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◆1931年満州事変と日本
写真(上)2017年6月、中国東北地方(満州)、遼寧省、瀋陽市(奉天)皇姑区天山路「奉天派霖病院」跡地、 2014年建築の皇姑屯事件博物館(張作霖事件博物館)
:1928年6月4日、北京から列車で撤退する奉天軍閥の張作霖将軍が京奉線と満鉄がクロスする地点で爆殺された。これは、日本関東軍の謀略だったが、中国軍の仕業であるとのデマが流され、日本軍は中国軍を攻撃し、満洲支配を目論んだ。1931年9月18日には、奉天郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道を爆破し「九・一八事変」(満州事変)が勃発する。
Description 中文(简体):皇姑屯事件博物馆 Date 27 June 2017, 14:54:08 Source Own work Author Arnie97
写真は,Category:Manchukuo in the 1930s File:Huanggutun Incident Museum.jpg引用。


写真(上)1930年6月21日、中国東北地方(満州)、遼寧省、奉天名所図会
:日露戦争後の1905年12月、日本が満州のロシア鉄道権益を継承し、南満州鉄道付属地の行政権、警備権を手に入れた。下方にある奉天駅から繁華街が形成され、日本人町となった。
中文(中国大陆):奉天名所图绘(附:抚顺名所) Date 21 June 1930 Source http://ids.lib.harvard.edu/ids/view/27178124?buttons=y Author Anonymous
写真は,Category:Manchukuo in the 1930s File:Mukden SMR Zone in early 1930s from 奉天名所图绘.jpg引用。


写真(上)1931年11月4日、中国東北地方(満州)、日本陸軍第二師団第4歩兵連隊による三間房陣地への攻撃
:連隊旗は、大元帥より下される神聖なもので、古くなったからといって新調されることはなき い。歴戦の連隊のため旗は、日章旗が摩耗して、房と旗竿だけになった。黒龍江省軍は日本軍のチチハル進出を阻止しようとして、渓南方10キロ、三間房に陣地を構築していた。
English: Japanese infantry advances in Manchuria after Mukden Incident 日本語: 第二師團歩兵第四聯隊による三間房陣地攻撃の連続写真のうちの一枚、前進停止 (9時5分) Date 4 November 1931 Source World War II database Author Tokyo Nichinichi Shimbun
写真は,Category:Manchukuo in the 1930s File:IJA Infantry in Manchuria.jpg引用。
に脱退することを通告した

1.1931年満洲事変

幣原喜重郎 1931(昭和6)年9月18日夜、満州鉄道が奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で爆破されるという、柳条湖事件(当時は柳条溝事件と誤解された)が勃発した。これは、中国東北地方、いわゆる満洲にある中国国民党あるいは共産主義者など起こしたテロ事件として報道されたが、実は中国への勢力拡大を企図していた関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐らによる満州・蒙古領有計画を実現するための謀略事件で、関東軍の現地部隊による自作自演の鉄道爆破の陰謀だった。

関東軍とは、本来は、日本が利権を得た満州鉄道警備にあたる警備兵力として、国際的に認められた日本軍満州駐屯部隊であるが、すでに、日本租界を超えて、満州各地に軍事力を背景とした威力を誇示していた。そこで、関東軍は、柳条湖事件を現地中国軍の仕業であるとして、直ぐに中国軍への報復攻撃を開始した。

こうして若槻礼次郎首相など、日本首脳は衝撃を受け、英米列国の利権、貿易投資、国際連盟に配慮して、日本政府は直ちに満州事変の不拡大方針を決定し、局地紛争として収束しようとした。

しかし、勢いづいた関東軍は、満州全土を勢力下に置こうと侵攻を続け、事態は収拾できず、若槻礼次郎首相、、幣原喜重郎外務大臣の企図した国際協調外交は挫折した。

石原莞爾 それどころか、1932年、斎藤実内閣は、日満議定書を締結し、満州の政治社会・軍事を日本の支配下においた。関東軍の謀略で、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀を執政に迎えて傀儡国家「満洲国」を樹立させ、日本の満州侵略を批判する国際連盟から日本は1933年国際連盟を脱退することを通告した。これは、日本が国際協調を捨てて、軍事力に依拠した中国大陸への勢力浸透を図る古都であり、日本は、自ら国際社会の中で孤立する道に活路を見出そうとしていた。。

1−A.満洲事変の解説
時事新報 東京時事新報 Vol: 第 98巻 Page: 156 出版年 1931-09-25

陸橋爆破に端を発せる満洲事変の由来 誘因となった満蒙の諸懸案 日に募る支那側の無誠意
九月十八日夜半、東北第一旅(旅長王維哲)の支那兵が、満鉄柳条溝[柳条湖]陸橋を爆破したことが直接の導因となって、わが満洲駐屯軍に依る自衛権の発動となり、満鉄沿線各要地の占拠となり、遂に眼前の所謂満洲事変を見るに至った。満蒙は、少しく古い形容であるが東洋のバルカンであり、日露支三国の利害関係錯綜し、動もすれば『世界第二大戦は満洲から』と国際事情研究者によって叫ばれている地域である。殊に日支間の関係は、歴史にその比を見ない程の複雑性を帯び、大小の懸案三百余件に上る有様である。その主なるものを挙ぐれば左の如し。

斎藤実 (一) 旅大租借地回収問題

関東州租借地は一九一五年五月五日の「南満洲及び東部内蒙古に関する条約」によって、一九九七年まで租借期限が延長されたのであるが、支那は同条約を二十一ヶ条と称し、これを否認する態度を取り、常にこれを宣伝の具に供し、機会ある毎に旅大回収の提議を試みんとしている。

(二) 駐屯軍撤退要求

日本は[1905年]日露ポーツマス条約によって、一キロメートルに十五名の鉄道守備隊を置く権利を有しているが、支那は華府[ワシントン]条約以来絶えず駐屯軍撤退の要求を提訴、宣伝している。

(三) 商租権問題

前記一九一五年の条約によって日本国民は南満に於て各種商工業上の建物を建設する為め又は農業を経営するため、必要な土地を商租[権](期限三十年無条件更新)する権利を与えられたが、支那官憲は実際に於てこの権利を否認する態度を持続し、日本の屡次の要求に拘わらず、本権利は有名無実のものとなっている。

(四) 鉄道利権の無視

溥儀 日本は一九一三年十月五日の満蒙鉄道覚書により、四ヶ月内に本契約を結び工事に着手する条件の下に前渡金二千万元を交付したが支那はこの条約を実行せざるのみならず、わが抗議を無視して吉林海竜線を敷設して奉天海竜線を連絡せしめ、又[1905年]日清満洲善後条約諒解事項第九の「清国は日本の満洲に於ける鉄道利益を保護する為め、右鉄道と並行する幹線は勿論同鉄道の利益を損傷すべき他線を築造せざることを約す」という規定に違反して満鉄の並行線たる打通線(打虎山通遼間)を敷設し吉海奉海両線と相俟って満鉄を脅威するに至った其後一九二七年十月十日には、時の山本[条太郎]満鉄総裁張作霖氏との間に、新満蒙五鉄道契約が結ばれたが、張[作霖]氏の爆死に依って有耶無耶となった。

(五) 借款踏倒し

日本は洮昴鉄道の建設工事を請負い、吉長、四洮両鉄道建設のため借款に応じたが、支那はこれを一向に履行せず、工事費は払わず借款は踏み倒すという有様で、その額数十万円に上っている。

(六) 鉄道網に依る満鉄の包囲

支那は又自弁鉄道の敷設に依って満鉄を包囲する計画を立て、昭和元年以来九線三百五十キロを敷設し、現在も工事中のものが多数あり、着々攻勢をとって満鉄を圧迫し、不自然なる運賃政策をとってまでも競争を挑んでいる

(七) 鉄道交渡に対する支那の無誠意

上記の種々の鉄道問題に関し、日本は日支共存共栄の趣旨の下に満鉄当局をして奉天官憲との間に鉄道交渉を開始せしめたが、僅かに一両回双方委員の顔つなぎ的会見を見たのみで、半歳に及ぶも実質的には何等の成績をあげていない。これは支那側の無誠意によるものである。

(八) 在満鮮人問題

満洲には現在約七十万の朝鮮人がいるそのうちの半数は間島にいるのであるが彼等に対する支那官憲の圧迫及び搾取は逐年甚しく帰化を強要したり支那人家主に命じて立退きをやらせたり、土地使用の契約を更新する毎にその条件を悪くし、又は契約を破棄して土地を没収したり、言語道断の処置を執っている。この状態を救済すべく日本は支那との間に暫行弁法を締結すべく交渉を開始したが、これ亦支那側の無誠意によって今だに端緒を掴み得ない状況に在る。

(九) 不当課税問題

奉天軍閥に依る搾取が日本人の上にまで延びて到る処に条約違反の不当課税が行われる。大連輸出の撫順炭に対する二重課税の如きは満洲五案件条約の蹂躪で不当課税の最近の適例である。まだ一々数え立てれば沢山あろうがとにかく三百以上の懸案が支那側の無誠意に依って殆ど一も解決されす、わが権益は次第にその影を薄くし、在留民の居住不安は日を逐うて増加しつつあった折柄、六月上旬長春万宝山に於ける鮮人農民圧迫事件が起り、同月下旬祖蘇鄂公爺府に於いてわが陸軍大尉中村震太郎、元騎兵曹長井杉延太郎両氏が、関玉衡氏の屯墾隊のために虐殺さるる不祥事件が勃発し、八月右に関する交渉が林[久治郎]奉天総領事と支那官憲との間に開始され、九月に□りて稍解決の曙光を見出したと思う間もなく、五月以来時々計画的に行われていた支那側の満鉄列車妨害事件(五月以来四件)の最後の閃光として、九月十八日の柳条溝[柳条湖]陸橋爆破事件となった。満鉄はいうまでもなくわが在満権益の尤なるものであり、且又世界交通の幹線でもあり、わが満洲駐屯軍は鉄道守備を以て第一の任務としているものであるから、決然起って自衛権を発動するに至ったのである。


写真(上)2021年8月、中国東北地方(満州)、遼寧省、瀋丹線の1911年建築の祁家堡(きかほう)駅の駅舎とプラットホーム
:日露戦争後の1905年12月、日本がロシアの満洲権益を継承する満洲善後条約を清国と締結。1907年4月、南満洲鉄道の営業開始、1911年、瀋丹線を軌道改修し整備した。この駅は瀋陽駅から138km、丹東駅から139kmの位置にある。
中文(中国大陆):祁家堡站位于辽宁省本溪市本溪满族自治县草河口镇祁家堡村,为沈丹铁路上的一个火车站。建于1911年。 距离沈阳站138公里,丹东站139公里,隶属沈阳铁路局管辖。现为四等站。 Date 23 August 2021, 15:04:35 Source Own work Author Wei Wang Camera location 40° 55′ 35.48″ N, 123° 48′ 36.27″ E
写真は,Category:Manchukuo in the 1930s File:祁家堡站.jpg引用。

満鉄沿線の要地電光石火的に占拠 我軍先制の利を収む

苦戦して 克く任務達成

中村大尉一行の虐殺事件を導火線として満蒙各地に於ける日支両国の関係が極めて緊張せる折から九月十八日午後十時頃将校の指揮する支那軍約二中隊が突如として北大営(奉天北方)西南側の満鉄線路を爆破し続いて柳条溝分遣方面に攻撃前進した、我虎石台中隊ではこの情報に接するや直に之を救援する為め線路上を南下し折から北大営西南側方面より兵営に向って退却中の支那軍に会ったが、同兵営内にいる支那軍主力は一斉に射撃を開始したので我軍は直に之に応戦し之を攻撃して兵営の一角を占領した、敵は機関銃歩兵砲を以て射撃したので我軍は非常な苦戦に陥り野田中尉は遂に重傷した独立守備歩兵第二大隊は苦戦の報に接し之を救援して鉄道守備任務を達成せんが為め続いて現地にはせつけ虎石台中隊の攻撃を援助することとなった

関東軍司令部緊急の措置

満洲駐剳中の第二師団司令部では十九日午前一時日支交戦の報告を受けるや師団長以下幹部参集して対策協議をなしたる結果多門[二郎]師団長は師団主力の奉天集中を決心し直ちに所要の部署をなし関東軍司令部に於ても事態の重大性に鑑み、非常に緊張し、本庄[繁関東軍]司令官は時を移さず大要左の如き処置をなした

 一、軍の主力を以って奉天附近の敵を掃蕩し其の一部を以って営口鳳凰城に於ける敵の武装解除を断行し尚お一部を以って長春附近の敵を攻撃せしむ

 二、朝鮮軍の増援を要求す

 三、第二遣外艦隊の一部に営口派遣を依頼す

 四、軍司令部は午前三時半出発し奉天に向う

斯して関東軍司令官[本庄繁]並に第二師団長[多門二郎中将]の処置は極めて敏捷に行われ軍は十九日朝来第二師団の主力を以て東大営を、[満州鉄道警備の]独立守備隊の主力(二大隊)を以て北大営を夫々攻撃して之れを撫順方面に潰走せしめ更に独立守備隊の一部を以て営口、鳳凰城の武装解除を断行した長春駐剳隊及び独立守備第五大隊の主力は十九日朝来寛喊子南嶺(長春南方四吉)の支那軍を攻撃したが南嶺方面はその抵抗頑強なりしため約百名の死傷者を出すに至ったので軍は歩兵第三十連隊の主力、野砲一大隊を増援せしめて攻撃を続行し八時間に亘る交戦により十九日午後二時漸く南嶺の兵営を占領した。第二師団の主力は十九日朝来一部を以て東大営を守備し主力を以て奉天に集結し治安維持に任じ奉天城内は憲兵隊並に歩兵第二十九連隊の一部により治安維持の衝に当らしめた。独立守備隊主力約二大隊強は二十日朝、コウテウ山(昌図附近)の敵を攻撃し之を西北方に潰走せしめた。

