<大学の学生と教授を概観してみましょう> ◆20世紀の最後の四半世紀,すなわちこの25年間で日本の大学生も大学教員も急増しました。これは,大学教育への進学率が高まったこと,換言すれば、大学教育への需要が拡大し,それに見合った大学・学部の新設,定員の増加が急速に進んだたためです。
大学の入学者の中で,国家公務員?級(上級)職,少なくとも地方公務員上級職の都庁・県庁職員,有名な巨大多国籍企業,学者(大学研究者・科学者など),政治家を目指す学生の比率は,従来とは比べものにならないほど,低下しました。正規社員として「就職」をしないという選択すら、珍しくはなくなりました。やりたいことをみつける、やりたいことが見つからないと、卒業後も、フリーター、ニートを選んだり、猶予期間を獲得する目的で、進学・留学したりと、卒業後の進路・就職も非常に変化してきました。
◆卒業後はエリートになる、それなりの道に進むと、気概を持ったり、気負ったりした学生が少なくなった理由の一つは、入学してくる大学生の平均的な学力低下も影響しています。大学生の学力低下は,実際驚くべきことです。たとえば,入学時にすでに、初級の微積分の計算ができない,ベトナム戦争に米国が参戦したことを知らない,現在カトマンズという国があるなど,学問や一般常識にいたるまで,まさかここまでは-----といった入学者がごく少数ですがいるのです(以前ならこんな学生は皆無だったのに,いまは少しいるという意味です)。
このような学力低下を改善するには,実は優秀な学生を世界から集めることが手っ取り早い手段です。それには,優秀なスタッフ,最新の設備,有効なプログラムを提供することです。大学教授の資質が高まれば,その大学の学力低下は,防ぐことができるのです。学力低下は,学力の低下した学生を受け入れざるを得ない大学の問題ともいえるのです。こうなると,学力低下が問題だといっているのは,自分の大学のスタッフ,施設,教育プログラムに問題があって,魅力に乏しいことを認めていることにもなりかねません。世界大学大学競争の中で,研究も教育もどちらも熱心な大学教授がいれば,大学生の学力低下は食い止められるのです。
<今時の日本の大学事情---?>
◆大学では,先生が自分の専門を自分のやり方で教授し,学生はそれを好奇心と若干の眠気を持って聞くというスタイルがありました。また,「大学教員」とは,学生に教えるという教師と同時に先進的な研究をする学者としてみなされ,学生の本分は学業であると,当然のこととして考えられていました。
◆このような高等教育の本質論は,大学・短大への進学率が,20%程度の時代,それも男子学生が大半で,女子の四年生大学進学率が10%未満の時代に完成したものです。しかし,いまや女子も含め,進学率が48%にも高まり,女子の四年制大学への進学も当たり前になった「大学大衆化時代」 です(→進学率統計 )。*2003年には日本全国で大学は702学校(うち私立大学526校74.9%),大学生280万3,901人(うち私大生206万1,035人 73.5%)に達しています(→大学統計 ,教員統計一覧 参照)。外国からの留学生も1990年には4万1000人に過ぎませんでしたが,1995年5万4000人,2000年6万4000人と増加し,2003年には10万9500人に達しています(→留学生統計 )。
* こうして大学進学率の上昇に伴って,?大学新設,?学部学科の増設,?定員枠拡大,が行われてきました。近年,学力低下が指摘されていますが,大学が定員を増加させたり,定員以上の合格者をそのまま受け入れ入学させたり,さらに学部学科の増設,大学数の増加などの大学教育の供給側の要因も注目する必要があります。大学整備の名のもとに,必要な大学教員が専任・非常勤として,大量に採用されてきました。 2003年の大学本務教員数は,大学全体で15万2千人,うち学部11万8000人,大学院1万9000人,短期大学1万6千人で,前回調査の1998年に比べ大学全体及び大学のうち大学院でそれぞれ5千人,9千人の増加,大学のうち学部及び短期大学でそれぞれ4千人,3千人の減少です。 男女別にみると,女性教員の占める割合は,大学全体14.1%,大学のうち学部15.6%,大学のうち大学院7.4%,短期大学44.6%となっており,前回に比べそれぞれ1.7,2.3,2.2,2.9ポイント上昇です(→大学教員統計 )。
