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◆ユンカース(Junkers)K 30偵察爆撃機(R42)
写真(上)1926-1927年,沖合で停泊するソ連軍用のK30(R42)水上偵察爆撃機
:ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様"Kriegsflugzeug"で、胴体上部に銃座が2カ所設けら、旋回機関銃を装備できる。長距離飛行できるように機首と主翼にはユンカースL2液冷エンジンを合計3基装備している。ソ連軍はK30偵察爆撃機を27機採用した。
Title: Junkers G 31 Caption: Junkers K 30 (R42) ab 1926/27 in Betrieb
Dating: 1926-1927
Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert)
Categories: Reportage photography, Junkers K 30, Hydroplanes, View Collection, 1921-1930, Unknown, Propeller-driven aircraft
Record Name: Ans_05338-02-152-AL-FL.
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-152-AL-FL引用。

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。

1.ユンカース(Junkers)K30爆撃機/G24軍用輸出仕様

写真(右)1931年,スウェーデン空軍のユンカース(Junkers)G. 23/K. 30輸送機試作機:大出力のエンジンでは、軍用機に転用可能と判断され、ベルサイユ条約違反とされてしまうため、小型のエンジンを搭載するのがユンカースの方針だった。しかし、実際には、ドイツ以外の国に、ベルサイユ条約の軍備制限条項は関係がない。そこで、スウェーデンは、民間機のユンカースG23輸送機を堂々と軍用型K30として採用した。波板式の金属外板は、強度を保つのに役に立った。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 46169051 - Catalog: 16_007381 - Title: Junkers G24/K30 prototype Nowarra Collection - Filename:16_007381.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives・ PictionID:46169051引用。


ヨーロッパでは第一大戦の戦火が癒えた1920年代から、民間航空輸送が盛んになり、航空便・新聞・雑誌などメディア文書の発送、旅客・貨物輸送が興隆した。こうした中で、ユンカースは成功作でベストセラーになった前作ユンカースF-13輸送機をベースに、より大型化したユンカース(Junkers)G. 24を開発した。

設計主務はエルンスト・ツィンデル(Ernst Zindel)で、試作当初は単発機だった。当時の敗戦国ドイツには、ベルサイユ条約(Treaty of Versailles)条約の制約があり、空軍力の保有は禁止、航空兵力につながる飛行機開発も制限された。そこで、低出力のエンジンしか搭載できないが、小型機では、限界があるため、単発大型機の開発が企図された。ユンカース(Junkers)G. 24三発旅客機も、単発機として開発されたのである。

写真(右)1927年、スウェーデン、マルメ、ユンカース(Junkers)G23W水上輸送機 "Severa":1924年9月19日に初飛行したG24輸送機に、双フロートを装備して水上機とした。機体は、ユンカースF.13以来の波板状の機体外板が採用されている。
Flygplan på vattnet, Junkers G 23 W "Severa".
Creation date: 1927 - 1927 Publisher: Malmö museer EH 002001
Institution: Malmö museer Provider: Swedish Open Cultural Heritage | K-samsök
Providing country: Sweden First published in Europeana: 2019-05-20
Location: Kingdom of Sweden 62.0° North, 15.0° East Sverige 60.37888° North, 10.75128° East Malmö, Limhamn
写真はEuropeana,Malmö museer ・EH 002000引用。


写真(右)1927年、スウェーデン、マルメ、ユンカース(Junkers)G23W水上輸送機 "Severa":1925年からユンカースで生産開始した三発エンジン全金属製低翼単葉旅客機G24に双フロートを装備して水上機とした。G31は双尾翼式なので、単尾翼のG23との区別は容易である。

Flygplan på vattnet, Junkers G 23 W "Severa".
Creation date: 1927 - 1927 Publisher: Malmö museer
EH 002001 Institution: Malmö museer Provider: Swedish Open Cultural Heritage | K-samsök
Providing country: Sweden First published in Europeana: 2019-05-20
Dataset: 91672_ Ag_SE_ SwedishNational Heritage_ malmo_foto Malmö, Limhamn
写真はEuropeana,Malmö museer ・EH 002001 引用。


ユンカース(Junkers)G. 23W水上輸送機は、大出力のエンジンを搭載すると、軍用機に転用可能と判断され、ベルサイユ条約違反とされてしまう恐れがあった。そこで、小出力のエンジンを搭載したのがユンカースG24輸送機だった。しかし、ドイツ以外の国に、ベルサイユ条約の軍備制限条項は関係がない。そこで、スウェーデンもソビエト連邦も、民間限定とされたドイツのユンカース(Junkers)G. 23輸送機を堂々と軍用型として制式した。軍用仕様なので、機関銃座や爆弾懸架装置を備えているのは当然だった。

写真(右):1927年、垂直尾翼方向舵に国旗を描いたスウェーデン軍ユンカース(Junkers)K30(R42)偵察爆撃機(登録コード:S-AABF):コックピット後上方、胴体後上方、主翼下面の3カ所に機関銃を掃除した銃座が設けられている。ドイツのユンカース(Junkers)G23輸送機は、ユンカース Junkers L2液冷6気筒エンジン(145 kW)3基を装備した民間輸送機だったが、これを軍用仕様に改造したのがユンカースK30爆撃機である。
写真はThe Hugo Junkers Homepage・ Junkers / AB Flygindustri K30引用。


 1926年、ユンカース社はソビエト軍のためにユンカース(Junkers)G. 23三発輸送機の軍用仕様ユンカース(Junkers)K30を開発し、ソ連に23機を輸出した。また、同様の機体をスウェーデン軍にも販売した。さらに、実現しなかったが、ユンカース(Junkers)G. 23三発輸送機の単発使用ユンカースF24輸送機の軍用仕様K30doの開発も手掛けている。

写真(右)1927年,垂直尾翼方向舵に国旗を描いたスウェーデン軍ユンカース(Junkers)K30偵察爆撃機(登録コード:S-AABF):ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様。ソ連軍もG24輸送機の軍用仕様であるK30を水上偵察爆撃機として27機採用した。
Title: Junkers K30/R42 Caption: Junkers K30/R42, S-AABF, (militärische Variante der G24. K30 und R42 praktisch baugleich. R42 für den Export nach Russland bestimmt) (S-AABF AB Flygindustri, Feb. 1927. April 1928 as CCCP-991 to Russia). (Flugzeug wurde in Schweden für Vorführungen eingesetzt)
Dating: ca. 1927 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Photography : paper print, mounted on cardboard
Colour: black and white Orientation: Horizontal Format: Other size Special Size: ohne Angabe
Categories: View Collection, Unknown, Reportage photography, Junkers, Propeller-driven aircraft Record Name: Ans_05338-02-297-AL-FL.
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-297-AL-FL 引用。


ユンカース(Junkers)G. 24は、大型化し、搭載量が増えたため、単発では出力不足であり、かといって強力なエンジンの搭載は、ベルサイユ条約に抵触する危険があるため、低出力エンジンを3基搭載することになった。

 他方、ドイツ以外の国では、このようなエンジン出力の制約は課されないために、輸出向けには、単発機でより強力なエンジン、たとえば450馬力のネーピア(Napier)ライオン(Lion)エンジン1基を機首にに装備するタイプである。 しかし、ドイツを監視していた連合国軍事管理委員会(Military Inter-Allied Commission of Control)は、ユンカース(Junkers)G. 24輸送機は、軍用に転用可能であると警告した。

写真(右)1931年,スウェーデン空軍のユンカース(Junkers)G.23水上偵察爆撃機(S-505):胴体後上方に機銃座が備えられ、胴体中央下面には爆弾懸架装置らしいものが見える。大
Franz Schell Album Image PictionID:56241260 - Catalog: AL253_000103.tif - Title: Junkers G-23 S-505 Swedish Air Force c1931 - Filename: AL253_000103.tif - Image from Album 253 which belonged to Franz Schell
Ray Wagner Collection Image PictionID: 46169051 - Catalog:16_007381 - Title: Junkers G24/K30 prototype Nowarra Collection - Filename:16_007381.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives・ PictionID:46169051引用。


ドイツのユンカース(Junkers)G. 23三発旅客機の初飛行は1924年9月19日でエンジン3基搭載で、波板式の機体外板は、軽量で強度を保つ工夫であり、Ju-52輸送機にまで引き継がれることになる。降着装置は固定式でこれもJu-52輸送機に引き継がれる。ドイツ・ルフトハンザ航空にユンカース(Junkers)G. 23三発旅客機が採用され民間航路に就航したのは1925年以降で、1929年までに72機が生産された。チリ、ソビエト連邦(ロシア)、スペイン、ユーゴスラビアでは、軍用機ユンカースK30として採用された。

写真(右)1926年以降、ユンカース(Junker)G24輸送機の軍用仕様のユンカース(Junker)K30 爆撃機/輸送機 :ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様"Kriegsflugzeug"として開発されたが、実際にはヴェルサイユ条約の軍事制限条項を順守して、軍用の装備はしていない。購入した各国で、軍用に改造することを前提にユンカースは生産、輸出する計画だった。 スウェーデン南部、マルメのユンカース・リンハーム工場(Junkers flygplansfabrik i Limhamn )でR42として1926年から生産された。ソ連空軍が購入した機体は、Ju-G1と呼ばれている。発動機は、ユンカースL5液冷エンジン310馬力3基装備、 プロペラは2翅。生産機数30機。
Junkers K30 Nowarra photo PictionID:43099315 - Title:Junkers K30 Nowarra photo - Catalog:16_003739 - Filename:16_003739.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives登録・"Catalog #: 01_00081553"引用。


英国海軍軽巡 武器解禁要請 : エ[Ethiopia]国から各国へ通牒
大阪朝日新聞 Vol: 第 37巻 Page: 157 出版年 1935-07-12

【アディス・アベバ十日発連合】[イタリア戦最中の]エチオピヤ政府[Ethiopian Empire]は欧洲各国政府の武器輸出禁止に直面し新鋭兵器の充実に重大支障を来すに至ったが戦機切迫とともに十日英国公使以下アディス・アベバ駐剳仏国、ベルギー、チェッコスロヴァキヤ、スウェーデン、デンマーク各国外交代表に同文通牒を手交、窮状を訴えて輸出解禁方を要請した(武器解禁要請 : エ[Ethiopia]国から各国へ通牒


写真(右)1929年3月18日,氷結滑走路上のフィンランド軍のユンカース(Junkers) K.30 (登録コード: SE-ACA) v)水上偵察爆撃機
:ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様"Kriegsflugzeug"。また、長距離飛行できるように機首と主翼にはユンカースL2液冷エンジンを合計3基装備している。
Junkers K.30 vierailulla Helsingissä maaliskuussa 1929 Junkers K.30 (rekisterissä SE-ACA) vierailulla Suomessa 18.-23.3.1929 järjestetyn Suomen Ilma- ja kaasupuolustusviikon aikana. Aero-yhtiön palkkalistoilla ollut lentäjä Wäinö Bremer sai toimitusjohtaja, konsuli Lucanderin suostumuksella työskennellä 1930-luvun vaihteessa ruotsalaisen AB Flygindustri (ABA) -yhtiön koelentäjänä. Yhtiö valmisti saksalaisia Junkers-koneita ja konetyyppien esittely ympäri Eurooppaa (Turkkia myöten) kuului Bremerin työhön. Koneen toi Suomeen Bremer. K 30 oli Junkers G 24:n sotilasversio konekivääritorneilla. Kuva on todennäköisesti otettu 18.3.1929, koneen saapumispäivänä. Helsingin Sanomat (HS 19.3.1929, s. 4) kertoo, että kone lähestyi rantaa keskimmäinen moottori pysäytettynä lentosatamaan - ilmeisesti Katajanokalle.
LISÄÄ Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Suomen Ilmailumuseo Kokoelma Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar Tunniste SIM VK 533:72 Mitat Vedos Valmistus 1929-03-18 Helsinki
写真は,Finna Fl・Ans_05338-02-152-AL-FL引用。


Rodolfo Graziani Italian General 殷賑を告げる世界の兵器貿易 : 本社経済調査係作成図表
大阪毎日新聞 Vol: 第 38巻 Page: 148 出版年 1935-10-28

世界の兵器貿易は、本年に這入ってさらに旺盛となり、殊に航空機の需要大である。本年初期における南米グラン・チャコ、最近の[伊エ紛争[Italo-Ethiopian War]が列国兵器輸出の増大を喚起したのである。ベルリン景気研究所週報によると、世界の兵器輸出額は、一九三三年に二億千四百万マーク、三四年二億三千九百万マーク三五年の推計額は三億四百万マークに上っている。

世界貿易が、価額において昨年と殆ど変らず、量において二パーセントの増加を示しているに対し、兵器貿易は量においても二十九パーセント増大していることからみて兵器貿易の旺盛振が看取される。世界の総輸出商品中兵器の占むる部分は一九二九年に比して二倍以上に飛躍した。一九三三年の価格水準は二九年に比し変化はない。この事からして本年の軍需品の平均輸出価額は幾分低下した。しかし総ての世界貿易品の価格が四十三パーセント(一九二九年帰順)であるに対し、軍需品は八十六パーセントを示しなお相対的に高位にある。兵器は一九二九年以来、他商品に比し約二倍の価格を保っている。

