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◆空軍時代:列国の趨勢・渡洋作戦:1933-1939年
写真(上)1938年、アメリカ、カリフォルニア州、オークランド、未舗装滑走路に待機するアメリカ海軍第二雷撃飛行隊(VT-2:Torpedo Squadron 2)ダグラス(Douglas)TBD-1デバステーター(Devastator)雷撃機の左側面
:1935年4月初飛行のTBDは、ホイットニー P&W R-1830ツイン・ワスプ空冷14気筒星型エンジン900 HP (672 kW)装備、生産機数129機。
Combat range: 3,400 mi (5,474 km
VT-2 Douglas TBD-1 at Oakland in 1938. Date 24 April 2009, 13:14 Source TBD2-T-17oct38 Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Douglas TBD Devastator, File:TBD2-T-17oct38 (4530316722).jpg引用。


写真(上)1935年7月16日以降、アメリカ西岸、ワシントン州、カスケード山脈レーニア山(海抜4,392m)付近を飛行するボーイング(Boeing)XB-17モデル(Model)299試作爆撃機の左側面
:アメリカ陸軍航空隊の要求、すなわち爆弾搭載時に高度10,000 ft (3,000 m)、最高速力200 mph (320 km/h)、航続時間 10 時間にこたえたのがXB-17で、初飛行は1935年7月28日。
English: The Boeing Model 299 in flight in 1935. Date 1935 Source USAF museum website, USAF photo no. 060706-F-1234S-001 [1], retrieved 2009-04-02 Author USAAC
写真はWikimedia Commons, Category:Boeing Model 299, File:Boeing Model 299 b299 (cropped).jpg引用。


写真(上)2016年6月22日、アメリカ、未舗装滑走路に待機するボーイング(Boeing)XB-15 試作爆撃機(35-277)の左側
:1937年10月15日初飛行のXB-15は、ホイットニー R-1830-11空冷14気筒星型エンジン4基装備、最高速力197 mph (317 km/h)、航続距離 5,130 マイル(8,260 km)爆弾搭載量12,000 lb (5,400 kg)。
Combat range: 3,400 mi (5,474 km
Ray Wagner Collection Image PictionID:46702034 - Catalog:16_007751 - Title:Boeing XB-15 35-277 2BG Peter Bowers Collection - Filename:16_007751.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はWikimedia Commons, Category:Douglas B-18 Bolo at the National Museum of the United States Air Force , File:Douglas B-18 Bolo USAF.jpg引用。

1.アラスカへ米国陸軍[マーチンB-10]爆撃機十台で編隊大飛行 : 空の防備強化七月上旬決行『大阪朝日新聞』 第32巻 P.198 1933-01-01
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100343990/

写真(右):1933-1935年頃、アメリカ、滑走路エプロン上で待機中のアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10B爆撃機(142):アメリカのマーチン・モデル123(Martin Model 123)は全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機で、これを原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。アメリカ陸軍は、XB-10と命名し48機を発注した。
AL61A-459 Martin B-10B Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091079引用。


[写真(アーノルド中佐)あり 省略]
【ワシントン二十一日発連合】米国陸軍は七月上旬を期しアラスカのフェアバンクスに向け[マーチン(Martin) B-10]爆撃機十台から成る編隊大飛行を敢行するに決し二十一日右飛行計画を発表した今回の壮挙の目的は
 「訓練ならびに撮影飛行」と公称しているが海軍が今年一月爆撃飛行艇[Consolidated P2Y-1]六台の編隊飛行でサンフランシスコから太平洋上の前哨基地真珠湾まで航程二千四百マイルを一気に翔破したのと相呼応し応急出動の訓練を遂げ要衝地点に空の防備強化を計るものと見られる

米陸軍省発表の計画内容左の如し
 時期 七月上旬▲参加機 陸軍爆撃機[マーチン(Martin) B-10]十台▲参加将校指揮官 カリフォルニア州リヴァサイド飛行隊長ヘンリー・アーノルド [Henry Arnold]中佐、飛行将校二十名、下士一名▲コース ワシントンを起点としミネアポリス、ウィニペック、レジナ、エドモントン、プリンス・ジョージ、ホワイト・ホースを経由(右各地に着陸)してアラスカのフェアバンクスに達する▲総飛行距離 七千三百三十五マイル▲飛行日数 五十日(アラスカへ米国陸軍[マーチンB-10]爆撃機十台で編隊大飛行 : 空の防備強化七月上旬決行引用終わり)

写真(右)1934年頃(?)、アメリカ、海上で待機するアメリカ海軍航空隊コンソリデーティッド(Consolidated) P2Y双発飛行艇:1929年1月10日初飛行、1941年には退役、生産機数78機。 乗員: 5名 全長: 61 ft 9 in (18.82 m) 全幅: 100 ft 0 in (30.48 m) 全高: 19 ft 1 in (5.82 m) 主翼面積: 1,514 sq ft (140.65 m2) 空虚重量: 12,769 lb (5,792 kg) 総重量: 25,266 lb (11,460 kg) 発動機: 2 × Wright R-1820-90 Cyclone空冷星形9気筒エンジン750 hp (559 kW)。
Description 7-P-2neg Date 2 January 2010, 14:47 Source 7-P-2neg Author Bill Larkins.
写真はCategory:Consolidated P2YFile:Boeing Y1B-9 test flight USAF p29.jpg引用。


解説:1934年7月から8月にヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド (Henry Harley "Hap" Arnold: 1886−1950)中佐は、新鋭マーティン(Martin)B-10双発爆撃機10機の編隊で、アメリカ東部ワシントンDCのボーリング基地(Bolling Field)からアラスカ州フェアバンクス( Fairbanks)まで8,290マイル (13,340 km)の北アメリカ横断往復飛行に成功した。この功績で、アーノルドは、1935年、マッキー・トロフィーを受賞し、3月に2階級特進し、准将(Brigadier general)に昇進した。太平洋戦争勃発直後、1941年12月15日、アーノルドは中将に昇進。

写真(右)1931-1934年、アメリカ、海上を低空飛行するアメリカ海軍航空隊第10哨戒飛行隊コンソリデーティッド(Consolidated) P2Y-1双発飛行艇:最高速力:149 mph (240 km/h, 129 kn) 巡航速力: 118 mph (189 km/h, 103 kn) 航続距離: 1,180 mi (1,899 km, 1,030 nmi) 実用上昇限度: 16,100 ft (4,265 m) 上昇率: 650 ft/min (3.3 m/s) 兵装: 3 × .30 in (7.62 mm) M1919ブローニング(Browning)旋回機関銃 爆弾:2,000 lb (910 kg) 。
Description A U.S. Navy Consolidated P2Y-1 flying boat of Patrol Squadron VP-10F in flight. The four-star flag indicates that an admiral is on board. Date circa 1931-1934 Source U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 2004.114.018 Author U.S. Navy
写真はCategory:Consolidated P2Y File:Consolidated P2Y VP-10F in flight 1930s.jpeg引用。



2ー1.米国、躍起となって太平洋防備を強化 : 四千万ドル案下院に提出 : 空軍根拠地も拡張『大阪朝日新聞』 第36巻 P.54 1935-02-11
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100346320/

【ニューヨーク特電九日発】アメリカ下院では今回太平洋の防備をかためるため四千万ドルの新規国防費を支出すべく陸海軍両委員会は下院[house of representatives]予算委員会に成案を提出した、この案によるとこの費用は一九三六年度の通常公共事業費三億ドルから捻出されるもので、陸海軍はそれぞれ二千万ドルずつを折半することになっている、しかして陸軍側ではその中の千百万ドルをもって最初千八百万ドルの予定であったハワイの飛行場建設に着手し、残額をもって太平洋岸或いは洋上の防空砲及び陸軍廠舎の建設に充てる予定である

しかしてハワイの新飛行場はホノルルと真珠湾の中間に建設される予定で、従来のリューク飛行場は専ら海軍の使用に供しホイーラー飛行場も改善されることになる模様である、一方海軍は一部の費用は大西洋岸にも用いるが、大部分は挙げて太平洋岸の設備に用いるもので主なるものは太平洋岸ハワイの真珠湾及びパナマ地帯のココソロの港湾設備、造船所、浮ドック設備に使用する予定である、委員会に対し海軍当局は太平洋岸の今日の設備では艦船、ことに戦艦の運用に非常に不便であると訴えた、

この案に対し下院の予算委員長ブキャナン[John Andrew Buchanan]氏は出来るだけ速かに審議すべき旨を答え、多数の民主党議員は賛意を表しているので、政府側の承諾があれば議会通過の見込は十分あるといわれている、なおアメリカ下院陸軍委員会では十一日ウィルコックス氏提案になる合衆国本土の太平、大西両洋間において九ヶ所の空軍根拠地を、また運河地帯に一ヶ所の根拠地を設置する法案を審議することに決定した

 ウィルコックス氏は右提案が日本を目指すものではなくアメリカの国防的見地よりなされたものだと釈明しているが、ハワイの空軍根拠地設置といい最近アメリカの国防充実計画は注目に値しタイムス紙の如きは右は日本のワシントン条約廃棄通告によってもたらされている機運だと解釈している

米爆撃機近くパナマへ編隊飛行

【電通ワシントン九日発】アメリカ陸軍省は空軍改編の実際の効果を試すために来る三月初旬パナマへ向って爆撃機十台の編隊飛行を行うことに決定した旨九日発表した、なお陸軍首脳部では現在の予算で認められている建造計画のほかに更に八百八十台の新飛行機の建造を至急実現する必要を感じ、予算関係当局と折衝を進めておりこれによって新式軍用機二千三百二十台常備の理想計画に到達せんことを期している(引用終わり)

写真(右)1930年代、アメリカ、飛行場で待機しているアメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)Y1B-9 爆撃機: 最大離陸重量 6,500 kg 発動機にはプラット・アンド・ホイットニー R-1860"Hornet"空冷星型エンジン(600馬力)2基を装備、最高速力 302 km/h 航続距離 870 km、爆弾搭載量は1トン。
English: Boeing Y1B-9 with Pratt & Whitney R-1860 Hornet B air-cooled nine-cylinder radial engines. Date early 1930s Source media.defense.gov Author U.S. Air Force.
写真はCategory:Boeing YB-9 File:Boeing Y1B-9 with Hornet B engines (060421-F-1234P-040).jpg引用。


ボーイング(Boeing)Y1B-9 爆撃機は、1931年にボーイングがアメリカ陸軍航空隊競争試作に応じた初の全金属製単葉機で、1931年4月13日初飛行。しかし、1932年2月16日初飛行のマーチン(Martin)B-10が制式されたために、7機の試作で終わった。


写真(上)1930年代、飛行中のアメリカ、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)Y1B-9A 爆撃機とボーイングP-26追撃機(戦闘機)

English: Boeing Y1B-9A in flight with a Boeing P-26. Date early 1930s Source https://media.defense.gov/2006/May/11/2000557325/-1/-1/0/060421-F-1234P-043.JPG at gallery page. Author U.S. Air Force
写真はCategory:Boeing YB-9 File:Boeing Y1B-9 test flight USAF p29.jpg引用。


 アメリカ陸軍航空隊は、1926年より五年計画で1800機充実することになっている。その内、1932年で次の如く配置されている。
パナマ 41機さらに80機増加中(他に海軍飛行艇30機)
ハワイ 96機
フィリピン 50機(飛行場10数ヶ所新設)

写真(右)1930年代、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)Y1B-9A 爆撃機:コックピット操縦席は開放式なので、飛行帽とゴーグルは常に着用する必要があった。
Boeing Y1B-9 test flight, 1932, with its retractable landing gear extended..
写真はCategory:Boeing YB-9 File:Boeing Y1B-9 test flight USAF p29.jpg引用。


ボーイング(Boeing)Y1B-9 爆撃機の諸元
乗員 4名
全長 15.7 m
全幅 23.4 m
高さ 3.86 m
翼面積 88.6 m2
空虚重量4,056 kg
最大離陸重量 6,500 kg
発動機 プラット・アンド・ホイットニー R-1860-11 "Hornet"空冷星型エンジン(600馬力)2基
最高速力 302 km/h
航続距離 870 km
実用上昇限界 6,325 m
兵装 ブローニング0.30インチ(7.62 mm)機関銃2挺
爆弾:2,200ポンド(1,000Kg)

写真(右)1930年代、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)Y1B-9A 爆撃機の103と104の2機編隊:斑迷彩塗装を施しているが、平時から、地形や使用環境に応じて、飛行機の迷彩塗装の実験が行われた。
Description English: Boeing Y1B-9A two-aircraft formation, with camouflaged paint scheme. Date early 1930s Source media.defense.gov Author U.S. Air Force
写真はCategory:Boeing YB-9 File:Boeing Y1B-9 test flight USAF p29.jpg引用。


アメリカ軍は、陸海軍ともに、第二次世界大戦の終戦まで、斑迷彩塗装の軍用機は例外的・試験的な扱いで、普及していない。特に、アメリカ陸軍航空隊は、制空権を確保してからは、夜間戦闘機以外は、単色の迷彩塗装もやめて、無塗装の銀色の機体とした。これは、塗装による空気抵抗増加と重量増加を避けるためで、飛行性能の向上につながった。他方、海軍機は、海上飛行を前提にマリンブルーの迷彩塗装を施している。


宋美齢 2ー2.米伊両国の援助で支那空軍大拡張 : 航空網の完成に努む『東京時事新報』 第36巻 P.198 1935-05-10
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100345605

(上海特派員八日発)国民政府は極度の財政難を訴え対外借款促進に躍起となっているが、一方空軍の改編拡張計画は三月一日来イタリー人顧問ローヂー氏の案により着々進捗し本年中には三個大隊(九中隊)のほかフィヤット/ブレゲ両爆撃機隊各一、通信隊一合計十二中隊を編成し操縦者は一九三七年までに一千名を目標としている、

飛行機の輸入は平均一日一機の割で連日上海で試験飛行を行っている、また杭州の飛行機製作所[中央杭州飛機製造廠]では主要材料をアメリカから購入し一月十機乃至十四、五機あて製作している、操縦士の訓練は多忙を極め本年任期満了するアメリカ人教官も解雇しないことに決した、

飛行術の進歩は目覚ましきものがあり上海事変当時とは隔世の感がある、

飛行場も江蘇十九、浙江二十、湖北十一、江西十六、河北八、福建十二、安徽十六、山東六、四川九、広東二十五を算し夜間設備を有するもの十ある、南昌飛行場は洛陽とともに空軍根拠地となっている、空軍に要する経費は一切で一年一億元と推定されガソリンはスタンダート[オイル]社[Standard Oil]がほとんど独占しておりその供給量は莫大なものである(米伊両国の援助で支那空軍大拡張 : 航空網の完成に努む引用終わり)

蒋介石  中国の軍隊は、国民革命軍とはいっても、蒋介石張学良閻錫山など軍閥の混成軍だったが、空軍は蒋介石とその夫人宋美齢の管理のもとにあった。


3.世界七大国の軍用機 英第一、日は六位 : 米国年鑑の発表『報知新聞』 第41巻 P.64 1936-04-24
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100346984

