◆日本航空輸送(Japan Air Transport)/満洲航空(Manchukuo National Airways)
写真(上)1938年以降、海上に待機中の川西式四発飛行艇:原型は川西H6K九七式輸送飛行艇で、1936年7月14日初飛行し、乗客10−14名、大日本航空では14機が横浜 - パラオ間をサイパン島経由で使用された。九七式飛行艇は38機が輸送機として生産され、哨戒機として179機が生産された。
Aircraft type Kawanishi H6K
Activity on water
Description
...
Source http://www.ijnafpics.com/
写真はWikimedia Commons, Category:Kawanishi H6K File:Kawanishi H6K Type 97 Transport Flying Boat Mavis H6K-8s.jpg引用。
写真(上)1937年4月、待機中の満州航空 MT-1 隼型:1937年4月に初飛行した満州航空奉天工廠の開発した単発輸送機で、乗客6名、巡航速力200 km/h、航続距離900 km。
English: This is a photograph of a Harbin-based Manshū MT-1 Hayabusa, an airliner produced by the Manchurian Airplane Manufacturing Company and operated by the Manchuria Aviation Company.
Date 1 April 1937
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Manchuria Airplane Manufacturing Company File:ManshuMT-1Hayabusa.jpg引用。
1.1920年代の満洲国とフォッカー・スーパー・ユニバーサル(Super Universal)輸送機
オランダのフォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機の原型は、1924年11月24日にオランダで初飛行したフォッカー(Fokker) F-VIIa単発輸送で、、翌1925年に三発のF.VIIa-3mが開発された。この三発輸送機が乗客8名を乗せることができるフォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機である。
写真(右)1931年、日本、立川飛行場(?)、日本航空輸送株式会社(後の大日本航空)フォッカー・スーパー・ユニバーサル(Super Universal)単発輸送機(J-BRJO):
フオッカー「スーパーユニバーサル」輸送機
/ 昭和以降 / 日本
1931/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
解説
日本航空輸送(株)機で、同社発行絵葉書にもなっている。撮影地は、背景の格納庫から立川飛行場と推測。
写真は文化庁・文化財オンライン,郵政博物館 引用。
フォッカー(Fokker)F.VIIa単発輸送機の発動機は、機首にエンジンを1基のみ装備しているので、エンジンが3基ある「トライモーター」ではない。
フォッカー(Fokker)F. VIIa単発輸送機は、乗客10名を運ぶことができた。これは、当時では、大型旅客機である。ただし、スイス航空の購入したフォッカー(Fokker)F. VIIa単発輸送機は、1機のみである。
経済的で安全な優秀機 : 日本空輸の使用機 : 話題と解説
掲載誌
東京朝日新聞
Vol: 第 1巻
Page: 76
出版年
1929-03-08
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100062924
航空路が出来、空港の設備が成ると、次に如何なる飛行機を使用すべきかが問題となる。使用機として、まず安全なもので、次に経済的に優秀なものでなくてはならない。輸送機とし優秀なものは、数種ある。日本空輸会社では今度購入したものは、オランダで作られたフォッカーF七型三発動機[Fokker F.VIIb-3m]のものと、米国製のフォッカー・スーパー・ユニバーサル型[Fokker F.VIIa Super Universal]との二種である。
写真(右):1935−1938年頃、日本、羽田空港、日本航空輸送株式会社のフォッカーFVIIb/3m八人乗旅客機とその奥にある飛行機格納庫;1927年、同型機のアメリカ製フォッカー C-2(F.VII/3m)トライモーター輸送機「アメリカ」は、1927年6月29日、アメリカ人リチャード・バードの操縦で、大西洋を横断し、7月1日、フランスの海岸に不時着した。
J.A.T.日本航空輸送株式會社使用飛行機絵葉書6枚
写真は、aucfan 絵はがき、ポストカード 航空機引用。
フォッカーF七型[Fokker F.VIIb-3m]の方は、リンクス発動機百八十馬力のものが三台装備されているから、これ等の内一台が故障を起しても、他の二台で暫らくは飛べるから、東京大阪間の途中で故障が起ったとしても無事にどちらかに着陸することが出来る。ただ、発動機の数が多いだけに、操縦は多少困難となることはやむを得ない。同機の性能その他を示すと左の通り。
翼の長さ 二一・七一メートル
機の長さ 一四・六メートル
機の高さ 三・九メートル
翼面積 六七・六平方メートル
自重 二三〇〇キログラム
積載荷重 一四五〇キログラム
最大時速 一八〇キロメートル
巡航時速 一五五キロメートル
着陸時速 七五キロメートル
航続時間 七時間
大阪から上海へは十二時間
即ち、この飛行機では、乗務員二名の外に、乗客八名を乗せ得る能力を有し、東京大阪間なら三時間、途中の着陸を除けば大阪上海間なら十二時間で達することが出来る。
次に、フォッカー・スーパー・ユニバーサル機[Fokker F.VIIa Super Universal]は、ジュピター四百五十馬力発動機一台を装備して、乗組員二人と乗客六人を載せることが出来るその性能その他を示すと次の通り
翼の長さ 一五・四三メートル
機の長さ 一一・一六メートル
機の高さ 二・七二メートル
自重 一二七〇キログラム
積載荷重 一〇〇〇キログラム
最大時速 二二五キロメートル
巡航時速 一九〇キロメートル
着陸時速 七二キロメートル
即ち、F七型[Fokker F.VIIb-3m]に比べると、この方が積載能力並に速度が小さい。
運航開始される新しい航路
新航空路で運航される飛行は、
[図表あり 省略]
最後に、輸送飛行機に委託される貨物並に旅客の料金は
[図表あり 省略]
となっているから、旅客賃金は大体において汽車の一等賃金の倍額となるが、時間においては、数倍の速さとなる。(経済的で安全な優秀機 : 日本空輸の使用機 : 話題と解説引用終わり)
2.1930年代満州のフォッカー・スーパー・ユニバーサル(Super Universal)輸送機
カラー絵葉書(右)1937年発行、日本、羽田飛行場、日本航空輸送株式会社(後の大日本航空)中島フォッカー・スーパー・ユニバーサル(Nakajima‐Fokker "Super Universal")単発輸送機(J-BCVO):「(大東京)帝都空の玄関羽田飛行場の壮観:Haneda Airport(Great Tokyo)」赤い三角旗は、日本航空輸送のマークが描かれている。キ6中島九五式二型練習機」は軍用機であり、絵葉書のフォッカー機は、民間の登録コード(J-BCDO)を記入しているので、次のwikipediaの解説は誤解である。
日本語: 初期の羽田飛行場
English: Haneda Air Field (Greater Tokyo) in early days with taxiing Nakajima Ki-6 airliner.
日本語: ターミナルおよび日本航空輸送の格納庫 左は同社の九五式二型練習機(1937年)
Date between circa 1935 and circa 1937
Source http://www.oldtokyo.com/haneda-airfield-pre-war/
Author 『世界畫報』昭和十二年二月號 / Sekai Gahō February 1937 issue
写真はWikimedia Commons,Category:Nakajima Ki-6 File:Nakajima Ki-6.jpg引用。
アメリカ製フォッカー・スーパー・ユニバーサル単発輸送機は、日本も輸入したが、その後、中島で国産化された。これが日本陸軍の注目するところとなり、1935年(皇紀2595年)に陸軍が「キ六中島九五式練習機」として制式した。これは、機上での機関、航法、操縦などの訓練を目的とした機上練習機である。輸送任務にも使用できたが、機上練習機としての仕様でなり、民間旅客機とは異なる。日本のフォッカー・ユニバーサルは「九五式二型練習機」と命名されたのではなく、フォッカー・ユニバーサルの軍用仕様練習機が「九五式二型練習機」として日本陸軍に制式されたのである。
写真(右)1931年、日本、静岡県、清水、日本航空輸送株式会社のフォッカー・スーパー・ユニバーサル(Fokker "Super Universal")単発水上輸送機(J-BDIG):「風光明媚なる下田へ、清水」と写真下ある。右より安田秘書官、鮫島秘書、小泉又次郎逓信大臣[第2次若槻禮次郎内閣]、戸川航空局長、中央の女性はエアガール工藤雪江、洲(?)防◆会松永理事、佐伯事務長。
フオッカー「スーパーユニバーサル」水上機
その他 / 昭和以降 / 日本
1931/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
解説
日本航空輸送(株)機で、同社発行絵葉書にもなっている。撮影地は、背景の島影から福岡(名島)飛行場と推測。。
写真は文化庁・文化財オンライン,郵政博物館 引用。
わが航空史に輝かしい新記録 : 夜間飛行に成功して : 【上】乾杯する搭乗者【下】着陸したひばり号=写真は飛行便=
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 2巻
Page: 103
出版年
1932-04-23
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100173482
東京[羽田=福岡県太刀洗間九二五キロメートル、わが旅客空輸界最初の本土縦断コース夜間飛行は十六夜の月光を銀翼にあびて二十一日夜決行、小川主任飛行士以下八名搭乗の日本空輸会社[オランダ製]フォッカー三発動機大型旅客機ひばり号は飛行時間六時間三十五分を費して二十二日午前二時四十三分太刀洗飛行場に安着しわが航空史上赫々たる新記録を刻んだが
深夜の太刀洗飛行場に降り立った
八氏はいずれも大元気で貴重な経験を話合い凱歌を挙げた(わが航空史に輝かしい新記録 : 夜間飛行に成功して : 【上】乾杯する搭乗者【下】着陸したひばり号引用終わり)
絵葉書(右)1937年発行、日本、羽田飛行場、日本航空輸送株式会社(後の大日本航空)中島フォッカー・スーパー・ユニバーサル(Nakajima‐Fokker "Super Universal")単発輸送機(J-BCEO)と背景の日本航空輸送株式会社の飛行機格納庫NO.1:絵葉書裏には、「郵便はがき」とあり10月10日の記念消印が押されている
戦前絵葉書「日本航空輸送株式会社格納庫 フォッカー スーパーユニバーサル J-BCEO」プロペラ機 の落札情報
戦前絵葉書「日本航空輸送株式会社格納庫 フォッカー スーパーユニバーサル J-BCEO」// プロペラ機の1番目の画像
落札価格:4,300円入札件数:19(入札履歴)
サイトヤフオク!残り時間終了
開始価格1,000円入札単位100円
数量1個商品状態傷や汚れあり
開始日時2023年1月27日 1時22分終了日時2023年2月1日 22時36分
オークションID1079861360
写真はWikimedia Commons,Category:Nakajima Ki-6 File:Nakajima Ki-6.jpg引用。
日本は、1931年9月18日、奉天(瀋陽)北の柳条湖で満州鉄道が爆破され、これを契機として満州事変が勃発した。日本は、中華民国、東北三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)、内蒙古東部の(熱河省)を領域として、傀儡国家の満州国を建国した。1932年3月1日、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀を執政として迎えたが、溥儀は清朝復活という復辟(ふくへき)に拘った。溥儀は、1934年3月1日、に満州国の皇帝に即位し、満州帝国が成立した。首都を新京(長春)とした満州帝国だったが、実権は関東軍、日本の顧問が掌握していた。五族協和というのは、建前であり、国籍法もない南洲は、実際は関東軍が軍事の、日本人官吏が行政の事実験を掌握していた傀儡国家だった、つまり、満州帝国は、イギリスにとってのインド帝国と同様に、日本の植民地の地位に置かれていた。
中国東北地方の遼寧省奉天飛行場は、1921(大正10)年、奉天軍閥張作霖大元帥が東三省航空処として建設した、張学良が引き継いだ。しかし、1931年に満州鉄道爆破事件を契機に満州事変が勃発すると、日本陸軍関東軍に奉天飛行場は占領された。1932年に日本傀儡の満州国が建国されると、 関東軍司令官鄭孝胥中将と満州国国務総理本庄繁との協定で満洲航空株式会社が設立された。これは、「満航」と呼ばれたが、事実上、日本陸軍の管轄にあった。満州航空では、航空輸送を担うために、1932年11月3日、フォッカー スーパーユニバーサルとフォッカーF.7/3mを就航させた。
復航の旅客機 闇空を見事征服 : 七時間二十分でけさ羽田に安着
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 2巻
Page: 106
出版年
1932-05-04
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100200395
一部既報=[福岡県]太刀洗、東京間の夜の定期航空の試験飛行として二日夜九時三十分太刀洗発、特に闇夜を選んで壮途に上った復航の[Fokker F.VII]「ひばり号」(日本空輸会社所属フォッカー七型三M)は小川、豊島正副操縦士ら七名を乗せて皐月闇を真一文字に快翔をつづけ遂に三日午前四時五十分九百二十五キロの全航程を翔破して羽田飛行場に安着した、太刀洗を発して正に七時間二十分である
これより先羽田飛行場では航空関係者多数詰かけ徹夜して着陸を待ちつつあったが、午前四時二十分箱根通過が報ぜられるころ三井物産から提供したスペリーアガ一〇〇〇ミリメートル照明灯(約四百万燭光)を飛行場に投かけここに準備は全く整った、
かくして同四時四十八分漸く明放れんとする西の空に立罩めた朝靄を突いて爆音勇ましく銀の翼を現わしゆるやかに場の上空を一周して同四時五十分旅客機は見事[羽田飛行場に]到着した
やがて愛機より降り立った小川、豊島正副操縦士ら七氏は忽ち歓迎の群衆と写真班の包囲攻撃を受け待合室に急設された歓迎会場で掛員の心尽しのビールやあさりの味噌汁の饗応を受けた、かくて我航空界に新たに開拓巨大の一歩を踏出さんとする夜間定期飛行の一大試練飛行は終った(東京電話)
カラー絵葉書(上)1934−1937年頃、日本、羽田空港、中島フォッカー・スーパーユニバーサル6人乗旅客機(登録コードH-NACJ):日本・満州国はフォッカー(Fokker) F.VIIaを輸入したが、後に中島飛行機が国産化した。
XyE5580【即決有】中島スーパー・ユニバーサル六人乗旅客機 *傷み有り【絵葉書】 ストア
現在
1,040円(税込 1,144 円)
即決
1,050円(税込 1,155 円)
.