◆大学院の拡大も顕著です。文系の博士の学位は,1990年代初頭までは年間100〜200人以下でしたが,2000年代には年間約1000人に,5倍増となっています(理系は3倍増の1万人)。これには,留学生の大量受け入れの事情も寄与しています。
◆大学大衆化が進んだのは、大学とその定員が増加したからですが、世界大学競争,少子化の影響で大学進学者が減少し,大学の過当競争(学生の受験戦争ではありません)となり,大学経営が強調されるようになりました。つまり,大学生だけではなく,大学教授の見識,関心といった教える側のスタッフ質も,大学大競争時代に入って,大きく影響しているのです 。
◆21世紀になって, ?少子高齢化により大学進学適齢人口が減少し, ?不況による大学卒業後の就職進路の不確実性が高まり(→就職決定率統計 ), ?個性重視による進路選択の未決定・モラトリアム志向の高まり, も生じています。そこで,大学の教育をめぐる議論が興ってきました。マスメディアでも,学生の学力低下,ニートの増加,あるいは大学人の危機意識の低さ----などが頻繁に取り上げられています。そして,大学改革が声高に叫ばれています。
◆こうした大学改革の動きは,国立大学でも,私立大学でも高まっています。実際,先端的な研究を重視している大学は,一部だけ です。大多数の大学では,大学受験者の増加,あるいは受験者減少に歯止めを掛けることが大きな課題となっています。 ⇒私立大学HP /国立大学HP 参照。
◆世界から有能な学生を集めることができない大学があったとして,その大学が学力の低い入学者に施すべき高等教育、大学の講義とはいかなるものになるでしょうか。 従来型の大学の授業方針,すなわち学者の専門をかじる方式の授業は,魅力あるものとは映らなくなっています。その意味で,前述の「大学の授業がつまらない----」という不満が高まったのは当然です。
つまらない大学の授業は以前からあったのです。しかし,それを将来は役に立つと信じて勉強できる学生が多かった時代(大学競争がない時代)は終わりました 。つまり,世界大学競争の状況では,授業は従来と同じでも受講する学生とその関心・学力水準が変わってきたのです。今日では,つまらなくても役に立つ,と我慢する学生は例外的な少数派です。そこで,多数派の学生にとって,従来のような堅苦しい授業には魅力がないという主張はもっともです。
◆しかし,大学が定員を増加させたり,定員以上の合格者をそのまま受け入れ入学させたり,さらに学部学科の増設,大学数の増加などの大学教育の供給側の要因も注目する必要があります。大学整備の名のもとに,必要な大学教員が専任・非常勤として,大量に採用されてきました。文系の博士の学位は,1990年代初頭までは年間100〜200人以下でしたが,2000年代には年間約1000人に,5倍増となっています(理系は3倍増の1万人)。
◆大学教授の中には、研究も教育の下手な「ただの教授」がいらっしゃるのは事実です。そのようなスタッフはきわめて少数なはずですが、たまたまその授業を履修した学生は悲劇です。興味もわかない下手な授業に学費を払わせられるのでは、まるで数十万円のボッタクリだのようだと匿名投稿にかれています。「ただの教授」の授業は、学生諸君にとって損な買い物となってしまいます。外国人教授も珍しくはなくなりましたが,単に外国語を話すだけで外国語教員として採用される先生もいるようです。(もちろん,すばらしい教育熱心な教授がたくさんいらっしゃいます。「ただの教授」は例外中の例外であって、そんな授業を受けた学生はきわめて少ないでしょう。)
