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◆1940-1941年太平洋戦争前の日米英の航空力
写真(上)1940年6月以降、アメリカ、グラマン(Grumman)XF4F-3(Wildcat)試作戦闘機(38-471)の右側面
:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦前に制定されたもの。初飛行1937年9月2日、Pratt & Whitney R-1830ダブルワスプ空冷星型14気筒エンジン搭載、就役開始1940年11月、生産機数7,885機。
Grumman F4F-3 Wildcat SDASM CATALOG #: Blaine_00310 Title: Grumman F4F-3 Wildcat Collection: Miles Blaine Collection Repository : San Diego Air and Space Museum Archive embarrassed squirrel (deleted) XF4F-3 BuNo 0383
写真は Wikimedia Commons, SDASM Archives 引用。

写真(上)1941年6月-1941年初期、アメリカ、舗装滑走路で待機するアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)XB-19(Skyrocket)爆撃機の左側面
:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦前に制定された青丸白星赤丸と垂直尾翼の赤白ストライプが描かれている。1941年6月27日に初飛行したXB-19試作機は、ライト R-3350空冷二重星型エンジン(2,000hp)を搭載している。
Douglas : B-19 Catalog #: 00046928 Manufacturer: Douglas Designation: B-19 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Wikimedia Commons, SDASM Archives 引用。


1.1940年の日米航空兵力

1−1.米国における航空機業ブーム (上・下)
著者 安田忠雄:商工省貿易通信員 日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第 6巻 Page: 102 出版年 1940-05-08/1940-05-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100129663

写真(右)2018年5月、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍博物館、ライト R-1820 サイクロン 9(Wright R-1820 Cyclone 9)空冷星形9気筒エンジン:1930年代の主力エンジンで、ボーイング(Boeing)B-17空の要塞(Flying Fortress)爆撃機、カーチス(Curtiss)P-36ホーク(Hawk)戦闘機、ブルースター (Brewster)F2A バッファロー戦闘機、ダグラス(Douglas)B-18ボロ(Bolo)双発爆撃機、ダグラス(Douglas)DC-3輸送機、ダグラス(Douglas)SBD ドーントレス(Dauntless)などが搭載したが、ソ連、日本でもライセンス生産されている。 Douglas DC-37月14日、ボア 6.125in (155.58mm) ストローク 6.875in (174.63mm) 全長 48.23in (1,225.04mm) 直径 55.10in (1,399.54mm) 排気量 29.87ℓ (1,823in³) 乾燥重量 1,310lbs (594kg)。生産台数:4万7,475台。
Photo ref; Nikon-D80-2018-DSC_0255 (Edited) Date 3 May 2018, 15:17 Source Wright R-1820 aero engine, National Museum of the US Air Force, Dayton, Ohio, USA. Author Roland Turner from Birmingham, Great Britain
.写真はWikimedia Commons, Category:Wright R-1820 in museums File:Wright R-1820 aero engine, National Museum of the US Air Force, Dayton, Ohio, USA. (44121009354).jpg引用。


写真(右)1940年5月以降、アメリカ、飛行試験中のブルースター (Brewster)XF2F(F2A)試作艦上戦闘機:ライト R-1820 サイクロン 9(Wright R-1820 Cyclone 9)空冷星形9気筒エンジン搭載のF2Aは、初飛行:1937年12月2日、生産数:509機。全長 7.92 m 全高 3.56 m 全幅:10.67 m 翼面積:19.4 m2 空虚重量 1,716.84 kg(3,785 ポンド) 最大離陸重量 2,290.90 kg(5,055 ポンド) 燃料搭載量 160 ガロン(605.67 リットル 最高速力 484.41 km/時(高度 17,000 ft(5,182.60 m)/436.13 km/時(海面高度)※F2A-2/-3 519.82 km/時(高度 16,500 ft(5,029.20 m)/458.66 km/時(海面高度)※F2A-2 離陸滑走距離:最小/最大 70/155 m 航続距離 2,486.44 km 兵装 12.7mmブローニング AN/M2機関銃×3/7.62mm機関銃×1
SDASM Archives Brewster F2A Buffalo Catalog#: 01_00090407 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真はWFlicher, San Diego Air and Space Museum 引用。


写真(右)1942年10月、アメリカ、カリフォルニア州ロングビーチ、ダグラス工場、空軍博物館、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジンのダグラス(Douglas)C-47 スカイトレイン(Skytrain)輸送機への搭載作業:1932年に開発され17万3,618台が生産された。
Douglas DC-3 ボア×ストローク:140 mm×140 mm 排気量:30 L 全長:1,713 mm 直径:1,224 mm 乾燥重量:708 kg。生産台数:4万7,475台。コンソリデーテッド(Consolidated)B-24 リベレーター(Liberator)、PBY カタリナ(Catalina)飛行艇、ダグラス(Douglas)C-47 スカイトレイン(Skytrain)輸送機、TBD デバスター(Devastator)雷撃機、グラマン(Grumman)F4F ワイルドキャット(Wildcat)戦闘機。
A woman employee of Douglas Aircraft Company's plant in Long Beach, California in October 1942, being trained on the details of installing an aircraft engine. The engine is a Pratt & Whitney R-1830 Twin Wasp 14-cylinder radial engine of 1,200 horsepower (890 kW); it is being installed on a Douglas C-47 Skytrain twin-engined transport airplane, the military version of the Douglas DC-3 airliner.
Date October 1942 Source United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID fsac.1a35357.
写真はWikimedia Commons, Category:Pratt & Whitney R-1830 File:R-1830 engine on C-47 at factory 1942.jpg引用。


写真(右)1940‐1941年、アメリカ、未舗装滑走路で待機するグラマン(Grumman)XF4F-2 試作艦上戦闘機:アメリカ海軍の1936年の新型艦上戦闘機の開発要請を受けたブルースター(Brewster)社、セヴァスキー社、グラマン社が競争試作した結果、ブルースターF2Aバッファローが制式された。グラマンのXF4F-1は制式されなかったが、新型XF4F-2はF2Fのバックアップとして開発が続けられ、1941年12月の太平洋戦争の参戦時にアメリカ海軍の主力艦上戦闘機となった。
PictionID:40958606 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:16_000248 Grumman XF4F-2 0383.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum Date 23 December 2014, 08:09 Source Ray Wagner Collection Photo Author SDASM Archives
写真はWFlicher, San Diego Air and Space Museum 引用。


アメリカ軍の国籍マーク変遷
第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプ
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白帯ストライプは廃止
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

写真(右)1940‐1941年、アメリカ、飛行するグラマン(Grumman)F4F 艦上戦闘機:全長Length: 28 ft 9 in (8.76 m) 全幅Wingspan: 38 ft 0 in (11.58 m) 全高Height: 11 ft 10 in (3.61 m) 翼面積Wing area: 260 sq ft (24 m2) 空虚重量Empty weight: 4,907 lb (2,226 kg) 総重量Gross weight: 7,423 lb (3,367 kg) 発動機Powerplant: 1 × Pratt & Whitney R-1830-76空冷星型14気筒エンジン1,200 hp (890 kW) プロペラPropellers: 3-翅定速回転 最高速力Maximum speed: 331 mph (533 km/h, 288 kn) 航続距離Range: 845 mi (1,360 km, 734 nmi) 実用上昇限度Service ceiling: 39,500 ft (12,000 m) 兵装Armament : 4 × 0.50 in (12.7 mm) AN/M2 ブローニング(Browning)機関銃(携行弾数:450発) 爆弾Bombs: 2 × 100 lb (45.4 kg) /2 × 58 ガロン(220 L)落下式増加燃料タンク。
Grumman : F4F : Wildcat Catalog #: 00003670 Manufacturer: Grumman Designation: F4F Official Nickname: Wildcat SDASM Archives
写真はWFlicher, San Diego Air and Space Museum 引用。


(上)
米国に於ける航空機製作会社の航空機、エンジン及部分品販売価格は一九三七年度八千六百四十万弗に達し記録的のものとして祝福したものであるが一九四〇年二月末に於る諸会社の手持注文総額は六億弗と謂われ其後聯合国買付委員の航空機注文予想額は十億乃至十七億弗と喧伝されているので之が実現すれば過去僅三ケ年間に米国に於ける航空機製作事業は小規模幼稚産業から尨大な近代最近飛躍産業になる訳で航空機発展史に特筆すべきものである米国に於ける航空機製作会社手持注文額の概約六〇%は海外輸出向軍用機で占められている、

第一次欧洲大戦当時の経験もあるので戦時俄景気に含蓄される危険性を想起せぬものはないので、航空機製作者もその地盤の脆弱性をよく認識しているので警戒注意深く計画を樹立している、大量生産制を採用し工場拡張は可成く最小限度にし出来る限り下請制度を採用している、勿論或会社は既に拡張工事に着手し英仏側の注文激増のため更に拡張を余儀なくされる立場にあるが、これら拡張資金は殆ど英仏側で融通されているので戦乱終熄後と雖も瓦解することなく然も米国政府の国防計画に保留されるので航空機製作会社は平和回復後損失打撃を蒙らぬと云っており戦時中に戦時利得を保留して平和再来の業界衝動の反動に備えんとしている、

万全の予防警戒策を施していても平和樹立の反動は甚大のものであることは業界のよく納得しているところであるが、想像されているよりも案外その反動を容易に切抜け難局打破し得るとの見解もある、第一次欧洲大戦終熄後米国に於ける自動車事業が実際に示した如く第二次欧洲戦乱終熄後も米国航空機製作界も自動車事業と同様技術的優秀と大量生産の勝味等に基き世界市場に於ける航空界を支配し得る地位に君臨するであろうとの楽観説がある、

戦乱中交戦国の技術は専ら軍用航空機の設計に集中されるであろうからその間に世界航空路の大部分は米国の航空機によって占有され戦乱終熄は米国の民間航空機及航空輸送事業は外国の技術を遥に凌駕するであろう、戦時の莫大注文で米国の航空機製作界は永年待望の大量生産の技術を修得し得る機会に恵まれた訳であると云っている加之、その結果米国国内市場は将来従前より大量の航空株を吸集するに都合のよい立場に置かれているのである、

現在米国軍部所有の航空機は陸海軍各々二千二百台と云われているが拡張計画によれば一九四一年六月には陸軍用五千五百台、海軍用三千二百台に増加することになっているが米国政府の支持しているビンソン法案[Vinson Naval Expansion Act]は海軍用航空機を四千九百台に拡張しようと云うのでこれらが全部実現すれば一九四三年以降に於ける航空機の年々の置換経費は一億五千万弗以上にも達しこの額だけでも一九三七年度の米国航空機総生産額を遥に凌駕する訳である、

加之、米国内の民間エヤーライン用の航空機需要も将来有望視されるのである、一九三九年民間エヤーラインは無事故の驚異的好記録を示したので民間航空熱は煽情的のもので従って民間エヤーラインの将来は益々有望視されている、

一九三九年度乗客航空哩数六億六千五百万哩は三八年度に比較し殆ど四〇%の激増を示している、民間航空輸送会社用航空機需要と相俟って自家用航空機の将来有望性も等閑に附すべきでない、四十乃至七十五馬力、価格百九十五弗乃至三千弗の二名乃至三名搭乗小型航空機製作も過去数ケ年間相当の繁栄も示しているが一九三九年約三十台の需要があり、これは非軍用機の八五%を占むるもので従来の記録に比較して二〇%の激増を示している、

米国政府の一ケ年間一万人の航空機操縦士養成計画が一九三九年度から実施されたのでこれ等操縦士養成に要する小型航空機需要は急激に増加し又訓練課程を終了した操縦士に要する小型航空機需要も更に漸次増加する傾向で大型、快速及高級機等に対する需要も漸次増加することになるのであろう

写真(右)1939-1940年頃、アメリカ、ハワイ諸島、舗装滑走路で待機しているアメリカ陸軍航空隊第19爆撃団ダグラス(Douglas)B-18 A ボロ(Bolo)爆撃機(BS-34)の左側面:第二次世界大戦参戦前から第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春まで)の青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプのアメリカ国籍マークが描かれている。胴体後上方の引込み式銃座は、天測窓のような半球形ガラス風防に置き換えらている。
B-18 は1936年制式、ダグラスDC2旅客機の主翼を流用したため開発期間は短縮できたが、速力不足(357km/h)だった。
乗員Crew: 6名 全長Length: 57 ft 10 in (17.63 m) 全幅Wingspan: 89 ft 6 in (27.28 m) 全高Height: 15 ft 2 in (4.62 m) 主翼面積Wing area: 959 sq ft (89.1 m2) 空虚重量Empty weight: 16,320 lb (7,403 kg) 総重量Gross weight: 24,000 lb (10,886 kg) 最大離陸重量Max takeoff weight: 27,673 lb (12,552 kg) 発動機: 2 × Wright R-1820-53 Cyclone 9-cylinder air-cooled radial piston engines, 1,000 hp (750 kW) プロペラPropellers: 3-羽フルフェザリング(fully-feathering)ハミルトン(Hamilton Standard)可変ピッチ 最高速力: 216 mph (348 km/h, 188 kn) /10,000 ft (3,000 m) 巡行速力Cruise speed: 167 mph (269 km/h, 145 kn) 航続距離Range: 900 mi (1,400 km, 780 nmi) 実用上昇限度Service ceiling: 23,900 ft (7,300 m) 兵装Guns: 3 × 0.30 in (7.62 mm) 旋回機関銃 爆弾Bombs: 2,000 lb (910 kg) 通常; 4,400 lb (2,000 kg) 最大
Description Douglas B-18A of the 31st Bombardment Squadron, 19th Bombardment Group Date 1 January 2008, 19:52 Source Douglas B-18A Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:19th Bombardment Group (United States Army Air Forces) File:Douglas B-18A (5104234826).jpg引用。


写真(右)1940年5月以降、アメリカ、飛行試験中のダグラス(Douglas)SBD 試作艦上爆撃機:ライト R-1820 サイクロン 9(Wright R-1820 Cyclone 9 )空冷星形9気筒エンジン搭載のSBD ドーントレスは、初飛行:1940年5月1日、生産数:5,936機。
SDASM Archives Douglas SBD Catalog #: 00047243 Manufacturer: Douglas Designation: SBD Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真はWFlicher, San Diego Air and Space Museum 引用。


写真(右)1940‐1941年、アメリカ、アメリカ海軍空母艦上から発進しようとするダグラス(Douglas)SBD ドーントレス(Dauntless)艦上爆撃機:全長 33ft 1.25in (10.09 m) 全幅 41ft 6.3125in (12.66m) 全高 12ft 11in (3.94m) 翼面積 325ft2 (30.19m2) 空虚重量 6,533lbs (2,963kg)[6] プロペラ ブレード3枚 直径10ft 10in (3.30m) エンジン Wright R-1820-60 (1,200Bhp) ×1 兵装 .50 AN/M2ブローニング12.7mm機関銃 ×2 (弾数計360発) + .30 AN/M2ブローニング7.62mm機関銃×2 (弾数計2,000発) 、爆弾搭載量:胴体下;1,600/1,000/500lbs爆弾×1、翼下;325/100lbs爆弾×2
SDASM Archives Douglas SBD pictionid66051807 - catalogsbd3.bmp - title sbd 3 - filenamesbd3.bmp---Born Digital Image. .Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
.写真はWFlicher, San Diego Air and Space Museum 引用。


(下)

試みに一九三九年度に於ける米国主要航空機製作会社の事業成績を挙げれば次の如し [図表あり 省略]

米国に於ける航空機輸出は一九三九年九月及十月は不振を示したが中立法可決以降激増し十二月のみで一ケ月輸出額二千九百万弗に達し自動車輸出額よりも四百万弗を凌駕するの進展を示している、