写真は,ヤフオク!/オークション >絵葉書引用。
『特に役立った………大朝社の標識灯』 安辺運航主任談
やはり問題は標識灯の設置です十五キロぐらいの間隔に五六十万燭光の灯台を設けるのが先決問題でしょう、[1931年竣工]大阪朝日ビル屋上の灯台は実によく見えました、船舶用の灯台は役に立ちません暗夜のこととて見透しはつかないが降るような星の光りには全く蛍の国でも飛んでいるような気がした、沼津の上空から朝靄を透して見た富士の秀麗も忘れられない
鈴鹿の上空で行き悩む 小川操縦士談
全コースを通じて平均十メートルの北東の向い風で大体好晴に恵まれたが鈴鹿の上空でひどい密雲の中へ飛込んでしまい仕方なく高度を四百メートルから二千メートルまで上げ雲の上に出たが、全然目標がなく止むなく旋回飛行をしながら三十五分間ほど費して計器航法で辛うじて雲層の中から脱出したが、全コース中最大の難航だった、往きは月明だったから特に変ったところもなかったが今度は町々の灯がただ一つの頼りだったので昼間のように直線飛行をやる訳にゆかず町を識別するのが一苦労だった(復航の旅客機 闇空を見事征服 : 七時間二十分でけさ羽田に安着引用終わり)
カラー絵葉書(右)1932年、満州、新京(長春)飛行場(?)、未舗装草地滑走路に待機する満州航空フォッカー・スーパー・ユニバーサル(Fokker "Super Universal")単発輸送機「スーパー號」(M-105)の左正面:固定式降着装置の主輪には、空気抵抗を減少させるための車輪カバーが設けられている。尾部には尾橇を装備している。切手(1銭5厘)に1932年11月8日「日満航空郵便連絡記念」消印スタンプが押されている。垂直尾翼に五色満州国旗を描いているので、満州国建国後の絵葉書とわかる。満州の建国理念は、日・韓・満・蒙・漢の五族協和であり、その民族を五色で象徴した五色旗が国旗とされた。
『貴重 古い絵葉書 満洲航空 開業記念 繪葉書 絵はがき 飛行機 戦前 エンタイヤ 切手 大日本帝国 満州 記念スタンプ
写真は,aucfan 引用。
札幌−大阪間九時間で結ぶ空の新線、来月開業
掲載誌
大阪毎日新聞
Vol: 第 4巻
Page: 143
出版年
1937-03-24
https://hdl.handle.net/20.500.14094 /0100179639
東京−札幌[飛行場]間九百四十キロの定期航空便はいよいよ来月一日から毎日一往復、日本航空輸送会社によって開始される、その発着時間、料金は次の通り
下り便 東京発午前九時、仙台着同十一時、仙台発同十一時十分、青森着午後一時十分、青森発同一時二十分、札幌[飛行場]着同三時
▲下り便 札幌発午前八時、青森着同九時四十分、青森発同九時五十分、仙台着同十一時五十分、仙台発正午、東京着午後二時、東京発同二時二十分、名古屋着同四時十分、名古屋発同四時二十分、大阪着同五時十分
▲料金 東京−仙台二十三円、仙台−青森二十三円、青森−札幌二十円、東京−札幌六十円
使用機は中島フォッカー・スーパー・ユニバーサル[Fokker F.VIIa Universal]六人乗旅客機で北の交通幹線はこれによって札幌[飛行場]−東京間六時間、札幌[飛行場]−大阪間九時間となるわけである(東京発)(札幌−大阪間九時間で結ぶ空の新線、来月開業引用終わり)
カラー絵葉書(右)1932年11月8日「日満航空郵便連絡記念」消印スタンプ、満州、新京(長春)飛行場、未舗装の草原滑走路に待機する満州航空フォッカー・スーパー・ユニバーサル単発輸送機「スーパー號」(M-105)の左後方側面:空気抵抗減少のための固定車輪カバーを設け、尾部は尾橇を装備。コックピット上面に環状ループ式方位アンテナは装備していない。固定式ゴム主輪にカバーが付加されている。尾部には尾橇を装備している。垂直尾翼に五色満州国旗を描いているので、満州国建国後の絵葉書とわかる。満州の建国理念は、日・韓・満・蒙・漢の五族協和であり、その民族を五色で象徴した五色旗が国旗とされた。
『貴重 古い絵葉書 満洲航空 開業記念 繪葉書 絵はがき 飛行機 戦前 エンタイヤ 切手 大日本帝国 満州 記念スタンプ
写真は,aucfan 引用。
日本の軍部、関東軍が実働部隊となって中国東北地上で引き起こした満鉄爆破事件を契機に満州事変が勃発し、その結果、日本は傀儡国家満州国を語族協和の名目で創設した。そこで、元来、中国東北地方に駐屯していた関東軍と日本本土(内地)を結ぶ空路は、日本航空輸送株式会社の満洲代表部として「関東軍軍用定期航空事務所」が担当していた。しかし、満州国の建国で、満州と内地の空路整備の必要性が高まり、定期航空事務所を母体にして、1931年に「満洲航空株式会社」が設立された。
カラー絵葉書(右)1932年11月8日「日満航空郵便連絡記念」消印スタンプ、満州、新京(長春)飛行場、草地の未舗装滑走路に待機する満州航空フォッカー・スーパー・ユニバーサル(Fokker "Super Universal")単発輸送機単発輸送機「スーパー號」(M-105)の正面:左右主翼下面に五色ラウンデルの満州国旗を描いている。空気抵抗減少のための固定車輪カバーを設け、尾部は尾橇を装備。左右主翼下面に満州国の五色ラウンデルの国籍マークを、垂直尾翼に五色旗を模した国籍マークを描いている。フォッカー機が採用した全木製合板張り片持翼、鋼管溶接骨組みに羽布張り胴体・尾翼の構造を踏襲している。日本は、1929年にフォッカー・ユニバーサル6機をアメリカから購入し、日本航空輸送株式会社の下で旅客輸送に使用した。好評だったために、フォカーユニバーサル機は中島飛行機で国産化された。その機体を日本傀儡国家満州に設立した満州航空株式会社が採用して、満州の首都新京を中心とする路線で使用した。当時の記念絵葉書は、3枚から6枚のセット販売もあり、その場合は、絵葉書用紙封筒に入れられている。戦前の絵葉書は、ヤフオク!やaucfanで販売されている。。
『貴重 古い絵葉書 満洲航空 開業記念 繪葉書 絵はがき 飛行機 戦前 エンタイヤ 切手 大日本帝国 満州 記念スタンプ
写真は,aucfan 引用。
国策会社の日本航空輸送株式会社と同じく、満州航空も国策会社であり、民間旅客、貨物輸送、航空郵便など民間航路だけではなく、軍事用の航路も設けられ、航空測量調査、航空機整備も独占的に担当することになった。
フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m輸送機の諸元
製造:フォッカー(Fokker), オランダ(NL) ・アムステルダム(Amsterdam)
全幅Span:
21.70m
全長Length:
14.60 m
全高Height: 4.50 m
発動機出力Power:3x 200hp
乗客Passengers:
8-10名
航続距離Range: 800 km
1928年6月17−18日、フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」"Friendship"に同乗したアメリカ人アメリア・イアハート(Amelia Earhart)は、カナダのニューファウンドランド島からイギリスのウェールズまで、大西洋横断無着陸飛行した初めての女性となったが、これはアメリカ人男性チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh)の大西洋単独無着陸飛行に続く世界史上に残るアメリカの快挙だった。このような高性能なフォッカーF.VIIb-3mトライモーターを、スイス航空は8機購入し、個別機体名称CH-162、CH-163、CH-164,CH-165,CH-166,CH-190CH-192、CH-193として、1931年から1935年まで使用した。
フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mは、単発型よりも主翼面積を若干拡張し、発動機出力も若干向上させ220馬力としたタイプで、乗客は12名を搭乗させることができた。これが、フォッカー(Fokker) F-10(F-X)スーパー・トライモーター(Super Trimotor)三発輸送機である。
フォッカー(Fokker) F-10(F-X)スーパー・トライモーター(Super Trimotor)三発輸送機は、ウェスタン・エクスプレス航空(Western Air Express)、アメリカン航空(American Airways)、TWA航空(Trans World Airlines)、ユニバーサル航空(Universal Airlines)、パンナム航空(Pan Am)などアメリカの航空会社のほか、メヒカーナ航空(Mexicana)、アメリカ陸軍航空隊でも使用された。軍用仕様は、フォッカーC-5,C-7Aの2種類がある。
フォッカー(Fokker) F-10(F-X)スーパー・トライモーター(Super Trimotor)三発輸送機は、1920年代後半、運搬用のゴム車輪付き台車、木製の機体据え付け台など、飛行機生産専用の工具・道具を準備して、アメリカ・フォッカー社で65機が製造された。搭載した初異動期は、主にアメリカ製のプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)ワスプ(Wasp)R-1340空冷星形エンジン3基である。
フォッカー(Fokker) F-10(F-X)スーパー・トライモーター(Super Trimotor)三発輸送機は、1920年代後半、主にアメリカ製プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)ワスプ(Wasp)R-1340空冷星形エンジン3基を搭載して、アメリカのフォッカー社で合計65機が製造された。
⇒写真集Album:アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)のフォッカー(Fokker)F.VIIによる大西洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ライト・ベランカ (Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」の大西洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)W.33「ブレーメン」Bremenの大西洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ベランカCH-400「スカイロケット」の太平洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ユンカース(Junker)A-50「報知日米親善号」の太平洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ユンカース(Junker)W33「報知日米親善号」の太平洋横断飛行を見る。
3.中島ダグラス機・AT-2輸送機・エンボイ(Envoy)旅客機
3−A.わが民間航空の世界的地位は? : 内鮮航路の開始と共に明年度に一万キロ : 躍進日本
京城日報
Vol: 第 4巻
Page: 87
出版年
1936-10-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100061186
躍進日本を象徴するものとして我が日の丸の銀翼は目覚しい発展を遂げ、実る秋とともに我国民間空路の総距離は実に八千キロに躍進、更に明年度中に開始される予定の東京、新京[長春]を結ぶ内鮮航路及び九州環状線を加えると、総延長一万キロに飛躍することになっているが、本邦民間航空の現状を世界各国に比較して見ると未だ未だ幼稚なもので、筝型に地域を占めている狭隘な我国では、その空路も将来は必然的に制限され、加うるに六大都市の部分地域的な集中発展を遂げたのが禍して、そのエアネットも殆ど予想がつくというものだが、世界から見た我国民間空路の現状はどんなものか考察してみよう
[図表(本邦民間航空機数)あり 省略]転記
制限なきもの 陸上機 132、水上機0、合計132機
曲技飛行に使用出来ないもの 陸上機177、水上機25、合計202機
合計 陸上機210機、遂行機25機、合計235機
各国民間飛行機数
(国名) (機数)
▲英吉利[英国] 一、二九七
▲仏蘭西[フランス] 一、九三三
▲独逸 一、五七八
▲亜米利加 六、三三九
▲伊太利 四四三
▲和蘭[オランダ] 七九
▲白耳義[ベルギー] 一七二
▲瑞西[スイス] 八八
▲加奈陀 三六八
▲濠洲 二二三
▲印度 一〇二
▲南阿聯邦 七三
▲新西蘭[ニュージーランド] 七五
[図表(本邦民間航空機乗員数(乗員数ではなく操縦士数、が原文)あり]
各国民間機操縦士数
(国名) (員数)
▲英吉利 三、四七七
▲仏蘭西 一、四七五
▲独逸 二、五〇〇
▲亜米利加 一三、九四九
▲伊太利 七〇八
▲和蘭[オランダ] 八七
▲加奈陀 八三二
▲濠洲 七〇八
▲印度 二四八
▲南阿聯邦 一三四
▲新西蘭[ニュージーランド] 四〇五
各国航空線路総延長距離
(国名) (総延距離)
▲日本 八、〇〇〇粁
▲英吉利 七三、四九九
▲濠洲 九、一四〇
▲加奈陀 七、一四八
▲独逸 五〇、〇〇六
▲仏蘭西 四九、〇六九
▲伊太利 一五、五六一
▲和蘭 二四、六〇七
▲瑞西 四、八八五
▲蘇聯邦 四八、九一二
▲亜米利加 一〇二、二九〇
▲支那 一二、二五六
▲満洲国 五、八四〇
[図表(輸送成績)あり]
(経営者) (飛行回数)(飛行総距離)
日本航空輸送株式會社 5648 1,683,652キロ
日本航空輸送研究 1092 158,330
東京航空株式会社 90 13,500
計 6830 1,855,482キロ
(経営者) (輸送乗客数)(送貨物量)(輸送郵便物量)
日本航空輸送株式会社 12187人 57024トン 197,199トン
日本航空輸送研究 924 1755 2012
東京航空株式会社 100 0 22
計 13211 58779 199,233トン
[図表(民間機事故一覧)あり]
(経営者) (飛行時間)(飛行総距離) (事故回数)
日本航空輸送株式會社 10091時09分 1,682,199キロ 1回
日本航空輸送研究 1266・02 158,440 4
東京航空株式会社 94・45 13,500 0
計 11451・56 1,854,139キロ 5回
(経営者) (乗員) (旅客)(機体破損)(発動機破損)
死 傷 死 傷
日本航空輸送研究 0 2 0 0 1 1
日本航空輸送研究 0 2 0 0 2 1
東京航空株式会社 0 0 0 0 0 0
計 0 4 0 0 3 2
民間航空機発動機製作所
[図表((一)飛行機機体)あり 省略]
[図表(本邦航空路及ビ予定線(十月現在))あり 省略](わが民間航空の世界的地位は? : 内鮮航路の開始と共に明年度に一万キロ : 躍進日本引用終わり)
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、メディアに公開された日本航空輸送株式会社[1938年12月に特殊法人大日本航空に改組]のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:主輪は、エンジンナセル後方に引き込まれ、飛行中の空気抵抗を減少することができた。ただし、主輪の三分の一は機外に露出しているので完全な引き込み式ではない。しかし、当時は固定客が常識だったから、このような引き込み式は斬新な技術だった。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
ダグラスDC-2は、機首に照明灯2個を装備している。大日本航空は、1938年12月に日本航空輸送株式会社を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(霧島号、富士号、新高号、筑波号、愛宕号、阿蘇号、金剛号、伊吹号)を就航させた。
中国は、自由貿易港として国際的に認められたイギリス植民地の武漢攻略を中継に戦略物資の輸入が可能であり、日本は大陸封鎖、すなわち中国大陸の沿岸交通遮断は困難だったのである。
そこで、1938年9月、日本軍は、華中の香港と同時に、華南の廣東(広州)攻略を決め、1938年10月12日、日本海軍塩沢幸一海軍中将隷下の第五艦隊の支援を受けて、古荘幹郎中将隷下の日本陸軍第21軍(主力は、第18師団・と第104師団)が、白耶士(バイヤス)湾に奇襲上陸し、10月21日に廣東(広州)に突入した。そして、珠湾の海上交通を遮断するとともに、珠江を遡上して、12月までに廣東付近の要衝を確保した。
こうした中で、日本植民地の台湾の台北と、1938年末に新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2輸送機を就航させたのである。
ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の優秀さを評価した国策会社の日本航空輸送は、1934年にDC-2を採用することを決定し、中島飛行機に発注を出した。そこで、中島飛行機は、ダグラス社からライセンスを取得し、1936年2月にエンジンから機体構造まで部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で試作1号機を完成させ納入した。