重なる兵器主要国を挙げると(単位百万ライヒス・マーク) [図表あり 省略] であって、本年において昨年より銃砲弾薬輸出額の減少せる国は、フランス、イタリー、スウェーデン、米国、日本で、チェッコスロヴァキヤ、英国、ベルギーにおいては非常に増大し、特に英国の軍艦輸出額は三倍以上に上っている。 英国海軍軽巡

航空機の輸出は殆ど総ての重なる兵器輸出国においても増加しているが、フランスが殊に顕著で約二倍に増加している。

イタリーは前述の如く、兵器輸出国であるが、輸出逐年減退し、輸入は一九三三年八百四十万リラ、三四年一千百万リラ、三五年二千五百万リラと次第に増加している。

[図表(列国の兵器輸出 自一九三二年至三五年)あり 省略] [図表(兵器の世界貿易(単位百万ライヒスマルク))あり 省略] [図表(輸出量)あり 省略](殷賑を告げる世界の兵器貿易 : 本社経済調査係作成図表引用終わり)

写真(右)1926年以降、ソ連空軍の採用したユンカース(Junker)K30 水上偵察爆撃機 :ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様"Kriegsflugzeug"として開発されたが、実際にはヴェルサイユ条約の軍事制限条項を順守して、軍用の装備はしていない。購入した各国で、軍用に改造することを前提にユンカースは生産、輸出する計画だった。ソ連空軍が購入した機体は、Ju-G1とも呼ばれている。発動機は、ユンカースL5液冷エンジン310馬力3基装備、 プロペラは2翅。生産機数30機。
Junkers, K.30 Catalog #: 01_00081551 Title: Junkers, K.30 Corporation Name: Junkers Additional Information: Germany Designation: K.30 Tags: Junkers, K.30 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archives登録・"Catalog #: 01_00081551"引用。


写真(右)1926-1927年,クレーンで吊り下げられたソ連軍用のK30(R42)水上偵察爆撃機:ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様"Kriegsflugzeug"で、胴体上部に銃座が2カ所設けら、旋回機関銃を装備できる。また、長距離飛行できるように機首と主翼にはユンカースL2液冷エンジンを合計3基装備している。ユンカースK30偵察爆撃機は30機生産されたが、そのうち27機はソ連が購入した。
Title: Junkers G 31 Caption: Junkers K 30 (R42) ab 1926/27 in Betrieb
Dating: 1926-1927
Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert)
Categories: Reportage photography, Junkers K 30, Hydroplanes, View Collection, 1921-1930, Unknown, Propeller-driven aircraft
Record Name: Ans_05338-02-150-AL-FL .
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-150-AL-FL引用。


満洲鉄道特別急行『あじあ』 ソ連・満洲国承認 : 日ソ衝突の禍根減少 仮調印の重大意義
大阪時事新報 Vol: 第136巻 Page: 146 出版年 1935-03-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100333088

北鉄[北満鉄道買収]交渉は十一日仮調印を見るに至ったがこの日満両国に対する意義はまことに重大なものがある即ちソ連邦政府が満洲国を相手国に国際協定に仮調印を行ったのは、ソ連邦の満洲国承認を意味すると同時に同[東清鉄道(Chinese Eastern Railway)讓渡]協定は満洲国が日本以外の外国との間に最初に締結した国際協定として注目に値する

而して北鉄[東清鉄道]売却は満洲国領内よりソ連の勢力が全面的に退却することを意味するものであってソ連邦の満洲国の承認と共に同国の独立及び統一完成に資する所が大である次で日本に対してもソ連勢力の全面的退却は日ソ衝突の禍根を減少せしめると共に日満関係を一層緊密化するものでこの外北鉄回収に伴う全満洲鉄道の経営の一元化これに伴う日満交通革命の齎す日満間の経済的緊密化更に軍事的便宜、国防線の強化及び譲渡価格に依る物資購入等その政治経済外交軍事等諸関係に及ぼす影響は重大なるものと云わざるを得ぬ(ソ連・満洲国承認 : 日ソ衝突の禍根減少 仮調印の重大意義引用終わり)

写真(右)1926-1927年,海面を滑走、離水したソ連軍用のK30(R42)水上偵察爆撃機:ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様"Kriegsflugzeug"。また、長距離飛行できるように機首と主翼にはユンカースL2液冷エンジンを合計3基装備している。ソ連軍はユンカースK30偵察爆撃機を27機採用した。
Title: Junkers G 31 Caption: Junkers K 30 (R42) ab 1926/27 in Betrieb
Dating: 1926-1927
Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert)
Categories: Reportage photography, Junkers K 30, Hydroplanes, View Collection, 1921-1930, Unknown, Propeller-driven aircraft
Record Name: Ans_05338-02-152-AL-FL .
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-152-AL-FL引用。


ユンカース(Junkers)G. 24は、大型化し、搭載量が増えたため、単発では出力不足であり、かといって強力なエンジンの搭載は、ベルサイユ条約に抵触する危険があるため、低出力エンジンを3基搭載することになった。

 他方、ドイツ以外の国では、このようなエンジン出力の制約は課されないために、輸出向けには、単発機でより強力なエンジン、たとえば450馬力のネーピア(Napier)ライオン(Lion)エンジン1基を機首にに装備するタイプである。 しかし、ドイツを監視していた連合国軍事管理委員会(Military Inter-Allied Commission of Control)は、ユンカース(Junkers)G. 24輸送機は、軍用に転用可能であると警告した。

写真(右)1926-1927年,海面を滑走、離水したソ連軍用のK30(R42)水上偵察爆撃機:ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様。また、長距離飛行できるように機首と主翼にはユンカースL2液冷エンジンを合計3基装備している。ソ連軍はK30偵察爆撃機を27機採用した。
Title: Junkers G 31 Caption: Junkers K 30 (R42) ab 1926/27 in Betrieb
Dating: 1926-1927
Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert)
Categories: Reportage photography, Junkers K 30, Hydroplanes, View Collection, 1921-1930, Unknown, Propeller-driven aircraft Record Name: Ans_05338-02-149-AL-FL .
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-149-AL-FL引用。


ユンカース(Junkers)G. 23W水上輸送機は、大出力のエンジンを搭載すると、軍用機に転用可能と判断され、ベルサイユ条約違反とされてしまう恐れがあった。そこで、小出力のエンジンを搭載したのがユンカースG24輸送機だった。しかし、ドイツ以外の国に、ベルサイユ条約の軍備制限条項は関係がない。そこで、スウェーデンもソビエト連邦も、民間限定とされたドイツのユンカース(Junkers)G. 23輸送機を堂々と軍用型として制式した。軍用仕様なので、機関銃座や爆弾懸架装置を備えているのは当然だった。


写真(上)1926年10月,国籍マークのないユンカース(Junkers)R 42(K.30)偵察爆撃機:尾部の膠着装置は、尾輪ではなく、尾橇で、重量軽減・機体重心バランスを優先している。フランスの航空雑誌L'Aéronautique (1926年10月刊行)に掲載された写真。
Description English: Junkers R 42 photo from L'Aéronautique October,1926 Date 1 October 1926 Source gallica.bnf.fr/ark: Author L'Aéronautique magazine
写真はWikimedia Commons,Category:Junkers G.24・File:Junkers R 42 right rear L'Aéronautique October,1926.jpg引用。



写真(右)1926年10月,国籍マークのないユンカース(Junkers)R 42(K.30)偵察爆撃機
:フランスの航空雑誌L'Aéronautique (1926年10月刊行)に掲載された写真。ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様。ユンカース(Junkers)G24三発水上輸送機の軍用仕様 "Kriegsflugzeug" である。
Description English: Junkers R 42 photo from L'Aéronautique October,1926 Date 1 October 1926 Source gallica.bnf.fr/ ark:/12148/ bpt6k6555720h /f16.item Author L'Aéronautique magazine
写真はWikimedia Commons,Category:Junkers G.24・File:Junkers R 42 right front L'Aéronautique October,1926.jpg引用。


図(右)1926年10月,ユンカース(Junkers)R 42(K.30)偵察爆撃機の三面図と銃座の射界:ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様。ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の軍用仕様 "Kriegsflugzeug" で、胴体上部に前方旋回機関銃座、後方機関銃座の2カ所設けら、胴体下面には引込み式の旋回機関銃座を装備している。これは、のちのJu52/3m爆撃機と同様である。長距離飛行できるように機首と左右主翼にユンカースL2液冷エンジン合計3基を搭載。
Description English: Junkers R 42 photo from L'Aéronautique October,1926 Date 1 October 1926 Source gallica.bnf.fr/ark: Author L'Aéronautique magazine
写真はWikimedia Commons,Category:Junkers G.24・File:Junkers R 42 3-view L'Aéronautique October,1926.png引用。


ユンカースK.30は1929年にフィンランドを訪問した。1930年代初頭、スウェーデンのAB飛行機産業(AB Flygindustri:ABA)がヴァイノ・ブレマー(Wäinö Bremer )の下で、ユンカース機を製造した。ヨーロッパ、トルコへの輸出が目的だった。1929年3月、ユンカースK 30偵察爆撃機は、フィンランドに飛来し、ブレマーは、導入を検討した。


2.ヴェルサイユ条約下ドイツの軍備制限

2−1.独逸の拒絶理由
大阪朝日新聞 Vol: 第 55巻 Page: 52 出版年 1922-04-13
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100324611

フォッカー 【国際伯林十日発】財政監督及増税の件を拒絶した独逸政府の[ベルサイユ条約]賠償委員会に対する回答は昨年十二月以来独貨幣の購買力が減退する一方生活費は益昂騰した事情を指摘し最も憂慮すべきは来る夏であるが輸入穀物の支払に対し若しも必要な外国正貨を入手する事が出来なければ独逸は飢餓に瀕する次第で独逸通貨の相場が引続き下落するに於ては馬克[Mark]は忽ち海外に於て無価値となるであろうと述べ
賠償上の債務を果し為替相場の安定を保つには外債に依るの外なしとする独逸政府の信念を反覆し現行租税は独逸人に執って極度の負担であると論じ独逸人は独逸財政の独立を毀損する如き財政監督には断じて同意し難いと附言した(独独逸の拒絶理由引用終わり)


2−2.独逸に軍備を許せ
掲載誌 大阪時事新報 Vol: 第 15巻 Page: 209 出版年 1924-10-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100342084 シュトレーゼマン

【伯林国際十九日発】独逸外相ストレーゼマン[Gustav Stresemann][1878-1929]氏は本日フランクフルトアムマインに於てツエッペリン飛行船[Luftschiff Zeppelin LZ126]の独逸米国間大飛行の成功に関し一場の演説を試み今回の成功に免じ列強は今後も独逸に対し引続き飛行船の建造を許すに至らんことを希望する旨を述べ
更に話題を転じて独逸の国際連盟加入問題に言及し昨今に於ては[国際]連盟理事会に代表者を有する列強も皆独逸をして同理事会に議席を有せしめることには異議なきも唯目下尚議論の焦点となり決せざる問題は独逸の四隣強国は何れも皆厳重なる武装を有するに単り独逸のみ何等の軍備を許さざる現状の下にあって果して能く独逸が国際連盟[League of Nations ]の一員として其義務を果し連盟の命に依る戦争又は封鎖に参加するを得べきか否やの事であると言明した(独逸に軍備を許せ引用終わり)


2−3.徹底した独逸の軍備撤廃 (上・下)
[ベルサイユ条約]独逸軍備撤廃事務陸軍代表 クラモン将軍

掲載誌 中外商業新報 日本産業経済新聞 Vol: 第 16巻 Page: 181 出版年 1925-06-13/1925-06-14
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100340124

(上)

動員  過去五ヶ年以上に亘って、連合国の[賠償]委員[Allied Reparations Commission]は、ドイツの軍縮状態について調査を継続して居る。
 かれ等の指令に依り、ドイツの国境は外国軍隊が自由勝手に出入すべく開放され、要塞、砲台は破壊または地ならしされ、砲は爆発され、戦時品及びその製造場は根本から破壊されて了った。

 かくの如くして古今未曾有の[ベルサイユ条約の]強制的軍器廃棄が敢行されたのである。爾来、連合国調査委員は、国内の如何わしい各工場は隅から隅まで二階裏と言わず、地下室と言わず精密な調査を行い甚だしきに至っては、宏大なる土地まで堀り返して居る。それのみならずドイツ国内の共産党員平和主義者が間牒に使用して、旧軍器工場や商的製造工場の精探をなし、甚だしきは、同一箇所を百回以上に亘って調査したのである

 しかうして、最近、一百五十万ドルの費用を費し、国内各地の二千六十七個の工場、或いは疑わしき地点に対し、最後の大探察を試みた、その結果として、かれ等はドイツが、世界何れの国も未だ嘗てなさざりし程度の軍備廃止を敢行していることを実見した。

 かくの如くしてドイツは支那すら経験せざる支那化を敢てし、如何なる小弱隣国の前にも無力なる国家となって了ったのである。

 前記の事実は、連合国に依って唱えられ、英国の如きは、再三公式にこの旨を発表し、ドイツを敵とする仏国のフォッシュ元帥すら、「ドイツは実際において軍備を極限し、戦争開始を不可能ならしめた」と言って居る。
 然るにかかわらず、世界は、今なお警鐘を乱打して、ドイツは秘密裏に軍備の充実を計りつつありと騒ぎ、排独宣伝の水門は再開して、宣伝は世界各国に滔々として流布されつつある。

