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■中国
中国のバイオマスエネルギー:ローカルコモンズ里山での薪採取
貴州省の低地と山村
貴州省の持続可能な農業:肥やしと堆肥
雲南省の窯業:剣川県の農村家内工業の粘土瓦生産
雲南省のタバコ生産
雲南省の牧畜:ローカルコモンズ入会地
雲南省の白族定期市
雲南省の仏教:白族の祭礼
雲南省剣川県の古鎮
北京市街地:公衆トイレ/中日友好病院
北京の食品製造工場:燕京ビール/三元乳業
北京の地下鉄・河南省の寝台列車
中国河南省の農村と薪採取
河南省開封市の繁華街
四川省丹巴県甘孜蔵族の農業とバイオマス/堆肥
福建省南靖県お茶生産
福建省南靖の生活/農業
成都平原の三星堆遺跡:長江文明:四川青銅器文化

■フィリピン
カリンガ州棚田の田植え
Rice Terrace, Kalinga

カリンガ州棚田の稲刈り
Rice Terrace, Cordillera
カリンガ州山村の小学校
Elementary School at Kalinga

カガヤン州ツゲガラオの市場
Market of Tuguegarao, Cagayan

マニラのスモーキーマウンテン
Smokey Mountain, Manila

メトロマニラのスラム街:ケソン市リテック/パヤタス
マニラのパヤタス廃棄物処分場:スカベンジャー
セブ市のアルミ再生工場:サンドダイカスト
バタンガスの自動車工場:修理と廃車リサイクル
セブ島の造船所

■タイ王国
写真解説:タイ農村の米作
写真解説:タイの家内工業:養蚕とシルク反物
写真解説:タイの牧畜・繊維作物生産
論文「タイの家内工業とワークシェアリング」

文部科学省・科学研究費補助金の報告書

1.アジア太平洋の地域コミュニティにおけるコモンズ管理と草の根民活論(2011)基盤研究(C)2010-2011
2.アジア太平洋の地域コミュニティにおける個人経営体を重視した社会開発と環境保全(2005)基盤研究(C)2003-2005

3.開発途上国における個人経営体と草の根の環境ODA(2002)基盤研究(C)2001-2002

4.開発途上国における個人経営体に対する草の根の環境ODA(2003)基盤研究(C)1998

5.開発途上国の小規模産業における雇用吸収力と経済援助(1993)奨励研究(A)1993

6.開発途上国の小規模産業における個人経営体のもつ雇用吸収力と経済援助(1992)奨励研究(A)1992

7.開発途上国の諸産業における契約形態についての理論的・実証的研究(1989)東京大学・特別研究員PD


「政府開発援助 : その現状と問題点:日本と欧州連合の場合」東海大学紀要. 教養学部 28,311-320,1998 (東海大学出版会/東海大学)
◆多様な文化や価値観を持った人々の共生が,持続可能な平和を構築するのに必要であり、多民族・多人種の共生の視点が重要になってきた。この概念は、人種民族差別,特定グループの迫害,優生学とは,真っ向から対立する。つまり,戦争と平和の問題は,サステイナビリティー(持続可能性)の議論と重なり合う部分が多い。この複合的な分野を扱う学問が環境平和学である。


ハンセン病年表
1873年(明治6)  ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン、らい菌(mycobacterium leprae)を発見

1907年(明治40)  「癩予防ニ関スル件」公布

1909年(明治42)  府県連合立(公立)癩療養所創設

1931年(昭和6)  「癩予防法」(旧法)公布

1941年(昭和16)  公立癩療養所を国立へ移管、国立療養所として発足

1943年(昭和18)  米国でプロミン(プルミン)の治らい効果発表

1946年(昭和21)  日本でプロミンの合成成功

1949年(昭和24)  プロミン予算化

1953年(昭和28)  「らい予防法」(新法)公布

1960年(昭和35)  WHO(世界保健機関)が外来治療管理の方向を勧告

1996年(平成8)  「らい予防法の廃止に関する法律」施行

1998年(平成10)  らい予防法違憲国家賠償請求訴訟提起(熊本地裁)

2001年(平成13)  ハンセン病国家賠償訴訟で熊本地裁が元患者側全面勝訴の判決

「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」公布、施行

和解に関する基本合意書調印

2002年(平成14)  和解に関する基本合意書調印

2005年(平成17)  ハンセン病問題に関する検証会議が厚労相に最終報告書提出

2006年(平成18)  国外に開設されたハンセン病療養所入所者に国内と同水準の補償金を支給

改正ハンセン病補償法の施行

2007年(平成19)  国立ハンセン病資料館再開館

2008年(平成20)  「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」国会成立

2009年(平成21)  「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」施行

◆多様な文化や価値観を持った人々の共生が,持続可能な平和を構築するのに必要であり、多民族・多人種の共生の視点が重要になってきた。この概念は、人種民族差別,特定グループの迫害,優生学とは,真っ向から対立する。つまり,戦争と平和の問題は,サステイナビリティー(持続可能性)の議論と重なり合う部分が多い。この複合的な分野を扱う学問が環境平和学である。


ハンセン病年表
1873年(明治6)  ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン、らい菌(mycobacterium leprae)を発見

1907年(明治40)  「癩予防ニ関スル件」公布

1909年(明治42)  府県連合立(公立)癩療養所創設

1931年(昭和6)  「癩予防法」(旧法)公布

1941年(昭和16)  公立癩療養所を国立へ移管、国立療養所として発足

1943年(昭和18)  米国でプロミン(プルミン)の治らい効果発表

1946年(昭和21)  日本でプロミンの合成成功

1949年(昭和24)  プロミン予算化

1953年(昭和28)  「らい予防法」(新法)公布

1960年(昭和35)  WHO(世界保健機関)が外来治療管理の方向を勧告

1996年(平成8)  「らい予防法の廃止に関する法律」施行

1998年(平成10)  らい予防法違憲国家賠償請求訴訟提起(熊本地裁)

2001年(平成13)  ハンセン病国家賠償訴訟で熊本地裁が元患者側全面勝訴の判決

「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」公布、施行

和解に関する基本合意書調印

2002年(平成14)  和解に関する基本合意書調印

2005年(平成17)  ハンセン病問題に関する検証会議が厚労相に最終報告書提出

2006年(平成18)  国外に開設されたハンセン病療養所入所者に国内と同水準の補償金を支給

改正ハンセン病補償法の施行

2007年(平成19)  国立ハンセン病資料館再開館

2008年(平成20)  「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」国会成立

2009年(平成21)  「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」施行
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◆ハンセン病資料館・国立療養所多磨全生園鳥飼ゼミ研修ハンセン病資料館
1.東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程の鳥飼行博研究室では平和人権の立場で日本の貧困や福祉のフィールド調査をしています。
2.鳥飼行博担当授業ゼミナール卒論作成の日本・中国・タイの学生は、2014年5月16日、東村山市ハンセン病資料館・国立療養所を訪問し、入園者自治会長佐川修氏のお話を伺い、全生園内の施設・史跡を見学しました。
3.鳥飼行博研究室では、「国に寄与しないもの」「国の恥」「税金の無駄遣い」「生きるに値しない命」という差別主義を克服しようと学んでいます。
4.1996年にらい予防法が廃止まで、政府は90年間、ハンセン病患者・回復者を国立療養所と称する強制収容所に終生絶対隔離し、人権を侵害してきました。けれども、入所者(入園者)は、外の世界へ向かって協働・共生を訴え、差別と闘いました。社会の共生のあり方、インクルージョン(inclusion)とは何かを考えてみたいと思います。

鳥飼ゼミ国内研修

Our Field Survey


 

東海大学鳥飼ゼミ国内研修

Tokai University 2014


資料館玄関
東京都東村山市国立ハンセン病資料館玄関に集合した東海大学教養学部の鳥飼ゼミの学生たち。ハンセン病資料館は、1993(平成5)年6月、高松宮記念ハンセン病資料館として開館。その後、2007(平成19)年4月、国立ハンセン病資料館として拡張、オープンした。

東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程の鳥飼行博ゼミでは開発と環境の経済学をベースに、1)貧困解消、2)人間開発、3)平和人権の確立、4)環境保全、といった環境平和学を研究している。 巡礼
東海大学教養学部鳥飼行博ゼミ日本・中国・タイ男女学生は、東京都東村山市青葉町の国立療養所多磨全生園を訪問した。20世紀以前、治療法がなかった時代の日本では、ハンセン病患者は、家族も故郷も離れて、四国にお遍路に行き、人々の慈悲にすがり、物乞いのような生活をするしかなかったという。ハンセン病は遺伝病とも天罰病とも誤解され、ハンセン病患者は社会から差別され続けてきた。しかし、近代明治まで、ハンセン病患者が、国・政府によって終生強制隔離されることはなかった。 地図
 多磨全生園は、東村山市にあるハンセン病の国立療養所。ここには、保護を受けている元ハンセン病患者ハンセン病後遺症のある元患者、完治した元ハンセン病患者が長期定住・滞在している。鳥飼ゼミ大阪研修では、入所者自治会長・佐川修氏にハンセン病患者の治療・差別・人権回復、無らい県運動、国のハンセン病患者隔離・断種の誤った政策、国民や地域・家族の無理解についてのお話を伺った。

地図
◆人間環境学科鳥飼行博ゼミの日本・中国・タイの学生は、国内研修・フィールド調査として、大阪市の安い宿泊所に連泊し、ホームレス・日雇い労働者聞き取り調査、住之江区のアジア太平洋トレードセンター株式会社(ATC)での福祉・環境の聞き取り調査、浪速区の新世界・中央区の道頓堀の訪問も実施してきた。

