◆アメリカの武器貸与法(Lend-Lease Act)による対英ソ軍事援助
写真(上):1943年3月,アメリカ、カリフォルニア州ロングビーチ(?)、ダグラス飛行機工場で生産されソビエト連邦に貸与されるダグラスA-20ハボック(Douglas A-20 Havoc)攻撃機の最終チェック:
Title
Somewhere in Iran. American assembly plant for light bombers where warplanes are given a final check before delivery to Russia
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress Prints and Photographs Division・Call Number/Physical Location
LC-USW3- 028143-E [P&P]引用。
写真(上):1942年、イギリス海軍護衛駆逐艦クレア(HMS Clare)(右舷側):アメリカ海軍クレムソン級駆逐艦エイベル・P・アップシャー (USS Abel P. Upshur:DD-193) は1919年就役の旧式駆逐艦だが、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助として1941年9月にイギリス海軍護衛駆逐艦クレア(HMS Clare)として貸与され、船団護衛の任務に就いた。
British Forces: HMS CLARE, a destroyer built in 1918, loaned to Britain in September 1940 and converted for long range escort work.
Creator
Royal Navy official photographer
Production date
1942
Materials
whole: Nitrate
写真は,Imperial War Museums ・FCatalogue number
A 9155引用。
カラー写真(上):2012年8月,アメリカ東岸、メイン州ポートランド、ニューイングランド造船所で1943年6月3日竣工したリバティ船SS ジェレミア・オブライエン(SS Jeremiah O'Brien)::2,710隻建造されたリバティ船は、アメリカの軍事援助物資をイギリス、ソ連、インド、中国、オーストラリアに海上輸送した。SS ジョン・W・ブラウン、SS ヘラス・リバティ含め3隻が保管されている。
Description
English: Jeremiah O'Brien, San Francisco
Date 4 August 2012
Source Own work
Author Photograph by Mike Peel (www.mikepeel.net).
Permission
(Reusing this file) CC-BY-SA-4.0. Please attribute as per the author line above.K
写真は、Wikimedia Commons,Category:Jeremiah O'Brien (ship, 1943)
・File:Jeremiah O'Brien 2012 01.jpg引用。
1.1941年3月、アメリカの武器貸与法の成立
1ー1.米国務長官の暴論
大阪朝日新聞
Vol: 第156巻
Page: 158
出版年
1941-01-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337930
米国務長官[Cordell Hull]の暴論のいわゆる民主主義国家への武器貸与法案[(Lend-LeaseAct]に関する米国側の理論なるものは、元来強いて理窟をつけんとするものであり、従って今後米国のなさんとするところは、おそらく理窟などどうでもいいのである。ゆえにいまそれを取上げて、問題とするにあたらないが、いやしくも米国国務長官なる[コーデル]ハル[Cordell Hull]氏の所言は、まことに暴論として聞き捨てにならぬものである。
ワシントン十五日発同盟通信社電報によれば、同長官は満洲事変以来、過去八ヶ年間の国際情勢を概評し、日独同盟によって結ばれた三国は、いまや必死となって、大海洋の支配権獲得を狙いつつあり、もし英国が敗れ、枢軸側が大洋を支配することとなる場合には、西半球の安全は現在の幾層倍も危険に曝されるだろうと結論したという。
もとよりかかる所論は、米国本来の観点たる夜郎自大の過度の自尊心と同時に、それに矛眉して、やや病的ともいうべき、米洲に関する恐怖心をば、露出せるに過ぎないのであって、理智的に見て価値のないものである。
しかし枢軸国があたかも大洋支配権を狙い、しかも西半球に迫らんとするかにいうのは、遺憾ながら当今の実情に反するのである。アングロサクソン[Anglo-Saxon]の世界制覇の野望こそ海洋支配観念に拠るものではないか。
英国はしばらく措き、米国としても、もしハル[Cordell Hull]国務長官の所説を少くも理論的に徹底するとすれば、その海上団防線をば太平洋上百八十度子午線ぐらいに止め、以西には進撃を企てる筋のものではないのではあるまいか。
しかるにある幻想を口実とし、または無理に他国の正当権を抑えんとするがゆえに、西方への進攻を計るのみか、さらに南方進攻路を主眼とする工作を着々進めつつあるのである。フィリッピンをあらためて重視するのは、米国として当然であるとしても、さらにニュージーランド、ニューヘブライヅ諸島、オーストラリアのみならず、なおシンガポール、蘭印をもその薬籠中に収めんとしているのである。
その新駐仏大使リーイ提督がヴィシー着任に際し米国は仏印問題に関心を有し、また日本と泰国との関係に注自するものであるなどと声明せるのも、この際、意味ありげに考えられる。吾人はここに米国務長官の独りよがりの議論を重ねて非とすると同時に、わが国は西太平洋に対する米国の侵略的、挑戦的工作を見守りつつ万一の思意を誤ってはならぬと思う。
極東へ進出の野望具体化 ハル[Cordell Hull]演説わが外交筋の見解
しかして若し改めなければ実力を行使してもこれを強行しよう……と謂ったような多少威嚇的態度を以てし、この機に遮二無二日本を抑制し東洋で日本が余り覇権を揮わぬように仕様という所謂「英国に代り東洋の番犬を務める」と云うのがその底意である
それには四十年前に米国の時の国務卿[国務長官]ジョン、ヘー[John Milton Hay:
1838-1905]の主唱した「支那の門戸開放、機会均等主義」や今より十八年前に締結された「九箇国協商」などを引き出して日本を制肘し、日本が米国に倣って東亜に唱道せんとする「亜細亜モンロー主義」を拒もうとするのであるから、双方の見地は可成懸隔甚だしく、今度の野村[吉三郎]・[ジョセフ・]グルー[Joseph Clark Grew]氏の会談もその最後の目的達成には余ほどの相互の隠忍妥譲を要し、成功を見る迄には多くの時日を要するであろうと在米の邦人は最早覚悟している(米国務長官の暴論引用終わり)
1ー2.武器貸与案審議劈頭 : 枢軸国家を曲解誹謗 : ハル米長官の暴言
大阪朝日新聞
Vol: 第156巻
Page: 160
出版年
1941-01-17
[写真(ハル国務長官)あり 省略]
【ニューヨーク特電十五日発】武器貸与法案[Lend-Lease Act]審議の下院外交委員会は十五日開かれたが、委員会の要求により出席をもとめられたハル国務長官は「法案の具体的内容の説明は他の政府関係者から述べるであろうから、自分は現下の国際情勢を説明してこの法案がいかに必要であるかを述べたい」と次のごときアメリカの強硬外交方針を述べた
「西半球の安全を講ずる機会は法律秩序を遵奉する諸国によって制海権[Command of the sea]を確保する点に存している、日独伊の三国は法を破って世界の文明の基礎を破壊し、他国民を武力をもって征服することを断行せんとしつつあるのである、もしもイギリスが負けて制海権を失ったら大西洋の安全はまったく失われることとなる、だからわれわれはこれらの征服者と戦っているイギリスその他の諸国に対し、軍需品を無制限に供給する法律を作らねばならぬ」と述べたのち、日本攻撃に移り「太平洋におけるいわゆる新秩序というものは他国の利害を除外して一国による支配を意味するものだ、
アメリカは今日まで日本に対してアメリカとの友好関係を保つことが日本にとって一番よい途であると述べて来たのではなかったか
日本の新秩序というものは経済的には日本が侵略した部分を貧乏に陥らしめることであるし、社会的には人間の自由を破壊し被征服者をして弱者の立場に陥れることにほかならぬ」
とて盛に日本に対する悪罵を浴びせた、ハル[Cordell Hull]長官の説明が終ったのち、武器貸与法案[Lend-Lease Act]に反対の議員である民主党のジョンソン氏、共和党のチンカム・フィシュ両氏、民主党のバージン氏などか起って、同法案が国際法に違反する点、およびこの法案は結局アメリカを戦争に近づけるものである点などについてさかんにルーズヴェルト攻撃の火の事をあげ、ハル長官との間に長時間にわたって激論が繰返された、問題の国際法違反の点についてはハル長官は少しも法律上の説明をしないで
「ただわれわれは現実をみなければならぬ、敵が攻め寄せて来るまで待つか、または手遅れにならぬようにこの法律をつくるか途は二つしかない
と答えた
ハル[Cordell Hull]長官証言内容
【ワシントン十五日発同盟】武器貸与法案[Lend-Lease Act]に対するハル国務長官の証言は過去八ヶ年間の国際情勢を概観して三国同盟[Tripartite Pact]に結ばれた盟約国は今や必死となって大洋の支配獲得を狙いつつあり、もしイギリスが敗北を喫し、枢軸国が大洋支配に成功するがごとき場合には、西半球は現在の数層倍も危険にさらされるであろうと結論している、証言はまず「今日の国際危局は満洲事変勃発からはじまる」と説き起して、日本の東亜新秩序建設の理想に対し独善的無理解な悪罵を浴びせかけ欧洲問題に移って次のごとく述べている
欧洲においては独伊両国が次々と軍事的征服を続け、遂に今日のごとき動乱に到達したのである、侵略者達はその言葉によるもその行動に見るも、被征服諸国に対し古代史の最悪の頁を彷彿せしめるがごとき暴政を布かんとするまがうべくもなき決意を自ら明らかにしている、ドイツはとうてい米州諸国を侵略することはできないなどと考えているものがあるとすれば大間違いである、もしイギリスが敗退し、海上支配権[Sea power]を喪失するような場合に、アメリカが現在のイギリスに代って防衛に当る覚悟と準備がなければドイツは易々と大西洋殊に南大西洋を渡って来るであろう、かかる攻撃は恐らくまず
西半球[Western Hemisphere]のうちアメリカよりも抵抗力の弱い他の部分に向けられるものと予想されるが、そこでは既に現在或種の破壊力が国内不統一を醸し出さんとして活動しているのである
イギリスその他侵略の犠牲となり、またならんとしている諸国に対し、最大限度の援助を最短期間に供給する必要を真に米洲全国民挙って認識することこそ喫緊事である、これは自国防衛の不可欠の一部をなすものである、本法案はこの既定の目的を達成すべく最も有効にアメリカの資源を活用するために絶対に必要とされるにいたったのである、しかして今日最も要求されているものは一にも二にも圧倒的スピードである(武器貸与案審議劈頭 : 枢軸国家を曲解誹謗 : ハル米長官の暴言引用終わり)
1940年12月29日、アメリカのルーズべルト大統領は、国民向けラジオ演説「炉辺談話」“fireside chat”で、アメリカは民主主義の兵器廠(arsenal of democracy)になり、ドイツと戦うイギリスを援助すると述べた。そして、1941年3月11日、ルーズべルト大統領は、アメリカ議会で、武器貸与法によるイギリス援助が真能になった。武器貸与法は、下院317対71、上院60対31で大差をもって可決されたのである。ロ4月にドイツ占領下デンマーク領グリーンランド、7月に中立国アイスランドに侵攻し、軍事占領し、大西洋の制海権を保護しようとした。そして、8月には、カナダのニューファンドランド島沖でルーズべルトとチャーチルが会談し、1941年8月14日、米英共同戦線構想となる「大西洋憲章」(Atlantic Charter)を発表し、領土の不拡大、住民の希望に反する領土変更の不承認、住民による政治形態の選択権尊重、強奪された主権と自治の回復、恐怖と欠乏からの解放などを謳った。
ただし、イギリスのチャーチル首相が期待したアメリカ参戦の約束はなく、武器貸与(レンド・リース)による軍事援助が最大限の試みだった。
2.米英のソ連軍事援助
図(右):1942年刊行,モシン・ナガン(Mosin–Nagant)M1891/30小銃を担いで微笑むロシア兵士のポスターTHIS MAN IS YOUR FRIEND. RUSSIAN:He fights for freedom.「彼は、われらの友である。ロシア人 彼は自由のために戦っている」:スローガンが英語で書かれているので、英米向けのポスターである。モシン・ナガンM1891/30は、原型は1891年に設計された旧式の槓桿式(ボルトアクション)の小銃で、第二次世界大戦時は旧式化しつつあったが、3,700万丁以上が生産された。堅牢だったために、終戦まで大量に配備されている。
口径は、標準は7.62×54mmRだが、フィンランド仕様は7.62×53mmR、ポーランド・ドイツ仕様は7.92×57mm Mauser 、オーストリア仕様は8×50mmR Mannlicher、アメリカ仕様は.30-06 Springfieldと各種が採用されている。
ロシア仕様の諸元:
口径 7.62mm
銃身長 730 mm
使用弾薬 7.62mm×54R
装弾数 5発(箱型弾倉・クリップ)
作動方式 ボルトアクション方式
全長 1,230 mm
重量 4 kg
銃口初速 850 m/秒
Title
This man is your friend: Russian He fights for freedom.
Summary
Propaganda poster for encouraging support of America's allies showing a smiling Russian soldier with a rifle on his shoulder.
Created / Published
[Washington, D.C.] : U.S. Government Printing Office ; 1942.
