◆カプロニ(Caproni) Ca.113 / Ca.161高高度実験機
写真(上)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、イタリア空軍レナート・ドナティ(Renato Donati)搭乗のカプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機:ブリストル・ペガサス(Pegasus)空冷星型9気筒エンジン(排気量28 L) を搭載し、高度14,433 m (47,352 ft)の世界記録を達成した。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
L'aereo Caproni 113 AQ sulla pista dell'Aeroporto di Montecelio
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真はWikimedia Commons,Archivio Storico Istituto Luce codice foto: A00053715引用。
写真(上)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、イタリア空軍レナート・ドナティ(Renato Donati)搭乗のカプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機:ブリストル・ペガサス(Pegasus)空冷星型9気筒エンジン(排気量28 L) を搭載し、高度14,433 m (47,352 ft)の世界記録を達成した。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Tecnici e personale di terra trascinano il Caproni 113 lungo una pista dell'aeroporto di Montecelio
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真はWikimedia Commons,Archivio Storico Istituto Luce codice foto: A00053730引用。
1.ドイツのユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機
写真(右)1931年10月、離陸し上昇飛行するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ):オリジナル解説には「この成層圏航空機では高度 1万8,000 メートルに到達することが求められるが、そのために新型ユンカース成層圏航空機Ju.49が初飛行し、その試験飛行が無事に終了した」
Title
Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49 Info non-talk.svg
Original caption
Mit diesem Stratosphärenflugzeug soll eine Höhe von 18.000 m erreicht werden !
Das erste neue Junkers-Stratosphären-Flugzeug "Ju. 49" hat seinen ersten erfolgreichen
Probeflug beendet.
Aufnahme während des Startes.
Date October 1931
Collection
German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753
Current location
Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102)
Accession number
Bild 102-12368
写真は Wikimedia Commons, Category:Portraits of Amelia Earhart・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。
ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機は、固定脚だが、重量軽減のために脚は細く車輪カバーも取り付けていない。ただし、空気密度の低い高高度用の大直径プロペラを装備したために、降着装置の脚は以上に長い。なによりも、ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の特徴は、与圧コックピット操縦室で、高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる点にある。
写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の与圧式コックピット:操縦士、機関士の搭乗するスペースは、高高度の低い空気密度とコックピット内の高い気圧の格差を支えるだけの気密性と強度が求められた。そのため、開口部を極限まで縮小し、視界を得るためのガラス窓も気圧差に耐えられるように小さく円形なものを少数並べるにとどめている。
写真は, Go to WeirdWings
r/WeirdWings
by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10
3924091021
引用。
『成帯圏』のコロンブス ピッカール教授の偉業に就て
著者
ドイツにて 長岡半太郎
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 46巻
Page: 176
出版年
1931-06-17/1931-06-19
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100359047
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
気球で一万六千メートル、ピッカール[オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)]教授の成帯圏探検につき滞独の長岡半太郎博士から面白い解説が届いた、世人は昨年十一月の失敗以来ピッカール教授を「空のドンキホーテ」と呼んだが、五月二十七日の成功以来は「ストラトスフェア(成帯圏)のコロンブス」なる尊称を奉った、さてストラトスフェア(成帯圏)とは?
一、上昇の目的
五月二十七日、二十八日の両日は、日本ではロシヤとの戦争中、日本海海戦とその勝報を得た、誰も記憶に存する日である(予が日露戦争を知らなかったとの報告は全然虚報である)。丁度この両日はまた欧洲人が片唾を呑んで、[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授がストラトスフェア[成層圏:stratosphere]に乗り込んだ報告を待った日に相当するのは、奇怪な偶合であった。人間は地上の動物である。地上七千メートル昇れば酸素の供給がなければ生きておられぬ。
気球や飛行機でまだ高く昇ったためしはあるけれども、空気は稀薄になって、人間はこれに長く堪え得ない。エヴェレスト登山がしばしば失敗に終ったのも、専らこの困難と打勝つことができぬからであろう。それゆえ大気の上層を調べるには、自由気球を放って、それに自記記録機械を載せ、下降した後の記録を検査するより他に方法はなかった。この遣り方で二十五キロメートル以上の高さまで温度の記録を得ている。
しかし科学者の要求する調査は、近年やかましくなった宇宙放射線と称するものであるとか、また太陽から放出するエレクトロンとか、大気の電離状態などである。
宇宙放射線は最初にオーストリアのヘッス、つぎにドイツのコールヒョルスター、アメリカのミリカンらが研究したもので、太陽系の外から来る放射線であって、水の二十メートル、金属の数メートルを通過する激甚なものである。物質の崩壊で生ずる線であると信ぜられている。この線が大気の上層においてはどんなに変るかが問題であった。
電子その他の事柄も、無線電波の伝播とか、北光の出現とか、雷雨の発生とかに直接大関係があるけれども、人の乗っていない自由気球では何とも致し方がなかった。自由気球での観測によると地上十キロメートル附近から大気の上下運動は殆どなくなる。従ってその流れはその上では水平になる。また水蒸気も殆どなくなるから雲はない年中晴天である、温度は零下五十五度位であるけれども、それは欧洲での値であって、赤道ではもっと寒く、しかもその境は十六キロメートル位である。
かような大気の層がストラトスフェア[成層圏:stratosphere]と名づけらるる部分であって地上一万五、六千メートル上ればその真の状態が判然する。どうしても観測者が上って機械で精しく調べねば明瞭にわからない。それでピッカール教授はこの面白い宇宙放射線と電離状態とを観測する目的をもって特殊の装置を作り、観測を実施したのである。(つづく)
二、観測の装置
[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授は、数年前からアルミニューム製の球形ゴンドラを考案した。その球の中には、観測機械だとか、酸素吸入器、酸素の缶、呼吸して排泄した空気の吸収器、二日分の食糧、自分と助手とを容れ、外部を観察するための透明な窓を設けて、全く外気との交通を絶つように密閉し得るようにした。このゴンドラの目方が八百キログラムで、気球の目方も殆どこれと均しかった。
気嚢は単に綿布の内部にゴムを塗ったものであった一昼夜水素を包容すればよいからである。器械は何を持っていたかは不明であるけれども、宇宙放射線はアルミニューム球内で観測可能である。また電離状態も可能であるから、別に困難はない。高さを測る気圧計や温度を測る寒暖計は自記装置をゴンドラ外に設けて置けば差支えないから、容易である。
[写真(気球ゴンドラ内のピ教授)あり 省略]
三、記録を破ぶる
気嚢には約その七分一容量の水素を詰めた。これでストラトスフェア[成層圏:stratosphere]に上れば、丁度一杯に膨れて来るからである。実際昨年九月以来、四度も上昇を試みて失敗したのであるが、本年五月二十七日朝四時には好天気を幸いに旨く上った。正午ごろには既に最高位置にあって、一万六千メートルの記録を得たのである。
出発地は南部ドイツのアウグスブルヒであったが、正午ごろには遂にスウィスとドイツの国境に達し、南東に流れていた。そのころ肉眼で見たところでは、止め針の頭位であったそうだ。その後暫らく白簀雲に蔽われて所在を失い、皆心配していた。
高空に昇った経験者は、[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]と助手キブフェルは、ゴンドラ内で死んでいるであろうと気遣っていた。自動車で気球の跡を追ったり、飛行機で捜索したりしたけれども、追跡することができなかった。然しオーストリアとイタリーの国境にあるグルグル山の附近を通過したことは、その辺の旅館の主人が望遠鏡で認めたから翌朝捜索隊は隈なく探して、[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授が氷河を渡って村に出ようとするに出会った。
実際二十七日午後十時、氷河の側に下降して、ゴンドラ内に夜を明し、側の断崖を攀じて村に出ようとするところであったそうだ。かくして在来の高さの記録は三千メートル程突破されたが、この飛行は悠々ゴンドラ内で科学上非常に価値ある観測を遂行したのであるから、尋常の記録破りと一様に見るべからざるものである。
これまで臆測のみに止っていたストラトスフェア[成層圏:stratosphere]内の、宇宙放射線とその電離状態を観測するを得たのは、貴重なる学問上の材料を得たのである。殊に喜ぶべきは、高空で使用した器械が全く無事であって、前後の比較が完全に行われ得るからである。(つづく)
[写真(将に上昇せんとする気球 下方がしぼんでいるが、成帯圏に達すると一ぱいに膨れる)あり 省略]
[写真(成層圏を正服した軽気球 これは先月二十七日早暁飛び上ったままオーストリアの上空をさまよい続け遂に目的たる成層圏内、地上一万六千メートルという未曾有の高度を征服した軽気球のゴンドラに冒険者[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]博士と助手のキッフェル[Paul Kipfer]氏が納まっているところ、この成功は将来の気象学界と航空界に多大の貢献をもたらすものとして非常に注目された)あり 省略]
写真(右)1930年9月頃、スイス、ベルギー国立科学研究基金(FNRS)の水素気球FNRS-1アルミ製密閉球形ゴンドラ(直径2.5m)とその前で作業するオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard:1884-1962)教授とパウル・キッファー(Paul Kipfer):1932年8月18日に16,201 m (53,153 ft)の成層圏に運んだ水素気球の直径は6.5m、海面の10分の1の気圧差の膨張圧力に耐えるだけの堅牢で、高高度まで上昇可能な軽量さも求められた。アルミ(Alluminium)製球体は、高高度飛行の与圧式コックピットでも採用された。
Photographer
Unknown
Title
Prof. Auguste Piccard mit Forschungsballon
Der Flug mit dem Luftballon in die Stratosphäre! Der Schweizer Prof. Piccard will mit einem Ballon in bisher unerreichte Höhen fliegen, um dort wissenschaftliche Forschungen zu unternehmen. Die Gondel des Ballons besteht aus einer Alluminium-Kugel, welche einen Umfang von 6 1/2 m und eine Höhe von 2 1/2 m hat. Die Alluminiumkugel kann hermetisch verschlossen werden, um die kühnen Forscher vor der enormen Kälte und den gefährlichen ultravioletten Strahlen zu schützen. - Prof. Piccard befestigt das Mascottchen, seine Glückspuppe, an den Ballonhalteseilen.