即ち欧洲戦乱勃発以降九月乃至十二月迄の四ケ月間累計額四千七百万弗は前年同期間累計額一千九百万弗に比較し実に一四七%の飛躍振で一九三九年度累計額一億一千七百十万弗は三八年度累計額六千八百二十万弗に比較しても七二%の増加を示し更に一九三七年度の三千九百四十万弗に比較すれば一九六・七%の驚異的躍進を示すことで況んや一九二九年度の九百万弗及三二年度の七百九十万弗等を回顧すれば航空機輸出進展の急テンポの程が窺知されるのである

 戦乱拡大長期化に亘るに連れ米国航空機輸出漸増傾向は持続されるものと期待されている、過去五ケ年間の米国航空機輸出額及主要輸出相手国を示せば次の如し

[図表あり 省略] 上記統計数字を一瞥すれば一九三九年度に於ける航空機に対する戦時準備の程が窺われるがその航空機輸出額の約七一%は聯合国向で仏蘭西向三六・三%(四千二百五十万弗)、英国向二九・七%(三千四百八十万弗)その他加奈陀三百三十六万弗及濠洲二百三十万弗等である、

和蘭向航空機輸出額は一九三八年度一千一百八十万弗及一九三九年度一千六十万弗等で一九三八年度は米国航空機主要輸出相手国中の首位を占め一九三九年度の如きも仏蘭西及英国等に次ぎ第三位を占めている、

和蘭向航空機輸出の大部分は勿論く蘭領東印度[オランダ領東インド]向と云われ、支那事変以降和蘭本国の蘭印に対する国防充実の一端の程が窺知される訳である、既述の如く聯合国側に於ける米国航空機に対する需要は十億乃至十七億弗と称せられているが斯の如き大規模の買付は現在のところでは未だ序幕前奏曲が奏せられたにすぎず本格的のものではない、

一九三九年十一月四日米国のアームエンバーゴー解禁現金自国船主義採用以降一九四〇年一月三十一日迄の三ケ月間に聯合国側、即ち英仏、加及濠等向航空機輸出許可の下附された額は二億二千四百五十万弗で実際輸出済は輸出許可額の二〇%に過ぎざる四千七百二十万八千万弗で未納額は一億七千七百二十七万二千弗となる訳である、自一九三九年十一月至一九四〇年一月聯合国向航空機輸出許可額、輸出額及未納額等を示せば次の如し [図表あり 省略](米国における航空機業ブーム (上・下)引用終わり)


写真(右)1940‐1941年、アメリカ、飛行するアメリカ海軍ダグラス(Douglas)XTBD-1デヴァステイター(Devastator)艦上爆撃機試作1号機:1935年8月15日、1937-1939年130機生産された。乗員: 3: 全長: 35 ft 0 in (10.67 m) 全幅: 50 ft 0 in (15.24 m) 全高: 15 ft 1 in (4.60 m) 翼面積: 422 sq ft (39.2 m2) 空虚重慮: 5,600 lb (2,540 kg) 総重量: 9,289 lb (4,213 kg) 発動機: 1 × Pratt & Whitney R-1830-64 ツインワスプ空冷14気筒エンジン900 hp (670 kW) 最高速力: 206 mph (332 km/h, 179 kn) /8,000 ft (2,400 m) 航続距離: 435 mi (700 km, 378 nmi) / Mark 13魚雷 716 mi (622 nmi; 1,152 km) with 1,000 lb (450 kg) of bombs 実用上昇限度: 19,500 ft (5,900 m) 兵装: 1 × ブローンング0.30インチ(7.62 mm)または0.50インチ(12.7 mm)機関銃、1 × 0.30 in (7.62 mm) 旋回機関銃 爆弾: 1 × Mark 13魚雷/1 × 1,000 lb (450 kg)爆弾
Douglas XTBD-1 Devastator US Navy photo PictionID:43099888 - Title:Douglas XTBD-1 Devastator US Navy photo - Catalog:16_003529 - Filename:16_003529.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はWFlicher, San Diego Air and Space Museum 引用。



写真(上)1942年初め、太平洋戦争勃発直後、太平洋、アメリカ海軍空母エンタープライズ(USS Enterprise (CV-6))飛行甲板で発進準備中のダグラス(Douglas)SBD ドーントレス(Dauntless)艦上爆撃機と後方の主翼を折畳んだダグラス(Douglas)TBD デヴァステイター(Devastator)雷撃機
:空母エンタープライズは、起工 1934年7月16日 進水 1936年10月3日 就役 1938年5月12日、基準排水量 建造時:19,800t 改装後:21,000t 満載排水量 建造時:25,500t 改装後:32,060t 全長 建造時:824 ft 9in (251.38m) 改装後:827 ft 5in (252.19m) 水線長 770 ft (234.69m) 全幅 建造時:109 ft 6in (33.37m) 改装後:114 ft 5in (34.87m) 水線幅 83 ft 0.75in (25.32m) 吃水 建造時:24 ft 5.5in (7.45m) 改装後:27 ft 11in (8.51m) 飛行甲板:813 ft 10.81in × 97 ft 6.36in (248.07m × 29.73m) 最高速力:33.65kn 航続距離:12,500マイル/15kn 乗員 2,279名(航空要員:711名) 兵装:5インチ砲単装8門 28mm機銃 16門 (4連装4基) 12.7mm機銃単装24挺 搭載機 80-90機 エレベーター:3基
U.S. Navy Douglas SBD-2 Dauntless dive bombers and Douglas TBD-1 Devastator torpedo bombers (aft) on the flight deck of the aircraft carrier USS Enterprise (CV-6) in early 1942. Date 1942 Source scan from Robert L. Lawson (ed.): The History of US Naval Air Power. The Military Press, New York (USA), 1985. ISBN 0-517-414813, p. 63. US Navy cited as source. Author USN
写真はWikimedia Commons, File:USS Enterprise (CV-6) flight deck early 1942.jpg File:USS Enterprise (CV-6) flight deck early 1942.jpg引用。


1−2. 不安と焦躁の米国 : 独の西半球進出危懼 : 自国防衛強化に必死『大阪毎日新聞』Vol: 第 49巻 Page: 233 出版年 1940-08-06
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338963

Franklin Roosevelt [写真((上)ルーズヴェルト大統領)あり 省略] [写真((中)スチムソン陸相)あり 省略] [写真((下)ブリット大使)あり 省略]
 ワシントン本社特電【一日発】ドイツの本格的対英電撃戦が近づくにつれ、米国官辺では事態を極めて重大視し、不安と焦躁裏にその対策に大わらわになっている、先週仏国より帰米した駐仏ブリット大使はルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]大統領に対し、ドイツは遠からず英国海軍を撃破または拏捕して、来る十一月ごろ西半球の某所に攻め寄せる可能性が多いと、現地の実情観測に基づく警告的報告をなしたとのことであるが、スチムソン陸相が三十一日下院の陸軍委員会で英国は三十日以内にドイツのために決定的敗戦の苦杯を甞めさされるかも知れないとて米国に徴兵制採用の必要を強調したあたり、その狼狽振が窺われる、

ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]大統領が次から次へと陸海空各種の軍拡計画を発表し、本年度の国防費計上総額は実に百億ドルという未曾有の尨大なる額に上っている事実も米国現下の恐慌心理を表明したものである

元来米国政府の国防方針は、先ず英仏が結束してドイツに当り、米国の国防第一線としての立派な役目を果し、米国に対しては西半球を守るに十分な時日と余猶を与えてくれるとの仮定の下に樹立されていた、この仮定の下にル大統領は今年六月早々英仏に対し約百台の優秀な米国陸軍爆撃機、小銃五十万挺その他の武器を供給する命令を発し、さらに連合国に老朽駆逐艦、新水雷発射ボート、潜水艦追撃艇等を供給せんとさえしていた、

しかるに六月十七日に仏国は脆くも崩壊して英国は極度の危機に曝され、事態は全く一変してしまった、そこでルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]大統領、議会領袖、米国陸海軍当局らは、米国が英国に対し如何に物資で援助しても大勢を挽回し得る見込なしとの結論を抱くようになり、七月一日ル大統領はいずれの外国政府を問わず米国陸海軍に属する艦船、武器、弾薬等の販売を禁止する法案に署名したのである

従って戦争と紙一重の手段をとっても英国を援けようというル大統領の当初の政策は修正されたわけで、英国は現在民間業者から主として飛行機の如き軍用資材の供給を受けているに過ぎない、かくて米国は枢軸国が早晩西半球の侵略を企てると真剣に考えて、今は自国の防衛強化に全エネルギーを傾倒しつつある、ハヴァナ会議の結果にしても米国は英仏蘭の領土を保護するために西半球防衛の大部分の役割をつとめねばならぬので、その責任と不安はいよいよ増大しつつあるわけである (不安と焦躁の米国 : 独の西半球進出危懼 : 自国防衛強化に必死引用終わり)

写真(右)1937-1939年頃、イギリス、ショート S.23 エンパイア(Short S.23 Empire)四飛行艇:1937年2月6日初飛行の民間長距離旅客機で1936-1940年に42機が生産さた。
Short , S.23, Empire Boat Catalog #: 01_00087360 Manufacturer: Short Designation: S.23 Official Nickname: Empire Boat Notes: UK Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ショート S.23 エンパイア(Short S.23 Empire)四飛行艇:1937年2月6日初飛行の民間長距離旅客機で1936-1940年に42機が生産され、インペリアル航空BOAC、ギリス空軍、カンタス・エンパイア航空、オーストラリア空軍が使用した。

ショート S.23 エンパイア(Short S.23 Empire)四飛行艇の諸元
全長26.82メートル、全幅34.75メートル
片翼式単葉機
発動機: ブリストル・ペガサス(Bristol Pegasus)Xc 空冷星型エンジン920 hp (690 kW)4基
最高速力:320 km/h
巡航速力266km/h
乗客: 24名
航続距離:1,220 km


1−3.大戦一年・欧米航空路の変貌 断末魔の英・仏・蘭鵬翼を伸す独・蘇・米 : 興亡諸国の現実宛ら
中外商業新報 日本産業経済新聞 Vol: 第 6巻 Page: 114 出版年 1940-09-22

https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100214342

空を制するものは世界を制す−欧洲の天地に再び砲煙が打ち上ってからすでに一年を経過、漸く戦争は長期態勢の段階に入る情勢を示している、

戦前欧米各国はその勢威伸張のため全力を挙げて欧米、極東の空に商業定期航空路の拡充強化を図って来たが大戦はこの航空網にいかなる影響をもたらし変貌を来したか…英仏蘭三国とも自国が戦場と化したため欧洲路線は殆ど全滅の危機に瀕し、僅に最後の牙城と恃む植民地を確保すべく極東方面の路線維持に断末魔の喘ぎを続けながら死守せんとすれば、この間隙に乗じた独、蘇、米の進出は著しく、特にパン・アメリカン・エアウェイズ会社[PAN AM]の中南米、南方に伸びる空の攻勢は瞠目に値する、

ともあれ大戦以来の「欧米空の一年史」は興亡諸国の現実相をまざまざと描き出している

英国

今次大戦の矢面に立った英国は大戦勃発と同時に民間航空局長の下に「ナショナル・エア・コミュニケーション」を組織して現状維持につとめ、国内航空路はグレート・ブリテン東海岸地方の一部を残して全部停止し独の英本土攻撃熾烈化と共に東海岸地方も停止となり、英の生命線自治領、属領、植民地と本土を結ぶ英帝国航空路線も英濠線、英阿線及び支線を残して休止、瑞西[Swiss Confederation]、白耳義[Belgique]、波蘭[Polska]、ハンガリー[洪牙利]、独逸向の欧洲航空路は全線に亘って休止し僅かに北海を横断して諾威[Norge]、瑞典[Sverige]、芬蘭[芬蘭]に至る航空路を維持していたがこれも本年四月独軍の諾威侵入によって中止となった、

シドニー−オークランド間のタスマニア海横断航空路は四月末タスマン・エンパイア・エアウェイズ会社のエンパイア飛行艇[Short Empire]二隻で週一往復を開始し六月に入ってからはアメリカの北大西洋横断線(紐育[New York City:NYC]−リスボン間)に連絡するためロンドン−ボルドー−リスボン線を週二往復を始めて稍々体面をとり戻した

その後六月十日伊太利の参戦、同十七日仏蘭西の屈服で大打撃を蒙り、全線に亘り一時運航不能となったが、二十二日に至り地中海を避けて南阿聯邦(ダーバン)濠洲(シドニー)間に週二往復を開始、又バンコック−香港線も週二往復で回復した

写真(右)1937-1939年頃、エジプト、カイロ郊外、ロドエルファラ(Rod-el-Farag)、陽光を浴びてナイル川河口から離水するショート S.23C エンパイア(Short , S.23, Empire Boat)四飛行艇:1937年2月6日初飛行の民間長距離旅客機で1936-1940年に42機が生産され、インペリアル航空BOAC、イギリス空軍、カンタス・エンパイア航空、オーストラリア空軍が使用した。
Short, S.23C, Empire Catalog #: 01_00091431 Title: Short, S.23C, Empire Corporation Name: Short Designation: S.23C Official Nickname: Empire Additional Information: Great Britain, Named ""Cambria"" Repository: San Diego Air and Space Museum Archivee
.写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


仏蘭西

商業航空路に最も手ひどい打撃を受けたのは仏蘭西で、昨年末にはロンドン−パリ線、パリ−、マルセーユ線、マルセーユ−香港線、西貢−河内線その他で十二本の主要航空路を保持していたが六月十七日本国の単独屈服によって商業航空路は西貢−河内線一本を除いて全滅してしまった

独逸

大戦の覇者独逸はまた空の覇者でもある、同国ルフト・ハンザ[ Lufthansa]会社は独蘇航空協定をはじめ国内、国際航空路を強化し英仏側の包囲態勢に対して反撃を加えた、本年四月ルフト・ハンザ会社[Deutsche Lufthansa]の発表した夏季ダイヤによれば経営航空路は次の通り

【国際航空路】伯林−ローマ線▽伯林−ブカレスト線▽伯林−モスクワ線▽伯林−ストックホルム線▽伯林−オスロ線▽伯林−アテネ線▽コペンハーゲン−マルメ線

【国内航空路】伯林−ケーニヒスベルク線▽伯林−ウィーン線▽伯林−ミュンヘン線
更に六月十五日ブラチスラヴァ(スロヴァキアの首都)−ウィーン線、八月二十日伯林−マドリッド線を夫々開始した

伊太利

英仏航空路の退却に乗じ同国はヨーロッパ航空網の中心となった観を呈し、大戦直後羅馬、伯林{ベルリン}線を再開して独伊枢軸を確保、昨年末羅馬、リオデジャネイロ間に三発附サヴォイヤ・マルケッテイS八四型[ Savoia-Marchetti SM.82]陸上機で週一往復(現在は月一往復)を開始して南米進出を企図、本年三月末伊西航空協定を調印する等縦横に活躍

 六月十日参戦と同時にギリシャ、ハンガリー、[トルコ沖]ドデカニーズ諸島[Dodecanese]、パレスタイン[Palestine]、イラク、チュニジア、マルタ[Malta]への航空路は停止したが、羅馬、伯林線をはじめ羅馬、パルマ、ミラノ、ブダペスト、羅馬[ローマ]、リスボン線等九コースを依然維持している

写真(右)1940年10月以降、イタリア、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.82カングロ(Canguro:Kangaroo)三発輸送機:1937年11月3日初飛行の民間長距離旅客機でとして開発された。
Savoia-Marchetti, SM.82, Canguro (Kangaroo) Catalog #: 01_00087255 Manufacturer: Savoia-Marchetti Designation: SM.82 Official Nickname: Canguro (Kangaroo) Notes: Italy Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-82輸送機は、前作SM-75旅客輸送機の後継機として、胴体を大型化して輸送力を増強した発展型だが、主翼、尾翼、降着装置などは前作SM.75輸送機を流用し、早期の実用化を図った。構造は。機首からコックピットまでは、金属骨格(モノコック)でそのほかは、布張りを多用した。第二次大戦の始まった直後の1939年10月30日に初飛行した。