「興味のわかない授業」「つまらない大学」が増えたのは、ひとつには、大学の大衆化による学生の学力低下・学習意欲の低下という需要側の原因が指摘できますが、同時に、大学教授の大衆化・学力低下、授業レベルの低下という供給側の原因も思いのほか大きいのです。この理由は,世界大学競争から逃避しようとする大学スタッフの消極的姿勢にあります。とにかく学生の数を集めればよいと営業ばかり重視して,スタッフ,施設,プログラムに配慮せず,資金,労力を惜しんでいる儲け主義の大学が,日本にも生まれてしまったのです。 留学生も大学の授業を当てにせず,アルバイトばかりする。いや,アルバイトこそ大学に入った目的だ。これはもはや大学という最高学府の資格に値しないのではないでしょうか。こんな大学にわれわれの税金を投入するのはやめにしたほうがいいのでしょうか。
◆大学とその定員が増加した反面,少子化の影響で大学進学者が減少し,大学の過当競争(学生の受験戦争ではありません)となり,大学経営が強調されています 。そのような状況で,大学教員としての社会的地位や高賃金を享受することはできず,学生への教育と研究が率先して行われるようになる-----などと思ってはいけません。つまり,大学生だけではなく,大学教授の見識,関心といった教えるスタッフの質も,世界大学競争の時代に入って,大きく向上させるべきなのです。世界大学大学競争に打って出て,研究も教育もどちらも促進することで,日本の大学の評価が高まってくると考えられるます。
◆専門家と言えるような研究熱心な大学教授は、たとえ教え方が下手でも、その学問内容がすばらしく、少数の「できる学生」は熱心に知識を吸収したものです。専門家の議論は、常識と異なっりり、複雑だったりと、短い時間では伝わりませんが、半年間の授業で、高度な内容を教授している場合が多いのです。誰でも知っていることを講義する「わかりきった授業」はわかりやすいですが、そんなものは、高等教育あるいは最高学府の授業に相応しいとはいえないかもしれません。
大学の授業は、TVアナウンサーの解説ように数十秒単位のお話を上手にするのではありません。1分聴講して理解できる大学の授業があれば、その内容は、本来は簡単化しすぎており、講義内容を再検討す必要があるのかもしれません。
昔の「名物教授」とは、何か高度な内容をしゃべってたり、黒板に書いたりしているみたいだけれども、よく理解できない、でも凄そうだ-----、このような評判のある教授のことです。「名物教授」は授業開始のチャイムが鳴って20分後に教室やってきて、本論が1時間後に開始される先生ですが、その内容は高度です。核心をついています。論文、著作も多く、学会や社会での評価も高いです。
◆休講校が多い、遅刻が多い、こんな「名物教授」に給与を気前よく払ってくれる大学は、今やほとんど無いのです。レベルの低い内容でも、学生に受ければいいと内心考えて、うまく立ち回る要領のいい教授は「名物教授」ではありません。学生の評判を気にして、落第者を出さない、楽勝授業を開講するのも「名物教授」ではありません。論文も著作もなく、単にマンネリ化した授業を繰り返すのも、「名物教授」ではありません。講義ノートがなければ講義できない名物教授などいないのです。これでは「ただの教授」です。現在の大学には名物教授は減少し、絶滅危惧種となっています。名物教授が減少したのは、確かに学生の学習能力と熱意の低下が一つの要因ですが、これは需要側の要因です。供給側の要因としては、名物教授に代わって「ただの教授」が繁殖しているという供給側の要因の無視できないのです。世界大学競争に敗北する,世界大学大学競争から逃避しようとする,このような消極的な姿勢をとれば,ずるずると敗北主義に傾いてしまい,スタッフの能力向上,施設とプログラムの改善がおろそかになってしまいます。まさに,「学問に王道なし」で,有能なスタッフ,適正な施設,有効なプログラムをそろえること,熱心に研究と教育に取り組むことが,日本の大学を世界に並ぶものにする唯一の道なのではないでしょうか。
