写真(上)1937年、ドイツ、ユンカース(Junkers)EF 61試作機の左前方:ガラス窓の付いた複座の与圧コックピットだが、全面ガラスではなく、視界は乏しいのは、1932年に開発したJu49と同じである。試作2機のみ生産。
Первый из двух опытных высотных бомбардировщиков EF-61-V1 был готов осенью 1936 г. Он был оснащен двумя двигателями Даймлер-Бенц DB-600A взлетной мощностью 950 лс с лобовыми радиаторами. Первый полет состоялся в конце года. Самолет имел двухлонжеронное крыло большого удлинения, размахом 27 м. Фюзеляж имел овальное сечение с гофрированной работающей обшивкой, покрытой тканью. Нос образовывался круглой секцией герметичной кабины на двух членов экипажа. Обзор экипажа обеспечивался большой круглой панелью в носовой части кабины. Остекление было двойным с прослойкой осушенного воздуха. Материал остекления был так называемый "рейлит". Небольшая круглая панель в нижней, правой части кабины обеспечивала обзор пилоту вниз при посадке. Прозрачная панель была также и в полу слева для прицеливания бомбардиру, выполнявшему функции штурмана и стрелка. В последнем случае он мог использовать пулемет МG-15 в задней части кабины. Доступ в кабину осуществлялся через круглый люк в ее правой части..
写真は, Уголок неба・EF.61引用。
1.ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機
写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機:オリジナル解説には「この成層圏航空機では高度 1万8,000 メートルに到達することが求められるが、そのために新型ユンカース成層圏航空機Ju.49が初飛行し、その試験飛行が無事に終了した」
Junkers Ju 49, an experimental aircraft designed for high altitude flight and cabin pressurization technique testing first flown in 1931. Powered by a Junkers L88 V-12 engine, the experience gained on this aircraft lead to the development of pressurized military aircraft such as the Junkers Ju 86P.Ju48は1機のみしか生産されていないが、後方には、複座のユンカースA.50ユニオール軽飛行機が生産ラインが見える。
写真は , Go to WeirdWings
r/WeirdWings
by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10
3924091021
引用。
ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機は、固定脚だが、重量軽減のために脚は細く車輪カバーも取り付けていない。ただし、空気密度の低い高高度用の大直径プロペラを装備したために、降着装置の脚は以上に長い。なによりも、ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の特徴は、与圧コックピット操縦室で、高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる点にある。
写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の与圧式コックピット:操縦士、機関士の搭乗するスペースは、高高度の低い空気密度とコックピット内の高い気圧の格差を支えるだけの気密性と強度が求められた。そのため、開口部を極限まで縮小し、視界を得るためのガラス窓も気圧差に耐えられるように小さく円形なものを少数並べるにとどめている。
写真は, Go to WeirdWings
r/WeirdWings
by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10
3924091021
引用。
写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の与圧式コックピット:
写真は, Go to WeirdWings
r/WeirdWings
by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10
3924091021
引用。
ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機には、酸素マスクだけでなく与圧式コックピット操縦室が設けられている。気圧格差に耐えるために、堅牢な繭型で、気密性を高めるために、出入り口は小さく、視界を得るためのガラス窓も小さな円形にとどめている。高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる与圧コックピットには、気密性と軽量で高い強度が求められた。
高度と気圧の低下は、
18000フィート(5486m)1/2
27000フィート(8230m)1/3
38000フィート(11582m)1/5
50000フィート(15240m)1/10
と
加速度的に気圧は低下する。
写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の与圧式コックピットの内部:正面に操縦席・操縦桿と計器盤が見える。
写真は Wikimedia Commons, Go to WeirdWings
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by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10
3924091021
引用。
ユンカース(Junkers)Ju 49のように、10km以上の高高度を飛行する高高度飛行機、すなわち「成層圏航空機」は、操縦士、機関士などの搭乗するコックピットの気圧を、人間が長時間耐えられるような低高度の気圧にまで高める「与圧室」も設ける必要があった。室内と外気の気圧格差が大きいので、与圧室は隔壁の強度を維持するために繭のような形状にして、気密性と強度の両立を図っている。気圧格差が大きい高空を飛行するには、高高度まで上昇できるように航空機は軽量であり、かつ気圧格差に耐えられるだけの強度が与圧室に求められた。
つまり、ユンカース(Junkers)Ju 49 のような高高度を飛ぶ航空機には、深海の高い水圧の中を航行する潜水艇と同じように、呼吸用の酸素供給が溜まった居住空間を隔壁で覆って密閉する必要があった。他方、潜水艇では、重量の影響をあまり配慮する必要がないが、航空機では、軽量化しないと高高度にまで上昇することができなかった。
写真(右)1931年10月、離陸し上昇飛行するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ):大直径プロペラは、高高度で空気密度の低い大気で威力を発揮したが、地上にあるときには、地面とのクリアランスを確保するために、全高を高くするために、長大な脚が必要になった。
写真は, Go to WeirdWings
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by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10
3924091021
引用。
地球の大気圏は、下層から対流圏・成層圏(stratosphere)・中間圏(100km)・熱圏(500km)・外気圏と層をなしている。成層圏(stratosphere)とは、地球大気の対流圏の上空にある大気圏である。対流圏と成層圏との境界は、高緯度の極地では高度8km、低緯度の赤道では高度17kmである。成層圏と中間層の界面高度50kmである。
写真(右)1931年10月、離陸し上昇飛行するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ):オリジナル解説には「この成層圏航空機では高度 1万8,000 メートルに到達することが求められるが、そのために新型ユンカース成層圏航空機Ju.49が初飛行し、その試験飛行が無事に終了した」
Title
Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49 Info non-talk.svg
Original caption
Mit diesem Stratosphärenflugzeug soll eine Höhe von 18.000 m erreicht werden !
Das erste neue Junkers-Stratosphären-Flugzeug "Ju. 49" hat seinen ersten erfolgreichen
Probeflug beendet.
Aufnahme während des Startes.
Date October 1931
Collection
German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753
Current location
Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102)
Accession number
Bild 102-12368
写真は Wikimedia Commons, Category:Portraits of Amelia Earhart・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。
成層圏の上空は、中間圏で、その境界は、高度50kmである。したがって、成層圏に達するには、中緯度であれば高度12−13kmである。つまり、成層圏飛行機とは高度1万2000m以上まで上昇、高高度で飛行し続けることの可能な航空機ということになる。
成層圏では強い対流は見られないが、対流圏上部の偏西風の影響を受ける。他方、成層圏上部では、気圧差とコリオリから、地軸の傾きに応じて冬は成層圏偏西風、夏は成層圏偏東風が吹いている。
写真(右)1937年、滑走路で待機中のユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ)の左前方:垂直尾翼には赤帯白丸黒スワスチカ卍のドイツの国籍マークが描かれている。本来、NSDAPナチ党の党旗は、1933年1月30日にアドフル・ヒトラー政権が成立後に、国旗として昇格した。1933年2月27日のドイツ国会議事堂放火事件を契機に、「民族・国家防衛の大統領緊急令」がだされ、人権が制限され、3月24日には、全権委任方が成立して、ナチ党による独裁政治が合法化された。ドイツ共産党党員が禁止され、社会主義、自由主義の政党が抑圧された。
unkers Ju 49
Vor 1937 entstanden, daher nach deutschem Urheberrecht gemeinfrei
Date 3 December 2003 (original upload date)
Source Transferred from de.wikipedia to Commons.
Author Head at German Wikipedia
写真は Wikimedia Commons, Category:Portraits of Amelia Earhart・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。
現在のジェット旅客輸送機の巡行高度は、高度1万メートル(10km)程度であるが、その理由はでは、空気密度の抵抗とエンジンの稼働に必要な大気(酸素)との関連である。つまり、空気密度は、海面上(標高0m)に比して、高度10kmでは、33.7%に低下するが、これは飛行機の空気抵抗は、高高度ほど減少することを意味する。
しかし、高高度であれば、エンジンの燃料燃焼のための酸素も減少しているので、エンジン駆動には向いていない。例えば、高度50kmでは、空気密度は海面上に比較して0.08%しかなく、酸素不足でジェット・エンジンもレシプロエンジンも燃料燃焼に必要な酸素部不足で稼働できなくなる。したがって、航空機が飛行可能な高度は、エンジンの関係上15kmが限度である。
写真(右)1931年10月、舗装滑走路に待機するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ)の左後方側面:垂直尾翼には赤帯白丸黒スワスチカ卍のドイツの国籍マークが描かれている。1934年8月2日、ドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクが87歳で死去すると、ヒトラー首相が大統領の権限を引き継ぎ、ドイツ軍は、ヒトラーに個人的忠誠を宣誓するようになった。これが、ヒトラー総統の独裁国家である。
Junkers Ju 49 (1931)Первый полет состоялся в 1931 году. В 1933 году самолет достиг высоты 9300м, а 1935 году высоты 13000м.
写真はFree web-hosting with CMS, высотный, исследовательский・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。
写真(右)1931年10月、未舗装滑走路に待機するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ)の前面:固定脚、4翅大直径固定ピットプロペラを装備。手前の左主輪付近には10人の地上勤務員らしい人々が集まっている。
Junkers Ju 49 (1931)Первый полет состоялся в 1931 году. В 1933 году самолет достиг высоты 9300м, а 1935 году высоты 13000м.
写真はFree web-hosting with CMS, высотный, исследовательский・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。
民間機の旅客輸送でも軍用機の作戦飛行でも、航空機が高高度を巡行する場合、機内の気圧が低下しないで、海面上に近い1気圧を維持できるようにすればよいが、実は、深海に潜水すると水圧がかかるのと同様に、高高度8000mで気圧が3分の1に低下するなかで、1気圧を保つような気密性を確保することは非常に困難である。3倍もの気圧差があれば、密閉するとしても圧力に耐えられるだけの強度が求められる。
しかし、潜水艇のように厚く頑丈な金属外殻で覆ったコックピット操縦席や客室キャビンは、重量が過大となり、飛行性能を低下させ、高緯度10kmまで上昇することはできなくなってしまう。軽量化が求められる航空機に大きな気圧差に耐えられるだけ堅固な気密室を設置するのは容易ではない。
航空機は、空気抵抗減少とエンジン稼働のバランスを取って、高度10kmでの巡行飛行が効率が良いが、高高度飛行では、滞在する人間に、酸素・気温・気圧が十分に維持されなくてはならないのである。酸素・気温の問題は、酸素吸入マスク、電熱服・暖房機によって1920年代には克服できたが、ユンカース(Junkers)Ju 49 でもコックピットの低気圧への対処は、最も困難だった。
図(右):ドイツ、ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の三面図:与圧室、排気タービン、大直径プロペラ、高アスペクト比の大きな主翼と高高度飛行のための技術を取り入れた設計になったが、高高度の低気圧とコックピットの気圧差がを解消する与圧室が難題だった。
Junkers Ju 49, an experimental aircraft designed for high altitude flight and cabin pressurization technique testing first flown in 1931. Powered by a Junkers L88 V-12 engine, the experience gained on this aircraft lead to the development of pressurized military aircraft such as the Junkers Ju 86P.