写真はLibrary of Congress Online Catalog,Library of Congress Prints and Photographs Division POS - US .J48 1942 (C size) [P&P]引用。
1941年3月11日の武器貸与法(Lend-Lease Act)の成立で、中立アメリカは第二次大戦の参戦国に対して戦後の支払いで、軍事物資を事前に貸与することを認めた。つまり、イギリス、中国、ソ連など物資のアメリカからの購入・輸入は、戦勝後の後払いでよくなったのである。
アメリカの武器貸与法の対象になった軍事物資は、弾薬、航空機、食糧、車輌、船舶などであり、狭義の武器だけではなかった。
また、アメリカがイギリスのハリケーン戦闘機などの航空機、バレンタイン歩兵戦車などの陸戦兵器を購入し、それをソ連に貸与することもあった。イギリスの資金源になったのである。
1941年6月の独ソ戦の勃発直後、英米はソ連への軍事援助を表明した。共産主義のイデオロギーを嫌悪していた資本主義諸国だったが、ヒトラー主義と戦うためなら、喜んで連合国に迎え入れたのである。
1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻で、ポーランドと相互援助条約を結んでいた英仏は、ドイツ軍の撤退を要請したが、聞き入れられなかったために、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告した。これが、第二次世界大戦の勃発である。そして、独ソ不可侵条約の秘密議定書通り、1939年9月17日、ソ連のポーランド侵攻がなされた理由は、ポーランド政府が瓦解し、ポーランドに住むウクライナ人、ベラルーシ人を保護するためである。ポーランドは独ソで分割占領されたが、英仏ともにドイツにだけ宣戦布告した反面、ソ連には宣戦布告をしていない。
1940年6月のフランス降伏後、イギリスだけがドイツ・イタリアの枢軸国軍と、イギリス本土、北アフリカ、大西洋上など広範囲で戦いを繰り広げていた。
1941年6月22日、独ソ戦が勃発、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、ヒトラー打倒のためには悪魔とも同盟を結ぶと公言し、毛嫌いしていた共産主義ソ連に対する軍事援助を申し出た。アメリカも、武器援助法に基づきソ連を軍事援助することになり、この援助物資輸送のための中東のペルシャ回廊が使われることになった。イギリス保護国・植民地の中東からソ連コーカサスへの陸路/空路がこれである。
そして、イギリスとソ連は共謀して、1941年8月25日に、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を発動し、イランに軍事侵攻した。中立国アメリカも領土不可侵の原則、イランの国家主権を黙殺して、英ソによるイランの分割占領を認めた。
1941年9月16日、イラン皇帝レザー・シャーは親独派として退位、追放され、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーがイギリス傀儡の皇帝となった。
イラン進駐カウンタナンス作戦(Operation Countenance)は、
1)イランの親独逸勢力の排除、
2)イランの油田の確保、
3)中東からソ連への貸与・貸付法(Lend-Lease Act)による軍事物資輸送経路、ペルシャ回廊の確保、
が目的である。
⇒写真集Album:英ソのイラン進駐カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を見る。
写真(右):1943 年,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づくソ連援助用トラックの組立プラント、勝利のVサインをするアメリカ軍技師とソ連軍検査委員(中央):右後方には、アメリカ製ウィリス M38ジーブ(Willys M38)が駐車しているが、このようなジープがペルシャ回廊をソ連に向かうトラック・コンボイを扇動した。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11601-3: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. American truck mechanics at truck assembly plant somewhere in Iran with an Russian inspector. Photographed by Nick Parrino, 1943. Office of War Information Photograph, 29932-E. (2016/02/19).
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11601-2:引用。
武器貸与法によるドイツと戦うソ連への軍事援助のために中東は補給ルートとして重要であり、同時に、油田を支配するにも欠かせない地域だった。そこで、イギリスとソ連は、1941年8月25日から9月17日に、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を発動して、イランを武力制圧した。イランは、英ソによる南北分割占領の下に置かれた。
写真(右):943年3月,イラン、ペルシャ回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカー(Studebaker)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)輸送コンボイ:武器貸与法の実施のために、イラン回廊ルートではトラック7200両が貸与され、其の積み荷の運搬にも流用された。
Description
English: Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for Russia. Snow covered trucks start pushing through the mountain passes of Iran.
Date March 1943
Source
the United States Library of Congress's Prints and Photographs division
under the digital ID fsa.8d29573.. Photo courtesy of Dwight Jon Zimmerman
写真はWikimedia Commons, Category:Persian Corridor photographs by Nick Parrino File:A United States Army truck convoy carrying supplies for Russia, 8d29573a.tif引用。
スチュードベーカー(Studebaker)、GMC(General Motors Truck Company )、インターナショナルハーベスター(International Harvester Co.)の試作トラック全てが制式になり量産された。その理由は、
1)軍用トラックの大増産、
2)試作トラックの失敗リスクの軽減、
3)アメリカ自動車メーカーの利潤確保、
という目的があった。
トラックは、援助物資だが、トラックにも援助物資を積んでペルシャ回廊(Persian Corridor)を運搬していた。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊の雪の峠道、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラック:ペルシャ回廊(Persian Corridor)の未舗装自動車道路左脇には、ロバとヤギを連れた遊牧民が分厚い羊毛の外套を着ている。このコートは、野宿するにも便利である。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for the aid of Russia. An Iranian native moving his livestock from the mountain road as a United States truck passes
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 May.
Headings
- Iran
写真はLibrary of Congress Online Catalog,Library of Congress Prints and Photographs Division LC-USW3- 028310-E [P&P]およびWikimedia Commons・File:Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for the aid of Russia. An Iranian native moving his livestock from the mountain road as a United States truck passes.jpeg引用。
写真(右):1944年,イラン、ペルシャ回廊のダイアモンドT 968貨物トラック(Diamond T 968 Cargo Truck)隊列を警護するイラン駐留イギリス軍インド人兵士:ダイアモンドT 968貨物トラックは、第二次世界大戦期にアメリカで開発・生産された6輪駆動4tトラックである。
Description
English: The British and Soviets invaded Iran in August 1941 to secure Persian oil fields and ensure supply lines for the Soviets fighting against Germany on the Eastern Front. The 'Persian Corridor' provides a massive flow of supplies (over five million tons) from the Allies to the USSR. Indian soldiers from the 8th and 10th Indian Infantry Divisions, 2nd Indian Armoured Brigade and 21st Indian Infantry Brigade took part in the invasion and subsequent occupation.
Date 1944
Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons,Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Indian soldiers stand next to a supply convoy en route to the Soviet Union.jpg引用。
1941年8月25日、英ソ連合軍イラン侵攻時には、イギリス軍は、すでにアメリカの武器貸与法で軍事援助を受けていた。イラン派遣のイギリス・インド軍は、第8・第10インド歩兵師団、第2インド装甲旅団、第21インド歩兵旅団があった。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)先頭車両:運転手とトラック団(コンボイ)リーダーが話している。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for the aid of Russia. The convoy is about to start as the leader checks with the first driver
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress Reproduction Number
LC-DIG-fsa-8d29502引用。
1941年3月の武器貸与法(Lend-Lease Acts)は、最終的には、イギリスへの軍事援助が過半を占めることになるが、1941年8月25日、英ソ連合軍によるカウンタナンス作戦(Operation Countenance)の発動で、イランを占領後、ペルシャ回廊(Persian Corridor)は、ソ連への軍事援助に使われた。ドイツの援助で竣工したばかりの鉄道に加えて、山岳地、砂漠を通る未舗装の自動車道路が建設された。武器貸与法ではソ連にイラン回廊経由でアメリカ製トラック7200両が貸与されたが、積荷の運搬にも流用された。
GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5t軍用トラックの諸元
第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発
積載量2.5t
6輪駆動の軍用トラックである
空虚重量4.8t
全長 6.86m
全幅 2.24m
全高2.77m(荷台幌)
GMC 270 6気筒ガソリン
燃料容量 150 L
航続距離 480 km
スチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発された、積載量2.5tの6輪駆動の軍用トラックである。空虚重量4,479 kg(U3)、4,756 kg(U4)、全長6.37 m(U3)、6.74 m(U4)、全幅2.24 m、全高2.21 m(荷台幌)、GMC 270 直列6気筒5.2Lガソリンエンジン、6x6輪駆動 又は6x4輪駆動、燃料容量 150L(40ガロン)、航続距離380 km。
1941年3月の武器貸与法[Lend-Lease Act]に基づき、ソ連に貸与されたスチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、20万台が生産され、その8割近くの15万台に達した。
写真(右):1943年,イラン中部、テヘラン郊外(?)、アメリカの武器貸与法に基づきソ連に貸与されたアメリカ製蒸気機関車:イランは、1941年8月までは、ドイツ・イタリアの軍事援助を受け、蒸気機関車もドイツ製を採用していた。しかし、イギリスのイラン進駐後は、イギリス製、アメリカ製の蒸気機関車が導入されたが、これらは武器貸与の一環だった。つまり、アメリカから貸与された蒸気機関車で、アメリカから貸与された軍事物資をペルシャ回廊経由でペルシャ湾からソ連に鉄道輸送したのである。
Title
An American engine pulling a great load of supplies for Russia along a mountain- rimmed plateau somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress Digital Id
fsa 8d29522引用。
武器貸与法(Lend-Lease Acts)による軍事援助物資を運搬するトラックやトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)自体も援助物資としてソ連に貸与した。これには、イギリス領ビルマから中国蒋介石政権へのビルマ援助ルート(援蒋ルート)と同じく、ペルシャ回廊(Persian Corridor)の山岳地の峠越えを含む自動車道路の整備が必要だった。さらに、道路建設だけではなく、自動車輸送自体の燃料消費や補給施設の整備など、制約が大きかった。中東ルートのペルシャ回廊と並んで、北大西洋=北極海=ムルマンスクの海上ルート、北太平洋=ハバロフスク/ウラジオストークの海上ルートが重視された。
写真(右):1943年3月,イラン、テヘラン(?)、イランが1930年代に導入したドイツ製蒸気機関車を検分するアメリカとロシアの鉄道技師:敵枢軸国ドイツの技術者を招聘していた全イラン皇帝は追放され、皇太子に皇位を譲ることが認められた。
Title
American and Russian railroad engineers are examining one of the German-made engines which are used to haul supplies to Russia in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
Genre
Nitrate negatives
Notes
- Title and other information from caption card.
- Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location
LC-USW3- 028380-E [P&P]引用。
アメリカ陸軍ポール・ヨートン(Paul F. Yount:1908‐1984)は、1930年にウエストポイント・陸軍士官学校を首席卒業、コーネル大学で学位取得。1940年、シカゴ・セントポール・ミネアポリス・オマハ鉄道で、鉄道実務経験を積んだ。
ポール・ヨートン(Paul F. Yount)大佐は、アメリカ参戦前の1941年にイラン派遣団に参加。アメリカ参戦後、1942年3月、中国・ビルマ・インド戦域(CBI)担当として、パキスタンのカラチで第1基地分隊を指揮した。1942年11月、イランの第702鉄道師団の指揮官となり、イギリスからイラン国有鉄道(ISR)の運営を引き継ぎ、武器貸与法に基づく軍事物資のソ連への鉄道輸送量を5倍に増加させる功績を挙げた。
写真(右):1941年,イギリス、火器保管倉庫で点検組立て中のアメリカからの武器貸与の一環で送られたアメリカ製ブローニング(Browning)M1917水冷式重機関銃:ジョン・ブローニングが1901年に特許とした水冷・反動利用の機関銃で、第一次世界大戦のアメリカ参戦1917年に制式された。口径7.62mm、銃身長610mm、使用弾薬 .30-06スプリングフィールド弾(7.62x63mm)、給弾方式 250発布製ベルト、
全長 965mm、重量 47kg、発射速度 600発/分、銃口初速 850m/s、
有効射程 5,500m。M1917を空冷式として軽量化したのがM1919機関銃。
Water-cooled machine guns just arrived from the USA under lend-lease are checked at an ordnance depot in England.
NAID: 196325
This item was produced or created in 1941.
The creator compiled or maintained the parent series, Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, between 1882–1962.
写真は,The U.S. National Archives and Records Administration National Archives Identifier
196325引用。
1941年3月成立の武器貸与法(Lend-Lease Acts)によるによるアメリカからイギリス、ソ連、中国、インドなどへの軍事物資1780万トンのうち、ソ連向け援助は800万トンで、その45%はイラン回廊経由で輸送された。この物資の多くはアメリカ製の兵器、自動車、食糧、軍靴などであるが、イギリス製のマチルダ(Matilda)戦車、ハリケーン(Hawker Hurricane)戦闘機などもアメリカ資金で購入され、ソ連向けの援助に回されている。
写真(右):1941年,イギリス、火器保管倉庫、アメリカからの武器貸与の一環で送られたアメリカ製M1918 155mm榴弾砲:牽引用のゴムタイヤにブレーキをかけて、移動しないように注意するように危険防止の記入がある。第一次大戦で活躍したフランスのシュナイダーM1917榴弾砲は、1917年に参戦したアメリカ軍もM1918 155mm榴弾砲として制式し、ライセンス国産化した。重量:2,300kg、砲身長:2,987mm(19.3口径)、仰俯角:0°〜42.33°、左右旋回角:6、発射速度:2〜4発/分、射程:11,300m。旧式化していたために1941年に、M1 155mm榴弾砲が制式された。
American-built 155 mm howitzers shipped to England as lend-lease reach an ordnance depot on their way to action.
NAID: 196322
Photographs and other Graphic Materials
1 Image
Creator
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写真は,The U.S. National Archives and Records Administration National Archives Identifier
196328引用。
アメリカ陸軍M3A軽戦車の原型は、1933年に完成したが、アメリカ軍における戦車の仕様・用法が定まらなかったためか、制式されたのは1940年と遅れた。
M3A軽戦車、その改良型M5軽戦車は、ミズーリ州セントチャールズのアメリカ自動車鋳物会社(American Car and Foundry Company)、ミシガン州デトロイトのジェネラル・モーターズ(General Motors)などで、1941–1944年に2万2,744両が生産された。
写真(右):1942‐1944年頃,アメリカ、イギリスに武器貸与されるために鉄道貨車に載せられて集積所に到着したM3軽戦車(Light Tank M3):53.5口径 M6 37 mm 戦車砲(携行弾薬103発)、 M1919A4 7.62 mm 機関銃3挺(携行弾薬7,220発)、装甲は砲塔防盾51.4mm、砲塔・車体前面38.1mm、重量
12.9 t。
Title
Lend-Lease to Britain. An American light tank is unloaded at a central ordnance depot in England, part of a lend-lease shipment from the United States
Names
United States. Office of War Information.
