鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
ダグラス(Douglas)C-54/DC-4輸送機 2020
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◆日本降伏軍使を運んだC-54輸送機と一式陸攻・マッカーサー乗機バターン
写真(上):1945年8月11日、沖縄本島読谷飛行場、アメリカ陸軍航空隊(USAAF)空輸司令部"THE AIR TRANSPORT COMMAND"所属のダグラスDC-4軍用仕様C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機
:司令部直轄の輸送機で、日本降伏軍使をマニラに派遣するのに使用された同京畿と思われる。前方機首右側の小型貨物のドアからトラックへの積み下ろし作業。胴体後方左側の昇降口に梯子を立てかている。貨物運搬台車も見える。左右にもC-54僚機が駐機。
The Air Transport Command C-54 getting a check up at Kadena Airfield August 11, 1945 NARA The Douglas DC-4 airliner was produced for the USAAF as a troop transport plane denoted as the C-54 Skymaster.
写真は, George Lane www.fold3.com引用。



写真(上):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島飛行場、日本降伏軍使団河辺虎四郎中将一行を乗せた日本海軍三菱G6M1-L2一式陸上攻撃機Betty2機のうち1機
:アメリカ軍により白色、ミドリ十字のマークを指定された2機の一式陸攻は同型だが、側方銃座の多いと尾部銃座の先端に差異があるので区別がつく。
Mitsubishi, G6M1-L2, Betty Title: Mitsubishi, G6M1-L2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan Surrender Aircraft Designation: G6M1-L2, Betty
写真は, SDASM Archives Catalog #: 01_00085830引用。



写真(上):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島飛行場、日本海軍三菱G4M一式陸上攻撃機2機に分乗し到着した日本降伏軍使団河辺虎四郎中将一行16名
:ダグラスDC-4輸送機軍用仕様C-54スカイマスター(Skymaster)に乗り換えてマニラに向かう。
George Lane Japanese envoys transferring to C-54 for trip from Ie Shima to Manila Aug. 19, 1945 NARA Author USAF
写真は, George Lane File:Douglas DC-4, F-BELF, Air France Manteufel-1.jpg引用。



写真(上):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島飛行場からフィリピンのルソン島マニラ郊外ニコラス飛行場(Nichols Field)に到着した、日本降伏軍使団河辺虎四郎中将一行16名を乗せたダグラスC-54スカイマスター(Skymaster)輸送機
:マッカーサー元帥は現れず、サザーランド参謀長が使節団と降伏手続きについて話し合った。
George Lane Soldiers awaiting the arrival of a C-54 Skymaster transport aircraft at Nichols Field, Philippines - Aug. 1945. Source of Photograph: University of Pittsburgh; Harold Corsini Photographs. [original can be downloaded from the Library System of the Univ. of Pittsburgh; however, Corsini family holds the copy right. Use of the image requires written permission.]
写真は Wikimedia Commons, George Lane 引用。

1. 1942年2月、ダグラス(Douglas)DC-4輸送機が初飛行した。これは、ダグラス社前DC-3双発輸送機を大型化し、エンジンを4基に増やし、前輪式を採用した斬新な大型輸送機である。しかし、1941年12月、太平洋戦争がはじまり、アメリカは日本、ドイツ、イタリアと戦っていた。そこで、ダグラスDC-4輸送機は、主に軍用輸送機C-54スカイマスター(Skymaster)として採用された。

アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)C-54輸送機は、カリフオルニア州サンタモニカのダグラス飛行機工場で試作され、初飛行は1942年で、プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2000ツインワスプ(Twin Wasp)空冷二重星型14気筒エンジン1300馬力4基を装備した四発大型輸送機である。この発動機は、1932年に開発されたプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830 ツインワスプ(Twin Wasp)空冷二重星型14気筒エンジン1000馬力の排気量を増加、出力を向上させた発展型で、1942年に開発された。

写真(右)1942年春以降、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機(シリアルナンバー: 42-32936)の側面:青丸白星の中央に赤丸を付けたアメリカ軍の国籍マークは、1942年前半で、白星中央の赤丸を削除された。
SDASM Archives Skymaster Douglas C-54
- Title:Skymaster Douglas C-54 - Catalog:15_002781 - Filename:15_002781.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."----PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System.---- .
写真はSDASM Archives・PictionID:40972962引用。


第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

ダグラス(Douglas)C-54スカイマスター輸送機は、アメリカ陸軍航空隊の使用した命名で、ダグラスDC-4輸送機は、民間航空向けの名称,R5D輸送機は、アメリカ海軍航空隊・アメリカ海兵隊向けの名称である。しかし、いずれも愛称は、スカイマスター(Skymaster)と名付けられダグラス社カリフォルニア州州サンタモニカ飛行機工場(Douglas Aircraft Santa Monica)とシカゴ工場で1300機が生産された。

ダグラスC-54「スカイマスター」四発大型輸送機(Douglas C-54 Skymaster)諸元
プラット&ホイットニー空冷ラジアルエンジンR-2000(1,290馬力)4基
最高速度:450 km/h、巡航速度:365 km/h
座席数:50名
  航続距離:6,800 km
全長:28.6 m、全幅:35.8 m、全高:8.38 m
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg


2. 1945年4月1日にアメリカ軍は、沖縄本島読谷飛行場近くに上陸し、6月の日本軍排除前に、読谷飛行場・嘉手納飛行場・伊江島飛行場など航空基地を拡張整備した。そこには、ダグラスC-54軍用輸送機、B-32新鋭重爆撃機、リパブリックP-47Nサンダーボルト戦闘機など新鋭機が配備され、日本本土、九州攻略の準備を進めていた。


写真(右):1945年4月以降、沖縄本島、破壊され金属の根組だけ焼け残った海軍小禄飛行場(那覇飛行場)の飛行機格納庫
:1944年10月10日の沖縄大空襲以来、アメリカ軍は沖縄の航空基地を重視していた。
Framework of Japanese Hanger at Naha Aerodrome June 1945 NARA Source: USAF WW-II photos from NARA and available from www.fold3.com ]
写真は, George Lane引用。


アメリカ軍による沖縄上陸作戦は、渡嘉敷島、座間味島など慶良間列島への上陸に始まり、4月1日、沖縄本島の読谷飛行場近くに大規模上陸を開始した。1931年、日本海軍は、沖縄本島那覇に飛行場建設を計画し、1932年に飛行場建設を開始、1933年に「小禄海軍飛行場」として完成したこれは、「く」の字型交差した2本の全長750メートルの飛行滑走路であった。1936年、日本航空輸送(1928年創設)が、オランダ設計アメリカ製造のフォッカーF.VII/3mトライモーター三発輸送機を福岡=那覇=台湾を結ぶ台湾航空路を開設した時に、名は飛行場は中継基地となった。その後、太平洋戦争が始まった1942年には、海軍輸送部が管理する「海軍小禄飛行場」となり、軍事基地化が進んだ。1945年4月に沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、19456月5日になって、この海軍小禄海軍飛行場を占領することができた。この時、飛行場には、日本海軍のゼロ戦、局地戦闘機「紫電」、「天山」艦上攻撃機、九六式陸上攻撃機、陸上爆撃機「銀河」の残骸が残されていた。アメリカ軍は、こた米兵ここ「海軍小禄飛行場」を「那覇飛行場」として拡張整備し、1945年7月初旬には、コンソリデーデットB-24重爆撃機などを進出させている。

1942年4月、フィリピンにあったマッカーサーは、日本軍の侵攻を防ぐために、南西太平洋方面軍の隷下にオーストラリア空軍、オランダ東インド軍の飛行戦隊、フィリピンのアメリカ極東空軍(Far East Aiを集結し、連合空軍(Allied Air Force)を設立した。そして、1942年9月3日、アメリカ極東空軍は、ジョージ・ケニー(George Kenney)少将を司令官とする第5航空軍(5th Air Force)をオーストラリア東岸ブリスベーンで編成した。1944年6月15日のアメリカ極東陸軍には、第5空軍だけでなく、南西太平洋地域で活動する第13空軍から成るアメリカ極東空軍(US Far East Air Forces)が設置された。

第5空軍は、1944年からニューギニアから、フィリピン侵攻に加わり、沖縄占領まで最前線で活躍した。第5航空軍(5th Air Force)駐屯司令部は、1944年11月30日にレイテ島に進出、1945年1月ルソン論島対岸ミンドロ島、1945年4月にマニラ北方クラーク飛行場(ルソン島)と日本に迫った。そして、1945年7月には、第5空軍(5th Air Force)本部は沖縄に置かれ、九州上陸に備えている、1945年8月の日本降伏後は、日本に進出する準備に入り、1945年9月25日頃、埼玉県の入間川基地に進出した。その後、1946年1月13日に東京、1946年5月20日に名古屋に本部を移転している。

1942年9月7日初飛行のB-32ドミネーター(Dominator)爆撃機が、運用開始されたのは1945年5月に入ってからで、フィリピンへ送られた。これは、ボーイングB-29の配備がマリアナ諸島に優先され、フィリピン方面への配備を拒否された第5空軍5th Air Force)司令官ジョージ・ケニー(George Kenney)将軍が、旧式化していたB-24爆撃機の後継機として、B-32爆撃機の配備を要請した。アメリカ統合参謀本部も、実地テストと日本軍への威嚇・情報攪乱の目的で、少数の機体をフィリピンに派遣したと思われる。総生産機数は118機のみ。

アメリカなど西側連合軍は、占領した沖縄を足場にして、1945年11月には、日本本土九州へ上陸する「オリンピック作戦」を準備していた。これは、九州南部の志布志湾や吹上浜への上陸作戦である。このために第5空軍5th Air Force)によって、事前に沖縄方面に嘉手納、読谷、伊江島と大規模な航空基地を整備し、十分な攻撃用航空兵力を配備している。

対する日本軍は、「決号作戦」と称して、日本各地に方面軍を設け、万が一、東京あるいは松代の新大本営と連絡が取れなくなっても、独自に徹底抗戦をする体制を作り、特攻を中核として軍民一体の戦闘をする「一億玉砕」を決めていた。連合軍は、九州制圧後、関東平野に上陸する「コロネット作戦」を進めていた。

しかし、西側連合軍よりも早く、1945年8月9日未明、ソビエト連邦が対日参戦し、中国東北地方の満州、南樺太、千島列島への攻撃を仕掛けてきた。対米戦の準備に大わらわであった日本軍は、対ソ戦用の兵力を整えておらず、敗戦は必至だった。




写真(上):1945年8月12日、沖縄嘉手納基地で大型トロリーにより燃料給油を受けるコンソリデーデット・B-32 ドミネーター(Dominator)爆撃機
:フィリピン、ルソン島クラーク・フィールド基地(Clark Field )から沖縄に進出した機体。もはや、フィリピンでは日本軍が無力化されており、最新鋭の四発重爆撃機は不要だった。
Consolidated Dominator B-32 Bomber being refueled on Okinawa Aug 12, 1945 NARA Source: USAF WW-II photos from NARA and available from www.fold3.com .]
写真は, George Lane引用。


ダグラス社カリフォルニア州サンタモニカ飛行機工場(Douglas - Santa Monica California )で製造されたダグラスC-54スカイマスター(Skymaster)輸送機が備えた座席は、2種類ある。折り畳み式ベンチは、普段は、壁側に折りたたまれていて、座席なしで貨物の収納スペースを大きくとることができ、貨物輸送型である。他方、ソファー座席を備えているのが、民間仕様や要人輸送に使用された人員輸送である。

ダグラス(Douglas)DC-4 スカイマスター(Skymaster)輸送機の特徴は、降着装置が主輪式なことである。それまでの輸送機は、左右主翼のエンジンカウリングに設けた主輪2個と胴体尾部の下方に設けた尾輪によって、地上では3点姿勢で離着陸・待機していたのに対して、胴体前下方に機首に首輪を設けて、左右主翼のエンジンカウリングに設けた主輪2個と合わせて、離着陸・待機するように変更になったとである。首輪を設けたことで、待機中も機体は水平になり、貨物や旅客の移動や積み込みは容易になった。ただし、重量は若干増加し、離着陸に必要な滑走距離も長くなったが、これは飛行場整備によって対処できることだった。


写真(上):1945年8月30日、沖縄本島嘉手納飛行場(?)、パイパー カブ(Piper Cub)連絡機を分解して日本に運搬しようとしているアメリカ軍ダグラスC-54D スカイマスター(Skymaster)輸送機
:パイパー カブ(Piper Cub)連絡機の胴体から主翼が切り離されて手前に置かれている。アメリカ軍の嘉手納基地は、1944年9月完成の旧日本陸軍の中飛行場を拡張した飛行場で、1945年6月には、全長2,200mの舗装滑走路が完成している。この機体は、日本本土への物資の空輸を担っていた。
Piper Cub getting ready to ride a C-54 Aug 30, 1945 NARA
写真は, George Lane www.fold3.com引用。


ダグラスDC-4輸送機は、民間仕様であり、アメリカ陸軍航空隊ではC-54、アメリカ海軍航空隊ではR5D輸送機の名称で制式している。ダグラスC-54/R5Dスカイマスター(Skymaster)輸送機は、1942年から1947年までに1200機生産され、アメリカ本土、ハワイ、マリアナ諸島、フィリピン、沖縄を結ぶ空中輸送に使用された。

アメリカ軍の嘉手納基地は、1944年9月完成の旧日本陸軍の中飛行場を拡張した飛行場で、1945年6月には、全長2,200mの舗装滑走路が完成している。この機体は、日本本土への物資の空輸を担っていた。

アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)元帥の専用機もC-54 輸送機で、1945年8月30日、厚木海軍飛行場に降り立った。マッカーサー専用機は、「バターン」で、これは太平洋戦争緒戦、1942年、フィリピンのバターン半島での戦いを記念しての固有名称である。

写真(右):1945年8月30日、沖縄本島嘉手納飛行場(?)、パイパー カブ(Piper Cub)連絡機を分解して日本に運搬しようとしているアメリカ軍ダグラスC-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機:主翼を取り外したパイパー カブ(Piper Cub)連絡機の胴体を、胴体後方左側の大型貨物ドアを開けて積み込もうとしている。パイパー カブは、1938年初飛行の軽飛行機で、1947年までに2万機が生産された。パイパーJ3カブは、乗員 2名、全長 6,83 m、全幅 10,76 m、重量 345 kg 、最高速力142 km/h、発動機コンチネンタル(Continenta)O-17048 kW (65 PS)1基装備。
Loading a Piper L-4 into a C-54 for the trip to Japan Summer 1945 NARA A
写真は, George Lane www.fold3.com引用。


1945年7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)が,アメリカ大統領ハリー・S・トルーマン,イギリス首相チャーチル,中国主席蒋介石の名前で出され、日本への無条件降伏の勧告がなされた。概略は次の通り。

1 米大統領、中華民国政府主席,英首相ハ 数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上,日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フル。
2 米英中ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ 数倍ノ増強ヲ受ケ 日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ。

3 世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ 日本国国民ニ対スル先例ヲ明白ニ示スモノナリ。---吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ 日本国軍隊ノ不可避 且完全ナル壊滅ヲ意味スベク 必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ。

4 日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル 我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国ガ引続キ統御セラルベキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履(ふ)ムベキカヲ 日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ。

5 吾等ノ条件ハ以下ノ如シ。右ニ代ル条件存在セズ。遅延ヲ認ムルヲ得ズ。

6 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ 平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルヲ以テ 日本国国民ヲ欺瞞シ 之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ 永久ニ除去セラレザルベカラズ。
There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

7 新秩序ガ建設セラレ 且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ 連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ --占領セラルベシ。

8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。(1943年11月27日のカイロ宣言では,日本は,第一次世界大戦で奪った太平洋諸島の放棄、中国から奪った満州・台湾・占領地の中国返還、朝鮮独立など「大西洋憲章」領土不拡大の原則が引き継がれた。)

9 日本国軍隊ハ 完全ニ武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ 平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ。
The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.

10 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ 奴隷化セントシ 又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ 厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル 民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ。
We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

11 日本国ハ 経済ヲ支持シ 実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ 許サルベシ。但シ 日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ 此ノ限ニ在ラズ。右目的ノ為原料ノ入手ヲ許可サルベシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ。
Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese, participation in world trade relations shall be permitted.

