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◆太平洋戦争:南太平洋戦線の米空軍機/航空戦
写真(上)1941年12月以前、フィリピン群島ルソン島中部東岸、イバ飛行場、無塗装のアメリカ陸軍航空隊第11爆撃飛行隊のボーイングB-17D 爆撃機
:奥は太平洋。B-17はフィリピン防衛の切り札として日本軍の上陸作戦を粉砕すべく配備されたが、太平洋戦争緒戦で日本海軍機の空襲を受けた。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-7 11th Bomb Group B-17D at Iba Field, Philippines.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum


写真(上)1943年9月以降、ハワイ諸島オアフ縞、アメリカ海軍航空隊コンソリデーテッド(Consolidated)PBY カタリナ(Catalina)飛行艇(JI-P-40)
:1943年9月以降採用された国籍マーク(青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”)が描かれている。WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-18 PBYs fill ramp..写真は Pearl Harbor Aviation Museum
写真(上)1944年2月、西太平洋、マーシャル諸島エニウェトク(Eniwetok)環礁の飛行場から離陸するアメリカ陸軍航空隊のコンソリデーテッド(Consolidated)B-24 J リベレーター(Liberator)爆撃機
:アメリカ軍は1943年11月にギルバート諸島マキン・タラワ両島、1944年1月30日にマーシャル諸島クェゼリン環礁・ルオット島、1944年2月1日にメジュロ環礁に上陸、1944年2月19日にエニウェトク環礁に上陸し占領した。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-54 Consolidated B-24 departs on mission from airfield at Eniwetok, Marshall Islands in February 1944..
写真は Wikimedia Commons, Pearl Harbor Aviation Museum 引用。

1.1941-1942年、太平洋戦争の勃発

P-35 1−1.米空軍を比島に移駐『大阪朝日新聞』Vol: 第 50巻 Page: 127 1940-10-25

【ワシントン特電二十三日発】アメリカ陸軍省は二十三日ミシガン州セルフリッヂ[Selfridge Field]の第十七追撃部隊[Boeing P-26]およびカリフォルニヤ州ハミルトン[Hamilton Field]の第三十五追撃部隊[P-35A?]より各一個中隊を比島に移駐せしめる旨発表した

【同盟ワシントン二十三日発】二十三日ワシントン消息通の漏らすところによればミシガン州[Michigan]セルフリッヂ飛行場[Selfridge Field]駐屯の第一陸軍航空隊第十七追撃機中隊は近くSelfridge Field移駐を命ぜられることになった、右に関しては陸軍省航空関係筋では一切口を緘しており移駐期日、方法なども詳細不明だが同飛行中隊は兵員百五十名、パイロット二十五名より成っているといわれる(米空軍を比島に移駐『大阪朝日新聞』Vol: 第 50巻 Page: 127 1940-10-25引用終わり)。

写真(右)1941年10月、フィリピン、ルソン島中部飛行基地群の一つ、デルカルメン飛行場(Del Carmen Field)の舗装滑走路に列をなす無塗装のアメリカ陸軍航空隊セバスキー(Seversky)P-35追撃機(戦闘機)とダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)前期型:第二次世界大戦初期・太平洋戦争初頭(1942年春まで)の青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプという国籍マークを描いている。
USAAF Seversky P-35 fighters and Douglas B-18 bombers at Del Carmen Field, Philippines, October 1941. Date October 1941 Source USAF Historical Research Agency via Airpower Magazine, November, 1987, "And Then There Were One" Author USAAF
写真はWikimedia Commons, Category:World War II color photographs of the Pacific War in 1941 File:Delcarmen-1941.jpg引用。


写真(右)1938年、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊第27追撃飛行隊セバスキー(Seversky)P-35追撃機(戦闘機)(28):ミシガン州ハリソンタウンシップのマウントクレメンス近くセルフリッジ基地(Selfridge Field)に駐屯している飛行隊で、胴体側面に部隊マークを記入している。P-35は1935年8月15日初飛行で、出現時には戦闘機としては珍しく、引込み式降着装置を採用した。しかし、主翼に主輪が完全に収納されるのではなく、車輪カバーごと折りたたんで主翼下面に主輪が露出している。1937年7月から部隊配備された。兵装は機首上面に7.62mm機関銃と12.7mm機関を各1挺装備している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46705022 - Catalog:16_007991 - Title:Seversky P-35 27PS Selfridge Field 1938 USAF 14467 - Filename:16_007991.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives引用。


写真(右)1941年、アメリカ、ワシントン州スポケーン郡スポケーン郊外、フェルトフィールド(Felts Field)、未舗装滑走路に車輪止めを付けて待機する迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊セバスキー(Seversky)P-35追撃機(戦闘機)(6418?):P-35は1935年8月15日初飛行、1937年7月から部隊配備された。兵装は機首上面に7.62mm機関銃と12.7mm機関銃各1挺を装備。爆弾搭載量350 ポンド (160 kg)。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46901143 - Catalog:16_008008 - Title:Seversky P-35 Felts Field 1941 via Pete Bowers - Filename:16_008008.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives引用。


セバスキー(Seversky)P-35A追撃機の諸元
P-35乗員:1名
全長:26 ft 10 in (8.18 m)
全幅:36 ft 0 in (10.97 m)
全高:9 ft 9 in (2.97 m)
主翼面積:220 sq ft (20 m2)
空虚重量:4,575 lb (2,075 kg)
総重量:6,118 lb (2,775 kg)
最大離陸重量:6,723 lb (3,050 kg)
発動機:プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R1830-45 ツイン・ワスプ(Twin Wasp)空冷二重星型14気筒エンジン1,050 hp (780 kW) 最高速力:499 km/h
航続距離:1,530 km
実用上昇限度:9,570 m
上昇率:9.74m/s
兵装:機首;12.7mmブローニング(Browning) M2機関銃×2、左右主翼:7.62mm M1919ブローニング機関銃×2、爆弾350lb(160 kg)

1−2. 馬来[マレー]西岸要衝を攻略 : 比島[フィリピン]で四十四機撃破 : 陸軍随所に赫々の大戦果
大阪朝日新聞 Vol: 第 53巻 Page: 83 出版年 1941-12-16

 大本営陸軍部発表(十五日午後一時五分)帝国陸軍部隊は各方面において頑強なる敵の抵抗を撃砕しつつ果敢なる進撃を続行しつつあり

一昨十三日における戦況の概要左のごとし

(一)比島方面 ルソン島に上陸せる各部隊は随所に米軍を撃破して追撃を続行し戦況順調に進捗しつつあり、当方面陸軍航空部隊は熾烈なる防空砲火を冒して大挙中部ルソン重要飛行場を襲撃し小型戦闘機[Seversky P-35]一機撃墜、大型爆繋機[B-17]二機炎上その他爆繋機および戦闘機四十機を爆破するとともに格納庫、貯油庫を反復爆撃し、大火災を生ぜしめたり、また他の一隊はバギオ敵軍司令部およびタルラク兵営を急襲しこれを破壊炎上せしめたり、なおアパリに来襲し来れるピー四〇型[Curtiss P-40]戦闘機一機を撃墜せり、わが方全機無事帰還せり

(二)マレー方面 国境マレー国境陣地を突破し英領マレーに深く突入せるわが軍は果敢なる進撃を続け一昨十三日午後三時三十分マレー西岸の要衝○○を完全に攻略せり
馬来西岸要衝を攻略 : 比島で四十四機撃破 : 陸軍随所に赫々の大戦果引用終わり)

写真(右)1942年頃、アメリカ、僚機と飛行中のアメリカ海軍航空隊ボーイング B-17 フライングフォートレス(Boeing B-17E Flying Fortress)重爆撃機(41-2443)の左側面:B-17で初めて尾部銃座を設け、胴体下部にボールターレット球形銃座を設置したのはB-17E意向で、強力なドイツ戦闘機の迎撃を防ぐために防御力を向上させ、大規模編隊、時には1000機、による集中攻撃をかけるようになった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46702387 - Catalog:16_007780 - Title:Boeing B-17E 41-2443 - Filename:16_007780.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は, SDASM Archives・引用。


ボーイング・モデル 299として1935年7月28日に初飛行し、先行量産型YB-17が1936年12月2日初飛行し、13機が生産された。このB-17は、排気タービン過給器(ターボチャージャー)付きのライト(Wright)R-1820サイクロン9(Cyclone 9)空冷星型9気筒エンジン4基装備の高高度飛行可能な重爆撃機だった。

しかし、YB-17のコックピットは 与圧キャビンでなかっために、大気圧の低い高高度での運用は困難だった。低温・寒気という制約とは比べ物にならない高山病と同じ障害を搭乗者に与えたためである。「寒冷地や高空では、搭乗員は従来と同様の防寒服装を必要とした」という日本語版Wikipediaの記述は、気圧に言及しておらず適切ではない。

写真(右)1942年頃、アメリカ、飛行中のアメリカ海軍航空隊ボーイング B-17E フライングフォートレス(Boeing B-17E Flying Fortress)重爆撃機(41-2599; 製造番号 L-1397)の右側面
Flying Fortress Boeing B-17E 41-2599 PictionID: 40971968 - Title:Flying Fortress Boeing B-17E 41-2599 - Catalog: 15_002703 - Filename: 15_002703.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."-
写真は, SDASM Archives・引用。


ボーイング B-17 E フライングフォートレス(Boeing B-17E Flying Fortress)重爆撃機(12599)の左側面の諸元
全長 74.8ft (22.8m)
全幅 103.8ft (31.64m)
全高 19.1ft (5.82m)
翼面積 1,420ft2 (131.92m2)
空虚重量 35,972lbs (16,317kg)
離陸重量 67,860lbs (30,781kg)

ボーイング B-17 E フライングフォートレスは、B-17で初めて尾部銃座を設け、胴体下部にボールターレット球形銃座を設置し、防御力を向上させている。国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦前に制定された白星・赤丸だが、垂直尾翼に白赤ストライプは描かれていない。B-17は、当初モデル 299 試作機として、1935年7月28日に初飛行した。その後も先行生産型がYB-17で、第二次大戦勃発3年前の1936年12月2日初飛行である。ボーイング B-17 E フライングフォートレスは、初めての大量生産型でアメリカ参戦3か月前の1941年9月5日に初飛行し、500機が生産された。B-17の量産は、B-17Fが3,405機、B-17Gが8,680機で、総計1万2,731機もが大量生産されている。

写真(右)1943年6月以前、アメリカ、プロペラ・エンジンの整備を受けているアメリカ陸軍航空隊第487爆撃飛行隊のボーイング B-17 フライングフォートレス(Boeing B-17 Flying Fortress)重爆撃機
487th Bomb Group B-17 Catalog #: 10_0019348 Title: 487th Bomb Group B-17 Date: 1939-1945 Additional Information: 487th Bomb Group B-17 Tags: 487th Bomb Group B-17, 487th Bomb Group B-17, 1939-1945 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlikers, SDASM Archives 引用。


第二次大戦勃発後にイギリスに貸与されたB-17Cは、大戦勃発1年近く後の1940年7月21日初飛行、生産数38機で、B-17Eは、1941年9月5日初飛行で、この形式になって初めて100機以上の量産が行われた。実際のB-17 Eの生産機数は512機である。つまり、B-17の部隊配備が整ったのは、太平洋戦争の勃発直前だったといえる。しかし、戦時急増によって、12,731機が量産されている。

写真(右)1942年7月4-9日、東京、羽田飛行場での鹵獲機一般展観、フィリピン・マレー・蘭印で鹵獲したアメリカ陸軍航空隊カーチス(Curtiss)P-40E キティホーク (Kittyhawk)戦闘機と奥のイギリス空軍ブリュスター (Brewster)F2A戦闘機:両機とも太平洋戦争緒戦で鹵獲され、日本の国籍マークに塗り替えた。日本に空輸され審査を受けた。その後、戦利品として、B-17、DC-5、A-20とともに羽田飛行場で一般公開された。白縁日の丸を大きく描いて、敵機と誤解されないようにしている。P-40は初飛行1938年10月4日の大手企業カーチスの主力戦闘機で、前作P-36の空冷エンジンをアリソンV-17109液冷V型12気筒エンジン1,040〜1,150hpに換装した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:48346347 - Catalog:16_008528 - Title:Curtiss P-40E captured by Japanese and used for tests 1942 - Filename:16_008528.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1943年、アメリカ、アラスカ準州、タイガーマウスを描いたアメリカ陸軍航空隊カーチス(Curtiss)P-40E キティホーク (Kittyhawk)戦闘機の機首:胴体下面に落下式増加燃料タンクを懸架している。悪天候や濃霧で方向を見失いやすいアリューシャン方面では、慎重な航法と長い航続距離が求められた。P-40Eは、最高速力589km/h、兵装は主翼内に12.7mmブローニングM2機関銃6挺と火力は強い。生産数は1万3,738機に達した。
Curtiss P-40E Catalog #: 01_00092112 Title: Curtiss P-40E Corporation Name: Curtiss Additional Information: Alaska, 1943 Tags: Curtiss, P-40E, Warhawk Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Designation: P-40E
写真は ,Pearl Harbor Aviation Museum引用。


