鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
大戦中の女性:Women in World War 2004
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◆女性と戦争−動員される人々
写真(右):1944-45 年ビルマ-インド戦線で8マイル行軍訓練をするアメリカの従軍看護婦
:Two United States nurses carry heavy combat packs on a eight-mile hike through the jungle of the India-Burma border area as part of their training before taking up front-line was assignments. Before reporting for duty the American nurses learn how to combat jungle hazards and how to care both for themselves and their patients under all conditions.: 1942 - 1945 ARC Identifier 535768 / Local Identifier 208-MO-122A(20554) アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

<女子の戦争動員の概観>

帝国戦争博物館には,第一次大戦(WW1)の軍属(軍に徴用された民間人)の女子から,第二次大戦(WW2)中にパイロットとなった女性兵士,湾岸戦争に従軍する女性兵士まで,さまざまな局面で女子の動員が行われたことを示す資料がある。右は,第一次大戦のソ連女子兵士
:Young Russian women soldiers - part of the Battalion of Death, created by the Provisional Government in 1917. 中央は,旧ソ連の戦争英雄女性兵士で出撃回数850回,投下した爆弾170?(WW2)。Hero of the Soviet Union, Senior Lt. of Guards Rufina Gasheva. Navigator flown 850 sorties during which 170 tons of bombs have been dropped. 右の英国女性兵士はKate Adie。 <

生産と消費も戦争に組み込まれれば,女子の戦争協力も求められます。ここでは,英国にあるImperial War Museum(帝国戦争博物館)の教育プログラムとして公開されている写真を利用して,女子動員の実態を概観します。ここの写真は,英国のImperial War Museum (帝国戦争博物館)からの引用です。英語ページですが,ぜひ,直接訪問することをお勧めします。また,大戦中の女子は,ミッドナイトワッチによる写真やポスターも参考にしてください。そのほかの写真やポスターは,下記からリンクできます。
帝国戦争博物館


第二次大戦の英国の女子:空襲による毒ガス攻撃に備えて,ガスマスクが支給される一方で,子供たちは,都市から離れていなかで集団生活,あるいは親類に引き取られて生活する,これを「疎開」という。1940年の撮影(WW2)。しかし,町に出れば,物資は配給制なので,クーポン(配給切符)をもって,買い物行列を強いられる。


第一次大戦中に工業労働者として動員された女子(左)。第二次大戦時にも英国にはたくさんの米国兵士がやってきた。米国航空隊兵士のダンスの相手をする英国女性(右)。


男性も兵士として動員され,故郷を離れる前に,質素な結婚式をあげた。動員が始まると各地で結婚式が開かれた。赤ちゃん用のガスマスク展示会(WW2)。女性の社会進出に伴って,育児,子守を誰かに任せる必要が生まれる。そこで,保育士もたくさん必要になってくる(左)。


総力戦のWW2における女子の動員:英国人女性兵士が,第二次大戦中にマストを組み立てている(左)。植民地のカリブ海のトリニダート諸島でも,女性兵士が動員された(WW2)(右写真)。 


戦時中の女性の協力は不可欠。そのために,たくさんの女子の有用性を強調するポスターが作られ,女性の協力が求められた。看護婦はもちろん,生産労働にも駆り出される。楽しく農場で収穫作業ができて,それが戦争の勝利に結びつという。戦後には,疎開する子供たちを扱った出版物も刊行されている。(帝国戦争博物館のポスター・収集品より)


  <1914−1918年の第一次大戦の時の女子の動員>

第一次大戦の女性兵士:右は,ソ連の女子兵士。中央は,廃品回収によって鉄屑などを資源として戦争に活用する英国の婦人。右,浮きになるガラス球を網に取り付けるWrens(女子海軍部隊)。女子の動員といっても,兵士,労働者,資源回収などさまざまな局面がある。


第一次大戦の英国の女子:造船所でスクリューを取り付ける(左)。男が兵士として重用され,志願兵として応募していなくなったので,石炭運びも女性が担う(中央)。さらに,航空機整備にも女子が動員された。


砲弾(Shell)製造工場でも,タイヤ工場でも女性が働く(左と中央)。女性の社会進出がはじまり,戦後の参政権獲得にいたる。兵員移動用の列車の清掃作業(右)。


右は,ガラス工場で働く女子労働者。中央は,兵士に動員された夫の変わりに清掃業に従事する女子。右は,海軍ボートに乗務する女子兵士。100年近く昔の第一次大戦でも,女子が広範に動員されていたことがわかります。

<女子の動員を促すポスター>

ポスターは,女性をもちあげて,戦争に協力してもらうことが狙い。男子を艦隊勤務させるには,女子海軍部隊が必要になる。このような女子動員に便乗して,兵士,消防士など新たな職場に進出し,権利獲得に向かう女性も生まれる。
ポスター作成には,職がもらえ,有名になれるからと参加したデザイナーの駆け出し,芸術を続けるためにはやむなく参加したプロ,戦争でも才能を顕示したかった芸術家などがいる。戦後の日本の先生の転進ぶりには驚かされるが,戦勝国ではどうなのか気になる。


右は,第二次大戦中のアメリカの「リベット打ちのロンジー」として知られたポスター。航空機工場や造船所では,鉄板を繋ぐためにリベット(鉄の鋲)がつかわれる。1944年に米国は,14万機もの航空機を製造したが,航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。リベット打ちは金属に刺繍するようなもので,女性に向いた仕事であると認識された。中央の写真は,夫が死ねば花嫁も同罪。だから----,といった気分の引き締め。今で言えば,内地にいてのんびりした温度差のある者へのショック療法。右の写真は,男性に対する医学・衛生上の注意を促しています。

<女子の生産への動員>

戦傷者のいる病院でも食糧増産が叫ばれ,庭で野菜作り。工場でも女子というだけで,労働者に採用しないということはできなくなった。左は,救急車の搬送任務に就く女子。


造船所で,船体の一部を作る。金属工場でブリストル爆撃機のハーネスを生産するパートの女性労働者(Part time women war workers)。 Here is Mrs B M Coles one of Bristol's part time war workers, giving out harness to go into Bristol bombers. Mrs Cole's job is in the stores of a large aeroplane factory. "I give out bolts, nuts, washers, harness, gears, springs and all kinds of things", she said. "I'd take whole time work if I could" she went on "but with the baby I can't. Now I take him round to a neighbour who looks after him while I come to work".


家と外。ミルク絞りに女子者が動員された。1944年の戦争末期でも,家内工業による部品生産にも女子が動員されている。out-factoryと呼ばれた。War Industry. The war-time workforce. Seven Northamptonshire outworkers, who produced thousands of filter parts, shown working in cramped conditions in a private house in 1944. Materials, skilled guidance and tools were provided by the parent factory. 金属工場は従来は,男の職場だったが女性の熟練溶接工も生まれた。Skilled woman welding a complicated metal detail fitting where it is necessary for there to be as little distortion as possible. The tack welding of this item is done in a welding fixture by unskilled women operators, and the part is then forwarded to the skilled welder for completion. The fitting shown is an 8 guage mild steel tube around which is welded eight right angle brackets.


病院では,看護,配膳,清掃などで,女性がもともと多かった。ガスマスクをつけた赤ちゃんの保育をする。こんな不便なマスクを大量生産して資源を消費したのか?普及したようにみせ,安心感を買うための政府の宣伝写真? また,家庭で部品作り(右)を請け負う女性もたくさんいた。


牛乳配達。女性の仕事に向いていると思われるが,ガラス瓶入りの牛乳は重たい(WW2)。また,幼児への教育,保育も女性の仕事として当然と思われるかもしれない。しかし,育児は家庭で,女性は家内だった時代。子供を預けることが社会的に認知されただけでも大変なことだった。


タイヤ生産に従事したのは第一次大戦の時。従来は男子の職場だったところにも,女子が進出してきた。第二次大戦時でも,銃弾の製造(右),金属溶接工(中央)を担う女子労働者が増えた。


ダンロップ社製の阻塞気球の生産に女子が動員された(WW2)。空襲してくる航空機に対する障害として,バルーン(阻塞気球)をあげた。しかし,整備,展開に人手がかかるために,女子も動員された。Making barrage balloons at the Dunlop Balloon Factory, Manchester.右は,航空機工場で生産に従事する女子(WW2後)。

<女性兵士>

男子兵士の下着(smalls)を洗う女性補助兵士(左)。陸軍の鉄帽を被って待避所から出動(右)。メディアリテラシーと宣撫工作の事例としても重要だが,写真家,芸術家も戦争に動員されていたことがわかる。「女だてらに----」という非難は,戦時中は聞かれない。女性兵士や女子労働力を動員するために。


女性補助兵士でも身だしなみを整えればさまになる,と言いたげな宣伝写真(右)。モデルを起用したのかもしれない。軍艦に機銃操作員として乗艦した女子。(中央)。ユニフォームを着た訓練生(左)。


ドイツ軍の空襲を妨害するために,航空機の飛行の邪魔になるように,阻要気球を使用した。気球を係留する女子部隊員(左)。潜水艦に魚雷を搭載する女子。このような技術,体力,度胸を必要とする任務に就いた女性が増えた(WW2)。


対空監視哨に配備され,空襲にやってく敵機を監視する(左)。戦闘機や爆撃機を管理する航空管制室で,通信や統御の任務に就く女性兵士(右)。対空監視や航空管制質室は,直接攻撃にさらされることが少ないので,女性兵士,女性軍属が多数動員された。

舟艇の舫(もやい)綱を整備する女性。舟艇の舷側を塗装する。最前線ではないが,整備員も兵士(女性)である。

1941年3月にWAAF(Women's Auxiliary Air Force) の女性パイロット第一号が誕生。右は,カリブ海の英領植民地のキングストンなどからやってきた女性兵士。


インドなど植民地からATS(Auxiliary Territorial Service)に入隊する女性兵士が到着した。これからからATSに入隊する植民地女性兵士ための装備,衣類の支給。
- Women were trained in ARP and played an important role in manufacturing and construction. Indian women were also trained as nurses, some of whom served in the Middle East. - 988 women served in the Women's Royal Indian Naval Service. - The Women's Auxiliary Corps (Indian) was also formed. 10 000 of these women served with the Army or Air Force in India itself.
West Indies - Some 600 women volunteered to join the Auxiliary Territorial Service in the West Indies: about half of these remained in the Caribbean whilst 200 went to the USA and 100 to serve in the UK. - The Colonial Office launched a scheme in 1945 for West Indian student nurses to train in Britain. - Over 80 West Indian women served in the Women's Auxiliary Air Force in the UK and others (about 30) joined the Auxiliary Territorial Service.


インドから動員された女性兵士たちが入隊したところ。右は,カリブ海の英領植民地ジャマイカの女性兵士がBBCで本国に放送中(1943年10月)。Members of the ATS from Jamaica pictured in a BBC studio broadcasting home on the Overseas service on 19 October 1943. (Left to right) Pte Norma Marsh (from Kingston), Pte Olga Crawford and Pte Helen Fielding (both from St Andrew) and Pte Marjorie Austin (from Rochfort). ©IWM Neg no: AP 14372d


インドから来た従軍看護婦。植民地インドから女性が動員されているのであれば,男子は最前線にも動員される。英領インドのパイロットも,戦闘機を操縦して戦う。ターバンを巻いているのは髪・鬚を剃らないシーク教徒の証し。


ATSへの入隊を呼びかける。An attempt to upgrade the 'dowdy' image of the ATS (August 1941). The 'Blonde Bombshell', with its implications of potential sexual freedom within a more mobile female wartime population, was withdrawn from circulation on parliamentary demand as being unsuitable.© IWM.女性動員を求めるポスターは女性兵士をかっこよく描く。The role of the WRNS was to take over work ashore so that men could be on active service at sea. By the Second World War, the WRNS was promoted as the most stylish of the womens’ services. © IWM.


ATS募集。


Odette Sansom。双眼式の観測機材を操作して,弾着観測をする女性兵士(1960年6月撮影)。


イスラエル軍の女性兵士。Marta Lorena(右)


戦争には移民とその家族の協力も不可欠。人種差別をしながら敵と戦うことは,総動員の妨げになる。右は,キプロス島で勤務する女性通信兵(いずれもWW2後)。

<敵への戦争協力を糾弾され処罰される女性たち>

対独協力として糾弾されたフランス女性への処罰(リンチ)。ドイツによるフランス占領中,ドイツ人と交際したり,ドイツ軍に協力したりした「裏切り者」が,解放後にリンチ(世紀の裁判を経ない暴行)された。連合軍(多国籍軍)によって,ドイツが放逐された後,同じフランス市民によって,フランス女性が辱められた。ナチスのプラカードを持たされたり,髪を丸刈り処罰されたり,さらには処刑された者もある。ナチスがユダヤ人にも同じような「恥さらし」をしたが----。

オランダでもドイツ協力者への処罰がされた。オランダ人による公開リンチで丸刈りにされるオランダ女性。

<アンネの日記>
Anne Frank/B. M. Mooyaart/Eleanor Roosevelt(1993)The Diary of a Young Girl BANTAM BOOKS, USA;アンネ・フランクは、1942年6月12日(十三歳の誕生日),テーブルの上に日記帳があるのを見つけた。戦時中,アムステルダムの自宅に住んでいた時のことである。1944年8月4日,アンネたちの逮捕後,支援者のオランダ人ミープ・ヒースが,部屋に散乱していた日記類を密かに回収・保管。戦後,1945年6月,収容所から唯一人生還した父オットー・フランクは,支援者ミープからアンネの日記を渡され,家族や知人に配慮して日記を編集し,関係者に少数タイプし配布した。その後,日記はHet Achterhuis(隠れ家)の書名でオランダで刊行,評価され,1952年,ルーズベルト元大統領夫人エレノアの序文を得て,英語版「一少女の日記」を出版。これがベストセラーになり,世界各国で翻訳,日本でも1952年『光ほのかに−アンネの日記』が刊行された。

《Anne Frank and the Holocaust - related Web sites》アンネのいとこ:バディ・エリアスさんのお話福山市ホロコースト記念館アンネ・フランクの年譜》/アンネの恋人ペーター・シフの写真

写真(左)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人:写真はYad Vashem (イスラエル・ホロコースト博物館)引用。アウシュビッツ収容所とは,アウシュビッツ第一基幹収容所,大規模なガス室のあったアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所),軍需工場のあるアウシュビッツ第三収容所ブナの総称で,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所ともいう。現在のポーランド南部オシヴェンチムにあった。ユダヤ人,ロマRoma ("Gypsies")),ソ連軍捕虜などが収監され,アンネも2ヶ月間いた。列車でアウシュビッツに到着したユダヤ人たちは,下車後,労働可能者は,収容所や工場で奴隷労働に従事させられた,労働不能者に選別されると,一時収容後あるいはそのままガス室で処刑された。しかし,それを知らないユダヤ人は,家族が一緒にいることを希望した。ユダヤ人虐殺は,冷徹に考えられた効率的な仕組みで,ユダヤ人が反抗しないように,労働すれば自由になれると錯覚させた。

1944年5月3日のアンネの日記「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」
 「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」
 アンネは,戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈していると同時に,総力戦における一般市民の重要性を認識していた。「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いていた。

 しかし,アンネは絶望してはいない。同じ日の日記末尾:「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。
                               じゃあまたね,アンネ・M・フランク」

写真(上)アンネ・フランクの第一冊目の日記原本:1942年6月12日十三歳の誕生日プレゼント:アンネは,1942年12月まで,半年間,この日記帳をつけた。第一冊目なので,写真も多数貼ってある。第二冊以降は,学校ノートや紙切れ(ルーズリーフ)に日記をつけた。1944年8月,15歳でヴェステンボルクWesterbork収容所,ついでアウシュビッツ収容所に送られた。2ヶ月後,ベルゲン=ベルゼン収容所に移送され,病気で衰弱,1945年3月頃死亡。1944年3月25日「死んでしまった後も生き続ける仕事がしたい」と日記に書いたアンネは,それを果たした。日記原本の写真は,United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)引用。