吉林哈爾賓[Harbin]方面に主力を有する吉林軍が兵力集結を策すとの報に接するや、軍は直に第二師団の主力を長春に出動せしめるに決し、多門[二郎]師団長は主力をひきいて二十日長春に向い、その一部は公主嶺の南に当る水源地附近にて敵軍と戦い激戦後敵を敗走せしめて昌図を占領し、第二十九連隊の主力は二十日午後七時、撫順城を占領し、多門師団長は午後八時長春に到着し吉長鉄道局も二十一日午前占領して巡営の武装解除をなした。更に奥地の形勢が不穏であるので師団の一部は奥地に進み、四洮鉄道局の武装を解除して占領し独立守備隊によりて警戒し、羽山少佐のひきゆる一部は鄭家屯に出動して占領す、続いて吉林軍の主力を殲滅するため第二師団は装甲車[ビッカース・クロスレイ]を先頭に歩騎砲工の各兵三個列車を編成して二十一日午前十時出動し午後六時軍主力の武装を解除して吉林城に入り、枝隊を残して師団主力は長春に帰還した。かくて満鉄沿線の要地は総て保障占拠し関東軍の主力を奉天附近に集中し其の附近のみならず満鉄及其沿線地の安寧秩序を維持し軍本来の任務を完了することとなった。

朝鮮軍の独断越境

一方朝鮮軍は奉天附近日支交戦の情勢に鑑み、九月十九日飛行機若干を情況偵察並に関東軍との連絡の為め奉天に派遣し第二十師団第二守備隊により十九日安東附近に碇泊中の支那砲艦の武装を解除し更に混成一旅団を新義州以南国境附近に集結し、関東軍方面の危急に応じ得るの準備を整え待機の態勢を執った、然るに二十一日第二師団の吉林進出に伴う関東軍の営備力手薄に鑑み林[銑十郎]朝鮮軍司令官は閣議の決定並に参謀総長の命令を待たずして午後一時二十分独断により新義州に待機中の混成旅団を奉天に向け出動せしめて関東軍司令官の隷下につかしめた。

関東軍は兵員僅に一万四百、野砲十六門にして之を延長一千百キロ米に及ぶ鉄道沿線に散りぢり配置せるに対し、満洲にある支那軍は関内に出動せるものを除いても尚お二十余万に及ぶ、奉天附近のみにても兵員一万四千、野砲四十門内外に及んでいるのであるから満鉄の保護をまっとうする為めには単に鉄道及びその附属機関を確保するに止まらず苟くも之に危害を加えんとし或は加えんとするの危険あるものは悉く之を一掃せねばならぬ、されば関東軍が事端発生後電光石火的に奉天附近並に各地の支那軍を掃蕩し満鉄沿線の要地を保障占拠したのは全く此の戦理に基いたものであって若しそれ事変に際し関東軍に機敏よく先制の利を収め得ずんば如何なる危機に遭遇するやも図られないといわれている。 (満洲事変の解説引用終わり)

写真(右)1931年11月4日、中国熱河省、錦洲駅付近に進軍した日本陸軍戦車第一大隊久留米戦車隊のフランス製 (Renault)FT 17軽戦車:1917年の第一次世界大戦末期に登場したフランス陸軍の6トン軽戦車で、主砲はピュトー(Puteaux)SA18 21口径 37mm 戦車砲1門あるいはホッチキス(Hotchkiss) Mle1914 8 mm 重機関銃1挺。
English: Japanese Renault FT17 tank of the tank detachment stationed at Kurume (1st Tank Battalion), Chinchow Station after the fall of Chinchow. 日本語: 久留米戰車隊 (戰車第一大隊) のルノーFT17型軽戰車。錦洲驛。 Date 4 January 1932 Source World War II database Author Tokyo Nichinichi Shimbun
写真は,Category:Manchukuo in the 1930s File:IJA tank in Manchuria.jpg引用。


1−B.満洲事変と米国新聞の論評
神戸新聞 Vol: 第 98巻 Page: 136 出版年 1931-09-25

ルノー軽戦車 満洲事変の勃発に対して米国が如何なる態度を以て観ているかは頗る興味あるところであるが二十三日のニューヨーク各新聞は申し合わせたように之に対する論評を掲載している、その主なるものを挙ぐれば左の如し

第三者の独断を許さぬ 複雑な真相を研究せよ ヘラルド・トリビューン紙

【ニューヨーク二十三日発連合】今朝のニューヨーク各新聞はいずれも満洲事変に関する社説をかかげ日支両国の事変に対する責任を論じているがヘラルド・トリビューン紙は曰く

 満洲の危機は今回実際起った事変よりもはるかに複雑に織込まれた真に緊急な事件である、今回の事件にも明かな曲直があるに違いないが遠隔の地からでは俄かに判分しがたい、事件はこれを一瞥すれば日本の許すべからざる軍事的侵略行為であるが如くである、今回の事件は政治軍事史上に決して類型がないわけではないが異常な事態たることは疑いを容れぬ、しかも今回の事態は外部よりの干渉を無効ならしめる態のものである、支那人もまた決して全く非難を免れ得るものではなく要するに第三者は早急に独断を下すことが出来ぬ

国際信義の無視と称す イヴニングポスト紙

【ニューヨーク二十三日発連合】ニューヨークイヴニングポスト紙は満洲事件評より黄禍論に言及していわく

日本はその昔の支那に忍びより突如軍事的行動をもって支那から奉天市を盗みとってしまったその行動はその狡猾さにおいてその抜目なきにおいて国際信義の完全な無視においてまさに旧日本を支配した彼の民族の酋長連の特質を遺憾なく発揮したものである、しかしながら日本の支那征服は自らを固め武装しよろよろの白人に挑戦せんとする黄色人の抬頭を意味するのではないか、該事件はなるほど奉天を中心に起っているであろう、しかしながら西洋もまた自らこの事件に処する力の欠如を見て戦慄すべきである[記事画像の順番に間違いあり]

アメリカの名誉の為に日本撤兵を要求せよ ケロッグ条約の蹂躪者 ワールド紙日本を攻撃

【ニューヨーク二十三日発連合】今朝のワールド・テレグラフ紙は猛烈に日本を攻撃して曰く  日本は支那と戦争をしてここにケロッグ不戦条約を侵犯した、二ヶ年以前アメリカはケロッグ不戦条約の産みの親として労農ロシアに対し満洲における不戦条約の侵犯に関し説明を求めたのであった、今や日本は軍政史上における最も侵略的な戦争の一つを侵したので支那はその祖国を擁護するかわりにその武器を抛ってしまった、しかし果して支那は各種の条約によって保護されているだろうか、アメリカの条約上の公約は何らかの意味をもっておるか、何らかの価値があるか、もしアメリカにして自国の名誉を毀傷せざらんとせば他の条約国とともにまたは必要の場合単独に日本に対して撤兵と復旧とを要求するであろう

国際和平機関を利用せよ スター紙論評

【ワシントン二十三日発連合】満洲における日支衝突事件に関し本日のイヴニング・スター紙は左の如き論評を掲載した  世界各国民の間に国際平和の情操が普及されてこの方嘗つて今回の日支係争事件ほど厄介極まる問題が起ったことはない、一体各国はこの事件を如何に処理する考えであるか、国際連盟、ワシントン九ヶ国条約及びケロッグ不戦条約は同じ平和の目標に向ってそれぞれ異れる道程を提示する、この際平和を招来すべき之等三個の機関が極度の災禍を回避すべく利用し若くは利用され得るにあらざれば世界の一般国民は近代ステーツマン・シップの能力を極度に悲観するに相違ない、今や地球上の大衆は経済的重圧の下に苦しみ堪え難き苦悩の中にもがきつつある折柄、東洋に起った犬の喧嘩を鎮めることに必死の努力を払うことはこれ等階級を多少とも安心させる上において焦眉の急であろうと信ずる

腕白小僧のいたずらだ クロニクル紙

【サンフランシスコ二十三日発連合】サンフランシスコ・クロニクル紙は今回の満洲事変に関し特に連盟の役割に言及して曰く

 満洲は今や国際連盟の膝の上に逃げ上った、世界平和の擁護者はわめき騒ぐ腕白小僧をどう片づけるであろうか連盟はこの餓鬼が生まれてこなければよかったと思っている位だ、次にはこの事件が遊び場での子供の喧嘩を連盟が取上げるほどのもので決定に至ることを望むだろう、実は連盟も吾々と同様事変の真相に関してはまだ全く五里霧中にあるがそのうちだんだん真相もわかって来よう(満洲事変と米国新聞の論評引用終わり)

写真(右)1919年7-8月刊行『野砲ジャーナル』に掲載されたフランス陸軍ルノー (Renault)FT 17 6トン軽戦車の左側面:車体後方に超壕能力を向上させる金属製支柱を取り付けている。1917年の第一次世界大戦末期に登場したフランス陸軍の傑作軽戦車。全長5.00 m、全幅1.74 m、全高2.14 m、重量 6.5 t、最高速力 7.6 km/h、航続距離65 km、主砲ピュトー(Puteaux)SA18 21口径 37mm 戦車砲1門あるいはホッチキス(Hotchkiss) Mle1914 8 mm 重機関銃1挺
Description English: 6-ton tank. Date before 1920 Source Field Artillery Journal Jul-Aug 1919 Author Assuming US Army
写真は,Category:Renault FT historical photo File:6ton-tank-FAJ19190708.jpg引用。


1−C.満洲事変と第三者
時事新報 東京時事新報 Vol: 第100巻 Page: 47 出版年 1931-10-13
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100329239

一 理事会再開

張學良  満洲事変の勃発に依り東四省に割拠していた東北軍閥が一朝にして崩潰し、奉天を中心とする新政権運動の擡頭するに至りたる為め、北平に副司令部を置く張学良氏は、東四省に於ける発言権を維持し、機を見て地盤回復を図るの根拠地として、北寧沿線錦州に遼寧省新政府を設置し、主席代理米春霧氏以下幹部は去月二十九日同地に到着した。斯くて旧東北軍閥の旧勢力を集中し、敗残兵をも収容して陣谷を整えんとするに至ったので、実力派の出現に依り脅威を感じたる奉天の新政権運動は行悩みの状態に陥ると共に、敗残兵の横行甚だしく、地方自治維持の困難と不安とを増大するの情勢と為った。

又我在満駐屯軍の立場も錦州方面に於ける支那軍の集中は、現実の脅威を与うるものなるに依り、去る八日偵察飛行機を派して上空より偵察せしめたるに、支那兵が地上より猛然なる射撃を加えたる為め、之に応戦して爆弾を投下し、兵営及び政府公署に損害を与えたのである。而して之が錦州事件として現に連盟方面に於てセンセーションを惹起し、連盟理事会は十四日開会の予定を繰上げて、十三日より緊急会議を招集することと為った。

二 事態を憂慮

陸軍中将遠藤三郎  我軍飛行機の[1931年10月8日]錦州爆撃は、海外に相当の衝撃を与え、事態の悪化を憂慮せしむるに至った。錦州事件は支那側の挑戦的行動に基いて誘発されたる出来事にして、軍の立場としては情況の偵察は当然のことであり、又支那兵の射撃に応戦したる我飛行機の[錦州]爆撃も自衛的行動である。即ち異常状態に在る現地の関係よりすれば、事態が安定するに至る過渡期の一事件に過ぎない。

然るに1931年10月8日、[1931年10月8日][錦州]爆撃の事実が満洲事態に不案内の外国に誇大に伝えられたので、理事会議長レルー氏は此報道に驚き、事態の拡大防止に関する理事会の決議を引用して、日支両国の注意を喚起するの勧告を送達したのである。理事会が斯かる措置に出でたる不安と憂慮とは、固より諒解し得る所なるも、満洲並に支那の一般的事情に暗くして、徒に局部的出来事に過敏なる神経を鋭らすことは、決して速に事態を平静ならしめる所以ではない。即ち理事会の焦慮はさることながら支那問題の取扱に不馴れなる遠隔の地に在る机上の群議こそ、却って事態を紛糾し解決を遷延せしむるの虞あるの事実を篤と省察して、慎重なる態度を切望するものである。

三 反日の一手

張学良  支那が本[満州]事変に関し現に企図しつつある所を見るに、事態拡大防止に関し毫も努力する所なきのみか、南京政府は盛んに反日排貨を直接間接に使嗾し、民衆を煽動して、反日運動に依り我国との抗争を激化せしめんとしているのである。斯かる計画的反抗が武力に依らざる敵対行動たることは言を待たざる所にして、国家間の交誼を破壊する暴力行為と云うの外はない。然かも支那側は一方に民衆の反日運動を煽揚すると共に、他方国外に於ては、支那の実相に踈き外国の同情を求め、外部の干渉を促して、形勢を自国に有利に導かんとする慣用手段を頻に試みているのである。元来日本は既存権益の不法蹂躪に隠忍して来たに拘らず、支那側の挑戦的態度は益々昂進して、遂に満鉄爆破と為り、今度の事変を誘発せしめたのであるから、支那の官民に於て自ら反省する所がなければならぬ筈である。

然るに事件の無関係者が実際の実情を詳にせずして、不用意に容喙することもあらんか、徒に支那側の慣用手段に乗せらるるに止まらず、事態を一層粉乱せしむるものに外ならない。即ち我国が終姶直接交渉を以て、解決の正常道として主張する所以である。日本は一日も早く直接交渉の進展さる可き事態の到来を希望して已まず、只管時局収拾の速ならんことを祈るものなるを以て、満洲治安の回復は、彼我の誠実なる協力に依ってのみ其目的を達し得る現実の事実に対し、支那側は勿論、第三者の地位に在る列国民の、正しき認識を促さんとするものである。 (満洲事変の解説引用終わり)

フォッカー(Fokker)F. VIIa単発輸送機は、乗客10名を運ぶことができた。これは、当時では、大型旅客機である。 フォッカー(Fokker)F.VIIa単発輸送機の発動機は、機首にエンジンを1基のみ装備しているが、エンジンが3基ある「トライモーター」のほうが世界では普及している。

1−D.経済的で安全な優秀機 : 日本空輸の使用機 : 話題と解説
掲載誌 東京朝日新聞 Vol: 第 1巻 Page: 76 出版年 1929-03-08
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100062924

 航空路が出来、空港の設備が成ると、次に如何なる飛行機を使用すべきかが問題となる。使用機として、まず安全なもので、次に経済的に優秀なものでなくてはならない。輸送機とし優秀なものは、数種ある。日本空輸会社では今度購入したものは、オランダで作られたフォッカーF七型三発動機[Fokker F.VIIb-3m]のものと、米国製のフォッカー・スーパー・ユニバーサル型[Fokker F.VIIa Super Universal]との二種である。