Created / Published
[between 1940 and 1946]
写真は,Imperial War Museums 2024
IWM (H 18131)およびLibrary of Congress
Digital Id
fsa 8b06488引用。
武器貸与されたM3A軽戦車の実戦配備は、イギリス軍に組み込まれて、1941年7月には北アフリカ戦線に登場したときである。
武器貸与(Lend-Lease)されたM3スチュアート軽戦車の最初の実戦参加は、1941年11月、イギリス陸軍が北アフリカ戦線で 170輌のM3軽戦車(戦車合計700輌)を投入したクルーセイダー作戦(Operation Crusader)である。他方、ソ連に武器貸与されたM3軽戦車は、1942年から実戦参加したが、被弾すると炎上しやすく、キャタピラー幅が狭く、悪路で立ち往生しがちであるとスターリンから批判されている。
写真(右) 1942年3月23日、アメリカ、アメリカからイギリス本土に海上輸送し出荷するために、鉄道で集積所に運搬されたM3A「スチュアート将軍」軽戦車
Object description
Original wartime caption: "General Stuart" American light tank being unloaded off rail on arrival at depot.
Creator
War Office official photographers (Photographer)
O'Brien, Alphonsus James Peter (Undefined)
Production date
1942-03-23
Catalogue number
H 18130
写真はイギリス帝国戦争博物館 、Imperial War Museum・IWM (H 18130)引用。
イラン南北縦断鉄道(راهآهن سراسری ایران)の建設は、イラン皇帝レザー・シャー時代の1930年代にはじまり、首都テヘランとペルシア湾とソ連方面のカスピ海を結ぶ全長1394kmの路線が、第二次大戦勃発時の1939年末に完成した。さらに、ペルシャ湾岸のアバダン近郊からテヘラン、カスピ海岸までのペルシャ回廊を支えるようになり、ソ連への武器貸与法による軍事物資の輸送に大きく貢献した。
写真(右) 1942年3月23日、イギリス、アメリカからイギリス本土に海上輸送され集積所に運搬されたアメリカ製M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車とアメリカ製マック"Mack"NR-4(EXBX)戦車運搬仕様トラック(20-ton tank transporter)(後方):16 548 金属製の運搬傾斜台2本を荷台後尾に設置して、スチュアート軽戦車を自力で積載させた。
AMERICAN LEASE-LEND EQUIPMENT
Original wartime caption: American "Mack" tank transporter used for conveying tanks.
Creator
War Office official photographers (Photographer)
O'Brien, Alphonsus James Peter (Undefined)
Production date
1942-03-23
写真はイギリス帝国戦争博物館 、Imperial War Museum・IWM (H 18132)引用。
マック"Mack"NR軍用トラックは、空虚重量9.2トン、全長8,200 mm、全幅2,600 mm ディーゼルエンジン131 hp、貨物積載輌10トン、1940−1945年に1万6000量が量産され、主にイギリス陸軍で使用された。
写真(右) 1942年3月23日、イギリス、アメリカからイギリス本土に海上輸送され集積所に運搬されたアメリカ製M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車とアメリカ製マック"Mack"NR-4(EXBX)戦車運搬仕様トラック(20-ton tank transporter)(前方):荷台には、載せた戦車を固定する車輪止めも載っている。
AMERICAN LEASE-LEND EQUIPMENT
Original wartime caption: American "Mack" tank transporter used for conveying tanks.
Creator
War Office official photographers (Photographer)
O'Brien, Alphonsus James Peter (Undefined)
Production date
1942-03-23
写真はイギリス帝国戦争博物館 、Imperial War Museum・ IWM (H 18133)引用。
マック"Mack"軍用トラックNR-4(EXBX)戦車運搬仕様は、1941年8月21日、200両が発注された。これは前作NR-3型に平底荷台を設けウィンチと傾斜板で戦車を積載できる。空虚重量 11.7トンで積載量は 22.7トンである。戦車運搬車としては、当初はM3Aスチュアート(Stuart)軽戦車を想定していたが、イギリス製クルーセイダー(Cruiser)巡行戦車、バレンタイン(Valentine)歩兵戦車も積載可能だった。
写真(右):1941年、イギリス、輸送船デイライト(SS Daylight)上甲板に積載されたアメリカ製のトラック、M3ハーフトラック、乗用車:輸送船甲板上に積まれた車両は、アメリカからイギリスに武器貸与として送られたもの。
Lend Lease - SS Daylight
NAID: 197297
Photographs and other Graphic Materials
Produced: 1941
Franklin D. Roosevelt Library (NLFDR) Public Domain Photographs, between 1882–1962.
写真は,National Archives and Records Administration National Archives Identifier
197297引用。
M3ハーフトラック(half-track)の諸元
全長 6.18m
全幅 2.22m
全高 2.26m
重量 9.3t
乗員数 3名+兵員10名
装甲 6-12mm
兵装 12.7mmM2重機関銃M2、7.62mmM1919機関銃×2
最高速力(整地)72km/h
機関 ホワイト160AX6気筒液冷ガソリンエンジン147hp(110kW)
航続離 280km
写真(右):1942−1943年,アメリカからソ連に武器貸与される輸送船の上甲板上のM3A1スチュアート(M3 Stuart)軽戦車と分解梱包されたダグラスA-2Oハボック双発爆撃機(中央上):A-20は主翼外縁・プロペラ・尾翼が取り外されての尾翼取り付け部にはUSSR向け援助であることが記された保護カバーがかけてある。カバーにはNKVT(内務人民委員部)ーソビエト連邦(USSR)、と機体内部を覗くことは機密事項として禁止されている。M3Aの砲塔は車体後方に砲身を向け、砲身が損傷しにくいように配置している。
Description
M3A1 Stuart tank and a piece of A-20 bomber hull. Stuarts were shipped to the Soviet Union from the start of polar convoys in 1942 till April 1943.Dates
This item was produced or created in 1941 ?.
The creator compiled or maintained the parent series, Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, between 1882–1962.
Topics
Lend-lease operations (1941-1945).
写真はNational Archives Catalog,U.S. National Archives and Records Administration National Archives Identifier
197299
NAIL Control Number
NLR-PHOCO-A-491642081(4)引用。
M3スチュアート(M3 Stuart)軽戦車の諸元:
全長 4.53 m
全幅 2.24 m
全高 2.64 m
重量 12.9 t
速力 57.9 km/h
行動距離 113 km
53.5口径 M6 37 mm 戦車砲(103発)
M1919A4 7.62 mmブローニング機関銃3挺(7,220発)
砲塔装甲
防盾51.4mm
前面38.1mm
側・後面25.4mm
上面12.7mm
車体装甲
前面上部38.1mm
前面中間部15.2mm
前面下部44.4mm
側面25.4mm 上面12.7mm
後面25.4mm
発動機 コンチネンタル W-670-9A
4ストローク空冷星型7気筒ガソリン
262 馬力/2,400 rpm
乗員 4 名
写真(右):1942年6月29日、イギリス、輸送船上甲板からクレーンで陸揚げされるアメリカ製M3グラント(Grant)中戦車:輸送船甲板上に積まれた戦車は、アメリカからイギリスに武器貸与として送られたもの。
THE BRITISH ARMY IN THE UNITED KINGDOM 1939-45
Object description
American M3 Grant tanks being unloaded from ships at a British port, 29 June 1942.
Object Details
Category
Photographs
Related period
Second World War (production), Second World War (content)
Creator
Taylor (Lieutenant)
War Office official photographer
Production date
1942-06-29
写真は,Imperial War Museums 2024 IWM (H 21034)引用。
M3グラント(M3 Grant)中戦車の諸元:
全長 18 ft 6 in (5.64 m)
全幅 8 ft 11 in (2.72 m)
全高 10 ft 3 in (3.12 m)
重量 27 t
速力 26 mph (42 km/h)
行動距離 120 mi (193 km)
兵装 31口径75mm M2戦車砲(46発)
56口径 37 mm M6戦車砲(178発)
M1919A4 7.62 mmブローニング機関銃3挺(9,200発)
装甲:
砲塔・車体前面・側面51.4mm
後面38.1mm
発動機 コンチネンタル 空冷星型9気筒ガソリン
400 hp (300 kW)
乗員 6 名
写真(右) 1941年9月以降、イギリス、リバプール港、「ロシア戦車週間、秒読み開始」と書いたソ連への武器貸与されるバレンタイン(Valentine)歩兵戦車。輸送船でソ連ムルマンスク港にまで輸送される。:大西洋・バレンツ海の海上ルートで、イギリスのリバプールからソ連の西北部ムルマンスクあるいはアルハゲリンスクに輸送船で運ばれることになる。
TANKS FOR RUSSIA, SMETHWICK, STAFFORDSHIRE, ENGLAND, UK, 1941.,
Catalogue number: P 231,
Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION,
Subject period: Second World War
Alternative Names: object category: Black and white
Creator: Ministry of Information official photographer、 Object description: Factory workers ride on Valentine tanks as they leave a factory in Smethwick. The notice on the front of the tanks reads "Tanks for Russia Week. Every Second Counts!". Chalked on the side of the tank (on the left hand side of the photograph) are the words "From Smethwick to Smolensk". The worker sitting on the turret of the tank in the foreground is holding a Russian flag.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum・IWM (P 231)引用。
写真(右) 1941年9月28日、イギリス、バーミンガム鉄道車輛製造会社(BRC&W:Birmingham Railway Carriage and Wagon Company)で完成したMKIII歩兵戦車バレンタイン(Valentine)を初めてソ連に引き渡す献納式に出席したイギリス駐在ソ連大使イワン・マイスキー(Ivan Mikhailovich Maisky)夫妻とロシア軍事使節団のメンバー:マイスキー夫人によって命名されたばかりのバレンタイ戦車「スターリン」がアメリカ製マック"Mack"NR-4(EXBX)戦車運搬仕様トラック(20-ton tank transporter)の荷台に載せられソ連に出荷される。
Crowds of people and a guard of honor of tanks, meeting M. Maisky, Soviet ambassador, and members of the Rusian military mission when they arrived at a tank factory somewhere in Great Britain(?), where the week's tank production is for Russia, showing the "Stalin" tank, which had just been christened by Madame Maisky
Digital ID: (digital file from original neg.) fsa 8e09321 http://hdl.loc.gov/loc.pnp/fsa.8e09321
Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8e09321 (digital file from original neg.)
Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington,
A celebration dedicated to the shipment of the first Valentines to the Red Army. BRC&W factory, September 28th, 1941.New information about British vehicles became available by late September of 1941. According to the report, the "infantry tank MKIII" was the latest design, and it was based on the "cruiser tank MKII". It was also specified that the tank was called "Valentine" in the British army. After a Soviet commission began working in England, which contained officers from the Red Army GABTU, more precise information was sent back to the USSR.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Online Catalog Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8e09321引用。およびTank_Archives British Tank for Soviet Infantry引用。
バーミンガム鉄道車輛製造会社(BRC&W:Birmingham Railway Carriage and Wagon Company)は、機関車、客車、貨車、バスなど車両製造メーカーである。第二次世界大戦中、歩兵戦車Mk IIIバレンタイン(A22 Churchill)、歩兵戦車Mk IV チャーチル(A22 Churchill)は、巡行戦車クロムウェル、巡行戦車チャレンジャーを製造した。また、ゼネラル・エアクラフト ハミルカー(General Aircraft G.A.L. 49 Hamilcar)空挺部隊用グライダーも製造した。
イギリス陸軍MKIII歩兵戦車バレンタイン(Valentine)の諸元:
全長:5.4 m、全幅:2.6 m、全高:2.2 m
最大装甲厚:65mm
重量:17 t
最高時速:15 km/h(整地)、8 km/h(不整地)
主砲はMk.I-VII:50口径2ポンド40ミリQF速射砲(砲弾搭載数60発)。
砲塔に6ポンド(57ミリ)速射砲を搭載した改良型の
バレンタインMk.VII-X歩兵戦車も生産された。
砲塔装甲:
全周 65mm
上面前部 20mm
上面後部 15mm
車体装甲:
前面上・下部 60mm
前面傾斜部 30mm
側面 60mm
側面傾斜部 30mm
後面傾斜部 17mmn
後面 60mm
機関室上面 10mm
底面前部 20mm
底面中部 7mm
底面後部 17mm
AEC A190ディーゼルエンジン 131馬力(Mk.II)
GMCモデル6006 138馬力(Mk.IV)
乗員 3名
写真(右):1941年12月29日,カナダ、イギリスに武器貸与されるために鉄道貨車に載せられてカナダ東岸の港湾に運ばれるカナダ製MKIII歩兵戦車バレンタイン(Valentine):バレンタインMKIII歩兵戦車(28トン)は武器貸与物資として3,332輌がソ連に送られ、1941年冬のモスクワ攻防戦が初の実戦参加である。信頼性が高かったため、1945年まで前線に配備されていた。
Title
Lend-Lease to Britain. An American light tank is unloaded at a central ordnance depot in England, part of a lend-lease shipment from the United States
Names
United States. Office of War Information.