12 前記目的ガ達成セラレ 日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ 平和的傾向ヲ有シ 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ 連合国ノ占領軍ハ 直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ。

13 日本国政府ガ 直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ 政府ノ誠意ニ付 保障ヲ提供センコトヲ 同政府ニ対シ要求ス。 右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。
We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

(⇒「ポツダム宣言」(米英中三国宣言)およびUCLA Asia Institute;Potsdam Declaration引用)。

2.1945年7月26日の米英中ポツダム宣言通告後の8月になって、大元帥昭和天皇は、ソ連参戦、原爆投下に直面して、ポツダム宣言受諾の聖断を下し、8月15日、終戦の玉音放送が流された。しかし、日本の一方的都合で終戦な成らない。8月16日、連合国軍最高司令部は、日本降伏と連合軍の日本上陸について話し合うため、日本降伏使節団を、マッカーサー元帥のいるフィリピンに派遣するよう通告した。日本は、大本営陸軍部参謀次長河辺虎四郎中将を全権とし、横山一郎海軍少将、外務省調査局長岡崎勝男ら16名を派遣することになった。使節団は、白色で緑十字を付した一式陸上攻撃機2機で、木更津基地から沖縄本島北岸、伊江島飛行場に向かった。そこでアメリカ陸軍ダグラスC-54スカイマスター輸送機に乗り換えて、マニラ郊外ニコラス飛行場に飛んだ。


写真(上):1945年7月10日、沖縄本島読谷飛行場、グアム島から飛来したと思われるダグラスDC-4軍用仕様C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機
:グアム島から沖縄本島迄、飛行時間は6時間かかる。遠方、滑走路の向こう側には、ダグラスDC-3双発輸送機の軍用仕様C-47ダコタ輸送機が駐機している。
C-54 Douglas Skymaster landing at Yontan Airfield July 10, 1945 NARA
写真は, George Lane www.fold3.com引用。


マサチューセッツ工科大学出身でマーチン社の技師だったドナルド・ダグラス(Donald W. Douglas)は、1920年に退社してカリフォルニア州サンタモニカに1921年7月にダグラス・エアクラフト社Douglas Aircraft Company)を設立した。そして、カリフオルニア州サンタモニカ(Santa Monica)のクローバーフィールドへ大規模な飛行機工場を設置し、1933年に双発のダグラスDC-1輸送機、1934年に双発のダグラスDC-2輸送機を開発し、大型機製造の一流飛行機メーカーとなり、1936年にはベストセラーとなるダグラスDC-3輸送機を生み出している。

ダグラスC-54スカイマスター(Skymaster)輸送機の発動機はプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)が製造したプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney) R-2000(32.84 L)ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン1,290hp4基である。カリフォルニア州サンタモニカとシカゴ工場では、プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)社から送られた発動機完成品を、C-54輸送機の主翼に据え付ける作業を行う。

第二次大戦中に大量の軍需を背景に成長したダグラス(マクドネル・ダグラス)だったが、1997年には、ボーイング社に吸収され、「ダグラス」の名称は消えている。

写真(右):1945年7-8月頃(?)、沖縄本島中北部沖、伊江島飛行場の舗装誘導路、アメリカ陸軍航空隊(USAAF)第318戦闘航空団(Fighter Group)第19戦闘飛行中隊(Fighter Squadron)所属のリパブリックP-47Nサンダーボルト戦闘機の戦列:日本本土を空襲できるように、主翼下面に大型の増加燃料タンクを搭載している。日本にによる空襲の危険がないので、掩体壕はなく、機体も銀色・無塗装のままである。
P-47s at airstrip on Ie Shima 1945 - A Source: USAF WW-II photos from NARA and available from www.fold3.com
写真は, George Lane www.fold3.com引用。


アメリカのダグラス・エアクラフト社Douglas Aircraft Company)は、カリフオルニア州サンタモニカ(Santa Monica)飛行機工場を拠点にして、輸送機開発で名を挙げたが、アメリカ海軍航空隊では1935年のTBD デヴァステイター艦上雷撃機、1938年のSBD ドーントレス艦上爆撃機、アメリカ陸軍航空隊では1938年のA-20 ハヴォック(ボストン)攻撃機、1942年攻撃機A-26インベーダー攻撃機など多種類の航空機を開発・製造してきた大企業である。


写真(上):1945年8月19日、アメリカ占領下の沖縄本島北、伊江島に向かう日本降伏使節団(大本営参謀次長河辺虎四郎陸軍中将全権)の乗った日本海軍一式陸上攻撃機11型2機と護送エスコートするアメリカ陸軍航空隊ノースアメリカンB-25J爆撃機、B-17爆撃/輸送機
:上空には、警護と警戒を兼ねたロッキードP-38双発戦闘機(4機+2機編隊)が交差するように飛行している。このB-17爆撃機は、マッカーサーの旧乗機のCB/VB-17(C-108)輸送機「バターン」かもしれない。
Delivered MacDill 24/2/42; MAAD 18/6/42 mod as XC-108 as taxi for Gen McArthur, called BATAAN; later used by Gen Eichelberger as MISS EM; Reconstruction Finance Corporation (sold for scrap metal in USA) Walnut Ridge 30/10/45.
Japanese surrender envoys approaching Ie Shima Aug 25, 1945 NARA Source: USAF WW-II photos from NARA and available from www.fold3.com
写真は、George Lane引用。


1945年8月19日の早朝、大本営参謀次長河辺虎四郎中将を全権とする日本降伏使節団16名は、羽田飛行場からダグラスDC-3輸送機(零式輸送機)で木更津基地に空路移動し、木更津に準備されていた海軍一式陸上攻撃機11型を流用した輸送機2機に分乗して、沖縄本島近くの伊江島に向かった。一行の一式陸攻2機が四国沖にかかると、打合せた通り、アメリカ陸軍航空隊のB-25爆撃機、B-17重爆撃機が誘導・護送にあたった。その後、警戒するロッキードP-38双発戦闘機も現れた。

写真(右):1944年3月18日、オーストラリア、キャンベラ郊外フェアバーン(Fairbairn)空軍基地、ダグラス・マッカーサー将軍の専用機となったアメリカ陸軍航空隊(USAAF)のB-17E爆撃機「バターン」"BATAAN" ・CB/VB-17(C-108)輸送機:1943年11月からマッカーサーは、B-17を専用機とし、機体を自分の敗戦の地「バターン」と名付けて、日本に対する復讐を誓った。
Description English: AWM caption : CANBERRA, ACT. 1944-03-18. "BATAAN", THE BOEING "FLYING FORTRESS", PERSONAL AIRCRAFT OF US GENERAL DOUGLAS MACARTHUR, COMMANDER-IN-CHIEF, SOUTH WEST PACIFIC AREA, ON THE TARMAC AT FAIRBAIRN AIRPORT. Date 18 March 1944
写真は Wikimedia Commons, George Lane File:MacArthur's B-17 at Canberra March 1944 AWM 077682.jpg引用。


ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)将軍は、1942年にフィリピンからオーストラリアに脱出し、オーストラリアではダグラスC-47A双発輸送機を乗機としたり、第五空軍(Fifth Air Force )司令官ジョージ・ケニー(George C. Kenney)将軍のボーイングB-17E空の要塞(Flying Fortress)爆撃機(登録コード(シリアルナンバー)41-2633)「サリー」“Sally”を使用していた。このB-17は、1942年7月に戦闘で損傷修理した後、第五空軍司令官ケリー将軍乗機となっていたのである。

1943年11月、ダグラス・マッカーサーもB-17E爆撃機(登録コード:41-2593)を専用機として保有ことになったが、この機体の固有名称は「バターン(Bataan)」と命名された。バターンとは、1942年に日本軍によって攻撃され、マッカーサーが敗れたフィリピン、ルソン島の半島の地名である。ただし、このB-17E「バターン」は、B-17Fの機首を付けていた。要人輸送機となったB-17E爆撃機「バターン」"BATAAN"は、CB/VB-17(C-108)輸送機として制式された。しかし、その後、1945年3月にマッカーサーの乗機はVC-54E四発輸送機(登録コード:44-9027)に更新されたが、機体固有名称は「バターン」 “Bataan II”と継承している。このC-54輸送機が、マッカーサーが、厚木飛行場に日本統治者として降り立った時の乗機である。

写真(右):1943-1944年6月以前、マリアナ諸島(?)、飛行場に駐機した日本海軍の昭和飛行機 L2D零式輸送機("Tabby")と搭乗員たちの記念写真:"Tabby"とは、零式輸送機の連合軍側のコードネーム。大日本航空は、1934年にダグラスDC-2輸送機を輸入し、中島飛行機(Nakajima)に生産を依頼した。SDASM Archivesは、それを混同し中島(Nakajima)がDC-3を原型にL2Dを実用化したような説明を期している。
Nakajima, L2D, Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3"" Title: Nakajima, L2D, Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3"" Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3"" Additional Information: Japan Designation: L2D Tags: Nakajima, L2D, Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3""
写真は Wikimedia Commons, SDASM Archives Catalog #: 01_00086224引用。


昭和飛行機は、ダグラスDC-3の製造権を買い取り、大日本航空にダグラス旅客機として採用されるとともに、日本海軍に零式輸送機として制式された。しかし、DC-3国産化に当たって、昭和飛行機を原型DC-3の装備していたライト R-1820 サイクロン(Wright R-1820 Cyclone)空冷星形9気筒エンジンから、より強力は三菱「金星」空冷星形14気筒エンジンに換装している。1945年8月19日、日本降伏使節団は、羽田飛行場から、日本海軍の木更津基地にダグラス輸送機で飛び、そこから一式陸攻2機に分乗して沖縄の伊江島飛行場に飛び立った。

写真(右):1943-1945年8月以前、飛行中の僚機から撮影された日本海軍の昭和飛行機 L2D零式輸送機("Tabby"):飛行中の僚機から撮影された飛行中の飛行機の写真は、地上での撮影に比較して圧倒的に少ないので、貴重である。"Tabby"とは、零式輸送機の連合軍側のコードネーム。大日本航空は、1934年にダグラスDC-2輸送機を輸入し、中島飛行機(Nakajima)に生産を依頼した。SDASM Archivesは、それを混同し中島(Nakajima)がDC-3を原型にL2Dを実用化したような説明を期している。
Nakajima, L2D, Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3"" Title: Nakajima, L2D, Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3"" Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3"" Additional Information: Japan Designation: L2D Tags: Nakajima, L2D, Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3""
写真は Wikimedia Commons, SDASM Archives Catalog #: 01_00086227引用。


写真(右):1944年-1945年9月頃、マリアナ諸島(?)、アメリカ軍に鹵獲された昭和飛行機 L2D零式輸送機「東京娘」"TOKYO MUSUME":機体固有名の「東京娘」は、鹵獲したアメリカ人の命名で、捕虜の日本兵に描かせたものであろう。大日本航空は、1934年にダグラスDC-2輸送機を輸入し、中島飛行機(Nakajima)に生産を依頼した。SDASM Archivesは、それを混同し中島(Nakajima)がDC-3を原型にL2Dを実用化したような説明を期している。
Nakajima, L2D, Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3"" Title: Nakajima, L2D, Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3"" Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3"" Additional Information: Japan Designation: L2D Tags: Nakajima, L2D, Tabby Navy Type 0 Transport ""DC-3""
写真は Wikimedia Commons, SDASM Archives Catalog #: 01_00086228引用。


木戸幸一『木戸幸一日記』二〇・七・三一(「カマヤンの虚業日記」引用)
〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
 ----ソ連が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ-----。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速に「ポツダム宣言」米・英・支「三國」宣言)を利用して戦争を終結に導くの必要を力説----。
一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せり---。(引用終わり)

西側連合国軍,連敗の国軍(皇軍,日本陸海軍),敗戦の困窮に陥れられたと感じている国民は,いずれ天皇の権威を認めなくなるかもしれない。この国体護持への大きな不安が,大元帥昭和天皇による終戦の聖断の背景にある。原爆投下という外圧は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化し,ソ連参戦は,国体変革を目の前の危機として意識させた。

写真(右):1945年8月19日、一式陸上攻撃機で伊江島に到着する日本降伏使節団を待っているアメリカのダグラスC-54スカイマスター輸送機と迎えるアメリカ陸軍航空隊第3爆撃集団の兵士たち:右奥にダグラスC-54スカイマスター輸送機が、昇降用扉を開けたまま待機している。8月で蒸し暑いので、キャビンを高温にしないための配慮であろう。機体の周囲には、日本使節団を迎えるアメリカ軍の幹部、その周囲には武装した警備兵・衛兵がいる。敵日本軍の「生きた」爆撃機と日本軍人をまじかで見るのは初めての体験だったであろう。
3rd Bomb Group Title: 3rd Bomb Group Date: 1939-1945 Additional Information: 3rd Bomb Group Tags: 3rd Bomb Group, 3rd Bomb Group, 1939-1945
写真は、San Diego Air and Space Museum- Catalog #: 10_0018846引用。


スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したいこと」を伝えた。

写真(右):1945年8月19日、一式陸上攻撃機2機で伊江島に到着した 日本降伏使節団16名は、アメリカのダグラスC-54スカイマスター輸送機に乗り換えて、マニラに置かれたマッカーサー司令部に飛び立とうとしている。:右奥にダグラスC-54スカイマスター輸送機見える。手前は、日本使節団を見物に来たがアメリカ陸軍航空隊第7空軍第36戦闘飛行隊(7th Air Force; 36th)のメンバーで、この部隊はロッキード P-38ライトニング双発戦闘機を配備していた。普段目にすることのない敵日本軍の「生きた」爆撃機と日本軍人を見据えることは,最大級の見物だった。
Fighter Group; 7th Air Force; 36th; P-38s Title: Fighter Group; 7th Air Force; 36th; P-38s Date: 1941-1945 Additional Information: World War Two Squadron/Group Tags: Fighter Group; 7th Air Force; 36th; P-38s, World War Two Squadron/Group, 1941-1945
写真は、San Diego Air and Space Museum- Catalog #: 10_0018596引用。


 1945年8月11日,米国務長官バーンズの返答
  米英ソ中を代表して,ポツダム宣言は,天皇統治権(国体)に関して,連合国最高司令官の下に置かれることになると述べた。"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people. (日本国民の自由に表明する意思によって,日本の最終的な政治体制を決定するものとす。),"The armed forces of the Allied Powers will remain in Japan until the purposes set forth in the Potsdam Declaration are achieved." (ポツダム宣言が成就されるまでの連合軍の日本駐留)。(引用終わり)

写真(右):1945年8月19日,着陸間際の河辺虎四郎陸軍中将ら軍降伏軍使が搭乗した一式陸上攻撃機2機:白色塗装を施し、主翼、胴体側面、垂直尾翼にミドリ十字のマークを記入した。これが、休戦後でも飛行できる日本機の条件だったからである。1945年8月19日,軍使一行約17名は羽田から木更津経由で沖縄伊江島に向かった。途中からは,アメリカ陸軍航空隊のB25爆撃機がエスコートした。

1945年8月15日1200,「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴視者の皆様、ご起立願います」…「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこきも御自ら、大詔をのたらませたもうことになりました。これより慎みて玉音をお送り申します」。その後「君が代」につづいて、「終戦ノ詔書」が,大多数の国民にとって初めて聞く天皇の肉声を通じた「玉音放送」として,流された。

  写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島、着陸態勢に入った日本降伏使節団を乗せた日本海軍一式陸上攻撃機。手前の主翼は、これから大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名をマニラに空輸するダグラスC-54スカイマスター輸送機(右):アメリカ陸軍航空隊の兵士が警備に立っている。半裸で、気軽に敵日本軍の「生きた」爆撃機と日本軍幹部を見物にきた兵士もいるが、いざというときに備えて、武装した兵士も配置されていた。
world war two pictionid66747792 - title--world war ii pacific theater - japanese surrender ie shima island ---- - filename100023230.tif -Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)
写真は、San Diego Air and Space Museum- - catalog100023230引用。