ニュヨーク二十三日発同盟=アメリカ航空商業会議所主事ハワード・ミンゴス氏編纂にかかる一九三六年版航空年鑑は二十二日一斉に発売された、これによると一九三六年一月現在世界最大の海陸軍用機を擁するものは英国の三千六百台、次は仏の三千四百台、ソヴィエットの三千三百台、日本は最劣勢にある独の一千六百台に二百台を加えた一千八百台となっている、一九三五年より三七年に至る世界主要国軍用機比較一覧表左の通り

[図表あり 省略]
ミンゴス氏は更に各国飛行機の性能につき次の如く指摘している  米国の商業用航空機は速度性能においては断然群を抜いている、次に米軍用機千九百台中、陸軍機一千一百台、海軍機八百台である、またソヴィエットの軍用機は速力遅く操縦修理共に困難で、製造修理技術拙く、有能な技師、設計者をも欠いている
世界七大国の軍用機 英第一、日は六位 : 米国年鑑の発表『報知新聞』 第41巻 P.64 1936-04-24引用終わり。


九七式戦闘機 4ー1.列国兵力の現勢 : 陸軍パンフレット発行
掲載誌 東京朝日新聞 Vol: 第 43巻 Page: 38
出版年 1937-01-22
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100347319

一、凡そ国家には独自の国是国策があり、各国はその立場と環境に適応する如く独自の軍備を保有するに努めつつある、しかしてわが国においては刻下の緊急事として航空、防空の充備、民間航空の発達、国家総動員準備施設の完璧を期し、精神動員を完備し思想戦に具えねばならぬ、これがためには国民生活の安定を図ることが急務であり、農山漁村の更生中小商工業の振興に留意、物心一如の日本精神的団結を実現せねばならぬ、また人的動員、馬匹動員、産業金融の動員についても平素より万全の措置を講究しておく必要がある

陸軍では毎年日本並に列国の陸軍軍備の状況を纏めてパンフレットを刊行しているが、その昭和十二年度版がこのほど「帝国及び列国の陸軍」と題して出来たので十余万部を印刷各方面に頒布することとなった、主なる内容は次の通りである

九七式戦闘機 一、軍の警備を核心として全警備機関を統制する警備計画の樹立情報宣伝の統制各種戦時法令の準備、総動員機関設立の準備等を必要とするほか更に軍機保護及び諜報防止の対策を講ずる必要がある

一、在満兵力急速充実の要を認め十二年度に二億三千四百万円を計上、航空防空の準備費として十二年度より十七年度に至る計画を樹立、継続費三億五千余万円を内地兵備改善費として同期間内継続費一億二千余万円を作戦資材整備費として昭和十八年度までに九億円を支出する予定である

日本 平時兵員約二十五万(十七師団)

支那 平時兵員 約二百十万外に支那共産軍約十数万ある、主要団体数は二百十一師団二十九旅団、騎兵十三師団、八旅団、砲兵八旅団

タイ空軍 ソ連 平時兵員約百六十万外に内務省軍隊及其他約二十五万でその内訳は正規軍及民兵軍基幹部約百三十万民兵軍約三十万その他約二十五万で主要団体数は歩兵正規約七十師団、民兵約二十師団、騎兵正規約二十師団、民兵約五師団 米国 平時兵員現在数は約三十三万でその内訳は正規軍約十三万七千護国軍約十九万であるが法定平時兵員数は正規軍約二十九万八千護国軍四十二万五千となっている

英国 平時兵員法定数は約三十九万で、現在は募兵の関係で約四五万欠員しているようである、内訳は正規軍約十四万五千(外に在印度駐屯正規兵約五万九千)地方軍約十八万五千で主要団体数は正規軍において英本国に五師団、印度に四師団、騎兵五旅団、地方軍において歩兵十四師団、騎兵二旅団、防空三旅団

仏国 平時兵員数六十万で内約四十四万は本国軍、約二十一万は海外駐在となっている、主要団体数は歩兵二十師団、騎兵五師団で別に遊動部隊約五師団及騎兵、砲兵の総予備部隊並に植民地部隊がある

8,8cm対空砲 ドイツ 平時兵員約六十七万内正規軍約五十五万、軍隊類似団体約十一万六千で主なる団隊数は歩兵三十六師団、機械師団三師団、独立騎兵一旅団、山地狙撃一旅団、独立機関銃九大隊

イタリー 平時兵員約三十五万内本国軍約三十万(内約五万は憲兵)植民地軍約五万で主なる団隊数は歩兵三十一師団、軽快師団二、アルプス四旅団となっており他に空軍約二万四千を有しまた護国義勇軍は約四十万ある

新兵器比較

日本 (飛行機)約一千機十連隊(高射砲)二連隊と一隊、戦車連隊二

ソ連 (飛行機)約五千機五百中隊外に気球隊、海軍機中隊若干(高射砲)旅団、独立連隊、独立大隊高射機関銃隊等(戦車及機械化部隊)独立機械化部隊十数個、独立戦車大隊約二十、他に歩兵及騎兵師団の大部は機械化部隊を有す、右戦車数約五千輛

8,8cm対空砲 米国 (飛行機)一千六百五十機百二十一中隊別に護国軍偵察飛行隊十九(高射砲)約二百門八連隊高射機関銃五千(戦車及機械化部隊)中戦車連隊一、軽戦連隊一(八中隊)独立軽戦車中隊七、右戦車数五〇〇、装甲自動車中隊二、右車輛二〇〇

英国 (飛行機)二千機以上、別に教育機一千機以上(予算)五千七十万ポンド(高射砲)正規軍二十三個中隊、砲数二百五十門、地方軍二十三個中隊(戦車)約三百五十輛、装甲自動車約一千二百輛、インドにおいて戦車三中隊、装甲自動車五中隊

仏国 (飛行機)一千九百機、或は二千五百機ともいう(高射砲)二十個連隊以上

イタリー (飛行機)約一千五百機、百二十中隊(気球)二中隊(予算)九億七千万リラ、野戦高射砲連隊五義勇軍の陣地高射砲司令部二十五(列国兵力の現勢 : 陸軍パンフレット発行引用終わり)


4−2.建艦計画と併行に近代戦の花形空軍陣を強化 : 制空権を目指して進む : 列強の拡充計画『大阪毎日新聞』 第43巻 P.86 1937-03-15
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100346997

英米両国をはじめ世界の列強は無条約海軍整備のため続々大建艦計画を樹立しその実施に邁進している一方、近代海戦において勝敗の鍵ともいうべき空軍の増強についても非常な努力を傾倒している殊に米国の如きは空軍増勢をはかる傍ら西太平洋の制空権を目ざして太平洋横断の南北二大航空路を開設しているので米内海相も過般の衆議院予算分科会で  もし米国の大空軍が南北二航空路によって東洋に進攻する時は日本は相当の脅威を感ずる、しかし帝国も航空計画が実現すればこの脅威に対する対抗の確信がある
と言明しているほどで世界は建艦と併行して空軍拡張に狂奔している現状であるが列強の空軍現況と拡充計画は大体左のごとくである

写真(右)1939-1943年、イギリス、イギリス海軍航空隊フェアリー・ソードフィッシュ(Fairey Swordfish)艦上雷撃機:初飛行:1934年4月17日 乗員: 3名 全長: 11.22 m 全高: 3.8 m 翼幅: 13.9 m 翼面積: 56.39 m2 空虚重量: 2,130 kg 最大離陸重量: 3,406 kg 発動機: ブリストル ペガサス Mk. XXX 空冷星型9気筒レシプロエンジン、560 kW (750 hp) 最高速力: 222 km/h 巡航速力: 167 km/h から 207 km/h 失速速度: 107 km/h フェリー航続距離: 1,658 km 航続距離: 880 km 実用上昇限度: 3,260 m 兵装:7,7 mm 機関銃2丁(機首固定および後部旋回機関銃) 搭載量: 680 kg(魚雷、250ポンド爆弾2発、500ポンド爆弾2発、Mk. VII 爆雷、60ポンド ロケット弾8発) 乗員 2名 生産数:2,400機。
English: The Royal Navy during the Second World War Fitting the torpedoes on to the Fairey Swordfish aircraft during training for pilots for naval aircraft at HMS JACKDAW, Royal Naval Air Station, Crail, Fife. Date between 1939 and 1945 A 3168 comes from the collections of the Imperial War Museums. Author Beadell, S J (Lt), Royal Navy official photographer
写真はWikimedia Commons, Category:Fairey Swordfish File:The Royal Navy during the Second World War A3168.jpg引用。


英国

 空軍機二、〇〇〇、このうち海軍機は艦上戦闘機五〇、艦上偵察観測機七〇、艦上雷撃機三五、水上戦闘観測機六五、水上偵察観測機一〇
 この数字は艦隊航空隊として搭載せるものを示すが、このほか海軍に協同すべき基地航空隊(飛行艇、雷爆撃機)若干があり、一九三四年空軍第一次、三五年第二次、三六年第三次空軍拡張計画を確立本国防空軍第一線機千七百五十機、海外部隊四百十四機、その他艦隊航空隊の増勢をなしている、また三七年度における空軍予算の総額は八千八百五十八万八千六百ポンド(前年度に比し三千百八十万ポンドの増加)となっており、本年四月末までに本国空軍百九隊、属領空軍二十六隊、艦隊空軍二十九隊、合計百四十六中隊を整備し、本年度中にはなお百二十九隊を増加し第一線機千五百機を整備、さらにこれに二百五十機増加することとなっている

写真(右)1938年10月、アメリカ、カリフォルニア州オークランド飛行場、アメリカ海軍航空隊第3偵察飛行隊カーチスSBC ヘルダイヴァー(Curtiss-Wright SBC Helldiver )艦上爆撃機(3-S-3):1935年12月9日 全長:8.64 m 全幅:10.36 m 全高:3.84 m 全備重量:3,211 kg 発動機:ライト R-1820-34 空冷星型9気筒 950hp×1 最高速力:381 km/h 実用上限高度:7,750 m 航続距離:950 km 武装 爆弾 452 kg 7.62mm機関銃×2 乗員 2名 生産数:257機
Description One of a group of three from Scouting Squadron Three visiting NRAB Oakland in 1938. It was a much better looking aircraft than the SBC-4. Date 13 January 2012, 14:16 Source Curtiss SBC-3 (0512) Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:SBC Helldiver of the United States Navy File:Curtiss SBC-3 (0512) (6695790655).jpg 引用。


米国

 空軍二、八〇〇機、この内海軍機は戦闘機一六〇、爆撃機兼戦闘機三五、偵察爆撃機九〇、急降下爆撃機八〇、雷爆撃機三〇、偵察機(水上陸上)三二〇、哨戒機一四五、輸送雑務機一四〇、練習機一九〇、飛行船硬式一、軟式二で、一九三四年に海軍機千九百十機に拡張計画を樹て着々実行中である  

なお明年度海軍の航空予算は四千九百五十万ドルで前年度に比し千百万ドルの増加である、
これは新機三九七を整備するものでそのうち二五一機は代換機、一〇四機は新機、四二機は予備機、これに軟式飛行船二隻を新造するはずである


写真(上)1940年12月以前、アメリカ、ダグラス(Douglas)XTBD-1(Devastator)三座雷撃機試作1号機(9720)の左側面
:1935年4月15日初飛行、引込み式降着装置、7分割カラス大型風防を採用。水平爆撃機として爆装している。
Douglas XTBD-1 Devastator US Navy photo PictionID:43099888 - Title:Douglas XTBD-1 Devastator US Navy photo - Catalog:16_003529 - Filename:16_003529.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSmugMug+Flickr. SDASM Archives引用。
写真(右)1942年2月24日、中部太平洋、ウェーク島上空を飛翔するアメリカ、カリフォルニア州オークランド飛行場、アメリカ海軍航空隊第6雷撃飛行隊(空母「エンタープライズ」搭載)ダグラスTBD デヴァステイター(Douglas TBD Devastator)雷撃機(旧国籍マークを適用):1935年4月15日初飛行のダグラスTBD デヴァステイター(Douglas TBD Devastator)の諸元: 乗員:3名(パイロット、雷撃手/航海士、通信士/銃手) 全長:10.67 m 全幅(翼長・翼幅):15.24 m 全高:4.60 m 翼面積:39.2 m2 空虚重量:2,540 kg 満載重量:4,213 kg 最大離陸重量:4,624 kg 発動機:P&W R-1830-64 ツイン・ワスプ 900 HP (672 kW) 最高速力:331 km/h 航続距離:700 km (雷撃時)、1,152 km (1000 lb (454 kg) 爆弾搭載時) 兵装: ブローニング 7.62mm AN/M2 機関銃 または ブローニング AN/M2 12.7mm機関銃 前面固定×1 ブローニング 7.62mm AN/M2 機関銃 後方旋回×1 Mk.XIII魚雷 ×1 生産数:129機
English: A U.S. Navy Douglas TBD-1 Devastator torpedo plane assigned to Torpedo Squadron 6 (VT-6) from the aircraft carrier USS Enterprise (CV-6) flies over Wake Island during Wake Island Raid, 24 February 1942. Note fires burning in the lower center. The view looks about WNW, with Wilkes Island in the center and the western end of Wake Island in bottom center. Peale Island is at right. The aircraft ("6-T-5") is probalby BuNo 0326, one of the few aircraft of VT-6 to survive the Battle of Midway. It flew the last combat sortie of a TBD on 6 June 1942 against the Japanese heavy cruisers Mogami and Mikuma. It was later stricken on 12 October 1943. Date 24 February 1942 Collection Naval History & Heritage Command wikidata:Q3250126 Accession number 80-CF-1071-1 Source U.S. Navy photo 80-CF-1071-1
写真はWikimedia Commons, Category:SBC Helldiver of the United States Navy File:Douglas TBD-1 Devastator of VT-6 over Wake Island, 24 February 1942 (80-CF-1071-1).jpg引用。


露国

 空軍五千機のうち海軍機七百機であるが東西同時開戦に応ずるのを目標に第二次五ヶ年計画で空軍の急速整備をしている

写真(右)1939‐1941年頃、ソ連、爆散を搭載し、人力でプロペラを回して発進しようとするイリューシン (Ilyushin) DB-3長距離爆撃機/Il-4爆撃機:1936年3月31日初飛行のDB-3は、使いやすい機体だったために、第二次大戦中に爆撃、雷撃、輸送に活躍した。1942年2月にDB-3FがIl-4と命名変更になった。1945年までに5,256機が量産された。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45938775 - Catalog:16_007230 - Title: Ilyushin DB-3 From VVS B-H - Filename:16_007230.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はWikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum 引用。


写真(右)1939‐1941年頃、イリューシン (Ilyushin) DB-3長距離爆撃機/Il-4爆撃機:全幅:21.44 m 全長:14.82 m 全高:4.82 m 重量:10,000kg エンジン:M-88B 空冷14気筒星型 1,100馬力 ×2 最大速度:410 km/h 航続距離:4,260km 武装:機関銃 ×3 爆弾2,500kg 乗員:3 - 4名。1942-1945年に5,256機が量産された。
Ilyushin DB-3 PictionID:45938725 - Catalog:16_007226 - Title: Ilyushin DB-3 From VVS B-H - Filename:16_007226.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file:
写真はWikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum 引用。