サヴォイア・マルケッティSM.82 イタリアのサヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.82カングロ輸送機の諸元
発動機:アルファ・ロメオ(Alfa Romeo)128 RC21 空冷星型9気筒 950馬力3基
全備重量: 9,300 kg
全幅: 29.68m
全長 22.95m
全高: 6.00m
主翼面積: 118.60m2
空虚重量: 輸送機型 10,550 kg (23,259 lb) 、爆撃機型 11,200 kg (24,692 lb)
最大離昇重量: 輸送機型 18,020 kg (39,727 lb)、爆撃機型 18,410 kg (40,587 lb)
最高速力: 347-370Km/h(4,000m)
航続距離: 2,100 km-3,000km
実用上昇限度 6,000 m
乗客:40名

写真(右)1938-1939年、オランダ領東インド植民地、オランダ海軍ドルニエ(Savoia-Marchetti) SM.82飛行艇 (Canguro (Kangaroo)) :オランダ海軍がドイツに発注した機体で、1937年6月に引き渡された。オランダ空軍の三色旗国籍マークを胴体側面と垂直尾翼方向舵に描いている。1942年3月3日、オーストラリア北部ブルームで日本海軍の空襲を受けて喪失。
A Dutch Dornier Do 24K-1 flying-boat (s/n X-1, c/n 761) in flight. "X-1" was the first Do 24 ordered by the Marineluchtvaartdienst (Netherlands Naval Aviation Service). It was delivered on 3 July 1937 and finally lost on 3 March 1942 near Broome, Australia, during a Japanese air raid. Parts of the wreck are still visible today. Date circa 1938-1939 Source File:Dornier Do24.jpg from H.J. Cooper, O.G. Thetford and D.A. Russell: Aircraft of the Fighting Powers Vol I, Harborough Publishing Co, Leicester (UK), 1940. Author Unknown; Photographer not identified, so UK Copyright contended to have lapsed 50 years after publication. Picture prepared for Wikipedia by en:User:Keith Edkins in April 2004, enlarged by Denniss in May 2005.
.写真はWikimedia Commons, Category:Dornier Do 24 File:Dornier Do24K in flight c1938.jpg引用。


和蘭[オランダ]

亡国の歎き深い和蘭は飛行基地を転転と移しながらリダ−バタヴィア[Batavia]線(週一往復)バタヴィア−シドニー間と極東航空路を死守している、国亡びて定期航空路ありといったところだ

蘇聯邦[ソ連邦]

蘇支連絡航空路(モスクワ、アルマ、アタ、アルマ・アターパミール、パミール−重慶)蘇勃航空協定(モスクワ−ソフィア)独蘇航空協定(モスクワ−伯林)等々と空の触手を亜欧一杯にひろげている

支那

The Pan Am Clipper The History of Pan American's Flying Boat 依然たる外国依存ながら米支合弁中国航空公司は重慶−香港、重慶−昆明、昆明−河内、重慶−成都、重慶−嘉定、更に昆明−蘭貢線を運営し独支合弁欧亜航空公司は大戦後一時中絶の状態から最近復活の兆を見せて来たが独の仏蘭西侵入後昆明−河内線は休止、中国航空公司の昆明−河内線も新情勢に応じ一週間前に停止した、更に本年四月重慶政府、エール・フランス会社間に昆明−河内線の協定が成立した

米国

大戦勃発を奇貨として一大飛躍を期した米国は中南米向航空路から後退した英、仏の間隙に乗じパン・アメリカン・エアウェイズ会社[Pan American Airway]は新造のグラスDC3十機、ロッキード・エクスカリバー機[Lockheed 44 Excalibur]三機で東岸廻り、西岸廻りの往復回数をどしどし増加した

 またボーイング・ストラトライナー(亜成層圏用機)[Boeing Model 307 Stratoliner]でマイアミ−バランキラ間のカリビア海横断南北両米連絡飛行を実施千二百哩を六時間半で翔破している、続いて七十四人乗ボーイング三一四型アメリカン・クリッパー機[Boeing 314 "American Clipper"(NC18606)]で桑港−オークランドの新西蘭向定期航空(二週一往復)を開始、極東の空にも威圧を加えている(大戦一年・欧米航空路の変貌 断末魔の英・仏・蘭鵬翼を伸す独・蘇・米 : 興亡諸国の現実宛ら 引用終わり)

写真(右)1940−1941年頃、アメリカ、大渓谷上空を低空飛行するTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン(Transcontinental & Western Air)航空ボーイング307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コード: NC19906)
English: Catalog #: 01_00091292 Title: Boeing, Type 307, Stratoliner Corporation Name: Boeing Aircraft Designation: Type 307 Official Nickname: Stratoliner Additional Information: USA Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Boeing, Type 307, 307, Stratoliner Author SDASM Archives
.写真はWikimedia Commons, Category:NC19906 (aircraft) File:TWA Boeing Sa-307B NC19906 'Cherokee' fleet number 401 marked as NC1940 in flight.jpg引用。


シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307 は、与圧客室キャビン(pressurized cabin)を備え高空でも中高度と同じ気圧が保たれる快適な客室だった。1938年12月31日に初飛行直ぐにKLMオランダ航空が採用を決定したものの、1939年9月に勃発した世界大戦で就役は叶わなかった。

しかし、まだ中立国だったアメリカでは、TWAトランスコンチネンタル・ウェスタン(Transcontinental & Western Air)航空社主ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が、ボーイングの技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen)のボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)旅客機を高く評価し、与圧客室キャビン(pressurized cabin)装備の快適な長距離大量空輸の実現のために、5機のボーイング307(登録コード:NC19905、NC19906、NC19907、NC19908、NC19909)を購入した。

写真(右)1940−1940年、アメリカ東岸、ニューヨーク州ラガーディアン(LaGuardia)、マリーンターターミナル(The Marine Air Terminal)を離水しヨーロッパ、多分リスボンに向かうパンアメリカン航空(Pan American)のボーイング(Boeing)314ディキシー・クリッパー(Boeing 314 Dixie Clipper)(登録コード: NC18605):この機体は、1943年1月にFDRをカサブランカ会談に運んでいる。
The B-314 could carry 74 passengers and 10 crew, although in overnight sleeper configuration, the ship accommodated 40 passengers in seven luxurious compartments, including a 14-seat dining room and a private “honeymoon suite” at the tail end of the plane. Over the course of their careers, the B-314’s operated by Pan American made approximately 5,000 ocean crossings and flew more than 12.5 million miles, and each of Pan Am’s Boeing clippers accumulated mor ethan 18,000 flight hours.
.写真は MH Magazine WordPress Theme by MH Themes, The Pan Am Flying Boats Boeing 314 Dixie Clipper引用。


クリッパーClipper ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"は、アメリカ陸軍航空隊の要求に応じて試作し、1937年10月15日に初飛行した四発大型爆撃機ボーイングXB-15の主翼とエンジンナセルの設計を流用した四発大型飛行艇である。この大型旅客飛行艇は、当時太平洋横断航路を開拓していたパンナム、パン・アメリカン航空 Pan American Airways:PAA)の要請になるもので、ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"は、1938年6月7日に初飛行した。

ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパーは、既にパンナム、パン・アメリカン航空 Pan American Airways:PAA)が採用していたマーチンM-130四発旅客飛行艇の5200キロを大きく上回っていた。

ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"の諸元
全長:106 ft 0 in (32.31 m)
全幅:152 ft 0 in (46.33 m)
全高:27 ft 7 in (8.41 m)
空虚重量: 50,268 lb (22,801 kg)
総重量: 82,500 lb (37,422 kg)
発動機:ライト(Wright)GR2600ツイン・サイクロン空冷星形14気筒エンジン出力1600馬力4基
最高速力:320km /h
巡航速力:296km/h
航続距離:8360キロメートル
燃料搭載量:1,000 gallons (4,500 L).

1ー4.我国の長足進歩 : 航空工業のみでも明白 : 精密機械 : 商品科学
大阪朝日新聞 Vol: 第 4巻 Page: 94 出版年 1940-10-04
hdl.handle.net/ 20.500.14094 /0100146760

精密機械[precision machinery]とは何か」こう借問すると明確な定義を与えることは出来ない、強いていえば「ヨリ高度精密な機能をもつ機械」とでも説明するほかない、少し極端だが一つの例をとってみると、スチームハンマー[Steam Hammer]やクレーン、セメントクラッシャー[Concrete Crusher]のごときは粗度機械で航空機の発動機や計器類、或は□□機械というようなものは精密機械[Batavia]と称されよう、工作機械にも粗度物もあれば一ミリの何十分、何百分の一という細工のために使われる高度精密機もある

わが国の機械製作工業は今事変以来、さらに遡っては満州事変以来その活動率の引上げを要請され特に今事変以後の生産力拡充計画の遂行に当っては全面的にそれが拍車をかけられた、殊に機械工業における生産力拡充はそれが軍需に重点を置かれていること勿論であるが、周知のごとく近代戦争に使われる科学兵器は恐ろしくその精度を高め驚くべき性能を発揮している、機械製作工業においては総てのものが高度精密でなければその目的を達し得ないのである

だがこの高度精密機械は粗度機械のように、そう簡単に製作されない、即ちそこには優秀高度の素材と機械、そして熟練した技術が絶対に要求される、殊に素材はその機械の性能構造に応じて現今では凡ゆる特殊金属が要求される、いわゆる特殊鋼はその基本的なものでこれに特殊軽金属からさらに人造宝石までが使われるのだが、この特殊鋼或は特殊軽金属というても、その用途によって耐腐触性、耐熱性、硬度、比重問題等あらゆる特異性が完備されねばならず、従ってこの素材問題は最も基本的重大要素をなすのである

然らば我国の精密機械の製作状態−技術価値および製作力−はどうかというに、これは現在全く外部からの推測も許されない、また輸入状態も判らないからここで的確なことは説明できない、しかし日本の精密機械が最近数年間に著しい進歩発達をとげたことは明確な事実で、これは航空機製作工業が世界最高水準に到達したという一事をもってでも全体を十分推察しうる、殊に日本の金属素材の大進歩はこれに大きな基礎力を固めしめたのだ、

ただ極少数の特殊なものが米独機械に劣るかも知れぬが、これも今や関係当事者の非常な研鑽努力によって外国依存完全脱却の域に達しようとしているという、わが国の精密機械中にはすでに早く先進国のそれを遥かに凌駕しているものもあるのだからその力は十分に信頼してよい(我国の長足進歩 : 航空工業のみでも明白 : 精密機械 : 商品科学引用終わり)


写真(右)1935-1937年頃、アメリカ、マーチンM-130(Martin 130 Clipper)四発大型飛行艇1号機
Martin : 130 : Clipper Catalog #: 00068817 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


マーチンM-130Martin 130 Clipper)四発大型飛行艇1号艇「チャイナ・クリッパー」は1935年10月9日にパンアメリカン航空機に引き渡された。1935年11月22日、1号機「チャイナ・クリッパー」が、パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空(Pan American Airways:PAA)の太平洋横断定期便として就役した。

1934年12月30日初飛行 マーチンM-130Martin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」"China Clippers"は、全長27.7m、全幅39.7m、翼面積330 m2、プラット・アンド・ホイットニー (Pratt & Whitney)R-1830ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン830 hp (708 kW)4基搭載。全備重量:23,701 kg、最高速力290 km/h、航続距離5150km。


1ー5.米国、マニラを中継に蘭印と定期空路開始
大阪朝日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 108 出版年 1940-08-15
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100181526

Boeing 314 東亜共栄圏の確立に関聯して最近蘭印問題がわが朝野の視聴を集めている折柄、今回バタヴィヤ、フィリッピン両政府の間にバタヴィヤとマニラを結ぶ定期航空開設の黙約がなされたという情報が確実なる筋に達し反響をよんでいる、右情報の伝えるところによればフィリッピン政府は逓信局長の名をもって「バタヴィヤ政府逓信局長よりの申出により蘭印KNILM会社機は去る六日バタヴィヤを出発してマニラに飛来し、更に十日マニラから折返しバタヴィヤに帰航した、その際マニラから特に航空郵便を搭載した旨を発表した、

バタヴィヤ、マニラ間は従来航空路線をもたない全くの処女空路でアメリカは日本を刺激するのを懸念して今まで蘭印側からの定期航空開設の申出を拒否して来たといわれている、今回のKNILM会社機のマニラ往復飛行が果して今後正式に定期航空の形をとるか或は個別的の飛行許可によるかは不明であるが航空郵便を搭載している点から推して同地間に今後事実上の定期航空が実施されマニラにおいてパンアメリカ会社[Pan American Airways]の太平洋横断定期と接続することになって蘭印とアメリカとの接近が注目されるに至った (米国、マニラを中継に蘭印と定期空路開始引用終わり)


図(上):1938-1941年頃、離水空いたパンアメリカン航空(Pan American Airlines)ボーイング314クリッパー(Boeing 314 Clipper)(NC18602)長距離旅客飛行艇
:初飛行は1938年6月7日、全長32.3メートル、全幅46.3メートル、発動機はライト(Wright)GR2600ツイン・サイクロン空冷星形14気筒エンジン出力1600馬力4基を搭載し、最高速力320km /h、巡航速力296km/hは、当時の複葉戦闘機並みの速力であった。また、航続距離は8360キロメートルと、既にパンアメリカン航空が採用していたマーチンM-130四発旅客飛行艇の5200キロを大きく上回っていた。
Bilstein_00646 Boeing 314 062217 fic 005 pictionid58086478 - - filename 062217 fic 005cropped.tif---Lithograph of the Boeing 314 "Yankee Clipper;" framed with an original letter from 1939 that was carried aboard the first Trans-Atlantic Air Mail Service; Artist: Witkoff-- - -Image from the SDASM Curatorial Collection.Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"は、アメリカ陸軍航空隊の要求に応じて試作し、1937年10月15日に初飛行した四発大型爆撃機ボーイングXB-15の設計を一部流用した四発大型飛行艇である。この大型旅客飛行艇は、当時太平洋横断航路を開拓していたパンナム、パン・アメリカン航空(Pan American Airways:PAA)の要請になるもので、ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"は、1938年6月7日に初飛行した。

アメリカのパンナム、パン・アメリカン航空(Pan American Airways:PAA)がボーイング(Boeing)314飛行艇を1939年に6機を発注し、生産が開始された。1939年より引渡しが開始され、パンアメリカン航空は、1939年に6機を就役させ、1941年に3機を就役させている。1938年6月7日初飛行のボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"飛行艇は、 同時期に開発されたマーチン M-156(Martin model 156)四発飛行艇を抑えて、パンアメリカン航空に採用されたが、生産機数は1938−1941年に12機が生産された。


1ー6.シンガポールまで米、空路を延長 : 許可あり次第就航
大阪毎日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 125 出版年 1940-11-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100062201

【ニューヨーク本社特電十五日発】汎米航空会社[Pan American Airways]は十五日米国民間航空監督当局に対し同社の太平洋航空路をシンガポールまで延長の許可方申請中であると発表しかつ許可あり次第直にマニラ、香港間を隔週にしてマニラ、シンガポール間のサーヴィスに振り向ける予定であると附言し、同社社長トリップ氏は新航路は蘭印貿易界にも大影響あり米国の極東貿易促進上にも役立つと述べておる、右の発表は国防上のことにはふれていないが消息通は次の如く観測している

 政府としては極東に対して挑発的な態度に出ることは希望していないが航空路開設の如き私的な企てには支持を与えるであろう、シンガポールはマニラから千五百マイル、支那海を無着陸で飛行し得る距離にあり汎米航空会社[Pan American Airways]では新航空路開設に関し英国当局からあらゆる便益をうけることとなろう(シンガポールまで米、空路を延長 : 許可あり次第就航引用終わり)