日本のポツダム宣言受諾後、1945年8月15日、連合国軍最高司令官に任命されたマッカーサー元帥は,滞在していたフィリピンの首都マニラから,日本政府に対し、「即時停戦」を命ずるとともに、「正式降伏受理の打合せをなすため、軍人顧問を帯同する充分の権限を与えられたる使者」をマニラに派遣するように命令した。1942年初頭、自分が敗北・脱出したフィリピンのマニラに、大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団を呼び寄せ、復讐心を満たし、自分の戦勝を世界に誇示するためである。

写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島、 日本降伏使節団を運んできた日本海軍一式陸上攻撃機が着陸態勢に入っている。手前の主翼は、これから大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名をマニラに空輸するダグラスC-54スカイマスター輸送機(右):アメリカ陸軍航空隊の兵士が警備に立っている。半裸で、気軽に敵日本軍の「生きた」爆撃機と日本軍幹部を見物にきた兵士もいるが、いざというときに備えて、武装した兵士も配置されていた。
world war two image pictionid68338605 - title---world war ii pacific theater japanese surrender okinawa--- - filename100023440.tif-----Please tag this image so that info can be stored with our metadata. This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--
写真は、San Diego Air and Space Museum- catalog100023440引用。


以下は、河辺虎四郎(1979)『河辺虎四郎回想録』毎日新聞社引用。
マニラへの使節
八月十六日米国政府からつぎの要旨の通告が電報された。 A 直ちに連合国最高司令官の許に使者(複数)を派遣せよ。この使者はつぎの諸要件を備えなければならぬ。
 a 日本軍隊および司令官(複数)の配置に関する情報を持つこと。
 b 連合国最高司令官およびその同行する軍隊が、正式降伏受理のため、連合国最高司令官の指示する地点に到着し得るよう、連合国最高司令官の指令する打ち合わせをなすべき十分の権限が与えられてあること。
B 降伏の受理およびこれが実施のため、ダグラス・マッカーサー元帥が連合国最高司令官に任命せられた。
 同元帥は正式降伏の時、場所およびその他詳細事項に関して、日本政府に通報するであろう。

別に連合国最高司令官の名をもって、日本国天皇、日本国政府および日本国大本営宛として、つぎの趣旨の通告が送られた。(飛行の技術上の細部省略)
連合国最高司令官は、日本国政府に対し、フィリピン・マニラ市にある連合国最高司令官の司令部に、日本国天皇、日本国政府、日本国大本営の名において、降伏条件を遂行するため必要なる諸要求を受領するの権限を有する代表者を派遣することを命ずる。右代表者は、到着とともに、連合国最高司令官の要求を受領するの権限が与えられていることの天皇の証明文書を、連合国最高司令官に提出しなければならぬ。右代表者は、日本国陸軍、日本国海軍および日本国空 軍をそれぞれ代表する権限ある顧問を帯同するものとす。

 右一行は日本飛行機により、伊江島の飛行場にいたり、同地より米国の飛行機によりフィリピン・マニラに輸送せられるものとす。右一行の日本への帰還も、同様の方法によるものとす。(河辺虎四郎(1979)『河辺虎四郎回想録』毎日新聞社引用終わり)

  写真(右):1945年8月19日 日本降伏軍使を沖縄の伊江島に運んだ一式陸上攻撃機:1945年8月19日の早朝、大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は羽田飛行場から木更津に飛びそこから大型の一式陸上攻撃機2機に分乗して沖縄に向かった。四国沖にかかると打合せた通り米軍機が現われ誘導した。伊江島に着いてから,Douglas C-54輸送機に乗換えてマニラに予定の通り午後一時に発った。 John H. Payne, Jr. ("Jack"), flew Republic P-47 Thunderbolts. After the Japanese surrendered, their surrender envoy passed through Ie Shima, flying their big white-painted Mitsubishi G4M Betty bomber with green croses. Dad was there. (DAD'S PLANES参照)

以下は、河辺虎四郎(1979)『河辺虎四郎回想録』毎日新聞社に依拠して、マニラに派遣されることになった日本降伏使節団の人選の経緯をたどってみよう。 当然、降伏使節団には、日本陸海軍の責任ある地位にある鋼管が出向くべきであり、陸軍参謀総長梅津美治郎大将、海軍軍令部総長豊田副武大将が出向くべきである。しかし、彼らは、「なかなか引き受けようとの意志も表明されない」のは、いままで「徹底抗戦」「一億総特攻」を命令してきた将軍が、手のひらを返して、敗戦にかかわらず生き残り、降伏の手続きをするのは、生き恥と考えたからである。


写真(上):1945年8月19日 日本降伏軍使を沖縄の伊江島に運んだ日本海軍三菱G4M一式陸上攻撃機一一型
:1945年8月19日の早朝、大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は羽田飛行場から木更津に飛びそこから大型の一式陸上攻撃機11型2機に分乗して沖縄に向かった。四国沖にかかると打合せた通り米軍機が現われ誘導した。伊江島に着いてから,アメリカ陸軍ダグラスC-54輸送機に乗換えてマニラに予定の通り午後一時に発った。
Hundreds line the airfield to view the arrival of this Mitsubishi G4M-1 bomber Aug. 19, 1945 NARA " Headed by Lt. Gen. Torashiro Kawabe, Vice-Chief of the Army General Staff, the sixteen-man Japanese delegation on the morning of 19 August 1945 boarded two white, green-crossed, disarmed Navy medium bombers and departed secretly from Kisarazu Airdrome, on the eastern shore of Tokyo Bay. After landing at Ie Shima, according to General MacArthur's instructions, the Japanese passengers were immediately transferred to a U. S. Army C-54 Skymaster transport plane and put down on Nichols Field south of Manila at about 1800 that same day
写真は、George Lane引用。


陸軍では、土肥原大将および杉山元帥が梅津総長の説得に努めたが無駄だった。物量に負けたと称して、戦術・戦略が二流であると認めなかった軍最高幹部たちは、敗戦責任を回避するため、強情を押し通した。しかたなく「比較的軽易な事、たとえば正式調印日までの予備的行為の打ち合わせ、または書類伝達のごときであるならば、次長級ぐらいが適当であるかも知れない」と諦めた大本営参謀次長河辺虎四郎中将が降伏軍使の役を継いだ。海軍の大西軍令部次長と「降参だけはしたくないものだ」と語り合ったこともある大本営参謀次長河辺虎四郎中将率だったが、詔書のお「忍び難を忍び」として降伏使節団全権となった。しかし、海軍最高統帥部(軍令部)は、総長も次長も使節団に加わることを拒絶、敗戦責任を負わなかった。

写真(右):1945年8月19日 アメリカが占領していた沖縄諸島伊江島に到着した日本降伏使節団を乗せた日本海軍三菱G6M一式陸攻:終戦後の飛行のために、日本の日の丸ではなく、ミドリ十字を描き、白色塗装を施されている。日本軍の降伏手続きに飛来した使節団を警戒するアメリカ兵が手前に整列している。伊江島飛行場には見物の米兵もたくさんいた。
G4M-2, Betty Title: Mitsubishi, G4M-2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan Surrender Aircraft Designation: G4M-2 Tags: Mitsubishi, G4M-2, Betty
写真は、San Diego Air and Space Museum-Catalog #: 01_00085825引用。


伊江島に着いて旋回後着陸したが、伊江島飛行場の滑走路には、小銃で武装したアメリカ警備兵が警戒していた。これは、日本軍が攻撃することを警戒しての措置であり、使節団に敬意を払っての出迎えではない。

写真(右):1945年8月19日 アメリカ占領下、沖縄諸島伊江島に一式陸上攻撃機2機で到着した日本降伏使節団:大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、伊江島からマニラに飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊差し回しのダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機に乗り換えた。
Surrender of Japan, August-September 1945. A Japanese Mitsubishi G4M “Betty” which carried the envoys from Japan to General Douglas MacArthur in Manila, stops at Ie Shima airfield before proceeding to the Philippines, which will lead to the formal Japanese Surrender on September 2, 1945. Note the Red Crosses on the plane. Photograph released August 19, 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2015/11/10).
写真は、National Museum of the U.S. Navy- 80-G-490358: Surrender of Japan, August-September 1945 引用。


大本営参謀次長河辺虎四郎中将が降伏使節団全権となることは決まったが、8月17日に東京を出発することは困難なこと、降伏軍使の任務を明確にする必要があることを、日本政府およぴ統帥部の大本営の名をもって、8月16日に連合国最高司令官宛に、電報が打たれた。しかし、8月17日午後に連合国最高司令官から大本営にきた電報では、降伏軍使の任務は、降伏条項に署名することが、マニラに派遣せらるべき日本代表の任務に含まれないこと、本司令部よりの指令は遅滞なく遂行されること、を伝えてきた。そこで、すぐに降伏軍使を派遣することが決まり、随員の選定については、アメリカ側の要請も踏まえて、陸軍は陸軍省・参謀本部から適任者を選出し、海軍と外務省にも随員選定を依頼した。

写真(左):1945年8月19日 米軍の占領下にある沖縄県伊江島飛行場に降り立った日本軍降伏軍使を乗せた一式陸上攻撃機:白色に塗られ,日の丸に代えてミドリ十字のマークを付けている。ここから,降伏軍使は,ダグラスC54輸送機に乗り換え,マニラ飛行場に向かった。

降伏使節団の日本陸軍の随員は、次の7名である。
 天野正一少将(参謀本部作戦課長第一部第二課長)、山本新大佐(第六課長)、松田正雄中佐(第二課、航空)、南中佐(軍事課)、高倉中佐(軍務課)、大竹少尉および竹内少尉(ともに通訳要員として第二部より)。

8月18日午後、使節団全権となる大本営参謀次長河辺虎四郎中将は、内閣で外務省、海軍の随員と会い、8月16日に辞職した鈴木貫太郎の後を襲った総理大臣東久邇宮稔彦王から天皇の信任状を手交せられ、激励を受けた。

「私は随員一行に対し、信任状を朗読披露して、一行の十分な支援を請う旨の挨拶をした。夕刻陸海軍の一行は参謀本部に集まり、梅津総長と豊田総長列立の上、統帥上の命令を受けた。  そのあと、両総長が主人となり、冷酒の乾杯をもって送別の意を表された。  梅津総長は特別に私を呼んで、辛労をねぎらう意味の懇ろな言葉を与えられた。あいすまぬことながら、私は、総長の言葉に深き感激を覚えず、むしろただ己れの不運を感じてか、自分で自分を慰撫するような気持ちのみが動いていた − 戦史においてのみ、それも外国の戦史においてのみ読んだり聞いたりした敗戦国の軍使、私はその任にあてられたのだ。」 

写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島に大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名を運んできた白色塗装の日本海軍一式陸上攻撃機:白色ペイント不足か質の低さのためか、塗装の仕方が雑であり、薄汚れているように見える。搭乗員が、天蓋を開放して身を乗り出し、滑走路、地上勤務員の案内に従って駐機場に移動した。
AL-59 Perdomo Album Image _00063 From an Album belonging to Oscar Perdomo, who was a recipient of the Distinguished Service Cross, was a United States Air Force officer who was the last “ace in a day” for the United States in World War II.
写真は、San Diego Air and Space Museum- Image _00063引用。


「勝利感の絶頂にある敵側」が日本側の事情を斟酌して交渉するはずもなく、無条件降伏を受け入れ「”休戦の談判”を放棄してしまっている」のだから、日本側の自発的発言も許されないかもしれなかった。陸軍吉積軍務局長は「われわれの希望や注文を敵側に提示し得るならば幸いであるが、河辺中将一行は、ややもすれば現場で一言半句の発言も許されず、ただ命令を無言で受けとって、そのまま帰って行けといわれるかも知れん。しかもそうなっても、われわれの現況はいかんとも度しがたい立場にあるのだ。その辺のところをわれわれは覚悟しておらねばならぬだろう」といった。宮崎第一部長も「そのとおりだと思うのだ。われわれ側の事情を詳知している一行に、しかるべくやってもらうというほかないんだ」との意味で、例のごとき語調できめつけた。

写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島、急造の航空管制塔の前に停止している日本降伏使節団16名を運んできた日本海軍一式陸上攻撃機:エンジンは駆動中でプロペラが低速回転している。奥には、敵日本軍の「生きた」爆撃機や日本軍幹部を見物にきているアメリカ兵が見える。
Mitsubishi, G4M-2, Betty Title: Mitsubishi, G4M-2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan Surrender Aircraft Designation: G4M-2 Tags: Mitsubishi, G4M-2, Betty
写真は、San Diego Air and Space Museum- Catalog #: 01_00085835引用。


8月18日の打ち合わせの席に、海軍側から厚木基地の海軍航空隊が終戦に反対し、海軍の統制がとれないので、木更津でマニラ行き一行の乗機の試験飛行がなされたとき、厚木戦闘機隊がこれを追いかけたと、降伏使節団に対し危害を加えるのが心配であると伝えてきた。陸軍では、白塗青十字の塗装の降伏使節団搭乗機の安全運航のために、事前に8月19日の飛行機運航予定を陸軍航空隊一般に通諜していた。しかし、海軍では、降伏使節団への攻撃を危惧して、故意に通諜することを控え、秘密扱いにしていたのである。この敗戦にあっても、日本陸海軍は統率されていなかったのである。

写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島飛行場、大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名を運んできた白色塗装の日本海軍一式陸上攻撃機が指定位置に停止したところ。:舗装滑走路、アメリカ軍兵士、地上勤務員が迎え、指示を出するために近寄ってきた。日本機とアメリカ軍の伊江島とは、無線電話や電信での交信は容易ではなかったようだ。
world war two image pictionid68338601 - title---world war ii pacific theater japanese surrender okinawa--- - filename100023444.tif
写真は、San Diego Air and Space Museum- catalog100023444引用。


厚木航空隊の反乱情報を踏まえ、降伏使節団は、8月19日の出発時刻を一時間繰り上げ、午前六時木更津を出立すべきとの意見が大勢となった。しかし、降伏使節団全権河辺虎四郎中将は、これに反対し、飛行機の準備時間の確保、降伏軍使の撃墜が「大局上何の支障もない」と判断し、予定通り7時の出発となった。

写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島飛行場、日本降伏使節団を運んできた日本海軍一式陸上攻撃機の搭乗員とアメリカ軍兵士(右の2人):日本軍降伏使節団は、2機の一式陸攻に便乗して伊江島につき、そこからC-54輸送機1機に乗って、マニラのアメリカ軍の下に降伏に行った。写真下に「68 G 82 PL」とあるが、これは撮影した第68集団第82飛行隊のことであろう。
15 Daniels Album Surrender Convoy Ie Shima Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two.
写真は、San Diego Air and Space Museum- 引用。


日本降伏使節団河辺虎四郎全権一行16名を乗せた一式陸攻2機の搭乗員たちは、到着した伊江島飛行場で、降伏使節団がマニラから帰還する迄、待機させられていたと考えられる。アメリカ軍兵士、地上勤務員は、日本機とその搭乗員を見物するために、近寄ってきた。

写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島に大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名を運んできた日本海軍一式陸上攻撃機:手前、奥には気軽に敵日本軍の「生きた」爆撃機と日本軍幹部を見物にきている多数のアメリカ兵士が集まっている。
Mitsubishi, G4M-2, Betty Title: Mitsubishi, G4M-2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan Surrender Aircraft Designation: G4M-2 Tags: Mitsubishi, G4M-2, Betty
写真は、San Diego Air and Space Museum- Catalog #: 01_00085813引用。


8月19日(日曜)快晴、宿舎を出で、5時45分、羽田飛行場に着いた大本営参謀次長河辺虎四郎中将は、陸軍省軍務局長の吉積正雄(1893-1985)中将、参謀本部第一(作戦)部長宮崎周一(1895-1969)中将、参謀本部総務課長の榊原主計大佐らの見送りを受け、6時ダグラス(DC-3日本版の零式輸送機)に乗り込み、10分で海軍第三航空艦隊の展開する木更津基地に到着、寺岡謹平海軍中将に迎えられ、朝食を摂った。

