒スワスチカ卍のドイツの国籍マークが描かれている。1934年8月2日、ドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクが87歳で死去すると、ヒトラー首相が大統領の権限を引き継ぎ、ドイツ軍は、ヒトラーに個人的忠誠を宣誓するようになった。これが、ヒトラー総統の独裁国家である。
Junkers Ju 49 (1931)Первый полет состоялся в 1931 году. В 1933 году самолет достиг высоты 9300м, а 1935 году высоты 13000м.
写真はFree web-hosting with CMS, высотный, исследовательский・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。


高高度飛行の制約の第一は、高高度では酸素不足・気温の低下である。そこで、人間が高高度に滞在するには、酸素吸入マスク・暖房機が必要になる。気温は海面上から100メートル上昇するごとに摂氏0.6度低下する。そのため、高度8kmではマイナス30度、高度10kmでは海面上より60度も低下し摂氏マイナス50度にもなる。そこで、高高度では、酸素不足と気温低下に対応することが必要で、そのために航空機の操縦士や同乗者には酸素吸引マスク電熱服などが開発され、1930年代には実用化されていた。

高高度飛行の制約の第二、高高度では空気の密度が薄くなり、気圧が低下することである。人間が気圧が極端に低い場所に長時間滞在し続けると、高山病高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)ような健康上の障害が起こる。たとえ酸素吸入器や暖房機を持参しても、高度27000フィート(8230m)で気圧は海面上の1/3、38000フィート(11582m)で1/5、50000フィート(15240m)で1/10と大きく低下するので、低気圧に晒された人間は、健康を維持できない。

民間機の旅客輸送でも軍用機の作戦飛行でも、航空機が高高度を巡行する場合、機内の気圧が低下すれば、高地脳浮腫のような高山病と同じ症状が出る。それを防ぐには、海面上に近い1気圧を維持できるようにすればよいが、実は、深海に潜水すると水圧がかかるのと同様に、高高度8000mで気圧が3分の1に低下するなかで、1気圧を保つような気密性を確保することは非常に困難である。3倍もの気圧差があれば、密閉するとしても圧力に耐えられるだけの強度が求められる。

しかし、潜水艇のように厚く頑丈な金属外殻で覆ったコックピット操縦席や客室キャビンは、重量が過大となり、飛行性能を低下させ、高緯度10kmまで上昇することはできなくなってしまう。軽量化が求められる航空機に大きな気圧差に耐えられるだけ堅固な気密室を設置するのは容易ではない。

航空機は、空気抵抗減少とエンジン稼働のバランスを取って、高度10kmでの巡行飛行が効率が良いが、高高度飛行では、滞在する人間に、酸素・気温・気圧が十分に維持されなくてはならないのである。酸素・気温の問題は、酸素吸入マスク、電熱服・暖房機によって1920年代には克服できたが、ユンカース(Junkers)Ju 49 でもコックピットの低気圧下での高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)への対処は、最も困難だった。

ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の特徴は、与圧コックピット操縦室で、高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる点にある。高高度記録を更新したわけではないが、パイロットの技量・体力・勇気に依存する高高度席記録よりも、乗客に快適な与圧キャビン、少なくとも操縦者には安全な与圧コックピットの開発には、世界記録更新よりも、その後の航空界にプラスの影響をもたらしている。

写真(右)1931年10月、未舗装滑走路に待機するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ)の前面:固定脚、4翅大直径固定ピットプロペラを装備。手前の左主輪付近には10人の地上勤務員らしい人々が集まっている。
Junkers Ju 49 (1931)Первый полет состоялся в 1931 году. В 1933 году самолет достиг высоты 9300м, а 1935 году высоты 13000м.
写真はFree web-hosting with CMS, высотный, исследовательский・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。


機上から投下した爆弾命中の研究 : 興味のある結果に到達した : 東大淡路博士の実験

掲載誌 東京朝日新聞 Vol: 第 2巻 Page: 85 出版年 1931-12-15
情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

[写真(実験立てるは淡路博士)あり 省略]
満洲事変でひとり舞台の活躍をつづけたわが爆撃機は十分にその偉力を発揮したが、帝大心理学教室の淡路丹次郎博士は過般来同実験室と駒場航空研究所の実験室とで爆弾投下の興味ある実験をつづけている

一寸考えれば爆弾投下は何でもないことのように思えるが投下した爆弾は風速や地物の距離などの相違によって全然別の個所に落ちるので近頃ではこれを加減して自働的に出て来る目盛りを見た瞬間にレヴァーを引けば自然と爆弾が落下する装置を採用している、ところがこの装置を使っても人により又は同じ人が操作しても時によって結果は異って容易に目標には的中しないので

この間には必ず何か心理的な要素が働くものと目をつけたのが研究の動機で実験の装置は極めて簡単で高いやぐらの上から下を走る布板の上のマークに小さな鉛の丸を投下して的中の度を見るのであるが、これがやぐらの高さや布板の走るスピード、布板の明かるさで一々違った結果をあげる、やぐらが低ければもちろん命中率はよいわけだがこれがある高さまではほとんど命中率の変化はなくこの高さを超えると急に率が悪くなる、速さや明かるさも同じことで遅く又明かるければ命中も容易なのはもちろんだが少し位速くとも又少し位暗くとも命中率は大差なくこれがある限度を超すとばったり率が悪くなることを今までの実験でたしかめた

この限度が大抵高度何メートル速度何キロ、明るさにどの位ということをつかめば、地上からの射撃を逃れ得てしかも命中率のさほど低下しない飛行の高度及び飛行機の速度が判ってくるし、又敵から発見され難くてしかも投下には不便のない明るさが分って爆撃出動の時間は朝がよいか昼がよいかということも大体決ってくるので

淡路博士は引続きこの実験を続けて来春までには研究を終る予定である、尚同博士の研究によると爆弾投下にも飛行機操縦と同じように人によって適性があって下手な人はいくら練習しても中々上達せずこれに反して上手な人は上達も早いので将来は爆撃手操縦士と同様に適性検査をしてから採用する方が確実だとのことである【写真は実験立てるは淡路博士】(機上から投下した爆弾命中の研究 : 興味のある結果に到達した : 東大淡路博士の実験引用終わり)

図(右):ドイツ、ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の三面図:与圧室、排気タービン、大直径プロペラ、高アスペクト比の大きな主翼と高高度飛行のための技術を取り入れた設計になったが、高高度の低気圧とコックピットの気圧差がを解消する与圧室が難題だった。
Junkers Ju 49, an experimental aircraft designed for high altitude flight and cabin pressurization technique testing first flown in 1931. Powered by a Junkers L88 V-12 engine, the experience gained on this aircraft lead to the development of pressurized military aircraft such as the Junkers Ju 86P.
写真は , Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10 3924091021 引用。


ユンカース(Junkers)Ju 49 の諸元
乗員Crew: 2名
全長Length: 17.21 m (56 ft 5.5 in)
全幅Wingspan: 28.24 m (92 ft 8 in)
主翼面積Wing area: 98.0 m2 (1,055 sq ft)
空虚重量Empty weight: 3,590 kg (7,916 lb)
総重量Gross weight: 4,250 kg (9,371 lb)
発動機Powerplant: 1 ×ユンカース(Junkers)L88a V型12気筒4ストローク(排気量45.8 L)液冷エンジン2段排気ガスタービン過給機(supercharger)付き596 kW (800 hp)
最高速力Maximum speed: 146 km/h (91 mph, 79 kn) at sea level; 220 km/h (136 mph) at 13,000 m (42,700 ft)
実用上昇限度Service ceiling: 13,015 m (42,700 ft)
上昇率Rate of climb: 3.5 m/s (690 ft/min) to 8,000 m (26,250 ft)

高空征服への一歩 地上に成層圏 : やがて太平洋も十時間で : 帝大で素晴しい試験

掲載誌 東京日日新聞 Vol: 第 3巻 Page: 6 出版年 1933-03-09
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100168629 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