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、メディアに公開された日本航空輸送株式会社[1938年12月に特殊法人大日本航空に改組]のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 (霧島号、富士号、新高号、筑波号、愛宕号、阿蘇号、金剛号、伊吹号)を就航させた。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
日本では、民間旅客輸送用に、日本航空輸送が1934年12月にダグラス(Douglas) DC-2輸送機を輸入し、羽田で公開した。日本では、まれにみる巨大な銀色の飛行機だったので、「銀の巨鯨」と称された。
国策会社の日本航空輸送は、ダグラスDC-2輸送機を採用することとし、1936年に国内航路、台湾航路に就役させた。日本が輸入したDC-2輸送機は8機で、機体固有名称として「富士」「新高」「霧島」「愛宕」「阿蘇」「金剛」「筑波」「伊吹」という山の名前が与えられた。DC-2は、新鋭の大型長距離輸送機として、福岡=台北など内地と外地(植民地の朝鮮・満州・台湾)を結ぶ長距離航路に導入された。
1931年8月25日、開港した羽田飛行場(東京飛行場)には、日本航空輸送の東京発大連行の定期便が就航したが、運賃が高額すぎたために、乗客はほとんどなかったという。国策会社でなければ、日本航空輸送の経営は成り立たないのは常識だったのであり、このような政府の補助金依存の傾向は、戦前から戦後の日本航空にまで引き継がれており、「親方日の丸」と別称される稚拙な経営戦略、非効率な経営は改められなかった。島国とその植民地における排他的で、独占的な国策経営方針は、競争下の革新と挑戦を重んじるヨーロッパの航空界の経営とは格段の差があったのである。
ダグラス(Douglas) DC-2輸送機は、全幅:25.78m 、全長:18.88m、 総重量:8,160kg、発動機は、アメリカ製ライト サイクロンSGR-1820-F空冷星形9気筒エンジン750馬力2基搭載、速力320km/hで、搭乗員4名、乗客14名を運搬できた。
中島飛行機は、1934年にダグラス(Douglas)DC-2輸送機をノックダウン生産し、6機を国策会社の日本航空輸送に納入した。日本航空輸送は、購入したED-2輸送機6機を就役させたが、日中戦争が長期化することが明らかになった1938年に日本陸軍によって徴用された。そして、日本力陸軍は、銀色無塗装だったDC-2民間輸送機に迷彩塗装を色を施して、中国大陸と日本との定期連絡空路に使用した。
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機の発動機は、信頼性の高いライト(Wright)R-1820 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン730 hp(540 kW)で、既に1931年にライト社が開発、実用化し1933年1月30日初飛行のカーチス T-32 コンドルII(Curtiss T-32 Condor II)、1935年3月20日初飛行のグラマンF3F (Grumman F3F)、1935年4月初飛行のダグラスB-18 ボロ(Bolo)爆撃機、1935年7月22日初飛行のボーイングB-17 フライングフォートレス(Boeing B-17 Flying Fortress)など多数の機体、特に爆撃機が装備している。
DC-2のライトR-1820 サイクロン1931年から実用化されたエンジンで、カーチス・ライトは、サイクロン空冷星形9気筒エンジンを複列して18気筒化し排気量を2倍の3350立方インチの大型エンジンの開発を始めた。これがライト R-3350 サイクロン 18(Wright R-3350 Cyclone)である。
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、エンジンを駆動している日本航空輸送株式会社[1938年12月に特殊法人大日本航空に改組]のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:主輪は、エンジンナセル後方に引き込まれ、飛行中の空気抵抗を減少することができた。ただし、主輪の三分の一は機外に露出しているので完全な引き込み式ではない。しかし、当時は固定客が常識だったから、このような引き込み式は斬新な技術だった。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
中島AT-2旅客機は、14人乗りダグラスDC-2輸送機の小型版で、ボーイング(Boeing)247輸送機を参考に中島が独自に設計した8人乗り双発輸送機である。設計者はダグラスDC-2のライセンス生産を担当した明川清技師で、その名に因んでAkegawa Transport(AT)と命名された。
初代AT-1輸送機は、ダグラスDC-2に劣ったために試作されずに終わり、DC-2を小型化して、中島飛行機の、すなわち日本最先端の飛行機製造技術で対応できる小型双発企図したのが、民間仕様の中島AT-2輸送機、軍用仕様のキ34 九七式輸送機である。AT-2は中島飛行機の独自開発の民間旅客機で、量産にまで至ったのは、まさに中島飛行機が日本最有力の飛行機メーカだったことを証している。
日本航空輸送株式会社は、1938年(昭和13年)11月に会社を解散し、国際航空が合併して新たに独占的な日本の国策航空会社として、大日本航空株式会社となった。そして、日本の地方航空を担っていた日本海航空株式会社、東京航空株式会社などもすべての航空輸送は、大日本航空が担うこととなった。大日本航空は、「株式会社」とはいっても、日本政府が丸抱えの国策会社であり、独占的国営企業である。
ダグラス(Douglas)DC-2を導入した日本航空輸送、その後の大日本航空の設立の背景には、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日中全面戦争の長期化が指摘できる。当初は、華北限定の「北支事変」と呼称されたが、8月には第二次上海事変が拡大し、1937年9月2日には「支那事変」と呼称が変化した。
事変というのは、戦争状態にあるとアメリカとの貿易・投資が制約を受けるための方便であって、事実上の戦争である。日本軍は、1938年初頭に中華民国(中国)の首都南京を陥落させたが、中国は奥地の重慶に遷都して徹底抗戦をした。中国は、イギリス、アメリカ、さらにはドイツ、イタリア、ソ連からも兵器を含む軍事物資を購入・輸入し、軍事顧問も迎えて、日本と戦った。そこで、日本は、中国大陸を海上封鎖する必要があると新たに戦線を仏印など東南アジアにまで拡張した。これが「泥沼の長期戦」に繋がった。
カラー絵葉書(右):1937−1938年頃発行、日本、羽田空港、草地の未舗装滑走路に待機する日本航空航空輸送株式会社のダグラス(Douglas)DC 2輸送機「新高」;新高とは、日本が日清戦争に勝利した後、台湾を領有し、内地の富士山よりも高い標高3,952 mの「雪山」、現在の玉山が台湾にあったため、日本の新たな最高峰という意味で、「新高山」と改名した。引込み式降着装置を装備した全金属製の大型高速双発輸送機とて、日本では民間航空だけではなく、日本陸軍に徴用され使用されている。
戦前/日本航空輸送(株)旅客機絵葉書2枚 中島ダグラスDC-2型 三菱エアスピード エンボイ 古物 AC197
写真は、ヤフオク! 絵はがき、ポストカード > 航空機引用。
3−B.
”航空日本”の快報−空の架橋・縦横無尽 : 東京から南洋へ、福岡から台湾へ 完成を急ぐ国際空路
掲載誌
大阪時事新報
Vol: 第 3巻
Page: 146
出版年
1935-01-03
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100128803
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
[写真(新鋭を誇るダグラス機)あり 省略]
国際危局を如実に反映する三五年はついにきた、怒濤さかまく太平洋上にあがるかくしゃくたる太陽の光輝にも以て東洋平和の重大使命を双翼に大空を天翔けるわが民間航空は三五年の新春を迎え、いよいよ太平洋上四千キロの鵬程を一飛び、一線は東京から南洋に一線は福岡から台湾にその翼を伸ばし、茲に揺籃期と呼ばれたわが航空界は国際空路の一大幹線を完成して航空日本のため万丈の気を吐くこととなった、
特に福岡−台北をつなぐわが航空路には過般英濠飛行でお馴染のダグラス機と同型の優秀機ダグラスDC2号機を迎えることとなり中島飛行機製作所の註文によって客年十一月十六日横浜入港のプレジデントフーヴァー号でアメリカから到着、早くも組立てを終って今や最高時速二百十七哩、航続距離千百哩という素晴らしい性能を南方の蒼空に示さんと雄飛するの日を待ち構えているが、これが商業航空路として活躍する場合には、更にわが国からシンガポール及び蘭印に伸びんとする空の要望が台北を中心にたちまちこの線に連接せんとするのは明白で、これらの意味からしても福岡、台北を繋ぐわが国航空幹線の重大性が認められるのである、
更にわが航空史上特筆すべきは今次の航空予算より危く抹殺されんとしてその難を免れたわが海の生命線日本より南洋パラオ島にかけられた空のかけ橋で、東京南洋をつなぐこの一線、予算こそ僅か十六万円であれわが民間航空の威力を示すに足る航空史上実に一大エポックを劃する飛躍と言えよう、
この点床次逓相の努力を大いに買うべきでこれによって逓信省では本春四月からその航空路に当る寄航地父島及び八丈島に新に水上飛行場及び大格納庫を建設することとなり目下着々準備中であるが父島以南の施設を行うべき南洋庁でもサイパン、パラオ両島に水上飛行場及びこれが格納庫その他の設備に意気込み、
これが実現の暁は従来東京パラオ間を七日乃至十日を要したものが僅々二三日で事足りることとなり、彼我の距離は著るしく短縮、将来は更にアメリカ方面と結びついて、わが国からアメリカへの旅行も南洋を踏み台に太平洋をワンステップという気軽なものとなり、春秋にはスーツケース一つをさげた花見の観光客が空からやって来ようという素晴らしいルートが開けることになるのもそう遠い将来では、なくなろう=写真は新鋭を誇るダグラス機
(”航空日本”の快報−空の架橋・縦横無尽 : 東京から南洋へ、福岡から台湾へ 完成を急ぐ国際空路引用終わり)
絵葉書(右)1939年以降、日本植民地の台湾の台北と中国南部の廣東を結ぶ定期航路を就航した大日本航空(1938年末までの日本航空輸送)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「新高」:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 (霧島号、富士号、新高号、筑波号、愛宕号、阿蘇号、金剛号、伊吹号)を就航させた。
Aeroplanes on Lydda Air Port
Reproduction Number: LC-DIG-matpc-17833 (digital file from original)
写真は, Library of Congress > Prints & Photographs Reading Room >Aeroplanes on Lydda Air Port LC-DIG-matpc-17833 引用及びWikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:LOT DC-2 LOC matpc 17833u.jpg引用。
図(右)1939年以降、「台北−廣東 定期航路開始 大日本航空」のチラシ:大日本航空は、1938年12月、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。
Aeroplanes on Lydda Air Port
Reproduction Number: LC-DIG-matpc-17833 (digital file from original)
写真は, Library of Congress > Prints & Photographs Reading Room >Aeroplanes on Lydda Air Port LC-DIG-matpc-17833 引用及びWikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:LOT DC-2 LOC matpc 17833u.jpg 引用。
ダグラス(Douglas DC-2)の諸元
乗員Crew: 2-3名
搭載乗客数Capacity: 14名
全長Length: 61 ft 11.75 in (18.8913 m)
全幅Wingspan: 85 ft 0 in (25.91 m)
全高Height: 16 ft 3.75 in (4.9721 m)
主翼面積Wing area: 939 sq ft (87.2 m2)
空虚重量Empty weight: 12,408 lb (5,628 kg)
総重量Gross weight: 18,560 lb (8,419 kg)
発動機Powerplant: ライト(Wright)GR-1820-F52 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン2基
プロペラPropellers: 3翅可変ピッチ金属製プロペラ(3-bladed variable-pitch metal propellers)
ダグラス(Douglas DC-2)の性能
最高速力Maximum speed: 210 mph (340 km/h, 180 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
巡行速力Cruise speed: 190 mph (310 km/h, 170 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
航続距離Range: 1,000 mi (1,600 km, 870 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 22,450 ft (6,840 m)
上昇率Rate of climb: 1,000 ft/min (5.1 m/s)
翼面荷重Wing loading: 19.8 lb/sq ft (97 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.082 hp/lb (0.135 kW/kg)
図(右)1941年頃、満洲航空株式会社 創業十周年記念のポスター:満州服(チャイナドレス)を着用したモデルの女性が中島飛行機ダグラス(DC-2)輸送機の模型を手にして微笑んでいる。大日本航空の前身は日本航空輸送画引き会社で、1931年に満州に議場をを設置したが、これは満州を武力支配する関東軍(日本陸軍の満州駐屯部隊)の要請によるものだった。そして、広大な満洲のネットワーク強化のために、1931年のうちに満州航空株式会社が設置された。1938年12月、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。
『絵葉書 中国 飛行機 満州航空 デザイン ポスター 5枚セット 袋付 』はヤフオク!で5A-kJM5cc6LdVXsa6dから出品され、14の入札を集めて3月 2日 23時 41分に落札されました。
写真は,2000 aucfan Co.,Ltd. >オークファン 引用。
3−C.日本でも製作 ダグラス機の権利八十万円也 : 設計図は二十万円
掲載誌
東京朝日新聞
Vol: 第 3巻
Page: 171
出版年
1935-06-17
hdl.handle.net/ 20.500.14094/
0100124208
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
先に三十余万円の巨費を投じてアメリカから輸入した高速度輸送飛行機ダグラス単葉は綿密なテストを経て某方面に納入されたが、其頃から噂されていた内地での作製がいよいよ本決りとなって中島飛行機製作所で莫大な権利金を張込んでその製作に着手、この九月中旬には早くも最初の二台の試験飛行を行って早速日本空輸会社の内台聯絡輸送飛行に使用する予定になっている
しかし内地では未だ金属材料の補給が十分でないのでスーパージュラルミンやアルクラッドなどという軽金属は外国から素材のまま輸入して加工し発動機(ライト・サイクローン七百馬力)もアメリカからの輸入い待つというのだが
それでいて製作の権利金は八十万円所謂『ダグラス流』という言葉も生れた程劃期的な設計だけに設計図面一切の購入費だけでも二十万円と噂され関係方面でも内地製の実現を待望しているが技術家方面では『これだけの金を出せば作って見せる』と残念がっている【写真はダグラス機】
[写真(ダグラス機)あり 省略](日本でも製作 ダグラス機の権利八十万円也 : 設計図は二十万円引用)
3−D.待望の台内間空路 あす処女大飛行 : 明春一月からダグラス機就航 : 空の新時代来る!