 フォッカーF七型[Fokker F.VIIb-3m]の方は、リンクス発動機百八十馬力のものが三台装備されているから、これ等の内一台が故障を起しても、他の二台で暫らくは飛べるから、東京大阪間の途中で故障が起ったとしても無事にどちらかに着陸することが出来る。ただ、発動機の数が多いだけに、操縦は多少困難となることはやむを得ない。同機の性能その他を示すと左の通り。

翼の長さ 二一・七一メートル
機の長さ 一四・六メートル
機の高さ 三・九メートル
翼面積 六七・六平方メートル
自重 二三〇〇キログラム
積載荷重 一四五〇キログラム
最大時速 一八〇キロメートル
巡航時速 一五五キロメートル
着陸時速 七五キロメートル
航続時間 七時間

大阪から上海へは十二時間

 即ち、この飛行機では、乗務員二名の外に、乗客八名を乗せ得る能力を有し、東京大阪間なら三時間、途中の着陸を除けば大阪上海間なら十二時間で達することが出来る。

 次に、フォッカー・スーパー・ユニバーサル機[Fokker F.VIIa Super Universal]は、ジュピター四百五十馬力発動機一台を装備して、乗組員二人と乗客六人を載せることが出来るその性能その他を示すと次の通り

翼の長さ 一五・四三メートル
機の長さ 一一・一六メートル
機の高さ 二・七二メートル
自重 一二七〇キログラム
積載荷重 一〇〇〇キログラム
最大時速 二二五キロメートル
巡航時速 一九〇キロメートル
着陸時速 七二キロメートル

 即ち、F七型[Fokker F.VIIb-3m]に比べると、この方が積載能力並に速度が小さい。

運航開始される新しい航路

 新航空路で運航される飛行は、 [図表あり 省略]

 最後に、輸送飛行機に委託される貨物並に旅客の料金は [図表あり 省略]

となっているから、旅客賃金は大体において汽車の一等賃金の倍額となるが、時間においては、数倍の速さとなる。(経済的で安全な優秀機 : 日本空輸の使用機 : 話題と解説引用終わり)


2.1930年代満州のフォッカー・スーパー・ユニバーサル(Super Universal)輸送機

絵葉書(右)1937年発行、日本植民地、満州、大連郊外、周水子飛行場、日本航空輸送株式会社(後の大日本航空)中島フォッカー・スーパー・ユニバーサル(Nakajima-Fokker "Super Universal")単発輸送機(J-BCRO)と日本航空輸送株式会社の飛行機格納庫:「日満の空を繋ぐ要衝周水子飛行場」(Aeadome of ShusuiShi Important Point of Nippon-Machu Air Route, Dairen)アメリカから輸入したフォッカー・ユニバーサル単発輸送機で、中島でも国産化された。1935年に日本陸軍キ6中島九五式二型練習機として制式された。絵葉書の写真は、民間登録コード(J-BCDO)をつけた日本航空輸送株式会社(後の大日本航空)の民間輸送機。
English: Commemorative postcard showing Japan Air Transport (JAT) Nakajima Ki-6 transport at Shusuishi Aerodrome, Manchukuo. Date circa 1937 Source historical postcard, personal collection Author Unknown author
写真はWikimedia Commons,Category:Nakajima Ki-6 File:Shusuishi Aerodrome 1930s.jpg引用。


日本は、1931年9月18日、奉天(瀋陽)北の柳条湖で満州鉄道が爆破され、これを契機として満州事変が勃発した。日本は、中華民国、東北三省の遼寧省・吉林省・黒竜江省、さらに内蒙古東部の熱河省を領域として、傀儡国家の満州国、中国で言う「偽満州国」を建国した。1932年3月1日、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀を執政として迎えたが、溥儀は清朝復活という復辟(ふくへき)に拘った。溥儀は、1934年3月1日、に満州国の皇帝に即位し、満州帝国が成立した。首都を新京(長春)とした満州帝国だったが、実権は関東軍、日本の顧問が掌握していた。

満州国の五族協和とスローガンは、建前であり、プロパガンダに過ぎなかった。国籍法もない満州は、実際は関東軍が軍事支配し、日本人官吏が行政権を掌握していた傀儡国家、植民地だった。インド帝国、インドの藩王国の存在が、イギリス植民地インドと併存したのと同様である。つまり、満州帝国は、イギリスにとってのインド帝国と同様に、日本の植民地の地位に置かれていたといえる。

絵葉書(右)1934年頃、満州航空株式会社発行、満州国、新京飛行場の飛行機格納庫前の舗装滑走路に待機している満州航空株式会社所属の満航一型機フォッカー・スーパー・ユニバーサル6人乗旅客機(登録コード:M-113)
戦前 絵葉書 新京 満州航空会社新京飛行場 飛行機 満州 ポストカード 郵趣 郵便 はがき 古書 資料 現在 1,000円(税 0 円) 送料 全国一律94円(税込) 配送方法 定形郵便 配送方法一覧 出品地域 長野県
写真は,ヤフオク!/オークション >絵葉書引用。


中国東北地方の奉天飛行場は、1921(大正10)年、奉天軍閥張作霖大元帥が東三省航空処として建設した、張学良が引き継いだ。しかし、1931年に満州鉄道爆破事件を契機に満州事変が勃発すると、日本陸軍関東軍に奉天飛行場は占領された。1932年に日本傀儡の満州国が建国されると、 関東軍司令官本庄繁中将と満州国国務総理鄭孝胥との協定で満洲航空株式会社が設立された。これは、「満航」と呼ばれたが、事実上、日本陸軍の管轄にあった。満州航空では、航空輸送を担うために、1932年11月3日、フォッカー スーパーユニバーサルとフォッカーF7/3mを就航させた。

フォッカー機が採用した全木製合板張り片持翼、鋼管溶接骨組みに羽布張り胴体・尾翼の構造を踏襲している。日本は、1929年にフォッカー・ユニバーサル6機をアメリカから購入し、日本航空輸送株式会社の下で旅客輸送に使用した。好評だったために、フォカーユニバーサル機は中島飛行機で国産化された。その機体を日本傀儡国家満州に設立した満州航空株式会社が採用して、満州の首都新京を中心とする路線で使用した。

カラー絵葉書(右)1932年、満州、新京(長春)飛行場(?)、未舗装草地滑走路に待機する満州航空フォッカー・スーパー・ユニバーサル(Fokker "Super Universal")単発輸送機「スーパー號」(M-105)の左正面:固定式降着装置の主輪には、空気抵抗を減少させるための車輪カバーが設けられている。尾部には尾橇を装備している。切手(1銭5厘)に1932年11月8日「日満航空郵便連絡記念」消印スタンプが押されている。垂直尾翼に五色満州国旗を描いているので、満州国建国後の絵葉書とわかる。満州の建国理念は、日・韓・満・蒙・漢の五族協和であり、その民族を五色で象徴した五色旗が国旗とされた。
『貴重 古い絵葉書 満洲航空 開業記念 繪葉書 絵はがき 飛行機 戦前 エンタイヤ 切手 大日本帝国 満州 記念スタンプ
写真は,aucfan 引用。


日本は、1929年にフォッカー・ユニバーサル6機をアメリカから購入し、日本航空輸送株式会社の下で旅客輸送に使用した。好評だったために、フォカーユニバーサル機は中島飛行機で国産化された。その機体を日本傀儡国家満州に設立した満州航空株式会社が採用して、満州の首都新京を中心とする路線で使用した。

日本の軍部、関東軍が実働部隊となって中国東北地上で引き起こした満鉄爆破事件を契機に満州事変が勃発し、その結果、日本は傀儡国家満州国を語族協和の名目で創設した。そこで、元来、中国東北地方に駐屯していた関東軍と日本本土(内地)を結ぶ空路は、日本航空輸送株式会社の満洲代表部として「関東軍軍用定期航空事務所」が担当していた。しかし、満州国の建国で、満州と内地の空路整備の必要性が高まり、定期航空事務所を母体にして、1931年に「満洲航空株式会社」が設立された。

満洲航空株式会社は、アメリカ製フォッカー・スパー・ユニバーサル単発輸送機を輸入し、中島飛行機が国産化したのが中島スパー・ユニバーサル旅客機を採用した。中島スパー・ユニバーサル旅客機は、壽(コトブキ)空冷星型9気筒エンジン480hp装備、乗組員(操縦士・機関士)2名、乗客6人座席、最大速力時速250km、巡行速力時速190kmとある。空気抵抗減少のための固定車輪カバーを設け、尾部は尾橇を装備。

国策会社の日本航空輸送株式会社と同じく、満州航空も国策会社であり、民間旅客、貨物輸送、航空郵便など民間航路だけではなく、軍事用の航路も設けられ、航空測量調査、航空機整備も独占的に担当することになった。

Fokker F.VIIb-3m フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m輸送機の諸元
製造:フォッカー(Fokker), オランダ(NL) ・アムステルダム(Amsterdam)
全幅Span: 21.70m
全長Length: 14.60 m
全高Height: 4.50 m
発動機出力Power:3x 200hp
乗客Passengers: 8-10名
航続距離Range: 800 km

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mは、単発型よりも主翼面積を若干拡張し、発動機出力も若干向上させ220馬力としたタイプで、乗客は12名を搭乗させることができた。これが、フォッカー(Fokker) F-10(F-X)スーパー・トライモーター(Super Trimotor)三発輸送機である。

⇒写真集Album:フォッカー(Fokker)F.VIIa スーパー・ユニバーサル(Super Universal)単発輸送機

⇒写真集Album:フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機

カラー絵葉書(右):1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)浪速広場、 1929年4月竣工の奉天ヤマトホテル(鉄筋コンクリート3階・地下1階)と浪速通り奥の満鉄奉天駅;満鉄初代総裁の後藤新平は、「文装的武備」の下に満鉄傘下に各種事業を展開した。満鉄にリンクした宿泊ホテル業の振興もその一環で、高級様式ホテルとして、満鉄沿線の大連、奉天、旅順、長春(後の新京)、撫順、羅津(北朝鮮)、大連郊外ビーチリゾート星ヶ浦にヤマトホテルが建設された。
English: Mukden Naniwa Square - monument and West Naniwa Dori Date between 1927 and 1945 Source http://www.fadecard.com/2017/05/blog-post.html Author Old Japanese postcard
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Mukden Naniwa Square - monument and West Naniwa Dori.jpg引用。



3.1934年3月1日、満州帝国の成立

写真(右)1931-1932年、中国北部、天津市、満洲に出発する前の愛新覚羅溥儀(1906-1967)と妻の婉容(1906-1946):日・満・漢・モンゴル・朝鮮の「五族協和」のプロパガンダを掲げたものの、1934年に満州帝国の皇帝に即位した溥儀に実験はなく、関東軍の指導の下に置かれ、満州帝国の行政権は日本人顧問が握った。これを日本では「内面指導」と呼んでいたが、満州国の独立性を諸国に示すための謀略だった。
English: 1925-1931 Date between 1925 and 1931 Source Collection Author Unknown author.
写真は,Category:Renault FT historical photo File:Puyi and Wanrong Tianjin.jpg引用。


1908年11月14日、清朝の光緒帝が殺害されると、西太后(1835-1908年11月15日)の支持を受けて、愛新覚羅溥儀は2歳にして、1908年12月2日、宣統帝として即位した。1911年10月10日の辛亥革命で廃位されたが、そのまま紫禁城で暮らした。

1922年11月、満洲旗人郭布羅婉容(1906-1946)を皇后と、蒙古旗人の鄂爾徳特の文繡(1909-1953)を淑妃(側室)として紫禁城で結婚式を挙げた。皇帝世継ぎを生むためには、皇帝の寵愛を受ける何人もの側室が必要であり、これは独側将軍であろうが、明治天皇であろうが同じ状況だった。

1924年に、溥儀婉容も紫禁城から追放されたが、西欧は溥儀の要請を拒否して庇護をせず、天津日本租界の日本公館が彼を保護することになった。

写真(右)1931-1932年、中国北部、天津市、満洲に出発する前の愛新覚羅溥儀(1906-1967)と妻の婉容(1906-1946):婉容は、満洲旗人郭布羅の娘。溥儀が2年間の執政を経て1934年3月1日に皇帝に即位すると、婉容も皇后に即位した。1934年6月7日、秩父宮雍仁親王の訪問を受け、婉容は勲一等宝冠章を受けた。その後、麻薬中毒に陥り、体調、精神に不調をきたすようになった。1934年に皇帝に即位した溥儀だったが、実験はなく、終戦後、ソ連軍につかまった。極東国際軍事裁判に出頭させられ「日本軍に強制されて皇帝になった」と証言した。
Description English: Puyi and Wanrong in Tianjin Date between 1925 and 1931 Source London Illustrated News Author Unknown, reprint.
写真は,Category:Renault FT historical photo File:A0 Puyi and Wanrong in Tianjin.jpg引用。


愛新覚羅溥儀は、追放されて天津に暮らしていたが、1931年の関東軍の謀略、満洲事変によって建国された満洲国の執政に1932年3月9日に就任、満洲国軍大元帥も兼ねた。この時は、天津租界からの皇后婉容の旅順への脱出は、関東軍の助力を得た川島芳子が手引きした。

1934年3月1日、帝政移行で、執政だった溥儀は念願の満洲帝国皇帝に康徳帝として即位した。1935年、初の外国訪問で日本の大元帥昭和天皇と会談、その絶大な権力と周囲の尊敬に衝撃を受けて、帰国後に満州帝国の皇帝権力強化を期待した。

川島芳子とは、清朝皇族・粛親王の王女・愛新覺羅顯㺭は、粛親王顧問の右翼大物川島浪速養女となり、川島芳子(1906-1948処刑)と自称した。

写真(右)1931-1932年、中国北部、天津市、満洲に出発する前の愛新覚羅溥傑(1907−1994)と妻の嵯峨家出身の浩(1914-1987):溥傑(は、清朝最後の皇帝宣統帝・満州帝国康徳帝・愛新覚羅溥儀の実弟である。嵯峨浩は、嵯峨侯爵家娘で、1937年4月3日に溥傑と結婚し、満州帝国新京で暮らし始め、1938年に長女・慧生が1940年に次女・嫮生が誕生した。1939年、溥傑は、駐日満洲国大使館勤務となり、東京に移ったが、1940年の二女誕生後は新京に帰っている。しかし、1943−1944年末、溥傑は陸軍大学校に配属となり、再度、東京で暮らし、その後、新京に戻った。敗戦後、中国で1960年まで収監された。
English: Pujie with his child. Date 1930s-1946 Source My collection Author Unknown author.
写真は,Category:Pujie File:Pujie and Saga with their child.jpg引用。