Johanna Hurwitz/Vera Rosenberry(1999) Anne Frank: Life in Hiding (Avon Camelot Books) 「アンネ・フランク:隠れ家の生活」アンネは,日記に「後ろの家」と名づけ刊行する事を夢見ていた。日記の文章は,表現が軽妙で,内容も濃い。親族・同居人・友人に対する酷評,ペーターとの恋愛、男女への興味にもページを割いている。そこで,微妙な箇所を削除,修正して出版された。出版物「アンネの日記」の普及版、完全版、研究版という区分は、編集や出版社の都合による。日記原本は、日記帳、複数の学校用ノート・会計帳簿、多数の紙切れに書かれており,それらは,戦時中の潜行生活、物不足を反映して、中古で既に書き込みのある紙やノートだった。これが,日記は,アンネの筆跡でない,自作でないとの誤解を生んだ。

  The Diary of a Young Girl は,1952年刊行「アンネの日記」英語版で,ベストセラーになった。アンネは,ホロコースト犠牲者の象徴になったが,それゆえ,当初は,アンネの存在自体が疑われ,「日記」を貶めるプロパガンダが展開された。日記を読まないうちに,日記の文書は,十三四歳の少女が書けるものではないと思い込み,姉マルゴーや他人のノート書き込み・戦後に研究者や編集者が書き込んだボールペンや鉛筆の書き込み・筆跡を取り上げて、日記が捏造だと誤解した。「アンネの日記」原本が、複数の日記帳・中古の学校用ノート・中古の会計帳簿、中古の多数の紙切れ(ルーズリーフ)から構成されていることに思い至らず議論している場合も少なくない。戦時中の潜行生活・物不足の中で手に入れた「日記を書いた紙」は、新品ではなく、劣悪な紙や書き込みの古紙だった。日記の真偽は,裁判・科学的検証によって明らかにされたが、日記捏造説,日記焚書の発生は,ユダヤ人虐殺の歴史を共有できていないことの証明でもある。

アンネ・フランクは,アムステルダムの隠れ家から一切外出ができず,親衛隊SS・ドイツ秘密警察(ゲシュタポ)・オランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)に発見されることを恐れ暮らしていた。ユダヤ人迫害の恐怖と不安を克服しようと日記を書き進めた少女は,魂の内側で思索を深め,社会的関心を広げた。表現力も,書体も豊かになった。

文才に恵まれている大人でも,あのような文章を表すことは難しい。しかし,自分の文才と比較して「十三四歳の少女が書いた文章のはずがない」という大人の思い込みは,少女の鋭敏な感覚とユダヤ人迫害を体験し,二年間,隠れ暮らした不幸な境遇を見落とをしている。理想主義,向学心を綴った若者の文章だ。

アンネ・フランクは,ユダヤ人迫害から逃れ,隠れ家生活を25ヶ月間続けたが,この身体的不自由さが,アンネの魂を自由にした。少女は,限りない精神世界を形成し,その一端を「複数の日記帳や多数の紙切れ」に書き記した。


第二次世界大戦では,祖国防衛,民族・家族を守るの戦いとして,戦争の大儀,聖戦が語られてきた。戦争を望まなかった女性も子供も,戦争に巻き込まれた。アンネ・フランク(1929年6月12日生まれ)も,1939年9月,僅か十歳で第二次世界大戦に直面した。

オランダは,1940年6月,ドイツに完全に占領され,連合軍による欧州解放が待望された。日記には,ラジオ放送に聞き耳を立てて,一喜一憂する隠れ家住人たちの様子が生き生きと描かれている。
しかし,アンネ・フランクは,戦争は民族栄光の歴史だという戦争英雄叙事詩聖戦自存自衛の戦いはなくなることがないという戦争必然説・ニヒリズム(虚無主義)を信じてはいなかった。戦争は政治の延長線上にあるとするクラウゼヴィッツ亜流の戦略論にも陥らなかった。

Miep Gies/Alison Leslie Gold(1988)Anne Frank Remembered: The Story of the Woman Who Helped to Hide the Frank FamilyTouchstone Books :「日記」以外にも,アンネ・フランクに関する映画や演劇が作られた。しかし,隠れ家住人を助けたオランダ人の活躍も見逃せない。日記に実名で登場する(ありふれた名前の)ミープ・ヒースMiep Gies(1909-)が語る人間味溢れる物語からは,婦人のやさしい気遣い,ユダヤ人を危険を承知で庇護したレスキュアーズの勇気が伝わってくる。そこには,ユダヤ人迫害に協力した,あるいは協力せざるを得なかったオランダ人の話も出てくる。ミープは,アンネが亡くなった事をオットーから聞いて,アンネの日記をオットーに渡した。女同士の信義として,日記はアンネに直接返そうと考えていたが,それが不可能になったからである。

◆『アンネの日記』を行間まで読み,ユダヤ人迫害と戦争の理由・経緯を知れば、人種民族の差異,戦争の大義が如何なるものであろうとも、差別と戦争は、人類が自ら同胞に対して犯してきた愚行であることが確信できる。差別と戦争は起こってしまったのではなく、人類自らが引き起こした。経済力と軍事力に支えられた迫害と破壊・殺戮を見れば,戦争は政治の延長にすぎないというニヒリズムの愚かさ,冷淡さに気づかされる。だが,我々の祖先も、私たち自身も加担した迫害と戦争を再び見つめるには、勇気と内省が求められる。

1939年9月1日、ドイツは,ポーランドに侵攻すると,9月3日、ネヴィル・チェンバレン英首相は,ポーランドとの相互同盟条約に基づき対独宣戦布告した。

1939年9月1日,ドイツ軍のポーランド侵攻に,保安警察特務部隊が投入され,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害した。アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)は,占領地の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。ポーランドには、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設けて、ユダヤ人を狭い空間に押し込めた。仏領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討された。

戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日、チャーチルが英首相に就任した当日,ドイツのフランス侵攻作戦開始。6月22日フランス降伏。

親衛隊や秘密警察ゲシュタポは,連合国放送を市民が聞くことを禁止したが,密かに外国放送を傍受していたドイツ占領地住民(やドイツ将兵も)は少なくなかった。他方,生活のためにドイツに協力したオランダ人,親独派として,祖国オランダの独立を守ろうと考えたオランダ人もいた。

第二次大戦が勃発すると,ユダヤ人を示す黄色い星印を着用させ,財産を没収し,ユダヤ人を強制収容所に収監するか,排除する方針が打ち出された。これは,ドイツの親衛隊,警察,国防軍,そして,ポーランドやバルト諸国,オランダやフランスなどの警察・住民の協力の下に行われた組織的な人権蹂躙,暴力,殺害である。

◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1941年5月にオランダがドイツに占領されると,オランダの親ナチス勢力も加わって,ユダヤ人迫害が始まった。親独のオランダ指導者アントン・ミュッセルトAnton Adriaan Mussertは,ヒトラー総統と会談し,国家社会主義運動NSB(Nationaal-Socialistische Beweging)を起こした。そして,1940年9月,オランダ人の武装親衛隊義勇旅団Volunteer Legion「ネーデルラント」Niederlandeを編成した。このSS部隊には,オランダ人2,600名が志願,ドイツSS武装親衛隊の下で,レニングラード方面でソ連軍と戦った。

オランダのナチスNSBは,ラントヴァハト・ニーデルランデLandwacht Niederlande、すなわち祖国オランダ防衛部隊)の編成をナチスに認められ,治安補助部隊として、オランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)とともに,ユダヤ人,反政治活動家などの捜索,逮捕に当たらせた。

(2)アンネの「複数の日記帳と多数の紙切れ」
1933年,ナチス・ドイツの迫害を逃れてオランダに亡命したオットー・フランクOtto Heinrich Frank(1889–1980)たが,第二次大戦勃発,1940年5月のドイツ軍によるオランダ占領で,再びユダヤ人への迫害が始まった。そこで,オットー・フランクは,手遅れにならないうちに,自分の会社の倉庫を「隠れ家」として,家族四人が潜行することを決意した。彼らは,オットーの会社の従業員だったオランダ人から,食料など多大な直接支援を受け,アムステルダムの真ん中に隠れ住んだ。

1942-1944年,フランクの次女アンネAnne(1929/6/12生)は,十三歳から十五歳にかけて,日記をつけた。その記述は,隠れ家生活を続けるにつれて,冴えてくる。『アンネの日記』の記述は,隠れ家における生活を,ユダヤ人迫害の恐怖,支えてくれるオランダ人への感謝,同居するユダヤ人との葛藤,家族,特に父への愛,同居人ペーターとの恋愛,ジェンダー・女性の自立の観念を経ることで,内面の精神世界と社会的関心が形成されていった。

1942年6月12日のアンネの日記:「これまで誰にも打ち明けることができなかったことを,あなたに打ち明けることができそうです」
日記が初めて書かれたのは,独ソ戦が開始1年後だった。彼女は,1942年6月12日の十三歳誕生日にもらった第一冊目の日記帳(赤白チェック模様で留め金つき)に日記を書き始めた。この時点では,アンネは,アムステルダムの学校に通っており,6月15日には,誕生会を開いている。誕生会に呼んだ友達に,「名犬リンチンチン」の映画を見せている。フランク家は,資産家だった。
 アンネの日記の書き始めには,クラスメートに対する辛らつな批評も長々記されている。初期の日記の内容は,心のうちを吐露しているが,個人的な事柄が多い。十三歳の誕生日にもらった一冊目の赤白チェック柄の日記帳は,1942年のうちにほぼ使い切ってしまった。

アンネは,物不足の戦時下にあった。日記を手に入れてから1ヵ月後には,隠れ家生活に入った。アンネは複数の代用日記帳,多数の紙切れに日記をつけざるを得なかった。

1941年5月,オランダを占領したドイツ軍は,ユダヤ人差別を,徐々に厳しくした。オランダでも,ナチス親衛隊SS,ゲシュタポGestapo,オランダ警察に連行されるユダヤ人も見かけるようになった。娘マルゴーMargotに出頭命令がきた時,危険を感じたオットー・フランクは,娘たちには知らせずに,直ちに潜行生活に移行する決意をした。

写真(右):アムステルダム市プリンセンフラハト263にあるアンネたちの隠れ家:1階は店舗と倉庫,2階には事務室と豪華な社長室があった。3階は表側が商品倉庫で,後側に書棚の隠し扉があった。この奥が《後ろの家》隠れ家である。1942年6月-1944年8月まで3階,4階の後ろ側の部屋5スペースが,隠れ家として使われた。夜間など会社従業員が帰宅して,会社に誰もいないときには,隠れ家以外の空間も使うことがあった。アンネの父オットーは,フランク家四名のほか,ドイツ出身ユダヤ人ファン・ペルス家(ヘルマン,アウグステ,ペーター),フリッツ・ペフェファーの四名を自分の隠れ家に招いた。Anne Frank and the Holocaust - gallery引用。

1942年7月8日の「アンネの日記」に,隠れ家に移るまでの顛末が詳しく書かれている。どこか遠いところに旅立つそぶりをして,実はオットー・フランクの所有していた貿易会社の倉庫に隠れることにした。

隠れ家住人
フランク家の四名:オットー,エーディット,マルゴー,アンネ:1942/7/6 隠れ家入居
ファン・ペルス家(アンネの日記での変名ファン・ダーン)の三名:ヘルマン,アウグステ,ペーター:1942/7/13 隠れ家入居
フリッツ・ペフェファー(変名アルベルト・デュッセル):1942/11/17 隠れ家入居

隠れ家住人支援者
女子:ミープ・ヒースMiep Gies,ベップ[エリザベート]・フォスキュイルBep Voskuijl
男子:ヨハンネス・クレイマンJohannes Kleiman,ビクトル・クレーフルVictor Kugler,ヤン・ヒース

 アムステルダム市プリンセンフラハト263の隠れ家では,隠れ家住人の部屋の割り,食料の分配,机の利用時間,音を立てられないトイレとオマルや沐浴の利用,プライバシーの確保まで,住人相互の対立,葛藤,喧嘩があった。

1943/3/25の日記:代用トイレットペーパーの領収書がトイレに詰まった。棒を使って,汚物を取り出した。
1943/5/2の日記:衣類は洗濯できない上に,汚く,古くて繕うこともできない。子供たちの服は小さくなりすぎた。
1943/9/29の日記:「ファンダーンさんは,フランク家に内緒で肉を隠し持っている」とパパ(オットー)が怒っている。
1943/10/17の日記:ファンダーンさんは,毛皮のコート,ドレス,クツを持っているが,それらを売り(現金化すること)もせずに,オットーの会社が食料を出すべきだと要求する。
1943/12/30の日記:各家庭の所有・保管する食料に差があった。フランク家は,脂・スープを持っていなかったので,持っている家族と物々交換した。ジャガイモの料理方法について,ジャガイモの質に格差が大きく,調理油も不足しているので,隠れ家住人の間で対立があった。

しかし,問題を承知の上で,オットー・フランクは,他のユダヤ人四名も自分の隠れ家に受け入れた。
 日本人同士だったら,「文句を言うなら,出て行け」となりそうな場面もあったが,オットーが,他のユダヤ人を隠れ家に匿う姿勢は,一貫していた。フランク家以外の隠れ家住人は,自由に議論をしている。オットー・フランクは,自分にも厳しい正義の人だった。
 隠れ家8名の住人は,みな米英仏連合軍が,欧州大陸に上陸し,オランダ解放の日が来ることを願っていた。

1944年3月29日,戦時中に困難を味わった国民の日記や手紙などを集めて,苦難を後世に伝えるべきである,とのロンドンの亡命オランダ政府ラジオ放送を,隠れ家の住人は聴いた。そこで,アンネは,「複数の日記帳と多数の紙切れ」を下にHet Achterhuis (隠れ家,後ろの家)の物語が発表できるようにと,日記や物語を推敲し,出版の準備を始めた。

 学校から締め出されたアンネだったが,隠れ家でテキストをそろえて,隠れ家住人を家庭教師に,授業日課を定めた。アンネの知識欲,好奇心は旺盛で,歴史が大好きで,英語にも熱心だった。閉鎖的な空間で自己を見つめ,勉強に励んだ少女の関心は,歴史・社会・世界に広がった。

アンネは,ドイツのフランクフルトアムマインFrankfurt am Mainで生まれたドイツ・ユダヤ人だったが(姉マルゴーはドイツ語も完全に理解),本人は立派なオランダ人なることを決意する。アンネは,いつか広い世界に出て,みんなのために働きたい,たとえば,ジャーナリスト,作家になりたい,と思った。日記にも,将来,自由になって,学校に行く夢と,オランダ・ユダヤ人として「きっと人のためになることをしてみせます」(1944/4/11)と,女性の自立を意識した決意が書かれている。


写真(上)第二冊目以降のアンネ・フランクの日記原本とルーズリーフ:左より,?三冊目の学校ノート代用の日記帳。1943年12月22日から1944年4月17日までの日記が書かれている。120ページで,幅16.4cm X 縦20.7cm。?紙切れを使ったルーズリーフの一枚。リライトするために紙切れを使って,日記を整理した。?会計帳簿を代用した物語集。以上のように,アンネは,1942年12月の十三歳の誕生日にもらった日記帳を半年で使い切って以降,学校ノート代用の日記帳,会計帳簿,紙切れをルーズリーフにして,日記や物語を書いた。中古ノートは,書き込みページは一部破いている。戦時中の隠れ家生活にあって,新しい日記帳や新品のノートを手に入れることはできなかった。トイレットペーパーも領収書を代用した。戦争直後,日記を手にした編集者・研究者が,日記に整理のために書き込みをした。「アンネの日記」偽作など問題にならず,日記も無名だった時期だった。日本語では,アンネの日記研究文献がほとんどなく,複数の中古学校ノート・多数の紙切れに日記をつけていたことに思い至らないままに,偽作説が流布された。写真は,United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)引用。