カーチス(Curtiss)P-40E キティホーク (Kittyhawk)戦闘機の諸元 全長 Length: 31 ft 8.5 in (9.665 m)
全幅Wingspan: 37 ft 3.5 in (11.367 m)
全高Height: 10 ft 8 in (3.25 m)
主翼面積Wing area: 236 sq ft (21.9 m2)
空虚重量 Empty weight: 5,922 lb (2,686 kg)
総重量Gross weight: 8,515 lb (3,862 kg)
発動機Powerplant: 1 × アリソン(Allison)V-1710-39液冷V-12エンジン1,240 hp (920 kW)
プロペラPropellers: 3-翅 Curtiss-Wright 電動定速プロペラ
最高速力 Maximum speed: 334 mph (538 km/h, 290 kn) /15,000 ft (4,600 m)
航続距離 Range: 716 mi (1,152 km, 622 nmi) / 70% power
実用上昇限度Service ceiling: 29,100 ft (8,900 m) 上昇時間Time to altitude: 15,000 ft (4,600 m) /6 分15秒
翼面荷重Wing loading: 35.1 lb/sq ft (171 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.14 hp/lb (0.23 kW/kg)
兵装 6 × .50 in (12.7 mm) M2ブローニング(Browning)機関銃
爆弾: 250 ー 1,000 lb (110 ― 450 kg)爆弾、合計 2,000 lb (910 kg) /胴体下面・主翼下面

バッファロー 1−3. [マレー半島西岸]ピナン爆撃
大阪毎日新聞 Vol: 第 53巻 Page: 107 出版年 1941-12-18

大本営陸軍部発表 (十八日午後九時) 帝国陸軍航空部隊は昨十七日大編隊をもってピナン港を急襲し大型輸送船一隻および小型輸送船数隻を撃沈するとともに埠頭および港湾施設を爆砕せり、

またわが戦闘機[一式戦]三機は果敢にも敵中深く突進しイボ飛行場を襲撃し、挑戦し来れる[Brewster F2A]バッファロー戦闘機六機と激烈なる戦闘を交え二機を撃墜、他の四機を遁走せしめるとともに地上にありしバッファロー[Buffalo]七機に銃撃を加えこれを炎上せしめたり
ピナン爆撃引用終わり)

写真(右)1942年6月以前、アメリカ、農地上空を飛行している、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)A-20 ハボック(Havoc)攻撃機(68 9737):1939年1月29日ライト(Wright )R-2600サイクロン(Cyclone)空冷14気筒エンジン装備で初飛行、1941年1月就役のA-20は、イギリスに引き渡され「ハボック」(破壊者)と命名された。初期のA-20A、A-20C は機首ガラス風防だったが、機首をソリッド化したA20B、A20G、A20Hで、12.7mm機関銃6挺あるいは20mm機関銃4挺を前方固定して搭載した地上襲撃型の生産が過半を占めた。1940-1944年に7478機が生産されたが、武器貸与法によってソ連、イギリスに2000機以上が貸与された。
Ray Wagner Collection Image PictionID:47307009 - Catalog:16_008380 - Title:Second P-70 delivered June 1942 originally third A-20 - Filename:16_008380.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1942-1944年、イギリス、アメリカから貸与されたイギリス空軍ダグラス(Douglas) DB-7A (A-20A)ハボック(Havoc)II 攻撃機(AH525):ライト(Wright)R-2600「ダブル」サイクロン(Twin Cyclone)空冷14気筒エンジン装備、イギリス国籍マークとして、胴体に直径49インチの赤白青黄色ラウンデル、垂直尾翼に24インチ×27インチの赤白青縦縞が描かれている。ダグラスDB-7は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney) R-1830-S3C3-G ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン1,100 hp (820 kW)装備で爆弾搭載量は2,000 lb (910 kg)で、1938年10月26日初飛行した。1939年1月23日にDB-7試作機は事故で破損したが、アメリカ訪問中のフランス軍使節団は、1939年2月に100機のDB-7を発注し、1939年10月にはDB-7の発注を170機に引き上げた。DB-7は、爆弾搭載量 1,410 lb (640 kg)、過重状態で1,800 lb (800 kg) となったが、フランス軍制式の7.5mm MAC 1934機関銃を、機首固定機銃として4挺、後上方旋回機銃として1挺配備した。しかし、1940年6月にフランスは降伏したために、これらのDB-7はイギリス空軍に引き渡され「ハボック」(破壊者)と命名された。
15_002653 Douglas Havoc II Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft." PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System. Fighter with 54” diameter Red-Blue upper wing roundels and 49 inch diameter Red/White/Blue/Yellow fuselage roundels. No under wing roundels were carried. The Red/White/Blue fin flash was the standard 24” wide and 27” high – angled backwards slightly to follow the rudder hinge line.
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1942-1944年、イギリス、アメリカから貸与されたイギリス空軍ダグラス(Douglas)DB-7A ハボック(Havoc)II 攻撃機(AH525):ライト(Wright)R-2600「ダブル」サイクロン(Twin Cyclone)空冷14気筒エンジン装備、イギリス国籍マークとして、主翼上面に直径54インチの赤白青ラウンデル、垂直尾翼に24インチ×27インチの赤白青縦縞が描かれている。プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney) R-1830-S3C3-G ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン1,100 hp (820 kW)装備。アメリカ陸軍向けには発動機の出力向上しライト(Wright)R-2600ツイン・サイクロン(Twin Cyclone)空冷14気筒エンジンにし換装したA-20が制式された。ただし、A-20は、ターボ過給機付きR-2600-7エンジン 1,700 hp (1,300 kW) 、A-20Aは過給機付き R-2600-3エンジン1,600 hp (1,200 kW)装備である。イギリスは、1940年4月、300機のDB-7B、すなわちA-20Aを発注している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46171745 - Catalog:16_007598 - Title:Douglas DB-7A Havoc II IWM photo - Filename:16_007598.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- Fighter with 54” diameter Red-Blue upper wing roundels and 49 inch diameter Red/White/Blue/Yellow fuselage roundels. No under wing roundels were carried. The Red/White/Blue fin flash was the standard 24” wide and 27” high – angled backwards slightly to follow the rudder hinge line..
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1939年6月27日以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)B-17B爆撃機の左正面とアメリカ陸軍将校の記念撮影:アメリカ陸軍航空隊の開発要求に応じてボーイング モデル299 (XB-17)がプラット・アンド・ホイットニー R-1690空冷エンジン4基を搭載し1935年7月28日に初飛行した。これを原型としてY1B-17 (YB-17)が試作されたが、発動機はライト(Wrighjt)R-1820空冷エンジンに強化され、1936年12月2日初飛行した。こうして完成したB-17の最初の量産型がB-17Bが1939年6月27日に初飛行した。
Boeing B-17B Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive , 引用。



B-17E 1−4. 十四機を血祭り : 陸鷲、マニラ周辺を連爆
大阪毎日新聞 Vol: 第 53巻 Page: 117 出版年 1941-12-20

大本営陸軍部発表(十九日午後九時十五分)比島方面帝国陸軍航空部隊は十八日撓まざる努力をもってマニラ周辺のキャンプマーフィ、ニコラス・フィールド、サブラン各飛行場を連撃し大型爆撃機[B-17]八機を炎上、戦闘機[Boeing P-26]六機を撃墜破し敵残存空軍に対し一大痛撃を与えたり (十四機を血祭り : 陸鷲、マニラ周辺を連爆引用終わり)

1934年1月初飛行のボーイング(Boeing)P-26 ピーシューター(Peashooter)戦闘機は、固定脚の単葉機で。日本陸軍中島キ27九七式戦闘機よりも古い機体である。しかし、出現時は、高性能戦闘機で、1936年に勃発したスペイン内戦に際しては、スペイン共和国政府側で試用され実戦投入された。実は、ボーイング(Boeing)P-26 ピーシューター(Peashooter)は、スペインへの売り込みのために派遣された機体で、スペインは購入せず輸出はならなかったが、現地のデモ飛行に参加した機体が実戦投入されたのである。しかし、1936年10月21日に撃墜された。

P-26A ピーシューター ボーイング(Boeing)P-26 ピーシューター(Peashooter) 乗員:1名
全長:7.18 m (23 ft 7.25 in)
全幅:8.50 m (27 ft 11.5 in)
全高:3.04 m (10 ft 0.5 in)
主翼面積:13.90 m2 (149.5 ft2)
空虚重量:996 kg (2,197 lb)
全備重量:1,330 kg (2,955 lb)
発動機:プラット・アンド・ホイットニー(P&W) R1340ワスプ(Was)空冷星型9気筒エンジン(排気量22.02)500 hp
最高速力:377 km/h (234 mph)
航続距離:580 km (360 miles)
実用上昇限度:8,350 m (27,400 ft)
上昇率:720 m/min (2,360 ft/min)
兵装:ブローニング M1918M1 / AN-M2 7.62 mm 機関銃 ×2 または M1921E1 / .50口径12.7mmAN/M2ブローニング(Browning)機関銃 ×1 および M1918M1/AN-M2 7.62 mm 機関銃 ×1
生産数:162機

九六式艦上戦闘機 その後、ボーイング(Boeing)P-26 ピーシューター(Peashooter)は中国空軍が購入し、1937年8月20日、南京を渡洋爆撃に来襲した日本海軍三菱九六式陸上攻撃機をP-26戦闘機8機が迎撃し、戦果を上げた。日本海軍三菱九六式艦上戦闘機とは各戦闘も経験している。

1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、アメリカ領フィリピンに配備されていたボーイング(Boeing)P-26 ピーシューター(Peashooter)戦闘機28機は、日本機の空襲を迎撃する計画だったが、日本機の空襲により地上撃破された。

写真(右)1942年6月ー1943年9月、アメリカ、アラスカ準州アリューシャン列島、海上で待機しているアメリカ海軍航空隊コンソリデーテッド(Consolidated)PBY-5A カタリナ(Catalina)飛行艇:1942年6月に採用された国籍マーク(青丸白星、両側の袖なし)が描かれている。
WWII-Kodachrome-images-from-National-Archives-101 WWII Activities of a PBY Squadron - Inspecting Engines. 80-GK-14822.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


コンソリデーデット(Consolidated)PBY カタリナ(Catalina)飛行艇の諸元
乗員Crew: 8
全長Length: 63 ft 10.875 in (19.47863 m)
全幅Wingspan: 104 ft (32 m)
全高Height: 21 ft 1 in (6.43 m)
翼面積Wing area: 1,400 sq ft (130 m2)
空虚重量Empty weight: 20,910 lb (9,485 kg)
最大離陸重量Max takeoff weight: 35,420 lb (16,066 kg)
発動機Powerplant: 2 × プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830-92 ツインワスプ(Twin Wasp)空冷14気筒エンジン1,200 hp (890 kW)
プロペラPropellers: 3-翅定速プロペラ(constant-speed propellers)

写真(右)1942年6月ー1943年9月、アメリカ、アラスカ準州アリューシャン列島、舗装滑走路で移動中のアメリカ海軍航空隊コンソリデーテッド(Consolidated)PBY-5A カタリナ(Catalina)飛行艇:PBYの一部の機体は、陸上での運用に便利なように、引込み式車輪を移動用に装備していた。
WWII-Kodachrome-images-from-National-Archives-102 WWII Inspecting PBY engines. 80-GK-14816.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


コンソリデーデット(Consolidated)PBY カタリナ(Catalina)飛行艇の性能
最高速力Maximum speed: 196 mph (315 km/h, 170 kn)
巡行速力Cruise speed: 125 mph (201 km/h, 109 kn)
航続距離Range: 2,520 mi (4,060 km, 2,190 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 15,800 ft (4,800 m)
上昇率Rate of climb: 1,000 ft/min (5.1 m/s)
翼面荷重Wing loading: 25.3 lb/sq ft (124 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.067 hp/lb (0.110 kW/kg)
兵装Armament: 3 x .30 cal (7.62 mm)ブローニング機関銃 (機首回転銃座・尾部銃座)
2 x .50 cal (12.7 mm) ブローニング機関銃 (胴体後方左右ブリュスター(blister))
爆弾Bombs: 4,000 lb (1,814 kg)

写真(右)1942年6月−1943年9月、アメリカ東岸、エンジン整備中の舗装滑走路上のアメリカ海軍航空隊第31哨戒飛行隊(VP-31)コンソリデーテッド(Consolidated)PBY-5A カタリナ(Catalina)飛行艇(31P8):アメリカから供与されたイギリス軍PBY飛行艇は、太平洋戦争の勃発直前、1941年12月7日、哨戒飛行中にマレー半島奇襲攻撃のために航行していた日本軍艦船・輸送船団を発見し、日本軍部隊発見の連絡に成功した。ただし、戦争簿発前なので、中立国タイに向かう部隊の可能性もあり、イギリス軍は攻撃命令を出さなかった。しかし、上空護衛の日本陸軍九七式戦闘機は、攻撃計画の露見防ぐために、PBYを銃撃、撃墜した。
WWII-Kodachrome-images-from-National-Archives-101 WWII Activities of a PBY Squadron - Inspecting Engines. 80-GK-14822.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1942年6月ー1943年9月、アメリカ、海上迷彩塗装のアメリカ海軍航空隊コンソリデーテッド(Consolidated)PBY-5 カタリナ(Catalina)飛行艇胴体右後方の側方ブリュスター銃座:胴体左右に設けられた涙滴状ブリュスター側方銃座には、.50口径12.7mm ブローニングAN/M2 機関銃×2 (弾薬合計800発) が装備されている。ブリュスター側方銃座の空気抵抗は、低速飛行であればそれほど大きくならないので、視界と射界を確保するには好都合である。
WWII-Kodachrome-images-from-National-Archives-106 WWII Blister Gunner of PBY Squadron80-GK-14804.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1941年1月7日、ハワイ諸島オアフ島真珠湾と湾内のフォード島:アメリカ海軍空母サラトガなど主要艦艇が停泊している。フォード島は、全島がアメリカ陸軍航空隊の航空基地となっている。手前には、船舶用の大型ドック、入渠中の艦船、石油貯蔵タンクが並んでいる。
80-G-451185: U.S. Navy Yard, Pearl Harbor, Territory of Hawaii. Naval Air Station is center looking north, January 7, 1941. Official U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives. (2016/09/20). Date 20 September 2016, 11:06 Source 80-G-451185 Author National Museum of the U.S. Navy
写真は Wikimedia Commons, Category:January 1941 in Hawaii File:80-G-451185 (29708250222).jpg引用。