 ここに揃った使節団は、陸軍一行、外務省(アメリカの指令による政府側)の調査局長岡崎勝男と書記官湯川盛夫、海軍からは、元駐米大使館附武官で海軍省首席副官・軍令部出仕横山一郎(1900-1993)少将、軍令部作戦課長大前敏一(1900-1993)大佐、軍務局第三課長吉田英三大佐、軍令部員第一課員寺井義守中佐、海軍省書記官杉田主馬、海軍嘱託溝田主一で、そのほか伊江島まで往復する藤原主計少尉がいた。

  写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島に大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名を運んできた日本海軍一式陸上攻撃機とこれから使節団をマニラに空輸する飛行機は、ダグラスC-54スカイマスター輸送機(奥):手前のアメリカ陸軍航空隊の兵士たちは、半裸で、気軽に敵日本軍の「生きた」爆撃機と日本軍幹部を見物にきている。
Ie Shima Surrender Title: Le Shima Surrender Date: 1939-1945 Additional Information: Ie Shima Surrender Tags: Ie Shima Surrender, Ie Shima Surrender, 1939-1945 with Japanese Betty surrender aircraft.
写真は、San Diego Air and Space Museum- Catalog #: 10_0018847引用。


写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島に大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名を運んできた日本海軍一式陸上攻撃機2機
2 Mitsubishi, G4M-2, Bettys Title: Mitsubishi, G4M-2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan surrender planes Designation: G4M-2 Tags: Mitsubishi, G4M-2, Betty
写真は、San Diego Air and Space Museum- Catalog #: 01_00085821引用。



写真(上):1945年8月19日 沖縄諸島伊江島、日本降伏使節団16名を運んできた日本海軍一式陸上攻撃機2機
:日本軍使節団は、C-54スカイマスター輸送機に乗り換え、マニラに降伏手続きのために出発した。2機の一式陸攻は、使節団の帰りを待つために伊江島に留め置かれた。
G4M-2, Betty Title: Mitsubishi, G4M-2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan Surrender Aircraft Designation: G4M-2 Tags: Mitsubishi, G4M-2, Betty
写真は、San Diego Air and Space Museum-Catalog #: 01_00085834引用。


写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島飛行場、日本降伏使節団を運んできた日本海軍一式陸上攻撃機の搭乗員とアメリカ軍兵士(右の2人):日本軍降伏使節団は、2機の一式陸攻に便乗して伊江島につき、そこからC-54輸送機1機に乗って、マニラのアメリカ軍の下に降伏に行った。しかし、一式陸攻の搭乗員たちは、伊江島で、降伏使節団がマニラから帰還する迄、待機させられていたと考えられる。アメリカ軍兵士、地上勤務員は、日本機とその搭乗員を見物するために、近寄ってきている。写真下に「68 G 82 PL」とあるが、これは撮影した第68集団第82飛行隊のことであろう。
Mitsubishi, G4M-2, Betty Title: Mitsubishi, G4M-2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan Surrender Aircraft Designation: G4M-2 Tags: Mitsubishi, G4M-2, Betty
写真は、San Diego Air and Space Museum- Catalog #: 01_00085808引用。


写真(右):1945年8月19日、日本海軍一式陸上攻撃機に飲んて、アメリカ占領下の沖縄本島北、伊江島に到着した大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名:伊江島からマニラに飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊差し回しのダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機に乗り換える。一式陸攻の胴体左後方の昇降口には、革製の飛行帽子を被った海軍の搭乗員が見える。
Japanese envoys arrive on Ie Shima airfield to board a USAAF C-54 for the hop to Manila - 1945 Source: Howard, Clive and Whitley, Joe, "One Damned Island After Another", United States Army Air Forces Personnel Narratives, Chapel Hill Univ. of North Carolina Press, 1946.
写真は、George Lane引用。


降伏使節団一行16名の搭乗機は、輸送機として使用されていた旧式の一式陸上攻撃機11型2機で、アメリカ側の指示通り、飛行許可を得るために、全体白塗、緑十字を胴体・主翼・垂直尾翼に大きく描いている。2機に分乗した使節団は、航法を寺井海軍中佐に託して、午前7時15分頃あいついで離陸した。エンジン好調、快晴のち南西列島上空で断雲が出た。

 沖縄への飛行中、降伏使節団全権の河辺虎四郎中将の心配は、正式の降伏調印を大元帥昭和天皇が強要されることで、これは敵民主主義国の世論を考えれば当然予測できることだった。天皇の臨場署名を要求された場合、河辺虎四郎中将は、その指令を甘受、復命できかねると考えていた。出発前に降伏軍使に、軍服着用、拳銃携行を命じたが、この意味は、万が一の場合、自決の覚悟だったというのである。

  写真(右):1945年8月19日、日本海軍一式陸上攻撃機でアメリカ占領下の沖縄本島北、伊江島に到着した日本降伏使節団(最前列が大本営参謀次長河辺虎四郎陸軍中将):伊江島からマニラに飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊は、ダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機(後方)を日本軍降伏軍使に用意していた。
Japanese surrender team transfer planes on Ie Shima Aug 19, 1945 NARA Lt. Gen. Kawabe Takeshiro, 2nd from left, waits to transfer from his Betty Bomber [Mitsubishi G4M-1] which had just landed on Ie Shima to an American Air Transport Command C-54 for the trip to Manila, Philippines for the official surrender ceremony. He held the title of Vice Chief of the Imperial Staff and was the leader of the delegation. Upon arriving on Ie Shima, he attempted to present the American commander who met him with a bouquet of flowers which the American refused to accept. Perhaps that accounts for the sour face?
写真は、George Lane引用。


「沖縄島付近に近づいた頃、かねて彼側から通告されてあったとおり、誘導機が現れてわれわれの機を誘導した。午後一時半頃われわれは伊江島に無事着陸した。着陸ぶりは敵側将兵の目の前で、みっともなくない手ぎわであった。 

 この飛行場は私がはじめて見るので、日本時代との比較はできぬが、滑走路の舗装状況や土地の掘開状況などを見ると、敵側の占領後に大いに手を入れたことがよくわかり、戦争間われわれの最も手痛い強敵であった動力化土工器材の偉勲をマザマザ見せつけられた。」(河辺虎四郎(1979)『河辺虎四郎回想録』毎日新聞社引用)。

写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島飛行場、日本降伏使節団16名を運んだ日本海軍一式陸上攻撃機2機と誘導エスコートしたノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機(奥):日本降伏使節団16名は、すでにC-54スカイマスター輸送機に乗り換えて、マニラ郊外ニコルス基地に飛び立った後のようだ。手前は、日本使節団を見物に来たがアメリカ陸軍航空隊第7空軍第36戦闘飛行隊(7th Air Force; 36th)のメンバーかもしれない。この部隊はロッキード P-38ライトニング双発戦闘機を配備していた。普段目にすることのない敵日本軍の「生きた」爆撃機と見物するのは,大きな見物だった。
Japanese Surrender Aircraft Collection: Zilda Decarlo Collection
写真は、San Diego Air and Space Museum-Catalog #: 01_00085833 引用。


大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる降伏使節団16名には、海軍軍令部総長はもちろん次長も欠席しており、陸海軍の権威・予算の対等を呼号してきた海軍としては、最後の敗戦責任は、台頭に負担しようとしなかった。一式陸攻2機を出したのは、軍令部最高責任者を出さなかったkじょとの言い訳のようなものであろう。降伏使節団は、木更津から一式陸攻2機に分乗し、沖縄方面に向かったが、高知沖で護送・先導のために派遣されたノースアメリカンB-25爆撃機とボーイングB-17爆撃機と邂逅し、沖縄本島隣の伊江島飛行場に向かった。伊江島飛行場からは、アメリカ陸軍のダグラスC-54スカイマスター輸送機に乗り換えて、マニラ郊外ニコルス基地に向かった。び立った後のようだ。

 伊江島には、アメリカ陸軍航空隊第7空軍第36戦闘飛行隊(7th Air Force; 36th)のロッキード P-38ライトニング双発戦闘機やリパブリックP-47N戦闘機など長距離戦闘機が配備されており、日本本土九州侵攻「オリンピック作戦」に備えていた。実戦部隊に勤務していたアメリカ兵でも、普段目にすることのない敵日本軍の「生きた」爆撃機と見物するのは,貴重な機会だったに違いない。多数のアメリカ兵が、降伏使節団一行や一式陸攻を見物に集まってきていた。

写真(右):1945年8月19日 一式陸上攻撃機2機でアメリカが占領していた沖縄諸島伊江島に到着した日本降伏使節団がマニラに飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊差し回しのダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機に乗り換える。:1945年8月19日,羽田から木更津を経由し、日本海軍一式陸攻2機で、主に統帥部軍幹部からなる大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名が、沖縄伊江島飛行場に着いた。ここで,アメリカ軍差し迎えのダグラスC-54スカイマスター輸送機(1機)に乗り換えた使節団は、マニラに向かった。マニラにあったマッカーサー司令部と日本軍の降伏手続きの指令を受けに来たのである。伊江島飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。
world war two image pictionid68338853 - title---world war ii pacific theater japanese surrender.--- - filename100023468.tif-----Please tag this image so that info can be stored with our metadata. This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--
写真は、San Diego Air and Space Museum- - catalog100023468引用。


伊江島以降もまた天気がよく、高度は目測四千メートルぐらいであろうか。

 午後五時四十五分(私の時計−東京時間)マニラのニコラス・フィールド飛行場に着陸した。この飛行場は、かって私が、航空本部の総務部長として、南方戦場を巡視した際、わが部隊の駐留している勝利の雰囲気の中に実視し、改築施工などのことについて論じあったこともあったが、今、この国家の完全な敗戦にもとづく新しい任務をもって、敵の占有下に着陸する運命に際会した。その前後の時間間隔三年と四ヶ月。
河辺虎四郎回想引用)


写真(上):1945年8月19日 沖縄諸島伊江島、日本降伏使節団を乗せて飛来した日本海軍三菱G6M一式陸攻と警備する武装したアメリカ軍将兵
:日本軍使節団は、アメリカ機に乗せられて日本使節団はマニラに降伏手続きのために出発したので、その帰りを伊江島で待っている。アメリカ軍の指令に基づいて、敗戦後の飛行許可を得るために、真っ白に塗装した機体に、胴体・垂直尾翼、主翼に緑十字を記章を描いた。銃座は残されているが、武装は施されていない。
G4M-2, Betty Title: Mitsubishi, G4M-2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan Surrender Aircraft Designation: G4M-2 Tags: Mitsubishi, G4M-2, Betty
写真は、San Diego Air and Space Museum-Catalog #: 01_00085817引用。



写真(上):1945年8月19日 沖縄諸島伊江島、日本海軍三菱G6M一式陸攻で飛来した日本降伏使節団が後方のC-54スカイマスター輸送機に乗り換える。
:日本軍使節団は、アメリカ機に乗せられて日本使節団はマニラに降伏手続きのために出発する。
G4M-2, Betty Title: Mitsubishi, G4M-2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan Surrender Aircraft Designation: G4M-2 Tags: Mitsubishi, G4M-2, Betty
写真は、San Diego Air and Space Museum-Catalog #: 01_00085814引用。


写真(右):1945年8月19日 アメリカが占領していた沖縄諸島伊江島に到着した日本降伏使節団を乗せた日本海軍三菱G6M一式陸攻:終戦後の飛行のために、日本の日の丸ではなく、ミドリ十字を描き、白色塗装を施されている。日本軍使節団は、降伏手続きのためにマニラに飛び立った後であろう。使節団を乗せてきた一力陸攻は、伊江島で一晩を明かし、使節団の帰国を待った。
G4M-2, Betty Title: Mitsubishi, G4M-2, Betty Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Betty Additional Information: Japan Surrender Aircraft Designation: G4M-2 Tags: Mitsubishi, G4M-2, Betty
写真は、San Diego Air and Space Museum-Catalog #: 01_00085804引用。


写真(右):1945年8月19日、沖縄諸島伊江島に 日本降伏使節団16名を運んだ日本海軍一式陸上攻撃機:大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、ダグラスC-54スカイマスター輸送機に乗り換えて、マニラに飛び立った後かもしれない。 手前は、日本使節団を見物に来たがアメリカ陸軍航空隊第7空軍第36戦闘飛行隊(7th Air Force; 36th)のメンバーらしく、この部隊はロッキード(Lockheed)P-38ライトニング双発戦闘機を配備していた。普段目にすることのない敵日本軍の「生きた」爆撃機と見物するのは,大きな見物だった。
Charles M. Daniels Collection Photo Title: Charles M. Daniels Collection Photo Aircraft/Subject: Mitsubishi G4M Betty Surrender Aircraft Daniels Album Name: 71st Tactical Reconnaisance Group Reunion, 10/1990 Houston, TX Notes From Album: Japanese surrender plane, Mitsubishi G4M, code name ""Betty"", Ie Shima, Aug '45.
写真は、San Diego Air and Space Museum- Catalog #: 15_000026引用。


写真(右):1945年8月19日 一式陸上攻撃機2機でアメリカが占領していた沖縄諸島伊江島に到着した日本降伏使節団がマニラに飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊差し回しのダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機に乗り換える。:1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は沖縄伊江島に着いたが,飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。
world war two image pictionid68338602 - title---world war ii pacific theater japanese surrender okinawa--- - filename100023442.tif - filename100023469.tif Please tag this image so that info can be stored with our metadata. This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、San Diego Air and Space Museum- - catalog100023442引用。


写真(右):1945年8月19日 一式陸上攻撃機2機でアメリカが占領しいた沖縄諸島伊江島に到着した大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名がマニラに飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊差し回しのダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機に乗り換える。:1945年8月19日,降伏使節団16名は沖縄伊江島に着いたが,飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。
Surrender of Japan, August-September 1945. High ranking officers of the U.S. Army face Japanese envoys to General Douglas A. MacArthur, under the wing of a giant C-54 waiting on Ie Shima to take the enemy dignitaries to Manila for conferences with the Allied Commander-in-Chief. The Japanese landed at the island in distinctly marked planes (Red Crosses) and transferred to the transport for the last leg of their journey. Photograph released August 19, 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2015/11/10).
写真は、National Museum of the U.S. Navy- 80-G-490358: Surrender of Japan, August-September 1945 引用。



写真(上):1945年8月19日 アメリカが占領している伊江島で一時抑留された降伏軍使を運んだ一式陸攻11型の海軍搭乗員がジープで運ばれている。
:降伏軍使一行は、アメリカ陸軍ダグラスC-54スカイマスター輸送機に乗り換えて、、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場に向かった。降伏軍使が伊江島に帰還したら、再び東京に一式陸攻を操縦して帰ることになる。1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、マッカーサーに会うために沖縄諸島伊江島からマニラに到着した。
Japanese crew being taken to their quarters on Ie Shima Aug. 19, 1945 NARA The Japanese crew of the two Mitsubishi G4M-1 bombers stayed in quarters on Ie Shima while the surrender team proceeded on to Manila to meet with Gen. MacArthur. Interestingly, the pilots were dressed in fur lined helmets and insulated flight suits which were ill suited for hot Ie Shima in August. On the other hand, perhaps it was the sight of the pin-up on side of the American jeep that had them sweating?
写真は、George Lane引用。


写真(右):1945年8月19日 沖縄の伊江島からダグラスC-54「スカイマスター」輸送機に乗ってマニラのマッカーサー司令部に向かう日本降伏軍使:1945年8月19日,軍使一行約17名は羽田から木更津経由で沖縄伊江島に着いた。そこから,Douglas C54輸送機に乗換えてマニラに予定の通り午後一時に発った。(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:外務省調査局長岡崎勝男「降伏軍使マニラへの旅」参照)

1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる降伏使節団16名は、羽田からダグラスDC-3輸送機(日本海軍仕様)に乗り、千葉県木更津基地に着き、そこから海軍の一式陸上攻撃機2機に分乗して、沖縄伊江島に向かった。伊江島飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。見物人なかには、沖縄住民も含まれていたようだ。