1922年に結婚した愛新覚羅溥儀には終生、子供はなかった。 他方、弟の愛新覚羅溥傑(1907−1994)は、1929年3月、溥傑は、兄の妻・婉容の実弟の潤麒と共に、学習院高等科に留学する。1933年3月、卒業後の同年9月、陸軍士官学校本科入学、1935年7月に卒業し、同年9月に満洲国陸軍に入隊。1937年4月3日に軍人会館(九段会館)で、嵯峨侯爵家の嵯峨浩(1914−1987)と結婚式を挙げ、二女をえた。

川島芳子 川島芳子は、1933年2月、関東軍の熱河省侵攻に中国人が連携していることをアピールするために組織した安国軍の司令官に就任した。男装した麗人の川島芳子の戦闘部隊は、日本と満州国で大々的に喧伝され、「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」と持て囃された。しかし、1934年には、関東軍の傀儡軍としての役割を負わされたことに反発し、川島芳子は関東軍による満洲国での横暴を非難するようになったため、官憲からも危険人物視されるようになる、プロパガンダとして利用されることも亡くなった。鎮痛剤・アヘンへの依存する傾向も出てきた川島芳子は、日中戦争勃発直後の1937年7月末に日本が占領した天津で料亭「東興楼」の女将として暮らした。敗戦後、中国の裏切り者として捕らえられ、溥傑(満洲国皇帝愛新覚羅溥儀の弟)の妻嵯峨浩とともに監獄に収監された。芳子は、1948年に銃殺刑に処せられた。

満州帝国皇帝・康徳帝溥儀と皇后・婉容は吉林省長春市の宮殿に暮らしたが、2階の婉容の寝室の斜め向かいの20畳ほどの喫煙室は、婉容が麻薬・アヘンを吸引するために使ったとされる。アヘンは、ケシの実から採取する液体で、固形化すると黒褐色になる。このアヘンをランプであぶり、立ち上る煙をアヘンパイプで吸うのである。

満洲では、阿片は専売制で、その収益を日本の付属地である関東州・都督府と満州国の収益としたため,満州駐在の大蔵省官僚も加わって、阿片栽培は、国家的収益事業となった。


写真(上)1934年(康徳元)5月7日、満州帝国、首都新京(長春)、宫内府、官邸前に整列する日本軍と満州国軍の幹部たちと、敬礼する滿洲國童子團聯盟(ボーイスカウト)
:整列する子供たちは、軍事教練の木製銃を手に整列する斥候(scout)のよだ。1931年9月18日、日本陸軍の板垣征四郎・石原莞爾ら関東軍幹部は、柳条湖事件を仕掛け、1931年3月9日に宣統帝溥儀を執政とする満州国を建国した。1934年3月1日、溥儀を皇帝に即位させ帝政に移行、元号を康徳に改元した。
English: Manchurian Boy Scout rally 1930s, does anyone recognize the building with two dragons? I am guessing this is the Imperial Household Agency (宫内府), but not sure. If so, then the flag ceremony of foundation May 7, 1935 in front of the square of the Imperial Household Agency in Changchun Date 7 May 1935 Source 滿洲國童子團聯盟
写真は,Category:Manchukuo in the 1930s File:Manchurian Boy Scout rally ceremony of foundation May 7, 1935 in front of the square of the Imperial Household Agency in Changchun.png引用。


写真(右)1934年(康徳元)5月6日、満州帝国、首都新京(長春)、滿洲國童子團聯盟(ボーイスカウト):日本のボーイスカウトが日章旗の、満州のボーイスカウトが五色旗の下に、握手した。整列する子供たちは、軍事教練の木製銃を手に整列する斥候(scout)のよだ。1931年9月18日、日本陸軍の板垣征四郎・石原莞爾ら関東軍幹部は、柳条湖事件を仕掛け、1931年3月9日に宣統帝溥儀を執政とする満州国を建国した。1934年3月1日、皇帝溥儀を国家元首とする満州帝国が成立した。すなわち、日本は、執政溥儀を皇帝に即位させ満州の国政を帝政に移行、元号を康徳に改元したのである。
English: Manchurian Boy Scout ceremony, says "日满童子军交X", difficult to read the last character (x), as watermark obliterates it-appears to mean "The exchange duty between Japanese and Manchukuo Boy Scouts". "康徳元年五月六日" is May 6, 1934. flag ceremony of foundation in front of the square of the Imperial Household Agency in Changchun Date 6 May 1934 Source 滿洲國童子團聯盟
写真は,Category:Manchukuo in the 1930s  File:日满童子军交X exchange ceremony between Japanese and Manchukuo Boy Scouts May 6, 1934.png引用。



写真(上)1935年(康徳2年)1月、満州帝国、首都新京(長春)、満州帝国旗を模した部隊旗を先頭に行進する滿洲國童子團聯盟(ボーイスカウト)
:満州国依頼、総務長官の日本人が行政権を庄敦、庁内の各処長・各部の次長以下の幹部となった日本人官吏が行政を実施した傀儡国家である。このような行政の主要人事権は、満州に駐屯した日本の関東軍司令官にあり、満州帝国も内面指導されており、主権が皇帝溥儀にあるというのは見せかけだけで、偽満州国と中国が呼ぶのも当然だった。国籍法は存在せず、日本人、朝鮮人、漢人、満人、蒙古人の「五族協和」による「王道楽土」のイデオロギーもプロパガンダだった。
English: Manchurian Boy Scouts 1930s, text reads Tóngzǐ tuán 童子團 Boy Scout group, Chinese would translate group as regiment Date 1 January 1935 Source 中華民國童軍
写真は,Category:Manchukuo in the 1930s File:Manchurian Boy Scout rally ceremony of foundation May 7, 1935 in front of the square of the Imperial Household Agency in Changchun.png引用。


写真(右):1932年3月12日、日本傀儡国家、満州、奉天(瀋陽)、関東軍司令部玄関で、日章旗を掲げて満州国の建国を祝う関東軍司令官の本庄繁(1876ー1945年11月20日)中将、関東軍作戦主任参謀の石原 莞爾(1889-1949)中佐(右端);1931年8月1日、菱刈隆大将の後任の関東軍司令官に就任した本庄繁は、満州に赴任する前から、満洲国執政顧問・ 関東軍司令部附奉天特務機関長の土肥原賢二大佐、その後任の板垣征四郎大佐、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐らの策謀に関与していたと思われる。しかし、1932年8月8日に軍事参議官の辞令を受けに大元帥昭和天皇に奉告した際、満州事変に際して自分は陰謀をしていない、と述べた。
English: The foremost officer, saluting is Lieutenant General Shigeru Honjo commander in chief of the Japanese forces in Manchuria, acknowledging the salutes of a procession of Japanese residents of Mukden celebrating the Establishment of a new nominally Independent State of Manchuria, Mukden Date 12 March 1932 Source http://www.anorak.co.uk/wp-content/uploads/2013/12/PA-9914524.jpg Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Nakajima AT-2.jpg引用。


Puyi 1932年3月1日、宣統帝溥儀(1906-1967)を執政とする満州国以来、総務長官の日本人が行政権を庄敦、庁内の各処長・各部の次長以下の幹部となった日本人官吏が行政を内面指導した傀儡国家である。

このような満洲における日系官吏の行政権は、満州に駐屯した日本の関東軍司令官にあり、満州帝国も内面指導されており、主権が皇帝溥儀にあるというのは見せかけだけで、偽満州国と中国が呼ぶのも当然だった。国籍法は存在せず、日本人、朝鮮人、漢人、満人、蒙古人の「五族協和」による「王道楽土」のイデオロギーもプロパガンダだった。

1931年9月18日、日本陸軍の板垣征四郎石原莞爾ら関東軍幹部は、柳条湖事件を仕掛け、1931年3月9日に宣統帝溥儀を執政とする満州国を建国した。

1934年3月1日、満州国は帝政に移行し、皇帝溥儀を国家元首とする満州帝国が成立した。すなわち、日本は、執政溥儀を皇帝に即位させ満州の国政を帝政に移行、元号を康徳に改元したのである。

絵葉書(右):1937年、日本傀儡国家、満州国、首都新京の「満州国国務院」;日本が1932年に建国した満州国では、1934年の組織法で日本が行政権を掌理する規定(第27条)、国務院に国務総理大臣と各部大臣を置く(第28条)、国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する、とし、次官の日本人の輔弼・顧問が置かれた。満洲国の国会はなく、立法院は行政をつかさどる国務院が定めた。国務院総理の鄭孝胥にも、1934年(康徳元年)に満州帝国皇帝に即位した溥儀にも行政権はなかった。
Description 中文:State council of Manchukuo(满洲国国务院) Date before 1945 15 February 2009 (original upload date) Source Post card of Manchukuo Author Unknown author (Original text: 满洲国已解体,根据《中华人民共和国著作权法》,该图片版权已逾五十年保护期,当属公共版权)
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:State council of Manchukuo.jpg引用。


1931年9月18日、関東軍が謀略により引き起こした満洲事変によって、1932年3月1日、満州国が建国された。日本は、国際連盟が満州国建国の正当性を吟味するリットン調査団報告書Report of the Lytton Commission)の公表される直前、1932年9月15日、満洲国と日満議定書を締結、満洲国を独立国として承認した。しかし、リットン調査団報告書Report of the Lytton Commission)をもとに、1933年2月24日、国際連盟の総会で満洲国の正当性は否決された。国際連盟常任理事国日本の全権代表松岡洋右は、総会を退席し、直ぐに日本は国際連盟脱退した。

1920年に設立された国際連盟の常任理事国だった日本は、満州事変の咎を責められたことに激高し、自ら進んで国際連盟を脱退した。1933年2月24日の国際連盟総会において、満州の中国による統治権を承認し、日本軍の撤退を求める決議案が出され、賛成42、反対は日本のみ、棄権1だった。国際社会の無理解に良かった日本代表団は国際連盟総会から退場し、1933年3月27日、国際連盟脱退の詔書を発し、国際連盟には脱退を通告した。

中華民国の国民党指導者蒋介石は、満州事変で東三省を失った責任を負って、1931年12月15日に下野表明したが、裏では、汪兆銘と折衝しており、1932年1月28日、南京政府を樹立した。南京政府の行政院長は汪兆銘、軍事委員会委員長、は蒋介石である。しかし、この時、第一次上海事変が勃発し、上海で日本海軍の戦隊と中国軍との市街戦が起こった。蒋介石・汪兆銘が連合した中国の南京政府は、「一面抵抗、一面交渉」の戦略は、列国の介入を誘導した。汪兆銘は、リットン調査団と会見し、第一次上海事変における日本の不当性を強く非難している。上海事変は、租界の混乱を招き、そこに利権を持つ英米仏伊の斡旋によって、5月5日、日中間の停戦協定が結ばれた。

日本軍は、中国北部では万里の長城以北を満州国に併合したに留まらず、長城線を越え南下し、河北省へと進撃し、上海でも日本海軍が紫外線を演じていた。国際連盟を脱退して国際的に孤立化していた日本は、中国に利権を持つ列国からの介入を受け、停戦し、5月31日に、中国との間で塘姑協定を結んだ。
 塘姑協定は、
1)長城以南に中国軍が撤兵し、そこに非武装緩衝地帯を設置する。
2)中国軍は河北省東北部から撤退する。
3)日本軍が撤兵する中国軍を監視することを中国側が認める。
4)日本軍は長城線以北へ撤退する。

こうして。塘姑協定が締結されたことで、満州事変が終結したが、中華民国政府は、満州国を承認してはいなくとも、その満洲支配の実効性を黙認することになったのである。

3−B.満洲の資源を種にいかもの会社計画 : 拓務、商工省等漸く憂慮
満州日報 満州日日新聞 Vol: 第 1巻 Page: 155 出版年 1934-06-24
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100082099

【東京特電二十三日発】最近満洲国の企業に関し東京を中心として如何わしき会社計画が頻々として行われ、既に成立した株式会社中にも或は有力なる事業上の利権を得たるものの如く宣伝し、又農地に関係ある会社の如きは耕地その他の数字を列挙して具体的計画を示しているけれども内容空疎にして、耕地は無論のこと耕地生産の見込さえつかざる架空的のものもあってそのインチキ振は実に甚だしい状態である併し流石に大阪方面では斯かる無謀の計画は通用せず、同地財界では昨今一般に満洲への投資を警戒しているが、東京では政治的意味による利権的計画を以て株主を釣り、満洲熱に乗じてプレミアム稼ぎをするものなどが現れて中には満鉄関係の統制会社等も玉石混淆するものもあり、その結果がどうなるかは関係当局等でも非常に注意している、

殊に満洲国内に於ては合弁会社でなくては企業を許さぬ事業を、恰も直接経営するものの如く装いて会社を組織するものがあり頗る悪辣なる手段が行われているが既に右の如く大阪方面で極度の警戒を加えている際、東京方面でもこれ等諸会社の真相判明すると共に斯かる欺瞞は行われなくなるだろうと証券界方面では其の成行を注目している、唯これ等インチキ会社の予定の破綻が今後真面目な企業に対して不測の悪影響を及ぼすことに就ては拓務、商工両省等で相当憂慮している模様である(満洲の資源を種にいかもの会社計画 : 拓務、商工省等漸く憂慮引用終わり)

カラー絵葉書(右):1937年、日本傀儡国家、満州国、首都新京の満州鉄道「新京駅」(長春);日本が1932年に建国した満州国では、1934年の組織法で日本が行政権を掌理する規定(第27条)、国務院に国務総理大臣と各部大臣を置く(第28条)、国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する、とし、次官の日本人の輔弼・顧問が置かれた。満洲国の国会はなく、立法院は行政をつかさどる国務院が定めた。国務院総理の鄭孝胥にも、1934年(康徳元年)に満州帝国皇帝に即位した溥儀にも行政権はなかった。
Description 中文:满洲国新京站,即中国吉林省长春市长春火车站旧照 Date before 1945 Source http://blog.sina.com.cn/s/blog_a5c40b050102xm6j.html Author Presumably Japanese Photographer
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:View of Hsinking Station, Hsinking, Postcard.jpg引用。


3−A.バチカン政庁が 満洲国の実情調査 : 擡頭する承認の機運
満州日報 満州日日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 180 出版年 1934-06-24
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100181227