写真は , Go to WeirdWings
r/WeirdWings
by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10
3924091021
引用。
ユンカース(Junkers)Ju 49 の諸元
乗員Crew: 2名
全長Length: 17.21 m (56 ft 5.5 in)
全幅Wingspan: 28.24 m (92 ft 8 in)
主翼面積Wing area: 98.0 m2 (1,055 sq ft)
空虚重量Empty weight: 3,590 kg (7,916 lb)
総重量Gross weight: 4,250 kg (9,371 lb)
発動機Powerplant: 1 ×ユンカース(Junkers)L88a V型12気筒4ストローク(排気量45.8 L)液冷エンジン2段排気ガスタービン過給機(supercharger)付き596 kW (800 hp)
最高速力Maximum speed: 146 km/h (91 mph, 79 kn) at sea level; 220 km/h (136 mph) at 13,000 m (42,700 ft)
実用上昇限度Service ceiling: 13,015 m (42,700 ft)
上昇率Rate of climb: 3.5 m/s (690 ft/min) to 8,000 m (26,250 ft)
ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の特徴は、与圧コックピット操縦室で、高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる点にある。Ju 49は高高度記録を更新したわけではないが、パイロットの技量・体力・勇気に依存する高高度席記録よりも、乗客に快適な与圧キャビン、少なくとも操縦者には安全な与圧コックピットの開発には、世界記録更新よりも、その後の航空界にプラスの影響をもたらしている。
2.ユンカース(Junkers)EF 61 高高度機
写真(右)1937年10月、ドイツ、ユンカース(Junkers)EF 61 V2試作2号機:1937年3月4日初飛行、試作2機のだったが、ユンカースJu49単発機で、初めて装備した与圧コックピットを双発機でも装備した。
Description PictionID:44219567 - Title:Junkers Ef61V-2 October 1937 Pete Bowers collection - Catalog:16_005384 - Filename:16_005384.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --Repository: San Diego Air and Space Museum
Date 25 April 2023
Source Junkers EF 61
Author Ray Wagner Collection
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers EF 61・File:EF 61 44219567.jpg引用。
ユンカース(Junkers)EF 61高高度試作機のEF(Entwicklungsflugzeug)とは、発展型飛行機の意味で、ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度単発実験機 (c/n 3701) で試したドイツ初の与圧式コックピットを双発機の機首に装備し、高高度偵察機あるいは高高度爆撃機の開発に繋げようとした。
写真(右)1937年、ドイツ、ユンカース(Junkers)EF 61試作機の前上面:ガラス窓の付いた機首の与圧コックピットだが、全面ガラスではなく、視界は乏しいのは、1932年に開発したJu49と同じである。
Задержки с готовностью гермокабины заставили начать полеты без нее. Впрочем, самолет ее так и не получил 19 сентября 1937 г. он попал во флаттер и разбился, унеся жизни обоих пилотов. Пока самолет облетывался, испытывалась на давление и гермокабина. В результате выяснилось, что пластик слишком хрупок для остекления большой круглой панели и не сможет выдержать давление на высоте выше 12 000 м. Таким образом задержалась и работа над вторым опытным ЕF-61-V2: его первый полет состоялся только в октябре 1937 г..
写真は, Уголок неба・EF.61引用。
高高度飛行の制約の第一は、高高度では酸素不足・気温の低下で、高山病の高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)ような健康上の症状が出る。そこで、人間が高高度に滞在するには、酸素吸入マスク・暖房機が必要になる。気温は海面上から100メートル上昇するごとに摂氏0.6度低下する。そのため、高度8kmではマイナス30度、高度10kmでは海面上より60度も低下し摂氏マイナス50度にもなる。そこで、高高度では、酸素不足と気温低下に対応することが必要で、そのために航空機の操縦士や同乗者には酸素吸入マスク・電熱服などが開発され、1930年代には実用化されていた。
高高度飛行の制約の第二は、高高度では空気の密度が薄く低気圧になり、発動機駆動に必要な酸素が不足することである。そこで、エンジンに過給機を付けて、高高度で燃料燃焼に必要な空気を送り込むのである。この一つが排気タービン過給機(turbocharger)で、エンジン高温排気の噴出でタービンを回転させ、連動して回転する同軸のコンプレッサーがタービンを回転させた後、排気管から放出される。タービンの回転に連動したコンプレッサーは、回転して吸入した大気を圧縮し、シリンダーへと送り込む。この圧搾空気を使って空気の薄い高高度でシリンダー内の燃焼を継続し、エンジンを駆動するのである。
高高度飛行の制約の第三は、高高度では空気の密度が薄くなり、低気圧になことである。人間が気圧が極端に低い場所に長時間滞在し続けると、高山病のような低気圧下での高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)という健康被害が起こる。たとえ酸素吸入器や暖房機を持参しても、高度27000フィート(8230m)で気圧は海面上の1/3、38000フィート(11582m)で1/5、50000フィート(15240m)で1/10と大きく低下するので、低気圧に晒された人間は、健康を維持できない。
写真(右)1937年、ドイツ、ユンカース(Junkers)EF 61試作機の右前面:ガラス窓の付いた機首の与圧コックピットだが、全面ガラスではなく、視界は乏しいのは、1932年に開発したJu49と同じである。
Новая гермокабина без остекления большой площади и иллюминаторов получила только один прозрачный блистер, сдвинутый к правому борту. Место пилота было приподнято и сдвинуто в самый конец кабины. Над местом пилота размещался металлический купол с двумя плексигласовыми иллюминаторами, обеспечивающими обзор вперед и налево. В конце блистера был установлен пулемет МG-15. За кабиной был оборудован небольшой бомбоотсек на четыре 250 кг бомбы.
写真は, Уголок неба・EF.61引用。
民間機の旅客輸送でも軍用機の作戦飛行でも、高高度を巡行する場合、機内の低気圧で、高地脳浮腫のような高山病と同じ症状が出る。それを防ぐには、海面上に近い1気圧を維持できるようにすればよいが、実は、深海に潜水すると水圧がかかるのと同様に、高高度8000mで気圧が3分の1に低下するなかで、1気圧を保つような気密性を確保することは非常に困難である。3倍もの気圧差があれば、密閉するとしても圧力に耐えられるだけの強度が求められる。
しかし、潜水艇のように厚く頑丈な金属外殻で覆ったコックピット操縦席や客室キャビンは、重量が過大となり、飛行性能を低下させ、高緯度10kmまで上昇することはできなくなってしまう。軽量化が求められる航空機に大きな気圧差に耐えられるだけ堅固な気密室を設置するのは容易ではない。
航空機は、空気抵抗減少とエンジン稼働のバランスを取って、高度10kmでの巡行飛行が効率が良いが、高高度飛行では、滞在する人間に、酸素・気温・気圧が十分に維持されなくてはならないのである。酸素・気温の問題は、酸素吸入マスク、電熱服・暖房機によって1920年代には克服できたが、コックピットの低気圧下での高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)への対処は、最も困難だった。
写真(右)1937年、ドイツ、ユンカース(Junkers)EF 61試作機の機首右面:ガラス窓の付いた機首の与圧コックピットだが、全面ガラスではなく、視界は乏しいのは、1932年に開発したJu49と同じである。
Помимо гермокабины и некоторого изменения мотогондол V2 почти не отличался от своего предшественника. К несчастью, еще до начала высотных полетов второй самолет разбился в декабре 1937 г. Так как первые испытания были разочаровывающими, Технический департамент решил, что потребуется серьезная доводка гермокабин. Нового самолета строить не планировалось. Таким образом работа по первому высотному бомбардировщику с гермокабиной была прекращена..
写真は, Уголок неба・EF.61引用。
ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機は、キャビンが高高度で低気圧となるのを防ぐために、与圧可能な円筒断面・球形の与圧キャビン(pressurized cabin)となっている。外気が低気圧であるために、内部が高気圧だと空気が外部に流出する膨張圧力が加わるが、高高度のなるほど気圧差を維持することが困難になる。そこで、気圧格差が隔壁の局所に集中しないように、与圧キャビン(pressurized cabin)形状を採用した。
写真(右)1937年、ドイツ、ユンカース(Junkers)EF 61試作機の機首右面:ガラス窓の付いた機首の与圧コックピットだが、全面ガラスではなく、視界は乏しいのは、1932年に開発したJu49と同じである。
Хотя ЕF-61 не позволил люфтваффе получить высотный бомбардировщик, недоступный для перехватчиков, он дал немецкой авиапромышленности опыт в работе с гермокабинами тогда, когда в других странах они еще не дошли до практической реализации. Можно только предполагать, каких бы успехов достигли аналогичные работы в Англии, Франции и других странах, имей они подобный опыт..
写真は, Уголок неба・EF.61引用。
ユンカース(Junkers)EF 61高高度偵察機/爆撃機の開発は、第二次大戦の4年前、ドイツ再軍備宣言直後の1935年9月に始まり、 EF 61 V1試作1号機が1937年3月4日に初飛行した。しかし、この機体は、1937年9月19日には墜落、破損してしまった。そこで、ユンカース(Junkers)EF 61 V2試作2号機が1937年末に製造され1937年12月18日に飛行した。しかし、ユンカース(Junkers)EF 61 V2試作2号機も、また墜落してしまった。
こうして、ユンカース(Junkers)EF 61計画は中止になったが、高高度偵察機の研究は、Ju 86爆撃機の改造によって継続されたのである。
写真(右)1937年10月、ドイツ、ユンカース(Junkers)EF 61 V2試作2号機:ガラス窓の付いた機首の与圧コックピットだが、全面ガラスではなく、視界は乏しいのは、1932年に開発したJu49と同じである。
In March 1936 the construction of the first prototype EF61-E1 (serial no. 4931) was started. This prototype was equipped with two DB600D engines as the projected Jumo 211 engines were not ready for production at this time. Problems also arised with the projected Relitt-glazed and pressured nose section, so that the prototype E1 was still equipped with an unglazed nose section. The first flight of the EF61 was performed at Dessau on March, 4th 1937. A second prototype was built during 1937.