Depicted people
Piccard, Auguste Prof.: Physiker, Ballonfahrer, Stratosphären- und Tiefseeforscher, Schweiz
Date September 1930
Collection
German Federal Archives
Current location
Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102)
Accession number
Bild 102-10380
写真は Wikimedia Commons, Category:Auguste Piccard・File:Bundesarchiv Bild 102-10380, Prof. Auguste Piccard mit Forschungsballon.jpg引用。
四、飛行中の状況
[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授は、二十八日から新聞記者団に取囲まれて、飛行中の状況を話すことを強要されたそうである。上昇の際は無風で、気球は急速に高空に達し、僅に二十五分間で一万五千メートルに上ったから、その間の逐次観測をなすことを得なかったのは残念であった。
しかしアルミニューム球のゴンドラは、旨くできていたから、外部の気圧が七十六ミリメートル(地上の十分の一)に下っても、球内は地上におけると同様であったから、観測には何の支障がなかった。
山登りをして六、七千メートルの高さに達すると、非常に疲労を感ずるものであるけれども、高空飛行を、密閉したゴンドラで行うと、平常と異ならず仕事ができる。これが今度の上昇で得た面白い結果である。
ストラトスフェア[成層圏:stratosphere]における宇宙放射線とか電離状態とかは、観測録を整理し、計算をしてから公表するとのことである。教授は今度得た経験に本づき、将来幾度も観測上昇をなすとの話である。
このように易しく昇れるならば諸国でこれに類した自由気球を飛ばす人が出るであろう。これによって上空の概況が判明するのは喜ぶべき次第である。密閉したゴンドラを利用する方法を授けたのは[オーギュスト]ピッカール[ピカール(Auguste Piccard)]教授であって、今後幾多の改造は行われても、この方法の創始者としての栄冠はピッカール教授のものである。
五、教授助手の来歴
[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授は本年四十七歳スイスのバーゼルの近所で生れ、チューリヒ工科大学で初め機械工学を修め、その後物理学に転じ磁気学の大家ワイスの高弟である。その研究も専らその方面にある。その後ベルギー国に招かれ、新に物理学教室を建築して大に面目を刷新した学者である。至って風采の揚がらない、痩せたひょろ長い男である。
二十年前には、ブラッセルの大学はひどく疲弊していたが、ピッカールやドンデアホが改革を行い、今は大いに揮っている。助手のキプフェルも同じくバーゼルの産で、矢張りチューリヒ工科大学の機械工学出である。
専らゴンドラの構造を研究していたそうだが、成功の一部はキプフェルも与って力がある。両人ともスイスに国籍があるから気球にはスイス旗を掲揚していたそうだ。
しかしてベルギー王はブラッセル大学教授がこの壮図を決行したのを喜んで翌五月二十八日にはレオポルド勲章を[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]教授に授与し、キプフェルにも勲章を贈ったそうだ。
ベルギーの物理学は一時盛んであったことがあるが、今世紀の初めになってから研究するものは頗る少くなった。然し英断でピッカール[オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)]のような人を他国から抜擢したのは具眼であったといわねばならぬ。
日本の古い大学は殆どその大学から出た人でなければ採用せぬようである。恰も同系結婚で子孫が退化すると同様な結果を生じはしまいか。この際人材擢用の実を挙げねば学問の振興は覚束ないと思う。[オーギュスト]ピッカール[Auguste Piccard]の壮挙を記する際、自分の感想をもあわせて記して置く。(おわり)
[写真(アルプス山中に下りたゴンドラ)あり 省略](大阪朝日新聞
Vol: 第 46巻
Page: 176
出版年1931-06-17/1931-06-19引用終わり)
写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の与圧式コックピットの内部:正面に操縦席・操縦桿と計器盤が見える。
写真は Wikimedia Commons, Go to WeirdWings
r/WeirdWings
by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10
3924091021
引用。
15kmもの高高度を飛行するためには、飛行機の搭乗者が10倍の気圧差に耐えるために、堅牢な与圧室を作り、空気漏れが生じないように、窓ガラスは小さく密閉性を高めなくてはならない。気圧差に耐えられるように、球形に準じて繭型の構造になっている。
深海10kmまで潜る潜水艇であれば、頑丈な高品位の鉄球で乗員スペースを作ることができるが、これは重量制約が緩いためである。重い構造にして、バラストを積んで深海に沈み、バラストを投棄して浮上することができる。しかし、k上空に上る飛行機の場合は、まず軽量化して高高度15kmまで登らなくてはならないので、与圧コックピットを重たい金属が覆うことは困難である。軽量で頑丈な素材と構造、そして気密性の確保は難題だった。
ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の特徴は、与圧コックピット操縦室で、高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる点にある。Ju 49は高高度記録を更新したわけではないが、パイロットの技量・体力・勇気に依存する高高度席記録よりも、乗客に快適な与圧キャビン、少なくとも操縦者には安全な与圧コックピットの開発には、世界記録更新よりも、その後の航空界にプラスの影響をもたらしている。
図(右):ドイツ、ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の三面図:与圧室、排気タービン、大直径プロペラ、高アスペクト比の大きな主翼と高高度飛行のための技術を取り入れた設計になったが、高高度の低気圧とコックピットの気圧差がを解消する与圧室が難題だった。
Junkers Ju 49, an experimental aircraft designed for high altitude flight and cabin pressurization technique testing first flown in 1931. Powered by a Junkers L88 V-12 engine, the experience gained on this aircraft lead to the development of pressurized military aircraft such as the Junkers Ju 86P.
写真は , Go to WeirdWings
r/WeirdWings
by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10
3924091021
引用。
ユンカース(Junkers)Ju 49 の諸元
乗員Crew: 2名
全長Length: 17.21 m (56 ft 5.5 in)
全幅Wingspan: 28.24 m (92 ft 8 in)
主翼面積Wing area: 98.0 m2 (1,055 sq ft)
空虚重量Empty weight: 3,590 kg (7,916 lb)
総重量Gross weight: 4,250 kg (9,371 lb)
発動機Powerplant: 1 ×ユンカース(Junkers)L88a V型12気筒4ストローク(排気量45.8 L)液冷エンジン2段排気ガスタービン過給機(supercharger)付き596 kW (800 hp)
最高速力Maximum speed: 146 km/h (91 mph, 79 kn) at sea level; 220 km/h (136 mph) at 13,000 m (42,700 ft)
実用上昇限度Service ceiling: 13,015 m (42,700 ft)
上昇率Rate of climb: 3.5 m/s (690 ft/min) to 8,000 m (26,250 ft)
高空征服への一歩 地上に成層圏 : やがて太平洋も十時間で : 帝大で素晴しい試験
掲載誌
東京日日新聞
Vol: 第 3巻
Page: 6
出版年
1933-03-09
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100168629
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
[写真(低温低圧風洞)あり 省略]
ベルジューム気象学の権威ブラッセル大学[オーギュスト]ピカール[Auguste Piccard]教授は一九三一年五月軽気球に乗って一万五千七百メートルまで上昇し更に昨年八月一万六千五百メートルの上空をきわめて高度上昇の世界新記録を作り成層圏[stratosphere]に対する新発見を多数にもたらしいわゆる無碍の世界ともいうべき成層圏−地上に嵐が吹いていても雨が降っていても成層圏には低空気象の影響はない−飛行への完成は今や世界の航空界、気象界に残された大問題として世界各方面の研究の焦点となっているがわが国でも帝大航空研究所で早くも大正十四年来故田丸卓郎博士や佐々木達治郎博士が研究に没頭し故田丸博士考案、佐々木博士が設計に当って成層圏[stratosphere]と同一の条件を具備する計器(飛行機の速度計、高度計その他)研究の設備を痛感して同十五年経費十五万円を投じて『低温低圧風洞』の設備に著手し爾来八ケ年の長年月を費して苦心惨憺、最新科学の粋をあつめた工事を急ぎつつあったがいよいよ本月中旬をもって目黒の航空研究所内に『低温低圧風洞』の設備が完成し、来る四月から新設備による成層圏飛行への光彩ある実地研究の第一歩を踏み出すことになった、
しかもこれは世界無二の設備で全く日本が先鞭をつけたものである、この設備は一万メートル以上の高空、いわゆる成層圏[stratosphere]におけると同様の低温(零下五十度以下)低圧の気象状況を現出する装置でこの風洞内においていろいろな航空計器の実験的研究をなすものであるこの実験的研究が完成された暁には成層圏における人間の体力の研究と相まって現在の航空機では不可能とされている成層圏内飛行が可能となり田中館博士が二十年も前から唱えている『高天ケ原飛行』によって太平洋横断も僅十時間の短時間で出来るという世界航空界未踏の研究資料がこの風洞の計器実験から生れようという訳である、右について航空研究所の水口事務官は語る
世界で唯一のものです、この風洞によって航空計器の実験を行い成層圏[stratosphere]では如何にその性能が変化するかを研究して成層圏飛行の参考にするもので広さ五、六十坪高さ五、六間の建物の中に設備され純国産品で作り上げたものです
⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度機を見る。
⇒写真集Album:オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)の成層圏気球を見る。
2.イタリアのカプロニ(Caproni) Ca.113 高高度仕様
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の飛行機格納庫、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の前部右側:
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Dettaglio della parte anteriore dell'aereo Caproni 113 AQ
data: 11.04.1934Alta Quota
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053717引用。
1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機は、ブリストル・ペガサス(Pegasus)空冷星型9気筒エンジン(排気量28 L) を搭載し、高度14,433 m (47,352 ft)の世界記録を達成した。操縦士は、レナート・ドナティ(Renato Donati)だった。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機を飛行機格納庫に人力で押して移動している。:
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Alcuni militari spingono all'interno di un hangar il Caproni 113 AQ
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053718引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機を整備する技術者たち:
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Sulla pista dell'aeroporto di Montecelio, l'aereo Caproni 113 è controllato da un gruppo di tecnici del Reparto Alta Quota
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053719引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、高高度世界記録達成のためにイタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機に搭乗する直前のイタリア空軍レナート・ドナティ(Renato Donati):操縦士は、与圧スーツ、革製ヘルペット、酸素吸入器を装着している。しかし、頭部を密閉する金属製ヘルメットではないので、高高度における居住性は劣悪だったと思われる。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Il pilota Renato Donati seduto al posto di pilotaggio dell'aereo Caproni 113 AQ
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce引用。
1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路から飛び立ったイタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機は、与圧スーツ、革製ヘルペット、酸素吸入器を装着したレナート・ドナティ(Renato Donati)が操縦した。
ドナティの頭部は密閉式のようにも見えるが、ビニール素材あるいは革製であり、高高度の低圧の大気の中で1気圧に近い気圧差を維持するための密閉や与圧を行う構造としては不十分である。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、高高度世界記録達成のためにイタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機に搭乗する直前のイタリア空軍レナート・ドナティ(Renato Donati):簡易与圧スーツ、革製ヘルペット、酸素吸入器を装着しているが、頭部を密閉する金属製ヘルメットではない。つまり、高高度における低気圧を防ぐには不十分なスーツであり、長時間の高高度飛行は体力的に困難だった。後方にはカンプロニCa.113の高高度試作機の開放式操縦席コックピットが写っているが、正面ガラス風防は、折畳み可能で、空気抵抗の減少を図っている。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Il pilota Renato Donati seduto al posto di pilotaggio dell'aereo Caproni 113 AQ