【秦天特電二十三日発】曩に[1934年3月3日齋藤實内閣時]サルヴァドル国[El Salvador]の満洲国承認により最近各国の満洲国承認熱擡頭し来りカトリック教会ローマバチカン政庁の満洲国非公式承認により各国のカトリック教国では満洲国正式承認の機運が促進せしめられつつある、サルヴァドル国の承認により中央アメリカに散在するカトリック教団及び之を国教とする群小独立国、南米ブラジル、アルゼンチン、チリー及びスペインの各国では漸次満洲国を承認せんとする傾向あり、[ピウス11世(Pius XI)の]バチカン政庁に於いては東京駐在の派遣使節に対し満洲国の実情調査方を依頼して来たと(バチカン政庁が 満洲国の実情調査 : 擡頭する承認の機運引用終わり)

写真(右)1927年5月以前、バチカン天文台、ローマ教皇ピウス11世(ピオ11世:Pius XI;1857‐1939年2月10日)と天文学者ヴィンチェンツォ・セルッリ(Vincenzo Cerulli :1859-1927;右から2人目):チェルッリは、ローマ大学で物理学を学び天文観測に写真を導入した。火星に「運河」は存在しないこと、火星の衛星にクレータのあることを証明した。オーストリア出身のアキッレ・ラッティは、第一次大戦後、1919年に駐ワルシャワ大使として赴任し、にポーランド・ソビエト戦争では、反ボリシェビキの立場から、カトリック教国ポーランドを支援した。1922年2月に教皇に選出後、バチカンの絵画館、ラジオ局、バチカン科学アカデミーを設置している。
Description Italiano: Vincenzo Cerulli (penultimo a destra) e Pio XI in una Specola Vaticana Date 17 October 2023 Source Own work Author Serafino Cerulli Irelli.
写真は,Category:Photographs of Pius XI  File:Vincenzo Cerulli e Pio XI.jpg引用。


写真(右)1932年、バチカン、1932年ダブリンでの聖体会議に宛てたメッセージをラジオで朗読するローマ教皇ピウス11世(ピオ11世:Pius XI;1857‐1939年2月10日):1932年、カトリック教国アイルランド首都ダブリンで聖体会議が開催された。これまでアイルランドで開催された最大の集会であり、イギリス国教会のイギリスと対立していたアイルランドでは、国民の信仰のニーズに応えると同時に、アイルランド自由国の建設を模索するなかで、カトリック共同体の存在を再確認することも目的だった。
The original uploader was Jose Antonio at Italian Wikipedia. Later version(s) were uploaded by Luciano Coda at it.wikipedia. Photographer Attributed to Alberto Felici (1871–1950) Description Italiano: Roma, Pio XI legge alla radio il messaggio indirizzato al congresso eucaristico di Dublino del 1932 English: Pius XI reading his message for the 31st International Eucharistic Congress in 1932 Depicted people Pius XI Depicted place Rome Date Original: 1932;
写真は,Category:Photographs of Pius XI  File:Vincenzo Cerulli e Pio XI.jpg引用。


ローマ教皇として、1922年2月6日から1939年2月10日在位したピウス11世Pope Pius XI)は、1929年にムッソリーニのファシスト党イタリアとラテラノ条約Lateran Treaty:Pacta Lateranensia)を結び、教皇領を放棄と交換にバチカン市国としての独立を認めさせた。1933年7月には、ヒトラーのナチ党ドイツとコンコルダートConcordat )を結んだピウス11世Pius XI)は、カトリックの保護と交換に聖職者の政治活動禁止を認め、反ボリシェビキのナチ党政権を公認した。

国際連盟総会で満洲の国家正当性が否認された後、1934年2月20日、ローマ教皇ピウス11世Pope Pius XI)を長とするバチカン政庁(ローマ教皇庁)は、満州吉林に司教ガスペーをたてた。つまり、バチカン政庁は、それまで北平(北京)大司教の管轄下に置かれていた吉林省など満洲国を中国から分離して、新たに吉林駐在司教ガスペーをバチカン政庁代表に任命した。そして、バチカン政庁は、1934年4月18日、ガスペーからその旨を駐日満州国特命全権大使謝介石宛に満州の「宗教的承認」書簡をもって伝えている。

したがって、ガスペー司教ヨリ満洲国外交部大臣謝介石宛公文を以って、バチカン政庁が事実上、満洲国を承認とされることもある。しかし、実際には、バチカン政庁は、満洲国に外交使節団を派遣していないうえに、バチカン公館も開設していないので、満州国の「政治的承認」とはなっていない。

ピウス11世Pope Pius XI)のバチカン政庁が満洲国を認めた後、同じカトリックを奉じる中米エルサルバドルが、1934年3月3日、満洲国を承認した。この承認は、満州国承認を駐日総領事レオン・シグエンサに通告され、1934年5月19日にシグエンサから駐日満洲国公使丁士源に伝えられたのである。エルサルバドルは、「今後無限ニ鞏固ニスヘキ商業関係ノ設定セラレンコトヲ祈願スル」と述べたが、これにより、エルサルバドルが日本に次いで二番目に、満洲国を政治的承認した国となったといえる。

しかし、エルサルバドルは、満州国との間に交流関係を持ったことがなく、貿易・投資も行っていないのであって、エルサルバドルの満州国承認は、同じカトリック教国としてバチカン政庁に追随しただけであり、ローマ教皇へのアピールを狙った形式的承認に過ぎなかった。

カラー絵葉書(右):1937年、日本傀儡国家、満州国、首都新京の満州鉄道「新京駅」(長春)プラットホームと蒸気機関車;日本が1932年に建国した満州国では、1934年の組織法で日本が行政権を掌理する規定(第27条)、国務院に国務総理大臣と各部大臣を置く(第28条)、国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する、とし、次官の日本人の輔弼・顧問が置かれた。満洲国の国会はなく、立法院は行政をつかさどる国務院が定めた。国務院総理の鄭孝胥にも、1934年(康徳元年)に満州帝国皇帝に即位した溥儀にも行政権はなかった。
Description 中文:满洲国新京站,即中国吉林省长春市长春火车站旧照 Date before 1945 Source http://blog.sina.com.cn/s/blog_a5c40b050102xm6j.html Author Presumably Japanese Photographer
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Platform to North Manchuria Line, Hsinking Station, Hsinking.jpg引用。


3−C.満洲電業会社 : 設立委員長 吉田大将 : 十一月一日創立総会
満州日報 満州日日新聞 Vol: 第 2巻 Page: 44 出版年 1934-09-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100140738

【新京電話】満洲電気株式会社の創立総会は来る十一月一日開催の予定であるが第一回設立委員会は十九日午前建国電業会社において行われた、席上協議の結果設立委員長に前関東軍特務部顧問吉田豊彦大将[1873-1951]、副委員長に満電専務入江正太郎氏並に満洲国実業部工商司長孫徴を決定した、なお委員会は二十一日まで引続き開催の予定である

新会社陣容

満洲電気会社は満洲及び関東州の電気統制に当る重大使命を有し、且つその投下資本額も満鉄につぐ大会社なので何人か首脳部となるかは興味をもって見られていたが別項新京電話のごとく設立委員長及び副委員長二名の任命を見たので、今までの多くの新設会社の例を見てこの三人がそのまま居残るものと見られている、即ち理事長には特務部顧問として電業統制に最も功労のある吉田大将が再び出馬し、その下に副理事長としては日本側より満洲を代表して満電専務入江正太郎氏が、又満洲国側よりは孫実業部工商司長が転出することとなるべく、満電、営口水電北満電気等の日本側電燈会社、奉天、新京、ハルビン、チチハル、吉林の各電燈廠又は電業局の現在員はそのまま引継がれる筈

解消後の満電は電車バスのみ経営 八田満鉄副総裁の談

満鉄 新説日満合弁の電業会社は「公司法」に拠り満洲国法人として設立することに決定、新名称は満洲電業公司である、会社監督権の帰属は在満行政機構改革の関係あり当分暫定的に新会社の各発電所所在地における行政区域によって日満孰かの監督下に置くことに決定された、なおこの結果満電は解消することとなるが満電は電力供給部門だけ引離して残った部分の市内電車、バス及び金大、旅大、甘井子及び金普の郊外パスは引纏めて資本金五百万円の独立会社として経営する方針である、右に就いて満鉄八田[嘉明]副総裁は語る

電力供給の新会社の満鉄持株は三分の二の六千万円以上になる目下政府に認可申請中だから詳細には云えぬが日満双方とも全部現物出資で新資本の投下はない然し将来はもっと新資本を加えて大きなものになる、満電は解散した後、電車、バスは一まとめにして新会社を設立すべくこれも同時に申請している、併しこれが経営に就いては鉄道部の意見も相当あるから考慮されるだろう、従業員は全部新会社に引きつがれ本社は新京に置かれる、然し満鉄の経営している撫順鞍山の発電所は新会社に参加せずそのままだ

奉天省内被合同会社

【奉天電話】満洲電気統制単一化のため新会社に統制される筈の奉天省内電気会社は左の如きものである [図表あり 省略](満洲電業会社 : 設立委員長 吉田大将 : 十一月一日創立総会

カラー絵葉書(右):1937年、日本傀儡国家、満州国、首都新京の満州鉄道「新京駅」(長春)、屋根付きプラットホームの地下通路入り口;日本が1932年に建国した満州国では、1934年の組織法で日本が行政権を掌理する規定(第27条)、国務院に国務総理大臣と各部大臣を置く(第28条)、国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する、とし、次官の日本人の輔弼・顧問が置かれた。満洲国の国会はなく、立法院は行政をつかさどる国務院が定めた。国務院総理の鄭孝胥にも、1934年(康徳元年)に満州帝国皇帝に即位した溥儀にも行政権はなかった。
Description 中文:满洲国新京站,即中国吉林省长春市长春火车站旧照 Date before 1945 Source http://blog.sina.com.cn/s/blog_a5c40b050102xm6j.html Author Presumably Japanese Photographer
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Platform of Hsinking Station, Hsinking.jpg引用。


3−D.内地労働者と満洲関係
満州日報 満州日日新聞 Vol: 第 3巻 Page: 26 出版年 1934-12-07
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100197268

沿線奥地の建設工事、就中都市に於ける官庁その他大規模の諸工事に、内国労働者を輸入するの是非利害に就ては、従来世間に色々の議論があった。併し昨年末、北支方面からの職工募集難に刺戟され、且つは内地人の満洲方面への求職熱を利用して、少数ながら技巧労働者が一部当業者に依って招致された。その結果は概して良好だったようで、先達て期限を了えて帰国した大林組職工団二十八名の如きも、それぞれ相当の貯金を残した。

而して雇用者被雇者共に相当の満足を得た。之れは些々たる小事相のようだが、満洲への移住若くは出稼ぎ問題に関して重要な意義を有する。即ち、この地労働界の状態は到底日本人を容るる余地なしという従来の迷信に力強い啓発的光明を注入したわけだ。勿論従来とは異った社会事情が発生したからでもあるが、労働者の選択、部署、労働方法さえ整えてかかれば、相当この方面に邦人の求職者を輸入し、及び落着け得るという信念を高めさせた。

由来労働移民の一般状態を見るに、大衆的には各々その国情に馴らされた特長がある。この故に如何に甲国に於て優秀な労働者も、総てが異なる社会状態にある間はその長所を発揮し得ない。曽てパナマ運河開鑿工事の初期に於て、気候風土及び賃銭□□などの理由により、多数東洋人が誘致使用されたが、或る種の機械作業はイタリーその他の欧洲労働者の手に俟つ外なかったという。加州に於ける日本農業者の卓越点も、必ずしも初めより然く練達巧緻であったのではなく、米国日体の農業的発達につれて、日人の本能力と適応性とが漸次深広になったのである。

この先例を拉し来って、満洲の現状に照校せんか、大体に於て今猶お未開の域にあるが、鉄道沿線の重要都市は急速に発達し文明化しつつあって、この気運に対応する為の建設工事は、また同じく加速度に熟練労働者を需要する。安価な筋肉労働よりも敏活老練な機械労働、若くは組織的作業を利益とするに至った。前述の実例は軈て時代の変遷を示し、之に接応して内地人の来住熱を整調するの必要を語るものである。

数年来工業移民の奨励を語るものが多くなった。勿論それは何人もが夙に希望して居た所だが、従来はそうした出稼者の介入し得る事業と余地とに乏しかった。然るに今や到る処に進歩した建設工事が簇起するのみでなく、単なる筋肉労働の優秀なだけでは企て難い産業が勃興せんとして居る。従って官庁当局者及資本団は、この意味の大衆指導方針に注意すべきである。原料国満洲が原料生産のみに没頭させられて居た時代は、唯だ安価な低級な労働力のみで事足って居たが、それが漸次現地加工化を必要とするに及んで、所要労力の性能経験に等差を生じた。如何なる民族も最も低級な労作は、最も単純な能力と生活とに甘んずる間が優秀だ。併しそれが直ちにより高い工作にも同様だとは決して云い得ない。

且つ夫れ邦人の満洲に於ける労働観は常に先住民族の状態を固定的に月旦し、満洲は彼等の如き生活に甘んじ、彼等の如き生産物利用に依ってのみ安息し得るものと誤信して居た。それはアメリカインデアンの手に委せられた間、幾千年蒙昧状態にあった新大陸の自然が、白人の努力に依って彼の如き陸離たる光景を発揮した先例を無視した見解だ。吾人の目標は満洲国の自然だ。この自然が吾人の安住地となると否とは、吾人自からの努力とそれに啓発同化され得る民族の発憤とにある。先進国民は後進国民の間に伍しての生活が至難だなどの臆断は、自からその後進未開状態を進歩させ得る覚悟を持たない者の遁辞だ。之は独り商工業界の労力問題のみでなく、農業経営にも深く玩味さるべき問題だ。(内地労働者と満洲関係引用終わり)