写真(上)1940年10月以降、日本、川西九七式大型飛行艇H6K:1936年7月14日、中島光二型840hp4基で初飛行。ただし、量産型は三菱金星四三型1000pに換装された。
Aircraft type Kawanishi H6K Activity on water Source http://www.ijnafpics.com/jbwh6k1.htm
.写真はWikimedia Commons, Category:Kawanishi H6K File:Kawanishi H6K Type 97 Transport Flying Boat Mavis H6K-8s.jpg引用。


1938年設立の国策会社大日本航空(Japan Airways Co.Ltd)は、1940年3月6日、横浜 - サイパン(日本委任統治) - パラオのコロール(日本委任統治)の南方航路が開設されることになった。
日本海軍 九七式飛行艇 1941年1月には、民間仕様九七式輸送飛行艇「川西式四発飛行艇」18機が採用された。各機の登録コードは次の通り。
J-BFOR "黒潮"  
J-BFOS "朝潮" 
J-BFOT "曙"
J-BFOX "潮"
J-BFOY "漣(さざなみ)"
J-BFOZ "綾波"
J-BGOA "磯波"
J-BGOB "浦波"
J-BGOC "叢雲(むらくも)"
J-BGOD "白雲"
J-BGOE "巻雲"
J-BGOF "夕雲" 
J-BGOG "東雲(しののめ)" 
J-BGOH "朝凪"

写真(右)1940年10月以降、日本、川西九七式大型飛行艇の民間仕様「川西式四発飛行艇」:九七式輸送飛行艇の胴体に胴体前後に客室キャビンを設けた。前部客室キャビンは、6人掛けソファ(4人分の寝台ベッドとしても使用可能)、後部客室キャビンは、リクライニング座席8席と2人掛けソファ1台を設置している。
概要 4発飛行艇 その他 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 写真は、川崎式4発型輸送飛行艇。
.写真は文化庁, 郵政博物館 4発飛行艇 引用。


「川西式四発飛行艇」の南洋定期航路は、横浜(根岸飛行場)サイパン(8時間)、サイパン休息・整備後、翌日、サイパンーパラオ(7時間)の行程である。横浜発は第一・第三水曜、パラオ発は第一・第三土曜日が計画されていた。しかし、南洋定期便の運航は1941年11月で、12月8日には太平洋戦争が勃発したために、実際の南洋定期便運航は試行のみで、営業運航は実現できなかった。


日本海軍九七式飛行艇 1ー6.横浜、台湾、パラオ結び南方へ新空路 : 綾浪号が二十五日処女飛行
大阪毎日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 126 出版年 1940-11-18
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100116663 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

[写真(綾浪号と同型の三菱式四発飛行艇)あり 省略] 汎米航空会社がサンフランシスコ−香港間の太平洋航空路をシンガポールまで延長して極東空路に攻勢を伝えられるとき、南進日本の黎明に魁けて横浜−淡水(台湾)−パラオを結ぶ延長五、〇五七キロの南方海洋航空路が、大日本航空会社によって開拓される、この線が開設すれば今春三月から毎月二回の定期航空を開始した横浜−サイパン−パラオをつなぐ南洋線と連絡されることになり、ここに横浜を起点とする一万キロの太平洋循環航空路が完成されるわけである

日本飛行艇  わが南方航空路は南洋線のほかに去る八月二十八日南洋委任統治圏内の諸島を連絡するパラオ−ヤルート間四千二百キロの南洋島内定期準備航空が開始され、十七人乗の大型旅客機川西式四発動機附飛行艇により南方共栄圏への強力な紐帯が形成されたが航空局は国際情勢の推移を緯とし東亜共栄圏の発展動向を経とする遠大の企画のもとに南方航空路の拡充計画を樹立した

この第一段階として実施することになったのが横浜−淡水−パラオ間の飛行艇による処女空路開拓であって、これが第一回の試験飛行は来る二十五日十七人乗旅客機三菱式四発附飛行艇「綾浪号」(J−BFOZ)により決行される、淡水−パラオ間二千八百キロの渺茫たる洋上処女コースは、途中目印になる島がないばかりでなく飛行時間に十二時間を要し、日の出に出発しても日没までの到着がせい一杯という難コース、綾浪号は羅針儀その他による自力方向探知と船舶の協力による無電航法とで敢然南方航空路を開拓せんとするのである

 乗員は一等操縦士一等航空士中野政一、一等操縦士二等航空士大堀修一、一等航空士斧和夫、機関士鈴木秋太郎、同石橋熊次同中山健次郎、通信士楠田敬助同立松正の八氏

なおこの試験飛行によって開拓される太平洋循環航空路の各距離は次の通りである

 横浜−淡水間二、二五七キロ▽淡水−パラオ間二、八〇〇キロ▽パラオ−サイパン間一、五七〇キロ▽サイパン−横浜間二、六一〇キロ▽計九、二三七キロ [写真(【写真上から】中野、大堀の両操縦士、鈴木機関士、立松通信士)あり 省略](横浜、台湾、パラオ結び南方へ新空路 : 綾浪号が二十五日処女飛行 横浜、台湾、パラオ結び南方へ新空路 : 綾浪号が二十五日処女飛行引用終わり)


日本海軍九七式飛行艇 1ー7.綾波号見事拓けり南方動脈 : パラオから予定より一時間早く淡水に揚る感激の嵐
大阪朝日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 129 出版年 1940-11-26
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100113220 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

南洋パラオから台湾淡水へ二千八百キロ、一片の土もない逆巻く怒濤の上に前人未翔の処女航路を開拓する日本航空会社川西式四発大型旅客艇「綾波号」の画期的壮挙は全国民の与望と世界の視聴を集めていよいよ二十五日決行、午前五時十五分暁闇のパラオを出発した「綾波号」は連続する悪気流を見事に突破して午後四時八分目指すゴール、淡水に安着した、

雨に叩かれ着水連絡に相当時間を空費したため午後三時半ごろの着水見込が午後四時八分となったのでパラオ−淡水間の所要時間は十時間五十三分となった、それでも予定所要時間十二時間にくらべると実に一時間七分を短縮したわけでかかる大コース、しかも洋上の処女飛行としては画期的な大成功というべきである、

かくて綾波号は出迎えの人中からほとばしる感激の嵐の中に錨を降ろし日本航空の大西台北支所長らに迎えられて偉業完成の八鳥人はランチで郡役所広場に上陸、天幕の正面に一列にならんで佐々波逓信部長らの喜びの言葉を受け街民からの贈りものとして見事な花束が少女の手から岡野敏郎機長に贈られ、一行は淡水街主催の祝賀宴に臨みこれより車を駆って台北市に入り、花家ホテルに壮行の一夜を明かした、二十六日は正午台北鉄道ホテルにおける逓信部長主催の歓迎祝賀宴に出席二十七日午前六時横浜へ機首を向ける予定である(淡水) [写真(快翔した「綾波号」あり 省略]

[写真(大任を果した岡野敏郎機長)あり 省略] [図表あり 省略]

暴風雨も忽ち晴朗 虹橋を渡って翔る 処女空路初乗りの記

【淡水にて長谷川特派員発】下弦の月が鈍い光をパラオ空港に投げかけていた、空と海は一つに溶け込んでいる、暁闇の中からエンジンの響き、パチーと紫色の火花が散る、綾波号の出発準備である、午前四時半首途を祝う壮行会、乾盃が終ると岡野機長は「では行って参ります」と気軽に挨拶していよいよ壮途へ、…五時十五分綾波号は轟然たるスタートを起した  なにも見えない窓外に翼端の標識灯が揺れている、高度をとるに連れて夜明けが近づいて来た南洋特有の奇怪な形をした積層雲の峰々が茜色に迫り、豪快なタッチの油絵を見るような雄大な朝やけだ、七時半朝食の出るころからお天気が次第に悪くなり出して窓の外は猛烈な風雨で視界はほとんど利かない、こんな時には眠るに限るとこちらは眠っていて済むがドア一つ隔てて操縦席では乗務員がいまや懸命に大自然の暴威を人智の格闘を続けているのだ

岡野機長の話によると風速二十四米という強風で低気圧に挑戦している最中だという、機はほとんど海面すれすれに飛行している、雨さえ加って風はなかなかやまない処女コースの初試乗だ、二時間ほどしたらお天気はからりと霽れ上った、嘘のようなよい天気、五百、千、二千と高度を上げて快翔する、眼下には白雲のお花畠がひろがっている、しかしどこへいってもこのコースは島影を見ることができない、東京で日航の片岡理事が記者の手帳に走り書きしてくれた俳句を想い出す ”陸見えねば機に寄る冬の雲親し”

日本海軍 二式飛行艇 九時五分綾波号に無線援助をしていた南洋庁の警戒船南栄丸から「機影を南方に認む、御安航を祈る」綾波号からの謝電は「任務の御苦労を謝す、天気回復し快翔をつづけつつあり」十時近く機の左下に美しい虹がうかんだ、綾波はこの虹の橋を渡って飛ぶ

 お天気さえよければ客席はいたって朗かだ、ふんだんに持ち込んだ南洋の果物を食べたり、雑誌を読んだり、とても試験飛行とも思われない暢気さだ、だが魔の洋上コースだけあっていつ予想しない荒天に飛び込むかも知れない、十時三十分綾波号は早くも全コースの半分千四百キロを翔破した、機からはむろん見えないが左手四百キロの辺りにフィリッピンがあるはずだ、昨夏汎米航空会社のクリッパー機が遭難したのはたしかこの附近である、正午すぎ記者団から藤原航空局長官にあてて機上から「ばんざいルソン島附近にて」と祝電を打つ

二時半誰かが頓狂な声をあげた「台湾だ台湾だ」パラオを出てから九時間目はじめてみる陸である、陸をみつけたときの喜びは海上定期特有の喜びである、めざす台湾の山々をチラリと瞥見したと思う間もなく、またも天気が急変して来た、降りつける雨が操縦席の窓から吹き込んで乗務員はいずれもビショ濡れで奮闘、機は再び百メートルの低空に舞下って目的地を探索しながら難航をつづけ午後四時八分淡水空港に安着したのであった

日本海軍 水上機母艦 秋津洲 想像以上の悪天 機長談

『パラオを出発後約一時間、風速二十四、五メートルの強風を伴った暴風雨に遭い約一時間半そのなかを冒して飛びました、天候がかなり悪いということは出発の際予想していましたが、実際に飛んでみると天気図に現れているものとはよほど違って悪く、基隆沖では窓ガラスが壊されるのではないかと思うほどの土砂降りになりました

 私たちは高性能の機を絶対に信頼していますので、飛ぼうと思えばわけなくどんな悪天候でも飛べるのですが普通の飛行とは違って旅客定期飛行の開拓試験飛行ですので、十分慎重に慎重を重ね定期便としての安全さ、立派さを中外に宣揚すべく飛びました、午後二時半ごろになって雲量次第に増しついに全然隙間なく密雲が垂れこめ海面スレスレに飛んで来ましたが淡水が愈よ指顧の間に見えたときさすがに心で万歳を叫びました』(綾波号見事拓けり南方動脈 : パラオから予定より一時間早く淡水に揚る感激の嵐引用終わり)


2.1941年の米英の航空兵力

写真(右)1942年3月23日、アイスランド南西部、哨戒パトロールから眼下に見えるカルダーダ―ネス(Kaldadarnes)基地に帰投するイギリス空軍第73哨戒飛行隊(VP-73)コンソリデーテッド(Consolidated)カタリナ(Catalina)飛行艇の編隊:プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830ツインワスプ空冷星型エンジン1,050hp装備、航続距離4,110mile (6,614km)。
80-G-27350: Fleet Air Base, Iceland, March 23, 1942. PBY “Catalina” patrol planes from VP-73 return from patrol, pictured over Reykjavik, Iceland. (10/6/2015). Date 6 October 2015, 10:49 Source 80-G-27350 Author National Museum of the U.S. Navy 写真はWikimedia Commons, Category:1942 in Iceland File:80-G-27350 (21993168006).jpg引用。


チャーチル アイスランドはデンマーク領だったが、1874年に自治を認められ、1904年には自治領へとなり、1918年にデンマーク国王を抱く連合王国として独立した。デンマークは、1939年9月の第二次世界大戦勃発に際し、中立を宣言したが、ドイツの侵攻を受けた。

アイスランドも中立を宣言したが、融和政策をとってきたイギリス首相アーサー・ネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain )に代わって1940年5月10日チャーチルが政権をとった。

1940年5月10日、チェンバレン首相が退陣、チャーチルが新首相に就任したが、ドイツの西方侵攻に直面した。しかし、チャーチルは、同日、直ちに中立国アイスランド侵攻Invasion of Iceland )を発動した。当時、アイスランドは、連合していたデンマークがドイツに占領され、ドイツ軍がアイスランドに無血占領するリスクがあり、そうなればアイスランドを基地としたドイツ海軍潜水艦Uボートや海上航空兵力によって大西洋補給ルートが遮断される恐れがあった。

1940年5月10日、イギリス首相チャーチルが発動したのは、ドイツへの空襲ではなく、イギリス軍によるアイスランド侵攻「フォーク作戦Operation Fork )」である。これは、1000名弱の1個大隊規模のイギリス海兵隊をアイルランドに派兵するもので、アイスランドを軍事占領して、大西洋の海上交通ネットワークを確保することを企図していた。

写真(右)1941年8月27日、アイスランド沖、イギリス空軍ロッキード(Lockheed)ハドソン(Hudson) Mark III 爆撃機の爆雷攻撃で破損し降伏したドイツ潜水艦UボートVII型U-570と拿捕しようと接近するイギリス小艦艇:上空を警戒中の第209哨戒飛行隊コンソリデーテッド(Consolidated)PBYカタリナ(Catalina)飛行艇による撮影。1941年5月15日就役のU-570は艦長ハンス=ヨアヒム・ラームロウ(Hans-Joachim Rahmlow)大尉の初出撃だった。カルダザルネース(Kaldadarnes)基地を離陸したイギリス空軍第269哨戒飛行隊ロッキード(Lockheed)ハドソン(Hudson) Mark III 爆撃機の爆雷攻撃で急襲され、ドイツ潜水艦UボートVII型U-570を艦長に急襲され、白旗を掲げて降伏、イギリス兵士がU-570に移乗した。しかし、U-570は爆雷攻撃による浸水のため沈没しそうになり、沿岸に座礁させられた。のちにU-570は回収されイギリス潜水艦グラフ (HMS Graph:P715) として1941年9月19日に就役し実戦に投入された。ドイツ製でイギリスでは整備修繕できなくなったために1944年3月20日に除籍。
Royal Air Force 1939-1945- Coastal Command On 27 August 1941 Coastal Command claimed a rare and unusual success when one of its aircraft was instrumental in the capture of a U-boat. A No 269 Squadron Hudson operating from Kaldadarnes in Iceland, flown by Squadron leader J. H. Thompson, surprised U-570 on the surface. Thomson dropped a stick of depth charges, after which the German crew was seen spilling out onto the casing, waving white flags. This photograph was taken later by a Catalina from No 209 Squadron, called to the scene along with various Royal Navy vessels. Heavy seas at first prevented a boarding party from reaching the U-boat, but eventually they were able to accept the crew's surrender. Date between 1939 and 1945 Source C 2068 comes from the collections of the Imperial War Museums. Author Royal Air Force official photographer, HQ Coastal Command.  写真はWikimedia Commons,Category:No. 269 Squadron RAF File:Royal Air Force 1939-1945- Coastal Command C2068.jpg引用。



写真(上)1941-1943年頃、アイスランド南西部、カルダーダ―ネス(Kaldadarnes)基地、イギリス空軍第269飛行隊のロッキード(Lockheed)ハドソン(Hudson)Mk III爆撃機("Spirit of Lockheed-Vega Emplyees")

HUDSON MARK 3 (LOCKHEED) Two Wright Cyclone Engines. Aircraft named "Spirit of Lockheed-Vega Emplyees" ..Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION
写真は,Imperial War Museums CH 2651引用。


当時中立を宣言していたアイスランドには、武装警察程度の兵力しかなかったから、アイスランドのドイツ占領を恐れたチャーチル政権に入ったイギリスは、先回りしてアイスランド全土を支配下に置いてしまったのである。もちろん1940年5月10日に開始されたイギリスのアイルランド占領は、ソ連のバルト諸国併合と比すべき、国際法違反の侵略行為である。

しかし、アメリカの参戦と大西洋防衛へのアメリカ進出を目論むイギリスは、アイスランド占領・防衛をアメリカに委ねようとしていた。1941年6月22日にドイツがソ連に侵攻した直後の1941年7月7日、ルーズベルト大統領は、イギリス首相チャーチルの駐留要請を受けて、大西洋の安全保障を理由に、アイスランドにアメリカ海兵隊4000名を派遣し、アイスランドを再占領した。

アイスランドは、連合して頼りにしていたデンマークがドイツに占領されなすところがなかった。このような孤立した状況で、1941年7月7日の中立国アメリカによるアイスランド侵攻は、アメリカの豊富な物資支援、軍事援助を受けることでもあり、アイスランドはアメリカを歓迎するようになる。こうして、戦争末期、1944年にアイスランドは、デンマーク国王を元首に戴く連合を解消してしまった。デンマークより、アメリカを頼り、同盟国とする選択をしたのである。


Tales of the American Empire 3,750 回視聴 2019/10/26 On July 7, 1941, a large American naval task force with a 4000-man Marine brigade arrived off Iceland. Despite British pressure, the government of Iceland refused to invite the American troops ashore. President Roosevelt ordered the Marines to invade and informed the US Congress that Marines had landed because it was in Iceland’s best interest.