ハンセン病資料館

 Hansen's Disease Museum


展示室
東京都東村山市(人口15万人)にあるハンセン病資料館の展示。鳥飼行博ゼミの日本・中国・タイの学生は、ハンセン病に関するビデオを視聴してから、2階にある展示室ハンセン病について学んだ。
1929年から「無癩県運動」が開始。この運動は、市町村長、警察、方面委員、宗教者、愛国婦人会によって行われ、目的は患者を摘発、排除し、地域から患者を一掃すること。ハンセン病患者の隔離を円滑に進めるために、住民にハンセン病に対する恐怖心をあおり、患者及び患者家族の差別、迫害を助長するプロパガンダを展開した。     消防
東村山市にある国立ハンセン病資料館には、隔絶された療養所に設置されていた映写機、消防団団服、消火栓ホース車など古い消防設備が展示してある。ハンセン病施設は、隔離施設であり、所外・園外から消防車など公共サービスを受けることはできなかったため、自給自足を強いられた。
国立療養所多磨全生園自治会長佐川修氏によれば、入所者たちは、1945年、アメリカ軍B-29爆撃機による東京空襲で被災した地域の後片付け、死体処理・遺体火葬の作業を申し付けられた。しかし、所内に終生強制隔離されていた入所者たちは、過酷な作業とはいえ、所外出し外の世界に触れることができることを喜んだと。 学生ライ
 鳥飼行博ゼミでは、清瀬駅・久米川駅近く、東村山市ハンセン病資料館を訪問し、国家による差別・人権侵害を考えた。
草津の療養所「栗生楽泉園」には、反抗的な入所者を処罰するための監獄があったが、そこで凍死、病死した死者の火葬は、入所者にとって見慣れたものだったようだ。1907年「癩予防二関スル件」、1931年「癩予防法」では、無癩県運動を引き継ぎ、いまでいう日本大和民族の浄化を図るために、ハンセン病患者を、療養所に終生強制隔離した。ライ病撲滅は社会から患者を排除することであり、政府は警察・行政官吏を使って、ハンセン病患者を探し出し、療養所に送り込んだ。療養所は、患者を安静にして体力をつけさせる場ではなかった。自給自足の名のもとに、農作業から教育・医療まで、自給自足のために患者に作業を強要した。したがって、ハンセン病療養所は、事実上、患者を終生強制隔離する強制収容所として機能した。 展示学生
東村山市ハンセン病資料館
 厚生労働省によれば、「このハンセン病にかかった者は、仕事ができなくなり、商家の奥座敷や、農家の離れ小屋で、ひっそりと世の中から隠れて暮らしたのです。ある者は家族への迷惑を心配し、放浪の旅に出る、いわゆる「放浪癩」と呼ばれる人がたくさんいました。
 明治になり、諸外国から文明国として患者を放置しているとの非難をあびると、政府は1907年(明治40年)、「癩予防に関する件」という法律を制定し、「放浪癩」を療養所に入所させ、一般社会から隔離してしまいました。この法律は患者救済も図ろうとするものでしたが、これによりハンセン病は伝染力が強いという間違った考えが広まり、偏見を大きくしたといわれています。
 1929年 (昭和4年)には、各県が競ってハンセン病患者を見つけだし、強制的に入所させるという「無らい県運動」が全国的に進められました。さらに、1931年(昭和6年)には従来の法律を改正して「癩予防法」を成立させ、強制隔離によるハンセン病絶滅政策という考えのもと、在宅の患者も療養所へ強制的に入所させるようにしました。こうして全国に国立療養所を配置し、全ての患者を入所させる体制が作られました。 コンド
東京都東村山市国立ハンセン病使資料館を訪問した鳥飼行博ゼミ
 国立ハンセン病資料館は、高松宮記念ハンセン病資料館として1993(平成5)年6月25日に開館して以来、2014年で21周年を迎えた。「今後さらに活動を充実させ、ハンセン病問題の解決に努めて参ります。 多くのみなさまのお越しをお待ちしております。」とある。

暗い展示女子
東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館を見学し、専門家・学芸員・入所者のお話を伺った。
国立ハンセン病資料館の理念
1.ハンセン病に関する知識の普及や理解の促進に努めます
2.ハンセン病にまつわる偏見や差別・排除の解消に努めます
3.ハンセン病に対する、古代以来の長年にわたる偏見・差別、とりわけ誤った隔離政策の歴史に学び、苦難や被害を被った人々の体験と、これらに立ち向かった姿を伝承します
4.ハンセン病にまつわる苦難を被った人々の名誉回復を目指し、人権尊重の精神を養うことに努めます
5. ハンセン病にまつわる苦難を被った人々と、社会の人々との共生の実現に努めます(追加)

多数学生
東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館の機能
 1) 教育啓発…資料の収集保存や調査研究活動などによって得られた成果を社会に還元します。ハンセン病に関する理解促進と偏見・差別・排除の解消を目指します。
 2)展示…教育啓発のうち、とりわけ資料館の中心となる活動です。常設展示・企画展示を行います。
 3)収集保存…資料の散逸を防ぎ、適切な形で後世に継承するため、ハンセン病に関わる資料を収集・保存します。
 4)調査研究…ハンセン病に関わるさまざまな調査研究を行い、資料館活動の全体を支えます。
 5)情報センター…ハンセン病に関わる情報の受発信を行うとともに、関連機関との連携を図ります。
 6)管理・サービス…円滑な資料館運営を行うとともに、利用者の利便性を図ります。
 7)企画運営…館内の諸活動を連絡調整し、諸機関との連携をはかった運営を行います。中長期の計画に基づいた企画を立案し、各活動に反映させます。
ハンセン病の歴史

 Hansen's Disease Museum


通用券
東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館における園内通用券の展示。全国にあったハンセン病院や収容施設ごと異なった園内通用券が発行され利用された。
 国立ハンセン病療養所(当時は病院)では、入所する患者の所持金を全て取り上げたが、園内の労働に従事することで、若干の支払を行った。これは、入所者が脱走しても使用できない園内通用券による支払である。これは通貨に似た形状のものでも、日本銀行が発行する通貨でないために、園内でしか通用しない。園独自に作られた江戸時代風のコインやプラスチック製のタグなどでクーポン券と同様である。通貨を取り上げた理由は、貨幣も紙幣からハンセン病の伝染することを防ぐという目的だが、実際には通貨を触って伝染することはありえない。実際の目的は、入所者の逃亡を防ぐという人権侵害を正当化するものだった。 ビデオ
ハンセン病資料館の展示意図については、次のような批判が「不可解。国立ハンセン病資料館」にあった。「まずは、ハンセン病の歴史年表が写真、展示品とともに並んでいる。最初に、病気の医学的知識。これはまあいい。その後、絵巻物等の展示で、歴史的にこの病気は忌み嫌われていたのだ、ということを表現している。まあ、その通り。でも、別になくても構わない。日本のハンセン病の問題の大事な部分は、法律によって、重大な人権侵害を新たにした、という点だ。古来からの差別の話とごっちゃにされては困る。裁判の時に厚生省側がよく使った主張、「元々社会的な偏見があって差別されていた。今にはじまったことじゃない」等という論点をはぐらかそうとする苦しい言い訳を思い出してしまう。
その後、法律ができて、取り締まるようになって、しらみつぶしに収容する無らい県運動が起きて・・・。このときのキーパーソンは一体誰?どうしてこんなことになったの?というのがさっぱりわからない。文化勲章まで受章した光田健輔をA級戦犯のように扱う、ということに異論があることは承知しているが、隔離の必要のない人まであぶり出していった無らい県運動を強硬に推進していった人物を何故きちんととりあげないのか。」
ハンセン病隔離政策

segregation

松山
東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館を熱心に見学する鳥飼行博ゼミの中国・タイの留学生。

ハンセン病(らい病)とは、抗酸菌の一種のらい菌(Mycobacterium Leprae)による感染症。現在までらい菌の培養は不可能であり、らい菌の伝染力は極めて低い。ハンセン病の症状は、皮膚、末梢神経に現れ、治療が困難な時期には、四肢や顔面が変形し、重度の障害を持つこともある。そこで、ハンセン病患者は、世間の偏見や差別を受けてきた。患者および病気に対する誤解や偏見は現在でも完全には解消されたとはいえない。また、政府もハンセン病患者を率先して隔離し、生活・職業・教育・余暇のすべての面で人権侵害を行った歴史がある。 福
東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館を見学する鳥飼行博ゼミの学生。1996年 4 月「らい予防法」廃止,2001年 5月、熊本地裁におけるハンセン病違憲国家賠償請求訴訟の原告勝訴によって、日本政府が,1907年「癩予防ニ関スル件」以降,90年近く続けてきたハンセン病政策の誤りを認めて,患者・元患者・入所者、その家族に対して加えた人権侵害と差別を公式に謝罪した。 福コン
東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館を見学する鳥飼ゼミのタイ人留学生。
MERSイベント「ハンセン病シンポジウム」報告記載の国立療養所『大島青松園』の森川重信の講演によれば、次のようにある。
「園内作業についてですが、国は療養所を開設したときから、維持経費をできるだけ安く上げるために職員の数を極端に減らして、必要な管理作業は安い作業賃で全て入園者にやらせました。病棟や不自由寮の看護を始め、包帯、ガーゼの再生作業、食事運搬、洗濯、理髪から火葬に至るまで50種類くらい、300余りの作業がありました。作業は全て強制、または半強制だったのですが、家から送金のない者がほとんどでしたから、無理を承知で作業をしては多くの者が手や足を痛める羽目になりました。
 特に大変だったのは病棟の看護でした。現在は40人近い看護婦と介護員が当たっていますが、私たちの場合は病室のベッドの一つを介護人用にあて、そこへ布団と日用品を持っていって24時間体制で15日間看護に当たりました。夜は当直の看護婦が一人しかいなくて病棟へは来てくれませんから、注射なども自分たちでやりました。また、現在のようにストレッチャーも車椅子もありませんから、病人を治療棟へ運ぶには一人一人背負って行きました。男の場合はまだいいのですが、小さな女性が背負っていく姿は痛々しくて見ていられませんでした。この病棟看護は強制でしたから、1年に3、4回は順番が回ってきました。戦争が終わって、昭和30年頃から職員の数も次第に増えていき、昭和40年代になってやっとこうした管理作業を少しずつ園の方へ変換できるようになりました。そして、ほとんどの作業を変換し終えたのは昭和50年代の終わりでした。」(引用終わり) たけ
東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館を見学する鳥飼ゼミ学生。全国のハンセン病療養所内では、患者を隔離して、外出も許さなかった。そして、孤立化させた園内では、職員不足を補うために、患者・入所者が、看護、耕作などの園内作業(患者作業:patient work)を強いられた。後遺症がある患者も元患者も、盲目者も、児童も労働に従事させられた。 患者作業
東京都東村山市国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された国立ハンセン病資料館
 ハンセン病療養所内における入所者の生活は,貧困と徹底的な管理体制下に置かれた。ハンセン病療養所入所者が働く患者作業は、慰安的作業として開始されたといわれるが,入所者の自給自足を方針とした強制労働の側面が強い。患者、病気の者、後遺症のある障害者、盲人まで患者作業(園内作業)の労働を強要されたことで、治療の側面が軽視されていたことは明らかである。病状悪化にもつながった。 福李
ハンセン病患者の患者作業(園内作業)は、第二次大戦後も、継承され、入所者数の増大と施設拡大に伴って、患者作業の量は増えたようだ。患者作業(園内作業)が療養所運営の中核となれば、入所者の治療よりも、財政支出削減に寄与させる目的が濃厚となる。しかし、入所者が、人権回復の闘争を始めると、入所者の手によって作業が運営されるようになる。こうして、患者作業(園内作業)が、入所者の生活改善要求の手段として利用されるようになった。 コンり1907年の「癩(らい)予防ニ関スル件」以降、国家によるハンセン病患者の隔離政策が開始。1929年に「無癩県運動」が開始。戦後、1953年「らい予防法」でもハンセン病患者の「終生隔離撲滅主義」は継承され、断種も続いた。「ハンセン病は不治の病、怖い天罰」との偏見を国家が助長した。「らい予防法」廃止は1996年になって「らい予防法の廃止に関する法律(平成8年法律第28号)」が成立してからである。2001年5月、熊本地裁判決「遅くとも1960年以降は隔離の必要性はなく、隔離政策は憲法違反」との判断が下されたが、国は控訴せずに責任を認めた。 秩序維持と社
国立ハンセン病療養所入所者や入所者自治会、それに協力するNPO、篤志家などによって、草の根レベルで、ハンセン病患者や療養所の資料の収集・保存が進み、ハンセン病差別の記憶継承の場として資料館が設置された。 竜家
ハンセン病資料館を見る鳥飼ゼミの学生たち。
療養所、すなわちハンセン病収容所では、家族への偏見や差別を前提に、所内で通用する偽名を名乗ることを余儀なくさせ、断種を強要した。ハンセン病元患者で後遺症の残る人は、介護保険サービス利用福祉用具介護保険を利用して購入・レンタルできる。 山高
国立ハンセン病療養所に関連して、国や自治体・学校などの啓蒙活動・人権教育が進んでいるが、ハンセン病療養所の入所者は、強制隔離政策されて以来、故郷に戻ることができないままでいるという。治療可能で、感染力は弱いことが明らかになっても、入所者の社会復帰が完全ではないのは、差別してきた側の思い、断種を強要され、差別されてきた側の思いが埋まらないためであろうか。入所者の平均年齢80歳以上と高齢化が進行する中,事実上,今後も社会復帰は難しくなる一方である。 山沢
2012年のハンセン病問題基本法によって、「歴史的建造物保存等検討会」が設置され、全国の国立療養所の資料調査が政府の支援によって本格化しそうである。全国のハンセン病療養所において、ハンセン病患者の記憶を物語る歴史資料や建造物,遺構の保存が検討されている。ハンセン病患者の絶対隔離施設という日本の暗黒の歴史を直視し、記憶するための空間が求められている。 沢
MERSイベント「ハンセン病シンポジウム」報告記載の国立療養所『大島青松園』の森川重信の講演によれば、次のようにある。
「園内結婚についてお話しします。園内での結婚は早くから行われていたようですが、それには二つの理由があったと思われます。その一つは、周囲7キロほどの小さな島で有刺鉄線の囲いの中で、故郷の肉親とも音信を絶って暮らしている身です。生きていく支えに出来たのは愛情しかなかったと思います。お互いに病む身を寄せ合って、助け合いながら、励まし合いながら生きてきたのでした。そして二人で手を取って納骨堂へ行った夫婦は数え切れません。
 もう一つは、国が結婚を奨励したのです。昔はハンセン病を発病すると家を出て、あるいは出されて各地の神社仏閣などへ集まり放浪生活を余儀なくされました。四国の場合は八十八カ所のお寺を廻ったようです。一般のお遍路さんは一回りすれば家へ帰りますが、ハンセン病の者たちは何回まわっても帰る家はなく、死ぬまで回り続けなくてはなりませんでした。そうなると心が荒れるのは仕方のないことで、喧嘩も多かったようですし、中には悪事をはたらく者さえいたようです。」   治療
MERSイベント「ハンセン病シンポジウム」報告記載の国立療養所『大島青松園』の森川重信の講演によれば、園内結婚について、次のようにある。
「そこで国はその緩和策の一つとして、結婚を奨励したのです。ただし、この結婚には絶対の条件が付いていました。国は子どもを絶対に産ませない方針でしたから、それに従って結婚前、男性に断種手術を強制したのです。これは、人権を無視した本当にひどい話でしたが、当時は黙って従うしかありませんでした。また、園内の結婚は一般社会の幸せな結婚にはほど遠いものでした。結婚した後も昼間は男性女性それぞれ自分の部屋で過ごします。男性が夕食を食べずに、奥さんの部屋へ持っていって、一緒に食べ、夜を過ごした後、朝二人でお茶を飲んで、男性は朝食の時間までに自分の部屋に帰るといった毎日でした。女性の半数くらいは結婚していましたから、夜は24畳の部屋に6組くらいの夫婦と6人くらいの独身者が一緒に寝ていました。何か大事な話をするときは山や海岸へ二人で行って話しました。
園内全体が雑居生活でしたから、個人のプライバシーなど問題にされなかった時代で、それは夫婦といえども同じことでした。こうした状態は開園以来、昭和26年まで40年余りも続いていました。昭和26年の春になって、ようやく少数の夫婦寮が建設され、結婚歴の古い者から入居しました。やっとできた二人だけの部屋は、洗面所も流しもトイレもない、4畳半一間の部屋でしたが、二人にとってはどんな豪邸にも負けない素晴らしいもののようでした。ようやく人並みの結婚生活がおくれるようになって、みんな結婚していて良かったと心から喜んでいました。夫婦寮はその後も建設され、昭和.30年には夫婦全員が入居できました。独身寮もその後24畳の大部屋から12畳定員4名の部屋に改造され、しばらくしてまた個室に改造されました。」(引用終わり) 棟の部屋展示
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地にある国立ハンセン病資料館を見る鳥飼行博ゼミ学生り竹家
国立ハンセン病療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館を団体訪問するのは、人数の上では、小中学校・高校生、医療短期大学、看護学校の学生が中心で、四年生大学・大学教授は少ない。
ハンセン病患者権利回復