[写真(低温低圧風洞)あり 省略]
ベルジューム気象学の権威ブラッセル大学[オーギュスト]ピカール[Auguste Piccard]教授は一九三一年五月軽気球に乗って一万五千七百メートルまで上昇し更に昨年八月一万六千五百メートルの上空をきわめて高度上昇の世界新記録を作り成層圏[stratosphere]に対する新発見を多数にもたらしいわゆる無碍の世界ともいうべき成層圏−地上に嵐が吹いていても雨が降っていても成層圏には低空気象の影響はない−飛行への完成は今や世界の航空界、気象界に残された大問題として世界各方面の研究の焦点となっているがわが国でも帝大航空研究所で早くも大正十四年来故田丸卓郎博士や佐々木達治郎博士が研究に没頭し故田丸博士考案、佐々木博士が設計に当って成層圏[stratosphere]と同一の条件を具備する計器(飛行機の速度計、高度計その他)研究の設備を痛感して同十五年経費十五万円を投じて『低温低圧風洞』の設備に著手し爾来八ケ年の長年月を費して苦心惨憺、最新科学の粋をあつめた工事を急ぎつつあったがいよいよ本月中旬をもって目黒の航空研究所内に『低温低圧風洞』の設備が完成し、来る四月から新設備による成層圏飛行への光彩ある実地研究の第一歩を踏み出すことになった、

しかもこれは世界無二の設備で全く日本が先鞭をつけたものである、この設備は一万メートル以上の高空、いわゆる成層圏[stratosphere]におけると同様の低温(零下五十度以下)低圧の気象状況を現出する装置でこの風洞内においていろいろな航空計器の実験的研究をなすものであるこの実験的研究が完成された暁には成層圏における人間の体力の研究と相まって現在の航空機では不可能とされている成層圏内飛行が可能となり田中館博士が二十年も前から唱えている『高天ケ原飛行』によって太平洋横断も僅十時間の短時間で出来るという世界航空界未踏の研究資料がこの風洞の計器実験から生れようという訳である、右について航空研究所の水口事務官は語る

世界で唯一のものです、この風洞によって航空計器の実験を行い成層圏[stratosphere]では如何にその性能が変化するかを研究して成層圏飛行の参考にするもので広さ五、六十坪高さ五、六間の建物の中に設備され純国産品で作り上げたものです。(高空征服への一歩 地上に成層圏 : やがて太平洋も十時間で : 帝大で素晴しい試験">高空征服への一歩 地上に成層圏 : やがて太平洋も十時間で : 帝大で素晴しい試験引用終わり)


3.イタリアのカプロニ(Caproni) Ca.113 複葉機


写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機を飛行機格納庫に人力で押して移動している。

FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO Alcuni militari spingono all'interno di un hangar il Caproni 113 AQ data: 11.04.1934 luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053718引用。


1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機は、ブリストル・ペガサス(Pegasus)空冷星型9気筒エンジン(排気量28 L) を搭載し、高度14,433 m (47,352 ft)の世界記録を達成した。操縦士は、レナート・ドナティ(Renato Donati)だった。


写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機を整備する技術者たち

FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO Sulla pista dell'aeroporto di Montecelio, l'aereo Caproni 113 è controllato da un gruppo di tecnici del Reparto Alta Quota data: 11.04.1934 luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053719引用。


1929年5月26日, ドイツ人ウィルヘルム・ノイエンフォーヘン(Wilhelm "Willy" Neuenhofen :1897–1936)の操縦でユンカース(Junkers)W 34 be/b3e三発輸送機(登録コード:D-1119、製造番号:2600)は、高度12,739 m (41,795 ft) の低気圧高高度世界記録を立てたが、これを1934年4月11日、イタリア人レナート・ドナティ(Renato Donati)の操縦するカプローニ(Caproni) Ca.113 が14,433 m (47,352 ft)という高高度世界新記録で破ったのである。


写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の操縦席コックピットにおさまったレナート・ドナティ(Renato Donati)
:胴体左中央部を撮影。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO Il pilota Renato Donati seduto al posto di pilotaggio dell'aereo Caproni 113 AQ data: 11.04.1934 luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053721引用。



写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機に搭乗するレナート・ドナティ(Renato Donati)
:胴体左中央部で技術者たちも協力している。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO Aiutato da aluni tecnici del Reparto Alta Quota, Donati si posiziona al posto di pilotaggio del Caproni 113 data: 11.04.1934 luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053722引用。


⇒写真集Album:カプロニ(Caproni)Ca.113高高度機を見る。 


4.フランスのポテーズ(Potez)506複葉機

写真(右)1933年、フランス、ポテーズ(Potez)506複葉機の左前方:複葉機は、主翼面積を短い全幅で稼ぐことができるので、翼面荷重の軽減、構造の軽量化に寄与した。ただし、アスペクト比が高くできないので、高高度性能は必ずしも良くなかった。3翅固定ピッチプロペラ装備、固定脚で引込み式降着装置ではない。ガラス風防のついた開放式コックピットで、与圧室ではない。操縦士は、縊れた繭式のヘルメットを被り、与圧スーツを着込んでいる。
Potez 506, French absolute altitude record setting aircraft Source "The new altitude record". Flight. Vol. XXV, no. 42. 19 October 1933. p. 414. Article Potez 506 Portion used Cropped portion of page Low resolution? Yes Purpose of use To illustrate historic aircraft article
写真は, Category: Caproni Ca.161 File:Potez 506.png引用。


1936年8月14日、フランスのポテーズ(Potez)506複葉機は、高高48698フィート(14843m)に達し、高高度世界記録を更新した。

空気の欠乏も何かは高空十五哩へ上昇 : 三倍の能力を発揮する発動機 : 川崎とファルマン提携 : 空の一九三六年

掲載誌 大阪毎日新聞 Vol: 第 3巻 Page: 51 出版年 1933-12-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100129396 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

「空の一九三六年」をめざしてわが民間の三大飛行機製作所−川崎、中島、三菱−の間に世界制覇を誇る優秀機の国家的製作競争が展開されるだろうことは一般に予想されているが早くも川崎では他に魁けて仏国のファルマン会社と提携して優秀発動機製作の三ケ年計画を確立したと伝えられている

これより先、九二式戦闘機八八式軽爆撃機・偵察機、八九式重爆撃機等々の優れた陸軍機を製作した川崎造船所飛行機工場は飛行機の心臓ともいうべき発動機がドイツからパテントを買ったBMW一点張りだっただけに、ひとしく発動機において行詰った三菱、中島の両者よりもその行詰り方は一層ひどかった、一方陸軍には満洲事変の貴重な体験から飛行機の性能向上を強調する声が漸く高く加うるに空の充実を劃期的に強要する一九三六年の切迫!三大飛行機製作所の眼と耳はいずれも欧米諸国の優秀な発動機に向けられるとともに内は独創の改良、発明への緊張となったのであった、

川崎 九三式単軽爆撃機 キー3 他方また欧米諸国でも飛行機は軽く速く上昇能力が大きくて航続時間の長いことを目標に仏国のイスバノ・スイザ、ファルマン、サルムスン(仏)英国のロールス・ロイス、サルムスン(英)イタリのフイアット、ドイツのユンカース、米国のライト等々一流の航空用発動機製作所の間に時には火花を散らすスパイ戦まで演ずるほど競争しているが、まずナンバ・ワンの凱歌は仏国のファルマン会社にあげられたのであった

即ちファルマンでは総支配人シャルル・ワセージュ氏を中心に数年にわたる発動機改良の特別研究の結果、このほどに至りレコンプレスールという特殊な気体高圧装置を附加した十二、十六、十八シリンダのV型、W型水冷式による発動機の製作を完成して発動機のすばらしい軽量化と高空飛行における空気の欠乏を十二分に補うことに成功したのであった、

この発動機を利用すれば全重量五百キログラムの発動機で実に千五百馬力の偉力を発揮し時速五百キロの快速で十二−十五マイルの高空まで上昇出来、普通航空には楽に時速平均四百キロを持つといわれている

この新発明に逸早く眼をつけたのが川崎で両者間の交渉が成立してファルマン会社からは発明の主ともいうべきワセージュ氏自身が夫人同伴で去る十月初旬来朝、毎日川崎飛行場で設計、組立、性能試験を極秘裏につづけていたが最近終了したので同氏は十九日神戸出帆の龍田丸で帰国することになった世界で最も古い歴史と新技術とを誇るファルマンと川崎のコンビに一九三六年の空の充実は非常に期待されているがワセージュ氏が残して去った一枚の設計用青写真に川崎自身が加える独創の新技術に対して非常な注目が払われている(引用終わり)

日本郵船の貨客船「浅間丸」「秩父丸」の姉妹船龍田丸の諸元 起工 1927年(昭和2年)12月3日 進水 1929年(昭和4年)4月12日 竣工 1930年(昭和5年)3月15日 就航 1930年(昭和5年)4月25日 最後 1943年(昭和18年)2月8日沈没
総トン数 16,955 トン 載貨重量 8,170 トン
全長 178.0 m 全幅 21.98 m 型深さ 12.98 m 喫水 8.71 m
主機関 2サイクル単動空気噴射式ディーゼル機関 三菱スルザー8ST68/100 4基4軸
最大出力 20,663馬力
定格出力 4,000馬力×4 最大速力 21.232ノット
航海速力 19.0ノット
旅客定員 計 839名
一等 239名 二等 96名 三等 504名 乗組員 330名