写真(右)1940年8月2日、イギリス領マライ、シンガポール、オーストラリア空軍第8飛行隊ロッキード (Lockheed)ハドソン(Hudson A16-76 (F-NN)) :イギリスのドミニオン(自治領)オーストラリアは、イギリスの対ドイツ宣戦布告の直後に参戦し、イギリス本土。北アフリカ、中東に部隊を展開した。しかし、太平洋方面でもイギリスに援軍を求められた。イギリス同様の三色ラウンデル国籍マークを胴体側面と垂直尾翼方向舵に描いている。1942年3月3日、オーストラリア北部ブルームで日本海軍の空襲を受けて喪失。
English: RAAF Lockheed Hudson A16-76 (F-NN) No.8 Squadron Singapore August 1940 Date 2 August 1940 Source https://www.awm.gov.au/collection/C20401 Author Australian War Memorial
.写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed Hudson  File:RAAF Lockheed Hudson A16-76 (F-NN) No.8 Squadron Singapore August 1940.jpg引用。


写真(右)1941年、イギリス領マライ北部、コタ・バル、オーストラリア空軍第8飛行隊C中隊ロッキード (Lockheed)ハドソン(Hudson)爆撃機の前での部隊記念撮影 :イギリスのドミニオン(自治領)としてオーストラリアは、イギリスに援軍を送った。イギリス同様の三色ラウンデル国籍マークを胴体側面と垂直尾翼方向舵に描いている。
Front row - Unknown, Don Stumm, Geoff Hitchcock (Sling Dick), Ferguson (Fergy), R. Parry, Rayson (Rusty), Garth Snook, Day. 2nd row - Sgt N.G. Menzies, A. Baird (Danny), Cpl Robinson, Rhodes Hensel (Dusty), Sgt L. Hackett, unknown, Sgt Julien, Ross Page, Sgt Barry Brown. 3rd row - unknown, G. Trewin, unknown, unknown, unknown, unknown, Peter Julian, unknown, Sgt Scotty Jansen. Back row: unknown, unknown, unknown, unknown, R. (Bob) Links, unknown, unknown, unknown, George Morrison, Paddy O'Donnell, Marshall (Shorty), G. Morison (the Major). Visit the State Library of South Australia to view more photos of South Australia Date 1 January 1941, 00:00 Source C Flight, 8 Squadron at Kota Bharu, 1941 Author State Library of South Australia from Australia
.写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed Hudson in Australian service  File:C Flight, 8 Squadron at Kota Bharu, 1941 (28244301646).jpg引用。


2−1.米、仏印を威嚇 : 枢軸接近を妨害 : 仏印[フランス領インドシナ]は断乎一蹴せん『読売新聞』Vol: 第159巻 Page: 72 出版年 1941-05-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337933

Vichy France 【ハノイ本社特電】(十九日発)信ずべき筋よりの情報によれば仏印政府[フランス領インドシナ植民地政府]は最近アメリカ政府より仏印政府[フランス領インドシナ植民地政府]ヴイシー政府[Vichy France]同様枢軸国への接近を企図するならばアメリカは必ずこれに対し何等かの報復的態度に出るであろうという極めて強硬なる警告に接したといわれる、

これは[1940年6月フランス敗戦後の]独仏[休戦]協定[Convention d'armistice]によって示されたヴイシー政府[Vichy France]の対独提携態度に対するアメリカの反感によるものであるとともに、仏印の枢軸国接近、即ち[1941年5月の日仏印]経済協定後における日仏印関係の緊密化に加えてヴイシー政府[Vichy France]の対独提携態度は当然仏印の対日提携[日仏印共同防衛など]に拍車をかけるものとの観測に基き仏印の南太平洋上における政治的、経済的並に軍事的重要性よりしてこれを最も好まざるアメリカ政府が飽まで日仏印の接近を妨害せんと企図したものである、

これに対し仏印当局においては近く対米回答を発すべく協議中であるが、東京経済会談成立以来仏印当局の対日認識[芳沢仏印特派大使受入など]もすでに昔日の比でなくアメリカの威嚇に対しても明確なる態度を以て一蹴するものとみられる(米、仏印を威嚇 : 枢軸接近を妨害 : 仏印は断乎一蹴せん引用終わり)


写真(右):1938-1941年頃、海岸を飛行するパンアメリカン航空(Pan American Airlines)ボーイング314クリッパー(Boeing 314 Clipper)(NC18602)長距離旅客飛行艇:初飛行は1938年6月7日で、パンアメリカン航空(パンナム)が6機を発注、追加を含め合計12機が生産された。
Bilstein_00646 Boeing 314 Clipper NC18602 Pan American Airlines Image from the Roger Belstein Collection--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


2ー2.空軍強化に狂奔 : 自ら描く"戦争幻影"に英極東軍の狂態ぶり
大阪毎日新聞 Vol: 第159巻 Page: 73 出版年 1941-05-22
https://hdl.handle.net/ 20.500.14094/0100335038 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

写真(右)1925年11月11日、イギリス、イギリス空軍ロバート・ブルック・ポパン(Robert Brooke-Popham:1878ー1953)将軍:1935年にイギリス空軍中東司令官、1937年にケニア総督に就任、1940年11月、62歳で極東軍総司令官(Far East Command)に就任。シンガポール、マレー、ビルマ、香港を管轄し、1941年には、マタドール作戦(Operation Matador)として日本軍によるマレー侵攻の企図を挫くために、タイで迎撃する作戦を準備した。 しかし、日本軍の侵攻を防ぎきれず、1941年12月27日に指揮権を委譲、1942年2月15日のシンガポール陥落後に、イギリスに帰還。1942年5月にイギリス空軍を退役。
English: Title: H.R.M. Brooke - Popham Abstract/medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller. Date 11 November 1925 Source Library of Congress Author Bain News Service, publisher United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID ggbain.38731.
写真はWikimedia Commons,Category:Robert Brooke-Popham File:H.R.M. Brooke - Popham LCCN2014718870.jpg引用。


【バンコック本社特電二十日発】最近バンコックに到着した一旅行者の談によれば、英極東軍総司令官ポッパム[Robert Brooke-Popham]空軍大将およびボンド陸軍中将らシンガポールにおける英軍首脳部はドイツが英本土に上陸した場合日本は必ずマレーに行動を起すものと勝手に臆測しているが、以下は英本国の敗戦深刻化とともにいやが上にも怯えるシンガポールを中心とした英領マレーの戦時狂躁ぶりを窺うに足る談話の一節である

周知のごとくシンガポールは艦隊なき海軍根拠地で、昨年十一月英極東軍総司令官としてポッパム[Robert Brooke-Popham]大将が着任したことは英国が極東作戦の重点を空軍においているためであって、シンガポールおよびマレーの軍備は目下空車を中心としてさかんに強化されつつある、

写真(右)1941-1942年初頭、イギリス領マライあるいはシンガポール、イギリス空軍ロバート・ブルック・ポパン(Robert Brooke-Popham:1878ー1953)将軍とイギリス陸軍アーチボルド・パーシヴァル・ウェーヴェル(Archibald Percival Wavell:1883-1950)将軍: ウェーヴェルは、1939年7月、中東軍司令官に就任、1940年から北アフリカ戦線でドイツ陸軍エルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団と対戦したが敗退し、1941年6月に解任。その後、インド軍司令官に就任するも、1941年12月からの日本軍との対戦で再び敗北。1943年10月、インド総督に就任した。
Australian War Memorial (AWM) catalog number 128118 Sourced from: http://www.awm.gov.au/database/collection.asp Copyright: The AWM record for this photo states that the copyright status is 'clear'. The photo was taken in 1941/42. No exact date given. AWM Caption: AIR CHIEF MARSHAL SIR ROBERT BROOKE-POPHAM, COMMANDER-IN-CHIEF FAR EAST, AND GENERAL SIR ARCHIBALD WAVELL. (RAAF). Post-Work: W.Wolny == Date 22 October 2009, 16:16 (UTC) Source Brooke-Popham_&_Wavell.jpg Author W.Wolny derivative work: Regi51 (talk)
写真はWikimedia Commons,Category:Robert Brooke-Popham File:Brooke-Popham & Wavell 2.JPG引用。


米[アメリカ]から続々飛行機

最近バビントン中将の後任にバルフオルド中将が英極東空軍総司令官としてシンガポールに着任した、確聞するにシンガポールにおける空軍強化のため最近米国から飛行機が続々輸送されて来ており現在シンガポールには飛行機一千、地上勤務員一千を数えると伝えられる、

このごろは毎朝シンガポールの空を米国製の[ブルースター(Brewster)F2Aバッファロー(Buffalo)]戦闘機が十二機編隊で示威飛行をやっている、最近は夜ともなれば照空灯の光亡が空に交錯している

写真(右):1941年、駐機するアリカ海軍航空隊ブリュスター(Brewster) F2A3バッファロー(Buffalo)艦上戦闘機:初飛行は1937年12月2日で、アメリカ向けに170機、イギリス、フィンランドなどに輸出向けに346機が生産された。全長 8.03 m 全高 3.68 m 全幅:10.67 m 翼面積:19.4 m2 空虚重量 2,146.40 kg(4,732 ポンド) 最大離陸重量 2,867.16 kg(6,321 ポンド) 燃料搭載量 242 ガロン(917.07 リットル) エンジン ライト R-1820空冷9気筒エンジン1,200hp(894.8 kW) 最高速度 516 km/h(16,500 ft)/457 km/h(海面高度) 最大効率巡航速度:259 km/時 離陸速度:150 km/時 離陸必要距離:最小/最大 70/155 m 航続距離 2,703.70 km 実用上昇限度 30,500 ft (9,296.4 m) 兵装 ブローニング AN/M2 12.7mm機関銃×2(機首)+2(翼内)
Brewster F2A3 1941 From SDASM's History of Naval Aviation Collection Repository: San Diego Air and Space Museum Archive--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


Brewster F2A3バッファロー Buffalo 街は兵隊ばかり

[写真(ポッパム[Robert Brooke-Popham]大将)あり 省略] 一方陸軍部隊もまた続々増援され目ぼしい空地は全部インド兵のテントに利用され、ついには墓地にまでテントを張るようになった

 カフェー、キネマ、ダンスホールは兵隊でいっぱいだ、半島地方もちょっとした町には兵隊が駐屯している、これはここ半年前までは見られなかった風景でインド兵が多数を占めている、コタバル、アロスター、ピナンタイビン、コーランボ、スレンバン、ポートディクソン、マラッカなどは立派な兵隊町だ

兵隊がふえたためか当局は半島のあちこちを防衛区域に指定し、一般人の半島旅行は困難で去る七日にはシンガポール軍港にニュージーランド兵がひそかに相当上陸し普通の商港の方には同日ローリー(軍隊輸送用トラック)九百台が陸揚げされたといわれる

泣き出すインド兵

最近半島のインド兵の一部に不穏な空気があったが原因は演習のときインド兵を第一線に出して仮想敵日本兵と正面衝突させたというにあり、インド兵はマレーへは日本兵の矢面に立てないという条件で来ているというのである、こうしたインド兵だから時には半島のお寺に現れておみくじを引きいつインドに帰れるかと占い、悪いおみくじを引きあてたものはワアワアと泣き出す始末である

写真(右)1941年12月25日、太平洋戦争勃発直後、イギリス領マライ南端、シンガポール南部、カラン、燃料補給中の6機のオーストラリア空軍第100飛行隊ブリストル (Bristol)ボーフォート(Beaufort)Mark V爆撃機の戦列:イギリスのドミニオン(自治領)オーストラリアは、イギリスの対ドイツ宣戦布告の直後に参戦し、イギリス本土。北アフリカ、中東に部隊を展開した。しかし、太平洋方面でもイギリスに援軍を求められた。
English: IWM: RAF personnel inspect six Australian-built Bristol Beaufort Mark Vs, shortly after their arrival at Kallang, Singapore. The aircraft were intended for the re-equipment of No. 100 Squadron RAF but, as they were unarmed and their crews possessed no operational training, five were returned to Australia, while the sixth was employed on photographic-reconnaissance duties. AWM: Sembawan, Singapore, Malaya. 25 December 1941. Australian built Beaufort bomber aircraft refuelling on arrival in Malaya, some hands in the crowd holding up the hose from the tanker. These aircraft are fast and highly maneouvrable but were unarmed. Of the six that were flown to Malaya, five returned to Australia with one being kept for reconnaissance purposes. Date 25 December 1941
写真はWikimedia Commons, Category:Bristol Beaufort (RAAF) File:C Flight, 8 Squadron at Kota Bharu, 1941 (28244301646).jpg引用。


写真(右)1942‐1943年、ニューギニア東端、ミルン湾カラン、オーストラリア空軍第100飛行隊ブリストル (Bristol)ボーフォート(Beaufort)Mark V爆撃機の機首と胴体下面の爆弾倉扉(開放状態):オーストラリアは、イギリスの対日戦に参戦し、オーストラリア本土防衛に寄与するニューギニアに部隊を展開した。
English: AWM caption : MILNE BAY, PNG, 1942 - 43. CLOSE -UP OF NOSE SECTION OF BEAUFORT AIRCRAFT A9-190 QH-B OF NO. 100 SQUADRON RAAF IN DISPERSAL, SHOWING NOSE ART. Date between circa 1942 and circa 1943 Source the Collection Database of the Australian War Memorial under the ID Number: P00647.028
写真はWikimedia Commons, Category:Bristol Beaufort (RAAF) File:100 Squadron RAAF Beaufort New Guinea WWII AWM P00647.028.jpg引用。


対米媚態総がかり

 [1941年4月6日、ドイツのユーゴスラビア・ギリシャ侵攻で]バルカン、アフリカにおける英の敗戦が伝わったときはさすがの英国人も一寸しょげて見えた。そして英国危しの声が巷に流布されたためトーマス[シンガポール]総督[Governor Shenton Thomas]は敗戦主義および反英の流言は今後厳重に取締ると布告せざるを得なかった、