掲載誌
中外商業新報
日本産業経済新聞
Vol: 第 3巻
Page: 185
出版年
1935-10-07
ID
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100168571
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
内地台湾間の交通連絡に一新紀元を劃する内[地]台[湾]定期飛行は愈々来る八日から先ず郵便貨物取扱いを以て実施されることになった、逓信省航空局を始め日本航空輸送会社は二日後に迫ったこの大事業開始第一日に備えるため異常の緊張を示し諸般の準備に忙殺されている
既に途中寄航の那覇飛行場には会社から鵜野、黒木の両氏が派遣され地上勤務員四名を督励して格納庫や修理工場、ガソリンタンク等の整備に努めているが福岡から一千六百十キロを十時間で連絡する航空機の飛来を待って台湾の飛行場台北では浅香支所長と武田営業所主任とが五名の地上勤務員と共に離着陸各般の設備を急いでいるが、逓信省航空局を始め台湾総督府はまたあらゆる便宜を提供して、これを応援している
写真(右):1935−1938年頃、日本、立川飛行場(?)、日本航空輸送株式会社のフォッカーFVII-b型旅客機(Fokker FVIIb-3M)とその奥にある飛行機格納庫;ライト・ホワール・ウインド225馬力3台、巡行速力160km/h、旅客8名、乗務員2名。1927年、同型機のアメリカ製フォッカー C-2(F.VII/3m)トライモーター輸送機「アメリカ」は、1927年6月29日、アメリカ人リチャード・バードの操縦で、大西洋を横断し、7月1日、フランスの海岸に不時着した。
J飛行機絵葉書 カラー写真版6枚袋付美品 日本航空輸送株式会社 戦前
2022年 09月 23日
飛行機絵葉書 カラー写真版6枚袋付美品 日本航空輸送株式会社 戦前 \10,000
中島AT型旅客機/三菱エアスピードエンボイ旅客機/フォッカーF?-b型旅客機
中島フォッカー・スーパー・ユニバーサル旅客機/中島ダグラスDC-2型旅客機
ビーチクラフトC17-E型旅客機
写真は、あかつき書房 絵葉書>日本航空輸送株式会社 旅客機絵葉書引用。
このほか途中海洋上の不時着陸揚鹿ノ屋島にも二名の地上勤務員が配され、それぞれ部署を固めた、またこの航空路線下に当る富江、厳原、鹿児島、那覇、台北の各測候所では航空無線の諸手配を既に終り洋上の気象観測を刻々に航空中の飛行機へ無電で通知する係員の配置を終り何時の飛来にも対応する用意は出来た、この劃期的な内台飛行の皮切りは大森操縦士、阿辺副操縦士、田代機関士、森通信士が乗務するフォッカー三発動機[Fokker F.VIIb‐3m]BJOBで同機は去る三日に東京から福岡飛行場へ空輸され入念な手入れを受けて晴れの飛行の日を待っている
同機には児玉拓務大臣と望月逓信大臣から中川台湾総督に宛てたメッセージを始め日本航空輸送会社社長から台湾の要路十四名に宛てたメッセージを積み、貨物としては既に予約されている松茸の籠詰や浅草海苔その他を始め大阪からは雀寿司百五十人分が今のうちから初乗り飛行に受けつけられている
かくて内台飛行第一回の飛行機は午前七時福岡を離陸し零時十分那覇に着陸、午後一時同地発で午後五時台北飛行場へ到着する、この間十時間で汽船が四日間を要するのと比較すると夢のような現実である、これが毎週一往復ずつ来る十二月まで行われる、来春一月からは大空の超特急ダグラス機によって旅客輸送が開始されることになる、この内[地]台[湾]連絡飛行は台湾文化の振興と産業開発に資するばかりではなく一方には南洋方面への交通伸展を助成する国際航空路の第一階梯ともなるもので各国からも注目されている(待望の台内間空路 あす処女大飛行 : 明春一月からダグラス機就航 : 空の新時代来る!引用終わり)
写真(右):1935−1938年頃、日本、羽田空港、日本航空輸送株式会社のフォッカーFVIIb/3m八人乗旅客機とその奥にある飛行機格納庫;1927年、同型機のアメリカ製フォッカー C-2(F.VII/3m)トライモーター輸送機「アメリカ」は、1927年6月29日、アメリカ人リチャード・バードの操縦で、大西洋を横断し、7月1日、フランスの海岸に不時着した。
J.A.T.日本航空輸送株式會社使用飛行機絵葉書6枚
写真は、aucfan 絵はがき、ポストカード 航空機引用。
3−E.内台の空を新春から 旅客も輸送の快報 : 毎週三往復・交通上に革命
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 3巻
Page: 205
出版年
1935-12-07
hdl.handle.net/ 20.500.14094/ 0100160623
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
航空日本の誇をかかげて南方の空へと進出するわが国際幹線航空路の先駆として去る十月八日台湾始政四十年の記念日を期して開始された福岡−台北間一、六〇〇キロ内台間定期航空はいわば海洋航空の試練として回数も一週一往復、郵便物のみの輸送にすぎなかったが、いよいよ来る新春より毎週三往復、旅客輸送をも行って本格的定期航空を実施し堂々たる空の幹線を実現することになった
この結果内地−台湾間の交通は汽船による神戸より基隆への四日、基隆より神戸への五日の所要日数が少なくとも三分の一に短縮され郵便物の如きも何日何時に投函してもいかなる船便よりも速達されるというまさに内台交通の革命をもたらすものである
日本空輸会社ではいよいよダイヤを編成することになったが、取敢ず現在までのフォッカー3M機を使用し福岡、台北双方より毎週火、木、土に出発、新春第一便は二日の火曜日となる見込で内地よりの往航は一日聯絡また台湾からの復航は那覇中継の二日聯絡とし目下内台の空を新春から 旅客も輸送の快報 : 毎週三往復・交通上に革命引用終わり)
カラー絵葉書(右):1937年、日本、機首に日本航空輸送株式会社(Japan Air Transport)[1938年12月に大日本航空株式会社へ改組]のマークを付けた中島AT-2輸送機;日本陸軍が1937年4月に中島AT-2輸送機を原型に改修を指示、11月に審査完了。原型中島AT-2は1936年9月12日初飛行。
Japanese postcard showing Japan Air Transport (JAT) Nakajima AT-2 aircraft
Commemorative postcard showing Japan Air Transport (JAT) Nakajima AT-2 transport
Date circa 1937
Source historical postcard, personal collection
Author Unknown authore
写真は Wikimedia Commons, Category:Nakajima AT-2/Ki-34/L1N1
File:Nakajima AT-2.jpg引用。
中島AT-2旅客機は、14人乗りダグラスDC-2輸送機の小型版で、コックピット形状はボーイング(Boeing)247輸送機に似ている。つまり、中島AT-2旅客機は、中島飛行機が独自に開発した8人乗り双発輸送機である。設計者はダグラスDC-2のライセンス生産を担当した明川清技師で、その名に因んでAkegawa Transport(AT)と命名された。
カラー絵葉書(右):1937年、日本、機首に日本航空輸送株式会社(Japan Air Transport)[1938年12月に大日本航空株式会社へ改組]のマークを付けた中島AT-2輸送機;大日本帝国郵便2+2円愛国のDC2切手に1937年(昭和12年)7月12日、航空ページェント
記念、盛岡の消印が押されている。中島AT-2は1936年9月12日初飛行。
Nakajima AT-2 (Ki 34), 1937. The postcard is stamped to commemorate a July 1937 “air pageant”. The Nakajima Aircraft Company, which had acquired the license-production rights to the American-made Douglas DC-2, began design work of their own in 1935 building a smaller twin-engine airliner for routes which did not have the capacity to justify use of the larger DC-2. The initial design was designated AT-1. After numerous design iterations, a prototype designated AT-2 first flew on 12 September 1936. The aircraft design was all metal except for the flight control surfaces, which were made of plywood.
写真は , OldTokyo Aircraft, Airline, Nakajima aircraf引用。
中島AT-1輸送機は、ダグラスDC-2に劣ったために試作されずに終わり、DC-2を小型化して、ボーイング(Boeing)247を参考にして、中島飛行機は、民間仕様中島AT-2輸送機、軍用仕様のキ34 九七式輸送機を開発した。中島AT-2輸送機は中島飛行機の独自開発の民間旅客機で、量産にまで至ったのは、まさに中島飛行機が日本最有力の飛行機メーカだった証しである。
中島飛行機は、中島AT-2旅客機を開発し、1936年9月12日に初飛行させている。そして、日本航空輸送、満州航空、大日本航空で採用され、合計33機が完成している。その後、日本陸軍が制式しキ34 九七式輸送機として中島で19機、立川飛行機で299機が量産産された。中島AT-2旅客機全幅:19.92m 、全長:15.30m、 総重量5,250kg、 最高速力360km/h、発動機は、中島の空冷星形9気筒「寿」2型改460馬力2基、乗員3名/乗客8名。
写真(右):1935−1938年頃、日本、日本航空輸送株式会社(Japan Air Transport)[1938年12月に大日本航空株式会社へ改組]中島AT-2輸送機;日本陸軍が1937年4月に中島AT-2輸送機を原型に改修を指示、11月に審査完了。原型中島AT-2は1936年9月12日初飛行。乗員: 2名
乗客: 8〜10名
全長:15.30 m
全幅:19.95 m
全高:3.90 m
翼面積:49.20 m2
翼面荷重:95.5 kg / m2
空虚重量: 3,500 kg
全備重量: 5,250 kg
発動機: 中島「寿」二型改(580馬力/試作機) / 中島「寿」八型(620馬力/量産機)
最高速力: 360 km/h
巡航速力: 310 km/h(上記絵葉書では300 km/h)
航続距離: 1,200 km
上昇限度: 7,000 m
Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Catalog #: 01_00086155
Title: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Thora (Army Type 97 Transport)
Additional Information: Japan
Designation: Ki-34
Tags: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。
3−F.最新装備を誇る十人乗り旅客機 : 中島製作所で完成
掲載誌
東京日日新聞
Vol: 第 4巻
Page: 67
出版年
1936-09-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100111384
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
【太田発】わが国航空界の一大躍進、国際航空路計画に伴いこれに備える使用飛行機が問題視されている折柄中島飛行機会社太田工場では米国のダグラス機を凌ぐ優秀な十人乗(飛行士一名、機関士一名、乗客八名)の[中島AT-2・九七式]純国産旅客輸送機の建造に成功した、同社明川、西村技師の設計によるもので十一日午後二時から尾島飛行場で逓信省南波、木目田両航空間立会、同所テストパイロット末松、高橋両飛行士によって試験飛行を行った結果極めて好成績を示した
純国産中島式[AT-2・九七式]高速度旅客輸送機は同社自慢の発動機『寿』二型六百馬力最新装備を誇る十人乗り旅客機 : 中島製作所で完成引用)
写真(右):1935−1938年頃、日本、羽田空港、日本航空輸送株式会社の三菱エアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)旅客機とその飛行機格納庫NO.2;日本は1935年6月にイギリスからエアスピード AS.6 エンボイ(Airspeed AS.6 Envoy)2機を購入、輸入し、日本海軍もエンボイ輸送機(LXM1)と命名し使用した。初飛行は1934年6月で、引込脚を持つ当時としては近代的な航空機。乗員: 1名
乗客: 6名全幅: 15.9 m
全長: 10.50 m
全高: 2.8m
機体重量: 2,930 kg
発動機: アームストロング・シドレー チーターIX 空冷7気筒 350hp × 2
最高速力: 338 km/h
巡航速力: 309 km/h(高度2,230mでエンジン出力75%)
航続距離: 1,046 km(高度3,050mでエンジン出力62.5%)
上限高度: 6,858 m三菱飛行機は「ひなづる型旅客輸送機」として1936年から1938年に8機ライセンス生産した。
戦前/日本航空輸送(株)旅客機絵葉書2枚 中島ダグラスDC-2型 三菱エアスピード エンボイ 古物 AC197
写真は、ヤフオク! 絵はがき、ポストカード > 航空機引用。
3−G.