   写真(右):1945年8月19日 日本降伏使節団が搭乗した一式陸上攻撃機2機が伊江島に到着:1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は沖縄伊江島に着いたが,飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。当時の写真は,公式撮影だけはなく,米兵のプライベート・フィルムにも多数残っている。やはり,正面から戦ってきた敵の航空機と軍人を見据えるることは,最大の見物だったのであろう。
world war two image pictionid68338546 - title---world war ii pacific theater japanese surrender okinawa--- - filename100023439.tif-----Please tag this image so that info can be stored with our metadata. This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、San Diego Air and Space Museum- catalog100023439 引用。


以下は、岡崎勝男(1947)「降伏軍使マニラへの旅」『政界ジープ』10月号所載,pp.52-58;安田武・福島鋳郎編『ドキュメント昭和二十年八月十五日占領下の日本人』1984年、双柿舎からの引用
マニラ行きの命
不安と焦燥の中にとうとう八月十五日となった。終戦の詔勅とともに我々も一時に疲れが出たようでがっかりしてしまった。しかし実際の仕事はそれからそれへと追いかけてくるので休むどころではなく、国内多方面との打ち合せは勿論、スイス,スウェーデンを通じての外部との連絡やマニラの連合軍司令部との直接の交信なども多くなって、ますます多忙の中に日一日と暮れて行った。

写真(右):1945年8月19日 一式陸上攻撃機2機で伊江島に到着した大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名がマニラのマッカーサーの下に飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊差し回しのダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機に乗り換える。:1945年8月19日,降伏使節団16名は沖縄伊江島に着いたが,飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。当時の写真は,公式撮影だけはなく,米兵のプライベート・フィルムにも多数残っている。やはり,正面から戦ってきた敵の航空機と軍人を見据えるることは,最大の見物だったのであろう。
world war two image pictionid68339020 - title---world war ii pacific theater japanese surrender.--- - filename100023469.tif Please tag this image so that info can be stored with our metadata. This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、San Diego Air and Space Museum- - catalog100023469引用。


そのうちマニラの総司令部から降伏に関する指示をうけるため、日本側陸海軍の専門家を至急マニラに派遣せよとの要求があってこの準備に忙殺されていると、八月十六日になって突然外務大臣から、自分もその使節の一行に加って行くようにとの命令があった。正式の代表は参謀次長河辺虎四郎中将であったが、外務大臣は私には副団長の格で出掛けるのだとの話であった。

写真(右):1945年8月19日 日本降伏使節団が搭乗した一式陸上攻撃機2機が伊江島に到着:1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名が沖縄伊江島に着いたが,飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。当時の写真は,公式撮影だけはなく,米兵のプライベート・フィルムにも多数残っている。やはり,正面から戦ってきた敵の航空機と軍人を見据えるることは,最大の見物だったのであろう。
world war two image pictionid68338603 - title---world war ii pacific theater japanese surrender okinawa--- - filename100023443.tif-----Please tag this image so that info can be stored with our metadata. This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、San Diego Air and Space Museum- - catalog100023443引用。


八月十九日の早朝一行約十七名は羽田飛行場に集合して、そこから木更津に飛び木更津飛行場から大型の爆撃機二機に分乗して沖縄に向った。飛行機は木更津をひそかに離陸して南へ南へと飛ぶ。これは万一特攻基地から降伏打合に行くことを探られ襲撃されてはならないというわけで、殊更本土を離れて遥か南の海を飛んで行ったのだそうである。

---四国の沖にかかると打合せた通りアメリカの飛行機が現われてわれわれを誘導してくれた。そこでこちらからは予め打合せていた通り「バターン、バターン」という呼出し符号を無線で飛ばした。すると向うからYes,we are Bataan’s watch dog,follow us―という返事がきた。戦争という冷酷な現実にも拘らず、ここにもアメリカン・ユーマーがあるのを微笑ましく思った。

写真(右):1945年8月19日 沖縄諸島伊江島に到着した大本営参謀次長の河辺虎四郎中将率いる降伏使節団16名がマニラに飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機に乗りこむ:1945年8月19日,降伏使節団16名は一式陸上攻撃機2機に分乗してアメリカが占領下の沖縄伊江島に着いた。飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。
Japanese Delegation Boards C-54 Transport in Ie Shima, Japan Bound for Manila and Surrender Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers Keywords Armed forces officers ; World War, 1939-1945 HST Keywords Japan - Ie Shima; Japan - Surrender Rights Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3344 引用。


引続き一機だと思っていたアメリカの飛行機が二機になり三機となる。ふと気がつくと見渡す限り一面に、米国機が飛んでいるのに驚いた。数は二百や三百ではなかったであらう。我々を誘導するわけでもないし、又我々を保護してくれるにはあまりにも大袈裟だ。恐らく日本の降伏飛行機を見物がてら飛んできたものではないかしら。我々の爆撃機はこのアメリカの大群の飛行機に囲れながら、とうとう沖縄本島の肩のところにある伊江島の上空に達した。そして一、二回旋回してから滑走路に着陸した。

写真(右):1945年8月19日 一式陸上攻撃機2機でアメリカが占領していた沖縄諸島伊江島に到着した大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる降伏使節団16名がマニラに飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊差し回しのダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機に乗りこむ。
world war two image pictionid68339020 - title---world war ii pacific theater japanese surrender.--- - filename100023469.tifPlease tag this image so that info can be stored with our metadata. This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、San Diego Air and Space Museum- - catalog100023469引用。


よくアメリカのラジオや新聞に「エアー・ストリップ」ということがあって、私はこれはやはり簡単な飛行場のことでもいうのだろうと思っていたが、いま伊江島に着いてみるとこのエアー・ストリップという字の意味がはっきり分った。これは要するに日本の飛行場のように広い地域を均して、その中に滑走路を設けるのではなく、伊江島の丘あり川ありしている凹凸の土地の中に滑走路だけを真直に作って、他は構わない方式のようである。

伊江島飛行場の光景は今でも忘れられない。恐らくあの島にいる米国人も沖縄の住民も、挙って我々の一行を見物に出てきたのであろう。ちょうど我々は珍らしい動物かなにかのようにあらゆる人の眼に曝され、非常に多くの写真機の的になったのであって自分はこれほど多くの写真を写された経験は生れて初めてだった。

写真(右):1945年8月19日 一式陸上攻撃機2機でアメリカが占領していた沖縄諸島伊江島に到着した日本降伏使節団がマニラに飛ぶために、アメリカ陸軍航空隊差し回しのダグラスC-54 スカイマスター四発輸送機に乗り換える。:1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる降伏使節団16名は沖縄伊江島に着いたが,飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。
Caption:Surrender of Japan, August-September 1945. Japanese envoys mounting the ladder of a C-54 at Ie Shima. The plane will take them on the last step of their journey to Manila for a conference with General Douglas MacArthur. Photograph released August 19, 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2015/11/10).
写真は、National Museum of the U.S. Navy- 80-G-490360: Surrender of Japan, August-September 1945 引用。


我々が伊江島に着いてみるとそこから乗換えてマニラに行くべきアメリカの大型飛行機はすでにプロペラを廻して用意してあった。---殆ど休む暇もなくアメリカの飛行機に乗移って予定の通り午後一時伊江島を飛立った。

岡崎勝男(1947)「降伏軍使マニラへの旅」『政界ジープ』10月号所載,pp.52-58;安田武・福島鋳郎編『ドキュメント昭和二十年八月十五日占領下の日本人』1984年、双柿舎引用終わり


3.1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス基地(Nichols Field)にダグラスC-54スカイマスター輸送機で護送された日本降伏使節団の大本営参謀次長河辺虎四郎中将一行16名が降り立った。日本降伏使節団全権(大本営参謀次長)河辺虎四郎中将は、マッカーサー司令官とではなく、アメリカ陸軍南西太平洋域(South West Pacific Area :SWPA)参謀長リチャード・サザーランド中将と会談し、降伏布告分、連合軍の上陸について取り決めをした。1945年8月20日1300,マニラをC-54輸送機で出立した降伏使節団は、伊江島飛行場に戻り、一式陸攻に乗り換えて、東京に向かった。しかし、この一式陸攻は帰路途上に故障、浜松沖に不時着した。8月21日に、降伏使節団はなんとか浜松飛行場で四式重爆撃機を徴用し調布飛行場に帰還できた。

写真(右):1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場にダグラスC-54スカイマスター輸送機で到着した日本降伏使節団長(全権日本降伏使節団長大本営参謀次長の河辺虎四郎中将ら16名):1945年8月19日,降伏使節団16名は沖縄諸島伊江島からマニラに飛んだ。
Interior of Snack Bar at Nichols Field Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers Keywords Shopping ; Soldiers ; Military exchanges Rights Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2013-2361 引用。


降伏使節団の行程は,日本機により伊江島飛行場に至り,同地より米機によりマニラに輸送せらるるものとされた。そこで,1945年8月19日0718,降伏全権委員の河辺虎四郎中将(参謀本部次長)と随員13名は,羽田をたち,木更津飛行場から,白塗り緑十字マークの一式陸上攻撃機2機で,伊江島飛行場に向かって出発した。途中、米軍のP38戦闘機に誘導され伊江島飛行場に到着。降伏使節団は,米軍のC54輸送機に乗り継いで、マニラ時間の1754,マニラに到着した。


写真(上):1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場にダグラスC-54スカイマスター輸送機から日本降伏使節団大本営参謀次長の河辺虎四郎中将一行が降り立つ。
:1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、マッカーサーに会うために沖縄諸島伊江島からマニラに到着した。
Japanese surrender deligation deplaneing from a C-54 Skymaster transport aircraft on Nichols Field, Philippines - Aug. 1945 Source of Photograph: University of Pittsburgh; Harold Corsini Photographs. [original can be downloaded from the Library System of the Univ. of Pittsburgh; however, Corsini family holds the copy right. Use of the image requires written permission.].
写真は、George Lane引用。


以下の引用は、岡崎勝男(1947)「降伏軍使マニラへの旅」『政界ジープ』10月号所載,pp.52-58;安田武・福島鋳郎編『ドキュメント昭和二十年八月十五日占領下の日本人』1984年、双柿舎
米軍の輸送機は非常に大型で我々一行が全部入っても半分の座席もふさがらない位である。---六時マニラのニコルス飛行場についた。飛行機を出てみると総司令部から将官一名、佐官数名がきていて我々を指図して自動車に分乗させ直ぐに宿舎に向った。後で知ったことであるが、この時の将官はウィロビー少将で長くマックアーサー元帥の下にあり、その後東京にきて現在も総司令部の諜報部長をしており、また佐官の中には日本に長くいて日本語の読み書きも自由に出来るマッシュバー大佐も交っていた。

このときの飛行場の周囲とホテルに向かう途中の光景は伊江島の時にも増して物凄い物であった。やはりこの珍しい動物でも見物しようという風に集った数万の群衆、この群衆の中から一斉射撃を加えるカメラの放列、これに交って比島人の我々を罵る声、こうした渦の中を我々はウィロビー少将以下の保護の下に漸く宿舎に着いたのであった。沿道に列ぶ比島人の中から時々「コリッコリッ!」というような声が聴えたので聞いてみると、日本人が従来比島人に対して「コラッコラッ」といっていたので、それが訛って我々に用いられたのだそうであった。


写真(上):1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場にダグラスC-54スカイマスター輸送機から降り立ったばかりの日本降伏使節団大本営参謀次長の河辺虎四郎陸軍中将
:1945年8月19日,日本降伏使節団16名は、マッカーサーに会うために沖縄諸島伊江島からマニラに到着したが、敬礼も儀仗兵もなく、丁寧ではあるが捕虜としての扱いだった。
Japanese surrender deligation deplaneing from a C-54 Skymaster transport aircraft on Nichols Field, Philippines - Aug. 1945 Source of Photograph: University of Pittsburgh; Harold Corsini Photographs. [original can be downloaded from the Library System of the Univ. of Pittsburgh; however, Corsini family holds the copy right. Use of the image requires written permission.].
写真は、George Lane引用。


廃墟の中に僅かに残った建物の一が我々の宿舎であった。各々室を当てがわれて水風呂に汗を流し、直に食堂に行くとまた思いがけない御馳走が沢山並んでいた。その後米国の通信にも日本の使節団は、七面鳥の饗応を受けたと書いてあったが、正にその通りで七面鳥のみならず、色々の御馳走に戦争以来の胃の腑を驚かした。

食事が終ると間もなく会議のために出掛けるのであった。この時も飛行場から来たと同じように、M・Pの先導によって往来の交通を一時止め,我我の車のみが廃墟の街を疾走して司令部の所在地であるシティ・ホテルに入った。ここで先方の代表たるサザランド参謀長に面会し、我々が正式に使節であることを証明する書類を渡して直に会議に入ったのであるが、この時は陸海軍の専門の軍事事項のみを説明する目的であったから、自分ら数名は少時にしてそこを辞して宿に帰って待っていた。午前二時頃と記憶するが一行は会議から帰って来て、色々とその模様について報告があったが、大体に於て話は順調に進み先方も我等の誠意のあることはよく諒解したようである。


写真(上):1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場にダグラスC-54スカイマスター輸送機から降り立ったばかりの日本降伏使節団大本営参謀次長の河辺虎四郎陸軍中将
:1945年8月19日,日本降伏使節団16名は、マッカーサーに会うために沖縄諸島伊江島からマニラに到着したが、敬礼も儀仗兵もなく、丁寧ではあるが捕虜としての扱いだった。
Japanese surrender party arrives in the Philippines Aug. 1945 " Headed by Lt. Gen. Torashiro Kawabe, Vice-Chief of the Army General Staff, the sixteen-man Japanese delegation on the morning of 19 August 1945 boarded two white, green-crossed, disarmed Navy medium bombers and departed secretly from Kisarazu Airdrome, on the eastern shore of Tokyo Bay. After landing at Ie Shima, according to General MacArthur's instructions, the Japanese passengers were immediately transferred to a U. S. Army C-54 Skymaster transport plane and put down on Nichols Field south of Manila at about 1800 that same day.
写真は、George Lane引用。


それから朝迄打合せを続け、翌朝十時再び会場に出向いたが、この時は先方の注意もあり、自分も河辺中将と一緒に室に入った。会場には既にサザランド参謀長を真中にして、ウィロビー少将、ウィットロック少将、シャーマン海軍大将、チャンパーリン少将、ハッチソン准将等陸海軍の将星がずらりと並んで我等を待っていた。その態度は厳格であったが、勝者の傲慢さもなければ、敗者を侮るような様子も見られなかった。そうして会議はアメリカ式の能率本位でそれからそれへと議事を進めていった。

正午迄には凡ての説明も指示も完了して会場を出るとすぐ自動車に乗せられ、一路飛行場に向った。自分等の荷物はと聞くとそれはアメリカ兵が各々ホテルの室に行って荷物を詰めて飛行場に送るという話であった。飛行場に着くと話の通り荷物も届いており飛行機のプロペラも廻って居って我々が乗ると直ぐ動き出して、一路伊江島に向うという仕組である。この驚くべき能率のために我々のマニラ滞在は二十時間足らずで、凡ての使命を果し帰途に着いたわけである。
人間味ある米軍の将星
自分はマニラ滞在の短い間にウィロビー少将やマッシュバー大佐などと色々話をする機会を得た。そうしてこのアメリカの将軍が、昔から日本の尊んでいた武士道精神をそっくりそのまま持って居て、厳正ではあるが苛酷ではなく、正しく且つ人間味のある態度をことごとに示してくれたことを今でも忘れない。この時以来自分はウィロビー少将を深く尊敬しているが、このような態度は米軍一般に持つところのものであろうということを直感して、日本の降伏とそれに引き続く占領はきっと満足に行くであろうと思うようになった。従ってマニラに来るまではどうなることかと気遣っていた不安も帰る時分にはすっかり消えて、寧ろ明るい気持ちを懐いて戻ってきたのであった。
岡崎勝男(1947)「降伏軍使マニラへの旅」『政界ジープ』10月号所載,pp.52-58;安田武・福島鋳郎編『ドキュメント昭和二十年八月十五日占領下の日本人』1984年、双柿舎引用終わり。