5.イタリアのカプロニ(Caproni)Ca.161高高度機

写真(右)1936年、イタリア、エンジンを駆動しているカプロニ(Caproni)Ca.161高高度機の右前方:4翅固定ピッチプロペラ装備、固定脚で引込み式降着装置ではない。ガラス風防のついた開放式コックピットで、与圧室ではない。操縦士は、縊れた繭式のヘルメットを被り、与圧スーツを着込んでいる。
Descrizione Il pilota Pezzi sul Ca.161 Fonte www.tusciaromana.info Data 1936 Autore Sconosciuto Licenza d'uso (riusare il file) vedi sotto
写真は, Category: Caproni Ca.161 File:Caproni Ca.161.jpg引用。


1936年8月14日、フランスのポテーズ(Potez)506複葉機は、低気圧の高高48698フィート(14843m)に達し、高高度世界記録を更新した。その1か月後、1936年9月28日、イギリス空軍ブリストル 138(Bristol Type 138)は、F.スワイン飛行隊長が搭乗し、高度49967フィート(15230m)の高高度世界新記録を樹立した。

しかし、この8か月後の1937年5月8日、イタリアのカプロニ(Caproni)Ca.161複葉機がマリオ・ペッツィ(Mario Pezzi:1898-1968)中佐の操縦で高度15,655 m (51,361 ft)まで到達してイギリスの高高度世界記録を更新した。

イタリアのカプロニ(Caproni)Ca.161複葉機の装備した発動機は、高度 7,200 m (23,600 ft)で740 kW (1,000 PS)を発揮するピアッジョ(Piaggio)P.XI R.C.72空冷星型14気筒エンジン(排気量38,67 L)である。

イタリアの世界記録を抜くために、イギリスはブリストル 138(Bristol Type 138)を改良して、高度53937フィート(16440m)に達して高高度世界記録を塗り替えた。

伯林から東京へ十五時間で飛込む : 時速七百キロ成層圏を突進 : オリンピック大会をめざす驚異の新計画

掲載誌 大阪朝日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 12 出版年 1937-06-18
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100186073 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

【同盟ベルリン十六日発】ルフトハンザ航空会社[Deutsche Lufhansa AG]が全機能をあげて研究中だったベルリン、東京十五時間飛行計画は四年後のオリンピック迄に実現しそうだということである、従来欧亜航空聯絡はイギリスのインピリアル・エアウェイ会社[Imperial Airways]に独占されていた形だったのでルフトハンザ会社[Deutsche Lufhansa AG]はこれに対抗して独自の航空路就中日独両国を繋ぐ空路を開拓しようというのでこの空路に必要な新考案の研究を続けていたわけなのだが、最近いよいよこの計画に目鼻がついたといわれる

 この考案というのは空気の抵抗を極度に削減するため特殊の飛行機を使って上空十キロ乃至十五キロの成層圏[stratosphere]に上昇し時速七百キロの猛スピードを出し、東京ベルリンを十五時間位で繋ごうというのだが、ルフトハンザ会社[Deutsche Lufhansa AG]では是非とも一九四〇年東京オリンピックまでに実現して同航空路経由でドイツ選手達に空の一番槍をさせようという意気込み(引用終わり)

⇒写真集Album:カプロニ(Caproni)Ca.161高高度機を見る。 


6.ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機


写真(上)1936年以降、イギリス、ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機(K4879)

English: Pictured is the Bristol Type 138 High Altitude Monoplane, K4879. Completed in early 1936, the aircraft was routinely capable of achieving 50,000ft and could also carry an observer when necessary. The Bristol Type 138 High Altitude Monoplane was a British high-altitude research aircraft developed and produced by the Bristol Aeroplane Company during the 1930s. It holds the distinction of setting nine separate altitude world records, the ultimate of these happened during a 2¼-hour flight flown by Flight Lieutenant M.J. Adam, in which he achieved a record altitude, which was later homologated by the Fédération Aéronautique Internationale as having attained a maximum altitude of 53,937 ft (16,440 m). Organization: RAF Object Name: H-1387 Category: MOD Supplemental Categories: Aircraft, Equipment, People, Historic Keywords: K4879, Royal Aircraft Factory S.E.5, Historic Aircraft, RAF, Royal Air Force, Historic, Equipment, Aircraft, B&W, Black and White, Monoplane, High Altitude, Bristol Type 138, Research Aircraft, Inter War Years, RAF 100 Country: UK Date 14 February 2018, 15:27:00 Metadata source: www.defenceimagery.mod.uk Author Air Historical Branch-RAF
写真は, ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv File:100 years of the RAF MOD 45163649.jpg引用。


イギリスのブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機は、ブリストル・ペガサス(Pegasus)P.E.6S 空冷星型9気筒エンジン(排気量28 L) にスーパーチャージャー (supercharger:機械式過給機)を設置し低気圧、低密度の酸素でエンジンを駆動し、操縦士は与圧飛行服と与圧ヘルメットを着用して高度50,000 ft (15,240 m)での飛行を目指した。

イギリス航空省は、スペック2/34で高高度50000フィート(15240m)に達成可能な高高度実験機の使用を出し、ブリストル社は ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機でそれに答えた。ブリストル 138(Bristol Type 138は、木製構造、固定脚で、発動機は過給機(スーパーチャージャー)付きのブリストル・ペガサス(Pegasus)エンジンを装備し、全幅66フィート(20.1m)の高アスペクト比の長大な主翼とした。初飛行は、1936年5月11日、ウィンズ大尉の操縦で行われた。

1936年9月の高高度飛行は、イギリス空軍F.スワイン飛行隊長の操縦で、高度49967フィート(15230m)の高高度世界新記録を樹立した。これ以前の世界記録はフランスによる48698フィート(14843m)だったので、イギリスが高高度世界記録を更新したことになったが、この世界記録も1937年5月にイタリアが破ったために、イギリスは再度の挑戦を試みた。

ブリストル 138(Bristol Type 138)は、軽量化するために、降着装置の主輪を小型化しブレーキも撤去した。プロペラも高高度に適した固定ピッチとし、ペガサス・エンジンをオーバーホールして再調整した。1937年6月30日、イギリス空軍J.アダム中尉の操縦で、ロンドン西60kmフェアボーン飛行場を離陸し、ロンドン西120kmイギリス空軍ネザーエイヴォン(Netheravon)基地に2時間15分後に着陸したが、その間に高度53937フィート(16440m)に達して高高度世界記録を塗り替えた。

このとき操縦者J.アダム中尉は、酸素吸入式の与圧スーツを着用し、密閉式曲面ガラス付きヘルメットを被っていたが、高高度でコックピット・キャノーピーがひび割れ破損したが、与圧スーツのために無事だった。

写真(右)1936年以降、イギリス、飛行中のブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機(K4879):密閉式ガラス風防のコックピットだが、与圧室ではないために、高高度飛行中の操縦士は、与圧飛行服と与圧ヘルメットを着用しなければならなかった。
English: Original photograph taken by an employee of the British government. Image found on:http://www.unrealaircraft.com/gravity/pages/bristol_138.php
写真は, Category:Bristol 138 File:Bristol 138 1.jpeg引用。


世界に跨る航空日本の底力成層圏飛行に光明 : 航空衛生学上の基礎研究成る 航研淡路氏の輝く業績

掲載誌 報知新聞 Vol: 第 6巻 Page: 67 出版年 1939-11-07
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100186858 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

[写真(淡路円次郎氏)あり 省略]
成層圏飛行は最もスピィディで障害の少い理想的な航空路として列強が競って研究を続けているが、我が帝大航空研究所でも事変以来成層圏飛行については殊に熱心に研究を続けており、これが実現の日も歩一歩近づきつつあるとき今度同研究所員の淡路円次郎氏が『成層圏飛行における加速度の精神機能に及ぼす影響』という航空医学上画期的な業績の一部を完成、今度文部省の学術振興会から研究助成金を得ていよいよ第二期研究に着手することになった