      <アンネの書いた自筆の日記は,6種類(その他に紛失1冊)>

 1.十三歳の誕生日にもらった赤白チェック日記帳The Red and White Diary;最も有名な「日記」First Diaryは,十三歳の誕生日にもらった赤白チェック柄の留め金つき日記帳で,これは,1942年6月12日から12月5日までの分である。61ページ。大きさ:14.3 X 16.6cm

2-1.紛失した二冊目の日記帳Second Diary- the missing diary;1942年12月7日から1943年12月22日までで,これらはルーズリーフにリライトされたが,原本は残っていない。アンネは,日記に変更,修正を加え書き換えたのである。

2-2.学校ノート代用の日記帳Third Diary;ハードカバーの学校ノート代用の日記帳は2冊が現存している。ハードカバー表紙は擦り切れており,保存状態はよくない。1943年12月22日から1944年4月17日までの分。終わりの部分に,物語りも書き込んである。120ページ。大きさ:16.4cm X 20.7cm

3.学校ノート代用の未使用部分のある日記帳Fourth (Last) Diary;姉マルゴーの科学のノートの代用日記帳。破いたページも散見されるが,ノート代用日記の二冊目(現存)。後半に未使用部分がある。ルーブリーフに下書きをして,残された貴重な日記帳に清書するつもりだったのかもしれない。隠れ家生活では,もはや新しい日記帳を手に入れる見込みはない。もったいなくて,小さな字でぎっしり書き込んだ。しかし,逮捕され,残された日記帳に書き込むことはできなかった。未使用部分には,心を掻き乱される。1944年4月18日から1944年8月1日(最後の記述)までの分。120ページ。大きさ:16.4cm X 20.7cm で,第三冊目の日記と同じ。

4.ルーズリーフLoose Sheets;アンネは,360枚の紙切れ(ルーズリーフ/ルースシート)に,日記を編集し,リライトしている。下記質や柿の色はさまざまで,紙不足の中で,やりくりして集めた日記用紙である。
1943/7/23の日記:「まだ,ベップを通してノートが手に入ります。特に,取引日誌とか,元帳とかで,簿記を習っている姉には役立ちます。普通のノートは,いつまで手に入れることができるのかは,わかりません。どんなノートにもラベルが張ってあり,“配給切符不要”と書かれています。切符不要なものは,みんな質はお粗末な限りです。斜めにゆがんだ細い罫線の灰色の紙,それが12枚で1冊のノートになっています。」
ルーズリーフとした紙切れには,鉛筆書きのページ番号がつけられているが,これはオットー・フランクが編集したものである。
 ⇒以上の4+1タイプの日記の全ページ使い方は,Anne Frank's Diary: Page Use参照。

5.会計帳簿代用の警句集:The Favorite Quotes Notebook;オットーの会社にあった縦長の会計帳簿には,アンネのお気に入りの警句や言葉が書かれている。これも,広義のアンネの日記に含めてよいであろう。

6.会計帳簿の物語集:the“Tales” Book;アンネは創作した物語を,大きな会計簿に書き溜めた。物語は,日記帳にも書かれているので,やはり広義の「アンネの日記」に含めることができる。アンネの物語は,『アンネの童話 』(文春文庫)として出版されている。

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人婦女子:移送列車で収容所駅に到着したユダヤ人は,その場で,労働が可能かどうかで即座に2グループに選別された。労働不可能な子連れ婦女子・子供,老人は,ガス室で処刑されることになる。
労働可能者は,過酷な条件の下,軍需工場での奴隷労働,収容所の作業班に充当され,生きることを許される。しかし,栄養失調や病気で労働不能になれば,処刑された。収容所に到着したユダヤ人たちは,生死の選別がなされていること,殺害されることには気づいていない。家族が一緒のバラックで暮らすことを希望していたので,子供を離さない婦女子が多かった。
親衛隊の収容所管理者・看守は,ユダヤ人が暴動を起こさないように十分に配慮したマニュアルを作成し,ユダヤ人絶滅を細心の注意をもって,冷静に実行した。ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染しているとの妄想の下では,ユダヤ人の排除こそが優先され,その労働力としての利用は二義的なものだった。
ユダヤ人虐殺は,反ユダヤ狂信者の異常行動ではない。普通のドイツ人でも,移送列車運行などユダヤ人虐殺システムの運営に参加した。写真は,エルサレムにあるYad Vashem The Holocaust Martyrs' and Heroes' Remembrance Authority 引用。


写真(上)アウシュビッツ強制収容所に収監されたユダヤ人少女の囚人登録写真Identification pictures of a female inmate of the Auschwitz camp. between 1942 and 1945:ドイツ国内やドイツ占領地のフランス・オランダなどにあった強制収容所には,大量殺戮用のガス室はない(ダッハウ,マウトハウゼンには小規模なガス室はあった)。しかし,収容所では,栄養失調,病気,拷問,処刑によって,ユダヤ人が虐殺されていた。ガス室のあるビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネックなど絶滅収容所は,ドイツ占領下ポーランドに設置されていた。1944年8月,15歳でオランダ最大のヴェステンボルク収容所,ついでアウシュビッツに送られたアンネ・フランクは,ベルゲン=ベルゼン収容所(ガス室はない)に強制移送され,病気で衰弱,1945年3月ごろ死亡。
アウシュビッツでの死者(ガス殺,病死,処刑など)は,ユダヤ人110万名,ポーランド人7万名,ロマ(ジプシー) 2万1,000名,ソ連軍捕虜1万5,000名とされる。写真はPhoto Archives: United States Holocaust Memorial Museum引用。


1944年2月3日のアンネの日記:「連合軍上陸を待ちこがれる気分は,日ごとに全土で高まっています。----どの新聞を見ても,上陸作戦のことで持ちきりです。もしも,英軍がオランダに上陸すれば,ドイツ軍は,防衛のために,あらゆる手段に訴える。必要ならば,(堤防を決壊して)洪水にする作戦もある,と書いてあって,国民はみんな怒っています。」
(洪水作戦では,アムステルダムも浸水し,1メートルほど水につかるようだった。)
「そうなったら,よどんだ水を歩いてわたるしかないね」
「みんなで水着を着て,海水防止を被って,水中を行くのよ。そうすればユダヤ人だって,知られないわ」
「水の中でネズミに足をかじられて,それでも泳ぎ続けられるご婦人がたがいらっしゃるのかね」(悲鳴)
「何とかしてボートを手に入れるべきですよ」
「梱包用の木箱を持ってきて,スープ用のお玉で漕げばいいさ」
「竹馬がいいな。子供のときは竹馬が得意だったから」
「ヤンがミープをおんぶすればいいよ。そうすれば,竹馬に乗ったのと同じだからね」

ドイツ軍が,アムステルダムから撤退するときどうするかを心配した議論:「私たちも変装して立ち退くのよ」
「あくまでここに踏みとどまるべきだよ。ドイツ軍の力を持ってすれば,全国民をドイツに連行することだってできるさ。追い立てられて,挙句の果てに,向こうで死ぬつもりなのかい?」---

(ドイツ軍が撤退時に,オランダ人をドイツに強制連行する,それも列車など使わせてくれるはずもない。徒歩で歩かされるにきまっている。このような悲観論が,隠れ家の住人たちに広まっていた。)
ヤン(ミープの配偶者で,隠れ家の住人を助けていた):「イギリスもソ連も。プロパガンダで,間違いなく事実を誇張しているに違いありません。ドイツと同じにね。」
隠れ家住人:「そうじゃない,イギリスのラジオは,いつも真実を伝えているよ。かりに1割くらいは誇張していてもだね。とにかく,事実そのものが悲惨極まりないんだ。ヤン,君だって,ポーランドやソ連で,平和を愛する人々が,何百万人も殺されたり,毒ガス死させられたりしている事実は,否定できないだろ。」


1943年段階では,捕まったユダヤ人はどこか遠くに連れて収容されていると考えていた隠れ家住人たちだったが,イギリスのラジオを通じてユダヤ人虐殺・ガス殺の報道を信じるようになっていた。ユダヤ人支援者だったヤン・ヒースは,ユダヤ人大量殺戮を,誇張されたイギリスのプロパガンダであると(誤って)推測していた。

「私自身は,周囲の喧騒と議論に終始無縁で沈黙を守っています。今では,自分の生死がどうなろうとも,気にならない境地に達しました。私がこの世から消えても,地球は変わらず回転し続けるでしょうし,起こるべきことは起こるでしょう。その時になって,あがなおうとしても,どうにもならないのです。ですから,私は天の定めた運命に従って,ひたすら勉強に励みます。いつかは,全てよかったと思える終わりを迎えることを願いながら。
                         じゃあまた,アンネより」

写真(右):1942年5月のアンネ・フランク(Anne Frank:1929年6月12日-1945年3月頃)アムステルダムの倉庫での隠れ家生活1ヶ月前の撮影。ドイツのフランクフルト・アム・マイン出身で,1933-34年からオランダのアムステルダムで暮らす。1942年6月から隠れ家生活に入るが,1944年8月に逮捕され,9月3日,オランダを発った最後の移送列車でアウシュビッツ収容所に送られた。1945年3月頃,再移送先のベルゲン・ベルゼン収容所で,病気衰弱死。隠れ家住人8名のうち,生還したのはアンネの父オットー・フランクだけだった。 Anne Frank Stichting 引用。

運命に従うとは,運命が決まっていることを意味するのではない。自分の力が発揮できれば,神の力で,これから起こることは,いかようにでも起こってくる。「起こるべきことは起こるでしょう」こう考えたアンネ・フランクは,いつかは間違いなく死ぬことを視野に入れて,自分の道を切り開き,一ユダヤ人として,人々のためになることをするために,勉強に励んだ。いままで書き記した複数の日記帳と多数の紙切れをまとめて,清書した日記を作ろうとした。

1944年3月29日のアンネの日記:「ロンドンからの放送で,ボオルケステインという政治家(実は,ロンド亡命オランダ政府文部大臣)が,戦争が終わったら,戦時中の国民の日記や手紙などを集めて,集大成すべきだと言ってたんです。早速,みんなが私の日記に注目しました。もしも,この《隠れ家》の物語が発表できたなら,どんなに面白いか,考えても見てください。題だけみたら,読んだ人は探偵小説かと思うかもね。
(オランダ語ヘット・アハテルホルスHet Achterhuis は,オランダ特有の家屋後ろのスペースで,“後ろの家”の意味。これが,アンネが発表をしようとした日記の題名だった。)

「まじめな話,戦後十年もたったら,私たちユダヤ人がどんなふうに暮らし,どんなものを食べ,どんな話をして過ごしていたかを話しても,奇妙に聞こえるだけで,わかってもらえないでしょう。---- <中略,ここに貴重な事例がいくつも書かれている>----連合軍の上陸作戦はいつ始まるとも知れず,男たちは(強制労働のために)徴用でドイツに連行される。子供たちはみんな病気か栄養失調。誰もがボロ服を着ていて,ボロ靴を履いていて,敗れた靴底を張り替えるだけで,闇市で7.5ギルダーもかかる-----------。」
「こういう状況ですが,一つ明るい話があります。食糧事情が悪化し,国民への締め付けが強まるにつれて,当局に対するオランダ人のサボタージュが着実に増えているということです。食料係りの役所の人や,警官,役人には,ひそかに市民を助ける一派もありますし,市民を密告し,逮捕させる一派もあり,オランダ人はどちらかです。幸いなことに,悪いオランダ人の一派は少数です。

1944年3月27日のアンネの日記:アムステルダムの隠れ家の住人に,連合軍の上陸,空襲,各国指導者の演説を巡って,楽観,悲観,現実が入り混じり,際限ない論争が続いていると書いている。ドイツ国防軍の放送,BBC,特別空襲情報など,各国は虚偽の宣伝に努めていると,アンネは考え,食事と睡眠以外,ラジオを囲んで論争している隠れ家の住人を「のろまで退屈」と称した。

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人:虐殺されることに気づかないまま,子連れの婦女子は労働不能者に選別された。このまま,直ちにガス室に送り込まれた集団もあった。Yad Vashem:The Auschwitz Album引用。

1944年6月6日のアンネの日記:「“本日は,その日である”今日の十二時,このような声明がイギリスのラジオから放送されました。間違いなく,まさしくDデーです。いよいよ上陸作戦が始まったのです!。」
1944年6月6日はD-day(上陸日),すなわち仏北岸ノルマンディー侵攻(オーバーロード作戦)が開始された日である。アンネも,Dデイの日記を,興奮を持って綴っている。朝8時のイギリスからのラジオ放送,10時からのドイツ語,オランダ語,フランス語,その他の外国語放送,連合軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワーDwight D. Eisenhower,英首相チャーチルの演説を聞いていたのである。具体的に,英空挺部隊の降下,二万機の航空機の投入,4千隻の上陸用舟艇のことを書き留めた。

《隠れ家》は興奮のルツボです。いよいよ待ちに待った解放が実現するのでしょうか。上陸作戦の話はたくさん論じてきましたが,今はあまりにすばらしく,御伽噺のようで,本当とは思えないほどです。まさに今年,1944年中に,勝利がやってくると信じてよいのでしょうか。まだ,わかりませんが,それでも希望は生き続け,新たな勇気と力を私たちに与えてくれます。私たちは,あらゆる不自由,苦難に勇気を持って立ち向かわなくてはなりません。なによりも重要なのは,冷静さを保って,毅然とした態度を失わないことです。泣き叫ぶのではなく,歯を食いしばって,堪えなくてはなりません。

これまで長い間,私たちは恐ろしいドイツ軍に蹂躙されてきました。いつも喉元にナイフを突きつけられ暮らしてきたのです。しかし今や,味方の救援と解放が目前にまで迫ってきたのです。もはや問題はユダヤ人だけのものではありません。オランダ全体の問題なんです。ひょっとすると,マルゴーの言ったように,九月か十月かには,ふたたび学校に行けるようになるかもしれません。
                    じゃあまた,アンネ・M・フランクより」


写真(上)1944年5月,アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所に到着したハンガリー・ユダヤ人:胸につけた黄色のダビデの星は,ユダヤ人を差別するために,つけさせられた。収容所に到着し,労働不能者として選別された婦女子,老人は,強制収容所(concentration camp,独語Konzentrationslager:KZラーゲルあるいはKL)のバラックに入る。しかし,そこは,殺害までの一時的な控えの場所だった。数十ヵ所ある強制収容所のうち,ガス室を完備していたのは,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネックなどドイツ占領下ポーランドの絶滅収容所だけだった。(オーストリアのマウトハウゼン収容所のガス室では,殺戮は限定されたものだったようだ。)ガス室での殺戮は,1942年に開始,1943-1944年に本格化し,1944年10月には中断された。アンネ・フランクは,1944年,15歳でアウシュビッツに送られ,再移送されたベルゲン=ベルゼン(Bergen-Belsen)収容所(ガス室はない)で,1945年3月頃病死。写真は,Photo Archives: United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)とYad Vashem :The Auschwitz Album(イスラエル・ホロコースト博物館)引用。


写真(左)アウシュビッツ収容所の病院勤務者とドイツ人看護婦。写真(右)病院の落成式(1944/6/21?)の時なのか,美味しそうなベリーを配ってもらっているドイツ婦人補助部隊。
United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。楽しそうなアウシュビッツ強制収容所勤務のドイツ人たちの表情を見ると,決して,反ユダヤ狂信者の異常な暴力がユダヤ人虐殺を主導したのではないことに思い当たる。普通の人々でも,ユダヤ人虐殺に反対を許さない組織の中で,プロパガンダに扇動されながら,業務をこなした。虐殺を知らなかったドイツ人も含まれるのかもしれない。強制収容所のドイツ婦人部隊の女子と男子軍人たちは,後方勤務で,安全な生活を送ることもできた。これは,陰惨な東部戦線で,ソ連軍相手に死闘を繰り広げるより,いい身分を手に入れることでもある。アルバムの主カール・ヘッカーは,戦後,戦争犯罪人として裁かれたが,2000年まで生きた。そして,遺族が,2007年に,この貴重なアルバムを,米国ホロコースト記念博物館に寄贈。