Created / Published
[between 1940 and 1946]
写真は,Library of Congress
Digital Id
fsa 8b06488引用。
写真(右) 1941年10月17日、イギリス、リバプール港、ソ連への武器貸与の軍事物資としてソ連に供与されるイギリス製マチルダ II(Mark II Matilda)歩兵戦車 :輸送船団を組んで、イギリスから北大西洋ノルウェー沖を通って、ソ連北端の不凍港ムルマンスク港にまで輸送される。戦車以外にも、自動車、飛行機などアメリカの武器貸与法に基づいて、戦争後の支払いを約束してのアメリカ製・イギリス製の武器がドイツの矢面に陸戦で一人立って戦っていたソ連の下に軍事援助された。
TANK FACTORY: THE CONSTRUCTION OF MATILDA TANKS, 1942.,
Catalogue number: H 14786,
Part ofWAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION,
Subject period: Second World War
Alternative Names: object category: Black and white
Creator: War Office official photographer
Taylor (Lt)、 Object description: Matilda tanks being loaded onto ships at Liverpool docks for shipment to the Soviet Union, 17 October 1941.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (H 14786)引用。
A12マチルダ II(Mark II Matilda)歩兵戦車 諸元
全長:5.61 m
全幅:2.59 m
全高:2.52 m
重量:27.0 t
最高速度:(整地)24.1 km/h
航続距離:257 km
兵装:オードナンス52口径2ポンド40mm速射砲(QF:Quick-firing gun:搭載砲弾数93発)
砲塔装甲:全周75 mm 上面20 mm
車体装甲: 前面上部75 mm、側面上部70 mm、側面下部45 mm
動力:液冷V型6気筒ディーゼルエンジン2基 174馬力
生産台数:2890輌
絵画(右)「ロシアへ積み出される戦車(Loading Tanks for Russia)」: 1942年、イギリスの港からソ連への武器貸与のためマチルダ II(Mark II Matilda)歩兵戦車を船積みしている。輸送船でソ連ムルマンスク港にまで輸送されるのであろう。
Loading Tanks for Russia.,
Catalogue number: Art.IWM ART LD 1922, Production date: 1941,
Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION,
Subject period: Second World War,
Materialsmedium: oil, Dimensions, Support: Height 482 mm,
Support: Width 412 mm,
Alternative Names: object category: painting
Creator: Cole, Leslie, Category: art
Object description: image: A Matilda tank is being lowered by a crane onto the deck of a merchant ship. Six merchant seamen stand on the deck watching the tank being lowered whilst a soldier stands on the tank. On the deck on the right is another Matilda tank that has already been lowered, with a British Army officer in a red cap and a British soldier standing to the right.
History note: War Artists Advisory Committee commission.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (H 14786)引用。
1941年3月、アメリカで武器貸与法(レントリース法:Lend-Lease Acts)が成立し、イギリス、ソビエト連邦、オランダ、フランス、カナダ、中国など友好国に軍需物資を貸与することができるようになった。「貸与」とは、代金の後払いや信用を認めるもので、事実上、戦後・戦勝後に代金を支払うことが認めらる。独ソ戦が勃発すると、すぐにアメリカはソ連への武器貸与を認め、イギリスも同じくソ連への武器貸与を開始した。
2−1.輸出許可制 : 米、更に強化
大阪毎日新聞
Vol: 第 46巻
Page: 159
出版年
1941-04-06
【ワシントン四日発同盟】武器貸与法(Lend-Lease Act)による最大限援英の実施に伴い米国の輸出統制強化が予想されていたがマックスウェル輸出統制局長官は四日記者団に対し政府の輸出統制強化方針に関し左のごとく言明した
現在米国は対英援助実行のため尨大な軍需品の生産に全力をあげているが、おそらくその結果輸出許可制を現在以上に強化しさらに多くの品目を輸出統制下に置くこととなるであろう、なお現に輸出許可制を実施している品目についてもさらに輸出税制を引締める必要があろう(輸出許可制 : 米、更に強化引用終わり)
写真(右):1942年10月,アメリカ、カリフォルニア州ロングビーチ、ダグラス飛行機工場で生産されているダグラス(Douglas)A-20ハボック(Havoc)双発攻撃機:A-20ハボックの胴体機首下には、首輪(前輪)があり、主翼左右の首輪と並んで機体を支えるために、地面でも機体は水平になる。
Dates
This item was produced or created in ca. 10月 1942.
The creator compiled or maintained the parent series, Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, between 1882–1962.
Title
Long lines of a A-20 attack bombers roll ceaselessly, night and day, through the Douglas Aircraft plant at Long Beach, Calif.
Date circa October 1942
Collection
National Archives and Records Administration National Archives Identifier
196399
NAIL Control Number
NLR-PHOCO-A-66143(59)
写真はWikimedia Commons、Category:Douglas A-20 Havoc production File:Long lines of a A-20 attack bombers roll ceaslessly, night and day, through the Douglas Aircraft plant at Long Beach... - NARA - 196399.jpg引用。
2ー2.英の貿易窮状 : 対外決済困難
中外商業新報
日本産業経済新聞
Vol: 第 26巻
Page: 143
出版年
1942-05-19
【リスボン十七日発同盟】デイリー・テレグラフ紙は英国の対外貿易の窮状について「輸出における英国のディレンマ」と題する次の如き論評を掲げ注目をひいている米国の武器貸与法の適用を受けていない諸外国と英国との貿易関係は最近非常に困難となって来た、特にポルトガル、スペイン、アルゼンチンに対しては輸入の代金として英国は最早従来の如く石炭、機械、化学製品及び自動車等を輸出し得ない状態にあり、貿易決済は極めて困難となって来た、かくてこれ等諸国の英国に対する貸越は増加の一途を辿り、従ってその結果今後は英国が渇望する物資の積出をこれ等の国が手控えるだろうと見られ、事態は甚だ憂慮すべきものがある
(英の貿易窮状 : 対外決済困難引用終わり)
写真(右):1943年,アメリカ、アメリア製ダグラスA-20ハボック双発攻撃機を艀からクレーンを使っての船積み作業:武器貸与法に基づきイギリスとソ連に海上輸送された。
English: An American Douglas A-20 bomber, provided through Lend-Lease, is loaded on to a ship bound for Allied ports, ca. 1943.
Date
1943
Source
National Archives and Records Administration, Records of the Foreign Economic Administration.
Author
Photograph by Gruber for the U.S. Office of War Information
写真はWikimedia Commons,Category:Abadan Airport File:Lend Lease Bomber.jpg引用。
中立国アメリカは、第二次世界大戦初期の1941年3月に成立した
武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいて、戦勝後の支払いの約束で、戦時中に枢軸国と戦うイギリス、ソ連、中国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドへの軍事物資を貸与した。ソ連へは1941年に建設したイラク(現在はクウェート)、アバダン飛行場で組み立てて、イランからソ連までを空輸した。このほか、アラスカ極東ルートでは、ベル(Bell)P-39エアラコブラ(Airacobra)戦闘機など短距離単発機でも空輸に依っている。
写真(右):1943年3月,イラン南西部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、イランに船便で到着したアメリカ製飛行機ダグラス(Douglas)A-20ハボック(Havoc)双発攻撃機の組立て整備作業:外主翼・尾部を梱包した木箱に分解し運搬、イランで主翼・尾部を組み立てた。
Title
Iranian mechanic working on an American warplane about to be turned over to the Russians at a point of delivery somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress
Reproduction Number
LC-DIG-fsa-8d29542引用。
写真(右):1944年,アメリカ、完成したアメリカ製航空機用落下式燃料増加タンクの組み立て最終検査工程:流線形の落下式燃料増加タンクの密閉性を検査するために、圧縮空気で満たし20分間放置して、その間に1.5ポンド以下の圧力低下であれば合格である。落下タンクは52ガロン (197 L)程度のように見える。この形式の落下式燃料増加タンクは、アメリカとイギリスで使用されたとある。
Artist
Ministry of Information Photo Division Photographer
Description
English: Jettison Petrol Tanks- the Production of Jettison Tanks For USE by the United States Army Air Force and Royal Air Force, Britain, 1944
At a factory producing jettison petrol tanks, Pearl Bradley (left) and Molly Frazer carry out a final test before dispatch. According to the original caption "the tank is filled with compressed air, left for 20 minutes and allowed a 1 1/2lb drop in pressure over the period".
Date
1944
Source/Photographer
This photograph D 23462 comes from the collections of the Imperial War Museums
写真はWikimedia Commons,Category:World War II Lend-Lease aircraft File:Jettison Petrol Tanks- the Production of Jettison Tanks For USE by the United States Army Air Force and Royal Air Force, Britain, 1944 D23462.jpg引用。
イギリス空軍スーパーマリン スピットファイア(Spitfire)は、初飛行1936年3月5日の古い設計だが、エンジン改良により大戦末期までイギリス空軍の主力戦闘機の座を守っている。1941年に入ってから部隊配備されたMk.Vは、エンジン過給機を装備し航空性能を向上させ6,487機が量産された。そして、速力と高高度性能を向上させたスーパーマリン スピットファイアIX型(Spitfire Mk.IX)が1942年末から部隊配備され、5,656機が量産された。これらイギリス空軍主力戦闘機スーパーマリン スピットファイアは、2万351機が量産され、ソ連にも貸与されている。
1941年6月22日の「ヒットラのソ連侵攻で独ソ戦が勃発すると、チャーチルは、反ヒットラー主義の立場を最優先し、スーパーマリン スピットファイア戦闘機、歩兵戦車 Mk.IV チャーチル(Churchill Infantry tank)のようなイギリス製兵器をアメリカの資金貸与して購入し、それをイギリスからソ連に向けた軍事援助として送った。したがって、イギリス製兵器生産をアメリカの武器貸与法の対象として促進したのである。
ソ連のヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)は、イギリス・アメリカの外交筋、ドイツ・日本のスパイから、ドイツのソ連侵攻の情報を得ていたが、これは独ソ対立を煽動する陰謀だと決めつけていた。そこで、1941年6月、独ソ戦争が始まると驚愕し狼狽えた。しかし、すぐにアイギリス、アメリカの武器や軍需物資提供の申し出があり、武器貸与法(Lend-Lease Act)の対象にソ連も加わった。武器貸与されたアメリカ戦闘機は、ベルP-39エアラコブラ、P-63キングコブラ、カーチス(Curtiss)P-40トマホーク (Tomahawk)/キティホーク (Kittyhawk)、リパブリック(Republic)P-47 サンダーボルト(Thunderbolt )などである。
写真(右):1943年頃,アメリカ、船積みされるアメリカ製ノースアメリカンA-36 アパッチ(North American A-36 Apache)攻撃機:ノースアメリカンA-36は、原型は1942年10月に初飛行し、アリソンV-1710液冷エンジン装備のP-51ムスタングIの主翼下面にダイブブレーキを設けた急降下爆撃型の地上攻撃機である。武器貸与法に基づいて、イギリス、ソ連を輸送船で運搬するが、露天係留式なので、機体をコーティングし、エンジンにカバーをかけている。
Dates
This item was produced or created in 1941 ?.
The creator compiled or maintained the parent series, Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, between 1882–1962.National Archives Identifier
197296
NAIL Control Number
NLR-PHOCO-A-491642076(5)
写真はWikimedia Commons,Category:World War II Lend-Lease aircraft File:Lend Lease - NARA - 197296.jpg引用。
1941年3月に成立した武器貸与法に基づいて、イギリス、ソ連を中心に大規模な軍事援助がなされた。輸送船に積載されたアメリカ製ノースアメリカンA-36アパッチ(North American A-36 Apache)は、1942年10月初飛行、500機の生産で終わった攻撃機である。貨物船で船積み輸送されるときには、尾部、補助翼、プロペラは外されている。風雨・波浪を避けるためか、アリソン V-1710 液冷V型12気筒エンジン(1,325 hp)にはカバーが掛けられている。ガラス風防、胴体、主翼は全体がコーティングされている。舷側の反対側には、まだ飛行機は摘まれていない。甲板に積載用枠組みを組み立てて、そこにA-36 アパッチを積み込んでいる。
写真(右):1943年3月,イラン、アバダンあるいはテヘラン、アメリカ製ダグラス(Douglas )C-47 スカイトレイン(Skytrain )軍用輸送機とそれをソ連に空輸するために飛来したソ連空軍の搭乗員:
Middle East Activities, WWII. Captain R. K. Clayton, American test pilot with two Russian pilots somewhere in Iran at a delivery point for American war planes being transported to Russia, March 1943. The aircraft being transported were Douglas A-20 Havoc “Boston”. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph. (2016/06/03).