◆現在の大学で授業を担当しているの大学教授は、研究熱心な専門家の先生ばかりではありません。一見すると、研究よりも教育に熱心であれば,学生にとってプラスに見えます。「学生のことを思ってくれるいい先生」に映るようにするには,物分りのよさを演じたり,笑顔を振りまくのが有効です。これには,学識,見識が必要なはずですが、それらがなくとも,物分りのいい先生を演じることはできます。自画自賛するのもお手ごろなやり方です。問題を起こした大学のパンフレットであっても,本当によくできています。これを鵜呑みにした学生は買い物をさせられてしまいました。そこに補助金を投入し助成した文部科学省は,監督責任を問われるほどです。自己研鑽や研究なしに,あるいは学識や知識の積み上げなしに講義や演習・実習ができるほど,大学教育がいい加減なものであっていいはずがありません。
質の低い大学教授がいるというよりも,定員割れなど,大学経営状況が悪化して,研究教育に時間をさけないといった状況も,学生や学費を負担する保護者に「いい顔をする」大学教授を演じさせていると状況も問題です。問題のあった大学の先生方には,本当に教育熱心な有能な先生がいらっしゃったようです。しかし,大学当局は,教育よりも目前のお金勘定ばかりに熱心だったのです。学生が授業に出ずに,大学のある東北ではなく,アルバイトのために東京に住んでいても,学費を支払えば,問題はないと考えていたのです。宣伝上手で,いい顔を見せ,教育をしないままにで終わってしまって言い訳はありません。決して三流の政治家だけではなく,世界に冠たる最高学府となるべき大学で実際にあった不祥事なのです。
◆世界大学競争では,
学生の学力とともに,大学教授の学力・見識・教育力の低下も競争力の一環を構成しています 。机上の学問だけではなく,実務経験を得てこれらを蓄えることもできますし,内容は一概に定式化できませんが,大学教授としてふさわしい見識,学識を備えるには,学問,実務,思索,観察,実験,調査が必要です。同じ大学の仲間だけではなく,内外のたくさんの人々とのコミュニケーション,切磋琢磨(競争)も重要になります。内輪でほめられても,自画自賛しても、仲間内で褒めあって大学教授に対する学生や社会からの評価は、決して高まらないのです。世界大学競争にあっては,まさに世界に情報発信し,世界から情報を吸収することが不可欠です。大学スタッフも世界市場でもまれながら,その一翼を担う必要があるのです。
◆研究と教育以外に,以前は,
雑務と別称(蔑称)されていた,学内行政,大学紹介,広報活動,受験者勧誘などの「大学業務」があります 。日本では,少子高齢時代を迎えて,大学の学生確保が重要課題となり,教員も,入学希望者,受験者の獲得に無関心ではいられませんし,このような業務に否が応でも動員されています。つまり,研究や教育の時間やそのための努力が,大学業務の拡大のために,困難になりつつあります 。となれば,研究教育よりも,業務を優先して保身を図る大学や大学教員が増えてしまう危険があります。学内で行われる教員の業績評価に際しても,学術書,論文,学会発表など研究業績だけで済ます「普通の大学」はありません。大学業務への奉仕も重要な評価項目です。大学では,教育や社会活動も重要な評価項目です。つまり「象牙の塔」に籠もっているような大学教授は少数派なのです。希少な時間を使って,いかに研究を進め,それを教育に生かしてゆくかが,大学教授の資質といえるでしょう。世界大学大学競争に自ら挑んで,研究も教育もどちらも熱心に取り組み,大学教授の評価が高まれば,大学自体の評価も高まってゆくでしょう。
◆大学が最高学府ということは,その社会的意義は学生の学力向上によって,人間が本来持つ能力を十分に発揮できるようにすること,すなわち人間開発,人材育成を進めることに第一の社会的意義があると考えられます。友達作り,アルバイト経験も大学時代には大切なことですが,これは学問と並行して行われたり,経験したりするものでしょう。
◆日本では,進学率向上から大卒も珍しくはありませんが,世界ではこのような大学教育を受けられる人々は多くはありません。世界人口65億人のうち,人口比でいえば80%以上の人々は,大学教育を受けたくともその資金も機会も持っていないのです。今後ももてない人々なのです。大卒はグローバルに見れば,まさにエリートですし,世界の人々からも社会に貢献できるエリートたることを期待されています。したがって,世界大学競争では,大学たるからには高い学問を実につける必要があり,そのような優秀な学生を世界に送ることが大学の社会的責任と考えられます。