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce引用。
しかし、カプローニ(Caproni) Ca.113操縦士レナート・ドナティ(Renato Donati)の頭部は、密閉する金属製ヘルメットで覆われているのではなく、通常の革製飛行用ヘルメットにゴーグルをつけただけのもので、高高度仕様に改良されているのかもしれないが、それでも密閉性が低く、気圧低下を食い止めることはできないであろう。
つまり、10kmを超えるような高高度における操縦者の居住性は劣悪で、上昇率の低い高高度を15kmまで上がるには時間がかかり、操縦者の健康上の負担が大きかったと思われる。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の操縦席コックピットにおさまったレナート・ドナティ(Renato Donati):胴体左中央部を撮影。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Il pilota Renato Donati seduto al posto di pilotaggio dell'aereo Caproni 113 AQ
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053721引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の操縦席コックピットにおさまったレナート・ドナティ(Renato Donati):胴体左中央部を撮影。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Il pilota Renato Donati seduto al posto di pilotaggio dell'aereo Caproni 113 AQ
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053721引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機に搭乗するレナート・ドナティ(Renato Donati):ドナティは、緊急脱出用の落下傘パラシュートを背負っているが、低温と低気圧に晒されるために、高度1万mから落下傘降下をすることはできない。パラシュート降下は、高度1000〜4000mの間が一般的である。操縦士の動作を集まった技術者たちが手助けしている。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Aiutato da aluni tecnici del Reparto Alta Quota, Donati si posiziona al posto di pilotaggio del Caproni 113
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053722引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の飛行を終えた操縦席コックピットのレナート・ドナティ(Renato Donati):与圧用のヘルメットは脱いでいる。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Tecnici e assistenti si accalcano intorno a Donati, ancora all'interno dell'aereo, dopo l'atterraggio
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053724引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の飛行を終えた操縦席コックピットのレナート・ドナティ(Renato Donati):空軍将兵や技術者らに歓迎され、ヘルメットを脱いで安堵の表情を見せるドナーティ。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Alcuni tecnici ed un ufficiale si accalcano intorno a Donati, ancora all'interno dell'aereo, dopo l'atterraggio
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053725引用。
写真(上)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の飛行を終えた操縦席コックピットのレナート・ドナティ(Renato Donati):空軍将兵や技術者らに歓迎され、ヘルメットを脱いで安堵の表情を見せるドナーティ。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Un tecnico del Reparto Alta Quota aiuta Donati a scendere dall'aereo, dopo l'atterraggio
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053726引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の飛行を終えた操縦席コックピットのレナート・ドナティ(Renato Donati):与圧用のヘルメットをとり、簡易与圧スーツも脱いでいる。空軍将兵や技術者らに歓迎され、飛行機から降りるドナーティ。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Accolto da ufficiali e tecnici e ripreso da una cinepresa, Donati, appena sceso dal suo aereo, sorride
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053727引用。
イタリアのカプローニ(Caproni) Ca.113複葉機高高度使用のコックピット操縦席は、密閉与圧式ではなく、開放式だったために、1万3000メートルの高高度に上奏するためには、大気圧に肉体的に耐えられるように、操縦士は与圧されたヘルメットと与圧スーツを着用する必要があった。
酸素濃度も薄くなる高高度では、酸素マスクも必要だが、これだけでは、血管内の空気が膨張するので、高度度飛行に人体は耐えられなかったのである。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の飛行を終えた操縦席コックピットのレナート・ドナティ(Renato Donati):与圧用のヘルメットをとり、簡易与圧服も脱いでいる。空軍将兵や技術者らに歓迎され、飛行機から降りるとすぐに笑顔を見せるドナーティ。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Accolto da ufficiali e tecnici e ripreso da una cinepresa, Donati, appena sceso dal suo aereo, sorride
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053728引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路上で、イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の飛行を終えたレナート・ドナティ(Renato Donati):革製ヘルメット、ゴーグルを外して、与圧式スーツも前のファスナーを解放して寛いでいる。安堵の表情を見せ笑顔のドナーティだが、低気圧に長時間晒されて、頭痛がしていたのかもしれない。Ca.113左の操縦席脇には、操縦士の搭乗用移動式階段が置かれている。Ca113操縦席コックピと左側には、側面にヒンジ式の開閉扉があって、搭乗・降機がしやすいようになっている。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Alcuni tecnici ed un ufficiale si accalcano intorno a Donati, ancora all'interno dell'aereo, dopo
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053725引用。
1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地の未舗装滑走路を飛び立ったイタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機は、レナート・ドティレナート・ドナティ(Renato Donati)の操縦で高度14,433 m (47,352 ft)の世界記録を達成した。その時、ドナティ操縦士は、簡易与圧スーツ、革製ヘルペット、酸素吸入器を装着している。この与圧スーツは、二重の構造で、正面にファスナーがついていて開閉できるが、低気圧の状態でファスナーの縫い目からスーツ内の空気が漏れて流出するために、酸素を吸入したとしても、不十分な与圧しかできなかったであろう。今日の視点では、この「与圧スーツ」は、与圧という基準には達していないであろう。また、足元のブーツも気密性の低いもので、与圧には至らない程度の構造だったと思われる。
イタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機の操縦席コックピ左側には、側面にヒンジ式の開閉扉があって、搭乗・降機がしやすい構造となっている。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、イタリア空軍レナート・ドナティ(Renato Donati)搭乗のカプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機:
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Un uomo in abiti civili si avvicina al Caproni 113, circondato da una piccola folla di tecnici ed ufficiali
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053729引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、飛行機格納庫前で移動しているイタリア空軍レナート・ドナティ(Renato Donati)搭乗のカプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機:
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Montecelio airport technicians and ground staff push the Caproni 113 inside a hangar
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce codice foto: A00053731引用。
写真(右)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、格納庫に移動されているイタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機:
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Tecnici e personale di terra spingono il Caproni 113 all'interno di un hangar
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053732引用。
写真(上)1934年4月11日、イタリア、ローマ西30km、グイドーニア・モンテチェーリオ空軍基地、高高度飛行を終えったイタリア空軍カプローニ(Caproni) Ca.113 AQ高高度試作機:未舗装滑走路を移動するために、尾輪にドリー台車を履かせて人力で飛行機格納庫に運んでいる。
FOTO ATTUALITÀ / IL PILOTA RENATO DONATI, SU CAPRONI 114 HA BATTUTO IL RECORD MONDIALE DI ALTEZZA (M 14.443) ALL'AEROPORTO DI MONTECELIO
Tecnici e personale di terra spingono il Caproni 113 all'interno di un hangar
data: 11.04.1934
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Archivio Storico Istituto Luce A00053733引用。
3.イタリアのカプロニ(Caproni) Ca.113 複葉練習機(通常仕様)
写真(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)の表紙:このカタログは、高高度仕様ではなく、イタリア空軍カプロニCa.100練習機の後継機として開発された複葉練習機である。カタログには、「星型7気筒」(Stella 7)搭載型とあるが、これは、多様な空冷星型7気筒エンジンを搭載していたためである。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.11引用。
1922年10月29日、ファシスト党ベニート・ムッソリーニが、イタリア国王より首相に任命されたが、これがファシスト暦 "Anno Fascista"の第1年のスタートとされた。ファシスト歴は、1927年に制度化され、1927年がファシスト暦第5年(Anno V)とされた。
1935年(ファシスト暦 "Anno Fascista"第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)は、高高度仕様ではなく、イタリア空軍カプロニCa.100練習機の後継機として開発された複葉練習機である。カタログには、「星型7気筒」(Stella 7)搭載型とあるが、これは、多様な空冷星型7気筒エンジンを搭載していたためである。
写真(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113複葉単座練習機:このカタログは、高高度仕様ではなく、イタリア空軍カプロニCa.100練習機の後継機として開発された複葉練習機で、単座仕様ある。カタログには、「星型7気筒」(Stella 7)搭載型とあるが、これは、多様な空冷星型7気筒エンジンを搭載していたためである。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.11引用。
イタリアのカプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機は、イタリア空軍カプロニCa.100練習機の後継機として、1931年に初飛行し、単座型と複座型があり、各種空冷星型エンジン(7気筒あるいは9気筒)の搭載が可能だった。民間アクロバット機としての販売も考慮されていた。ブルガリアでも1938-1939年に107機が生産され、ブルガリア空軍で「ヒバリ」の愛称で使用された。
写真(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113単座練習機:アクロバット機・練習機として、単座型と複座型があった。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
luogo della ripresa: Aeroporto di Montecelio
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.10引用。
イタリアのカプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機は、外国輸出、民間販売を念頭に開発されたために、イタリアのピアッジオ(Piaggio)ステラ(Stella)P.VII(排気量19.337 L)、チェコスロバキアのワルター・カストロ(Walter Castor)(17.033 L)、アメリカのライト(Wright)R-975 ヴィールウィンド(Whirlwind)(15.98 L)の各種空冷星型7気筒エンジン、あるいはチェコスロバキアのワルター・ポラックス(Walter Pollux)空冷星型9気筒エンジン(21.9 L)を搭載した。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の胴体金属骨格:
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.34引用。
カプローニ(Caproni) Ca.113複葉機の
エンジン架は、空冷星型エンジン搭載なので、正面に円形の骨格があり、それが胴体骨格とつながっている。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の胴体後半の金属外板:
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.40引用。
カプローニ(Caproni) Ca.113複葉機のコックピット操縦席は、開放式だが、高高度仕様でも開放式だったために、高高度飛行では、操縦士は与圧されたヘルメットと与圧スーツを着用する必要があった。
図(右)1934年(ファシスト暦第12年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の胴体中央コックピット操縦席前方の計器盤:
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.44引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の操縦制御用の操縦桿・操縦索とその支持金具:
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.172引用。
1934年4月11日、イタリアのレナート・ドナティ(Renato Donati)の操縦する高高度仕様Ca.113は、高高度世界記録14,433 m(47,352フィート)まで上昇した。また1935年、イタリア人女性カリーナ・ネグローネ(Carina Negrone)が操縦するCa.113 AQ複葉単座機が、12,010 m (39,400 ft) の高高度の女性世界記録を達成している。
図(右)1934年(ファシスト暦第12年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113のエンジン架マウントその支持金具:空冷星形7気筒エンジン搭載用のエンジン架なので円形枠組みには7個のシリンダーからの排気管を通す穴(986番)が開いている。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.116引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113のエンジンカウリング、プロペラ先端のスピナ(887・118・999番)、機首の金属外板:エンジンの発熱を逃がすためにスリットが開けられている。空冷星形エンジン形状に合わせて円形外板がついている。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.118引用。
カプローニ(Caproni) Ca.113高高度仕様では、原型よりも空気密度の低い高空でも推進力が得られるように、2翅プロペラを大直径4翅プロペラに換装したが、プロペラ先端のスピナは重量軽減のために取り外されている。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の操縦席コックピット周囲の金属枠と2翅プロペラ外板:操縦桿が中央にあり、座席にはシートベルトが取り付けられている。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.218引用。
カプローニ(Caproni) Ca.113高高度仕様では、原型よりも空気密度の低い高高度飛行にふさわしいように、プロペラ直径を延長し、さらに2翅を4翅プロペラに変更している。そして、プロペラの大型化に伴って、着地時のプロペラと地面のクリアランスを確保するために、降着装置の主輪取付け支柱も延長され長い脚に改造されている。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の胴体前部の金属骨格構造:エンジンの回転数、ブースト、出力を調整するスロットルなど操縦主要部の部品が拡大表示されている。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.65引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の胴体中央床面の構造:操縦席の床を支える骨組み。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.18引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の胴体中央部と左下主翼の骨格:
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.168引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の上主翼の骨格:
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.66引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の主翼の補助翼(aileron):、飛行機を左右どちらかに横転バンクさせる操作は、左右の主翼後縁に取り付けた動翼のエルロン(補助翼)を使用する。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.122引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の垂直尾翼・方向舵と水平尾翼・昇降舵の骨格:
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.125引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の垂直尾翼・方向舵の金属骨格構造:
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.138引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の主翼の構造:
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.132引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の操縦席コックピット前方の圧搾空気ボンベと固定式降着装置のブレーキ構造:操縦席に繋がる配管と索の構造が示されている。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.218引用。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の胴体下の降着装置のスプリングと固定脚・ゴム首輪の取り付け構造:開いた左右の脚支柱には緩衝装置が取り付けられている。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.144引用。
カプローニ(Caproni) Ca.113高高度仕様では、原型よりも降着装置の主輪は小型のものに変更し、プロペラ直径が大きくなった分だけ、降着装置を支える支柱も延長されている。そして、軽量化するために、降着装置の支柱に取り付けられていた緩衝装置も取り外されている。
図(右)1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)に掲載されたカプローニ(Caproni) Ca.113の胴体下の降着装置の尾輪とその支柱の取り付け構造:ゴム車輪の小型尾輪だが、高高度仕様の機体には、重量軽減のために、ゴム車輪ではなく簡易的な尾橇に変更され、支柱も簡易化されている。
Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia- Catalogo Nomenclatore
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore p.264引用。
写真(右)1934年(ファシスト暦第13年:ANNO XII°E.F.)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1934)の表紙:このカタログは、高高度仕様ではなく、複葉単座練習機型で、「星型7気筒」(Stella 7)搭載型とあるが、これは、多様な空冷星型7気筒エンジンを搭載していたためである。
AEROPLANO "CAPRONI" Tipo Ca 113 STELLA 7 "AEROPNANI CAPRONI" Talledo MIKANO Manuale per il montaggio
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore 引用。
1922年10月29日、ファシスト党ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)は、ファシスト党を率いて、ローマ進軍をし、社会主義者、王制反対派を排除し、労働組合のストライキなどで混乱していた社会を安泰な状態に戻すと宣言した。イタリア国王は、ムッソリーニの忠誠心あふれた行動にうたれて、首相に任命した。これがファシスト政権の始まりであり、1922年10月を、ファシスト暦 "Anno Fascistaの第1年とする新たな年号の始まりである。
しかし、実際には、ローマ進軍直後にファシスト暦の採用が決まったのではなく、ファシスト政権が安定化、独裁政権となった1927年にファシスト暦 "Anno Fascistaが制定された。つまり、1927年がファシスト暦第5年(Anno V)とされ、そこからさかのぼってベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)による政権奪取というローマ進軍の1922年がファシスト暦 "Anno Fascista"元年と定められたのである。
写真(右)1934年(ファシスト暦第13年:ANNO XII°E.F.)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1934)のカプローニ(Caproni) Ca.113右側面図:このカタログは、高高度仕様ではなく、複葉単座練習機型で、「星型7気筒」(Stella 7)搭載型とあるが、これは、多様な空冷星型7気筒エンジンを搭載していたためでここでは、イタリア製ピアッジオ(Piaggio)ステラ(Stella)P.VII空冷星型7気筒エンジン(排気量19.337 L)の搭載型のことである。
AEROPLANO "CAPRONI" Tipo Ca 113 STELLA 7 "AEROPNANI CAPRONI" Talledo MIKANO Manuale per il montaggio
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio p.13引用。
1935年(ファシスト暦第13年)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1935)は、高高度仕様ではなく、イタリア空軍カプロニCa.100練習機の後継機として開発された複葉練習機である。カタログには、「星型7気筒」(Stella 7)搭載型とあるが、これは、多様な空冷星型7気筒エンジンを搭載していたためで、マニュアルでもカタログでもカプローニ(Caproni) Ca.113は、イタリア製ピアッジオ(Piaggio)ステラ(Stella)P.VII空冷星型7気筒エンジン(排気量19.337 L)の搭載型が示されている。
写真(右)1934年(ファシスト暦第13年:ANNO XII°E.F.)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1934)のカプローニ(Caproni) Ca.113上面図:マニュアルは、高高度仕様ではなく、複葉単座練習機型で「星型7気筒」(Stella 7)とあるのはイタリア製ピアッジオ(Piaggio)ステラ(Stella)P.VII空冷星型7気筒エンジン(排気量19.337 L)の搭載型。
AEROPLANO "CAPRONI" Tipo Ca 113 STELLA 7 "AEROPNANI CAPRONI" Talledo MIKANO Manuale per il montaggio
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio p.15引用。
カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機の上下主翼の幅は、同じ1350mm、主翼後縁の補助翼は全長3280mm、水平尾翼の昇降舵は左右一体で3554mm、稼働部は534mm、水平尾翼固定幅は659mm。
写真(上)1934年(ファシスト暦第13年:ANNO XII°E.F.)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1934)のカプローニ(Caproni) Ca.113正面図:
AEROPLANO "CAPRONI" Tipo Ca 113 STELLA 7 "AEROPNANI CAPRONI" Talledo MIKANO Manuale per il montaggio
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio p.13引用。
カプローニ(Caproni) Ca.113の主翼全幅は10490mm、主車輪間隔は2450mm。左主翼の上反角は1度。ただし、プロペラ回転トルクを相殺するため、右主翼の上反角は1.30度と若干大きな反りある。
写真(右)1934年(ファシスト暦第13年:ANNO XII°E.F.)、イタリア、ローマ、イタリア航空省刊行、カプローニ(Caproni) Ca.113複葉練習機のカタログCaproni Ca.113 Catalogo Nomenclatore (1934)のカプローニ(Caproni) Ca.113上面図:機首にはイタリア製ピアッジオ(Piaggio)ステラ(Stella)P.VII空冷星型7気筒エンジン(排気量19.337 L)搭載。
AEROPLANO "CAPRONI" Tipo Ca 113 STELLA 7 "AEROPNANI CAPRONI" Talledo MIKANO Manuale per il montaggio
写真は,Caproni Ca. 113
per Alta Acrobazia: a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio p.19引用。
カプローニ(Caproni) Ca.113上下2枚の主翼幅は同じ1350mm、上下主翼後縁の補助翼は同じ全長3280mm、水平尾翼の昇降舵は左右一体で3554m。右上下主翼の上反角は1.30度。ただし、プロペラ回転トルクを相殺するため、左上下主翼の上反角は1度に抑えられている。
4.フランスのポテーズ(Potez)506複葉機
写真(右)1933年、フランス、ポテーズ(Potez)506複葉機の左前方:3翅固定ピッチプロペラ装備、固定脚で引込み式降着装置ではない。ガラス風防のついた開放式コックピットで、与圧室ではない。操縦士は、縊れた繭式のヘルメットを被り、与圧スーツを着込んでいる。
Potez 506, French absolute altitude record setting aircraft
Source
"The new altitude record". Flight. Vol. XXV, no. 42. 19 October 1933. p. 414.