写真は, The Hugo Junkers Homepage
by Horst Zoeller, 1996 - 2020,・Junkers EF61引用。
高高度飛行に伴う低気圧に対処するために、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は客室キャビンを密閉して、気圧を低高度と同じように1気圧に近づけることが考えられた。完全な密閉した空間に、追加的に空気を送り込めば、気圧を外気よりも高く維持することが可能になる。これが、与圧室であり、旅客機の客室キャビンを与圧化した与圧客室キャビン(pressurized cabin)が開発されたのである。ボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の与圧された客室キャビンでは快適な空の旅が楽しめたが、これは高高度を飛行することで、空気抵抗を減少させ、燃費を良くするという航続距離延長。高速化という飛行性能を向上する効果もあった。
図(右)1937年、ドイツ、ユンカース(Junkers)EF 61試作機の三面図:試作機V1、V2の2機のみ生産。
За 16 месяцев до прекращения работ по EF-61 гермокабина разработки Бюро особых конструкций под руководством В.А. Чижевского в СССР была установлена на модифицироцанный АНТ-25, полетевший уже под обозначением БОК-1. Только через 18 месяцев после аварии второго ЕF-61 начались работы над подобными машинами в Англии и США. В Великобритании были подготовлены требования В.23/39 для высотного бомбардировщика Веллингтон с гермокабиной. Одновременно Армейский воздушный корпус США начал готовить требования к бомбардировщику с гермокабиной. В результате последних появился Норт Америкэн ХВ-28. Hи один из этих самолетов так и не пошел в бой..
写真は, Уголок неба・EF.61引用。
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)EF 61 高高度機のように10km以上の高高度を飛行する高高度飛行機、すなわち「成層圏航空機」は、操縦士、機関士などの搭乗するコックピットの低気圧を、人間が長時間耐えられるような低高度の気圧にまで高める「与圧室」も設ける必要があった。室内と外気の気圧格差が大きいので、与圧室は隔壁の強度を維持するために繭のような形状にして、気密性と強度の両立を図っている。気圧格差が大きい高空を飛行するには、高高度まで上昇できるように航空機は軽量であり、かつ気圧格差に耐えられるだけの強度が与圧室に求められた。
つまり、高高度を飛ぶ航空機には、深海の高い水圧の中を航行する潜水艇と同じように、呼吸用の酸素吸入マスクだけではだめで、酸素供給が溜まった居住空間を隔壁で覆って密閉する必要があった。他方、潜水艇では、重量の影響をあまり配慮する必要がないが、航空機では、軽量化しないと高高度にまで上昇することができなかった。
ユンカース(Junkers)EF 61高高度機は、キャビンが高高度で機内外気圧格差による膨張圧力に耐えるに、与圧可能な円筒断面・球形の与圧キャビン(pressurized cabin)となっている。外気が低気圧であるために、内部が高気圧だと空気が外部に流出する圧力が加わるが、高高度になるほど気圧差を維持することが困難になる。そこで、ユンカース(Junkers)EF 61は、気圧格差が隔壁の局所に膨張圧力が集中しないように、繭型与圧キャビン(pressurized cabin)形状を採用した。
ユンカース(Junkers)EF 61の諸元
乗員Crew: 2
全長Length: 14.34 m (47 ft 1 in)
全幅Wingspan: 27 m (88 ft 7 in)
主翼面積Wing area: 65 m2 (700 sq ft)
発動機Powerplant: 2 × ダイムラーベンツ(Daimler-Benz)DB 600A V-12液冷12気筒エンジン670 kW (900 hp)
最高速力Maximum speed: 350 km/h (220 mph, 190 kn) /12,400 m (40,682 ft)
航続距離Range: 6,000 km (3,700 mi, 3,200 nmi) (計画)
実用上昇限度Service ceiling: 15,000 m (49,000 ft)
兵装Armament
火器Guns: MG15 機関銃×1挺
爆弾Bombs: 爆弾倉(internal bomb bay); 4 x 250 kg (551 lb) 爆弾
成層圏へ「爆撃路」 : 空の新戦場 : 独、英が狙う”翼の弾道”
掲載誌
東京日日新聞
Vol: 第 6巻
Page: 144
出版年
1941-09-09
神戸大学附属図書館
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100071915
[写真(ドイツのユンカース四九型)あり 省略]
【伯ベルリン本社特電六日発】まだドイツ側が確認していないので噂の範囲を出ないが英空軍は最近米国から購入した四発の重爆撃機で成層圏をやって来るといわれている、あるときなど余り高く飛んで来たのでベルリン近辺の対空監視哨でも発見出来ず爆弾が落ちてから初めて警報を鳴らしたとさえいわれている、とにかく成層圏飛行が研究の範囲を出て実戦にまで用いられて来たことは事実だ
かつてヒマラヤ飛行を敢行したドイツ飛行探検隊のハルトマン氏の研究によると普通の状態では酸素吸入器なしでは成層圏の飛行は出来ぬことが発見されたが八千乃至一万メートルの高度になると酸素吸入管が凍結し酸素管を啣えたまま眠りながら死んでゆくという危険が生ずる、
そこで成層圏飛行となると操縦者のいる部屋全体を圧搾酸素の室とする必要が生じて来る、
ドイツで初めて圧搾酸素の操縦室をつけたユンカース[Junkers]四十九型という飛行機を作ったが米国のロックヒード[Lockheed]会社が作製したSC三十八型という飛行機もやはり非常に良い圧搾酸素の操縦室をもっていてこれらの飛行機だと九千メートルまで昇って実際に活動できるが酸素の補給というほかに防寒の設備が必要なことはいうまでもない、一万五千メートルで零下七十度になる、そこで右の操縦室は二重の壁でつつまれている上に内部は電熱で温度を保つようになっている、
仮に圧搾酸素の操縦室が敵弾に打ち抜かれた場合にどうするかということになると大きな弾丸の場合はしかたがないが小さな弾丸の場合は内部から厚紙でおさえれば室内の高圧のために穴が塞がってしまうというのである、成層圏飛行のための操縦室の問題はこれで解決されたわけだが残るはモーターとプロペラを如何に作るかということだ、これについては未だ問題があるようだ
【ロンドン七日発同盟】英当局発表=六日正午英「空の要塞」機の編隊はオスロを白昼奇襲したが、成層圏を飛行して英本土より約八百キロの距離を往復、同機製作以来の記録を作った
[写真あり 省略](成層圏へ「爆撃路」 : 空の新戦場 : 独、英が狙う”翼の弾道”引用終わり)
3.ユンカース(Junkers)Ju 86 高高度偵察機/爆撃機
写真(右)1936年頃、ドイツ、飛行場で待機するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 試作5号機V-5爆撃機(D-HAOE)の左側面:のちにJu86A−1爆撃機として制式された。機首には旋回機関銃座、胴体下面に引込み式銃座、胴体後上方旋回機関銃座を設けている。
Junkers Ju 86V-5 Prototype of Junkers Ju 86A-1 series
PictionID:44219417 - Title:Junkers Ju 86V-5 Prototype of Junkers Ju 86A-1 series - Catalog:16_005372 - Filename:16_005372.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,
SDASM Archives 引用。
1919年に第一次世界大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約で講和し、常備軍を10万人都とし、戦車、大型火砲、軍用機の保有を禁止され、軍備の大幅縮が行われた。そこで、航空機の開発も、軍用機の開発禁止だけではなく、軍用機に転換が容易な機体の開発も禁じられた。しかし、存続を許された共和国軍は、スウェーデンやスイス、のちにはソ連でも兵器の開発を行った。また、1933年1月にナチ党政権が樹立されると、ヒトラー総統の指導の下で、大規模な軍備拡充が秘かに図られた。
写真(右)1939年9月以前、編隊飛行するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 D 爆撃機:全長17,87 m、全幅22,50 m、全高5,06 m、主翼面積82m2,発動機は、ユンカース ユモ205C (Junkers Jumo 205C) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン(diesel engine)600 PS (447 kW)を装備。総重量8.200 kg、最高速力325 km/h (3000 m)、航続距離1500km、爆弾搭載量 800 kg (16 × SC 50)、上昇限度5900 m
Junkers, Ju.86
Catalog #: 01_00081632
Title: Junkers, Ju.86
Corporation Name: Junkers
Additional Information: Germany
Designation: Ju.86
Tags: Junkers, Ju.86
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives 引用。
1934年、ドイツ航空省は、双発高速旅客輸送機/双発爆撃機の開発をハインケル社とユンカース社に要請した。1935年3月16日にヒトラーによるヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄、すなわちドイツ再軍備宣言のなされる前ではあるが、ヒトラー政権前のワイマール共和国時代から、闇の国防軍が秘かに組織されていたドイツでは、軍用機の秘かな開発は当たり前のことだった。ユンカースJu86 abl爆撃機試作1号機の初飛行は1934年11月4日、ハインケルHe111輸送機/爆撃機の初飛行は1935年2月24日である。
He 111の斬新な楕円翼の優美な形状で「世界最速の輸送機」を目指したのに対して、Ju 86は伝統的なテーパー翼で無骨な形状だった。
図(右)1937年、ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 D 爆撃機の内部構造図:爆弾搭載量800 kg (16発 × SC 50キロ爆弾)。機首は長く、先端に銃座を設けている。全長17,87 m、全幅22,50 m、全高5,06 m、主翼面積82m2,発動機は、ユンカース ユモ205C (Junkers Jumo 205C) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン(diesel engine)600 PS (447 kW)を装備。総重量8.200 kg、最高速力325 km/h (3000 m)、航続距離1500km、爆弾搭載量 800 kg (16 × SC 50)、上昇限度5900 m