ドイツ

 空軍一、九〇〇機、うち海軍五〇〇機、一九三五年再軍備宣言の四月から急速整備に邁進している

写真(右)1935年、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機V-1試作1号(D-ADUM):楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・爆撃機として開発された。BMW VI 7.3 液冷V型12気筒エンジン 750 hp出力の低さを反映して2翅で、後に3翅となった。
He-111 V-1試作機
1929年6月のヴェルサイユ条約の軍備制限条項の下で爆撃機として1934年に密かに開発
乗員員(Crew): 5名
発動機(Engine): BMW VI 6.0Z 液冷12気筒エンジン(600 馬力)
全長(Length): 16.40 m | 全幅(Width): 22.60 m | 全高(Height): 4 m
最高速力(Max. Speed): 310 km/h
Ray Wagner Collection Image PictionID:46168960 - Catalog:16_007374 - Title:He 111V-1 Peter Bowers Collection - Filename:16_007374.TIF
Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005215 引用。


写真(右)1935年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機:主翼両端と胴体後方に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。他方、4桁の登録コードは記されていない。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪も小さいものがついている。He111試作1号機V1(製造No.713) が初飛行したのは、1935年2月24日で、 発動機のBMW VI液冷12気筒エンジン(650馬力)が出力不足で低速だったものの、飛行特性、離着陸性能はよかった。ハインケル(Heinkel)He111の軍用爆撃機は、A型として完成したが、爆撃機としての飛行性能が不十分だった。これは、搭載したエンジンの馬力不足のためだった。そこで、He111Aは、中国に民間機として中華民国に売却された。爆撃機として、実用化されたのは、He111Bが初めてである。新生ドイツ空軍の新鋭爆撃機ハインケルHe111爆撃機B型は、新鋭ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジン2基を装備し、1936年に勃発したスペイン内戦に送られ、1937年4月26日、市民への無差別空襲として悪名高いゲルニカ空襲Bombing of Guernica)にも投入された。
SDASM Archives Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081301
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany
写真は,SDASM Archives, Catalog: 01_00081301引用。


写真(右)1937-1938年、日中戦争の最中、ドイツで不採用になり、中華民国に輸出されて使用されたハインケル(Heinkel)He 111 A-0爆撃機:エンジンは、普及していたアメリカのライト R-1820 サイクロン 9(Wright R-1820 Cyclone 9 )空冷9気筒星形エンジン(1000馬力)を装備している。胴体後方に、四角のガラス窓が開いていて、機首もソリッド化していて、爆撃手席がみえないので、中国では爆撃機としてでではなく、輸送機として使用されたようだ。
Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081303
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081303引用。


仏国

 空軍四、五〇〇機中海軍機は戦闘機五〇、爆撃機五五、偵察機(飛行艇を含む)一二五、気球若干、一九二八年航空省設置の際一九三八年を完成期とする空軍十ヶ年計画二〇一中隊の整備を樹て実施中であったが、その完成期を早め本年中には大体完成の域に達することとなっている

伊国

 空軍二、〇〇〇機、このうち海軍二三〇機、一九三四年約三千機を目標とする三ヶ年計画を確立すでに完成している(建艦計画と併行に近代戦の花形空軍陣を強化 : 制空権を目指して進む : 列強の拡充計画引用終わり)


4−3.飛行機の今昔 防空思想講座(上)
著者 武宮豊次:満洲航空会社総務部長


掲載誌 満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 5巻 Page: 22 出版年 1937-06-24/1937-06-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100224636 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

航空奨励序文に”羽化登仙の思い” 想えば隔世の感

ハンドレページ ハロー 二〇世紀の文明の中で最も華々しいものは飛行機の出現であり又その発達も目醒しいものである発動機を使用しない飛行機の始まりは、欧洲では既に十五世紀のころ有名な画家リオナルド・ダウインチの創案に始まっているといわれている、日本に於ても管茶山の著した筆のスサビに記されている岡山の表具師幸吉の空中滑翔であって今から三百年の昔に行われたといわれている

発動機を取付けた飛行機は有名なライト兄弟に依って一九〇六年、丁度二十世紀の初め僅か十六馬力の自動車のエンジンを取付けた複葉機で五九秒間二百六十米の飛行に成功したその年は日本では丁度日露戦争の風雲急を告げんとする前の年であった、その後間もなくルイ・ブレリオ[Louis Bleriot]がドウバーの海峡を横断したので、飛行機が将来実用に供し得るということを世界に知らしめた、その翌年一九一〇年日本陸軍は徳川好敏(現在の航空兵団長)日野熊雄両大尉を仏国に派遣し飛行機の操縦を練習せしめ、早くも同年の十二月十九日には代々木練兵場で飛行時間四分間高度七十米突、距離三千米突の日本における処女航空に成功したのである、その当時の飛行機に対する一般人の観念というものは極めて覚束ないものであって、飛行機は飛ぶものか飛ばぬものかということが興味の中心であった、徳川[好敏]大尉が初めて飛行した時には田中館博士は時の陸軍次官石本中将に向って”飛行機は飛ぶものである”という報告をされたナンセンスがある位である、当時のモーリス・ファルマン[Maurice Farman]飛行機は一時間の速力九十粁であって、満鉄のあじあにも及ばない速力であった、それが今日では、優秀な競争用飛行機は時速六五〇粁乃至七〇〇粁に達しており、その当時の飛行機の速力の八倍となっている

ツェッペリン飛行船 其頃の航空奨励の序文に書かれた文句の中に次のようなことが書かれている、「飛行機に較べては文明の利器たる汽車汽船も玩具のようで天然の大きい河も大きな城もただ一面の絵を見るが如く羽化登仙の思いがする、若し夫れ地上の事業に齷齪するよりも飛行機に乗り俗気を払い見識を拡大するに如かず」と某閣下が序文しているほど航空というものが仙人的な仕事であった、一九一三年に起った欧洲大戦で、ドイツの飛行機が仏国の飛行機と国境線上に華々しき一騎打をやったり、例のツェッペリン[Zeppelin]飛行船が倫敦の上空に現われて爆弾を投下したりして、戦争に飛行機が極めて重大な役割を演ずるものであることを知らしめた、欧洲各国は競って小型戦闘機の製作に熱中し飛行機工業は長足の進歩を遂げたのである、世界大戦が終ってから国際聯盟が生れ国際の平和が保たれたので、飛行機を商業飛行機として使用することを考えるに至った、

殊にドイツの如きはベルサイユ条約によって空軍の保有を禁止せられたために民間航空に全力を傾注し、ルフト・ハンザ会社をして商業航空に専念し併せて将来の空軍に転換せしめんことを考えた、このドイツにおける民間航空の積極的活動は英仏の民間航空を刺戟し欧洲到るところに航空路は開設せられた、又資力の充実せるアメリカにおいては民間航空は全空軍の二分の一即ち半分の実力を保有せねばならぬとして、航空郵便を基本とする英断的航空の助成を謀った

ダグラスDC3 然るに我が日本においては隣国に空軍がなく空襲は安全であると思っていたために一部の先覚者が声を大にして防空の必要を説くも国民は極めて冷淡であった、亦政府当局も僅かに十ケ年二千万円程度の補助金を与えるという日本航空輸送会社を設立し漫然と今日に至ったのであるが、飛行機の発達は一九三〇年を境として劃期的躍進を遂げて来た、そして機体は全金属に作られ、発動機の馬力は星型空冷式でも七百馬力から千馬力、今日では千二百馬力の発動機がどんどん作られ、亦小型飛行機から大型飛行機になっている、ソウェート聯邦でさえ三年も前に七十人乗のマキシムゴルキー号が試作された

米国では十四人乗ダグラス[DC-2]型から二十六人乗ダグラスD・C三型に三十六人乗[ダグラス[DC-4]D・C四型を作り目下五十人以上の大型機を建造中であるといわれている、実に一九三三年から一九三六年までの三ケ年は昔の十年にも比すべき躍進を続けている、今や世界一周の航空定期も此処一、二年間に実現されることは疑いのないところである、斯くの如く飛行機器材の発達は日満国民をして空の脅威を感ぜしめるに至った、然らば世界の民間航空界における日本の地位はどうかというに、残念ながら一等国としては最低位にあるという外ない

朝日新聞の神風号 世界の航空公認レコードは百五十四種類にも上っているか、その中で日本の有するレコードは唯一つであると思う、それは最近行われた朝日新聞の神風号が作った東京−倫敦の記録である、

先般行われた伯林のオリンピックでさえも、マラソンに三段跳に又水泳に日章旗をメインマストに十数本も掲げた世界的日本であるのに、こと飛行機に関しては唯一つの記録であるということを考える時に、吾人は如何に日本における国民の航空に対する熱意が尠く又航空事業に携わる私等の責任の如何に重且つ大なるかを思わしめるのである

世界空界の進展は日に月に新た ”空の征服”こそ日本の使命

ポテ P-540T 輸送機 然らば現在における列強の航空勢力の現状はどうであるか、まず空軍に就て見るに、米国の一万三千機を筆頭としソ聯及びフランスの約一万機、ドイツ、英国の四千機イタリーの三千五百機に対し、吾国は一千六百機と外国は推定している、又民間航空の機数を見るに、アメリカの九千機、フランスの二千二百機、ソ聯の二千機、英国の一千八百機に対して日本は僅かに二百三十余機、而もその質においても極めて貧弱で、これを以てしても吾国の航空が如何に列強より取残されているということに国民が自覚せねばならぬ、ワシントン条約における海軍比率の五・五・三に対してすら吾帝国は海軍条約を廃棄するに到ったにもかかわらず、飛行機においては軍用機は米国七、ソ聯及びフランス六、ドイツ三、英国二に対し日本は僅かに一、又民間航空機の比率においてはアメリカ三八、ソ聯、仏国九、英国七に対し日本は僅に一である

航空路の総距離を比較すればアメリカの十万二千粁、英国の七万三千粁、ドイツの五万粁ソ聯の四万八千粁に対し、日本、満洲合せて二万粁に満たない、前述の如き統計的比較をして見る時は如何にも日本の航空は貧弱であるが、私は二十年間も航空に携わっておって決して吾が大和民族は飛行機の操縦技能においては、孰れの国民にも優るとも劣ることなき素質を有していることを確く信ずるものである、又航空工業においても最も精密を要する工業であるという点においても、日本人は世界で最もよい飛行機を将来作り出すものであるということを確く信じている。

ショート大型飛行艇 飛行機の人類に貢献するものは単に戦争に使用される軍用のみではない、アメリカの如きは既に鉄道輸送の最も力ある競争者として現われ年々旅客は激増している、又郵便物の如きに到っては両大洋間に至る郵便物は総郵便物の半数に近いものが飛行郵便で送られている、今や飛行機は二十世紀の最も進歩した交通機関として、且つ又重大なる経済使命を有するものであるということを御承知願いたいのである、現今世界の視聴を集めている問題といえば、太平洋と大西洋の両洋上における航空路の目醒しい進出である、

太平洋は汎アメリカ航空会社がクリッパー型飛行艇によって香港に至る大圏コースの実現を見、此処に世界を一周する定期航空路の試験時代は既に完了している、大西洋においてはドイツのツェッペリン会社による飛行船を以て南大西洋経由南米に至る定期航空が実施され、最近英国のインペリアルエアーウェーズ会社の北大西洋横断計画は少くも本年末までにはショート大型飛行艇によって実現せられるものと見られる、この北大西洋横断実現の暁は英米両国の協定によって北半球を一周する定期航空の実現は間違いないその結果、汽船汽車連絡により半球一周の時間は五十日より直に二週間に短縮せられる斯くの如く空界の進展は日に日に新なるものがあり、日満の民間空界も遅ればせながら最近国産新鋭機で新京−東京間を一日連絡する急行便ができた、新京を朝七時半に出発するとその日の午後五時過ぎには東京に到着する、機上で煙草を喫いながら紅茶やサンドイッチのサービスを受けながら愉快な而も経済的な空中旅行ができる、

然し未だ天候に支配せらるることが尠くない、之を打破する為め目下研究されているのが成層圏飛行である、只今の飛行機が大抵高度四千米以内を飛行するものであるが、将来は九千米乃至一万米の高い空を飛ぶことになろう、上空は空気が稀薄であるから発動機の爆発が不充分となる為めに色々の困難が伴うが、此等に耐え得る適当な航空用発動機が研究せられ近く実用に供せられようとしている一万米の上空には一点の雲もなく天体の観測が自由であり暴風等の悪気流はない、目下各国で成圏層飛行に熱中しているから、遠からず一万米の上空を飛ぶ飛行機で東京−ロンドン一昼夜位で、而も安全に飛行できる時代も来るものと思わねばならぬ

次ぎは夜間飛行である全て地球の気象は昼間より夜間が良く、又夜間航空によって郵便物、旅客等が睡眠中に目的地に到着し得るから時間的にも極めて経済である(米国、欧洲メインラインは凡て夜間飛行を行っており此の線上には航空灯台やラジオビーコン、方向探知機等が完備されている。

艦上爆撃機 航空機の発達に伴って飛行の安全性を保たしむるには無線の使用が一層重要となる、何千粁という長距離飛行も無線電信電話によって各地の気象を知ることができ、又ラジオビーコンによる航路指示、無線方向探知機による航行濃霧、暗夜時の無線による盲目着陸又は無線の電波による高度測定等広く之が利用せられて来た飛行機については計器のごときショートエンパイヤ号は其の数約五十個に達するといわれている、今日の飛行機の操縦は計器操縦といわれる位に計器によって凡ての安定及び操作が行われており、又自動安定器の如きものができて計器を合せることによって完全なる水平飛行ができるようになり、其他大型の飛行機に自動操縦機を取付け長途飛行等に実用せられている

交通の発達が文明の母であるということはよく云われることである、鉄道、汽船は既に充分な発達を遂げてその将来性はあまりないが、飛行機の将来は未知数であり、豪華なる設備を有し而も快速力の大型飛行機が出現し、世界交通網に一大変化を来たすの時期は遠くないと思う、要するに飛行機の使命は二つある、一つは平和的使命であり民間航空による経済的交通機関としての発達であり、一つは戦時的使命を帯びて国防の見地に立つ航空即ち軍事航空であるが、この二者は二つに分ち得ないもので、一朝有事の際は民間機も戦闘に参加する、或る政治学者は「空を支配するものは世界を支配す」と論断している、吾人は徒なる領土の拡大、海の支配権よりも自由に航行し得る「空の征服」こそ日本の使命ではないかと思うのである(完)(飛行機の今昔 防空思想講座 (上)引用終わり)


4−4.空軍の第二線 : 民間航空の重要性
満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 5巻 Page: 27 出版年 1937-07-05

https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100089801

「空を制するものは世界を制す」今や航空に無関心である国家はあり得ない、列国は競って空軍の拡充に寧日なき状態であるが、一方民間航空は如何なる状況にあるかというと、無論民間飛行士の養成に、定期航空路の伸張に、飛行場増設に不断の努力を傾けて、航空施設の拡充、完備を期している