ところで,現段階では,国際的な日本の高等学校の学力は上位にあります。OECD生徒の学習到達度調査(PISA),すなわち調査対象母集団を「高等学校本科全日制学科」の1年生(15歳)、約140万人と定義し、その学力を調査すると,読解力,数学的リテラシー,科学的リテラシーは,上位1位あるいは2位グループに属してます(→OECD2000年PISA )。
◆しかし,これは,15歳の学力であり,日本の大学卒業時の学力は,依然と比して大いに低下しているというのが多くの大学人,社会人の認識です。
◆学生や学生の保護者におもねるような大学や大学人は,短期的には支持されるでしょうが,学生の学力を高めないままに卒業生を送り出す大学は,教育を忘れているといって過言ではありません。当然,社会的にも支持できない高等教育機関ということになります。世界大学大学競争を踏まえ,研究も教育もどちらも熱意をもって取り組む大学こそが,世界の大学評価に耐えることができるのです。
◆私学は独自の教育理念,経営理念で大学を運営してよいのしょうが,それでも公的支援を背景にしていることを忘れてはいけません。大学に社会的意義がある以上,私学であっても公的な支援は当然のこととも考えられます。
実際,日本の私立大学は,国庫から莫大な補助金を受け,さらに課税面でも企業や勤労者以上に税制上の優遇措置を受けて運営されているます。
◆私立大学への2004年の公的助成金としては, ?私立大学経常経費補助 3263億円 ?私立大学教育研究装置施設整備費補助168億円 ?私立大学研究設備整備費補助72億円 に達しています。(→補助金 )。
◆私立大学への税制上の優遇措置としては,非課税となる税目として, ?国税として, 法人税,所得税、登録免許税 ,
?地方税として, 住民税、事業税、事業所税(収益事業に係るものを除く),不動産取得税、固定資産税、特別土地保有税、都市計画税(目的外不動産を除く) と,税制上の優遇措置が広範に認められています。 学校法人の法人税の非課税措置は,非収益事業に限定されますが,収益事業あっても,税率は22%,みなし寄附金の繰り入れ率50%(当該金額が年200万円未満の場合は200万円)であり,一般企業の法人税(30%)よりも低率です。(→税制上の優遇 )。
◆私学と言えども公的な支援ナシに経営は立ち行かないのであって,公的支援を受けている以上,公的な役割として優位な学生を育て上げる義務が私立大学にも課せられているはずです。簡単化すれば,学力を高め,優位な人材を育成することが大学の第一義的な課題であるといってよいでしょう。
◆本来,研究や教育が充実してこそ,入学希望者や教員の評価も高まるはずですが,これは完全情報という状況について当てはまることです。
不完全情報の下では,大学の研究教育が充実しているように見える,という外観を整えることが有利ですから,「大学」の内実が伴わなくなるかもしれません 。たくさんの学生・留学生を受け入れながら教育を放棄し,学費集めに専念する「大学」は,本当の大学とはいえません。ありあわせの講義・大学教授を見栄えよい科目名称をつけて並べる「カリキュラム」は,本当のカリキュラムとはいえません。受講した学生が、落胆する授業の多くは、学生人気に迎合した内容の無い、あるいは内容の伴わない名目だけの「つまらない授業」だからです。このような授業は改革する必要がありますが、これは大学改革・教授改革にもつながるはずです。
◆社会人の方や学生諸君は,大学の心理状況や教職員の内面・本音は見えにくいようです。マスメディアで取り上げられているように「教育も重視した大学に転換するために,大学教授の意識改革を図る」「魅力ある授業を提供する」という改革の主張には大いに賛同できます。また、このような世論、学生の意向を背景に大学改革が行われているのも事実です。しかし、魅力ある大学作りがうわべで終わってしまうと、これは膨大な国民の資金負担を受けている大学としては,堕落ということです。