写真(右):1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場にダグラスC-54スカイマスター輸送機で到着した日本降伏使節団長大本営参謀次長の河辺虎四郎中将ら16名:1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、マッカーサーに会うために沖縄諸島伊江島からマニラに到着した。
Nichols Field, Manila as Members of the Japanese Delegation Arrive Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers Keywords Airplanes, Military ; Airports ; Armed forces officers ; World War, 1939-1945 Rights The sixteen members of the Japanese delegation disembarking from a C-54 transport plan after a flight from Ie Shima to Nichols Field, Manila, Philippines. They are greeted by Major General Charles A. Willoughby from General Douglas MacArthur's staff. They came to Manila to negotiate the Japanese Surrender Agreement. This photograph was given to Colonel Westray B. Boyce during her tour of the Pacific Theatre during the Fall of 1945. Date(s) August 19, 1945.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3340 引用。


以下は、河辺虎四郎(1979)『河辺虎四郎回想録』毎日新聞社引用
 飛行機を出て、タラップを降りようとすると、写真機の集中射を蒙った。タラップを離れるとともにそこに立っていた一人の大佐が、日本語ではっきりと「お迎えに釆ました」という。この言葉によって、私には一種の親和感がおこり、その刹那まで体内に充ち満ちていた重苦しい気持ちが瞬間的にほぐれて、ほとんど無意識的に握手の手をさしのべた。彼もまたこれに応ずるように、右手をのばしたが、ヒョッと思いなおしたかのように、その動作をやめた。それで私もはっと気がつき、「握手はまだいけないんだ」と感づき、また、直前の重苦しい気持ちに戻り、その大佐の案内について数十歩行くと、一台の自動車があった。その入口の側に一人の将官が立っていて、私に対し手の合図で乗車せよとの意を通じた。私の左側にこの将官がすわり、運転手の助手席にさきの大佐が腰をかけた。

車が動き出してから、大佐の通訳で将官はいう、「日本側の一行は六名ぐらいだと思ってあるホテルに準備したが、十六名と知ってから急にホテルを変更した。上等ではないが十六名に応ずる部屋は準備できた」云々、あたかも遠来の客にものいう態度であった。
 ホテルに行けば、八時三十分から会同するから、それまで休憩し、その間沐浴食事などを終わってくれとのことであった。

マニラの夏のタベのこと、はなはだむし暑い。私はシャワーを浴びて出て来ると、室内の机の上に日本の扇子―もうだいぶ使われたものであったが―が一本おいてあった。一行の誰かの好意で持って釆てくれたものと内心感謝しながら、これを使おうと開いたところ、名筆とは思い得ないが、毛筆の墨書で「君辱臣死」という四文字が書かれてあった。瞬間的に私は烈しい緊張感を覚えた。一行の中にも誰か私と同じ感を抱いて来たものがあって、ここで私にあらためて覚悟を促したのであるまいかと思った。誰がこれをここにもって来てくれたのか、ことさら私は詮議することをやめ、心ひそかに感謝して、その扇子で風をいれた。

写真(右):1945年8月19日 フィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場にダグラスC-54スカイマスター輸送機で到着した日本降伏使節団長大本営参謀次長の河辺虎四郎中将ら16名:会談場所まで自動車で移動するので、出迎えられ、車に向かう。
Description The sixteen-man Japanese delegation arrives at Nichols Field, Manila, Philippines where they will begin negotiations on the terms of the Japanese surrender to end World War II. Greeting the delegation is Major General Charles A. Willoughby (center facing camera). All others are unidentified. Date(s) August 19, 1945 Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers Keywords Airports ; Armed forces officers ; World War, 1939-1945 People Pictured Willoughby, Charles Andrew, 1892-1972.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3336 引用。


大竹少尉が入って来て、「只今先方の連絡員が来て、日本側一行中の軍人たちの武装を会議の席においてはずしてもらいたい。これは決して日本軍軍人の威厳をそこなおうという気持ちではなく、米国側は全部非武装のスタイルで出るのだから……」と丁重な態度で申し込んで来たと伝えた。この件については、伊江島からマニラヘの飛行機内、着陸近くなってから、岡崎氏からも好意的に、「武装について先方から何か注文をつけるかもしれませんから……」と私に注意してくれたことであった。私は大竹少尉に、「つぎのように返事をしなさい。われわれ日本将校の佩刀は服制としてきめられ、いかなる場合でもみだりにはずすことは許されぬ。これをもって、いわゆる武装とか武器携帯というふうにこの場合に解釈されぬよう望む。だから本日の場合においても、ホテルと会場との往復には私等はこれを佩びることをやめるわけにはゆかぬ。ただ会議の席には、日本でも佩刀をとるのが例であり、貴方の希望もあることだから、はずして出ます。会議室の前室等適宜の個所に帽子や手套とともにおくことを許されたい。われわれは拳銃を携行しているが、これは会議への往復途上にも帯びることをしない」といった。先方は満足して帰ったとの報告を受けたので、特に軍人一同を私の室に集めて、会議出場の際の服装について申し伝えた。

午後八時三十分から開かれる会同のための書類が宿舎に届けられた。日本語の翻訳文も付けられてある。これに一応目をとおして見ると、正式降伏調印は、八月二十八日東京湾内米国軍艦の艦上で行われると指定され、それがために、同月二十六日マッカーサーは、空輸部隊を伴って厚木飛行場に到着、その先発の一部は二十三日に到着するとプログラムがきめられている。そしてわれわれ使節が受理して帰るべき書類は、
(一)降伏文書、
(二)降伏に関する天皇の布告文 − すなわち詔書、
(三)降伏実施に関する陸海軍総命令第一号、
この三種類のものであることがわかった。

私の懸念していた問題、すなわち陛下親ら降伏調印のため臨席なさるよう要求されることがあるまいかの問題は、この渡された書類によって、そうではないことが明らかになった。というのは、降伏調印は、政府および大本営それぞれの各代表者によってなさるべきものと、示されてあるからであった。

そこでこの地での私自身の努力は、敵側の進駐プログラムを可及的に延期せしめるということになった。私はあらためて一行と会同して、一応協議の結果、われわれ一行が東京に帰った後十日の余裕を与えられなければ、とうてい混乱のない整斉たる米軍の進駐ができ得ないということを、陸海空情報提示の際に彼側に了解させるように申し合わせた。

写真(右):1945年8月19日 1945年8月19日 フィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場、ダグラスC-54スカイマスター輸送機を降りて、出迎えの自動車に向かう大本営参謀次長の河辺虎四郎中将ら日本降伏使節団長16名:会談場所まで自動車で移動する。
Japanese delegation about to be transported from Nichols Field to Manila Aug. 1945 Note the Oldsmobile staff cars have right-hand steering. MacArthur probably got his staff cars while he stayed in Australia and had brought them with him when he 'RETURNED' to the Philippines. Source of Photograph: University of Pittsburgh; Harold Corsini Photographs..
写真は、George Lane-引用。


夕食をすまし、マッカーサー司令部―マニラ市庁―に出頭した。
 先方から差し向けられた車によって案内された。案内にあたった人は、飛行場に来ていた代将 − 情報部長ウィロビー氏であることがわかった − その人で、今日の会同には軍人だけと指示して来たので、政府代表岡崎氏は出席せず、ウィロビー代将、横山海軍少将と私の三人が先頭に同車して行った。

司令部に着くと、写真撮影の集中射を受ける。覚悟の上ながらうるさい限り。フラッシュの閃光でまばゆくてたまらぬ。ウィロビー代将は、「写真撮影だけは禁止するわけにはいかなかった。なにしろ世界的の事柄だから……」と私に気の毒そうに陳弁していた。

階上に登り、一事務室で一同は佩刀をはずし帽子手套とともに机の上におき、案内を受けて参謀長の室に入った。  私は持って行った信任状を参謀長に提示手交し、一行に各自自分の名前を述べるように命じた。この間参謀長は立っていたが、その態度は別段に威厳をつくろうこともなく、なんらの不愉快感を与えず、われわれは直ちに導かれて、三階の一室に入った。

相当に広い一室であったが、その一側に机が一線にならべられ、既に先方側は七人着席していた。われわれはそれぞれ名札で示してある席に着いた。私はSutherlandと書かれた名札を前にして座っている参謀長の真向かいに対座した。通訳に任ずる大竹少尉と溝田海軍省嘱託は、私の左右後に座った。

われわれ一同の着席終わるとともに、サザランド参謀長は、開会を宣した後、「只今から第一次進駐に必要な情報の提供を求める。まず空軍関係から」と指示した。
写真(右):1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場、ダグラスC-54スカイマスター輸送機で到着した日本降伏使節団長大本営参謀次長の河辺虎四郎中将:1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、マッカーサーに会うために沖縄諸島伊江島からマニラに到着した。
Description Lieutenant General Kawabe Torashiro (center), Vice Chief of the Imperial Staff and head of the Japanese surrender arrangement delegation arrives at Nichols Field, Manila, Philippines with an unidentified member of his staff. The two American soldiers are also unidentified. Date(s) August 19, 1945 Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers Rights The sixteen members of the Japanese delegation disembarking from a C-54 transport plan after a flight from Ie Shima to Nichols Field, Manila, Philippines. They are greeted by Major General Charles A. Willoughby from General Douglas MacArthur's staff. They came to Manila to negotiate the Japanese Surrender Agreement. This photograph was given to Colonel Westray B. Boyce during her tour of the Pacific Theatre during the Fall of 1945. Date(s) August 19, 1945.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3337 引用。


米側では第一次進駐を予定している厚木飛行場の状況についてたずね出した。彼側はいままでこの飛行場について集め得た諸情報、その中には彼側が撮影した空中写真もあったが、それらの諸情報をもとにして寺井海軍中佐に対し、いろいろ技術的かつ具体的の諸問題をたずねたが、彼らの予測し期待してるところと実情が非常に違っていることが判明し、質問者もいささか当惑の体である。

大竹少尉はいわゆる二世の出身者であるだけに、見事な通訳ぶりを示した。私のいったことは、「あらかじめ申しておくが、私がここに口を挿んで述べることは、故意に米軍の進駐時期を遅れさせようとか、あるいはそれを妨げようとかの意から来るのでは毛頭ない。私の誠意の表現であると了解願いたい。只今空軍関係の情報提供の実況を見てよくわかるように、一体に米軍側においては、日本国内部現在の実情についての見方がはなはだ誤っているようである。その認識がちがっているから、進駐のプログラムもほとんど不可能に近い無理が含まれているように私は思う」

われわれ一同の着席終わるとともに、サザランド参謀長は、開会を宣した後、「只今から第一次進駐に必要な情報の提供を求める。まず空軍関係から」と指示した。
-----米側では第一次進駐を予定している厚木飛行場の状況についてたずね出した。彼側はいままでこの飛行場について集め得た諸情報、その中には彼側が撮影した空中写真もあったが、それらの諸情報をもとにして寺井海軍中佐に対し、いろいろ技術的かつ具体的の諸問題をたずねたが、彼らの予測し期待してるところと実情が非常に違っていることが判明し、質問者もいささか当惑の体である。

ここまで大竹氏が通訳すると、サザランドは、「実情とは何か」と問う。私は、「たとえば、いま第一次進駐を貴方が企図している関東地方について見るも、ここには現在米軍の上陸作戦を考慮して多数の軍隊が充満している。この地方に米軍を進駐せしめるためには、某地域にわたり日本軍隊の全部を他に移さなければならぬ。この事は目下の運輸交通の力からして、短い期間の間にはこれをなし得ることではない。しかも一面、わが国は建国以来はじめての一大悲劇にあい、民心の昂奮状態は、貴方でも想像ができることと思う。そこでこの民心の平静を保ち、貴方軍隊との間に、なんらの不祥事件をも発生する心配をなくするには、軍隊撤去の後に必要な警察力を配置しなければならぬ。そして空襲による戦禍のため、地方の疲弊がはなはだしく、食糧と住居の確保がはなはだ困難な状態にあり、煩雑な民政処理がいる。これらのことで、いわゆる実情が大体想像し得られるであろう。

私はこの場合に臨んで、決して貴方軍隊の進駐をことさらに遅延させようとか、または、これを阻害しようとかという気持ちは断じて持っておらぬ。誠意をもって、なんとか両国の間に思わぬ不祥事件の起こらぬようにと念願するが故にこの事情を述べる次第で、更に陸海空の各部門について、これからあと、それぞれ分担に従って説明を聴きとってもらいたいが、要は、よく日本内地の現状に応ずるよう、検討を加え、貴方軍隊の進駐に対するわが方の受け入れ態勢を整えるに十分の時間的余裕を与えるよう再考せらるべきものと信ずる。実にこの際両国間の問題が、事故なく円滑に進むかどうかは、将来のいっさいに関し大なる関係があると私は信ずるが故に、貴方においてもとくと考慮されたい。この際数日をおしんで、無理をすることは、遠く将来に必ず大きい禍根をのこすものと思う」との意を述べた。----私が「まず私の申すことはこれで一段落です」といったところ、サザランドは彼側一同に何事か数語指示し、それから、陸海空三部門に分かれ、それぞれ情報を聴取しはじめた。

写真(右):1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場、ダグラスC-54スカイマスター輸送機で到着した日本降伏使節団長・大本営参謀次長の河辺虎四郎中将と話すマッカーサー元帥の参謀第二部(諜報)部長チャールズ・ウィロビー(Charles A. Willoughby )准将(左端)とマシベーア大佐(?):1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、マッカーサーに会うために沖縄諸島伊江島からマニラに到着した。
Negotiations for Surrender of the Japanese at the End of World War II Description Major General Charles A. Willoughby (left), Intelligence Officer on General Douglas MacArthur's staff, stands next to an unidentified American officer and Japanese Lieutenant General Kawabe Torashiro, Vice Chief of the Imperial Staff (third from left). General Torashiro was head of the Japanese surrender arrangement delegation and is shown here prior to presenting his credentials. Date(s) August 19, 1945 Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers Rights.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3334 引用。


当初すこぶる厳粛にはじめられた会議 ―それは当然といわねばなるまい―であったが、こうして、室内にばらばらになって、彼我談合をはじめてからは、一般の空気が非常になごやかになり、ここかしこ朗らかな笑い声さえきかれるようになった。

かようにして、三グループにわかれた検討が約一時間余に及んだが、その間私は直接参謀長やそのほかの幕僚とも話をし、われわれが東京に帰った後、十日を与えらるれば、大体私は良心をもって「まあよかろう」と答え得られるであろうとの意味を知らせるように努力した。この話の間にサザランドは、広島の被害状況を私にたずね、私の答をきいて、彼もまた驚きの表情をしていた。おそらく彼にも生まれてはじめての知識であったのではあるまいか。 やがてグループごとの検討は終わり、一同もとの席に着いた。サザランドは一時その席をはずして室外に出ていたこともあったが、私には、私の説明にたいする彼側の態度、その後の感知した空気などから、相当大幅の修正を見るのじゃないかと思われたが、会議再開となって、改めて彼側の示したものによれば、私らの東京に帰った後五日間の余裕を与うるいわば妥協案であった。すなわち先発隊の厚木到着が二十六日、マ元帥の日本到着二十八日、調印三十一日というのである。

写真(右):1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場、参謀第二部(諜報)部長チャールズ・ウィロビー(Charles A. Willoughby )准将と話すダグラスC-54スカイマスター輸送機で到着した日本降伏使節団長大本営参謀次長の河辺虎四郎中将(左から3番目):1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、マッカーサーに会うために沖縄諸島伊江島からマニラ郊外ニコルス飛行場に到着、そこからした。
Japanese Lieutenant General Kawabe Torashiro Prepares to Present His Credentials Description Picture shows the conference room at General Headquarters, Manila during the ngeotiations of requirements for Japan's unconditional surrender. From left to right on left side of table: Captain Hidemi Yoshida (Navy); Captain Toshiichi Omaye (Navy); Rear Admiral Ichiro Yokoyama (Navy); Lieutenant General Kawabe Torashiro (Army); Katsuo Okazaki, (Chief of the Research Division); Major General Morkikazu Amano (Army) and Lieutenant Colonel Masao Matsuda (Army). From left to right on right side of table: Major General Lester J. Whitlock, Major General Richard Marshall; Rear Admiral Forrest P. Sherman; Lieutenant General Richard K. Sutherland; Major General S. J. Chamberlin; Major General C. A. Willoughby and Brigadier General D. R. Hutchinson. This photo was given to Colonel Westray B. Boyce of the Women's Army Corps (WAC) during her tour of the Pacific Theatre. Date(s) August 20, 1945Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers Rights.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3335引用。