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Potez 506
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写真は, Category: Caproni Ca.161 File:Potez 506.png引用。
1936年8月14日、フランスのポテーズ(Potez)506複葉機は、高高度48698フィート(14843m)に達し、高高度世界記録を樹立した。その1か月後、1936年9月28日、イギリス空軍ブリストル 138(Bristol Type 138)は、F.スワイン飛行隊長が搭乗し、高度49967フィート(15230m)の高高度世界新記録を更新した。
写真(右)1933年、フランス、ポテーズ(Potez)506複葉機の左前方:複葉機なので、主翼面積を短い全幅で稼ぐことができるので、翼面荷重の軽減、構造の軽量化に寄与した。ただし、アスペクト比が高くできないので、高高度性能は必ずしも良くなかった。3翅固定ピッチプロペラ装備、固定脚で引込み式降着装置ではない。ガラス風防のついた開放式コックピットで、与圧室ではない。操縦士は、縊れた繭式のヘルメットを被り、与圧スーツを着込んでいる。
Potez 506, French absolute altitude record setting aircraft
Source
"The new altitude record". Flight. Vol. XXV, no. 42. 19 October 1933. p. 414.
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Potez 506
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写真は, Category: Caproni Ca.161 File:Potez 506.png引用。
空気の欠乏も何かは高空十五哩へ上昇 : 三倍の能力を発揮する発動機 : 川崎とファルマン提携 : 空の一九三六年
掲載誌
大阪毎日新聞
Vol: 第 3巻
Page: 51
出版年
1933-12-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100129396
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
「空の一九三六年」をめざしてわが民間の三大飛行機製作所−川崎、中島、三菱−の間に世界制覇を誇る優秀機の国家的製作競争が展開されるだろうことは一般に予想されているが早くも川崎では他に魁けて仏国のファルマン会社と提携して優秀発動機製作の三ケ年計画を確立したと伝えられている
これより先、九二式戦闘機、八八式軽爆撃機・偵察機、八九式重爆撃機等々の優れた陸軍機を製作した川崎造船所飛行機工場は飛行機の心臓ともいうべき発動機がドイツからパテントを買ったBMW一点張りだっただけに、ひとしく発動機において行詰った三菱、中島の両者よりもその行詰り方は一層ひどかった、一方陸軍には満洲事変の貴重な体験から飛行機の性能向上を強調する声が漸く高く加うるに空の充実を劃期的に強要する一九三六年の切迫!三大飛行機製作所の眼と耳はいずれも欧米諸国の優秀な発動機に向けられるとともに内は独創の改良、発明への緊張となったのであった、
他方また欧米諸国でも飛行機は軽く速く上昇能力が大きくて航続時間の長いことを目標に仏国のイスバノ・スイザ、ファルマン、サルムスン(仏)英国のロールス・ロイス、サルムスン(英)イタリのフイアット、ドイツのユンカース、米国のライト等々一流の航空用発動機製作所の間に時には火花を散らすスパイ戦まで演ずるほど競争しているが、まずナンバ・ワンの凱歌は仏国のファルマン会社にあげられたのであった
即ちファルマンでは総支配人シャルル・ワセージュ氏を中心に数年にわたる発動機改良の特別研究の結果、このほどに至りレコンプレスール[compresseur]という特殊な気体高圧装置を附加した十二、十六、十八シリンダのV型[水冷式エンジン]、W型水冷式[エンジン]による発動機の製作を完成して発動機のすばらしい軽量化と高空飛行における空気の欠乏を十二分に補うことに成功したのであった、
この発動機を利用すれば全重量五百キログラムの発動機で実に千五百馬力の偉力を発揮し時速五百キロの快速で十二−十五マイルの高空まで上昇出来、普通航空には楽に時速平均四百キロを持つといわれている
この新発明に逸早く眼をつけたのが川崎[航空機]で両者間の交渉が成立してファルマン会社からは発明の主ともいうべきワセージュ氏自身が夫人同伴で去る十月初旬来朝、毎日川崎[航空機]飛行場で設計、組立、性能試験を極秘裏につづけていたが最近終了したので同氏は十九日神戸出帆の龍田丸で帰国することになった世界で最も古い歴史と新技術とを誇るファルマンと川崎[航空機]のコンビに一九三六年の空の充実は非常に期待されているがワセージュ氏が残して去った一枚の設計用青写真に川崎[航空機]自身が加える独創の新技術に対して非常な注目が払われている(引用終わり)
5.イタリアのカプロニ(Caproni)Ca.161 bis 高高度機
写真(右)1936年、イタリア、エンジンを駆動しているカプロニ(Caproni)Ca.161 bis 高高度機の右前方:4翅固定ピッチプロペラ装備、固定脚で引込み式降着装置ではない。ガラス風防のついた開放式コックピットで、与圧室ではない。操縦士マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)は、縊れた繭式のヘルメットを被り、与圧スーツを着込んでいる。
Descrizione Il pilota Pezzi sul Ca.161
Fonte www.tusciaromana.info
Data 1936
Autore Sconosciuto
Licenza d'uso
(riusare il file) vedi sotto
写真はTHIS DAY IN AVIATION, Mario Pezzi:22 October 1938およびCategory: Caproni Ca.161 File:Caproni Ca.161.jpg引用。
1936年8月14日のフランスのポテーズ(Potez)506複葉機の高高度世界記録48698フィート(14843m)は、その1か月後、1936年9月28日、、イギリス空軍ブリストル 138(Bristol Type 138)にF.スワイン飛行隊長が搭乗し、高度49967フィート(15230m)の高高度世界新記録に更新された。
しかし、この8か月後の1937年5月8日、イタリアのカプロニ(Caproni)Ca.161複葉機がマリオ・ペッツィ(Mario Pezzi:1898-1968)中佐の操縦で高度15,655 m (51,361 ft)まで到達してイギリスの高高度世界記録を破った。
イタリアのカプロニ(Caproni)Ca.161複葉機の装備した発動機は、高度 7,200 m (23,600 ft)で740 kW (1,000 PS)を発揮するピアッジョ(Piaggio)P.XI R.C.72空冷星型14気筒エンジン(排気量38,67 L)である。
イタリアの世界記録を抜くために、イギリスはブリストル 138(Bristol Type 138)を改良して、高度53937フィート(16440m)に達して高高度世界記録を塗り替えた。
写真(右)1936年、イタリア、エンジンを駆動しているカプロニ(Caproni)Ca.161 bis 高高度機の左前方:4翅固定ピッチプロペラ装備、固定脚で引込み式降着装置ではない。ガラス風防のついた開放式コックピットのように見えるが、内部には繭型与圧室コックピットがある。そして、金属製与圧密閉ヘルメットを被った操縦士マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)中佐は、民族性の密閉式与圧ヘルメットを被り、繭型与圧コックピットに入って、高高度における10分の1の低気圧がら身を守った。
English: Italian Caproni Ca.161 high-altitude aircraft
Date 1930s
Source dodlithr.blogspot.com。Author Uncredited
Permission
(Reusing this file) PD-Italy; photo taken in Italy in 1930s
写真は, Category: Caproni Ca.161 File:Caproni Ca.161.jpg引用。
地球の大気圏は、下層から対流圏[troposphere]・成層圏[stratosphere]・中間圏(100km)・熱圏(500km)・外気圏と層をなしている。成層圏[stratosphere]とは、地球大気の対流圏の上空にある大気圏である。対流圏と成層圏との境界は、高緯度の極地では高度8km、低緯度の赤道では高度17kmである。成層圏と中間層の界面高度50kmである。
ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機には、酸素マスクだけでなく与圧式コックピット操縦室が設けられている。気圧格差に耐えるために、堅牢な繭型で、気密性を高めるために、出入り口は小さく、視界を得るためのガラス窓も小さな円形にとどめている。高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる
与圧コックピットには、気密性と軽量で高い強度が求められた。
高度と気圧の低下は、
18000フィート(5486m)1/2
27000フィート(8230m)1/3
38000フィート(11582m)1/5
50000フィート(15240m)1/10
と
加速度的に気圧は低下する。
カプロニ(Caproni)Ca.161のように、10km以上の高高度を飛行する高高度飛行機、すなわち「成層圏航空機」は、操縦士、機関士などの搭乗するコックピットの気圧を、人間が長時間耐えられるような低高度の気圧にまで高める「与圧室」も設ける必要があった。室内と外気の気圧格差が大きいので、与圧室は隔壁の強度を維持するために繭のような形状にして、気密性と強度の両立を図っている。気圧格差が大きい高空を飛行するには、高高度まで上昇できるように航空機は軽量であり、かつ気圧格差に耐えられるだけの強度が与圧室に求められた。
つまり、カプロニ(Caproni)Ca.161は15kmもの高高度を飛ぶために、深海の高い水圧の中を航行する潜水艇と同様に、操縦士が、低気圧にならずに酸素供給して呼吸もできる密閉空間を確保することとした。ただし、深海に潜る潜水艇では、分厚い金属球で覆った密閉空間を搭乗員に確保して、この密閉空間の重量が重くなっても、浮上時にバラストを投棄すれば浮力が回復する。他方、高高度飛行機では、まず初めに軽量化して、高高度にまで上昇するので軽量化することが必要になる。そこで、操縦士を、低高度の気圧を確保する密閉空間で覆うとしても、その密閉空間の強度を高くするために堅牢で過大な重量となる分厚い金属構造を作るわけにはいかなかった。密閉空間も容積を少なくしようとすれば、与圧式のスーツを着用し、操縦士の頭部を密閉金属ヘルメットで覆う構造が試されたのである。
しかし、イギリスに対抗するために、イタリアのカプロ二(Gianni Caproni)は、カプロニ(Caproni)Ca.161を改良したカプロニ(Caproni)Ca.161bisて再度、高度世界記録に挑んだ。
カプロニ(Caproni)Ca.161bis機複葉機は、全長27フィ−ト3/4インチ、全幅46フィート9インチ、主翼面積382平方フィート(35.49m2)、全高11フィート5・3/4インチで、発動機は高度10,000 m (33,000 ft)で740 kW (1,000 PS)を発揮するピアッジョ(Piaggio)P.XI R.C.100空冷星型14気筒エンジン(排気量38,67 L)を搭載した。
写真(右)1936年、イタリア、エンジンを駆動しているカプロニ(Caproni)Ca.161 bis 高高度機の右前方側面と操縦席の金属製与圧密閉ヘルメットを被った操縦士マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)中佐:ガラス風防のついた開放式コックピットで、一見すると与圧室ではない。しかし、操縦士は、密閉された与圧ヘルメットを被り、胴体は、繭型与圧コックピットが設置されている。
Descrizione Il pilota Pezzi sul Ca.161
Fonte www.tusciaromana.info
Data 1936
Autore Sconosciuto
Licenza d'uso
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写真は, Category: Caproni Ca.161 File:Caproni Ca.161.jpg引用。
1938年10月22日、イタリア空軍マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)中佐が再び操縦席に座り、身体を繭型与圧コックピットに沈め、頭部を金属製密閉式与圧ヘルメットを被って、高高度世界記録に再挑戦して、高度17,083 m (56,047 ft)という高高度世界記録を再び更新した。
この記録は、56年後、全幅 56.5 mのドイツのグロプ G-850 ストラト2C(Grob G-850 Strato 2C)高高度実験機が、与圧キャビン、推進式プロペラ装備のコンチネンタル(Continental)IO-550)空冷星型6気筒エンジン(排気量9.05 L)300 hp (224 kW) 2基装備で、1995年4月4日に高度18,552 m (60,897 ft)という有人のピストンエンジン飛行機の高高度世界記録を更新した。
他方、イタリアのカプロニ Ca.161の水上機仕様用、すなわちカプロニ Ca.161 Idroが製造され、1939年9月25日、ニコラ・ディ・マウロ(Nicola di Mauro)の操縦で、高度13542mに上昇し、水上機による高高度世界記録を樹立した。これは、現時点で、水上機による高高度世界記録を保持している。
写真(右)1936年、イタリア、カプロニ(Caproni)Ca.161高高度実験機の金属骨格、密閉された与圧式コックピットと金属ヘルペット:ガラス風防のついた開放式コックピットに金属製与圧密閉ヘルメットを被り、操縦士マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)中佐が着席した。
Speciale tuta scafandro, pressurizzata e riscaldata elettricamente e un casco a tenuta stagna, simile a quello degli odierni astronauti.