民間航空の内容

「民間航空」とは「軍事航空」と区別していう呼称であって、これを「文化航空」ともいうことがある、というのは軍事航空は航空機を兵器として使用することを内容とするものであるが、民間においてはこれを専ら文化用途に応用して人類の生活上の便宜を供しているからである、民間航空の内容は工業部面とその他の部面とに大別することが出来る、工業部面というのは民間において航空機やこれに附随する器材を製造したり、加工したりする業態のことをいうのであって、普通これを民間航空工業と呼んでいる、その他の部面というのは「用途」と「人」と「施設」とに区別することが出来る、

航空機の用途は器材の進歩に伴れて益々多くなるのであるが、現在は軍事用途を別にしてその中の主なるものを挙げて見ると、定期航空エア・タクシー、新聞通信、測量資源調査、魚群探知、遭難捜索等であって、中でも定期航空は最も重視せられるものである、

次に人とは、民間航空界の要員のことで飛行士も機関士も技術家もその他の人々も皆この中に含まれるのである、第三の施設というのは、飛行場やその他の航空設備、航空要員を養成する教育機関等を指すのである、民間航空の内容は大体以上の如きものである

民間航空と国防

ところで民間航空と国防との関係はどうか、よく「民間航空は空軍の第二線」だとか「予備空軍」だとか言われているのであるが、一体その第二線たるの役目は何なのか、予備空軍の実は何処に在るのかというような実際問題になるとまだよく周知されていないようである、大抵の人は「それは飛行機も、人間も軍用に転化できるからだ」と答えることは出来ても、どう転化せしめるのか、また何故そうする必要が生ずるのかということに就てはぴったりした説明が出来ないようである、

しからばその真諦は何か、まず何故、民間航空を空軍の予備とする必要があるかというに、空軍器材が非常に高価であること、器材の消耗率の大きいこと、空中勤務員の養成費ならびに給与に少なからざる金の要ること、訓練に要する費用が莫大であること等の理由で航空兵備を維持するには茲に巨額の経費が必要なのである、即ち一飛行聯隊の一ケ年の経費は大体一箇師団の維持費に相当すると言われている、こういう風に莫大な費用のかかることは平時において航空兵備を充分に貯蓄し難い理由となるのであるが、それは国家財政上から見た理由であって、勿論これが全部ではなくこの外になお経済を超越した大きな理由がある

1 航空機材は日進月歩の勢で進歩改善されるので、弾薬や他の軍需品のように余分に貯蔵して置くことは断じて出来ない
2 空中勤務者には年齢の制限がある、他の兵種だったらかかる悩みはないのであるが、空中勤務者は老境に入るに従って適応性が退化するので、少くとも三十五、六歳以上の者は第一線から退かねばならなくなる、故に航空兵種の在郷軍人は有事の際第一線の役に立たないのである

民間航空が空軍の予備として必要な理由は大体以上のべたような一財政上の理由二、技術上の理由三人的理由の三つに帰せられるようである(空軍の第二線 : 民間航空の重要性引用植わり)

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)爆撃機を見る。 

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-23 ドラゴン(Dragon)爆撃機を見る。 


写真(右)1941-42年、日本あるいは仏印、離陸しようとする250kg爆弾2発搭載の日本海軍G3M三菱九六式陸上攻撃機(J-BACI):ニッポン号は、1939年に日本機として最初にアジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの四大陸を周遊し、大西洋と太平洋の二大洋を横断して、世界一周をした双発機。原型は、日本海軍の中攻撃で、陸上基地から発進し、海上で敵艦戦を水平爆撃あるいは雷撃する攻撃機である。1935年7月に初飛行し、皇紀2596年に日本海軍が制式し九六式陸上攻撃機と命名された。日中戦争の緒戦で、中国の杭州、南京、武漢などを都市空襲した。生産数:1,048機。
Mitsubishi "Nippon" J-BACI Date 6 September 2007, 19:17 Source Mitsubishi "Nippon" J-BACI
写真は,Category:J-BACI (aircraft) File:Mitsubishi "Nippon" J-BACI (4806265340).jpg引用。


4−5.航空工科大学の提唱 掲載誌 大阪朝日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 42 出版年 1937-10-01
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100162623


 上海方面における支那側の攻勢と共に猛颱風を衝いて敢行された我が海軍航空隊の渡洋爆撃が、世界戦史にかつて見ざる勇猛果敢なるものであったことは、改めて説くまでもない。爾来海軍の精鋭は中支、南支に寧日なく活躍、あらゆる軍事施設、作戦の本拠に[渡洋]爆撃の手を弛めず殆ど敵の戦意を喪失せしめんとしつつあることは吾人の感謝に堪えざるところである。この戦果が忠勇なる我が将士の勇猛果敢と平時の戦技猛訓練の結果であることはいうを俟たないが、一面航空機製造技術の優秀がこの勝利を齎したことを見逃してはならぬのである。

九六式陸攻
 一日数千キロメートルの遠距離を航して数百キログラムの爆弾を投下し、高速度を利して空中戦闘を展開するこの精鋭機が、ただ偶然の所産であると思ったら大きな間違いである。過去二十幾年、研究に研究を重ね、幾多の犠牲を出した涙ぐましい努力の結果が、本事変に世界列強を驚倒せしむるにいたったことを忘れてはならないのである。しかしながら吾人はここに深く将来の航空機製作技術に関し考慮を加えねばならぬものあるを感ずるのである。すなわち、一面には今まで示されなかった我が航空技術者の全貌が今や世界環視の中に曝け出されたのである。従ってこの海軍機精鋭の「標準」を知った列国は、今後競ってこれを凌駕する精鋭機の研究製作に努力するであろうことは誰しも想像し得るところである。

『より優秀なる航空技術者を作れ』これこそ今次の事変が世界的に打たしめる警鐘ではあるまいか。すでに今日の航空機はその形の上においてさえ行詰りを生じつつあるといわれ、設計に技術に新機軸を生み出すことが斯界における急務中の急務となっているのである。成層圏を飛ぶことも、ロケットの研究も優秀なる[航空]技術者にして始めて行われるものであろう。優秀なる技術者を有つことは航空界の行詰りを打開する唯一の鍵なのである。

写真(右)1941-42年、アメリカ、カリフォルニア州オークランド飛行場、日本海軍G3M三菱九六式陸上攻撃の民間特殊仕様ニッポン号(J-BACI):ニッポン号の原型は、日本海軍の中攻撃で、陸上基地から発進し、海上で敵艦戦を水平爆撃あるいは雷撃する攻撃機である。1935年7月に初飛行し、皇紀2596年に日本海軍が制式し九六式陸上攻撃機と命名された。日中戦争の緒戦で、中国の杭州、南京、武漢などを都市空襲した。生産数:1,048機。
As I have commented before I don't have time to write a text for all the photos that I post but this one does deserve an explanation. It is shown arriving at Oakland Airport, California, on September 2, 1939. A Mitsubishi G3M2 bomber converted for a long range world peace flight it was named "Nippon". When England declared war on Germany the next day the globe circling flight was almost canceled but by changing the route they did arrive back in Japan on October 20th after flying 32,846 miles in 55 days. I will post another photo of it being taxied into one of the hangars that shows the excellent construction at a time when we were being told by the press that the Japanese couldn't build anything good and that their pilots were born with a lack of balance so couldn't fly well Date 12 September 2007, 20:08 Source Mitsubishi "Nippon" Oakland Airport 1939
写真は,Category:J-BACI (aircraft) File:Mitsubishi "Nippon" Oakland Airport 1939 (4808938058).jpg引用。


写真(右)1940年、日本、海上を低空飛行する日本海軍G3M三菱九六式陸上攻撃機(Nell)の民間仕様ニッポン号(J-BACI):二二型は、乗員員:7人、全長:16.45m、全幅:25m、全高:3.68m、空虚重量:4,965kg、全備重量:8,000kg、最高速力:375km/h、航続距離:4,400km、上昇限度:9,200m、三菱空冷星型14気筒エンジン「金星」四二型2基、胴体前上面に7.7mm旋回機銃1挺、胴体後上面に20mm旋回機銃1挺、胴体左右側面ブリスター型銃座に7.7mm旋回機銃各1挺を装備、爆弾搭載量:800kg。
Description 日本語: 三菱・中島 九六式陸上攻撃機 English: Mitsubishi Nakajima G3M1 Date 8 March 2016 Source https://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/25303533370/in/photolist-EPCp9j-ExZdUJ Author San Diego Air and Space Museum
写真は,San Diego Air and Space Museum the Ray Wagner Collection引用。



 我国において従来航空技術者は東大航空科を主として年々僅に数名を養成するに過ぎず、他にも一二航空学講座を持つものもあるがその規模小にして箱庭式の域を脱しなかった。時局の要求は東大における学生数を今年より漸く九名から十四名に増加したと聞くが、かかる数字、かかる設備では航空日本として誠に心細い次第といわねばならぬ。この欠を補うために、従来造船科出身の者が航空界に多数転身しているのであるが、一時の便法はとに角、航空日本の強化には専門的根本的の教育を必要とすること言を俟たぬ。

九六式陸攻  ここにおいて吾人は、この箱庭式教育の弊を脱却するために現在施設の完備せる帝大航空研究所の一切を挙げてこれを航空工科大学たらしめることを提唱したいのである。同研究所は、大正五年四月東京帝国大学内に設置せられた航空学調査委員会の業務を継承し、航空船、飛行機、気球、航空用発動機、航空心理その他航空に関する諸般の研究を行う目的をもって大正七年四月東大に附属創設せられ、物理、化学、冶金、料材、風洞、発動機、飛行機、測器、航空心理などの研究科目を有し、この種の機関として完璧に近いものといえる。しかして、これを単科大学とするとともに学生の数も一挙に五十名乃至百名とする必要があろう。かくてはじめて将来の航空界に備えることが出来るのである。かの同所で苦心設計した長距離機が昨今正に世界制覇の小手調べをなしつつあり、近くこの周廻記録を樹立すれば同所としても使命の大半は達したわけで、時機としても今が機会と考えらるるのである。

[帝大]航空研究所が航空工科大学となり、多年にわたる所員諸氏の蘊蓄が新学生の教育に傾注されるとき航空日本の強化は幾十倍せられるのである。今日まで東大において少数ではあるが優秀な技術者を出したことはもとより多とするところであるが、航空日本として専門の大学を一つくらいは持ち、大量に技術者を養成することは当然のことであり、むしろ遅きに失するのである。一方[帝大]航空研究所には航空研究所としての伝統と使命があり、吾人の提唱は多少それと相容れぬところがあるかも知れないが、躍進航空日本の新しき目標のためには大同に就かんことを希望し、敢て文部当局の一考を煩わす次第である。(航空工科大学の提唱引用終わり)


写真(右)1940-1942年、日本、中部の山岳地上空を編隊飛行する日本陸軍浜松陸軍飛行学校所属の三菱九七式重爆撃機(Sally)二型:1935年、陸軍が九三式重爆撃機(キ2)後継機となる重爆の仕様を示し、1936年2月に中島キ19、三菱キ21の試作が決まり、1937年(皇紀2597年)1月にキ21が九七式重爆撃機として制式された。生産数:2,055機。
日本語: 九七式重爆撃機 Date before 1945 Source http://blog.goo.ne.jp/summer-ochibo/e/1537efe6d563d5fb515438a04d34bf6c Author 撮影者不明
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi Ki-21 File:Mitsubishi Ki-21 97 juubaku.jpg引用。


写真(右)1940年8月19日、中国、四川省、重慶を爆撃する日本陸軍航空隊の三菱キ21九七式重爆撃機(Sally)二型乙:地上では、長江湾曲部の重慶とそこに被弾するようするが映っている。1929年、重慶は四川省に所属することになったが、1936年、1等国家直轄市に昇格した。しかし、日中戦争が勃発し、中華民国国民政府の首都南京が陥落すると、1937年から重慶は首都となった。「陸鷲重慶對岸の軍事施設爆碎 (八月十九日)=軍撮影」(『東京朝日新聞』昭和十五年八月二十四日 第一萬九千五百四十號)
English: Japanese bomber Mitsubishi Ki-21 bombing chinese capital Chungking Date Taken on 16 June 1940 Source http://www.3lou.com/mil/319.html Author Asahi Shimbun
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi Ki-21 File:轟炸重慶 (cropped1to1).jpg引用。


三菱キ21九七式重爆撃機(Sally)二型乙の諸元
全幅: 22.50 m
全長: 16.00 m
全高: 4.85 m
主翼面積: 69.60 m2
自重: 6,070 kg
全備重量: (正規)9,710 kg (過荷)10,610 kg
乗員: 7 名
最高速力: 478 km/h
巡航速力: 380 km/h
航続距離: 2,700 km
発動機: 三菱ハ101空冷星型14気筒エンジン1500 hp2基
兵装: ホ103 12.7 mm機関砲 ×1(後上方)、テ4 7.7 mm旋回機関銃 ×4(前方 1、後下方 1、後左方 1、後右方 1)、八九式 7.7 mm 遠隔操作機関銃 ×1 (尾部) 爆弾搭載量: 1000 kg


5ー1.渡洋作戦採用を闡明 : 米海軍拡充理由発表『読売新聞』 第45巻 P.23 1938-04-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100346697

サラトガ 【ワシントン十八日発同盟】米国上院海軍委員会は十五日総額十一億五千六百万ドルに達するヴィンソン海軍拡張法案を採択し本会議に廻付したが、これと同時に本会譲に提出した委員会の報告書を十八日発表した、右の報告書は消極的守勢海軍主義を一擲して渡洋作戦の必要に応ずる無敵艦隊の実現を力説したもので要旨は左の如くである

 国防のための海軍とは国家的意味においては、米国が戦争に訴えるのやむなきに至った場合にのみ使用さるべきものであるが、同時に一旦戦争が始まった場合には戦端を開いた場所を問わず、その場で敵艦隊を撃滅し得るに足る強力な海軍を意味する、これに反して軍事的意味における防禦海軍は敵艦隊の来襲に備えるのみの劣勢な海軍しか意味しない、即ちかかる海軍のなし得る最善の処置は、ただ敵艦隊の来襲を待機して自国の沿岸を防衛するのみで敵国は自国の権益に関して米国海軍の活動を顧慮する必要が全然なく、且つ積極的進攻に際しては攻撃の時期と方法を自由に撰択し得る立場に置かれる故に、軍事的意昧における防禦だけでは積極的に戦争を終結させる効果は殆どない、かかる海軍は国防の見地からみて決して十分なものとは云えぬ、真の意味の防禦海軍とは、将来米国の敵となるかも知れぬ国家が何れも平時においてこれを尊敬するとともに、戦時においては畏怖せざるを得ぬような海軍でなければならぬ