prevention of disability

竹ぺなんと
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された国立ハンセン病資料館を見る。
 第二次大戦後の1953年になっても、日本政府は、ハンセン病の治療法が確立し、隔離政策は世界的に批判されていることを知りながら、終生強制隔離を続ける「らい予防法」を制定した。これらの法律には、療養所を出る、故郷に戻る、家族の元に帰るといった退所規定はなかった。このような政府の公的なハンセン病患者差別、強制隔離の政策が、一般社会においての、ハンセン病患者・元患者に対する差別を永続させ、ハンセン病患者の人権回復への配慮を遅らせることになった。 ぺなんと
国立ハンセン病資料館を見学した東海大学教養学部鳥飼行博ゼミの学生。
2009年4月施行「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」第四章「名誉の回復及び死没者の追悼」、第18条「国は、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復を図るため国立のハンセン病資料館の設置、歴史的建造物の保存等ハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及啓発その他必要な措置を講ずる」ために、国立ハンセン病資料館が設置された。
2009年「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」第一章 ハンセン病療養所退所者給与金
第1条  ハンセン病問題の解決の促進に関する法律 (以下「法」という。)第十五条第一項 に規定するハンセン病療養所退所者給与金(以下この章において「退所者給与金」という。)は、月を単位として支給するものとし、その月額は、次の各号に掲げる場合の区分に応じ、それぞれ当該各号に掲げる額とする。
一  同一の世帯に属する認定退所者が一人である場合 十七万六千百円
二  同一の世帯に属する認定退所者が二人以上である場合 十万五千六百円に当該世帯に属する認定退所者の数を乗じて得た額に七万五百円を加えた額を当該世帯に属する認定退所者の数で除して得た額 東福竜
らい予防法の廃止に関する法律(平成8年法律第28号) 
第一条  らい予防法(昭和二十八年法律第二百十四号)は廃止する。
第二条  国は、国立ハンセン病療養所において、この法律の施行の際現に国立ハンセン病療養所に入所している者であって、引き続き入所するものに対して、必要な療養を行うものとする。 松東
「らい予防法廃止法」・第三条  国立ハンセン病療養所の長は、この法律の施行の際現に国立ハンセン病療養所に入所していた者であって、この法律の施行後に国立ハンセン病療養所を退所したもの又はこの法律の施行前に国立ハンセン病療養所を退所していた者であってこの法律の施行の際現に国立ハンセン病療養所に入所していないものが、必要な療養を受けるため、国立ハンセン病療養所への入所を希望したときは、入所させないことについて正当な理由がある場合を除き、国立ハンセン病療養所に入所させるものとする。
2  国は、前項の規定により入所した者に対して必要な療養を行うものとする。 「らい予防法廃止法」・第四条  国は、入所者及び再入所者の教養を高め、その福利を 増進するように努めるものとする。 福ぺなんと
「らい予防法廃止法」・第五条  国は、入所者等に対して、その社会復帰に資するために必要な知識及び技能を与えるための措置を講ずることができる。
第六条  都道府県知事は、入所者等の親族(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情のある者を含む)のうち、当該入所者等が入所しなかったならば、主としてその者の収入によって生計を維持し、又はその者と生計を共にしていると認められる者で、当該都道府県の区域内に居住地(居住地がないか、又は明らかでないときは、現住地)を有するものが、生計困難のため、援護を要する状態にあると認めるときは、これらの者に対し、この法律の定めるところにより、援護を行うことができる。
 2  援護は、金銭を給付することによって行うものとする。ただし、これによることができないとき、これによることが適当でないとき、その他援護の目的を達するために必要があるときは、現物を給付することによって行うことができる。 服高
国立ハンセン病療養所多磨全生園に設置された国立ハンセン病資料館を見学する東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの女学生。
全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)は、ハンセン病問題の解決の促進に関する法律のいう「ハンセン病に対する正しい知識の普及啓発による偏見・差別の解消及び患者・元患者の名誉回復を図ること」を目的にした団体。ハンセン病に対する正しい知識に加えて、患者・元患者の名誉回復を図るためには「ハンセン病対策の歴史に関する正しい知識」も必要とされる。 服高山
全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)会長神美知宏(こう・みちひろ)氏は、2014年5月9日、群馬県の病院で死去。80歳。多磨全生園でお別れ会。香川県の大島青松園で半世紀にわたり療養。その後は元患者として療養所入所者の尊厳確立と差別撤廃、社会復帰、療養所の将来のため人権回復の運動に従事。国立ハンセン病資料館の事業計画などを協議するため厚生労働省が設置した「ハンセン病資料館等運営企画検討会」、全国の療養所にある史跡をどう保存していくか話し合う「歴史的建造物の保存等検討会」委員。 ぱちんこ
国立打ハンセン病療養所では、入所しているハンセン病患者や後遺症を持つ元患者のリハビリテーションを目的に、パチンコも利用された。アミューズメントとはいっても、賭け事、散在ゲームとして格下に置かれることの多いパチンコだが、福祉に有用な使い方もある。 高ぺなんと
ハンセン病療養所に強制隔離された入所者でも結婚できたが、その条件として、断種され、妊娠すると人工妊娠中絶が強要された。この時の胎児は、病理研究を名目に標本化された。また、死亡した場合、入所者の遺体は解剖に回された。 牢
人権を侵害することをいとわず、ハンセン病患者を追放する「無らい県運動」が官民一体となって実施され、警察によって囚人のようにハンセン病患者は護送され、収容所に隔離された、子供を産めないよう断種された。この強制収容所を「病院」「療養所」と呼称した。 たか人名
平田勝政(2010)「日本ハンセン病社会事業史研究(第2報)―民間の隔離主義運動の成立・展開過程の検討―」によれば、全生病院長・日本MTL 理事光田健輔(みつだ けんすけ:1876-1964)は、講演「癩問題の危機」で「世界一般の癩学者の意見は楽観に傾いている」として、「治療の力を過信している」ことを批判し、「軽快者」も「再発」の危険があり、「の撲滅に対して治療のみによることは今日の状態では最も危険であって、どうしても一方に治療を行い他方患者の隔離を励行する必要がある」と主張した。1923年の第三回の「世界癩会議」(ストラスブール)では、「隔離は人道上の罪である」と論じられていたが、光田は、「大楓子油の治療が隔離に代わる丈けの効験があるものとは思はれない」と否定し、「軽快者」の「開放(解放)」も「日本の現状に於いては未だ不適当」であるとした。さらに「軽快者は収容所の職員の補助又は重症者の看護等の業務を援助して収容所に在留することが最も望ましい」と、ハンセン病患者の終生絶対隔離を主張した。 偏見
1920年から1930年代にかけて「無癩県運動」「救癩」「病絶滅(根絶)」が官民の運動となり、満州事変、日中戦争太平洋戦争と戦争の時代背景から、国家に貢献できないとみなされたハンセン病患者への圧力は強まってゆく。また、天皇を現人神とみなす信仰、優れた大和民族、世界の一等国大日本という国家主義、ナショナリズムから、ハンセン病患者は国家の恥として白眼視されるようになる。
ハンセン病療養所内の監禁室

a jail sentence

まつ牢
重監房は、反抗的な、ハンセン病患者・入所者を隔離する部屋で、見せしめの意味合いもある。牢であり、1週間入れておとなしくさせる。本来は、病気治療が必要な患者であっても所長の持つ癩患者懲戒検束(ちょうかいけんそく)権によって、恣意的に監房に入れられるということは、国立療養所が治療施設というより、隔離収容所、強制収容所であったことを示している。
 2013年10月1日『資料館だより』 第81号(季刊)「栗生楽泉園内にある「特別病室」」によれば、群馬県吾妻郡草津町に位置する国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」の重監房跡地の発掘調査が8月6日から一ヶ月行われ、数種類の錠前が出土し、「特別病室」が監禁施設である物証となった。さらに、各独房の便槽から、収監された人々に由来する木製弁当箱、木椀、箸、梅干種の出土は、「重監房」における食事に関する証言に重なる。さらに眼鏡、鉛筆、下駄等、人々が持ち込んだと推定される遺物も出土し、牛乳瓶、食品瓶、整腸剤瓶等の出土は房内で懸命に生き延びようとした証とも推定できる。 竜牢
ハンセン病療養所内には、監禁室が設置され、反抗的な癩患者・入所者を処罰のために拘束した。これは療養所長(収容所長)の懲戒検束(ちょうかいけんそく)権の下での恐怖による支配、すなわちテロである。
監禁室は、ハンセン病療養所長の持つ司法権・警察権、すなわち懲戒検束権(1916年規定)に基づき、全国13か所の療養所に設置された。菊池恵楓園では1917-1948年に使用された監房3室が現存している。1室6畳、板張りで便器があった。逃亡やけんか、盗み、木の枝の折損などの罪で、最高60日間収監された。食事はおにぎり1個とたくわん二切れ程度で1日3食。 死牢
全国のハンセン病患者療養所、すなわち収容施設では、所長に司法権・警察権があり、懲戒検束(ちょうかいけんそく)権によって、反抗的な癩患者・入所者、自由を求める者を、所内の監禁室・監房に入れることができた。