そこで私は、再び、更に延期するの必要を説いた。要旨は、「-----私はここにはっきりと申しておくことは、『不安がありますよ』ということです」と述べたところ、サザランドは、更に陸海軍のわが代表たちのいうところも聞いて、地図をとり出して距離などを測ったりして、遂に、最後的に、「この案のとおりでやらねばならぬ。私は日本側の誠意を諒とし、そのいうところの理由をも了解するが、われわれはこれでやらねばならぬ」と突っ放すような言葉つきでいった。

そこで私は、いささか声の調子をおとし、「私は日本将校として、かけひきのようなことをいいたくないが、少しでもよりよき状態を望むが故に今一度いう。この際は一、二日でも大きな意義があるから、もう一、二日だけでも、更に延期する寛大性を貴方は持たぬか」といったところ、彼は、「われわれはこの案のとおり実行しなければならぬ。日本政府および日本軍の努力を望む」と答えた。私は、サザランドの言動に対し、少しの不快を感ぜず、たしかに「よい軍人だ」との印象も手伝って、ここで折れた。そして「努力はする」と返答した。彼は、満足げな表情をし、明日午前九時三十分から、この場所で第三回の会同をなすこと、また、その際は、政府側の代表も列席するようにとの指示をして去った。一同は席を立ったが、米側の諸氏が缶詰のビールを開いて、わが方に饗した。むし暑いこの地の夜半、そのビールの味はすてきであった。もちろん賑やかな雑談をしたわけでもなかったが、彼側の態度はいかにも友誼的で、すぐそのあとに仕事が待っているかのごとき挙措、そのあり様はわれわれ一行にも、今まで食うか食われるかで争っていた仇敵だなどという感じを起こさすものがなく、国際共通の軍職心理、殊に幕僚業務の共通性、私にはその辺の空気になんともいえぬなごやかさを覚えた。

  写真(右):1945年8月20日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島ルソン島マニラ市シティーホール、降伏について話し合う日米の使者。左手前から、吉田英三大佐、大前敏一大佐(参謀肩章)、横山一郎少将、河辺虎四郎中将(参謀肩章)、岡崎勝男外務省調査局長(白背広)、天野正一少将、山本新大佐、後列は、溝田主一海軍省嘱託、大竹貞雄少尉:1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、マッカーサー司令官には会えずに、参謀長サザーランド中将から降伏に関する指示を受けた。軍使・使節団とはいっても、考量するというのではなく、指示を受けに来たという格下の扱いである。無条件降伏とはいっても、降伏命令の伝達・武装解除の方法・場所・時期などの話し合いが行われ、降伏文書調印式に大元帥昭和天皇の出頭は必要とされなくなった。1945年8月20日,降伏使節団16名は、マッカーサーと交渉した後に、C-54輸送機で沖縄諸島伊江島に戻り、そこで一式陸攻に乗り換えて東京に向かった。
Negotiations for Surrender of the Japanese at the End of World War II Description Picture shows the conference room at General Headquarters, Manila during the ngeotiations of requirements for Japan's unconditional surrender. From left to right on left side of table: Captain Hidemi Yoshida (Navy); Captain Toshiichi Omaye (Navy); Rear Admiral Ichiro Yokoyama (Navy); Lieutenant General Kawabe Torashiro (Army); Katsuo Okazaki, (Chief of the Research Division); Major General Morkikazu Amano (Army) and Lieutenant Colonel Masao Matsuda (Army). From left to right on right side of table: Major General Lester J. Whitlock, Major General Richard Marshall; Rear Admiral Forrest P. Sherman; Lieutenant General Richard K. Sutherland; Major General S. J. Chamberlin; Major General C. A. Willoughby and Brigadier General D. R. Hutchinson. This photo was given to Colonel Westray B. Boyce of the Women's Army Corps (WAC) during her tour of the Pacific Theatre. Date(s) August 20, 1945Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers Rights.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3329引用。


宿舎に帰り着いた時はもう夜中一時頃であったろう。宿舎に私宛にウィロビー氏の名刺を付けた紙包が届けられてあった。それは煙草とウイスキーであった。今朝四時過ぎ東京の宿舎を出たまま、いままでとかく神経を張り詰めていたのであったが、宿舎に帰っても、疲れたなとも思わず、私は寝床に入ってもすぐは眠られなかった。その眠られぬ原因の最大のものは、戸外の雑音と、人の声であった。マニラの八月の夜、窓戸を開け放さなければむし暑くてたまらず、このように騒々しいのは、おそらく夜間街頭の活動が活発なのであろう。

私はあけ方近くなって数時間熟睡した。しかし、勉強家の随員諸氏は、徹宵していろいろと検討したらしく、未明に私を起こして意見を持って釆てくれた。私は敬意と謝意とを表しないわけにいかなかった。

翌八月二十日、月曜日である。明け方マニラの空は密雲で雨模様であったが、朝から強い大粒の雨となった―――敵側の進駐期がわれわれの求むるよりも五日も早くなったので − 彼ら当初の案をいくらか譲ったとはいえ − 取りあえず一機分の人員を東京に帰し、準備を幾時間なりと早く着手するに便しようと、その一機の差し出し方を申し入れたが、米側は承知しなかった(昨夜敵側の意図の要旨を東京宛電報することを許すよう求めたが、これも許さなかった)。

写真(右):1945年8月19日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ市シティーホール、アメリカ陸軍南西太平洋域(South West Pacific Area :SWPA)参謀長リチャード・サザーランド中将に文書を手渡す日本降伏使節団河辺虎四郎中将(参謀肩章)、岡崎勝男外務省調査局長(白背広):1945年8月19日,大本営参謀次長河辺虎四郎中将率いる日本降伏使節団16名は、マッカーサー司令官には会えずに、参謀長サザーランド中将から降伏に関する指示を受けた。軍使・使節団とはいっても、考量するというのではなく、指示を受けに来たという格下の扱いである。
Lieutenant General Kawabe Torashiro Presents His Credentials to Lieutenant General Richard Sutherland Description Japanese Lieutenant General Kawabe Torashiro, Vice Chief of the General Staff and head of the Japanese Surrender Delegation, presents his credentials from Emperor Hirohito to Lieutenant General Richard Sutherland, Chief of Staff to General Douglas MacArthur. The other man is unidentified. The exchange took place in Manila, Philippines, in preparation for negotiations of the terms of the Japanese surrender. The photograph was given to Colonel Westray B. Boyce during her tour of the Pacific Theatre in the Fall of 1945. Date(s) August 19, 1945 Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers Rights.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3332 引用。


午前九時半から開始予定の本日の会同を一時間延刻、十時半からとする旨通知して来た。---宿舎から、迎えられて、十時三十分、昨夜の室に入った。今日は岡崎外務省局長も列席した。

サザランド参謀長は、書類の要点を朗読した。私は、「降伏実施に関する連合国最高司令官として、中国軍またはソ連軍と日本軍との間における何事かのトラブルが起きるような場合に必要な指示をされるか?」との質問を発したところ、「それに関してわが方にはなんらの権限がない」との答であった。---  最後に、東京に伝達すべき三種の文書を改めて手交され、十二時近く、全会議の終わりを宣せられたから、私は、立って、われわれがマニラ滞在間に与えられた先方の好意に感謝の意を述べたところ、サザランド氏もまた、わが方の協力に対して謝意を表し、一同解散をした。

私は、ウィロビー氏の案内で飛行場に走った。到着の時と同様、日本語を話すマシベーア大佐も同乗をした。この車の中ではお互いにほとんど全く旧知の間柄のような気持ちとなり、ウィロビー氏がドイツ語をよく話すことも知り得たので、彼と私とはドイツ語で直接の会話をはじめるようになり、彼がかつて米国陸軍大学校の教官をしていた当時、故山内正文中将が学生として在学し、立派な成績を示したことをきかされた。マシベーア大佐はかつて東京で米国大使館付武官補佐官を勤めたことがあることを話し、東京の知人の彼や是やについて話していた。

ウィロビー氏は私を飛行機の中まで送り、座席の世話までしてくれて、わかれるに際して、ドイツ語で「またあいましょう」といい、今度は彼から手を伸ばして、握手をかわした。(河辺虎四郎(1979)『河辺虎四郎回想録』毎日新聞社引用終わり)

写真(右):1945年11月8日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場のスナック・バー:働いているのは現地のフィリピン人のようだ。1945年8月19日,降伏使節団16名は沖縄諸島伊江島からマニラのニコルス飛行場に到着している。
Interior of Snack Bar at Nichols Field
Related Collection Westray Battle Boyce Long Papers
Keywords Armed forces officers ; World War, 1939-1945
Description Interior of the Snack Bar #16 at Nichols Field, Manila, Philippines. Soldiers and others are unidentified. Donor: John
Paxton Date(s) November 8, 1945.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2013-2361引用。


以下は、岡崎勝男(1947)『降伏軍使マニラへの旅』引用
思わぬ不時着
飛行機は予定通り五時間許りで伊江島に到着した。八時頃になると日はとっぷりと暮れ、飛行機は暗闇の中を一路東に飛んで行った。東京の無線連絡は時々続けていた。----突然上の機関室からパイロットが降りて来て「どうもガソリン・タンクの故障らしく油が漏れてもう飛行を続行することが出来なくなった」という報告であった。

自分は河辺代表と相談してもし海へでも落ちる場合には、一番大切なのはマニラから持参した書類であるから、これを何とかしてなくさぬようにしなければならない。----やがてひどい衝撃と共に飛行機が何かに打当たった。そのはずみに自分は前にのめって引くり返った。
----再び「ドスン」という物凄い衝撃があって自分は頭から先に引くり返って二度程くるくると回ったように覚えている。----飛行機は初め海の中に落ちたが、パイロットは直ちにこれを滑走さして巧みに水上を走り、漸く岸の浅瀬に無事にのし上げたのであった。----他の人に聞いてみると誰も打撲傷はあったが血を出した人はなかった。

やむを得ず暫く海岸にじっとしていると、十一時少し廻ったころかと思うが海上から大きな月が出て急に周囲が明るくなった。----暫くすると向うの漁船の蔭から漁師らしい人が二人やってきた。なぜもっと早く来てくれなかったかといったら、彼らは、大きな飛行機が急に落ちたのできっとこれは米軍のB29であらうと思って船の蔭に隠れて様子をみていた、ということで大笑をした。

東久邇宮首相に報告
漁師の案内で二哩ばかり歩いて町に出て、そこでトラックを借りて浜松の飛行場に急行した。行ってみると飛行場は爆撃で惨胆たる状態になっており飛行隊もどこへ行ったか分からない。丁度二日前連絡に来た飛行機が一台エンジンの故障でまだ飛行場にいたから午前二時頃からあたりの人を動員してその飛行機を応急修理して朝の八時頃一同はこれに乗込んで東京に向った。
---調布飛行場に着き、それから直ぐに総理官邸に急行した。総理官邸は東久邇宮を初め閣僚一同が我々を待っておられたので直ぐに報告をした。----我々の飛行機の消息は前夜に十時過ぎからバッタリ杜絶えてその後全然分からないために総理も非常に心配され、官邸に夜を徹して待っておられたそうであった。
岡崎勝男(1947)「降伏軍使マニラへの旅」『政界ジープ』10月号所載,pp.52-58;安田武・福島鋳郎編『ドキュメント昭和二十年八月十五日占領下の日本人』1984年、双柿舎引用終わり。

写真(右):1945年11月8日 アメリカが占領・解放したフィリピン、ルソン島マニラ郊外ニコルス飛行場のスナック・バー:働いているのは現地のフィリピン人の男女で、買い物に来ているのも、フィリピン人の飛行場地上勤務員のようだ。1945年8月19日,降伏使節団16名は沖縄諸島伊江島からマニラのニコルス飛行場に到着している。店のスタッフは、の棚には、雑誌、帽子、飾り絵、アバニコ(扇)など売っているが、アメリカ将兵に対するお土産用であろう。
Description Interior of the Snack Bar #16 at Nichols Field, Manila, Philippines. Soldiers and others are unidentified. Donor: John Paxton
Date(s)November 8, 1945
Keywords Shopping ; Soldiers ; Military exchanges
Rights Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2013-2360 引用。


以下は、降伏使節団全権の河辺虎四郎(1979)『河辺虎四郎回想録』毎日新聞社引用
篠つく豪雨の中を離陸した。離陸後私もやや自分にかえった気楽さとなり、数十分ないし数時間の過去が思い出され、また、人種や民族を超越した人情の美しさが思われ、首をめぐらせば、人間相互には敵もかたきもない、殊に軍人の職というものは、なんと妙なものだなあ……などと黙想を続けたが、ひょっと窓外を見ると、既にわれわれは雨雲層の上に出ていた。

ルソン島の北部に進むに従い、雲は次第に切れてここかしこと部落も見える。そこいらには銃を手放した敗余のわが兵が、うつろの気持ちで集まっているのではないか。私の頭の中に山下さん武藤君の二つの顔がちらっと描かれた。
海上に出て日本に近づくに従って天気よし。航行約五時間で、六時頃、雨後のしるしもない快晴の伊江島に着き、アメリカ機を去った。昨日のようないかめしい応対もなく、すぐにわれわれの乗るべき陸攻機が来た。

まさにこれに乗り込もうとすると、報告があり、われわれの他の一機が、只今の地上滑走中、制動機に故障を起こして機体が傾いたため、翼端を地上に擦った。どうしても小修理をしなければ飛行が出来ぬ、現場の米側は、必ず明朝出発できるように修理してやるといっているとのこと。腹だたしささえ感ずるが致し方もない。そこで私とともに先行帰任の一班を定め、重要書類を持って、すぐさま帰路につくこととし、他の一班はこの夜この地に宿泊して明朝出発することときめた。

  午後六時半頃、私らは伊江島を離陸した。天気快晴、夕日が赤々と輝いていたが、離陸後間もなく、東支那海の水平線下に没した。十三夜の月が刻々明るさを増し、乗務室のガラス天井を通して、乗務員たちの全身を照らしている。機内は無燈暗黒であるからわれわれは眠る以外にすべもなし。私は単調なエンジンの音の中に、心身疲労のためか、いつの間にか深い眠りに落ち込んだ。

幾時間が過ぎたのか、腕組みして椅子に眠っていた私が突如ゆすぶり起こされた。一乗務員が私の耳にロをあてて、「海面に不時着をしなければならぬようですから、救命具を付けて下さい。時間はまだ十分ありますから、ごゆっくりどうぞ」という。「エンジンの故障かな?」と思いながら、手探りで、私に配当された救命胴衣を着装した。ところがしばらくして、乗務員が再び来て、「御安心下さい、大丈夫です。平塚の海岸が見えました」というのである。眠気の私の頭ははっきりせず、救命胴衣もそのまま着けっぱなしでいると、彼は三たび来て、「やっぱり駄目です、不時着です。御準備をねがいます」といい、急いで自席に帰っていった。私のすぐ前の座席にいた岡崎氏は、「携行書類は私がもっています」と私に告げた。乗務員室では、寺井中佐もいて何事か忙しそうに、しかしまごついている様子もなく、次から次と処置をしているありさまが、月の光でよく見られ、いじらしい気持ちをさえ感じさせる。寺井中佐の声だろうか、「不時着用意」という号令が聞こえた。機速は急に減った。機体の沈降が明瞭に感ぜられ、文字どおりに「刻々」気温が増すのがわかる。エンジンが時々バンパンと鳴る。

私ははえぬきの飛行家でない割合には、比較的多くの時間飛行機に乗った者の一人だと思っているが、未だかつて一回も不時着を経験したことがない。その故でもあろうか、あるいはまた、眼前に活動している乗務員たちの、かいがいしい動作にたよりを感ずるがためか、なんとなく、安全な不時着ができるのじゃないかと予感をもった。