この研究は成層圏飛行のような超スピード飛行に必然的に伴なう加速度が飛行士や機関士などの搭乗者の心身に如何なる影響を与えるかを明らかにしたもので、これは成層圏飛行にとって最も重大な宿題であるにも拘らず今まで全く等閑に附されていたものを同氏が初めて明らかにしたものである、同氏の研究は人間を被実験生体としてその影響を研究する前に先ず白マウスを被験生体として研究を行ったもので既に成層圏のスピード飛行ではどれだけの加速度と持続時間で死に至るかの限界を明らかにすると共に成層圏飛行におけるいろいろな精神的、肉体的前駆徴候を明らかにし、我国航空医学界に不滅の金字塔を打ちたてたものである

 同氏は更に今回学術振興会からの研究助成金によっていよいよ残された低気温圧下における加速度の影響について研究を進めることになった(引用終わり)

⇒写真集Album:ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機を見る。 


7.ユンカース(Junkers)Ju 86 高高度偵察機


写真(上)1937−1938年以降、スイス、チューリッヒ(Zürich)郊外、デューベンドルフ(Dübendorf)空港、スイス航空(Swissair)ドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 B-1輸送機(登録コード: HB-IXE)
:ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン600 PS (441 kW) 2基搭載。
EN: JUNKERS JU-86 B-1, HB-IXE ON THE GROUND IN DÜBENDORF Photographer Swissair Dating 1937-1938 Caption Swissair had three different Ju 86's. The first two had diesel engines. HB-IXI Ju 86 B-0 came to Swissair on 7.5.1936, but had a crash landing with major damage at Wixhausen (D) on 12.8.1936 and went back to the Junkers factory. The JU-86 B-1 HB-IXE came to Swissair as a replacement for the HB-IXI on 3/16/37. Its diesel engines were very prone to failure over short distances and it was therefore flown back to Junkers on 4.11.38 for conversion to BMW gasoline radial engines. On 2/5/39, the former HB-IXE now with gasoline engines returned to Swissair as the Ju 86 Z-11 HB-IXA and crashed on 7/20/39 near Constance. Flight captain Walter Ackermann, radio operator Anton Mannhart and four passengers were killed. Format 6 x 6 cm Ort > Politische Geographie > Schweiz > Zürich, Kanton > Dübendorf Sachkatalog > Verkehrsmittel > Luftverkehr > Fluggesellschaften > Swissair Swissairarchiv Junkers Ju-86 B-1, HB-IXE Copyright notice ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf: Swissair / LBS_SR01-00326 / CC BY-SA 4.0
写真は, ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv Record Name LBS_SR01-00326引用。


民間仕様のユンカース(Junkers)Ju86B輸送機は、機首を短くしソリッド化し、胴体の客室キャビンに乗客10人を搭乗せることができた。

ドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 B 双発輸送機の発動機は、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン(diesel engine)600 PS (441 kW)で、ガソリンエンジンよりも重かったが、燃費が良かった。

写真(右)1937−1938年以降、スイス、チューリッヒ(Zürich)郊外、デューベンドルフ(Dübendorf)空港、スイス航空(Swissair)ドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 B-1輸送機(登録コード: HB-IXE):1934年11月4日初飛行のJu86は、民間航空仕様とドイツ空軍爆撃機仕様の双方に使用できる高速双発機として開発された。発動機は、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンで、ガソリンエンジンよりも重かったが、燃費が良かった
EN: JUNKERS JU-86 B-1, HB-IXE ON THE GROUND IN DÜBENDORF Photographer Swissair Dating 1936-1939 Format 13 x 18 cm License CC BY-SA 4.0Caption (German) Die Swissair hatte drei verschiedene Ju 86. Die zwei ersten hatten Dieselmotoren. HB-IXI Ju 86 B-0 kam am 7.5.1936 zur Swissair, hatte aber am 12.8.1936 in Wixhausen (D) eine Bruchlandung mit grosser Beschädigung und ging zurück ans Junkers-Werk. Die JU-86 B-1 HB-IXE kam als Ersatz für die HB-IXI am 16.3.37 zur Swissair. Ihre Dieselmotoren waren auf Kurzstrecken sehr störanfällig und sie wurde deshalb am 4.11.38 zur Umrüstung auf BMW-Benzin-Sternmotoren zurück zu Junkers geflogen. Am 5.2.39 kam die ehemalige HB-IXE nun mit Benzinmotoren als Ju 86 Z-11 HB-IXA zurück zur Swissair und stürzte am 20.7.39 bei Konstanz ab. Flugkapitän Walter Ackermann, Bordfunker Anton Mannhart und vier Passagiere fanden den Tod
写真は, ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv LBS_SR02-10803引用。


ポリカルポフ I-16 1934年月4日初飛行のユンカース(Junkers)Ju86 輸送機/爆撃機は、1936年7月17日から1939年4月1日まで続いたスペイン市民戦争にドイツ・コンドル軍団Legion Condor)に配属され参戦したしかし、低翼単葉引込み脚のソ連ポリカルポフ I-16 typ10戦闘機の迎撃を受け、低速のユンカース(Junkers)Ju86 では苦戦したであろう。

ユンカース(Junkers)E型では発動機がユモ205ディーゼルエンジンから信頼性の高いBMW132空冷星型9気筒エンジンに換装された。1938年4月に開発されたG型は、機首を短くして、操縦席からの視界を向上したが、それ以上の改良は行われずに6月にG型を最後に生産は終了した。その後、高高度偵察機P型とR型では、再び高空性能の良いユモ205ディーゼルエンジンを装備している。

写真(右)1937−1938年以降、スイス、チューリッヒ(Zürich)郊外、デューベンドルフ(Dübendorf)空港、スイス航空(Swissair)ドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 B-0輸送機(登録コード: HB-IXE):1934年11月4日初飛行のJu86は、固定脚、双発の10人乗り民間旅客輸送機として、スイス航空に2−3機が採用された。コックッピト上方にアンテナマストを立てて、無線アンテナは尾翼まで張って碍子を介して繋いでいる。コックピット後上方には環状ループアンテナが装着されているが、これは方位測定用である。
http://swissair00.ch/a_Index/junkers-ju-86.html
写真は, ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv LBS_SR02-10803引用。


Junkers Ju86 ユンカースJu 86A:A-0は先行生産型で13機生産、A-1が初期爆撃型量産機 Ju 86B-0 先行生産型で7機生産された輸送機型
Ju 86C-1 6機生産されたドイツルフトハンザ航空(Deutsche Luft Hansa)向けの輸送機で、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン装備
Ju 86D-1 1936年勃発のスペイン内戦にドイツ・コンドル軍団Legion Condor)として派兵された爆撃型
Ju 86E  ドイツ空軍向けBMW 132F空冷星型9気筒エンジン装備の爆撃機。南アフリカ・スウェーデン・ハンガリー・チリ・オーストリア・ポルトガル・ウルグアイ・ボリビア・満州にも輸出された。
Ju 86E-2 BMW 132N空冷星型9気筒エンジン装備の爆撃機
Ju 86G   機首を球形ガラス風防としたBMW 132空冷星型9気筒エンジン装備の爆撃機
Ju 86P-1 排気タービン過給機(turbocharger)付きのユンカース ユモ207 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン搭載の高高度偵察機。生産機数30機程度。
Ju 86R P型改良型。全幅 32 m に延長、発動機を排気タービン過給機(turbocharger)付きJumo 207 B-3950hp (698 kW)に換装した高高度偵察機・高高度爆撃機。生産機数20機程度。R-1はカメラ2台を搭載、R-2はカメラをやめて爆弾1tを外装搭載できるようにした爆撃型。

写真(右)1937年以前、ドイツ、編隊飛行するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 D 爆撃機:爆弾搭載量800 kg (16発 × SC 50キロ爆弾)。機首は長く、先端に銃座を設けている。全長17,87 m、全幅22,50 m、全高5,06 m、主翼面積82m2,発動機は、ユンカース ユモ205C (Junkers Jumo 205C) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン(diesel engine)600 PS (447 kW)を装備。総重量8.200 kg、最高速力325 km/h (3000 m)、航続距離1500km、爆弾搭載量 800 kg (16 × SC 50)、上昇限度5900 m
English: German Junkers Ju 86A or D bombers (with Diesel engine Junkers Jumo 205 ) in flight. Deutsch: Junkers Ju 86 A/D, frühe Bombervariante mit Junkers Jumo 205 Dieselmotoren im Verbandsflug, ca. 1937. Bei dem breiten, vermutlich gelben Rumpfband zwischen Bug- und Führerkanzel handelt es sich wahrscheinlich um eine abwaschbare Manövermarkierung. Das seinerzeit 5-stellige Rumpfkennzeichen auf der vorderen Maschine lautet 42 + C26 und steht für Kampfgeschwader 254, II. Gruppe, 6. Staffel (6./KG 254, Flugzeug C), welches am 01.04.1937 (II. Gruppe) in Eschwege eingerichtet worden war. Date 1937 Source Flightglobal 11 November 1937, p. 466 - 3086.html
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Bundesarchiv Bild 141-2402, Flugzeug Junkers Ju 86.jpg引用。