”航空日本”実現へ : 東京新京間二千キロを八時間 : 来年実施の快速路
掲載誌
報知新聞
Vol: 第 4巻
Page: 101
出版年
1936-11-13
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100161306
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
今秋から東京、大阪を中心に新しく国内四線を加えた我空の陣は一方航空国策による内容の充実と相待って更に十二年度に新線を増加優秀機の就航となり、名実ともに”航空日本”実現へ突き進む、来年度新線としてあげられるのは
一、東京−仙台−青森−札幌線
二、東京−静岡−名古屋−大阪線
三、福岡−長崎−熊本−鹿児島−宮崎−大分−福岡(九州一周)線
の三ローカル線並びに
四、東京−新京[長春]間急行線
の四つ、このうち東京−札幌線は来年三月を試験飛行に、四月から実施の予定である、この航空網充実と併行して来年度中に新しく建造される旅客機は
ダグラスDC二型機十四人乗六台、エンヴォイ[Envoy]機八人乗九台、ビーチクラフト[Beechcraft]機三人乗二十台中島双発動快速機八人乗五台、合計四十台
の予定で、ダグラス[DC-2]機は現在内台聯絡に使用の二台と合せて八台、エンヴォイ[Envoy]機は合計十五台となるこれ等精鋭機の整備に従い現在第一線に活躍のスーパー機は予備機となり、各ローカル線にはビーチクラフト[Beechcraft]機が就航、東京−名古屋−大阪−福岡の幹線並びに内鮮聯絡にはエンヴォイ[Envoy]機を使用、
この結果各線ともいちじるしくスピード化され現在六時間を要する東京−福岡間は四時間に短縮、福岡−台北間はダグラス[DC-2]機四時間四十分であり、東京−台北間を一日に飛ぶことも可能となるわけである、東京−新京[長春]急行聯絡計画は来年六月から実施を目標に進められており、これには中島快速機が就航、東京を出発して米子(大阪飛行場の完備するまで)から日本海を横切り一気に京城に飛び奉天、新京とむすぶもので、この間約二千キロを八時間でしょう破しようというのだ
[図表(我空の陣)あり 省略]
以上のほか東海道ローカル線の延長として大阪−岡山−広島−福岡線、満洲への最捷路となる米子−清津(朝鮮)線等が明後年度予定線に上って居り、北海道−樺太線、日本海岸の東北線が加われば国内航空路はほとんど完備するわけである(凸版は我空の陣)(”航空日本”実現へ : 東京新京間二千キロを八時間 : 来年実施の快速路引用)
カラー絵葉書(上)1938年(満州歴:康徳5年、昭和13年)、満州航空株式会社所属の旅客機4種:上段左:満州国の国籍マークを付けた固定脚の隼式一型6人乗旅客機(M-304)、右:引込み脚のユンカース(Junkers )Ju160、下段左:満州国の国籍マークを付けた満州航空式三型プスモス2人乗旅客機、右:満州国の国籍マークを付けた中島スーパー・ユニバーサル旅客機(M-105)の左前方・左後方側面・正面の3枚の絵葉書:
満州航空 MT-1隼一型は、 中島 寿2型改空冷星型9気筒エンジン460 hp搭載、手動式引込み脚が不調で固定脚に変更された。最高速力240km/h、航続距離900km、生産は、満州航空35機、日本国際航空工業20機。
ユンカース Ju 160は初飛行1934年1月30日の引込み式降着装置を備えた高速旅客機で、乗員 2名、乗客定員 6人、全幅 14.32 m、全長 12.0 m、空虚重量 2,320 kg、運用時重量 3,450 kg、BMW 132空冷星型9気筒エンジン490 kW(657 hp)装備、最高速力 340 km/h、巡航速力 315 km/h。
イギリスのデ・ハビランド(de Havilland)DH.80A プス・モス(Puss Moth)は、初飛行1929年9月9日、ジプシー・メジャー空冷直列4気筒エンジン130 hp (97 kW)を装備で、1933年までに284機もが生産された。
中島スパー・ユニバーサル旅客は、アメリカ製フォッカー・スパー・ユニバーサル単発輸送機を輸入し中島飛行機が国産化した単発機で、壽(コトブキ)空冷星型9気筒エンジン480hp装備、乗組員(操縦士・機関士)2名、乗客6人座席、最高速力250km/h、巡行速力190km/h。空気抵抗減少のための固定車輪カバーを設け、尾部は尾橇を装備。
いずれも左右主翼に五色ラウンデル、垂直尾翼に五色旗の満州国籍マークを描いている。満州の建国理念は、日・韓・満・蒙・漢の五族協和であり、その民族を五色で象徴した五色旗が国旗とされた。
満洲航空株式会社「空の旅 記念絵葉書」、発行:満洲航空株式会社
■刊行年:康徳5年(昭和13年)
■解説:4枚(スーパー機(満航式一型)、プスモス機(満航式三型)ほか)袋付、国光機就航記念スタンプ、哈爾濱スタンプ
■状態:ヤケ、シミ、経年劣化
写真は,古書 古群洞kogundou60@me.com 絵葉書
満洲航空株式会社 空の旅 記念絵葉書引用。
3−H.東京−新京・北平へ六月から即日連絡 : 内地新空路も縦横に : 民間航空の躍進
掲載誌
東京日日新聞
Vol: 第 4巻
Page: 133
出版年
1937-03-05
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100108337
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
今年の民間航空はわが国航空史上空前の飛躍をする、十二年度逓信省航空局の予算は六百五十万円であるが前年度から継続の既定事業費として約三百万円、更に三日衆議院予算第六分科会で四十万円追加予算として計上されここに航空予算は一千万円に達した勿論[逓信省]航空局としては決してこれで満足はしていない、けれども過去十数年間の航空予算が二、三百万円台に過ぎぬのを顧みれば驚くべき躍進が期待されてよいわけだ
現在友邦満洲国との航空連絡は東京−新京[長春]即日連絡が使用機の性能上不可能であったが本年六月から別に東京−新京[長春]間二千キロメートルを八時間で連絡する新京急行線が実施される、使用機はダグラスDC二型十四人乗、または中島AT[輸送機]八人乗の順航時速三百キロメートルの快速旅客機で東京を出発後大阪、京城、奉天[瀋陽]の途中三ケ所に著陸するだけで新京[長春]に直行する予定であるが、本年内には大阪第二飛行場が完成せぬので大阪寄航は不可能のため福岡飛行場に著陸することに便宜上なるものと見られている、このため約三百キロメートル迂回コースとなるため約一時間多く東京−新京[長春]間は九時間の予定である
一方北支の航空路は恵通航空公司の旅客機が北平から山海関を経て大連で満洲航空会社の旅客機と連絡し、従ってわが国の日本航空輸送株式会社[1938年12月に大日本航空株式会社へ改組]の旅客機にも連絡はしているが東京−北平間が二千六百キロメートルあるため即日連絡が行えずこのスピード・アップはわが国にとって頗る重要な問題とされていた、三日の衆議院予算第六分科会で追加予算として四十万円を急速連絡飛行実施経費として計上するに至ったのもこうした重要航空連絡であればこそだった
計画案は京城までは前述の東京−新京間急行線のダグラスDC二型機を使用し、京城−大連間六百キロメートルを中島AT型快速機で二時間で翔破し、大連において恵通航空公司の快速旅客機と連絡し北平−山海関−大連間五百余キロメートルを約二時間足らずで連絡、京城−福岡−東京間は約五時間であるから北平−東京間は僅に九時間で連絡されることになり、朝食を東京で取り夕食は北平、新京でということが実現されることとなるのであるからわが航空輸送史上画期的なことである、
この快速航空連絡は勿論中島飛行株式会社へ
中島AT[輸送機]八人乗を五機、ダグラスDC二型十四人乗を六機注文して中島太田工場でその建造を急いでいる、即ち[中島]AT機は三月末までに一機四、五月中に残る四機が全部竣工する予定でまたダグラスDC二型機は五月五日までに一機五月末までに一機、以後十月まで毎月一機宛竣工せしめる予定である、本年六月を期して東京から新京、北平の二都へこれ等全金属製の国産快速旅客機が銀翼を輝かしながら雄飛する壮観さは想うだに嬉しい限りではないか
[図表あり 省略]
飜って国内航空路はというと、先ず本年四月一日から東京−仙台−青森−札幌の東北幹線航空路が開始される、本年末には試験飛行も実施する予定である、朝札幌飛行場を出発するフォッカー・スーパーユニバーサル[ Fokker Universal]六人乗旅客機に身を託せば午後には東京丸の内の事務所に現れて事務を見ることも出来、又更に大阪まで一飛して大阪で夕餉を楽しむことも出来るようになる、札幌−大阪は北陸線経由で三十九時間余を要したのがこの航空路開通によって僅々九時間にして連絡する、札幌−東京間は急行列車によっても二十四時間余であるが航空機によれば四分の一の六時間に短縮される
その他東京−静岡(当分不寄航)−名古屋−大阪のローカル線が四月一日から正式に行われる、九州の循環線福岡を起点として熊本−鹿児島−都城−大分のローカル線も七月から開始されて、わが国定期航空路は実に一万キロメートルを突破する
以上の如くわが航空輸送界は空前の活気を呈して伸展跳躍の期にある、南へ伸びんとするわが翼の搏きの一日も早からん事を読者と共に待望するとしよう(
東京−新京・北平へ六月から即日連絡 : 内地新空路も縦横に : 民間航空の躍進引用終わり)
写真(右)1937−1938年、中国東北部、満州国(日本の傀儡国家)、満州航空のドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 Z輸送機「黄龍号」(登録コード: M-223):1934年11月4日初飛行のJu86は、固定脚、双発の10人乗り民間旅客輸送機輸出仕様が、スイス航空のほか、満州航空でも採用された。Ju86 Zは、BMW 132空冷星型9気筒エンジン装備。コックッピト上方にアンテナマストを立てて、無線アンテナは尾翼まで張って碍子を介して繋いでいる。コックピット後上方には環状ループアンテナが装着されているが、これは方位測定用である。
Description
PictionID:38236234 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002323.TIF - -------Image from the Charles Daniels Photo Collection.----Album: German Aircraft.-----------SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
Date
30 June 2014, 14:38
Source
Junkers Ju 86 Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album
Author
SDASM Archives
写真 Wikimedia Commons, Category:Junkers Ju 86 File:Ju86 Manchukuo.jpg引用。
1931年9月26日に日本が満州事変を起こし占領下に置いた中国東北地方に設立した関東軍軍用定期航空事務所は、1932年(大同元年)3月9日に満州国が属国として樹立されると、国策会社の満州航空となった。置いた航路の拠点は、満州鉄道の拠点である奉天、長春(新京)である。
奉天は、満州最大の都市、長春は後に満州国の首都となり新京と改名した。満州国は、五族協和すなわち漢族、満州族、モンゴル族、朝鮮族、日本民族が居住し、日本を盟主とする新生国家のとして誕生した。すなわち、軍事、外交権から土地所有、法人設立、租税負担など日本と関東軍が支配する日本の属国的植民地である。
⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju 86 輸送機を見る。
絵葉書(右):1937年、日本傀儡国家、満州国、満州航空株式会社;日本が1932年に建国した満州国だが、その前年、1931年9月26日に満洲に満州航空株式会社が設立されている。実は、満州に鉄道警備を名目に駐屯する日本陸軍、すなわち関東軍は、自国勢力圏の満洲国内の航空路を整備するために、1931年に入って日本航空輸送に満洲代表部を設置させていた。この「関東軍軍用定期航空事務所」を母体に、同年、満州航空株式会社を設立したのである。旅客・貨物・航空便の空輸、軍事空輸、チャーター便に加えて、満州の測量、飛行機整備、飛行機生産まで統括する航空集合体だった。
Description
中文:Manchukuo National Airways(满洲航空株式会社)
Date before 1945
9 June 2010 (original upload date)
Source files of Manchukuo
Author Unknown author
Permission
(Reusing this file) public domain
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo
File:Manchukuo National Airways.jpg引用。
3−I.飛行機へ、はい電報 : まず内台航路のダグラス機に十八日ごろから無電設備
大阪朝日新聞
Vol: 第 8巻
Page: 180
出版年
1937-05-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100192679
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
大空を飛行中の飛行機から地上へ、そしてまた地上から飛行中の飛行機へ電報が打てる−逓信省では新時代航空の実現と空の旅行者の利便のためにかねてから地上と飛行機間の電報取扱について調査中であったが、この度内地、台湾間の定期航空に就航中のダグラスDC二型優秀機『ふじ号』および『にいたか号』の無線電信設備を利用して空中電報取扱所を設置、いよいよ十八、九日ごろから開始することになった
この結果によって内地主要線、内鮮満線も使用機の優秀化を待って実施するはずであるが、この飛行機電報[radiotelegraphy]は料金や差出方などは大体船舶宛のものとほとんど同様である
この飛行機電報の取扱はわが国としては勿論最初のことであるが、外国でもドイツを除いてはあまり例のない新しい試みである(東京)(飛行機へ、はい電報 : まず内台航路のダグラス機に十八日ごろから無電設備引用終わり)
絵葉書(右):1939年、日本傀儡国家、満州国、新京飛行場ターミナルビル;日本が1932年に建国した満州国だが、その前年、1931年9月26日に満洲に満州航空株式会社が設立されている。実は、満州に鉄道警備を名目に駐屯する日本陸軍、すなわち関東軍は、自国勢力圏の満洲国内の航空路を整備するために、1931年に入って日本航空輸送に満洲代表部を設置させていた。この「関東軍軍用定期航空事務所」を母体に、同年、満州航空株式会社を設立したのである。旅客・貨物・航空便の空輸、軍事空輸、チャーター便に加えて、満州の測量、飛行機整備、飛行機生産まで統括する航空集合体だった。
Description Commemorative postcard showing the Hsinking (Shinkyo) Airport
Date circa 1939
Source historical postcard, personal collection
Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Changchun
File:Hsinking Airport.jpg引用。
3−J.内台空路・毎日飛ぶぞ : 来月からダグラス六機就航
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 184