写真(右)1941年1月17日、ハワイ諸島オアフ島真珠湾と湾内のフォード島(手前):フォード島には舗装滑走路があり、格納庫近くには大型機が並んでいる。その周囲にアメリカ海軍空母エンタープライズ、戦艦4隻など主要艦艇が停泊している。上には、船舶用の大型ドック、入渠中の艦船、石油貯蔵タンクが並んでいる。
Aerial photograph of Pearl Harbor, Hawaii (USA), 17 January 1941. Visible (among many others) are four battleships and the aircraft carrier USS Enterprise (CV-6). Note the number of seaplanes on the Ford Island ramp. Date 17 January 1941 Source the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 595097
写真は Wikimedia Commons, Category:January 1941 in Hawaii File:Pearl Harbor aerial 17 Jan 1941.jpg引用。


写真(右)1941年6月、ハワイ諸島オアフ島真珠湾と湾内のフォード島(手前):フォード島と造船工廠も間に戦艦4隻が停泊している。手前には、巡洋艦2隻が見える。フォード島基地の舗装滑走路には、双発機15機以上が駐機しているのが見える。
View of Pearl Harbor, Territory of Hawaii, in June 1941. Date June 1941 Source Official U.S. Navy photo NH 117884 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command
写真は Wikimedia Commons, Category:January 1941 in Hawaii File:Aerial view of Pearl Harbor in June 1941.jpg引用。


写真(右)1941年10月30日、ハワイ諸島オアフ島真珠湾と湾内のフォード島(手前):フォード島には舗装滑走路・飛行機格納庫が整備され、大型艦船が停泊している。周囲には、大型ドック、艦船、石油貯蔵タンクが並んでいる。手前下が外洋への真珠湾出入り口であるが、外洋に面した手前の半島にはサトウキビ畑か、農地も広がっている。
80-G-451113: Oblique of Naval Base, Pearl Harbor, Territory of Hawaii, looking East, October 30, 1941. (2015/11/03). Date 3 November 2015, 12:13 Source 80-G-451113 Author National Museum of the U.S. Navy
写真は Wikimedia Commons, Category:January 1941 in Hawaii File:Pearl Harbor aerial 17 Jan 1941.jpg引用。


写真(右)1941年10月30日、ハワイ諸島オアフ島真珠湾の海軍工廠:大型戦艦2隻、巡洋艦2隻が明瞭に映っている。大型ドック、艦船、石油貯蔵タンクが並んでいる。
80-G-182879: Pearl Harbor, Territory of Hawaii, October 16, 1941. Vertical view of the Navy Yard, Pearl Harbor, taken by aircraft from Naval Air Station, Pearl Harbor. (9/9/2015). Date 9 September 2015, 10:39 Source 80-G-182879 Author National Museum of the U.S. Navy
写真は Wikimedia Commons, Category:January 1941 in Hawaii File:Pearl Harbor aerial 17 Jan 1941.jpg引用。


写真(右)1941年10月30日、ハワイ諸島オアフ島真珠湾の海軍燃料廠と潜水艦基地:大型潜水艦母艦に6隻の潜水艦が並んでいる。白色塗装された石油貯蔵タンクが並んでいるが、一つだけ迷彩塗装を施しているように見える。
Aerial view of the Pearl Harbor submarine base (right center) with the fuel farm at left, looking south on 13 October 1941. Among the 16 fuel tanks in the lower group and ten tanks in the upper group are two that have been painted to resemble buildings (topmost tank in upper group, and rightmost tank in lower group). Other tanks appear to be painted to look like terrain features. Alongside the wharf in right center are USS Niagara (PG-52) with seven or eight PT boats alongside (nearest to camera) and USS Holland (AS-3) with seven submarines alongside. About six more submarines are at the piers at the head of the submarine base peninsula. Date 13 October 1941 Source U.S. Navy photo 80-G-182880; also U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 1996.488.029.028
写真は Wikimedia Commons, Category:January 1941 in Hawaii File:Aerial view of the Pearl Harbor submarine base and adjacent fuel tank farms on 13 October 1941 (80-G-182880).jpg引用。


1−5.米英艦撃沈破46隻 : 七百七十六機以上屠る : 拏捕船舶四百余隻 : 〔開戦以来の海軍大戦果〕
大阪毎日新聞 Vol: 第 53巻 Page: 145 出版年 1941-12-23

零戦 九七式三号艦攻 ハワイ海戦で米国戦艦九隻その他を撃沈破し、さらにマレー沖海戦英国新鋭戦艦二隻[HMS Prince of Wales/HMS Repulse]を撃沈した帝国海軍はその後も太平洋上の随所に戦果を拡大し開戦後十五日目の二十二日までの戦果を合計すれば撃沈破あるいは拏捕せる英米艦艇は戦艦十一隻を筆頭に実に四十七隻の驚異的数字に達し撃墜破せる英米航空機は実に七百七十六機以上となり拏捕せる敵各種船舶また四百三十余隻を突破するにいたった、彼我の艦艇、船舶、航空機別の損失は左の如くである

[図表(艦艇)あり 省略] (この他未確認のもの多数) [図表あり 省略] [図表(船舶舟艇)あり 省略]

飛行機(艇)
撃墜 一一四以上(内飛行艇二、大型、中型一四)
撃破 六六ニ以上(内飛行艇一一、大型、中型六一)
計七七六以上

同期間内におけるわが方の損害

 艦艇
軽巡洋艦小破一▲駆逐艦沈没一▲掃海艇沈没一、大破一▲特殊潜航艇[甲標的]未帰還五

 飛行機
 損失(未帰還を含む)七二

"大損害" 米海相報告

【ブエノスアイレス本社特電二十一日発】ノックス米海相は二十一日にいたって去る八日の日本海軍のハワイ真珠湾奇襲により米国海軍が徹底的な大損害を受けたと報告し日本軍の攻撃当時ハワイ海陸軍当局が警戒を怠っていたことを認めた(米英艦撃沈破46隻 : 七百七十六機以上屠る : 拏捕船舶四百余隻 : 〔開戦以来の海軍大戦果〕引用終わり)

写真(右)1941年12月7日、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島カネオへ湾海軍基地、格納庫の前で炎上するアメリカ海軍コンソリデーデット(Consolidated)PBY カタリナ(Catalina)飛行艇:初飛行1935年3月28日
pictionid64603703 - catalogextinguish.jpg - title pearl harbor dec. 7 194 pictionid64603703 - catalogextinguish.jpg - title pearl harbor dec. 7 1941 at the u.s. naval air station kaneohe bay oahu t.h. following the surprise japanese air attack. - filenameextinguish.jpg---Please tag this image so that info can be stored with our metadata. This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1941年12月7日、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島真珠湾海軍基地、格納庫の前で炎上するアメリカ海軍コンソリデーデット(Consolidated)PBY カタリナ(Catalina)飛行艇、チャンス・ヴォート(Chance Vought)OS2U キングフィッシャー(Kingfisher)水上手偵察機:PBY初飛行は1935年3月28日、プラット・アンド・ホイットニー R-985ワスプ・ジュニア(離昇450馬力)装備のOS2U初飛行1938年5月で、ともにアメリカ参戦時の新鋭主力機だった。 OS2Uは1,519機生産。
006-10_0029519 SDASM Image Piction ID: 86116781 Pearl Harbor, Hawaii 1941--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1942年初頭、アメリカ、海上迷彩塗装のアメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)F4F-3 ワイルドキャット(Wildcat)艦上戦闘機の左側面:垂直尾翼の赤白ストライプ、胴体側面・主翼上下面の青丸白星赤星という太平洋戦争の勃発前の国籍マークを付けている。
A U.S. Navy Grumman F4F-3 in non-specular blue-grey over light-grey scheme in early 1942. Note modified pitot tube of the later F4F-4 model, moved from the leading edge of the wing to an L-style mount under the wing. Date early 1942; 30 July 2006 (original upload date) Source www.cradleofaviation.org; Author The original uploader was Felix c at English Wikipedia.
写真は San Diego Air and Space Museum Archive File:F4F-3 new pitot tube of later model.jpg引用。


アメリカ軍の国籍マーク変遷
第二次世界大戦初戦・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプ
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白帯ストライプは廃止
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”

1−6.米海軍発表の全文
大阪毎日新聞 Vol: 第 53巻 Page: 145 出版年 1941-12-23

【リスボン六日発同盟】米政府は大東亜戦争劈頭真珠湾で太平洋艦隊の被った大打撃につき昨年十二月十五日海軍長官ノックスを通じて損害の一端を公表したるのみでその後一切真相を隠蔽し頬冠り主義で押通して来たが、ワシントン電によれば米海軍省は国民の不満増大にやむを得ず真珠湾攻撃一周年記念日の前日六日に至り一年前の損害の概貌を発表した、今次の発表は未だなお文句を曖昧にして真相を糊塗せんとしている点があるが当時真珠湾にあった戦艦八隻全部が日本軍の攻撃によって戦闘不能に陥った事実を認めたのは今回がはじめてである、発表内容左の通り

一、一九四一年十二月七日朝日本軍飛行機はハワイ区域にあった米戦艦全部ならびに飛行機の大部分の戦闘力を喪失せしめた、戦闘用艦艇および補助艦艇を含む他の海軍艦艇ならびに陸上施設なかんずく[真珠湾隣接の]ヒッカム[Hickam]、[オアフ島内陸部]ホィーラー[Wheeler]両陸軍飛行場、[真珠湾内]フォード島[Ford Island]ならびに[オアフ島東岸]カネオエ湾[Kāne‘ohe Bay]にある海軍飛行基地もまた損害を蒙った

アリゾナ 一、真珠湾には当時小艦艇を除き合計八十六隻の太平洋艦隊所属艦艇が碇泊していたがその中には戦艦八隻、巡洋艦七隻、駆逐艦二十八隻、潜水艦五隻を含み航空母艦は存在しなかった

一、日本軍攻撃の結果戦艦五隻すなわちアリゾナ[USS Arizona]オクラホマ[USS Oklahoma]、カリフォルニヤ[USS California]、ネバダ[USS Nevada]ウェストヴァージニヤ[USS West Virginia]、駆逐艦三隻すなわち[Mahan-class destroyer]ショー[DD-373]カッシン[DD-372]ダウンズ[DD-375]水雷敷設艦オガラ[DD-375]標的艦ユタならびに大型浮乾ドックがあるいは轟沈され、あるいは大破し当分軍事的使用に堪えなくなった

BB-60 アラバマ 一、さらに戦艦三隻すなわちペンシルヴァニヤ[USS Pennsylvania]メリーランド[USS Maryland]テネシー[USS Tennessee]、巡洋艦三隻すなわちヘレナ[USS Helena]、ホノルル、ローレイ、水上機母艦カーチス[USS Curtiss]、修理船ヴェスタルもまた損傷を受けた

一、以上撃沈乃至撃破された十九隻のうち永久的にかつ完全に喪失したのは戦艦アリゾナ[USS Arizona]一隻である、顛覆したオクラホマに対しては現位置において修復せしむる準備が進められているが現在この修復工事の当否については未だ最後の決定が下されていない、駆逐艦カッシンならびにダウンズはその価値の五〇パーセントが救われた、他の十五隻はあるいはすでに引揚げられて修理され、あるいは将来引揚げ修理を施すこととなろう

一、第二項に述べられた軍艦のうち八隻はすでに数ヶ月前艦隊に復帰した、他のものは艦体の引揚げ修理のほか広汎かつ複雑な機械ならびに電気設備の改修を必要とするので未だ戦闘に参加し得るにいたっていない、しかして海軍修理当局はこの遅延の期間を利用し多数の近代的改装を施し改良を加えている、これらの艦艇の名称は敵に作戦遂行上肝要な情報を提供する結果となるから明かにし得ない

空母サラトガ 一、一九四一年十二月十五日すなわち日本軍の攻撃後僅か八日にしてしかも敵の再襲の可能性が間近に存在していた時機に海軍長官ノックスはアリゾナ、ショー、カッシン、ダウンズ、ユタ、オガラが喪失されてオクラホマが顛覆し、さらに他の艦艇が損害を受けたと発表した、幸いにして真珠湾における引揚げ修理作業は進められたのである

一、米海軍は日本軍の攻撃によりあらゆる種類の飛行機の大半を破壊された、一方陸軍はヒッカム、ホィーラー両飛行場で飛行機の大半を喪失した

一、一九四一年十二月七日の事件の結果、甚大な兵員の損害があった、海軍は将兵死者二千百十七名を出し、九百六十名は現在なお行方不明である、その他負傷者八百七十六名を出した、陸軍将兵の損害は死者二百二十六名負傷者三百九十六名で負傷者の大半は全快して再び部署についている