しかし米国の参戦近しのニュースが新聞にデカデカと載るにおよんでやや生色を取り戻して来た風だ、去る十日に[アメリカから]クリッパー[Boeing 314 Clipper大型旅客飛行艇]の一番機がマニラからシンガポールに到着したとき英空軍の[ハリケーン(Hawker Hurricane)]戦闘機五台が出迎えポッパム[Robert Brooke-Popham]大将自らも飛行場に一行を迎えたが、これなどは米国の対英援助に対する感謝の気持の率直な現れであろう

念入りな防空施設

ハリケーン(Hawker Hurricane) なおまたシンガポールでは今日目ぼしい市内の建物はほとんどすべて爆弾の破片除けのコンクリート塀または砂をつめた板塀をめぐらしている、空襲の場合市民が避難する萱葺の小屋も各所に完成した念入りなのは金網ですっぽりと家を蔽ったものもある、また家の庭に自家用防空壕を造ったのもある当局はまた焼夷弾を消すための淡水、砂の配給を初めた、何というあわて方であろう、シンガポールには去る十日商震を団長とする支那軍事使節団が到着、目下各方面の軍事施設を視察、英軍首脳部と会談しているが、英蒋軍事合作の一つの現れであろう

 なおマレー半島のセランゴル州クラン地方のゴム園に八日苦力約一万参加という大きな武装ストライキが勃発、デモをはじめたので遂に軍隊が出動、警戒しているが、トーマス[シンガポール]総督[Shenton Thomas]は対策に苦慮しているといわれる(空軍強化に狂奔 : 自ら描く"戦争幻影"に英極東軍の狂態ぶり引用終わり)

写真(右)1941年、シンガポール北端、センバワン、イギリス空軍第62飛行隊ブリストル (Bristol)ブレニム(Blenheim)Mark I爆撃機:1935年4月12日初飛行のブレニムは、全金属製、単葉、引込式降着装置を採用した高速爆撃機として登場した。機首は、段なし透明風防で覆われている。背景は、ブリュスター(Brewster) F2Aバッファロー(Buffalo)戦闘機の戦列。
Description A Bristol Blenheim Mark I of No. 62 Squadron RAF taxies past a line of Brewster Buffaloes of Nos 21 or 453 Squadrons RAAF, at Sembawang, Singapore. Date 1941 205207684 CF 86 from the collections of the Imperial War Museums.
写真はWikimedia Commons, Category:Bristol Beaufort (RAAF) File:Buffaloes and Blenheim in Malaya 1941.jpg引用。


ブレニム 高速旅客機ブリストル142がイギリス空軍に献納されたことを契機に開発されたブレニム爆撃機は、全金属製、単葉、引込み式降着装置を備えた新鋭高速爆撃機として1935年4月12日に初飛行した。当時の各国主力戦闘機は、固定脚、複葉機も多かったために、この機体の高速性能は高く評価され、直ぐにブレニム Mk. Iとして制式された。

最初の量産型ブレニムMk. Iは1936年末から部隊配備され、1938年初頭には16個の飛行隊が編成され、地中海・中東・エジプロにも派遣されている。1938年9月にはMk. Iの機首を段付き風防に改良した部レニム Mk. IVが開発された。沿岸軍団に7個飛行隊が配備された。 しかし、1939年になった頃には速度的な優位性は薄れ、爆弾搭載量の少なさ、貧弱な防御武装など欠点が目立ってきた。そこで、ブレニム Mk. IVが開発された。

ブリストル (Bristol)ブレニム(Blenheim)Mk Iの諸元
乗員: 3名
全幅: 17.17 m
全長: 12.12 m
全高: 2.99m
機体重量: 5670 kg
発動機: ブリストル マーキュリー Mk. 8 空冷9気筒 離昇出力 840馬力×2
最高速力: 418 km/h
航続距離: 1810 km
武装 7.7 mm 機関銃 × 2
爆弾 454 kg
生産機数:Mk I 1150機

写真(右)1941年、シンガポール、イギリス空軍ブリストル (Bristol)ブレニム(Blenheim)Mk IV 爆撃機:機首は、段付き透明風防で覆われている。主翼の外翼を外して船積みされてシンガポールに到着したようだ。ブローニング 7.7 mm 機関銃4門を搭載しガン・パックとレーダーを装備した夜間戦闘機使用Mk. IFも開発された。
A Royal Air Force Bristol Blenheim I bomber is unpacked at Singapore, circa 1941. Date circa 1941 Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID ds.04804.
写真はWikimedia Commons, Category:Bristol Beaufort (RAAF) File:Blenheim bomber is unpacked at Singapore c1941.jpg引用。


ブリストル (Bristol)ブレニム(Blenheim)Mk IVの諸元
乗員: 3名
全幅: 17.17 m
全長: 12.98 m
全高: 2.99m
機体重量: 5670 kg
発動機: ブリストル マーキュリー Mk. 15 空冷9気筒 離昇出力 995馬力×2
最高速力: 428 km/h
航続距離: 2350 km
武装 7.7 mm 機関銃 × 5
爆弾 600 kg
生産機数 Mk IV 3280機

ブレニム(Blenheim)各型式生産機数は、1937年117機、1938年447機、1939年1077機、1940年1518機、1941年1383機、1942年681機、1943年147機、合計5370機に達する。

写真(右):1939-1943年頃、飛行するイギリス空軍ホーカー ハリケーン(Hawker Hurricane):初飛行は1935年11月6日で、1944年までに14,583機もが量産された。
Permann_20 020 AI Gadgets Album Hawker Hurricane Mk IIC, BD867 'QO-Y' of No 3 Squadron Scanned image from the Permann Collection from the "AI Gadgets" album--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ホーカー(Hawker)ハリケーン(Hawker Hurricane)Mk.IICの諸元
乗員:1名 全長:9.8 m 全幅:12.20 m 全高:3.98 m
翼面積: (23.92 m2
空虚重量:2,560 kg 総重量:3,479 kg
発動機:ロールス・ロイス マーリ(Rolls-Royce Merlin)XX 液冷V12気筒エンジン1,185 hp (884 kW)
最高速力:550 km/h(高度6,400m)
航続距離:970 km
実用上昇限度:11,000 m m
兵装 Mk. IIB:7.7mm 機関銃 12挺/Mk.IIC: 20 mmHispano Mk II 機関砲4門

ロッキード(Lockheed) P-38 1937年2月、アメリカ陸軍航空隊は単座・高々度迎撃戦闘機インターセプター開発要求をアメリカ航空メーカーに出した。性能要求は、最高速力360 mph (580 km/h)、上昇時間20,000 ft (6,100 m)まで6分 、当時の戦闘機の速力を100マイル(160km/h)上回るものとされた。また、爆弾搭載量も1,000 lb (450 kg)と当時の標準搭載量500 lb (230 kg) の2倍が期待されていた。これがロッキード(Lockheed) XP-38に繋がる。

アメリカ陸軍の要求にこたえたロッキード(Lockheed)が開発したのがX-608、すなわちXP-38で、ライトフィールド基地で、1939年1月27日にアリソン液冷式発動機[Allison V-1710]を装備して初飛行した。当初、爆撃機を迎撃する大口径機関砲が望まれていたため、1939年4月27日から13機生産された先行量産型YP-38は、アメリカ陸軍砲兵工廠(Army Ordnance Department)の開発した 37 mm (1.46 in)T9自動砲、すなわち後に M4として生産される大口径砲と弾薬15発を搭載した。

⇒写真集Album:ロッキード(Lockheed) P-38 ライトニング(Lightning)戦闘機 


2-3.侮り難きその性能 : 米空軍最新機の全貌
日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第 6巻 Page: 137 出版年 1941-05-25
https://hdl.handle.net/ 20.500.14094 /0100226539

ライトニング 米国空中戦闘機中最優秀なものとしては最近制式になったロッキードP38型[Lockheed P-38 Lightning]があり、米空軍が”電撃機”と称して誇る素晴らしい快速機で、同社研究技師C・L・ジョンソンの設計になり一、一〇〇馬力アリソン液冷式発動機[Allison V-1710]を左右に二基据えた単座戦闘機で、成層圏飛行の設備もあり米国空軍司令の[ヘンリー・“ハップ”]アーノルド[Henry "Hap" Arnold]大将は「世界最高速だ」と言明し、最近テスト・パイロットによりその発動機の全スロットル開放の最高速試験を行った結果は実に驚異的高速だった由で、立会った米紙記者は時速八百キロを超えていたことは一点の疑いもないと云っている

だがこの数字を何処まで信じてよいかどうか、要するに七百キロの世界最高水準に近づいていることは想像出来る、同機は写真4の如くダビッド翼を採用しており、この点ドイツの新鋭機フォッケ・ウルフFWA一九八型機[Focke-Wulf Fw190]に似ておりこの翼だと従来高速戦闘機の難点であった操縦性の欠点も左右の発動機の緩急操作により安定性を保持しつつ、急転回が可能で、この高速と操縦性の難点を一応解決するものと見られている

強力発動機採用

同機は一、一〇〇馬力のアリソン液冷式発動機[Allison V-1710]を二基装備しているが、戦闘機では発動機の外形が空気抵抗の多い空冷式より空気力学的に整形された液冷式に移行したことを示すもので、同じく追撃戦闘機の新制式機になったカーチスP40型(写真1)もベルP39型[Bell P-39 Airacobra](写真3)単発なからこのアリソン液冷式を装備しており、アリソン発動機[Allison V-1710]はゼネラルモータース社経営のアリソン工場の製品で、同社では現在液冷式で一千五百乃至二千馬力のものを製作中の由である現在各国航空機は大体八百馬力から千百馬力であるが米国では千五百馬力乃至二千馬力級を目指しており後述の超「空の要塞」ダグラスB19型[Douglas XB-19]なども二千馬力ライト社空冷式発動機を控えており、同じく米国の代表的航空発動機会社プラット・アンド・ホイットニー社でもワスプの二千馬力ものを製作している、

発動機における米国の着々たる進歩は蓋し刮目すべきものがあり、それと共にプロペラーの改良もハミルトン・プロペラー社カーチス・ライト・プロペラー社において不断に行われ、例えば新鋭快速追撃機ベルP39型[Bell P-39 Airacobra]も写真3のごとくカーチス・電気式プロペラーと称する特殊設計の新プロペラーを取付けている

戦闘機に火砲主義

快速力、運動性と共に戦闘機には火砲がまた絶対的な要素であるが翼内多数機関銃装置の一斉射撃の武装と共に、近来の金属製軍用機の装甲性に対する機関銃弾の無効果から各国では火砲即ち機関砲を戦闘機に採用する傾向にあるが、米国の新鋭戦闘機には未だ世界の如何なる戦闘機にも装備していない三十七ミリ機関砲を採用している

この機関砲はベルP39型[Bell P-39 Airacobra]では写真3のプロペラー・ハブ(枢軸)を通じて装置されており、またロッキードP38型では操縦席より、ベルYFM・1型エヤラキューダ[Airacuda])後部推進式双発三座戦闘機では各発動機の前室に二名の射撃手により照準移動可能のこの三十七ミリ機関砲を二門装備しており三十七ミリ口径といえば普通の戦車砲程度の破壊的の威力があり射程距離も二千メートルの遠距離に及ぶもので、この点現在のドイツのメッサーシュミット戦闘機をはじめ英・独の戦闘機は二十ミリから二十五ミリ程度のもので、その射程距離も六百メートルであるからこの三十七ミリ機関砲をもつ米国の戦闘機の威力も蓋し相当のものと云いたい


写真(右)1943年、アメリカ、陸上基地に待機しているアメリカ海軍航空隊コンソリデーテッド31 XP4Y-1(Consolidated Model 31)コレギドー(Corregidor)飛行艇試作機の右側面
:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦中に制定された星で白帯はない国籍マークを描いている。
Consolidated, Model 31, XP4Y-1 FILE NAME: 01_00091937 SDASM.CATALOG: 01_00091937 SDASM.TITLE: Consolidated, Model 31, XP4Y-1 SDASM.CORPORATION NAME: Consolidated SDASM.DESIGNATION: Model 31, XP4Y-1 SDASM.ADDITIONAL INFORMATION: To be called the Corregidor, the aircraft was to be produced for the U.S. Navy at a new assembly plant near New Orleans. The order was cancelled before any aircraft were produced. SDASM.TAGS: Consolidated, Model 31, XP4Y-1 PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


重爆撃機

爆撃機は空軍にとって最もその本質的使命を果す重要機種であり、即ち敵空軍基地を初め軍需工場、都市等を爆砕して敵戦闘力に打撃を与えるのである、しかも米国はその地理的条件から長距離爆撃機を作戦としても要求している、この点作戦行動範囲の狭い欧洲就中ドイツなどの爆撃機は比較的近距離用の大量生産向の二発動機型のものに主点を置いているのと対照される

 即ち欧洲各国の爆撃機は航続距離二千キロ−三千キロであるに対し、米国では五千キロ−六千キロに目標を置いており、最近では一万二千キロ乃至一万五千キロ大西洋を無着陸往復可能な超長距離機のダグラスB19型[Douglas XB-19]やコンソリデーテッド31型飛行艇[Consolidated XP4Y Corregidor]を製作している

写真(右)1942年頃、アメリカ、飛行中のアメリカ海軍航空隊ボーイング B-17 フライングフォートレス(Boeing B-17E Flying Fortress)重爆撃機(12599)の左側面:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦前に制定された白星・赤丸だが、垂直尾翼に白赤ストライプは描かれていない。B-17は、当初モデル 299 試作機として、1935年7月28日に初飛行した。その後も先行生産型がYB-17で、第二次大戦勃発3年前の1936年12月2日初飛行である。B-17Eは、初めての大量生産型でアメリカ参戦3か月前の1941年9月5日に初飛行し、500機が生産された。B-17の量産は、B-17Fが3,405機、B-17Gが8,680機で、総計1万2,731機もが大量生産されている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46702412 - Catalog:16_007782 - Title:Boeing B-17E 41-2599 [mfr L-1397] - Filename:16_007782.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, SDASM Archives・引用。


写真(右)1942年頃、アメリカ、飛行中のアメリカ海軍航空隊ボーイング B-17 フライングフォートレス(Boeing B-17E Flying Fortress)重爆撃機(12599)の左側面:全長 74.8ft (22.8m) 全幅 103.8ft (31.64m) 全高 19.1ft (5.82m) 翼面積 1,420ft2 (131.92m2) 空虚重量 35,972lbs (16,317kg) 離陸重量 67,860lbs (30,781kg)。B-17Eは、B-17で初めて尾部銃座を設け、胴体下部にボールターレット球形銃座を設置し、防御力を向上させている。
Boeing B-17E Flying Fortress Catalog #: 15_001625 Title: Boeing B-17E Flying Fortress ADDITIONAL INFORMATION: Delivered to USAAC as 41-2599 at Lowry Field, CO. Named ""Tugboat Annie."" Eventually to Hickam Field, HI. Ditched at sea in January, 1943. Participant in the Battle of Midway. Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Tags: Boeing B-17E Flying Fortress PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


ボーイングB17F なお此種のものに「空の要塞」の異名で既に重爆撃機隊に制式として五十九機配属しているボーイングB17型[Boeing B-17 Flying Fortress]があり、最近はその改良型B17−E型(七・七ミリ機関銃を主要武装としていたのを、三七ミリ−二十ミリの機関砲に変更)の重武装の文字通りの「空の要塞」を第一線機においている[実際のB-17 Eは12.7mm 機関銃11挺]、

これは凡ゆる角度の敵機を打てるよう胴体上下部両側、上部、機首に前後左右に動かして射撃出来る機関砲三、機関銃二を据えたもので、全備重量二十二噸、最大速度四八〇キロ、航続距離六千四百キロ、以上の場合の爆弾搭載力三噸である、発動機はターボ過給器付のライトサイクロン一、二〇〇馬力空冷式四基を据えて、九千メートル以上の高度で高性能を発揮するよう成層圏爆撃用への段階を示している