アウシュビッツ強制収容所には,病院があった。ドイツ人用の病院は,収容者用の病院とは比べ物にならないくらい整備されていようだ。強制収容所の病院には,ドイツ人看護婦も勤務していた。囚人が病院の補助作業,雑用に使われていたようだ。後方で安全な勤務生活を送るためとはいえ,ドイツ人はユダヤ人囚人をどのように思ったのか。アルバムの主カール・ヘッカーは,戦後,戦争犯罪人として裁かれたが,2000年まで生きた。そして,遺族が,2007年に,この貴重なアルバムを,米国ホロコースト記念博物館に寄贈した。



写真(上右)1944年,アウシュビッツAuschwitz強制収容所の管理・病院勤務のドイツ婦人補助部隊SS Helferinnen :"Auschwitz 21.6.1944" 親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバムAuschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp(2007年1月,ホロコースト記念博物館に寄贈。写真(上左)親衛隊女子補助部隊SS Helferinnen (female auxiliaries)とSS将校カール・ヘッカーKarl Hoeckerが,アウシュビッツ主要所すぐ傍の山小屋Solahuetteで,ボールに入ったブルーベリーを食べている。 [Photograph #34767A]。写真(右)ナチス将校と婦人補助部隊(Helferinnen)が,牙氏をわたっている。[Photograph #34587](Date: 1944 Locale:Solahutte, [Upper Silesia; Auschwitz] Poland )引用。病院の落成式(1944/6/21?)の時なのか,ベリーを全部食べちゃった,という写真もアルバムに残っている。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. 引用。アウシュビッツ収容所勤務ドイツ人の表情を見ると,反ユダヤ狂信者の異常な暴力がユダヤ人虐殺を主導したのではないことに思い当たる。普通の人々も,ユダヤ人虐殺に反対を許さない組織の中で,プロパガンダに扇動されながら,業務をこなした。虐殺を知らなかったドイツ人も含まれるのかもしれない。強制収容所の男女親衛隊員は,後方勤務で,安全な生活をおくった。これは,陰惨な東部戦線で,ソ連軍相手に死闘を繰り広げるより,いい身分を手に入れることでもある。


ドイツ少女による白ばら運動 Die weisse Rose(Resistance)

写真(右)1942年夏,反ナチスの白バラDie weisse Rose通信を発行したミュンヘン大学医学部生ハンス・シュルHans Scholl,同大ゾフィー・ショルSophie Scholl (左二人)と同大学医学部生クリストフ・プロープストChristoph Probst:医学生だったが,一時期,東部戦線従軍の義務をこなした。キリスト教に基づく正義を重視,ゲーテ、シラーなどドイツ教養人を手本とした学生運動だった。逮捕後,転向国粋主義者ローラント・フライスラー裁判長(1893-1945)の民族裁判によって,反逆罪の咎で死刑宣告。21歳で断頭台で処刑されたゾフィー・ショルは,ジャンヌダルクを髣髴とさせる。自由のシンボルとなり,12005年「白バラの祈り:ゾフィー・ショル、最期の日々」など映画化もされた。ゾフィーは,理想を追求し,実践するクリスチャンで,アンネ・フランクのような親近感は沸いてこないかもしれない。普通のドイツ人とは距離を置いた気高きヒロインである。写真は,Spartacus Educational引用。

戦時中,1942年からのミュンヘン大学医学部生ハンス・ショルHans Scholl(1918-1944),妹のミュンヘン大学女学生ゾフィー・ショルSophie Scholl(1921-1944),ミュンヘン大学医学部生クリストフ・プロープストChristoph Propst たちの白ばら運動は,反ナチス,平和人権の確保を訴えて,一部の人々の共感を得た。
  白ばらのメンバーは,「白ばら通信」というビラを配布し,「文明国の人間が,下劣な本能のままに行動する無責任な一派によって,支配され,何の抵抗もなく従うとすれば,その国民にとって,もっとも恥ずべきことである」とした。
 1943年2月,ショル兄妹は,ミュンヘンで反ナチスの行動を呼びかけるビラを配ったという。1942年6月、ハンスとアレクサンダー・シュモレルAlexander Schmorellは,反ナチスの無記名のビラを印刷、友人,教師、医師などのインテリ,飲食店に郵送した。ビラでは,トート機関(軍需労働組織)・ナチ党行事への不参加、戦争目的の研究中止などの消極的抵抗を訴えた。1943年7月下旬までに,4種類のビラが配布された。(→白バラとは -Die Weiße Rose-参照)

しかし,白ばらのショル兄妹は,1943年2月18日、ビラを大学構内で撒いているのを発見され大学の守衛に通報され逮捕。クリストフのビラ原稿が見つかり、彼も逮捕された。取調官に対して,ゾフィーは「私はもう一度、すっかり同じことをやるでしょう。考え方のまちがっているのは私ではなく、あなたがたの方なのですから。」と述べた。
2月22日,民族法廷で死刑判決を受け、即日,三名はシュターデルハイム刑務所斬首シュターデルハイム刑務所は,ミュンヘン一揆に失敗した犯罪者ヒトラーが,1922年6月24日から7月27日まで,収監されたミュンヘン郊外の刑務所である。

 ミュンヘン大学哲学教授のクルト・フーバーKurt Huber1893-1944)はエマミュエル・カントの「世界の規範となるく行動せよ」,そして,目的達成のために,人間を手段として利用してはならない,と説いていた。1943年7月,フーバー教授も処刑された。
對馬 達雄「反ナチス抵抗運動とドイツ戦後教育史 : 占領期研究のための論点整理

 ナチ党による人権弾圧の中では,ドイツ青年による白ばらは,例外的な抵抗の試みだったが,ドイツの若者,知識人の良心を示した点で,高く評価されている。焚書を行ったミュンヘン大学だったが,学内には白ばら抵抗運動記念碑 Denkmäler für die "Weiße Roseが建立された。ミュンヘン大学第315講義室ホールの壁にレリーフがあり,さらにショル兄妹広場のビラ記念碑がある。そこには,「人間性を抱いた者たちが非人間性によって滅ぼされた----’このように見知らぬ支配に決して屈しないあの精神が,その真価を示す。’(セネカ)」とある。


<沖縄戦・特攻隊と日本女性>
◆1945年の沖縄戦では,日本海軍による菊水作戦,陸軍による航空総攻撃が行われた。「神風特攻隊」は、本来、海軍の名称であるが、現在、内外で特攻隊の総称として使用されている。沖縄への特攻は、九州南部の航空基地を拠点に実施された。日本陸軍の特攻前進基地が、知覧、万世である。日本海軍の特攻前進基地は、串良、鹿屋であった。知覧で、特攻おばさん、特攻の母として、若い特攻隊員の世話をやいたのが、軍用食堂「富屋」鳥濱トメである。 

写真(右):知覧の富屋食堂;特攻隊員と地元との交流や悲話のあった軍指定食堂「富屋食堂」が、平成13年10月に外観は当時のままに、内部は資料館として復元。富屋の鳥浜トメは,特攻隊員から母のように慕われた。

陸軍特攻基地「知覧」(ちらん)
1941年12月の日米開戦直後、大刀洗陸軍飛行学校の知覧分教所が開校。1942年に陸軍の陸軍少年飛行兵10期生受け入れ。学徒出身の特別操縦見習士官を含む操縦訓練学校として位置づけられていた。しかし、1945年に沖縄・台湾に米軍の侵攻が予想された。

特別操縦見習士官制度とは、1943年創設の、航空機搭乗員を急速に養成するための制度。師範学校、専門学校、高校、大学に在学した者を入隊させ、曹長の階級を与え幹部候補とした。「特操一期生史」によると、合計四期の特操入隊者8000人。一期生任官者2386人のうち、668人が特攻などで戦死。

知覧の富屋食堂は,1929年(昭和4年)、鳥濱トメ27才の時に開かれた。普段は、うどん・そば・どんぶりもの、夏場は、かき氷なども出し、繁盛する。トメの気さくな性格と食堂の家庭的な雰囲気に惹かれ、後1942年に最初の少年飛行兵10期生が到着したとき、鳥浜トメは隊員を我が子のように面倒をみた。隊員達も「お母さん」と呼ぶようになった。戦況は悪化し、1945年、知覧からも特攻機が出撃。

知覧の富屋食堂には,若い特攻隊員から母のように慕われた鳥浜トメの次の話が残っている。

写真(左):特攻隊員宮川三郎軍曹(19歳);宮川は「明日ホタルになって帰って来るよ」と言い残し出撃。その夜富屋食堂にいたトメと娘たち、出撃前の隊員たちは一匹のホタルを見て「同期の桜」を歌い、涙を流した

写真(右):赤羽礼子・石井宏(2001)『ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子』;宮川軍曹出撃の話がのっている。軍の指定食堂の鳥濱トメ、長女鳥濱美阿子、次女鳥濱礼子と特攻出撃する少年飛行兵との交流、戦後のアメリカ兵の母の話など、特攻の内面が伝えられる。

特攻隊員宮川三郎が蛍になって,鳥浜トメの元に戻ってくる話は,知覧飛行場近くの富屋食堂でのことある。

知覧で出撃を待つ特攻隊員は,富屋食堂に出入りし、42歳の女主人鳥浜トメ を母のように慕っていた。トメは,死に行く少年のために優しく甘えさせたようだ。1945年6月5日,宮川三郎軍曹は,20歳の誕生日をトメは心づくしの料理で誕生日を祝い,明日に控えた出撃のはなむけとした。

途中、空襲警報が鳴り、みなで防空壕に避難し,そこから出てきたときにいった。「母さんお世話になりました。お国の為に、見事に散ってまいります。そして、私はホタルとなって、母さんのもとに帰ってまいります。ホタルを見たら私だと思ってください。」といったという。

6月6日の宵になって,特攻隊員で賑わう富屋食堂に一匹のホタルが舞いこんで来た。それを見つけたトメは「宮川さんが帰ってきた」と叫び,泣いた。(→赤羽礼子[トメ次女]石井宏(2001)『ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子』

戦死した特攻隊の若者も、体当たりされ戦死した米海軍の若者も、平和な時代であったなら、よき友人、ライバルになったかもしれない。敵国となり戦争となったために、お互いが殺しあう羽目に陥った。特攻隊員も、米国の若者を殺害するといった意識はなかったであろう。米海軍の若者も、若い特攻隊員と交歓し、話し合う機会があれば、テロリストとは感じなかったであろう。

写真(左):知覧の富屋食堂の鳥濱トメと特攻隊員;鳥浜トメ・礼子のいる軍指定食堂「富屋食堂」で,特攻隊員は,一人の若者として最後のときを過ごした。礼子さんは、2005年に亡くなった。

 鳥浜トメは,古いアルバムを持っていたが,ほとんどの写真がはがされている。これは,戦後になった知覧を訪れた特攻隊員の遺族が写真を乞うたためである。
特攻隊員は,自分の写真をもっていたり,撮ったりしたが,出撃に当たって,トメに預けたのであろう。隊員が,写真を故郷に送ることも,出撃基地も家族にも知らせること軍事秘密として禁じられていたからである。
残っている写真は韓園と台湾出身者のものが多い。遺族の手に届かない写真があることを,鳥浜トメは気にかけていたという。

現在,陸軍特攻隊の出撃の地には,知覧特攻平和会館,鳥濱トメ・長女鳥濱美阿子・次女鳥浜礼子 のいた富屋食堂(ホタル館)がある。

第32回江戸東京博物館友の会セミナー2005/7/20  戦後60年「ホタル帰る」―鳥濱トメと知覧特攻隊員の物語―講師 赤羽礼子さん
当時、赤羽さんは14歳、女学校の3年生でした。赤羽さんは「冨屋」という軍指定の食堂を営んでいた鳥濱トメさんの二女です。トメさんは片道の燃料と50キロ爆弾を飛行機の底に積んで敵の航空母艦に体当たりしていく若き兵士たちの母親のような存在でした。まだ17歳くらいの兵士たちは「おばちゃん」と呼んでトメさんを慕い、出撃前夜には「おばちゃん、明日、見送りにきて」と頼み、トメさんは見送りに行ったりもしていました。
 「ホタル帰る」は、特攻前夜に20歳の誕生日を迎えた宮川軍曹の話です。宮川軍曹の誕生日を知ったトメさんは、 彼の親友の滝本軍曹を呼んで、赤飯と煮しめでお祝いをしてあげました。明日は二人とも飛び立つのです。宮川軍曹は何時までも故郷の話しをしていたそうです。帰る前に宮川軍曹は「明日の夜9時に二人でホタルになって帰ってくるから戸を開けておいてね」と頼んだのです。翌日は大雨で視界はゼロ。滝本軍曹だけは生還してきましたが、宮川軍曹は開聞岳の向こうへ飛び去ったままでした。
 その夜9時に、赤羽さんたちが入口を開けると1匹のホタルが入ってきたのです。「冨屋」に居合わせた隊員たちは皆で「同期の桜」を歌っていました。終戦後、滝本軍曹は2週間かけて宮川軍曹の墓参りをした後、自宅で命を絶たれました。
 特攻隊員たちは、もっともっと生きたかったでしょう。やりたいこともたくさんあったはずです。2度と戦争という悲劇を起こしてはなりません。トメさんは、死を目前にした何人もの人たちに安らぎの手を差しのべて、90歳で世を去りました。

『特攻』第29号14頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」鳥濱礼子の手記では、特攻兵舎を去る特攻隊員の手紙が記載されている。

「皆さんさようなら。僅かな時間で急いでかいています。
私たちは何時までも知覧にいたいのですが上からの命令でいたし方ありません。私達の事は死んでも忘れないで居てね。花の都の靖国神社に先に行っております。席も私達の横にちゃんと空いておりますよ。皆さんも死んだら靖国神社だね。いいなあ。敵を徹底的に撃滅するまでは死んでも死ねないからね。
皆さんたちとこの知覧で愉快に過ごしたことは一生忘れません。

吾身はたとえ此の世を去らんとも、乙女心で咲いてくれ。
---かわいいマスコット、見れば忘れはせぬよ、知覧の町。
まずい文ね。頭がいたくて文なんてつくれないよ。
愈愈明日は出発です。お元気でね。皆さんたちの御健康をお祈りしています。出撃のときは知覧の上空を飛んで行きますから送ってね。私たちもいざという時は喜んで死んで行きます。
ではさようなら。くれぐれも御身大切に。
  光男より」

稲田光男(18歳)は、1945年5月10日戦死。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室掲載神坂次郎(こうさか じろう)(1985)『今日われ生きてあり』新潮社
(1927年和歌山県生。昭和57年日本文藝大賞受賞。9

 昭和五十七年の夏、その開聞岳をふたたび眺め、知覧を訪ねた。三十七年ぶりの知覧への旅であった。 戦後、いままでも幾度か訪ねたいと、渇くような思いをもっていた。その思いをもちながら、なぜか心の裡に躊躇うものがあった。戦争で死ななかった者の、後ろめたさ、悔恨の念なのであろうか。

 知覧��。薩南の涯の山のなかの静かな町。と号(特攻)要員とよばれた若者や少年たちが、青春の最後の幾日かを過した町。祖国の難に一命を捧げた隊員たちの特攻機が、二百五十キロの爆弾を抱えてよろけるように飛び立っていった町。----

 ----鹿児島市内から---と旧谷山街道に車を走らせながら福元は、訥々(とつとつ)とした話ぶりで彼自身の終戦を語る。
 「��あれァ敗戦のときの九月ンじゃった。これでもう日本軍の飛行は終りという日、済南の飛行場の上空で、先輩の少飛[少年飛行兵]四期の飯田中隊長が九九双軽で、宙返りから何からみんなやってみせた。それァ見事なもンじゃった。私ゃそれを、いまでもようく覚えちょる」