九九式艦上爆撃機" 一、一九四一年十二月七日午前七時五十五分日本軍爆撃機はヒッカム飛行場ならびにフォード島の海軍軍事施設を強襲した、それにやや先だち日本軍はカネオエ湾の海軍飛行場を攻撃した、数秒後敵雷撃機ならびに急降下爆撃機は各方面から急襲し来り真珠湾内の大型軍艦に攻撃を集中した、敵軍の攻撃は正確な情報に基づく奇襲の要素と相まち多大の成功を収めた

一、日本軍の最初の攻撃は奇襲であったが米軍艦には真に機関銃発射の準備があり、直ちに全員は戦闘準備につくにしたがい自余の対空砲火も漸次これに加わった、殆んど全戦艦の高角砲は五分以内に砲火を開き巡洋艦では平均四分以内であった

一、同日午前八時九分から八時四十分までの間は空襲は中休みの状態で、ただ急降下爆撃機ならびに小型爆撃機が攻撃を加えた、ついでさらに日本軍爆撃機が現われ目標の上空を各方面から前後左右に横切って甚大な損害を目標物に与えた、爆撃機が爆撃を継続しているうちにまたも急降下爆撃機が現われた、第二次空襲は約三十分間続いた

九七式艦上攻撃機" 一、日本軍攻撃前オアフ島にあらゆる機種の米海軍機二百二台は飛行し得る状態にあったが日本軍の集中攻撃の結果、そのうち百五十台は戦闘不能の状態に陥り、その大半は攻撃開始後数分間で失われた、残り五十二機中三十八機は飛行を開始したが他の十四機は離陸地点を失い時機を失した、

したがって米海軍は必要に迫られて止むなく主要防禦武器として対空砲火に頼らねばならず、その結果艦隊を絶えず空襲にさらす羽目に陥った、そのとき米国からハワイへの途上にあった米航空母艦から飛来した十八機の偵察爆撃機が依然空襲下の真珠湾に到着し、ただちに前述の戦闘機隊に参加したが四機は撃墜され残りの十四機中十三機は索敵のため出発した攻撃を開始されたとき上空にあったのは哨戒機が七機であった

TBD" 一、攻撃に参加した日本機の総数を決定することは困難であったすべての報告を慎重に検討すればもちろん戦闘機も若干あったが正確に型を識別し得ない

一、一九四一年十二月七日オアフ島には総計二百七十三機の陸軍機が所在していたがヒッカムおよびホィーラー両飛行場の滑走路が破壊されたため飛翔し得たのは極めて少数であった

一、米太平洋艦隊が一九四一年十二月七日、日本軍の攻撃の結果受けた損害は極めて重大であったが、真珠湾その他の修理所に所属している海軍ならびに非戦闘人員の熱心かつ不断の努力のお蔭で緒戦における立遅れは間もなく克服されよう(米海軍発表の全文引用終わり)

写真(右)1938年、アメリカ、カリフォルニア州(?)、岸壁に横付けしているアメリカ海軍潜水艦ノーチラス (USS Nautilus: SF-9/SS-168)と同型艦ドルフィン (USS Dolphin: SF-10/SSC-3/SS-169) :SS-168は、起工 1927年5月10日 進水 1930年3月15日 就役 1930年7月1日 退役 1945年6月30日。SS-169は、起工 1930年6月14日 進水 1932年3月6日 就役 1932年6月1日 退役 1945年10月12日。ともに排水量/水上:2,730トン 水中:4,050トン、 全長 371 ft (113 m) 全幅 33 ft 3 in (10.1 m) 吃水 15 ft 9 in (4.8 m) 機関 MANディーゼルエンジン4基 ウェスティングハウス発電機2基 最高速力 水上:17 ノット (31 km/h) 水中:8 ノット (15 km/h) 乗員 士官、兵員88名 兵装 53口径6インチ砲2基、7.62ミリ機銃2基(竣工時) 21インチ魚雷発射管6門
SDASM Archives Follow Nautilus_Dolphin_S20 1938 From the San Diego Air and Space Ship Image Collection.
写真は San Diego Air and Space Museum Archive引用。


1−7.燦たり・陸海軍の戦果 : 敵潜水艦十六隻を撃沈 開戦以来 : 海軍=大損害与えしもの多数
読売新聞 Vol: 第 53巻 Page: 176 出版年 1941-12-31

【大本営海軍部発表】(三十日午後三時三十分) 帝国海軍は艦艇並びに飛行機を以て南西太平洋方面の敵潜水艦を掃蕩中なるところ開戦以来二十八日までに敵潜水艦合計十六隻を確実に撃沈せるほか、多数の敵潜水艦に大損害を与えたり、なお現在までにわが方は潜水艦隻を失えり(註)右潜水艦には特殊潜航艇を含まず

敵機撃墜破五十六 南方一帯索敵攻撃

大本営海軍部発表(三十日午後三時三十分)

一、帝国海軍航空部隊は連日に亙り比島および英領「ボルネオ」の各航空基地に分散逃避せる残存敵機を掃蕩すると共に南支那海、「スルー」海「セレベス」海等の洋上並びに沿岸を索敵攻撃中にして二十一日以後二十八日までの期間において敵飛行機合計五十六機を撃墜又は撃破せり、戦果詳細左の通り

(一)比島方面【空戦撃墜】大型六機(うち飛行艇四機)小型三機【地上銃爆撃破】大型六機(うち飛行艇四機)小型二十一機

(二)英領ボルネオ方面【空戦撃墜】大型四機(うち飛行艇一機)小型七機【地上銃爆撃破】大型一機、小型一機

(三)南支那海「セレベス」海、「スルー」海方面【空戦撃墜】大型二機(何れも飛行艇二)【地上銃爆撃破】大型五機(何れも飛行艇)

(四)比島、英領ボルネオ方面に在る多数の敵飛行基地を攻撃し格納庫その他軍事施設多数を爆砕せり、なお右作戦に於て我が水上機も各所に活躍せり

敵艦船二十九隻撃沈破 マニラ湾内で

二、帝国海軍航空部隊は「ルソン」島に在る敵の海上退路を遮断する目的を以て連日に亘り「マニラ」湾内の敵艦艇船舶を攻撃中なりしが二十八日までに収めたる戦果左の通り

(一)二十五、二十六両日=駆逐艦一隻撃沈、潜水艦二隻撃沈、船舶六隻大破 (二)二十七日=船舶十四隻大破(傾斜沈没に瀕せるもの七隻) (三)二十八日=船舶六隻大破 三、二十二日以後二十八日までの期間におけるわが方飛行機の損害、自爆せるもの一機、未だ帰還せざるもの一機

新嘉坡[Singapore]へ行程あと半分 陸軍=支那方面敵屍三十二万 綜合戦果

【大本営陸軍報道部長談】米英に対する宣戦の大詔厳かに渙発せられ一億蹶起総力を挙げて征戦の目的完遂に驀進し旭旗燦として南溟に輝きわたった昭和十六年を送るに方って茲に蜿●二万粁の戦線に日夜活躍しているわが陸軍数百万将兵の過去一ヶ年の奮戦の跡を顧みよう

支那方面

Chiang Kai-Shek 夙に全支の中枢を制し敵を僻陬に圧した支那派遣軍は本年に入るや更にわが作戦目標を敵中央軍の撃滅に指向し一ヶ月平均二千回以上の大小作戦を敢行した、この黙々たる勇戦奮闘こそ実に今次大東亜戦争遂行を磐石の安きに置く確固たる根基となったというべきであろう、今その主なるものを挙ぐれば次の通りである

1、予南作戦(中支、一月下旬より二月上旬まで交戦兵力十万)第五戦区湯恩伯軍に潰滅的打撃を与えた

2、蘇北作戦(中支、二月中旬より三月上旬まで交戦兵力五万)国共相剋の修羅場を戡定して国民政府の政治力を滲透せしめた 3、封鎖作戦(中南支)二月上旬より四月中旬まで四回に亙り中南支沿岸に上陸しその援蒋路の拠点を粉砕した

4、中原作戦(北支・五月上旬より六月中旬まで・交戦兵力二十五万)中央正規軍二十万を撃滅し北支治安の癌を除く)

5、東江作戦(南支五月中旬・交戦兵力二万)恵州付近に侵入せる正規軍を粉砕した

6、晋察翼辺区作戦(支・化八月中旬より十月上旬まで交戦兵力七万)北支の共産軍に大打撃を与え其の根拠地を覆滅す

7、清郷工作(中支七月より目下尚続行中)新政府側と緊密なる協力の下に着々成果を挙げている

8、長沙作戦(中支九月中旬より十月上旬まで、交戦兵力三十万)第九戦力の中央軍を撃滅しその戦力及抗戦組織に大打撃を与う

9、鄭州作戦(北支、十月上旬より十月下旬まで、交戦兵力十二万)大黄河を越えて鄭州に進撃し第一戦区の正規軍を撃破した

10、空航部隊の作戦 以上のあらゆる地上作戦に常に緊密に協力し偵察、指揮連絡、直接戦闘協力等に任じたほか重慶、蘭州、梁山、昆明、蒙自等の奥地進攻、揚子江上流の敵船舶の攻撃に任じ或いは雲南方面の援蒋路[蔣介石援助ルート]の爆撃、西南方面に対する重慶軍の策動を制し特に再建途上の敵空軍に策動を制し特に再建途上の敵空軍に徹底的打撃を与えてこれを挫折せしめた

本年度における綜合戦果 (自一月至十月)

Stilwell 敵の遺棄死体(わが軍の確認せるもののみ)三十二万九千九百二十七

捕虜 九万四千八百二十六

鹵獲品 各種火砲六占百三十七、重、軽機関銃二千四百四十一、小銃九万一千三百八十六、自動貨車十六、列車八十五、船艇百三(以上鹵獲品は主要なるもののみを計上しこの他多数あり)

敵飛行機撃墜破 十六

わが損害(戦死) 九千五百二十七

しかして之等の作戦によって敵戦力は一段と低下を来たし、その攻撃力著しく弱化せるのみならずその攻撃力は殆ど消磨し中支において殊勝にも彼が精魂を傾けて試みた僅か二回の自主的反抗すら極めて消極鈍鋒で却ってわが反撃に好餌となった、特に沁河作戦の如きはわが損害が三名であったのに比し敵は軍司令官以下三千名が捕虜となり極めて莫大なる損害を蒙ったる如きはその好適の実証と云えよう

 又[1938年8月樹立]重慶[蒋介石]政権の財政経済にも甚大の打撃を与えたことは物資特に生活必需品の不定甚しく物価が事変前の約三十倍に騰貴したこと法幣の大暴落によって毎月十億元近くの不換紙幣を出し辛うじて収支を糊塗しつつあるのを見ても十分窺われる、これわが封鎖の強化特に本年春夏の候四回に亙り行われた上陸封鎖作戦に負うところ大である、治安につき一言すれば北支に在っては治安強化運動に中支に在っては清郷工作にとそれそれ[1940年3月樹立][汪兆銘]新国民政府の諸工作に全面的協力を傾け来った結果北支の大部分と中支三角地帯とには既に殆んど匪影を没しわが三拠点地の治安は画期的向上を来し之に伴い新政府の発展また極めて順調活溌である

Chennault かかる間に大東亜戦争の勃発となったのであるが十二月八日以降在支米英軍並びに敵性租界権益等の処理を迅速に完了し又香港方面は十二日九竜半島の戡定に引続き十八日香港島の上陸に成功し以来頑強に抵抗する英軍に対し猛攻を加え二十五日彼の無条件降伏によりわが手に帰し茲に支那大陸より米英の勢力を完全に一掃したのであるしかして陸海におけるわが緒戦の大捷は重慶[蒋介石]政権に異常なる恐怖衝動を与えたが彼はなお頑迷抗戦を断念せず全く米英の傀儡となり切っておるのである

この秋わが雄渾なる大東亜戦争の遂行により米英を粉砕して阿片戦争以来の中国の屈辱をも皇軍の手によって現に払拭しつつある事実を重慶は如何に考えるであろうか

満州方面

在満皇軍は厳寒酷暑を克服しつつ広大なる不毛辺陬の地に夙夜国境の警備に将又治安の維持に黙々任務を完遂し剰へ錬武に寧日なく今や無限の戦力と有事即応の態勢とを完備し北辺の護りは正に鉄壁である

南方方面

わが海軍の緊密なる協力のもとに広大なる地域に亙る大上陸作戦は悉く成功し目下著々戦果を拡大中であるが、その状況は次の通りである

陸軍航空部隊の作戦

開戦劈頭先ず比島および馬来[マレー]方面において果敢なる航空撃滅戦を敢行し旬日にしてその大多数を撃破すると共に更に各方面に輸送船団の掩護、泊地の掩護、上陸戦闘の直接協同等に任じて上陸作戦成功の基礎を築き引続き以下述ぶる如く地上部隊の作戦に策応し果敢なる戦闘を行っておるが、既に粉砕した敵の飛行場六二、撃破せる敵機四百余その他莫大なる戦果を挙げている

馬来方面

八日「シンゴラ」「パタニ」「コダバル」に上陸以来泰領に侵入せる英軍を駆逐し十一日には[地雷原/鉄条網/対戦車壕/トーチカ/砲兵陣地のある]「ジットラ」で英機械化一師団を撃滅し十四日には「ビクトリヤ・ポントン」を十九日には西岸の要衝「ペナン」港を占領し以て印度緬甸との連絡を切断し且印度洋に無限の脅威を与え更に「イポー」を奪取しその第一線は「シンガポール」までの行程九百余粁の中既に四百余粁を突破しなお息もつかず所任の敵を撃破しつつ「シンガポール」を目指して猛進撃を続行している