機体の沈下するにともない、私は膝の前の座席をかたくつかんで、のめらぬようにと頑ばっていたが、そのうちに、機体前部の着地を感ずるとともに、相当に強い惰力的の衝撃を受け、それと同時に、頭上の闇の中から、何物かガタコトと転落する響きがきこえ、瞬時の後急激な一撃突とともに機体が静定停止した。その刹那私は、「助かった」という一種の安心感を得、同時に、「この状況では怪我したものはなかろう」と推定した。 乗務員が前から、「どなたかお怪我がありませんか、代表閣下はいかがですか?」とたずねてくれた。私が「ありがとう、何のことはない」と返辞をしたところが、左前方に岡崎局長の声で、「怪我した」ときこえた。しかしその語勢も元気があり、立ち上がっているすがたも見えたから、大きな心配はなかろうと思う中に、乗務員の方から「どうぞ出口に出て下さい」といわれるので、後部の出入ロの方に歩くと、扉は故障なく開かれ、海水に足を浸している乗務員の一名が、私を背負う姿勢で迎えてくれた。

写真(右):1945年8-9月(?)、 日本、アメリカ軍が鹵獲した日本陸軍三菱キ-67四式重爆撃機「飛龍」の右主翼で記念撮影したアメリカ兵士と二式複座戦闘機「屠龍」(右奥):日本機の飛行禁止されている時期だが、大きく破損して飛行不能であるため、プロペラが取り付けられたままになっている。胴体後方側面銃座は取り外されている。1945年8月21日,不時着した降伏使節団全権一行は、一式陸攻1機に乗って伊江島から離陸したが遠州灘で不時着。住民に救助され、浜松飛行場で、現地にあった四式重爆を徴発し、調布機構上に帰還した。
Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Title: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Hiryu ""Flying Dragon"" Additional Information: Japan Designation: Ki-67 Tags: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"".
写真は、SDASM Archives- Catalog #: 01_00085921引用。


見れば、波の全く静かな砂浜のなぎさで、機体の前半部は砂の上に、後半部は海水の中に、すこぶる具合のよい不時着ぶりである。私は背負われて数メートル、浜におろしてもらった。
 月はまだ水平線上にある。機体を見れば、プロペラはみじめに曲がっているが、そのほかの部分には破損の個所は見当たらぬ、機体の後半部は静かに寄せてくるさぎなみに洗われている。一行は機体を離れ、携行品も浜に運ばれた。岡崎氏の頭の微傷以外誰一人として怪我したものはおらず。

不時着の原因を聞いて見ると、燃料が尽きたのだという。陸地を見て平塚海岸と判定したとき、木更津までは行き得られると思ったが、どうも怪しくなったから不時着を決意したのだという。どうして燃料がなくなったのか、いささかおかしな話だが、私は追及する気にはならなかった。

写真(右):1945年8-9月(?)、 アメリカ占領軍政下の日本軍の格納庫、浜松飛行場(?)、アメリカ軍が鹵獲した日本陸軍三菱キ-67四式重爆撃機「飛龍」の胴体後部を点検するアメリカ航空兵:飛行可能な状態らしく、手書きで白のアメリカ国籍マーク、白星と白袖が描かれている。胴体後方左右には銃座があるはずだが、取り外されている様だ。
Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Title: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Hiryu ""Flying Dragon"" Additional Information: Japan Designation: Ki-67 Tags: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"".
写真は、SDASM Archives- Catalog #: 01_00085918引用。


そうこうするうちに急に月が落ちて暗くなりはじめた。あたかもそこへ一名の老人が浜づたいに来たので、「ここはどこかね」とたずねたところ、天竜川河口の左岸に程近い場所であることを説明してくれた。平塚海岸などとは大きな誤測で、ここは遠州灘の海浜なのである。
この老人の語るところによれば、彼は部落で乾魚の夜番の勤めにあたり、ひとりこの浜にいたところ、飛行機が降りてきたから、アメリカのものと思い、浜に曳き上げてある舟の陰にかくれていた。ところが飛行機から出た人たちの言葉が日本語にまちがいないので、出て来たという。

天竜川河口付近といえば、私が浜松飛行学校在勤時代の因縁で、一応私は地理も心得ている。この老人にも依頼して、近所の部落の警護団をわずらわし、ついで天竜飛行部隊のトラックを寄越してもらい、一同これに乗って元の浜校へ行くこととし、東京への報告については警察系統に頼る処置をした。

写真(右):1945年8-9月(?)、 アメリカ占領軍政下の日本軍の格納庫、浜松飛行場(?)、アメリカ軍が鹵獲した日本陸軍三菱キ-67四式重爆撃機「飛龍」の尾部銃座を点検するアメリカ航空兵:1945年8月21日,不時着した降伏使節団全権一行は、一式陸攻1機に乗って伊江島から離陸したが遠州灘で不時着。住民に救助され、浜松飛行場で、現地にあった四式重爆を徴発し、調布機構上に帰還した。
Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Title: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Hiryu ""Flying Dragon"" Additional Information: Japan Designation: Ki-67 Tags: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"".
写真は、SDASM Archives- Catalog #: 01_00085919引用。


月は全く消えて暗瞑の世となった。米軍艦の直射弾をも食って、焼土化した浜松市街を通り過ぎ、浜松部隊にたどり着いた。
 私は元浜校の門の中へ車を進めたが、元の本部建物は壊滅の跡が残るだけ、周辺森閑として人の気はおろか、まさに猫の子一匹いる気配がなかった。私は、かねてこの部隊の営舎が付近の森林内あちこちに疎開散在していることを聞き知っていた故、近所にたずねる人家とても見つからず、大体かつての記憶にたよる感じでもって、車を走らせたところ、幸いに閃光が見え、それを目標としてたどりついたら、それは航空通信隊の部隊で、一人の中尉が数名の兵とともにこの夜中に何か器材の修理のようなことをしていた。

写真(右):1945年8-9月以降、日本、格納庫から引き出されるアメリカ軍が鹵獲した日本陸軍三菱キ-67四式重爆撃機「飛龍」を背景に記念撮影した飛行服を着たアメリカ軍将兵とモップでせいそうする捕虜の日本兵(奥):胴体下面には、魚雷安定用支柱がない。遠方の飛行機格納庫は、屋根が爆風で吹き飛ばされたのか、金属骨組みだけ残っている。日本機の飛行禁止されている時期だが、大きく破損して飛行不能であるため、プロペラが取り付けられたままになっている。胴体後方側面銃座は取り外されている。1945年8月21日,不時着した降伏使節団全権一行は、一式陸攻1機に乗って伊江島から離陸したが遠州灘で不時着。住民に救助され、浜松飛行場で、現地にあった四式重爆を徴発し、調布機構上に帰還した。
Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Title: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Hiryu ""Flying Dragon"" Additional Information: Japan Designation: Ki-67 Tags: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"".
写真は、SDASM Archives- Catalog #: 01_00085926引用。


この将兵に事情を話して、それらの助力を得、それによって浜松飛行部隊の大平少佐が軍医一名をつれて駈けつけてくれた。そしてわれわれの休宿所や岡崎氏の傷の手当てなどの世話をしてもらった。
 大平少佐に、なんとか東京へ帰り得られる方法がないかと、相談したところ、この地の飛行機は全部富山に転居しているのであるが、ちょうど昨日富山から連絡に来た重爆機一機が小故障のため、当地に滞留している。只今からすぐに整備員をおこし、明朝六時半までには必ず東京まで私を送り得るように手配するという大平氏の答であった。  以上のようにして、東京への連絡も、帰任の見込みも確定したので、われわれは、明朝まで休むこととし、元の工員宿舎の一隅で寝た。

写真(右):1945年8-9月(?)、 アメリカ(?)、舗装滑走路に出されたアメリカ軍が鹵獲した日本陸軍三菱キ-67四式重爆撃機「飛龍」:アメリカ本土にもちかえった雷撃型と思われる。1945年8月21日,不時着した降伏使節団全権一行は、一式陸攻1機に乗って伊江島から離陸したが遠州灘で不時着。住民に救助され、浜松飛行場で、現地にあった四式重爆を徴発し、調布機構上に帰還した。
Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Title: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"" Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Hiryu ""Flying Dragon"" Additional Information: Japan Designation: Ki-67 Tags: Mitsubishi, Ki-67, Hiryu ""Flying Dragon"".
写真は、SDASM Archives- Catalog #: 01_00085924引用。


写真(右):1945年8-9月(?)、 アメリカ(?)、舗装滑走路に出されたアメリカ軍が鹵獲した日本陸軍三菱キ-67四式重爆撃機「飛龍」'Peggy':アメリカ本土にもちかえった雷撃型。1945年8月21日,不時着した降伏使節団全権一行は、一式陸攻1機に乗って伊江島から離陸したが遠州灘で不時着。住民に救助され、浜松飛行場で、現地にあった四式重爆を徴発し、調布機構上に帰還した。
Mitsubishi Ki-67 Hiry_ 'Peggy' Mitsubishi Ki-67 Hiry_ 'Peggy'. - Title:Mitsubishi Ki-67 Hiry_ 'Peggy' Mitsubishi Ki-67 Hiry_ 'Peggy'. - Catalog:15_003841 - Filename:15_003841.tif - - - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "Japanese Aircraft" "".
写真は、SDASM Archives- PictionID:43721065 引用。


約二時間の仮眠後、八月二十一日の早朝兵隊さんのこしらえてくれた兵食に舌鼓を打ち、飛行場に行き、そこでわれわれを待っていた四式重爆に乗り込み、七時やや前、快晴の浜松飛行場を離陸した。箱根付近まで空路一碧、富士もまことに奇麗な姿であった。東京の西郊やや断雲があったが、八時頃調布飛行場に着いた。

 宮崎中将が一人出迎えに来ていてくれた。同氏から東京では昨夜以来総理殿下以下大いに心配していたこと、現在総理官邸に関係者多数集まって報告を待っていることなどを伝えられた。そこでともかくさっそく総理官邸に行こうと、払は、岡崎、天野、横山三氏とともに永田町に走った。

総理官邸には、総理殿下以下、外務(重光)・海軍(米内)両大臣、近衛国務相、梅津・豊田両総長のほか関係省部の課長級まで多数参集して私たちを待ち受けていた。  総理および両総長に申告、ついで参集諸君一同の前で復命報告を終えたのがおおむね十一時であった。  午後一時十五分から総理侍立のもとに、私だけ拝謁し、簡単に復命上奏を終わった。  そのあと更に要求され、木戸内大臣および蓮沼侍従武官長に対し、やや詳細にわたって報告をした。


4. ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)将軍は、日本降伏の最大の戦功者として、1945年8月30日、神奈川県の厚着飛行場に降り立った。彼の乗機は、ダグラスVC-54Eスカイマスター(Skymaster)輸送機「バターンII」“Bataan II"であり、マニラから沖縄読谷飛行場を経由、アメリカ軍先遣隊の待つ厚木基地に到着した。これが、連合軍総司令部(GHQ)による日本占領統治・軍政の始まりだった。

 降伏文書を受領した日本降伏使節団は、1945年8月20日1300,マニラを出発、伊江島飛行場でダグラスC-54輸送機から一式陸攻に乗り換えて、東京に向かった。しかし、この一式陸攻は帰路途上に故障し、浜松海岸に不時着水した。使節団一行は、そこで住民に救助され浜松飛行場に着き、故障中の陸軍四式重爆を深夜に修理し、翌朝8月21日0700に浜松飛行場を離陸、0830に調布飛行場に着陸した。そこから、東久邇宮首相の待つ総理官邸に急行し、任務完了を報告した。

写真(右)1945年、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ、ダグラス(Douglas)飛行機工場で製造されるダグラス・マッカーサー将軍専用のダグラスVC-54E (C-54E-1-DO) スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターン」(シリアルナンバー:Ser. No. 44-9027;製造番号 c/n 27253 )のコックピットに収まった工員のグレッグ・ワズマン(Greg Wasmann)と整備台の上に立った若い女性:マッカーサーの乗機になるので機首に「Bataan」とある。これは、1942年にマッカーサーが守備していたフィリピンのルソン島バターン半島を失陥し、オーストラリアにまで追いやられた復讐戦の記念した命名である。並列複座操縦席のあるコックピットの側面ガラス窓は開閉可能だった。
SDASM Archives
Douglas C-54 Bataan factory 1945
Photos belonging to a Special Collection belonging to Greg Wasmann who worked at Douglas Aircraft
Douglas VC-54E (C-54E-1-DO) Skymaster, USAAF Ser. No. 44-9027 (c/n 27253), "Bataan," Gen. Douglas MacArthur's (USA) personal aircraft. .
写真はSDASM Archives・Catalog #: 00013422引用。


1944年には、C-54は、アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトの専用機となり、「セイクリッド・カウ」の固有名詞が与えられた。FDRは、1943年のカイロ会談・テヘラン会談、1945年のヤルタ会談の2回の外国出張に使用した。また、アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)元帥の専用機もC-54 輸送機で、1945年8月30日、厚木海軍飛行場に降り立った。マッカーサー専用機は、「バターン」で、これは太平洋戦争緒戦、1942年、フィリピンのバターン半島での戦いを記念しての固有名称である。



⇒写真集Album:マッカーサー日本進駐のダグラス(Douglas)C-54輸送機「」を見る。

写真(右)1945年3月、アメリカ海軍航空隊のダグラス(Douglas)R5Dスカイマスター(Skymaster)輸送機のキャビンで、硫黄島から海軍将兵・海兵隊員の空輸救護に当たる海軍飛行看護婦(Navy Flight Nurse)ジェーン・キャディー・ケンデイ(Jane -Candy- Kendeigh ):キャビンは、貨物輸送型なので、座席は折り畳み式ベンチが並んでいる。傷病兵は、胴体側面の三段式担架と、床に担架で並べられているが、彼らを飛行看護婦が世話をしている。後方のベンチには、腕を負傷した兵士が座っている。
Description English: Navy Flight Nurse Jane Kendiegh, trip from Iwo Jima, March 1945 .
Date 1945 Source US Department of the Navy, Bureau of Medicine and Surgery.
Author US Navy .
写真はWikimedia Commons, Category:Jane Kendeigh・File:Jane Kendeigh USN Flight Nurse 1945 c.jpg引用。


⇒写真集Album:アメリカ海軍R5Dスカイマスター(Skymaster)輸送機を見る。

写真(右)2016年4月、アメリカ、オハイオ州デイトン、国立アメリカ空軍博物館(National Museum of the United States Air Force)が保管するアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルト (Franklin D. Roosevelt)専用機のダグラスVC-54C「セイクリッド・カウ」 (Sacred Cow)(42-107451);本機はアメリカ初の大統領専用機”Air Force One”は、無塗装の銀色の輝く機体に、1943年9月以降に採用された国籍マーク、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BARである。

DAYTON, Ohio -- Douglas VC-54C "Sacred Cow" at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)DAYTON, Ohio -- Douglas VC-54C "Sacred Cow" at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
The First Presidential Aircraft The Douglas VC-54C Skymaster is the first aircraft purpose-built to fly the President of the United States. Carrying the staff transport “VC” designation, the aircraft was officially named The Flying White House. However, the aircraft became better known by its unofficial nickname, Sacred Cow, a reference to the high security surrounding the aircraft and its special status.
写真はNational Museum of the United States Air Force・Douglas VC-54C “Sacred Cow”引用。


⇒写真集Album:アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54輸送機を見る。

写真(右)1946年から1954年頃、アメリカ合衆国イリノイ州、シカゴ・ミッドウェー飛行場、ユナイテッド航空(United Airlines)所属のダグラス(Douglas) DC-4旅客輸送機(登録コード:NC30047):1946年にアメリカ陸軍C-54軍用輸送機の払い下げを受けて、民間航空で利用。その後、1954年にカナダに売却された。
Midway Airport (Pat B.)
Chicago Municipal Airport - United Airlines DC-4
(1946) (NC30047) C-54B

写真はSmugMug+Flickr, Midway Airport (Pat B.)・File:DC-4UnitedLandingSide (4412489390).jpg引用。


⇒写真集Album:民間航空のダグラス(Douglas)DC-4旅客機を見る。


二十世紀初頭から現在まで

人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

2020年4月7日作成の当サイトへのご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月青弓社刊行,368頁,2100円)が紹介されました。

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