写真は, Category: Caproni Ca.161 File:Caproni Ca.161 (scafandro).jpg引用。
成層圏の上空は、中間圏で、その境界は、高度50kmである。したがって、成層圏に達するには、中緯度であれば高度12−13kmである。つまり、成層圏飛行機とは高度1万2000m以上まで上昇、高高度で飛行し続けることの可能な航空機ということになる。
成層圏では強い対流は見られないが、対流圏上部の偏西風の影響を受ける。他方、成層圏上部では、気圧差とコリオリから、地軸の傾きに応じて冬は成層圏偏西風、夏は成層圏偏東風が吹いている。
現在のジェット旅客輸送機の巡行高度は、高度1万メートル(10km)程度であるが、その理由は、空気密度の抵抗とエンジンの稼働に必要な大気(酸素)との関連である。つまり、空気密度は、海面上(標高0m)に比して、高度10kmでは、33.7%に低下するが、これは飛行機の空気抵抗は、高高度ほど減少することを意味する。
しかし、高高度であれば、エンジンの燃料燃焼のための酸素も減少しているので、エンジン駆動には向いていない。例えば、高度50kmでは、空気密度は海面上に比較して0.08%しかなく、酸素不足でジェット・エンジンもレシプロエンジンも燃料燃焼に必要な酸素部不足で稼働できなくなる。したがって、航空機が飛行可能な高度は、エンジンの関係上15kmが限度である。
高高度飛行の制約の第一は、高高度では酸素不足・気温の低下である。そこで、人間が高高度に滞在するには、酸素吸入マスク・暖房機が必要になる。気温は海面上から100メートル上昇するごとに摂氏0.6度低下する。そのため、高度8kmではマイナス30度、高度10kmでは海面上より60度も低下し摂氏マイナス50度にもなる。そこで、高高度では、酸素不足と気温低下に対応することが必要で、そのために航空機の操縦士や同乗者には酸素吸引マスク・電熱服などが開発され、1930年代には実用化されていた。
高高度飛行の制約の第二、高高度では空気の密度が薄くなり、気圧が低下することである。人間が気圧が極端に低い場所に長時間滞在し続けると、高山病の高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)ような健康上の障害が起こる。たとえ酸素吸入器や暖房機を持参しても、高度27000フィート(8230m)で気圧は海面上の1/3、38000フィート(11582m)で1/5、50000フィート(15240m)で1/10と大きく低下するので、低気圧に晒された人間は、健康を維持できない。
写真(右)1936年、イタリア、カプロニ(Caproni)Ca.161 bis 高高度機の密閉式与圧コックピット操縦席士マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)中佐の左側:ガラス風防のついた開放式コックピットだが、その下方内部には繭型与圧室がある。着席した操縦士は、金属製密閉与圧ヘルメットを被り、酸素吸入を受けている。
Lieutenant Colonel Mario Pezzi, seated in a pressure vessel built into the cockpit of the Caproni Ca.161bis. 22 October 1938: Lieutenant Colonel Mario Pezzi, Regia Aeronautica, set a Fédération Aéronautique Internationale (FAI) World Record for altitude when he flew an experimental Società Italiana Caproni Ca.161bis to an altitude of 17,083 meters (56,047 feet). Pezzi was awarded the Medaglia d’oro al Valore Aeronautico and promoted to the rank of colonel.
写真はThis Day in Aviation、Tag Archives: Mario Pezzi :22 October 1938引用。
1938年10月22日にイタリア空軍マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)中佐は、カプロニ(Caproni)Ca.161 bis 高高度機に搭乗した。コックピット操縦席は、開放式ガラス風防が付いているが、胴体には繭型密閉与圧コックピットがあった。操縦士はイギリスのブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機の操縦士のような与圧ヘルメットに与圧スーツの組み合わせではなく、与圧ヘルメットと固定式与圧コックピットの組み合わせで、16kmから17kmの高高度飛行に挑戦した。
民間機の旅客輸送でも軍用機の作戦飛行でも、航空機が高高度を巡行する場合、機内の気圧が低下すれば、高地脳浮腫のような高山病と同じ症状が出る。それを防ぐには、海面上に近い1気圧を維持できるようにすればよいが、実は、深海に潜水すると水圧がかかるのと同様に、高高度8000mで気圧が3分の1に低下するなかで、1気圧を保つような気密性を確保することは非常に困難である。3倍もの気圧差があれば、密閉するとしても圧力に耐えられるだけの強度が求められる。
しかし、潜水艇のように厚く頑丈な金属外殻で覆ったコックピット操縦席や客室キャビンは、重量が過大となり、飛行性能を低下させ、高緯度10kmまで上昇することはできなくなってしまう。軽量化が求められる航空機に大きな気圧差に耐えられるだけ堅固な気密室を設置するのは容易ではない。
航空機は、空気抵抗減少とエンジン稼働のバランスを取って、高度10kmでの巡行飛行が効率が良いが、高高度飛行では、滞在する人間に、酸素・気温・気圧が十分に維持されなくてはならないのである。酸素・気温の問題は、酸素吸入マスク、電熱服・暖房機によって1920年代には克服できたが、ユンカース(Junkers)Ju 49 でもコックピットの低気圧下での高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)への対処は、最も困難だった。
写真(右)1936年、イタリア、カプロニ(Caproni)Ca.161 bis 高高度機のコックピット操縦席の右側面:ガラス風防のついた開放式コックピットだが、そこに与圧式操縦席がある。そこで、操縦士は、縊れた繭式のヘルメットを被り、酸素吸入を受ける。
Descrizione Il pilota Pezzi sul Ca.161
Fonte www.tusciaromana.info
Data 1936
Autore Sconosciuto
Licenza d'uso
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写真は, Category: Caproni Ca.161 File:Caproni Ca.161 (scafandro) - 1.jpg引用。
1938年10月22日にイタリア空軍カプロニ(Caproni)Ca.161 bis 高高度機を操縦したマリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)中佐は、高度17,083 m (56,047 ft)という高高度世界記録を樹立した。ガラス風防のついた開放式コックピットのように見えるが、内部には繭型与圧室コックピットがある。そして、金属製与圧密閉ヘルメットを被った操縦士マリオ・ペッツィ(Mario Pezzi)中佐は、金属性の密閉式与圧ヘルメットを被り、繭型与圧コックピットに入って、高高度における10分の1の低気圧がら身を守った。
カプロニ(Caproni)Ca.161の諸元
出所: Italian Civil and Military Aircraft 1930-1945(1969)
乗員: 1名
全長: 8.25 m (27 ft 1 in)
全高: 3.50 m (11 ft 6 in)
翼幅: 14.25 m(46 ft 9 in)
翼面積: 35.5 m2 (382 ft2)
空虚重量: 1,205 kg (2,657 lb)
全備重量: 1,650 kg (3,638 lb)
発動機: ピアッジョ P.XI 空冷 14気筒星型エンジン、560 kW (750 hp) × 1
上昇限度: 17,083 m (56,047 ft)
上昇率: 10.3 m/s (2,018 ft/min)
エチオピアと伊太利
著者
池崎忠孝
掲載誌
大阪時事新報
Vol: 第134巻
Page: 206
出版年
1934-12-25/1934-12-26
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100333621
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
(一)
満洲事件が発生した当時、伊太利のファッショ政府も、やはり満洲における日本の政策を非難し、世間並に日本を罪あるものと宣告したことは、いま尚お吾人の記憶に新たなるところだ。その伊太利政府が、こんどはエチオピア政府から侵略者として連盟に訴えられたというのだから、いくら「虚偽」を原理とする国際関係の建前から言っても、その矛盾が余りに大き過ぎると申さなければならぬ。
伊太利がエチオピアを侵略せんとする異図を抱いたのは、なにも昨日や今日に始まったことではない。前世紀の末年、一八九六年三月におけるアドワの会戦(伊太利名アバ・ガリマの会戦)はエチオピアの北東エリトリアから、すすんで北部エチオピアの高原に侵入した伊太利軍が、キング・メネレクの率いるエチオピア軍のためにほとんど鏖殺の憂目を見た戦いだが、かかる恥曝しの戦いが起った原因も、一に伊太利の傍若無人な侵略行為に基くものだ。示後、伊太利は何とかしてエチオピアに対する自国の野望を遂げんがため、手を代え品を代えて画策を続けているが、こと多くは志と反し、最近における両国の関係は、まず表面親善、裏面敵視といったような状態の下に置かれていた。
多年海外植民地の獲得に苦慮している伊太利からいうと、自国の領土たるエリトレアおよびソマリーランドと境を接しているエチオピアは、まさに好個の獲物だと言ってよかろう。併し、現実の事態は、かならずしも伊太利にとって好都合なことばかりではない。伊太利の蚕食すべき好個の獲物だと言っていいエチオピアは、伊太利の領土と境を接していると同時に英仏両国の領土たるソマリーランド、ケンヤ植民地およびエヂプト・スダンとも境を接しているからエチオピアにおける伊太利の優越権を樹立するためには、勢い英仏両国の諒解を得なければならぬ。一九二五年十二月の英伊協定のごときも、畢竟かかる国際関係の一表現に過ぎない。
英伊協定の内容は、互に相手□のエチオピアにおける自由行動を承認したものだ。満洲事件を裁決する場合に用いられた国際連盟の指導原理によると、英伊協定の内容そのものが、すでに言語道断なものではないか。生粋の国際主義者たるマダリアガが、それに対して露骨な非難の言を浴びせかけたというのも、まことに無理からんことだ(続く)