 又わが航空部隊は英空軍に殲滅的打撃を与えて制空権を確保し地上部隊の偉大なる進撃を可能ならしめている外英の航空戦力の中心たる蘭貞を連続急襲撃掃し以て援蒋路の遮断に任じているが、この方面の我作戦は香港の陥落と共に英本国に深刻なる敗戦感を与えつつある

比島方面

わが先遣部隊は十日「ルソン」島北西岸「アパリ」「ヴイガン」に十二日「レガスピー」に上陸して米軍を撃破し先ずその航空根拠地を獲得しわが航空部隊また海軍航空部隊と協力して既に比島空軍の大部を撃滅し目下地上作業を緊密なる協力をなしている  更に二十二日西岸「リンガエン」湾に、二十四日には東岸「ラモン」湾に対する大部隊の上陸に成功し米軍が金城蕩池と恃む「マニラ」大要塞に対する大包囲鎧を圧縮中である、一方「メングナオ」島に対しては二十日敵前上陵に成功し直ちに首邑「ダバオ」を占領して邦人の大部を救出し更に戦果を拡大中である

英領「ボルネオ」方面

十六日烈風と大波涛とを冒して北方「ミリ」付近に、また二十五日には要衝「クチン」に対する上陸作戦に成功しこれを確保すると共に敗残英軍の撃滅を続行している

グアム島方面

十日奇襲上陸に成功し総督以下三百五十名を捕虜として全島を占領して以来わが海軍との緊密なる共同の下に治安の恢復を図り鉄壁の守備に任じている 史上その比を視ざる雄渾なるこれ等陸海空一対の大作戦の成功は一に大御稜威の然らしむる所であって神国日本にして初めて可能なるものである、しかし物質の大を誇る米英は今後ともなおあらゆる策謀を試るであろう、従ってこの戦争が長期戦となることを覚悟し褌を緊め直して軍官民一体となり之を乗り切らねばならぬ(燦たり・陸海軍の戦果 : 敵潜水艦十六隻を撃沈 開戦以来 : 海軍=大損害与えしもの多数引用終わり)

写真(右)1938年、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島真珠湾、航行するアメリカ海軍潜水艦アルゴノート (USS Argonaut: SM-1/SF-7/SS-166/APS-1) :第一次世界大戦のドイツ巡洋潜水艦UボートU142型を原型とした機雷敷設潜水艦としてアメリカが開発。排水量 水上2,170トン、水中4,080トンで、第二次大戦終戦までに完成したアメリカ最大の潜水艦。53口径6インチ砲2基、機雷敷設筒2基(係維機雷60個)。
SDASM Archives SDASM Archives Follow USS Argonaut Pearl 1938 From the San Diego Air and Space Ship Image Collection
写真は San Diego Air and Space Museum Archive引用。



1−8.敵俘虜九千、遺屍三千 : 撃墜破541機、撃沈破37隻 : 陸軍綜合戦果 : 自十二月八日至同二十六日
大阪毎日新聞 Vol: 第 53巻 Page: 180 出版年 1942-01-01

大東亜新秩序建設の黎明は四海を大きく光被してわれらは皇国無窮の発展を約束する昭和十七年を迎えた、この日午前零時大本営陸軍部では大東亜戦争開戦の昨年十二月八日より二十六日にいたる十九日間の帝国陸軍部隊の赫々たる大戦果を左のごとく発表した、敵の遺棄死体は三千、捕虜は九千の多きに上っており、この輝く大戦果確立におけるわが方の尊き犠牲は戦死七百四十三名、戦傷一千七百九十九名で皇軍将兵の忠勇義烈に感謝感激せざるを得ない

大本営陸軍部発表(一日午前零時)帝国陸軍部隊は引続き各方面に兵力を増派し空陸緊密なる協同の下に随所に敵を粉砕進撃中にして全戦局はさらに一段の進展をみつつあり、開戦以来昭和十六年十二月二十六日までの綜合戦果左のごとし

マーチンB26 一、鹵獲品 飛行機十六機、各種火砲(香港要塞砲を含まず)百六門、機関銃二百二十三挺、銃器四千百九十五挺、銃砲弾七万九千九百五十五発、戦車(装甲車輛を含む)七十六輛、自動車一千三百八十九輛、鉄道車輛三百一輛、各種器材、糧秣等多数、別に莫大なる燃料を鹵獲せり
二、撃墜(破) 爆撃機百三十五機、戦闘機四百六機、計五百四十一機
三、撃沈(破) 艦船大型三十三隻、小型四隻、計三十七隻
四、遺棄死体 約三千、俘虜約九千
五、わが軍の損害 戦死七百四十三名、戦傷一千七百九十九名、飛行機四十九機、船舶沈没四隻、損傷十二隻

なお香港要塞攻略の戦果に関しては二十六日までに判明せるもののみを掲げたるが調査完了の上は要塞砲、俘虜その他鹵獲品さらに増大する見込みなり (敵俘虜九千、遺屍三千 : 撃墜破541機、撃沈破37隻 : 陸軍綜合戦果 : 自十二月八日至同二十六日引用終わり)


2.1942-1943年、太平洋戦争の中盤

一式戦 1941年12月に勃発した太平洋戦争では、アメリカ陸軍航空隊は、西半球の安全の対ドイツ戦のヨーロッパ方面主戦場を重視していたが、東太平洋方面のアリューシャン列島、ソロモン群島・ニューギニア島でベルP-39戦闘機を使用した。対戦相手は、日本陸軍中島一式戦キ43隼と日本海軍の三菱A6M零戦が主だったが、飛行性能が劣っていたために、零戦相手の空戦には不利だったが、配備数の上から数的有利のもとで、善戦したようだ。

しかし、太平洋戦争でも、1943年以降、陸上戦闘機として、ロッキードP-38戦闘機、リパブリック(Republic)P-47 サンダーボルト(Thunderbolt)戦闘機、F-4Uコルセア戦闘機が大量配備されるようになると、ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)は最前線から退役していった。結局、ベルP-39の過半は、低性能だったためにアメリカでは使用されず、ソビエト連邦への貸与機として活躍している。

写真(右)1943年9月、アメリカ南部、フロリダ州北東、ジャクソンビル・ネイバル・エアー・ステーション、アメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)F4F-4 ワイルドキャット(Wildcat)艦上戦闘機:訓練部隊で使用されたF4Fのようだ。低翼ではなく、中翼式のため、降着装置は、胴体下面に引き込む構造になっている。車輪間隔が狭く、地上安定性はよくない。
WWII-Kodachrome-images-from-National-Archives-10 WWII LTJG John B. McDonald, USN on Wing of F4F. 80-GK-16176 Title: Lieutenant Junior Grade John B. McDonald, Jr., USNR Caption: Stands on the wing of a Grumman F4F-4 Wildcat fighter before taking off at Naval Air Station Jacksonville, Florida in September 1943. Note details of the plane's landing gear. Description: Catalog #: 80-G-K-16176 Copyright Owner: National Archives
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


アメリカ軍の国籍記章は
(1)第二次大戦以前・アメリカ参戦前・太平洋戦争緒戦:青丸に白星、中央に小さな赤丸、垂直尾翼方向舵に赤白ストライプ
(2)太平洋戦争初期・1943年6月以前:青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白ストライプは廃止
(3)1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
(4)1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
(5)第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

カラー写真(右)1941-1942年初頭、アメリカ、舗装滑走路上で地上勤務員から整備を受けているのアメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)F4F ワイルドキャット(Wildcat)艦上戦闘機の正面:発動機プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830-86 (1,200hp)を搭載、3翅プロペラ(直径9ft 9in :2.97m)を回転させる。左右主翼内の.50口径12.7mmブローニング(Browning)M2機関銃各々2挺(携行弾数:各450発)の射線を調整しているのか、主翼下に揺れを防止する支柱を立てて支えている。
WWII-Kodachrome-images-from-National-Archives-58 WWII Ground Crewmen Work on F4F. 80-GK-15611
写真は Pearl Harbor Aviation MuseumArchive 引用。


アメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)F4F-3 ワイルドキャット(Wildcat)艦上戦闘機
全長:8.63 m
全高:28 ft 9 in (8.76 m)
全幅: 38 ft 0 in (11.58 m)
全高:11 ft 10 in (3.61 m)
翼面積: 260 sq ft (24 m2)
自重:4,907 lb (2,226 kg) 全備重量:7,423 lb (3,367 kg) 発動機:プラット・アンド・ホイットニーP&W R-1800空冷星型14気筒1,200 hp (890 kW) 最高速力:331 mph (533 km/h, 288 kn) 航続距離:845 mi (1,360 km, 734 nmi) 実用上昇限度:39,500 ft (12,000 m) 兵装: .50口径12.7mmブローニング(Browning)M2機関銃 4挺(主翼:各450発)
外装タンク: 2 × 58 US gal (220 L)

カラー写真(右)1944年5月、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島東海岸、べロウ・フィールド(Bellows Field)、未舗装滑走路上で待機するリパブリック(Republic)P-47 D サンダーボルト(Thunderbolt)戦闘機:胴体下面に落下増槽タンク110gal(416L)入りを懸架しているが、左右主翼下面の大型ラックにも165gal(625L)落下増槽タンクをできる。左右主翼内の.50口径12.7mmブローニング(Browning)M2機関銃各々4挺(携行弾数:3,400発)を搭載、給弾ベルトの幅だけ機銃配置がずれているので、内側の銃身が、外側の銃身より突出している。R-2800-59ダブルワスプ空冷星形18気筒エンジン装備。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-78 P-47D, in a revetment on Saipan, was delivered through Bellows Field, Oahu, HI, in May 1944.
写真は Pearl Harbor Aviation MuseumArchive 引用。


リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)戦闘機は、排気タービン過給機付きの高高度戦闘機として、1940年3月初飛行した。565km/hの高速を発揮したリパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)だったが、排気タービンが不調だったために、272機の生産で終わった。1941年6月、アメリカ参戦半年前に、中国空軍へ、108機のP-43が貸与された。

しかし、リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)の発展型がリバプリック(Republic)P-47 サンダーボルト(Thunderbolt)で、1941年5月6日初飛行、排気タービン過給機付きプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジンを搭載して1943年4月から就役、1万5,660機が量産された。

写真(右)1944年7月以降、マリアナ諸島サイパン島イスレー飛行場を基地とした、迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊第318戦闘飛行隊のリパブリック(Republic)P-47D サンダーボルト(Thunderbolt)戦闘機:P-47Dまでの操縦席ガラス風防(コックピット・キャノピー)は、キャノピーと後部胴体が一体化したレザーバック型である。サイパン島周辺の防空任務に就いたが、航続距離の不足のために、日本本土への攻撃に向かうB-29を護衛することはできなかった。しかし、1945年2月まで、硫黄島を基地とした日本陸海軍機がサイパン島を攻撃してきたので、その防衛に使用された。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-75 P-47D Thunderbolts zooming just above the waves, head outbound from their 318th Fighter Group base at Isely Feild, Saipan.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)戦闘機は、排気タービン過給機付きの高高度戦闘機として、1940年3月初飛行した。565km/hの高速を発揮したリパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)だったが、排気タービンが不調だったために、272機の生産で終わった。1941年6月、アメリカ参戦半年前に、中国空軍へ、108機のP-43が貸与された。

写真(右)1944年7月以降、マリアナ諸島サイパン島イスレー飛行場を基地とした、無塗装のアメリカ陸軍航空隊第414戦闘飛行隊のリパブリック(Republic)P-47N サンダーボルト(Thunderbolt)戦闘機:P-47Nからの操縦席ガラス風防(コックピット・キャノピー)は、涙滴型バブルキャノピーで、最高速力466マイル(750km/h)を発揮した。超大型落下式増加燃料タンクを装備しP-47N戦闘機で、マリアナ諸島の第6爆撃飛行隊B-29が日本本土への攻撃に向かうをの途中までの援護した。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-88 414th Fighter Group P-47N flies close escort for a 6th Bomb Group P-29 over the far reaches of the Western Pacific in 1945..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


リバプリック(Republic)P-47 サンダーボルト(Thunderbolt)は、排気タービン過給機付きのプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジンを搭載、1941年5月6日に初飛行、1943年4月から就役し1万5,660機もが量産された。

写真(右)1944年7月以降、マリアナ諸島サイパン島イスレー飛行場を基地とした、無塗装のアメリカ陸軍航空隊第10戦闘飛行隊、落下式燃料タンク(165ガロン)を両翼に懸架したリパブリック(Republic)P-47D サンダーボルト(Thunderbolt)戦闘機:750L(165ガロン)の大型落下式増加燃料タンクを装備しP-47N戦闘機で、マリアナ諸島のB-29が日本本土への攻撃に向かうをの途中までの援護することができるようになった。その後、P-47Nは、本土の地上襲撃を行うようになったが、1945年2月まで、硫黄島を占領してからである。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-86 Lockheed-designed laminar-flow 165-gallon drop tanks were used extensively by Fifth Air Force P-47Ds in the Pacific, such as this 10th Fighter Squadron aircraft, where they became indispensible for long-range operations..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。



2−1.重慶撃砕即米英掃滅 : 国府軍参加・意義大 : 支那大陸新作戦を見直せ
大阪毎日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 70 出版年 1943-02-1
https://hdl.handle.net /20.500.14094/ 0100347454