国立癩療養所患者懲戒検束規定 (昭和六年一月三十日認可)
第一条 国立癩療養所ノ入所患者ニ対スル懲戒又ハ検束ハ左ノ各号ニ依ル
 一 譴責 叱責ヲ加エ誠意改悛ヲ誓ハシム
 二 謹慎 三十日以内指定ノ室ニ静居セシメ一般患者トノ交通ヲ禁ズ
 三 減食 七日以内主食及副食物ニ付常食量二分ノ一迄ヲ減給ス
 四 監禁 三十日以内監禁室ニ拘置ス
 五 謹慎及減食 第二号及第三号ヲ併科ス
 六 監禁及減食 第四号及第三号ヲ併科ス
 監禁ハ前項第四号ノ規定ニ拘ラズ特ニ必要ト認ムルトキハ其ノ期間ヲ二箇月迄延長スルコトヲ得
第二条 入所患者左ノ各号ノ一ニ該当スル行為ヲ為シタルトキハ譴責又ハ謹慎ニ処ス
一 所内ニ植栽セル草木ヲ傷害シタルトキ
二 家屋其ノ他建物又ハ備品ヲ毀損シ若ハ汚涜シタルトキ
三 貸与ノ衣類其ノ他ノ物品ヲ毀損若ハ隠匿シ又ハ所外ヘ搬出シタルトキ
四 人ヲ誑惑セシムベキ流言浮説又ハ虚報ヲ為シタルトキ
五 喧嘩口論ヲ為シタルトキ
六 其ノ他所内ノ静謐ヲ紊シタルトキ
第三条 入所患者左ノ各号ノ一ヲ為シタルトキハ謹慎若ハ減食ニ処シ又ハ之ヲ併科ス
一 濫リニ所外ニ出デ又ハ所定ノ地域ニ立入リタルトキ
二 風紀ヲ紊シ又ハ猥褻ノ行為ヲ為シ若ハ媒合シテ之ヲ為サシメタルトキ
三 職員ノ指揮命令ニ服従セザルトキ
四 金銭又ハ物品ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲ為シタルトキ
五 懲戒又ハ検束ノ執行ヲ妨害シタルトキ
第四条 入所患者左ノ各号ノ一ニ該当スル行為ヲ為シタルトキハ減食若ハ監禁ニ処シ又ハ之ヲ併科ス
一 逃走シ又ハ逃走セシムトシタルトキ
二 職員其ノ他ノ者ニ対シ暴行若ハ脅迫ヲ加ヘ又ハ加ヘムトシタルトキ
三 其ノ他所内ノ安寧秩序ヲ害シ又ハ害セムトシタルトキ
第五条 一個ノ行為ニシテ前三条中二以上ノ規定ニ該当スルトキハ情状ニ依り其ノ何レカ一ノ規定ニ依ル処分ヲ為スコトヲ得
第六条 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者其ノ執行ヲ終リ又ハ執行ノ免除アリタル後再ビ第二条又ハ第三条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタルトキハ第二条又ハ第 三条ノ規定ニ拘ラズ第四条ノ規定ニ依ル処分ヲ為スコトヲ得
第七条 二人以上共同シテ第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタル者ハ其ノ行為ニ付同一ノ責ニ任ズ
人ヲ教唆シテ第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタル者ハ実行者ニ準ズ教唆者ヲ教唆シタル者亦同ジ
第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ノ実行者ノ行為ヲ幇助シタル者及之ニ対シ教唆ヲ為シタル者ハ実行者ニ準ズ但シ其ノ処分ハ之ヲ減軽ス
第八条 第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ拘ラズ行為ノ情状憫諒スベキモノハ酌量シテ懲戒又ハ検束ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得
第九条 懲戒又ハ検束ハ宣告ノ上執行ス
第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタル者逃走シタルトキハ其ノ懲戒又ハ検束ハ欠席ノ儘宣告シ其ノ執行ハ収容後之ヲ行フ但シ他ノ療養所ニ収容セラレタルトキハ当該療養所ノ長ニ委託スルコトヲ得
前項ノ場合ニ於テ宣告ヨリ一年ヲ経タルトキハ其ノ執行ヲ免除ス懲戒又ハ検束ノ執行中逃走シタル者ニ対シテハ前二項ノ規定ヲ準用ス
第十条 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者改悛ノ情著シキトキハ其ノ懲戒又ハ検束ノ執行ヲ免除スルコトヲ得
第十一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場合ハ懲戒又ハ検束ノ執行ヲ免除又ハ停止スルコトヲ得
一 大祭祝日、一月一日、一月二日、十二月三十一日又療養所ノ祝祭日並懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者ノ父母ノ祭日
ニ 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者其ノ父母ノ訃ニ接シタルトキ
三 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者療養上必要アリト認メタルトキ
前項第二号ノ場合ニ於テハ其ノ停止期間ハ之ヲ三日マデ延長スルコトヲ得
監房
ハンセン病資料館の展示を見る鳥飼行博ゼミ。ハンセン病問題の全面解決を目指して共に歩む会「ハンセン病問題と私たち」記載の入所者の話によれば、敬愛園の監禁室は次のようであった。
監禁室は3室からなり,1室の面積は3畳の板敷きで,便所と戸のない押入れがついており,内側はトタン張りでした。監禁室の周りには高さ4メートルのコンクリートの高い塀があり,出入り口は鉄製の門でした。監禁室の内側は,ドアには床と同じ位置に食事の差し入れ口があり,またせんべい布団が一組あるだけでした。高いところに明り取りの小窓があるだけで,室内には外気・外光はほとんど入らず、トイレの穴から光がもれて入ってくるのが分かる有様でした。冬季には零下2〜3度にも下がることがあったようです。  このような監禁室に私は一晩監禁され,食事も与えられませんでした。私の言い分は一切聞かず,公平さや公正さなど全く保障されないまま,畜生のように扱われました。その屈辱感に一晩中眠ることはできませんでした。 監房まつ
いつでも元気 2003.12 No.146「重監房の復元運動が」に次のようにある。 
 重監房は「特別病室」という名がついていましたが、実態は幾重もの高い壁に囲まれた懲罰施設・監獄でした。
 日本でハンセン病について最初にとられた政策は、一九〇七年(明治40)の「癩予防ニ関スル件」。すでにらい菌が発見され、感染力が弱いことがわかっていたにもかかわらず、患者を取り締まり隔離する政策でした。らいは、天皇が統治する国家にあるまじき病、国の恥、日の丸のシミというふうにいわれて、私たちは撲滅の対象であったのです。 一九一六年(大正5)には「癩予防ニ関スル件」を改正して強化し、療養所長に「懲戒検束権」が与えられ、療養所内にさらに、「監禁所」がつくられました。
 一九三一年(昭和6)、満州事変のおきたこの年、「癩予防法」が制定され、患者の隔離収容が強化されます。それまで収容対象になったのは家を離れ放浪している患者だけでしたが、ひっそり人目を忍び、家で静養している患者まで、すべて収容するとしたのです。
 同じ年、貞明皇后(大正天皇の妻)の御下賜金を資金に、らい予防協会が設立され、「無らい県運動」がはじまります。らいのない県にするという大運動で、らいは恐ろしい伝染病だという大宣伝で偏見をうえつけ、患者狩りを奨励しました。その結果、療養所の定員が大きくオーバーしてしまった。もともと予算が微々たるところに、食事も衛生材料もほんとうにひどいことになった。六人部屋に八人も九人も押し込む。当然、怒りが渦巻いて患者暴動のようなことがおきます。
 岡山の長島愛生園では、入所者の自治会を認めろという暴動がおき、香川の大島青松園ではラジオ事件というのがありました。寄贈されたラジオを集会所に飾っておき、外から見学者がくるときだけ入所者に聞かせた。そんな馬鹿なことがあるかと、ラジオを海岸に捨てたのです。光田健輔ら所長連盟は反省するどころかもっと強圧的な監獄が必要だといって、建てたのが栗生楽泉園の「特別病室」です。一九三八年(昭和13)のことです。(引用終わり)
国立ハンセン病療養所