Date
March 1943
Source
Lot-11600-7
Author
Nick Parrino
写真はWikimedia Commons,Category:Persian Corridor photographs by Nick Parrino
File:American pilot Captain R. K. Clayton delivering Douglas A-20 to Russian pilots in Iran, 1943 (27444387575).jpg引用。
アメリカの武器貸与法に基づきイギリスとソ連に大量のアメリカ製ダグラス(Douglas )C-47 スカイトレイン(Skytrain )、すなわちDC-3民間輸送機の軍用仕様が貸与された。しかし、ソ連ではDC-3を国産化したリスノフ(Lisunov)Li-2輸送機を1939–1952年の間に5000機近く量産している。アメリカの
第二次世界大戦が勃発すると、石油が逼迫したために、産油国のイランの立場は微妙なものになった。石油の利権はあったが、イギリスとソ連の影響力が国内に浸透してきたからである。特に、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻すると、アメリカ・イギリスともに即座に1941年3月の武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づくソ連への軍事支援を表明した。
1940年11月、ヒトラーはイギリス本土上陸作戦をあきらめ、ヨーロッパ大陸を支配して英国を孤立させようとし、ソ連外相のモロトフとベルリンで会談した。この時、日独伊三国軍事同盟を結んでいたヒトラーは、ヨシフ・スターリン(Iosif Stalin)に、トルコのボスポラス海峡とダーダネルス海峡、中東イラン・イラクへの進出を促した。これは、ソ連とイギリスとの対立誘い、日独伊ソの四語句軍事同盟化を意味する。
しかし、モロトフは、ヒトラーの勧めた中東侵攻には興味を見せず、結局、ヨシフ・スターリン(Iosif Stalin)は、ヒトラーとの軍事同盟には至らなかった。こうした不穏な状況で、1941年6月22日、ドイツに奇襲攻撃されたソ連は、フィンランド、ルーマニア、ハンガリー、イタリアからも攻撃を受けることになり、敗走を続けた。
写真(右):1943年4月10日,イギリス海軍キャプテン級(Captain-class)フリゲート艦(frigate)ベイントゥン(HMS Bayntun (K310))、前身はアメリカ海軍エバーツ級(Evarts-class)護衛駆逐艦(destroyer escort)ベイントゥン(USS Bayntun (DE-1)):ボストン海軍工廠(Boston Navy Yard)で1942年6月27日に進水, 1943年1月20日就役と同時に、アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてアメリカからイギリスに武器貸与された。1945年8月にアメリカに返還された。
80-G-64289: British destroyer escort HMS Bayntun (K310). Photographed by ZP-14 from Naval Air Station, Weeksville, April 10, 1943. She was originally constructed at Boston Navy Yard and launched June 27, 1942, later transferred to the Royal Navy under lend lease on January 20, 1943. Bayntun was returned to the U.S. Navy in August 1945, becoming USS Bayntun (DE-1). She was decommissioned that October and sold for scrapping in June 1947.(4/28/2015).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy 80-G-64289引用。
写真(右):1944年4月12日,イギリス海軍キャプテン級(Captain-class)フリゲート艦(frigate)グリンダル(HMS Grindall (K310))、前身はアメリカ海軍エバーツ級(Evarts-class)護衛駆逐艦(destroyer escort)サンダース(USS Sanders (DE-273)):ボストン海軍工廠(Boston Navy Yard)で1943年4月23日に進水, 1943年9月23日就役と同時に、アメリカから武器貸与法に基づいてアメリカからイギリスに武器貸与(Lend-Lease)された。サンダースの艦名は日本海軍の真珠湾奇襲で撃沈したアメリカ戦艦アリゾナ (BB-39)にで戦死したユージン・トーマス・サンダース少尉に因んでいる。1945年8月20日にアメリカに返還された。
English: Photograph of Captain class frigate HMS Grindall.
Creator
Royal Navy official photographer
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
FL 5505Date
12 April 1944
Source This photograph FL 5505 comes from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 8308-29)
写真は,Imperial War Museums 2024 IWM (FL 5505)引用。
イギリス海軍キャプテン級(Captain-class)フリゲート艦(frigate)ベイントゥン(HMS Bayntun (K310))
前身はアメリカ海軍エバーツ級(Evarts-class)護衛駆逐艦(Escort Destroyer)ベイントゥン(USS Bayntun (DE-1))の諸元
満水排水量:1,422 t
全長:93 m
全幅:11.20 m
吃水:3.4 m
最高速力:19 knots
航続距離:4,150 nmi (7,690 km) /12 kn
兵装:3 × 50口径3インチ(76.2 mm) Mk.22
機関:GM Model 16-278A ディーゼルエンジン 6,000 shp (4,500 kW)
スクリュー:2軸
兵装:
1 ×ボフォース(Bofors)40 mm Mk.I連装対空機関砲
16 × 20 mm エリコン(Oerlikon)機関銃
Mark 10ヘッジボッグ(Hedgehog)対潜投射機(projector)
対潜爆雷200発・投射機2基
3連装 21インチ (53.3cm) 魚雷発射管
乗員:148名
写真(右):1941年、アメリカ、輸送船スパン・ヴァン(SS Span Van)上甲板に積載されたアメリカ製のPTボート(Patrol Torpedo boat:哨戒魚雷艇):輸送船甲板上に積まれた哨戒魚雷艇は、アメリカからイギリスに武器貸与として送られたものと思われる。PTボートは、全長80 ft (24 m) 、全幅20 ft 8 in (6.30 m)、吃水3 ft 6 in (1.07 m)、発動機 1,500 hp (1,119 kW) 12-気筒パッカード(Packard)ガソリンエンジン、3軸、最高速力 41 knots (76 km/h; 47 mph) 、航続時間 12 時間(最高速力で6時間)、乗員 将校3名+下士官兵14名、兵装
4 × 21 in (533 mm) 魚雷を装備。
Lend Lease. SS Span Van Manilia ??
This item was produced or created in 1941.
Topics
Lend-lease operations (1941-1945) Franklin D. Roosevelt Library
写真は,National Archives and Records Administration, National Archives Identifier: 197298引用。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ湾アバダン港(?)、ニューオーリンズで製造されたヒギンズ高速艇(Higgins speedboat):ペルシャ回廊を陸路ソ連に送られることになる。アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてソ連に武器貸与されたが、黒海、カスピ海、それともバルト海で使用することを想定していたのであろうか。
Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: Higgins speedboats made in New Orleans in a port in the Middle East, March 1943. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph, 28360-E. (2016/02/11).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11604-4引用。
ヒギンズ社National Museum of the U.S. Navyは、ニューオーリンズに設立されたが、1938年には従業員75名に過ぎなかったが、戦時中の需要増大で、1943年には従業員は2万人以上に増加している。特に重宝されたのは、兵員上陸用舟艇(Landing Craft Personnel (Large), LCP(L))で,1942年の南太平洋ガダルカナル島攻防戦で初めて使用された。ヒギンズ社は、戦争終わりまでに、舟艇、 PTボート(哨戒魚雷艇)など2万隻以上を量産した。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ湾アバダン港(?)、ニューオーリンズで製造されたヒギンズ高速艇(Higgins speedboat):代表的なヒギンズ 78-foot (24 m)高速艇は、乗員10‐15名、1,850 hp (1,380 kW)の発動機を搭載、53.3cm魚雷発射管4基装備、20mm単装機銃1基、12.7mm連装機銃2基、最高速力 41 knotを発揮できた。
Higgins Industries would be a major employer during the War. A small workforce of only 75 workers in 1938 grew to over 20,000 by 1943。
Lot 11604-3: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: Higgins speedboats made in New Orleans in a port in the Middle East, March 1943. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph, 28361-E. (2016/02/11).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11604-3引用。
2−3.米の尨大軍需生産計画 : 連合国援助は二の次 自国軍の整備が目標 : 引渡し武器は一割余
大阪朝日新聞
Vol: 第 54巻
Page: 47
出版年
1942-10-13
図(右):1940−1942年頃,SABOTALK Warner「サボタージュでの会話が、[敵に情報をもたらし]また犠牲者を生んだ」オーストラリアの作成したドイツ潜水艦Uボートの雷撃で撃沈する輸送船:タンカーのような戦前型の商戦が船尾を上にして沈もうとしている。手前には、沈没船から脱出した救命艇が1隻漂っている。
Object description
whole: the image occupies the whole, with the title integrated and positioned in the upper quarter, in white. image: a depiction of a merchant ship sinking, bow first, into a stormy sea. Smoke and flames rises into the air as the crew escape in a lifeboat. text: Another victim of SABOTALK Warner ISSUED BY H.Q. VIC L. OF C. AREA.
Object Details
Related period
Second World War (content)
Creator
Warner, Ralph Malcom (Undefined)
Headquarters, Victoria Line of Communication Area (publisher/sponsor)
Place made
Australia
Materials
Support: paper
Dimensions
Support: Height 491 mm., Width 369 mm.
Catalogue number
Art.IWM PST 16709
写真は,Imperial War Museum IWM (Art.IWM PST 16709)引用。
【ブエノスアイレス今井特派員十一日発】八千マイルの全米軍需工場視察の旅を終って十月一日ワシントンに帰来した米大統領ルーズヴェルト[Franklin D. Roosevelt]は「米国の軍需生産は全般的に見てよく進展している、今の生産割合をもってすれば、今年度軍需生産目標の九割四、五分が達成されるかも知れない」と述べ、彼が訪問した軍需工場地帯の市民はいずれの地域を問わず皆緊張してその生産に従事しつつあり、ワシントンの議会と政府は緊張の度において国民全般より遥かに劣っていると米軍需生産の進展振りを誇る傍ら、議会と役人の相も変らぬだらしなさを非難するかの如き言明を行ったが、では米国の軍需生産増強計画は今どのように立案され、また果してどの程度の成果を収めているのか、スターリングラードの危機いよいよ迫るにかかわらず欧洲に対する英米の第二戦線は結成されず戦局の前途はいよいよ長期戦と見通される今日、連合国側軍需生産の支柱をなす米経済戦時動員の進展は米国のみでなく、連合国側全般の今後の抗戦力を測定する上に極めて重要なものであるが、次にこの点につき若干の考察を加えることにする
来年は全生産の六割
去る九月二十一日米軍需生産局長官ドナルド・ネルソンはカンサス市における米在郷軍人年次大会で「米軍需生産は現在すでに米全生産の四割を占めている、しかしてこの比率は明年中ごろには六割に達するであろう」と誇示していた軍需生産は年六百億ドルに近い巨大なる数字を示しつつあることを誇っていたのであるが、この米国軍需生産の参戦後の飛躍的発展を軍需生産局発表について見るに、昨年十一月を一〇〇とする月別指数(飛行機、船舶戦車、火砲、弾薬その他各装備品を含む綜合的生産指数)は一九四〇年七月二三、十二月五〇、一九四一年一月四一、二月四五、三月五二、四月六〇、五月五七、六月五九、七月六四、八月七二、九月八三十月九一、十一月一〇〇、十二月一二四、一九四二年一月一四九、二月一六五、三月一九九、四月二四八、五月二五八、六月三〇三、七月三五〇といった上昇ぶりを示し、七月の指数は昨年十一月にくらべ三倍半に達している、
米国軍需生産の今明年度の指標は本年一月六日ルーズヴェルト[Franklin D. Roosevelt]が議会に対する教書において一九四二年度には飛行機六万台、戦車四万五千、高射砲二万、商船八百万トン、一九四三年度には飛行機十二万五千、戦車七万五千、高射砲三万五千、商船一千五百万トンおよびこれに相当する各軍需品であると明示しているが、つぎにこれら主要武器軍需品の参戦後における米生産状態を概観してみよう
飛行機生産状況—本年度生産目標六万機に対しこれが発表当初は大体四万機くらいしか生産されないであろうとみられたのであるが、現在の速度で生産が進行すればまず五万機の生産は可能であろうとの見方が有力化している、当地における資料に基づき現在までのその生産状況を見るに、一月は二千乃至二千五百機、三月は三千乃至三千三百機、五月は四千機(大統領の言明による)七月は五千機という状態であり、八月の生産はすでに本年度の目標年六万機を可能ならしめる数字を示している、
なお大統領の本年度生産目標六万機は練習機その他一に対し軍用機一二の割合であったが、八月の生産実数では軍用機約六割を占めているので目下のところ練習機その他の生産比率が予定より少し多いがいずれにせよ米の飛行機生産はまず予定通り進展していると見るべきである
船舶建造状況—本年上半期における米の船舶竣工トン数は二百三十隻、二百五十四万四千トン(一月十五隻、二月二十八隻、三月二十七隻四月三十六隻、五月五十八隻、六月六十六隻)であり、これに七月の七十一隻、七十九万三千トン八月の六十八隻、七十五万三千トン、九月九十三隻、百万九千八百トンを加算すると本年初頭より九月までに四百六十二隻、五百十万トンといった数字を示し、大統領の今年度目標八百万トンに対しいまだ三百万トン不足してはいるが、九月の造船量はすでに百万トンを超え、米船舶業者が達成に極力努力しつつあった「一日三隻建艦」の目標を突破している、
米のリバチー型船舶(Liberty Ship)(一万五百トン)の完成に要する日数は大体百五十日とされていたが、八月の平均建造日数は八二・〇九日であり、最も建造の早いカイザー造船所(Kaiser Shipyards)は竜骨据附後十三日と三時間半(過去の同造船所の記録は二十九日)でこれを組立てるという新記録を樹立している
その他の軍需生産状況—米軍需生産局の七月の公表によれば、本年上半期における重、軽戦車生産は昨年度における生産量を凌駕しているのみでなく、五月には千五百台以上の生産が確保されたとしている、しかしながら目下のところ米国の戦車生産は所期の計画より相当遅延しつつある模様でその理由は従来の形式を改良するため器具その他の製造設備に相当の改善を要し、これがため手間取っているのであるとされているまた高射砲の生産はこれまで米国がかかる精密武器の生産に経験乏しく、部分品の生産に相当厳密な試験を要するためこれまたその生産が予定よりある程度遅れている模様である、
しかし本年上半期の高射砲生産は昨年度全生産の約三倍半に達しており、一部火砲(野砲ならびに対戦車砲は月二千門の割合で、また機関銃は月五万挺の割合で生産されていると報ぜられている
図(右):1940−1942年頃,O Porto de Londres [The Port of London]「ロンドンの港湾」イギリスの作成した港湾のクレーンと輸送船のポスター:テームズ川の河岸には港湾局の建物が見える。
Object description