このたび軍隊衝突事件が起ったワルワルという土地はエチオピアと伊太利領ソマリーランドとの国境から、およそ五十哩ほどエチオピアの方に這入ったところだ。事件の悉しい内容は判りかねるが、諸種の報道を綜合するとどうも曲は伊太利側にあるらしい。
ヘルイ外相の声明によると、本月五日英埃[埃及:エジプト]国境劃定委員の一行がエチオピアの軍隊に護衛されて、このたびの事件が起った、ワルワル地方の視察に赴くや、そこに駐屯していた伊太利軍は、野砲、飛行機、戦車などを用いて、突如エチオピア軍の上に猛撃を加え、ために後者は多大の死傷者を生じたというのだ。ヘルイ外相の声明中特に吾人の注意を要するのは、前記のワルワル地方が、依然としてエチオピア領であるに拘らず、数年前から伊太利人が移住を開始し、それとともに伊太利軍の武力侵略が始まったということだ。
伊太利側の説明によると、自国軍とエチオピア軍との衝突は、明かにエチオピア軍の挑発に因るものであり、その衝突によって自国軍は多大の損害を蒙ったから、当然の責任者たるエチオピア政府はまず自国軍の蒙った損害を賠償し、かねて自国政府に対する謝罪の意を表すべしというのだ。公平な第三者ともいうべき英国側の報道によって見ても、その何れが真の挑発者であるかは判然しないが事件の発生地たるワルワルが、明かにエチオピアの領土内にある以上、事件に対する真の責任者はどうしても伊太利だと言いたくなるではないか。
タイムス社の編纂にかかる世界地図を見ても、前記のワルワルはやはりエチオピアの領土内にある両国の国境は、いまだ判然しないところが多いと言って、一般の世界常識が、ワルワルをもって明かにエチオピア領と認めているのだから、「暴力による占有が存在するからといって、ワルワルに対するエチオピアの主権は動かない」というヘルイ外相の声明は、大いに肯くべき節があると申さなければならぬ。
現在のところでは、エチオピアの連盟提訴に対して、伊太利は極力反対しているらしい。満洲事変の発生当時、支那の提訴に対して非常に好意的だった国際連盟は、このたびのエチオピアの提訴に対して如何なる態度を執るか。公明正大をもって立前とする国際連盟は、支那とエチオピア、日本と伊太利、それぞれの場合において、それぞれ変った取扱いをするわけにもゆくまい。吾人が興味をもって観んとするところは、一にその点にあるのだ。(完)(
エチオピアと伊太利
著者
池崎忠孝引用終わり)
飛行機の−命数を制限 : 伊国で実施
国民新聞
Vol: 第 3巻
Page: 59
出版年
1934-02-08
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100075828
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
伊太利航空省では、危険防止の見地から最近政府並に個人所有(商用機)の飛行機に対し命数を定め命数以上の機に対しては使用を厳禁した、即ち
金属製(水上共)三、五〇〇時間
非金属製水上機 一、五〇〇時間
尚お大規模の試験を経過したるものに対しては右命数以外なお一割の増加を認めている
伊太利から柞蚕糸を注文 : 安東へ信用店の推薦依頼
掲載誌
京城日報
Vol: 第 22巻
Page: 197
出版年
1935-08-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100104799
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
欧米に直輸出は最初
【安東県】安東三大特産の一つ柞蚕糸[さくさんし]がほしいとはるばる伊太利からの御注文だ、伊太利ミラノ市貿易商レスナッチ商会から実業部にあて柞蚕糸の貿易を開始したいから信用の出来る有力な貴国柞蚕商を推薦してほしいと依質して来たので実業部では早速柞蚕の本場である安東へむけこれを移牒し十四日右依頼状が安東省公署実業庁に送られて来た、実業庁ではこの遠来の珍客のため斡旋の労をとることとなり同日全満柞蚕糸商連合会長近藤松五郎氏にその旨を伝え、商人の詮衡をなすこととなった、安東の柞蚕糸が欧米から直接注文になったのは今回が初めてでそれだけ真価が発揮されるものとみられ業界の注目をひいている
伊太利の経済自給
掲載誌
満州日日新聞
満州日報
Vol: 第 22巻
Page: 161
出版年
1937-06-27
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100180711
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
国際連盟に報復
イタリー首相ムッソリーニ氏は五月十五日ローマにおいて開かれた各種組合全国大会の席上イタリーの経済自給自足主義確立について所信を披瀝した、この演説はイタリーの経済独立の立場につき確固たる信念を世界に表明したもので注目に値する
イタリーが経済自給を決意したのは僅か両三年前のことである実際には一九三五年十一月十八日国際連盟がイタリーに対して経済封鎖を宣言し世界の半分がこの制裁に参加して以来のことである、今日イタリーの重要都市においては市役所の玄関に連盟の経済制裁を永久に記憶するため大理石の碑が刻まれイタリー国民の心に世界諸国の経済圧迫を銘記せしめて臥新嘗胆を心がけしめておる
自給実行の範囲
しかるにムッソリーニ首相は爾来全力を挙げてイタリー経済の自給自足計画に突進し本年五月十五日の組合大会においても再びその固き決意を繰返し激励の言葉を述べておる、同時にイタリーの経済自給は決して世界平和を脅かすものではなく実際またイタリーとしても文字通りの全面的な経済独立経済自給は不可能であることをムッソリーニ首相は認めておる、ただ出来る範囲において経済の独立性を押し拡めたいというのがその真意である、就中国防に関係ある産業に於いては自給自足主義を特に強化したいと言うのである
鉄鉱石と金属類
まず最初にとりかかったのは穀物の自給自足である。即ち農産物の収穫を増加すると共にその貯蔵の制度を創設した、現在に於ては食料に関する限り自給自足は略実現し得るに至った。
イタリー国産の諸種の纎維、麻黄麻などについても生産を出来るだけ増加せしめまた人絹及び人造纎維の生産獎励にも甚しく力を注いでおる、次に重要な工業原料の自給計画如何というにムッソリーニ首相は相当な自信を持っておる、一、二の例を挙げるに鉄鉱石は一九三五に五十五万トンの生産であったが一九三六年には一躍九十万トンに増加し一九三七年には百十万トンに達する見積りである、次ぎに黄鉄鉱の生産はイタリーに於いて約九十万トンでこれは世界産額の十分の一に当り多少輸出出来る位である、心細いのは銅並びにマンガン砿の生産でこれらは一寸望みがない、イタリー側の統計によるとニッケル、鉛亜鉛、マグネシウム及びアルミニウムの原料たるバウクシットは相当豊富な埋蔵量があると言われる、殊にバウクシットの如きは輸出も可能である、アルミニウムの生産高は現在年額二万トンであるがこれを二倍に増加することは困難でない
国営の石炭会社
金国類の自給に比し一層の熱意を以て当っているのは石炭の供給である、イタリーは年額凡そ一千二百万トンの石炭を消費する、これに対して本年の国産石炭は僅かに百万トンに過ぎぬ予想である、五月十五日のムッソリーニ首相の演説によるとこの石炭産額を四百万トンに増加せしめたいと言っておる、之が実現の暁にはイタリーは石炭消費量の約三分の一を国産によって賄うことが出来る、しかし乍ら石炭消費量全部を国産によらしむることは到底不可能である、イタリーの石炭出産地は現在その八割まで北部イストリー地方である、イタリーの石炭開発についてはアーチェンダ・カルボーネ・イタリアーナなる会社が最も力を入れている、これは二年前に国庫の出資によって設立されたもので前記のイストリー地方の石炭産額の如きも同会社の活躍により一九三三年に於ける二十六万トンから一九二六年には七十五万トンに激増した
石油の自給可能
イタリーは外国から巨額の石炭を年年購入しておる、その額は十億リラに上っておる、これはイタリー貿易輸入総額の二割近くを占める、これに亜いで石油類の輸入に毎年約六億リラを外国に支払っておる、イタリーの石油類消費高は年額約二百二十五万トンでその内六十五万トンが揮発油、その他が瓦斯油、原油、機械油である、ムッソリーニ首相の言明によればイタリーは一九三八年末までにその必要とする石油類一切を自国の勢力範囲に於いて生産出来ると言っておる、石油の自給についてはイタリーは相当古くより力を用い既に一九二六年AGIPなる国営石油会社を設立しておる、なおイタリーは英国系の石油会社と契約を結びイラク国の石油を輸入しておる
外国の利権獲得
イタリーの石油自給計画について注目すべきは最近アルバニア国の油田を手に入れたことである、アルバニアというのはアドリアチック海を挾んでイタリー南部の対岸にある小国であるが、同国内においてイタリーの国有鉄道が十六万四千ヘクターの土地を購い石油採掘を始めておる、その場所はデボーリという処であるが同地からアルバニアの海港バローナまで七十四キロメーターの鉄管を敷設しこれを通じて油田より直接タンク船に積み込む設備をしておる
イタリーは国防上の見地から国内においても勿論油田試掘をやっており一九三六年には七十六ヶ所の採掘試験をやったが満足なる結果は得られなかった如くである、イタリーの国内の試掘はいずれも地下二千メーターの深さまで行ったと伝えられる
東アフリカのイタリー植民地においても目下盛に油田試掘を行っておるが、その成績については未だ何ら発表されていない
バスに木炭瓦斯
外国石油の輸入を喰止め、これにより対外支払の減少を図るためにイタリーはなお次の如き方法を講じておる
一、バスその他作業用自動車に木炭ガスを燃料として用ひること
二、揮発油にアルコールを混入使用すること
三、不良質の石炭から液化法により石油を採ること
就中液化法については非常に力を入れ一九三六年二月以来国立会社ANICを設立して新研究の方法により石油及び揮発油を人為的に採ることを開始した、その手初めとして最近バーリ、リボルノーの両地において最新式液化工場を完成した
夢は実現するか
以上の如くムッソリーニ首相はイタリーの経済自給について懸命の努力を続け当然の事乍らその方策について科学者と技術者とが極めて密接な協調を保って働いている、イタリーは殆ど有らゆる種類の原料に欠乏しておる、かかる国が経済自給を夢見るなどは甚だしい冒険と一般に考えられるのであるが、しかし指導者の熱意と一般国民の努力とを以てすれば、エチオピア併合の今日においては外国依存経済からある程度までの独立が可能となることは必ずしも夢ではないであろう(伊太利の経済自給引用終わり)
6.ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機
写真(上)1936年以降、イギリス、ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機(K4879):
English: Pictured is the Bristol Type 138 High Altitude Monoplane, K4879. Completed in early 1936, the aircraft was routinely capable of achieving 50,000ft and could also carry an observer when necessary.
