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◆秘密兵器V1飛行爆弾・V2弾道ミサイルとドーラ=ミッテルバウ強制収容所の奴隷労働 写真(上)1945年4月13-14日,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のノルトハウゼンNordhausen強制収容所で死亡した囚人を埋葬させられる地元のドイツ人アメリカ軍第104歩兵師団が1945年4月12日にノルトハウゼン強制収容所を解放した。当時、3000体以上の遺体が放置されていたが、生存者もあったため、米軍は医療活動を開始した。他方、米軍は、近隣のドイツ人住民400人を徴用し、遺体の埋葬作業を強要した。 ドーラ=ミッテルバウ強制収容所(Dora-Mittelbau camp)は、1943年8月にチューリンゲン大党管区のノルドハウゼン北方5kmの場所に設置されたもので、既存のブーヘンワルト強制収容所( Konzentrationslager Buchenwald)の第17/3ブロックと指定された。ここでは、ブーヘンワルトから移送された数千人の囚人が、V1飛行爆弾・V-2ロケット弾道弾を組み立てる地下工場の建設に駆り出された。1943年内にトンネルBとして46本の平行に伸びたトンネル状の空間に地下式工場が完成した。そして、丘の北斜面にはトンネルAが建設中だった。トンネルは幅12.5メートル、長さ1.8キロメートルで、23本の連絡トンネルで結ばれた。トンネル内部には列車の線路が敷設され、工作機械が並べられた。1944年夏までには操業を開始し、12時間シフトで1万人の囚人が奴隷労働者として酷使された。1944年9月末には, ブーヘンワル収容所から分離され、中央強制収容所(Konzentrationslager Mittelbau :Concentration Camp Central Construction)、すなわちドーラ=ミッテルバウ強制収容所(KZ-Gedenkstätte-Mittelbau-Dora)となり、1944年11月1日には3万2471人の囚人を収容していた。ドイツの最先端技術を誇る秘密兵器は ユダヤ人,捕虜など強制収容所の奴隷労働を犠牲にして、生産されたのである。
German civilians from the town of Nordhausen carry the bodies of prisoners found in the Nordhausen concentration camp to mass graves for burial. Nordhausen, Germany, April 13-14, 1945.?US Holocaust Memorial Museum , courtesy of Joseph Mendelsohn:1770-1848)  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Dora-Mittelbau - Photograph引用。

◆一説に「ドイツの科学技術の高さ、アーリア人の優秀性が、現在の宇宙探査ロケットや大陸間弾道弾につながるV-2ロケットを完成させた。これを実用化したドイツ軍は負けたとはいえ優秀だ。このV-2を完成させたヒトラーは軍事的天才である。V-2を量産した軍需大臣アルベルト・シュペールは最も秀でた官僚である」と言われることもある。現在でも、V-2ロケットの技術はサターンロケット>にまで発展し、それを生み出したファオン・ブラウンの才能やそれを応用して宇宙開発を進めたアメリカの技術力の高さを称賛する声に満ちている。あの時代に、すでにこの最先端技術を実用化したのは素晴らしいというう驚嘆の声であり、ドイツの技術開発力は世界一だったという称賛である。

◆ドイツの技術力を称賛する人々でも、V1巡航ミサイル、V2ロケット弾道ミサイルがどのように開発され、生産されたのか、視野を広げて、多くのことを知れば、人間の罪や戦争の悲惨さなど暗黒面・闇の深淵を覗くことになる。工学、物理学といった科学にだけ囚われることなく、それを用いた人間や戦争に目を向ければ、そしてV1飛行爆弾、V2ロケット弾道弾の歴史を紐解けば、戦争の恐ろしさ、人間の浅ましさが見えてくる。強制収容所の囚人となった捕虜やユダヤ人を奴隷労働者として死ぬまで酷使しなければ、これらの秘密兵器は決して実用化も量産することもできなかった。V-2ロケットが採用した高度な科学技術だけでなく、その開発の犠牲に供された外国人労働者、捕虜、ユダヤ人、そしてドイツ国民の苦悩や命にも思いを馳せるべきであろう。

◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールにゲスト出演。再放送は9/4日(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。

1.A4ロケット開発への親衛隊の関与−強制収容所囚人の動員

1960年代、アメリカのアポロ計画によって、月への有人飛行が可能になったが、そのサターン5型ロケットSaturn V)の実用化を進めたヴェルナー・フォン・ブラウンWernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun)博士が称賛され、科学の歴史にあっても宇宙テクノロジーに注目が集まっている。さらに21世紀には宇宙旅行も実現しそうである。

これは、DSEアルファ計画Deep Space Expedition Alfa)で、月の裏面に向かう民間の月周回旅行で、ロシア共和国のソユーズで、月ロケット乗り換えるか、国際宇宙ステーション(ISS)から月ロケットに乗り換えるかして、月に向かうのである。

JTB宇宙旅行-月旅行によれば、「見どころは何と言っても、間近に眺める月の景色。月の裏側へは上空200〜300kmを飛行し、憧れの地を間近に眺めることができます。映画にも登場したティコクレーター、月の中でも最も美しいといわれるコペルニクスクレーター、アポロ14号が着陸したフラマウロ高地、そして月と同じように満ち欠けする地球の姿も見逃せません。本格的な宇宙旅行ですので、出発前にはロシアのガガーリン宇宙飛行士訓練センターにて、のべ6〜8ヶ月に渡り訓練を行います。必要な研究開発や宇宙船の改装、試験飛行の後、2012年以降には実施可能なプランとある

宇宙旅行者フォーラムでもアメリカの宇宙旅行機開発会社に関連した次のような宇宙旅行を提案している。
XCOR(エックスコア)社創業者ジェフ・グレイソン氏が「有人飛行に必要な要件は全て満たすべく、全てのことが終了していますので、さっそく最終的な組み立て・製造に入る予定ですと話すと会場からは期待に満ち溢れた拍手が起こった。再びXCOR(エックスコア)社経営執行責任者(COO) アンドリュー氏が登壇し、宇宙市場開発やスペースポート開発、トレーニングについて紹介。「北海道大学名誉教授で、NPO法人 北海道宇宙科学技術創成センター(HASTIC)理事長伊藤献一博士が地元の空港へスペースポートを誘致する場合、前提としてウェット・リース(航空機の賃貸契約の一つ)が必要です。そして、伊藤博士からの多大なる投資と地域独占契約を結んでいただき、競合を排除していただかなければいけません。そして、契約がまとまると3年間をかけて『LYNX』が発着するための滑走路等の整備が必要となってきます。宇宙船を導入する際には、機体だけではなく専門家やパイロットも導入することになります。およそ2500万ドルが必要になるでしょう。」と語り、より具体的な話を展開した」と楽観論を展開している。

写真(右)1945年,ドイツ中部、ノルトハウゼン近郊ニーダーサクスヴェルフェンのコーンシュタインに作られたV1飛行爆弾(巡航ミサイル)ロケット弾道弾の地下生産工場:ユダヤ人や捕虜などブーヘンワルト強制収容所の囚人を奴隷労働者として酷使してトンネル式の地下工場を建設し、そこで最先端技術の秘密兵器を、奴隷労働者を使って生産させた。地下パルスジェットを装備したV1飛行爆弾の尾翼は固定式だが、主翼は格納に便利なように取り外すことができる。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1991-076-02A Original title: info G8501 A 206 Archive title: Kohnstein bei Niedersachswerfen.- Fabrikationsanlage für die Produktion von Marschflugkörpern " V 1" und Raketen "A 4 / V2" nach Einnahme durch die Alliierten, V-1 auf dem Fließband Dating: 1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 146-1991-076-02A, Niedersachswerfen, Produktion von V1 - V2.jpg"引用。


メディアでは、宇宙旅行の起源となったV2ロケット開発を称賛する声が溢れているが、フォン・ブラウン博士の実用化したロケットの原型は、ナチスドイツの弾道ミサイル(弾道弾)であり、それを生産したのは、親衛隊の管理するドーラ=ミッテルバウ強制収容所(KZ-Gedenkstätte-Mittelbau-Dora)に捕えられていた捕虜やユダヤ人を主体と>する奴隷労働者だった。生産が行われたトンネル式地下工場を作らされたのも、外国人・捕虜・ユダヤ人など奴隷労働者だった。戦時中、ドイツが先端技術を実用化できたのは、人権を完全に無視した奴隷労働者を大量投入し、彼らの犠牲を厭わなかったからである。

第二次世界大戦末期に登場したドイツ軍の秘密兵器としては、世界初の巡航ミサイルV-1号,弾道ミサイルV-2号が有名である。Vとは,Vergeltungs-waffe(報復兵器)の略号で, V-1号はパルスジェットエンジンを使った巡航ミサイル,V-2号はロケットエンジン装備の弾道ミサイルだった。ともに,ドイツの最新科学技術を体化させた画期的な兵器であり,連合軍も後にこれらの兵器を模倣し,発展させたほどだった。

V1はパルスジェットエンジンを装備し,爆音を立てながら飛翔する巡航ミサイルで、その飛行音から爆音爆弾(バズ・ボム)とも呼ばれた。巡航速度は600-650キロ程度で、目標上空までジャイロコンパスを使って飛行、エンジンへの燃料供給を停止して、落下、爆発する。無線誘導装置はなかった。

V1巡航ミサイル(飛行爆弾)を警戒したイギリス軍は、クロスボー(石弓)作戦によってV1巡航ミサイルの実験場、発射基地などを空襲した。あわせて、対空砲火、迎撃戦闘機を配備して、飛来するV-1巡航ミサイルを打ち落とした。

他方、V2弾道ミサイルは,成層圏から超音速で落下してくるために、これを迎撃することは不可能だった。この意味で、いったん発射されれば、防御のできない無敵の秘密兵器だった。V-2弾道ミサイルは、1944年9月から7ヶ月、ロンドン、アントワープなど連合軍の都市・港湾に向けて発射された。

写真(右)1944年,ブレーメン,ドイツ潜水艦Uボート用コンクリート退避ブンカー(壕)の建設/ ドイツ人の労働者建設組織トート機関に加えて,強制収容所のユダヤ人,捕虜など奴隷労働が大量に投入された。
Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Montage eines Stahlbogens mit Hilfe eines Portralkrans Datierung: 1944 Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_185-05-18引用。


ドイツ軍は、連合軍の空襲から潜水艦Uボートを守るために,港に鉄筋の柱を備えて,そこにコンクリート防御を施したUボート防空壕「ブンカー」(bunker)を建設したのである。

戦争末期、ドイツ本土も頻繁に空襲されるようになり、ブレーメン造船所防御用のヴァレンチンのような大規模なUボート用ブンカーも建設された。 

写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ海軍潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する強制収容所の奴隷労働者。連合軍の空襲からUボートを守るために,港にUボートを退避させる巨大なコンクリート製防空壕(ブンカー)が建設された。連合軍のフランス侵攻後の1944年9月ごろ,ナチス親衛隊は,絶滅収容所におけるユダヤ人ガス大量殺戮を中止。これは,戦局悪化による奴隷労働力確保と収容所のユダヤ人を米英との和平交渉の人質として使う目的があった。このときのガス殺中止を,ユダヤ人絶滅は無かった証拠だと錯覚するのは,完全な誤りである。
Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Montage eines Stahlbogens mit Hilfe eines Portralkrans Dating: 1944 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_185-05-11引用。

写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ潜水艦Uボート基地「バレンチン」(コンクリート製退避壕;ブンカー)を建設する民間労働者と思われる。Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Montage eines Stahlbogens mit Hilfe eines Portralkrans Dating: 1944 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_185-05-15引用。

写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する強制収容所の奴隷労働者と思われる。Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Zwangsarbeiter (KZ-Häftlinge ?) beim Positionieren eines Spannbetonbogens mit Eisenstangen Dating: 1944撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_185-05-16引用。

ドイツ潜水艦Uボートは,1940-1942年に大西洋の海上交通破壊のために大活躍していたが、米英航空部隊は,ドイツ潜水艦の活動を妨害するために,基地のあったたフランス北部沿岸ロリアンLorient)などを空襲し初めた。そこで,ドイツ軍は空襲からUボートを守るために,巨大なコンクリート製ブンカー(防空壕)を建設した。

ブンカーとは、連合国軍の空襲から、整備・待機している係留Uボートを防護する鉄筋コンクリート製の大型防空壕で守るために防空施設を建設した。北海のヘルゴラント(Helgoland)島にUボート用ブンカーが建設されて以来、ハンブルク(Hamburg)、キール(Kiel)、ブレーメン(Bremen)などドイツ国内以外にも、フランス北部海岸のブレスト(Brest)、ロリアン(Lorient)、ノルウェー南西部海岸のトロンハイム(Trondheim)などにも建設されている。

写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する強制収容所の奴隷労働者と思われる。連合軍のフランス侵攻後の1944年9月ごろ,ナチス親衛隊は,絶滅収容所におけるユダヤ人ガス大量殺戮を中止。これは,戦局悪化による奴隷労働力確保と収容所のユダヤ人を米英との和平交渉の人質として使う目的があった。このときのガス殺中止を,ユダヤ人絶滅は無かった証拠だと錯覚するのは,完全な誤りである。
Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Zwangsarbeiter (KZ-Häftlinge ?) beim Positionieren eines Spannbetonbogens mit Eisenstangen Dating: 1944撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_185-12-09引用


 連合軍の四発重爆撃機による戦略爆撃や戦闘爆撃機の空襲からUボートを守るために,港にUボートを退避させる巨大なコンクリート製防空壕(ブンカー)が建設された。同じように、空襲を避けて純儒生産を継続するために、V1飛行爆弾、V-2弾道弾、メッサ―シュミットMe262ジェット戦闘機、ハインケルHe162ジェット戦闘機などの秘密兵器を生産する工場も、地下に移されることになり、地下工場や地下トンネルの建設も始まった。そして、この地下工場建設には、ドイツ潜水艦Uボート用のコンクリート製巨大ブンカーの建設と同様、強制収容所の捕虜やユダヤ人などの囚人が大量投入されたのである」。

ドイツ潜水艦Uボート用ブンカーや地下工場の建設に強制動員されたのが、外国人労働者や捕虜、ユダヤ人など奴隷労働である。強制徴用、強制連行そして、ユダヤ人など強制収容所の奴隷労働者がV-2弾道ミサイルなど最先端技術を体化した新兵器の生産を担っていた。V-2弾道ミサイルは、ドイツの最先端科学技術が生み出したというのであれば、ユダヤ人を中核とする奴隷労働者が最先端技術を実用化させたということになる。

写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する強制収容所の奴隷労働者と思われる。連合軍の空襲からUボートを守るために,港にUボートを退避させる巨大なコンクリート製防空壕(ブンカー)が建設された。
Bremen-Farge.- Bild 185 - Sammlung U-Boot Bunker Bremen Signature: Bild 185-12-11 Archive title: Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Zwangsarbeiter (KZ-Häftlinge ?) beim Positionieren eines Spannbetonbogens mit Eisenstangen Dating: 1944撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_185-12-11引用


写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ海軍潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する強制収容所の奴隷労働者。西側連合軍の爆撃機による空襲からUボートを守るために,港にアーチ式の対空防御版を備えて,そこにコンクリート防御を施したUボート退避基地を建設している。
Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Montage eines Stahlbogens mit Hilfe eines Portralkrans Dating: 1944 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_185-12-14引用


第二次世界大戦で、イギリス海軍との正面衝突を避けたドイツ海軍は、潜水艦整備に力を入れた。しかし、ドイツの潜水艦は800トンと小型で、航続距離も長くない。また、ドイツは、バルト海に面してはいるが、大西洋に進出するには、キールやヴィルヘルムスハーフェンなど、限られた港湾しか利用できなかった。そこで、1940年春にフランスを占領すると北フランス沿岸にあるロリアン、シェルブールなどの港にUボートを進出させた。

 しかし、この潜水艦基地は、イギリス本土からの爆撃機の空襲に晒されており、潜水艦基地としては危険だった。そこで、ヒトラーは、潜水艦基地を空襲の被害から守るために、鉄筋コンクルートの厚い防御壁を持つ潜水艦退避壕」すなわちUボート用ブンカ―を北フランスに建設した。これには、ドイツの建設執行機関「トート機関」が従事したが、地元の労働者も多数の作業に雇用・徴用された。

 戦局が悪化すると前線にある全ての潜水艦をUボート用ブンカ―に収容することが求められ、大々的なブンカ―建設が始まり、不足する労働力を補うために、捕虜・強制収容所の囚人も大々的に投入されるようになった。

写真(右)1942年10月24日,ドイツ本土、戦車の生産に動員された女性労働者:ドイツ人成人男子は兵士に徴用されたため、その補充に女子動労者が動員され、さらに外国人労働者、捕虜、ユダヤ人なども生産現場に大量投入された。しかし、このようなドイツ人女子労働力の動員は、ドイツでは銃後の危機感を煽らないように、強硬な措置を控えており、イギリスの女子労働者よりも優遇されていたようだ。他方、捕虜やユダヤ人、さらに外国人労働者については、過酷な取り扱いが普通だった。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1981-023-18A Original title: info Arbeit der Heimat für die Front: Pausenlos entstehen Panzer auf Panzer Frauenarbeit an Bohrmaschinen 24. Okt. 1942 PK Kisselbach 6399 b. E.M. Dating: 24. Oktober 1942 Photographer: Kisselbach撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1981-023-18A引用
 

写真(右)1942年10月24日,ドイツ本土、ベルリンのジーメンス電機工場で働くフランス人女子労働者:外国人労働者は、当初は、募集の形で集められ、労働環境も収容所のような拘束はなかった。しかし、戦局が悪化する中で、外国人労働者は集まらなくなり、徴用や割り当てによる強制動員が始まった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-S68014 Original title: info 1943 Französische Arbeiter in Deutschland: In einem großen Elektrowerk [ bei Siemens] 82-43 Scherl Bilderdienst Archive title: [Werkfoto Siemens] Dating: 1943 Photographer: o.Ang.撮影者不詳。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-S68014引用


  写真(右)1942年5月,ドイツ本土、魚雷(魚形水雷)製造工場で働くドイツ人労働者:爆発物や高度な熟練を要する作業、秘密兵器の製造にかかわる動労などに外国人労働者を用いると、サボタージュや破壊活動あるいは秘密漏洩に繋がる恐れがある。そこで、自国労働者を雇用するのが当然である。しかし、V2ロケット弾道弾の場合、労働者をトンネル式地下工場に艦船に隔離し奴隷のように酷使し、疲労困憊させていたため、秘密の漏えいや脱走の心配はなかった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-J18094 Original title: info Scherl Bilderdienst Deutschland: Torpedowerkstätte.- Torpedo kommen zur Fertigmontage PK-Aufnahme: Kriegsberichterstatter Sanden 4152-42 Mai 1942 Dating: Mai 1942 Photographer: Sanden, Heinrich撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-J18094引用


  写真(右)1940-1945年,ドイツ北部、ペーネミュンデ陸軍兵器実験基地で働くドイツ人労働者:V2ロケット弾道弾の開発に選抜されたドイツ人労働者あるいは技師思われる。しかし、兵器の量産のためには、大量の労働力が不可欠である。ドイツ人ではなく、外国人労働者、捕虜、ユダヤ人が苦役されたることになった。
Inventory: RH 8 II Bild - Heeresversuchsanstalt Peenemünde.- Bildbestand Signature: RH8II Bild-B0270-43 BSM Archive title: Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände. Sowjetische Zwangsarbeiter / Gefangene an einer Werkbank arbeitend. Dating: 1940/1945 Photographer: o.Ang. 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild-B0270-43引用(他引用不許可)。


  写真(右)1942/1945年,ドイツ北部、バルト海岸のペーネミュンデ(Peenemünde), ドイツ陸軍兵器実験基地のV2-Rakete (Aggregat 4) ロケット弾道弾の発射サイト:運搬用のV2専用トレーラーから垂直に立てて、発射台に据え付けようとしている。
Bild 141 - Sammlung Library of Congress Signature: Bild 141-1875A Archive title: Raketen-versuchsgelände Peenemünde.- V 2-Rakete (Aggregat 4; A4) auf Abschuss-Bahn Dating: 1942/1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 141-1875A, Peenemünde, V2 auf Abschussbahn.jpg"引用。


第二次大戦勃発直後の1939年冬,後に軍需大臣になるアルベルト・シュペールAlbert Speer:1905-1981)は,ペーネミュンデ(Peenemünde)での陸軍秘密兵器開発,特に建設面の要望を実現する責任を負っていた。そこで,ワルター・ドルンベルガーWalter Dornberger:1895-1980)大佐の指導の下にあった,当時27歳のベルナー・フォン・ブラウン(Wernher von Braun)たち,若い科学者グループとロケット研究を知り,関心を抱いた。若い開発チームが何億マルクもの資金を使って,前例のない斬新なロケット兵器を作ろうと,異例のことだった。現実味のない空想的な研究のようにも思えたからである。しかし,シュペールは,同じ技術者としての感覚から,造詣ある開発チームに好意的で、のちにペーネミュンデ(Peenemünde)におけるロケット兵器、特に地対空ミサイルの開発に尽力すべきだったと回顧している。

ヒトラーは,1939年晩秋,空想的なロケット計画の緊急度を認めず,労働力と原材料をロケット奪い取ったが,アルベルト・シュペールペーネミュンデ(Peenemünde)の施設建設を続行させたと自らの先見の明を誇っている。