教員の見識や学識を引き下げざるを得ないような状況,学費さえ支払ってくれれば学力低下を容認するような状況,このような大学教育を阻害する状況が当たり前になったら,日本の大学の存在意義や魅力は低下してしまいます 。「大学教授のための大学」「大学のための大学」ではいけないのであって,大学生き残りを優先し,競争原理を導入した教育であっても,安易な商業主義に堕してしまっては,有意義な大学教育環境、興味ある授業を提供することはできません。世界大学大学競争を踏まえて,研究も教育もどちらにスタッフ,資金を投入し,設備を充実させ,適切なプログラムを組むことで,その大学の評価が高まることになるのです。
◆安易な商業主義,儲け主義に出してしまわない効果的な大学改革のための一番のポイントは,教育研究を充実させるために,卒業生の評価,父母の評価,卒業生を受け入れた会社・社会の評価を取り入れることです。世界の大学と積極的に競争して行くことです。 卒業生は,大学の資産でもあり,大学教育の結果の表れでもあります。世界で活躍する卒業生の能力向上,社会貢献,生産活動,創作活動などは,いわば本人の努力・才能と大学の教育理念の賜物です。その評価こそが,大学教授や授業の評価に繋がり,充実した教育を支えた研究研鑽の評価にも関連してきます。
◆10年以上前の大学審議会(1998/06/02)議事録「大学教育部会 (第98回)議事要旨」 には,次のような議論があった。
【大学(学部)教育の改革】について
○ 現在,短期大学や専門学校から大学への編入学の拡大が唱われており,これから編入学はこれからどんどん増えていくと思う。そうした場合,短期大学や専門学校での履修内容を確認せずに編入学を認めるということになれば,学部教育は成り立たないと思う。編入学生を増やせば増やすほど,入学時の学力検定,入学後の履修指導等が重要なってくると思う。そういうことについても,言及しておく必要があると思う。また,近年,短期大学は大学と専門学校の間で苦慮しており,短大関係者の危機感は強まっている。21世紀を展望する中では,そのことについても触れるべきである。
また,検討案はもっぱら教養教育の問題について言及されている。しかし,教養教育の問題は専門教育の見直しが行われなければ解決できない問題であり,教養教育だけ重要だと言っても意味がないと思う。中間まとめでは,専門教育のカリキュラム,教育の在り方,教養教育との関係について問い直すべきだということを強調していただきたい。
それから,大学は「未だにレジャーランドという批判を払拭するに至っていない」との記述があるが,努力している大学もあることを考えると,表現を改めたほうがよいのではないか。
○「未だにレジャーランドという批判を払拭するに至っていない」という記述については,大綱化以降,全大学ではないにせよ,カリキュラム改革等に見られる教育改革が行われ,成果を上げている大学もある。また,以前と比べて,大学に入って学びたいという高校生の要求は強くなっている。これらのことを踏まえた表現にしていただきたい。
○ この部分については,「未だに大学に対する批判は,払拭するに至らない」という抽象的な表現がよいのではないか。
○ これまで,本部会では,学部教育はどうあるべきかということについて議論してきた。しかし,検討案では,ある側面,教養教育についての言及しかなされていない。大綱化以降,確かに教養教育が充実すれば,大学教育はよくなるという考え方があったと思うが,大学審議会では教養教育と専門教育両方の充実が必要であるということを提言してきた。本部会においては,専門教育の在り方についても検討してきたことを考えると,双方について記述する必要があると思う。
○ 学部教育のコアとなる専門教育についての記述が必要ではないか。
○ よく,「教養教育と専門教育の有機的な連携の確保」と言われるが,実際に有機的な連携が図る教育とはどういうことなのか。おそらく,検討案に示されている「教養教育の実施に当たっては,一の専門分野だけでなく,学際的・総合的視野に立って,課題を探求し,柔軟かつ総合的に思考し,判断し,解決する能力の育成が重要である・・・」ということだと思う。その部分をクローズアップさせて,教養教育が専門教育,あるいは大学院教育と関わっているということを強調したほうがよいのではないか。例えば,環境問題について,経済的,法学的角度から教えている大学も出てきており,最近,ようやく有機的な連携が図られるようになってきたのではないかと思う。