Sanatorium for Sufferers of Hansen's Disease

学生偏見
公益財団法人日弁連法務研究財団 「国際会議の流れから乖離した日本のハンセン病政策」によれば、ハンセン病収容施設では患者の作業賃を療養所の運営費から捻出して、看護、付添など園の運営の作業にあたらせた。患者が働けば働くほど、治療費、食糧費、医療費も少なくなり、そのしわ寄せは患者に集中し、不満が爆発した(1936 年「長島事件」)。療養所当局は、事件の原因を把握せず、一部の煽動分子による園内破壊と断定して、特別病室(重監房)の設置を所長会議で建議した。 鳥飼雛人形
1929年の「無癩県運動」開始の翌1930 年、内務省衛生局は「癩の根絶策」を発表し、ハンセン病患者の修正絶対隔離が伝染予防に効果があるとしたが、これは患者を優秀な大和民族にはあるまじき恥である、国辱であるとの差別主義に基づく発想であった。当時、国際連盟報告は、ハンセン病は公衆衛生の一環として取り組まれるべきで、治療こそ最大の予防であるとみなした。したがって、日本のハンセン病隔離政策は、病気治療ではなく、ハンセン病患者を恥と考え、国家の体面を保つための差別主義といええる。その後、日本は癩の根絶策に基づき、1931 年、法律第68 号「癩予防法」を改正、在宅患者を含めた全患者が隔離対象、患者の入所費等は公費負担、ハンセン病患者の職業従事禁止など、ハンセン病患者の絶対隔離の基盤が整えられた。1933年、日本は国際連盟を脱退し、国際的孤立を深めることになる。(公益財団法人日弁連法務研究財団 「国際会議の流れから乖離した日本のハンセン病政策」参照) 全国患者
1987年、全国ハンセン病患者協議会(全患協、現在の全国ハンセン病療養所入所者協議会[全療協])支部長会議がらい予防法改正に取り組む方針を決定。ハンセン病患者隔離を含む「らい予防法」廃止の動きが活発化した。1994年、全国国立ハンセン病療養所長連盟が「入所者の処遇を保障した代替立法の制定と引換えにらい予防法の廃止」を求める見解を発表し、1995年に日本らい学会が「現行法はその立法根拠をまったく失っているから、医学的には当然廃止されなくてはならない」旨の声明を発表。1996年3月27日成立(4月1日施行)らい予防法廃止法が「入所者の処遇を保障した代替立法の制定と引換」に成立し、日本政府によるハンセン病患者終生隔離に終止符を打った。2000年5月現在、13の国立ハンセン病療養所と2つの私立療養所に計4595人が入所していた。 ビデオ全患者
国立ハンセン病療養所多磨全生園の収書たちは、ハンセン病患者の先頭に立って、人権回復のために活動した。患者たちをまとめた団体が1951年1月にできた全国ハンセン病患者協議会「全患協」(現在の全国ハンセン病療養所入所者協議会「全療協」)だった。
 全国ハンセン病療養所入所者協議会[全療協])は、日本政府による国家公務員定員削減「平成22 年度以降の5年間で10%以上の定員合理化」が療養所職員の削減となることに抗議している。ハンセン病療養所の医療・看護・介護の体制は、国家公務員の定員削減計画によって連年にわたって職員が削減され続けており、入所者の療養生活に深刻な事態を及ぼす状況に陥っているとの認識である。療養所の入所者に対する医療・生活サービスの低下に直結する職員削減に抗議しているのである。 軍手やま
国立ハンセン病療養所多磨全生園でもハンセン病患者を不治の病の伝染病保菌者として、隔離し、患者作業・園内作業による自給自足を目指した。したがって、ハンセン病治療よりも、患者の隔離と財政負担の軽減を優先したと断言できる。高齢者・障害者向けの福祉商品を今は利用できる。 やま軍手文庫
国立ハンセン病療養所多磨全生園でもハンセン病患者を不治の病の伝染病保菌者として、隔離し、患者作業・園内作業による自給自足を目指した。ハンセン病資料館には、入所者が使用した軍手・手袋を編む機械が展示されている。 たか
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内の国立ハンセン病資料館を見学する東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。 取り戻せていないもの
東村山市の国立ハンセン病療養所「多磨全生園」敷地内にある国立ハンセン病資料館(1993年平成5年6月25日開館の高松宮記念ハンセン病資料館)。ハンセン病患者・元患者が未だに取り戻せていないもの、として空白のままの(将来も埋まることのない)展示が印象的だった。 りコン人間回復
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地にある国立ハンセン病資料館
2001年ハンセン病補償法ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律)が制定された6月22日は「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」とし、厚生労働省の主催による追悼、慰霊と名誉回復の行事が行われる。 こん回復
東村山市の国立ハンセン病療養所多磨全生園にある国立ハンセン病資料館(1993年平成5年6月25日開館の高松宮記念ハンセン病資料館)。
2001年ハンセン病補償法ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律)第三条「国は、ハンセン病療養所入所者等に対し、その者の請求により、補償金を支給する」としたが、当初、5年以内に補償金の請求をしなかった者には支給しない、としていた。
第五条では補償金の額を定めており、1960年までに病療養所に入所した者1400万円、1964年までに入所した者 1200万円、1973年までに入所した者 1000万円、それ以降に入所した者 800万円、とした。現在は、改正され施行日から起算して五年を経過した後に補償金の支給の請求をした場合の補償金は800万円。
入所者の創作活動

Art


壺や仏像
国立ハンセン病療養所多磨全生園入所者たちの作った壺や仏像は、芸術性が高く感心させられる。製作者たちの置かれた状況とスキルの反映であろう。
国立ハンセン病療養所多磨全生園2010年度企画展 高山勝介作陶展には次のようにある。
 本展覧会では高山勝介氏による陶芸作品をご紹介いたします。高山氏は1926年に東京で生まれました。戦後ハンセン病を発症し、1946年に多磨全生園に入園します。入園後は様々な園内作業に従事し、結婚し、畑仕事を始め、園内にある宗教団体の秋津教会に入会するなど、療養所の中で生活を送ってきました。
 しかし1979年頃ハンセン病の後遺症で視力が低下し失明しかけます。視力が低下して落ち込んでいた時、多磨全生園のリハビリテーションの一環として設けられていた陶芸室に通う藤田四郎氏から「土をこねているだけでもいいから」と声をかけられました。それから30年以上、今に到るまで作陶活動を続けています。
 作陶が目の直接的な治療になったわけではないでしょう。しかしそれが高山氏の気持ちを前向きにし、生きがいになっていったことは確かです。それは絶望や後遺症を乗り越えて療養所の中で生きる糧を見出したということでもありました。ハンセン病回復者が自身の後遺症と付き合いながら生活していかなければならないことを考えたとき、現在まで作陶活動を続けていること自体が貴重です。またその手から生み出された作品は高山氏の生きる姿そのものではないでしょうか。 3女
東村山市国立ハンセン病資料館の展示を見学する鳥飼行博ゼミ女学生。ユニバーサルデザイン介護保険とも関連して、国立療養所を中核としたハンセン病対策と人権侵害を学んだ。
1943年,アメリカのファジェイによって「プロミン」がハンセン病に効果があることがが確認され、1950年代には、プロミンの後継薬「ダプソン」が普及した。しかし1960-1970年代以降、ダプソンに耐性のあるライ菌が生まれたため、1980年代に、複数の薬剤の併用によって耐性菌の発現を防ぐ「多剤併用療法(MDT)」がWHOによって確立された。 いえ竜
国立ハンセン病療養所多磨全生園内の国立ハンセン病資料館を見学する東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。

『青年たちの「社会復帰」1950-1970』に記載された6歳で療養所に入った男性(中学二年で足を切断)「だから歩いてても、女の人のカバン、一番最初に目に付くんだよ、今でも」には、次のようなハンセン病元患者の社会復帰の体験談が載っている。
東京の四畳半のアパートで、ミシン2台を月賦で購入。注文を受けて、月給が5万円の時代に、夜通し働いて月に20万円稼いだと。デザイナーの起こした図面を型に起こして、ポケット、チャックを付け、二重底にし、銀座や新宿のカネマツ、高島屋に収めていた。ミシンの目が少し落ちると、すぐに返品されるほど、納品の品質には厳しかった。 家長なべ
聯合ニュース2007/06/25 19:17 KST 「大島駐韓日本大使、国立小鹿島病院を訪問」に次のニュースがある。
【高興25日聯合】大島正太郎・駐韓日本大使が25日、全羅南道高興郡の国立小鹿島病院を訪れた。日本大使の小鹿島訪問は、韓日国交正常化以来初めて。大島大使は高齢者専門病院や小鹿島一帯を視察したほか、院生自治会を訪れ院生らの意見を聞いた。  小鹿島病院は、日本植民地時代のハンセン病療養所「小鹿島更生園」を前身とするハンセン病専門治療・療養施設。昨年2月に日本のハンセン病補償法が改正され、1945年8月15日以前のハンセン病療養所 「小鹿島更生園」に入所していたハンセン病患者にも補償金が支給されることになった。
 大島大使は病院関係者らと歓談し、国立小鹿島病院をの患者に慰労の意を示したほか、高齢者病棟では患者や看護師、ボランティアらを激励した。また院生から、資料不備で補償を受けられない30人余りに対し補償措置を取ってほしいと求められると、大島大使は「条件が合えば補償する」という日本政府の立場を説明し、やや時間がかかる部分はあるが、早急に措置を取れるようにすると答えた。
 続けて小鹿島で死亡した1万365人の位牌が奉られている位牌堂を訪れ献花と焼香を行ったほか、中央公園のハンセン資料室や監禁室、監視室などを視察した。大島大使は、ハンセン病は深刻な病気だが社会の偏見がさらに深刻だとしながら、社会の偏見と誤解を考え直すきっかけになったと所感を語った。(引用終わり)
国立療養所

National Hansen's Disease Sanatoria


学生団体
東村山市の国立ハンセン病療養所「多磨全生園」敷地内にある国立ハンセン病資料館(1993年平成5年6月25日開館の高松宮記念ハンセン病資料館)を見学した東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。 学生の団体
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された国立ハンセン病資料館を見学する東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。 ととろ
国立ハンセン病療養所多磨全生園の作品の一つトトロ。スタジオジブリ・宮崎駿氏も「もののけ姫」のタタラで鉄砲を作る覆面の障害者たち、「千と千尋の神隠し」でトンネルを抜けると別の世界で名前を取られてしまう千尋(療養所では一生涯偽名を名乗らされる)とハンセン病療養所多磨全生園を訪れて着想を得ている。そして、人権保護、人権の森の育成、歴史的建造物の保全などの目的で1000万円を寄付している。

ととろ
【東京新聞】東村山市「人権の森」構想 「全生園は私の支え」 宮崎駿氏が全面支援・2014/01/23 に、次の記事がある。
東村山市の国立ハンセン病療養所「多磨全生園」(青葉町四)の緑地や施設を「人権の森」として後世に残す構想について、構想を後押しする東村山市の渡部尚(たかし)市長は十九日、昨年引退を表明したアニメ監督の宮崎駿氏にあらためて支援を求め、宮崎氏は全面支援する姿勢を見せた。
刺しゅう
ハンセン病資料館で入所者の作った刺繍絵を鑑賞するゼミの女子学生たち。その美しさ、見事さに感銘を受けた。

「人権の森」構想は、ハンセン病患者として国の強制隔離政策などで苦痛を受けてきた全生園の入所者の自治会が二〇〇一年から進めている。自治会は全生園の歴史を伝えるため、園内の三万本の樹木や史跡、建造物の保全を目指しており、東村山市は啓発活動などで支援している。
宮崎氏も構想の提唱者の一人。この日は東村山市秋津町と埼玉県所沢市にまたがる「淵(ふち)の森緑地」で、渡部市長が宮崎氏に、全生園の四季折々の写真を使った構想の普及啓発用のポスターとピンバッジを贈った。渡部市長はポスター制作の経緯を説明し「今後も啓発に努めます」と話した。
多磨全生園