写真(右)1941年春,ペーネミュンデ陸軍研究ロケット試験場,A4ロケットを研究中の陸軍大佐ワルター・ドルンベルガー博士(左)、フリードリヒ・オルブリヒト将軍(左2人目,鉄十字勲章佩用),陸軍兵器局長ヴィルヘルム・フォン・レープ将軍、民間人研究者ベルナー・フォン・ブラウン(Wernher von Braun,背広姿):フォン・ブラウンは,ベルリン工科大学卒業,ベルリン大学大学院時代に,陸軍兵器局のワルター・ドルンベルガー大尉のもとでロケット研究を行った後,物理学博士号取得。
V-2ロケット弾道弾は,長距離砲と同じく,陸軍の管轄で,ドルンベルガーがV-2ロケット指揮官,ブラウンが技術部長だった。ブラウンは宇宙旅行について語っていたことを理由に1944年3月,ゲシュタポに逮捕された。しかし,ドルンベルガー、シュペールの尽力で,ヒトラーからV-2ロケットに役立つ限りにおいて釈放する命令が出て救われた。
レープ将軍は,1940年4月-1945年2月まで,陸軍兵器局長を務めた。
後に,国内予備軍副司令官となるオルブリヒト将軍は,1944年7月20日,総統本営爆破ヒトラー暗殺未遂に参画して,国内予備軍参謀長シュタウフェンベルク大佐らとともに銃殺。
Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände, 1. Reihe vlnr: Oberst Dr. Walter Dornberger, General Friedrich Olbricht (mit Ritterkreuz), Wilhelm Ritter von Leeb, in Zivil Wernher von Braun, Frühjahr 1941 Dating: 1941 Frühling Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1978-Anh.030-02引用(他引用不許可)。

ドイツ宇宙旅行協会は、ベルナー・フォン・ブラウンWernher von Braun:1912−1977)らが、液体燃料ロケットによる宇宙旅行の夢を追う民間団体だったが、資金は不足しておりロケット製造は困難だった。

他方、ドイツ陸軍のワルター・ドルンベルガーWalter Dornberger)は、長距離砲と同じ効果を上げることができるようにロケットに爆弾を付けて、弾道弾・ミサイルとすることを考えた。そこで,ベルナー・フォン・ブラウンら科学者に陸軍兵器局Heereswaffenamt:HWA)で液体燃料ロケットを製造させた。ドイツ軍では、ロケットを長距離砲と見做して、陸軍の管轄下に置いたのである。他方、V1飛行爆弾は、今日の巡航ミサイルであるが、無人爆撃機・飛行機の一種とみなされて、ドイツ空軍の管理の下に置かれた。1934年12月19日、北海のボルクム島で,試作型の重量1キロのA2(Aggregat 2 Rakete)ロケット打ち上げに成功した。

アルコール(エタノール)と酸素を燃料タンクに入れて,それをロケットの燃焼室に注入する。2つの燃料タンクの間にジャイロスコープ(gyroscope)を搭載し,1万回転する慣性によって本体を安定させる。A2の推力は,300kgf(2943 N)。A2の構造は,基本的には,後のA4ロケットに引き継がれている。

試作型A2を拡大したA4ロケット(Aggregat 4 Rakete)は、1936年からドイツで開発されたロケットで、射程175キロ、搭載量1トンの計画だった。開発チームの中心は,ベルナー・フォン・ブラウン(Wernher von Braun:1912-1977)博士で、ドイツ陸軍は、長距離砲としてミサイルを実用化しようとしていた。

ベルナー・フォン・ブラウン(Wernher von Braun)を含む陸軍兵器局所轄のA4ロケット>開発チームは、当初はベルリン(Berlin)南25キロのクメルドルフ(Kummersdorf)兵器実験場にあったが、1937年には、ドイツ北部バルト海を望むペーネミュンデ(Peenemünde)兵器実験場を中心に活動した。

1942年6月13日,ドイツ国防軍三軍の兵器局長官、エアハルト・ミルヒErhard Milch)空軍元帥,ビッツェル海軍提督,国内予備軍フリードリヒ・フロムFriedrich Fromm)大将,アルベルト・シュペール(Albert Speer)軍需大臣は,ペーネミュンデでロケットの発射実験を視察した。四階建ての高さのロケットは,当時としては驚くべき大きさであり,轟音を上げて台座を離れ,低い雲の中に消えていった。

写真(右)、ドイツ軍が開発・実用化した世界初のロケット弾道弾V2号の内部構造図:胴体の中央部の大半は、推進剤となるエタノール燃料のタンクと液体酸素(酸化剤)のタンクからなっていて、これが9トン近くありV2ロケットの重量(離陸時13トン)の大半を占める。下部には、エチルアルコールEthyl Alcohol:C2H5OH)燃料と液体酸素を混淆し燃焼させてる威力を得るエンジン。
Description Nederlands: plaatje van en-wiki (:afbeelding:V-2.png) aangepast + toevoeging Date Unknown Source Derivative from File:Vー2.png which has NASA as source Author NASA and Dutch texts and right side image are derivatives by Svdmolen
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) (Category:Drawings of Vー2 missiles) から引用。


A 4 / Vー2ロケット弾道弾の諸元 
重量:12,500 kg (28,000 ポンド) 全長:14 m (45 ft 11)
翼幅:3.56 m (11 ft 8 in)
弾体直径:1.65 m (5 ft 5 in)
弾頭:980 kg (2,200 ポンド) 、アマトール火薬
推進薬:エチルアルコールethyl alcohol:C2H5OH)75 % と、水25%の混合燃料が3,810 kg (8,400ポンド)、液体酸素が4,910 kg (10,800ポンド)
飛行距離:320 km (200 マイル)
誘導方式:ジャイロス・加速度計による慣性航法 Inertial Navigation System

写真(右)1945年3-4月,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ=ミッテルバウ強制収容所に併設された地下工場で生産されたV2ロケット>弾道弾の推進動力部ガス燃焼室。:この近くのトンネル式地下生産工場でドーラ=ミッテルバウ強制収容所(Nordhausen Dora-Mittelbau camp)の囚人を奴隷労働者として酷使して製造された。写真は、アメリカ陸軍第47機甲歩兵大隊C中隊の兵士ジョージ・ライツ(George Leisz)が第二次大戦中にこれらの写真を発見し故国に持ち帰った。その写真を親族が、USHMMに寄贈した。
Interior view of the rocket factory at Dora-Mittelbau.
Record Type:Photograph Photograph #:62981 Caption:Interior view of the rocket factory at Dora-Mittelbau. The original caption reads: "Gas chambers and motor Assembly of V-2 Bomb." Biography:George Leisz, a soldier with Company C of the 47th Armored Infantry Battalion discovered these photographs while serving in World War II and brought them back to the United States. George Leisz was the uncle of the donor, Kevin Wick. Date:March 1945 - April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Kevin Wick Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Kevin Wick 写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


日本の宇宙開発事業団)は、「ロケットの構造と設計(3) 」で次のように、 V-2弾道弾の優秀性を記述している。

液体ロケットの構造
液体ロケットは、推進剤燃料酸化剤(ともに液体)をそれぞれのタンクから燃焼室へ送りこみ、そこで燃焼させて発生した高温のガスを、ノズルから噴射することで推力を得るロケットです。その設計の際に重要な要素となるのが、推進剤タンクとエンジンです。推進剤タンクがそのまま燃焼室の役割を果たす固体ロケットよりも、液体ロケットでは、タンクの構造にかかる圧力が一般的に低く軽量化が容易のため、構造効率は高くなります。

「タンク加圧方式」と「ポンプ方式」
液体ロケットエンジンは、推進剤を燃焼室に送りこむ方法により「タンク加圧方式」と「ポンプ方式」とに分けられます。タンク加圧方式は、推進剤タンクに高圧のガスを送り込むことで推進剤を押し出して燃焼室に送る方式で、構造は単純です。しかしこの方式では、ポンプで推進剤を吸い出して燃焼室に送りこむポンプ方式よりも高い圧力が推進剤タンクにかかるため、より丈夫なタンクの設計が必要になります。そのため、小型のロケットにはタンク加圧方式の、大型のロケットにはポンプ方式の設計が適しています。

V-2からH-IIAロケットまで広く採用される液体ロケット
「近代ロケットの父」と呼ばれたロバート・ゴダードが、人類初の液体ロケットの実験に成功したのが1926年。その後1940年代にポンプ方式を採用した初の液体ロケットである V-2ロケットがフォン・ブラウンらにより開発され、近代ロケットの技術が確立されました。以後、スペースシャトルや日本のH-IIAロケットに至るまで、液体ロケットは広く採用されています。固体ロケットよりも構造は複雑になりますが、比推力の高い推進剤を利用でき、ひいては大きな推力を得られることがその理由です。(宇宙開発センター「ロケット」引用終り)

写真(右)1945年3-4月,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ=ミッテルバウDora-Mittelbau強制収容所に併設された地下工場で生産された V-2弾道弾の推進動力部。:この近くのトンネル式地下生産工場でドーラ=ミッテルバウ強制収容所(Nordhausen Dora-Mittelbau camp)の囚人を奴隷労働者として酷使して製造された。写真は、アメリカ陸軍第47機甲歩兵大隊C中隊の兵士ジョージ・ライツ(George Leisz)が第二次大戦中にこれらの写真を発見し故国に持ち帰った。その写真を親族がUSHMMに寄贈した。
Interior view of the rocket factory at Dora-Mittelbau.
Record Type:Photograph Photograph #:62979
Caption:Interior view of the rocket factory at Dora-Mittelbau. The original caption reads "Exhaust and motor section unassembled. In this factory 25,0000 people were beaten, starved or otherwise done away with. Later to be cremated at Camp Dora, Nordhausen."
Biography:George Leisz, a soldier with Company C of the 47th Armored Infantry Battalion discovered these photographs while serving in World War II and brought them back to the United States. George Leisz was the uncle of the donor, Kevin Wick.
Date:March 1945 - April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Kevin Wick Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Kevin Wick 写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


 A4/V-2ロケット燃料は、エチルアルコールethyl alcohol:C2H5OH)75 %、水:25 %と酸化剤の液体酸素であるととして持って行く。燃料の供給方式は、低温、低気圧の空中を高速で飛翔すために、ターボポンプ供給(燃料噴射ポンプ)方式が採用されている。燃料タンクは、内径1.65メートル、ノズルスロート径0.4メートル、燃料質量は3900 kg,酸化剤質量が4900 kgである。燃焼室の圧力1.52 MPa(海綿状大気圧1Pa)、酸化剤燃料比(O / F)1.23で、1秒当たり燃料流量56 kg/s、酸化剤流量69 kg/sで、比推力(海面上)は203 s、ただし大出力を得るために、燃焼時間65秒に過ぎない。

写真(右)1942/1945年,ドイツ北部、バルト海岸のペーネミュンデ・ドイツ陸軍兵器実験基地のV2-Rakete (Aggregat 4)ロケット弾道弾:V2ロケットの内部。
Inventory: RH 8 II Bild - Heeresversuchsanstalt Peenemünde.- Bildbestand
Signature: RH8II Bild-B1927-44 Archive title: Peenemünde.- Heer-esversuch-sanstalt, Raketen-Versuchsgelände. Steueraggregate einer V2-Rakete (Aggregat 4) Dating: 1942/1945 Marschflugkörpern "V 1" und Raketen "A 4 / V-2" nach nach Einnahme durch die Alliierten, große Wasserdruckpressen  Dating: 1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv RH8II Bild-B1927-44, Peenemünde, V2-Steuerung.jpg"引用。


 A4/V-2ロケット弾道弾は、ロケット推進で上昇、成層圏(50km以上)をジャイロコンパスと加速度計を用いた慣性航法装置Inertial Navigation System)で飛行する。そして、最高高度90km到達直前に、燃料供給を停止、エンジンの作動を止め、ここから慣性で標的に落下する。このエンジン作動停止点burnout)以降は、慣性飛行に移る。そして、最高高度90kmに達した後に、大気圏まで自由落下するが、その間、300km移動できる。最大射程300km。

A4/V-2ロケットの慣性誘導装置Inertial Navigation System)は、加速し上昇している間に標的への適切なルートをとらなくてはならない。これには、標的に命中するように、加速上昇している際に、方向、速度を適切に誘導する必要がある。A4/V-2ロケットの飛行方向は、ジャイロにより示されるので、速度との関連から加速度計を使って、標的までの距離を適切に推測して飛行する。そのために、A4/V-2ロケットの尾翼には方向タブがあり、ロケットエンジン噴射口にも噴射舵が備えられている。

A4の発射から1分半たって,うなり声が激しくなり、ロケットが近くに落下したことがはっきりした。立ちすくんでいる間に,1キロ先に落下してたことをシュペールは,専門家たちから聞かされた。

専門家たちは,もっとも困難な発射の成功に満足したが,アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)は,非常に強い疑念を抱き,目標に到達する能力が,いつ保障されるのかという疑問を提出した。しかし,第二回目のA4/V-2ロケットは,首尾よく高度100キロ以上に達し,190キロの予定ルートを飛び,目的地に4キロの誤差で命中した。

1942年10月14日,軍需大臣アルベルト・シュペールは,アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)にA4ロケットが目標に命中したことを伝えた。アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)は,大いに興味を示しA4/V-2ロケットを最初に実戦投入するときには,同時に5000基が投入されるべきことを要求してきた。

1943年7月9日,アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)は,シュペールにドルンベルガー,フォン・ブラウン(Wernher von Braun)を総統本営に招き,A4/V-2ロケットについて,詳しい説明を求めた。会合の後,映写室で,カラーフィルムが上映され,ヒトラーは初めてA4/V-2ロケットが,浮き上がって,成層圏へ消えてゆく堂々たる光景を見た。映像に衝撃を受けたヒトラーに対して,フォン・ブラウンは熱烈にロケット計画を説明した。

ヒトラーは,強烈な印象を受け,感激した。ペーネミュンデ(Peenemünde)の技術者に心を込めて別れを告げて,防空壕に戻ってから感激して言った。「A4,あれは戦争を決定する方策だ。我々があれでイギリスを攻撃したら,祖国は労苦から解放される。あれは戦いにおいて決定的な兵器であり,同時に,比較的安い経費で作ることができる。シュペール君,精一杯A4を推進してくれたまえ。労働力と原材料がいるのであれば,全ては即座に整えられなくてはならない。-----A4の完成が戦車の生産と同じくらい重要になるように,それを進めてくれ。だが,この製造に関しては,我々はドイツ人しか使えない。もし他国のものがこのことを聞いたら大変なことになるからな。」

しかし,最終設計図は予定期限の1943年7月になっても完成しなかった。試験的に発射されたA4の第一弾が大気圏に突入する時,予期しない爆発が起こり,新兵器は実用化までに時間を要することが明らかになった。

ヒトラーがA4/V-2ロケット計画に感激して6週間後,1943年8月中ごろ,V-2弾道ミサイル計画の進捗が遅れていた時期,親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmler:1900-1945)は,兵器計画を秘密裏に実現する方法として,強制収容所にいる囚人を奴隷労働として使うことを提案した。

強制収容所の囚人は,外部とは遮断されており,郵便もないので,秘密を守ることができる,というのである。たしかに,秘密漏洩を残酷な処刑をもって威嚇することで奴隷労働者に秘密厳守を迫ることができるし,囚人労働力は,事実上,無償の奴隷労働として酷使できる。

ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmler)は,囚人によって労働力を提供し、専門家や技師と協力して,生産指導と技術者を提供してほしいと要請した。ヒトラーはこの提案に同意した。

アルベルト・シュペール(Albert Speer)軍需大臣は,親衛隊と協力して,A4/V-2ロケット計画のための新共同「企画中央工場」の服務規程を作成したが,工場の管理は,次第に親衛隊の影響力が強くなった。1942年9月21日のヒトラーの決定によれば,囚人は産業界の軍需組織の下にある工場で働くことになっていた。しかしロケットの量産を親衛隊の管理下に置くというヒトラーの命令によって,陸軍の軍需生産に関して,アルベルト・シュペール(Albert Speer)軍需大臣らの自主的管理の原則も崩れてしまった。

1943年12月10日,アルベルト・シュペールはV2弾道ミサイル生産のための地下工場建設現場を視察した。ここでは,長いホールで,囚人たちが忙しく機械を組み立て,内装工事を行っていた。しかし,管理者によれば奴隷労働者の衛生条件は劣悪で,病気が蔓延していること,囚人は湿った穴の近くに寝泊りしているために,囚人の死亡率が非常に高いことを知った。シュペールは,囚人用の宿舎の整備を命じた。

1943年12月22日,ヒトラーは,シュペール(Albert Speer)の求めに応じて,A4ロケットの量産命令に署名した。また,1944年1月13日に医療顧問ボシュマン博士が囚人の衛生状態の劣悪さを報告してきたので,5月26日,囚人宿舎に民間の医師を派遣させた。

ドイツの科学技術の粋を集めて開発されたA4/V-2ロケットだったが、その生産は、ドーラ強制収容所(KZ-Gedenkstätte-Mittelbau-Dora)に幽閉された捕虜やユダヤ人などを奴隷労働者として死ぬまで酷使して行われたものだった。


2.強制収容所におけるユダヤ人絶滅−ガス殺と衰弱死

ナチス親衛隊は,軍需生産上,労働力を提供できない労働不能ユダヤ人を,ガス室などで殺害した。そして,労働可能なユダヤ人囚人は,衣食住の物資も切り詰めて,過酷な条件で,奴隷労働者として,死ぬまで働かせた。親衛隊は、ユダヤ人絶滅の任務を遂行したが、同時に強制収容所の捕虜やユダヤ人を、軍需産業に奴隷労働者と>して派遣し、管理することで、囚人を酷使した軍需産業から囚人の労働代金を徴収した。

しかし,ユダヤ人絶滅を,経済的理由だけ説明することはできない。ユダヤ人をドイツ民族を滅ぼそうとする敵,病原菌であると決め付けていたという人種民族差別の役割も大きい。敵ユダヤ人は,ドイツ民族を弱らせるペスト菌のような存在であるから,撲滅しなければならない。このホロコーストを引き受けたのが、ハインリヒ・ヒムラー親衛隊国家長官を最高指揮官とする親衛隊SSである。

 ユダヤ人が,ドイツ民族の生存を脅かす敵である以上,軍需生産・食糧生産を担う奴隷労働力<として利用することと並んで,ユダヤ人を絶滅すること自体も重要な目標となる。ユダヤ人を労働力として無償利用することは,永続的目的ではなかった。これを理解できないところに,現実主義者ヒトラーが,労働力として役に立つユダヤ人を虐殺するはずがない,という誤解が生まれる。

ヒトラー総統,そのユダヤ人絶滅命令を口頭で受けた親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツ民族を滅ぼそうとする病原菌として,ユダヤ人を認識していた。この人種民族的偏見を抱く限り,ユダヤ人虐殺もユダヤ人の奴隷労働もともに,現実的な合理的行為として,実行に移された。

ユダヤ人虐殺の方法は,当初は,銃殺・縛り首などであったが,ユダヤ人に処刑が知れ渡るとユダヤ人を捕まえることは困難になり,同時に住民による反抗も活発になった。また,ドイツ人処刑者の中には,婦女子の処刑には精神的に耐えられないものもあった。そこで,治安を悪化させずに,処刑者に負担をかけないで,効率的に大量殺戮できるようなユダヤ人絶滅システムが作られた。

◆ユダヤ人絶滅システムとは,一般住民に反ユダヤ人プロパガンダを行い,ユダヤ人密告を奨励し,密告者に報酬を与え,貨車に過密なほどユダヤ人を押し込み,列車移送を軍需輸送の一環に組み込む。そして,移送者の不動産から所持品まで全財産を収奪した。囚人は,奴隷労働として死ぬまで利用するか,ガス殺し,死体を焼却して,証拠隠滅を図る。このようなユダヤ人虐殺の重要な部分は,口頭でのみ命令され,文書化することを許さない。効率的に秘密裏に組織されたのが,ユダヤ人絶滅システムである。

親衛隊SSは,強制収容所の囚人を奴隷労働者として,軍需企業に一人一日6マルクで貸し出した。 奴隷労働者を使った企業は,ナチス親衛隊(SS)に借り受け料を支払ったが,これは全て親衛隊SSの資金となった。映画で有名になった「シンドラーのリスト」でも,軍需企業の経営者シンドラーが,強制収容所のユダヤ人奴隷労働者を利用して,ドイツ軍のための物資を生産する。シンドラーの目的は,ユダヤ人を虐殺から救うこととユダヤ人奴隷労働者を使用して,財産をなすことだった。また,収容所囚人の中には,ポンドやドルなどの連合軍の偽札作りを強要されたユダヤ人職人もいた。

強制収容所の多くには,ガス室はなかったが,栄養失調・病気による衰弱死,奴隷労働による過労死,拷問による死亡,処刑があった。また,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ(Treblinka),ゾビブル(Sobibor),マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置されたガス室を備えていた絶滅収容所は,ユダヤ人,ロマ(ジプシー),ソ連軍捕虜などを大量殺戮した。

他方,ユダヤ人の婦女子まで殺戮するドイツ人は,精神的,肉体的に負担が大きかった。殺戮者なったドイツ人の負担を軽減することには,十分配慮されていた。衛生条件が劣悪な中,過酷な奴隷労働に従事させて,衰弱死・事故死。病死をさせることも,ユダヤ人絶滅の一環であった。

つまり,効率的に殺戮を進め,資産を収奪するユダヤ人絶滅システムは,人種民族差別の上に構築されていた。ユダヤ人絶滅は,冷徹に計算された人種民族差別の極限にある非人間的な暴力である。

ユダヤ人を労働者として使うことは、1939年のポーランド侵攻以来、ドイツ勢力範囲で行われていた。1940年に設置されたゲットーのユダヤ人も食事だけ与えて、労働に従事させた。

強制収容所のユダヤ人も同じく、食事だけ与えて、過酷な労働に従事させた。栄養不足による衰弱し,事故死,病死,懲罰による死亡など,囚人の人権には一切配慮する必要がなかった。これが奴隷労働である。

ドーラ強制収容所(KZ-Gedenkstätte-Mittelbau-Dora)強制収容所の囚人をとして使用するのは,労働管理を行って、効率的な生産を進めるというよりも、ユダヤ人を疲弊させ、その労働職を搾り取って、排除することを第一の目的としていた。これが、ユダヤ人問題の最終解決で、その最終手段が絶滅収容所におけるガス殺だった。

<絶滅収容所でのガス殺(Killing People Through Gas:In Extermination Camps引用)>
クルムホフKulmhof(チェルムノChelmno):1941年12月-1942年秋,1944年5-8月,一酸化炭素carbon monoxide gasにより,ユダヤ人15万名,ロマ5000名を殺害。

ベルゼクBelzec (ルブリンLublin): from march to December 1942年3-12月,当初3ヵ所のガス室,後に6ヶ所のガス室で,一酸化炭素によりユダヤ人60万名を殺害。

ゾビボルSobibor (ルブリンLublin):1942年4月に3ヵ所,9月に6ヶ所のガス室によって,1943年10月までに,ユダヤ人20万名を一酸化炭素で殺害。

トレブリンカTreblinka :1942年7月に3ヶ所のガス室,9月には10ヵ所のガス室で,1943年11月までに,一酸化炭素によって, 70万名のユダヤ人を殺害。

マイダネックMajdanek (ルブリン):1941年9月に収容所を解説,1942年4月-1943年11月まで,大量銃殺ユダヤ人2万4,000名を殺害。1942年10月より,当初2ヵ所のガス室,後に3ヶ所のガス室で,1944年3月までにユダヤ人5万名を殺害。使用したガスは,当初は一酸化炭素,後にチクロンB(シアン化ガスcyan hydrogen).