 吾人は、何等恐るる処のないことを確信し尚且吾人はかの[連合国賠償]委員[Allied Reparations Commission]が事実を発表するに至ったならば、これ等の流言は一挙にして覆えさるることを承知して居ったので、両度連合国に向って調査結果の発表を要求したのである。

 然るに、連合国は、この要求を拒絶したのみならず、彼等は、只単に吾人は規定を違犯したりとなし、吾人に何等の予告を与えず而も何等訊問のこともなさずして新なる罰則を制定し、ケルンにおいては、依然、平和条約を無視して駐兵を継続して居る。

 外国言論機関も亦、御多分に洩れず「ドイツ禍」恐るべしというような宣伝的記事を掲げて国民の恐怖心をそそっている。

 それ等は、裏面に大なる政治的理由を含んでいることは勿論で彼等は、これに依ってケルン駐兵の不法を陰蔽し、平和条約蹂躪の弁護に当てようとしているのであって、彼等に取っては、その体裁を作るために、国際紛争の種子をまくことも、戦争の原因に油を注ぐことも決して、無謀だとは解せられていない。

 然しながら、余は、只今、ドイツのために一言するの必要を感じ、自らそれをなさんとするものである。先ず最初に、拡張に吸々たりと言わるる、ドイツ軍備の現状と、虎視眈々たる、その隣国の軍備の現状を比較する必要がある(単位千人) [図表あり 省略]

これに依って見れば、或は、ドイツが過般の大戦に際し訓練したる多数の予備兵を有することが指摘さるるかも知れないが、ドイツにおいては国民皆兵主義を捨てて十万の傭兵制度をしくべく余儀なくされ、しかも、この傭兵は、その部署の変更を防止するために定期十二年間服務の規定となって居て予備兵なく、大戦の帰還兵に至っては、今日の戦術、軍器の進歩の迅速なるため、千九百十八年より今日を見れば、その間既に隔世の感あり従って帰還兵は、ナポレオン戦争当時の軍人を欧洲大戦に引き出すより以上無力なものとなり結局、大戦の帰還兵は将来においては、使用不可能のものである

フォッカー (下)

 現在少数のドイツの傭兵は、兵器の関係上充分の訓練が出来ない有様であって、機械が中心となるべき、次の戦争にはほとんど無力といわなければならない、しかしてこれを隣邦に比較すれば次の如きものである [図表あり 省略]

尚、独逸は、財政困難のため、[ベルサイユ]条約に依って承認されている程度の軍器の充実する実現不可能の実状であって、砲兵に於て四割五分、歩兵に於て四割、手擲弾の供給に於て二割の不足であって、これ等の軍器は連合国に依って指定されたる工場に於てのみ製造することが出来ることになって居るが、その少数なる特定の軍器工場すら、軍器製造の注文に接しない有様である。

 以上の比較に依って、ドイツの脅威などと言うことの如何に荒唐無稽なるかが明瞭になるわけである、ドイツ十万の兵は、警官に等しいもので(或国が政治的紛争に使用しつつある警官隊より余程貧弱だが)予備兵なくまた近世的兵器も所有しないのである。

 無防、無備、加うるに何等訓練ある予備兵もないドイツの四囲には、如何なる脅威が確在して居るか?余は、連合国が、戦後破壊した、ドイツの軍器に就いて一言差加えて置きたい。

フォッカー 小銃 六百万挺
機関砲 一〇五、一六三門
爆裂弾発射器 二八、四六九
加濃砲 五四、八八七
砲車 二八、〇〇三
重砲車、爆弾 三八七五万個
小銃弾 四四二二〇万発
弾薬 三七六〇〇噸
飛行機 一四、〇一四台
同モーター 二七、七五七個

 これに関連し、産業用機械の破壊されたるもの甚大であって、クルップ会社計りでも九千百七十三個の機械(全部の四割四分五厘)が破壊されて居る。その中には軍機製造機械にあらざるものまたは、軍機製造以外にも使用し得る幾多の機械が含まれて居ることは勿論である。しかして、かくの如くして破壊された財産総額は、優に一億二百万金マルクを突破し、実に、ドーズ案に依る貸付額の八分の一に相当するのであって、これに依る、産業機能の欠損は計算不可能の巨額に達するであろう。

 前述の事実を知悉するならばドイツをして軍国なりと断ずることは出来ないはずである。

MG08  這般仏国陸軍大臣ノーレ[Charles Nollet]将軍は、ベルリン附近において、秘密兵器庫を発見したと議会に報告し、これを道具として連合国大使会議が[ライン駐屯イギリス軍(British Army of the Rhine)の]ケルン[占領軍]撤兵決議をなさんとするのを阻止しようと企んだ

 所謂秘密兵器庫は、ベルリン市外、ウィテナウの猟具、自転車、自動車、部分品製造所である、ベルリーン・カールスルーヘ工場で発見された。この工場は、屡々連合国軍備調査委員[Military Inter-Allied Commission of Control]に依って調査され、その回数、実に百二十九回に及んで居て、その間、次の様なものが発見されて居る。

銃器製作用鋼鉄棒 十二万六千個
拳銃銃身既製品 一万個
猟銃用短銃身 五千個
銃器製作用道具 一百箱

以上の器具は全部原料品であって同社が現在製造しつつある製品の原料とすべく保存されてあったので、何等隠蔽の事実なく、倉庫には鍵すら掛けられて居なくて、その出所、使用目的に就ては連合国軍器調査委員[Military Inter-Allied Commission of Control]に依って研究中であった。

 然るに、俄然、政治的必要からして、この原料品は「秘密軍器庫」と称えられるるに至り、ドイツ最大の富源に駐兵を継続する理由に使用せらるることに立至ったのである。(完)(徹底した独逸の軍備撤廃 (上・下)引用終わり)


3.ユンカース(Junkers)G23/G24輸送機

写真(右)1925年,ドイツ、ユンカース飛行機製造工場'Junkers Flugzeugwerke AG' で製造中のユンカース(Junkers)G. 24三発輸送機の胴体内部:胴体を支える骨格と波板外構造が良くわかる。手前には主翼付け根部分が置いてある。
Junkers G 23 under montering i B-hallen, fabriksinteriör Foto: Otto Ohm / Malmö Museerohne Angabe
Creator: Ohm, Otto (1884-1960) Date: 1925-1926 Publisher: Malmö museer
Identifier: kulturarvsdata.se/ MM/foto/613300 , EH 002005 Institution: Malmö museer
Provider: Swedish Open Cultural Heritage | K-samsök Providing country: Sweden First published in Europeana: 2019-05-20.
写真はEuropeana,Malmö museer・EH 002005引用。


ドイツのユンカース(Junkers)G23輸送機の試作機(プロトタイプ)は、1924年9月18日に初飛行した。操縦席は、密閉式で、液冷エンジンを機首・主翼に合計3基搭載。単発のユンカースF-13輸送機を大型化し、エンジンを左右主翼に各々1基追加した機体構造になっている。

ユンカース G23輸送機1号機 (製造番号:c/n 831)は、1924年9月18日に、ウィルヘルム・ツィンマーマン(Wilhelm Zimmermann)によって初飛行したが、不時着して破損してしまった。

ユンカース(Junkers)G. 23輸送機は、3基のユンカース(Junkers)L2エンジン(195馬力:145 kW)を搭載していた。しかし、第一次大戦後のベルサイユ条約の軍備制限を受けていたドイツに対して、ユンカースG23輸送機は高性能であり、軍用機として使用される恐れがあるとして圧力がかかり、G23輸送機のエンジン馬力を低下させることが求められた。こうして、民間輸送機としてユンカース(Junkers)G23のエンジン出力を低下させた性能低下型がユンカースG24輸送機である。

ユンカース(Junkers)G. 24輸送機試作機(prototype)は、180馬力BMW IIIa空冷エンジン1基と100馬力メルセデス(Mercedes) D.Iエンジン2基を装備し、1924年に完成した。

その後、ユンカースG 24輸送機は、195馬力ユンカースL2 エンジン1基と160馬力メルセデスD.IIIa エンジン2基を装備し、1925年に完成した。ユンカースG 24輸送機は、195馬力ユンカース L2エンジンを3基装備した。ただし、一部の機体は、機首エンジンを310馬力のユンカース L5エンジンに変換した。

1920 年代にドイツの航空輸送需要が増大し、これに応じるための大型の旅客輸送機が求められた。その第1弾がユンカースG 24三発輸送機で、前作ユンカースF 13単発輸送機の拡張発展型として開発された。

ユンカース(Junkers)G 24輸送機の原型はエルンスト・ツィンデルによって単発航空機として設計された。その抑制された設計思想の理由は、第一次世界大戦で敗北したドイツでは、1919年のベルサイユ条約によってドイツの航空機に課せられた制限が強く、 国際ドイツ航空管理委員会(ILUK: International Aviation Control Commission)の監視下にあって、低出力エンジンのみが許可されていたことにある。

ドイツは、第一次大戦に敗北し、ベルサイユ条約の下で、連合国航空管理委員会(Inter-Allied Aeronautical Commission of Control)によって飛行機開発を制約されていたために、ユンカース飛行機生産工場は、大型のユンカース(Junkers)G 24旅客機を単発機として設計したのである。しかし、実用性向上と販売促進のために、単発機ではなく、三発機として製造された。こうして、低出力エンジン3基を搭載したユンカース(Junkers)G 24は飛行可能な旅客機ではあったが、実用性が低かった。

ユンカース飛行機生産工場は、計画では、G 24三発輸送機(トライモーター)をドイツ国外の民間航空会社に販売する予定だった。そこで、民間航空会社は、単価引下げ、経費削減を求めて、機首に単発の高出力エンジンとして、 450馬力のネピア ライオンを搭載し、左右両翼中央にあったエンジンの取付け金具を取り外し、主翼を整形した。

しかし、このような改造を施したG 24に対して、ベルサイユ条約下の連合国航空管理委員会(Inter-Allied Aeronautical Commission of Control)は、G24の設計が軍用機であると判断し、違法な飛行機として非合法化した。


写真(上)1925-1930年頃,スイス航空の導入したドイツ・ユンカース(Junkers)G. 24三発陸上輸送機
:機首には社名「ユンカース:Junkers」を記入している。機首が黒色で塗装されているのは、金属反射で搭乗員の視界が妨げられないようにするため。
Junkers Type G 24, Vorderansicht Creator: Stoedtner, Franz (Lichtbildverlag) (Fotograf) Institution: Deutsche Fotothek Provider: Deutsche Digitale Bibliothek Providing country: Germany First published in Europeana: 2014-11-10
Dataset: 2048419_Ag_DE_DDB_SLUB-Sub11.
写真は Europeana Collections ,Deutsche Fotothek ・EH 002013引用。


連合国航空管理委員会(Inter-Allied Aeronautical Commission of Control)の開発制限下で実用化されたユンカース(Junkers)G23輸送機は、F13輸送機の大型発展型で、1924年9月19日初飛行の発展型の全金属製低翼単葉機
全幅29.37 m、全長15.8 m、全高29.37 m
主翼面積 99平方メートル
ユンカースL5エンジン(310馬力)3基
乗員: 2名、乗客:14名
空虚重量: 4,330 kg、総重量: 7,200 kg
最高速力: 210 km/h、巡航速力: 170 km/h
航続距離: 660 km
実用上昇限度: 4,000 m、
上昇率: 2.47 m/s、上昇性能: 2,000 m/13.5分。

ユンカース(Junkers)F 24輸送機は、ユンカース(Junkers)G. 24輸送機のエンジンを、ダイムラー・ベンツのDB 600/DB 601 液冷エンジンに強化した単発機で、
ユンカース・ユモ Jumo 211液冷エンジンのテストに用いられた。ユンカースK 30は、G 24輸送機の軍用型である。


写真(上)1924年、スイス、チューリヒ郊外デュベンドルフ飛行場に待機するドイツ・ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Junkers/AB G 23 W輸送機
:プロペラは、機首も主翼も2翅プロペラを装備。機首には「LUFTHANSA」と大書している。
Photographer: Unbekannt Title: Junkers G 23 W of Lufthansa (133) on the ground in Dübendorf Original title: Junkers G 23 W der Lufthansa (133) am Boden in Dübendorf Dating: ca. 1924
ETH Library ・Ans_05035-469引用。


G. 24設計主務はエルンスト・ツィンデル(Ernst Zindel)で、試作当初ユンカース(Junkers)G24輸送機は単発機だった。当時の敗戦国ドイツには、ベルサイユ条約Treaty of Versailles)の制約があり、空軍力の保有は禁止、航空兵力につながる飛行機開発も制限された。ドイツでは、連合国軍事管理委員会(Military Inter-Allied Commission of Control)の下で、低出力のエンジンしか搭載できないが、小型機では、限界があるため、単発大型機の開発が企図された。ユンカース(Junkers)G24輸送機も、単発機として開発されたのである。

 そこで、ユンカースは、基本設計は同じだが、民間仕様を強調したユンカース(Junkers)G23輸送機を試作し、民間航路専門の航空機として喧伝した。こうして、連合国軍事管理委員会(Military Inter-Allied Commission of Control)は、ユンカース(Junkers)G. 24輸送機はG23として、単発機として生産することが認められた。ただし、連合国軍事管理委員会(Military Inter-Allied Commission of Control)は、1927年2月末にドイツにおける活動を取りやめているので、ドイツへの航空機開発制限は、厳格なものとは言えなかったようだ。