写真(右)1940年、ドイツ、ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 E 爆撃機:機首は長く、先端に銃座を設けている。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)を BMW 132 F/N空冷星型9気筒エンジンに換装した。。写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Bundesarchiv Bild 146-1974-122-37, Flugzeuge Junkers Ju 86.jpg引用。

ユンカース社が開発したユンカース(Junkers)Ju86 E 爆撃機は、1939年9月に勃発した第二次世界大戦でも初期にドイツ空軍双発爆撃機として実戦配備されていた。発動機は、従来のユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンの信頼性が不足していたために、Ju52輸送機にも搭載されてドイツで普及し整備しやすかった信頼性の高いBMW132空冷星形エンジンに換装されている。主翼は、角ばったテーパー翼で初期型と同じである。

写真(右)1937−1938年、ドイツ、ドイツ空軍向けユンカース(Junkers)Ju86 G 爆撃機:機首を短くし先端に球形ガラス風防を設けた。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)をBMW132空冷星型9気筒エンジンに換装した。爆弾400kg搭載で航続距離650km。1938年6月から1939 年4月までに引き渡された。40機が全幅を25.60 mに延長したP型偵察機に改造された。
Kampfflugzeug Junkers Ju 86 mit Vollsichtkanzel auf Flugplatz Title Flugzeug Junkers Ju 86 Collection German Federal Archives Current location Sammlung Library of Congress (Bild 141) Accession number Bild 141-2402
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Bundesarchiv Bild 141-2402, Flugzeug Junkers Ju 86.jpg引用。


ユンカース(Junkers)Ju86 G-1爆撃機の諸元
乗員: 4名
全長: 17.20 m
全幅: 22.60 m
全高: 4.70 m
全備重量: 8,230 kg
発動機: BMW 132N 空冷星形9気筒エンジン860hp×2
最大速度: 360 km/h
航続距離: 1,400 km
武装 7.92 mmMG15機関銃 × 3
爆弾 1,000 kg

写真(右)1940年以降、ドイツ、ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju 86 P 高高度偵察機:高高度12000mでの偵察飛行用に、全幅25.6mの高アスペクト比の主翼に改良され、排気タービン過給器を装備したうえで、コックピット操縦室の気圧低下が僅かな与圧室を設けた。
Perma_000441 Permann Collection Image Ju 86 --Perman Collection Image--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSmugMug+Flickr., San Diego Air and Space Museum 引用。


軍用機の現在及将来 : 速度、高度とも驚異的進歩 : 成層圏飛行も期待
掲載誌 満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 43巻 Page: 137 出版年 1937-07-02

情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
 欧洲大戦当時の飛行機は、その性能未だ完備の域に達せず時速一五〇粁、航続時間四、五時間、爆弾搭載量僅かに三〇〇瓩程度であって、その航法及び爆撃法も甚だ幼稚なものであったが、しかもドイツ爆撃機の如きはしばしばロンドンを空襲し、その与えたる被害は左程大でなかったにも拘らず、英国市民の心胆を寒からしめたのは周知の事実であるしかるに大戦後列強は全力を挙げて航空技術の進歩発達に没頭し、毎年性能優秀なる飛行機の製作研究を行い飛行速度、上昇高度、無着陸航続時間等の世界的記録を自国飛行機により獲得せんと努めたので、飛行機の性能は真に文字通り日進月歩の勢いをもって改善された
 軍用機の性能中最も重要なものは飛行速度航続時間(距離)爆弾搭載量の三つであって、特に飛行速度は極めて重要ものであるから列強は競ってこれが進歩を図っている、今軍用機の性能の進歩の跡を見れば次の通りである

一、爆撃機の飛行速度は、昭和五年(一九三〇年)より著しく増加し、特に昭和八年(一九三三年)以後には顕著なる発達を示し、今や軽爆撃機は時速平均四五〇粁、最大五二〇粁、重爆撃機は時速平均四一〇粁、最大四七五粁に達し、欧洲大戦末期に比し、時速三、四倍の増加であって、本年度末においては五〇〇—五五〇粁に達するものと考えられる

二、戦闘(駆逐)機の飛行速度は昭和八年(一九三三年)まで概ね同比率で増加しているが、それ以後急速に比率を増大し、今や時速平均四九五粁、最大五二〇粁に達し、欧洲大戦当時に比し時速二、三倍に増加した、これを爆撃機に比すればその増加率は低いが本年度においては五七五粁に達するものと予想さる

三、戦闘機と軽爆撃機との飛行速度の差は昭和五、六年ごろ最大となっていたが、爾後逓減し今や両者の平均時速差は僅か四、五粁であって最大時速を比較すれば、優劣なき現象を呈している

四、戦闘機と重爆撃機との飛行速度の差は、大正九年—昭和四年(一九二〇年—一九二九年)は概ね一定していたが、それ以後著しく減少し、昭和八年(一九三三年)以後急速に逓減して今や両者の平均時速差は約九〇粁であって、最大時速差は僅か二〇粁にすぎぬという状況である

 将来の航空機はどうなるか、という問題には現在の三つの傾向がある、すなわちその一つは漸時大型となりつつある、その二は益々高空を飛行するようになり、成層圏飛行の実現が期待される、その三は速度が著しく大となりつつある、更に現在の航空原理(翼と発動機とプロペラの三者による飛行)の範囲を脱した新規な考案による航空機の出現ということも相当期待されている、先ずどの位の大型機が出現するかというと一九四〇年ごろには全備重量三十五万封度、総馬力二万四千馬力という巨大な飛行艇が出現するだろうといわれている、現に米国ダグラス航空会社の設計にかかる大型機は時速四八〇粁の快速でニューヨークからリヴァプールまで僅かに十一時間で大西洋を翔破する性能を有するといわれている

 成層圏或はそれに近い高空を飛行することによって飛行機は平均時速五百粁を得ることは困難でなく、東京—サンフランシスコ間の太平洋は十二時間で横断連絡され、ニューヨーク、ロンドン間の如きは僅かに八時間で連絡される、更にベルリン—東京間十五時間空輸も話題に上っている程である、なお明日の航空機として多くの期待をかけられているものにロケットがあるがここでは省略する(満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 43巻 Page: 137 出版年 1937-07-02引用終わり)

写真(右)1940年、ドイツ、ドイツ空軍ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju 86 P 高高度偵察機の機首右側:G型を引き継いだので、短い機種で先端に球形ガラス風防がある。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)を改良し排気ガービン過給機を装置したユンカース ユモ 207 (Junkers Jumo 207) 2ストローク対向12ピストン直列6気筒液冷ディーゼルエンジン。
A German Junkers Ju 86P-1 high altitude reconnaissance plane. Date circa 1940 Source Royal Air Force Battle of Britain campaign diaries photo Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Junkers Ju 86P high altitude reconnaissance plane c1940.jpg引用。


Spitfire Mk.IXc ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86P高高度偵察機は、1934年11月4日に初飛行したJu86輸送機/爆撃機を原型に、主翼を延長し、操縦席を2人乗り与圧コックピットとし、高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)を防止した。そして、Jumo205ディーゼルエンジンに圧縮空気を送って高高度でも燃焼可能とした特殊仕様を装備した。これがJu86Pde1940年1月に開発され、高高度度1万2000mからイギリス本土を1940年から1942年9月12日、スーパーマリン スピットファイア(Spitfire)Mk IXによる高高度迎撃が実施されるまで使用された。

また、ユンカース(Junkers)Ju86P高高度偵察機は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」発動前の、友好国ソビエト連邦の違法偵察にも投入された、1942年8月、エジプト上空1万4000mで偵察飛行任務にあたっていたユンカース(Junkers)Ju86 PがスピットファイアMK.Vに撃墜されている。1943年に高高度偵察任務から撤退。