アラバマ なお委員会の討議で戦闘艦と爆撃機の優劣が問題となったが、委員会は結局強力な爆撃機の発達は十分認めるが、海上においてはなお戦闘艦が支配権を握っているとの結論に達した、過去数ヶ年における陸海軍の秘密試験成績を見れば軍用機及びその爆撃の軍事的価値と有効性は一般国民に対し少なからず誇張されていることが判る、従って議会が米国の国防計画を樹てるに当り空軍のみが敵艦隊に対し重大な打撃を与え、艦隊の威力を削減するとの想定に基いて立案に当ることは極めて危険なことである、海軍の爆撃試験の成績によれば高度の高い上空から正確に爆弾を投下することは不可避的に極めて困難なることが立証されている

陸奥 アメリカ海軍は英米日三国海軍の比率を依然旧ワシントン条約の定める五五三の水準に維持するよう勧告する、アメリカ海軍はこの比率を維持することによってのみ相対的安全を確保することが出来よう

上院海軍委員会の多数委員は本建艦案によりアメリカ海軍は外国政府が各進んでその海軍の拡張を図らぬ限りアメリカ国防を十分適当な水準に維持することが出来ると確信する(引用終わり)


写真(右)1940年頃、日本、浜松、日本陸軍航空隊キ30三菱九七式軽爆撃機:全長: 10.34m 全幅: 14.55 m 全高: 3.66 m 主翼面積: 30.58m2 自重: 2,230 kg 全備重量: 3,322 kg 発動機: 中島ハ5 空冷星型14気筒エンジン850hp 最高速力: 423 km/h 航続距離: 1,700km 実用上昇限度: 8,600 m 乗員: 2名 兵装: 7.7mm機関銃×2 爆弾搭載量 450kg。浜松陸軍飛行学校は、1925年設立で、1940年12月、鉾田陸軍飛行学校が分離独立した語は、爆撃の教育研究を専門とするようになった。
日本語: 浜松付近の上空で撮影された97式軽爆。 Date before 1945 Source 零戦落穂ひろい Author 浜松市千歳町「アケミ写真館」。 "Akemi shashinkan" at Chitose-cho, Hamamatsu, Shizuoka.
写真はWikimedia Commons Category:Mitsubishi Ki-30 File:97siki kei-baku.jpg引用。



5−2.空軍時代の出現 : 我が陸海軍の拡充案と列国の趨勢 : ニュース解説 『報知新聞』 第45巻 P.140 1938-04-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100346749

 陸軍では、支那事変における航空隊の活躍と体験に鑑み、今後更にその陣容を拡大強化するため、現在の陸軍航空本部[1919年設置]とは別個に[1938年12月]陸軍航空総監部を創設することになり、九日これが概要を公表した、天皇直隷の教育機関とし、航空教育の一元化を図ろうというのである

 一方海軍でも、時を同じゅうして大分、筑波、鹿島の三箇所に海軍航空隊を新たに開設することを発表した、これは共に我が陸海空軍の躍進を物語るものである

 一体航空兵力は現代戦におけるちょう児であり、一国国防の死命を左右するとまでいわれるに至っている、従って列国は競うて航空部隊の発達拡充に努め、空軍競争時代を出現している有様である
 では列国空軍の現状並に拡充計画は如何なる趨勢にあるのか?

写真(右)1938-1940年頃、イギリス、飛行するビッカース ウェルズレイ(Vickers Wellesley)偵察爆撃機:1935年6月19日初飛行、全幅 22.66 m 、全長11.96 m、翼面積 59m2、空虚重量3,066 kg、総重量5,67kg、発動機 ブリストル(Bristol)ペガサス(Pegasus)空冷星型9気筒エンジン925 hp 排気量28 L (690 kW)1基、最高速力 367 km/h,、航続距離 1,960 km、乗員3名、兵装 7.7 mmビッカース(Vickers)機関銃2丁、爆弾搭載量 2,000 ポンド (910 kg)。生産177機。
Vickers, Wellesley Catalog #: 01_00089615 Manufacturer: Vickers Title: Vickers, Wellesley Tags: Vickers, Wellesley, UK Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Official Nickname: Wellesley
写真は  San Diego Air and Space Museum Archive引用。


大童の英空軍

 英国空軍の拡充計画はイタリアのエチオピア征服とその結果生じた地中海における緊迫した事態のためいよいよその必要に迫られ、目下大急ぎで遂行されつつある、一九三六年末頃には正規空軍の飛行機総数は一千一百台で、この内海外領土並に海軍の需要のために本国における第一戦機は九百台足らずであった

 その後拡充に拡充を以てし、現在では約三千機といわれているが、更に本土及び海外を通じて飛行根拠地七十五の新設、兵員機材の増加、防空施設の近代化等に力こぶを入れている、現有勢力は左の通り  本士空軍 ▲爆撃連隊四(五八中隊)▲補助空軍連隊一(一二中隊)▲戦闘連隊二(三一中隊)▲偵察連隊二(一五中隊)▲陸軍協同連隊一(七中隊)▲阻塞気球連隊一◇海外空軍部隊二六中隊

 合計兵力約七万、機数約三千外に艦隊所属約三百機あり)

写真(右)1939年頃(?)、イギリス、雲の上を飛行するイギリス空軍ビッカース ウェリントン(Vickers Wellington)Mk.I 爆撃機(B-KA):試作1号機の初飛行は1936年6月15日、量産型Mk.Iは1937年12月に初飛行、生産数 1万1,464機。 生産開始:1936年〜1945年、全長:19.68 m 全幅:25.26 m 全高:5.31 m 全備重量:12,910 kg 発動機:ブリストル・ペガサス(Bristol Pegasus )Mark XVIII空冷9気筒エンジン1,050 hp (780 kW) 最高速力:378 km/h 実用上限高度:5,500m 航続距離:3,540 km 武装 爆弾2,000kg(4,500 lb ) 。303インチ7.7mmブローニング機関銃×6 乗員 6名。
SDASM Archives Vickers, Wellington Catalog #: 01_00089572 Manufacturer: Vickers Title: Vickers, Wellington Tags: Vickers, Wellington, UK Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Official Nickname: Wellington
写真はSan Diego Air and Space Museum Archive 引用。


米国現有勢力

B17  米国は"国防は空軍によるを第一義とす"との方針の下にここ数年間に航空隊の大拡張、飛行根拠地の施設充実を行い、独立的攻勢空軍を完備しようとしている、即ち現有勢力千四百機を三年計画で二千三百二十機に拡張し、また司令部航空隊を編成すると共にその内容を逐次重爆及び遠距離偵察重点主義に改変し、一方アラスカに一千機を収容する大空軍根拠地を建設し、着々進行中なるハワイの大航空根拠地完成と共に陸軍航空勢力を積極的に使用せんとしている

 また海軍空軍では一九三九年までに千九百機を完備せんとして居り、更に三千機目標の計画案もある、現有勢力は次の通り

 陸軍▲偵察中隊(一九)▲駆逐中隊(二〇)▲攻撃中隊(一〇)▲爆撃中隊(一九)▲航空学校本部中隊(四)▲学校中隊(一一)▲基地中隊(一四)▲本部中隊(一四)飛行機勤務中隊(四)▲輸送中隊(四)▲気球中隊(二)▲飛行船中隊(二)▲材料中隊(二)  合計約千四百機

 海軍 ▲飛行機数千七百機


写真(上)1941年12月以前、フィリピン群島ルソン島中部、イバ飛行場、無塗装のアメリカ陸軍航空隊第11爆撃飛行隊のボーイングB-17D 爆撃機
:フィリピン防衛の切り札として日本軍の上陸作戦を粉砕すべく配備されたが、火太平洋戦争初戦で日本海軍機の空襲を受けて大きな被害を被った。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-7 11th Bomb Group B-17D at Iba Field, Philippines.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


仏国拡充計画

仏国はかつて欧洲最強の空軍を誇っていた、一時その第一線機は千七百台あったが、現在は千五百台位だろう、仏国の飛行機は大部分旧式に属するものであるが、一九三七年頃から新型機が漸次使用され、しかも軍需工場の国営化により航空工業の生産能率は一躍三四割の増加を示し、本年度では約六割の増加を予想されている、また独立空軍の本質を備えしめるため防禦航空隊を拡充しつつあり、殊に注目すべきは爆撃及び駆逐機の増加が顕著なことである

 本国空軍▲爆撃中隊(五五)▲戦闘中隊(四三)▲偵察中隊(四〇)▲気球中隊(一二)▲合計約一五〇中隊  海外空軍 ▲北アフリカ及びルヴマン(約二六中隊)▲その他の植民地(約九中隊)

 機数、航空省所属約四千五百機(内第一線機千五百機—二千機)海軍所属約二百五十機

写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機試作6号機V-6(登録コードD-AXOH):ユモJumoJ200液冷エンジン(700馬力)2基を装備。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪も非常に小さいものがついている。ハインケルの開発したHe 111輸送機も、高速民間旅客輸送機として登場し、He-111Cが生産されたが、これは単発機のハインケ(Heinkel)He-70高速郵便輸送機と同様、楕円翼の全金属製、引き込み客の機体で、軍用機に転用することも視野に入れていた。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:43935015 - Catalog:16_005213 - Title:Heinkel He 111V-6 Nowarra photo - Filename:16_005213.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog: 16_005213引用。


躍進の独空軍

 独空軍の躍進は欧洲各国の一大脅威となっている、将来戦における空軍の価値を重大視し、国防再建の重点を空軍に置き、目下六千機保有を目標に大拡張中といわれている

 独空軍の重要な特徴は、各種爆撃機の比率の高いことで、空軍の半分あまりが爆撃部隊から成っている、しかも各種の爆撃機の半分以上が一トン余の爆弾を積載することが出来、行動半径約四百マイルを有しているから、ドイツ隣接諸国の首都は皆その行動圏内にあるわけである

 更にドイツが急速にかつ容易に軍用機に変更し得る民間機を大量的に建造しつつあることも注目されよう、現勢力は次の通り

 空軍(航空省所属)▲爆撃(六大隊)▲駆逐(二大隊)▲偵察(十中隊)▲機数約二千五百

写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、沿岸部を飛行するドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機:胴体後上方に機銃座が備えられている。主翼両端と胴体後方に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。他方、4桁の登録コードは記されていない。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪は若干大きくなった。
SDASM Archives Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081297
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081297引用。


強大なソ連

 ソ連の空軍は現在では欧洲第一といえよう、その第一戦機だけでも三千五百余と伝えられ、あるいは四千とも更に五千五百ともいわれる、しかもその内航続力の大きい大型爆撃機五百台が含まれている、これは拡大な面積を有するこの国の地理的状態に基づく特徴である、ソ連空軍の他の特徴は、陸軍と協力して地上目標を攻撃するため案出した編隊機の使用である  生産能力もここ数年後には倍加可能と見られ、操縦士も現在空軍九千、民間一万五千を合し、目下十万人目標に大童の養成を行っている、兎に角かかる大空軍の効果的使用に必要な基本的組織の創造という点では想像以上に長足の進歩をしていると見てもよかろう

 空軍勢力▲飛行中隊(約五〇〇、機数五千内外、他に気球中隊、海軍機中隊若干あり)▲空中降下部隊(約一連隊か?)

写真(右)1940年3月14日、フィンランド、フィンランド空軍がソ連軍から鹵獲・使用したツポレフ(Tupolev)TB-3(ANT-6)大型爆撃機:第二次大戦勃発3か月たたずに勃発した冬戦争では、ソ連軍がフィンランドに侵攻したが、緒戦でフィンランドは善戦し多数のソ連気を鹵獲し、自軍に配備した。
English: Tupolev TB-3 bomber captured by Finnish troops after emergency landing. Suomi: Kuhmo-Saunajärvi. Venäl. lentokone. Pakkolaskun tehnyt ja kranaatinheittimellä tuhottu. Kuhmo 1940.03.14 Kyseessä Tupolev TB-3 pommikone, joka osunut laskeutuessaan puihin. Date 14 March 1940 Source http://sa-kuva.fi/ id: 7361 Author SA-kuva
写真はWikimedia Commons, Category:Tupolev TB-3 File:Tupolev TB-3 SA-kuva 7361.jpg引用。


写真(右)1940年、スペイン、ファシスト政権がスペイン内戦で鹵獲し配備したソ連製ツポレフ(Туполев:Tupolev)SB高速爆撃機:1936年7月17日から1939年4月1日まで続いたスペイン市民戦争では、共和国政府をソ連が、ファイスと反乱軍をイタリアとドイツが軍事援助した。フランコ将軍のファシストが勝利し国民戦線政府の下にスペインを統一した。ソ連空軍SB高速爆撃機は、1934年10月7日に初飛行、乗客:8名、全長12,27m、全幅20,33 m、翼面積51,95m²、空虚重量4,768kg、全備重量6,308 kgkg、発動機クリーモフ(Klimov) M-103 液冷V12気筒エンジン960 hp (716 kW)2基、最高速力450 km、航続距離2,300km、上昇限度9500 m、7.62mm ShKAS機関銃4丁、爆弾搭載量500 kg。1936年 - 1941年に6,945機製造。独ソ戦の初期の主力爆撃機だったが、1942年には退役。中国空軍が1937年の日中戦争勃発時にSB-2M爆撃機60機を貸与し、その後の中国空軍主力爆撃機となった。チェコスロバキア空軍は、ドイツとの戦争を意識し1938年にSB爆撃機60機を購入した。フィンランド空軍は、1939-1940年の対ソ連冬戦争でSB爆撃機8機を鹵獲し使用した。
Tupolev SB "Katiuska" del Ala 14 en tierra, año 1940. Date 23 October 2013, 10:47 Source Aeronaves del Ala 14 Author Ejército del Aire Ministerio de Defensa España
写真はWikimedia Commons, Category:Tupolev SB File:Aeronaves del Ala 14 (30052749666).jpg引用。


伊空軍の偉力  伊エ戦争の際英艦隊の恫喝的示威運動を暗黙のうちに押え、かえってマルタの根拠地から地中海の両端に引揚げさせたのは伊空軍の"無言の圧力"の現れだった

 伊エ戦争の勃発に続く空軍拡張の結果、イタリアの第一線機は約一千九百台に上っている、最近ポー河流域に大空軍根拠地を新設すると共に九箇所の大軍需工場を改善し、時速二百二十キロ、行動半径五百トンという新鋭機一千機の大量生産を目標に計画を進めている

 空軍▲直轄部隊(九〇)▲陸軍協同隊(三〇)▲海軍協同隊(二〇)▲植民地軍協同隊(五〇)▲合計中隊数百九十▲飛行機総数千九百(外に気球部二中隊あり)

空軍時代の出現 : 我が陸海軍の拡充案と列国の趨勢 : ニュース解説『空軍時代の出現 : 我が陸海軍の拡充案と列国の趨勢 : ニュース解説』 第45巻 P.140 空軍時代の出現 : 我が陸海軍の拡充案と列国の趨勢 : ニュース解説引用終わり。


5−3.欧米防空競争 : 一万フィートの空に浮ぶ阻塞気球に電流 : 馬や犬にも防毒マスク : 珍案・敵陣攪乱の音楽空襲 : 中部防空訓練に当たりて
大阪毎日新聞 Vol: 第 45巻 Page: 54 出版年 1938-07-03
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100347343