その後、ユンカース飛行機工場は、G.23と本質的に同じ設計のままで、新しい名称を付与したユンカース G24 を開発し、ベルサイユ条約の制約を受けない仕様で再提出した。ベルサイユ条約の連合国委員会は最終的にこのユンカース社に、エンジンが三発でも単発でもG 23の製造を許可した。理由は、民間航空機としての仕様で、軍用機仕様とはしないとしたからだったが、実際は、G 23/G 24の飛行性能を評価した各国の航空会社や軍事転用を計画していた各国の政府から委員会に働きかけがあったからであろう。また、このような航空機開発規制には各国の民間航空会社も批判的だったと考えられる。実際、ユンカースG23飛行機は常に G24 の名称で販売・輸出されており、厳格な識別は意味がない。

写真(右)1924年3月,ドイツ、ライプチッヒ飛行場を飛び立ち、デンマークのコペンハーゲン飛行場に向かうドイツ・ルフトハンザ航空所属のユンカース(Junkers)G23三発輸送機「バーデン」 "Baden" (登録コード:D 543)右側面と手前の随伴機の主翼:1928年にはスペインが購入し、郵便輸送機として使用された。スペイン内戦中に破壊。
EN: COPENHAGEN, ØSTERPORT STATION AND FREDERIKSSTADEN, VIEW TO SOUTH-SOUTHEAST (SSE) Photographer Unbekannt Dating nach 1924 Caption Below: Østerport train station, behind plane: Copenhagen Castle, right: Frederiksstaden with Frederiks Kirke (or Marmorkirken, with dome), right above center: Amalienborg Castle, right above: Christianshavn. Pictures from the international flight. Flight photos by press photographer of the Danish newspaper "Politiken" Caption (German) Unten: Østerport Bahnhof, hinter Flugzeug: Kastell von Kopenhagen, rechts: Frederiksstaden mit Frederiks Kirke (oder Marmorkirken, mit Kuppel), rechts über Mitte: Schloss Amalienborg, rechts oben: Christianshavn. Bilder vom Auslandflug. Flugaufnahmen durch Pressephotograph der dänischen Zeitung "Politiken" Physical description Fotografie : Silbergelatine-Abzug, auf Karton montiert
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-01-329-AL-FL引用。


ユンカースは G24/G23 を エンジン3基のトライモーター三発機として生産されたが、これは低出力エンジンを搭載して、1919年ベルサイユ条約Treaty of Versailles)に基づく連合国航空管理委員会(Inter-Allied Aeronautical Commission of Control)によるドイツ機性能制限を回避する方策でもあった。また、1基のエンジンが故障しても、他の2基のエンジンが稼働することで安全に飛行でき、水平飛行だけではなく、上昇飛行も可能だったという安全面での利点もあった。

ユンカースG.24が完成した1925年には、ほとんどの旅客輸送機は単発エンジンの単発機だったが、この理由は、大出力エンジン1基を搭載するほうが、小出力エンジンを複数搭載するよりも、構造か簡単になり、飛行機の性能もよかったからである。また、当時、すでに双発輸送機も実用化されていたが、1920年代では、エンジン出力が低かったために、片発のエンジン1基での飛行は困難だった。

つまり、双発機では、エンジン故障の際には、安全な飛行は不可能だったため、エンジン3基搭載の三発機が、安全な飛行機であると考えられていた。換言すれば、三発機トライモーターの場合、公出色を発揮する新型エンジンを搭載する必要はなく、普及していた安価な低出力エンジンを3基搭載することで、1919年ベルサイユ条約Treaty of Versailles)の下でドイツを監視する連合国航空管理委員会(Inter-Allied Aeronautical Commission of Control)によるドイツ機性能制限によって強力な出力を搭載して軍用機に転換しようとしていると疑われるリスクを避けたのである。

写真(右)1924年,完成直後のユンカース(Junkers)G23輸送機の複式操縦席のコックピット:操縦桿は完全なハンドル型で、中央にエンジン3基の同一計器、スロットル・レバーが3個並んでいる。操縦席は、密閉式で、エンジンを機首・主翼に合計3基搭載した輸送機。中央上には、水平儀とコンパス(羅針盤)がある。
Photographer: Unbekannt Title: Typenzeichnung und Abbildungen von Junkers G 23 Dating: ca. 1924 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Categories: Junkers G 23, View Collection, Unknown, Cockpit + Aircraft radiocommunication and navigation compartment, Product photography, Propeller-driven aircraft Record Name: Ans_05338-01-251-AL-FL .
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-01-251-AL-FL引用。


1919年ベルサイユ条約Treaty of Versailles)の軍備制限の下、ドイツでは、軍用ではなく民間用に限定して航空機を開発した。そして、ユンカースG23輸送機は、G24輸送機として、生産、輸出された。本来、強力なエンジンであれば、単発機で十分なパワーがあるが、エンジンの故障や余剰出力に配慮すれば、双発機以上に、三発機の信頼性は高かった。乗客にとっても、エンジンが多いことは安心感を抱かせたに違いない。

写真(右)1924年,完成直後のユンカース(Junkers)G23輸送機のキャビンの乗客たち:最前列に乗客が座ると全体が見渡せないので、座席は開けてある。当時は、これでも大型輸送機だったが、天井が低く、客室も狭く感じてしまうが、これは現代の旅客機と比較すれば無理もない。大きな窓の際なので、採光は十分で、写真撮影も可能である。シートの角には、動揺する機体での歩行に備えて把手がついている。通路の左右上方には、ネット式の荷物棚が設けられ、手提げバッグが置かれているが、これも今日の間隔では、棚が小さいようだ。
Photographer: Unbekannt Title: Typenzeichnung und Abbildungen von Junkers G 23 Dating: ca. 1924 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Categories: Junkers G 23, View Collection, Unknown, Product photography, Propeller-driven aircraft, Cabin Record Name: Ans_05338-01-255-AL-FL.
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-01-255-AL-FL引用。


ユンカース(Junkers)G24旅客輸送機(乗客12人)が、三発エンジンなのは、大出力のエンジンを装備すると、軍用機と判断され、ベルサイユ条約違反となってしまうためである。ユンカースの採用した波板式の金属外板は、円筒形でなく旅客・貨物搭載に便利な箱型胴体でも強度を保つのに役に立った。

ユンカース(Junkers)G. 24三発旅客機のキャビン(客室)には、座席12名分が用意されてているが、座席は機能的ではあり、決して豪華ではない。これは、重量軽減のために軽量化された座席を採用したからである。

ユンカース(Junkers)G. 24三発旅客機と対照的に、後継機のユンカース(Junkers)G31旅客機は、より大型の機体に、複数の二段式寝台・ソファーを備えており、豪華な空の旅を楽しめるキャビン(客室)内装となっている。

 1923年にフーゴ・ユンカースは、ツンデル(Zindel)の忠告に従って、既存の F13単発輸送機(乗客4名)を原型にして、これを大型化した単発輸送機を設計しようとした。しかし、大型機に相応しい大出力のエンジンが1923年のドイツにはなかったことである。そこで、ツンデルは、設計を見直して、G 23輸送機をユンカース(Junkers)L2液冷エンジン145 kWを3基搭載する案を出した。

連合国航空管理委員会(Inter-Allied Aeronautical Commission of Control)は、出力が大きすぎだとして、大出力エンジン搭載の G 23輸送機を軍用機とみなし、開発を禁止した。そこで、G23は、左右主翼にメルセデス(Mercedes)D I エンジンを装備し、機首に BMW IIIa液冷エンジンを1基装備することになった。

最終的に デッサウ工場(Dessau facilities)で、ユンカースF.13輸送機の生産と新型機 G 23の開発をおこなった。 G.23は、1924年9月18日にニュルンベルク飛行場(Nuremberg Fuerth airport)でウィルヘルム・ジンマールマン(Wilhelm Zimmermann)の操縦で初飛行したが、着陸に失敗し破壊されてしまった。

ルフトハンザ航空Deutsche Luft Hansa)は、1926年1月、ドイツ政府が出資1/4を賄って、ユンカース系航空会社(Junkers Luftverkehr)を中核に、各種ドイツの航空会社が統合されて生まれた国営航空である。ユンカースJu−52旅客輸送機を中核に、ドイツ国内のみならず、ヨーロッパ全土に航空網を築き、ユンカース(Junkers)G. 24三発旅客機(12人乗り)、のちにはフォッケウルフFw-200、ユンカースJu‐90のような四発大型旅客機を導入して、南北アメリカにまで航路を拡張した。

ヨーロッパでは第一大戦の戦火が癒えた1920年代から、民間航空輸送が盛んになり、航空便・新聞・雑誌などメディア文書の発送、旅客・貨物輸送が興隆した。こうした中で、ユンカースは成功作でベストセラーになった前作ユンカースF-13輸送機をベースに、連合国航空管理委員会(Inter-Allied Aeronautical Commission of Control)の開発制限下に、より大型化したユンカース(Junkers)G. 24を開発した。

1925年設立のLVGルール(LURAG)航空は、ユンカースF.13輸送機5機、ユンカースG24輸送機5機を保有し、ベルリン(Berlin)-ルール地方エッセン(Ruhrgebiet)-アムステルダム(Amsterdam)を結ぶ航路を開拓したが、1936年に解散した。

写真(右)1917-1925年,ドイツ、飛行場で記念撮影した飛行訓練学校のメンバーとユンカース(Junkers)AB G23輸送機
Photographer: Unbekannt Title: At the "large aircraft school" Fürth airfield Original title: Auf der "Grossflugzeugschule" Flugplatz Fürth Caption: The pilots Peter Wagner, Rudolf Krause, Hermann Röder, Otto Brauer and unknown. Dating: 1917-1925 Is part of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 albums with 659 images (all digitized).
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Record Name:Ans_05338-02-012-AL-FL引用。


ユンカース(Junkers)G.24は、大型化し、搭載量が増えたため、単発では出力不足であり、かといって強力なエンジンの搭載は、ベルサイユ条約に抵触する危険があるため、低出力エンジンを3基搭載することになった。

 他方、ドイツ以外の国では、このようなエンジン出力の制約は課されないために、輸出向けには、単発機でより強力なエンジン、たとえば450馬力のネーピア(Napier)ライオン(Lion)エンジン1基を機首に装備するタイプである。 しかし、ドイツを監視していた連合国軍事管理委員会(Military Inter-Allied Commission of Control)は、ユンカース(Junkers)G24輸送機は、軍用に転用可能であると警告した。

ユンカース(Junkers)G24輸送機の降着装置には、主輪2個のゴムタイヤが中心軸でシャフトに繋がれている。重い機体。特に着陸時のタッチダウンの差異には。大きな負荷がかかるので、強度を高める必要があり、左右のバランスをとるためにも、軸で主輪を繋ぐのが強度の上では必要だった。しかし、このシャフトによって空気抵抗が大きくなるので、強度が許せば、このような中心軸(シャフト)はないほうが良い。

第一次大戦敗北国ドイツに課せられたドイツでは、連合国軍事管理委員会(Military Inter-Allied Commission of Control)によって、ユンカース(Junkers)G.24は、ベルサイユ条約の飛行機開発禁止違反とされた。

そこでユンカースは新たにユンカース G 23を開発し飛行機開発の制限外の機体として販売した。しかし、ユンカース(Junkers)G.23とG.24はほぼ同一であり、新名称G.23ではなく、旧名称G.24がそのまま用いられることも多かった。


写真(上)1925年,ドイツ、ベルリン、スイス航空所属のユンカース(Junkers)G23輸送機(登録コード:CH-132)
:ユンカース(Junkers)L2液冷エンジン3基を装備したG24輸送機で、主翼と胴体に登録コード:CH-134を大きく描いている。:
Photographer: Klinke, Fritz
Title: Vom ersten Einsatz der G 24 mit 3 Junkers L 2 Motoren und der anschliessenden Sonderflugerprobung. Otto Brauer u. Reginald Schinzinger und Bordwarte
Caption: Zentralflughafen Berlin Dating: 1925 Junkers G 24, View Collection, Product photography, Klinke, Fritz, Propeller-driven aircraft Record Name: Ans_05338-02-080-AL-FL.
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-080-AL-FL引用。


 1926年5月、ドイツ・ルフトハンザ航空Deutsche Luft Hansa)は、ベルリンとケーニヒスベルク間の民間航路を運航開始し、そこにユンカース(Junkers)G. 24輸送機を就役させた。これは、世界初の夜間旅客航路で、盲目飛行の計器・乗員がいなければできないことである。それまで、郵便や貨物の夜間航路はあったが、夜間旅客輸送はなかったのは、安全性が問題視されたからで、ドイツ・ルフトハンザ航空Deutsche Luft Hansa)は、ユンカース(Junkers)G24輸送機による夜間盲目飛行を、無線通信航法によって、可能としたのである。

ユンカース(Junkers)G. 24輸送機は、1925年から1929年まで72機が生産されたが、そのうちドイツ・ルフトハンザ航空Deutsche Luft Hansa)には 26機が供与されたが、搭載したエンジンにはいくつかの種類があったようだ。

ユンカース(Junkers)G24輸送機の樹立した世界記録は、飛行距離2,020 km (1,560 マイル)をペイロード 1,000 kg で14時間 23分で飛行し、平均速力140 km/hを達成したことがある。