図(右)、ドイツ空軍ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju 86 P 高高度偵察機の三面図爆撃機:機首は短く、与圧式コックピットの操縦席となっているが、未密性を高めるために乗員は2名のみ。長く、先細の主翼を備えて、高高度性能を改善している。与圧室化の困難と軽量化のために防御用火器は備えていない。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)を装備。イギリス軍作成の敵機識別表より転載。
Junkers Ju 86 P, from Recognition Guide published by Britsh Army Council 1945 own scan 1937 Source Flightglobal 11 November 1937, p. 466 - 3086.html
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Bundesarchiv Bild 141-2402, Flugzeug Junkers Ju 86.jpg引用。


ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンを搭載したのは、ユンカース(Junkers)Ju 86輸送機/爆撃機のほかは、ブロームウントフォス(Blohm & Voss)BV 138三発飛行艇、ブロームウントフォス(Blohm & Voss)BV 222六発飛行艇など、長距離低速機に限られた。

ユンカース(Junkers)Ju 86 R諸元
全長: 16.40 m
全幅: 32.00 m
全高: 4.70 m
翼面積: 97.06 m2
空虚重量: 6,700 kg
全備重量: 11,530 kg
燃料容積: 1,937 L
エンジン: ユンカース ユモ207 (Junkers Jumo 207) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン900 PS (662 kW) 2基
プロペラ: 4翅定速回転プロペラ
最大速度: 420 km/h/9,000m
実用上昇限度: 14,400 m
航続距離: 1,570 km

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju 86 P 高高度偵察機を見る。 


9.与圧キャビン付きロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度実験機


写真(右)1937年5月−1940年頃、アメリカ、未舗装滑走路のアメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機の右前方
:第二次世界大戦前の国籍マークである方向舵の赤白ストライプ、主翼の青丸白星赤丸を描いている。
AL61A-340 Lockheed XC-35 Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


アメリカ陸軍航空隊は、ロッキード社と契約して、高高度25,000 ft (7,620 m)を飛行しても、搭乗員が低気圧に苦しめられないで2時間の飛行可能で、航続時間10時間以上の高高度性能をもつ実験機を11万2,197ドルで発注した。これが、ロッキード(Lockheed )XC-35で、高高度飛行が可能な与圧キャビンの実用機テストということである。

ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機は、1934年2月23日初飛行のロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、円形断面、繭型の与圧コックピットpressurized cockpit)を設けた。そのため、飛行高度30,000 ft (9,144 m)でも、キャビン内部の気圧は高度12,000 ft (3,658 m)の水準に維持することができた。

ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)の諸元
最大乗員Crew: 6名
全長Length: 38 ft 7 in (11.76 m)
全幅Wingspan: 55 ft (17 m)
全高Height: 10 ft 1 in (3.07 m) 翼面積Wing area: 458.5 sq ft (42.60 m2)
空虚重量Empty weight: 7,940 lb (3,602 kg)
総重量Gross weight: 10,500 lb (4,763 kg) 発動機Powerplant: 2 × Pratt & Whitney R-1340-43 9-cylinder turbo-supercharged air-cooled radial piston engine2, 550 hp (410 kW) each
プロペラPropellers: 2-翅可変ピッチ(variable-pitch)プロペラ

ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機の諸元

最高速力Maximum speed: 236 mph (380 km/h, 205 kn) at 20,000 ft (6,096 m)
巡行速力Cruise speed: 214 mph (344 km/h, 186 kn)
実用上昇限度Service ceiling: 31,500 ft (9,600 m)
上昇率Rate of climb: 1,125 ft/min (5.72 m/s)
翼面荷重Wing loading: 22.9 lb/sq ft (112 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.105 hp/lb (0.173 kW/kg)

⇒写真集Album:ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機を見る。 


8.排気タービン装備のベルXFM エアクーダ(Bell YFM-1 Airacuda)

写真(右)1937年、アメリカ、バージニア州ハンプトン、風洞実験中のベルXFM-1 エアクーダ(Bell XFM-1 Airacuda)高高度戦闘機のモックアップ・モデル
A Bell FM-1 Airacuda mockup at the Langley Aeronautical Laboratory wind tunnel at Hampton, Virginia (USA). Not a "real" aircraft, this full-size mockup of the Bell FM-1 Airacuda was tested in Langley's 30 x 60 Full Scale Tunnel in 1937. Date 22 January 1937 Source NASA Langley Research Center [1] photo EL-2003-00276
写真はWikimedia Commons,Category:Bell YFM-1 Airacuda File:Bell XFM-1 36-351.jpg引用。


1935年7月28日初飛行のボーイングB-17爆撃機は、排気タービン(ターボ過給機)を装備し高高度飛行が可能だったが、同じような高高度爆撃機を迎撃できる戦闘機の試作要求がアメリカ陸軍航空隊からなされた。これに応えたのがベルXFM エアラクーダで1937年9月1日初飛行した。


写真(上)1937年9月−−1941年前半、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ベルXFM-1 エアラクーダ(Bell XFM-1 Airacuda)高高度戦闘機試作機(36-351)
:1937年9月1日初飛行。
English: Bell XFM-1 Airacuda 36-351 Date 20 March 2017 Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons,Category:Bell YFM-1 Airacuda File:Bell XFM-1 36-351.jpg引用。


世界空軍の"宿題"成層圏軍用機出現 : 米空軍・恐るべきヒット

掲載誌 東京日日新聞 Vol: 第 43巻 Page: 148 出版年 1937-08-07

https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100347150 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

成層圏を飛ぶ快速度航空機は各国ともその研究、完成に腐心し特に米国は輸送機、軍用機両方面で真剣な実験が続けられているが、わが国では北支事変で空軍、戦闘、爆撃機に国民の注意が集中されている折柄最近米国からの通信によればこの世界航空界の決勝点たる成層圏用戦闘兼爆撃機が完成したという驚異的ニュースが齎らされた【写真は完成されたXFM一型機

これは米国陸空軍が世界最速の軍用機と豪語している米国ニューヨーク市バファローのベル航空機会社で製作した多座戦闘兼爆撃機XFM一型機で近くテイトンのライト飛行場で陸空軍の手で性能試験が行われる予定で、同機こそ正に「明日の軍用機」として各国が待望しているものである

写真(右)1937年9月−1941年前半、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ベルXFM-1 エアラクーダ(Bell XFM-1 Airacuda)高高度戦闘機試作機(36-351)
PictionID:40971821 - Title:Airacuda Bell XFM-1 36-351- Catalog:15_002692 - Filename:15_002692.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."--SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Source Airacuda Bell XFM-1 Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons,Category:Bell YFM-1 Airacuda File:Airacuda Bell XFM-1 (15954491367).jpg引用。


 [XFM-1の]発動機はアリソン工業会社製作の過給器(高空でも地上付近と同じような空気の量を発動機の内部に送る装置)付のブレストン冷却液による一千馬力を二基装備しているが、幾多の特徴のうち発動機は各々推進式のプロペラーを主翼後部に有しているため発動機ナセルの前部は機関銃を装備、従って何の方向からの敵機でも邀え撃つことが出来、その他胴体に銃手座があり四挺の機関銃を装備、上方、下方からの敵機でも射撃し得その上小爆弾を携行するという恐るべき性能を持つ

 [XFM-1の]乗員は正、副両操縦士、無線士兼銃手、両銃手の五名、全金属低翼単葉、脚は発動機の下部に引込み、見事な流線型で、常用高度三万フィートで三百マイル以上の巡航速力を出すものと予想される、三万フィート以上の空気の密度が稀薄な成層圏を飛行するために胴体主翼その他各部も強度を増しまた座席にはそれぞれ酸素吸入装置やラヂオ設備を有しているといい、全世界軍用機界の異常な注目を集めている(東京日日新聞 Vol: 第 43巻 Page: 148 出版年 1937-08-07引用終わり)

写真(右)1937年9月−1941年前半、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ベルYFM-1B エアクーダ(Bell YFM-1B Airacuda)高高度戦闘機試作機:XFM-1試作1号機は、1937年9月1日初飛行したが、最高速力は 431 km/hで計画より37km/hも遅かった上に、鈍重な機体だったが、アメリカ陸軍航空隊は、1938年5月に高高度重戦闘機の増加試作機YFM-1を13機発注した。ターボ過給器の不調のため、増加試作機は、ターボ過給器未装備のアリソンV-1710-23液冷12気筒エンジンに換装している。
PictionID:40971875 - Title:Airacuda Bell YFM-1B - Catalog:15_002696 - Filename:15_002696.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."--SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Source Airacuda Bell YFM-1B Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons,Category:Bell YFM-1 Airacuda File:Airacuda Bell XFM-1 (15954491367).jpg引用。