写真(右)1943年9月27日、イギリス西端、テームズ川河口から英仏チャネル海峡に入った迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊第570爆撃飛行隊ケイツ・ハリス大尉操縦のボーイングB-17F 爆撃機(42-30783)'Stork Club'と上空を護衛するリパブリック(Republic)P-47 サンダーボルト(Lancer)戦闘機:攻撃目標は、ドイツ北部の港湾都市エムデン(Emden)である。
B-17Fs (Flying Fortress) in the 570th Bomb Squadron, escorted by high-flying P-47s leaving contrails, en route to Emden on 27 September 1943. They were photographed by SSG Stan Smith, waist gunner in B-17F-120-DO 42-30783 'Stork Club', flown by Capt Keit PictionID:44536031 - Title:B-17Fs (Flying Fortress) in the 570th Bomb Squadron, escorted by high-flying P-47s leaving contrails, en route to Emden on 27 September 1943. They were photographed by SSG Stan Smith, waist gunner in B-17F-120-DO 42-30783 'Stork Club', flown by Capt Keith Harris. In the forground is B-17F-45-DL 42-3329 'Skippy', whose pilot 2LT George W. Harmon, was first to complete twenty-five missions in November 1943. 'Stork Club' and 2LT Vincent F. DeMayo's crew Failed to Return on 15 March 1943. On 5 February 1944 'Skippy' took off for a mission to bomb an airfield at Villacoublay, France but whilst departing England the No. 2 engine exploded. LT Thomsa J. Sutters, the pilot was unable to feather the windmilling prop and he decided to return to base but the engine set the wing on fire. They only made it as far as the River Thames where Sutters pointed the B-17 towards the Channel before all ten crew baled out safely. - Catalog:15_004024 - Filename:15_004024.tif - - - Image from the Charles Daniels Photo Collection album: IWM/Duxford 84
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1941年、アメリカ、海岸の高速道路上空を低空飛行するアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas) XB-19重爆撃機試作機の上面:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦前に制定された星と赤丸、垂直尾翼の赤白ストライブの国籍マークを描いている。
AL61A-217 Douglas XB-19 Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club. Hwy bridge ahead of the left wingtip is 34.039N 118.583W. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


 なおこの「空の要塞」機を更らに高性能にした超「空の要塞」機たるダグラスB19型[Douglas XB-19]が二年前より加州のダグラス工場で鋭意製作されており、最近完成しこの五月二十日に初めての試験飛行を軍の手により行われた筈であり、その試験成績は未だ入電していないが各国軍用機界では大いに注目している、この巨大爆撃機のその称するところの性能としては−翼長六三米、全長四〇米、全備重量八二噸二千馬力ライト・デュプレックス・サイクロン空冷式発動機四基、乗員十名、爆撃搭載量一八噸、航続距離は七、七〇〇マイルと云われている

この巨大機の組立にはさすがに広大を誇るダグラス工場でも困って胴体後部、同中部、主翼、機首と三部分を別々に組立て、それを継ぎ合わしてやっと組立が出来たほどで掲載の写真2工場内での同機を見てもその大きさが判るが、翼幅だけでも、丸ビルの二倍の高さ(十七階分)であり、その引込式三脚輪も径九六吋の巨大なものであり五種類の鋼を素材とした堅牢なもので、この製造加工には一五〇吋作業半径の世界最大のターレット旋盤の新造を要したほどで、この建造にはダグラス社はじめ米国技術の数年に亘る最大の苦心が捧げられているという、

勿論現在ではなお試作機の範囲に属するものに過ぎないが、何にしても米国空軍が長距離重爆機の完成に凡ゆる研究、実験を捧げ、各航空機会社を鞭撻しているかが窺える

写真(右)1942年6月以前、アメリカ、飛行中の迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊第570爆撃飛行隊コンソリデーテッド(Consolidated)B-24 D リベレーター(Liberator)爆撃機
Consolidated B-24D Catalog #: 01_00092048 Title: Consolidated B-24D Corporation Name: Consolidated Additional Information: USA Tags: Consolidated, B-24D, Liberator Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Designation: B-24D
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


 なお第一線の新重爆機にコンソリデーテッドB24型[Consolidated B-24 Liberator]があり、これは「空の要塞」ボーイングB17型[Boeing B-17 Flying Fortress]よりもやや小さく全備重量二〇噸、最大速度五〇〇キロ、航続力は爆弾四噸を搭載して五、一二〇キロ、発動機はプラット・ホイットニー空冷式一、二〇〇馬力四基、降着装置は三輪式で、銃座は米空軍最初の自働油圧式を採用、機尾にも機関砲を据えている

ダグラスB18 中型の優秀爆撃機

二基発動機の中型爆撃機にも世界最高水準をゆく優秀な新鋭機が相次いで完成している、

現在の制式機であるダグラスB18型[Douglas B-18 Bolo]、同A型は旅客機のダグラスDC3型[Douglas DC-3]の改装で、性能も最大速度三五二キロ航続力は爆弾二噸搭載で三、二〇〇瓩、全備重量一〇・五瓲であるか、新鋭中型爆撃機はこの制式機を全ての点で飛躍する性能をもっている、即ち−

ダグラスB23型[Douglas B-23 Dragon]=ライト空冷式一、二五〇馬力、発動機二基、自働油圧式銃座、三座席、全重量一三噸、最大速度四二キロ

写真(右)1942年頃、アメリカ、歩行する迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-26 マローダー(Maruader)の正面とライフジャケットを装着している搭乗員:B-26は、:B-26は、1940年11月25日初飛行。B-26の諸元:乗員:7名 全長:17.65m 全幅:21.64m 全高:6.55m 翼面積:61.13m2 全備重量:17,340kg 発動機:P&W R-2800-43 空冷18気筒 2000hp×2 最高速力:454km/h 実用上限高度:6,040m 航続距離:4,590km 兵装 爆弾1,500kg 12.7mm機関銃×11挺。
B-26B AAF Photo PictionID:41904397 - Title:B-26B AAF Photo - Catalog:16_002334 - Filename:16_002334.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum Veedubber79 9y Martin B-26B-MA Marauder 41-17704 "75" on training flight stateside ca. '42.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


マーチンB26型[マローダー][Martin B-26 Marauder]=プラット・ホイットニー空冷一、六〇〇馬力発動機二基、最大速度五四四キロで正に中型爆撃機としては最高水準以上である、全重量一三噸、機首機尾に機関砲を有し、爆弾の搭載量は一噸三六〇で航続力は秘せられている

写真(右)1945年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ノース・アメリカン(North American)B-25 ミッチェル(NMitchell)爆撃機:初飛行1940年8月19日で、アメリカ陸軍で航空機の攻撃力の汎用性を主張したウィリアム・ミッチェル准将に因んで命名で、軍用機で人名が使用された稀有の事例となった。生産数は9,816機に達した。
North American : B-25 : Mitchell Catalog #: 00004662 Manufacturer: North American Designation: B-25 Official Nickname: Mitchell.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1941年、アメリカ、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ノース・アメリカン(North American)B-25 ミッチェル(NMitchell)爆撃機:B-25Jの諸元:全長 53.5ft (16.31m) 全幅 67.6ft (20.60m) 全高 16.3ft (4.97m) 翼面積 610ft2 (56.67m2) 空虚重量 19,530lbs (8,859kg) ミッション BOMBER 爆弾搭載量:4,000lbs (1,814kg) 総重量 離陸重量:35,000lbs (15,876kg) 戦闘重量:27,400lbs (12,428kg) 燃料[注釈 1] 1,137gal (4,304ℓ) エンジン Wright R-2600-13/-29 (1,700Bhp) ×2 最高速度 255kn/15,000ft (472km/h 高度4,572m) 上昇能力 1,890ft/m S.L. (9.60m/s 海面高度) 実用上昇限度 24,200ft (7,376m) 航続距離 1,316n.mile (2,437km) 武装 AN/M2 12.7mm機関銃×12 (弾数計4,600発)挺。
North American : B-25 : Mitchell Catalog #: 00004607 Manufacturer: North American Designation: B-25 Official Nickname: Mitchell.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


ノース・アメリカンB25型[ミッチェル][North American B-25 Mitchell]=ライト空冷式一、二五〇、発動機二基、三座、全量一一トン、銃座は自働液圧式、最大速度五二〇キロ、航続距離二、八〇〇キロ

SB2-CマーチンPBM1型[マリナー][Martin PBM Mariner]=哨海爆撃機、双発、性能未詳

◇コンソリデーテッドPBY・4型[カタリナ][Consolidated PBY Catalina]=哨海爆撃機、双発、性能未詳

◇カーチスXSB2C・1型[ヘルダイバー][Curtiss-Wright SB2C Helldiver]=一七〇〇馬力ライト・サイクロン発動機装備、最大速度四八〇キロ以上、有名なカーチス・ヘルダイーを改良した急降下兼偵察爆撃機である

ダグラスSBDダグラスSBD・1型[ドーントレス][Douglas SBD Dauntless]=急降下爆撃機、性能未詳[乗員: 2名、全長: 33 ft 1.25 in (10.09m)、全幅: 41 ft 6.375 in (12.66m)、全高: 13 ft 7 in (4.14 m)、翼面積: 325 sq ft (30.2 m2)、発動機:ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷9気筒エンジン1,200 hp (890 kW)、最高速力: 255 mph (410 km/h) 、航続距離: 1,115 mi (1,794 km)、実用上昇限度: 25,530 ft (7,780 m) 、12.7 mm固定機関銃2挺、7.62 mm旋回機関銃2挺、爆弾: 2,250 lb (1,020 kg) ]

TBD-1ダグラスTBD・1型[デバステイター][Douglas TBD Devastator]=魚雷発射機、性能未詳[乗員:3名(パイロット、雷撃手/航海士、通信士/銃手) [全長:10.67 m 全幅:15.24 m 全高:4.60 m 翼面積:39.2 m2 空虚重量:2,540 kg 最大離陸重量:4,624 kg 発動機:P&W R-1830-64 ツイン・ワスプ900 HP (672 kW) 最高速力:331 km/h 航続距離:700 km (Mk.XIII魚雷搭載時)、1,152 km (1000 lb (454 kg) 爆弾搭載時) 兵装: 7.62mm AN/M2 固定機関銃1挺、 7.62mm AN/M2旋回機関銃1挺 爆装(胴体下面):Mk.XIII魚雷または1000 lb (454 kg) 爆弾]

[写真(ダグラス工場に於ける世界最大の重爆機B19型あり 省略](侮り難きその性能 : 米空軍最新機の全貌引用終わり)


写真(右)1941年6月以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス、クローバー飛行場を離陸した無塗装のアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19:1941年6月初飛行のダグラスXB-19試作爆撃機は、アメリカが参戦する1942年12月前の国籍マークを描いている。
Douglas : XB-19 Manufacturer: Douglas Designation: XB-19 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00047280引用。


2−4.航続力六千マイル : 世界一の米重爆撃機近く竣工
読売新聞 Vol: 第 49巻 Page: 83 出版年 1940-03-24

【ワシントン本社特電】(二十二日発) アメリカ陸軍省ではここ数日中に重量七十トン、航続距離六千マイルという性能を備えた世界最大の爆撃機をダグラス航空機会社サンタ・モニカ工場(カリフォルニア州)で竣工予定である旨二十二日発表した、

右超重爆撃機は十八ヶ月前に建造に着手以来工を急いだ劃期的な軍用機で翼長二百十フィート、四発動機装備で時速二百マイル以上の快速を出し得るといわれている、陸軍省の説明によると同機は十名の乗組員と共に二十八トンの搭載物を積んで亜成層圏までの上昇力を有し且つ六千マイル以上の無着陸飛行を行い得る驚異的性能を有しているとのことである、

而して同機は爆撃機としての大きさ、速力、航続力、重量、積載力等を最も理想的に綜合するには如何にすべきかとの従来の懸案に一つの解決を与えたものとして陸軍当局ではこれを重視している、なお右超重爆撃機の発表とともに現在の三インチ標準高射砲よりも優秀な最新高射砲と百五ミリ野戦榴弾砲が発表されたが後者は対戦車砲として極めて強力なものであると伝えられる (航続力六千マイル : 世界一の米重爆撃機近く竣工引用終わり)

写真(右)1941年6月以降、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19:1930年代後半に、アメリカ陸軍航空隊は、長距離重爆撃機XBLR (Experimental Bomber, Long Range)の開発を各社に依頼し、ボーイング社のXBLR-1(後のXB-15)、ダグラス社のXBLR-2が試作された。この後者の後継機が、1941年6月27日に初飛行に成功したXB-19試作四発重爆撃機である。アメリカが参戦する1942年12月前の国籍マークを描いている。
Douglas : XB-19 Manufacturer: Douglas Designation: XB-19 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00047281引用。


2−5.格納庫に入れぬ巨体 : 大西洋を無着陸で往復出来る : 米陸軍に超々重爆撃機
大阪朝日新聞 Vol: 第 49巻 Page: 145 出版年 1940-05-04

写真は最近米国陸軍に出現した超超弩級大型爆撃機B一九型の翼の大きさを示したものでこの飛行機は従来の超大型飛行機を断然尻目にかけ現代航空機製作技術の最大限を発揮して製作された

 全備重量は少くとも七〇トン、翼幅二一二フィート、機長一三五フィート、着陸用三輪車の各の車輪の重さだけでも半トン、その性能はといえば無着陸で六千マイルを翔破し、二十八トンの積載能力を有している換言すればアメリカの東海岸から一気に欧洲大陸へ飛んで行って目的地に爆弾の雨を降らし、そのまま悠々アメリカに帰還することができることになるというのである、装備された四個の発動機はそれぞれ最小限千五百馬力のもので時速二百マイル

この空の大怪物の製作費は一百万ドル、邦貨に換算してざっと四百万円、米陸軍はこれを昨年一台だけ極秘裏にサンタ・モニカ(カリフォルニヤ)のダグラス飛行機製作所に注文したが、昨年中その秘密製図が何者かに盗まれて大騒ぎを演じたものである、その後盗まれた製図も見つかり、これにさらに新工夫を加味したものが最近竣工を見たB一九型で、何分従来の大型機と比較にならぬどえらい超大型なもので、入れて置くだけの大きな格納庫がなく陸軍当局もでき上った機体はとうとう格納庫外に持出すことに決し、たちまち大評判となったという

 米陸軍の当面の目的は右B一九型を飛行機の各部分品、特に大型機械の性能試験の実験室に使用するにありというが、この種超大型渡洋飛行機出現の暁はアメリカは逆に他大陸からの空襲の脅威をうけることともなるので、いまからアメリカ軍当局の頭痛の種となりかけている、それにもかかわらずダグラス飛行機会社ではこのB一九型の成功に力を得てつぎには大西洋の女王と謳われたクィーン・メリー号やノルマンヂー号くらいの大型飛行機を製作してそのお株を空から奪おうと力んでいるそうだ【写真のなかで階段の如く見えるのは翼を作る足場、右上の写真はダグラスB一九型とダグラスDC三型との比較】 [図表あり 省略] [写真あり 省略](航続力六千マイル : 世界一の米重爆撃機近く竣工引用終わり)

写真(右)1941年6月以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス、飛行中の無塗装のアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19右下側面:アメリカが参戦する1942年12月前の国籍マークを描いている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46703486 - Title:Douglas XB-19 38-471 - Filename:16_007865.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive - Catalog:16_007865引用。


写真(右)1940年12月以前、アメリカ、カリフォルニア州オークランド、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)XB-19試作重爆撃機:初飛行は、1941年6月27日,試作1基のみ生産。1943年にはエンジンをライト R-3350空冷二重星型エンジン(離昇出力2,000馬力)から、アリソン V-1710をギアで並列に2つつないだ液冷ダブルV型24気筒エンジンであるアリソンV-3420(離昇出力2,600馬力)に換装され、XB-19Aとなった。
Douglas XB-19A at Davis-Monthan Air Force Base, Arizona Source nationalmuseum.af.mil Author USAF
写真はWikimedia Commons Category:38-471 (aircraft) File:Douglas XB-19 before scrapping.jpg引用。