TAMAZENSYOEN


住宅
国立ハンセン病療養所多磨全生園の入園者専用住宅多磨全生園の入所者は現在243名、平均年齢は83歳。敷地面積35万2,796?(35ヘクタール)、建物面積4万1,262? (4ヘクタール)、延床面積5万452?(5ヘクタール)。病床数 通知定床658床、医療法病床675床。ハンセン病患者への差別から、戦後しばらくは人家は近くになく、周囲は雑木林だったという。しかし、都市近郊ベッドタウン化、地価高騰によって、今では全生園の周囲はすべて住宅地、病院など建物が建っている。 住宅5
国立ハンセン病療養所多磨全生園の入園者専用の住宅。かつてハンセン病療養所では看護・介護の必要な患者の住む不自由舎(現在の不自由者棟)での看護と介護は、軽度の障害のハンセン病患者が自ら行い、患者が患者の面倒を見るという自己看護が求められていた。患者の看護をハンセン病療養所の職員が担うようになるのは、1964年の六・五闘争など入所者による人権回復闘争が続けられた後であった。入所者は、ハンセン病患者の介護の職員担当、既婚者も雑居だった部屋の個室化、居住設備の改善という人権回復を求めて、それらを勝ちとった。
住宅2
退所者・社会復帰者にむけては、現在では、「ハンセン病療養所入所者への公営住宅優先入居制度」が各都道府県で取り入れられている。たとえば、大阪府では「ハンセン病療養所入所者等への府営住宅の優先的な入居制度」を実施。ハンセン病療養所入所者等の社会復帰を支援するため、府営住宅総合募集の福祉世帯向け募集の対象世帯としている。 学生の森
国立ハンセン病療養所「多磨全生園」の敷地に入園者が樹木を植え続けてできた並木道。今では、東村山市有数の桜の名所で、園内には患者が植え育てた桜200本、ケヤキ、カエデ、杉、梅、サワラ、ヒノキなど100種以上の大木が生い茂っている。春には花見客が園内にやってくる。園内の患者用の運動場・テニスコートは、市民にも開放されており、患者以上に園外者が利用しているようだ。ハンセン氏病は新たな発病者がほとんどなく、入所者がないため、高齢化する患者は、年々減っている。「国立ハンセン病療養所」としての役割が終わった時を見据えて、入所者(入園者)自治会は、園内緑化を本格的にはじめ、園内に苗畑をつくり、サクラ、ヒノキ、松、杉などを植えてきた。いまでは、周囲の学校に苗木を贈るほどである。 学生の団体
国立ハンセン病療養所多磨全生園を見学する東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。並木道に大きな樹木が植えられているが、多磨全生園の森は、入所者・入園者が植林したもの。花見のシーズンには多数の観光客でにぎわう。
 この近くに保育園・幼稚園が開園した。
全生園に開園した保育園の取り組みには、次のようにある。
2012年7月、東京都東村山市にある国立療養所多磨全生園の敷地内に開園した花さき保育園。そこへ後遺症で指を失った元患者の方が訪れたときの一コマです。小さな園児がお年寄りに話しかける。そんな当たり前の日常をハンセン病患者は約一世紀にわたり奪われてきました。社会から隔離された上に、子孫を残すことを禁じられたからです。
 多磨全生園の入所者は現在243名、平均年齢は83歳です。「当事者がいなくなればハンセン病の歴史は忘れ去られてしまう。しかし事実を肌で感じた子供たちが育ってくれれば、歴史は将来へ引き継がれる」という関係者の思いが、同じ市内にあった保育園の移転へとつながりました。
 入所者は、後遺症はあっても病気は完全に治癒しています。しかし、いまだに差別や偏見が根強く残っています。移転の案が出た当初、保護者の中には躊躇する方もいたそうです。「丁寧に説明し、皆さんの理解を得ることを大切にしました」と話すのは園長の森田紅さん。
 開園前の6月、入所者数名が保育園の見学に訪れました。そのときの様子を森田さんは次のように話します。「自分たちが子供に会うと親御さんに悪いって気を遣われて、開園前にいらしたんです。『こんなに小さいイスがあるのね』と驚く姿に、子供を産み育てることが許されなかった歴史を感じました。高齢で外出がままならない方にも、保育園からにぎやかな声が全生園に響き渡ることで、子供の存在を近くに感じてもらいたいですね」。(引用終わり)

宿泊所
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内の第二宿泊所。
ふれあい福祉協会社会復帰支援事業では、公益事業 として、宿泊所(2人室1室)を設置・運営している。目的は。「ハンセン病療養所の入所者及び退所希望者等に対し、就職活動や技能修得のため、又は居住場所を確保出来るまでの間、或いはその他の用務で利用すること」。 宿泊所2
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内の第一宿泊所。入園者を訪問した家族・友人が利用できる。
風ときて 風と帰った 来訪者 長島愛生園 北島かね子
廃寮に 今をさかりの 月見草 青森市松丘保養園 木村龍一

2003年9月、阿蘇郡南小国町「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」元患者18人と付き添い4人の宿泊を拒否した。熊本県は、感染の恐れがないこと、ハンセン病に対する偏見の解消を説明、ホテルを経営する。アイスター東京本社を訪問し、さらには潮谷知事の名で抗議文を渡した。しかし、拒否姿勢はそのままであったため、県がホテル名を公表、熊本地方法務局と県は、悪質な人権侵犯事案として、2003年11月21日、不当に元患者らの宿泊を拒否した旅館業法違反の疑いでホテルの前田篤子総支配人とホテルを経営するアイスター東京本社を告発した。

神社
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に入所者が建立した永代(ながよ)神社。 神社
永代神社は1934年に、入所前に宮大工だった入所者の指導で、入所者によって建設された。周囲の石垣は、1937年(昭和12年)に完成。この時、日本は盧溝橋事件を契機に中国との本格的戦争状態に突入、1945年まで戦い続けることになる。 学生の神社
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内の永代(ながよ)神社を訪れた鳥飼ゼミの中国・タイの留学生。 学生の鳥居
国立ハンセン病療養所の敷地内多磨全生園に設置された永代(ながよ)神社の鳥居。 1937年11月10日建設
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された永代(ながよ)神社周囲の石垣は、「昭和12年(1937年)11月10日建設」。 鳥居から住宅
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された永代(ながよ)神社の鳥居から多磨全生園の入園者の住宅を見る。ハンセン病療養所の入所者には、一般寮(健康舎)と不自由者棟(センター)の二種類がある。後者の不自由者棟には、ハンセン病の後遺症や合併症、さらに高齢化による介護を必要とする入所者が入居している。職員の手を借りなければ生活できないような重度の要介護者から、概ね食事・排泄は自分で可能な軽度の要介護者まで、障害の程度は差異がある。東京都三多摩公立博物館協議会の国立ハンセン病資料館ページには「職員は、日常生活の援助を行い、レクリエーション等を通じて単調になりがちな暮らしに刺激を与えようと働いています。不自由者棟とは、どんなに不自由になっても懸命に生きている人が暮らし、それを支える人々が働き、そのための環境を備えている場所なのです」とある。  

住3
国立ハンセン病療養所多磨全生園の入園者の住宅。
現在、愛媛県では、入所者の方の社会復帰支援、すなわちハンセン病療養所で生活されている入所者が一般社会で生活できるように、入所者が社会復帰の決意を固める際の大きな支障となっている住宅費及び医療費・介護費負担軽減政策を採用している。これは以下の政策である。
1.住宅費の助成:ハンセン病療養所の入所者が退所し、県内の民間賃貸住宅で生活する合、住宅費の一部を助成する。
2.医療費及び介護費の助成:入所者が安心して療養所を退所し、一般社会で健康的な生活がおくれるよう、退所者が県内で生活される場合、医療費及び介護費の自己負担額相当分を助成する。 住3
鳥飼行博ゼミ学生は、国立ハンセン病療養「所多磨全生園」の住宅と廃棄物収集所を見学して回った。

ふれあい福祉協会社会復帰支援事業では、次の支援を実施している。
1)住宅準備費用:退所後の住宅確保のために必要な費用であって、住宅購入、住宅借入時の敷金・礼金、手数料等賃貸契約時の諸経費及び住宅改修等に要する経費
2)引越費用:退所後の住宅への移転に必要な費用であって、引越の外注費用、申請対象者の移動費等に要する経費
3)日用品準備費用:退所後の日常生活に必要な調度品等の費用であって、冷蔵庫等の電化製品、食器等の日用品、電話等の通信機器の購入・設置等に要する経費
4)技能習得費用 :今後の社会生活を営む上で必要とされる知識技能を習得するために必要な費用であって、運転免許等の資格取得や各種技能取得のための講習会参加等に要する経費
5)就労準備費用:就労のために必要な諸費用であって、交通費等の就職活動費や衣服、履物購入等の支度費用等に要する経費
6)自立生業費用:生業のために必要な資金、災害等による損害の回復等に要する経費
7)障害・介護用品費用 :身体障害や加齢に伴い、障害や介護に必要とされるものに要する経費 ごみばこ
国立ハンセン病療養所多磨全生園に設置された入居者用のごみ箱。
現在、三重県では、入所者の方の社会復帰支援、すなわちハンセン病療養所で生活されている入所者が一般社会で生活できるように「三重県営住宅への優先入居」を認めている。すなわち、2001年(平成13年)12月28日、政令第436号をもって公営住宅法施行令(昭和26年政令第240号)を改正、同居親族がない場合においても公営住宅に入居することができる者に、ハンセン病療養所入所者等を加えた。そして2002年(平成14年)10月11日、三重県営住宅条例の一部改正を行い、公営住宅に単身で入居できる者に、「ハンセン病療養所入所者等」を加え、さらに県独自施策として同じく「ハンセン病療養所入所者等」を優先入居対象に加えた。 学生のごみ箱
国立ハンセン病療養所多磨全生園入園者用住宅に設置されたごみ箱を見る東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。
ふれあい福祉協会社会復帰者相談事業では、ハンセン病療養所の入所者及び退所者並びにその家族が、社会復帰した場合、地域の中で生活していく上で、偏見・差別、長期にわたる療養所生活、後遺症あるいは高齢などの理由により医療、生活、職場等において様々な問題に直面することがあるとして、社会復帰者に対して助言を行うなど、問題解決のための窓口を設置し、相談事業を行っている。 パイプ
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された入園者用住宅を繋ぐパイプ。給湯用と思われる。
学生のパイプ住宅
国立ハンセン病療養所多磨全生園入園者用住宅を見学する東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。
東京都では、都営住宅の入居資格につき、60歳以上の世帯・心身障害者を含む世帯・原子爆弾被爆者を含む世帯・海外からの引揚者を含む世帯・ハンセン病療養所入所者等を含む世帯・小学校就学前の子どもがいる世帯の方は所得基準の緩和措置がある。   ゼミ長の住宅
国立ハンセン病療養所多磨全生園の住宅を見学する東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。65歳以上で寝たきり認知症などで常に介護を必要とする状態(要介護状態)常時の介護までは必要ないが身支度など日常生活に支援が必要な状態(要支援状態)になった場合に、介護保険サービスを利用し、福祉用具専門相談員が、利用者に適した商品選びを手伝っている。40歳からは、初老期の認知症、脳血管疾患など老化が原因とされる以下の病気(特定疾病)により要介護状態や要支援状態になった場合に、介護保険サービスが受けられる。

自治会売店
国立ハンセン病療養所多磨全生園の自治会売店。 販売
国立ハンセン病療養所多磨全生園の自治会売店前に設置された自動販売機。 販売
国立ハンセン病療養所多磨全生園の自治会売店前に設置された自動販売機。 売店学生
国立ハンセン病療養所多磨全生園自治会売店の外観を見る東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。