I-16 タイプ5 【上海特電十六日発】十五日[湖北省]沙市[Shashi]南昌方面に開始された新作戦についで十六日江蘇省北部蘇淮地区に突如として重慶軍韓徳勤麾下の第八十九軍掃蕩の火蓋が切られた、期せずして同時に開始された中支における二つの新作戦は第一には支那大陸における本年最初の大規模掃蕩戦であり、第二には国民政府が参戦後はじめて堂々たるわが友軍としてこれに参加した点で極めて重要な意義を有する

重慶が単なる支那の反逆児であるという性格から完全に米英世界侵略の一単位に変ってからすでに一年余、支那の戦場もまた大東亜戦争の海陸にわたる広大な戦線の主要な一部に変貌した、

われわれはいまや大陸においても米英空軍の必死の反攻に直面しているのである、無差別爆撃[Strategic Bombing]の宣戦布告文には在支米英空軍の支那各地盲爆を重要な理由にあげているがこれに応えて敵は和平支那各地に[汪兆銘]国民政府を揚言して憚らない、新鋭国府軍の新作戦参加はここに全く新たな意義を持つのである、

重慶撃砕作戦はいまや直に米英掃蕩戦である、和平地区に残存する敵勢力の掃蕩は治安の確立、生産の増強、戦時意識の昂揚を参戦の三大目標とする国府軍の第一着手であり殊に戦力培養の先決条件として要請されている、大陸戦線と海洋戦線の密接なる結びつきは次ぎの如き重慶情報によっても裏附けられるすなわち大東亜戦における皇軍の歴戦連勝は反枢軸側のいわゆる対日包囲陣形作戦計画を瓦解せしめたが執拗なる敵は重慶治下地域とインドとを一方の基地としソロモン群島を他の根拠地として頽勢挽回に狂奔しており大陸における戦線は今や全く新たな眼をもって見直さなければならなくなって来た (重慶撃砕即米英掃滅 : 国府軍参加・意義大 : 支那大陸新作戦を見直せ引用終わり)


2−2.飛行工場四十を整備 : 敵、大陸からの対日空襲に汲々
大阪朝日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 80 出版年 1943-03-20

【上海特電十八日発】米英蒋の企図する東亜第二戦線たるビルマ奪回作戦は次第に激化しつつあるがこれがいわゆる対日総反攻として展開されるかどうかの鍵を握るものとして在支米空軍の動向が世界的注視を浴びるにいたった、

カーチスP-40 最近上海に達した諸情報を綜合するに重慶政権においても空軍の重要性を認識し、航空委員会が中心となって官民各種団体を動員して飛行機献納運動や、グライダー熱昂揚に当たってきたが、民衆一般に働きかけた一元献金運動は昨年中に約三十機の献納を見る一方支那人操縦練習生を約七回にわたってアメリカに派遣し二ヶ年の課程を終わった約二百名がすでに帰国して成都飛行場を中心に現に訓練中であるといわれるが米英よりの援助飛行機の入手が困難なるため現有勢力は少数の爆撃機を含む戦闘防空隊にすぎずその機種もアメリカ製を中心とするとはいえイギリス製、ソ連製の旧式[SB]爆撃機もあり、実に雑然としたいかにも寄せ集めという感じの強い旧式飛行隊である、その総数については種々の説があるが多くとも二百機を出でず、その五分の四は爆撃機で大多数を占める、

成都、重慶、、梁山、昆明
戦闘機はアメリカ製の[Vultee]P66型[Vanguard]、これについで[Curtiss]P40型およびソ連製にイ-16型[Polikarpov I-16]とみられている如く未だ第一線に出撃して積極的に対日反攻をとり得ず、成都、重慶、蘭州、梁山、昆明各飛行場に蟄伏している現状である

 一方在支アメリカ空軍は一月下旬より二月下旬にいたる約一ヶ月間にさえ二十数回にわたるわが陸軍航空部隊の出撃を受けながらも依然として支那奥地に残存してビルマを中心とする占領地区に蠢動をつづける執拗性を見せている、

ノースアメリカンB25 現在ほとんど毎日にわたって猛襲を続行するわが陸軍航空部隊活躍の跡をを見るに猛爆の雨は翁源、肇慶、清遠、恵州、思成路、老川口、渦陽、三斗坪、巴東、漢中、桂林、衡陽、盧氏、柳州、万県など奥地飛行場をほとんど潰滅に期せしめ、いまなお続行中であり、その戦果はきわめて甚大なるものがある、しかし在支アメリカ空軍は現にその主力を昆明、霑益、桂林方面において今やビルマ奪回作戦に努力を集中するのみでいわゆる支那大陸作戦ならびに対日爆撃には消極的態度をとる以外余力なきもののごとくである、もっとも去る二月中旬重慶空軍戦闘機部隊と協力して支那戦線に出動せんとする企図を示したが二月二十四日のわが戦爆連合による梁山飛行場急襲によって出鼻を挫かれた事実もあり、今後もアメリカより飛行機の来援を予想されるため航空機による対日積極的進撃の可能性はなお残存するものと思われる、

しかしこれがためにはなお現有勢力百余機(うち爆撃機はノースアメリカンB25型を中心とする三十機程度)と見られており在支アメリカ空軍戦闘機隊長スコットは去る二月二日付の前鉾画報(ニューヨーク発行)において「もし在支アメリカ空軍が五百機をもって重慶軍の反攻を掩護すれば必ず日本軍を撃砕し得るであろう」といえるごとくなお数倍の増強が必要であり、重慶政権ならびに米当局の焦躁が窺われるのである

しかし重慶治下には現に航空関係工場が蘭州、成都、簡州、白市駅、遂寧、梁山、嘉定、雅安、大定、貴陽、緑山、昆明、都安、柳州、臨安、衡陽などをはじめ野戦航空機修理工場を入れれば約四十ケ所整備されたことは重慶側の積極的関心を示すものとして注目されている(飛行工場四十を整備 : 敵、大陸からの対日空襲に汲々引用終わり)

写真(右)1942-1943年頃、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39D戦闘機
Bell , P-39D, Airacobra Catalog #: 01_00090389 Manufacturer: Bell Official Nickname: Airacobra Designation: P-39D Notes: USA Title: Bell , P-39D, Airacobra
写真はSmugMug+Flickr., San Diego Air and Space Museum 引用。


ベル(Bell)P-39 戦闘機は、アメリカ参戦前、ドイツとの戦いに苦戦していたイギリス空軍に貸与されたが、評価は低く、部隊配備は進まなかった。しかし、1941年6月に独ソ戦が勃発すると、アメリカは武器貸与法を援用して、ソ連にP-39戦闘機200機を貸与することを決めた。

こうして、独ソ戦勃発後の1941年6月から、イギリス、カナダ、オーストラリア、中国などに加えて、ソビエト連邦も武器貸与法の対象となった。1945年9月の終戦までに、アメリカは、ドイツと戦うソビエト連邦に、ベル(Bell)ベルP-39(Airacobra)戦闘機は4,719機(総生産数の49.2%)を貸与した。ソ連では、大口径砲を活用しての地上襲撃、低空でP-39は活躍している。

写真(右)1942年頃、西太平洋、ソロモン諸島ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場、未舗装滑走路に駐機しているアメリカ陸軍航空隊第67戦闘飛行隊ベル(Bell) P-39/P-400 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機(22-):機首プロペラ軸から、37mm機関砲ではなく20mmイスパノスイザ機関砲(アメリカでライセンス生産)を装備している。アメリカは占領したばかりの日本軍が建設した飛行場を拡張整備して使用した。
A U.S. Army Air Forces Bell Airacobra (probably a P-400) of the 67th Fighter Squadron on Guadalcanal, in 1942. Date 1942 Source Official U.S. Marine Corps photograph USMC 61540 from the USMC University history division [1]. Author Cpl L.M. Ashman, U.S. Marine Corps
写真は Wikimedia Commons, Category:Bell P-39Q Airacobra  File:Bell Airacobra of the 67th Fighter Squadron on Guadalcanal, in 1942 (USMC 61540).jpg引用。


また、1941年12月に太平洋戦争が勃発、参戦したアメリカ陸軍航空隊は、太平洋戦争中に、ベル(Bell)P-39(Airacobra)戦闘機を対日戦に投入した。

1942年8月7日、アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将率いるアメリカ海兵隊第1海兵師団は、オーストラリア軍の加勢も得て1万名が艦船と航空機の支援の下に、日本軍が朝鮮人労務者らも動員して建設していた飛行場のあるガダルカナル島北岸に上陸した。火力と兵員に劣る日本軍はすぐに排除され、アメリカは飛行場拡張整備を開始した。

写真(右)1942年7月11日、西太平洋、ニューギニア島南岸、ポートモレスビー、アメリカ陸軍航空隊第15戦闘航空団第46戦闘飛行隊ベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機(42-19474)の主翼下の日陰で昼食をとる整備士たち
English: PORT MORESBY, PAPUA, 1942-07-11. UNITED STATES MECHANICS WHO SERVICE THE AIRA-COBRA FIGHTER PLANES WHICH ARE OPERATING IN THE NEW GUINEA WAR ZONE HAVING THEIR MID-DAY MEAL IN THE SHADE OF A WING OF ONE OF THE AIRCRAFT. Date 11 July 1942 Author Australian War Memorial collection
写真は Wikimedia Commons, 写真は Wikimedia Commons,Category:Bell P-39 Airacobra of unidentified variants File:AWM 025894 Bell P-39 Airacobra and US ground crew.jpg引用。


1942年5月、日本海軍は東部ニューギニアからソロモン諸島までの要衝攻略を企図して、MO作戦として、まずガダルカナル島の近くツラギ島を占領し、ついで東部ニューギニア南岸ポートモレスビー攻略のために上陸部隊と空母機動部隊を派遣した。それをアメリカ海軍の空母任務部隊が迎撃し、珊瑚海海戦が起こった。これは、日米空母の艦載機同士の遠隔戦闘だが、日米ともに空母1隻、駆逐艦1隻を失い、引き分けに終わった。しかし、日本軍のポートモレスビー攻略の企図は砕かれた。

 そこで、日本陸軍は、1942年7月に東部ニューギニア島北岸からオーエンスタンレー山脈(海抜最高4,000メートル)を越えて歩兵部隊を行軍させ、南岸のポートモレスビーを攻略するポートモレスビー作戦(レ作戦)を決定し、8月にブナから進撃を開始した。基幹は、第17軍(司令官百武晴吉中将)隷下の第18軍(司令官安達二十三中将)の南海支隊他である。しかし、山越えの突進攻撃によっても、ポートモレスビー攻略はできず、第18軍は撤退せざるを得なかった。

第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

ベル(Bell)ベルP-39(Airacobra)戦闘機は、1938年4月6日に初飛行、三輪式(前輪式)降着装置を採用した。中期型のP-39Dは、全備重量3,465kg、アリソンV-1710-35液冷エンジン1,150hp搭載、最高速力579km/h、 プロペラ軸に37mmM4ブローニング(Browning)機関砲1門(携行弾数15発)、 機首に.50口径12.7mmAN/M2ブローニング(Browning) 機関銃2挺(携行弾数各200発)主翼にブローニング7.62mm機関銃4挺(携行弾数各500発)を装備する重兵装だった。

写真(右)1942−1943年、西太平洋、ニューギニア島南岸、ポートモレスビーを飛び立つアメリカ陸軍航空隊第345爆撃航空団ノース・アメリカン(North American)B-25 J ミッチェル(Mitchell)爆撃機(237443):この部隊はB-25による低空襲撃を始めて作戦行動として活用した部隊である。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-24 Flying out of Port Moresby, the 345th Bomb Group quickly established itself as one of the premier B-25 low-level attack units in the Pacific, were eventually nicknamed the Air Apaches.
写真は ,Pearl Harbor Aviation Museum引用。


ノース・アメリカン(North American)B-25 J ミッチェル(Mitchell)爆撃機の諸元
初飛行:1940年8月19日
生産数:9,816機
乗員 6名 (操縦2名 航法/爆撃1名 回転銃座/機関1名 無線/側面銃座1名 尾部銃座1名)
全長 53.5ft (16.31m)
全幅 67.6ft (20.60m)
全高 16.3ft (4.97m)
翼面積 610ft2 (56.67m2)
空虚重量 19,530lbs (8,859kg)
総重量 離陸重量:35,000lbs (15,876kg)
戦闘重量:27,400lbs (12,428kg)
燃料 1,137gal (4,304L)
発動機 Wright R-2600-13/-29 (1,700Bhp) ×2
最高速力 255kn/15,000ft (472km/h 高度4,572m)
上昇能力 1,890ft/m S.L. (9.60m/s 海面高度)
実用上昇限度 24,200ft (7,376m)
航続距離 1,316n.mile (2,437km)
兵装 .50口径12.7mmブローニングAN/M2 機関銃×12挺 (弾薬携行数4,600発)
爆弾搭載量:4,000lbs (1,814kg)12.7mm

2−3.喘ぐ重慶・窮余の対策 日本攻勢の基地『西北』 : ソ連勢力微弱化しのさばるアメリカ
大阪朝日新聞 Vol: 第 8巻 Page: 104 出版年 1943-04-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100095728