アウシュビッツ=ブルケナウAuschwitz-Birkenau (当初ポーランド領だったが,上シレジアに編入): 1940年5月開設,1942年1月,5ヶ所のガス室で,1943年6月からは,さらに4ヵ所の大型ガス室で,1944年11月までに,チクロンBによって,ユダヤ人100万名,ロマ4000名を殺害。

ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒReinhard Tristan Eugen Heydrich: 1904-1942)は独ソ戦開始後の1941年7月31日、ゲーリングから「ユダヤ人問題の最終的解決」の委任状を受けたことで、親衛隊SSによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)を主導した。彼は、大戦前からドイツ、オ―ストリア在住のユダヤ人の迫害、財産没収、国外追放を進めており、1939年9月の第二次大戦勃発からは、特殊行動部隊(アインザッツグルッペ)を組織して、ナチの敵対勢力の抹殺を始めていた。

 ラインハルト・オイゲン・ハイドリヒReinhard Heydrich)は、1942年1月20日にベルリン郊外でヴァンゼー会議Wannsee Conference)開催、既に方針となっていたユダヤ人抹殺をドイツの行政機関にも徹底させた。1942年1月20日のヴァンゼー会議Wannsee Conference)で周知された「ユダヤ人問題の最終解決」とは、ユダヤ人絶滅であり、ベウジェツ、ゾビボル、トレブリンカに絶滅収容所が開設された。

しかし、当初から、ユダヤ人を絶滅することは、戦争に必要な労働力を減少させるだけで、戦争勝利に寄与しないのではないかという疑問がドイツ国防軍にも残っていた。これが、ユダヤ人や捕虜を酷使して死んでも構わない労働力として活用しようとする「奴隷労働」の在り方を決めた。こうして、最新兵器の生産にもノルトハウゼンのドーラ=ミッテルバウ強制収容所(KZ-Gedenkstätte-Mittelbau-Dora)に幽閉した捕虜やユダヤ人を奴隷労働として大量投入されることになる。


3.V-2弾道ミサイルの実用化・実戦投入

ロケット兵器を世界で始めて量産,実戦投入したのは,ソ連赤軍だった。独ソ戦勃発から1ヶ月たたない1941年7月14日,ソ連軍は大量のロケット弾をドイツ軍に発射した。これは,「カチューシャ」と呼んだソ連軍の秘密兵器で,火薬を推力とした単純な構造のロケット弾である。

ロケット弾とは、火薬を推進剤とし、燃焼ガスの噴出によって推力を得る。つまり、砲弾とは異なって、自力飛行可能な爆弾である。

カチューシャは,爆薬を燃料として発火して推力を得る固体燃料ロケットで,尾翼がついている。M-8ロケット弾は,直径82ミリ,BM-13ロケット弾は,直径132ミリで,爆音を立てて発射されたため,ドイツ軍は「スターリン・オルガン」と呼んだ。運搬は,トラックの荷台にロケットランチャー(発射台)16本を装備し簡易なもので,そのままま発射した。

写真(右)1942-1943年,ソビエト連邦,1トン牽引車(Sd.Kfz 10)と牽引されるネーベルベェルファー(煙幕弾:実際にはロケット弾)発射機:牽引車は,装甲車と違って,防弾装備はない。ロケット弾発射も,後方からに限られる。ただし,ロケット弾の射程は2キロほどしかなかった。
Sowjetunion.- Leichter Zugkraftwagen 1 t (Sd.Kfz. 10), mit Nebelwerfern (schweres Wurfgerät 41) beladener Anhänger bei Fahrt durch Ortschaft (taktisches Zeichen: Elefant in Kreis mit Nr.20); PK 666 Dating: 1942/1943 Photographer: Lohse, Bernd撮影。Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ軍も,1940年に直径15センチのロケット弾(15 cm Nebelwerfer 41)を開発していた。これは,「ネーベルベェルファー(煙幕弾)」の秘匿名称で呼ばれた重量34キロのロケット弾で,全長1.3メートルのパイプからなる6連装ロケットランチャーによって,電気発火で発射された。ドイツ軍は,木製の簡易ロケット弾発射機(ランチャー)を開発し,運搬箱と発射台を一体化させた。

ドイツ軍は,直径28センチと32センチの二種類のロケット弾を開発し1942年夏に実戦に投入した。これらのドイツ軍のロケット弾は,無翼でロケット噴射口26個があった。噴射口には傾斜がつけられていてロケット噴射が渦巻きとなって,弾体を回転させ,安定飛行した。

写真(右):1944年8-9月,ワルシャワ蜂起軍に向かって発射されるドイツ軍の28/32センチロケット弾:木製枠組みのランチャーから発射され,弾頭には火薬,あるいは焼夷剤が詰まっている。右後方には,発射後に放棄された木製枠組みのランチャーが山積になっている。
Abschuß deutscher 28 cm-Wurfkörper Archive title: Polen.- Warschauer Aufstand, Abfeuern eines Raketenwerfers (schweres Wurfgerät 41) mit 28-cm-Wurf-Körper-Spreng, Wurfkörper im Flug; KBZ HG Mitte Dating: 1944 August - September Photographer: Leher 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


15センチのロケット弾(15 cm NbW41):重量34キロ(爆薬7キロ),射程6800メートル

28センチロケット弾(28 cm NbW 41:28/32 cm Nebelwerfer 41):重量80キロ(爆薬50キロ),射程1900-2200メートル。
32センチロケット弾(32 cm NbW 41):重量80キロ(焼夷弾45リットル),射程1900-2200メートル,28センチ弾とあわせて,1941年1万発,1942年7万発を量産

しかし、これらの「ロケット弾」は、火薬を大気圏で燃焼させ、敵に向かって発射し、爆発する点で、V2ロケットと似ているが、一回限りの点火で火薬を燃焼させために、10キロを超える長距離射撃をすることはできなかった。また、ロケット弾は、火薬の爆発を推進力とするために弾道の安定性が悪く、命中率が悪かった。これに対して、V2の射程は300キロ、爆薬は950キログラム以上ある。

写真(右)1942-1945年,ドイツ、ベルリン北方バルト海に面したペーネミュンデ陸軍秘密実験基地から発射されたV"弾道ミサイル(A4ロケット):1944年後半,ノルトハウゼン=ドーラ収容所の囚人の奴隷労働によって生産されたV2ロケットが,鉄道によって発射基地に運搬され,イギリス本土,ベルギーの港アントワープなどを目標に発射された。
Peenemünde - Heeres-versuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände. V2-Rakete (Aggregat 4) auf Startrampe / Abschussrampe Dating: März 1942/1945 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

弾道ミサイル(Ballistic Missile)とは、発射された弾丸が飛ぶように、弾道が湾曲して放物線状あるいは楕円軌道状になるミサイルのことである。地上から発射される場合、垂直に立てられた発射台の上でロケットエンジンに点火され、ミサイルは発射される。ミサイルの体勢は、ジャイロコンパスによって制御され、尾翼を使って目標方向に舵を切って上昇し、エンジン水力が弱まっても、慣性によって、弧を描いて目標に向かってゆく。そしてロケットが停止し、そのまま下降、加速をつけて目標に落下してゆく。

写真(右)1942年3月-1945年初頭,ドイツ北部、バルト海に面したペーネミュンデの陸軍秘密実験基地のミサイルテストサイト。鉄道を使ってV2ロケット弾道弾の燃料を輸送し、別の車両に補給している。
Inventory: RH 8 II Bild - Heeresversuchsanstalt Peenemünde.- Bildbestand Signature: RH8II Bild-B1973-44 Archive title: Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgel¨nde. Startvorbereitung einer V2-Rakete (Aggregat 4). Betanken. Dating: M&auuml;rz 1942/1945.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv RH8II Bild-B1973-44, Peenemünde, V2 Startvorbereitungen.jpg"引用。


ロケットの燃料はエタノールと液体酸素だった。エタノール(Ethanol)は、揮発性の高いアルコール類だが、常温保管できた。また、既に航空機エンジンの燃料噴射用に使用されていた。しかし、液体水素は低温保存の必要上、A4ロケット本体に搭載するのは、発射4-6時間前に限られた上に、保管施設、注入設備が必要だった。

V2ロケットは、全長14m、発射重量12.5トンで、弾頭は爆弾1トン弱だが、搭載していたエタノール・水の皇后燃料3.8トン、酸化剤の液体酸素4.9トンも搭載している。打ち上げ発射からエンジン作動停止まで、65秒程度であるから、1秒当たり140キログラムの燃料・酸化剤を消費する。

V2ロケットの発射は、ターボポンプにより、エタノール・水の混合念慮と酸化剤の液体酸素を燃焼室に送り込み、電気発火で点火する。燃焼が開始され、V2ロケットは垂直に上昇し、しばらくして傾きながら、標的(目標)方向に飛行する。V2ロケットはロケット噴射口のすぐ外側に取り付けられた4枚の方向舵で方向操作しながら、最下部にある4枚の尾翼を安定板として高速上昇する。

写真((右)1942-1944年,バルト海に面したペーネミュンデ陸軍秘密実験基地のV2ロケット:戦後のアポロ計画に多大な寄与をしたフォン・ブラウン(Wernher von Braun)博士など,ドイツの最高技術が活かされているとされる弾道弾だが,その生産に当たったのは,強制収容所の囚人だった。トンネル式の地下工場が,ノルトハウゼン強制収容所の奴隷労働者によって作られ,彼らがロケット生産にも強制的に働かされた。
Archive title: Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände. Arbeiten an der aufgerichteten Rakete vom Eisenbahn-Meillerwagen aus. Dating: 1942/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1943年7月末,ヒトラーはV2弾道ミサイルを月産900基の生産するように命令をだした。V2弾道ミサイルは,全長14メートル,重量3トン,弾頭1トンの遠距離ロケットであり,その生産には,工業設備,原材料,燃料,労働力が確保されなくてはならない。

1944年段階で,米英連合軍は,ボーイングB-17,コンソリデーテッドB-24,ハンドレページ・ハリファックス(Handley Page "Halifax"),アブロ・ランカスター(Avro Lancaster)など四発重爆撃機4000機を配備,1日当たり3000トンの爆弾をドイツとその勢力範囲に投下していた。

連合軍の重爆撃機大編隊によるドイツ空襲とV2弾道ミサイルによる「報復攻撃」は,V2ロケットの量産が軌道にのったとしても,1日当たり24トンの爆弾をイギリスなど連合国勢力範囲に投下できるだけだった。

V2弾道ミサイル24発,その搭載する爆薬合計24トンは,B-17重爆撃機「空の要塞」6機の投下する爆弾に過ぎない。

V-1巡航ミサイル,V-2弾道ミサイルは,ドイツの発明した画期的な兵器ではあるが,ドイツの逆転勝利を保障する脅威の秘密兵器とはいえなかった。

A4は、1942年3月からの打ち上げ試験は失敗していたが、10月3日に打上げに成功した。A4ロケットは,成層圏(高度11-50キロ)を突破し、150キロ飛行する。放物線の頂点からは、自由落下して、海面に落ちた。

写真(右)1943年8月17-18日,ペーネミュンデ・ドイツ陸軍兵器実験基地でロケットの発射実験を見学する啓蒙宣伝省ヨーゼフ・ゲッペルス大臣(前列中央),ナチ党とトート機関のアームバンドをした軍需省アルベルト・シュペール大臣(右端):シュペール軍需相は、ユダヤ人,捕虜など強制収容所の奴隷労働を投入して建設したトンネル式地下工場を建設し,そこで奴隷労働によって秘密兵器を生産した。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1992-093-13A Archive title: Peenemünde, 17./18. August 1943 [?].- hohe Offiziere und NS-Führer, u.a. Joseph Goebbels und Albert Speer (mit Armband "Org. Todt"), in den Himmel schauend Dating: August 1943 Photographer: Hubmann, Hanns撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild 146-1992-093-13A引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真だけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした写真も引用しています。この引用は原則有料,他引用不許可とされています。


1943年7月、ヒトラーは、V2号弾道ミサイル発射実験の映像フィルムを見させられ、V2の威力を認識し、直ちに最優先で開発を進め量産することを命じた。

この量産決定は、実験成功の直後であり、ヒトラーの決定は、迅速に行われた。したがってV2弾道弾の実用化が、これ以上早まる可能性は、ほとんどなかった。

写真(右)1942/1945年,ドイツ北部、バルト海岸、ペーネミュンデ陸軍兵器実験基地(Heeres-versuchsanstalt)のV2(Aggregat 4) ロケット弾道弾の発射サイト:運搬用のV2専用トレーラーから垂直に立てて、発射台に据え付けらた。林の中で、迷彩、偽装を施して、西側連合軍による偵察から身を隠している。
Inventory: RH 8 II Bild - Heeres-versuchsanstalt Peenemünde.- Bildbestand Signature: RH8II Bild-B1936-44 Archive title: Peenemünde.-Heeres-versuchsanstalt, Raketen-versuchsgelände Arbeiten an der aufgerichteten Rakete vom Eisenbahn-Meillerwagen aus. Dating: 1942/1944 ca. Photographer: o.Ang.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivから引用。


他方、ペーネミュンデ兵器実験基地で、秘密兵器のロケットが開発されていることを、ドイツの暗号解読とスパイ情報で察知した英軍は、1943年8月、ペーネミュンデを空襲した。被害は大きくV2弾道ミサイルの開発に遅れが生じた。ドイツ軍は弾道ミサイルの開発をペーネミュンデ(Peenemünde)からハイデラガル(Heidelager)に移して、実用化を急いだ。

1944年当初、ドイツ軍は、V1飛行爆弾とV2ロケット弾道弾によって、イギリス東部海岸の軍地基地やロンドンなど都市を攻撃しようとした。V1飛行爆弾の航続距離は200km、V2ロケット弾道弾の射程は250km程度だったが、目標への命中率や着弾は、おおよその範囲であり、数キロメートルの誤差は避けられない。そこで、工場や港湾よりも、都市を攻撃するのが妥当と考えられた。

 そこで、V1飛行爆弾とV2ロケット弾道弾を実戦に投入するために、ドイツ軍は、1940年6月以来占領している北フランスの沿岸、ベルギー海岸部に発射基地を建設した。当初は、イギリスにほど近いカレー近郊に、Uボート用ブンカーと同じ発想で、数メートル厚のコンクリートで保護された発射基地を建設しようとした。これは、鉄道交通を使って補給を受けながらイギリス本土を攻撃するためでああったが、連合軍はこの発射基地に四発重爆撃機で空爆し、トールボーイのような超大型爆弾も投下した。

  写真(右)1944年9月4日、ベルギーの首都ブリュッセル、イギリス軍のA27MクロムウェルCromwell 巡航戦車が首都を解放を喜ぶベルギーの若い男女を載せて市内を行進している。V2ロケット弾道弾でロンドンが攻撃されていたものの、西側連合国はドイツ国境、アーヘンに迫っていた。ただし、イギリス本土での被害については情報統制や検閲によって正確な情報が前線の兵士や国民に伝えられたわけではない。ブリュッセルとアントワープを占領した後、イギリス第2軍はドイツ軍の抵抗にあった。近衛装甲師団はアルベール運河、ミューズ運河を超えてベルギー・オランダ国境に到着した。
THE BRITISH ARMY IN NORTH-WEST EUROPE 1944-45、Catalogue number: BU 509、 Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR CENSORSHIP BUREAU LIBRARY OF PRESS PHOTOGRAPHS: CLASSIFIED PRINT COLLECTION, Production date 1944、  Subject period: Second World War、 Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Midgley (Sgt)、 Alternative Names: object category: Colour
Object description: Civilians ride on Cromwell tanks as the British enter Brussels, 4 September 1944.
Label: Cheering civilians ride on Cromwell tanks as British troops enter Brussels, 4 September 1944.写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (BU 509)引用。


ドイツ軍は、西側連合軍に発見されやすく、空爆被害を受けやすい大規模な<ロケット発射基地の建設を取りやめて、敵空中偵察に見つからないように、専用トレーラーを活用した移動式発射台を用いてV2ロケットを発射するようになった。垂直に打ち上げられるV2ロケット基地や移動式発射台は、森林の中にあったため、上空から発見・攻撃されにくかった。

  しかし、連合軍の空襲によるV1・V2の材料不足、交通破壊による部品や完成品の運搬に支障が出ており、攻撃計画は遅れた。ヒトラーは、西側連合軍のヨーロッパ大陸侵攻が始まったらすぐにV1飛行爆弾やV2ロケット弾道弾を実戦投入する計画でいたが、それは適わなかった。V1もV2も攻撃開始は、西側連合軍が1944年6月のノルマンディー侵攻してから後だった。西側連合軍は、スパイや暗号解読の情報によって、V1飛行爆弾とV2ロケット弾道弾の情報を得ていたから、航空兵力によって、フランスやベルギーの発射基地や運搬に使用する鉄道・架橋を空爆した。

 V2ロケット弾道弾が最初に発射されたのは、1944年9月8日で、ドイツ陸軍の第444砲兵大隊、第485砲兵大隊がミサイルをロンドンに向けて発射した。1945年までに、V2<ロケット弾道弾は3,172発が発射されたが、戦争末期には北フランスやベルギーの発射基地は占領されたり、破壊されたりしていた。そこで、射程距離の関係から、ベルギーの要港アントワープが主目標になった。

 V2ロケット弾道弾を実用化できた軍事技術は最高水準だったが、その効果は限定されたものだった。V2ロケット弾道弾が発射されれば、高速、高高度の飛翔のため、それを迎撃することは不可能だった。しかしロケットの攻撃目標への誘導、操縦に不備があり、標的への着弾は拡散してしまった。あた、V1もV2も弾頭は爆薬1トンで、連合軍中型双発爆撃機の爆弾搭載量の半分程度しかなかった。

 V2ロケット弾道弾は、発射されてしまえば、敵は防ぎようがないことで、住民や兵士に恐怖感や不安感は与えたが、物的破壊の効果は小さかった。しかし、V2ロケット弾道弾を排除するために、そうでなければ戦略爆撃に投入できた航空兵力を、空襲に向かわせ、陸軍部隊を発射基地の占領に充当さえたという点で、連合軍兵力を拘束する効果はあった。  


4.1944年7月、ヴァルター・フレンツ撮影のノルトハウゼンV-2ロケット地下工場


地図:ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼン。ここにV2ロケット弾道ミサイルの地下生産工場があった。

写真(右)1944年7月初め、ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、ノルトハウゼン北方5kmのコーンシュタインの岩山をトンネルをくりぬいて、V1飛行爆弾・V2ロケット弾道弾を組み立てる地下工場が建設された。:レニ・リーフェンシュタールのプロパガンダ映画を撮影したこともあるカメラマン、ワルター・フランツ(Walter Frentz)が撮影した。ノルトハウゼンに運ばれてきたV2ロケットの部品をドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人(捕虜やユダヤ人)を奴隷労働者として酷使して組み立てた。しかし、写真は高度な技術、効率的な経営、適切な勤労ととしているために、実際の捕虜やユダヤ人たちの過酷な労働や劣悪な居住環境は描かれていない。
Item ID 5084109 Title Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany.
Archival Signature 7919 Name of submitter Ullstein Bild Source Ullstein Bild Photographer PK Walter Frentz(1907?2004)
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
A collection of photographs taken by First Lieutenant Walter Frentz in the tunnels of the Dora-Mittelbau missile factory probably in early July 1944. Frentz was a PK photographer, who was permanently attached to the Fuehrer's headquarters, and was given special film assignments on behalf of the Reich's leadership.
In early July 1944 he was asked to prepare a movie about the V-1 missile for use in newsreels, and about the V-2 missile for internal use.
While filming the movie about the V-2, Frentz was permitted to photograph at the secret subterranean missile factory Dora-Mittelbau, where most of the workers were concentration camp inmates. Frentz also used a stills camera, usually with color film. He used this equipment for the pictures in this collection.
In the collection one can see the factory's tunnels, the camp inmates and the German experts who produced the advanced missiles.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature: 7919"から引用。