whole: the image occupies the majority. The title and text are separate and positioned in the lower fifth, in black. All set against a white background. image: a photograph of ship docked next to a crane. In the background, across the River Thames, are the Custom House and Port of London Authority building. text: 4 A ALFANDEGA E O EDIFICIO DA ADMINISTRAÇÃO DO PORTO DE LONDRES O PORTO DE LONDRES [The Custom House and Port of London Authority building. The Port of London. The Port of London Authority is a self-governing and non- subsidised Public Utility Service. The Board is composed of appointed representatives of Government Departments and Public Bodies, and elected representatives of Shipowners, Merchants and other users of the Port. The Port Authority's rates and charges are designed to produce revenue sufficient to cover operating costs and fixed interest charges. The aim of the Authority is to provide the best service at the lowest cost for all users of the Port. The Authority has a world-wide reputation second to none for efficiency. This picture shows a ship at Hay's Wharf, and, in the background, the Custom House with the Port of London Authority building beyond. The Press and Information Service of the British Embassy.Place made
Great Britain, United Kingdom
写真は,Imperial War Museum IWM (Art.IWM PST 16274)引用。
鉄不足による跛行性
かくのごとく米国武器軍需品の生産は開戦以来急速なる上昇を示しているが、去る十月一日ネルソン軍需生産局長官が九月の武器軍需品生産状況を発表した時九月の生産は八月の水準と大差なく月初めの予想より一割四分下廻っていると言明し、増産の一路を辿っていた米軍需生産が九月に入って漸く頭打ちの観を呈していることを自認した、
これは果していかなる理由に基づくものであろうか、米軍需生産が間もなくかかる沈滞を示すであろうことはすでに去る七月ごろより予想されたところであり七月二十七日の週刊誌タイム(TIME)は「金に糸目をつけず滅茶苦茶に急ぐ米国の軍需生産計画は今週鉄の不足でいたるところで矛盾を暴露するにいたった、
この矛盾はベルリンと東京で喝采を博するであろうが、世界一の鉄生産を誇る米国にとっては一会戦で敗北を喫するよりもより大きな打撃である、米海事委員会は鉄の不足でニューオルレアンスのヒギンス造船所に対する二百隻の船舶注文を取消したのみでなくすでに工事に着手していた工費六千五百万ドルの同造船所の拡張計画を中止せしめ、一千万ドルに達する予備工事を無駄にしてしまっている、
また同じく鉄の不足でデトロイトのクライスラー戦車工場(Detroit Arsenal Tank Plant:DATP )が数週間にして作業を停止せねはならない状態となり同市で制動装置と車輪を製造しているシボレー工場およびフィッシャー車体会社の第一工場は閉鎖のやむなきにいたっている」と報じていた
いま米国でもっとも深刻な欠乏に悩んでいる軍需資材は鉄綱、ゴム、錫、ニッケル、アルミニウム、タングステン(tungsten)、マンガン、クローム(chromium)、マグネシウムなどであり、とくに武器、https://www.britannica.com/science/tungsten-chemical-element軍需品生産の基本資材である鉄鋼事業が飛躍的に増大し来った軍需生産に追随できず、甚だしく跛行性を露呈するにいたったことは開戦以来一路躍進を続け来った米軍需生産に今後は相当の制動をかける可能性あるものとして注目に値する、米国におけるかくの如き深刻なる軍需資材の不足は何によって招来されたか、それは大体次の諸原因に基づくものである
(一)南方資源地域に対する日本の制覇=マレーの錫(Tin)、支那のタングステン(tungsten)など(二)平和産業の軍需産業への転換が予想以上に早かったこと=当局の言明によれば予定の二分の一の期間で達成されたとされている(三)国内輸送力の不足(四)戦時生産局の資材割当を無視する陸海軍の独占=この陸海軍の独占により戦時生産局による資材の綜合的統制が不可能となっており、ある工場は原料が極度に不足しているのに他の工場は有り余る資材を手持ちしているといった現象が生じている
図(右):1940−1942年頃,Home Grown Food Means More Ships for the War Effort「食糧を自国自家生産すれば、戦争努力のために、船舶を回すことができる」オーストラリアの作成したドイツ潜水艦Uボートの雷撃で撃沈する輸送船:港湾では、イギリス製のMk.II歩兵戦車 マチルダII(Infantry Tank Mark II Matilda II)を苦連で吊り下げて輸送船に搭載している。北アフリカ戦線あるいは武器貸与としてソ連へ送られるのであろう。イギリスで作成されアフリカ諸国に配布されたポスター。
Object description
whole: the upper image is positioned in the upper third, with the lower image placed in the lower half. The title is separate and occupies the central third, in red. All set against a white background. image: the upper image is a half-length depiction of an African man smiling and holding a large basket of vegetables. The lower image is a depiction of a busy port, with a tank being lifted up by a crane. text: HOME GROWN FOOD means more ships for the WAR EFFORT G.P.D. 365/38/23
GPD 365/38/23 This poster was printed in Great Britain, presumably for distribution in Africa
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Category
Posters
Related period
Second World War (content)
Creator
Unknown
写真は,Imperial War Museum IWM (Art.IWM PST 15394)引用。
人的資源も不足 軍隊一千万、産業五千万
以上は開戦後における米軍需生産の物的方面の諸発展であるが今後さらに米軍需生産を制約する懸念あるものとして現在米国でも問題となっているのは人的方面の問題である、すなわち過般米国の社会保安局は一つの調査報告を発表し米の人的資源は敵国との軍備生産上の競争において結局最後的なかつ容易に克服し得ざる難関となるであろうと述べて人的資源の合理的配置の必要を強調したが、この報告が指摘している如く今後米国の限られた人間資源が軍隊と軍需生産方面に如何に配分されるかは米軍需生産の将来に大きな影響をもつ一大要素であることは間違いない、
この社会保安局の調査報告によれば一九四二年末における米軍ならびに諸産業に北米が必要とする人的資源は軍隊五百五十万、諸産業五千三百二十万、合計五千八百七十万、一九四三年十二月においては軍隊九百万、諸産業五千三百三十万、合計六千二百三一万になっている、かくして同報告は米軍需産業の人的資源吸収状況につき『昨年十二月において軍需工業に就業の米労働者数は六百九十万であったが、本年七月には千二百五十万と約二倍に近い増加を示し今後さらに急速に増大する軍拡に応ずるためには本年未において千七百五十万、明年末には二千万人の尨大なる労働者の必要が予定されている』と述べている
この軍需産業における米の人的資源吸収の急速なる上昇に歩調を合わせ米軍部もまた一九四三年末までに一千万人(この報告によれば昨年末までにおける米軍の動員は九百万になっているが現下の軍拡進展状況をもってすれば米軍部は明年末に一千万の動員を可能ならしめるのではないかとの見方が有力化している)の動員を行わんとしているが、その結果、米軍需産業の一部は早くも人的資源の不足を痛感し始めている、すなわち近着のニューヨーク・タイムス紙は去る九月二日クリーヴランドのデーリー・メタルのトレードは『軍部の動員進展の結果として米国鉄工業は明年一月末までにその就業労働者の一割二分を失い、同年末には二割五分を失うことが予想されるにいたった』と報道していると伝えている
つぎに結論として以上述べ来った米国の物的、人的資源の動員がすでに米軍隊の抗戦力をどの程度に昂めたかを概観して見よう、開戦当初における米陸軍兵力は二百万(うち航空兵力五十四部隊)しか整備されていなかったのであるが、本年一月その本年中における拡張目標を兵力百六十万、航空兵力八十四部隊となし、合計三百六十万の兵員整備を企図した、
しかしながら去る五月これを二百五十万増強案(結局本年度末の全兵力四百五十万)に修正し、いまこの新目標の実現に向って邁進しつつあるのであるが、すでに述べた米軍需生産力の飛躍的拡張により本年度における兵員四百五十万の整備は実現可能と見られ二十八日ルーズヴェルトは米陸海軍は四百万に達したと言明したが、この言明は米陸軍が五月の修正前にすでに本年度当初の目標三百六十万の整備を成就していたことを裏書している
米国は自ら[1940年2月29日]民主主義の軍需工場[兵器廠](Arsenal of Democracy)と誇称し、英、ソ連、重慶その他に対する武器軍需品の供給を宜伝しているが、本年六月までに英、ソ連、重慶に引渡した武器、弾薬類は米生産量の一割二分に達せず純粋の軍需品目は優かに十四億ドルで米国生産量の八分の一に過ぎなかった、このことは連合国援助の宣伝にもかかわらず米軍部はその軍需生産の大部分を自国軍隊の整備に使用していることを裏書している
絵画(右):1940−1942年頃,The Port of London「ロンドンの港湾」イギリスの作成した港湾のクレーンと輸送船のポスター「サボタージュの内緒話がまた犠牲者を生んだ」オーストラリアの作成したドイツ潜水艦Uボートの雷撃で撃沈する輸送船:ロンドン港に停泊している商船のブリッジから、煙突と船尾を見ている。背景には、キング ジョージ 5 世ドック、数隻の輸送船が見える。このドックはロンドンで最も近代的で、総トン数 3万5,000 トン以下の船舶を多数停泊させることができた。ロンドン港には、約 2,000,000 トンの商品を保管できる保管用倉庫がある。ロンドン港はイギリス貿易の3分の 1を取り扱っている。1年間で6,300 万トンの船舶がロンドン港に出入りし、貨物4,400 万トン以上を積み下ろがあった。ノッティンガムの Thos. Forman and Sons Ltd. により印刷。
Object description
whole: the image occupies the majority. The title and text are separate and positioned in the lower fifth, in black. All set against a white background. image: a photograph taken from the bridge of a merchant ship docked in the Port of London, looking back towards the funnel and the stern of the vessel. In the background, several other ships are docked. text: 2 CARGOES TO AND FROM EVERY PART OF THE WORLD THE PORT OF LONDON Over one-third of the overseas trade of Britain is normally handled in the Port of London. In one year ships totalling 63,000,000 net registered tons have entered and left the Port, and over 44,000,000 tons of cargoes have been dealt with. The picture shows ships in the King George V Dock - London's most modern dock in which many ships of up to 35,000 gross tons can be berthed. There is storage accommodation available in the Port of London for approximately 2,000,000 tons of merchandise. Printed in Great Britain by Thos. Forman and Sons Ltd., Nottingham.
写真は,Imperial War Museum IWM (Art.IWM PST 16257)引用。
海外派遣空軍四師団
しかして自国軍隊整備を第一目標として、自国抗戦力の増強に努力している米陸軍はその航空ならびに機械化部隊をどのように整備したのであろうか、当地の資料に基づきその概要を窺うに装甲師団は本年一月より九月までに七個師団が新設され合計十一個師団となっており、さらに近く三個師団新設を計画している、陸軍航空隊は参戦当時四個師団であったが、開戦後海外に派遣されたものはすべて新設部隊であり、すでに判明せるものだけでもパナマ、ハワイ、印度、英国の四個師団を数えている、
本年当初の陸軍整備目標三百六十万のうち約百万は航空兵拡充に振当てられるものとされているが、質は別としても量においては去る七月すでにその大体を実現した模様であり、その結果濠洲、西亜方面にもすでに九航空部隊が派遣されているのではないかと推測される
(米の尨大軍需生産計画 : 連合国援助は二の次 自国軍の整備が目標 : 引渡し武器は一割余引用終わり)
ヨシフ・スターリン(Сталин Иосиф Виссарионович)は、予想に反して同一の攻撃を受け狼狽したが、イギリス・アメリカから軍事援助をするとの申し出を受けることができた。そこで、石油資源確保、アメリカからの軍事援助ルートペルシャ回廊確保の目的で、枢軸国寄りだったイランに派兵し、イギリスと共謀して占領した。
ドイツは、ソ連北部のレニングラード、中部のモスクワ、南部の穀倉・工業地域ウクライナへの侵攻を始めたために、ソ連に対する英米の軍事援助は、ノルウェー沖を北極海で迂回して、ソ連北西部の不凍港ムルマンスクとアルハンゲリスクへの海上輸送ルート、アリューシャン海峡を超えるアラスカ空輸ルート、極東ウラジ・オストークへの太平洋海上ルート、そして、ペルシャ湾アバダン(Abadan)・イランを経由する中東ルートがあった。
中東はイギリス支配下にあるとはいっても、エジプト、イラク、イランとも反イギリスの動きが潜伏しておた。ナショナリズムの下で、反英活動も起こっていた。特に、イランにはイギリス系のアングロ・イラニアン石油会社があり、ペルシャ湾岸のアバダン(Abadan)は、油田としても港湾としての重要な場所だった。ソ連にとっては、イラン北のカスピ海、コーカサスには、バクー油田など石油産地が控えており、ドイツの侵攻によって、イランの影響力が拡大する恐れがあった。そこでイギリスとソ連は、ペルシャ回廊を通じた中東ルートを確保するために、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍事侵攻した。これが、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)基づく、英ソによるイラン進駐である。イギリスでは、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)として、実行され、作戦目的は、イギリスの利権がある中東油田の確保、ソビエト連邦への軍事援助ルートの確保である。
写真(右):1944年,イラン北部、イランを占領したイギリス軍インド人兵士と手にしたトンプソン・サブマシンガン(Thompson submachine gun):イラン侵攻には、イギリス軍は、すでにアメリカの武器貸与法で軍事援助を受けていた。トンプソン機関短銃は、トミーガン(Tommy gun)とも呼ばれた45口径ACP弾(Automatic Colt Pistol:11.43×23mm)を連続発射する。APC弾はM1911コルト・ガバメント自動拳銃用の弾薬であるため、軽量で連続射撃には適していたが、射程は短くなった。発射速度は900 rpm あるいは
600–725 rpmで、銃口初速 935 ft/s (285 m/s)、有効射程164 yards (150 m)。
Feed system 20 or 30 round box magazine, 50 or 100 round drum
English: The British and Soviets invaded Iran in August 1941 to secure Persian oil fields and ensure supply lines for the Soviets fighting against Germany on the Eastern Front. The 'Persian Corridor' provide a massive flow of supplies (over 5 million tons) from the Allies to the USSR.