 ----町の表情は明るくなっていた。往還は舗装され、左右に建ち並ぶ家々も新しく装いを変えていた。橋の袂にあった軍用旅館の永久旅館はコンクリート造りのモダンな、自動ドアのついた食堂 「味処えいきゅう」になり、内村旅館は木造モルタル造りになり、当時の女主人たちの姿はすでになかった。所有者も変っていた。飛行兵たちが外出のたびに通 った軍用食堂の「富屋」も、大きな富屋旅館も新築されていた。飛行兵たちがよく利用した私鉄、南薩鉄道は廃線になり、知覧駅の古ぼけた駅舎だけがぽつねんと立ちつくしていた。---

 知覧の町で、当時の面影をのこしているのは、旧鹿児島街道に建ち並ぶ-----武家屋敷群と、それを縦横に結んだ小路----のたたずまいと、軍用旅館を発って出撃する隊員たちのために、知覧高女の少女たちが、おりから満開の八重桜の枝を折りとり、折りとりして駈けつけたという永久橋畔の桜の古木。そして飛行兵たちから慈母のように慕われた特攻おばさん、鳥浜とめさんだけであった。

 とめさんは健在であった。八十一歳。でっぷりと肥って、そのためか足の痛みがひどく歩行も不自由らしかった。それでもとめさんは、訪ねて行ったわたしたちのために、杖をついて奥座敷まできてくれた。
 「ゆう、おさいじゃしたなぁ」
 とめさんは、不作法を詫びながら畳の上に痛む足を投げだし、あのころの隊員たちの表情を、一つひとつなぞるように話してくれた。

 「僕が死んだら、 きっと蛍になって帰ってくるよ」
 そう言って出撃した宮川軍曹が、翌晩、一匹の"蛍"に化って飛んできたというのは、この左手の庭の泉水のほとりであった。第七次総攻撃に進発した朝鮮出身の光山少尉が、出発の前夜、 とめさんにねだられて低い声でアリランの歌を唄ったのは、次の間の柱のところであった。光山少尉はその柱にもたれ、軍帽をずりさげて顔をかくすようにして唄っていたという。

 「僕の生命の残りをあげるから、おばさんはその分、長生きしてくセさい」
そう言って、うまそうに親子丼(おやこどんぶり)を食べて出撃していった一人の少年飛行兵のことを語ると、とめさんは、あの子のおかげで私ゃこんなにも長生きしてしもうた、と涙をにじませた。


 この知覧にわたしがいたのは、きわめて短い日数であった。と号要員でもなかったわたしは、やがて名古屋郊外、小牧第二十三飛行団司令部の通 信飛行班に移っていく。わたしの知覧とのかかわりは、ただそれだけであった。が、なぜかわたしの知覧への思いはふかい。それを言うと、とめさんは、
 「生き残りの特攻隊員さんがおじゃるようになったのも、戦後十年目ぐらいからのこつでごあんぞ」
 元隊員たちが、ながらく知覧に姿を見せなかったのは、いちどそこで死を覚悟したものにとって、多くの先輩や同志を失った痛恨きわまりないこの地には、訪れがたいなにかがあったのであろう。


 富屋旅館で昼食をすませて発つとき、杖をついて玄関まで見送ってくれたとめさんは、飛び立っていく特攻機を描いた富屋旅館の日本手拭に署名して、一首の和歌を書き添えてくれた。
  散るために咲いてくれたか桜花 散るこそものの見事なりけり
(電子文藝館編輯室掲載神坂次郎(1985)『今日われ生きてあり』<引用終わり)

◆1945年の沖縄への陸軍特攻作戦は、九州南部の知覧を前進基地として出撃した。知覧高等女学校の三年生は、勤労動員され、特攻隊員たちの身の回りの世話を奉仕するようになった。勤労奉仕した知覧高女の女学生の中で、「富屋」鳥濱トメの娘鳥濱礼子、前田笙子の記録が広く知られている。

1945年3月27日、知覧高等女学校の二年生(15歳前後)は、三年生の進級直前に勤労動員され、知覧基地で、特攻隊員の洗濯、裁縫、食事、宿舎の掃除など身の回りの世話をすることとなった。彼女たちの多くは、祖国・家族を命がけで守ってくれる特攻隊員を尊敬し、最善と思われる「お世話」をしようと誓ってた。その話は、 『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」、前田笙子の日記に記されている。

写真(右):250キロ爆弾と200リットル落下式増加タンクを装備した特攻一式戦「隼」;ソ連軍に対抗するために満州駐屯部隊も南方・沖縄方面の戦いに転用された。5000機生産された陸軍の主力戦闘機。戦争後期には旧式化、知覧基地から多数が特攻出撃。

前田笙子(知覧高女三年15歳)の日記( 『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」を引用
昭和二十年三月二十七日
作業準備をして学校へ行く。[知覧高女の]先生より突然特攻隊の給仕に行きますとのこと、びっくりして制服にきかえ兵舎まで歩いて行く。はじめて三角兵舎にきてどこもここも珍しいものばかり、今日一日特攻隊の方々のお部屋の作り方。こんなせま苦しい所で生活なさるのだと思ったと私達はぶくぶくした布団に休むのが恥かしい位だった。
わら布団に毛布だけ、そして狭い所に再びかえらぬお兄様方が明日の出撃の日を待って休まれるのだと思うと感激で一杯だった。
五時半かえる。

昭和二十年三月二十八日
今日は特攻隊の方のいらっしゃるお部屋へまわされたが、初めてのことで恥かしくしたり逃げたりしたが、自分の意気地のないことを恥じた。明日からはどしどし特攻隊のお兄様方のおっしゃることをおききして、お洗濯やらお裁縫を一生懸命やろうと思う。

昭和二十年三月三十日
今日は出発なさるとのこと。朝早く神社の桜花をいただいて最後のお別れとして私達のマスコット人形とを差上げる。無邪気に喜ばれる。貨物で飛行機のところまで行って食料等を詰込んであげる。皆ほがらかに「元気で長生きするんだよ」と言われて愛機に飛び乗られる。愛機には、さまざまなマスコット人形が今日の出撃をものがたるように風にゆられている。出発なさったが天気の都合でかえられる。大変残念がっていらっしゃった。

1945年4月1日の特攻戦果

写真(右):戦車揚陸艦LST-884号に突入した特攻機残骸;1945年4月1日、沖縄上陸当日の特攻機による被害。日本機搭乗員の遺体の跡にしるしが付けられている。Damage to LST-884 from Japanese kamikaze attack at Okinawa on 1 April 1945. Note twisted remains of aircraft and charred outline of Japanese pilot in the damaged area.

昭和二十年四月一日
今日はお洗濯、掃除をした後皆でお話をする。十八歳の今井兵長さん、福家伍長さん二人で杉の皮をけずられ「伍長グラマン」と書かれる。何時までも何時までもお二人のことを物語るように。そして妹さんに笑って出撃したと書いてくれとおたのみになる。血書をして私も一緒にとマスコット人形、髪の毛、爪を渡されたそうで、この立派なお兄さん、そしてこの立派な妹さんのことをお聞きして感泣する。この日、岩脇さんと戦闘指揮所へ行く。

昭和二十年四月二日
今日出撃とのこと、横田少尉殿、襦袢のホックを付けてくれとお願いされ一人兵舎に行くのもなんだが恥かしく森さんと二人で行く。晴れの門出と言うので横多少尉殿、チョビ髭をきれいにそっていらっしゃる。
午後三時半出撃 日の丸の旗を打ち振ってお送りしたが宮崎少尉がすぐ引返して着陸なさる。続いて大櫃中尉機、次々へと。宮崎機は「ウ、、、」と調子が悪く火を吐きそうになった。残念だったが、自分一人ならそのまま行くのだが整備兵を乗せていたので引き返していらっしゃったとのこと。隊長機は左右大へん振動がはげしく、福家機は爆弾を落としてしまい、後藤機故障でゆかれずして今日は隊長さん二度とも出撃出来得ず兵舎で一人歯ぎしりしていらっしゃった。
兵舎でみんなして特攻隊の方々と唄をうたう。「夕日は落ちて」「校歌」。宮崎少尉さんより哲学のお話をおききしたけれども、よくのみこめないで頭がぼうっとなる。
敵が上陸したらどうするかとという話を承る。私達も立派にお兄様方の後につづき日本の女性のということを忘れず一人でも殺して死ぬつもりです。自分達は敵艦もろともなくなられる身ながら朗らかに談笑され、それに私達の将来のことまで心配され、いたずらに死んではいけないとさとされ、私達は只々頭が下がるのみだった。

昭和二十年四月三日
今日は四回目の出撃、まさに四時であった。最後の基地知覧を後に大櫃機以下十機は遠い遠い南へと飛び去っていった。只一人病床にある河崎伍長さんを残して。出撃前、飛行機の擬装をとってあげると「こんなにお手々きたくなるよ」と今井さん。皮のよごれた手袋を見せなさる。無理にお願いしてとってあげる。
横尾伍長さんたいへん喜んで「後に何も思い残すことはないが、只一つ病床に残した河崎のことが気にかかる」と。そうでしょう、横尾さんと河崎さんとは本当に睦まじい戦友だったんですもの。自分は今日とは知れぬ身ながら病気の戦友を思いやる横尾さん実に立派な方だと思う。
部下の骨を背に出撃なさった隊長さんと言い、チョビ髭の横田少尉さんと言い、私達を妹の如く、また子の如くかわいがって下さったし私達は本当に幸福だったと思う。岩間さんの書置、何も出来得なかった私共にこんなにまでにお礼の言葉を戴いたと思うと有難さで胸が一杯だった。
私達は只三十振武隊の方々が無事敵艦に体当たりなさって立派に御大任をお果たしにならんことをお祈りするのみです。

昭和二十年四月四日
病気の河崎さんと整備の方々だけでひっそりと兵舎はしていた。昨日まではああだった、こうだった、とみんなで兵舎での思い出を繰り返す。河崎さんの看病のかたわらちょっと警備中隊へ布団を取りに行く。新聞記者に捕まり特攻隊につかえての感想、覚悟等話す。幾人もの新聞記者に取り巻かれほとほとした。

昭和二十年四月五日
特攻の方がいらっしゃらぬので整備の方々のお洗濯をこちらからお願いしてやってあげる。終日飛行機と取り組み疲れていらっしゃるでしょうと慰めてあげる。特攻機を無事に故障なく飛ばすのは整備の方なのだ。私達はこの御苦労をおさっしして毎日でもお洗濯をしてあげなくてはと思った。

昭和二十年四月六日
自分が整備された愛機はもう体当たりしただろう、「今日は隊長殿の命日としてみんなで拝もう」と整備の方がおっしゃって森さんと私、たばこを一本もらってバラバラにして火にお香がわりにたいて拝む。遥か南の方へ----ニ、三日前までは元気でいらっしゃった方々が今は敵艦へ体当たりなさってこの世へはいらっしゃらぬのだと思うと仕事も手がつかず食事の準備をしただけ。
整備の方の吹く尺八をきいていると二十振武隊の方々が洗濯物をおたのみになる。初めからの受持ちだったのだが、兵舎が離れていて飛行機故障で残られた方が三人なので行きにくい。ついでに靴下のつくろいをと穴沢少尉さん三足おたのみになる。他の方が「自分のものも」と言ってつくろい物で午後からは精一杯だった。

1945年4月6日の沖縄特攻作戦

写真(左):護衛駆逐艦「ウイッター」DE-636 USS Witter;1945年4月6日に特攻機の命中により大破。Anchored off Okinawa May 1945 After being hit by "Kamikaze" on 6 April 1945. Buckley class Destroyer Escort: 排水量: 1,673 tons、全長: 306'、全幅: 36'10" 、深さ: 13'6"
速度: 23 knots、兵装:3インチ50口径砲3門、1x2 40mm, 4x1 40mm, 10× 20mm, 爆雷投射軌条2本,投射機 8基。21インチ魚雷三連装発射管1基。乗員: 15 officers, 198 enlisted Turbo-electric drive, twin screws, 1万2,000馬力。
写真(右):立川キ-36九八式直接協力機(九八直協);低速偵察機が「誠」飛行隊の特攻機として使用された。最高速度340km、爆弾搭載量250kg。知覧特攻平和館の特攻隊員の描いた九八直協が印象的である。自分の乗る特攻機は旧式、低速の棺桶だが、絵は、航空機の機能美を描き、勇壮でもある。1945年4月6日、陸軍特攻誠第36/37/38の各飛行隊の九八式直協(合計26機)が新田原を出撃。


丸木政臣「沖縄無残なり」に次の記述がある。
4月6日。知覧の第二次特攻総攻撃の日。松田中尉が汚名挽回の出撃をしたとき。通信隊は沖縄アメリカ艦船間の無線の交信を傍受。
通信隊情報係将校が通信用紙に「〇六四五 北西、怪物接近中、自殺機命中、火災発生、マタ爆発」「〇六五三 バーネット右舷ニ自殺機、曳キ船タノム、慶良間ニ向ウ」などと書きこんでは作戦参謀に渡す。

写真(右):米駆逐艦「ブッシュ」USS BUSH (DD 529);1945年4月6日特攻機が命中。特攻機の燃料が引火して,大火災。

U.S.S. BUSH(DD529)S-E-C-R-E-T ACTION REPORT(駆逐艦「ブッシュ」戦闘報告)を要約すると次のようになる。
4月6日1700, 2機の九九式艦上爆撃機"Vals"が米駆逐艦「ブッシュ」攻撃した。40mm対空機銃が火を噴いたが,特攻機は駆逐艦「ブッシュ」の3-4マイル先の「コルフン」の周囲を回ってから,「コルフン」に降下し,命中した。当時,15-20機が視界の中に見えた。1715に3機の敵機(零戦)が10マイル先で雲に入ったり,出たりして周回していた。1725に3機のうち1機が太陽を背にして「ブッシュ」に突っ込んできた。艦の前部にある40mm対空機銃で攻撃したが,ジャップの左翼が艦中部を横切って,1730に艦に命中した。大火災となり,艦はほぼ真っ二つに引き裂けそうになった。こうして艦の前後を行き来することは不可能になった。


写真:1945年4月6日に特攻機に撃沈、「殺された」駆逐艦「ブッシュ」乗員アルバート・ブロディAlbert Brody ;アルバートは、三番目の敵機が向かってきた時に、艦の前部戦闘指揮所にいた。努力にもかかわらず、アルバートは艦と命をともにした。その艦に向かっていった最後の言葉 "Thanks for trying to help me, fellows."
写真(右):ポール・トレ−ラPaul Trella(18歳);Seaman Trella was killed in action on April 6, 1945 with the sinking of DD-529 by Japanese suicide planes during the Battle for Okinawa. 87名が駆逐艦「ブッシュ」で命を失ったが、ポールは、遺体が発見、回収された12名の一人である。特攻隊たちは、彼らを殺すことを意識していたのか。それとも、敵の若者が死ぬことを想像する特攻隊員など皆無だったのか。


 1730の特攻機命中から10-15分後,3機のうち2番目の特攻機(零戦)が急降下,「ブッシュ」甲板に激突。20mm機銃と40mm機銃で応戦し,命中弾を与えたが,そのまま突っ込んだ。さらに別の1機が,1745に艦前部に命中、大火災。艦内に運ばれていた負傷者も焼死。

1945年4月7日特攻で戦死した空母「ハンコック」の戦死者の海葬(1945年4月9日):Casualties are buried at sea on 9 April 1945. They were killed when Hancock was hit by a "Kamikaze" while operating off Okinawa on 7 April.