○ 教養教育についての記述の後に,専門教育についての記述が必要だと思う。その際,専門教育が従来の狭い範囲の学問ではなく,環境,情報,人間という言葉にも見られるように,専門教育自身が広い内容のものまで包含するようなものに変わってきている。狭い専門と教養の連携ということを越えて,専門自身が広がっていくということに留意する必要がある。
○ 教養教育が軽視されるのは,専門教育のシェアが広がるからであり,専門教育に対する教員の考え方が変わらなければ,教養教育に対する考え方も変わらないのではないか。
○ 大学がレジャーランドになるのは当然のことである。大学がレジャーランドになっている主な理由は,教員が怠けているからというより,能力・意欲のない学生を大学卒業という資格を餌に受け入れているところにあると思う。 専門学校がレジャーランドにならないのは,専門学校生は大学卒業という資格が得られないために,意欲を持って入ってくるからである。中間まとめでは,大学がレジャーランドになった2つの理由,一つは教員が怠けていたということ,もう一つは能力・意欲のない学生を受け入れていたこと,を併記しておくべきである。
また,教養教育の内容についての一例として,「古典,哲学その他従来の一般教育科目の授業方法の改善」とあるが,特に哲学については,授業方法を改善して内容が充実する学問ではない。むしろ,ダブル専攻という形で教養教育として考えたほうがよいと思う。また,古典について言えば,例えば,アリストテレスを教養的に教えるということはあり得ない。専門的に教える以外にない学問である。教え方さえ変えれば,教養になるという考え方はおかしいのではないか。(大学審議会大学教育部会議事録引用終わり)
◆「授業の満足度」が重視されていますが,これだけに注目していると,大学は日本人学生の遊び場,レジャーランドとなってしまうかもしれません。有名タレントの講義,プロスポーツ選手の講義のほうが,大学教員の講義よりも学生にとって「出てみたい」授業となるでしょう。満足度もタレントに会えただけで,十分高いものになるでしょう。レジャーランドとは,行ってみたい魅力的な場所という意味であれば,大学にレジャーランドの側面があってもいいと思います。しかし,大学がレジャーランドそのものであっていいはずがありません。
大学では,自分の能力向上にどれだけ寄与できたか,専門性をどれだけ学ぶことができたか,学力をどれだけ向上できたか,ということも重要な課題です。これらは,長期的な満足度であり,授業が終わった直後の満足度とは必ずしも一致しません。大学生が4年間も学び続けるのは,一回の授業,一学期で終わる一科目の授業だけでは,完結できない教育が存在するからです。もしかすると,卒業して初めて実感できる嬉しさかもしれません。
◆二十年前の大学の授業出席率は低かったのは本当です。普段から授業に出ていた学生は,試験日に今までに倍する学生が履修していたことを知ることになったものでした。しかし,そんなことはたいしたことではありません。出てこない学生が多ければ,普段授業に出ている学生は密な授業を期待できるからです。しかし,最近十年,私の授業の出席率は80-100%です。どういうわけか,履修している学生は,授業に出てきます。演習は10-13名ですから当然です。しかし,30-50名のミクロ経済学も,70-150名以上の環境協力論,開発経済学,財政学,人間学も,同じように出席率は良いのです。