The Bristol Type 138 High Altitude Monoplane was a British high-altitude research aircraft developed and produced by the Bristol Aeroplane Company during the 1930s. It holds the distinction of setting nine separate altitude world records, the ultimate of these happened during a 2¼-hour flight flown by Flight Lieutenant M.J. Adam, in which he achieved a record altitude, which was later homologated by the Fédération Aéronautique Internationale as having attained a maximum altitude of 53,937 ft (16,440 m).
Organization: RAF
Object Name: H-1387
Category: MOD
Supplemental Categories: Aircraft, Equipment, People, Historic
Keywords: K4879, Royal Aircraft Factory S.E.5, Historic Aircraft, RAF, Royal Air Force, Historic, Equipment, Aircraft, B&W, Black and White, Monoplane, High Altitude, Bristol Type 138, Research Aircraft, Inter War Years, RAF 100
Country: UK
Date 14 February 2018, 15:27:00
Metadata source: www.defenceimagery.mod.uk
Author Air Historical Branch-RAF
写真は, ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv File:100 years of the RAF MOD 45163649.jpg引用。
イギリスのブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機は、ブリストル・ペガサス(Pegasus)P.E.6S 空冷星型9気筒エンジン(排気量28 L) にスーパーチャージャー (supercharger:機械式過給機)を設置し低気圧、低密度の酸素でエンジンを駆動し、操縦士は与圧飛行服と与圧ヘルメットを着用して高度50,000 ft (15,240 m)での飛行を目指した。
イギリス航空省は、スペック2/34で高高度50000フィート(15240m)に達成可能な高高度実験機の使用を出し、ブリストル社は ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機でそれに答えた。ブリストル 138(Bristol Type 138は、木製構造、固定脚で、発動機は過給機(スーパーチャージャー)付きのブリストル・ペガサス(Pegasus)エンジンを装備し、全幅66フィート(20.1m)の高アスペクト比の長大な主翼とした。初飛行は、1936年5月11日、ウィンズ大尉の操縦で行われた。
写真(上)1938年6月15日、イギリス、イギリス空軍ブリストル 138A(Bristol 138A)高高度試作機:1936年9月28日、ブリストル・ペガサス(Pegasus)P.E.6S 空冷星型9気筒エンジン(排気量28 L) 高度51,000 ft (15,440 m)に到達。
Čeština: Bristol 138A a Walter Pegas Spec. s kompresorem
Date
15 June 1938
Source
Letecké vzduchem chlazené motory Walter. Bulletin Walter. 1938, Katalog, p. 60. , Publisher: Akciová společnost Walter, továrna na automobily a letecké motory, Praha XVII - Jinonice in Státní oblastní archiv v Praze (State Regional Archives in Prague), Archivní 4, 149 00 Praha 4, Fond Walter, a.s., No. NAD 1914
写真はWikimedia Commons,Category:Bristol 138
File:Bristol 138A a Walter Pegas Spec. s kompresorem.jpg引用。
1936年9月28日の高高度飛行は、イギリス空軍F.スワイン飛行隊長の操縦で、高度49967フィート(15230m)の高高度世界新記録を樹立した。これ以前の世界記録はフランスによる48698フィート(14843m)だったので、イギリスが高高度世界記録を更新したのである。しかし、このブリストル 138(Bristol Type 138)による高高度世界記録は、1937年5月にイタリアのカプロニ(Caproni)Ca.161複葉機が1938年10月22日に高度15,655 m (51,361 ft)まで到達して記録を更新した。
イタリアの世界記録を抜くために、イギリスは再度の挑戦を試みた。ブリストル 138(Bristol Type 138)は、軽量化するために、降着装置の主輪を小型化しブレーキも撤去した。プロペラも高高度に適した固定ピッチとし、ペガサス・エンジンをオーバーホールして再調整した。1937年6月30日、イギリス空軍J.アダム中尉の操縦で、ロンドン西60kmフェアボーン飛行場を離陸し、ロンドン西120kmイギリス空軍ネザーエイヴォン(Netheravon)基地に2時間15分後に着陸したが、その間に高度53937フィート(16440m)に達して高高度世界記録を塗り替えた。
写真(右)1936年以降、イギリス、ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機(K4879)に乗り込む与圧スーツを着用するアダム(M.J. Adam)中尉:密閉式ガラス風防のコックピットだが、与圧室ではないために、高高度飛行中の操縦士は、与圧飛行服と密閉式ヘルメットを着用しなければならなかった。
Preparing for Flight: The Bristol Type 138 High Altitude Monoplane was a British high-altitude research aircraft developed and produced by the Bristol Aeroplane Company during the 1930s. It holds the distinction of setting nine separate altitude world records, the ultimate of these occurring on 30 June 1937, during a 2¼-hour flight flown by Flight Lieutenant M.J. Adam, in which he achieved a record altitude, which was later approved by the Fédération Aéronautique Internationale as having attained a maximum altitude of 53,937 ft (16,440 m).
写真はDESTINATION'S JOURNEY
Travel Blog – About the Journey Not Just the Destination, Bristol Type 138 High Altitude Monoplane 引用。
写真(右)1936年以降、イギリス、ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機(K4879)に乗り込む与圧スーツを着用するアダム(M.J. Adam)中尉:密閉式ガラス風防のコックピットだが、与圧室ではないために、高高度飛行中の操縦士は、与圧飛行服と密閉式ヘルメットを着用し 53,937 ft (16,440 m)まで上昇した。これは高高度飛行の世界記録だった。
Preparing for Flight:
写真はDESTINATION'S JOURNEY
Travel Blog – About the Journey Not Just the Destination, Bristol Type 138 High Altitude Monoplane 引用。
ブリストル 138(Bristol Type 138)の操縦者J.アダム中尉は、与圧スーツを着用し、酸素吸入式の密閉式曲面ガラス付きヘルメットを被っていたが、高高度でコックピット・キャノーピーがひび割れは損したが、与圧スーツのために大事はなかった。
しかし、1937年5月に高高度世界記録を立てたイタリアは、カプロニ(Caproni)Ca.161を改良して再度、高度世界記録に挑んだ。
カプロニ(Caproni)Ca.161bis機複葉機は、全長27フィ−ト3/4インチ、全幅46フィート9インチ、主翼面積382平方フィート(35.49m2)、全高11フィート5・3/4インチ、ピアッジオ(Piaggio)P.XI R.C.100空冷星型14気筒エンジン700hpを搭載し、1938年10月22日に再度の挑戦をなし高度17,083 m (56,047 ft)まで到達して高高度世界記録を再び更新してイタリアの技術力を見せつけた。
写真(右)1936年以降、イギリス、飛行中のブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機(K4879):密閉式ガラス風防のコックピットだが、与圧室ではないために、高高度飛行中の操縦士は、与圧飛行服と与圧ヘルメットを着用しなければならなかった。
English: Original photograph taken by an employee of the British government. Image found on:http://www.unrealaircraft.com/gravity/pages/bristol_138.php
写真は, Category:Bristol 138 File:Bristol 138 1.jpeg引用。
ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機(K4879)は、フランス、イタリアと競って、高高度世界記録を目指した機体であるが、実際には、操縦士の与圧スーツ、密閉式酸素吸入ヘルメット、エンジンの排気タービンなど過給機の性能が高高度記録の達成に重要な条件だった。しかしう、その後の航空界の状況を見れば、戦闘機・爆撃機・偵察機など軍用機の高高度飛行であっても、民間旅客機の高高度飛行であっても、与圧コックピット、与圧キャビンの開発が重要であった。その意味で、1930年代のユンカースJu49高高度機、ロッキードXC-39高高度機とそれに続くロッキード305輸送機、B-29爆撃機のような完全な与圧室装備の高高度機が重要な位置を占めているといえる。
⇒写真集Album:ブリストル 138(Bristol Type 138)高高度実験機を見る。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
⇒フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
⇒シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
⇒ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
⇒ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
⇒ボーイング(Boeing)247旅客機
⇒ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
⇒ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
⇒ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
⇒アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
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