知覧高女三年 前田笙子(15歳:勤労女子学生として特攻隊員に奉仕)の日記(『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」引用の続き

昭和二十年四月七日
今朝、食事の用意をしていると、どうも見馴れぬ方が四、五人あちこちなさるので「食事の準備ができました」と言って行くと、新しい方々だけだったので人違いをして恥をかく。少尉の方だけで、隊長さんが陸士出身、実に立派な無口でしっかりしたお方の様で「今度きた方みんなお年を召した方だけね、あんな年を召した方でも特攻隊なんでしょうか」とささやいたぐらい。みんな髭の濃い、年を召した様な感じだった。ひっそりした兵舎も又賑やかになる。

昭和二十年四月八日
本島さん、椿とつつじの花をくださる。今頃つつじの花がと皆で珍しがって松の木にさす。これが枯れたら本島さんが出撃なさって体当たりなさったときよと話し合ってさす。渡井さんより静岡の女学校で戴いたというマスコットを戴く。
穴沢少尉さん曰く、「何時も貴方達は俺達の兵舎へきてくれぬ。何故だ。洗濯物だってあるんだよ」と連れて行かれる。行ってみると何んの用事なしでポカンとなった。大平少尉さん、穴沢少尉さんのお話に答えるだけ。雨が降っていて洗濯にいったままの姿できてしまったのでみんな素足、さんざん冷やかされて兵舎を飛び出す。

昭和二十年四月九日
今日はお洗濯、お掃除をして兵舎へ用ききに行く。河崎さんも近頃よくなって兵舎の外へも出られる様になった。洗濯のついでに整備の方の魚取りを見に行く。小泉さんと河崎さん土手から川へすってんころりん。危うくぬれねずみになるところを木元さんが抱きとめる。
電気で水中に火花をちらして取るのだそうでピチピチ筒先から火花をちらすと一匹魚がぷっと白い腹をみせて浮かんだ。電熱が弱いため駄目で全部魚は逃げてしまった。福家兵長さんの妹さんへ最後を書いて出す。

1945年4月11日,米戦艦「ミズーリ」に特攻する零式艦上戦闘機:零戦は、この後、海中に落下、甲板に軽い損傷を受けただけですんだ。40mm四連装対空機銃には特攻機の残骸がのこっていた。このような高速戦艦は空母の護衛任務、低速旧式戦艦は上陸部隊への支援射撃を担当。戦艦「ミズーリ」で1945年9月3日、太平洋戦争における連合軍への日本降伏調印式。

昭和二十年四月十一日
晩、二十振武隊、六十九振武隊、三十振武隊のお別れの会が食堂であった。----みんな一緒に「空から轟沈」の歌をうたふ。ありったけの声でうたったつもりだったが何故か声がつまって涙があふれ出てきた。森要子さんと「出ませう」と兵舎の外に出て、思ふ存分、泣いた。私たちの涙は決して未練の涙ではなかったのです。明日は敵艦もろともになくなられる身ながら、今夜はにっこりと笑って、酔って戯れていらっしゃる姿を拝見して、ああ、これでこそ日本は強いのだと、あまりにも嬉しく有難い涙だったのです。それなのに、私たちが帰るとき「お世話になった、ありがたう」とお礼をいはれた。なんと立派な方々ばかりでせう。森さんと抱きあって、また、泣いてしまった。

昭和二十年四月十二日
----隊長さんは私たちを[プロペラを回転させエンジンをかける]始動車にのせて、戦闘指揮所まで送ってくださった。出撃なさる直前のあわただしい最中なのに、どこまでやさしい隊長さんでせう。始動車の上から振り返ると、特攻機の、桜の花にうづまった操縦席から手をふっていらっしゃる。-----離陸する二十振武隊の穴沢少尉さんの隼機が、目の前を地上滑走して出発線に向ってゆく。私たちが一生懸命にお別れの桜の枝を振ると、にっこり笑った八巻姿の穴沢さんが、何回も敬礼された。----特攻機が全部飛びたったあと、私たちはぼんやりと、いつまでも南の空を見上げてゐた。涙が、いつかあふれ出てゐた。抱きあって、しゃがみこみ、みんなで泣いた。 (日記の引用終わり)

写真(右):1945年4月12日、知覧を出撃する第20振武隊のキ43一式戦 鹿児島県知覧基地には、知覧高等女学校三年生が桜の枝を振って、特攻隊の出撃を見送る。搭乗するのは第20振武隊の隊長穴沢利夫少尉(23歳)と思われる。遺書には、婚約者に宛てて「今更何を言うか、と自分でも考えるが、ちょっぴり慾を言ってみたい」として、1.読みたい本、2.観たい画、3.智恵子(婚約者)「会いたい。話したい。無性に。」とあった。(靖国神社編(1994)『いざさらば 我はみくにの 山桜』pp.67-68参照)この写真の桜の枝を取ったとき、出撃撮影の様子は、 『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」前川笙子の日記に出ている。遺書は、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会ホームページ参照。

『特攻』第28号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」に、特攻隊員の手紙(鳥濱トメ次女鳥浜礼子宛て)が記載されている。

「前略
礼子さん、度々無理なお願いお許しください。---
知覧の事は自分の短い一生ですがいい思い出になります。礼子さんの贈り物は自分の最后を見届けて呉れると思います。飛行機に乗るのは一人ですが自分の心には真心を乗せて征きます。薩摩乙女の奉仕を受けて散る私たちは幸福なのかもしれません。今の私達には親兄弟の事も無く唯敵撃滅の燃えるような心のみです。
礼子さんのお手紙に依り銃後の事は安心です。戦をするものにとって銃後の事ほど心に掛かる事はないと思います。
自分も安心して死ねます。
いざ征かん愛機とともに散華まで
---だが決して死を早まらんつもりです。任務を完遂するまでは断じてやります御安心ください。
最後に礼子さんの将来の幸福と御健康をお祈りすると共に無理なお願い何卒お許しください。
   [西庄]三郎拝[1945年5月4日戦死]


兵庫県立柏原女学校の軍事演習
:『兵庫県立柏原高等学校 創立百年記念誌』引用。1943年撮影。銃後の士気を引締めのため,女子学生も分列行進や小銃射撃訓練をした。1944年以降,徹底した勤労奉仕が求められ,学業を省みる余裕がなくなった。戦争協力について、歴史と伝統ある学校の『校史』は触れない傾向がある。その中にあって、戦時中の活動も明らかにしたことは高く評価できる。
兵庫県立柏原高等女学校沿革
明治35. 5  柏原町立崇廣尋常高等小学校内に女子補習科設置
〃 36. 4  柏原町立柏原女学校設置 12日開校式
〃 41. 4  氷上郡立柏原高等女学校と改称
大正 3. 3  氷上郡立実科高等女学校と改称
〃 11. 4  兵庫県立柏原高等女学校に設立変更
昭和19. 9  学徒勤労動員、尼崎甲陽製作所成松工場へ出動
〃 23. 4  高等学校に昇格 兵庫県立氷上高等学校と改称
〃 23. 9  柏原高等学校と合併


写真右:1942年8月、PBYカタリナ飛行艇の整備点検を指示する女子整備員。日本の勤労女子学生は、工場、農地などで働いたが、兵器の整備のような専門的な仕事には従事しさせられなかった。しかし、米国では婦人部隊として、航空輸送搭乗員、航空機整備員などが要請、採用された。

知覧高等女学校教諭の特攻隊遺族への手紙は、次のように述べている。

「沖縄が危うくなって参りました今日、本土の最南端のこの地が基地となりまして、私共生徒をつれて特攻の方々の御世話に参って居たのでございますが、その折前田少尉殿も三月二十八日この地に御着陸なさり、四月三日晴れの御征途に御つきになりました。

出発前日の夜、久し振りで最後の蒲団の上に寝せて頂こうかなとあばら屋に御泊り下さいました。ここの[知覧]基地は、野戦そのもので、安全で空襲よけの三角兵舎の実に粗末な所なのです。私共神様のお泊り下さるとの事、何のおもてなしも出来ませんでしたが、真心で御満足願う事でした。

----もう最後だという時、父を呼んだが何も知らぬ父を見て、だんだん老いゆく父を見て、自分は特攻隊でゆくのだという事はどうしても言う事が出来なかった。風呂に入って背をこすって上げ乍ら、やせた肩を見ては口に出して云えるものではなかった。然し今頃は遺品が帰ってくるから、それと悟っていてくれる事だろう等云って御写真等拝見させて頂きました。

又部下思いで、俺は嫁等貰おうとはしなかったが、部下の者には一週間ずつの暇をあたえて嫁探しに帰らせたよ等、面白い中にも情のこもった事をおっしゃる方でした。----

一つ一つの御話しを聞いて居りますと、ほんとに神様の御心に自分も仲間入りさせて頂ける位な有難い感じが致しました。明日はやるぞ、午後六時頃だ、一機一艦轟沈だ。轟沈させた途端はドンピシャリ太平洋の鱶の餌だ。明後日頃の魚は少し人間臭いぞ等淡々たるものでした。六時が来たら線香でも灯して下さいと云って出てゆかれましたが、ほんとになんと御答えの言葉も見つかりませんでした。 ----

◆広島県呉第一高女の勤労女学生たちは、人間魚雷「回天」の特攻隊員たちと接し、血染めの鉢巻を贈った。

<高等女学校(wikipedia引用)>
1872年(明治5年)公布の学制では、官立女学校の入学資格は「小学校卒業の女子で年齢14歳以上」の者で、修業年限は6年である。1883年(明治15年)、東京女子師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)が開校し、「高女」が制度化された。付属高等女学校の修業年限は下等3年、上等2年と定めた。入学資格は「小学校6年次の修了以上の学力がある者」と規定され、男子の旧制中学に相当する教育機関となった。

1891年「中学校令」改正によって、高等女学校は尋常中学校とされた。1895年に「高等女学校規程」で、修業年限を6年、入学資格を「修業年限4年の尋常小学校を卒業した者」と定めた。高等女学校には、女子固有の科目として裁縫など家政を学ぶ「技芸専修科」の設置を認めた。


写真(上左):新発田高等女学校の校舎写真(上右):岩船郡立村上実科高等女学校裁縫室;2枚とも新潟県立歴史博物館笹川勇吉氏旧蔵絵はがきコレクション引用。

「高等女学校令」は、1908年改定で、修業年限を4-5年、入学資格を12歳以上、尋常小学校卒とした。これで、旧制中学と同等の制度となった。修了後の課程として「専攻科」「補習科」が設置され、高等学校(大学予科)に相当する教育機関となった。1911年「実科」を設置し、実科高等女学校は、尋常小学校卒対象で4年、高等小学校1年次修了で3年、同2年次修了で2年とした。1920年、高等女学校令の改定で、道府県に限定されていた公立の高等女学校の設置権限を、市町村学校組合においても許可した。

1943年「中等学校令」公布とともに「高等女学校規程」が制定。修業年限は4年を上限とし、「補習科」課程の廃止、国民学校高等科卒を入学資格とする2年制の高等女学校の設置、「実科高女」の名称廃止のうえ高女に一本化。戦時勤労動員・国家総動員への順応が進んだ。(wikipedia引用)

写真(右):伊53潜で出撃する「回天」多聞隊;1945年7月14日に発進した伊53潜には7月24日、米駆逐艦「アンダーヒル」を体当たり撃沈した勝山淳中尉(海兵73期)も乗艦している。これら隊員たちの締めた鉢巻が,勤労女子学徒の手になる「血染めの鉢巻」と思われる。

人間魚雷「回天」搭乗員の勝山少佐は、大津島で通信隊の担当。呉へ出かけた時に,呉第一高女の女学生が血書で「日の丸」を書いた鉢巻と写真を、大津島回天隊の海兵同期全員に貰ってきてくれた。

勝山淳海軍少佐に贈られた血染の鉢巻は,「回天」の部品製造にあった呉第一高女生たちが作った。勤労動員された女学生たちは、呉海軍工廠水雷部操舵機工場で働いていた。その体験談が載っている。

「マルロク(回天)の仕事にも大分なれたころ、五人の中のだれの発案だったのか、ある案が示されたのです。みんな賛成して次の日曜日にTさんの家に集まってそのことを実行しました。そのある案とは、本当に純粋な乙女の願いとして、回天の突撃が成功しますようにと血染めの鉢巻を作ることでした。
物資の統制下のこととて新しい布はなく、私は母に昔の着物の袖裏の白いもみの布をもらい、それで丁寧に鉢巻を縫いました。鉢巻の中心に日の丸を血で染めました。自分で自分の小指を剃刀で切って、したたり出た血で丸く布を染めて日の丸にしたのです。
自分の血で染めた鉢巻は、自分が調整した操舵機を操縦して出撃する搭乗員にしめてもらうように指導員を通じて送りました。
」(引用終わり)

人間魚雷「回天」操舵工場に勤労動員されていた呉第一高女の学生たちから「回天」搭乗員に贈られた血染めの鉢巻:受け取った峯眞佐雄氏は,搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に[血染めの鉢巻を]出せなかった」。大切に保管されていた血染めの鉢巻が,2002年に、回天記念館に寄贈された。

保存されていた血染の鉢巻の寄書
峯少尉 「日の丸」赤心 祈御成功
広島県呉第一高女 四年い組
見もやせぬ君のみすがた 目にうかべ 神々しさに頭さがりぬ  紀美子
一発必中  泰子
萬朶の花と咲き咲かん  典子
轟沈  登美子
生ける志るしあり  芳恵
誠心  千代子
萬古仰天皇  和子
昭和二十年一月二十一日
呉海軍工廠水雷部 縦舵機工場調整班 動員学徒佐光登美子


平成16年9月2日中國新聞に記載された血染の鉢巻の保存の経緯は,次のとおり。
体当たりで敵艦を攻撃した人間魚雷「回天」に乗り込む寸前に終戦を迎えた、千葉県本埜村の峯眞佐雄さん(80歳)が、当時の女学生から受け取った血染めの鉢巻きを、周南市大津島の回天記念館に寄贈した。

峯さんは1945年8月、出撃を控えて千葉県大原町に移動。しかし、搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に出せなかった」。
峯さんは毎年11月、回天の遺族らが大津島で開く慰霊祭に参列。偶然、鉢巻きが話題になり、遺族からも寄贈を勧められて「当時の状況を考えてもらえるなら」と決めた。長男の会社員峯一央さん(48)から鉢巻きを受け取った、記念館の小川宣館長(74)は「多くの人を巻き込んだ戦争だったことを示す証拠。大切に展示したい」と話している。(引用終わり)



写真(上):1942-43年の米国の女性工場労働者米国航空機生産計画によると,生産数は1957機(前月実数1811機)で,これは英国の生産数1688機,カナダの生産数98機を上回る。外国への供与予定機数は,ロシア275機,オーストラリア106機,インド40機。写真(下右):1943年10月カリフォルニアのコンソリデーテット社航空機工場で働く米人女性労働者。

1944年に米国は,14万機の航空機を製造。航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。日本で学徒勤労動員された女子と間接的に殺しあうことになった。双方とも祖国,家族を守ることを大義名分にしていた。

  写真(右):1945年5月28日,ビルマのラングーンで解放されたグッド・シュエパード修道会の13名のアイルランド人修道女:日本軍はラングーン占領当初,修道女たちを拘束したが,のちに中立を守ることを約束させて釈放している。"The Fighting Irish," Good Shepherd Convent. Thirteen Irish nuns who had been interned in the Rangoon City Jail by the Japanese, but were later released as neutrals. Burma, May 28, 1945.: アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

故勝山 淳海軍少佐「最後の書簡」 
 拝啓、御両親様はじめ皆様益々御元気に御過しの事と拝察致し居り候。
降て不肖淳相変らず頑健、一意専心本務に邁進致し居り候間、御休心遊ばされ度く候。
戦局正に逼迫、真に神国興廃の決す秋、不肖、唯不撓の精神、旺盛なる体力、体得せる技を以って醜敵を撃滅致し、大御心を安んじ奉らんと期し居り候。右取急ぎ一筆相認め候。
末筆乍ら皆様の御健康を祈り上げ候。
                   敬具
                   淳拝

◆第二次世界大戦中、アメリカでもドイツでも、若い女性を軍務に起用した。例えば、アメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)やドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinnen)は、事実上、正規の兵士と同様の勤務で、装備も正式なものだった。日本人の知覧高女のような軍務の勤労奉仕は、不正規扱いで、アメリカのWAVESやドイツの防空補助員よりも装備や待遇は劣悪だった。