◆大学では1年間の間に,長期休業だけでなく,土日など休みもあります。そこで,大学生は,年間120-160日間くらいしか大学の授業を受けていないのです。遊ぶ時間,バイトをする時間はたくさんあります。となれば,授業を休んでバイトをして稼ぐよりも,授業を出ない1日で失う学費のほうが高くなります。大学で友達を作ることは大切だし,授業以外にもサークル活動など有意義な時間はあります。しかし,友達作り,サークルが主眼なら,大学の学費を支払う意味は低下してしまいます。勉強しながら,友達と遊び,サークルを楽しむ,さらにその先に行けば,勉強も楽しく,充実してきます。このような経験をすることが出来れば,就職進路などおのずと決まってきます。 ◆大学の勉強の広い意味がわかれば,大学の授業が,人生の糧になったり,生活を豊かにしてくれることがわかります。授業には,「金のためは生きる」「出世するために働く」ような学生は少ないので,なにか有意義なことをしたいと思っている学生は,それならばと,授業にでてくるのです。当たり障りのない話ばかりしている講義からは,学生が離れてしまいます。インパクトが無いからです。浅学な教授からは,学生は授業を受けたがりません。得るものが無いからです。何か有意義なことを求めてくる学生に,ふさわしいものを提供するのが授業の役割です。授業の内容が,全ての人に有意義なものかというと違うでしょう。でも,東海大学教養学部人間環境学科では,選択はもちろん,必修科目でも,複数の教授を選ぶことが出来ます。授業ガイダンスに出席し,授業1回ごとの内容の書いてあるシラバスを読んで,オフィスアワーに直接,教授に会って話しをっ聞けばよいのです。情報公開の下で,教授や友人と相談しながら授業を選択できるのです。
◆現在の日本の大学では、テロなど治安や病気などのリスクから、開発途上国における学生の活動には安全対策や活動の制約を設けています。授業の一環であれば、夏休みであろうと海外であろうと、大学の責任が問われるからです。さらに、大学あるいは学部学科の教育方針・活動方針に沿ったものかどうかも、活動を公認し、あるいは支援する際の重要な要素になります。 他方、このような制約にもかかわらず、学生たちの自由な発想、自主性、ボランティア精神を育むには、学問や政治の権威、分野・専門性など、既存の固定概念に囚われないことが重要だと多くの教員、学生、そして社会人が考えるようになりました。日本の高等教育の中で、次のような課題も鳥飼ゼミでは検討しています。 「(期待されている)NPOが不正行為の温床となる」 「(遅れているとされる)開発途上国の技術・ワザが持続可能な社会の形成に資する」 「(社会問題とされる)ニート増加が失業問題を緩和する」 「(年金崩壊の原因とされる)少子高齢化が、母子保健・児童教育の質を向上し、昼間居住人口の安定化から地域コミュニティを再生する」
新たな側面にも注目し、大学で勉強することで、視野が広がり、知識を深め、能力を向上できます。既存の大学の枠組みは、新しい発想を伸ばし、積極性を養うには狭すぎる、という意味で、大学のあるいは学問のグローバリゼーションが進展することが大切だと思います。
◆魅力があり好奇心を満たしてくれる授業,自己実現・自己鍛錬や社会貢献に結びく教育,最先端の学風を体得できる大学,面白くあっても努力を要する勉強,このような大学教育を支えるに足るだけの学識を持ち研究業績を積んだ教員の維持,こういった研究教育の充実が,大学生・保護者とそれを受け入れる世界にとって,最大の利点になると私は考えます 。大学の社会的責任とは,能力ある学生を世界に供給することです。優秀な研究を世界に発信することです。この教育と研究こそが,最高学府の存在理由といえるでしょう。
<大学改革>とは、世界大学競争の中にあって,卒業生の大学評価,卒業生の父母の大学評価,卒業生を受け入れた会社・社会あるいは世界の大学評価を取り入れることができるように,大学外の声を虚心坦懐に注意深く聞く。そして,より有意な卒業生を送り出すことができるように,カリキュラム,授業計画,研究成果の還元の仕方を見直すこと,それらを支援できる大学予算の配分,スタッフ配置を行うことが重要であると考えます。卒業生は,大学の資産でもありますが,社会的にも重要な資産です。本人の努力・才能を伸ばし,発揮させることこそが,高等教育の目標です。世界大学大学競争に突入して,研究も教育もどちらも切磋琢磨し,大学教授と大学の評価を高めることが,大学の社会的責任を果たすことにつながると考えます。つまり,大学の教育・研究も,卒業生というヒトを見据えて行うべきであると結論できます。
学生あるいは社会の皆さんはどのようにお考えですか。