Photographer
Unknown
Bomber Junkers Ju 86.- Schnittzeichnung
Title
Flugzeug Junkers Ju 86
Collection
German Federal Archives
Current location
Sammlung Library of Congress (Bild 141)
Accession number
Bild 141-2401
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Bundesarchiv Bild 141-2401, Flugzeug Junkers Ju 86.jpg引用。
写真(右)1937−1938年、スイス、チューリッヒ(Zürich)郊外、デューベンドルフ(Dübendorf)空港、スイス航空(Swissair)ドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 B-1輸送機(登録コード: HB-IXE):1934年11月4日初飛行のJu86は、固定脚、双発の10人乗り民間旅客輸送機輸出仕様が、スイス航空のほか、満州航空でも採用された。Ju86 Zは、BMW 132空冷星型9気筒エンジン装備。コックッピト上方にアンテナマストを立てて、無線アンテナは尾翼まで張って碍子を介して繋いでいる。コックピット後上方には方位測定用の環状ループアンテナを装備。その後ろに、棒状のアンテナ支柱が装着され、無線アンテナを碍子を介して張っている。
Deutsch: JU-86 HB-IXE
LBS_SR01-01137
Photographer:
Swissair
Title:
Junkers Ju-86 B-1, HB-IXE on the ground in Dübendorf
Original title:
JU-86 HB-IXE
Caption:
Dating:
1937-1938
写真 Wikimedia Commons, Category:Junkers Ju 86 File:Junkers Ju-86 B-1, HB-IXE on the ground in Dübendorf (LBS SR01-01137).jpg引用。
ユンカースJu87は、1934年11月に爆撃機仕様の試作1号機V1を初飛行させ、1935年1月には民間輸送機仕様の試作2号機V2を初飛行させた。発動機は、軍用/民間仕様ともにジーメンスSh 22空冷星型9気筒エンジン2基である。
しかし、ユンカースは自ら新型のユンカース液冷6気筒ディーゼルエンジンを開発し、燃費の良さを活かそうと、Ju86の試作機に搭載した。飛行性能は、ハインケルHe 111と比べると劣ったが、量産性に優れていたために、爆撃機仕様と輸送機仕様はともに採用された。
1934年月4日初飛行のユンカース(Junkers)Ju86 輸送機/爆撃機は、1936年7月17日から1939年4月1日まで続いたスペイン市民戦争にドイツ・コンドル軍団(Legion Condor)に配属され参戦した。
しかし、低翼単葉引込み脚のソ連ポリカルポフ I-16 typ10戦闘機の迎撃を受け、低速のユンカース(Junkers)Ju86 では苦戦したであろう。
ユンカース(Junkers)Ju86E型では発動機がユモ205ディーゼルエンジンから信頼性の高いBMW132空冷星型9気筒エンジンに換装された。1938年4月に開発されたJu86G型は、機首を短くして、操縦席からの視界を向上したが、それ以上の改良は行われずに6月にJu86G型を最後に生産は終了した。その後、与圧コックピット(pressurized cockpit)を備えた高高度偵察機Ju86P型とJu86R型では、再び高空性能の良いユモ205ディーゼルエンジンを装備している。
ユンカースJu 86A:A-0は先行生産型で13機生産、A-1が初期爆撃型量産機
Ju 86B-0 先行生産型で7機生産された輸送機型
Ju 86C-1 6機生産されたドイツルフトハンザ航空(Deutsche Luft Hansa)向けの輸送機で、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン装備
Ju 86D-1 1936年勃発のスペイン内戦にドイツ・コンドル軍団(Legion Condor)として派兵された爆撃型
Ju 86E ドイツ空軍向けBMW 132F空冷星型9気筒エンジン装備の爆撃機。南アフリカ・スウェーデン・ハンガリー・チリ・オーストリア・ポルトガル・ウルグアイ・ボリビア・満州にも輸出された。
Ju 86E-2 BMW 132N空冷星型9気筒エンジン装備の爆撃機
Ju 86G 機首を球形ガラス風防としたBMW 132空冷星型9気筒エンジン装備の爆撃機
Ju 86P-1 排気タービン過給機(turbocharger)付きのユンカース ユモ207 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン搭載の高高度偵察機。生産機数30機程度。
Ju 86R P型改良型。全幅 32 m に延長、発動機を 排気タービン過給機(turbocharger)付きJumo 207 B-3950hp (698 kW)に換装した高高度偵察機・高高度爆撃機。生産機数20機程度。R-1はカメラ2台を搭載、R-2はカメラをやめて爆弾1tを外装搭載できるようにした爆撃型。
写真(右)1939年9月前後、飛行中のドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 K-1 爆撃機:機首には旋回機関銃座を設けているが、後には、操縦席からの視界向上のために、機首を短くガラス風防で覆う形状に改変された。主輪は引込み式で、外側に格納されるが、これはBf109やスピットファイアと同じ方式である。
Junkers, Ju.86
Catalog #: 01_00081632
Title: Junkers, Ju.86
Corporation Name: Junkers
Additional Information: Germany
Designation: Ju.86
Tags: Junkers, Ju.86
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives 引用。
ドイツがスウェーデン空軍、ハンガリー空軍など外国に輸出したJu86は、輸出仕様として外国でも容易に入手できる発動機として、スウェーデン空軍ユンカース(Junkers)Ju86 K-1 爆撃機発動機は、ドイツのBMW 132空冷星型9気筒エンジンではなく、プラット&ホイットニー R-1690 ホーネット(Pratt & Whitney R-1690 Hornet)S1E-G空冷星型9気筒エンジン(排気量27.7L)760 hpあるいはブリストル マーキュリー(Bristol Mercury)空冷9気筒エンジン (排気量25 L) 745 hp 離を装備した。
ユンカース社が開発したユンカース(Junkers)Ju86 E 爆撃機は、1939年9月に勃発した第二次世界大戦でも初期にドイツ空軍双発爆撃機として実戦配備されていた。発動機は、従来のユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンの信頼性が不足していたために、Ju52輸送機にも搭載されてドイツで普及し整備しやすかった信頼性の高いBMW132空冷星形エンジンに換装されている。主翼は、角ばったテーパー翼で初期型と同じである。
写真(右)1937−1938年、ドイツ、ドイツ空軍向けユンカース(Junkers)Ju86 G 爆撃機:機首を短くし先端に球形ガラス風防を設けた。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)をBMW132空冷星型9気筒エンジンに換装した。爆弾400kg搭載で航続距離650km。1938年6月から1939 年4月までに引き渡された。40機が全幅を25.60 mに延長したP型偵察機に改造された。
Kampfflugzeug Junkers Ju 86 mit Vollsichtkanzel auf Flugplatz
Title
Flugzeug Junkers Ju 86
Collection
German Federal Archives
Current location
Sammlung Library of Congress (Bild 141)
Accession number
Bild 141-2402
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Bundesarchiv Bild 141-2402, Flugzeug Junkers Ju 86.jpg引用。
ユンカース(Junkers)Ju86 G-1爆撃機の諸元
乗員: 4名
全長: 17.20 m
全幅: 22.60 m
全高: 4.70 m
全備重量: 8,230 kg
発動機: BMW 132N 空冷星形9気筒エンジン860hp×2
最大速度: 360 km/h
航続距離: 1,400 km
武装
7.92 mmMG15機関銃 × 3
爆弾 1,000 kg
写真(右)1940年以降、ドイツ、ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86P高高度偵察機:高高度12000mでの偵察飛行用に、全幅25.6mの高アスペクト比の主翼に改良され、排気タービン過給器を装備したうえで、コックピット操縦室の気圧低下が僅かな与圧室を設けた。
Catalog #: 01_00081627
Title: Junkers, Ju.86
Corporation Name: Junkers
Additional Information: Germany
Designation: Ju.86
Tags: Junkers, Ju.86
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr., San Diego Air and Space Museum 引用。
成層圏並み高高度飛行が可能なドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86P/Rの発動機は、BMW132空冷星型9気筒エンジンではなく、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)に再度換装され、ガラス張り与圧式コックピットを装備して、高高度12000mでの偵察飛行が可能だった。ただし、Ju86P/R高高度偵察機は、無武装で仕様尾爆弾400kg搭載で航続距離650km。1938年6月から1939 年4月までに引き渡された。40機が全幅を25.60 mに延長したP型偵察機に改造された。
写真(右)1940年、ドイツ、ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 P-1 高高度偵察機(工場製造番号c/n 0439)の機首右側:ドイツ空軍司令部OKL(Oberkommando der Luftwaffe)第2偵察飛行隊所属。G型を引き継いだので、短い機種で先端に球形ガラス風防がある。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)を改良し排気ガービン過給機を装置したユンカース ユモ 207 (Junkers Jumo 207) 2ストローク対向12ピストン直列6気筒液冷ディーゼルエンジン。
A German Junkers Ju 86P-1 high altitude reconnaissance plane.