写真(右)1934年10月,ドイツ、ベルリン、テンペルホーフ飛行場、ベルリン-ワルシャワ間のドイツ・ルフトハンザ航空の路線に就役したユンカース(Junkers)G24 輸送機“Hestia”(登録コード:D-1089):三発エンジンなのは、大出力のエンジンでは、軍用機と判断され、ベルサイユ条約違反とされてしまうため。ユンカースの採用した波板式の金属外板は、強度を保つのに役に立った。
Bemanning en personeel bij de Junkers G24 D-1089 Hestia die voor de lufthansa
Collectie / Archief Fotocollectie Van de Poll Reportage / Serie Vliegveld Berlijn - Tempelhof Beschrijving Bemanning en personeel bij de Junkers G24 D-1089 Hestia die voor de lufthansa de lijndienst Berlijn - Warschau onderhoudt Datum oktober 1934 Locatie Berlijn, Duitsland
Trefwoorden luchtvaart, luchtvaartmaatschappijen, piloten, vliegtuigen, vliegtuigpersoneel, vliegvelden Instellingsnamen Berlin-Tempelhof
Fotograaf Poll, Willem van de, [onbekend] Auteursrechthebbende Nationaal Archief, CC0 Materiaalsoort Glasnegatief Nummer toegang 2.24.14.02 Bestanddeel nummer 190-0062
写真はNational Archives of The Netherlands:Nationaal Archief ・ Bestanddeel nummer 190-0062引用。


1926年に、フーゴー・ユンカースの築いたユンカース飛行機は、ルフトハンザドイツ航空と協力し、グローバルな航空路線の開拓に臨み、シベリア鉄道の沿線への航空路を開いて、中国との連絡を開こうとした。

そして、この目的でユンカース(Junkers)G24輸送機2機が中国までの2.5万キロの空路に投入され、試験飛行を行った。ベルリン=北京の空路がユンカースの機体によって実用化のめどがついたのである。

また、ユンカース社は,北京―天津―済南―南京―上海の定期運航を、単発小型輸送機のユンカース F13と若干大型のユンカース(Junkers)G24輸送機で実施した場合の比較検討をしたが、中国の内戦、すなわち国民党軍による地方軍閥の壊滅作戦「北伐」のために、ユンカース輸送機が売れたわけではなかった。

ユンカース飛行機では、中国のナショナリズムの興隆を評価し、国防を充実するためにも、ユンカース(Junkers)G24輸送機の導入が有利であることを説いた。

1926年5月1日、ドイツルフトハンザ航空(Deutsche Luft Hansa)は、ベルリンからケーニヒスベルクへの夜間寝台旅客輸送機としてユンカース(Junkers)G24輸送機を投入した。ユンカース(Junkers)G. 24三発旅客機(12人乗り)2機(D-901とD-903)が1926年7月に中国北京への2万km (1万2,400マイル)の飛行に参加した。

図(右)1924年,ドイツ、ユンカース飛行機工場(Flugzeugwerke AG)作成、ユンカース(Junkers)G23輸送機の三面内部構造図:全幅28.5m、全長15.24m、全高5.5m、客室座席10名、大型旅客輸送機。客室搭乗口は、胴体左後方に1カ所。
Photographer: Unbekannt
Title: Type drawing and illustrations of Junkers G 23
Original title: Typenzeichnung und Abbildungen von Junkers G 23
Dating: ca. 1924
Is part of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 albums with 659 images (all digitized).
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Record Name: Ans_05338-01-243-AL-FL引用。



4.ユンカース(Junkers)G23/G24水上輸送機


写真(上)1925年,ドイツ、水上を滑走するユンカース飛行機工場(Flugzeugwerke AG)作成、ユンカース(Junkers)G23W水上輸送機の左前方
:フロート浮舟には、リベットで外板を張り付けた跡が確認できる。2翅プロペラを低速回転させているので着水時と思われる。客室搭乗口は、胴体左後方に1カ所。
PHOTOGRAPHER UNBEKANNT DATING CA. 1925 PHYSICAL DESCRIPTION FOTOGRAFIE : SILBERGELATINE-ABZUG, AUF KARTON MONTIERT FORMAT SPEZIALMASS SPECIAL SIZE OHNE ANGABE
写真は, ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Record Name: Ans_05338-02-112-AL-FL引用。


ユンカース(Junkers)G. 24輸送機の諸元
乗員 2名、乗客 9名
全長 15,70 m
全幅 29,90 m
全高 4,15 m
主翼面積 97,8 平方メートル
全備重量 6500 kg
最高速力 197 km/h
発動機 ユンカース(Junkers) L 5 液冷直列6気筒エンジン310馬力3基。

写真(右)1926年,フィンランド、ヘルシンキ、水上機基地、フィンランド航空(Aero Oy:lle: Finnair Oyj)、ユンカース(Junkers)G 24 水上輸送機「スオミ」"Suomi"[フィンランド](登録コード: K-SALC )の操縦席コックピット:二列に正副操縦席が並び、正面は平板ガラスで歪みをなくしている。操縦桿も各々ついている。三発エンジンなので、メーター類もレバーも3個ずつ並んでいる。
Junkers G 24 K-SALC "Suomen" ohjaamo 1926, kuva otettu ilmeisesti koneen saavuttua Katajanokalle, koneen lentäjä Suomeen kapt. Bremer, mukana konsuli Lucander. Kone luovutettiin Limnhamnissa Aero Oy:lle 3. kesäkuuta 1926..
Organisaatio Suomen Ilmailumuseo Kokoelma Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar Mitat Vedos Kuvaustiedot: 1926 Aero Oy
写真はMuseot Finna, MUSEOT FINNA Inventaarionro SIM VK 533:57引用。


写真(右)1926年,フィンランド、ヘルシンキ、水上機基地、フィンランド航空(Aero Oy:lle: Finnair Oyj)、ユンカース(Junkers)G 24 水上輸送機「スオミ」"Suomi"[フィンランド](登録コード: K-SALC )の客室キャビン:二列に座席が並び、両脇のガラス窓は大きく視界が良い。日除けブラインドが取り付けられている。
Junkers G 24 K-SALC "Suomen" matkustamo 1926, kuva otettu ilmeisesti koneen saavuttua Katajanokalle, koneen lentäjä Suomeen kapt. Bremer, mukana konsuli Lucander, kone luovutettiin Limnhamnissa Aero Oy:lle 3. kesäkuuta 1926.
Organisaatio Suomen Ilmailumuseo Kokoelma Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar Mitat Vedos Kuvaustiedot: 1926 Aero Oy
写真はMuseot Finna, MUSEOT FINNA Inventaarionro SIM VK 533:56引用。


1923年設立のフィリランド航空(フィンエアー:Aero Oyj)のユンカースJu 52/3m輸送機「サンポ」"Sampo"(OH-ALK) 水上輸送機は、1932年6月にドイツから導入した当初は、双フロート付きの水上輸送機だった。フィンランド首都ヘルシンキ郊外、カタヤノッカ水上機飛行場は、1924年に創設され、フィンランド各地に湖沼やフィヨルドを利用した水上機基地が設けられ、民間航空網が形成されるようになった。

しかし、フィンランド各地に陸上飛行場が整備されるに伴い、大きなフロートを装備した飛行性能の低い水上機よりも、フロートを取り去って主輪に変換した陸上機が望まれるようになった。ヘルシンキでも、ヘルシンキ郊外のマルミ陸上空港が拡充されたたために、カタヤノッカ水上機飛行場も1936年一杯で使用されなくなった。

写真(右)1933年,フィンランド、ヘルシンキ、水上機基地で待機しているフィンランド航空(Aero Oy:lle: Finnair Oyj)、ユンカース(Junkers)G 24W 水上輸送機「スオミ」"Suomi"[フィンランド](登録コード:OH-ALC):G 24 K-SALC "Suomi"は、1926年6月4日就役、1935年6月11日退役で、9年間の間、フィンランド航空(Aero Oy:lle: Finnair Oyj )で使用された。
"Suomi" saapuu laituriin Aero Oy:n Junkers G 24 "Suomi" Ylemistejärvellä. Vuonna 1929 avautuneesta, Tallinnan lähellä sijainneesta Ülemistejärven lentoasemasta tuli yhdistetty maa- ja vesilentoasema.
Inventaarionro SIM VK 533:259 Mitat 13 x 8 cm.
Vedos Kuvaustiedot: 1933 Viro, Tallinna, Ylemistejärvi
写真はMuseot Finna, MUSEOT FINNA SIM VK 533:259引用。


写真(右)1933年11月,フィンランド、ヘルシンキ、水上機基地格納庫内のフィンランド航空(Aero Oy:lle: Finnair Oyj)、ユンカース(Junkers)G 24W 水上輸送機「スオミ」"Suomi"[フィンランド](登録コード: OH-ALC )ユンカースF 13輸送機LK-2 (OH-ALF) 、ユンカースF 13輸送機LK-3 (OH-ALG):G 24W 水上輸送機「スオミ」機首のエンジンは取り外されオーバーホールに出されている様だ。
Korjaustöitä Kellosaaren lentohallissa Helsingissä marraskuussa 1933. Aero Oy rakennutti 1920-luvun lopulla Helsingin Ruoholahden edustalle Kellosaareen lentokonehangaarin. Hankkeella ennakoitiin lentoliikenteen kasvua ja saarelle oli tarkoitus keskittää ennen pitkää niin Tallinnan, Tukholman, Kuopion kuin Travemundenkin liikenne, kuten piirustuksissa luki. Aeron liikennöi pidempään ja vakituisesti Katajanokan lentosatamasta (1924-1936). Taustalla Junkers G 24 OH-ALC "Suomi". Etualalla Suomen merivartiostolle myyty sairaankuljetukseen muutettu Junkers F 13 -kone, joko LK-2 (OH-ALE) tai LK-3 (OH-ALG).
Mitat Vedos Kuvaustiedot: 1933-11-01 Neittamo Oy Neittamo. Akseli, valokuvaaja
写真はMuseot Finna, MUSEOT FINNA SIM VK 533:237引用。


1924年設立のスウェーデンのAB航空輸送(AB Aerotransport)が採用したドイツのユンカース(Junkers)G24輸送機「ウプランド」"Uppland"は、登録コードはS-AABGだった。その後、 1935年に国営化されることとなったため、非公式にこの会社はスウェーデン航空とも呼称される。この時期のユンカースG. 24「ウプランド」"Uppland"登録コードはSE-ABGに変更されている。1948年に、AB航空輸送(AB Aerotransport:ABA)は、スェーデン国際航空(Swedish Intercontinental Airlines:SILA)に吸収された。1946年、スウェーデンは、デンマーク、ノルウェーと合同して、三国で,スカンジナビア航空Scandinavian Airlines System:SAS)を設立した。 1950年にスェーデン国際航空(SILA)は、スカンジナビア航空(SAS)に吸収された。

写真(右)1930年,スウェーデン南端、マルメ、クレーンで引き上げられたスウェーデン航空前身のAB航空輸送(AB Aerotransport)ユンカース(Junkers)G 24水上旅客輸送機「ウプランド」"Uppland"(登録コード:SE-ABG):機体の垂直尾翼には、白色時に青十字の小さなフィンランド国旗が描かれている。
flygplan, lyftkran, sjäflygplan Description Lyftkran(クレーン) som lyfter ett flygplan, en Junkers G 24, SE-ABG "Uppland"
Time Date: First half of the 20th century Creation date: 1930 - 1930
Publisher: Malmö museer Identifier: EH 001929
Institution: Malmö museer
Provider: Swedish Open Cultural Heritage | K-samsök
Providing country: Sweden First published in Europeana: 2014-08-22 Last updated in Europeana: 2017-09-07
Creation date: 1930 - 1930
写真はEuropeana Malmö museer・Identifier: EH 001929 引用。


ユンカースG24は、前作G23の発動機を強化した形式で、同時に非公式に開発された。そこで、 国際ドイツ航空機管理委員会(ILUK :International Aviation Control Commission in Germany) は、軍用機(転用可能)とみなしたG24の開発を禁止した。そこで、ユンカースのデッサウ(Dessau)工場では、公式にはG.23を生産するとしたが、このデッサウ工場で製造されたG.23は、スウェーデン南端マルメ沿岸リーハムのスウェーデンAB航空産業(A.B. Flygindustri)でユンカース(Junkers)L2 液冷エンジンに改造され、ドイツに戻され、ドイツ・ルフトハンザ航空など主にドイツでG23として使用された。ユンカース G23/G24は、1925−1929年の間に多数の種類の発動機を搭載した。

スウェーデン航空(AB Aerotransport)は1924年3月27日設立のスウェーデン国営企業で、6月から、ストックホルム、フィンランドのヘルシンキ間の運行を開始した。1930年代には、スウェーデン航空(AB Aerotransport)は、スウェーデンのマルメ(Malmö)オランダのアムステルダム、イギリスのロンドン、ソビエト連邦のモスクワへの旅客輸送も実施している。

写真(右):ドイツのユンカース(Junkers)G24旅客輸送機:乗客12名を乗せることができる。ユンカース液冷エンジンを搭載し、燃費を良くしている。
Type G 24 W, für 12 Personen (Junkers, Dessau)
Zusammenhang: Junkers und Co. GmbH
写真はDeutsche Fotothek / Stoedtner, Franz Aufn.-Nr.: df_st_0163346引用。