Date circa 1944
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Indian soldiers stand next to a supply convoy en route to the Soviet Union.jpg引用。
2−4.米、二百隻商船引揚 : 対英物資輸送に動員
大阪朝日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 31
出版年
1941-07-26
【ワシントン二十四日発同盟】アメリカ海事委員会首脳部は二十四日下院予算委員会の席上、米国商船の配船を変更し、合計百万トンに達する二百隻の商船を国内航路から引揚げ、対英物資輸送に当らせることとなったとつぎのごとく発表した
一、海事委員会は合計百万トンに達する二百隻の商船を対英物資輸送に当らせるため国内航路から引揚げることとなったが、右はすでに一部は実施しており残余も近く実施するはずである、
しかしこれでも武器貸与法にもとづく対英軍需品の引渡しを行うためには不足で、なお二百三十万トンの船腹を北大西洋に回航せしめる必要がある、また武器貸与法にもとづき対英石油輸送のため大西洋を往復する油槽船隊にも国内航路に従事する油槽船から約六十万トンを引揚げたが、重慶政権援助を効果あらしめるためにはさらに四十五万トンの油槽船を必要とする(米、二百隻商船引揚 : 対英物資輸送に動員引用終わり)
2−5.共同宣言の裏に英米が秘密協定
日本工業新聞
産業経済新聞
Vol: 第 52巻
Page: 47
出版年
1941-08-18
【マドリッド十六日発同盟】確実なる筋の情報によれば今次のルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]大統領とチャーチル[Winston Churchill]英首相の共同宣言は完全な英米共同を基礎とする六ヶ条から成る英米議定書の末節を構成するもので議定書にはルーズヴェルト大統領ならびにチャーチル[Winston Churchill]英首相が各署名しているが内容はつぎの通りといわれる
一、対英援助の方法ならびにその性質の意義
一、米国は武器貸与法[Lend-Lease Acts]にもとづき英国に対し七十億ドルに上る軍需品を供給する
一、対日共同経済軍事策
一、ヨーロッパにおける英米両国の枢軸国家群に対する方策に関するポルトガルの役割(一説には今回の英米巨頭会談にポルトガルも参加したといわれる)
一、対仏方策
一、世界秩序建設に関する八ヶ条の方式(本項のみが発表されている)
(共同宣言の裏に英米が秘密協定引用終わり)
写真(右):1941年8-9月,イギリス、ロンドン、ドイツ軍の空爆を受けた残骸の前でアメリカから武器貸与法に基づく軍事援助物資として輸送船で到着したアメリカ製食糧を食べる学校の子供たち:学校が燃えて野外でテーブルを並べて食事をしているという宣伝用のやらせ写真である。武器貸与の対象には、兵器、燃料、自動車の他に、食糧、衣料も含まれた。
THE HOME FRONT IN BRITAIN 1939-1945
Object description
Two groups of smiling children sit at tables and eat cheese, imported from America as part of the Lend-Lease scheme, in the playground of a severely bomb-damaged school in London, now being used as a feeding centre. Piles of salvaged wood, including window and door frames, can be seen behind them. This photograph was probably taken in late August or early September 1941.Creator
Ministry of Information Photo Division Photographer
Catalogue number
D 4321
写真は,Imperial War Museums 2024 IWM (D 4321)引用。
2−6.アヴァレル・ハリマン氏 : 英米両巨頭会見の橋渡し : 今日の人
大阪毎日新聞
Vol: 第 6巻
Page: 116
出版年
1941-08-15
全世界の視聴をあつめて噂されていたルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]、チャーチル[Winston Churchill]会談はついに事実であった、去る四日ルーズヴェルト大統領が海上休暇をとると称して、ニュー・ロンドン(コネティカット州)からヨット、ポトマック号に搭乗して海洋に乗出したときすでに両巨頭の会見説がさかんに流布されていた、そしてこの会見の斡旋役は当時滞英中だった(ハリー・)ホプキンス[Harry Hopkins]米国武器貸与局長官が買って出たのだと一部でいわれていたが蓋をあけてみたらとんだ見当違い、米国財界の大御所アヴァレル・ハリマン[Averell Harriman]が再び登場した
彼はユニオン・パシフィック大陸横断鉄道会社[Union Pacific Railroad]の社長で同時に各鉄道、電信会社などの重役も兼ねている米国財界の巨頭、ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)大統領とは特に昵懇の間柄にある男である
[写真あり 省略]
去る三月武器貸与法が成立するや大統領の特使として早速英国に乗り込みその具体的実行方法を協議して来た、当時の彼はその実業家としての敏腕を発揮して相当に画策したらしい、今回のルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]とチャーチル[Winston Churchill]の会談には単なる斡旋役というばかりでなく現在の英国の実情をよく知悉しているので英米合作問題についてはルーズヴェルト大統領にいろいろ忠言を与えていると思われる
彼がルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)大統領の信任を得ているのは彼がその地位を利用して大統領と米国財界の滑車となっているからでルーズヴェルト大統領と財界との関係が最近軋轢が少いのは彼の努力に負うところが多いようだ
日本流に数えて本年五十一歳、エール大学出身、若いときから父親の鉄道事業を継ぎ順境に育った男で早くからニュー・ディール[New Deal]の熱心な支持者である、なおかれの父は有名な鉄道王エドワード・ハリマン[Edward Henry Harriman]で日露戦争直後日本の財政的窮状につけ込んで時の桂首相を説服し南満洲鉄道を横取せんと策した男で財界切っての辣腕家として知られていた【写真はアヴァレル・ハリマン氏】(アヴァレル・ハリマン氏 : 英米両巨頭会見の橋渡し : 今日の人引用終わり)
写真(右):1943年,イギリス、アメリカ陸軍倉庫前、コーヒー入りの荷袋の3台のトレーラーを牽引している牽引車と鉄道貨物列車:コーヒーはアメリカの貸与物資で、後ろには、丸屋根倉庫と、イギリス各地からキャンプに物資を運んできた数両の貨車が見える。
BRITAIN SUPPLIES US ARMY STORE: AMERICANS IN BRITAIN, 1943
Private Herbert M Mack (of 208 Gadson Street, Ocala, Florida) drives a small truck pulling three trailers containing sacks of coffee at an American Army store, somewhere in Britain. Another GI pushes a sack barrow as he walks beside the truck. Behind them can be seen the round-roofed Romney huts of the camp and several rail freight cars, which have carried goods from around Britain to the camp. Goods arrive by rail and by road.
Creator
Ministry of Information Photo Division Photographer
Bryson Jack
写真は,Imperial War Museums 2024 IWM (D 17007)引用。
第二次世界大戦が勃発しても、アメリカは中立だったが、すぐにイギリスへの軍事援助をする決意をする。
第1段階は、1935–1939年の中立法(Neutrality Acts)で、これは戦争当事国にアメリカは、軍事援助をしないとしたが、各国がアメリカから物資を輸入することは妨げなかった。
しかし、アメリカ本土まで輸送船を送って物資を購入できるのは、太平洋に面した日本、大西洋に面したイギリスであった、ドイツ、イタリアという枢軸国は、貿易の障害が大きかった。
第2段階は、アメリカの駆逐艦・基地交換協定(Destroyers-for-bases deal)をイギリスに贈与し、見返りに大西洋・カリブ海上のイギリス基地をアメリカ軍が租借するという駆逐艦=基地交換協定およびアメリカの旧式駆逐艦・フリゲート艦50隻のイギリス軍への貸与である。これは、大西洋の米英海上交通ルートをアメリカ軍が警護することを意味した。
第3段階が、武器貸与法によるイギリス・中国、次いでソ連への軍事援助である。ソ連への軍事援助は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻直後に米英が表明したが、軍事援助した順次物資の代金は、戦勝後の支払いでよかった。これが1941年3月の武器貸与法(Lend-Lease Act)である。ソ連に対しては、1941年12月から軍事援助が実現し、1945年までに113億ドル、現在価値にして1800億ドルの軍事援助が行われた。スターリン首相は、ルーズベルト大統領に,米ソは共通の敵であるヒトラー主義に対して、大規模で困難な戦いをしている。"enormous and difficult fight against the common enemy — bloodthirsty Hitlerism.”と述べた。
1945年9月に武器貸与法(Lend-Lease Act)が中止されるまでに、アメリカからソ連に対する軍事援助は次の通り。
40万台のウィリス M38ジーブ(Willys M38)、ホワイト 666トラック(White 666 Truck)などの自動車
1万4,000機のベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機などの航空機
8,000台のトラクター・牽引車
1万3,000台のアメリカ軍M4(Sherman)中戦車、M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車、イギリス軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車などの戦車
150万の毛布
150万足の軍靴
10.7万トンの綿花
270万トンの燃料など石油製品
450万トンの食料
武器貸与法の国別援助額は、イギリス310億ドル64.0%、ソ連110億ドル22.7%、フランス32億ドル7.5%、中国16億ドル3.3%で、過半はイギリスへの援助である。
写真(右)1943-1944年、アメリカ、アラスカ、ノーム、武器貸与法に基づいてソ連に空路移送中のベル(Bell)P-39L-1 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機(42-4673)の左側面:P-39やP-63戦闘機は、ペルシャ回廊よりも、極東ルートのアラスカ、アリューシャン列島からシベリアにまで空輸されソ連に送られた。胴体と主翼には保護カバーがかけられている。左主翼に7.62mm機関銃の銃身2本、速度計測ピトー管が出ている。
A blanketed Bell P-39N Airacobra (USAAF s/n 42-4961) at Nome, Alaska (USA), in 1943-44. The red Soviet stars under the wings identify this as a lend-lease aircraft ferried to the USSR via Alaska. Note the belly tank.
Date between 1943 and 1944
Source
United States Library of Congress's Prints and Photographs division
under the digital ID fsa.8e02408..Author USAAF
写真は Wikimedia Commons, Category:World War II Lend-Lease aircraft File:P-39N Nome Alaska 1943-44.jpg引用。
原型のベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は、初飛行1938年4月6日、生産数9,588機で、4,719機(49.2%)のP-39がソ連への貸与機である。
発展型のベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)は初飛行1942年12月7日、生産数3,303機で、2400機(72.7%)のP-63がソ連への貸与機である。
したがって、P-39とP-63の合計生産数1万2891機のうち、ソ連への貸与機は7119機と55.2%が、武器貸与法に基づいて、ソ連の軍事援助に充てられた。さらに、フランス軍にもP-63戦闘機300機を貸与している。したがって、ベル飛行機社は、アメリカ陸軍では需要が少なかったP-39、P-63戦闘機が大量生産し、武器貸与法によってソ連に輸出して、アメリカ政府からの支払いを受け膨大な収益を得たことになる。性能的に不十分とされた戦闘機をベル社が大量生産し、ソ連に輸出し儲けることができたのは僥倖だった。
写真(右):1942年頃,イギリス西部、地下30mの保管庫に集積されたアメリカからの武器貸与の一環で送られたTNT(trinitrotoluene)火薬の弾薬箱:TNT(トリニトロトルエン)は、ダイナマイトや弾薬用の火薬の主成分で爆薬以外にも、装薬、推進薬としても軍事利用されている。
Cases of TNT gunpowder shipped from the USA under lend-lease are stacked in the dump in a tunnel 100 feet underground dug out of solid rock, in western England.
NAID: 196328
Photographs and other Graphic Materials
1 Image
写真は,The U.S. National Archives and Records Administration National Archives Identifier
196328引用。
2−7.英・米打解けぬ悩み : 貿易問題で葛藤表面化
大阪毎日新聞
Vol: 第c補巻
Page: 46
出版年
1941-11-30
【ロンドン本社特電二十八日発】九月十日イーデン[Anthony Eden]外相が[John G. Winant]米大使に対し英国の輸出政策について覚書を提出して以来英の輸出問題は□りつづけ輸出業者は機会あるごとに政府に陳情を続けているが、統計学者は二十八日紙上で英の輸出政策について次ぎの如き諸点を論じ米国との□藤を表面化した
一、英の輸出は二つの点で危機に瀕している、一は英が戦争している以外に米に市場を奪われてしまうことであり、もう一つは戦後の輸出戦に乗出したときには戦争の疲弊で対等の競争が出来ぬことである
一、英はイーデン[Anthony Eden]外相の覚書により米の武器貸与法物資に関連して輸出制限で自らを束縛したが米国の方からこれに応じて戦争中に漁夫の利を占めないとの保障は受けていない
一、戦後債務国たる英国が海外市場を失って危機に瀕するのは債権国たる米国の利益にも反するから米国としては武器貸与法物資の輸出制限を緩和するとともに戦争中に英国の市場を全部奪わないことを保障するのが賢明であろう、
これは業者の意見を代弁したものであるが政府は依然として米国への気兼からむしろ輸出制限をさらに強化して行く意向のごとく二十七日にジョンストン貿易省次官は新聞記者との会見で英国の輸出政策がイーデン[Anthony Eden]外相覚書の線に沿って行われることを強調「武器貸与援助を受けている結果、英国輸出業者は武器貸与法物資を緊急目的以外に濫用したり米国の業者と競争するために使ってはならぬ義務を負担するものだ」と説明し「戦時の輸出問題は幾何輸出したかではなく、戦争目的を遂行するため幾何輸出せねばならぬかである」と論じた、
ジョンストン次官はさらに英国商品の海外における広告にまで言及し「英国商品の名声を保持し海外市場を護るために英国商品の広告を続けるのは必要であるが戦争中は注文をうけることができぬという但書をつけておいて米国業者の猜疑を避けるべきであろう」という細かい注意まで与えた、
これは最近米国の雑誌に英国製のARB消化ポンプの公告が現れたところが英国はポンプまで輸出出来る余裕があるのなら武器貸与物資をやる必要はないだろうと非難の声をあげたのに鑑みたものである、利害相反する英米の業者の中に立って政府が如何に輸出政策を指導して行くかは今後ますます注目すべき問題である(英・米打解けぬ悩み : 貿易問題で葛藤表面化引用終わり)
図(右):1941年6月22日ー1945年9月20日,アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてソ連に船舶輸送された軍事物資のルート別重量(トン):
Lend-Lease sent 17 million tonnes of ammunition, food, fuel, weapons, tanks, airplanes and even railroad locomotives to the USSR during the Second World War—most of it from the USA. This episode describes how the icon of capitalism saved the workers' and peasants' paradise from fascism. .