[写真(英国カーディングトン飛行場の阻塞気球演習)あり 省略] エチオピヤ戦争、スペイン内乱、支那事変という風に世界の人々はこの両三年来空爆の恐ろしさをまざまざと経験して来た—“空の護り”それは全世界をあげて現実の緊急事である、ソヴィエトの婦人達は最近防毒マスク装着の百キロ行軍に一名の落伍者も出さなかったということだし、フランスでも一千万個のガス・マスクが用意され、パリでは一昨年赤ちゃんを毒ガスから護るための女のハンドバッグ風の防毒袋が発明されて世間をあっといわせた、事実欧洲では赤ちゃんは勿論、犬にも馬にも防毒マスクをつける訓練を施している、毒ガスに対する護りだけでもこの通りだ、きょうから初まる中部防衛管区の防空訓練を機会に欧米各国の防空設備がどの程度に力瘤を入れているかを眺めて見よう

英国

写真(右)1942年5月、アメリカ、サウスカロライナ州パリスアイランド、アメリカ海兵隊基地、阻塞気球を上げる訓練中のアメリカ海兵隊員
Lot-1822-4: Marine Corps Base, Parris Island, South Carolina, May 1942. “Old Swampy” (No.1 to you) was at one time, the problem child of the Marine Corps balloon-barrage unit in training at Parris Island, South Carolina, used to go A.W.O.L. on runway excursions. The Leathernecks, though, taught her manners. Now she’s a great favorite, and her crew likes to tell tall takes of her early escapes. Office of War Information. Courtesy of the Library of Congress. (2016/06/24). Date May 1942 Source Lot-1822-4 Library of Congress source Call Number: LC-USE6- D-004703 [P&P] LOT 1822 Author Alfred T. Palmer (1906–1993) wikidata:Q2895582 National Museum of the U.S. Navy
写真はWikimedia Commons Category:Marine Corps barrage balloon photographs by Alfred T. Palmer  File:Marine Corps balloon-barrage unit in training at Parris Island, South Carolina, 1942 (27267126874).jpg引用。


英国では去る五月十日ロンドン北方のカーディングトン飛行場で同飛行場所属の阻塞気球隊が大々的な気球掲揚を行ったのをはじめ、同月二十八日の英国航空デーには全国八十八の飛行場で二千の飛行機を動員して大規模な空の攻防戦が展開され、議会も五月末から六月にかけて連日防空に関する白熱的な討論で賑わった

 英国空軍省では今度補助空軍として六つの阻塞気球中隊を新設することになり、去る六月十六日からその募兵を開始したが募兵総数は将校を含めて六千名という大規模のもの、六気球中隊のうち三中隊までがロンドン防護の任務につくことになっている、阻塞気球の数は最も少く見積っても一千、上昇高度は一万フィート(世界大戦当時は五千フィート)まで可能だが、英国気球隊司令官ハーソン代将によると、最近の爆撃機は二万五千フィートまで上昇できるから現在の阻塞気球の性能ではまだまだ心細いということだ、英国空軍省では目下気球のケーブルに強力な電流を通じるとか、敵機がケーブルに触れると自動的に気球から爆薬を破裂させるとかいう風な方法で敵機を撃墜する仕掛が考案されているそうである

写真(右):1941年10月23日、イギリス、ノーフォーク、イギリス陸軍QF 3.7 インチ 高射砲(QF 3.7 inch AA gun)用の距離算定用の測距儀(rangefinder)を操作するイギリス補助郷土部隊(Auxiliary Territorial Service: ATS)の婦人兵士:高射砲操作のために、標的の飛行機の高度・飛行速度・距離・移動方向を計測して照準を算定する算定機は、アメリカではDirector、イギリスではPredictorと呼称し、日本陸軍では高射算定具、日本海軍では高射装置と呼称した。後方には、イギリス陸軍QF 3.7インチ高射砲(QF 3.7 inch AA gun)が置かれているが、移動用のゴム車輪を付けたままの状態で待機している。
The British Army in the United Kingdom 1939-45 ATS women operate a rangefinder at the anti-aircraft training camp at Weybourne in Norfolk, 23 October 1941. A mobile 3.7-inch gun can be seen in the background. Date 23 October 1941 H 14985 from the collections of the Imperial War Museums. Author Puttnam (Lt), War Office official photographer Permission (Reusing this file) Part of War Office Second World War Official Collection.
写真はWikimedia Commons Category:QF 3.7 inch AA gun File:The British Army in the United Kingdom 1939-45 H14985.jpg 引用。


次に一般の施設はどうか?本年度の防空予算だけでも八百五十万ポンド(邦貨約一億四千万円)というから大したもの、六月二日ホーア[ベリシャHore-Belisha)]国防相が議会で言明したところによると英国の一般の防空施設は最近目ざましい進捗ぶりを示している、先ずさきに一般から志願者を募った義勇防空団がすでに予定数の百万人の半ばに達していること、活溌な婦人義勇防空団や百にあまる防空消火隊が組織されたのをはじめとして避難壕に使用する砂嚢がすでに三百二十万個(予定数は二億七千五百万個といわれる)も用意されているし、ロンドン市内の空地にはすでに百五十万人を収容し得る避難壕を設ける準備が完了している

 また一般市民の市外避難については実に三百五十万人をわずか七十二時間以内にロンドン市外へ運び出すプランが出来上っているということだ、だがこれだけの大人数を空襲時にいかに適当な場所に避難させるかということは実際問題としては非常に困難で、労働党のノエル・ベーカー議員などは仏国政府がパリの人口四百五十万を百七十五万程度に減らせる計画を立てているようにロンドンの人口を二百万くらいに減らすべきだと主張しているほどだ

この家庭用避難壕はマシュース大佐の考案になり工費もわずか四ポンドという至極簡便なものだ、英国の防空施設はこのように着々として進んでいる

写真(右):1942年12月、イギリス沿岸部、対空掩体壕の中のイギリス陸軍QF 3.7インチ(94mm)高射砲(QF 3.7 inch AA gun)と双眼鏡による対空監視任務に就くイギリス補助郷土部隊(Auxiliary Territorial Service: ATS)の婦人兵士:コート、厚手の手袋と革製の腰巻を着用し、雑袋を準備し、ヘルメットを被って戦時臨戦態勢を強調している。背景の左奥には、防空掩体壕内にイギリス陸軍QF 3.7 インチ 高射砲(QF 3.7 inch AA gun)が据え付けられている。
English: The Auxiliary Territorial Service at An Anti-aircraft Gun Site in Britain, December 1942 An ATS spotter with binoculars at the anti-aircraft command post. A 3.7 inch anti-aircraft gun can be seen in the background. Date 1942 TR 454 from the collections of the Imperial War Museums. Flag of the United Kingdom.svg Author Malindine E G (Lt), Tanner (Lt), War Office official photographer.
写真はWikimedia Commons Category:QF 3.7 inch AA gun File:The Auxiliary Territorial Service at An Anti-aircraft Gun Site in Britain, December 1942 TR454.jpg 引用。


フランス

次にフランスはどうか?本年度のパリの防空予算だけでも七億五千万フラン(邦貨約七千五百万円)という尨大なもの、その内訳は  地下鉄、地下室等の防護設備費(約一億七千万フラン)ガス・マスク製造費(二億八千四百万フラン)パリ撤退のための幹線道路改修費(千五百万フラン)となっているが、パリには現在二万七千六百五十六の避難地下室があり、これだけでも優に百七十二万の市民を収容することができるということだし、さらにパリ郊外には七千二百三十二の同様の避難室があって、ここにも六十万人ぐらいまでは避難できるようになっている

また最近パリでこれは防空という範囲からは離れるけれども、敵地の夜襲について頗る珍妙な方法が発案された、発案者はマキシム・ベーズという男だが、何でも大きなセロファン製の凧を深夜、敵に見えないように敵軍の頭上に揚げるのである、ところでその凧にはマイクロフォンがついており、そのマイクを通じてこちらから砲弾の炸裂する響きや、機関銃を発射する音、手榴弾の爆破する音響などを不意討的に放送するのであるちょっと何でもないことのようだが、全く寝耳に水に深夜頭上からそうしたけたたましい響音に襲われると、いかな敵軍も周章狼狽しはじめるだろうというのが発案者の狙いどころである

独・伊

世界大戦前夜ともいわれる今の欧洲において、颯爽の意気を示しているのはわが防共の独伊である、この立役者の防空設備に至っては、国民のすべてのエネルギーを軍事的に再組織しているだけに、恐らく英仏などの到底およばぬほど、完璧の防空施設が出来上っているだろう

スペイン

英国下院防空委員ダンカン・サンズ氏の空襲下のバルセロナ視察記によると、フランコ[Francisco Franco]空軍の爆弾は小型のものでも非常に大きな破壊力をもっており、二百二十ポンド乃至六百五十ポンド程度のものが優に二百フィート以上の建物を木っ葉微塵にしているそうである

 バルセロナはスペイン内乱勃発と同時に逸早く避難用の地下道(地下十五フィート乃至三十五フィート)を市内の各所に掘り繞らした、この地下道は救護室換気装置などの設備も完全に出来ており、一ヶ所だけでも二千人ぐらいを悠々と収容できる、このほかに空地には高さ十五フィートの砂嚢の下に縦六十フィート、横百フィートの避難壕が掘られている、これも天井や壁はすべてコンクリートで塗り固められ頗る堅固なものだ、

今年の三月十九日からでももう三十回に近い空襲をうけているので、防空設備はますます強固になるばかり最近は自動電気装置の警報サイレンが工夫され、郊外の監視哨から敵機来るの報が入ると自動的に市内各所のサイレンが一時に鳴り響くようになっている

写真(右)1943年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)B-17B爆撃機の左正面とアメリカ陸軍将校の記念撮影:アメリカ陸軍航空隊の開発要求に応じてボーイング モデル299 (XB-17)がプラット・アンド・ホイットニー R-1690空冷エンジン4基を搭載し1935年7月28日に初飛行した。これを原型としてY1B-17 (YB-17)が試作されたが、発動機はライト(Wrighjt)R-1820空冷エンジンに強化され、1936年12月2日初飛行した。こうして完成したB-17の最初の量産型がB-17Bが1939年6月27日に初飛行した。
Boeing B-17B Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive , 引用。


米国

大西洋を隔てた米国でも、欧洲のそれを見てあまり呑気にばかりやってはいられないと、去る五月十六日から四日間にわたりニューヨークの対岸、ロング・アイランド島のファーミングデールでアメリカでは最初の灯火管制[Blackout]を加えた大規模の防空演習を行った

 この演習は敵機がファーミングデールにあフランクアンドリュース少将の指揮下にセヴェルスキー[Seversky]飛行工場を爆撃するという想定の下に行われたもので、フランクアンドリュース少将の指揮下に[ボーイング]B十七と呼ばれる最新式の重爆撃機九台、戦闘機百五十台、第六十二海岸警備砲隊が三万の観衆の眼前に壮烈な実戦さながらの攻防戦を展開した、五月十六日の午後十時三十分敵機来るの報に、ファーミングデールを中心に半径二マイル半の円囲地帯は一瞬にして烏羽玉の闇の中に消えてしまう、

ミッチェル飛行場を出た[ボーイング]B十七は高度一万五千フィートを保ちつつファーミングデール上空に入るや、突如四千メートルに急降下して、二万五千燭光の照明弾を投下しはじめる、地上からは二十五万燭光のサーチライトがこれに応じて、煌々たる光の尾を引きながら、敵機を探し求める火を吹く高射砲のうなり、聴音機の活躍—この演習はミッチェル飛行場における百五十台の空軍分列式をもって大成功裏に幕を閉じたが三千の兵員と二百台にあまる飛行機が動員され、アメリカ未曾有の大がかりな防空演習であった(欧米防空競争 : 一万フィートの空に浮ぶ阻塞気球に電流 : 馬や犬にも防毒マスク : 珍案・敵陣攪乱の音楽空襲 : 中部防空訓練に当たりて引用終わり)

写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、ボーイング・モデル 299(Boeing Model 299):機首と胴体後上方には銃座があり、後方下部にも部首スター式銃座が設けられているようだ。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。
SDASM Archives boeing b-17 fortress image pictionid59698368 - catalog35-299 boeing field seattle wa 29 jul 35 74623.jpg - title35-299 boeing field seattle wa 29 jul 35 74623 - filename35-299 boeing field seattle wa 29 jul 35 74623.jpg Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、レーニエ山上空を飛翔するボーイングB-17 試作爆撃機YB-17(Y1B-17)の左側面:機首と胴体後上方、胴体後方側面(左右)と胴体下方銃座はブリュスタ―状である。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。レーニエ山(Mount Rainier)は、ワシントン州北部、カスケード山脈の最高峰で(標高4,392m)。現在では、先住民に因んだタコマ山(Tacoma)とも呼ばれる。
SDASM Archives Boeing : B-17 Manufacturer: Boeing Designation: B-17 Official Nickname: Notes: Includes Japanese Version Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00044758引用。


写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、ボーイングB-17C爆撃機の右側面:機首と胴体後上方、胴体後方側面(左右)、後方下に後方下にゴンドラ式(gondola)バスタブ型銃座"bathtub turret"が設けられている。が設けられている。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。
SDASM Archives Boeing : B-17 Manufacturer: Boeing Designation: B-17 Official Nickname: Notes: Includes Japanese Version Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00044741引用。


1939年9月に第二次大戦が勃発し、イギリスが危機に陥ったすると、アメリカは、イギリスに軍事援助するために1941年3月11日、武器貸与法(Lend-Lease Act)を制定し、1940年7月初飛行のボーイングB-17Cを武器貸与した。このB-17Cはイギリス空軍ではフォートレス(Fortress)Mk.Iと命名され生産機数38機のうち30機が貸与されている。

写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、レーニエ山上空を飛翔するボーイングB-17C爆撃機の左側面:機首と胴体後上方、胴体後方側面(左右)、後方下にゴンドラ式(gondola)バスタブ型銃座"bathtub turret"が設けられている。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。
SDASM Archives Boeing : B-17 Manufacturer: Boeing Designation: B-17 Official Nickname: Notes: Includes Japanese Version Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00044765引用。



6ー1.米、対日感の現れ: 事実上飛行機の禁輸宣言『大阪朝日新聞』第147巻 P.178 1939-01-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336599

【ワシントン特電十四日発】アメリカは十四日日本に対する飛行機ならびに部分品の輸出禁止を事実上宣言するにいたった、すなわち去る九日発表された軍需品統制強化の議会への年次報告によれば非戦闘員を爆撃する国に対する飛行機ならびに部分品の輸出を歓迎しないという国務省の方針はただ一の例外を除き民間業者の協力を得た旨を述べているが十四日国務省はその例外の内容を暴露しコネクチカット州にあるユナイテッド・エアクラフト会社[United Aircraft Corporation]が日本に対し部分品十万二千ドルを売却せるものであることを明らかにした