写真(右):1939年、ドイツ西部、敵機の防空監視の任務に就いたドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:記念写真に応じて、笑顔を見せて、並んでいる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7758-11A Archive title: Westdeutschland.- Gruppenbild von Flakhelferinnen; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1939 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7758-10A引用。


ドイツ空軍は、1935年の創設時から女性を事務員、電話交換手、食事など後方勤務に補助員として勤務させていた。これは正規雇用として、給与の支払いを伴うから。日本の高等女学校の生徒を利用する勤労奉仕とは異なっている。知覧高等女学校の生徒は、陸軍知覧基地に展開する特攻隊員たちの衣類の洗濯、宿舎の掃除など身の回りの世話を無償で行ったが、ドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)は、防空監視のための部隊に配属され、そこで対空監視用双眼鏡、光学兵器、音響兵器などを操作して、国防任務に就いた。

写真(右):1940年後半、フランス降伏後のパリに進駐したドイツ空軍の通信補助員(Nachrichtenhelferinnen)が女性兵士の制服で更新している。1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、撤退しなかったために、9月3日、フランスはイギリスとともにドイツに宣戦布告した。しかし、ドイツ西部では、フランス軍は攻勢に出ることなく、両軍が大事したまま「座り込み戦争」が続いた。ドイツは、当方攻撃に集中しており、西部戦線では守勢を守ったのである。しかし、ポーランドをソ連と分割し、東部戦線が安定すると、西部戦線の攻勢をはじめる機会を狙っていた
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-768-0147-19 Old signature: Bild 183-L22723 Original title: info Scherl Frankreich.- Im besetzten Frankreich: Weibliche deutsche Nachrichtenformation in Paris; OKW PK- Friedrich Scherl Bilderdienst 1694-41 "Fr.OKW" Aug. 1940 Archive title: Frankreich, Paris.- Kolonnen marschierender Nachrichtenhelferinnen auf einer Straße; PK OKW Dating: August 1940 Photographer: Friedrich
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-768-0147-19引用。


写真(右):1940年後半、フランス降伏後のパリに進駐したドイツ空軍の通信補助員(Nachrichtenhelferinnen)が女性兵士の制服で更新している。秘匿作戦「黄色の事例」に基づいて、ドイツ軍は、ベルギーに侵攻するB軍集団、アルデンヌ森林地帯を突破して攻勢をかける装甲部隊中心のA軍集団に分かれ、1940年5月10日一斉に攻撃を開始した。ドイツ軍は、英仏連合軍をダンケルクに包囲し、フランス6月10日にはパリを無防備都市と宣言して放棄し、ボルドーに政府を移転した。6月14日、ドイツはパリに無血入城、6月21日、フィリップ・ペタンを首班とするフランスは、降伏した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-768-0147-20 Archive title: Frankreich, Paris.- Kolonnen marschierender Nachrichtenhelferinnen auf einer Straße; PK OKW Dating: August 1940 Photographer: Friedrich Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-768-0147-20引用。


写真(右):1940年、ルーマニア国境、ベッサラビア(ベラルーシ)、ドイツ外地に住むドイツ系住民・民族ドイツ人の婦人・少女からなる特別補助部隊を編成した。:1941年6月に、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が始まると、外地に住むドイツ系住民・民族ドイツ人の中でも、若い男性は、武装親衛隊に志願したり、半強制的に徴兵されたりして、前線兵士として戦うようになる。
Inventory: Bild 137 - Deutsches Ausland-Institut Signature: Bild 137-071179 Original title: info Bessarabien Umsiedlung. Volksdt. Frauen und Mädchne im Einsatz bei der Umsiedlung 1940 L. Purper durch Museum Orig. Liselotte Purper, Berlin / Charlottenburg Umsiedlung im Südosten, Ausstellung der Reichsfrauenschaft Stuttgart, Oktober 1941 Dating: 1940 Photographer: Purper, Liselotte Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1940-1941年、フランス南西、スペイン国境、サン=ジャン=ド=リュズの海岸、ドイツ軍の砲兵部隊将校・下士官(軍曹)とドイツ空軍の野戦通信補助員(Luftwaffenhelferin):フランス降伏後、会館のリゾート地に休暇で訪問したようで、寛いでいる。
Inventory: Bild 234 - Nachlass Helmuth Schütze Signature: Bild 234-06 Original title: info Frankreich 41 - Russland 42 11./212/216 Archive title: Frankreich, Saint-Jean-de-Luz.- Gruppenbild auf der Strandpromenade. V.l.n.r.: Artillerieoffizier , weibliche Angehörige der Wehrmacht / Luftwaffenhelferin, Feldwebel (?) mit Orden und Ärmelstreifen (für Dienststellung Hauptfeldwebel) auf Mauer sitzend Dating: 1940/1941 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1942年5月、ドイツ西部戦線、フランス、空軍の野戦司令部で長距離無線電話を操作するドイツ空軍の通信補助員(Nachrichtenhelferinnen):敵機の位置・進行方向、気象条件を把握し、記帳して、その情報を指揮官に伝える。補助員たちは、イヤホーンの付いたレシバートと付けている。左腕にある記章は、電磁波の飛び散る様子を示した通信隊のもの。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-616-2524-08A Archive title: Im Westen, Frankreich.- Feldwebel der Luftwaffe und drei Wehrmachtshelferinnen im Freien an Funkgerät; KBK Lw zbV Dating: Mai 1942 Photographer: Zwirner Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1942年、ドイツ西部戦線、フランス、空軍の司令部で長距離無線電話を操作するドイツ空軍通信兵が受話器を通じて出す指示を書き取る女子通信事務補助員(Nachrichtenhelferinnen):敵機の位置・進行方向、気象条件を把握した指揮官が相手に情報を伝え、支持を出す。それを確認のため筆記するのが女子通信補助員の役目だったようだ。通信機の上奥にも、もう一つの受話器が置いてある。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-615-2499-11 Archive title: Frankreich.- Offizier und Nachrichtenhelferin in einer Funkstelle / Nachrichtenstelle; KBK Lw zbV Dating: 1942 Photographer: Lysiak, Bruno Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1942/1943年、フランス、パリ、ドイツ空軍の飛行管制センター(Flugleitstelle)に勤務するドイツ空軍女性補助員(Luftwaffenhelferinnen)たちがタイプライターで作業している。英文タイプライターは、19世紀からQWERTY(クウォーティー)配列が一般的で、タイプの文字版(キーボード)最上段が、左からQ,W,E,R,T,Yの順番で並んでいる。これは、文字使用頻度や両手を使って文字を早く打つ、すなわち打鍵速度を上げるために勧化出され定着したもの。しかし、ドイツ語の場合は、英語と異なりQWERTZ配列になり、フランス語の場合はAZERTY(アザーティ)配列 が慣例。他方、日本では、ひらがな、カタカナだけでは文章が通りにくいので、幹事を混用する和文タイプが生まれた。但し、これは文字探し・植字に時間がかかり、聞き取ってすぐに文章化することはできない。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-356-1817-18A Archive title: Frankreich, Paris.- Flugleitstelle. Luftwaffenhelferinnen im Einsatz; KBK Lw 3 Dating: 1942/1943 Photographer: Speck Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-356-1817-18A引用。


写真(右):1942/1943年、フランス、パリ、ドイツ空軍の飛行管制センター(Flugleitstelle)に勤務するドイツ空軍女性補助員(Luftwaffenhelferinnen):通信機には、無線電話、有線電話、送受信機、テレタイプ通信など様々だが、日本軍の使用した通信機、特に小型通信機は、信頼性、性能の安定性がなかったようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-356-1817-11A Archive title: Frankreich, Paris.- Flugleitstelle. Nachrichten-Helferinnen (?) im Einsatz; KBK Lw 3 Dating: 1942/1943 Photographer: Speck Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-356-1817-11A引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:飛行機のエンジン音を巨大聴診器で、方向、角度、大きさを聞き分ける。水平方向、垂直方向の各々に聴音機が向いており、水平方向と上下角度が計測できる。ただし、1気圧の下で音速は1秒間に340メートルなので、飛行機のエンジン音が届いたときには、すでに飛行機は移動しているため、正確な距離や方向を探知することはできなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-09 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferinnen und Soldaten am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-09 引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:飛行機のエンジン音を著大な聴診器で、方向、角度、大きさを聞き分ける。水平方向、垂直方向の各々に聴音機が向いており、水平方向と上下角度が計測できる。ただし、1気圧の下で音速は1秒間に340メートルなので、飛行機のエンジン音が届いたときには、すでに飛行機は移動しているため、正確な距離や方向を探知することはできなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-18 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferin am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-18引用。


1939年9月に、第二次世界大戦が勃発すると、ドイツでは、第一線に派遣される男性兵士が増加し、後方勤務を女性補助員で代替する傾向が強まった。こうして、戦争の拡大とともに、ドイツ軍の女性補助員は増加し、従来は男性兵士が勤務していた対空監視、防空警報、高射砲・高射機関砲など、後方とは言え、戦闘部隊に配備された。つまり、空襲から軍事施設、工場、交通機関、都市などを防空するための、戦闘部隊への配属が始まったのである。

1943年に入ると、イギリス本土や地中海の航空基地を飛び立ったアメリカ陸軍航空隊、イギリス空軍の爆撃機が、ドイツ本土を大規模に空襲し恥前田。アメリカはボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機・コンソリデーデットB-24リベレーター爆撃機がドイツの軍事施設や工場を昼間空襲し、イギリスのァブロ・ランカスター重爆撃機が都市を夜間空襲した。これら大型四発重爆撃機は、時には、援護の戦闘機を引き連れてくることもあったが、当時は全行程を援護できる長距離飛行可能な戦闘機はなかったため、ドイツ空軍は、援護戦闘機か帰還した爆撃機編隊を迎撃した。しかし、ドイツ本土の産業中枢、軍事施設への大規模空襲は、軍需工場の生産能力を減退させ、ドイツの国力は、弱体化するようになった。


写真(上左):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-10 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferinnen und Soldat am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-10引用。
写真(上右):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-11 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferinnen und Soldat am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-10引用。

写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯の脇に整列したドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:第一次大戦で、夜間爆撃が始まると、夜間上空を飛行する敵機を捜索する対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)が採用された。これは、夜間上空を強力な光線で照らす照明器具で、(左右に回天、上下に仰角を取ることができる投光器で、敵機を直接照射する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-29 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-29引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯の脇に整列したドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:第一次大戦で、夜間爆撃が始まると、夜間上空を飛行する敵機を捜索する対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)が採用された。これは、夜間上空を強力な光線で照らす照明器具で、(左右に回天、上下に仰角を取ることができる投光器で、敵機を直接照射する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-30 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-30 引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯を操作するドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:探照灯を水平方向に旋回させるには、梃子の原理を使って長い支柱を地表に平行に回転させる。探照灯の角度を上下させ、仰角を取るには、歯車を利用する回転ハンドルを回す。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-25 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7758-10A引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯の操作説明を受けるドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:ドイツ軍は対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)をシャインヴェルファー(Scheinwerfer)と呼んだが、これは日本でいう自動車のヘッドライトと同じ意味である。対空用サーチライトは、日本では陸軍は照空燈(しょうくうとう)と呼称し、海軍は探照燈(たんしょうとう)と呼称した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7758-10A Archive title: Westdeutschland.- Soldat mit Flakhelferinnen bei Erklärung eines Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7758-10A引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯のカバーガラスを外して磨き上げ、再び探照灯に装着するドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:ドイツ軍は対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)をシャインヴェルファー(Scheinwerfer)と呼んだが、これは日本でいう自動車のヘッドライトと同じ意味である。対空用サーチライトは、日本では陸軍は照空燈(しょうくうとう)と呼称し、海軍は探照燈(たんしょうとう)と呼称した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-11 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-11 引用。



写真(上左):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯のカバーを装着するドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7798-04 Archive title: [Reichsgebiet].- Flakhelferinnen bei Demontage / Montage / Reparatur eines Teiles von einem Flak-Scheinwerfer; Eins.Kp. Lw zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7798-04 引用。
写真(上右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を探す対空双眼鏡(Flakrichtgerät )配置のドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7798-33 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferin am Flakfernrohr; Eins Kp Lw zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-10引用。

写真(右):1943/1944年、ドイツ、飛行機を探す対空双眼鏡(Flakrichtgerät )の配置についたドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:日本海軍には、水平見張用双眼望遠鏡の口径は、8cmから18cmまで、対空見張用双眼望遠鏡の口径は6cmから12cmまでがあった。高角双眼望遠鏡は、俯視角は20度から70度である。太平洋戦争中に対空監視に活躍した日本軍の十二糎高角双眼望遠鏡は、口径12cm、倍率20倍、視界3度の45度対空双眼鏡で、光学兵器として生産された。野外で使用するために、堅牢かつ防水であり、海軍艦艇でも対空監視用のために艦橋に配備された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-677-8040-06A Archive title: Reichsgebiet.- Flakhelferinnen am Flakrichtgerät 40 A; PK Eins. Kp. Lw zbV Dating: 1944 Photographer: Linden Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-677-8040-06A 引用。


写真(右):フランス(?)、ドイツ空軍夜間戦闘機を誘導する戦闘管制室で働くイヤホーンレシーバーとマイクをつけたドイツ空軍将兵とドイツ空軍の補助員(Helferinnen)の女性管制官:敵爆撃機をレーダーと地上監視哨の情報で捕らえ、そこにドイツ空軍の夜間戦闘機を無線誘導し、会敵、迎撃させる指示をマイクを使って夜間戦闘機搭乗員に伝える。テーブル上のカードで情報を整理する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-680-8274A-15A Archive title: Frankreich?.- Flugleitstelle für Nachtjäger, Luftwaffensoldaten und Helferinnen mit Kopfhörern über Karte auf Tisch gebeugt; PK Einskp Lw zbV Dating: 1944 Photographer: Faupel Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-18引用。


写真(右):1944年、フランス、ドイツ空軍の司令部で長距離電話・調整パネルを扱うドイツ空軍の通信補助員(Nachrichtenhelferinnen)の女性管制官:敵機の位置・進行方向、気象条件を把握し、味方部隊や航空機にその情報を伝える。補助員たちは、イヤホーンの付いたレシバートとマイクを使っている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-615-2486-14A Archive title: Frankreich.- Nachrichtenhelferinnen an Vermittlungspult / Telefonanlage; PK KBK Lw zbV Dating: 1944 Photographer: Eisenhart Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-615-2486-14A 引用。


写真(右):1944年夏、フランス、パリ北方50キロ、グヴュー=シャンティリ、ドイツ空軍のコンクリート壕(ブンカー)式司令部で第II戦闘航空団の管理事務作業の一環として長距離電話の受信装置に聞き耳を立て、伝えられた情報を筆記するドイツ空軍の女子通信補助員(Nachrichtenhelferinnen:signal-communication woman auxiliary ):。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-490-3259-07A Archive title: Frankreich, Gouvieux / Chantilly.- Stark getarnter Bunker der Luftwaffe (Gefechtsstand des II. Jagdkorps) in einem Wald.- Nachrichtenhelferin beim Abh&oauml;ren einer Nachricht (?); PK Lfl 3 Dating: 1944 Sommer Photographer: Güntzel
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-615-2486-14A 引用。


写真(右):1944年夏、フランス、パリ北方50キロ、グヴュー=シャンティリ、ドイツ空軍のコンクリート壕(ブンカー)式司令部で第II戦闘航空団の事務作業の一環としてタイプライターを打つドイツ空軍の女子通信補助員(Nachrichtenhelferinnen:signal-communication woman auxiliary ):敵機の位置・進行方向、気象条件を把握し、味方部隊や航空機にその情報をタイプライターで伝えると、これが自動的にテレックス()として送信される。補助員たちは、イヤホーンの付いたレシバートを使っている。 テレックス(telex)とは、テレプリンター交換機(teleprinter exchange)の省略語で、電話回線で接続した通信装置で、活字を変換して送信し、受信者はそれを受けて、再び文字に変換して活字印刷できる。テレプリンターについている”Triumph”とは、勝利、成功の意味で、商標として相応しい。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-490-3259-03A Archive title: Frankreich, Gouvieux / Chantilly.- Stark getarnter Bunker der Luftwaffe (Gefechtsstand des II. Jagdkorps) in einem Wald.- Nachrichtenhelferin am Funkgerät und Schreibmaschine; PK Lfl. 3 Dating: 1944 Sommer Photographer: Güntzel Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-490-3259-03A 引用。