一般介護棟
国立ハンセン病療養所多磨全生園の一般介護棟まえの東海大学教養学部鳥飼行博ゼミ学生たち。

1963年、鶴見俊輔氏から東京の宿泊施設でライ快復者が宿泊拒否を受けたという話を聞いたフレンズ国際労働キャンプは、奈良市に「誰でも泊まれる家 交流の家」の建設を計画したが、地元住民の反対を受けたため、説得後の1967年、フレンズ国際労働キャンプFIWC)関西委員会の学生らが「誰でも泊まれる家」建設した。この「誰でも泊まれる家交流の家」はハンセン病回復者の社会復帰を支援するため、全国のハンセン病療養所から多くの元患者を受け入れ「囲碁将棋大会」や長島愛生園の盲人楽団「青い鳥楽団」演奏会などを実施。現在の交流の家は健在でFIWC関西の拠点としてキャンパーに利用されているという。 囲碁将棋会館
国立ハンセン病療養所多磨全生園の囲碁将棋会館
長島愛生園と私」に次の記事がある。
1968年の夏 うわついた議論に終始する学生運動に疑問を感じていた私は「言葉より行動を」という大学祭のパネル展示にひかれFIWC(Friends International Work Camps)に興味を持ちました。FIWC誰でも泊まれる家 交流の家」を建設していました。地元の反対運動もあり その頃には療養所からも何人かの人達が建設作業や 討論会に参加しておられたようでした。 大阪市内で療養所のメンバーで構成された「青い鳥楽団」の演奏会も開かれていました。
私はこの交流の家ではじめてハンセン氏病というものを知り、療養所を知り療養所の人達と実際に出会うことになったのです。私自身は、いわゆる「らい」に対する予備知識がほとんどなく 特別な差別意識や拒否感覚はなかったと思います。ただ外見からくる緊張感といったものが大きかったことは事実でした。週末や春夏冬休みの数日間を既に竣工を終えた交流の家に合宿し、管理人住宅の建設のかたわら 今後の運動を模索する日々でした。
交流の家は、誰でも泊まれる家であると同時にハンセン氏病回復者の社会復帰を支援する家としての役割も果たそうとしていました。そのひとつの試みとして囲碁将棋大会が企画されたのです。男性が中心となっていた 当時のキャンプにはめずらしく女性が「女将」となって 療養所からの戦士達を迎えたのでした。迎えうつのは関西の大学の囲碁倶楽部 将棋倶楽部の学生達でした。双方20名づつぐらいのメンバーによるリーグ戦だったように思います。
碁石をスプーンにのせ さっと碁盤にすべらせて 相手を追い詰めるといった真剣勝負もみられました。その頃の私は差別を考える場にあって、なお女性が料理や接待の役割を期待されることに抵抗を感じていたものでした。かといって選手として囲碁や将棋をうつ才能もなく、ただうろうろとしていたようにも思います。ともかくこの囲碁将棋大会はその後数十年続くことになったのです。(引用終わり) 浴場
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された入園者用の浴場:以前は、浴場は複数個所に分散してあったが、2017年ごろから入居者の減少に伴って、1か所に集約された様だ。
2003年ハンセン病に関する正しい知識の普及について(平成15年11月)
 各都道府県衛生主管部(局)長宛てに、厚生労働省健康局疾病対策課長・健康局生活衛生課長から、次の通達が出た。
「ハンセン病に関する正しい知識の普及による、いわれなき差別や偏見の解消をお願いしているところでありますが、今般、熊本県において、ハンセン病療養所の入所者がホテルの宿泊を拒否されるという極めて遺憾な事例が発生いたしました。ハンセン病については、飲食や入浴などの日常生活を通じて感染するものではなく、旅館業法第5条第1号及び公衆浴場法第4条にいう「伝染性の疾病」には該当しません。この点について改めて営業者等への周知及び指導・監督方お願いするとともに、あわせて貴管下市町村、関係機関、関係団体等に幅広くハンセン病に関する正しい知識の普及と啓発を図り、このような事案が発生しないよう、一層の御尽力をお願いいたします。」 住宅
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された入園者用の住宅。

汗かいて めざねし翁 午前二時 宮古南静園 湧川新一
安住の地と 定めしや 盆の月 沖縄愛楽園 平山壮一 人権の森 align=below
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設けられた人権の森とその宣言記念碑。

多磨全生園の入所者は、故郷の山河、家族への思いを託して園内の緑化活動を進めてきた。250種、3万本の苗木を植え、園内は緑化されている。「人権の森」は、東村山市の国立ハンセン病療養所「多磨全生園」の緑地や施設を歴史的遺産として後世に伝え、ハンセン病患者が日本政府による終生隔離によって人権を侵害されたことを忘れないように、多摩全生園入所者自治会が2001年から進めている事業である。東村山市、宮崎駿氏も「人権の森」を支援している。

東村山市:「人権の森構想」とはには、次のようにある。
 これらのハンセン病の歴史と共にある緑や、世界で初めてのハンセン病資料館、共同生活を営んできた寮、神社、納骨堂などの歴史的価値を持つ建造物や史跡、これら全てをハンセン病記念公園「人権の森」として保全・保存し後世に残し伝えるため、また、平成21年施行のハンセン病基本法に基づき、療養所の地域開放を実現することを目的とした将来構想として、平成14年、多磨全生園入所者自治会は「人権の森構想」掲げ、市はこの構想の実現に向けた支援活動に取り組んでいます。平成15年には入所者の方々の懸命な努力により、男性独身寮であった「山吹舎」が多くの人の募金によって復元されています。(引用終わり)

尊厳回復の碑
国立ハンセン病療養所多磨全生園の尊厳回復の碑は、納骨堂の前にある。2006年9月27日、国立ハンセン病療養所「多磨全生園」に保管されていたハンセン病患者から取り出されたホルマリン漬け標本(胎児標本、手術摘出材料、病理標本)35体と、隣接するハンセン病研究センターに保管されていた胎児標本1体が慰霊祭の後、埋葬された。日本政府は、財政負担した国営収容所にハンセン病患者を強制隔離し、結婚制度も認めず、入所者に強制的に不妊治療をした。しかし、通い婚を認め、出産もさせたが、それはハンセン病患者の遺伝研究や赤ちゃんの標本をコレクションしたかったためであろう。医師は、ハンセン病患者の医学的に貴重なサンプルを手元に於て、治療に役立てたわけではなかった。

2003年、ハンセン病患者・元患者など、国立療養所入所者を両親とする胎児・新生児のホルマリン漬け標本(胎児標本、手術摘出材料、病理標本)が発見された(実は、1983年の時点で胎児標本「解剖臓器並びに手術後臓器」一体がハンセン病研究センターにあり、厚生省がその焼却処分を指示していた)。全国で調査した結果、ホルマリン漬け標本115体が国立ハンセン病療養所・病理学研究機関・大学病院などに標本として保管されていた。
当初、厚労省国立病院課名で各園に対し「胎児標本の取扱いについて」の通知を送り、標本の焼却廃棄を指示したが、入所者たちそれを許さなかった。

東京都東村山市の多磨全生園では、2006年9月27日、同園と隣接の国立ハンセン病研究センターに保管されていた胎児ホルマリン漬け標本36体を火葬し、供養のための慰霊祭を行った。
われわれがお話を伺った全生園自治会長の佐川修氏ら120人参列し、厚生労働省の外口崇健康局長が「両親や入所者に多大な苦痛を与え、心からおわびします」とのべた。全遺骨は園内の「尊厳回復の碑」に納められた。 納骨堂
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された納骨堂。全生園の納骨堂には、故郷に帰れない、4000体の遺骨が眠っている。

「ハンセン病標本胎児の慰霊祭 多磨全生園、120人参列=多摩」2006.9.28 読売新聞
     国立のハンセン病療養所などで100体以上の胎児や新生児の遺体が標本として保存されていた問題で、東村山市の国立ハンセン病療養所「多磨全生園」で27日、慰霊祭が行われた。供養されたのは、同園に保存されていた35体と、隣接する国の研究施設「ハンセン病研究センター」に保存されていた1体。
 慰霊祭は園と入園者自治会が共催し、入園者や職員ら約120人が参列した。同自治会の佐川修会長(75)は「生命は地球よりも重いものだが、多数の胎児が犠牲になった」と声を詰まらせた。厚生労働省からは外口崇・健康局長が出席、「胎児の標本が置かれていたことは誠に遺憾であり、心からおわび申し上げたい」との柳沢伯夫・厚労相の談話を代読した。(記事引用終わり)
慰霊祭にはなかった厚生労働大臣柳沢伯夫氏は、翌2007年、女性は子ども産む機械発言「15-50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」で問題になった。 納骨堂うら
収容所に強制隔離されたハンセン病患者は、治癒したとしても収容所に終生隔離された。しかし、実際には、死後も収容所を出ることは許されなかったから、故郷にある先祖の墓所に埋葬されなかった。死後も、収容所に設けられた納骨堂に収められた。立派に納骨堂ができたのは、1986年であり、それ以前は粗末なものだった。
法務省:「谷垣法務大臣が,東京都東村山市の国立ハンセン病療養所「多磨全生園」等を訪れました」によれば、国立ハンセン病療養所多磨全生園2013年(平成25年)7月24日,谷垣法務大臣が,明治42年に公立療養所第一区府県立全生(ぜんせい)病院として創立されて以来,104年の歴史を持つ国立ハンセン病療養所「多磨全生園」,隣接する国立ハンセン病資料館を視察した。この訪問には,厚生労働省政務官が同行。視察を終た谷垣法務大臣は,「ハンセン病に関する問題には,人権問題を考える上での一つの核になるものがある。ハンセン病患者・回復者等に対する偏見や差別の歴史を語り伝えていくことが大事である。人権擁護を所管する法務省としても,できる支援はしていかなくてはいけない。」と述べた。 納骨学生
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された納骨堂(故郷に帰れない4000体以上の遺骨が眠る)を訪れた東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。

『青年たちの「社会復帰」1950-1970』に記載された1945年生まれの新垣千恵子女子「独りだったらどうだったかなあっていうときもありますよね。そんなに苦労しなかったかなあ、と思ったりね」には、1969年の強制的な堕胎の体験談が載っている。
沖縄愛楽園に入園したとき、妊娠5か月だったが、「流産という形で、降ろされましたね。女の子だったんですけど。それでお墓に連れて行ったんですけどね。うん。なんでー、って感じですけれどね、自分からしてきたらね、私はここの中を、事情を全然知らないもんだから、こうしないといけないんだって感じね。この病気自体がこう皆からされるっていうこと自体、自分も全然知らないで、こう来てるから」 納骨1986年3月入園者自治会
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された納骨堂の礎石には「1986年3月吉日入園者自治会建立」とある。

『青年たちの「社会復帰」1950-1970』に記載された神美知宏氏(1934年福岡生まれ-2014年5月)は、高校在学中17歳で皮膚病が治らなくなり、「最悪の場合、療養所に入所しなくてはならないということも想定」、「なるべく遠い療養所に入れたほうが、秘密が保たれるだろう、それが社会的に明らかになった場合、家族が大変な差別に遭うと、いうことを私の家族は懼れていました。----で非常にあの、衝撃をうけたんですね。どっちかというと収容所的な印象が強くて。----仲間の腕に看護婦に代わって注射もやってきたし、医療機械や器具の消毒、重度の障害者の看護、衣類の洗濯、配食、あらゆる作業にもついてきたし。仲間がなくなった時も、火葬まで、義務だと称してやらされてきたんですよ。療養所に火葬場があり納骨堂があるということは、これは、患者たちをこの場で殺す設備なんだということがわかって、立ち直れないほどの衝撃を受けて」。
 プロミン治療をうけて「治っても社会復帰も認めないし、一時的な外出も制限されてましたんで、ここで自分は死んでいく立場になったんだということを実感するにつけ、もう死んでしまおうと。本名も使えず偽名[神崎]にしたし、戸籍も抜いてしまったし、家族の迷惑も考えて。」
全国ハンセン病療養所入所者協議会事務局長神美知宏氏は「自分も含めた一人ひとりが、本当に人間らしい人生を送れるようにするためには、療養所自体を変えていかなくてはならないということに気がついて」自治会に入って、役員となり、「社会復帰に向けての思いを断ち切って、この療養所と強制隔離されている仲間たちの幸せのために生活をかけようと」自治会の人権回復の運動に邁進してきた。