ノルトハウゼンのドーラ=ミッテルバウ強制収容所(Nordhausen Dora-Mittelbau camp)は、1943年8月にチューリンゲン大党管区のノルドハウゼン北方5kmの場所に設置されたもので、既存のブーヘンワルト強制収容所(Konzentrationslager Buchenwald)の第17/3ブロックに指定された。ここでは、ブーヘンワルトから移送された数千人の囚人が、コーンシュタインKohnstein)の岩山をくりぬき、トンネル式の地下軍需工場の建設が進められた。V1飛行爆弾・V2ロケット弾道弾の地下工場の建設にも、V1/V2の生産にも、強制収容所の囚人が強制的に駆り出されたのである。

写真(右)1944年7月初め、ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン、ノルトハウゼン北方のコーンシュタインの岩山の内部に建設されたトンネル式地下工場。そこでは、ドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人が、V1飛行爆弾・V2ロケット弾道弾を組み立てていた。:これらのカラー写真は、ワルター・フランツ(Walter Frentz)が撮影したもので69枚ある。いずれもプロパガンダ目的であるため、捕虜やユダヤ人たちの悲惨な実態を反映しているものではない。
Item ID 5084237 Title Dora-Mittelbau, Germany, A prisoner (probably a Kapo) and German technicians attaching the V-2 missile's flight control systems to the missile's head, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/15 Photographer PK Walter Frentz(1907ー2004)
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/15 "から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット>弾道弾の組み立て地下工場でV2ロケット頭部の慣性飛行管理システムを装着する、ドイツ人技術者とドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人労働者
Item ID 5084238 Title Dora-Mittelbau, Germany, A prisoner (probably a kapo) and German technicians attaching the V-2 missile's flight control systems to the missile's head, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items Archival Signature 7919/16
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections"7919/16"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ドーラ=ミッテルバウ強制収容所に併設されたトンネル地下工場でV2ロケット弾道弾にサーキットパネル(操作盤)を取り付ける二人の囚人と一人のドイツ人技術者。
Item ID 5084228 Title Dora-Mittelbau, Germany, Two prisoners (the one on the right is probably Jewish) putting together a circuit panel of a V2 missile with a German technician, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/6 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature:7919/6"から引用。


 ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のノルドハウゼン北方5kmのコーンシュタインKohnstein)の岩山にトンネルをくりぬいて、V1飛行爆弾・V2ロケット弾道弾を組み立てる地下工場が建設された。ここで地下工場の建設に投入されたのは、ブーヘンワルト強制収容所(KZ Buchenwald)のユダヤ人や捕虜たちだった。また、地下工場には、新たにドーラ=ミッテルバウ強制収容所が併設され、そこの囚人たちが労働者として死ぬまで働かされた。

1943年に、ブーヘンワルト強制収容所の囚人を使って、V1巡航ミサイル・V2ロケット弾道ミサイルを組み立てるトンネル式地下工場が建設された。この地下工場は1943年の年内に46本の平行に伸びたトンネル状の空間が採掘されトンネルB地下式工場として完成した。

  写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ドーラ=ミッテルバウ強制収容所に併設されたトンネル地下工場でVー2ロケット弾道弾の点検作業を行うドイツ人技術者
Item ID 5084602 Title Dora-Mittelbau, Germany, A German technician with an inspection equipment for Vー2 missiles in the subterranean factory, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/25 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature:7919/25"から引用。


1943年8月、ドイツ中央部のチューリンゲン大党管区(ナチ党の執政官ガウ・ライター指導下の行政区)のノルドハウゼン北方5km、ドーラ強制収容所支所が開設されたが、ここの囚人はブーヘンワル強制収容所から移送されてきた囚人だったために、当初はブーヘンワル強制収容所第17/3ブロック呼称された。ナチスは、ドーラ強制収容所支所の囚人を酷使して、岩山コーンシュタインKohnstein)の山腹にトンネルを掘り、そこに地下軍需工場を建設した。

 コーンシュタインKohnstein)に掘られたトンネルは幅12.5メートル、長さ1.8キロメートルで、23本の連絡トンネルで結ばれた。トンネル内部には列車の線路が敷設され、工作機械が並べられた。当時、西側連合軍の四発重爆撃機によるドイツ本土への戦略爆撃が激しくなっており、軍需産業の疎開は急務だった。そこで、引き続き丘の北斜面にトンネルAが建設中だった。1944年夏までには操業を開始し、12時間シフトで1万人の囚人が奴隷労働者として酷使された。

写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼン、V2ロケット弾道ミサイル地下工場でワイヤーを生産するドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人労働者。
Item ID 5084224 Title Dora-Mittelbau, Germany, Prisoners producing wiring for the Vー2 missiles, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items Archival Signature 7919/2 Photographer PK Walter Frentz (21 August 1907-6 July 2004)
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/2"から引用。


ヒトラーに軍需大臣に抜擢されたアルベルト・シュペールBerthold Albert Speer:1905-1981)は,回顧録によれば,ヒトラー暗殺後に樹立される予定の新政権でも軍需相を務めることが予定されていた。しかし,反乱計画書で,軍需相の就任にシュペール(?)と疑問符がつけられていたために,反乱の嫌疑を受けなくて済んだという。戦争中にヒトラーに反対していたと主張するシュペールは、ヒトラー自殺直前まで、権力を握り続けたが、戦後のニュルンベルク戦犯裁判ではこの奴隷労働の積極的導入のかどで有罪となった。

 戦犯として刑務所で過ごすこととなったアルベルト・シュペールBerthold Albert Speer)はV2ロケットよりも,迎撃戦闘機,ジェット戦闘機の開発・量産に力点を置くべきだった回顧しているが,これは,軍需大臣として労働者を積極的に投入したために、V1飛行爆弾やV2ロケット弾道弾の生産を率先して進めた先進性、才能を自画自賛できないというジレンマから発せられた反省である。

 ヒトラーに気に入られて、ドイツの建築の大御所とアルベルト・シュペールは、戦時中、ユダヤ人から没収した所領を得て大邸宅に暮らし、ベルリンのユダヤ人を排除して都市計画を進めた。しかし、ヒトラーの友人にして側近だったが、戦後までユダヤ人虐殺があったことは知らなかったと主張したのには理解に苦しむ。

写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット弾道弾のトンネル地下工場第31番ホールで外板組み立てのケーシング作業をするドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人たち
Item ID 5084231 Title Dora-Mittelbau, Germany, Political prisoners producing a casing for a Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944
With camera and pencil, artists documented Dora and presented the perspective of the regime and its victims. Some artists left powerful visual evidence of the ambition and efficiency of the hightech V2 program and the efforts to sanitize its brutality.Others recorded the intense suffering and death of the prison laborers.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature:7919/9"から引用。


 1943年8月に、ドイツ中央のチューリンゲン大党管区(ナチ党の執政官ガウ・ライター指導下の行政区)、ノルドハウゼン北方5km、ドーラ強制収容所支所が開設され、そこの囚人を扱き使いコーンシュタインの岩山にトンネルを掘らせ、、秘密兵器V1・V2を組み立てる地下工場が設けられた。トンネル式地下工場は、1944年初頭には稼働しており、1944年9月末,ドーラ強制収容所(ブーケンワルト強制収容所第17/3ブロック)はブーヘンワル強制収容所から分離され、中央強制収容所(Konzentrationslager Mittelbau :Concentration Camp Central Construction)、すなわちドーラ=ミッテルバウ強制収容所(KZ-Dora-Mittelbau)に格上げされた。

 V1飛行爆弾やV2ロケット弾道弾など最新の秘密兵器を製造する地下工場には、ドーラ=ミッテルバウ強制収容所が併設され、そこの囚人が奴隷のように強制労働を強いられた。1944年11月1日現在、ドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人は3万2471名あった。

 ドイツ人技術者・経営者は、軍需大臣アルベルト・シュペールの指導で、各国の捕虜、ユダヤ人からなる囚人を奴隷労働者として苦役し、ドイツの最先端技術を体化したV1巡航ミサイル、V2ロケット弾道ミサイルを大量生産した。ドイツの科学技術は ユダヤ人,捕虜など強制収容所の奴隷労働を犠牲なしには開発できなかったし、それを体化した最新兵器の量産も奴隷労働なしには不可能だった。

写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)ノルトハウゼン北方5kmのコーンシュタインの岩山にトンネルをくりぬいて建設されたV2ロケット弾道弾組み立て工場第31番ホール。ここでドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人労働者が外板を鋲で留める作業させられている。
Item ID 5084230 Title Dora-Mittelbau, Germany, Political prisoners (the left one is from France) producing a casing for a V2 missiles in hall no. 31, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/8 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/8"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンの地下工場第31番ホールでV2ロケットの外板(外側覆い)を鋲で留める作業させられているドーラ=ミッテルバウDora Mittelbau 強制収容所の囚人労働者。
Item ID 5084225 Title V-2 missiles in hall no. 31, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/3 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature 7919/3"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンの地下工場第31番ホールでV2ロケットの外板(外側覆い)を鋲で留める作業させられているドーラ=ミッテルバウDora Mittelbau 強制収容所の囚人。
Item ID 5084226 Title Dora-Mittelbau, Germany, Political prisoners producing casings for the Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/4 "から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼン地下工場第31番ホールでV2ロケットの外板(外側覆い)を鋲で留める作業させられているドーラ=ミッテルバウDora Mittelbau 強制収容所の囚人労働者。
Item ID 5084232 Title Dora-Mittelbau, Germany, Prisoners nailing the casing of a Vー2 missile in hall no. 31, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items Archival Signature 7919/10 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/10"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット弾道弾の組み立て用地下工場でサーキットパネルの組み立てをさせられている、ドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人たち。右端はフランス人の囚人。
Item ID 5084227 Title Dora-Mittelbau, Germany, Political prisoners (the one on the right is French) putting together circuit panels forV-2 missiles, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items Archival Signature 7919/5 Name of submitter Ullstein Bild Source Ullstein Bild Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944.
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/5 "から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のノルドハウゼン北方5kmのコーンシュタインの岩山にトンネルをくりぬいて建設されたV1飛行爆弾・V2ロケット弾道弾を組み立てる地下工場。ここで奴隷労働者として働かされるのは、併設されたドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人たちだった。
ノルトハウゼンに運ばれてきたV2ロケットの部品をドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人(捕虜やユダヤ人)を奴隷労働者として酷使して組み立てた。しかし、写真は高度な技術、効率的な経営、適切な勤労条件を誇示するプロパガンダを目的と、実際の捕虜やユダヤ人たちの過酷な労働や劣悪な居住環境は描かれていない。
Item ID 5084236 Title Dora-Mittelbau, Germany, A prisoner and German technicians attaching the Vー2 missile's flight control systems to the missile's head, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items Archival Signature 7919/14 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944
With camera and pencil, artists documented Dora and presented the perspective of the regime and its victims. Some artists left powerful visual evidence of the ambition and efficiency of the hightech V2 program and the efforts to sanitize its brutality.Others recorded the intense suffering and death of the prison laborers.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature:7919/14"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット弾道弾の地下工場で弾頭に慣性誘導装置を装着するドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人・ユダヤ人たち。
Item ID 5084229 Title Dora-Mittelbau, Germany, Prisoners, probably Jewish, putting together a missile head with a flight control system of a V-2 missiles, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/7 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944
With camera and pencil, artists documented Dora and presented the perspective of the regime and its victims. Some artists left powerful visual evidence of the ambition and efficiency of the high?tech 2 program and the efforts to sanitize its brutality.Others recorded the intense suffering and death of the prison laborers.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature:7919/7"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット弾道弾の組み立て地下工場トンネルBに並んだ燃料タンク:エタノール75%、水25%の混合し、成層圏で燃焼させるために、液体酸素も注入する。野外では運搬してきた燃料タンクを偽装網をかけて保管している。
Item ID 5084604 Title Dora-Mittelbau, Germany, Prisoners working on Vー2missiles' bodies with fuel tanks on the assembly line in tunnel B, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/27 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/27"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、トンネル地下工場の組み立てラインのV2弾道ミサイル。弾頭は、まだ取り付けらていない。
Item 5084603 Title Dora-Mittelbau, Germany, A V-2 missile leaving the assembly line in the subterranean factory, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/26 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature:7919/26"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、トンネル地下工場でV2ロケット弾道弾尾翼近くでエンジンシステムを整備するドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人。
Item ID 5084605 Title Dora-Mittelbau, Germany, A prisoner and a German technician attaching a tail apparatus to the engine system and the body of the V-2 missile, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/28 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature:7919/28"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット弾道弾の組み立て工場トンネルBに並んだ燃料タンク:成層圏で燃焼させるために、エタノール75%、水25%の混合し、液体酸素も注入する。野外にも運搬されてきた燃料タンクが偽装網をかけて保管されている。
Item ID 5084241 Title Dora-Mittelbau, Germany, Prisoners working on the V-2 missiles' body apparatuses with their fuel tanks on the production line in tunnel B, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items Archival Signature 7919/19 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/19"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット弾道弾の地下工場で組み立てられるロケットエンジン。組み立てには、ドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人たちが苦役させられた。
Item ID 5084243 Title Dora-Mittelbau, Germany, Engines of V-2 missiles, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. Archival Signature 7919/21 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944
With camera and pencil, artists documented Dora and presented the perspective of the regime and its victims. Some artists left powerful visual evidence of the ambition and efficiency of the hightech V2 program and the efforts to sanitize its brutality.Others recorded the intense suffering and death of the prison laborers.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature:7919/21"から引用。


ロケットの燃料はエタノール液体酸素(Liquid OXygen:LOX)だった。エタノール(Ethanol)は、揮発性の高いアルコール類だが、常温保管できた。また、既に航空機エンジンの燃料噴射用に使用されていた。しかし、液体酸素(Liquid OXygen:LOX)は低温保存の必要上、A4ロケット本体に搭載するのは、発射4-6時間前に限られた上に、保管施設、注入設備が必要だった。

V2ロケットは、全長14m、発射重量12.5トンで、弾頭は爆弾1トン弱だが、搭載していたエタノール・水の混合燃料3.8トン、酸化剤の液体酸素(Liquid OXygen)4.9トンも搭載している。打ち上げ発射からエンジン作動停止まで、65秒程度であるから、1秒当たり140キログラムの燃料・酸化剤を消費する。

V2ロケットの発射は、ターボポンプにより、エタノール・水の混合燃料および酸化剤の液体酸素(Liquid OXygen)を燃焼室に送り込み、電気発火で点火する。燃焼が開始され、V2ロケットは垂直に上昇し、しばらくして傾きながら、標的(目標)方向に飛行する。ロケット噴射口のすぐ外側に取り付けられた4枚の方向舵で方向操作しながら、最下部にある4枚の尾翼を安定板として高速上昇する。

写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット弾道弾の組み立て用地下工場で、ドイツ人技術者の監督の下、機体下部にロケットエンジンを装着している、ドーラ=ミッテルバウ強制収容所の囚人労働者。
Item ID 5084234 Title Dora-Mittelbau, Germany, Prisoners attaching the completed tail apparatus to the engine set and to the body of a V-2 missile, under supervision of German technicians, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items Archival Signature 7919/12 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/12"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼン地下工場でのV2ロケット弾道弾を組み立て。ドーラ=ミッテルバウ強制収容所の労働者が、ドイツ人技術者の監督の下、機体下部にロケットエンジンを装着している。
Item ID 5084235 Title Dora-Mittelbau, Germany, Political prisoners attaching the Vー2missile's engine to the missile's body, under supervision of a German technician, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items Archival Signature 7919/13 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/13"から引用。


写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区ノルトハウゼンV2ロケット弾道弾組み立て地下工場で尾翼部分を組み立てる、ドイツ人技術者とドーラ=ミッテルバウ強制収容所(Dora Mittelbau camp)の囚人労働者。ノルトハウゼンに運ばれてきたV2ロケットの部品をドーラ=ミッテルバウ強制収容所(KZ-Dora-Mittelbau)の囚人(捕虜やユダヤ人)や外国人労働者を酷使して組み立てた。しかし、写真は高度な技術、効率的な経営、適切な勤労条件を誇示するプロパガンダを目的としているために、実際の捕虜やユダヤ人たちの過酷な労働や劣悪な居住環境は描かれていない。
Item ID 5084233
Title Dora-Mittelbau, Germany, Prisoners putting together the completed tail apparatus for a V-2 missiles, July 1944.
Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items
Archival Signature 7919/11
Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" Archival Signature 7919/27"から引用。


チューリンゲン大党管区(Gau)ノルトハウゼン、ドーラ=ミッテンバウ強制収容所(KZ-Gedenkstätte-Dora-Mittelbau)を,アメリカ第104歩兵師団が,1945年4月12日に解放したとき,囚人・奴隷労働者3000名の死体が発見された。劣悪な労働環境,飢餓,殴打,病気、処刑などによって,1万から1万5千名が死亡した。

写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット弾道弾の組み立て地下工場第41番ホールで最終工程に入り、点検作業を受けるV2ロケット弾道ミサイル。連合軍航空機によって発見されにくいように、対空偽装用の迷彩塗装が施されている。ドイツ人技術者とドーラ=ミッテルバウ強制収容所(Dora Mittelbau camp)の囚人労働者>が、クレーンでV2を移動している。
Item ID 5084239
Title Dora-Mittelbau, Germany, Prisoners moving a completed Vー2 missile, which is being taken with a crane to a finite inspection in hall no. 41, July 1944.
Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany.
Archival Signature 7919/17
Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" 7919/17"から引用。


ドーラ=ミッテンバウ強制収容所(KZ-Gedenkstätte-Dora-Mittelbau)に勤務していた親衛隊の看守1972名が起訴された。他方,ドーラ=ミッテンバウ強制収容所の奴隷労働者に指示を与え、劣悪な条件下で作業を強要したドイツ人科学者,技術者1,500名は、アメリカ軍のペーパー・クリップ計画によって、アメリカへの協力を条件に、戦争裁判で裁かれずに済んだ。それどころか、食糧不足でこまっていたドイツ一般市民とは格段に良い待遇で、アメリカ人の保護のもとに置かれ、アメリカにわたって研究に従事できた。

写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、ノルトハウゼンの地下工場第41番ホールで、最終点検作業を受けるV2ロケット弾道ミサイル。これから、ドイツ国防軍に引き渡される。
Item ID 5084244 Title Dora-Mittelbau, Germany, The huge hall 41, where the final inspections of Vー2 missiles before they were transferred to the Wehrmacht, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany.
Archival Signature 7919/22
Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
写真はYad VashemDigital Collections" 7919/22"から引用。


ロケット弾道ミサイルV-2の諸元 
重量:12.5トン (28,000 ポンド) 全長:14 メートル(45 ft 11)
翼幅:3.56メートル (11 ft 8 in)
弾体直径:1.65メートル (5 ft 5 in)
弾頭:980 キログラム (2,200 ポンド):アマトール火薬
推進薬:エチルアルコールC2H5OH:)75 % 水25%の混合燃料3,810キログラム、液体酸素4,910キログラム
飛行距離:320キロメートル(200 マイル)
誘導方式:慣性航法 Inertial Navigation System)によって、ジャイロと加速度計で機体の加速度を感知し、それ積分して速度、2回積分して距離を出して位置情報を算出する。外部との通信を必要としないため、長距離を航行するミサイルや航空機が採用する。しかし、相対的な位置情報しか算出できないため、出発前に現在位置の情報を正確に算定する必要がある。

写真(右)1944年7月初め,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのV2ロケット弾道弾の地下工場のドリルを使ったトンネル工事・穴掘り作業。手前の人物は、ドイツ人技術者。
Item ID 5084245 Title Dora-Mittelbau, Germany, Prisoners digging a tunnel under supervision of a German engineer, July 1944. Related Collection Sixty nine photographs, describing the work and the production in the missile factory in Dora Mittelbau camp, Germany. similar items Archival Signature 7919/23 Photographer PK Walter Frentz
Places Dora Mittelbau,Camp,Germany
Credit Ullstein Bilderdienst similar items
Creation date 07/1944
With camera and pencil, artists documented Dora and presented the perspective of the regime and its victims. Some artists left powerful visual evidence of the ambition and efficiency of the high?tech 2 program and the efforts to sanitize its brutality.Others recorded the intense suffering and death of the prison laborers.
写真はYad VashemDigital Collections"Archival Signature:7919/23"から引用。



5.1945年、アメリカ軍が解放したノルトハウゼンV2ロケット地下工場

写真(右)1945年,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼン近郊ニーダーサクスヴェルフェンのコーンシュタイン(岩山の丘)に作られたV1飛行爆弾(巡航ミサイル)とV2ロケット弾道弾のトンネル式地下生産工場:ドーラ・ミッテルバウ強制収容所Dora-Mittelbau Sub-campsに隣接して設置され、強制収容所の囚人を奴隷労働者として酷使した。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1992-068-16A Original title: info G8501 A 219 Archive title: Kohnstein bei Niedersachswerfen.- Fabrikationsanlage für die Produktion von Marsch-flugkörpern "V 1" und Raketen "A 4 / V 2" nach Einnahme durch die Alliierten, Ansicht des Felsens (Berges), in dem sich der Tunnel befindet, (von außen) Dating: 1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 146-1992-068-24A, Niedersachswerfen, Produktion von V1 - V2.jpg"引用。