出版年
1938-03-10
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100188891
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
逓信省航空局では現在ダグラス[DC-2]機三台(内一台予備)を使用して一週に三往復している内台聯絡飛行を強化して毎日就航させようと追加予算二十六万円を提出して大蔵省と折衝中であったが、このほどその諒解を得、議会通過も確実視されているのでいよいよ来る四月の陽春から待望の内台間毎日就航を断行することになった、このために今まで就航していたダグラス三台のほかに同型三台が新たに凖備されるはずで南方生命線へ伸びる商業交通路の充実としてその開始を待たれている(東京)(内台空路・毎日飛ぶぞ : 来月からダグラス六機就航引用終わり)
写真(右):1935−1938年頃、日本、羽田空港、舗装滑走路に待機する日本航空航空輸送株式会社のダグラス(Douglas)DC2双発輸送機(乗客用14座席);機首に照明ランプ2個が付いているので、ランプのないDC-3輸送機(乗客用21座席)との判別は容易である。機体名称の記載も登録記号も描かれていない未塗装のみたいなので、1934年12月に輸入され、羽田飛行場で公開されたときに撮影した写真をもとに作成された絵葉書なのかもしれない。日本航空輸送(株)は、1938年末に政府の完全管理の国策会社「大日本航空」と名称を変更しているが、これは1937年7月7日の盧溝橋事件を発端として勃発した日中戦争が長期化し、より強力な国家総力戦体制を整備するためだった。
戦前/日本航空輸送(株)旅客機絵葉書2枚 中島ダグラスDC-2型 三菱エアスピード エンボイ 古物 AC197
写真は、ヤフオク! 絵はがき、ポストカード > 航空機引用。
3−K.躍進の民間航空五年計画遂行へ航空輸送、陣容を整備
掲載誌
東京朝日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 210
出版年
1938-06-01
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100135108
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
[写真(大谷登氏)あり 省略]
わが民間航空はいま新しき黎明期にある。そのわけは、日に月に進歩改良されつつある航空機に対し、従来の技術、設備及び人員が殆ど役に立たなくなったからである。即ち飛行機製造技術の発達が地上の諸設備の改良を遥に負い越してしまったからである。
第一に飛行場が狭い。空の港として最大を誇る羽田飛行場も僅に十六万坪で、目下二十二万坪に拡張計画中であるが、ここの滑走距離は八百メートルで、ダグラス三型[DC-3]やハインケル[He111]は殆ど八百メートル一杯に滑走する。
従って滑走距離は最小千メートルを必要とする航研機は世界記録樹立にあたって千メートル以上を滑走した、ダグラス機の発着不可能なため大阪飛行場は航空幹線からオミットされた。
更に、滑走路のある飛行場が一つとしてない。幅五十メートル、長さ八百米の滑走路を一本つくるには十二、三万円を要する。飛行機製作費を大体五十万円とすると、滑走路の十二、三万円を節約している為にいつも五十万円を危険にさらしているわけである。
夜間の照明設備は福岡にない従来の航空灯台の如きは余り役に立たなくなった、満洲にある盲目着陸設備は内地にない、甚だしきは飛行場にローラ一つない。
ないないづくしを挙げているわけではないが、従来の設備が全然役に立たなくなったことはこれで明らかであろう。
支那事変におけるわが空軍の活躍は必然的に航空予備軍としての民間航空の拡大強化を要請する。だが、現状のままではどうにもならぬ弱体ぶりである。
陸海軍をはじめ、民間航空の元締である航空局が躍起となって量と質の拡充を目論んでいるのはまことに無理からぬことであるが地上設備の改良増設といい、乗員の養成或は内外航空路の開設等何れも少からざる経費を伴うのみでなく、これに要する資材なども相当窮屈になって来ている今日、民間航空の進路は決して容易ではないと思われる。
永井逓相は先般の第七十三議会に航空機製造事業法と所謂永井航空五ケ年計画の所要経費を提出して、航空国策の辿るべき方向を明かにした
航空機製造事業法の目的はいうまでもなく、質の拡充にあるが、まず航空機製造事業を許可制とし、資本金三百万円以上年産能力小型機三百台以上、中型機五十台以上、発動機及びプロペラ三百台以上を許可条件として、最近における製造会社の濫立濫画傾向を制限し、許可事業に対しては一、土地収用法の適用二、所得税及び営業収益税の免除三、器具、機械及び材料の輸入税免除四、試作奨励金の交付、五、増資及び社債発行につき商法上の特例を認める等の保護助長をなすと共に、その反面において、販売価格その他につき統制的命令をなし、軍事上又は公益上の特別負担として、設備の拡張改良軍用機の製造、技術者の養成等に関し必要なつ命令をなし得ることになっている。右の[航空機製造]事業法は来る八月より実施せられる予定である。
航空五ケ年計画は総額二億数千万円に達する尨大なる計画で、中央航空研究所、航空機乗員養成所及び飛行場、航空路の増新設を目標とするものであるが、中央研究機関は別格として、その中心は飛行場の増設と人の養成に置かれている。
右五ケ年計画の第一歩は人の養成から開始されたが、それに附随して、ラジオビーコンの二百万円二ケ年計画も着々具体化され、本年度予算として百九十万円頭をだしている国際航空路の開設は東京−北京、東京−南京の二航空路が既報の通り開設される事になった
東京・北京のコースは東京、福岡、青島、天津、北京で、南京航路は東京、福岡、上海、南京の何れも命令航路で平年度は三百万円の補助金を計上する予定である。
その他新に予定せられている線は樺太線、南洋群島線等であるが、南洋群島線はわが南方政策の生命線ともいうべきもので、補助金予定額は三百七、八十万円である
さて、航空路の拡張、前進につれて航空輸送の独占会社である日本航空輸送がますますその独占を強化して国際に併行するか、或は又従来とかくの批評のあった日航の独占が破れて、新しき輸送会社が出現するか否かは、今後の興味ある問題であるが、突如として断行された日[本]航[空輸送]の陣容変更はこの問題に重要なる示唆を与えるものとして極めて注目されるのである。三十日の日航定時総会において社長原邦造氏が平取締役に引退し、新会長に大谷郵船社長、新社長に郵船ロンドン支店長斎藤武夫氏が就任することに決定した。
海と空、一応の聯絡は考えられることであるが、今回の寧ろ突飛とも思われる人事の経緯は、原前社長が健康の理由で辞任するに先立ち、後任推薦に関し、池田、郷両氏の意嚮を打診し併せて日航現在の行き詰りを詳述してその援助方を求めた。原氏は後任者として金融方面に相当顔のきく人を欲していた関係から大谷登氏の登場となったが、大谷氏はその腹心として斎藤氏の社長就任を要求し、遂に今回の如き大改革が行われるに至ったのである。
航空路線が将来益遠心的に拡充されんとしている時、しかも目前には東京・北京、東京・南京の両線が開設の機運に際会しているのに対し、現在の日[本]航[空輸送]の陣容は人的にも物的にもまことに貧弱を極めたもので、一千万円の資本金を以てしては到底将来の尨大なる拡充計画に対応することは不可能である。しかもこの時にあたってややもすれば日航独占の夢が破られんとしている形勢にあるので、急遽陣容を強化する必要に迫られたというのが真相のようだ
だが、既に有力なる一部では、腐った家を改造するよりも、新しい家を建てた方が得策であるとの意見が出ている位であるから改組後の日航と雖もその行手は多難を予想せられる。何れにせよ子会社の東京飛行機製作所の六倍増資(三百万円)を決行して、近く日航自体も大増資を敢行せねばならぬときに直面し、迎えられた大谷新会長が如何なる手腕を発揮するか、近ごろの見物ではある。【写真は大谷登氏】(躍進の民間航空五年計画遂行へ航空輸送、陣容を整備引用終わり)
写真(右)1937年頃、沖縄本島、那覇飛行場、日本航空の格納庫前に駐機しているの大日本航空(旧日本航空輸送)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「霧島」:日本航空会社は、ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を使って、沖縄本島那覇飛行場を中継地として、日台連絡(福岡・太刀洗−那覇−台北)旅客飛行が開始されたのは1936年11年1月1日からであった。を就航させた。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
資料コード 02000324
ファイル番号 001-04
撮影時期 戦前
撮影対象地 那覇空港
備考 写真集那覇百年のあゆみ/写真番号333/P92/日本航空会社の手で那覇を中継とする日台連絡(福岡・太刀洗−那覇−台北)旅客飛行が開始されたのは昭和11年1月1日からであった。
配架コード 055-A-01
写真は, 郵政博物館文化財オンライン 日航機/ダグラスDC-2型引用。
3−L.ダグラス機(富士号)遭難 : 乗客ら十二名絶望か : 那覇西方の海上に不時着
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 64
出版年
1938-12-09
hdl.handle.net/ 20.500.14094/ 0100084434
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
大日本航空会社[1938年までは日本航空輸送株式会社]の内台聯絡上り便ダグラスDC二型富士号(操縦士漆原滋、航空士堀四光機関士富樫彦三、通信士石原益雄)は乗客八名、貨物三百キロを搭載、八日午前六時三十六分分台北を出発、那覇に向う途中魚釣島附近で右エンジンに故障を生じたので機上SOSを発しつつ片舷飛行を続けたがついに及ばず、九時十四分那覇の西方二五〇キロ慶良間列島の久場島西方十キロの海上に不時着した、この富士号からの救援無電を接受した那覇無電局では直に救援の手配
をなし同地から寳運丸が十一時十五分現場五マイルの地点に達しついで寳山丸も現場に到着し附近海上を捜索したが、何物も発見せずとの報告あり、那覇無電局からは富士号に対し救助船が急航ししたから発見しやすいよう目標を作って置け、乗員、乗客ちりじりになるななどしきりに無電を発したが、[ダグラスDC-2]富士号からは何ら応答なく、機体はすでに海中に沈没したものではないかと見られ乗員ならびに乗客の安否は極度に憂慮されている(福岡)
機影を認めず
那覇からダグラス機遭難現場に急航した那覇水産試験場所属立花丸から午後一時半那覇無電経由大日本航空会社に次の入電があった「午後零時二十分現場に至るも機影を認めず」、なお航空会社では台北から空中捜査に出動したダグラス[DC-2]機筑波号から、午後時二寳山丸から同二十分何れも機影を認めずとの報告あり遂に絶望視きれるに至った(東京)
[図表あり 省略]
ダグラス富士号とは純国産の豪華機
遭難したダグラスDC二型「富士号」は昭和十一年春躍進航空日本のホープとして内台聯絡にデビューした純国産の快速巨人機で中島飛行機会社太田工場で建造された、発動機をアメリカから輸入しただけで他は全部純国産流線型オール金属製で、低翼単葉スーパーチャージャー付ライトテイクローン[Wright R-1820 Cyclone]七百十馬力空冷星型エンジン二基および可変ピッチプロペラを備えている、
客室は長さ八・三〇メートル、幅一・六五メートル、高さ一・一九メートル、容積は二四・三〇立方メートル、十四人分の座席があり、窓カーテン、刺激光線を避ける照明電飾、通風器、保温、防音装置など完備し安全率も乗心地も一〇〇パーセント、乗組員四名、旅客十四名で最高時速三四〇キロ、巡航時速三〇七キロ、飛行時間二千六百時間、飛行距離六十五万キロという素晴らしい性能をもつ豪華機である
[写真(遭難したダグラス富士号[DC-2])あり 省略](
ダグラス機(富士号)遭難 : 乗客ら十二名絶望か : 那覇西方の海上に不時着引用終わり)
⇒写真集Album:1930年代アメリカのダグラス(Douglas)DC-2輸送機を見る。
4.1938年の大日本航空株式会社(Japan Airways Co.Ltd)創立
写真(右)1941年頃、日本、飛行する三菱MC-20-I朝日新聞社 「朝雲号」輸送機(J-BAAP):日本陸軍の三菱九七式重爆撃機一型(キ21-I)の主翼・エンジンを流用し、胴体を太く輸送機用に設計して開発された高速輸送機。 1940年(皇紀2600年)にキ57一〇〇式輸送機として制式された。この民間機型が三菱MC-20輸送機である。
日本語:三菱MC-20-I J-BAAP 空飛ぶ編輯室・朝日新聞社 「朝雲号」
Mitsubishi MC-20-I with a nickname Asagumo (morning cloud) used by Asahi Shimbun. This aircraft was publicized as the 'flying editorial office' since all the equipment necessary for writing & sending newspaper articles was placed inside.
Date Unknown date
Source "Уголок неба" Авиационный справочник
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写真はWikimedia Commons, Category:J-BAAP (aircraft) File:Mitsubishi Ki-57.jpg引用。
4−A.列国の大軍拡に対処 帝国は依然二原則確保 : 米内海相不動決意を闡明
大阪時事新報
Vol: 第 44巻
Page: 47
出版年
1938-01-22
杉山陸相及び米内海相は再開議会劈頭適当の機会を求めて登壇、事変その後における陸海軍の作戦行動、長期膺懲に対する根本態度に関し説明を行うことになっているが、米内海相発言の根本要旨は次の如きものと見られている
根本要旨
(一)海軍は陸軍と協力し暴支徹底的膺懲に邁進し各方面における陸軍上陸作戦に共同すると共に全支における重要軍事施設、軍事交通動脈の爆撃に従い、更に全支沿岸航行遮断を継続して蒋政権の所謂長期抵抗を粉砕することに努力し着々所期の効果を収めつつある
(一)帝国海軍は一面西太平洋に起さるべき英米ソ各国海軍の趨勢に対し深甚なる注視を続けつつあり、最近各国において尨大なる建艦計画が新たに進められつつある事態を重視する、
然しながら海軍としてはこれ等各国の態度に何等惑わされることなく従来の不脅威、不侵略海軍原則を確保しつつ自主的経済的軍備を進めつつ真に我国が占めつつある東亜の安定勢力たるの実を泰山の安きにおかんとするものである(列国の大軍拡に対処 帝国は依然二原則確保 : 米内海相不動決意を闡明引用終わり)
写真(右)1941年頃、日本、飛行する中華航空股份有限公司 三菱MC-20-II「白鶴号」輸送機:三菱キ57一〇〇式輸送機(三菱MC-20輸送機)は、I型はエンジン: ハ5改空冷星型14気筒(離昇出力950hp)、II型はハ102空冷星型14気筒(離昇出力1,080hp)を装備した。
日本語:中華航空 「白鶴号」
MC-20-II of the China Airlines (中華航空股份有限公司), which was in service during the Sino-Japanese war. Unrelated to the current 'China Airlines' (中華航空公司) of the republic of China.