ベルYFM エアクーダ(Bell YFM-1 Airacuda)の諸元
全長: 14.34 m
全幅: 21.34 m
全高: 5.94 m
翼面積:63.7 m2
全備重量: 8,607 kg
発動機:排気タービン(ターボ過給機)付のアリソンV-1710液冷12気筒エンジン1,150 hpを搭載、プロペラは推進式。
最高速力: 431 km/h
実用上限高度:9,296 m
航続距離: 1,513 km
爆弾搭載量:140 kg ×2発
37mmM4ブローニング(Browning)機関砲 ×2門、左右のエンジンナセルにフライトデッキを設けて、先端に各1門を装備。
7.62mm M1919ブローニング(Browning)機関銃×2挺。  

⇒写真集Album:ベル(Bell) YFM-1エアクーダ(Airacuda)双発戦闘機を見る。 

⇒写真集Album:グラマン(Grumman)XF5F スカイロケット(Skyrocket)双発艦上戦闘機を見る。 


10.与圧客室キャビン装備のボーイング 307(Boeing Model 307)

写真(右)1938年7月7日、アメリカ、ワシントン州シアトル、世界一周早回りに出発する前のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)とボーイング社の技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen):シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)のテスト飛行前の記念撮影。
Photograph of Howard Hughes and Edmund T. Allen, Seattle, Washington, July 7, 1938 Description Date 1938-07-07 Description Description given with photograph: "Howard Hughes tests the Hughes plane. Seattle--Howard Hughes (right), millionaire aviation enthusiast and record holder, shown with Edmund T. Allen, Boeing test engineer, before they made a recent test flight in a Boeing-built Stratoliner. The huge machine was equipped with extra fuel tanks for the test. Hughes did not reveal the reasons for his interest in the four-motored, 30 passenger plane, designed for substratosphere flight."
写真は University of Nevada, Las Vegas. Libraries  Digital ID whh001215 Physical Identifier 0373_0930引用。


シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、ロッキード(Lockheed )XC-35よりはるかに大型であり、与圧客室キャビンpressurized cabin)を備えた初めての旅客機で1938年12月31日に初飛行した。エンジン4基を装備した大型四発旅客機は、1930年代末に実用化されたが、高高度飛行の時に気圧が低下して、飛行機同乗者が気分が悪くなっても酸素マスクくらいしか対処方法がなかった。しかし、ボーイング 307(Boeing Model 307)は、高高度飛行でも与圧客室キャビンpressurized cabin)の室内気圧は、低高度の1気圧に近い状態で維持することができたのである。

写真(右)1939−1940年頃、アメリカ、ワシントン州シアトル、ボーイング飛行機工場で生産中のボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner):胴体が、天井のクレーンに吊り下げられて、工場内を移動している。与圧式客室キャビン・操縦席の工作は厳格さが求められる。
Boeing : 307 : Stratoliner Catalog #: 00061653 Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真はFlicker, SDASM Archives 引用。


ボーイング307(Boeing Model 307)試作1号機は、登録コード NX19901を与えられたが、1939年3月18日にでも飛行をした際に墜落事故を起こしてしまった。18日1257時にワシントン州シアトル(Seattle)のボーイング飛行場を搭乗員10人で離陸し高度11,000 フィート (3,400 m)にまで上昇し、飛行安定性のテストにかかった。しかし、その時に失速し、スピン状態に入った。ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)のパイロットは、数分間、姿勢を元通りにしようとしたが、降下姿勢に入ったままだった。機体の再上昇を試みつつ、地面に激突した。左主翼外側がはじけ、胴体は地面にのめり込んだ。1317時のことだった。ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)搭乗員10名全員が死亡、その中にはTWA航空の幹部、KLMオランダ航空のエンジニア、オランダ航空省の幹部、ボーイングのテストパイロットなど航空会社幹部も含まれる。

シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、1938年に世界大戦でKLMオランダ航空の運航はかなわなかったが、ヒューズのTWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空では、気圧の低い高空でも快適に過ごせる与圧客室キャビンpressurized cabin)を備えた、大型四発高速旅客機として採用された。

ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の主翼、発動機、尾部は、先に開発が進んでいたボーイング(Boeing)B-17C 爆撃機のもの流用している。幅広い太い胴体は、与圧客室キャビンpressurized cabin)と寝台を備えるためでリクライニングシートも装備している。

空の旅客輸送の高速化と並んで、快適さ、豪華さがを求めたのが、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)である。

20000フィートの高度飛行では、気温も気圧が低下して、飛行機同乗者は身体的な困難に直面した。そこで、酸素マスクや電熱服が高高度飛行では不可欠とされたのである。旅客機の場合、電熱暖房で室温をためめても、外気の気圧が低ければ、暖気は外に流出してしまう。さらに、気圧の低下は、同乗者に高山病のように身体障害を引き起こした。

しかし、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、客室キャビンは与圧化され、高度6100mでも低高度2400mの気圧が維持されていた。高空での寒さは、電熱ヒーターや温風器で対処できた。しかし、低気圧には与圧客室キャビンpressurized cabin)でないと対応しきれないのである。1964年のアメリカの連邦航空コードでは、旅客機運航には、§ 25.841 Pressurized cabins.で与圧キャビンの機能と装備が要求されている。

第二次世界大戦勃発後でも、1940年までは、アメリカの民間航空はハワード・ヒューズが社主を務めるTWA航空のように、アメリカ大陸横断航路に大型旅客機を就役させていた。しかし、1941年12月にアメリカが参戦してからは、戦時中の民間旅客航空は徴用され、軍用輸送にとってかわった。しかし、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)登録コードNC19904は、TWA航空社主ハワード・ヒューズHoward Hughes)の個人専用機としてボーイング社から購入されている。

写真(右)1938年末‐1939年3月18日以前、アメリカ西岸、ワシントン州シアトル、飛行場の滑走路で公開中のヒューズのボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner):エンジンを停止し、主翼に梯子がかかっている。
Photograph of Howard Hughes's Boeing Stratoliner, circa late 1930s 1936 to 1939 Description A view of Howard Hughes's Stratoliner surrounded by people.
写真は University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001219 Physical Identifier 0373_0934引用。


Howard Hughes ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の生産機数は10機で、試作1号機は、事故で喪失、5機がTWA航空に、3機がPAA航空(Pan American Airways)に引き渡され、さらにTWA航空社主のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が自分専用にボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コードNC19904)1機を購入している。

[ダグラス]DC-6Bでは左右の 外方発動 機から伝動軸を介してナセル内に与圧 のための空気過給器がある。ナセル内方の前縁部空気取口から入った空気は過給器で加圧され,導管を通って胴体に入り,客室部から前方の胴体(胴体後部を除く)に最大5.46psiの差 圧まで与圧する。すなわち,飛行高度25,000ft.において機内を8,000ft.に相当する気圧に保つことがで きる。その時の送風最は70°Fの空 気を50lb/minで 供給でき,機内空気は3minで更新される割合である。胴体に送り込まれた空気は機内を循環して換気し,胴体下(与圧調整室)右側の与圧調整孔(pressure control valve)から排出される。この排出孔には蝶弁があってその開度を自動的に制御することに よって与圧 が保たれる。与圧の度合をきめるものは過給器よりもむしろこの排出孔の蝶弁の開度によるのである。(「最近の航空機装備(2)」井上 真 六引用)

ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、アメリカで開発された与圧客室キャビンの高速大型四発旅客機である。1938年12月31日に初飛行したたが、その前の1939年初めには、KLMオランダ航空が導入を決めていた。しかし、1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発し、オランダは、民間機ではなく、軍用機の導入を図ることとなり、 ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)購入はキャンセルされた。

既に第二次世界大戦が、1939年9月1日に勃発していたが、まだ中立国で参戦していなかったアメリカでは、1940年3月にパンアメリカン航空が ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)をアメリカ大陸横断路線、南米航路に導入した。ヒューズのTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)も採用したが、1941年12月のアメリカの第二次世界大戦の参戦を契機に、資源・労力のかかる大型民間機の生産は中止された。生産機数は僅か10機のみに終わったが、ハワード・ヒューズは自家用機として使用した。

写真(右)1939‐1940年頃、アメリカ、飛行するTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)ボーイング 307 B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の下面:試作1号機は、ロスアンゼルスからニューヨークまでを乗員5人、乗客33人合計38人を乗せて、15時間40分で横断飛行した。
Boeing : 307 : Stratoliner Catalog #: 00061639 Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真はFlicker, SDASM Archives 引用。


シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、1938年12月31日に初飛行し、直ぐにKLMオランダ航空が採用を決定したものの、1939年9月に勃発した世界大戦で就役は叶わなかった。

しかし、まだ中立国だったアメリカでは、TWAトランスコンチネンタル・ウェスタン(Transcontinental & Western Air)航空社主ハワード・ヒューズHoward Hughes)が、ボーイングの技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen)のボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)旅客機を高く評価し、与圧客室キャビンpressurized cabin)装備の快適な長距離大量空輸の実現のために、5機のボーイング307(登録コード:NC19905、NC19906、NC19907、NC19908、NC19909)を購入した。

1940年にはTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)の大陸横断航路として、ニューヨーク(New York)、ロスアンゼルス西部バーバンク(Burbank)、ミズーリ州カンザスシティ(Kansas City)、イリノイ州シカゴ(Chicago)を結ぶ路線に就役させている。料金は、ニューヨークからバーバンクは149.95ドル、カンザスシティは66.45ドル、シカゴは44.95ドルで逆も東西回りとも同一料金だった。他方、PAAパンナム航空(Pan American Airways:"Pan Am")は、3機のボーシング307旅客機(登録コードNC19902、NC19910、NC19903)を購入した。

高高度飛行に伴う大気圧低下に対処するために、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は客室キャビンを密閉して、気圧を低高度と同じように1気圧に近づけることが考えられた。完全な密閉した空間に、追加的に空気を送り込めば、気圧を外気よりも高く維持することが可能になる。これが、与圧室であり、旅客機の客室キャビンを与圧化した与圧客室キャビンpressurized cabin)が開発されたのである。ボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の与圧された客室キャビンでは快適な空の旅が楽しめたが、これは高高度を飛行することで、空気抵抗を減少させ、燃費を良くするという航続距離延長。高速化という飛行性能を向上する効果もあった。

1938年にシアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、KLMオランダ航空が採用したものの、1939年9月に勃発した世界大戦で就役できずに終わった。しかし、TWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)社主のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、ボーイング社の技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen)のボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)与圧客室キャビンpressurized cabin)を備えた画期的な性能を評価し、快適な長距離高速空輸の拡張のために、ボーシング307旅客機を採用、当初生産された5機を購入している。他方、PAAパンナム(Pan American Airways)航空は、3機のボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コードNC19910、NC19903)を購入したにとどまった。

ヒューズは、アメリア・イヤハートと同じく飛行機とその操縦を愛する飛行家だった。しかし、アメリアのような冒険飛行家・パイオニアではなかった。飛行機の操縦はできたが、多分、飛行時間が少なかったために、その熟練技術はアメリアほどではなかったであったであろう。ヒューズは、飛行機の操縦よりも、新型機を開発して、空の夢をかなえる、そしてその夢は、ボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)のような与圧客室キャビンpressurized cabin)付き輸送飛行機による安全で高速・快適な空の旅というグローバルな国際旅客輸送、大空のビジネスの実現することに賭けていたのである。

1940年代、TWA航空旅客輸送機の機体には、トランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー(Transcontinental & Western Air)と記入していた。しかし、第二次大戦後、それをTWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)と書き換えるようになった。TWA(Trans World Airlines)が、1950年に正式な社名になったが、TWA航空の機体は、正規の社名変更前に、宣伝的な機体の塗装に、TWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)を先んじて取り入れていたようだ。

図(右)ボーイング307(Boeing Model 307)の三面図
English: Catalog #: 00061669 Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 26 September 2008, 12:50:44 Source www.flickr.com Author SDASM Archives
.写真はWikimedia Commons, Category:Boeing 307 File:Boeing 307 Stratoliner 3 view drawing.jpg引用。


ボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の諸元
乗員Crew: 5名, including pilot, co-pilot, flight engineer and 2 flight attendants
乗客Capacity: 昼間 33座席, 夜間 25名(ベット16台、リクライニングシート9台)
全長Length: 74 ft 4 in (22.66 m)
全幅Wingspan: 107 ft 3 in (32.69 m)
全高Height: 20 ft 9 in (6.32 m) at rudder
降着装置間隔Undercarriage track: 295 in (7.5 m)
翼面積Wing area: 1,486 sq ft (138.1 m2)
空虚重量Empty weight: 30,000 lb (13,608 kg) to 31,200 lb (14,200 kg)
総重量Gross weight: 45,000 lb (20,412 kg)
最大搭載量Maximum load: 15,000 lb (6,800 kg), with 30 passengers, 650 lbs of baggage and 1,275 US gal (4,830 l; 1,062 imp gal)/5,750 lb (2,610 kg) of fuel
燃料搭載量Fuel capacity: 1,275 US gal (4,830 l; 1,062 imp gal)通常の 主翼燃料タンク利用. 過重燃料搭載(Overload)1,800 US gal (6,800 l; 1,500 imp gal)
燃費Fuel consumption: 200 US gal (760 l; 170 imp gal)/h
潤滑油Oil capacity: 100–180 US gal (380–680 l; 83–150 imp gal)
発動機Powerplant: 4 × ライト(Wright)GR-1820-G105A サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン、二速過給機(superchargers)付き, 1,100 hp (820 kW) /2400 rpm/海面上, 900 hp (670 kW)/ 2300 rpm /17,300 ft (5,300 m)
プロペラPropellers: 3-翅(bladed)ハミルトンスタンダード(Hamilton Standard)恒速回転,直径 11 ft 6 in (3.51 m)
性能Performance
最高速力Maximum speed: 250 mph (400 km/h, 220 kn) / 16,200 ft (4,900 m)
巡航速力Cruise speed: 222 mph (357 km/h, 193 kn) / 19,000 ft (5,800 m) / 75% power
失速Minimum control speed: 70 mph (110 km/h, 61 kn) フラップ作動時
離陸Takeofff run: 1,800 ft (550 m)
着陸Landing run: 2,050 ft (620 m)
航続距離Range: 1,300 mi (2,100 km, 1,100 nmi)/ 19,000 ft (5,800 m) & 75% power
実用上昇限度Service ceiling: 23,800 ft (7,300 m) , 18,000 ft (5,500 m) /エンジン3基稼働
巡航高度Cruising altitude: 15,000–20,000 ft (4,600–6,100 m)
上昇限度Absolute ceiling: 25,200 ft (7,700 m)
上昇率Rate of climb: 1,200 ft/min (6.1 m/s) 海面上
翼面荷重Wing loading: 30 lb/sq ft (150 kg/m2)
出力重量比Power loading: 12.5 lb/hp (7.6 kg/kW) 離陸時, 10.25 lb/hp (6.23 kg/kW) 巡航時

アメリカ、スミソニアン協会の航空宇宙博物館スティーブン F. ウドバー ヘイジー センター(Steven F. Udvar-Hazy Center)の所蔵するボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、元はパンアメリカン航空(Pan American Airways)のボーイング S-307(登録コード:NC19903、工場製造番号:2003)"Clipper Flying Cloud"である。

スミソニアン協会の航空宇宙博物館所蔵するボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コード: NC19903)は、元パンアメリカン航空(Airnautic)で"Clipper Flying Cloud"と命名されて運航していたが、1972年にスミソニアン協会が購入し、復元して2001年からスティーブン F. ウドバー ヘイジー センター(Steven F. Udvar-Hazy Center)で公開されている。

ライト R-1820-97 サイクロン 9Wright R-1820-97 Cyclone)空冷星型9気筒エンジンの諸元

ボア 6.125in (155.58mm)
ストローク 6.875in (174.63mm)
全長 48.23in (1,225.04mm)
直径 55.10in (1,399.54mm)
排気量 29.87L (1,823in³)
乾燥重量 1,310lbs (594kg)
過給機 B-22排気タービン (遠心式スーパーチャージャー1段2速)
離昇出力 1,200Bhp/895kW/2,500rpm/S.L.
最大出力 1,380Bhp/1,029kW/2,500rpm/26,700ft
1,200Bhp/895kW/2,500rpm/32,700ft

ライト R-1820-97 サイクロン 9Wright R-1820-97 Cyclone)空冷星型9気筒エンジンは、1930年代から1940年代までに合計4万7,475台も量産されたベストセラーである。このライト R-1820エンジンのシリンダーは、単列9気筒であるが、二重星型14気筒としたライト(Wight)R-2600 サイクロン 14、二重星型18気筒としたライト(Wight)R-3350 サイクロン 18へと発展し、出力が向上していった。

⇒写真集Album:ボーイング307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)を見る。   



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機


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