写真(右)1945年4月10日,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼン、ドーラ・ミッテルバウ強制収容所Dora-Mittelbau Sub-campsに隣接する工場敷地に保管されていたV2ロケット弾道弾の燃料タンク。:地下工場で完成品とするために、列車で運ばれてきたようだ。
View of the entrance to the V-2 factory and fuel tanks in the Nordhausen concentration camp following liberation.br>Record Type:Record Type:Photograph Photograph #:82085
Caption:View of the entrance to the V-2 factory and fuel tanks in the Nordhausen concentration camp following liberation.
Biography:Major Henry P. Limbacher graduated from Ohio State Medical School. A trained surgeon, he headed the M.A.S.H. unit of Patton's Third Army. Following the liberation of Nordhausen, he headed the medical unit at the camp caring for survivors.
Date:1945 April 10 Locale:Nordhausen, [Thuringia] Germany Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau Sub-camps -- Nordhausen -- LIBERATION -- Views
Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Dr. Henry P. Limbacher, Estate of Second Provenance: Darrell W. Pepper Source Record ID: Collections: 2015.414.1 Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Dr. Henry P. Limbacher, Estate of .
写真はUSHMMから引用。


写真(右)1945年4月10日,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所に隣接したV1飛行爆弾(巡航ミサイル)とVー2ロケット弾道弾の地下生産工場のトンネル入り口。:手前左に、ドーラ・ミッテルバウ収容所(KZ-Gedenkstätte-Dora-Mittelbau)を解放した赤十字社の赤十字旗が映っている。地下工場は、鉄道で交通が確保されていて、引き込み線で工場内部にまで、部品・半完成品を運搬することができた。
The Red Cross flag hangs outside the entrance to the V2 factory in Nordhausen following liberation.
Record Type:Record Type:Photograph Photograph #:82084
Caption:The Red Cross flag hangs outside the entrance to the V2 factory in Nordhausen following liberation. Biography:Major Henry P. Limbacher graduated from Ohio State Medical School. A trained surgeon, he headed the M.A.S.H. unit of Patton's Third Army. Following the liberation of Nordhausen, he headed the medical unit at the camp caring for survivors.
Date:1945 April 10 Locale:Nordhausen, [Thuringia] Germany Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau Sub-camps -- Nordhausen -- LIBERATION -- Views Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Dr. Henry P. Limbacher, Estate of Second Provenance: Darrell W. Pepper Source Record ID: Collections: 2015.414.1.
写真はUSHMMから引用。


写真(右)1945年4月10日-5月,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所Dora-Mittelbau Sub-campsに隣接するV1飛行爆弾(巡航ミサイル)とV2ロケット弾道弾の地下生産工場のトンネル入り口。:地下工場内部に続く鉄道によって、部品が構内に搬入され、組み立てが終わる搬出された。
Tunnel entrance #2 to the underground rocket factory at Dora-Mittelbau. There were three tunnels into the mountain, which were heavily camouflaged during the war..
Record Type:Record Type:Photograph Photograph #:01276
Caption:Tunnel entrance #2 to the underground rocket factory at Dora-Mittelbau. There were three tunnels into the mountain, which were heavily camouflaged during the war. Date:1945 April 11 - May 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany
Photographer:James Baker Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- V2 Rocket Factory Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: James Baker Source Record ID: Collections: 1992.81.
写真はUSHMMから引用。


写真(右)1945年4月15日,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所で解放された奴隷労働者。岩山の丘に作られたV1飛行爆弾とV2ロケット弾道弾のトンネル式地下生産工場で酷使されていた。
Liberation of Nordhausen; Red Cross; V2 rocketsca.
Record Type:Film Story:2696 Film ID:962 Film Title:Duben-Dachau-Brenner -- Lt. Col. George C. Stevens Event Date:1945 April 15 Genre:Unedited
Copyright:Restrictions on Use. George Stevens Jr.
Description:Shot of stretchers containing emaciated corpses, name "Orlich" and number written on body. Stevens and Moffat talking through window to inmate in striped coat. Inmates in striped coats talking to Stevens and others. Panning shot of camp buildings - Dora in Nordhausen. Bare trees in BG. VS of camp. Small sign reads: "Holzverwertung." Inmate in striped uniform with red cross walks past sign. CU of ambulances and Red Cross tent. Series of Red Cross tents at side of an airfield by ambulances (LoC cataloger's handwritten annotations indicate that this footage is not from Nordhausen, but from another site, and that the prisoner is a French POW). LS, pan of what seems to be a concentration camp in the distance. Shot of unidentified troops in truck, intercut with shots of the camera crew (notes indicate that footage is of Nordhausen again). Shot of jeeps coming from under some kind of camouflage that was built into the side of a mountain. Front jeep has two stars on it. Officers in battle jackets dismount. Two-star general gets in jeep, drives off. General and men have red shoulder patches with white insignia. More shots of camp. Inmate dusting off blanket. GIs, cameramen filming. Corpses covered with blankets on stretchers, pan of concentration camp, MP in FG. Inmates sitting outside of cell block in sun. CU, emaciated inmates in civilian clothes and some striped uniforms. Inmate leaving camp. Olive drab military sedan in FG, stretcher bearers carrying victims past "Holzverwertung" sign. Loaves of bread being carried on stretcher. Elderly bandaged inmate carrying bucket. Sign reads: "Gefahren Zone!" with skull and crossbones. Large metal containers which appear to be connected to gas chambers. Large tubular objects with screens at one end, possibly gas canisters. Pile of tubular objects in CU. Possibly rockets.
写真はUSHMMのushmm.orgSteven Spielberg Film and Video Archiveから"https://collections.ushmm.org/search/catalog/irn1002260"引用。


写真(右)1945年4月,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所で発見された列車の貨車に積載されたV2ロケット弾道弾の半完成品。ロケットは、この近くのトンネル式地下生産工場で強制収容所の囚人を奴隷労働者として酷使して製造された。
View of the V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau..
Record Type:Photograph
Photograph #:21330 Caption:View of the V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau. Date:Circa April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany
Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- V-2 Rocket Factory
Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Frank W. Towers Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Frank W. Towers
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


第二次大戦後、アメリカ合衆国もソ連Vー2弾道ミサイルを入手し、これをベースにして多段式ロケットを製造し、それを発展させて大陸間弾道ミサイル(ICBM:Intercontinental Ballistic Missile)あるいは人工衛星打上げロケットを開発した。

技術面のみが注目された形で、ロケット弾道ミサイルの製造には、ドーラ=ミッテルバウ強制収容所(KZ-Gedenkstätte-Dora-Mittelbau)などの囚人(捕虜やユダヤ人)の人権を無視して奴隷労働者とし多数の労働者が犠牲になったことは忘れ去られている。

写真(右)1945年4月,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所で発見された列車の貨車に積載されたV2ロケット弾道弾の半完成品。ロケットは、この近くのトンネル式地下生産工場で強制収容所の囚人を労働者として酷使して製造された。
View of the V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau..
Record Type:Photograph Photograph #:21333 Caption:View of a V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau. Date:Circa April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany
Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- V2 Rocket Factory
Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Frank W. Towers Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Frank W. Towers
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年4月,ドイツ中部、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所で発見された列車の貨車に積載されたV2ロケット弾道弾の半完成品。ロケットは、この近くのトンネル式地下生産工場で強制収容所の囚人を労働者として酷使して製造された。
View of the V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau..
Record Type:Photograph Photograph #:21333 Caption:View of a V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau.
Record Type:Photograph Photograph #:21334 Caption:View of the Vー2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau.
Date:Circa April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- V2 Rocket Factory Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Frank W. Towers Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Frank W. Towers
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年4月,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容で発見された列車の貨車に積載されたV2ロケット弾道弾の半完成品。ロケットは、この近くのトンネル式地下生産工場で強制収容所の囚人を労働者として酷使して製造された。
View of the V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau..
Record Type:Photograph Photograph #:21333 Caption:View of a V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau.
Record Type:Photograph
Photograph #:21335 Caption:View of the V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau.
Date:Circa April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- V2 Rocket Factory
Keyword:CONCENTRATION CAMPS DORA-MITTELBAU ROCKETS (V1-V2) Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Frank W. Towers Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Frank W. Towers
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年4月,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所Dora-Mittelbau Sub-campsで発見された、列車貨車に積載されたV2ロケット弾道弾の半完成品。ロケットは、この近くのトンネル式地下生産工場で強制収容所の囚人を労働者として酷使して製造された。
View of the V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau..
Record Type:Photograph Photograph #:21333 Caption:View of a V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau.
Date:Circa April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- V2 Rocket Factory Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Frank W. Towers Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Frank W. Towers
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年4月12日,ドイツ中部、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所近く、対空偽装を施されたVー2ロケット弾道弾の半完成品。ロケットは、この近くのトンネル式地下生産工場で強制収容所の囚人を労働者として酷使して製造された。
View of the V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau..
Record Type:Photograph Photograph #:21333 Caption:View of a V2 missile manufactured with the use of slave labor at Dora-Mittelbau.
Record Type:Photograph Photograph #:66285
Caption:The camoflaged entrance to the underground rocket factory at Dora-Mittelbau.
Date:1945 April 12 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photographer:John R. Driza Photo Source:National Archives and Records Administration, College Park Copyright: Public Domain Source Record ID: 111-SC-282447 Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of National Archives and Records Administration, College Park
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年4月10日,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所Dora-Mittelbau Sub-camps、列車の貨車近くに集積されたV2ロケット弾道弾の燃料タンク。偽装されているのを、解放されたフランス人捕虜がアメリカ兵に指示している。
Original caption: "A liberated French slave worker, in striped suit, shows an American soldier the rows of camouflaged fuel tanks for V-2 rockets. A tunnel entrance to the underground factory can be seen in the center background. Work on the tunnels, beneath the foothills of the Harz Mountains, was begun nearly six years ago and production of Vー2s began September 3, 1943.
Record Type:Photograph Photograph #:51037
Caption:Original caption: "A liberated French slave worker, in striped suit, shows an American soldier the rows of camouflaged fuel tanks for V-2 rockets. A tunnel entrance to the underground factory can be seen in the center background. Work on the tunnels, beneath the foothills of the Harz Mountains, was begun nearly six years ago and production of Vー2s began September 3, 1943.
Nazi weapons of death made by dying slaves is the grim story of Nordhausen, Reich center for V-bomb production which was captured by troops of the First U.S. Army April 10, 1945. Hundreds of dead and dying lay in the same beds in a nearby slave camp where, according to the liberated, 9,000 lost thier lives in 1944. The American officer in charge immediately ordered the leading citizens of Nordhausen to bury the rotting and skeleton-like dead, choosing a burial site on a hillside overlooking the V-bomb factory where the slave workers had been slowly murdered. The factory, assembly plant for V-1 and V-2 weapons, was a series of deep underground tunnels. Three main tunnels were connected with 42 smaller ones. Until May, 1944, workers were never allowed outside. When the slaves, who labored in 18 hour shifts, became too weak to work, they were loaded into box cars never seen again."
Date:1945 April 10 Locale:Nordhausen, [Thuringia] Germany Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau Sub-camps -- Nordhausen -- LIBERATION -- Inspection/Investigation Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum。 Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Joseph Eaton Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Joseph Eaton
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年4月,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼン、列車の貨車に積載されたV2ロケット弾道弾の半完成品。ロケットは、この近くのトンネル式地下生産工場で強制収容所の囚人を労働者として酷使して製造された。:アメリカ軍が強制収容所を解放したときに、V2ロケットの半完成品、部品、それを生産する地下工場を発見した。しかし、UAHMMは、Date:1945 July 28として、戦後しばらくしてから、アメリカ軍が押収したV2ロケットを運搬した時の撮影したかのような記述をしている。実際は、下の写真と同一のV2を別の上からの視点で撮影したもの。
An American soldier inspects a V-1 or V-II discovered on a train tracks in Dora Mittelbau following liberation.
Record Type:Photograph Photograph #:54668
Caption:An American soldier inspects a V-1 or V-II discovered on a train tracks in Dora Mittelbau following liberation.
Biography:William Bostwick Curtis, III, was in the OSS, the forerunner of the CIA, during the Second World War. He had been a spy behind enemy lines earlier in the war and his specialty was ordinance. Bill was the official army photographer as the first wave of US Army entered Nordhausen and, earlier, possibly Buchenwald. His rank was 1st Lieutenant at that time, but he remained in the army and eventually retired as a full colonel. He was ordered to hand over all photographs and negatives but obviously did not comply. Bill never discussed his experiences during the Second World War, but he was haunted the rest of his life by them.
Date:1945 July 28 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photographer:William B. Curtis Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- V2 Rocket Factory Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Diane Kathryn Lavett Source Record ID: Collections: 2010.186.1
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年4月,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼン、列車の貨車に積載されたV2ロケット弾道弾の半完成品。ロケット弾道弾は、この近くのトンネル式地下生産工場でドーラ=ミッテルバウDora Mittelbau強制収容所の囚人を奴隷労働者として酷使して製造された。上の写真と同一のV2を接近して撮影したもの。
Close-up view of a rocket produced in the Dora Mittelbau concentration camp.
Record Type:Photograph Photograph #:54667 Caption:Close-up view of a rocket produced in the Dora Mittelbau concentration camp.
Biography:William Bostwick Curtis, III, was in the OSS, the forerunner of the CIA, during the Second World War. He had been a spy behind enemy lines earlier in the war and his specialty was ordinance. Bill was the official army photographer as the first wave of US Army entered Nordhausen and, earlier, possibly Buchenwald. His rank was 1st Lieutenant at that time, but he remained in the army and eventually retired as a full colonel. He was ordered to hand over all photographs and negatives but obviously did not comply. Bill never discussed his experiences during the Second World War, but he was haunted the rest of his life by them.
Date:April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photographer:William B. Curtis Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Diane Kathryn Lavett Source Record ID: Collections: 2010.186.1
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年4月12日,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼンのドーラ・ミッテルバウ強制収容所Dora-Mittelbau Sub-campsのV2ロケット弾道弾の地下工場内部。トンネル式地下生産工場でドーラ強制収容所の囚人が奴隷労働者として酷使されこのV2ロケットを製造した。
Interior view of the rocket factory at Dora-Mittelbau.
Record Type:Photograph Photograph #:62980 Caption:Interior view of the rocket factory at Dora-Mittelbau. The original caption reads: "Front of V2 less steel nose. V2 is approx. 50 ft. long. Carries 1 ton of T.N.T. Note train tracks in tunnel. Regular size trains run thru this tunnel. They also have living quarters in here." Biography:George Leisz, a soldier with Company C of the 47th Armored Infantry Battalion discovered these photographs while serving in World War II and brought them back to the United States. George Leisz was the uncle of the donor, Kevin Wick. Date:March 1945 - April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- V2 Rocket Factory Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Kevin Wick Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Kevin Wick 写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年3-4月,ドイツ中部ナチ党大管区チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、ノルトハウゼン北のドーラ・ミッテルバウ強制収容所に併設された、コーンシュタイン(岩山)に掘られたV1飛行爆弾の地下工場内部。トンネル式工場でドーラ強制収容所の囚人が労働者とて酷使され、V1巡航ミサイルを製造した。
Interior view of the rocket factory at Dora-Mittelbau.
Record Type:Photograph Photograph #:62982 Caption:Interior view of the rocket factory at Dora-Mittelbau. The original caption reads: "A V-1 complete. Have seen too many of these coming from France on. They are highly over rated by the Germans. Burt very effective in cities. They carry from 500 up in explosive. Capacity of Assembly Line is 175 in 12 hrs. 2 shifts working." Biography:George Leisz, a soldier with Company C of the 47th Armored Infantry Battalion discovered these photographs while serving in World War II and brought them back to the United States. George Leisz was the uncle of the donor, Kevin Wick. Date:March 1945 - April 1945 Locale:Dora-Mittelbau, Germany Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- V2 Rocket Factory Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: Kevin Wick Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Kevin Wick 写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区ノルトハウゼン近郊ニーダーサクスヴェルフェンのコーンシュタイン(巨大な岩の丘)に作られたV1飛行爆弾(巡航ミサイル)ロケット弾道弾のトンネル式地下生産工場:V2ロケットの本体。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1992-068-16A Original title: info G8501 A 219 Archive title: Kohnstein bei Niedersachswerfen.- Fabrikationsanlage für die Produktion von Marsch-flugkörpern "V 1" und Raketen "A 4 / V 2 nach Einnahme durch die Alliierten, Flugkörper-Rümpfe im Tunnel Dating: 1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 146-1992-068-19A, Niedersachswerfen, Produktion von V1 - V2.jpg"引用。


<ノルトハウゼン(Nordhausen)強制収容所:ドーラ=ミッテンバウ(Dora-Mittelbau)収容所>

ナチ党大管区(Gau)チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)のノルトハウゼン(Nordhausen)強制収容所は,1943年ブーヘンヴァルト強制収容所の支所としてチューリンゲン州に設置された。戦後の米陸軍戦争犯罪記録によれば, 1943年夏から1945年<4月までに7万5千から8万名の奴隷労働者を,1日12時時間シフト,休日なしに酷使していた。そして,1944年1月から翌年4月までに,最新秘密兵器であるV2ロケット(ミサイル)6千発も製造した。

ドーラ=ミッテンバウ(Dora-Mittelbau)収容所を,米第104歩兵師団が,1945年4月12日に解放したとき,囚人・奴隷/労働者3000名の死体が発見された。劣悪な生活条件,飢餓,殴打,処刑などによって,1万から1万5千名が死亡したとされる。

ドーラ=ミッテンバウ(Dora-Mittelbau)収容所長クルツ・アンドリー以下,1972名が起訴されたが,米軍は1,500名のドイツ人科学者,技術者をペーパー・クリップ計画の下で,アメリカに連れ去った。

写真(右)1942-1945年,バルト海に面したペーネミュンデ陸軍秘密実験基地のV2弾道ミサイル:戦後のアポロ計画に多大な寄与をしたフォン・ブラウン博士など,ドイツの最高技術が活かされている<とされる弾道弾だが,その生産に当たったのは,強制収容所の囚人だった。チューリンゲン州にトンネル式の地下工場が,ノルトハウゼン強制収容所の奴隷労働者によって作られ,彼らがV2生産にも強制的に働かされた。
Archive title: Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände. Arbeiten an der aufgerichteten Rakete vom Eisenbahn-Meillerwagen aus. Dating: 1942/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild-B1936-44引用

月ロケット「アポロ計画」サターン5型の基本設計を担当したヴェルナー・フォン・ブラウン(Wernher von Braun)博士はロケット爆弾(弾道弾)のV2ロケットを完成させたが,これを製造したのは,ノルトハウゼン=ドーラ収容所の奴隷労働者だった。ドイツ最高の軍事科学技術を集めたV2弾道ミサイルは,強制収容所のユダヤ囚人などの奴隷労働者に依存して,生産された。

民間人研究者ヴェルナー・フォン・ブラウン(Wernher von Braun:1912/3/23-1977/6/16,背広姿)は,ベルリン工科大学卒業後,ベルリン大学大学院に進学した。その時,ドイツ陸軍兵器局ワルター・ドルンベルガー大尉の下で,超射程遠距離砲としてロケット研究を行い,物理学博士号を取得した。

写真(右)1942-1945年,バルト海に面したペーネミュンデ陸軍秘密実験基地のV2号ロケット:1944年後半,チューリンゲン州のノルトハウゼン=ドーラ収容所の囚人の奴隷労働によって生産されたロケットが,鉄道によって発射基地に運搬され,イギリス本土,ベルギーの港アントワープなどを目標に発射された。
Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände. V2-Rakete (Aggregat 4) auf Startrampe / Abschussrampe Dating: März 1942/1945 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

その後のV2弾道ミサイル開発は,陸軍の管轄で行われ,ドルンベルガーがロケット指揮官,ヴェルナー・フォン・ブラウンが技術部長<となった。

しかし,ヴェルナー・フォン・ブラウンは,戦時にふさわしくない宇宙旅行について語り,時局をわきまえていない反動分子として,1944年3月,ゲシュタポに逮捕された。しかし,ドルンベルガー、シュペールの尽力で,ヒトラーはV2弾道ミサイルに必要な限り,フォン・ブラウンの身柄を保証するとして,釈放命令を出した。こうして,ヴェルナー・フォン・ブラウンは,奴隷労働力を動員したロケットの開発・生産に寄与し続けた。

V2弾道ミサイル
全長14メートル、直径1.7メートル、全幅 3.5メートル、離陸時質量12.8トン
弾頭1トン、射程距離300キロ
液体酸素・エタノール搭載、切り離しロケットなし、外部誘導装置なし

V2弾道ミサイルを実用化した軍事技術は偉大だが、その生産には、前時代的な奴隷労働が投じられた。また、兵器としても、膨大な資源・資金を投入わりに効果が期待はずれで、失敗した兵器いえるのではないか。

 ベルナー・フォン ブラウン(Wernher von Braun)は,V2の資料を集め,それを持って米第44師団に投降することができた。「宇宙旅行」の夢を実現する有人ロケット開発はすばらしいが,同時に,ユダヤ人など奴隷労働の利用を免責してもらう条件として,ドイツの最高機密ロケットの技術資料を,米軍に譲渡した。