Date Unknown date
Source "Уголок неба" Авиационный справочник
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写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi Ki-57 File:Mitsubishi MC-20-II.jpg引用。
4−B.平、戦時に対応の拡充策着々進む : 愈よ本格的改編へ : 我航空機工業
大阪朝日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 211
出版年
1938-06-06
一、列強空軍拡充の趨勢
世界政情の不安を反映して、列強は競って空軍の拡充に努めつつある。左はこれを首肯せしめる恰好のトピックであろう。イギリスは再軍備五ケ年計画の一環として本年度空軍予算一億二百七十二万ポンドを計上、空軍第一線機を明年夏までに約四倍八千台に拡張せんとしていることは、すでに周知のところであるが、現在同国の生産能力は日産約四十台で、その上航空機工場のサポタージュがたたり、到底予算を消化し得ない。やむなくJ・G・ウェアを団長とする特使一行がアメリカに派遣され軍用機一千台の買付を交渉した。ウォール・ストリート・ジャーナルの報道では、その買付要求額七千五百万ドルに上り、三十種にわたる爆撃機数百台、沿岸爆撃用飛行艇、一千百馬力の発動機がこれに含まれている。
然るにアメリカ航空機製造会社の本年度予定総生産能力は、一億一千五百万ドルであるのに対し、すでに諸外国から一億三千五百万ドルの注文が殺到している。しかもアメリカ空軍自体が本年秋までに千五百台を増加せねばならない。ついに特使はアメリカを断念してカナダに渡ったというのである。かかる軍拡の趨勢は直に各国航空機工業の活溌なる業績となって現われる。ここにベルリン景気研究所調査を基礎として昨年度の各国航空機工業を回顧してみよう。
アメリカの航空機工業における販売高は前年に比し約四割五分の増加で、一億一千万ドル乃至一億一千五百万ドルに上った。殊に最初の九ケ月間は軍需及び民需ともに増加しているとはいえ、特に民需の増加が著しかったが九月以降においては軍需激増しこの傾向は本年に入って一層著しくなっている。昨年十一月陸軍長官の報告によると約一千台の軍用機が注文されているが更に五百台の追加注文が必要であるとされており、アメリカ航空機工場の受注高は一億三千五百万ドルに上るものと推定された。
イギリスにおいても昨年の生産額(発動機、部分品、補充品およびその他下請注文を含む)は四千万乃至五千万ポンドを下らぬ。イギリス航空機製造業者協会長の報告によると大多数の工場において、その生産は前年に比し二倍から三倍に増加した模様である。目下リヴァプール郊外のスペク飛行場に建設中である世界最大の新工場は、専ら新鋭中型爆撃機ブリストル・ブレンハイム機(最高時速二百八十マイル)の製造を行うことになっている。工場はこの今夏完成の予定であるが、製造全能力(日産四十台)を発揮するのは来年下半期に入ってからであろう。しかし国営の航空機製造二工場、エンジン製造の「影の工場」六工場ではこれまでいずれも一交替操業であったのを、近く一日二十四時間操業に改めるはずである。
フランスの航空予算は一九三七年三十九億フランから三十八年には四十七億フランに増加し、資材整備および航空建設に充てられる臨時予算のみで三十二億五千万フランに上っている。現在航空機工業従業者数二万五千といわれるが国営工場のみでも一年の生産額五億乃至六億フランと評価されフランス全体の売上高(発動機および附属品を含む)が二十億フランと見積られているから右の数字は過小であろう。昨年十月急進社会党会議の席上コット空相の発表したところによると一九三六年六月以来第一線機は一一〇%爆弾は二〇〇%をそれそれ増加工場生産能力も同時に六割増を示したといわれる。
ソ聯の昨年度計画では、前年に比し六割以上増の八千台に上る予定であったが、約二割の齟齬を来した。最近アメリカから技師を招聘し、また輸入を仰いでいる。
イタリーにおける生産能力はブレダ会社の増資(八千四百万リラから一億二千七百八十万リラに)で著しく拡張された、また航空機輸出も昨年は六千七百二十五万二千リラと前年に比し約三倍に増加している。
かく世界を挙げて空軍拡充に乗出しつつある折柄、わが国ひとり超然たるを得ない。幾多交錯する広汎なる国防線を確保するため、わが国もまた東洋安定の盟主として大空軍の整備に一路邁進する。時も時支那事変の発生である。今やわが航空機製造工業は本格的な改編を要求されるに至った。
写真(右)1941年頃、日本、滑走路に待機する川崎キ五六一式貨物輸送機:日本陸軍と日本航空輸送(1938年以降の大日本航空)は、アメリカのロッキード L-14 スーパーエレクトラ輸送機を1938年にを30機輸入し使用した。陸軍ではロッキードの頭文字をとってロ式輸送機として制式し、立川飛行機は、ロッキード社から国産化のパテントを購入し、エンジンを日本のハ26に換装して国産化した。生産は川崎で主になされ、総生産機数は100機。しかし、ロ式輸送機は着陸時の安定性が悪く、失速傾向があったために、陸軍は、川崎にロ式輸送機の改良型キ56の開発を命じて、1941年(皇紀2601年)12月に、一式貨物輸送機として制式された。
日本語:一式貨物輸送機は、日本陸軍の輸送機。試作名称はキ56。開発・製造は川崎航空機。
Русский: Фотография японского военно-транспортного самолёта
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Kawasaki Ki-56 Catalog #: 01_00085788引用。
二、わが国航空機工業
わが国航空機工業は欧洲大戦の刺激によってスタートした。爾来永きにわたり輸入模倣時代を経過したが、昭和六年満洲事変以降急速に伸長した軍需産業の重要なる一翼として飛躍発展し、ついに国産機時代を招来したのである。今回の事変によって中外に示されたるわが空軍の威力、また「神風号」「航研機」が獲得した世界新記録、何れも製作技術の世界的水準に到達したことを物語るもので、その間に払われた陸海軍の積極的な指導と、民間の不屈不撓の努力とに国民は斉しく万腔の敬意と謝意を表すべきであろう。
しかもこれらの撓まざる向上の努力が果して現在のわが航空機工業の規模によって十二分に目的を達成されつつあるかに想到する時、澎湃たる軍拡競争場裡にあって、最早や現状に満足しえないものがある未だわが航空機工業は極めて貧弱である。陸海軍工廠を除く民間工場は左表の如くで量的にも質的にも尨大なる軍の要求を到底消化しえない。
[図表あり 省略]
ここにおいて昨年上半期に時局の影響をうけ早くも昭和飛行機(資本金三千万円)大和飛行機(一千二百万円)日本航空工業(三百万円)大日本航空工業(二千万円)その他新設の名乗りをあげるもの多数に上った。
しかしながら民間航空工業は、平時すでに軍需工業たるの特性を賦与されており、その目的に副うものでなくてはならぬ。航空機の性能は刻々更新される。また戦時における消耗速度は平時に比し著るしく増大する。大戦末期における毎月の消耗率はイギリス四割八分、フランス四割二分、ドイツ三割八分であったが、今日では更に倍加するものと見ねばならない。従って民間航空機工業の製造能力には弾力性を有せしめねばならない。商業機一機の使用時間三千時間以上であるが軍用機においては一千時間を限度とする。戦時にはさらに倍加する。そこで各国とも民間機の軍用転用性を重視している。
民間機或いは輸出向航空機の製造設備をもって直に軍用機製造に充当せしめる必要もある。また航空機の価格が不廉であることを考慮し、政府の保護指導を仰ぐばかりでなく、基礎強固なる企業力をもたさねばならない。すなわち第一機を完成するまでの研究費試作費、パテント購入費などに巨額を投ぜねばならないことは次の例によっても明であろう。
ダグラスのDC−2がようやく利潤を生ずるに至ったのは、これを四十台以上売却した後のことで、早くも一方DC−3、DC−4の新型試作のため巨費を投ぜねばならなくなり、現に受注多きに拘らず同社は無配である。またボーイング会社では優秀なる小型戦闘機のため得たる利益を、四発動機「空の要塞」のため喪ってしまったという。
航空機製造業はかかる国家性からくる主要条件を十分果しうる工業でなくてはならない。ここにおいて昨春来簇生したる新増設計画の一応厳選淘汰さるべき事態に立至ったことは当然といわねばならない。七十三議会を通過した航空機製造事業法の目的もまたここにあった。
写真(右)1943年6月1日、日本からフィリピンに飛来した川崎キ五六一式貨物輸送機と搭乗してきた参謀総長杉山元陸軍大将の答礼:陸軍は、川崎にロ式輸送機の改良型キ56の開発を命じた。川崎の土井武夫技師は、胴体を延長して、安定性を良くした試作第1号機を1940年11月に完成させた。ロ式輸送機の修正箇所は、胴体の延長、フラップ改修、ハ26-IIエンジンへの換装、である。この機体は、1941年(皇紀2601年)12月に制式され、一式貨物輸送機と命名された。
Description 杉山元 or Sugiyama Hajime, a tactician of Imperial Japanese Army in days of World War II
Date 1 June 1943
Source 比島派遣軍
Author 比島派遣軍報道部, a sort of Imperial army's news agency
Permission
(Reusing this file) PD according to Japanese intellectual property law
写真はWikimedia Commons, Category:Kawasaki Ki-56 File:Sugiyama Hajime.jpg引用。
三、航空機製造事業法
航空機事業法の適用範囲は命令により定むる航空機またはその機体、発動機、プロペラの製造並にこれら事業者のなす部分品、材料(ジュラルミン、超ジュラルミンニッケルなど)付属品製造、修理事業を包含し、許可制を採用した。すなわち実際資本三百万円以上のものえ、生産能力は小型機年三百台以上、中型機五十台以上、発動機、プロペラ各三百台以上のものたることを条件とした。いま簡単にその他の内容をも解説しておく。
本法実施とともに勅令により設置せる航空機技術委員会の議を経て、機材規格統一を行い、土地収用法適用、免税、試作奨励金の交付(本年度飛行機、発動機等試作奨励費五十万円)の保護奨励規定を加えたほか、監督統制ならびに軍事上の特別負担に関する重要規定を定めたことは特に注目される。前者は軍需品生産のため工場利用の能率化をはかり、能力の最大限を戦時目的に発揮せんとする軍需工業動員法の効力をさらに拡張徹底せしむるもので、後者は戦時平時を問わず航空機製造事業に対し、軍事上特別の負担を命ずることを得せしむる規定で国家総動員法が平時に適用しえざる不備をこれによって補いうるわけである。
四、民間航空事業の重要性
以上の如く国防的な立場よりする航空工業確立の意義は、同時にその民間企業たる基礎条件を破壊するものであってはならない。先に逓信省では総経費一億三千六百万円をもって航空五ケ年計画を樹立し
(一)中央航腔研究所の設立
(二)内外航空路拡張
(三)航空乗員の養成
をはかることになったが、その中には民間事業家の立場より企業的障碍と見られる諸条件を速かに除去せんとする重要意図が看取される。即ち右計画によれば現在企業家にとって悩みの一つとなっている「優秀なる技術の得難き」現状を救うため、民間技術の一大指導機関として、中央航腔研究所が設置されることになった。
このため本年度は五十万円の準備費が計上されたが、将来は一億円程度の大規模なるものとする予定である。わが国に現在ある航空機研究機関は帝大航腔研究所、陸軍航空研究所、海軍航空廠、航空局航空試験所、航空評議会であるが中央研究所は、将来国内最高の綜合機関として、直接民間技術の指導に当るものである。次に企業家にとって最大の悩みともいうべき「需要増加の恒久性に一抹の不安ある」現状に対しては、右計画の重要項目たる内外航空路拡充がはかられるに至ったことである。本年度予算内容に盛られたる主要線拡張の第一次計画は次の如くである
(一)福岡、台北線は毎週三往復であったが、四月から毎日一往復とし
(二)福岡−上海−南京線は九月から毎日一往復運航する、東京−福岡−青島−北京線は九月開設隔日運航する、このため本年度は百七十七万円の予算を獲得したが、来年度においては南京線百五十八万円、北京線三百三万円を計上することになっている。
(三)その他新たに予定されているものは樺太線、南洋群島線などで補助金予定額は三百七、八十万円である。
これらの拡張に伴い最早現在では役立たなくなっている地上設備の拡充並びに技術員の大量養成も行わねばならない。
元来一国の民間航空工業はつねに平時において同国の航空運輸事業を前提として発達し漸次海外市場の獲得に成功するに至るがわが国航空事業は他国に比し著しく遅遅たるものがあった。貨物、郵便物においてはアメリカの約二十六分の一、飛行距離において六十分の一、旅客数において七十分の一に過ぎない現状にある。もっともこれまでわが国はその地理的関係より国内空輸の発達を制限される運命にあったことも事実である。しかしながら今や一大転機に逢着した。民間航空機の戦時的役割と結ついて、大陸進出を中心に航空路の画期的拡充が促進されるに至ったのである。
写真(右)1944年頃、三菱キ57一〇〇式輸送機(MC-20)「明星」機首右側面前の毎日新聞航空部の島本真飛行士:方向舵が動かないように木枠で固定している。
Description
English: Japanese airplane Myoujyo from Nittpon (Mitsubishi Ki.57 or Kawasaki Ki.102?)