Date circa 1940
Source Royal Air Force Battle of Britain campaign diaries photo
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Junkers Ju 86P high altitude reconnaissance plane c1940.jpg引用。
また、与圧操縦室を持つユンカース(Junkers)Ju86P高高度偵察機は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」発動前の、友好国ソビエト連邦の違法偵察にも投入された、1942年8月、エジプト上空1万4000mで偵察飛行任務にあたっていたユンカース(Junkers)Ju86 PがスピットファイアMK.Vに撃墜されている。1943年に高高度偵察任務から撤退。
図(右)、ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 P 高高度偵察機の三面図爆撃機:機首は短く、与圧式コックピットの操縦席となっているが、未密性を高めるために乗員は2名のみ。長く、先細の主翼を備えて、高高度性能を改善している。与圧室化の困難と軽量化のために防御用火器は備えていない。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)を装備。イギリス軍作成の敵機識別表より転載。
Junkers Ju 86 P, from Recognition Guide published by Britsh Army Council 1945
own scan
1937
Source
Flightglobal 11 November 1937, p. 466 - 3086.html
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Bundesarchiv Bild 141-2402, Flugzeug Junkers Ju 86.jpg引用。
ドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 B 双発輸送機の発動機は、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン(diesel engine)600 PS (441 kW)で、ガソリンエンジンよりも重かったが、燃費が良かった。ただし、成層圏飛行のような高度12kmもの高空には上昇できない。
機首を短くし先端に球形ガラス風防を設けたユンカースJu86 G爆撃機を原型に、1939年9月の第二次大戦勃発直後の1939年11月に、与圧コックピット操縦室(pressurized cabin)を備えたJu86 PV1高高度偵察機は、設計が完了し、1940年2月に飛行審査が始まった。そして、さらにJu86 PV2とPV3の2基の試作機が製造され、1940年3月からテストに加わった。その後、Ju86 Pの全幅を延長し、プロペラを3翅から4翅に増やした改良型Ju86Rは、1942年に生産されている。
ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンを搭載したのは、ユンカース(Junkers)Ju 86輸送機/爆撃機のほかは、ブロームウントフォス(Blohm & Voss)BV 138三発飛行艇、ブロームウントフォス(Blohm & Voss)BV 222六発飛行艇など、長距離低速機に限られた。
ユンカースCategory: Junkers Ju 86 R諸元
全長: 16.40 m
全幅: 32.00 m
全高: 4.70 m
翼面積: 97.06 m2
空虚重量: 6,700 kg
全備重量: 11,530 kg
燃料容積: 1,937 L
エンジン: 排気タービン(ターボ過給機)付のユンカース ユモ207 (Junkers Jumo 207) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン900 PS (662 kW) 2基
プロペラ: 4翅定速回転プロペラ
最大速度: 420 km/h/9,000m
実用上昇限度: 14,400 m
航続距離: 1,570 km
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86P高高度偵察機は、1934年11月4日に初飛行したJu86輸送機/爆撃機を原型に、主翼を延長し、操縦席を2人乗り与圧操縦室コックピットとし、Jumo205ディーゼルエンジンに排気タービン(ターボ過給機)で圧縮空気を送って高高度でも燃焼可能とした特殊仕様を装備した。これがJu86Pde1940年1月に開発され、高高度度1万2000mからイギリス本土を1940年から1942年9月12日、スーパーマリン スピットファイア(Spitfire)Mk IXによる高高度迎撃が実施されるまで使用された。
仏国陸相声明 : "若し戦争勃発せば"強力な旧同盟側陸軍 : ドイツの積極的戦備
大阪毎日新聞
Vol: 第 36巻
Page: 109
出版年
1935-03-23
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100346287
パリ本社特電【二十一日発】仏国陸相モーラン将軍は二十一日下院国防委員会においてもし戦争が勃発した場合仏国を中心とする旧同盟諸国が動員し得る陸軍兵力に言及し左のごとく声明した
仏国は英国の陸軍にあまり期待出来ないであろうがしかし援助は主として空軍である、露国は兵員と軍需品で援助してくれるだろう、またイタリーと仏国との友好関係に鑑みイタリーはアルプスから北方へ軍隊を送るであろう、仏国はベルギーが国境防備施設を完全にするよう目下激励している、ドイツは一日十五台の飛行機を製作しつつあるがこの調子では今春恐らく千五百台から成る飛行隊を持つに至るだろう、
ドイツの各工場は大部分機関銃や小銃の製造に当っており、どの工場も一日六時間ずつの四交代制(昼夜兼行)を実施して仕事を急ぎつつある、なおドイツはガソリンの巨大な貯蔵所を建設し、代用ガソリンの生産を拡張し、また戦時の糧食としてポルトガルから鰯の缶詰ストックを全部買い、今後の製品も全部買う契約を結んでいる、ドイツでは間諜罪が最も重く罰せられるが、処刑は最近殆ど毎週行われている兵制度の必要を力説して次のごとく言明した
全般的な徴兵制を採用しない以上オーストリヤは国防の安全、妥当なる自衛を確保出来ない、徴兵制はすでに国民総意の圧倒的支持を受けており、即時実施を待つばかりだ、かつ国防上からばかりでなく青年の訓練、品性の向上にも徴兵制は絶対必要である(
仏国陸相声明 : "若し戦争勃発せば"強力な旧同盟側陸軍 : ドイツの積極的戦備引用終わり)
軍用機の現在及将来 : 速度、高度とも驚異的進歩 : 成層圏飛行も期待
満州日日新聞
満州日報
Vol: 第 43巻
Page: 137
出版年
1937-07-02
神戸大学附属図書館
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100346522
欧洲大戦当時の飛行機は、その性能未だ完備の域に達せず時速一五〇粁、航続時間四、五時間、爆弾搭載量僅かに三〇〇瓩程度であって、その航法及び爆撃法も甚だ幼稚なものであったが、しかもドイツ爆撃機の如きはしばしばロンドンを空襲し、その与えたる被害は左程大でなかったにも拘らず、英国市民の心胆を寒からしめたのは周知の事実であるしかるに大戦後列強は全力を挙げて航空技術の進歩発達に没頭し、毎年性能優秀なる飛行機の製作研究を行い飛行速度、上昇高度、無着陸航続時間等の世界的記録を自国飛行機により獲得せんと努めたので、飛行機の性能は真に文字通り日進月歩の勢いをもって改善された
軍用機の性能中最も重要なものは飛行速度航続時間(距離)爆弾搭載量の三つであって、特に飛行速度は極めて重要ものであるから列強は競ってこれが進歩を図っている、今軍用機の性能の進歩の跡を見れば次の通りである
一、爆撃機の飛行速度は、昭和五年(一九三〇年)より著しく増加し、特に昭和八年(一九三三年)以後には顕著なる発達を示し、今や軽爆撃機は時速平均四五〇粁、最大五二〇粁、重爆撃機は時速平均四一〇粁、最大四七五粁に達し、欧洲大戦末期に比し、時速三、四倍の増加であって、本年度末においては五〇〇—五五〇粁に達するものと考えられる
二、戦闘(駆逐)機の飛行速度は昭和八年(一九三三年)まで概ね同比率で増加しているが、それ以後急速に比率を増大し、今や時速平均四九五粁、最大五二〇粁に達し、欧洲大戦当時に比し時速二、三倍に増加した、これを爆撃機に比すればその増加率は低いが本年度においては五七五粁に達するものと予想さる
三、戦闘機と軽爆撃機との飛行速度の差は昭和五、六年ごろ最大となっていたが、爾後逓減し今や両者の平均時速差は僅か四、五粁であって最大時速を比較すれば、優劣なき現象を呈している
四、戦闘機と重爆撃機との飛行速度の差は、大正九年—昭和四年(一九二〇年—一九二九年)は概ね一定していたが、それ以後著しく減少し、昭和八年(一九三三年)以後急速に逓減して今や両者の平均時速差は約九〇粁であって、最大時速差は僅か二〇粁にすぎぬという状況である
将来の航空機はどうなるか、という問題には現在の三つの傾向がある、すなわちその一つは漸時大型となりつつある、その二は益々高空を飛行するようになり、成層圏飛行の実現が期待される、その三は速度が著しく大となりつつある、更に現在の航空原理(翼と発動機とプロペラの三者による飛行)の範囲を脱した新規な考案による航空機の出現ということも相当期待されている、先ずどの位の大型機が出現するかというと一九四〇年ごろには全備重量三十五万封度、総馬力二万四千馬力という巨大な飛行艇が出現するだろうといわれている、現に米国ダグラス航空会社の設計にかかる大型機は時速四八〇粁の快速でニューヨークからリヴァプールまで僅かに十一時間で大西洋を翔破する性能を有するといわれている
成層圏或はそれに近い高空を飛行することによって飛行機は平均時速五百粁を得ることは困難でなく、東京—サンフランシスコ間の太平洋は十二時間で横断連絡され、ニューヨーク、ロンドン間の如きは僅かに八時間で連絡される、更にベルリン—東京間十五時間空輸も話題に上っている程である、なお明日の航空機として多くの期待をかけられているものにロケットがあるがここでは省略する(軍用機の現在及将来 : 速度、高度とも驚異的進歩 : 成層圏飛行も期待 満州日日新聞
満州日報
1937-07-02引用終わり)
6.与圧キャビンのロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度実験機
写真(右)1937年5月−1941年前半、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機:1934年2月23日初飛行のロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、主翼を延長し、操縦席を2人乗り与圧コックピットとし、排気タービン(ターボ過給機)を装備した高高度試作機で、1937年5月にライト・フィールドでアメリカ陸軍航空隊に引き渡され、アメリカ軍機の国籍マークを付けて、8月5日に初飛行をした。発動機は原型エレクトラのプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-985-13ワスプジュニア(Wasp Junior)空冷星型9気筒エンジン(排気量16L)450 hp (336 kW)を排気タービン付きの550 hp (410 kW)XR-1340-43に換装している。与圧キャビンにはターボ過給機のコンプレッサーで空気が吸入されており、飛行高度30,000 ft (9,144 m)でも与圧キャビンでは、高度12,000 ft (3,658 m)の気圧が維持できた。生産は試作1機のみ。
English: The Lockheed XC-35, the first American aircraft with a pressurized cabin. (U.S. Air Force photo)
Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet.
Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35.jpg引用。
アメリカ陸軍航空隊は、ロッキード社と契約して、高高度25,000 ft (7,620 m)を飛行しても、搭乗員が低気圧に苦しめられないで2時間の飛行可能で、航続時間10時間以上の高高度性能をもつ実験機を11万2,197ドルで発注した。これが、ロッキード(Lockheed )XC-35で、高高度飛行の低気圧でも滞在可能な与圧キャビンの実用機テストということである。
ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機は、1934年2月23日初飛行のロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、円形断面、繭型の与圧コックピット(pressurized cockpit)を設けた。そのため、飛行高度30,000 ft (9,144 m)でも、キャビン内部の気圧は高度12,000 ft (3,658 m)の水準に維持することができた。
写真(右)1937年5月−1941年前半、、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード(Lockheed)XC-35高高度試作機:
Bilstein_00668 Lockheed XC-35 1937 (USAF W-2712)
Image from the Roger Belstein Collection--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はWikimedia Commons,San Diego Air and Space Museum 引用。
1934年2月23日初飛行のロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、主翼を延長し、4人乗り与圧コックピット(pressurized cockpit)とし、排気タービン(ターボ過給機)を装備したロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機で、1937年5月、オハイオ州ライト・フィールド(Wright Field)でアメリカ陸軍航空隊に引き渡され、アメリカ軍機の国籍マークを付けて、8月5日に高高度飛行の審査を受けた。ロッキード(Lockheed )XC-35の発動機は原型エレクトラの450 hp (336 kW)プラット・アンド・ホイットニー R-985-13を排気タービン付きの550 hp (410 kW)プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)XR-1340-43 ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジンに換装している。
ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機の与圧キャビンにはプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)XR-1340-43 ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジン(排気量22 L) 550 hp (410 kW) のターボ過給機のコンプレッサーで空気が吸入されており、飛行高度30,000 ft (9,144 m)の低気圧の大気中でも与圧コックピット(pressurized cockpit)では、高度12,000 ft (3,658 m)の気圧が維持できた。生産は試作1機のみ。
写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)与圧コックピットの前部の操縦席:
English: Lockheed XC-35 interior view, looking forward at cockpit with engineer station at left. (U.S. Air Force photo)
Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media.
Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 interior forward.jpg引用。
ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)の諸元
最大乗員Crew: 6名
全長Length: 38 ft 7 in (11.76 m)
全幅Wingspan: 55 ft (17 m)
全高Height: 10 ft 1 in (3.07 m)
翼面積Wing area: 458.5 sq ft (42.60 m2)
空虚重量Empty weight: 7,940 lb (3,602 kg)
総重量Gross weight: 10,500 lb (4,763 kg)
発動機Powerplant: 2 × Pratt & Whitney R-1340-43 9-cylinder turbo-supercharged air-cooled radial piston engine2, 550 hp (410 kW) each
プロペラPropellers: 2-翅可変ピッチ(variable-pitch)プロペラ
ロッキード(Lockheed )XC-35試作機の諸元
最高速力Maximum speed: 236 mph (380 km/h, 205 kn) at 20,000 ft (6,096 m)
巡行速力Cruise speed: 214 mph (344 km/h, 186 kn)
実用上昇限度Service ceiling: 31,500 ft (9,600 m)
上昇率Rate of climb: 1,125 ft/min (5.72 m/s)
翼面荷重Wing loading: 22.9 lb/sq ft (112 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.105 hp/lb (0.173 kW/kg)
7.与圧客室キャビン装備のボーイング 307(Boeing Model 307)
シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、与圧客室キャビン(pressurized cabin)を備えた初めての旅客機で1938年12月31日に初飛行した。エンジン4基を装備した大型四発旅客機は、1930年代末に実用化されたが、高高度飛行の時に低気圧、飛行機同乗者が気分が悪くなっても酸素マスクくらいしか対処方法がなかった。しかし、ボーイング 307(Boeing Model 307)は、高高度飛行でも与圧客室キャビン(pressurized cabin)の室内気圧は、低高度の1気圧に近い状態で維持することができたのである。
写真(右)1939−1940年頃、アメリカ、ワシントン州シアトル、ボーイング飛行機工場で生産中のボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner):胴体が、移動式台車の乗せられている。奥の機体は、主翼が接続されているようだ。与圧式客室キャビンのガラス窓の配置と形状が胴体の左右で、あるいは機体によって異なっていることが確認できる。
Boeing : 307 : Stratoliner
Catalog #: 00061652
Manufacturer: Boeing
Designation: 307
Official Nickname: Stratoliner
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真はFlicker, SDASM Archives 引用。
ボーイング307(Boeing Model 307)試作1号機は、登録コード NX19901を与えられたが、1939年3月18日にでも飛行をした際に墜落事故を起こしてしまった。18日1257時にワシントン州シアトル(Seattle)のボーイング飛行場を搭乗員10人で離陸し高度11,000 フィート (3,400 m)にまで上昇し、飛行安定性のテストにかかった。しかし、その時に失速し、スピン状態に入った。ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)のパイロットは、数分間、姿勢を元通りにしようとしたが、降下姿勢に入ったままだった。機体の再上昇を試みつつ、地面に激突した。左主翼外側がはじけ、胴体は地面にのめり込んだ。1317時のことだった。ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)搭乗員10名全員が死亡、その中にはTWA航空の幹部、KLMオランダ航空のエンジニア、オランダ航空省の幹部、ボーイングのテストパイロットなど航空会社幹部も含まれる。
シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、1938年に世界大戦でKLMオランダ航空の運航はかなわなかったが、ヒューズのTWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空では、低気圧の高空でも快適に過ごせる与圧客室キャビン(pressurized cabin)を備えた、大型四発高速旅客機として採用された。
ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の主翼、発動機、尾部は、先に開発が進んでいたボーイング(Boeing)B-17C 爆撃機のもの流用している。幅広い太い胴体は、与圧客室キャビン(pressurized cabin)と寝台を備えるためでリクライニングシートも装備している。
空の旅客輸送の高速化と並んで、快適さ、豪華さがを求めたのが、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)である。
20000フィートの高度飛行では、気温も気圧が低下して、飛行機同乗者は身体的な困難に直面した。そこで、酸素マスクや電熱服が高高度飛行では不可欠とされたのである。旅客機の場合、電熱暖房で室温をためめても、外気の気圧が低ければ、暖気は外に流出してしまう。さらに、気圧の低下は、同乗者に高山病のように身体障害を引き起こした。
しかし、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、客室キャビンは与圧化され、高度6100mでも低高度2400mの気圧が維持されていた。高空での寒さは、電熱ヒーターや温風器で対処できた。しかし、低気圧には与圧客室キャビン(pressurized cabin)でないと対応しきれないのである。1964年のアメリカの連邦航空コードでは、旅客機運航には、§ 25.841 Pressurized cabins.で与圧キャビンの機能と装備が要求されている。
第二次世界大戦勃発後でも、1940年までは、アメリカの民間航空はハワード・ヒューズが社主を務めるTWA航空のように、アメリカ大陸横断航路に大型旅客機を就役させていた。しかし、1941年12月にアメリカが参戦してからは、戦時中の民間旅客航空は徴用され、軍用輸送にとってかわった。しかし、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)登録コードNC19904は、TWA航空社主ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の個人専用機としてボーイング社から購入されている。
写真(右)1938年末‐1939年3月18日以前、アメリカ西岸、ワシントン州シアトル、飛行場滑走路のハワード・ヒューズのボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)左側:エンジンナセルカバーを外していて、排気タービン過給機のダクトが伸びているのが明瞭にわかる。左主翼の前縁に離着陸用の照明ランプが付いている。
Photograph of Howard Hughes's plane, circa late 1930s
Date
1937 to 1939
Description
A view of the side of Howard Hughes's Boeing Stratoliner.
写真は University of Nevada, Las Vegas. Libraries
Digital ID
whh001227
Physical Identifier
0373_0942引用。
写真(右)1938年末‐1939年3月18日以前、アメリカ西岸、ワシントン州シアトル、飛行場飛行機格納庫前エプロン、ハワード・ヒューズのボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)右前方:エンジンを駆動し3翅プロペラが回転している。胴体中央に無線アンテナ用のアンテナマストが立っている、
Photograph of Howard Hughes's plane, circa late 1930s
1935 to 1939
Description
A view of the side of Howard Hughes' Boeing Stratoliner.
写真は University of Nevada, Las Vegas. Libraries
Digital ID
whh001236
Physical Identifier
0373_0951引用。
ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の生産機数は10機で、試作1号機は、事故で喪失、5機がTWA航空に、3機がPAA航空(Pan American Airways)に引き渡され、さらにTWA航空社主のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が自分専用にボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コードNC19904)1機を購入している。
[ダグラス]DC-6Bでは左右の 外方発動 機から伝動軸を介してナセル内に与圧 のための空気過給器がある。ナセル内方の前縁部空気取口から入った空気は過給器で加圧され,導管を通って胴体に入り,客室部から前方の胴体(胴体後部を除く)に最大5.46psiの差 圧まで与圧する。すなわち,飛行高度25,000ft.において機内を8,000ft.に相当する気圧に保つことがで きる。その時の送風最は70°Fの空 気を50lb/minで 供給でき,機内空気は3minで更新される割合である。胴体に送り込まれた空気は機内を循環して換気し,胴体下(与圧調整室)右側の与圧調整孔(pressure control valve)から排出される。この排出孔には蝶弁があってその開度を自動的に制御することに よって与圧 が保たれる。与圧の度合をきめるものは過給器よりもむしろこの排出孔の蝶弁の開度によるのである。(「最近の航空機装備(2)」井上 真六引用)
ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、アメリカで開発された与圧客室キャビンの高速大型四発旅客機である。1938年12月31日に初飛行したたが、その前の1939年初めには、KLMオランダ航空が導入を決めていた。しかし、1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発し、オランダは、民間機ではなく、軍用機の導入を図ることとなり、
ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)購入はキャンセルされた。
既に第二次世界大戦が、1939年9月1日に勃発していたが、まだ中立国で参戦していなかったアメリカでは、1940年3月にパンアメリカン航空が
ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)をアメリカ大陸横断路線、南米航路に導入した。ヒューズのTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)も採用したが、1941年12月のアメリカの第二次世界大戦の参戦を契機に、資源・労力のかかる大型民間機の生産は中止された。生産機数は僅か10機のみに終わった。
1940年にはTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)の大陸横断航路として、ニューヨーク(New York)、ロスアンゼルス西部バーバンク(Burbank)、ミズーリ州カンザスシティ(Kansas City)、イリノイ州シカゴ(Chicago)を結ぶ路線に就役させている。料金は、ニューヨークからバーバンクは149.95ドル、カンザスシティは66.45ドル、シカゴは44.95ドルで逆も東西回りとも同一料金だった。他方、PAAパンナム航空(Pan American Airways:"Pan Am")は、3機のボーシング307旅客機(登録コードNC19902、NC19910、NC19903)を購入した。
写真(右)1947年頃、アメリカ、イリノイ州シカゴ空港、舗装滑走路上のTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)ボーイング307(Boeing Model 307)と赤い貨物・郵便運搬車:赤い郵便運搬車は、機首にある郵便収納庫から郵便物を出し入れしている。貨物室や郵便収納庫は、与圧の必要はないので、開閉扉を設けやすい。
IMLS Digital Collections & Content
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TWA Stratoliner Chicago Airport
Description: TWA Stratoliner refuels at Chgo airport
Creator: Cushman, Charles Weever, 1896-1972
.写真はSmugMug+Flickr, IMLS Digital Collections & Content Chicagoland (Charles W. Cushman Collection)引用。
1938年にシアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、KLMオランダ航空が採用したものの、1939年9月に勃発した世界大戦で就役できずに終わった。しかし、TWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)社主のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、ボーイング社の技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen)のボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の与圧客室キャビン(pressurized cabin)を備えた画期的な性能を評価し、快適な長距離高速空輸の拡張のために、ボーシング307旅客機を採用、当初生産された5機を購入している。他方、PAAパンナム(Pan American Airways)航空は、3機のボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コードNC19910、NC19903)を購入したにとどまった。
ヒューズは、アメリア・イヤハートと同じく飛行機とその操縦を愛する飛行家だった。しかし、アメリアのような冒険飛行家・パイオニアではなかった。飛行機の操縦はできたが、多分、飛行時間が少なかったために、その熟練技術はアメリアほどではなかったであったであろう。ヒューズは、飛行機の操縦よりも、新型機を開発して、空の夢をかなえる、そしてその夢は、ボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)のような与圧客室キャビン(pressurized cabin)付き輸送飛行機による安全で高速・快適な空の旅というグローバルな国際旅客輸送、大空のビジネスの実現することに賭けていたのである。
1940年代、TWA航空旅客輸送機の機体には、トランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー(Transcontinental & Western Air)と記入していた。しかし、第二次大戦後、それをTWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)と書き換えるようになった。TWA(Trans World Airlines)が、1950年に正式な社名になったが、TWA航空の機体は、正規の社名変更前に、宣伝的な機体の塗装に、TWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)を先んじて取り入れていたようだ。