Stilwell Mountbatten 【北京特電十四日発】東亜の孤児に顛落した重慶が抗戦の継続によって経済的、思想的に自然崩潰の一途を辿りつつある重大危機を転換するとともに反枢軸勢力に便乗して長期戦態勢を確立するがため最後の活路として選ばれた西北開発工作は東亜における第二戦線の展開を呼号して米英の野心を東亜に繋ぎ止めるとともに奥地経済開発によって急速に自力抗戦力を補充して行く狙いから出発したものであるが、戦争遂行上アメリカの重慶に対する発言権が絶対化するにしたがい西北地区に対するアメリカの進出もまた漸く露骨となり対日反攻の基地たらしめんとする野望が看取されるにいたったことは頗る注目すべきものがある

鉄道、自動車路計画

現下の西北開発は西北ルートの輸送力増強とともに中印連絡空路[駝峰航線]の強化、甘粛省の産業開発、蘭州、西安、成都と重慶を結ぶ連絡路の強化の四つに重点がおかれている

すなわち鉄道の建設計画では現在着工中の□海線宝□、天水間の工事を逐次西方に延長すべく計画している、これは各種資材ことに鉄材の不足で行き悩みの状態にあり、宝□、天水間の工事完成は早くて来年一杯を要すると称している、このため応急対策として自動車道路の開発に主力を注ぎ蘭州から臨□、岷県偕州、広元を経て成都、重慶にいたる線、他の一つは蘭州から天水、徽県、漢中を経て西安に至る線と主として蘭州以南の交通路建設に狂奔している [図表あり 省略]

中印ルート強化策

現在援蒋物資輸送の主要ルートとなっている中印空路[駝峰航線]の強化策として新疆省内の莎車、阿克蘇、庫車、輪台、且末、焉耆、奇台の各地をはじめ青海、甘粛、西康方面に十数ケ所の飛行場を設置し、いずれも昨年中に完成を見ており、これによって中印空路[The Hump]は相当補強された模様である

以上の動向からも窺われるごとく重慶の西北開発は産業開発の部面では資材、資金および労力の不足を解決出来ず、甘粛省の例で見ても僅かに嘉唆江、白竜江、●河の水運を黄河に結び薬剤、毛皮などの特産物は蒙彊方面に搬出して経済的な苦境を打開するか、あるいは河西地区の開発計画などいずれもまだ自力抗戦力の培養に対する単なる構想に止まり極めて消極的な動きを見せているに過ぎない状態で現在は専ら西北の交通網を拡大して援蒋ルートを強化するあくまでも他力本願的な抗戦を企図している



カラー写真(右)1943年、インド=ビルマ=中国IBC戦線、インドから中国へ物資輸送を担ったアメリカ陸軍航空隊カーチス(Curtiss)C-46コマンド(Commando)軍用輸送機:C-46輸送機は、1942年7月に部隊配備され、インドから中国へヒマラヤ山脈を越えての補給物資空輸「ハンプ越え」に投入された。高度2万フィートを超えるハンプ越え空輸1か月当たり平均700トンを運ぶ実績を上げた。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-43 A workhorse of the CBI resupply route over the Hump was the C-46. After the Burma Road was cut off from China to India in 1942, an average of 700 tons tons of supplies made it over the hump each month, at 20,000 ft or more..
写真は Pearl Harbor Aviation MuseumArchive 引用。


カラー写真(右)1944年、ビルマ中北部、クッカイ、アメリカ陸軍航空隊第3戦闘輸送集団第10飛行隊ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)/ダコダ( Dakota)軍用輸送機の機首左側:インドから中国へ物資輸送を担った機体。C-47輸送機は、1935年12月17日初飛行のダグラス(Douglas)DC-3旅客輸送機の軍用仕様で、プラット・アンド・ホイットニー R-1830 空冷星型14気筒エンジン895kW (1,200hp)2基を装備し1941年12月23日に初飛行した。貨物庫床板などを強化している。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-38 George “Jake” Saylor looks out the pilot’s window of his 10th Squadron, 3rd Combat Cargo Group, Douglas C-47 at Kutkai, Burma, near the Chinese border, in 1944..
写真は Pearl Harbor Aviation MuseumArchive 引用。


印度経由で技術者

この傾向を裏□するものとして重慶[蒋介石政権]はかねて西北ルート上の輸送計画を立案、主として蘭州以西の道路補修に狂奔していたが最近この計画に基づき援蒋物資の輸送が開始された模様である、輸送計画の内容は判明しないが主として中印空路[The Hump]によるアメリカからの航空機ならびに機材の輸送に重点が置かれているもののごとく米支空軍による対日反攻の企図と関連して注目すべきものがある

在支敵国空軍の現況を見るとまず重慶空軍蒋介石[Chiang Kai-shek]を委員長とする航空委員会の下に第一(重慶)第二(桂林)第三(成都)第四(蘭州)第五(昆明)の各路司令部を置き、これに配属された第一線機は二百機前後、このうち爆撃機は約三分の一と推定され、ソ連機は影を潜めアメリカ製の飛行機が大部分を占めている、

重慶は航空関係の資材の供給をアメリカに仰ぐとともに航空機搭乗員の養成に躍起となり成都の幼年航空学校[空军幼年学校]、航空参謀学校[空軍参謀学校]、中央空軍軍士学校などの教育機関を設け乗員の粗製濫造に努め、さらに技術員の養成機関として中央空軍飛行技術学校を設けている、しかしいずれも程度が低くて問題にならず昨年末から印度経由でアメリカから多数の技術者が入り込んでその指導に当るとともに奥地の飛行基地、修理工場の整備に全力を挙げている

米国の軍事的発言権

Joseph Stilwell 一方在支アメリカ空軍は去る三月アメリカ十四航空部隊[Fourteenth Air Force]として在印度アメリカ空軍から独立、東亜方面空軍司令官スチルウェル[Joseph Stilwell]の直轄部隊となり印度空軍の支配を脱して支那大陸における独自の作戦行動を企図しており、現有勢力は百三十機以上と見られ、このうち約三分の一が爆撃機でいずれもアメリカ空軍の第一線機を配置している、在支アメリカ空軍の増強に伴い重慶に対するアメリカの軍事的発言権は今や絶対的となり重慶は全くその□使に甘んぜざるを得ない状態にあり、専らアメリカに頼って兵力、機材の増強に狂奔している

これらの在支敵国空軍はわが空軍の不断の鉄槌に怯えて奥地退避の消極戦法に終始し昨年十一月以降大陸では全く蟄伏して鳴りをひそめていたが、今月下旬からビルマ方面が雨季に入るので同方面での活躍が封ぜられるとともに漸次東方ならびに北方に向って頤動の気配を示しつつある、これに対してはわが方もまた見敵必墜の態勢を強化し確実に敵の企図を粉砕しつつあるが敵空軍は執拗に日本本土や和平地区に対する空襲を企図しているので今後の形勢は断じて軽視を許さぬものがある

米・玉門油田に投資

この動向と関連してアメリカの重慶に対する支配権が強化されるにしたがい西北地区に対するアメリカの野望もまた急速に具体化されつつあることは注目される、従来新疆省ならびに西北ルートはソ連の絶対勢力下にあったが、独ソ戦を契機としてこれが漸次後退するとともに新疆省に対する重慶勢力の進出をみ、新疆、甘粛省境猩々峡の封鎖もついに撤廃されて新疆入境が緩和された

この形勢に便乗したアメリカはソ連の後退を好機として新疆、甘粛省方面に相ついで領事館を開設すると共に玉門油田その他に巨額の投資を行い西北における支配的地位を獲得しつつあるが、この方面に対するアメリカの政治的、経済的進出は当初重慶側の企図した西北開発の狙いである虫のよい他力抗戦策が巧にアメリカの野心に逆用されたものであると同時にこの方面よりするアメリカの対日反攻の企図も窺われるのであって大東亜戦争の進展に伴い西北の形勢はすこぶる注目を要する [図表あり 省略](喘ぐ重慶・窮余の対策 日本攻勢の基地『西北』 : ソ連勢力微弱化しのさばるアメリカ引用終わり)

写真(右)1944年、ソロモン諸島ブーゲンビル島トキナ、アメリカ陸軍航空隊のチャンス・ヴォート(Chance Vought)F4Uコルセア(Corsair)戦闘機と廃棄されたベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機:1938年2月、アメリカ海軍はF2A バッファロー艦上戦闘機後継となる次期艦上戦闘機の開発要求をだし、グラマン社、ベル社、チャンス・ヴォート社が応じた。ヴォ―トは1,200馬力エンジン搭載のV-166Aと、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ空冷星型18気筒エンジン2,000hpエンジン搭載のV-166Bを提示し、F2Aの出力の2倍近くあるV-166Bを、海軍はXF4U-1として試作を命じた。この2,000馬力エンジンに見合った直径13フィート(3.96m)の大型プロペラを装備するために、脚が長くなると飛行甲板での運用上、安定性と視界が悪くなるため、主翼を下に折り曲げた逆ガル翼が採用された。XF4U-1は、1940年5月29日と第二次大戦中、アメリカ参戦前に初飛行し、1940年10月1日には最高速力405mph(651.8km/h)を記録し、アメリカ初の400mphの壁を越える高速戦闘機となった。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-31 The boneyard at Tokina on Bougainville in 1944.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1943年12月15日、ソロモン諸島ベララベラ島、迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊第222戦闘飛行隊チャンス・ヴォート(Chance Vought)F4U-1コルセア(Corsair)戦闘機:初の新型エンジン不調と視界不良でF4Uは飛行甲板からの離着陸に不適とされた、1943年初めに陸上戦闘機として、ガダルカナル島に配備された。1943年2月14日のゼロ戦との格闘戦では操縦者の不慣れもあって、敗北したが、後にF6Fよりも長く使用される艦上戦闘機となり、1万2,582機が量産された。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-30 F4U-1 Corsairs of VMF-222 stand ready at Vella Lavella Island on Dec 15 1943. Two days later, The Flying Deuces were island hoppers..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


2−4.南太平洋戦線の米空軍機 : 機種にも乱調子暴露 : 掛声ばかりの高々度用機
大阪朝日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 94 出版年 1943-04-11
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100347453

【斎藤寅郎本社特派員(海軍報道班員)】最近の南太平洋方面における敵米空軍の情勢に関し、記者が前線各基地において得たところを筆者の見解で綜合すると左の通りである

P-39  第一に使用機は如何なるものが現れつつあるか、先ず戦闘機から列挙すると、緒戦当時米空軍の当時の第一線戦闘機カーチス[Curtiss]P四〇を主体として、リバプリックP四三(ランサ)[P-43 Lancer] プリュースター[Brewster] ・バッファローは米国製ではあるが専ら英空軍用として使われた)海軍系では、グラマンF四Fなどが使われていたが、最近では、多量生産の体系が確立されたためか、当時は専ら援英用として輸出向けのみを作り、いまだ試作の段階にあったロッキードP三八ベルP三九[P-39 Airacobra]および同機の海軍向けモデル[ベルXFL]「エアラボンタ」[Airabonita](ベルP三九の三車輪式を着艦フックを有する尾橇と改めたもの)などが陸海軍の制式機に繰込まれて続々登場しはじめ、極く最近では海軍の問題の戦闘機ヴォート・シコルスキーF四U一まで現れはじめた、

従って、現在の戦闘機主力は[Lockheed]P三八[Bell]P三九の両種に中心が移って、従来の[Curtiss]P四〇は補助的にのみ活動しているもののようである、

これら戦闘機の特質としては、[ロッキード]P三八は双発双胴の高速機である点を利用して、単に戦闘のみならず、昼間の高々度偵察に利用されることが多く、前線基地では殆ど毎日のように○○メートル前後の高度をとって白昼我が方の偵察に飛来する同機の姿を目撃することが出来る、

我が戦闘機の追蹤を受ければその高速な逃げ脚を利して逃れ去ることが多いが、ひとたび空戦の姿勢に入れば[P-38]双胴二枚尾翼の形状からいっても視界が甚だ不利で戦闘には十分な強味を発揮することが出来ないといわれる、形式はABCDEの五種類あり武装と装備に若干の相違がある

 [Bell]P三九は液冷のアリリン[V1710]発動機を胴体中央部に搭載し、延長軸でプロペラを駆動する特長ある構造のために全世界の注目を浴びた問題の戦闘機であるが、これは予期に反して全く速度が出ず、空戦もまた弱い、前線の搭乗員仲間では、これをその形から綽名して「かつお節」と称え、その威力は全く問題にしていない、

ヴォート・シコルスキーF四U一はその初見参の際すでに八機中の六機を撃墜しているので詳細は未検討ではあるが、大したことはあるまいと評判されている、

面白いのはかつて「マートレット[Martlet]」の名で援英戦闘機[F4U,ハドソン,B-24,B-25等]として欧洲戦線に出動し相当な成績を収めたといわれるグラマンF四F[Wildcat]戦闘機が、さして新規な設計でないにも拘らず、未だに極めて優秀な戦闘性能を示すことで、同機に対しては前線方面でも十分な警戒を行っている

次に爆撃機のうち急降下爆撃機の現状を見ると、主力は依然として、ダグラスSBD三[ドーントレス]である、旧ノースロップ系[Northrop A-17]から出発した余り新味のない爆撃機で、約一箇月前○○方面で捕虜になった同機操縦員の自供によっても同機の急降下爆撃操作は決して進歩的なものとはいえない、寧ろ急降下爆撃機の鼻祖アメリカとしては驚くべき幼稚煩雑な仕組みで取上げるべき特長もないようである、