日本語:世界1周したニッポン号毎日新聞社有機が、明星号に名前を変えた
Date 1944年頃の撮影、投稿処理2009/12/31
Source 被撮影者島本真滑空士1944年頃の記念写真を投稿の許可を得て譲り受けた
Author 初期撮影者不詳、投稿処理大山剛文
写真は, Wikimedia Commons Category:Mitsubishi Ki-57 File:Japanese airplane Myoujyo from Nittpon.jpg引用。
五、資材確保の要
しからば今、本格的な航空機製造工業の確立に当って、最早一切の懸念は一掃されたであろうか。否、難関が未だ置残されている。すなわち資材確保の問題がそれである。優れたる航空機の製作に当ってつねに優秀なる材料を必要とすることは今更いうを俟たない。すでにわが国においても住友金属日本特殊鋼その他において主要材料たる鋼を製造しており、また同じく住友金属、古河電気工業その他で優秀なる軽合金を国産しつつあるが、まだその原料の多くは輸入に依存している。更に部分品も、住友金属、日本楽器製造の金属プロペラを始め、岡本工業の車輪、宮田製作所の緩衝装置、東京航空計器、日本計器製造の航空計器、理研ビストンリング、日本ビストンリング等々いずれも誇るべき製品を出してはいるが、果して尨大なる航空工業拡充の計画を遂行する場合、量的にも質的にもこれに並行して飛躍的な拡充が遂げられるかどうか。このほか他工業においても生産拡充に支障を来している工作機械の入手難がある。
航空機製造のために必要な工作機械は特に精密機に属する。急にこれを増産することは到底困難である、以上の如き幾多の未解決な障碍を克服し進まねばならないわが航空機工業の前途はなお必ずしも楽観を許さない。しかしながら過去においてもそうであったように飽くまでも不退転の決意と倦まざる努力の前に、荊棘の道のつねに開かるべきを信じてやまない。国民は今や挙げてわが航空機工業の黎明を渇仰する。「航空日本」に栄光あれ(平、戦時に対応の拡充策着々進む : 愈よ本格的改編へ : 我航空機工業 引用終わり)
ニッポン号は、日本海軍から毎日新聞社に貸与された九六式中攻を長距離輸送用に改造した輸送機で、三菱「金星」空冷星型14気筒エンジン(排気量32.34 L)900 hp、3翅可変ピッチプロペラ装備のニッポン号は、胴体7席を設置、燃料タンク増設し搭載量1万4000リットルの長距離仕様とされた。
1939年8月26日に羽田飛行場を飛び立ち、アメリカを横断した。しかし、9月1日の第二次世界大戦の勃発で、フランス、イギリス、ドイツへの飛行は中止となった。北米に続いて、南米ブラジルのリオデジェイロ、ナタールに向かい、そこから、大西洋横断し、アフリカ大陸東端のセネガルのダカールから、モロッコのカサブランカを経由しスペイン、イタリアを訪問した。その後、ギリシャのロードス島、イラク、インド、タイ、台湾の台北を経て10月20日に羽田に帰着し世界一周飛行は終わった。
図(右):1936-1938年、英国航空インペリアルエアウェイズのショート(Short)L.17 スキュラ(Scylla) 輸送機(G-ACJJ)のスイスのアルプスを背景に大西洋の人魚が出迎えるポスター;スキュラ(Scylla)とはギリシャ・ローマ神話の海の妖精であるが、海獣に変えられてしまった。1934年3月26日初飛行のショート(Short)L.17 スキュラ輸送機は、運用開始は1936年8月、乗員: 4
定員: 旅客 24名
全長: 83 ft 10 in (25.55 m)
全高: 31 ft 7 in (9.63 m)
翼幅: 113 ft 0 in (34.44 m)
翼面積: 2,615 sq ft (242.9 m2)
空虚重量: 22,650 lb (10,274 kg)
運用時重量: 33,500 lb (15,195 kg)
発動機: ブリストル ジュピター(Bristol Jupiter) XIFM 星型エンジン555 hp (414 kW) × 4
最高速力: 137 mph (220 km/h, 119 kn)
巡航速力: 105 mph (169 km/h, 91 kn)
生産数は1934年に2機のみで、
第二次大戦初期の1940年には退役した。
Imperial Airways Poster
Poster from the Don Thomas Collection. Mr. Thomas was a collector of aircraft memorabilia who donated several posters to the San Diego Air and Space Museum.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。
4ーC.わが航空輸送陣愈よせ界の檜舞台へ : 国際協会へ加盟の見透し
掲載誌
中外商業新報
日本産業経済新聞
Vol: 第 5巻
Page: 89
出版年
1939-05-11
今議会を通過した大日本航空会社法案によってこの八月資本金一億円の国策会社として米国のパン・アメリカン社>[Pan American]、英国のインピリヤル・エヤウェーズ社[Imperial Airways]、ドイツのルフト・ハンザ社[Lufthansa]、イタリーのアラー・リットリオ社などとともに世界一流の航空輸送会社に飛躍する大日本航空会社では将来の発展のためには不可欠ともいうべきI・A・T・A(国際航空輸送協会[International Air Transport Association])加盟の手続きにつき昨年来フランスのエール・フランス航空会社>[Air France]を紹介社として猛運動を開始したところ本年三月取あえず仮入会許可の通知を獲得したが時局下各国の神経が昂ぶっている際なので同社の正式入会の可否を決議する今秋九月のニューヨーク総会の成行きは各方面で憂慮されていたが大日本航空が去る四月I・A・T・A加盟各国の航空会社に出した「ニューヨーク総会における支持を懇請す」との依頼状に対し早くも八ケ国の加盟会社から「支持引受けた」との返事が到達、乃木号の訪暹飛行、そよかぜ号のイラン親善飛行などの国際飛行の成果がここに見事に現れ、航空日本の世界的地位が一躍浮き出て来た
このI・A・T・Aの現在の加盟国は二十三ケ国、二十七会社で、欧洲では同協会に加盟していることが一つの信用条件となり、旅客もなるべくI・A・T・A加盟会社を選ぶといった現状で、わが大日本航空としてもその加盟が緊要のものであったが正式加盟には九月のニューヨーク総会で二十七社中の三分の二の賛成が必要だが、かくのごとく続々承諾の返事があり予定の三分の二たる「十八社の承諾獲得」も存外早く実現するものと見られ
ここに名実ともにわが国航空輸送事業は世界的水準に飛び上る訳である
斎藤日空社長談
最初は可なり心配していましたが、この分ならどうやら一、二ケ月以内に目的を達成出来そうです、現在の八社以外にイタリーのイタリー航空とドイツのルフト・ハンザは勿論大丈夫賛成してくれますし、ブラジルのコンドール社はルフト・ハンザ系会社ですし欧洲方面の各社中にも防共締盟国の勢力拡大とともに数社が好意を寄せてくれましょうからまず心配はありません(東京発)(わが航空輸送陣愈よせ界の檜舞台へ : 国際協会へ加盟の見透し引用終わり)
図(右):1939‐1941年、パンアメリカン航空のボーイング(Boeing)314クリッパー"Clipper"四発旅客飛行艇のポスター;1938年6月7日初飛行のボーイング314飛行艇は、パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空(Pan American Airways:PAA)はで採用され、1939年4月に太平洋横断航路に投入し、1939年6月には大西洋航路に就役させたが、これらの航路にはすでにマーチンM-130飛行艇、シコルスキーS-40飛行艇などが就航していた。で就航させた。しかし、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻を契機に、イギリス、フランスも巻き込む第二次世界大戦が勃発し、アメリカとヨーロッパを結ぶ大西洋航路はの民間旅客輸送は危険なものとなり、旅行需要も期待できなくなった。。
PanAm Clipper Poster
Poster from the Don Thomas Collection. Mr. Thomas was a collector of aircraft memorabilia who donated several posters to the San Diego Air and Space Museum.--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。
4ーD;.航空輸送振興へ国策会社設立手続開始
掲載誌
大阪毎日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 93
出版年
1939-05-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100076542
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
第七十四議会を通過した大日本航空株式会社法に基づく資本金一億円の航空特殊会社設立についてはさきごろ来逓信省で諸般の凖備を進めたいたがいよいよ実際の設立手続きを開始する運びとなったので田辺逓相は二十五日正午陸海両相その他関係各省係官及び阪谷、池田、結城氏らに財界有力者約八十名の同会社設立委員および賛成人候補者を東京会館に招待し午後会を催し各方面の協力方を懇請した席上逓相より世界ならびに東亜におけるわが国の地位に鑑み航空輸送事業振興の急務なることおよびこれが実現のため政府の保護のもとに一大国策会社[大日本航空]を設立する必要を力説尽力を乞う旨の挨拶あり、これに対し来賓を代表して阪谷男から挨拶あり午後二時散会した(航空輸送振興へ国策会社設立手続開始引用終わり)
4−E.第十一条による融資近く実施の運び : 先ず飛行機・自動車業に
読売新聞
Vol: 第 19巻
Page: 102
出版年
1939-06-02
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100163223
国家総動員法第十一条中資金融通令の発動に照応して興銀内には既に臨時資金融通部の設置を見たが過般本年度物動計画も正式に決定し生産力拡充の促進は愈よ本軌道に乗るに至ったので近く右の資金融通令に基く融資を実施することとなる模様である、即ち資金融通令によれば「大蔵大臣は生産力拡充資金その他時局に緊要なる産業資金の供給を円滑ならしむるため必要ありと認むるときは日本興業銀行に対し資金の融通または有価証券の応募引受け若くは買入を命じることが出来る」こととなっているが差当りは大体左の如く主として軍需に依存する諸事業が融資の主たる対象となるものと見られ目下飛行機、自動車製造会社及びこれらの資材供給会社が考慮されているものの如くである、
興銀[日本興業銀行]当局としても右に関し詳細なる検討を加えとうへ目下満支視察中の入間野銀行局長が四月帰京するのを俟って打合せを行い近く資金融通審査委員会幹事会の開催を求め右融資の運用その他について万全の対策を樹立し資金審査委員会の承認を得たうえ大蔵大臣より正式命令を発することになる筈である、而して融資の主たる対象と見られる飛行機、自動車製造会社及びこれ等の資材会社としては
(一)先ず生産力拡充を最も効果的ならしむる見地よりしても三菱重工業、住友金属工業等財閥系軍需工業が考慮されているものの如く更にこれ等会社は一応その背景に該系統の金融機関乃至はシンヂケートを擁するとはいえ金融機関としての機能保持の立場からいえば現在までのところはともかく今後においてはこれら傘下の巨大軍需会社の拡張資金は寧ろこれを興銀の強制貸付に仰ぐ方が適当であるとされ又該財団でもこれを希望している
(二)たとえシンヂケート団があっても従来の関係から主として興銀[日本興業銀行]に資金供給を仰いでいる中島飛行機、昭和飛行機、東京自動車等は強制貸付の対象として最も適当と見られる
而して右の強制貸付を行う場合にしても物動計画との関係は最も重要であり資金は十分であっても資材、労働力を計画通り円滑に入手し得ない場合も起るものと予想されるのでこの点は関係当局も物動計画と睨み合せて慎重に検討することとなっているだけにこれが成功は甚だ注目される(第十一条による融資近く実施の運び : 先ず飛行機・自動車業に引用終わり)
写真(右)1939年9月、アメリカ、飛行機格納庫の前で歓迎される日本から飛来した毎日新聞社の三菱式双発輸送機「ニッポン号」(J-BACI):毎日新聞社による世界一周飛行の途上である、格納庫奥にはダグラスDC-3双発輸送機、手前にロッキードL-14輸送機が格納されている。
SDASM Archives
Mitsubishi, Nippon
Title: Mitsubishi, Nippon
Corporation Name: Mitsubishi
Official Nickname: Nippon
Additional Information: Japan, converted from G3M2 bomber for long range ""peace"" flight.
Tags: Mitsubishi, Nippon
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00091059引用。
写真(右)1939年9月2日、第二次欧州大戦勃発直後、中立国アメリカ、カリフォルニア州オークランド飛行場、三菱九六式陸上攻撃機改造の「ニッポン号」(G3M2):外翼内に容量1,400Lの燃料タンクが増設5,200L搭載。
English: Kōken Long Range Mono-plane designed by Tokyo university
Date 14 September 1937
Source 富塚 清「航研機―世界記録樹立への軌跡」三樹書房 2010年2月1日発売
Author Unknown author:東京帝国大学(現・東京大学)附置航空研究所が独自に開発し1937年5月25日初飛行。1938年5月13日、第二次周回飛行のため、午前4時55分に木更津飛行場を離陸。5月15日までに周回飛行コースを62時間22分49秒で29周し、11,651.011kmと1万kmコース平均速度186.197km/hの世界記録を樹立した。
Description As I have commented before I don't have time to write a text for all the photos that I post but this one does deserve an explanation. It is shown arriving at Oakland Airport, California, on September 2, 1939. A Mitsubishi G3M2 bomber converted for a long range world peace flight it was named "Nippon". When England declared war on Germany the next day the globe circling flight was almost canceled but by changing the route they did arrive back in Japan on October 20th after flying 32,846 miles in 55 days. I will post another photo of it being taxied into one of the hangars that shows the excellent construction at a time when we were being told by the press that the Japanese couldn't build anything good and that their pilots were born with a lack of balance so couldn't fly well
Date 12 September 2007, 20:08
Source Mitsubishi "Nippon" Oakland Airport 1939
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons Category:Gasuden Koken
File:Mitsubishi "Nippon" Oakland Airport 1939 (4808938058).jpg引用。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
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