カラー絵葉書(右):1937年、日本傀儡国家、満州国、首都新京の「総合裁判所」(新京総合法衛)、屋根付きプラットホームの地下通路入り口;日本が1932年に建国した満州国では、1934年の組織法で日本が行政権を掌理する規定(第27条)、国務院に国務総理大臣と各部大臣を置く(第28条)、国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する、とし、次官の日本人の輔弼・顧問が置かれた。満洲国の国会はなく、立法院は行政をつかさどる国務院が定めた。国務院総理の鄭孝胥にも、1934年(康徳元年)に満州帝国皇帝に即位した溥儀にも行政権はなかった。
Description 中文:The building of combination courts. Hsinking(新京综合法衙) Date before 1945 Source Post card of Manchukuo Author Unknown author Permission (Reusing this file) 满洲国已解体,根据《中华人民共和国著作权法》,该图片版权已逾五十年保护期,当属公共版权
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:The building of combination courts.jpg引用。



4.1935年の満洲帝国ニュース新聞記事

4−A.一大炭砿会社出現か : 満洲国、満洲炭砿、満鉄の三者で満洲炭砿統制委員会を組織
満州日報 満州日日新聞 Vol: 第 3巻 Page: 105 出版年 1935-01-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100126329

【新京電話】満洲国の砿物中最も主要を占めている石炭はその埋蔵量四十八億屯と称せられ日満ブロック経済の強化、経済不可分関係を樹立以来、日満両国は満洲における炭砿の位置重要性を帯びるにいたり、日満両国としては重大にして慎重に考慮せねばならぬ問題であるので、日満両国は現在満洲における炭砿を二大分する満鉄並に満洲炭砿の両会社と計り、満洲における炭砿業の統制を行うことを協議中であったが、このほど満洲国、満鉄満洲炭砿の三者で満洲炭砿統制委員会を組織し西尾参謀長が委員長となり既に大綱方針を決定し着々統制準備中である、

一方既存炭砿を厳重調査し埋蔵量年額出炭能力を調査して日本における石炭の供給量を考慮し更に日満両国の需要量を研究の上満洲国より海外に輸出する石炭の統制に資するものであるが、本問題は当然満鉄改組により炭砿会社の一元化に関連する問題であるが、満鉄改組行われずとしても当然早急実現さるべき問題で一大炭砿会社出現に至るべきものと注目される(一大炭砿会社出現か : 満洲国、満洲炭砿、満鉄の三者で満洲炭砿統制委員会を組織引用終わり)

カラー絵葉書(右):1937年、日本傀儡国家、満州国、首都新京の「立法院」;日本が1932年に建国した満州国では、1934年の組織法で日本が行政権を掌理する規定(第27条)、国務院に国務総理大臣と各部大臣を置く(第28条)、国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する、とし、次官の日本人の輔弼・顧問が置かれた。満洲国の国会はなく、立法院は行政をつかさどる国務院が定めた。国務院総理の鄭孝胥にも、1934年(康徳元年)に満州帝国皇帝に即位した溥儀にも行政権はなかった。
Description 中文:Legislative council of Manchukuo(满洲国立法院) Date before 1945 18 February 2009 (original upload date) Source Post card of Manchukuo Author Unknown author Permission (Reusing this file) PD-Japan-oldphoto
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Legislative council of Manchukuo.jpg引用。


4−B. 満洲国官界の粛清を期待す
満州日報 満州日日新聞 Vol: 第 4巻 Page: 17 出版年 1935-02-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100073939

満洲国日系官吏の異動が近く広範囲に渉りて断行さるる旨、我社の東京特電によりて伝えられている。満洲国創立以来諸般の政務に渉りて[満洲国]日系官吏の功績顕著なるは蔽う可らざる事実であるが、一方には多少不心得のものがあったことも否定し得ない事実だと見られている。その中には金銭に関する潰職のものもあり、金銭に関係なきも所謂優越感の濫用に基く横暴のものもある。又横暴という程ではなくても土地の事情、民人の慣俗を知らざるが故に、言行妥当を欠くものもある。此等は何れも日本が満洲国の健全な発達を助けんとする国策に背反するものであって、或は日本国民の面目を傷け、或は満洲国人の反感を招く。

斯様な者が一人もなくなり、なる程日本人は学識技術のみならず、人格も立派で親切である、これなら万事お頼みしても安心だと思わせるようでなくては、援助もその実効を奏しない。日満議定書があるとか、我国策が満洲国の禍害は日本の禍害であるとして之れを除き、満洲国人の安居楽業を期するにあるとか言って見ても、実際に仕事を為す[満洲国]日系官吏の言行にそれが認められないでは、すべて空文空言になる。それでは日本の威信を害するわけで、日満不可分というような事も言葉だけのことになる虞れがある。吾人は斯様な見方から、従来も屡々機会ある毎に[満洲国]日系官吏の自重を望んだ。

思うに[満洲国]日系官吏の中に此等の弊害を生ずるのは、満洲国の創立されるに至った真因、日満関係の真由を知らないからである。仮令知っても、耳と舌だけで知っているので、心でそれを知らないからだ。それには採用当時に於ける人選標準の不確定採用されてからの訓練監督の不行届に由るものもあろう。今や日本側では二位一体の新機構が新たに成り、南[次郎]大将は鋭意、遂行に当るに至った。此際之れに相[以下データなし](満洲国官界の粛清を期待す引用終わり)

絵葉書(右):1937年以前、日本傀儡国家、満州国、首都新京の「満州国蒙政部」;日本が1932年に建国した満州国では、1934年の組織法で日本が行政権を掌理する規定(第27条)、国務院に国務総理大臣と各部大臣を置く(第28条)、国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する、とし、次官の日本人の輔弼・顧問が置かれた。満洲国の国会はなく、立法院は行政をつかさどる国務院が定めた。国務院総理の鄭孝胥にも、1934年(康徳元年)に満州帝国皇帝に即位した溥儀にも行政権はなかった。
中文:Department of Mongolia politics of Manchukuo(满洲国蒙政部) Date before 1937 24 May 2009 (original upload date) Source file of Manchukuo Author Unknown author Permission (Reusing this file) public domain
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Department of Mongolia politics of Manchukuo.jpg引用。


4−C. 苦力統制 : 満洲国取締規則公布
満州日報 満州日日新聞 Vol: 第 4巻 Page: 66 出版年 1935-03-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100098744

【新京電話】入満苦力激増の折柄満洲国政府では関東局並びに軍部側と協力労働統制を図らんと、日満両国による労働統制委員会を開催、外国労働者取締規則を公布する準備を進め、既に関東局令を以て日本側の取締規則は公布をみたが、今回満洲国政府側よりも二十一日附を以て十四ケ条より成る外国人労働者取締規則を公布した、ここに日満両国協力による入満苦力の取締並びに満洲国における労働統制は完璧化された訳である、右につき民政部外事科当局は語る

建国以来の懸案であった外国人労働者取締規則も愈々公布をみたが、本令公布と同時に最も多くこれが適用を受けるのは毎年解氷期を俟って多くは百万少くも数十万入満する山東苦力であろう、しかし本規則は決して入国禁止ではなく、反満分子及び不良者を排撃して善良なる労働者を入れる為で、即ち国内の治安維持上已むを得ず生れた規則である ( 苦力統制 : 満洲国取締規則公布引用終わり)

絵葉書(右):1930年代、1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)西塔大街;大都市奉天も、繁華街の大通り以外は未舗装道路でだったが、自動車交通が盛んでなければ、未舗装道路は1960年代の日本の県庁所在地級の都市でも当たり前だった。ビルの並んだ植民都市の写真を示して、日本人の支配下でインフラが整備され、都市が栄えたというのは、誤解を招く。「日本---」の看板、木製電柱が見える。電灯がついている電柱は1本だけである。側溝のドブは、下水代わりの排水路である。荷車と人力車がとまっている。
Description English: A postcard showing Xita Street (西塔大街) of Mukden SMR Zone. Date before 1945 Source http://blog.sina.com.cn/s/blog_4b771be00101d0zr.html Author Old Japanese postcard
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Xita Street of Mukden SMR Zone.jpg引用。


4−D.満洲の経済建設批判時代に入る : 日本シ[シンジゲート]団の満洲経済観
満州日報 満州日日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 1 出版年 1935-06-02
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100091307

【東京特信】この程満鉄の招待に依り満洲各地の視察を遂げた東西シンヂケート銀行団 幹部の金融を基調とする満洲経済観は概ね左の如き考察を加えている

事変後三年余、満洲各地の状況が劃期的に改まっている事は一見して分かるが、之を経済上特に金融上仔細に点検すると色々の考察が迸走する、経済建設に対する国家統制もさることながら投資関係から見ると、この際満洲の経済を正視し寧ろ之を見直す必要があるのではないかと思う、既往三年間は概ね事変と建国とに伴う経済敵領域を定めその判別を加えた時代で、今はこの経済領域も分野も定り今迄のようにそれ等の維持若くは獲得のために費やした努力‐投資はその主要の一部‐を払う要がなくなったといえるだろう、従って今後はそう急がずに真に経済的把握を正確にして徐々に行進すべきもので、経済的建設の当初には多少の無理もあったし、非常的投資も行われたけれどもこれからはそうは行かないと思う、

無論鉄道建設の如き国防上の関係もあることだから端的に経済的打算に堕することは出来ないし、金融上の採算のみを主とすることは当を得ないが併し採算を全然無視しては後日に禍を貽すような結果になる、例えば予定の路線を一気呵成に仕上げることは建設技術としては誇るに足るものがあろうし又事功を示すことにもなるが早く仕上っただけ投資上の採算に狂いを生じて来る、直に収入を見れば或いは可なるものもあろうし又多少でも収入を得て採算不引合いを緩和することは出来るかも知れぬが、諸般の情勢から判断して予定計画を定めたものはその予定計画通りやることが合理的なので、之を早く仕上げるには金をかけて人を増せば可いということになる、

無論現在の建設状況を見てそういうものではないので、これは単に一例に過ぎないが、経済上のことは特に投資関係に就てこういう風に見ることが必要でこの意味においてどうかと思う点は多々ある、新京の国都建設にしても又哈爾浜[ハルビン]や奉天[ほうてん]等々の水道計画やその他の都市計画にしても金融上からは外観のみを見て直に是非を判断することは出来ないので、要するに満洲の経済建設は今や慎重なる批判時代に入り、再吟味の機会に達したといえるので、若しこの判断を誤りて徒らに急躁を択ぶことになると或は飛んだ失敗を招くことになしとせぬ、

満洲とさえいえば直に好況を意味するが如く民間の種々の会社が設立されて既に一年以上経ち、而も中にはインチキを暴露したり、ボロを出しているようなものもあるのだから必至的に再吟味の傾向を生ずるのは当然であるが、将来はかかる意味の再検討や再認識を繰返すことは甚だ好まぬ、

真に経済的認識を充足して着実穏健なる企業と投資とが秩序的に行われねばならぬ時代になっている、過去の経済的分野を定める時代は幸に日本内地の経済事情が良好だったのでよく機会を捉えた満鉄の増資社債募集もうまく行ったが、それからはそう易々と行かぬ動勢が見える、どちらかといえば既往は巧く行き過ぎたので少々行い過ぎたからこの辺で引締める必要も生じて来るのだが、それも急激に行っては却って反動を誘致し今迄の分まで悪化さすことになるから余程気をつけねばならぬ、要するに満洲の経済建設はこれから真の開発時代に入るので今迄領域を定めたものを最も合理的に具現し、逐次行進することにすれば金融上の観点も自ら正鵠を得て投資が正常化し前途洋々たるものがあろうが、若し一歩を誤りて経済的原則と実情とは符合せぬ方面が出て来ると敏感なる金融市場が繁戒することになるから甚だやり憎いことになる、これは一切万事を算盤勘定に入れるという意味ではなく金融と投資との理論的実際的の考察として最も留意すべき点である、

固より国策上他の重要なる意識も加わらねばならぬが、此処迄きた以上この上そう急ぐ必要はないので、十分に金融機能と投資の性能とを研究し過算なきを期せねばならぬから今回視察の重点も此処に置いて今後に処して正当なる理解と判断を誤らぬことにしたい希望であり、それが又最も有効であろうことは当を俟たない。(満洲の経済建設批判時代に入る : 日本シ団の満洲経済観引用終わり)

カラー絵葉書(右):1930-1939年、満州、夕日を浴びながら荷車を馬に曳かせて帰宅する農夫;日本が1932年に建国した満州国では、1934年の組織法で日本が行政権を掌理する規定(第27条)、国務院に国務総理大臣と各部大臣を置く(第28条)、国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する、とし、次官の日本人の輔弼・顧問が置かれた。満洲国の国会はなく、立法院は行政をつかさどる国務院が定めた。国務院総理の鄭孝胥にも、1934年(康徳元年)に満州帝国皇帝に即位した溥儀にも行政権はなかった。
Description English: A Farmer In A Manchukuo Field, Enjoying The Sunset On His Way Home Date Unknown date Author Unknown author Permission The Newberry makes its collections available for any lawful purpose, commercial or non-commercial, without licensing or permission fees to the library, subject to the following terms and conditions: Archival Collection Grant Schmalgemeier Century of Progress Collection Decade 1930/1939 Place Illinois--Chicago City Chicago Subject Century of Progress International Exposition Subcategory Century Of Progress--Exhibits Production Number COP3063
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:A Farmer In A Manchukuo Field, Enjoying The Sunset On His Way Home (NBY 416129).jpg引用。


4−E.松岡総裁の満洲農本論
満州日報 満州日日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 196 出版年 1935-08-26
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100156174

松岡洋右 松岡[洋右]満鉄総裁が満鉄今後の経営方針に関して、種々抱負を持つと推測され、具体的意見としては何れ責任の上関東軍満洲国側とも協議の上、纏められるであろうが、その前提として、満洲国の経済産業建設に一層の積極的協力を為すべき意向あるを語っている。而して軍の中央部の意向として、満洲国の治安維持の点から見ても、軍備整備の充実による外、産業の発達経済的建設の進捗による一般住民の生活の安定に依存すること極めて重大なるを認め、此点に関して松岡[洋右][満鉄]総裁に期待する所があると伝えられる。

満鉄経営の為めにも、治安維持の為めにも、何れも地方の確実なる経済的発達の必要なることが認められるので、新総裁と軍部との各自の目的の為めに、その前提が完全なる一致を見るわけである。

而して松岡[洋右]氏の談として伝えられる所に、満洲国の農業政策に関して大に論ずる所がある。それは満洲国の問題であるけれども、満鉄の使命を完全ならしむる前提条件として全満農民の幸福、農村の建て直しが緊要であると為すのである。松岡[洋右]氏は極めて明瞭な言葉を用いて、農民の一人当りの収穫が増加せねばならぬと説いている。