 これが軍需品輸出許可統計表の註釈の異例として発表されたが註釈を付することが例のないところであるのみならずその註釈たるや昨年十一月六日記者団との会見における[コーデル・ハル(Cordell Hull)]国務長官の言明同じく一月六日飛行機製作者への書翰からながながと説き起し日本に対する飛行機の輸出禁止が発表されていない今日、輸出許可を求められる場合国務省としてこれを拒否する法律上の権限を有さない旨を明らかにしてはいるが、いずれにしてもルーズヴェルト[Franklin Delano Roosevelt]大統領の「戦争によらざる、しかも有効適切なる方法」の最初の現われとして重視される

写真(右)1936年以降、アメリカ、カナダ・オンタリオ州の境、エリー湖からオンタリオ湖に落ちるナイアガラの滝(Niagara Falls)上空を飛行するAAアメリカン航空のダグラス(Douglas)DC-2輸送機(NC14278):日本もDC-2を輸入して中島飛行機がノックダウン生産した。
Douglas : DC-2 Catalog #: 00065495 Manufacturer: Douglas Designation: DC-2--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives 引用。


ダグラス(Douglas DC-2)の諸元
乗員Crew: 2-3名
搭載乗客数Capacity: 14名
全長Length: 61 ft 11.75 in (18.8913 m)
全幅Wingspan: 85 ft 0 in (25.91 m)
全高Height: 16 ft 3.75 in (4.9721 m)
主翼面積Wing area: 939 sq ft (87.2 m2)
空虚重量Empty weight: 12,408 lb (5,628 kg)
総重量Gross weight: 18,560 lb (8,419 kg)
発動機Powerplant: ライト(Wright)GR-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン2基
最高速力Maximum speed: 210 mph (340 km/h, 180 kn) /8,000 ft (2,400 m)
巡行速力Cruise speed: 190 mph (310 km/h, 170 kn) /8,000 ft (2,400 m)
航続距離Range: 1,000 mi (1,600 km, 870 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 22,450 ft (6,840 m)

写真(右)1936年以降、アメリカ、カリフォルニア州上空を飛行するダグラス DC-4E (Douglas DC-4E)四発輸送機:1938年6月7日初飛行, エンジン出力に1939年10月に日本海軍が大日本航空の名義で購入し中島で十三試大攻「深山」の開発を行わせた。飛行機輸入禁止が適用されれば、日本は失敗作に浪費することはなかったであろう。
ダグラス(Douglas)DC-4Eの諸元 乗員: 3名 搭載乗客数: 42名 全長: 29.83 m 全幅: 42.16 m 高さ: 7.40 m 翼面積: 200.2 m² 自重: 19,308 kg 最大離陸重量: 30,164 kg 発動機: プラット・アンド・ホイットニー R-2180ツインホーネット(Twin Hornet)空冷14気筒エンジン 1,450 hp (1,081 kW)×4 最高速度: 394 km/h 航続距離: 3,540 km 実用上昇限度: 6,980 m
English: SI Neg. 2002-4243. Date: 10/5/1938..Douglas DC-4E (r/n NX 18100) in flight, written at the bottom of the image, "DC-4, 10-5-38 October 5, 1938, 14001". ..Credit: unknown (Smithsonian Institution) Date 6 November 2004, 15:39 Source DOUGLAS DC-4E Author Carl Malamud
写真は Wikimedia Commons, Category:Douglas DC-4E File:Douglas DC-4E.jpg引用。



【ニューヨーク特電十四日発】日本に対するアメリカの経済制裁が実行されるとすれば第一に鉄および石油の輸出禁止だろうといわれている折柄ワシントン州選出の民主党上院議員シューエレンバッハ氏は来週早々屑鉄その他一切の屑金属の輸出を許可制とする法案を議会に提出することを声明した

写真(右)1939年2月16日、東京、海軍次官山本五十六中将主催の駐日英国大使館附武官退任送別会、駐日イギリス大使ロバート・レスリー・クレイギー(Robert Leslie Craigie :1883-1959)におけると:1930年ロンドン軍縮会議に参加、1937年9月3日、54歳で駐日大使として着任。1941年12月太平洋戦争勃発1年後、1942年イギリスに送還された。
日本語: 駐日英国大使館附武官退任における海軍次官主催送別会に出席したロバート・クレイギー駐日英国大使と山本五十六海軍次官 English: Robert Craigie at a farewell party hosted by deputy minister of the Navy, Isoroku Yamamoto Date 16 February 1939 Source Own work Author Yamatonadesiko1942
写真は Wikimedia Commons, Category:Isoroku Yamamoto File:AL61A-044 Douglas DC-4E (13984971640).jpg引用。


英国政府の公文

クレーギー[Robert Leslie Craigie]駐日イギリス大使が十四日有田[八郎]外相に手交したイギリス政府公文左のごとし

近衛公 一、本使は本国外務大臣の訓令により過般近衛[文麿]総理大臣およびその他の日本政治家が闡明したる日本の極東問題に関する新政策を研究したる結果、イギリス政府が感ぜざるを得ざる不安および深甚なる憂慮を閣下に通報す本使はなかんずく十一月三日および十二月二十二日の近衛[文麿]総理大臣公の声明ならびに十二月十九日閣下が外人新聞記者団に与えられたる声明を援用せんと欲す、右不安は本使が閣下と本問題に関し随時行いたる会談によっても除去されざりしものなり

二、これらの声明ならびに日本において発出せられたるその他の公の情報にかんがみイギリス政府は日本政府の意図が日本、支那及び満洲よりなる三者間の結合もしくはブロック[経済]を結成し日本はその最高の権力を握り支那及び満洲に従属的役割を与えんとするにありと推断す、支那に関する限り日本政府は対支政治経済および文化事項の政策の画定および遂行を任務とする在東京興亜院を通じ少くとも一定期間統理を行わんとするものと諒解する、外人新聞記者団に対する閣下の声明について見るも右三者間の結合は単一の経済単位を構成し爾余の各国の経済活動は該ブロックの国防および経済的安定上の必要が規制する制限に服せしめられんとするがことし

三、近衛[文麿]公の言によれば支那事変は現存支那政府が潰滅せしめられるかまたは日本の条件に従い前記の結合に加入することに同意するにいたるまで継続するがごとし、近衛[文麿]公は支那は日本と防共協定を締結することを要し恐らく日本の停戦条件の履行を保障するため日本の軍隊は不定の期間支那領土内特定の地点に駐屯することを要すといえり、さらに近衛[文麿]公は内蒙地域は特殊の防共地域とすることを要すると述べたり、この意味は明らかならざるがさらに詳細なる情報なき限り内蒙古が支那の他の部分よりもさらに強度なる日本の軍事的把握の下に置かるべきものと推断するほかなし

四、イギリス政府としては日本は領土を求むるものにあらずして支那の主権を尊重するものなりとの近衛[文麿]総理の保障と武力により支那人民を強制して彼らの政治、経済及び文化生活を日本の把握の下に屈服せしめ多大の日本軍を永く支那に駐屯せしめかつ内蒙の領土を事実上支那より分離せしむることを包含する条件を受諾せしめんとする日本政府の闡明せられたる意図とがいかにして両立し得べきや諒解に苦しむものなり

五、イギリス政府としては強力により齎さるる上記のごとき性質の諸活動を受諾しもしくは承認する用意なきことを明かならしめんとするを欲す、イギリス政府は九国条約の諸原則を遵守する意向にして同条約の規定を一方的に変更することに用意する能わず、イギリス政府は現事変の発生するにいたるまで同条約より生ずることを期待せられたる良好なる影響が着々実現せられつつありしことを指摘せんと欲す、支那人民は自ら有能かつ安定せる政府を維持発達せしめつつありしものにして各国民の商業および産業に対する機会均等の原則は支那に対しかつ対日貿易を含む支那の国際貿易に対し繁栄を齎しつつありしものなり、よってイギリス政府は日本のいうごとく九国条約は最早や時代後れなりとかまたはその条項はすでに事態に即せずとすることには同意すること能わず、但し日本が同条約に違反し変更せしめたる事態に関しては別問題なり

写真(右)1940年頃(?)、イギリス、雪の滑走路に駐機しているイギリス空軍ハンドレページ (Handley Page)H.P.52 ハンプデン(Hampden)Mk.I 爆撃機(L4159):初飛行は1936年7月21日、全長: 17.32 m、全幅:21.08 m、翼面積: 63.9 m2、空虚重量: 5,790 kgkg、最大離昇重量: 10,206 kg、ブリストル(Bristol)ブリストル・ペガサス17 空冷9気筒1,000 hp (750 kW) 2基、最高速力:398 km/h、航続距離:2,770 km、爆弾搭載量は最大4,000 lb (1,800 kg)。イギリス空軍、カナダ空軍、オーストラリア空軍で使用された。生産期間は1936–1941年で生産機数1,430機。胴体が細く、スペースが狭いために、装備や居住性が劣り、方向安定性も十分でなかったために、開戦早々の1939年12月には昼間爆撃任務から除外され、夜間爆撃に充当された。しかし、ウェリントン、ブレニム双発爆撃機よりも飛行性能が低かったために、1942年9月には前線任務からは外されている。
SDASM Archives Follow perma_003072 Permann Collection Image Handley Page Hampden--Perman Collection Image--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSan Diego Air and Space Museum Archive 引用。


六、しかれどもイギリス政府は条約の変更が一方的に行わるること能わず締約国全部の間の交渉によらざるべからずと主張するも条約が永遠不変のものなりというものにはあらず、もし日本政府が支那に関するいかなる多数国間の協定についてもその修正に関し何らか建設的意見を有するならばイギリス政府としてはこの種意見を考慮するの用意を有すべし、その間イギリス政府は現存諸条約に本づく一切の権利を留保するものなり

七、なお本使は訓令により近衛[文麿]総理が十二月二十二日の声明中に日本は支那における治外法権の撤廃および外国租界の返還を考慮するの用意ある旨を述べたる部分に言及せんと欲す、かくの如く支那が日本の要求を受諾するよう誘引するは日本としてはただ些少の犠牲のみを払うに過ぎざるが如し、何となれば日本政府が支那を掌握する計画に成功したる暁にはもはや治外法権または租界を必要とせざるにいたるべきをもってなり、一方イギリス政府はイギリスの治外法権撤廃のため一九三一年支那政府と交渉を開始しほとんどこれを完結したることを想起せんと欲す、該交渉は同年日本軍の満洲占拠に伴う不安定なる状態の結果として支那政府の中断するところとなりたるがイギリス政府としては爾来常に適当の時期に交渉再開の用意を有したるものにしてまた現に平和克復の際完全に独立せる支那政府と同問題およびその他同種の問題につき折衝するの用意を有する次第なり

八、終りに臨みイギリス政府としては或いは日本政府の意図をなんらか誤解したるやも知れざるがもししかりとすれば右は従来日本政府の意図の発表が漠然たりしがためなることを感ずるものにして事変を終結せしむるための日本側諸条件及び日本の対支政策についての一層剴切かつ詳細なる解説を歓迎すべきことを陳述せんと欲す
B-17E 米、対日感の現れ : 事実上飛行機の禁輸宣言『大阪朝日新聞』 第147巻 P.178 1939-01-16引用終わり。


6−2. 独に劣る米空軍 : リンバーグ大佐証言『東京朝日新聞』第 46巻、p.71、1939-05-19
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339055

【ワシントン十七日発同盟】 リンバーグ[Charles Lindbergh]大佐は現役復帰以来陸軍省の委嘱により米陸軍航空諸施設の視察を行っていたが、最近右視察旅行を終り十七日陸軍追加予算審議中の下院歳出分科委員会に出席米国空軍の現勢に関して重要意見を発行した、リンバーグ[Charles Lindbergh]大佐の証言は特に秘密会で行われたが確聞するにリンバーグ大佐の証言はドイツ空軍と比較して米陸空軍の劣勢なる点を指摘し且空軍大拡張の必要な力説したものでその内容左の通り

一、米国空軍の発達はドイツ空軍に比べて遥かに立遅れている
一、ドイツの戦闘機並に軽爆撃機は米国のそれより遥かに優秀である 但し米国陸軍の発動機四基附超重爆撃機[B-17]は長距離爆撃に非常な効果を挙げるものと思われる

写真(右)1936-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊第88偵察飛行隊ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)双発爆撃機(BG-4):防御火力は、7.62mmブローニング機関銃3丁、1939年までに351機量産。1936年制式ダグラスB-18後継機のB-23は、第二次大戦勃発直前の1939年7月23日に初飛行。38機生産。
English: Douglas B-18 of the 88th Reconnaissance Squadron Source US Goverment
写真は Category:Douglas B-18 Bolo File:Douglas B-18 061128-F-1234S-010.jpg引用。


ダグラス B-18 ボロ(Douglas B-18 Bolo)双発爆撃機の諸元
ダグラス(Douglas)B-18ボロ 乗員Crew: 6名
全長Length: 57 ft 10 in (17.63 m)
全幅Wingspan: 89 ft 6 in (27.28 m)
全高Height: 15 ft 2 in (4.62 m)
主翼面積Wing area: 959 sq ft (89.1 m2)
空虚重量Empty weight: 16,320 lb (7,403 kg)
総重量Gross weight: 24,000 lb (10,886 kg)
最大離陸重量Max takeoff weight: 27,673 lb (12,552 kg)
発動機: 2 × Wright R-1820-53 Cyclone 9-cylinder air-cooled radial piston engines, 1,000 hp (750 kW)
プロペラPropellers: 3-羽フルフェザリング(fully-feathering)ハミルトン(Hamilton Standard)可変ピッチ
最高速力: 216 mph (348 km/h, 188 kn) /10,000 ft (3,000 m)
巡行速力Cruise speed: 167 mph (269 km/h, 145 kn)
航続距離Range: 900 mi (1,400 km, 780 nmi)
フェリー距離Ferry range: 2,100 mi (3,400 km, 1,800 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 23,900 ft (7,300 m)
上昇時間Time to altitude: 10,000 ft (3,000 m) / 9 分 54 秒
翼面荷重Wing loading: 25 lb/sq ft (120 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.0833 hp/lb (0.1369 kW/kg)
兵装Guns: 3 × 0.30 in (7.62 mm) 旋回機関銃
爆弾Bombs: 2,000 lb (910 kg) 通常; 4,400 lb (2,000 kg) 最大

写真(右)1937年、アメリカ、歩廊滑走路に戦列をなすアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機中期長機首型(BG-38、34など)の右側面:初飛行は、1936年4月。1928年8月26日にサンディエゴ飛行場(San Diego Municipal Airport)はリンドバーグ飛行場(Lindbergh Field)として開港した。
Douglas : B-18 : Bolo Catalog #: 00005780 Manufacturer: Douglas Designation: B-18 Official Nickname: Bolo Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はWikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive, File:Douglas B-18 Bolo ‘BI-24’ (37-029) (N52056) (29903884395).jpg引用。


⇒写真集Album:グラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)爆撃機を見る。 

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-23 ドラゴン(Dragon)爆撃機を見る。 

写真(右)1937-1938年頃、アメリカ、飛行機格納庫前のアメリカ陸軍航空隊セバスキー(Seversky)P-35追撃機(戦闘機)の正面右:P-35は1935年8月15日初飛行、1937年7月から部隊配備された。
SDASM Archives Seversky : P-35 Catalog #: 00029700 Manufacturer: Seversky Designation: P-35
写真は,SDASM Archives引用。