戦時中であれば,秘密兵器の情報提供は,国家機密書類の窃盗・漏洩,国家反逆罪に相当する。が,同時に,米軍もユダヤ人などの奴隷労働に関して,「正義の裁き」よりロケット兵器開発,対ソ封じ込めを優先した。米軍は、V2ロケット情報と生産工具をノルトハウゼン(Nordhausen)に求め,大量のV2の部品鹵獲を優先した。米軍はロケットの情報収集と部品・生産工具の回収に力を注いだようだ。

ナチ党大管区(Gau)チューリンゲン(現在のチューリンゲン州)、のノルトハウゼン(Nordhausen)強制収容所(ドーラ=ミッテンバウ収容所)は,1943年ブーヘンヴァルト強制収容所の支所<として設置された。戦後の米陸軍戦争犯罪記録によれば, 1943年夏から1945年4月までに7万5千から8万名の奴隷労働者を,1日12時時間シフト,休日なしに酷使していた。そして,1944年1月から翌年4月までに,最新秘密兵器であるV2ロケット(ミサイル)6千発も製造した。

写真(右)1942-1945年,バルト海に面したペーネミュンデ陸軍秘密実験基地,ロケット発射場に向かう運搬車に乗せられたV-2弾道ミサイル:1944年に秘密兵器として期待された反面,連合軍による空襲目標とされた。そこで,写真のようにV-2胴体に緑褐色など複数の色で迷彩を施し,尾翼の周囲に迷彩カバーをつけて,連合軍偵察機を欺瞞した。Raketen-versuchsgelände Peenemünde.- V-2 Rakete (Aggregat 4; A4) auf Transportwagen Datierung: 1942/1945 ca. Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_141-1875B引用

ドイツ側の戦局が悪化し,ドイツ本土に撤退が始まる中,ドイツ本土から英本土を直接攻撃できるA9/A10ロケットが考案された。これはV-2弾道ミサイルの射程距離(航続距離)300キロを延長する計画で,A10ロケットと呼ばれた。

A9/A10ロケットは,ロンドンを攻撃できるだけの5000キロ以上の射程距離を実現するために,V-2弾道ミサイルを大型化し,爆弾搭載量も2倍以上の4トンとし,多段切り離しロケットによって,射程の延長を図った。

A-9 / A-10ロケット諸元
全長: 25.8 メートル,直径4.3メートル,尾翼幅:9メートル
全備重量 100トンあるいは85トン
射程:5,000キロ,上昇限度:24 キロ。最高秒速:1.2 キロ
ロケットエンジン: 27.5トン6基あるいは200トン1基

フォン・ブラウンたちの発想は斬新で,多段切り離しロケットは,戦後の宇宙開発に応用されることになる。

 遠距離の目標を攻撃するためにV-1巡航ミサイルは,ハインケルHe-111H爆撃機に搭載され,目標に接近,空中発射されていた。そこでV2弾道ミサイルも,目的地近くにまで運搬して,発射する計画が練られたV2弾道ミサイルを飛行機に搭載するのは不可能だったが,ドイツ潜水艦Uボートに運搬させる計画があった。

V2弾道ミサイルの潜水艦運搬計画はV2弾道ミサイルを搭載した水密式大型コンテナをUボートで曳航し,敵国の沿岸まで近づき,発射する計画である。大型コンテナにV2を格納,潜水艦に曳航されて,発射地点に着くとコンテナに海水を注入して,垂直に立ててV2弾道ミサイルの発射体制を整える。このアイデアは,潜水艦搭載の弾道ミサイルあるいは巡航ミサイルとして,大戦後,実用化された。

写真(右)1944年,オランダ、ハーグの近くワッセナーの森林から発射されたV2弾道ミサイル:連合軍に制空権を奪われているために,V2弾道ミサイル弾道ミサイルの発射基地は,上空から識別できないように,森林地帯に設置された。
ドイツ最高技術が取り入れられた弾道ミサイルの生産は,ドーラ=ミッテンバウ強制収容所の囚人による奴隷労働に依存していた。トンネル式の地下工場も,連合軍の空襲を避けるための措置であるが,この地下工場自体も,ノルトハウゼン強制収容所の奴隷労働者によって作られた。
Holland, Stadtwald von Wassenaar bei Den Haag (?).- V2-Rakete (Aggregat 4; A4) nach dem Start Dating: 1942/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_141-1879引用

V2弾道ミサイル弾道ミサイルの攻撃目標は,当初はロンドンだったが,フランスのドイツ軍V2弾道ミサイルミサイル発射基地が空襲され,地上軍の攻撃範囲にも入ってしまった。そこでV2弾道ミサイル発射基地はドイツ本土に後退し,1944年10月以降は,主な攻撃目標もイギリス本土により近場にあるベルギーの港アントワープAntwerp)に変更された。

ドイツ軍は,ドイツ本土から4,000発以上のV-1巡航ミサイル,1,700発以上のV2弾道ミサイルをアントワープ(Antwerp)に向けて発射した。

1944年9月初頭に連合軍が攻略したベルギーの要港アントワープ(Antwerp)に向けて,ミサイル5700発が発射された。このうち,106発のV-1ミサイル,107発のV-2ミサイルがアントワープ中心街に命中した。そして,周辺地域も含めると628発のV-1ミサイル,570発のV-2ミサイルがアントワープ市内外に着弾した。この期間,アントワープで3,700人以上の市民が死亡,6,000人以上が負傷した。ただし,V-2ミサイルの命中率は30%程度に過ぎなかった。

写真(右)1945年,ドイツ中部、ノルトハウゼン近郊ニーダーサクスヴェルフェンのコーンシュタインに作られたV1飛行爆弾(巡航ミサイル)とV-2弾道弾の地下生産工場:V2ロケットの本体。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1992-068-18A Original title: info G8501 A 219 Archive title: Kohnstein bei Niedersachswerfen.- Fabrikationsanlage für die Produktion von Marsch-flugkörpern " V 1" und Raketen "A 4 / V 2" nach nach Einnahme durch die Alliierten, große Wasserdruckpressen  Dating: 1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 146-1992-068-18A, Niedersachswerfen, Produktion von V1 - V2.jpg"引用。


チューリンゲン・ガウ(Gau)、ドーラ=ミッテンバウ収容所を,米第104歩兵師団が,1945年4月12日に解放したとき,囚人・奴隷労働者3000名の死体が発見された。劣悪な生活条件,飢餓,殴打,処刑などによって,1万から1万5千名が死亡したとされる。

ドーラ=ミッテンバウ強制収容所に勤務していた1972名が起訴されたものの,強制収容所の奴隷労働にも関連していたドイツ人科学者,技術者1,500名は、米軍のペーパー・クリップ計画によって、アメリカへの協力を条件に、戦争裁判で裁かれることなく、アメリカに逃れることができた。

 ヴェルナー・フォン ブラウン(Wernher von Braun)は,V2の資料を集め,それを持って米第44師団に投降することができた。「宇宙旅行」の夢を実現する有人ロケット開発はすばらしい。しかし,ユダヤ人など奴隷労働の利用を免責してもらう条件として,ドイツの最高機密V"の技術資料を,米軍に譲渡した。これは国家機密書類の窃盗,国家反逆罪に相当するが,同時に,米軍もユダヤ人などの奴隷労働に関して,「正義の裁き」よりロケット兵器開発,対ソ封じ込めを優先した。

米軍は、V2ロケット情報と生産工具をノルトハウゼンに求め,大量のV2の部品鹵獲を優先した。米軍は奴隷労働者の救出や強制収容の管理者の処罰よりも,V2ロケット>の情報収集と部品・生産工具の回収に力を注いだ。

写真(右)1945年,ドイツ中部、チューリンゲン州ノルトハウゼン近郊ニーダーサクスヴェルフェンのコーンシュタインに作られたV1飛行爆弾(巡航ミサイル)とV2ロケット弾道弾の地下生産工場:1000ガロンの容量を持つV2ロケットエンジン用の燃料タンク。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1992-068-16A Original title: info G8501 A 219 Archive title: Archive title: Kohnstein bei Niedersachswerfen.- Fabrikationsanlage für die Produktion von Marschflugkörpern "V 1" und Raketen "A 4 / Vー2" nach Einnahme durch die Alliierten, Treibstofftanks, 1.000 Gallonen (GB: N3800 bzw. US 4.500l)] Dating: 1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 146-1992-068-16A, Niedersachswerfen, Produktion von V1 - V2.jpg"引用。


写真(右)1945年,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、ノルトハウゼン北のドーラ・ミッテルバウ強制収容所Dora-Mittelbau Sub-campsに併設された、コーンシュタインの岩山をくりぬいて建設されたV1飛行爆弾(巡航ミサイル)とV2ロケット弾道弾の地下生産工場
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1991-061-17 Original title: info G8501 A 219 Archive title: Archive title: Kohnstein bei Niedersachswerfen.- Fabrikationsanlage für die Produktion von Marschflugkörpern "V 1" und Raketen "A 4 / Vー2" nach Einnahme durch die Alliierten, Leitwerke in der Schweißverrichtung Dating: 1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 146-1991-061-17, Niedersachswerfen, Produktion von V1 - V2.jpg"引用。


写真(右)1945年,ドイツ中部、チューリンゲン州ノルトハウゼン近郊ニーダーサクスヴェルフェンのコーンシュタインに作られたV1飛行爆弾(巡航ミサイル)とVー2ロケット弾道弾の地下生産工場:Vー2ロケットの本体。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: 146-1992-068-19A Original title: info G8501 A 219 Archive title: Kohnstein bei Niedersachswerfen.- Fabrikationsanlage für die Produktion von Marschflugkörpern "V 1" und Raketen "A 4 / Vー2" nach Einnahme durch die Alliierten, Leitwerke in der Schweißverrichtung Dating: 1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 146-1992-068-19A, Niedersachswerfen, Produktion von V1 - V2.jpg"引用。


親衛隊SSは,強制収容所の囚人を奴隷労働者として,軍需企業に一人一日6マルクで貸し出した。<奴隷労働者を使った企業は,ナチス親衛隊(SS)に借り受け料を支払ったが,これは全て親衛隊SSの資金となった。映画で有名になった「シンドラーのリスト」でも,軍需企業の経営者シンドラーが,強制収容所のユダヤ人奴隷労働者を利用して,ドイツ軍のための物資を生産する。

シンドラーの目的は,ユダヤ人を虐殺から救うこととユダヤ人を奴隷労働者を使用して,財産をなすことだった。また,収容所囚人の中には,ポンドやドルなどの連合軍の偽札作りを強要されたユダヤ人職人もいた。

写真(右)1945年,ドイツ中部、ナチ党大管区チューリンゲン(現チューリンゲン州)、ノルトハウゼン北のドーラ・ミッテルバウ強制収容所Dora-Mittelbau Sub-campsに併設された、コーンシュタインの岩山をくりぬいて建設されたV1飛行爆弾(巡航ミサイル)とVー2ロケット弾道弾の地下生産工場
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1992-068-21A Original title: info G8501 A 219 Archive title: Kohnstein bei Niedersachswerfen.- Fabrikationsanlage für die Produktion von Marschflugkörpern "V 1" und Raketen "A "4 / Vー2" nach Einnahme durch die Alliierten, V-1 auf dem Fließband Dating: 1945 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 146-1992-068-21A, Niedersachswerfen, Produktion von V1 - V2.jpg"引用。


写真(右)1945年6月,ベルギー、アントワープに集められたアメリカ軍が押収したV2ロケット弾相談の半完成品。ドイツ中部、ノルトハウゼンのドーラ強制収容所で発見されたV2ロケット弾道弾の半完成品をアメリカに持ち帰るために鉄道輸送して、アントワープに搬入。ここから船便で大西洋を越えてアメリカ本土に輸送したロケット技術に驚嘆したアメリカ軍は、多数のV2ロケットをアメリカに運搬した。:次の写真と同じV2が同じ場所に集積されているのが確認できる。
Vー2 rockets manufactured at Dora-Mittelbau ready for transhipment to the United States.
Record Type:Photograph Photograph #:01279 Caption:Vー2 rockets manufactured at Dora-Mittelbau ready for transhipment to the United States.
Date:June 1945 Locale:Antwerp, Belgium Variant Locale:Anvers Antwerpen Photographer:James Baker
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。


写真(右)1945年5月,ベルギー、アントワープ港にドイツ中部、ノルトハウゼン近郊ドーラ収容所から運搬されてきたV2ロケット弾道弾。:アントワープに集められたVー2ロケットは、輸送船でアメリカ本土まで運搬された。
A Vー2 rocket that was manufactured at Dora-Mittelbau, is being crated at the shipping docks in Antwerp for trans-shipment to the United States. A trainload of Vー2 rocket tail fins can be seen in the background.
Record Type:Photograph Photograph #:01274 Caption:A V2 rocket that was manufactured at Dora-Mittelbau, is being crated at the shipping docks in Antwerp for trans-shipment to the United States. A trainload of Vー2 rocket tail fins can be seen in the background.
Date:May 1945 Locale:Antwerp, Belgium Variant Locale:Anvers Antwerpen Photographer:James Baker Photo Designation:MAJOR CONCENTRATION CAMPS 1940-45 -- Dora-Mittelbau -- LIBERATION -- Vー2> Rocket Factory Photo Source:United States Holocaust Memorial Museum Copyright: United States Holocaust Memorial Museum Provenance: James Baker Source Record ID: Collections: 1992.81 Photo Credit:United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of James Baker
写真はUSHMMのushmm.orgから引用。



6.戦後、アメリカ軍が鹵獲したV2ロケット弾道ミサイルの復元

写真(右)、アメリカ合衆国The United States Army Aberdeen Test Centerに保管されていたドイツから押収したVー2ロケット弾道弾:1960年代には既にここで保管されていたが、状態は悪化しつづけた。2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元されることになる。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
The National Museum of the U.S. Air Force in Dayton, Ohio, recently completed restoration of its Vー2 rocket and Meillerwagen erector/trailer. The beautiful display is now open to the public in the WWII aircraft building. Being one of only three Meillerwagen trailers remaining in the world, this is the only Meillerwagen trailer in the United States. The NMUSAF (formerly USAFM) acquired (at no cost) the Vー2 rocket and Meillerwagen that had been on display at the Aberdeen Proving Grounds in Maryland for many years. The Kansas Cosmosphere and Space Center completed the rocket restoration portion ($95,000.00) at their restoration facility in Hutchinson, KS. The Cosmosphere's restoration staff carefully resurrected this piece of history to represent, as accurately as possible, a wartime A-4/Vー2 from the 1944-45 period. With the work completed, the rocket was flown in a giant C5A back to the NMUSAF in mid 2002.
The museum restoration staff tackled the restoration of the Meiller-trailer, fabricating many missing parts to match the German field operational version. The Meillerwagen's tires, and VW Motor for the erector hydraulics, were obtained from private sources in the Czech Republic for aproximately $2,000.00. A private contractor sand blasted it for $3,500.00. Aproximately $4,000.00 was spent on special steel that was need for replica parts. The machining of replica parts, and painting, were done by museum staff employees. For some reason they chose to paint the Meillerwagen an incorrect shade of pea-green, instead of the original color of German sand-yellow.
The USAFM V2 and Meillerwagen as seen in 1962 at Aberdeen Proving Grounds in Maryland. Later, the V2 and Meillerwagen were moved to an outdoor display at Aberdeen, where it wasted away in the weather for many years.
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国The United States Army Aberdeen Test Centerに保管されていたドイツから押収したV2ロケット弾道弾:1960年代には既にここで保管されていたが、状態は悪化しつづけた。2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元されることになる。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
During WWII, the USAF, along with the RAF, were responsible for hunting down the shipments of Vー2s heading to the western front. Allied aircraft attacked V-Weapon rail shipments and occasionally Vー2 launching sites. Many high-flying USAF bomber crews were witness to the soaring rockets in flight heading towards London and Antwerp. So it is fitting to see this historic piece of equipment on display at the USAFM.
There is some indication that this rocket was possibly caught in the open and attacked by Allied tanks while sitting on a railcar near Bromskirchen, Germany. There were 50-caliber bullet holes and damage to almost every portion of the rocket. The Cosmosphere restoration workers found a 50-cal bullet still remaining inside one of the fuel tanks! While it is true that this could have been done at anytime immediately after the war - the fact that all intact rockets were being rounded up to be sent to the U.S. for research, tends to point to the story at Bromskirchen as the likely source of the bullet holes. The truth may never really be known about how the rocket was damaged, but it is interesting to think about.
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


1945年8月半ば、アメリカ軍はドイツ占領地から、ペーパークリップ作戦にもとづいて、大量のV1飛行爆弾、V2ロケット弾道弾の製品、備品、工具、設計図を押収し、それの開発に関わった技術者や学者をアメリカに連れて行った。そして、同一の飛行爆弾、ロケット弾道弾を復元し、実際に発射した。その後、コピー兵器も生産されたが、21世紀になってから、かつての秘密兵器を科学・歴史を振り返るために、復元する作業が始まった。

写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2ロケット弾道弾:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着した時に撮影。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
The German army developed the Vー2, known also as the A4 missile, as an alternative to super-long-range artillery, which the Treaty of Versailles prohibited after World War I. Designed by rocket pioneer Wernher von Braun, the Vー2 was a breakthrough in missile technology but failed to prevent Germany's defeat in World War II. The rocketwas inaccurate, which made it a poor military weapon but an effective terror device. Though the rocket was destructive, killing almost 3,000 people in England and probably even more in Belgium in the last year of the war, the German forced-labor system could not produce enough Vー2s to affect the outcome of the war. In any case, the comparatively small power of Vー2> attacks could not match the massive effect of Allied strategic bombing. After the war, the German rocket team and many captured missiles were brought to the United States, where Vー2 technology helped to build the technological base for human spaceflight and advanced strategic missiles.
写真はNational Museum of the USAF, the U.S. Air Forceから引用。Note: The appearance of hyperlinks does not constitute endorsement by the National Museum of the USAF, the U.S. Air Force, or the Department of Defense, of the external website, or the information, products or services contained therein.


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2ロケット弾道弾:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着した時に撮影。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
Vー2 Missile Operations The Vー2 was the first practical modern ballistic missile. Its operation was complex and involved specialized transport and launching equipment. Unlike the Vー1 flying bomb operated by the Luftwaffe, the German army operated the Vー2 rocket. Erecting, servicing and launching a Vー2 took from four to six hours and required some 32 different trailers and vehicles carrying fuel, batteries, pumps, spare parts, radios and other equipment. The entire operation required hundreds of soldiers, with the launch team alone needing more than 100 people to service and test the rocket, survey the site, run the support equipment and command the process. In all, more than 10,000 people and 3,000 vehicles were devoted to Vー2 activities.
After rail transport to the launching vicinity, large mobile cranes loaded rockets onto trailers, which took them to the actual launch site. The Vー2 on display is on such a trailer, called a Meillerwagen.
写真はNational Museum of the USAF, the U.S. Air Forceから引用。Note: The appearance of hyperlinks does not constitute endorsement by the National Museum of the USAF, the U.S. Air Force, or the Department of Defense, of the external website, or the information, products or services contained therein.