図(右)ボーイング307(Boeing Model 307)の三面図:
English: Catalog #: 00061669
Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Notes:
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
Date 26 September 2008, 12:50:44
Source www.flickr.com
Author SDASM Archives
.写真はWikimedia Commons, Category:Boeing 307 File:Boeing 307 Stratoliner 3 view drawing.jpg引用。
ボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の諸元
乗員Crew: 5名, including pilot, co-pilot, flight engineer and 2 flight attendants
乗客Capacity: 昼間 33座席, 夜間 25名(ベット16台、リクライニングシート9台)
全長Length: 74 ft 4 in (22.66 m)
全幅Wingspan: 107 ft 3 in (32.69 m)
全高Height: 20 ft 9 in (6.32 m) at rudder
降着装置間隔Undercarriage track: 295 in (7.5 m)
翼面積Wing area: 1,486 sq ft (138.1 m2)
空虚重量Empty weight: 30,000 lb (13,608 kg) to 31,200 lb (14,200 kg)
総重量Gross weight: 45,000 lb (20,412 kg)
最大搭載量Maximum load: 15,000 lb (6,800 kg), with 30 passengers, 650 lbs of baggage and 1,275 US gal (4,830 l; 1,062 imp gal)/5,750 lb (2,610 kg) of fuel
燃料搭載量Fuel capacity: 1,275 US gal (4,830 l; 1,062 imp gal)通常の 主翼燃料タンク利用. 過重燃料搭載(Overload)1,800 US gal (6,800 l; 1,500 imp gal)
燃費Fuel consumption: 200 US gal (760 l; 170 imp gal)/h
潤滑油Oil capacity: 100–180 US gal (380–680 l; 83–150 imp gal)
発動機Powerplant: 4 × ライト(Wright)GR-1820-G105A サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン、二速過給機(superchargers)付き, 1,100 hp (820 kW) /2400 rpm/海面上, 900 hp (670 kW)/ 2300 rpm /17,300 ft (5,300 m)
プロペラPropellers: 3-翅(bladed)ハミルトンスタンダード(Hamilton Standard)恒速回転,直径 11 ft 6 in (3.51 m)
性能Performance
最高速力Maximum speed: 250 mph (400 km/h, 220 kn) / 16,200 ft (4,900 m)
巡航速力Cruise speed: 222 mph (357 km/h, 193 kn) / 19,000 ft (5,800 m) / 75% power
失速Minimum control speed: 70 mph (110 km/h, 61 kn) フラップ作動時
離陸Takeofff run: 1,800 ft (550 m)
着陸Landing run: 2,050 ft (620 m)
航続距離Range: 1,300 mi (2,100 km, 1,100 nmi)/ 19,000 ft (5,800 m) & 75% power
実用上昇限度Service ceiling: 23,800 ft (7,300 m) , 18,000 ft (5,500 m) /エンジン3基稼働
巡航高度Cruising altitude: 15,000–20,000 ft (4,600–6,100 m)
上昇限度Absolute ceiling: 25,200 ft (7,700 m)
上昇率Rate of climb: 1,200 ft/min (6.1 m/s) 海面上
翼面荷重Wing loading: 30 lb/sq ft (150 kg/m2)
出力重量比Power loading: 12.5 lb/hp (7.6 kg/kW) 離陸時, 10.25 lb/hp (6.23 kg/kW) 巡航時
アメリカ、スミソニアン協会の航空宇宙博物館スティーブン F. ウドバー ヘイジー センター(Steven F. Udvar-Hazy Center)の所蔵するボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、元はパンアメリカン航空(Pan American Airways)のボーイング S-307(登録コード:NC19903、工場製造番号:2003)"Clipper Flying Cloud"である。
スミソニアン協会の航空宇宙博物館所蔵するボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コード: NC19903)は、元パンアメリカン航空(Airnautic)で"Clipper Flying Cloud"と命名されて運航していたが、1972年にスミソニアン協会が購入し、復元して2001年からスティーブン F. ウドバー ヘイジー センター(Steven F. Udvar-Hazy Center)で公開されている。
ボーイング307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の諸元
全幅Wingspan: 32.7 m (107 ft 3 in)
全長Length: 22.7 m (74 ft 4 in)
全高Height: 6.3 m (20 ft 9 in)
空虚重量Weight, empty: 13,749 kg (30,310 lb)
総重量Weight, gross: 19,051 kg (42,000 lb)
最高速力Top speed: 396 km/h (246 mph)
写真(右)2016年7月、アメリカ、スミソニアン協会の航空宇宙博物館スティーブン F. ウドバー ヘイジー センター(Steven F. Udvar-Hazy Center)の所蔵する元パンアメリカン航空(Airnautic)ボーイング307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コード: NC19903)の左上面:Boeing 307 Stratoliner "Clipper Flying Cloud"
Date 8 July 2016, 19:57
Source Boeing 307 Stratoliner "Clipper Flying Cloud"
Author Clemens Vasters from Viersen, Germany, Germany
写真はWikimedia Commons, Category:Boeing 307 at Steven F. Udvar-Hazy Center File:Boeing 307 Stratoliner "Clipper Flying Cloud" (28203533132).jpg引用。
アメリカのボーイング307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コード: NC19903)は、ボーイングB-17高高度爆撃機と同じく排気タービンを搭載した上に、B-17では採用しなかった操縦室・客室の与圧構造を導入している。
ライト R-1820-97 サイクロン 9(Wright R-1820-97 Cyclone)空冷星型9気筒エンジンの諸元
ボア 6.125in (155.58mm)
ストローク 6.875in (174.63mm)
全長 48.23in (1,225.04mm)
直径 55.10in (1,399.54mm)
排気量 29.87L (1,823in³)
乾燥重量 1,310lbs (594kg)
過給機 B-22排気タービン
(遠心式スーパーチャージャー1段2速)
離昇出力 1,200Bhp/895kW/2,500rpm/S.L.
最大出力 1,380Bhp/1,029kW/2,500rpm/26,700ft
1,200Bhp/895kW/2,500rpm/32,700ft
ライト R-1820-97 サイクロン 9(Wright R-1820-97 Cyclone)空冷星型9気筒エンジンは、1930年代から1940年代までに合計4万7,475台も量産されたベストセラーである。このライト R-1820エンジンのシリンダーは、単列9気筒であるが、二重星型14気筒としたライト(Wight)R-2600 サイクロン 14、二重星型18気筒としたライト(Wight)R-3350 サイクロン 18へと発展し、出力が向上していった。
8.与圧客室キャビンのロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)
写真(右)1947年5月3日頃 、アメリカ、ワシントンDC( Washington D.C.)、滑走路でTWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)ロッキード(Lockheed)069 コンステレーション(Constellation)旅客機の左昇降口のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行:ロサンゼルス=ニューヨーク間の大陸横断の最速記録が7時間27分だった1944年4月17日当時、コンステレーションは乗客を乗せて、8時間38分で大陸を横断する高速輸送機ぶりを見せた。
Creator: Paul Schmierer and Associates Photography
Date
1947
Description
A view of Howard Hughes conversing with an unidentified group of people in Calfornia.University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID
whh001519
Physical Identifier
0373_1226
引用。
1939年に、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は自分が社主を務めるトランス・ワールド航空(TWA)で採用する与圧客室キャビン(pressurized cabin)装備の高速長距離旅客輸送機を開発することとし、ロッキードのカリフォルニア州バーバンク工場で「L-49」と命名した新鋭機の開発を始めた。これが、ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)である。
ロッキード(Lockheed) L-1049スーパーコンステレーション(Super Constellation)旅客輸送機の原型は、1943年初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)でボーイング(Boeing)B-29超空の要塞(Superfortress)と同じライト(Wright)R-3350デラックス・サイクロン(Duplex-Cyclone)空冷星形2200馬力4基を装備、巡航速力555 km/hを誇り、乗客60-81名の与圧キャピン(高高度でも客室気圧は低地と同じ)を持っている。
ロッキード(Lockheed) C-121 コンステレーション(Constellation)輸送機は、1947年3月14日初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)の軍用仕様で、1948年11月から、アメリカ陸海軍の航空隊に採用された。民間機としては、戦時中、1942年に初飛行したダグラスDC-4輸送機が量産中で、コンステレーションは高価で量産されなかった。
写真(上)1944−1945年頃、アメリカ、飛TWAトランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー(Transcontinental & Western Air)ロッキード(Lockheed) L-049コンステレーション(Constellation)輸送機 ("Star of the Red Sea)右側方:第二次大戦中の1943年1月9日に初飛行したが、豪華な民間高速大型輸送機の需要はなく、戦後の1948年から1970年代にかけて、レシプロ旅客機の最後を飾った。
Photograph of Howard Hughes and others, circa 1943
Date
1942 to 1944
Description
A view of a crowd of people gathering around the Trans World Atlantic (TWA) transcontinental plane after the aircraft landed.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID
whh001317
Physical Identifier
0373_1027引用。
1947年5月3日、ヒューズの開発した機上搭載型新型レーダーを搭載したコンステレーションのテストが行われた。ここで新型アレーダーは、山脈などの飛行障害には2000フィート(609.6m)、着陸用には500フィート(152.4m)で反応し、操縦席の計器で示すことができた。つまり、この新型レーダーによって、悪天候や暗闇で操縦席からの視界が制限されても旅客機の安全運航が可能になったといえる。
1928年創設トランスコンチネンタル・エアー・トランスポートは、大西洋横断飛行を成功させたチャールズ・リンドバーグを顧問に迎えた。そして、1930年10月1日、他社を吸収して、TWAトランスコンチネンタル・
ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)として飛躍した。 そして、1932年には、全金属製、低翼単葉、引込み式降着装置のダグラス DC-1を導入、その改良型ダグラス DC-2、DC-3を配備した。しかし、1939年、社主ジャック・フライの友人だったハワード・ヒューズが買収し、1965年まで社主を務めた。戦時中に民間旅客需要は見込めなくなっていたが、戦後、社主のヒューズ自らがアメリカ大陸無着陸横断飛行が可能な大型旅客機ロッキード・コンステレーションの開発を促し、1950年2月22日には国際路線拡充に乗り出し、社名もTWAトランスワールド航空(Trans World Airlines)として世界有数の航空会社を目指した。
ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)は、湾曲した細い胴体、3枚垂直尾翼と特徴のある優美な形状で与圧客室キャビン(pressurized cabin)だったが、客室キャビンが狭く、経済性には乏しい旅客機で、ダグラスDC-4、DC-6のような量産向きで堅実な旅客機とは対照的である。
⇒写真集Album:ヒューズのロッキード(Lockheed)コンステレーション(Constellation)を見る。
⇒写真集Album:マッカーサー将軍・アイゼンハワー大統領専用機ロッキード(Lockheed)VC-121コンステレーションを見る。
9.1946年ヒューズ(Hughes) XF-11 試作偵察機
写真(右)1947年4月5日前後、アメリカ、カリフォルニア州、アメリカ陸軍航空隊のマークを付けて大空を飛翔するヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機試作2号機(通常4羽可変金属プロペラ装備)(登録コード: 470156)右側面:ロッキードP-38双発戦闘機と類似の形状で明らかにその影響を受けたようだ。試作1号機はヒューズ自らの操縦で1946年7月7日初飛行したが、その時、不時着し大破した
Hughes : XF-11 :
Catalog #: 00015382
Manufacturer: Hughes