実は此事は、日本でも支那でも同様で、今日の経済的行詰りは農村の行詰りに原因している。それは都市政策が勝ち、商工政策に力瘤を入れ過ぎた結果である。資本主義の自由競争はどうしても農村に対する都市の搾取となり勝ちで、商工政策が余りに発達して、農村政策が之れに伴わないと、跛行経済となる。一時は好況を呈し富の増殖を見るようであるが、終局に於て都市商工にも行詰りを生じ、遂に共倒れになる。支那にありては内乱其他内政不備の原因によるもの多きも、日本や欧米諸国の行詰りは全く農村政策の欠陥に基因するものが多い。

松岡洋右 満洲国はこれから作られんとする国家である。十分に先進諸国の実情を察してその余弊を同じくしないように始めから注意せねばならぬ。大小各種の商工業は孤立して発達すべきものにあらず、互に関連して、しかも土着経済の堅実なる環境に於て発達する。それには国民の多数を占むる農民の生活に余裕を与え、其の人心を安定ならしむることが必要である。此の点に着眼した松岡氏の意見は満洲国側に好参考たるを失わぬ。

実際、農村の貧富は満鉄使命完成にも重大に関係があり、匪賊の増減などにも大関係がある。此関係は北支那などでも同様である。

抑も農村問題の如きは満洲国の問題であるが、その改善と発達とに関しては満鉄の調査、資本、技術、鉄道政策等の協力を得るにあらざればその完全を期し難い。しかも満鉄であっても、農村政策の改善を見るにあらざれば、鉄道政策の完成を期し難き関係にありとせば、両者は正に共助共栄の関係にある。今や松岡[洋右]氏先ず此の根本方針を提げて来満せんとする満洲国側との共力によりて、その抱負の実現せんことを望む。(松岡総裁の満洲農本論引用終わり)

カラー絵葉書(右):1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)の日本人街「浪速通」(なにわどおり、現 中山路);日本が1932年に満州国を建設する前から、日本は南満州鉄道付属地を自国管理し、その警護のための関東軍も駐屯させていた。沿線は、日本人が多数居住、移住するようになった。清朝では奉天(Mukden)は、1657年「奉天承運、皇帝詔曰」といわれ奉天府が置かれた。清朝崩壊後、1923年に張作霖が奉天市政公所を設置し、1928年12月29日、息子の張学良が易幟を起こし中華民国に復帰、1929年に瀋陽市に改名されるた。しかし、1932年3月1日満洲国の建国で、再び奉天市に再改名された。
Description 中文(中国大陆):浪速通,现今中山路 Date 1930 Source 沈阳市档案馆 Author Anonymous
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  Category:Mukden South Manchuria Railway Zone引用。



5.1936年の満洲帝国ニュース新聞記事

絵葉書(右):1936年以降、日本傀儡国家、満州国、首都新京の「威風燐たる関東軍司令部」;日本の城郭の天守閣のようで異様に見えるが、当時はこれを「威容」と称した。日本が1932年に建国した満州国では、南洲国軍も創設されたが、日本軍指揮官の下にあり、事実上、満洲は関東軍が軍事権を掌握していた。また、強力な人事権は、行政にも及んだため、満洲は、関東軍の軍事占領下におかれたといえる。
English: Headquarters of the Kwantung Army in Changchun, Manchuria, 1936 Date 1 January 1940 Author Building finished in 1936 unknown photographer: photo made in 1940 aprox
写真は Wikimedia Commons, Category:Kwantung Army Headquarters building File:Headquarters-kwantung-army-1935.jpg引用。


5−A.満洲国鉄道借款利率六分に引下ぐ : 総局の経営に好結果
満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 6巻 Page: 168 出版年 1936-01-10
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100112408

満鉄アジア号 満洲国鉄道建設の進捗と共に満鉄の満洲国に対する鉄道借款額は増大しこれが利率は現在七分五厘と規定されているが、急速なる借款額の増額につれて現状をもっては利子支払は益々困難となりつつあり。従って未払利息は増加して満鉄資産の未収金勘定として計上されているが、右[7.5% ]借款利率は余り高率に過ぎるとの説が有力となり、日満両国政府当局および満鉄側との折衝の結果満鉄資産内容堅実化のためにも利率引下げを図ることとなった

すなわち現在満鉄の運転資金は六分三厘四毛となるが、満洲国の借款鉄道は拓殖鉄道の性質を具備しており俄かに多額なる利益を期することは困難であり、しかして該鉄道の委任経営を行う総局の経営状態はこの利息を支払う場合は赤字を避け難き状態にあり、徒らに満鉄の未払利息を増加する結果となるので満鉄側でも利率引下げに同意し新京駐満大使、満洲国および満鉄側と協議の結果現在の七分五厘を一斉に六分に引下げることに内定目下対満事務局に廻付し審議中で日本政府の認可あり次第決定をみることとなった(満洲国鉄道借款利率六分に引下ぐ : 総局の経営に好結果引用終わり)

カラー絵葉書(右):1930年代、1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)の日本人街「春日町」(かすがちょう);奉天郵便局、電話局、鉄道総局、満蒙百貨店とビルが並ぶ日本管理下の南満州鉄道付属地にできた日本人街で、春日町付近。
Description Northern Mudken SMR Zone view. The photo is taken towards north. The street in the middle of the photo leading to "Manmou Department(満蒙/満毛百貨店)" does not exist by now. The street on the left is Kasuga-cho (nowadays Taiyuan North Street). English: Northern Mudken SMR Zone view Date before 1945 Source Old Japanese postcard (My own collection) Author Old Japanese postcard
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Northern Mudken SMR Zone view.jpg引用。



5−B.満洲国の新法院組織法
満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 16巻 Page: 60 出版年 1936-01-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100093995

The Insidious Dr. Fu Manchu  満洲国の新法院組織法が四日付を以て公布された。施行は更に準備成るを待ちて追って適当な時機を選ぶ筈である。従来の法典も法院も不完全であったことは言を待たぬが、裁判所の構成が国家の発達に至大の関係あるが故に、その改新は新国家の夙に努力する所であった。思うに国家組織法にはその第三十二条に於て法院は法律により民事刑事の訴訟を審判すと規定し、人権保護法にはその第七条に、人民は法律の定めたる法官の裁判を受くる権利を保障している。満洲国は立憲国ではないけれども、右組織法並に人権保障法は立憲国の憲法に当るものである。国民が法律によりて定められた裁制官によりて、法律によりて裁判さるるということは、従来司法専門の官吏でない官吏又は権力者によりて、法規によらざる裁判を受けなければならない状態に比して、その幸福に天淵の差がある。是れ亦王道政治の恩沢である。

 差し当っては、日本の治外法権を撤廃せねばならず、他の諸国と将来条約を結ぶ場合には対等条約であられねばならぬ。それには法典及び法院の不完全が最大の障碍であるから、此処に新法院組織法の公布を見た事は、満洲国が国際的独立国としての資格の一半を具備したことになる。実はこの後者の目的のために新法院組織法の完成が急がれたのであった。斯くてこの完成によりて、内的には国勢の充実発達のために、外的には対等条約のために重要なる基礎工作がなされたわけで、満洲国のために慶賀に堪えない次第である。万般の準備が調えられて、その実施を見、同国民遍ねく新法の徳沢に霑うの一日も早からんことを望む。

 新[法院]組織法が、一般立憲国の例に倣いて四級三審制と為してその審議を慎重にした如きは人権を重んずる所以であるが、普ねくその恩恵を受けさせる為めには、その手続き、並に法官及び人民に対する訓練等の極めて必要なものあるを看取すベく、其他の点に於ても多くの実際問題がある。その実施の暁には此等の点に関して実際に即するように充分に研究されなければならぬ点が多かろう。その実際に即する問題として、公判庭を管轄区域内の他の法院又は法院外に於ても開き得ることとなした如きは注目すべく、之れは是非とも必要なことである。(満洲国の新法院組織法引用終わり)

絵葉書(右):1930年代、1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)の奉天満鉄鉄道総局;このビルの近くに、奉天電話局、郵便局、満蒙百貨店とビルが並んでいる。日本管理下の南満州鉄道付属地に日本人街がさかえたのは、日本の行政・警察・軍事支配下にあったためである。
Description 中文(中国大陆):奉天满铁铁道总局 日本語: 奉天満鉄鉄道総局 Date 1938 Source 沈阳市档案馆 Author Anonymous
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:奉天満鉄鉄道総局.jpg引用。



5−C.満洲産ピッチ仏蘭西から大量注文
満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 6巻 Page: 198 出版年 1936-02-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100151102

煉炭 満鉄お自慢の満洲産ピッチ(煉炭の原料)がフランスからの注文で近く大量に輸出されようという至極春向きな景気のいい話がある‐買手はフランスの有力鉱山会社鉱山数社で三菱が斡旋役を買って出て満鉄に交渉して来たものの話はばたばたと運んで昭和製鋼所の優良ピッチ七千五百噸を仏国セット港受取、三十五万円で売渡すことに契約が出来上がった、

積荷船はユーゴースラビヤ国の貨物船「ピドブダン」号(五五八一噸)で、既に若松港から廻航して大連に入港、一方鞍山から運び込まれた七千五百噸のピッチは「ピドブダン」号が繋留している第三埠頭三十番バース前に山と積まれ、十九日からウィンチの響音も勇ましく荷役作業が始まった、本月末には大量の満洲産のピッチが晴れの洋行に旅立つことになる [写真(積取船ビ号と山積のピッチ)あり 省略](満洲産ピッチ仏蘭西から大量注文引用終わり)

絵葉書(右):1930年代、1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)「高層建築立並ぶ加茂町通りの盛観」;日本管理下の南満州鉄道付属地に日本人街がさかえた。「和平ホテル」「ワルツ」など日本語の看板が並び、舗装された大通りで歩道、街灯も整備されている。道路に馬車、人力車は走っているが、中央分離線はなく、自動車は映っていないようだ。のは、日本の行政・警察・軍事支配下にあったためである。
Description English: Kamo-cho, grand buildings stand side by side, Mukden Date before 1945 Source http://blog.sina.com.cn/s/blog_4b61b3900102wo8v.html Author old postcard
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:高層建築立並ぶ加茂町通りの盛観.jpg引用。



6.1937年の満洲国ニュース新聞記事

一年毎に増加する入満外国人数 : 安東駅通過五ヶ年間の統計
満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 5巻 Page: 154 出版年 1937-05-28
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100228224

Mitya's Harbin安東満洲国の建国以来康徳三年末までの五ヶ年間に安東駅を通過して入満した外人は一体幾何の数に上るか、この興味ある統計を駐安東外交部●事処みおいて過般来鋭意作成中のところ、この程完成したが、同統計に依れば、この五ヶ年間に安東経由入満した外人数は男四二五〇名、女二六七四名の計六九二四名の多数に上る、

而も左表に示す如く大同元年が七三六名、同二年が九七七名、康徳元年が一四三九名、同二年が一五八三名と一年毎に増加し、康徳三年度においては一躍二一九八名の入満者を見ている、その多くは観光満洲目的のものと見做されるが、この一年毎の入満外人数の増加は何を物語るか、これこそ力強く無言裏に満洲帝国発展を世界各国に反映している偽らざる実証といい得る、

通過外人の中にはアフリカのコンゴー人、ニュージーランド人、ダンチッヒ自由市居住者等も含まれ、その国籍別によれば実に四十三ヶ国殆ど全世界に亘っており米国人がトップを切り三四五七名、これにつぐ国は英国人の八八三名、三位は旧露の七三二名、四位はドイツの五六六名、五位は仏国の二一〇名、ソ連は九二名で九位を示している、右の内訳を示せば左の如し [図表あり 省略]

丁抹[デンマーク]男女合計(以下同)一五九
△エストニア五
△和蘭一〇〇
△瑞西[スイス]九〇
△リトワニヤ三二
△波蘭[ポーランド]一〇八
△瑞典[スウェーデン]三五
△濠洲二八
△伯国[ブラジル]九
△希臘[ギリシャ]一四
△チェコスロバキア三四
△コンゴ二
△支那(帰化露人)二
△ラトビヤ二九
△墺国四八
△〇邏羅[シャム]一八
△ルーマニア四
△埃及[エジプト]三
△ポルトガル三
△伊太利三一
△メキシコ二
△加奈陀七〇
△アルゼンチン二〇
邏羅芬蘭[フィンランド]一〇
△南阿連邦五
△アルメニヤ一
白耳義[ベルギー]三一
△土耳古[トルコ]八
△洪牙利[ハンガリー]八
△西班牙[スペイン]九
△印度一二
△ペルー六
△ノルウェー一三
△ウルグアイ一
△ペルシャ五
△ニュージーランド三
△ダンチヒ一
△其他二四 [図表あり 省略](一年毎に増加する入満外国人数 : 安東駅通過五ヶ年間の統計引用終わり)

絵葉書(右):1930年代、1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)南一条通;日本管理下の南満州鉄道付属地に日本人街がさかえた。「レストラン」「紫雲荘「服部支店」「--洋品店」「--家具--」など日本語の看板が並び、舗装された通りで歩道、街灯も整備されている。道路に自転車、人力車は走っているが、中央分離線はなく、自動車は映っていないようだ。のは、日本の行政・警察・軍事支配下にあったためである。
Description English: Mukden South 1st Street (南一条通) Date 1930s Source https://kknews.cc/history/5xg6kx3.html Author old photo
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Mukden South 1st Street.jpg引用。



7.1938年の満洲国ニュース新聞記事

事変下の満州財界 田中鐡三郎:満州中銀総裁
満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 9巻 Page: 48 出版年 1938-01-02
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100153224



ムッソリーニ  一陽来復、瑞雲靉く康徳五年の新春を迎え隆々たる我国運の伸展を慶祝すると共に、内外時局の極めて重大なるに省み、粛然として朝野の緊張と協戮とを希望して已まない、現下世界の国際情勢は政治上、経済上頗る混沌たるものがあるが、極東においても、元来日満支は同文同種にして、和協提携共に存し共に栄ゆべき自然の運命を有するに拘らず支那は軍閥と赤化とに弄ばれ、自ら揣らず事を構えて遂に盟邦日本をして膺懲の義戦に起つの已むなきに至らしめた支那はこの無謀なる抗日戦により民心は分裂し、産業は疲弊し、財界は日に窮乏を告げ、正に一大危機に瀕して居る、吾人は支那が一日も早く其過誤を悟り、世界の大勢に覚醒して、盟邦日本と和平を誓い、日満相倚り相扶けて、東洋長久の平和と繁栄とを実現せんことを望むのである