フーゴー・ユンカースユンカース(Junkers)G24旅客輸送機(乗客12人)は、航空機用ガソリン液冷エンジンを装備した。しかし、ユンカース社では、より燃費のいいディーセル航空機用エンジンを開発していた。W24輸送機には間に合わなかったが、この後、ユンカースJumo205ディーゼルエンジンが開発され、Ju80輸送機、BV138飛行艇、BV222大型飛行艇に搭載された。これは、長距離飛行を可能とするためである。ただし、エンジン自体の重量は、同馬力のガソリンエンジンよりも重たくなる。

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)G.24/G.23三発輸送機を見る。



4.ユンカース(Junkers)F 24輸送機/G24単発仕様


写真(上)1925年,正面から見たユンカース(Junkers)F 24輸送機/G24の単発仕様
:ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の単発用仕様でBMWVI Uエンジン (551 kW / 750 PS)あるいはBMW VII AUエンジン (507 kW / 690 PS)1基装備で、プロペラは4翅。
Title: Junkers F 24 mit dem ersten Junkers-Flug-Dieselmotor Jumbo 4 Dating: ca. 1925 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Photography : paper print, mounted on cardboard Colour: black and white Orientation: Horizontal Format: Other size Special Size: ohne Angabe Categories: View Collection, Unknown, Product photography, Propeller-driven aircraft, Junkers F 24.
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-279-AL-FL 引用。


ユンカース(Junkers)G. 23三発旅客機の単発用仕様ユンカース(Junkers)F. 24輸送機の装備したBMW VI 液冷式V型12気筒エンジンは、BMW(Bayrische Motorenwerke)社が1924年に開発した航空機用発動機で 重量546 kg、出力は当初420hp、後に 530 hp を発揮した。そしてBMWは、1928年にはより大型化、出力向上を図ったBMW VII液冷式V型12気筒エンジンを開発した。これは、同じV型12気筒だが、気筒は160x190 mmに大型化し、重量は615?、出力は750 hpに達した。

写真(右)1925年,草地の滑走路でエンジンを駆動しているユンカース(Junkers)F 24輸送機の機首の2翅プロペラに手をかざし記念撮影するオーバーオール飛行服姿の搭乗員:ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の単発用仕様でBMWVI U液冷エンジン (551 kW / 750 PS)あるいはBMW VII AU液冷エンジン (507 kW / 690 PS)1基などを装備した。
Title:Junkers F 24 mit dem ersten Junkers-Flug-Dieselmotor Jumbo 4 Dating: ca. 1925 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert)
Categories: View Collection, Unknown, Product photography, Propeller-driven aircraft, Engines + Generators, Junkers F 24
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-281-AL-FL 引用。


 ユンカース(Junkers)F. 24輸送機は、ユンカース(Junkers)G. 23三発旅客機の単発用仕様で、搭載した発動機はBMWVI U液冷エンジン (551 kW / 750 PS)あるいはBMW VII AU液冷エンジン (507 kW / 690 PS)1基などを装備した。

写真(右)1925年,草地の滑走路で待機しているユンカース(Junkers)F 24輸送機(G24の単発仕様)のコックピット:エンジンは1基なのでメーターの数は少ない。ユンカース(Junkers)G24三発輸送機の単発用仕様でBMWVI U液冷エンジン (551 kW / 750 PS)あるいはBMW VII AU液冷エンジン (507 kW / 690 PS)1基などを装備した。
Title:Junkers F 24 mit dem ersten Junkers-Flug-Dieselmotor Jumbo 4 Dating: ca. 1925 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Categories: View Collection, Unknown, Cockpit + Aircraft radiocommunication and navigation compartment, Product photography, Propeller-driven aircraft, Junkers F 24
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-281-AL-FL 引用。


ユンカース(Junkers)F. 24単発輸送機(ユンカース(Junkers)G. 23三発旅客機の単発型)の諸元
全幅: 25,98 m、全長: 15,63 m
主翼面積:79,20 平方メートル
重量:4700 kg
発動機: BMW VIaエンジン690馬力1基
最高速力:185 km/h

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)F.24単発輸送機を見る。


5.ユンカース(Junkers)S 36/K 37爆撃機

写真(右)1927‐1930年頃,ドイツ(?)、雪上に待機している固定式主輪にスキーを装着したユンカース(Junkers) S.36輸送機:エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)が設計した双尾翼式の双発機で、ベルサイユ条約でドイツが軍用機保有が禁止されていたために、民間郵便輸送機として公開された。しかし、後にドイツからスウェーデンに飛行し、そこで、軍用仕様に改修された。まだ機首と胴体に銃座は設けられていない。しかし、後に機首銃座、胴体銃座を設け、K.37偵察爆撃機に改修された。
JJunkers S36 before conversion to K37 PictionID:44219317 - Title:Junkers S36 before conversion to K37 - Catalog:16_005364 - Filename:16_005364.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.--
写真は, San Diego Air and Space Museum引用。


ユンカース(Junkers) S.36輸送機は、ドイツ、ユンカース社の技師エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)が設計した双尾翼式の双発機で、ベルサイユ条約でドイツが軍用機保有が禁止されていたために、民間郵便輸送機として公開された。S.36の初飛行は、1927年9月5日であるが、試作2機のみで終わった。しかし、後にドイツからスウェーデンに飛行し、そこで、機首銃座、胴体銃座を設け、K.37偵察爆撃機に改修された。

写真(右)1927年12月以前,スウェーデン、スウェーデン空軍の国籍記章を垂直尾翼に描いたユンカース(Junkers) S.36 偵察爆撃機 (登録コード: S-AABL)の左後方 :奥の前方の機体では、飛行服・革製日飛行帽を被った搭乗員3名が手を挙げて合図をしている。ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載した。前作G.24輸送機改修の軍用仕様K.30三発偵察爆撃機とは異なって、機首に発動機がない双発機としてK.37は開発された。1927年9月5日に初飛行したが、試作2機のみで終わった。フランスのL'Aéronautique December,1927に掲載された写真。
Description English: Junkers S 36 photo from L'Aéronautique December,1927 Date 1 December 1927 Source gallica.bnf.fr /ark:/12148 /bpt6k65680291 /f58.item Author L'Aéronautique magazine
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers S 36 left rear L'Aéronautique December,1927.jpg引用。


ベルサイユ条約でドイツに課された軍用機開発禁止条項から免れるために、ドイツのユンカース飛行機は、子会社として、スウェーデン、マルメにAB飛行機産業(AB Flygindustri)を設立した。ユンカース社のエルンスト・チンデル(Ernst Zindel)技師が設計したユンカースS.36輸送機は、前作G.24三発輸送機改修の軍用仕様K.30三発偵察爆撃機とは異なって、機首に発動機がない。つまり、S.36は、左右主翼に空冷星形エンジンを搭載した双発機として開発された。

写真(右)1927年12月以前,未舗装滑走路上のスウェーデン空軍のユンカース(Junkers) S.36 偵察爆撃機:機首には銃座がなく、機首ガラス窓もついていないが、胴体後方には、飛行服・革製日飛行帽を被った搭乗員3名が手を挙げて合図をしている。1927年9月5日に初飛行したが、S.36とK.37と合わせて試作2機で終わっているが、機体の改修が繰り返されていたようだ。
Junkers K 30[→S 36] Junkers Flugzeugwerken vuosina 1925-1927 valmistama Junkers K 30 -pommikone.
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Suomen Ilmailumuseo
Kokoelma Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar
Tunniste SIM VK 533:148
Mitat Vedos
Valmistus 1924-1929 IFA
写真は,Finna Fl・SIM VK 533:148引用。


そこで、スウェーデンのユンカース子会社では、民間仕様のS.36双発輸送機を、軍用仕様のK.37双発偵察爆撃機に改修した。第一次大戦敗戦国ドイツでは軍用機の開発・保有は英仏連合国によって禁止されていたが、外国での軍用機の開発はかのうであり、そこで生産した軍用機の販売(事実上の輸出)も会社に利益をもたらした。

図(右)1928年8月,スウェーデン、スウェーデン空軍のユンカース(Junkers) S.36偵察爆撃機の三面図:ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、胴体上面の開放式コックピット、機首上面と胴体後方上面に2カ所の銃座を設けた。発動機2基の双発機でS.36と次のK.37とはほぼ同型。試作1号機は、1927年9月5日に初飛行したが、S.36とK.37の試作2機のみで量産されずに終わった。ただし、1933年5月初飛行の日本陸軍キ2三菱九三式双発軽爆撃機は、輸入したK.37の波板構造と形状を引き継いで開発され、174機が量産されている。フランスのLe Document aéronautique August,1928に掲載された図解。
English: Junkers S 36 3-view drawing from Le Document aéronautique August,1928
Date 1 August 1928
Source gallica.bnf.fr/ ark:/12148 /bpt6k9767758z /f500.item
Author Le Document aéronautique
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers S 36 3-view Le Document aéronautique August,1928.png引用。


写真(右)1929年10月以前,スウェーデン、未舗装滑走路上のスウェーデン空軍のユンカース(Junkers)K.37偵察爆撃機 (登録コード: SE-ABP) :ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機K.37が開発された。1927年9月5日に初飛行したが、試作1機のみで終わった。アメリカのNACA Aircraft Circular No.104に掲載された写真。
English: Junkers K.37 photo from NACA Aircraft Circular No.104 Date 1 October 1929 Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090376.pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K.37 right side photo NACA Aircraft Circular No.104.jpg引用。


第一次世界大戦に敗北したドイツは、1919年のベルサイユ条約で、空軍の保有も軍用機に転用可能な飛行機の開発も禁じられた。そこで、ユンカース(Junkers)社は、子会社として、スウェーデン、マルメにAB飛行機製造(AB Flygindustri)を設立して、そこで軍用機の開発をした。ユンカース(Junkers)K.37偵察爆撃機は、エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計になる。左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機として完成した。K.37試作機は1927年9月5日に初飛行したが、試作1機のみで量産されずに終わった。

写真(右)1929年10月以前,スウェーデン、離陸したスウェーデン空軍のユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機 (登録コード: SE-ABP)の左側面 :機首銃座に単装7.7mm旋回機関銃を装備。ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した固定脚、双発爆撃機。エンジンナセル(カバー)はついていない。アメリカのNACA Aircraft Circular No.104に掲載された写真。
English: Junkers K.37 photo from NACA Aircraft Circular No.104 Date 1 October 1929 Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090376.pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K.37 flight photo NACA Aircraft Circular No.104.jpg引用。


写真(右)1929年2月以前,スウェーデン、ドラム缶から燃料補給中のスウェーデン空軍のユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機 (登録コード: SE-ABP)の機首左側 :機首銃座に連装7.7mm旋回機関銃を装備。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機K.37が開発された。1927年9月5日に初飛行したが、 K.37と合わせて試作2機のみで終わった。フランスのL'Aéronautique December,1927に掲載された写真。
Description English: Junkers K-37 photo from L'Aéronautique February,1929 Date 1 February 1929 Source https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k65549538/f130.item Author L'Aéronautique magazine
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K-37 L'Aéronautique February,1929.jpg引用。



写真(右)1929年10月以前,スウェーデン、未舗装滑走路上のスウェーデン空軍のユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機 (登録コード: SE-ABP)の機首右側
:ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機K.37が開発された。1927年9月5日に初飛行したが、試作1機のみで終わった。NACA Aircraft Circular No.104,1929に掲載された写真。
English: Junkers K.37 photo from NACA Aircraft Circular No.104 Date 1 October 1929 Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090376.pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K.37 nose photo NACA Aircraft Circular No.104.jpg引用。



写真(右)1935年頃(?),スウェーデン(?)、雪上に待機している固定式主輪にスキーを装着したスウェーデン空軍ユンカース(Junkers)K.37偵察爆撃機試作機 (登録コード: D-1252)
:ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機K.37が開発された。1927年9月5日に初飛行したが、S36とK37の試作2機のみで終わった。
Junkers K37 about 1935 Nowarra photo PictionID:43265072 - Title:Junkers K37 about 1935 Nowarra photo - Catalog:16_003768 - Filename:16_003768.TIF - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.--
写真は, San Diego Air and Space Museum・Filhttps://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Junkers_K_37e:Junkers K 37.jpg引用。


図(右)1929年10月,スウェーデン、スウェーデン空軍のユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機の三面縮尺図・銃座射界:アメリカのNACA Aircraft Circular No.104, October 1929に掲載された図解。
Description English: Junkers K.37 3-view drawing from NACA Aircraft Circular No.104 Date 1 October 1929 Source ntrs.nasa.gov/ archive/nasa/ casi.ntrs.nasa.gov /19930090376 .pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K.37 3-view NACA Aircraft Circular No.104.jpg引用。


ユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機の諸元
全長 37 ft 5 in (11.40 m)
全幅 65 ft 9 in (20.05 m)
全高 15 ft 1 in (4.60 m)
主翼面積 583 sq ft (54.2 m2)
空虚重量 5,720 lb (2,600 kg)
総重量 9,900 lb (4,500 kg)
発動機 ジーメンス(Siemens)製のブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter) VI空冷星形9気筒エンジン590 hp (440 kW)2基
最高速力224 km/h
航続距離850 km
実用上昇限度7,000 m
兵装: 7.7 mm旋回機関銃3丁
爆弾搭載量 500 kg。