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2弾道弾。移動させる専用トレーMeillerwagenに載せられている。:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
The Vー2 and Meillerwagen display is now open to the public at the National Museum of the U.S. Air Force in Dayton. Shown below is the current configuration, but it is rumored that eventually the museum intends to build a diorama depicting the rocket raised on a firing platform and being serviced as if ready for launching. Thanks to John Kiever for the detailed photos of the Meillerwagen details.
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2ロケット弾道弾。移動させる専用トレーMeillerwagenに載せられている。:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
アメリカ空軍国立博物館には、第二次世界大戦中のアメリカ機として、カーチス P-40 ウォーホーク戦闘機、ベル P-39 エアラコブラ戦闘機、リパブリック P-47D サンダーボルト戦闘機、ノースアメリカン P-51D ムスタング戦闘機、ノースアメリカン B-25 ミッチェル双発爆撃機、ノースロップ A-20 ハボック攻撃機、ノースロップ P-61 ブラックウィドウ夜間戦闘機、ダグラス SBD ドーントレス急降下爆撃機、ボーイング B-17G フライングフォートレス四発重爆撃機、コンソリデーテッド B-24D リベレーター四発重爆撃機、カーチスC-46 双発輸送機、コンソリデーテッド OA-10 カタリナ飛行艇がある。
他方、枢軸国の航空機としては、マッキ MC.200 サエッタ戦闘機、メッサーシュミット Bf 109G-10戦闘機、フォッケウルフ Fw 190D-9戦闘機、フィーゼラー Fi 156 シュトルヒ 連絡機、メッサーシュミット Me163B コメート (ロケット戦闘機)、メッサーシュミット Me262A (ジェット戦闘機)、ユンカース Ju 88 双発爆撃機、川西 紫電21型 (局地戦闘機)、三菱 ゼロ戦 (艦上戦闘機)、有人爆弾「桜花」、V1飛行爆弾(フィーゼラー Fi 103)、V2ロケット弾道弾がアメリカ空軍国立博物館で展示されている。
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2ロケット弾道弾:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着した時に撮影。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
The best launch sites were flat, wooded areas with clearings big enough to operate the missile and with ground or pavement firm enough to hold it. At the launch site, crews raised the rocket vertically with the Meillerwagen, then fueled it with alcohol and liquid oxygen. After several tests and adjustments, the rocket could be fired from the safety of an armored control car some distance away. The Vー2's rocket engine burned for about a minute. The missile then continued in a ballistic unpowered trajectory to its target. During its flight, the Vー2 reached an altitude of 50-60 miles, and its top speed was around 3,400 mph.
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2弾道弾:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着した時に撮影。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
The Vー2, once launched, could not be stopped -- it was too fast and flew too high. Since the Vー2 arrived at several times the speed of sound, there could be no warning to its approach. The missiles impacted before the sonic boom they created was heard. Allied efforts to prevent rocket attacks depended on bombing production facilities and attacking rail transit with fighters. Allied air power destroyed many Vー2s before they reached launch sites; the Vー2 on display was damaged in an air attack.
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2弾道弾:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着した時に撮影。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
Germany produced nearly 6,000 Vー2s in 1944-1945. Like the Vー1, the Vー2 was inaccurate. It could only be aimed at a large area, like a city. Together, the V-1 and Vー2> missed their aim points by an average of more than nine miles. The first operational Vー2 launch took place on Sept. 8, 1944, and the last on March 30, 1945. During this seven-month period, 1,115 Vー2s hit England, and 1,524 fell on continental Europe. Many Vー2s broke up or exploded in the air, and around 15 percent were never launched due to ground malfunctions. The total damage done in England by the rockets included 2,754 killed and 6,523 severely wounded. Some of the worst Vー2 attacks included the destruction of a cinema in Antwerp (561 killed), and an impact on a crowded Antwerp street the killed 128 people.
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2ロケット弾道ミサイル:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着した時に撮影。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
TECHNICAL NOTES: Warhead: 2,152 or 2,205 lbs. Amatol 39A explosive Maximum speed: 3,400 mph Range: 180-220 miles Maximum altitude: 50-60 miles Weight: 28,000 lbs. fueled
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2弾道弾:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着した時に撮影。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
TECHNICAL NOTES: Warhead: 2,152 or 2,205 lbs. Amatol 39A explosive Maximum speed: 3,400 mph Range: 180-220 miles Maximum altitude: 50-60 miles Weight: 28,000 lbs. fueled
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2弾道ミサイル:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着した時に撮影。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
TECHNICAL NOTES: Warhead: 2,152 or 2,205 lbs. Amatol 39A explosive Maximum speed: 3,400 mph Range: 180-220 miles Maximum altitude: 50-60 miles Weight: 28,000 lbs. fueled
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2弾道弾:ドイツ陸軍が実戦に使用していた1944年秋から1945年は、連合軍に制空権を握られていたために、敵偵察機に見つからないように、Vー2ロケットには迷彩塗装が施されていた。それを復元したもの。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
TECHNICAL NOTES: Warhead: 2,152 or 2,205 lbs. Amatol 39A explosive Maximum speed: 3,400 mph Range: 180-220 miles Maximum altitude: 50-60 miles Weight: 28,000 lbs. fueled
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2ロケット弾道ミサイルの胴体断面部品。:弾道を調整する小型のヒレが付いている。2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
TECHNICAL NOTES: Warhead: 2,152 or 2,205 lbs. Amatol 39A explosive Maximum speed: 3,400 mph Range: 180-220 miles Maximum altitude: 50-60 miles Weight: 28,000 lbs. fueled
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2ロケット弾道弾の胴体尾翼部分。:弾道を調整する小型のヒレが付いている。2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
TECHNICAL NOTES: Warhead: 2,152 or 2,205 lbs. Amatol 39A explosive Maximum speed: 3,400 mph Range: 180-220 miles Maximum altitude: 50-60 miles Weight: 28,000 lbs. fueled
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2ロケット弾道ミサイル弾を移動させる専用トレーMeillerwagen:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
TECHNICAL NOTES: Warhead: 2,152 or 2,205 lbs. Amatol 39A explosive Maximum speed: 3,400 mph Range: 180-220 miles Maximum altitude: 50-60 miles Weight: 28,000 lbs. fueled
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。


写真(右)、アメリカ合衆国オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館で完全復元されたVー2ロケット弾道弾を移動させる専用トレーMeillerwagen:2001-2002年にカンザス(Kansas)で復元され、オハイオ州デイトン(Dayton)に到着。
DAYTON, Ohio -- Vー2 on Meilerwagen at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo).
The Vー2 and Meillerwagen display is now open to the public at the National Museum of the U.S. Air Force in Dayton. Shown below is the current configuration, but it is rumored that eventually the museum intends to build a diorama depicting the rocket raised on a firing platform and being serviced as if ready for launching. Thanks to John Kiever for the detailed photos of the Meillerwagen details.
写真はv2rocket.com(Photos by Phil Broad, Rod Givens, John Kiever & Tracy Dungan) から引用。



6.ユダヤ人問題の最終解決と奴隷労働

写真(右)1945年4月13-14日,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のノルトハウゼンNordhausen強制収容所:アメリカ軍第104歩兵師団が1945年4月12日にノルトハウゼン強制収容所を解放した。ドーラ=ミッテルバウ強制収容所(Dora-Mittelbau camp)は、1943年8月にチューリンゲン大党管区のノルドハウゼン北方5kmのコーンシュタインの岩山をトンネルをくりぬいて建設されたV1飛行爆弾・V2ロケット弾道弾を組み立てる地下工場に場所に併設されていた。このドーラ=ミッテルバウ強制収容所(KZ-Gedenkstätte-Mittelbau-Dora)には、1944年11月1日、3万2471人の囚人がいた。ドイツの最先端技術を誇る秘密兵器は ユダヤ人,捕虜など強制収容所の奴隷労働を犠牲にして、生産されたのである。
American soldiers watch as German civilians bury the corpses of prisoners found in the Nordhausen concentration camp. Nordhausen, Germany, April 13-14, 1945.US Holocaust Memorial Museum , courtesy of Joseph Mendelsohn:1770-1848)  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Dora-Mittelbau - Photograph引用。


ユダヤ人絶滅は,経済的理由だけ説明することはできない。ユダヤ人をドイツ民族を滅ぼそうとする敵,病原菌であると決め付けていたという人種民族差別や優生学の役割も大きい。敵ユダヤ人は,ドイツ民族を弱らせるペスト菌のような存在であるから,撲滅しなければならない。人間以下の下等人種は、存在価値がないと優秀な人種のみが文明・文化を担っているといった優生学に基づく差別的な人権無視が蔓延していれば、強制収容所のユダヤ人や捕虜を奴隷労働者として死ぬまで酷使し、V1巡航ミサイル、V2ロケット弾道ミサイルを生産させても、なんら罪の意識は感じなかったと考えられる。

写真(右)1945年4月13-14日,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のノルトハウゼンNordhausen強制収容所で収集・埋葬される囚人たちの遺体:アメリカ軍第104歩兵師団が1945年4月12日にノルトハウゼン強制収容所を解放し、3000人の囚人の遺体が放置されているのを発見した。そこで、地元のドイツ人住民400人を徴用し、遺体の埋葬作業を強要した。
The bodies of prisoners killed in the Nordhausen concentration camp lie in a mass grave dug by German civilians under orders from American troops. Nordhausen, Germany, April 13-14, 1945.US Holocaust Memorial Museum , courtesy of Joseph Mendelsohn:1770-1848)  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Dora-Mittelbau - Photograph引用。


 ユダヤ人が,ドイツ民族の生存を脅かす敵である以上,軍需生産・食糧生産を担う奴隷労働力として利用することと並んで,ユダヤ人を絶滅すること自体も重要な目標となる。ユダヤ人を労働力として無償利用することは,永続的目的ではなかった。これを理解できないところに,現実主義者ヒトラーが,労働力として役に立つユダヤ人を虐殺するはずがない,という誤解が生まれる。

ナチス親衛隊は,軍需生産上,労働力を提供できない労働不能ユダヤ人を,ガス室などで殺害した。そして,労働可能なユダヤ人囚人は,衣食住の物資も切り詰めて,過酷な条件で奴隷労働者として,死ぬまで働かせた。

写真(右)1945年4月13-14日,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のノルトハウゼン強制収容所。アメリカ軍第104歩兵師団が1945年4月12日にノルトハウゼン強制収容所を解放し、囚人の死体3000体を発見した。アメリカ軍は、現地ワイマールに住むドイツ市民たちに囚人の遺体の山を運搬し、埋葬するように命じた。この作業には、地元のドイツ人住民400人が参加させられた。
Under orders of the US First Army, German civilians prepare to use a stretcher to remove corpses of victims of the Dora-Mittelbau concentration camp, near Nordhausen. Germany, April 13-14, 1945.US Holocaust Memorial Museum , courtesy of Joseph Mendelsohn:1770-1848)  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Dora-Mittelbau - Photograph引用。


写真(右)1945年4月13-14日,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のノルトハウゼンNordhausen強制収容所を解放したアメリカ軍第104歩兵師団:1945年4月12日にノルトハウゼン強制収容所を解放し、3000人の囚人の遺体が放置されているのを発見した。そこで、地元のドイツ人住民400人を徴用し、遺体の埋葬作業を強要した。
The bodies of prisoners killed in the Nordhausen concentration camp lie in a mass grave dug by German civilians under orders from American troops. Nordhausen, Germany, April 13-14, 1945.US Holocaust Memorial Museum , courtesy of Joseph Mendelsohn:1770-1848)  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Dora-Mittelbau - Photograph引用。


写真(右)1945年4月14日,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のノルトハウゼン強制収容所を解放したアメリカ軍第104歩兵師団に収容所の遺体を埋葬させられる現地のドイツ市民:1945年4月12日にノルトハウゼン強制収容所を解放した時に、囚人死体3000人分を発見した。そこで、地元のドイツ人住民400人を徴用し、遺体の埋葬作業をさせた。
Under the supervision of the US First Army, German civilians from Nordhausen carry victims of the Dora-Mittelbau concentration camp to mass graves. Germany, April 14, 1945.US Holocaust Memorial Museum ,  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Dora-Mittelbau - Photograph引用。


写真(右)1945年4月18日,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のノルトハウゼン強制収容所の囚人たちの遺体:アメリカ軍は1945年4月12日にノルトハウゼン強制収容所を解放、囚人(捕虜・ユダヤ人)の死体3000人の遺体が放置されているのを発見した。そこで、地元のドイツ人住民400人を徴用し、遺体の埋葬作業を強要した。
Burned bodies of former prisoners of Rottleberode, a subcamp of Dora-Mittelbau, lie near the entrance to a barn that had been set afire by SS troops while the prisoners were on a death march. Gardelegen, Germany, April 18, 1945.---National Archives and Records Administration, College Park, Md.  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Dora-Mittelbau - Photograph引用。


写真(右)1945年5月1日,ドイツ中部、ノルトハウゼン強制収容所を管理するアメリカ軍兵士に案内され収容所の遺体を見学するアメリカ上院議員アルバン・W・バークリーアルバン・W・バークリーAlben W. Barkley)(1877-1956)は、アメリカ合衆国ケンタッキー州選出の民主党所属議員で、1927年3月4日から1949年1月19日まで上院議員を務め、その後、1949年1月20日から1953年1月20日まで第35代副大統領(トルーマン政権)に就任した。
Members of a US congressional committee investigating German atrocities view the emaciated body of a dead prisoner at the Dora-Mittelbau concentration camp, near Nordhausen. Germany, May 1, 1945.US Holocaust Memorial Museum , courtesy of Joseph Mendelsohn:1770-1848)  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Dora-Mittelbau - Photograph引用。


民主党上院議員アルバン・W・バークリーAlben W. Barkley)は1945年の欧州大戦末期、上院の院内総務(Senate Majority Leader)を務めており、明らかになったホロコーストの惨状をじかに見る必要があると直感した。

写真右)1945年5月1日,ドイツ中部、チューリンゲンのドーラ=ミッテルバウ強制収容所に併設されたトンネル式地下工場のV2ロケットエンジンを見学するアメリカ上院議員アルバン・W・バークリー(Alben W. Barkley) :Members of a US congressional committee investigating German atrocities view a V-2 rocket on the assembly line of an underground factory at the Dora-Mittelbau concentration camp, near Nordhausen. Germany, May 1, 1945..US Holocaust Memorial Museum , courtesy of Joseph Mendelsohn:1770-1848)  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Dora-Mittelbau - Photograph引用。


実は、1945年のこの時期まで、アメリカ軍もイギリス軍も、ユダヤ人絶滅を進めてきていたナチス・ドイツに対して、ホロコーストを阻止する直接的手立てをとってきたことがほとんどない。ヒトラーを倒し、戦争に勝利することが、虐殺を止めるのであって、副次的目標に軍事的資源を投入することは、勝利を遅らせるというう詭弁を弄して、ヨーロッパの難民問題にも冷酷な仕打ちをしてきた。
 アメリカ軍は、1945年4月15日に解放したノルトハウゼン強制収容所に放置されていた3000人の囚人の遺体を、地元のドイツ市民400人を徴用して埋葬させた。しかし、このようなホロコーストに対する厳格な認識は、アメリカ政府、アメリカ市民にこそ求められると>いってもよいだろう。

写真(右)1945年4-6月(?),ドイツ中部、チューリンゲン、ノルトハウゼン北方5km、コーンシュタインの岩山をトンネルをくりぬいて建設されたV1飛行爆弾・V2ロケット弾道弾の地下工場入り口:1945年4月12日にノルトハウゼン強制収容所を解放したアメリカ軍第104歩兵師団は、3000人の囚人の遺体が放置されているのを発見した。
Entrance to the tunnels at Nordhausen
The SS used the Boelcke Kaserne, a former barracks in Nordhausen city, as a dumping ground for hopeless prisoner cases. Thousands of prisoners were transferred to Dora-Mittelbau, mostly from Buchenwald and they were put to work excavating underground tunnels that were to serve as the site of a huge plant for the manufacture of V-2 missiles and other arms.
写真はF.J Frasier, Chris Webb & Carmelo Lisciotto H.E.A.R.T(www.HolocaustResearchProject.org)のDora - Mittelbau/Nordhausen引用。


ヒトラー総統,そのユダヤ人絶滅命令を口頭で受けた親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツ民族を滅ぼそうとする病原菌として,ユダヤ人を認識していた。この人種民族的偏見を抱く限り,ユダヤ人虐殺もユダヤ人の奴隷労働もともに,現実的な合理的行為として,実行に移された。

ユダヤ人虐殺の方法は,当初は,銃殺・縛り首などであったが,ユダヤ人に処刑が知れ渡るとユダヤ人を捕まえることは困難になり,同時に住民による反抗も活発になった。また,ドイツ人処刑者の中には,婦女子の処刑には精神的に耐えられないものもあった。そこで,治安を悪化させずに,処刑者に負担をかけないで,効率的に大量殺戮できるような「ユダヤ人絶滅システム」が作られた。

写真(右)1945年6月6日,ドイツ中部、チューリンゲン州、ノルトハウゼン、トンネル式地下工場を管理したアメリカ軍のジープ:1945年4月12日にノルトハウゼン強制収容所を解放し、3000人の囚人の遺体が放置されているのを発見した。そこで、地元のドイツ人住民400人を徴用し、遺体の埋葬作業を強要した。その後、このような悲惨な状況を払拭したアメリカ軍は、ナチスの科学者やV2ロケットの部品を収集した。
American Legion officials touring Germany and Austria pass through the Dora-Mittelbau concentration camp, near Nordhausen. Germany, after June 6, 1945.--National Archives and Records Administration, College Park, Md.
USHMMに登録・Dora-Mittelbau-Photograph引用。


◆ユダヤ人絶滅システムとは,一般住民に反ユダヤ人プロパガンダを行い,ユダヤ人密告を奨励し,密告者に報酬を与え,貨車に過密なほどユダヤ人を押し込み,列車移送を軍需輸送の一環に組み込む。そして,移送者の不動産から所持品まで全財産を収奪した。囚人は,奴隷労働として死ぬまで利用するか,ガス殺し,死体を焼却して,証拠隠滅を図る。このようなユダヤ人虐殺の重要な部分は,口頭でのみ命令され,文書化することを許さない。効率的に秘密裏に組織されたのが,ユダヤ人絶滅システムである。

写真(右)1945年4月11日,ドイツ中部、アメリカ軍兵士が解放したブーヘンワルト強制収容所:アメリカ軍が1945年4月11日に、チューリンゲン大党管区のブーヘンワルト強制収容所(Buchenwald Concentration Camp)を解放し2万名以上の囚人を助け出した。しかし、多数の死体が放置されているのも発見した。そこで、地元のドイツ人住民1200人を召喚し、遺体の見学をさせた。
American military personnel view corpses in the Buchenwald concentration camp. This photograph was taken after the liberation of the camp. Germany, April 18, 1945.  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Liberation of Nazi Camps-Photograph引用。


 アメリカ軍は、1945年4月11日、ドイツのワイマル近郊にあるブーヘンワルト強制収容所(Buchenwald Concentration Camp)を解放したが、その数日前に、ドイツの親衛隊は、収容所を撤収していた。そこで、解放された囚人は2万人もあった。アメリカ軍は、引き続き、ブーヘンワルト収容所の近くにあったドーラ・ミッテルバウ収容所、フロッセンビュルク収容所、さらにダッハウ収容所、マウトハウゼン収容所も解放した。

 疲弊し飢餓に苦しんでいた囚人は、過酷な強制労働に投入されていたため、伝染病にもかかりやすく、絶えず死の恐怖に怯えていたものもあった。また、収容所の施設はチフス、コレラなどの伝染病が蔓延していたために、焼却されたが、収容所の生存者のシェルターを確保するのも大変だった。

写真(右)1945年4月11日以降,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区ブーヘンワルト強制収容所で解放された囚人たち。:アメリカ軍第6機甲師団、次いで第83歩兵師団が1945年4月11日にブーヘンワルト強制収容所に突入し2万人以上の囚人を解放した。そこで、ジョージ・パットンGeorge S. Patton:1885-1945/12/21)将軍は、1945年4月15日、地元ワイマールのドイツ人住民1200-2000人を召喚し、ブーヘンワルト強制収容所(Buchenwald Concentration Camp)を見学させ、遺体の山を見ることを強要した。
Emaciated survivors of the Buchenwald concentration camp soon after the liberation of the camp. Germany, after April 11, 1945.US Holocaust Memorial Museum , courtesy of Joseph Mendelsohn:1770-1848)  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Liberation of Nazi Camps-Photograph引用。


1945年4月11日、ブーヘンワルト強制収容所(Buchenwald Concentration Camp)にアメリカ軍第6機甲師団が突入し、次いで第83歩兵師団は、収容所の囚人2万名以上を解放した。この収容所の様子に、ユダヤ系兵士でなくとも大きな衝撃を受けた。そこで、ジョージ・パットンGeorge S. Patton:1885-1945/12/21)将軍は近隣のワイマル市長に、収容所の悲惨な状況を見学させるとは告げずに、特にナチ党員や上階層の市民を集めて出頭することを命じた。

1945年4月15日、ブーヘンヴァルトに集められたワイマルの住民は、怪訝な面持ちだったが、痩せ衰えて骨と>皮ばかりになった死体の山を見学させられて、青ざめた。パットン将軍は、ドイツ戦争犯罪を明確にドイツ人にも示す必要があると感じて、この措置を命じたのだった。現在は、博物館になっていて、写真の他にも、クレマトリウム(死体焼却炉)、拷問晒し台、囚人用の食器・囚人服、死体運搬用の荷車、処刑場の遺物が残されている。

写真(右)1945年4月11日,ドイツ中部、アメリカ軍が解放したチューリンゲン大党管区ブーヘンワルト強制収容所の児童ブロック第66号(Children's Block 66)の子供の囚人。:2万名以上の囚人を救助したアメリカ軍兵士は、死体の山も見つけてショックを受け、地元のドイツ人住民にもその惨状を見せる必要があると感じた。そこで、ワイマールに住むドイツ市民1200人を召喚し、囚人の遺体を無理やり見学させた。
Soon after liberation, camp survivors from Buchenwald's "Children's Block 66"?a special barracks for children. Germany, after April 11, 1945.--Federation Nationale des Deportes et Internes Resistants et Patriots   Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Browse all Photographs引用。


強制収容所の多くには,ガス室はなかったが,栄養失調・病気による衰弱死,奴隷労働による過労死,拷問による死亡,処刑があった。また,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカTreblinka ,ゾビブルSobibor ,マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置されたガス室を備えていた絶滅収容所は,ユダヤ人,ロマ(ジプシー),ソ連軍捕虜などを大量殺戮した。

他方,ユダヤ人の婦女子まで殺戮するドイツ人は,精神的,肉体的に負担が大きかった。殺戮者となったドイツ人の負担を軽減することには,十分配慮されていた。
つまり,効率的に殺戮を進め,資産を収奪するユダヤ人絶滅システムは,人種民族差別の上に構築されていた。ユダヤ人絶滅は,冷徹に計算された人種民族差別の極限にある非人間的な暴力である。

写真(右)1945年4月17日,ドイツ中部、アメリカ軍アメリカ軍第6機甲師団、次いで第83歩兵師団の兵士が解放したチューリンゲン大党管区ブーヘンワルトBuchenwald強制収容所では、殺された囚人たちの死体の山が発見された。:アメリカ軍が1945年4月11日にブーヘンワルト強制収容所(Buchenwald Concentration Camp)を解放し2万名以上の囚人を助け出したが、4月18日には地元ワイマールに住むドイツ人1200人を集めて遺体の見学をさせた。
American troops, including African American soldiers from the Headquarters and Service Company of the 183rd Engineer Combat Battalion, 8th Corps, US 3rd Army, view corpses stacked behind the crematorium during an inspection tour of the Buchenwald concentration camp. Among those pictured is Leon Bass (the soldier third from left). Buchenwald, Germany, April 17, 1945.  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Liberation of Nazi Camps-Photograph引用。


写真(右)1945年4月18日,ドイツ中部、アメリカ軍が解放したブーヘンワルト強制収容所の惨状を、西側連合国兵士が見学している。:アメリカ軍が1945年4月11日にチューリンゲン大党管区ブーヘンワルト強制収容所を解放し2万名以上の囚人を助け出した。しかし、多数の死体が放置されているのも発見した。そこで、地元のドイツ人住民1200人を召喚し、遺体の見学をさせた。
American military personnel view corpses in the Buchenwald concentration camp. This photograph was taken after the liberation of the camp. Germany, April 18, 1945.  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Liberation of Nazi Camps-Photograph引用。


1945年4月15日、ジョージ・パットン(George S. Patton:1885-1945/12/21)将軍は、地元ワイマールのドイツ人住民1200-2000人を召喚し、ブーヘンワルト強制収容所(Buchenwald Concentration Camp)を見学させた。3日後、New York Times April 18th 1945には、4月15日のドイツ市民のブーヘンワルト強制収容所見学について、次のように掲載された。

写真(右)1945年4月13-14日,ドイツ中部、アメリカ軍は解放したチューリンゲン大党管区ドーラ=ミッテルバウ強制収容所に放棄された囚人の遺体を地元住民に埋葬させた。:アメリカ軍は、同じチューリンゲン大党管区ブーヘンワルト強制収容所も解放し、2万名以上の囚人を助け出した。しかし、多数の死体が放置されているのも発見して、怒りに震え、地元ワイマールのドイツ市民1200人を召喚し、遺体の見学をさせた。
After the liberation of Dora-Mittelbau, local German residents were required to bury the bodies of victims of the camp. Dora-Mittelbau, Germany, April 13?14, 1945.--US Holocaust Memorial Museum, courtesy of Mr. Paul Kasper
USHMMに登録・Dora-Mittelbau引用。


German civilians, 1200 of them, were brought from the neighbouring city of Weimar today to see for themselves the horror, brutality and human indecency perpetrated against the ‘neighbours’ at the infamous Buchenwald concentration camp. They saw sights that brought tears to their eyes and scores of them, including German nurses, just fainted away.