我満州国は盟邦日本の絶大なる援助の下に駸々たる発展を続け肇国以来僅かに六星霜にして、治安、行政、金融、産業貿易の各部門に亘り、世界史上稀に見る長足の進歩を遂げ、国礎弥々固く、国運益々伸展し今や名実共に近代国家としての威容を完成したのである、是を以て盟邦日本は昨年十二月一日を期して、全面的に治外法権を撤廃、附属地行政権の移譲を断行し友邦[Benito Mussolini]イタリー亦昨年十一月末他国に率先して正式に満州国を承認フランコ[Francisco Franco]新政権も相互的に満州国を承認するに至った、これ等の事実は曩に行われたサルバドルの満州国承認、満独通商協定の締結と共に、諸外国が既に満州国の発展興隆を認めた証左であり、又満州国が今後益々その活動を海外に伸暢せんとすることを予示するものであって満州国発展史上新紀元を劃するものというべきである、吾人はこれを隣邦支那における今日の哀れむべき事態に対比し、実に無量の感慨なきを得ないのである



フランコ政権  今や満州国は第二期の充実伸展の時代に入り、曩に産業開発計画を始め各種の新政治経済政策を樹立し、着々としてこれが実行に邁進しつつあるのである、天然資源の開発、特産を始め各種産業の生産力の拡充には、我官民の最も力を注いで居る所であるが、その生産額が歳と共に増加し又種々の豊富なる天然資源が相踵いで発見せられて居ることは、大いに心強い次第である、政府は昨年中重要産業統制法、重要特産物検査法、産金買上法、その他の産業関係法規を発布又は改正すると共に、鴨緑江水電、満州拓植、合成燃料その他の新国策会社を新設せしめ満州炭鉱、満州電業その他既設会社の増資も行われたが、特に年末には満州における重工業の組織的発展を促進する目的を以て、新に満州重工業開発株式会社の出現を見たのである

満州国の外国貿易は最近驚くべき速度を以て増加して居るが、今後益々これが合理的発展を期するために、昨年為替管理法が改正せられ貿易統制法が発布せられた、又躍進の途を辿って居る満独貿易を益々助長するために、曩に満独通商協定が延長せられ、最近満独クレジット協定が新しく締結せられた、我政府は各方面における行政の改善と積極的施設の整備に鋭意力を注ぎ、昨年中央及び地方の行政機構の改革を断行したる外、行政執行法、民法、商法、刑法、民刑、各訴訟法等の根本法規を初め、各種経済関係法規を発布して、国民経済生活の規範を確立すると共に、これに対する予算も亦妥当に按排しつつあるが国民経済力の累進に伴い、各種税収が自然的増加を示し、財政の基礎が益々鞏固を加えつつあるは洵に喜ぶべきことである

 金融方面を見るに、昨年一月着手した鮮銀券の回収も一段落して国幣の一元化は完全に実現せられた、又中央銀行は日満両国の金融関係を益々緊密ならしめんとする国策上の見地から昨年十月一日東京支店を開設したのであるが、これがために日満間の資金移動が極めて円滑順調に行われて、日満経済一体の実は益々促進せられている、かくて国幣対金円の等価維持は勿論、通貨発行高に対する準備は益々堅実鞏固を加え、更に昨年末における治外法権の撤廃、附属地行政権の移譲と共に、満州国の金融行政は完全に統一せられることになり、中央銀行の金融統制の機能も拡大された訳である、我国経済界が、各方面とも極めて順調なる発展を遂げつつあることは前述の通りであって、昨年七月勃発した支那事変に際し、民族文化、経済等の関係よりして、満州は相当にその影響を蒙るにあらずやと懸念せられたに拘らず、実際においては、何等の動揺も影響もなく国内は至って安泰静穏、各種産業が澎湃として予定の前進を続けていることは、勿論我官民が、一致協力、これに善処した結果であるとは云え、満州経済の基礎が如何に堅実に確立されたかを如実に証明するものとして中外の驚嘆したところであった

絵葉書(右):1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)、高千穂通、満州明治牛乳;満州に日本企業が進出したのは、新たな市場でビジネスチャンスを逃さないためだった。日本の植民地なので、日本企業は外国企業ではなく、宗主国の企業と自認していた。
Description English: Manshu Meiji GyuuNyuu Date 1940 Source Author 明治製糖株式会社
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:Manshu Meiji GyuuNyuu Factory on Takachiho Street, Mukden.jpg引用。




 併し乍ら飜ってこれを大観すれば、満州経済発達の現在の段階はその基礎的建設を完成したと云う所であって、更に日満両国の経済力の拡充、国民福祉の増進、国防の充実と云う大目標に照し、今後の施設運営に俟つべきもの尚甚だ多きを見るのである、殊に今日日満を繞る時局の重大性に顧みれば一層その感を深くせざるを得ない是においてか、日満両国の緊密なる連鎖の下に、我国官民が協心戮力、更に大なる覚悟を以て今後の積極的経済建設に一路驀進せんことを希望して已まない

 吾人は金融業者の立場より今後の新情勢に対処して種々の方策を樹て、以て国策の遂行に寄与せんとする次第であるが、一般経済界においてもこれと呼応して充分なる成果を挙ぐることに努力されねばならぬ、

殊に今後必要とする産業資金の如きは頗る多額を要するのであるが、資本の蓄積未だ十分ならざる満州国の現状においては大部分盟邦日本の投資に俟たねばならぬけれども、同時に我国としても極力国内資金を動員してこれを生産的に運用するの方途を講じなければならぬ、従って各種金融機関を通じて、民間の資金を出来る丈け多く吸収し、又消費節約を励行し、貯蓄を奨励することが肝要である、乃ち預金思想の培養と公社債、株式に関する知識の普及に努め、一方において有価証券を担保とする金融の道に慣れしむると同時に、他方これが消化力を増大することが必要である、これは今後各般の産業計画が進行して多額の資金が民間に撒布せられるに鑑み、特に留意すべき重要事であると思う、

蓋し適切なる各種の資金吸収策が講ぜられて、資金の回転力が増進すれば、比較的少量の通貨を以て、多量の資金需要を充たすことが出来るから、資金需給の調整が極めて円滑に行われ得るのである、而してこの間金融機関も亦更に一層整備拡充され、かくて各当業者が相協力して、鋭意満州国財界の発展のために淬励努力したならば、我国力の伸暢は期して俟つべきであると信ずる

絵葉書(右):1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)浪速広場、横浜正金銀行支店;横浜正金銀行は、1880年に創設された貿易取引の決済業務と貿易金融を目的とした為替業務、国際業務を専門とする国立銀行である。第一次大戦期の大正から,海外支店を設置し日本を代表する為替銀行になった。第二次世界大戦敗戦後は、普通銀行に転換された。歩道の前の車道に人力車が停まっている。
Description English: Yokohama Specie Bank branch in Mukden. Date before 1945 Source www.pixpo.net Author old postcard
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:金融の中心、横浜正金銀行支店.jpg引用。


満州金融界の現段階 満州興銀総裁富田勇太郎[元大蔵省理財局長]



 我満州国は建国以来茲に六年各般の基礎工作を完了し、産業開発五ケ年計画を中心とし第二期発展の建設工作に入り、一大飛躍に移らんとしている、産業開発五ケ年計画達成の必須の条件の一は資金の調達である、資金調達は必然的に金融機構の整備を要求する、この故に建国以来、満州中央銀行の設立、通貨の統一、国幣金円パー政策の確立、一般商工金融及び長期金融を任務とする満州興業銀行の設立、新方針に基く地場銀行の配置、農村金融機関としての金融合作社の育成等に依り、都市農村を通ずる金融の疏通を図るべき金融機構の整備を行って来た、而して治外法権の撤廃及び南満州鉄道附属地行政権の移譲に依り、満州金融行政の一元化が達成せられ国内経済の飛躍的発展の前提としての金融機構運営の基礎が確立された



茲で試みに康徳四年九月末の全国金融機関(関東州を含む)の預金、貸出総額を見るに預金七億六千四百五十六万九千円、貸出七億八百七万五千円であるがこれが機関別を見れば(単位千円) [図表あり 省略]

に過ぎぬ、また現在庶民金融機関として独自の立場を有する当舗の貸出金三千六百五十八万二千円を加えても貸出総額は八億に達せぬ、これを日本の銀行預金総額百四十億円、同貸出九十五億円、郵便貯金総額三十五億円に比すれば日を同じうして語ることは出来ぬ、従来満州金融界の有する弱点の根本的なものとして民間資本の薄弱、信用制度の偏倚、之に伴う現銀の退蔵銀行に対する無理解等が挙げられている、旧政権時代にあっては主要企業はその殆んど総てが官銀号の如き軍閥諸機関の独占に帰し民間一般企業は極度に圧迫せられ産業資本の増進なく、而も民家は常に軍閥搾取の対象として窮乏の一途を辿り、民間資本の蓄積は貧弱極まるものであった、

而して此等軍閥の遺利を拾う各種中小工業も多くは支那よりも出稼資本に依って運営せられて居った為めに、其の余剰利得は常に南方に引き揚げられ、満州における資本蓄積は殆んど見るべきものがなかった加うるに多年に亘る幣制の紊乱貨幣価値の動揺に銀行預金の習慣が発達せず、為めに銀行業は発達の素地を欠き、民衆の大部分は銀行利用の方途を解せず、銀行と民衆とは全く遊離せず状態に置かれてあった、斯かる状態から建国後は世界の準戦時経済体制の整備の趨勢に順応すべく、近代資本主義的金融組織の発達を見ずして直ちに高度の統制経済に適応する機構が形成せられつつあるのが満州金融界の現況である

絵葉書(右):1930年代、中国東北地方、(満州国)遼寧省、奉天(現 瀋陽)、東亜勧業株式会社;玄関に人力車が停めてある。満州に進出した日本企業に対する融資や起債を支援する金融機関が勧業銀行である。
日本語: 東亜勧業株式会社 Date 29 August 2007, 10:03:56 Source 沈阳市档案馆 Author Anonymous
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo  File:東亜勧業株式会社.jpeg引用。




 満州金融機構は劈頭に述べた如く産業開発[五ケ年]計画の資金調達をその当面の任務とする、而して建設時代の避くべからざる現象として建設資材の輸入があり、随って継続的の支払超過がある、これがカバーは如何にしても日本の投資に拠る外なく、故に日満一貫の産業計画の上に立つ日本資金の誘致を必要とする即ち内部的には近代的資本主義がまだ培われて居ない素地の上に、高度の統制的機構を形成しつつあることが満州金融界の特色であるとすれば、対外的には日満経済ブロックの一翼として日本の全面的な援助の下に生成発展を期することが特色であると云わねばならぬ、これが為めに日本との関聯を緊密ならしむる為めに諸種の工作を必要とすることは勿論であるが、日本に於る金融界の現況近き将来の国際収支の見通し等に鑑みる時は、能う限り資金の現地調弁を図らねばならぬと思うのである、尚一歩を進め日本の金融界の状況や対外収支の前途の如何に関せず、現地の状況を資金の調弁に適する段階にまで押し上ぐることが、資金の流入を円滑ならしむる必須の要件であると云い得る、元来、近代資本主義の発達を見ない満州には完き意味に於ける金融市場証券市場と云うべきものがなく、株式の募集、社債の発行等に依り資金を調達せんとしても、その目標は極めて狭隘であった、

又一方旧政権時代に偶々鉄道沿線都市に近代的組織の企業が起っても概ね永続せずして破綻し、企業運営に就て一般の信用を得られなかったことも、現在における企業運用上の欠陥となれる傾向あることは否めぬ処ではある、然し四囲の事情はかかる状態の継続を許さないのみならず、既に新情勢は相当有望に展開しつつあると云える金融機構の整備による預金の増加国策企業に対する投資の進展等がこれである、尤も従来の資本主義の全盛時代に見た如き金融市場、証券市場の出現は満州国内に於ては望めぬかも知れない、然し乍ら新たなる機構と新たなる作用とによる資金の蓄積と動員とは、統制経済下においても不可能ではないのみならず、一層能率的であるとさえ想像し得る、ただ如何なる場合にも資金の本質に鑑み、適正なる利潤の追及と適当なる制限の下における移動とはこれを認め、終局の萎縮を招かざるよう周到の用意を要することは勿論である



また産業開発五ケ年計画と関聯して、満州の現状より充分なる考慮を必要とするのは中小金融問題である、[満州産業開発]五ケ年計画に於て如何に国防の充実、生産力の拡充が達成せらるるとも、中小企業がこれと並んで各々その所を得るに非ざれば国防の充実、産業の発展も結局跛行的なものとならざるを得ない、満州に於ける中小企業の全産業中に占むる地位が総工場数八千八百余の中百人以下の職工使用工場数はその九割七分に上っている事実はその重要性を物語るものである但し中小商工業なるものは独り満州国内のみならず何れの国においても、単に金融機関の投資対象としてのみ眺むる時には極めて困難を伴う問題となる、これは組合組織等に拠る業界内部の強化、国家補償制度の漸進等と相俟つべきは言うを俟たない更に満州には広汎なる農民金融の分野がある現在に於ては金融合作社がこの種の金融を担当し今後は目下政府の方針の下に各地に結成せられつつある農事合作社が、この方面の金融の主要部分を担当する事と思わるるがこれ亦農村経済の現段階より見て資本組織の機関よりも、金融合作社にせよ、農事合作社にせよ、人的組織を本質とする機関を以てこれに当らしむることが当を得たものと云えよう、ただその背後に強力なる資本組織の機関を立たしめ、巧妙なる連絡と相互の補助とにより農村経済力の発達を期すべきであろう(事変下の満州財界 田中鐡三郎:満州中銀総裁 引用終わり)



⇒写真集Album:ライト・ベランカ (Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」の大西洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)W.33「ブレーメン」Bremenの大西洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ベランカCH-400「スカイロケット」の太平洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ユンカース(Junker)A-50「報知日米親善号」の太平洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ユンカース(Junker)W33「報知日米親善号」の太平洋横断飛行を見る。
⇒写真集Album:ユンカース(Junker)G-24輸送機を見る。
⇒写真集Album:ユンカース(junkers)Ju 52 輸送機を見る。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

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