6.ユンカース(Junkers)Ju 86輸送機

絵葉書写真(右)1937−1938年、ドイツ、耕地の上空を低空飛行するドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)ユンカース(Junkers)Ju86 輸送機(D-AKOP):Ju86は、1934年11月4日初飛行で、爆撃機と輸送機の双方の仕様が同時に開発された。Ju86 は、発動機に当初は発動機にユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンを装備していた。しかし、信頼性に問題があったために、その後、既に普及していたBMW132空冷星型9気筒ガソリンエンジンに換装された。コックッピト上方にアンテナマストを立てて、無線アンテナ支柱から無線を尾翼まで張って碍子を介して繋いでいる。
Postcard Junkers Ju 86, fast airlinerNo 3.938.092Condition, see Scan ca 9 cm X 14 cm
The company akpool Ltd. offers postcards from the Third Reich era for the following purposes only: civic education, the prevention of unconstitutional and anti-constitutional activities, the assistance of academic and art historical research, the reporting and clarification of events from the Third Reich era, and the research of uniforms and military history. The purchaser is obligated to only use cards for the historic and academic purposes listed above. They are in no way to be used as propaganda, particularly in regards to paragraph §86a of the StGB (Criminal Code).
写真はakpool.co.uk, online shop for old postcards 引用。


ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)は、第一次大戦敗北の荒廃から復興したドイツで、1926年1月に設立された国策会社である。出資は、ドイツ政府26%、ドイツ地方自治体19%と財政に支えられた公営企業で、ドイツの国内外の航路運航を独占した。し1945年5月、ドイツが第二次世界大戦で再び敗戦すると、ルフトハンザ航空は解散された。

1949年5月23日に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立し、1953年には再建が決まり、1954年8月に「ルフトハンザドイツ航空」の名称で復活を遂げた。ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジアをカバーするグローバル・ビジネスに繋がるつながる国際航空運輸、国際旅客輸送にドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)は大きな役割を果たすことになった。この旅客輸送を支えたのが、ユンカース社の輸送機に体現されたドイツ航空技術と飛行機産業だった。

ユンカースJu86は、1934年11月に爆撃機仕様の試作1号機V1を初飛行させ、1935年1月には民間輸送機仕様の試作2号機V2を初飛行させた。発動機は、軍用/民間仕様ともにジーメンスSh 22空冷星型9気筒エンジン2基である。

写真(右)1937-1938年、スイス、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ飛行場、スイス航空のユンカース(Junkers)Ju 86 B-1 輸送機(登録コード:HB-IXE)コックピット複式操縦席:EN: JUNKERS JU-86 B-1, HB-IXE ON THE GROUND IN DÜBENDORF
Photographer: Swissair Title: Cockpit of the Junkers Ju-86 B-0 Original title: Cockpit von De Havilland DH 89 "Dragon Rapid" Caption: All instruments are labeled in German Dating: nach 1936.
写真は, ETH-Bibliothek Zürich・LBS_SR01-00320 引用。


ユンカース(Junkers)Ju 86輸送機の機首コックピットには、左右に複式操縦装置が付いた正副操縦士席がある。左の転輪式操縦桿が正操縦士、右の反転輪色相空間が副操縦士のもので、計器盤も、正操縦士正面より副操縦士正面が簡素化されている。

同時期のハインケルHe111輸送機でも左側が正パイロット、右が副パイロットである。しかし、ハインケルHe111輸送機の場合、操縦桿は1本で、左右に移動することで、正操縦士あるいは副操縦士のどちらかが飛行機を操縦する。

写真(右)1937-1938年、スイス、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ飛行場、スイス航空のユンカース(Junkers)Ju 86 B-1 輸送機(登録コード:HB-IXE)の客室キャビン:ソファーの頭部には首支えのマットがある。天井には照明用電灯が埋め込まれている。前方からの撮影。
EN: JUNKERS JU-86 B-1, HB-IXE ON THE GROUND IN DÜBENDORF
Photographer: Swissair
Title: Cabin of the Junkers Ju-86 B-1, HB-IXE
Original title: Ohne Titel Caption: 10 passenger seats. Contemporary Swissair marketing image description: "Junkers Ju 86, passenger cabin".
Dating: 1937-1938
写真は, ETH-Bibliothek Zürich・LBS_SR01-00318 引用。


ユンカース(Junkers)Ju 86輸送機の乗客用座席は2列5席、合計10名分の席があり、窓ガラスが脇にあり、外側を眺めることができる。座席には、肘掛、天井に照明が設けられている。

民間仕様のユンカース(Junkers)Ju86B輸送機は、爆撃仕様とは異なり、機首を短くしソリッド化し、胴体の客室キャビンに乗客10人を搭乗せることができた。

⇒写真集Album:ユンカース(junkers)Ju 86輸送機を見る。


7.ユンカース(Junkers)Ju-86爆撃機

写真(右)1939年9月以前、飛行するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 E 爆撃機の右下側面:主輪は引込み式だが、尾輪は固定式である。機首のラインメタル(Rheinmetall)7.92mm MG 15 旋回機関銃座。アンテナ支柱は操縦席コップピット上面に設けられている。初飛行は1934年11月4日なので、第二次大戦には爆撃機としては参戦していない。K型には、機首銃座が設けられている。
Junkers, Ju.86 Catalog #: 01_00081632 Title: Junkers, Ju.86 Corporation Name: Junkers Additional Information: Germany Designation: Ju.86 Tags: Junkers, Ju.86 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives 引用。


ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 17 試作1号機V-1は、軍用機として使用されることを視野に入れた民間郵便機で、1934年11月23日に初飛行した。また、Ju86爆撃機と同時代の双発爆撃機Do 17 Eは、段型ガラス風防で、機首に丸い曲面ガラスの爆撃主席が付いている。発動機は、BMW VI液冷V型12気筒エンジン(排気量 46.9 L)750 PS (740 hp; 552 kW)2基を装備し爆弾搭載量は500キロと少なかった。

ユンカース(Junkers)Ju86 爆撃機の後に登場したドルニエDo17の前期型の爆弾搭載量は500kgでJu86と同じであり、後期型Do17Zでも1000キロと、ドイツでは軽爆撃機級だった。他方、後継機となるユンカースJu88、ハインケルHe111の爆弾搭載量は、通常でも1500キロ、過重では2000キロあった。そこで、爆弾搭載量の少ないDo17では第二次大戦時勃発時の主力爆撃機とはいえ、開戦時のDo17は、偵察型Do17Pが爆撃型Do17M/Zの71%相当も配備されていた。ドルニエDo17の配備機数は、爆撃機:偵察機の比率が6:4だった。

1932年開発のラインメタル(Rheinmetall)7.92mm MG 15 旋回機関銃の諸元
口径 7.92mm
銃身長 595mm
弾薬 7.92x57mmモーゼル弾
装弾数 75発入り鞍型ドラム弾倉
作動方式 ショートリコイル 回転ボルト式
全長 1,334mm(アタッチメント有り)、1,078mm(アタッチメント無し)
重量 12.4kg(照準器と弾薬装備時)
発射速度 1,000-1,050発/分、850発/分(地上用)
銃口初速 755-840m/秒

写真(右)2006年3月、ドイツ、ミュンヘン、ドイツ技術博物館(Deutsches Museum)、ユンカース(Junkers)Ju86 G 爆撃機の装備した発動機と同じBMW 132 A3空冷星型9気筒ガソリンエンジン
BMW 132 Date 11 March 2006 Source Own work Author Kogo
写真はWikimedia Commons, Category:BMW 132 File:BMW 132 2.jpg引用。


BMW 132N空冷星型9気筒ガソリンエンジンの諸元

ボア×ストローク:155.5 mm × 162 mm
排気量:27.7 L
全長:1,256 mm
直径:1,372 mm
重量:525 kg
燃料供給方式:直接噴射
圧縮比:6.93
出力: 865 hp @ 0 m
960 hp / 2,450 rpm @ 3,000 m
出力重量比:1.83 hp/kg
燃費:0.24 kg/(hp·h)

BMW132空冷エンジンを装備したドイツ機は、アラド(Arado)Ar 196水上機、ドルニエ(Dornier)Do 17 P爆撃機、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル(Condor)四発輸送機、ハインケル(Heinkel)He 115双発水上偵察機、ヘンシェル(Henschel)Hs 123複葉襲撃機、ユンカース(Junkers)W 34単発輸送機、Ju 52三発輸送機がある。

1934年、ドイツ航空省は、双発高速旅客輸送機/双発爆撃機の開発をハインケル社とユンカース社に要請した。1935年3月16日にヒトラーによるヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄、すなわちドイツ再軍備宣言のなされる前ではあるが、ヒトラー政権前のドイツワイマール共和国時代から、闇の国防軍が秘かに組織されていたドイツでは、軍用機の秘かな開発は当たり前のことだった。

ユンカースJu86 abl爆撃機試作1号機の初飛行は1934年11月4日、ハインケルHe111輸送機/爆撃機の初飛行は1935年2月24日である。

ユンカースユンカース(Junkers)Ju86は、1934年11月に爆撃機仕様の試作1号機V1を初飛行させ、1935年1月には民間輸送機仕様の試作2号機V2を初飛行させた。発動機は、軍用/民間仕様ともにジーメンスSh 22空冷星型9気筒エンジン2基だった。

ポリカルポフ I-16 1934年月4日初飛行のユンカース(Junkers)Ju86 輸送機/爆撃機は、1936年7月17日から1939年4月1日まで続いたスペイン市民戦争にドイツ・コンドル軍団Legion Condor)に配属され参戦した。

ユンカース(Junkers)Ju86E型では発動機がユモ205ディーゼルエンジンから信頼性の高いBMW132空冷星型9気筒エンジンに換装された。1938年4月に開発されたJu86G型は、機首を短くして、操縦席からの視界を向上したが、それ以上の改良は行われずに6月にJu86G型を最後に生産は終了した。

Junkers Ju86 ユンカースJu 86A:A-0は先行生産型で13機生産、A-1が初期爆撃型量産機 Ju 86B-0 先行生産型で7機生産された輸送機型
Ju 86C-1 6機生産されたドイツルフトハンザ航空(Deutsche Luft Hansa)向けの輸送機で、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン装備
Ju 86 D-1 1936年勃発のスペイン内戦にドイツ・コンドル軍団Legion Condor)として派兵された爆撃型
Ju 86E  ドイツ空軍向けBMW 132F空冷星型9気筒エンジン装備の爆撃機。南アフリカ・スウェーデン・ハンガリー・チリ・オーストリア・ポルトガル・ウルグアイ・ボリビア・満州にも輸出された。
Ju 86E-2 BMW 132N空冷星型9気筒エンジン装備の爆撃機
Ju 86G   機首を球形ガラス風防としたBMW 132空冷星型9気筒エンジン装備の爆撃機
Ju 86P-1 排気タービン過給機(turbocharger)付きのユンカース ユモ207 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン搭載の高高度偵察機。生産機数30機程度。
Ju 86R P型改良型。全幅 32 m に延長、発動機を 排気タービン過給機(turbocharger)付きJumo 207 B-3950hp (698 kW)に換装した高高度偵察機・高高度爆撃機。生産機数20機程度。R-1はカメラ2台を搭載、R-2はカメラをやめて爆弾1トンを外装搭載できるようにした爆撃型。
Ju 86 Z 輸出仕様の民間輸送機。Z-1はユモ(Jumo)205 Cディーゼルエンジン装備で1937/38年に就役。Z-2は、BMW 132 H空冷星型9気筒エンジン搭載。1938/39年には満州航空に17機が輸出された。Z-3は、ロールスロイス(Rolls-Royce)ケストレル(Kestrel)液冷V型12気筒エンジン装備で, 1937年以南アフリカ連邦に輸出された。 Z-5 は、プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1690 ホーネット(Hornet)空冷星型9気筒エンジン搭載で、南アフリカ連邦に輸出された。Z-7 は、プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1690 ホーネット(Hornet)S1E-G空冷星型9気筒エンジン搭載で、南アフリカ連邦、ボリビア、スウェーデンに輸出された。

写真(右)1937年10月、イタリア北部、ミラノ、国際航空祭におけるドイツのユンカース(Junkers)Ju86 K 爆撃機(輸出仕様)(登録コード:D-ADAA)の販売用展示:防御用に7.92mm MG15旋回機関銃3挺を搭載。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
写真は, Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 引用。


ユンカース(Junkers)Ju86 K 爆撃機は輸出仕様である。そのため、諸外国でも普及していおり、整備も容易なアメリカ製プラット&ホイットニー R-1690 ホーネット(Pratt & Whitney R-1690 Hornet)S1E-G空冷星型9気筒エンジン(排気量27.7L)760 hpあるいはイギリス製ブリストル マーキュリー(Bristol Mercury)空冷9気筒エンジン (排気量25 L) 745 hp など外国製の空冷星型ガソリンエンジンを装備している。

写真(右)1937年10月、イタリア北部、ミラノ、国際航空祭におけるドイツのユンカース(Junkers)Ju86 K 爆撃機(輸出仕様)の販売用展示:整備困難なディーゼルエンジンではなく、諸外国でも普及しているBMW132空冷星型エンジンを搭載しているようだ。右側面。カラスドームの空間は、自然光で照らされている。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
写真は, Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 引用。