写真はNational WWII Museum New Orleans,Lend Lease: The USAs lifeline to the USSR Map1引用。
武器貸与法によるアメリカからの軍事物資援助は、1941−1945年の期間に行われた。援助物資は、重量にして1750万トン、金額にして484億ドルー501億ドル相当が38か国に貸与された。被援助国別内訳は、イギリス310億ドル64.0%、ソ連110億ドル22.7%、フランス32億ドル7.5%、中国16億ドル3.3%、オランダ2.5億ドル、ベルギー1.6億ドルなど合計38か国へ軍事物資の貸与がなされた。軍事援助物の重量は1750万トンだが、期間別内訳は1941年2.1%、1942年14.0%、1943年27.4%、1944年35.5%、1945年21.0%で、援助が本格化したのは大戦中期1943年以降である。
武器貸与法のアメリカの軍事援助額は、国別では22.7%がソ連向けだった。時期は、1941−1942年よりも1943年から急増した。1941年6月22日ー1945年9月20日,アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてソ連に船舶輸送された軍事物資の経路別の重量(トン)は、太平洋=沿海州航路が824.4万トン(到着率99%)、太平洋=北極海航路が45.2万トン(93%)、大西洋=ペルシャ湾航路が416万トン(96%)、大西洋=地中海=黒海航路が68.1万トン(99%)、大西洋=北極海航路が396.4万トン(到着率100%)である。
⇒写真集Alubum:ペルシャ回廊(Persian Corridor)経由のソ連への武器貸与(Lend-Lease)を見る。
3.リバティー船(Liberty Ship)の大量建造
写真(右)1941年後半以降、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship):建造中の船に部品となる資材をクレーンで運搬する。船台で、部品や資材の到着を待っている時間が短縮され、建造機関が短縮された。造船所になる以前は貨車を製造していたこのボルチモアの東部工場では、すべての部品がプレハブ化、ブロック化されている。完成した部品は、平貨車で 6 マイルの距離を運搬されてきた。
Title
Shipbuilding. "Liberty" ships. This maze of rolling cranes, at a large Eastern shipyard is a typical scene in many large shipyards at work on ships for Uncle Sam's Navy and merchant fleet. Stocks of material are piled up for the cranes to take to vessels under construction so there is no delay in production while waiting for sections or materials. All parts are prefabricated in this huge Eastern plant which formerly turned out freight cars. The completed sections are then carried six miles to the ways on flat cars. Bethlehem-Fairfield Shipyards Inc., Baltimore, Maryland
Names
Palmer, Alfred T., photographer
United States. Office of War Information.
Created / Published
1941?
Headings
- United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-002366 [P&P] LOT 2069 引用。
アメリカ戦時標準船リバティ船(Liberty Ship)は、1万級の大型貨物船で、それまでのリベット(鋲)をうって鉄板を繋げる造船方法とは異なって、溶接による建造が全般的に採用された。溶接の採用は、1930年代から導入されており、決して目新しいものではなかったが、溶接建造による信頼性に疑念が持たれていた。
写真(右)1941年後半以降、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship)用の鋼板の鉄道による運搬作業:カリフォルニア造船造船所にある 3 隻は、黒人にちなんで名付けられた最初のリバティ船「ブッカー T. ワシントン」の姉妹船 3 隻である。
Title
Shipbuilding. "Liberty" ships. These flatcars loaded with prefabricated and assembled sections for ships under construction at a large Eastern yard are leaving a nearby plant formerly used for the manufacture of Pullman cars. The work of this plant means many valuable months saved in the building of Uncle Sam's "Liberty Fleet." All parts are prefabricated in this huge Eastern plant which formerly turned out freight cars. The completed sections are then carried six miles to the ways on flatcars. Bethlehem-Fairfield Shipyards Inc., Baltimore, Maryland
Names
Palmer, Alfred T., photographer
United States. Office of War Information.
Headings
- United States--Maryland--Baltimore
Created / Published
1941?
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-006122 [P&P]引用。
リバティー船(Liberty Ship)の建設には、不適切な溶接作業のために戦隊切断の大事故もあったが、一部の例外を除いて、2700隻もの1万トン級輸送船を短期量産させ、海上輸送ルートを円滑に機能させたところにリバティー船の最大の功績である。
写真(右)1943年5月7日、アメリカ西岸、カリフォルニア州サンフランシスコ湾に面したカイザー社リッチモンド造船所、建造中のリバティー船(Liberty Ship)ギョージ・ワシントン・カーヴァー(SS George Washington Carver):ギョージ・ワシントン・カーヴァーは、アメリカ南部の農産物の生産、開発を進めた植物学者である。リバティー船は、船台に於ける竜骨(キール)据え付けから進水までは1か月、艤装にはさらに10日間で竣工できた戦時標準船で、重量 3,200 英トン、10,500 トン級の貨物船である。
Description
Launching the liberty ship SS George Washington Carver.
Original Caption: The SS George Washington Carver, second liberty ship to be named for an outstanding Negro American, was launched at the Richmond (Cal.) Shipyard No. 1 of the Kaiser Company on May 7, 1943; The 10,500-ton vessel is shown sliding down the way.
Date 7 May 1943
Source New York Public Library (Scan of original print of photo
Author E. F. Joseph, U.S. Office of War Information
写真は, Library of Congress File:SS George Washington Carver.jpg引用。
リバティー船(Liberty Ship)「バージニア デア」型(SS Virginia Dare)の諸元
トン数Tonnage 7,000 long tons deadweight (DWT)
全長Length 441 ft 6 in (134.57 m)
全幅Beam 56 ft 11 in (17.35 m)
吃水Draft 27 ft 9 in (8.46 m)
機関Propulsion
重油罐2基Two oil-fired boilers
蒸気機関Triple expansion steam engine
短軸スクリュー1基Single screw
2,500 hp (1,864 kW)
速力Speed 11 knots (20 km/h; 13 mph)
積載量Capacity 9,140 tons cargo
乗員Complement 41人
兵装Armament
1 × Stern-mounted 4 in (100 mm) deck gun
AA guns
しかるに武器貸与局長官ステッチニアス[Edward Reilly Stettinius]の発表によれは同法実施以来昨年末までの援助実績は八十二億五千万ドルにすぎず、そのうち七十九%、すなわち六十五億四千万ドルが物資貸与分であるが、食料品が十億四千万ドルを占めている、
⇒写真集Alubum:リバティー船(Liberty Ship)と武器貸与(Lend-Lease)を見る。
3ー1.痛し痒し対ソ援助 : 食違い調整は至難 : 英外相の訪米も手遅れ
大阪毎日新聞
Vol: 第158巻
Page: 114
出版年
1943-03-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336730
[写真((上)イーデン(下)リトヴィノフ大使)あり 省略]
【ブエノスアイレス特電十九日鈴木特派員発】英外相イーデン[Anthony Eden]、米大統領ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]会談後には恐らくただ戦後問題のみが例のごとく誇らしげに発表されるものと見られているが、この問題はこれまでもルーズヴェルトやチャーチル[Winston Churchill](英首相)やウォーレス(米副大統領)ウェルズ(米国務次官)といった連中からしばしば放送され、しかもそれは大西洋憲章、いいかえれば民主主義の名における米英の覇権確立を敷衍したものにほかならない、
このような戦後計画は米国が勝てるかどちかも極めて怪しい今日単なる附け景気に過ぎないだろう。
イーデンがワシントンに飛んだ真の目的はつぎの二つである
一、米英間の政治的、戦略的食違いを至急解決あるいは調節すること
二、ソ連と重慶を反枢軸陣営に引止める手段を講じ反枢軸戦線の統一をはかること
たとえばアフリカ戦線では米英間では政治的、戦略的にいまだに全然一致をみていない、
英国は依然ド・ゴール[Charles de Gaulle]を、米国はジローを支持している、米軍がもっとも恐るべきロンメル軍と直接立向うことを余儀なくされている時英軍は単に米軍の両翼にあって損害も比較的少ししか受けていない、
米英軍の北阿戦線は欧洲上陸作戦の前提とされているが、実は政治的な目的から行われたもので決して戦略的な目的から出たものではない、従って彼らの間に政治的背反が生れて来るのは当然である、
このほどアイゼンハウワー[Dwight Eisenhower]が最高司令宮に任命され米英両者の不一致が一応解決を見たかのようにいわれているが、実は依然和解にほど遠い 重慶が反枢軸国戦線から否応なしに脱落する可能性は著しく増大して来た、それは重慶の物資供給が殆ど完全に杜絶してしまったからである、
現在援蒋物資の量は二千五百トンの船が運び得る程度のものと推定されているが、これくらいでは支那に駐屯している米空軍を支えるだけでせいぜいである、かかる哀れな供給では当然重慶は戦争を継続し得ず困難に堪えて行くにも限度がある
訪米中の宋美齢[Soong Mei-ling]が先月大統領やエリノア・ルーズヴェルト[Anna Eleanor Roosevelt](大統領夫人)とともにホワイト・ハウスで新聞記者団に会見した際記者団から「重慶は飛行機やガソリンをどのくらい供給されているか」という大胆な質問を受けたところが狡猾にも美齢[宋美齡]は[エリノア・]ルーズヴェルト[Eleanor Roosevelt]の方をチラリと見ただけで答えない、
そこで仕方なしに[エリノア・]ルーズヴェルト[Eleanor Roosevelt]が代って答えた「米国では大童になって努力しているが重慶にまで飛行機やガソリンを送るのは非常に困難である」この一挿話は援蒋物資の供給状態をよく伝えている
重慶の軍事使節熊式輝もワシントンからこれ以上の援助を得るのはあきらめてロンドンに立去った、ソ連にしても米英の態度に不満をもっているのはいうまでもない、スターリン首相が二月の赤軍記念日に米英に対する不満を公然と述べて彼らを驚かせている、ソ連が米英のために失った皿はソ連が米英から受けている援助などとは比較にならないほど高価である、
ソ連を米英の陣営に引留め得る方法としては欧洲第二戦線の展開が最上であるが、独ソをとことんまで戦わせようとしている米英としては今すぐ腰をあげる気持はさらにない、そこでこれにつぐ方法としては口先だけの援助の代りに[貸与]物資をもっと送ることである、しかしソ連があまり強くなってはまた困る、だから米英の立場はハムレットの科白によく似ている、すなわち
「もっと助けようか、助けずにおこうか、これが問題だ」
そこでイーデン[Anthony Eden]はまずワシントンに飛び、ルーズヴェルトかハル(米国務長官)をつれてスターリン首相を訪問しようというのではなかろうか、というのはソ連と別個に交渉することは彼らにとって不安でもあり危険でもあるからだ、
イーデンはルーズヴェルトと協議してから十七日リトヴィノフ[Maxim Litvinov]駐米ソ連大使と午餐をともにした、何を話したかはもちろん不明だが、恐らく最近のスタンドレー演説をめぐって話を進めたものと思われる、リトヴィノフ[Litvinov]大使は必ずや援助の不足を指摘したに違いない、彼は民主主義的ではあるが外交上の駆引ではイーデンに騙されるには余りにも老練である、ソ連と米英との食違いを調整するにはすでに手遅れなのだからスターリン首相ロンドンにおける援ソ示威運動をおそらく笑っているに違いない
(痛し痒し対ソ援助 : 食違い調整は至難 : 英外相の訪米も手遅れ)引用終わり)
4.1943年テヘラン会談
米英ソの関心は戦争勝利のあり方だった。第二次大戦の激戦が続く1940年後半から、1943年まで、ドイツの真正面で戦っているのは、ドイツ東部戦線正面のソ連だけであり、大西洋の戦い、ドイツ本土空襲、地中海方面の戦いはドイツ軍の主戦場ではなかった。ドイツの大兵力を受け止めているヨシフ・スターリン(Iosif Stalin)は、ヨーロッパに第二線を一刻も早く開くべきであるとして、1943年6月、駐米・駐英のソ連大使を召還し、米英に対する深刻な不満を表明した。
写真(右):1943年12月1日,イラン、テヘラン、テヘラン会談最終日のビッグスリーの記念撮影したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日):後方にソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)、駐ソ連イギリス大使アーチボルド・クラーク・カー(Archibald Clark Kerr:1882ー1951)、イギリス外務大臣ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden:1897年6月12日 - 1977年1月14日)Sir Archibald Clark-Kerr and
Artist
Lotzof H (Lieut), No 1 Army Film & Photographic Unit
Description
English: The British Army in the Middle East 1943
Joseph Stalin, Franklin Roosevelt and Winston Churchill at the Teheran conference, 3 December 1943. Behind them are Mr Molotov, Avril Harriman, Sir Archibald Clark-Kerr and Anthony Eden.
Date 3 December 1943
Source/Photographer E 26621 comes from the collections of the Imperial War Museums.
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin)・File:Group photo of Stalin, Roosevelt and Churchill at the Tehran Conference.jpg引用。
1942年1月1日、ワシントンで発表された26カ国による連合国(国連)共同宣言は、大西洋憲章を引き継いで、連合国の協力と戦勝を謳い、単独不調和を約したが、これには、ルーズべルト、チャーチル、駐米ソ連大使リトヴィノブ、駐米中国大使宗子文が各々本国を代表して署名している。残る22カ国の署名を集めるのはアメリカ国務省に一任されたが、これが国際平和機構の名称「国際連合=連合国」として採用された。こうして、米英の陸海空三軍の統合会議が設置され、ソ連を含め米英三国が相会することがを期待された。
ビッグスリーによる1943年11月28日から12月1日にかけてのテヘラン会談では、
1)ユーゴスラビアにおける共産党系パルチザンへの軍事支援、
2)北フランス侵攻のオーバーロード作戦による1944年5月の第二線の開進、
3)戦後ポーランド国境線(西はオーデル・ナイセ線、東はカーゾン線)、
が定められたが、同時に戦後イランの国境維持も合意された。
⇒写真集Alubum:米英ソの1943年11月テヘラン会談(Tehran Conference)を見る。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
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