They saw more than 20,000 nondescript prisoners, many of them barely living, who were all that remained of the normal complement of 80,000. The Germans were able to evacuate the others before we overran the place on April 10th.

There were 32,705 that the ‘visiting’ Germans didn’t see, although they saw some of their bodies. It was this number that had been murdered since the camp was established in July 1937. There was a time when the population reached 110,000 but the average was always below that. It included doctors, professors, scientists, statesmen, army officers, diplomats and an assortment of peasants and merchants from all over Europe and Asia.

There was a group of British officers left behind and one of seven French generals, but this was obviously an oversight in the great confusion that followed the news of our approach…

This government controlled camp was considered second only to that at Dachau, near Munich, as the world’s worst atrocity center. It had its own gallows, torture rooms, dissection rooms, modern crematoria, laboratories where fiendish experiments were made on living human beings; and its sections were people were systematically starved to death.

This correspondent made a tour of the camp today and saw everything herein described… The German people saw all this today and they wept. Those who didn’t weep were ashamed. They said they didn’t know about it, and maybe they didn’t, because the camp was restricted to army personnel. But there it was right at their back doors for eight years…

写真(右)1945年4月14日,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区のドーラ=ミッテルバウ強制収容所の憔悴した囚人たち:アメリカ軍が収容所に到達する直前に、ナチス親衛隊SSは多数の囚人をベルゲンベルゼン強制収容に移送したが、これは憔悴した囚人たちに長時間の歩行を命じるもので、途中で多数の囚人が倒れ、あるいは処刑されて死亡した。
Survivors of the Dora-Mittelbau concentration camp, located near Nordhausen. Germany, April 14, 1945. ---National Archives and Records Administration, College Park, Md.  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Liberation of Nazi Camps-Photograph引用。


There were human skeletons who had lost all likeness to anything human. Most of them had become idiots but they still had the power of locomotion. Those in the sick bay were beyond all help. They were packed into the three-tier bunks, which ran to the roof of the barn-like barracks. They were dying and noone could do anything about it…

Some Germans were skeptical at first, as if this show had been staged for their benefit… These persons, who had been fed on Nazi propaganda since 1933, were beginning to see the light. They were seeing with their own eyes… that their own government had perpetrated.(引用終り)

写真(右)1945年4月23日,ドイツ中部、チューリンゲン大党管区ブーヘンワルト強制収容所で解放された囚人たち。:アメリカ軍第104歩兵師団が1945年4月11日にブーヘンワルト強制収容所を解放し、3000人の囚人の遺体が放置されているのを発見した。Arbeit macht frei(労働は自由への道)と収容所のゲートに刻んだが、これは囚人に反乱を起こさせないようにする方便だった。奴隷労働に従事させ死ぬまで扱き使った。Liberated prisoners demonstrate the overcrowded conditions at the Buchenwald concentration camp, Germany, April 23, 1945.  Copyright right:United States Holocaust Memorial Museum, Washington, DC
USHMMに登録・Liberation of Nazi Camps-Photograph引用。


<強制収容所でのガス殺(Jewish Virtual Library引用)>
以下の強制収容所は,大量殺戮を目的に作られた絶滅収容所ではなく,囚人を拘束し,奴隷労働させるための強制収容所であるが,労働不能者などを処置するガス室があった。

マウトハウゼンMauthausen (オーストリア): 1941年秋に1ヶ所のガス室でチクロンBを使用。一酸化炭素を使うガス室がグーセンGusen支所にあった。併せて,4000名がガス殺された。

ノイエンガメNeuengamme (ハンブルク南東): 1942年秋から「ブンカー」"Bunker"でチクロンBを使用して,450名を殺害。

ザクセンハウゼンSachsenhausen (ベルリン北) :1943年3月から,チクロンBを使用する1ヵ所ガス室で,数千名を殺害。

ナトワイザーNatzweiler(仏語Natzwiller:ストラスブルク南東50km,エルザス): 1943年8月-1944年8月,1ヶ所のガス室で,120-200名をチクロンBで殺害。遺体はストラスブルク大学解剖学研究所ヒルトAugust Hirt博士の元に送られた。

シュツォホフStutthof (タンチヒ東34km) :1944年6月に,1ヶ所のガス室を開設,チクロンBによって1000命を殺害。

レーベンスブリュックRavensbruck (べルリン北80km):1945年1月,1ヶ所のガス室が設置され,少なくとも 2,300名を殺害。

ダッハウDachau (ミュンヘン北東):1942年に新焼却炉設置,それに隣接して ガス室を建設。医学実験のために親衛隊ライシャーRascher博士が試験的にガス殺を実施。 大規模なガス殺は実施されていない。

ドイツは,戦局が悪化する中,戦後を見据えて,ユダヤ人を和平交渉の人質<と>して使うことを考えた。収容所でのガス室使用が中断されると虐殺速度は一時的に鈍った。ドイツ敗戦を見越し,うまく立ち回ろうとする看守もいた。ただし,1945年になると>,囚人のドイツ本国への強制移送は,「死の行進」と呼ばれるほど,多数の死者を出し,収容者急増で,本国の収容所の居住環境が悪化,やはり多数が病気・栄養失調で死亡しているので,虐殺が終わったわけではない。

写真(右)1947年9月19日、アメリカ軍によるドーラ=ミッテルバウ強制収容所裁判(Dora-MittelbauTrial)で裁かれる収容の如看守や親衛隊幹部など戦犯19名:アメリカ軍が1945年4月11日にチューリンゲン大党管区ブーヘンワルト強制収容所を解放し2万名以上の囚人を助け出した。しかし、多数の死体が放置されているのを知り、収容所の看守を裁判にかけた。
Judges in the trial of 19 men accused of committing atrocities at the Dora-Mittelbau concentration camp, located near Nordhausen. Dachau, Germany, September 25, 1947. -- National Archives and Records Administration, College Park, Md. USHMMに登録・Mittelbau: Aftermath and Trials引用。


写真(右)1947年7月19日、アメリカ軍によるドーラ=ミッテルバウ強制収容所裁判(Dora-MittelbauTrial)で裁かれる収容の如看守や親衛隊幹部など戦犯19名:アメリカ軍が1945年4月11日にチューリンゲン大党管区ブーヘンワルト強制収容所を解放し、2万名以上の囚人を助け出した。しかし、多数の死体が放置されているのを知り、収容所の看守を裁判にかけた。
A group of the 19 men accused of committing atrocities at the Dora-Mittelbau concentration camp, located near Nordhausen, during their war crimes trial. Dachau, Germany, September 19, 1947.-- National Archives and Records Administration, College Park, Md.
In early April 1945, the Nazis began to evacuate the prisoners from Dora-Mittelbau. Within days, most of the remaining prisoners were sent to Bergen-Belsen in northern Germany. Thousands were killed during death marches under horrendous conditions. When American forces liberated Dora-Mittelbau in April 1945, only a few prisoners were still in the camp. USHMMに登録・Liberation of Nazi Camps-Photograph引用。


<虐殺数を示す証拠は隠滅された>
アウシュビッツ収容所長・DI局長を務めたルドルフ・ヘスは,戦後の戦犯裁判の訊問で,アウシュビッツで虐殺されたユダヤ人の数を,戦争末期にアイヒマンが伝えた数字から250万名と述べた。
ヘス元所長の証言「大規模な作戦の後,いつも虐殺数の推定の手がかりになるような証拠は,全てヒムラーの命令で焼却された。DI局長として,自分は部署の手がかりは全て,自分で始末した。他の部署でも同じことが行われた。----仮に怠惰によって,どこかの部署に,個別的な記録断片,電話,電信が残されていたとしても,虐殺総数については,手がかりにはならないはずである。私自身,総数についてはまったく知らず,それを再現できる手がかりも持っていない。今でもわずかに覚えているのは,アイヒマンやその代理から繰り返し命じられた,大規模作戦の時の数字だけである。
上シレジアと総督領-----25万名
ドイツとテレジェンシュタット----10万名
オランダ-----9万5000名
ベルギー-----2万名
フランス-----11万名
ギリシャ-----6万5000名
ハンガリー-----40万名
スロヴァキア-----9万名
私としては250万名という数字は,多く見積もりすぎていると考えている。」
(ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,399-400頁 引用)

写真(右)1938年,オーバーザルツブルクのヒトラーの山荘で、ヒトラーと建設計画について歓談する建築家アルベルト・シュペーア
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-V00555-3 Original title: info Zentralbild 5050-50 Architekt Speer war noch vor der Machtergreifung Hitlers der persönliche Freund des Bauzeichners Hitler; nicht nur die Gemeinsamkeit der beruflichen, sondern auch der politischen Interessen brachte sie n醇Bher. [1938?] Archive title: Obersalzberg.- Adolf Hitler (rechts) und Albert Speer 醇・er Pl醇Bnen im Berghof, 1938 Dating: 1938 ca. Photographer: o.Ang.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-V00555-3引用


 建築家アルベルト・シュペーア1931年にヒトラーの演説に感銘を受け、ナチ党に入党した。同じ大学教育を受けたヨゼフ・ゲッベルスと知り合い、総統官邸の工事に携わったのが縁で、ヒトラーの歓心を買いナチ党の建築家となった。ドイツ最高権力者の総統と>個人的に面談できる特権を活かして、シュペーアは、ナチ党大会を開催するニュルンベルク・スタジアムの建設、ベルリンの世界首都化計画など様々なプロジェクトを主導する。

 ヒトラーは、青年時代に芸術家を志していて挫折した苦い思い出があったため、保守的で権威を重んじる官僚やインテリを嫌った。しかし、斬新な発想の若者で、自分の芸術的才能を知って集まってきたり、自分の天才肌に感嘆したりすると彼らを取り巻きにして喜んだ。

 シュペーアはヒトラーに敬愛の念を抱き、それを芸術的に表現したことで、彼の友人となった。そして、ヒトラー側近として、1938年5月に設置された建設労働部隊「トート機関」での軍需産業振興にも関わるようになる。そして、V1巡航ミサイル、V2弾道ミサイルの生産をになる地下工場の建設、そのための強制収容所の囚人の労働力化に敏腕を振るった。

写真(右)1943年6月,ヒトラーから直々に優秀な技術者として表彰され、フリッツ・トート・リングを手渡される軍需大臣アルベルト・シュペーア:フリッツ・トート・リングは、大きなカギ十字を付けたT字型のリングが、手渡した「工具箱」に入っている。国家社会主義ドイツ技術連盟 NSBDTがトートを讃えてスポンサーになり設立された賞この写真もトート機関のJohn R. Angolia、David Littlejohnが関与している。シュペーアは、1938年5月に設置された建設労働部隊「トート機関」の腕章を巻いている。
Archive title: Österreich.- Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1979-026-22 Original title: info Fritz-Todt-Ring für Reichsminister Speer Der Reichsminister für Bewaffnung und Munition Albert Speer, erstattete dem Führer im Führerhauptquartier im Beisein der f&auuml;hrenden M&auuml;nner der Selbstverantwortung der deutschen Rüstungsindustrie und der Amtschefs seines Ministeriums Meldung über die außerordentliche Steigerung der Waffen-, Panzer- und Munitionserzeugung im abgelaufenen Jahr. In Anerkennung seiner einmaligen Leistungen auf dem Gebiete der deutschen Technik überreichte der Führer dem Reichsminister Albert Speer den Fritz-Todt-Ring der Deutschen Technik in einer mit der Bildnisplakette von Dr. Fritz Todt gezierten silbernen Kassette. 4.6.43 [Herausgabedatum] Archive title: Adolf Hitler überreicht Albert Speer (mit Parteiabzeichen, Hakenkreuz-Binde und Armstreifen "Organisation Todt") Fritz-Todt-Ring
Dating: 1943 Mai - Juni Photographer: Hoffmann, Heinrich
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1938年5月に設置された建設労働部隊「トート機関」の指揮官フリッツ・トート(Fritz Todt)博士は、1942年2月、飛行機事故で死亡した。この跡を襲って、アルベルト・シュペーアAlbert Speer)は兵器・弾薬生産大臣(軍需大臣)に就任し、ドイツの軍需、防衛産業の責任を負うことになった。これは、事実上、トート(Fritz Todt)博士が就いていた地位を上回る権限を持っていた。ヒトラーは、シュペーアを高く評価していたので、1943年に新設された賞である「フリッツ・トート・リング」の第1回目の受賞者にシュペールを選んだ。しかし、アルベルト・シュペーアAlbert Speer)は、戦後のニュルンベルク戦争裁判で、捕虜やユダヤ人を奴隷労働者として酷使したことを問われて、有罪となり、10年間を牢獄で過ごした。


7.ユダヤ人虐殺を知っていた連合軍首脳

英軍は,1939年9月の大戦当初からドイツの治安警察暗号を解読し,チャーチル英首相もドイツの無線暗号解読資料を解説付きで定期的に受け取った。1940年3月,ドイツ治安警察が,東部戦線で占領地のユダヤ人追放に協力していることを知り,1941年7月14日,ドイツ治安警察部隊に対する特殊任務の心構えのための映写説明会の意味を,敵性住民の処刑である<と正確に理解していた。1941年8月24日,チャーチルは,ラジオ演説で,ロシアの愛国者をドイツ警察軍が文字通り何万人も処刑している、とナチスによる住民虐殺を非難した。

英軍の諜報専門家は,チャーチル首相が,ナチスのユダヤ人虐殺を具体的に非難すことによって,英国がドイツの暗号を解読していることをドイツが察知するのではないかと危惧した。そこで,リスクがある言動を,控えるように提言したのである。

しかし,ポーランドで地下活動をしていた亡命政府代表によるユダヤ人6千名の殺戮の報告が,1941年10月にロンドンに届くとロンドンのポーランド亡命政府は,それをマスメディアに流した。また,ドイツの最高機密を扱うエニグマ暗号電報の解読によって,1942年を通じて,アウシュビッツを含む収容所の受け入れ収容者人数を掴み,そこから出所した囚人がいないことも知っていた。

1942年11月,ポーランドのレジスタンスは,ガス室で殺されるためにユダヤ人とソ連軍の捕虜数万名がアウシュビッツに到着していることを報じている。1944年4月4日には,航空偵察によって,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所の大規模な施設も判明している。収容所の全体像の航空偵察写真撮影にも成功している。

当時,英空軍,米陸軍航空隊は,ドイツの都市や工場地帯を空爆していた。1943年に,一日に千機の爆撃機を「動員して,大空襲をかけることもあった。しかし,大量の爆撃部隊を編成,準備していた連合軍の航空隊は,ユダヤ人強制収容所・絶滅収容収容所を空爆したことは一度もなかった。それどころか,ユダヤ人代表やポーランド亡命政府が求めたように,ユダヤ人虐殺などのテロを働いたドイツ人とその協力者への法律による処罰にも言及しなかった。

写真(右)アウシュビッツ第三収容所ブナBunaの航空写真。1944年8月25日,連合軍機の撮影:Auschwitz III. Allied aerial reconnaissance photograph of May 31, 1944.現在ポーランドのオシヴェンチム(Oswiecim)に1942年に設置されたアウシュビッツ収容所支所ブナには,1944年,1万人が奴隷労働slave laborをさせられていた。アウシュビッツ収容所の連合軍の航空写真は,1944年4月4日,5月31日,8月9・12・25日,9月13日,11月29日,12月21日,1945年1月14日、2月19日に撮影されている。ビルケナウ収容所は,1944年5月31日,8月12日,11月29日,12月21日,1945年2月19日に,I.G.ファルベン(Farben)化学工場のあるブナは,1944年7月8日,12月26日,1945年1月14日の航空写真が残っている。連合軍は早くからドイツのユダヤ人虐殺を察知していたのだが。1945年1月18日,施設は放棄されたが,囚人たちは解放されることなく,強制移送された。1月27日,ソ連赤軍がアウシュビッツ収容所を解放。
English: An enlargement of part of a photo of Auschwitz-Birkenau taken by a Mosquito plane from the South African Air force’s 60 Photo Reconnaissance Squadron (Sortie no. 60PR/694) under the command of the U.S. Airforce. The selection process of a recently arrived transport visible on the ramp has been completed, and those selected to die are being to taken to Crematorium II. Also visible is a cultivated garden in the courtyard of Crematorium II, the open gate into it, and Crematorium III. The basement undressing rooms and gas chambers of both complexes can also be seen. This annotated image was released by the Central Intelligence Agency in 1979. 日付 1944年8月25日 原典 National Archives and Records Administration, College Park, courtesy of Yad Vashem 作者 60. Sqad. SAAF, Sortie No. 60/PR694 South African air force . (米国立公文書館NARA .ARC: 305905 Local:263-AUSCHWITZ-19(12)引用)


連合軍が,ユダヤ人支援のための軍事行動に消極的だった理由は,次のようなものである。
?ユダヤ人解放のために空爆や処罰を公言すれば,ユダヤ人が世界制覇をたくらんで英米を煽動しているというドイツのプロパガンダの信憑性が高まってしまう,
?何万名もの市民が収容されていることが知れれば,人道支援をすべきであるとの声が起こり,膨大な食料・物資の提供は,連合軍の戦力を弱めてしまう。
このように深謀遠慮した連合軍は,収容所のある軍需工場を爆撃はしたが,ユダヤ人を救うための直接行動は一切起こさなかった。戦争に勝利することが,強制収容所の囚人解放につながるとの見解だった。
?空爆可能圏内に達していないとの言い訳をした。しかし,イタリア降伏後は,主要な収容所は,連合軍の爆撃部隊の行動圏内に入っていた。
⇒リチャード・ブライトマン(1998)2000年川上光訳『封印されたホロコースト−ローズヴェルト,チャーチルはどこまで知っていたか』大月書店

The Associated Press 2008年1月11日に以下の記事がある。
President Bush had tears in his eyes during an hour-long tour of Israel's Holocaust memorial Friday and told Secretary of State Condoleezza Rice that the U.S. should have bombed Auschwitz to halt the killing, the memorial's chairman said. ブッシュ大統領は,目に涙を浮かべながら,イスラエルのホロコースト記念館を回り,同伴したライス国務長官に,殺戮を阻止するために,アウシュビッツを爆撃すべきだったと語った。

ブッシュ大統領が,米軍が撮影したアウシュビッツの航空写真を見たときに(これは米国立公文書館が出典!),ライス長官を呼んで,なぜアメリカ政府は,収容所を爆撃するのに反対したのかを,話し合った。

連合軍は,ポーランドのパルチザンから,戦時中,アウシュビッツに関する詳細な報告を受けていた。しかし,連合軍は,収容所の爆撃を選択しなかったし,収容所へ続く鉄道も攻撃しなかった。その上,ナチスの死の収容所をまったく爆撃していない。これに換えて,全資源・物資を,軍事作戦に集中した。

We should have bombed it," Bush said, according to Shalev.ヤドヴェシム館長によれば,ブッシュ大統領は「われわれは,収容所を爆撃すべきだった」と発言した。ライス国務長官は,米軍が収容所を爆撃しなかった理由を語らなかったが,収容所を爆撃すべきだといったのは,米大統領としては,初めてのことだった。

◆V2ロケットの技術を確保したいと切望していたアメリカは、V2ロケットの開発を担ったペーメミュンデ陸軍実験基地を完全に破壊するつもりはなかった。また、V2ロケットの生産を担っていたドーラ=ミッテルバウ強制収容所やトンネル式地下工場を壊滅させようとは考えなかった。アメリカ軍がハンガリーから強制収容所への鉄道を攻撃すれば,多数のユダヤ人の命を救うことになったはずだが、このような人道的な攻撃は、戦略的に無視された。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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