まつ学生
東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。

平成25年度ハンセン病問題対策協議会における確認事項(2013年10月)として、厚生労働省とハンセン病違憲国家賠償訴訟全国原告団協議会、同全国弁護団連絡会及び全国ハンセン病療養所入所者協議会とは、以下のとおり合意したことを確認した。
(1) 平成26年度の国立ハンセン病療養所職員の定員については、入所者が良好かつ平穏な療養生活を営むことのできる環境整備が最重要であるとの認識に立って、ハンセン病問題解決促進法や衆参両院決議、平成25年度における対応や経緯を踏まえて定員確保に最大限努める。
(2) 厚生労働省は、引き続き必要な人員確保のため関係省への要請を行うとともに、平成27年度以降の定員削減計画が策定される場合においては、国立ハンセン病療養所が除外されるよう努力する。
(3) 厚生労働省は、定員状況を踏まえつつ賃金職員の定員化に努めるとともに、平成25年度における定員内職員退職後の後補充及び賃金職員の定員化後の期間業務職員の補充に努める。 畑
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に広がる畑。

松本馨患者自治会代表(1979)「創立七十周年に寄せて」『多磨』1979年9月号
 国立療養所多磨全生園が、第一区府県立全生病院として発足したのは一九〇九年九月二十八日である。ハンセン氏病療養所の終焉は近づいており、再編成か併設か、各施設とも決断を迫られるときが近づいている。これは避けて通ることのできない歴史の必然であり、各施設とも、この問題を巡って真剣な討議と探究が始まっているものと思う。では、多磨全生園は将来どうなるのであろうか。センターとして方向づけが成され、多磨に関するかぎり、将来への心配はないと言う者がある。果たしてそうであろうか。時間に多少の差はあっても、他施設と同じ道を歩むであろう。ハンセン氏病の患者の発生率が近い将来、ゼロになろうとしているとき、ハンセン氏病センターもまた、閉鎖か他への転用か、決断を迫られるときが来るからである。われわれ患者自治会は、こうした現実を無視して、目先だけの運動をする気にはならないし、われわれ自身の年齢を考える悠長な運動もできないのである。
 多磨支部患者自治会が、一時閉鎖から再建されたのは一九六九年の十年前である。六月に再建して最初の仕事は、創立六十周年の記念事業であった。このときの会員の強い要望は、七十周年記念を迎える者は限られており、六十周年が最後になるかも知れないから、思い出になるような記念事業を考えてほしいと言うことであった。
 その記念事業として始めたものに、ハンセン氏病文献の資料館を造ることと、緑化事業があった。六十周年に直接関係はないが、全生園の全面的な整備、センター中心のマスタープランが立てられ、運動を起したこの運動は、土地の一部を売って二、三年で整備を終るというものであった。このほかに、私の念頭を去らなかったのは、患者の手で全生園史を編纂しておくことであった。(引用終わり) はたけ2
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に広がる畑。

幸せを語り合ってる稲穂かな 東北新生園 盲桜山南仙
重なったまんま落ち葉がものいわず 宮城県東北新生園 盲桜山南仙
畑終えて 感謝をこめて 刃物研ぐ 青森市松丘保養園 木村隆一
雑草と 勝負始まる 我が畑 松丘保養園 木村隆一
  国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に広がる畑。

酷暑日の十日も続きカラカラの庭の芝生に蟋蟀(こおろぎ)啼くも 
  熊本県菊池恵楓園 桜木安夫
鉢植えのいちごの株に実の生りて五、六つ熟れていちご狩りせん 
  東北新生園 今野きよし 家畑
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に広がる畑とその奥の住宅。隔離されていた入所所にとって、畑での作業は、当初は自給自足のための必須の労働だったが、現在は余暇の一環として農作業が行われているようだ。

ミニトマト あをさ残して 日を仰ぐ 瀬戸内市邑久光明園 青柳義人 もり
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された人権の森に連なる森林浴歩道。 松本馨患者自治会代表(1979)「創立七十周年に寄せて」『多磨』1979年9月号
患者自治会が植樹を始めたのは一九七一年からで、やがて十年になろうとしている。戦時中、防空ごうの材料に園内の樹木を伐採し、さらに戦中戦後の燃料不足によって園内の樹木は殆ど姿を消したと言ってよい。戦後われわれの先輩が桜を中心に植樹をはじめたが、現在ではその桜が周辺の町の名所の一つとなり、花の季節には多くの人が桜見物にみえる。桜以外の本格的な植樹は七一年より始まり八年が経過したが、既に丈余の緑となり、全生園を包んでいる。全生園が建設された一九〇九年の東村山村と清瀬村は雑木林が海のように広がり、その一部に畑と森の中に点々と農家が見える程度であった。私が入院した一九三五年には、雉(キジ)や梟(フクロウ)の鳴く声が聞こえたし、狐(キツネ)もいたと言われる。四十余年後の今日では全生園以外に森林を見ることができない程に都市化されている。患者自治会は、全生園が東村山市の緑地帯として今後ますます貴重な場所になっていくことを考慮し、地域住民に、われわれの感謝の記念に全生園を森として残しておく計画を立てた。今世紀のうちに全生園の大方の患者は地上から消えていくであろう。その日に備えての植樹であるこの計画は全入園者の共感を得、患者作業の大部分はこの緑化運動に参加し、年ごとに緑が濃くなっていきつつある。戦後久しく絶えていた郭公が数年前より、五月二十日を過ぎると見えるようになった。全生園には数日とどまるに過ぎなかったが、今年は七月の終りになっても郭公の声が聞こえる。植樹の生長によって郭公の住みつく条件が出来たのであろう。十一万坪を森林にするとき、全生園は野鳥の楽園になるであろう。そしてそれは、そのまま森林とともに地域住民に感謝の記念となるであろう。

丘
国立ハンセン病療養所多磨全生園のライ病患者・元患者など入所者居住区の周囲には、逃亡防止に空堀と土手があり、土手の上に逃走防止用の有刺鉄線があったという。入所者は、空堀から掘り出した土で、1925年に望郷の丘を築いた。

古里へ 旅人として 十三夜 岡山県長島愛生園 柴田英子 望郷
国立ハンセン病療養所多磨全生園敷地内に入所者が1925年に築いた望郷の丘。頂上から園外方向を見る。今では樹木が大きく茂っているために、園外を見渡すことはできない。当初は、終生強制隔離されていた入所者が、外界を見てみたいと望郷の丘を築いた。 岡
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に入所者が1925年に築いた望郷の丘頂上から園内方向を見る。今は、外からやってくる子供たちの格好の遊び場になっていた。

真宗会館和光堂
国立ハンセン病療養所多磨全生園の宗教地区にある真宗会館和光堂太陽光発電
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された太陽光発電の街燈。日本の大多数の市町村では、自治会が維持管理する自治会所有の街燈・街路灯に対して、電気代・光熱費を補助したり、修繕・維持の管理費用を負担したりしている。 学生
国立ハンセン病療養所多磨全生園敷地内の宗教地区で記念撮影した東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。
教会
国立ハンセン病療養所多磨全生園の宗教施設。宗教地区には、カトリック教会、日蓮宗、真宗などの宗教施設がある。 教会
入所者高齢化や入所者減少で、かつてにぎわった宗教施設に常駐者はいなくなり、訪問者も少なくなった。 学生2
国立ハンセン病療養所多磨全生園の宗教地区の東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程鳥飼ゼミ学生。 キリスト
国立ハンセン病療養所多磨全生園に設置されたキリスト教会。後方は、井戸の水を給水する給水塔。公益社団法人 日本キリスト教海外医療協力会日本国際保健医療学会・学生部会(Japan Association for International Health - Student Section:JOCS)は、ハンセン病の特徴と日本での歴史を学ぶことを通して、海外での保健医療協力について考えるとして、フィールド勉強会で国立療養所多磨全生園を訪問している。 教会ゼミ
国立ハンセン病療養所多磨全生園宗教地区で記念撮影した東海大学教養学部人間環境学科鳥飼行博ゼミナールの学生。 ゼミ2教会
国立ハンセン病療養所多磨全生園宗教地区東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程鳥飼ゼミの学生が、フィールド調査を行った。 鳥飼行博
国立ハンセン病療養所多磨全生園敷地内の宗教地区東海大学教養学部人間環境学科鳥飼行博ゼミナール。 1929年の「無らい県運動」から「らい予防法」まで、ハンセン病患者はたとえ回復してもハンセン病患者施設に終生隔離された。つまり、療養所というより強制収容所であった。

井戸
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された井戸。療養所建設当初、周囲は雑木林で、上水道は整備されていなかったが、高度経済成長期には、周囲は宅地化し、上水道が敷かれた。しかし、住民は、ライ病の伝染を恐れて療養所と上水道を共用したくなかったと考えられる。
パイプ
 「滝尾英二的こころ」掲示板によれば、韓国のハンセン病療養所のある高興郡小鹿島(ソロクト)の国立小鹿島病院(1910年創立)には、2008年、100年ぶりに上水道整備が開始された。それ以前は、地下水と井戸水を飲料として利用してきた。高興郡は、上水道整備に30億ウォンをかけ道陽邑〜小鹿島の20km区間の上水道管設置工事をする。最小10?太さの上水管が敷かれるこの区間には、2001年1634億ウォンを投入して着工、橋は全長1.5km。高興郡小鹿大橋は、国内唯一のモノケイブル式の吊り橋。郡は、工事費節減のために海底ではなく、小鹿大橋に沿って上水管を敷設。 給水
国立ハンセン病療養所多磨全生園の敷地内に設置された井戸から各住宅に配水する給水塔。周囲の住民は、療養所の排水・下水が、近くに流れてくることに恐怖を感じており、療養所はそれを受けて、園内に排水貯水池を採掘している。この跡は現在でも、森の中にある深い窪地として残っていて、周囲をフェンスで囲ってある。 給水2
国立ハンセン病療養所多磨全生園の住宅に配水する給水塔

2013年10月1日『資料館』第81号(季刊)に、カービル・ハンセン病療養所に入所していたホセ・ラミレスJr氏の次の記事がある。
 ホセ氏は、カービル・ハンセン病療養所の医療や研究の素晴らしさを認める一方で、研究のモルモットにされた屈辱を人間としての尊厳の喪失体験として説明した。そして多くの入所者が同じ経験をしていた事実を知り、声なき人たちの声になる決心をした。本を読み、世界中のハンセン病患者への偏見・差別を学び、その後、ホセ氏は、カービル・ハンセン病療養所を変えるための運動に着手する。それは、療養所にある古い「規則」破りの行動を重ねることであり、ささやかにみえる実践の一つ一つに大いなる勇気を要した。当然のようにペナルティーがホセ氏に課せられたが、両親の理解もあり、戦い続ける決意は揺るがなかったという。

正門前
国立ハンセン病療養所多磨全生園の正門前。西武バスの停留所「全生園前」は、正門の前、このすぐ近くにある。 正門2
国立ハンセン病療養所多磨全生園正門は出入り自由な感じで、大学の正門よりも開放的に見える。正門守衛の廃止によって、正門から厳めしさが消えた。 正門3
国立ハンセン病療養所多磨全生園の開放的な正門。しかし、かつては、もっと狭く、守衛所があって、出入りは厳しく検査された。また、周囲は柊(ヒイラギ)の垣根で覆われ、入所者は外出できない作りになっていた。 バス
国立ハンセン病療養所多磨全生園正門前のバス停「全生園前」西武バスを待つ東海大学教養学部人間環境学科鳥飼ゼミの学生。
東海大学教養学部

Torikai University


鳥飼行博ゼミ長
国立ハンセン病療養所「多磨全生園」入園者自治会長佐川修氏のお話を伺い、ハンセン病資料館、全生園を見学した東海大学教養学部人間環境学科の 鳥飼行博ゼミ。ゼミのテーマである環境平和学は、ハンセン病患者の差別・強制隔離・断種など人権侵害と関連が強い。
鳥飼行博ゼミ長
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