写真(右)1942-1943年、西太平洋、ソロモン諸島グリーン島の滑走路で離陸準備をするアメリカ海兵隊第14飛行隊のダグラス(Douglas)SBD-5 ドーントレス (Dauntless)艦上爆撃機:1940年5月1日に初飛行し、5,936機が量産された。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-28 Two SBD-5 Dauntlesses of Marine Air Group 14 are ready to take off from the strip at Green Island in the Solomon Islands on a mission to Rabaul..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1943年、西太平洋上、ギルバート諸島(?)、アメリカ海軍航空母艦飛行甲板上の主翼を折り畳んだカーチス(Grumman)SB-2C ヘルダイバー(Helldiver)艦上急降下爆撃機:コックピット操縦席に搭乗者がいてプロペラを回転しているが、主翼は折り畳まれたままである。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-64 SB-2C Helldiver is viewed during caririer work-ups in 1943..
写真は SmugMug+Flickr., Pearl Harbor Aviation Museum 引用。


SB2C-4 ヘルダイバー ただし、これに続いて、かつて複葉の急降下爆撃機として名を売ったカーチスの今度は単葉急降下機SB二C一[Curtiss SB2C Helldiver]が、最近ソロモン方面に現れつつあり、これには若干の警戒が払われているが、真相は未だ分らない、

中型爆撃機としてはかねてから高速を予期されていたマーチンB二六[Martin B-26]がこれまた最近盛に登場しているが、これは極めて弾丸に弱く、一発でよく仕止めることが出来るといわれる、速度は予想通り極めて速いが恐るべき点は少しもないそうだ、

これと並んで、すでにジャワ戦線で、鹵獲され内地に空輸されたダグラスA二〇A[Douglas A-20 Havoc]も動いているが、これも前者と同様、また日本内地の空襲にも参加し支那奥地における米空軍基地用として蠢動しているノース・アメリカンB二五[North American B-25]は当方面には姿を現さない、

重爆撃機としてはボーイングB一七E及びFとコンソリデーテッドB二四[Consolidated B-24 Liberator]がともに交々出動しているが昨年から今春劈頭にかけて断然数が多かったB一七[Boeing B 17]に対し最近では航続力のより長いB二四[Consolidated B-24]の数が負けぬくらい目立って来たのは恐らく米本国における生産の進行方向を示すものであろう、

最近何れも武装を強化し装甲を厳にしたため、撃墜が困難になって来たことは事実であるが、その代り行動能力の減少も免れぬところで、近頃両機の爆撃行動半径が概して一、三〇〇キロを超えぬのもそのためであろうと想像される

写真(右)1943年8月、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島北西岸、モクレイア基地(Mokuleia Field)、コンクリート製掩体壕に守られた迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊コンソリデーテッド(Consolidated)B-24 リベレーター(Liberator)爆撃機
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-11 B-24 taxies out of its revetment at Mokuleia Field, Oahu before being transferred to the Central Pacific Aug 1943..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1943年春、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島、偽装網に隠された迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊コンソリデーテッド(Consolidated)B-24 リベレーター(Liberator)爆撃機
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-14 Rapid Robin, a Pacific-bound B-24 sits under camouflage netting in a revetment at Bellows Field, at the southeast corner of Oahu in the spring of 1943.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


Consolidated B-24 以上の使用機の変遷のあとを見ると、アメリカの航空工業界が目下生産にその主力を傾けつつある機種は自ら明らかであるが、これは凡そ開戦前からかくあるべしと予想された順路を踏むものであって、そこに我々の全く予期しなかった新しい機種が飛出して来ていないことは注意すべきであろう

 即ち開戦後設計試作に入った新試作機は未だ生産の域には達しないとしても、開戦前後試作の段階にあった飛行機は、いずれも多かれ少かれ、我々の眼に映じ耳に入ったものばかりで、たとい他に珍奇な試みが秘かに行われたものがあったにしろこれは遂に実用に供するに至らなかったことがほぼ裏書されるからである

またこれらの戦闘機、爆撃機の補給状況を眺めていると、必ずしも敵は適時適者を持ち出して来ていない、

何でも出来たものを持って来て、兎に角頭数だけを揃えようとしている傾向が見える、
これはあれだけ生産拡充を呼号しているアメリカの航空工業界が、口ほどもなく甚だ乱調子で、計画性に欠けていることを暴露するもので、この調子で飛行機の数だけが殖えて行くことは恐ろしいことではないという気がする、

ボーイングB17F 同時にアメリカは以前から成層圏爆撃の掛声をかけているにも拘らず、最近現れるボーイングB一七Fでさえ、この方面に関しては、殆ど進歩のあとが見えない、

当初アメリカ当局の計画として示されたものでは[ボーイング]B一七Fで亜成層圏飛行用の予備的な設備を行い、Fにおいてこれを本格的なものに引上げるべく、既に制作に入ったということであったが、Fの搭乗員であった一俘虜の供述によれば、現在のFはEに比して、頭部機銃が強化され圧縮酸素タンクの数が、数個増加した程度で、特に高々度飛行の考慮が加えられていると見るべき節はない、

酸素タンクは圧力四〇〇ポンドの小形のもの約二十五個を一機に積み、自動調節弁を通じマスクによって乗員に酸素を供給するだけで、気密室に類するものは何処にも設けていないから、これでは本格的な高々度飛行は不可能である。

[写真(カーチスP四〇)あり 省略] [写真(グラマンF四F)あり 省略] [写真(ロッキードP三八)あり 省略] [写真(ヴォート・シコルスキーF四U一)あり 省略] [写真(カーチスSB二C一)あり 省略] [写真(マーチンB二六[Marauder])あり 省略]
[写真(ダグラスA二〇A)あり 省略] [写真(ボーイングB一七E)あり 省略] [写真(コンソリデーテッドB二四)あり 省略]
南太平洋戦線の米空軍機 : 機種にも乱調子暴露 : 掛声ばかりの高々度用機引用終わり)

写真(右)1941年、アメリカ、メリーランド州ボルチモア(Baltimore)、無塗装のアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-26 マローダー(Maruader)の正面とライフジャケットを装着している搭乗員:B-26は、1940年11月25日初飛行。B-26の諸元:乗員:7名 全長:17.65m 全幅:21.64m 全高:6.55m 翼面積:61.13m2 全備重量:17,340kg 発動機:P&W R-2800-43 空冷18気筒 2000hp×2 最高速力:454km/h 実用上限高度:6,040m 航続距離:4,590km 兵装 爆弾1,500kg 12.7mm機関銃×11挺。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-6 First production B-26 Marauder at Martin Aircraft plant in Baltimore 1941.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1945年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-26 マローダー(Maruader)のアメリカ海軍仕様JM-1練習機:アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-26 マローダー(Maruader)爆撃機は、AT-23B (B-26C)としてカメラを搭載した偵察機としても採用された。のちに、225機のAT-23B (B-26C)がアメリカ海軍に引き渡され、JM-1練習機として採用された。B-26は5,288機が量産された。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-96 U.S. Navy Martin JM-1P Maruader fitted with cameras was used for photo reconnaissance and target-towing missions. A total of 225 AT-23B (B-26C) advanced trainers were transferred to the Navy as JM-1s..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


グラマン(Grumman)F6F グラマン(Grumman)XF6F-1は、ライト(Wright)R-2600 サイクロン14(Cyclone 14)空冷星型14気筒エンジン(排気量42.7 L)1,600hpを搭載し、1942年6月26日に初飛行した。これがF6Fの試作1号機XF6F-1である。

その後、グラマン(Grumman)XF6F-3プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジン(排気量45.9 L)2,000hpを搭載し、1942年7月30日に初飛行した。降着装置は90度捻って主翼に引込まれるが、これはユンカースJu88の主脚引込み方法と同じである。

しかし、このXF6F-3は、1942年8月17日にエンジン故障で墜落した。そこで、XF6F-1の発動機ライト(Wright)R-2600 サイクロン14(Cyclone 14)空冷星型14気筒エンジン(排気量42.7 L)1,600hpを、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジン(排気量45.9 L)2,000hpに換装して実用試験に移った。

グラマン(Grumman)F6F イギリス海軍航空隊(British Fleet Air Arm (FAA) )は、グラマン(Grumman)ヘルキャット(Hellcat)Mk I 艦上戦闘機を合計1,263機をアメリカから貸与された。F6Fは、武器貸与法(Lend-Lease Act)にしたがって、アメリカからイギリスに引き渡された。当初。イギリスではF6Fをグラマン(Grumman)ガネット(Gannet)Mark Iと命名した。

しかし、イギリスは、1943年前半にはすぐにアメリカと同じヘルキャット(Hellcat)と改名した。そして、F6F-3はヘルキャット(Hellcat)Mk. Iと, F6F-5はヘルキャット(Hellcat)Mk. II と、夜間戦闘機型F6F-5Nはヘルキャット(Hellcat)NF Mk. IIと命名している。

カラー写真(右)1943年、アメリカ、カリフォルニア州、サンフランシスコ上空を主輪を出したまま飛行しているのアメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)F6F ヘルキャット(Helldcat)艦上戦闘機の左側面:発動機プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney) R-2800空冷星型18気筒エンジン (2,000hp)を搭載、3翅プロペラ(直径13ft 1in :3.99m)を回転させる。左右主翼内の.50口径12.7mmブローニング(Browning)M2機関銃各々3挺(携行弾数:各400発)搭載。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-8 F6F Hellcat over San Francisco 1943.
写真は Pearl Harbor Aviation MuseumArchive 引用。


アメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)XF6F-1戦闘機試作機の初飛行は、1942年6月26日、太平洋戦争参戦半年後だった。しかし、ゼロ戦など日本戦闘機に対抗できる新型機として、グラマン(Grumman)F6F-1は、急速量産に入り、1943年の中部太平洋方面で実戦参加したのを皮切りに、生産数は1万2,275機とゼロ戦を2割上回った。

写真(右)1943年11−12月、西太平洋上、ギルバート諸島タラワ(Tarawa)島・マキン(Makin)島攻略作戦に参加したアメリカ海軍航空母艦ヨークタウン(USS Yorktown (CV-10))飛行甲板上から発進準備中の第5戦闘飛行隊(VF-5)のグラマン(Grumman) F6F-3 ヘルキャット(Hellcats)艦上戦闘機:プロペラを回転しているF6Fに信号士が合図を送っている。
Photographer Lt. Charles W. Kerlee, U.S. Navy Description English: The U.S. Navy pilot of a Grumman TBF-1 Avenger of Torpedo Squadron 5 (VT-5) awaits the "take off" signal aboard the aircraft carrier USS Yorktown (CV-10), circa late 1943. Date late 1943 Collection Naval History & Heritage Command wikidata:Q3250126 Accession number 80-G-K-15278.
写真は Wikimedia Commons, Category:Gilbert Islands Campaign File:Grumman TBF-1 Avenger of VT-5 about to take off from USS Yorktown (CV-10), circa in late 1943 (80-G-K-15278).jpg引用。


写真(右)1943年11−12月、西太平洋上、ギルバート諸島タラワ(Tarawa)島・マキン(Makin)島攻略作戦に参加したアメリカ海軍航空母艦ヨークタウン(USS Yorktown (CV-10))飛行甲板上の第5戦闘飛行隊(VF-5)のグラマン(Grumman) F6F-3 ヘルキャット(Hellcats)艦上戦闘機:整備員たちが、F6Fの水平尾翼を押して後方のエレベーター方向に移動している。
Lt. Charles E. Kerlee, U.S. Navy Description English: Flight deck crewmen respot Grumman F6F-3 Hellcats of Fighting Squadron 5 (VF-5) aboard U.S. Navy aircraft carrier USS Yorktown (CV-10), circa in late 1943. Date late 1943 Collection Naval History & Heritage Command Accession number 80-G-K-15277 Source U.S. Navy photo 80-G-K-15277 National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 178141158.
写真は Wikimedia Commons, Category:Gilbert Islands Campaign File:Flight deck crewmen respot Grumman F6F-3 Hellcats of VF-5 aboard USS Yorktown (CV-10), circa in late 1943 (80-G-K-15277).jpg引用。


写真(右)1943年11月、西太平洋ギルバート諸島マキン(Makin)島、アメリカ海軍戦車揚陸艦LST-179とLST-78:戦車揚陸艦は、艦首の観音開きの扉と誘導板があるので、港湾が整備されていない場所でも、船内の倉庫にある戦車、自動車、火砲など軍事物資を海岸で揚陸できる。
US Army soldiers unloading gasoline drums from USS LST-179 and USS LST-78 during landing operations on Makin Island, Gilbert Islands, 25 November 1943. US National Archives Identifier 193851502, US Army Air Corps photo # A63172AC. Date 25 November 1943 Source www.navsource.org Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons, Category:Gilbert Islands Campaign File:US Army Air Corps photo A63172AC.jpg引用。


写真(右)1943年11月、西太平洋ギルバート諸島マキン(Makin)島、島を占領したアメリカ陸軍兵士がラグーンに放置された日本海軍川西H8K二式大型飛行艇を見物している。:この日本海軍のH8K川西二式大型飛行艇は、アメリカ軍が上陸してきたときは、環礁内部で修理中だった。日本軍兵士は、この機体を海岸の銃座として使用して抵抗した。
Original description: "U.S. Army troops pause for a look at a Japanese seaplane during the battle of Makin. The plane was under repair in the lagoon when the invasion started. The Japanese used it as a machine gun nest until American fliers took care of it., 11/1943" Date November 1943 Source the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 513187
写真は Wikimedia Commons, Category:Gilbert Islands Campaign File:Kawanishi H8k down.gif引用。



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