1941年6月27日に初飛行したダグラス(Douglas) XB-19試作機は、ライト(Wright)R-3350空冷二重星型エンジン(2,000hp)を搭載していたが、1943年にP-39/P-38と同じアリソン V-1710を2台並列させたアリソンV-3420液冷W24気筒エンジン(2,600hp)に換装された。しかし、XB-19は採用されず1949年まで輸送機として使われるだけに終わった。

2−6.世界最大の爆撃機 : 愈々米国陸軍で試験飛行
大阪朝日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 155 出版年 1941-06-29

【ロサンゼルス特電二十七日発】世界最大のB一九型アメリカ陸軍試作機は二十七日正午当地郊外サンタモニカのダグラス工場附属飛行場より試験飛行に飛出し、七十九トンの巨体は澄みきった青空にフワリと浮いて空冷式二千馬力発動機四基の奏でる爆音のメロディに門出を祝福しながらサンタモニカ海岸を悠々一周して南カリフォルニア・リヴァーサイド・マーチフィールドの陸軍飛行隊飛行場に着陸した、アメリカ陸軍当局では今回の試作機を基調に超重爆撃機、軍隊輸送機を製作する準備を進めている

[写真(製作中の同機)あり 省略] 【ロサンゼルス二十七日発同盟】ダグラス飛行機製作会社で製作中であった世界最大の四発爆撃機B一九型は二十七日当地飛行場で陸軍の至宝パイロット、スタンレー・アームステッド少佐によって試験飛行が行われたが五十六分飛行ののち無事着陸に成功した

 B一九型はこの試作に三百五十万ドルの大金を投じたもので、機長百三十二フィート、機翼二十二フィート従来アメリカ陸軍の有する大型重爆機ボーイングB一七B型機いわゆる「空飛ぶ要塞」の機長六十七フィート、機翼百三フィートに比し機長、機翼ともほとんど二倍である(世界最大の爆撃機 : 愈々米国陸軍で試験飛行引用終わり)

写真(右)1942年以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス、ハマー飛行場(?)、迷彩塗装を施したアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46703523 - Title:Douglas XB-19 38-471 - Filename:16_007868.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive- Catalog:16_007868引用。


2−7.護送制の新方法 : 米空軍の哨戒に主眼
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 76 出版年 1941-09-18

【ニューヨーク特電十六日発】ニューヨーク・タイムス紙ワシントン特電によるとアメリカ海軍は英米船舶護衛の新方式を案出、ルーズヴェルト大統領も十六日の新聞会見でこの旨を暗示したが、ロンドン駐在のアメリカ海軍将官がイギリス海軍省と協力して「発砲哨戒」方法の詳細を取極めたといわれる、米国軍艦が商船団を護衛して行く従来の方法とは異なり新方法では米国爆撃機および偵察機は数ヶ所の主要地点を基点として休みなく哨戒をつづけることになっている、過般ロンドンへ派遣された米海軍将官は今日までの商船護衛記録からつぎのごとき結論に達した

 すなわち速力の大きな商戦を遅い船と一緒にして護送船団を組織しこれを護衛しつつ航行するよりも速力のはやい船だけを単独で航行させ航路の妨害を絶えず排除する方がはるかに効果的であるというのである

なお米海軍の哨戒範囲については正確なことは発表されていないが信ずべき情報によるとアイスランドまで延長されていることは確実であり、さらに北アイルランドへも延長される予定ともあるいはまたすでに延長されているともいわれる(世界最大の爆撃機 : 愈々米国陸軍で試験飛行引用終わり)


写真(上)1942年以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス、ハマー飛行場、迷彩塗装を施したアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19

SDASM Archives Follow Douglas XB-19, 38-471, at Hammer Fld_3 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive引用。


1941年6月27日に初飛行したダグラス(Douglas) XB-19試作機は、ライト(Wright)R-3350空冷二重星型エンジン(2,000hp)を搭載していたが、1943年にP-39/P-38と同じアリソン V-1710を2台並列させたアリソンV-3420液冷W24気筒エンジン(2,600hp)に換装された。しかし、XB-19は採用されず1949年まで輸送機として使われるだけに終わった。


写真(上)1943年以降、アメリカ、飛行中のダグラス(Douglas)XB-19A(Skyrocket)爆撃機(38-471)の右側面
:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦後に制定されたもの。XB-19のライト R-3350空冷星型エンジン(2,000hp)を1943年にP-39/P-38と同じアリソン V-1710を2台並列させたアリソンV-3420液冷W24気筒エンジン(2,600hp)に換装した。
Douglas XB-19A 38-471 PictionID:40973092 - Title:Douglas XB-19A 38-471 - Catalog:15_002791 - Filename:15_002791.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."----SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Wikimedia Commons, SDASM Archives 引用。


ダグラス(Douglas) XB-19爆撃機諸元
初飛行1941年6月27日のエンジン強化発展型
乗員:18名
全長:132 ft 4 in (40.34 m)
全幅:212 ft 0 in (64.62 m)
全高:42 ft 0 in (12.80 m)
翼面積:4,285 sq ft (398.1 m2)
自重:86,000 lb (39,009 kg)
総重量:140,000 lb (63,503 kg)
燃料搭載量:10,350 US gal (39,200 L)
発動機: ライト(Wright)R-3350ダブルサイクロン(Duplex Cyclone)空冷18気筒エンジン2,000 hp (1,500 kW)4基
最高速力:224 mph (360 km/h, 195 kn) at 15,700 ft (4,800 m)
航続距離:5,200 mi (8,400 km, 4,500 nmi)
実用上昇限度:23,000 ft (7,000 m)
兵装: 37 mmブローニング M4自動砲2門、12.7 mmブローニングM2機関銃5挺・7.62mmブローニングM1919機関銃6挺
爆弾搭載量:8,840kg


2−8.英米、許し難き暴言 : 危機を我責任に転嫁 : 帝国の和平努力を妨害『大阪朝日新聞』Vol: 第156巻 Page: 285 出版年 1941-11-13
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337941

戦艦 最近米英のわが国に対する態度はいよいよ不遜を加えつつあることは各方面における両国の言動についてこれを指摘することができるが、[フランク・]ノックス[William Franklin Knox]米海軍長官はまたまた別項のごとき休戦記念日演説において暴言を吐いている、すなわち『アメリカの権益を侵害する日本の行動を弱視し得ない、決意の時は来た、アメリカは大西洋と同時に太平洋においてもただちに行動を起し得る準備をなすべきである』として例によって太平洋の危機の全責任を日本に帰するがごとき詭弁を弄している、

帝国はあくまで隠忍を重ねて平和的に打開せんと努力をつづけ来栖大使が渡米の途上にある時さる十日のマンション・ハウスにおけるチャーチル英首相演説といい[フランク・]ノックス[Franklin Knox]長官の今回の演説といい対日不遜の暴言が相つぐことはわが国としては許し難き言動というべきである、

帝国は世界の最終的動乱化を防止するために極力平和的努力を尽くしているが、いかなる事態にも対処し得る準備は整えられ満を持して放たざるもので、その毅然たるわが方の態度に対し米英側はあらゆる恫喝と牽制を加えんとする足掻きをつづけつつあり、対内的にはかならずしも一致するにいたっていない米英国内輿論を攪発せんとするものであると見るべきであろう

写真(右)1942-43年、アメリカ、アメリカ海軍長官ウィリアム・フランクリン・ノックス(William Franklin Knox:1874年1月1日-1944年4月28日):1936年の大統領選挙で共和党の副大統領候補となったが敗れた。しかし、1940年に再選された民主党フランクリン・ルーズベルト大統領の下、1940年から1944年4月28日、心臓発作で急死するまでアメリカ海軍長官だった。軍政や予算について実権を握ったが、軍事作戦は、海軍作戦部長アーネスト・キングに任せていた。
Description 80-G-40229: Secretary of the Navy Franklin “Frank” Knox, photographed between 1942-43. Know was the 46th Secretary. He died on April 28, 1944. (2015/10/20). Date 20 October 2015, 11:04 Source 80-G-40229 Author National Museum of the U.S. Navy
写真は,Category:Frank Knox File:80-G-40229 (22173027459).jpg引用。


太平、大西両洋に行動を起せ 米海軍長官煽動演説 [写真([フランク・]ノックス[Franklin Knox]長官)あり 省略]

【ニューヨーク特電十一日発】[フランク・]ノックス[Franklin Knox]米海軍長官は十一日の休戦記念日にロード・アイランドの新海軍航空隊根拠地において記念演説を行いまたも対日強硬論を主張した、その要旨は次の通りである

 アメリカはもはやアメリカの権益を侵害する日本の行動を黙視し得ない、決意の時は来た、アメリカは大西洋と同時に太平洋においても直ちに行動を超し得る準備をなすべきである、アメリカの安全にとって死活の問題たる権益は今や重大なる危機に直面しているのである、従来日本との友好関係を持続せんとするアメリカ政府の努力は苦難に漏ちたものであった、

アメリカの権益はたびたび侵害されたにもかかわらず、アメリカは日本への輸出を許可して来た、この怨耐は平和を求めんがためであった、しかし今や根本原則を犠牲にし得ない時に到達した、これ以上この態度をつづけることはアメリカの自由および寛容に関し誤解を生ずる、アメリカは完全な国防を有することを考慮して大西、太平両洋に行動を超すべきである

空母 反日演説内容

【プロヴィデンス(ロード・アイランド州)十一日発同盟】[フランク・]ノックス[William Knox]海軍長官の演説要旨つぎの通り

 アメリカは従来日本に対し寛容なる態度をもって臨んできたがもはや日本のアメリカ権益侵害行為をこれ以上看過することはできなくなったアメリカ国民は近く重大問題が決定されようとしていることを知らねばならぬ、現在は甚だ危険なときである、太平洋のはるか彼方ではいまや重大事態が発生する可能性があり、われわれに対し即時大西洋と同様太平洋の防衛準備をすることが要求されている、何故ならばわが国の安全にとって極めて重大な権益が非常な脅威にさらされているからだ、われわれは幾度かアメリカの権利を侵害されながらも我慢しつづけてきた、われわれは自国を防衛するため必要であるからとの理由でいつでも軍需物資の対日供給を停止し得たにもかかわらずそれらの軍需物資の対日供給を許可してきた

 われわれは自己防衛の見地から大西洋におけると同様太平洋でも行動に出ねばならないと痛感させられている、現在アメリカに降りかかっている危機についてはいかに強調し誇張したとて当を失することはない、すなわち大西洋においては自己防衛のため最後手段をとる必要に迫られ、極東においてはつぎにいかなる事態がわれわれに襲ひかかるか何人も確信をもって言明できない状態にある

 つぎに戦後の問題としては戦後世界の平和確立のためアメリカの拠っている使命は重要である、余はここに平和綱領としてつぎの四点を提唱する

一、人類を戦争にかり立てるごとき勢力から政治的にも経済的にも釈放された世界秩序[New world order]の建設

二、経済的単位と結合した政治的自治の建設、新世界がいかなるものであってもこの礎石は物資交流と原料獲得の自由の上におかれねばならぬ

三、アメリカの世界指導地位の獲得、これはアメリカのもつ原料資源と基礎の確立せる政府がこれをしからしめる

四、紙の上だけでなく実力の基礎に立脚した戦後世界秩序の建設われわれは侵略目的達成のため好んで流血の惨を惹起するいかなる国に対してもすべての国が一丸となって反撃に出るごとき世界新秩序を建設せねばならない(英米、許し難き暴言 : 危機を我責任に転嫁 : 帝国の和平努力を妨害引用終わり)


ボーイング 2−5.爆撃四十台米更に泰へ供与 : 英と呼応・躍起の誘引策『読売新聞』Vol: 第 9巻 Page: 53 出版年 1941-11-20
https://hdl.handle.net/ 20.500.14094/ 0100142487

【サイゴン本社特電】(十九日発)アメリカの対泰[タイ]国武器援助はその後愈々積極化しているが、当地に達した確報によれば最近また泰[タイ]国政府とアメリカ政府との間にボーイング[Boeing B-18]爆撃機約四十台の購入契約成立し、同じく泰[タイ]がアメリカより購入することになった五千トン級の商船に右のうち三十台を積載既にアメリカ本土を出帆した模様で本月中にバンコクに到着するが、右は英米の泰[タイ]国野望[インドシナ周辺の併合]をいよいよ露骨化したものとして注目される(爆撃四十台米更に泰へ供与 : 英と呼応・躍起の誘引策引用終わり)

写真(右)1936-1939年、アメリカ、舗装飛行場を飛び発つアメリカ陸軍航空隊第4偵察戦隊ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)双発爆撃機前期短機首型(RE 9)の左側面 :第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。コックピット後上方に方位測定用環状ループアンテナを装備している。固定式尾輪の支柱が長いのは、胴体下面が山刀(ボロ:タガログ語)のように湾曲しているため。
English: 4th Reconnaissance Squadron - Douglas B-18 Bolo Date 1939 Source www.minot.af.mil/ A Brief History of the 5th Bombardment Group, Office of History, 5th Bombardment Wing, Minot AFB, North Dakota, 2011 Author United States Air Force Permission (Reusing this file) USGOV-PD
写真はWikimedia Commons Category:Douglas B-18 Bolo File:4th Reconnaissance Squadron - Douglas B-18 Bolo.jpg引用。


ダグラス B-18 ボロ(Douglas B-18 Bolo)双発爆撃機の諸元
乗員Crew: 6名
全長Length: 57 ft 10 in (17.63 m)
全幅Wingspan: 89 ft 6 in (27.28 m)
全高Height: 15 ft 2 in (4.62 m)
主翼面積Wing area: 959 sq ft (89.1 m2)
空虚重量Empty weight: 16,320 lb (7,403 kg)
総重量Gross weight: 24,000 lb (10,886 kg)
最大離陸重量Max takeoff weight: 27,673 lb (12,552 kg)
発動機: 2 × Wright R-1820-53 Cyclone 9-cylinder air-cooled radial piston engines, 1,000 hp (750 kW)
プロペラPropellers: 3-羽フルフェザリング(fully-feathering)ハミルトン(Hamilton Standard)可変ピッチ
最高速力: 216 mph (348 km/h, 188 kn) /10,000 ft (3,000 m)
巡行速力Cruise speed: 167 mph (269 km/h, 145 kn)
航続距離Range: 900 mi (1,400 km, 780 nmi)
フェリー距離Ferry range: 2,100 mi (3,400 km, 1,800 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 23,900 ft (7,300 m)
上昇時間Time to altitude: 10,000 ft (3,000 m) / 9 分 54 秒
翼面荷重Wing loading: 25 lb/sq ft (120 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.0833 hp/lb (0.1369 kW/kg)
兵装Guns: 3 × M1919ブローニング(Browning).30cal(7.62mm)旋回機関銃
爆弾Bombs: 2,000 lb (910 kg) 通常; 4,400 lb (2,000 kg) 最大

写真(右)1942−1943年頃、アメリカ、舗装滑走路に降下し着陸態勢に入ったアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機中期長機首型の右側:斑迷彩塗装が施され、方向舵の赤白ストライプも廃止されているので、太平洋戦争中の撮影と思われる。
Douglas : B-18 : Bolo Catalog #: 00046925 Manufacturer: Douglas Designation: B-18 Official Nickname: Bolo Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlicker, San Diego Air and Space Museum Archive, 引用。



⇒写真集Album:支那事変と欧州戦を繞る日米の関係/米の極東対日攻勢を見る。 

⇒写真集Album:第二次大戦前のイギリス・ドイツ・フランス・ソ連の航空機の発達を見る。

⇒写真集Album:目覚ましき躍進列国の航空工業技術戦を見る。 

⇒写真集:欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料を見る。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機


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