写真(右)1937-1938年頃、アメリカ、飛行機格納庫前のアメリカ陸軍航空隊第4追撃飛行隊セバスキー(Seversky)P-35追撃機(戦闘機):兵装は機首上面に7.62mm機関銃と12.7mm機関銃各1挺を装備。爆弾搭載量350 ポンド (160 kg)。
SDASM Archives Seversky : P-35 Catalog #: 00029702 Manufacturer: Seversky Designation: P-35
写真は,SDASM Archives引用。


写真(右)1941年10月、フィリピン、ルソン島中部飛行基地群の一つ、デルカルメン飛行場(Del Carmen Field)の舗装滑走路に列をなす無塗装のアメリカ陸軍航空隊セバスキー(Seversky)P-35追撃機(戦闘機)とダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)前期型:第二次世界大戦初期・太平洋戦争初頭(1942年春まで)の青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプという国籍マークを描いている。
USAAF Seversky P-35 fighters and Douglas B-18 bombers at Del Carmen Field, Philippines, October 1941. Date October 1941 Source USAF Historical Research Agency via Airpower Magazine, November, 1987, "And Then There Were One" Author USAAF
写真はWikimedia Commons, Category:World War II color photographs of the Pacific War in 1941 File:Delcarmen-1941.jpg引用。


7.米空軍を比島に移駐『大阪朝日新聞』Vol: 第 50巻 Page: 127 1940-10-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338292

P-35 【ワシントン特電二十三日発】アメリカ陸軍省は二十三日ミシガン州セルフリッヂの第十七追撃部隊[Boeing P-26]およびカリフォルニヤ州ハミルトン[Hamilton Field]の第三十五追撃部隊[P-35A?]より各一個中隊を比島に移駐せしめる旨発表した

【同盟ワシントン二十三日発】二十三日ワシントン消息通の漏らすところによればミシガン州[Michigan]セルフリッヂ飛行場[Selfridge Field]駐屯の第一陸軍航空隊第十七追撃機中隊は近くSelfridge Field移駐を命ぜられることになった、右に関しては陸軍省航空関係筋では一切口を緘しており移駐期日、方法なども詳細不明だが同飛行中隊は兵員百五十名、パイロット二十五名より成っているといわれる(米空軍を比島に移駐『大阪朝日新聞』Vol: 第 50巻 Page: 127 1940-10-25引用終わり)。

写真(右)1937-1938年頃、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊第4追撃飛行隊セバスキー(Seversky)P-35追撃機(戦闘機)(28):胴体側面に羽ばたく鷲の部隊マークを記入している。P-35は1935年8月15日初飛行で、出現時には戦闘機としては珍しく、引込み式降着装置を採用した。しかし、主翼に主輪が完全に収納されるのではなく、車輪カバーごと折りたたんで主翼下面に主輪が露出している。1937年7月から部隊配備された。兵装は機首上面に7.62mm機関銃と12.7mm機関を各1挺装備している。
SDASM Archives Seversky : P-35 Catalog #: 00029675 Manufacturer: Seversky Designation: P-35
写真は,SDASM Archives引用。


写真(右)1937-1938年頃、アメリカ、未舗装滑走路に車輪止めを付けて待機する迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊セバスキー(Seversky)P-35追撃機(戦闘機)(6418):P-35は1935年8月15日初飛行、1937年7月から部隊配備された。兵装は機首上面に7.62mm機関銃と12.7mm機関銃各1挺を装備。爆弾搭載量350 ポンド (160 kg)。
SDASM Archives Seversky : P-35 Catalog #: 00029657 Manufacturer: Seversky Designation: P-35
写真は,SDASM Archives引用。


セバスキー(Seversky)P-35A追撃機の諸元
P-35乗員:1名
全長:26 ft 10 in (8.18 m)
全幅:36 ft 0 in (10.97 m)
全高:9 ft 9 in (2.97 m)
主翼面積:220 sq ft (20 m2)
空虚重量:4,575 lb (2,075 kg)
総重量:6,118 lb (2,775 kg)
最大離陸重量:6,723 lb (3,050 kg)
発動機:プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R1830-45 ツイン・ワスプ(Twin Wasp)空冷二重星型14気筒エンジン1,050 hp (780 kW) 最高速力:499 km/h
航続距離:1,530 km
実用上昇限度:9,570 m
上昇率:9.74m/s
兵装:機首;12.7mmブローニング(Browning) M2機関銃×2、左右主翼:7.62mm M1919ブローニング機関銃×2、爆弾350lb(160 kg)


写真(上)1937年10月、アメリカ、オハイオ州クリーブランド(Cleveland)飛行場(?)、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)
:試作機1機のみ。XB-15の厚い主翼の中には通路があり、エンジン点検が可能だった。また、自動操縦装置を搭載し長距離飛行を容易にした。 XB-15 (Boeing 294)は、1934年から開発が始まり1937年10月15日に初飛行。
Boeing XB-15 PictionID:40972057 - Title:Boeing XB-15 - Filename:15_002710.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."----Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM ArchivesSDASM Archives - Catalog:15_002710 引用。


1933年にアメリカ陸軍航空司令部(USAAC)は、航続距離5000マイル(約8000Km)の長距離戦略爆撃機“XBLR-1”(eXperimental Bomber Long Range)を指示し、それにボーイング社ではボーイング(Boeing)XB-15で答えた。XB-15は、自動操縦装置、居住性のいいコックピットを備えており、1937年10月15日と日中戦争勃発直後に初飛行した。

写真(右)1937年10月、アメリカ、オハイオ州クリーブランド(Cleveland)飛行場(?)、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277):試作機1機のみ。XB-15の厚い主翼の中には通路があり、エンジン点検が可能だった。また、自動操縦装置を搭載し長距離飛行を容易にした。 XB-15 (Boeing 294)は、1934年から開発が始まり1937年10月15日に初飛行。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46701960 - Title:Boeing XB-15 35-277 [via Peter Bowers] - Filename:16_007745.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM ArchivesSDASM Archives  - Catalog:16_007745 引用。


ボーイング(Boeing)XB-15は、速力・上昇力の不足のために試作のみに終わっている。高性能の大型飛行機に必要な大出力の発動機がなく、従来型のプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830空冷星形14気筒エンジン(850馬力)4基を搭載するしかなかったためである。


写真(上)1937年10月、アメリカ、オハイオ州クリーブランド(Cleveland)飛行場、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)とボーイング(Boeing)P-26ピーシューター(Peashooter)戦闘機
:ボーイングXB-15は全幅 149 ft 0 in (45.43 m)、全長87 ft 7 in (26.70 m)、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、離昇重量 70,706 lb (32,139 kg)、発動機 Pratt & Whitney R-1830空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)4基、最高速力 197 mph (317 km/h, 171 kn)、航続距離 5,130 mi (8,260 km, 4,460 nmi)、乗員10名。 0.30 in (7.62 mm) M1919ブローニング機関銃3丁、0.50 in (12.7 mm) M2 ブローニング3機関銃2丁、爆弾 12,000 lb (5,400 kg)。試作機1機のみ。
Boeing XB-15 Title: Boeing XB-15 ADDITIONAL INFORMATION: Delivered to the USAAC in December of 1937. Developed as the largest bomber of its era, only one was built. Later converted into a transport (XC-105). Dismantled and dumped in somewhere in the Canal Zone, 1945. Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Tags: Boeing XB-15 PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は  Catalog:16_007751 引用。


写真(右)1937年10月以降、アメリカ、1937年10月15日に初飛行したメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)と随伴するボーイングP-26: ボーイングP-26の初飛行は1932年3月20日、プラット・アンド・ホイットニー P&W R1340空冷星形9気筒エンジン542 hp (404 kW)、最高速力377 km/h、7.62 mm ブローニング M1918機関銃2丁、生産数162機。
Boeing XB-15 with Boeing P-26 From the Paul Fedelchak Collection. Fedelchak was born in Brownsville PA, June 22, 1917, served as an aerial photographer in the USAAC from 1939. His duties included service at Chanute Field, Washington and Alaska where he was involved in the aerial surveys that made the Alcan Highway possible. These photos were loaned to the museum for copy by the family. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives Catalog #: 15_001626引用。


1937年10月15日に初飛行したメリカ陸軍航空隊 ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)は、 全幅 149 ft 0 in (45.43 m)、全長87 ft 7 in (26.70 m)、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、離昇重量 70,706 lb (32,139 kg)、発動機 Pratt & Whitney R-1830空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)4基、最高速力 197 mph (317 km/h, 171 kn)、航続距離 5,130 mi (8,260 km, 4,460 nmi)、乗員10名。 0.30 in (7.62 mm) M1919ブローニング機関銃3丁、0.50 in (12.7 mm) M2 ブローニング3機関銃2丁、爆弾 12,000 lb (5,400 kg)。試作機1機のみ。XB-15の厚い主翼の中には通路があり、エンジン点検が可能だった。また、自動操縦装置を搭載し長距離飛行を容易にした。


写真(上)1937年10月以降、アメリカ、飛行するアメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)とボーイング(Boeing)P-26ピーシューター(Peashooter)戦闘機
: XB-15 (Boeing 294)は、1934年から開発が始まり1937年10月15日に初飛行。ボーイングP-26の初飛行は1932年3月20日、プラット・アンド・ホイットニー P&W R1340空冷星形9気筒エンジン542 hp (404 kW)、最高速力377 km/h、7.62 mm ブローニング M1918機関銃2丁、生産数162機。
Boeing XB-15 with P-26 PictionID:40972044 - Title:Boeing XB-15 with P-26 - Filename:15_002709.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."----PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System.----SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives Catalog:15_002709 -引用。


写真(右)1941年、アメリカ、飛行するアメリカ陸軍航空隊コンソリデーテッドConsolidated) XB-19重爆撃機試作機の右側面:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦前に制定された白星と赤丸、垂直尾翼の赤白ストライブの国籍マークを描いている。
Douglas : XB-19 Catalog #: 00047282 Manufacturer: Douglas Designation: XB-19 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


アメリカ軍の国籍マーク変遷
アメリカ第二次世界大戦以前・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプ
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白帯ストライプは廃止
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

写真(右)1940年12月以前、アメリカ、カリフォルニア州オークランド、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)XB-19A試作重爆撃機:乗員:18名 全長:40.2m 全幅:64.6m 全高:13.0m 自重:63,500kg 発動機:アリソン V-3420 液冷V型24気筒レシプロエンジン 離昇出力2,600馬力×4 最高速力:427km/h 航続距離:12,500km 武装:機銃 37mm機銃2門・12.7mm機銃5門・7.62mm機銃5門 計12門、爆弾8,840Kg。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,260 lb (1,025 kg)。
Douglas : B-19 : Catalog #: 00005832 Manufacturer: Douglas Designation: B-19 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


9.世界最大の爆撃機[ダグラス XB-19]
大阪朝日新聞 Vol: 第 50巻 Page: 49 出版年 1940-09-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338363

アメリカ陸軍が建造を急いでいる世界最大を誇るマンモス爆撃機[Douglas XB-19]、十八トンの爆弾を積みロサンゼルス、東京間を無着陸で往復、なお悠々余裕ありといわれる怪物ぶり、翼長二百十二フィート、二千馬力の発動機四基を装備、乗員は十名、大砲と機関銃で鎧われている(世界最大の爆撃機引用終わり)



写真(右)1942年初期以前、アメリカ、カリフォルニア州オークランド、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)XB-19試作重爆撃機とノースアメリカンT-6 テキサン(Texan)練習機:アメリカ陸軍航空隊は、超長距離爆撃機の開発を要求し、飛行機メーカーのダグラスではXBLR (Experimental Bomber, Long Range) XB-19として試作された。1941年6月27日初飛行したが、機体もエンジンも試作段階であり、実用性に乏しいために、研究用の開発がすすめられた。
Douglas : B-19 Catalog #: 00005823 Manufacturer: Douglas Designation: B-19 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1942年初期以前、アメリカ、カリフォルニア州オークランド、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)XB-19試作重爆撃機とノースアメリカンT-6 テキサン(Texan)練習機:ボーイングXB-15と競ったXB-19は、1941年6月27日初飛行で、試作機1機のみ製造された。
Douglas : B-19 Catalog #: 00046936 Manufacturer: Douglas Designation: B-19 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ダグラス(Douglas)XB-19の諸元
全長 40.23 m
全幅 64,62 m
全高 13,03 m
主翼面積 417,31 m²
総重量 74.390 kg
発動機:当初はライト R-3350 サイクロン 18(Wright R-3350 Cyclone 18)空冷星型18気筒エンジン1.471 kW (2.000 PS)を搭載したが、1943年にアリソン V-3420 液冷V型24気筒エンジン1.940 kW (2.638 PS)4基に換装
最高速力:336 km/h
航続距離 8.400 km
荷重燃料時の航続距離 12.478 km
乗用限度 6.700 m
兵装:機銃 37mm機銃2門・12.7mm機銃5門・7.62mm機銃5門 計12門、爆弾8,840Kg。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,260 lb (1,025 kg)。

写真(右)1941年、アメリカ、飛行するアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas) XB-19重爆撃機試作機の右下面:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦前に制定された星と赤丸、垂直尾翼の赤白ストライブの国籍マークを描いている。引込み式降着装置の巨大なゴムタイヤが半分露出している。
Douglas : XB-19 Catalog #: 00047283 Manufacturer: Douglas Designation: XB-19 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。



写真(右)1942年6月以降、アメリカ、迷彩塗装を施し戦時の国籍マークを記入したアメリカ陸軍航空隊コンソリデーテッドConsolidated) XB-19重爆撃機試作機の右側面
:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦前では白星と赤丸、垂直尾翼の赤白ストライブと華麗だったが、戦時では目立ちすぎるために、参戦後の1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白帯ストライプは廃止されている。ただし、戦参戦後もしばらくの期間は、参戦前の古い国籍マークのままの機体も残っていた。
Douglas : XB-19 Catalog #: 00005855 Manufacturer: Douglas Designation: XB-19 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。



9.軍用機の生産昨年の三倍半 : 米の軍需生産額
大阪毎日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 54 出版年 1942-12-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100347442

B24 【リスボン本社特電十九日発】ワシントン来電によれば米戦時生産局長ネルソンは一九四二年度における米の武器、軍需品その他戦争資材の生産額を左の如く発表した

 一九四二年度における[B-17の1412機、B-24の1205機など]爆撃機、[P-40の4454機など]戦闘機、[C-47の1117機など]輸送機、[OS2Uの938機など]偵察機の生産額は一九四一年度の全生産額の三倍半に達したが大砲その他の軍需品は六倍半、船舶は五倍、軍艦は二・七五倍に達した、

本年度の鋼鉄の生産額は八千七百万トン、マンガンは二年間以上の需用にも十分なだけの量を採掘し得た、また軍需工業の労働者数は本年十二月までに千七百五十万人に達した(軍用機の生産昨年の三倍半 : 米の軍需生産額引用終わり)


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇


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