ドイツがスウェーデン空軍、ハンガリー空軍など外国に輸出したJu86は、輸出仕様として外国でも容易に入手できる発動機として、スウェーデン空軍ユンカース(Junkers)Ju86 K-1 爆撃機発動機は、ドイツのBMW 132空冷星型9気筒エンジンではなく、プラット&ホイットニー R-1690 ホーネット(Pratt & Whitney R-1690 Hornet)S1E-G空冷星型9気筒エンジン(排気量27.7L)760 hpあるいはブリストル マーキュリー(Bristol Mercury)空冷9気筒エンジン (排気量25 L) 745 hp を装備した。

写真(右)1937年10月、イタリア北部、ミラノ、国際航空祭におけるドイツの輸出用に展示されたユンカース(Junkers)Ju86 K 爆撃機(輸出仕様)の正面
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
写真は, Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 引用。


ユンカース(Junkers)Ju86 の飛行機メーカー生産機数は、ユンカース社488数、ATG 162機、ヘンシェル社94機(A/D型のみ)、ブローム&フォッス(Blohm&Voss)75機(A/D型のみ)、合計819機である。内訳は爆撃機仕様Ju86K型133機、民間輸送機仕様38機ある。

ユンカース(Junkers)Ju86 の形式別生産機数は、試作機V型4機、A型・D型486機、E型457機、G型142機、K型(輸出仕様)133機、P型29機、R型19機、Z型38機、合計819機である。

ユンカース(Junkers)Ju86 全形式の輸出機数は、1936年3機、1937年19機、1938年142機、1939年7機、合計171機で、内訳は爆撃機仕様Ju86K型133機、民間輸送機仕様38機ある。

写真(右)1938年、スペイン、スペイン・ファシスト国民戦線ユンカース(Junkers)Ju86 K−7 爆撃機
English: Portuguese Junkers Ju 86K-7 purchased from Nazi Germany Date circa 1938 Author Anonymous
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Portuguese Ju86.jpg引用。


1936年7月17日から1939年4月1日のスペイン内戦は、共和国政府と反乱軍の国民戦線政府との戦いで、反乱軍の指導者となったファランヘ党フランシスコ・フランコFrancisco Franco)総統をイタリア・ドイツのファシスト軍が援助したのである。ドイツは国防軍を義勇軍コンドル軍団Legion Condor)を派兵し、ハインケルHe51複葉戦闘機、ユンカースJu52爆撃機/輸送機、Ju86双発爆撃機、Ju87急降下爆撃機ハインケルHe111双発爆撃機、メッサシュミットBf109戦闘機を投入した。他方、スペイン共和国の人民戦線政府に対しては、ソ連軍が援助をして、空軍兵力としてはポリカルポフI-15I-153複葉戦闘機、I-16単葉戦闘機、ツポレフ(Tupolev)SB快速爆撃機を投入しコンドル軍団Legion Condor)と空戦を演じた。

写真(右)1940年、ドイツから購入したスウェーデン空軍ユンカース(Junkers)Ju86 K-1 輸出仕様の爆撃機:機首は長く、先端に銃座を設けている。南アフリカ空軍も同様のJu86Kを装備している。発動機は、諸外国で入手しやすいアメリカ製、イギリス製の空冷星型エンジンを装備した。
Junkers Ju 86, Swedish Air Force B 3 Date 1976 Source Own work Author Towpilot
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Junkers Ju 86, B 3.jpg引用。


ユンカース社が開発したユンカース(Junkers)Ju86 E 爆撃機は、1939年9月に勃発した第二次世界大戦でも初期にドイツ空軍双発爆撃機として実戦配備されていた。発動機は、従来のユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンの信頼性が不足していたために、Ju52輸送機にも搭載されてドイツで普及し整備しやすかった信頼性の高いBMW132空冷星形エンジンに換装されている。主翼は、角ばったテーパー翼で初期型と同じである。

スウェーデンはブリストル マーキュリー(Bristol Mercury) XIX 空冷9気筒エンジン (排気量25 L) 905 hp装備のユンカース(Junkers)Ju86 K−1 爆撃機を1937年4機、1938年36機の合計40機を部品輸入して、国内のサーブ(Saab)社でライセンス生産した。またJu86民間輸送機用も1936年1機輸入している。

カラー写真(右)2012年6月4日、スウェーデン、ストックホルム、スウェーデン空軍博物館、1938年にライセンス生産されたスウェーデン空軍ユンカース(Junkers)Ju86 K-13 爆撃機(B-3C-2):1958年まで就役していた。降着装置は飛行中の引込み状態で展示されいる。奥に見えるのは、イタリアから輸入したスウェーデン空軍フィアットCR42複葉戦闘機。
Built in 1938, this last remaining Ju86 served until 1958. It now carries F21 unit markings. It is a German built aircraft (some were built in Sweden) and is actually a Ju86K-13, which had the Swedish designation B-3C-2. msn 0860412. Flyvapenmuseum, Malmen, Sweden. 04-6-2012 Date 4 June 2012, 11:27 Source Junkers Ju86K (B-3C-2) '0155 / A blue' Author Alan Wilson
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Junkers Ju86K (B-3C-2) 0155 A blue (8038984145).jpg引用。


ユンカース(Junkers)Ju86 全形式の輸出機数は、1936年3機、1937年19機、1938年142機、1939年7機、合計171機で、内訳は爆撃機仕様Ju86K型133機、民間輸送機仕様38機ある。

ユンカース(Junkers)Ju86 K爆撃機は、輸出仕様のため、輸出先でも採用しているプラット&ホイットニー R-1690 ホーネット(Pratt & Whitney R-1690 Hornet)S1E-G空冷星型9気筒エンジン(排気量27.7L)760 hpあるいはブリストル マーキュリー(Bristol Mercury)空冷9気筒エンジン (排気量25 L) 745 hp 離と外国製の空冷星型9気筒ガソリンエンジンを装備している。

Ju86の爆撃機・民間輸送機の全形式の輸出機数は、1936年3機、1937年19機、1938年142機、1939年7機である。内訳は、爆撃機の輸出は133機、民間輸送機の輸出は38機、輸出合計171機である。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)は不調だったので、大半は空冷星型エンジンを装備した。

ユンカース(Junkers)Ju86 全形式の国別輸出機数は、ハンガリー66機、スウェーデン41機、南アフリカ連邦18機、満州国14機、日本1機、チリ16機、ポルトガル10機、ボリビア4機、スイス1機などとされる。

⇒写真集Album:ユンカース(junkers)Ju 86 爆撃機を見る。


8.マーチン(Martin)B-10爆撃機

写真(右)1938年、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス、ロングビーチ、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10双発爆撃機:第二次世界大戦初期・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。初飛行は、1932年2月16日。アメリカ陸軍航空軍が採用した最初の全金属製単葉双発引込み脚爆撃機である。競争相手のボーイング社のモデル215(YB-9)は、金属製ではあったが、固定脚で、開放式コックピットの機体だった。他方、マーチンB-10は引込み脚、密閉式コックピットで、航続距離も1400マイル、最高速力も時速207マイルで、22マイル以上も早かった。アメリカ陸軍はすぐに14機のB-10を発注した。
Description Long Beach, CA, 1938. Date 18 September 2010, 22:31 Source Martin B-10 from Moffett Field Author Bill Larkins
写真はInstitute of Museum and Library Services Category:Martin B-10 File:Martin B-10 from Moffett Field (5003565756).jpg引用。


1930年代初期に実用化されたマーチン(Martin)B-10爆撃機は、革新的なデザインの全金属製、単葉(主翼1枚)、引込み式脚の設計だった。胴体が太く、風貌や銃座の張出も無粋で空力学的に洗練されているとはいいがたいが、当時の世界各国の実用化されていた戦闘機よりも高速だった。1936年にマーチン社は、許可を得て二国に対する輸出型の販売を行った。これはオランダ向けのマーチン139WHと中国向けのマーチン139WCである。139の後のWは世界、Hはオランダ、Cは中国を示している。

写真(右)1941年12月以前、アメリカ、雪山上空を飛行するアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10B双発爆撃機(115)の左側面:1932年2月16日に初飛行し、1940年までに348機が量産された。日本軍のハワイ空襲の時も配備されていたが、戦果はなかった。
Martin : B-10 : Catalog #: 00005687 Manufacturer: Martin Designation: B-10 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はWikimedia Commons SDASM Archives 引用。


写真(右):1933-1935年頃、アメリカ、舗装滑走路上で左右のエンジンを停止して待機しているアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10爆撃機:アメリカ製マーチンB-10爆撃機は、輸出型をMartin 139Wと呼称し、オランダと中国に輸出された。
Martin : B-10 : Catalog #: 00005659 Manufacturer: Martin Designation: B-10 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives 引用。


1930年代初め、アメリカのマーチン社は、マーチン・モデル123(Martin Model 123)を開発、これは全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機だった。

マーチン社は1932年2月に原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。

写真(右)1934年、アメリカ、滑走路を離陸して飛行場から飛び去ろうとするアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10双発爆撃機の後方:国籍マークとして主翼上下に青丸白星赤丸、垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いているが、胴体側面に国籍マークは描かれていない。
Martin : B-10 : Catalog #: 00005674 Manufacturer: Martin Designation: B-10 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はInstitute of Museum and Library Services SDASM Archives 引用。


マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。輸出仕様のマーチン139W爆撃機は、合計200機が生産されたが、中国にも引き続き販売され、中国だけでも数十機のマーチン爆撃機を中国空軍に部隊配備したものと考えられる。

写真(右):1937年2月、中国に到着した組み立ての終ったアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: マーチン139WC爆撃機の前に、中国人の飛行搭乗員とアメリカ陸軍航空隊の搭乗員が揃って記念写真を撮影した。 技師・整備士が機体の胴体上に乗り点検作業をしている。同時期と思われる組み立ての終ったマーチン(Martin)139WC爆撃機の写真から推測して、飛行場の場所は中国、上海、虹橋飛行場と思われる。飛行場の使用頻度も、繋留飛行機数も少ないために、飛行場滑走路は転圧のみで舗装はされていない。サンジエゴ航空宇宙博物館アーカイブ(San Diego Air and Space Museum Archive)には、これと同じ写真が、トリミングを変えて3枚、所蔵、公開されている。
Martin B-12 and unknown
Catalog #: 1609
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 1609引用。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。マーチン139WC爆撃機は、1936年から1939年にかけて、中国に向けて合計数十機が輸出されたようだ。1937年の中国空軍における配備部隊は、第14志願飛行隊(14th Volunteer squadron)、第10爆撃戦隊などである。

写真(右)1941年12月以前、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島上空を飛行するアメリカ陸軍航空隊第23爆撃戦隊マーチン(Martin)B-10双発輸送機:1932年2月16日に初飛行し、1940年までに348機が量産された。日本軍のハワイ空襲の時も配備されていたが、戦果はなかった。
English: Photo of a Martin B-10 variant of the 23d Bombardment Squadron taken in 1941 over Oahu, Hawaii. Date 1941 Source Self-photographed Author Harold Wahlberg
写真はWikimedia Commons Category:Martin B-10 File:Martin B-10 Variant.jpg引用。


写真(右):2022年5月19日、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に世界中でただ1機のみ展示されているマーチン(Martin)139WAA爆撃機
DAYTON, Ohio -- Martin B-10 in the Early Years Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
English: Martin 139WAA at the National Museum of the United States Air Force. Date 19 May 2022 Source Own work Author ZLEA.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin 139WAA (5-19-2022).jpg引用。


⇒写真集Album:マーチン(Martin) B-10/139WC 双発爆撃機を見る。


9.ダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機

写真(右)1937年頃、アメリカ、舗装飛行場で待機中のダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機前期短機首型(BS-32)の左前側面:国籍マークは、参戦前、青丸白星赤丸、垂直尾翼方向舵の赤白帯。コックピット後上方にあった方位測定用環状ループアンテナはついていないが、アンテナ支柱が2本あり間に無線が張られている。
Catalog #: 00046953 Manufacturer: Douglas Designation: B-18 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlicker, San Diego Air and Space Museum Archive, 引用。


ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)爆撃機は、アメリカ陸軍航空隊が1936年に制式した。ダグラスDC2旅客機の主翼を流用した設計で、開発期間を短縮できたものの、速力不足(357km/h)、爆弾搭載量(2000lbs/908kg)は十分ではなかった。


写真(右)1937年頃、アメリカ、飛行場から離陸したダグラス(Douglas) B-18A ボロ“Bolo”爆撃機中期長機首型(38-586)の左側面
:機首上部の突出部下に平面ガラス風防を設け、爆撃照準器を備えた。機首下部には半球形の銃座が取り付けられている。この中期型は、第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。コックピット後上方に方位測定用環状ループアンテナを装備している。固定式尾輪の支柱が長いのは、胴体下面が山刀(ボロ:タガログ語)のように湾曲しているため。
Ray Wagner Collection Image B-18A PictionID:46702985 - Catalog:16_007827 - Title:Douglas B-18A 38-586 Santa Monica - Filename:16_007827.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSmugMug+Flickr., San Diego Air and Space Museum Archive, 引用。


ダグラス(Douglas) B-18A は、発動機をより強力なライト(Wright)R-1820-53空冷星形9気筒エンジンに換装している。ダグラス社ではDB-4の形式を与えられたが、これはダグラス(Douglas)爆撃機(Bomber)4型の意味である。

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)爆撃機を見る。




ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
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