Designation: XF-11---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は SDASM Archives引用。
アメリカのヒューズ(Hughes) XF-11 偵察機(登録コード:44-70155)試作1号機は、プラット・アンド・ホイットニー R-4360空冷星型28気筒エンジン3,000 hp (2,240 kW)2基にハミルトン(Hamilton Standard)の4羽金属プロペラを2組1セットとし、二重反転式8羽金属プロペラを装備し、1946年7月7日、社主ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の操縦で初飛行した。
外観はロッキードP-38 ライトニングと同様の双胴式、機首に前輪式降着装置を装備した。ただし、与圧操縦席コクピットを備え、主翼は、P-38よりも高いアスペクト比で、主翼面積も大きく、高高度性能の向上を企図している。
⇒写真集Album:ヒューズ(Hughes) XF-11 試作偵察機を見る。
10.スペイン内戦から第二次世界大戦へ
写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘン会談の際、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥とイタリア外相チアーノを従えたヒトラー、イタリア統領ムッソリーニ:イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエに対して、ソ連もチェコも無視して、チェコのズテーテン地方のドイツへの割譲に同意させた。
München.- Hermann Göring, Benito Mussolini, Adolf Hitler und Graf Galeazzo Ciano ( v.l.) beim Verlassen des Hauptbahnhofs, 2.Reihe, rechts hinter Hitler: Heinrich Himmler
Title
Münchener Abkommen, Hitler, Mussolini und Gefolge Info non-talk.svg
Original caption
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29.09.1938:
Hitler + Mussolini treffen in München ein. lks. Göring, rechts Graf Ciano
Depicted people Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland
Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien
Ciano, Galeazzo Graf: Außenminister, Italien (GND 119178362)
Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland
Depicted place Münchener Abkommen
Depicted place Münchener Abkommen
Date 29 September 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051622-0023, Münchener Abkommen, Hitler, Mussolini und Gefolge.jpg引用。
ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)は、1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年11月、ヒトラー主導の武装蜂起「ミュンヘン一揆」(Beer Hall Putsch)は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。
写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘン会談の際、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥とイタリア外相チアーノを従えたヒトラー、イタリア統領ムッソリーニ:イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエに対して、ソ連もチェコも無視して、チェコのズテーテン地方のドイツへの割譲に同意させた。
Title
Münchener Abkommen, Hitler und Mussolini
Original caption
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ADN-Zentralbild / Archiv
Am 29. September 1938 wurde durch die Unterzeichnung des berüchtigten Münchener Abkommens Hitler die Handhabe für den Überfall auf tschecheslowakisches Gebiet gegeben. Hiermit verrieten England und Frankreich die Tschecheslowakei und machten dem Faschismus den Weg frei zu weiteren Verbrechen an den Völkern Europas.
UBz: Mussolini, Adolf Hitler, (hinten ihm rechts) Graf Ciano und Hermann Göring beim Verlassen des Führerbaus in München.
12892-38
Depicted people Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland
Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland
Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien
Depicted place Münchener Abkommen
Date 29 September 1938
Collection
German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv Bild 183-H28790, Münchener Abkommen, Hitler und Mussolini.jpg引用。
1936年11月1日、ドイツとイタリアはヨーロッパの新秩序のためのベルリン=ローマ枢軸協定を公表した。
1936年11月25日には、ドイツと日本が反ソ連の日独防共協定を締結した。防共協定は、共産インターナショナル(コミンテルン)の活動に対する防衛措置について相互に協議・協力することと、コミンテルンの破壊工作によって国内の安寧を脅かされる第三国に協定への参加を勧誘することを決めた。
写真(右)1938年10月1日、ドイツ、ベルリン駅、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥を従えたヒトラーと、国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス、ヒトラーユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハ、財務大臣ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク、総統官房長フィリップ・ボーラー:
Title
Münchener Abkommen, Rückkehr Hitler Info non-talk.svg
Original caption
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Des Führers Rückkehr von den Münchener Besprechungen
Der Führer begrüßt auf dem Bahnsteig des Anhalter Bahnhof seine Mitarbeiter. UBz: v.r.n.l.
Reichsminister Graf von Schwerin-Krosigk,Reichminister Kerrl,Reichsminister Rust,Reichsleiter Bouhler,Reichsjugendführer Baldur von Schirach,rechts Generalfeldmarschall Göring und Reichsminister Dr. Goebbels.
Fot.: 1.10.38
Baldur von Schirach
Bouhler, Philipp
Hanns Kerrl
Lutz Graf Schwerin von Krosigk
Adolf Hitler
Joseph Goebbels
Hermann Göring
Depicted place platform of the Berlin Anhalter railway station
Date 1 October 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File: Bundesarchiv Bild 183-H13039, Münchener Abkommen, Rückkehr Hitler.jpg引用。
防共協定の秘密附属協定では、ソビエト連邦から締約国の一方が攻撃などを受けた場合に、他方の締約国がソ連の負担を軽くするような措置をとらないこと、相互の同意なしに防共協定の精神と両立しない政治的条約をソ連と結ばないことなどが規定されている。この防共協定には、日中戦争勃発直後の1937年11月6日にイタリアが参加している。
そして、1939年5月22日、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Gian Galeazzo Ciano)とドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)は、鋼鉄協約に調印して、同盟関係に軍事規定を加えた正式なものとした。さらに、第二次世界大戦の勃発1年後、フランス降伏後に、1940年9月27日にはドイツ、イタリア、日本が、日独伊三国同盟を締結し、イギリス・アメリカなど連合国に対抗する枢軸国としての軍事同盟を形成した。
日独伊三国同盟
第一条 日本國ハ「ドイツ國」及「イタリヤ國」ノ歐州ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第二条 「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、日本國ノ大東亞ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ歐州戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。
写真(右)1938年9月29日、ミュンヘン会談のために、ミュンヘン飛行場から市内のホテルにフランス首相エドゥアール・ダラディエを送り届けるドイツ空軍総司令官ヘルマン・ベーリング元帥
Title
Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.) Info non-talk.svg
Original caption
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Frankreichs Ministerpräsident mit Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München.
Nach der ersten Besprechung im Führerbau in München begleitete Generalfeldmarschall Hermann Göring den französischen Ministerpräsidenten Daladier im Kraftwagen zu dessen Hotel. Daladier und Göring waren Mittelpunkt lebhafter und herzlicher Kundgebungen der Tausende, die die Strassen umsäumten.
UBz.: Ministerpräsident Daladier und Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München.
Scherl Bilderdienst, Berlin
29.9.39
Daladier, Edouard: Ministerpräsident, Vorsitzender Sozialistische Partei, Frankreich
Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland
Depicted place Münchener Abkommen
Date 29 September 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv Bild 183-H12963, Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.).jpg引用。
ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring
1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉
1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉
1933年8月30日、名誉階級歩兵大将
1935年5月21日、空軍大将
1936年4月20日、上級大将
1938年2月4日、元帥
1940年7月19日、国家元帥
1923年3月1日、SA最高指導者
1931年12月18日、SA中将
1933年1月1日、SA大将。
1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。
1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。
1938年9月29日から30日にかけて、ドイツ南部、ミュンヘンにおいて、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア統領ムッソリーニ、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統が会談し、チェコスロバキアの北部で、多数のドイツ系住民が居住していたズデーテン地方のドイツ割譲を決定した。イギリスとフランスは、ドイツがこれ以上の領土割譲要求をしないとの条件で、1938年9月29日にミュンヘン協定に署名し、平和が守られたと宣言した。このミュンヘン会談は、第二次世界大戦前のイギリス・フランスの対ドイツ宥和の頂点にして、最後の機会だった。この時、ゲーリングは、ドイツ空軍がチェコ空襲をいつでも始める覚悟があると威嚇のポーズをとっていたのである。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
⇒フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
⇒シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
⇒ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
⇒ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
⇒ボーイング(Boeing)247旅客機
⇒ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
⇒ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
⇒ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
⇒アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
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