写真(右):1943年2月、アメリカ、オクラホマ州、ノーマン、アメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の食事風景:金属プレートをプレス器でプレスして、1枚の金属板に幾つかの受け皿が押されている。日本でも戦後もしばらく学校給食の食器はこんな感じのアルマイトプレス食器だった。マグカップに入っているのは、本物のコーヒーであろう。日本の同時代の食事や兵士の待遇と比較すれば、格段に余裕を感じさせるプロパガンダ用カラー写真である。
Title: WAVES trainees at "chow" Description: WAVES trainees at chow At Naval Training Center, Norman, Oklahoma, in February 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-14976.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-14976 WAVES trainees at "chow" 引用。


写真(右):1943年2月11日、アメリカ、カリフォルニア州、トレジャーアイランドの室内射撃訓練場でハイスタンダードモデルB型の試し打ちをするアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち:ハイスタンダードモデルB型は、1941年から製造された口径0.22インチ(5.6 mm)の小型簡易式自動拳銃。口径が小さく小型弾を発射するので、射撃時の反動は小さく、女性でも射撃しやすい。戦時では拳銃は実用性の低い兵器で、実際に敵を倒すためというより、護身用に持っていて安心感を当たり、階級・地位を誇示したり、かっこをつけるための小道具だった。カメラマン撮影用なので、全ての拳銃は空砲で、カタを決めているだけであろう。
Title: WAVES practice marksmanship Description: At an indoor range at Treasure Island Naval Base, California, 11 February 1943. Their pistols are High Standard Model B types. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-40594
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-40594 WAVES practice marksmanship 引用。


写真(右):1943年7月24日、ダグラス・ドーントレス(Dauntless)SBD艦上爆撃機の修理作業に従事するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の航空整備士
ドーントレスSBD艦上爆撃機 Douglas SBD Dauntless)の諸元
乗員:2名
全長:10.08 m (33 ft 1 in)、全幅:12.65 m (41 ft 6 in)、全高:4.14 m (13 ft 7 in)
翼面積:30.19 平方メート
ル (325 平方フィート)
自重:2,905 kg (6,404 lb)
全備重量:4,843 kg (10,676 lb)
動力:ライト R-1820-60 サイクロン 1,200 hp
最高速度:410 km/h (255 mph)
航続距離:773マイル(1243.8 km)
上昇限度:7,780 m (25,530 ft)
兵装:前方固定 12.7ミリ機銃2丁、後方旋回 7.62ミリ連装機銃1基
搭載爆弾:545 kg (1,200 lb)
Description: WAVES Aviation Metalsmiths and Aviation Machinist's Mates (AMM) working on an SBD Dauntless aircraft in the air station's Assembly and Repair Department, 24 July 1943. Working on the wing, at left, are Seaman 1st Class (AMM) Annia Marie Garman and Seaman 1st Class Frances O. Culpepper. On and inside the plane are (left to right) AMM 3rd Class Audrey Anderson, AMM 3rd Class Jane Carlisle, AMM 3rd Class Betty Jo Visson, Seaman 1st Class Mary Jane Boring and Seaman 1st Class (AMM) Clara R. Bumgarner. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-88211 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右):1943年7月24日、ノースアメリカン社SNJ練習機のプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340 ワスプ"Wasp" 星型エンジンを整備作業に従事するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の航空整備士
プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney社)は、アメリカの航空機用エンジンメーカーで機体は製造しておらず、日本の三菱、中島、愛知のような航空機メーカーとは異なる。1925年、プラット・アンド・ホイットニーは、最初のエンジンとしてワスプ(Wasp)を開発、ワスプは425馬力(317kW)を発揮したが、これは当時としては最大出力だった。アメリカ海軍は、喜び、1926年にワスプエンジン200台をプラット・アンド・ホイットニー社に発注した。R-1340 ワスプ空冷星形9気筒エンジンは、排気量21.96L, 馬力は410から600hpに達した。ワスプのシリンダーを若干大型化し高出力化を図ったのが、R-1860 ホーネット 空冷星型9気筒エンジンで、排気量30.48L,馬力は575から860hpに向上している。第二次大戦中の最高峰空冷エンジンがR-2800 ダブルワスプ 空冷二重星型18気筒エンジンで、排気量45.96L, 出力2500hp以上で、P-47 サンダーボルト戦闘機、F4Uコルセア、グラマンF6Fヘルキャット戦闘機などに採用されている。
Description: WAVES Aviation Machinist's Mates (AMM) working on a SNJ training plane and its Pratt & Whitney R-1340 radial engine, circa 24 July 1943. They are (from left to right) Seaman 1st Class (AMM) Inez Waits, Seaman 1st Class (AMM) Lucille H. Henderson, Seaman 1st Class (AMM) Mary Anne Gasser, AMM 3rd Class Helen Adams, and Seaman 1st Class (AMM) Leona Curry. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-88213 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右):1943-1945年、アメリカ南部、フロリダ州ペンサコーラ(Pensacola)、ホワイティング・フィールド(Whiting Field)のアメリカ海軍補助航空基地(Naval Auxiliary Air Station)で、ノースアメリカン社SNJ練習機のプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340 ワスプ"Wasp" 星型エンジンを整備するWAVESの航空整備士;ノースアメリカンT-6/SNJテキサン(陸軍航空隊用)の海軍版がSNJ練習機。1943-45年撮影。
ノースアメリカンT-6 テキサン North American T-6 Texan)練習機の諸元
乗員:2名
全幅:12.80m、全長:8.84m、全高:3.58m
翼面積:23.6平方メートル
自重:1,770kg、総重量:2,340kg
エンジン:P&W R-1340 600 hp (450 kW)
最大速度:338km/h
上昇限度:7,380m
航続距離:1,012km
武装: 0.30インチ(7.62 mm)機銃3丁
総生産機数:15,500機
Title: Naval Auxiliary Air Station, Whiting Field, Pensacola, Florida Description: WAVES aircraft mechanics working on a North American SNJ training plane, circa 1943-45. Note their dungaree uniforms, and the plane's Pratt & Whitney R-1340 Wasp radial engine. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-15003
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-15003 Naval Auxiliary Air Station, Whiting Field, Pensacola, Florida引用。


写真(右):1943-1945年、アメリカ南部、フロリダ州ジャクソンビル、アメリカ海軍婦人部隊WAVESの航空整備士がノースアメリカンSNJ練習機を洗っている。1943年撮影。米海軍婦人部隊WAVESは、軍人扱いされる。しかし、彼女たちが、もしも日本軍に殺害されれば、両親、恋人、友人は、戦争だから仕方がないと諦めるだろうか。日本の将兵が、祖国と家族を守るために、やむを得ず戦ったとしても、許すアメリカ人はいないであろう。こうして、報復が正当化される。軍民を区別するなら、男女も区別される。女子、子供が傷つけられれば、敵に対する憎しみは倍増する。卑劣な軍事指揮官は、婦女子や民間人を戦いに巻き込み、敵愾心を煽り、憎むべき敵を殲滅するまで戦いを続けさせようとするかもしれない。
Title: Naval Air Station, Jacksonville, Florida Description: Two WAVES washing a North American SNJ training plane, circa 1943-45. This aircraft is assigned to the Naval Air Operational Training Command. Note Beech SNB aircraft in the background. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-15001
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-15001 Naval Air Station, Jacksonville, Florida 引用。


写真(右):1943年7月30日、アメリカ、オクラホマ州、海軍航空技術訓練センター(Naval Air Technical Training Center)の航空金属学校(Aviation Metalsmith School)を卒業したばかりのWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の第一期生たち :アメリカ陸軍でも女子補助部隊として1942年5月、女子陸軍部隊(Women's Army Corps, WAC)の設立が決まった。彼女たちは、日本陸軍航空兵たちに奉仕活動を行った知覧高女たちの敵となる。
Description: Members of the first class of WAVES to graduate from the Aviation Metalsmith School, at the Naval Air Technical Training Center, Norman, Oklahoma, 30 July 1943. Those present are identified in Photo # NH 95359 (complete caption), which also provides additional information provided by the donor. Donation of Shirley Feldstein Bell. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 95359 WAVES Aviation Metalsmiths引用。


写真(右):1943年9月14日、アメリカ、コネチカット州ニューロンドンの地下にある潜水艦訓練基地、気圧変化に耐える訓練を受けるアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の第一期生たち :アメリカ海軍は、特に艦船は、男性の世界で、乗員は女子禁制だった。しかし、救助活動などで潜水艦などに乗り込んだ時の気圧変化になれる必要があったため、訓練を行った。知覧高女は、勤労動員で事実上軍務をこなしたが」、専門的な訓練は一切受けていなかった。全てボランティア、自発的な行動だった。
Title: "WAVES, Nurses, 'Go Below"" Description: Photo #: NH 97525 WAVES, Nurses, 'Go Below The submarine branch of the U.S. Navy is strictly marked 'Men Only', but there is a group of women in uniform who now have some idea of just what 'sub duty' entails. The group is comprised of a number of WAVES who visited the sub base at New London, Conn., and the Navy nurses who are assigned to duty there. The WAVES went through parts of the training routine for the experience, but the nurses underwent the drill as a matter of business, in order to aid them in treating casualties. The Pressure is on Going through parts of the regular routine undergone by students at the New London sub base, visiting WAVES spend some minutes in the pressure tank. Quoted from the original caption released with this photograph on 14 September 1943. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. Catalog #: NH 97525
写真はNaval History and Heritage Command NH 97525 "WAVES, Nurses, 'Go Below"" 引用。


写真(右):1943年10月14日、アメリカ、フロリダ州ジャクソンビル、海軍飛行基地で高空1万8000から3万フィート、低気圧室における酸素マスクの実習訓練を行うアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :WAVESの海軍少尉(右)の頭の上の丸窓から監視員の顔がのぞいている。地上に低気圧に引き下げることが可能な低気圧室を設置し、そこで高空における体験をする。空気が薄い高高度では、酸欠にならないように酸素マスクを着用する。
Title: Naval Air Station, Jacksonville, Florida Description: WAVES in the low pressure chamber at the Station's main dispensary, during a special run, 14 October 1943. Simulated altitude for this test is between 18,000 and 30,000 feet. Note observer behind the porthole, just above the WAVE Ensign's head. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-206023
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-206023 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右):1943年10月15日、アメリカ、フロリダ州ジャクソンビル、海軍飛行基地で高空1万8000から3万フィート、低気圧室における酸素マスクの実習訓練もブリーフィングを受けるアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :酸素マスクを手にしたWAVESの訓練生(右)は、革製厚手のオーバーオールの飛行服を着用、飛行ゴーグルもつけて、高高度の低温に備えている。左に立つ男性インストラクターが、計器の説明をしているようだ。この男性も、飛行服を着用し酸素マスクをし、WAVES訓練生と一緒に、この低圧室で指導をするのであろう。
Title: Naval Air Station, Jacksonville, Florida Description: WAVES receive a briefing in preparation for an indoctrination flight in the chill chamber at the Station's main dispensary, 15 October 1943. Note leather flight gear worn by all. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-206029
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-206029 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右):1943年10月15日、アメリカ、フロリダ州ジャクソンビル、海軍飛行基地で高空1万8000から3万フィート、低気圧室における酸素マスクの実習訓練を行うアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :酸素マスクをしたWAVESの訓練生(左)は、革製の厚手の飛行服を着用、飛行ゴーグルもつけて、高高度の低温に備えているようだ。右に立つ男性も、飛行服を着用し酸素マスクをし、WAVES訓練生の酸素マスクにつながるパイプを右手で支えている。これらの飛行服や酸素マスクが男性用の大型であるため、小柄な女性にはサイズが合わなかったのかもしれない。高高度では、空気が薄いために酸素マスクを着用し、気温も下がるために厚手の飛行服・電熱服が不可欠である。
Title: Naval Air Station, Jacksonville, Florida Description: WAVES in the chill chamber at the Station's main dispensary, for an indoctrination flight, 15 October 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-206025
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-206025 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右): アメリカ西部、ワシントン州シアトル、海軍基地、海軍リンク航法操作維持学校で、航法訓練に使用する天球ドームを点検するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員3名と指導員の男性。1944年7月23日公開。:海上や曇天の中を飛ぶには、太陽や星を使った天測、波の波形や大きさを使った風向・風力の把握、正確な時間、正確な方位が必要不可欠である。数学的処理もこなせなければ、推測航法を習得することはできない。
Title: WAVES study Link Celestial Navigation Description: At the Navy Link Celestial Naviation Trainer Operators and Maintenance School, Naval Air Station, Seattle, Washington. They are members of a group of 70 Specialists (Teacher) taking the ten-weeks' course at NAS Seattle and NAS Quonset Point, Rhode Island. In this photograph, Aviation Machinist's Mate 2nd Class Robert K. Rice provides instruction in celestial theory with a three-dimensional celestial sphere demonstrator. Students are (from left to right) Specialists (Teacher) 2nd Class Hilda Olson, Dorist Propst and Joanna Bailey. Information is from the original caption released with this photograph effective 23 July 1944. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. Catalog #: NH 97522
写真はNaval History and Heritage Command NH 97522 WAVES study Link Celestial Navigation 引用。


写真(右):1944年1月、アメリカ、オクラホマ州、アメリカ海軍ジョージ・ブライアン少将(中央)の前で、航空写真を並べて作戦を再現しているWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員2人。後方では、制服を着用したWAVES指揮官ミルトレッド・マカフィー大尉(左)が監督し、その前にオリーブ・ピューレン2等兵が立って2人の作業を見つめている。 :ミルトレッド・マカフィー(Mildred Helen McAfee Horton)は、1900年5月-1994年9月)は、第二次大戦中、アメリカ海軍WAVES (Women Accepted for Volunteer Emergency Service)初代指揮官で、女性で初の海軍殊勲賞(Navy Distinguished Service Medal)を授与された。彼女は、有名大ウェルズレー女子大学(Wellesley College)の第7大学長でもある。また、アメリカのユネスコ(United Nations Education, Scientific, and Cultural Organization:UNESCO)代表も務めた。 ニューヨーク生命保険New York Life Insuranceの評議員、ニューヨーク公立図書館New York Public Libraryの評議員も務めている。
Description: Captain Mildred H. McAfee, Director of the WAVES, Captain Charles Slayton, and Rear Admiral George S. Bryan watch as Frances Bochner, PH3, and Lillian Boscher, PH3, construct a slotted template layout of aerial photographs used in the construction of charts, January 1944. Looking on is Olive Pullen, Seaman 2nd Class. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. .
写真はNaval History and Heritage Command NH 95359 WAVES Aviation Metalsmiths引用。


写真(右):1944年11月13日、アメリカ、カンザス州オレイサの海軍航空基地にダグラスR4D-6(海軍使用のダグラスDC-3)輸送機に乗り込むWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の8名の隊員たち :オレイサ海軍航空隊訓練センター で飛行訓練をするために、付き添いのヘレン・メリル海軍中尉が、航空輸送員となるWAVEsの2等兵を引率している。彼女たちの任務は、補給物資の管理、管理事務、薬剤管理だけでなく、飛行訓練教員、飛行機輸送隊員など専門的な仕事も担っていた。正規の軍人として、手当や年金などの処遇も安定し、制服や衣食住も支給されていた。
Title: Transporting WAVES by air, November 1944 Description: WAVEs board a Douglas R4D-6 transport plane (Bureau # 50741), while en route to Naval Air Station, Olathe, Kansas, 13 November 1944. The enlisted WAVES, most of them strikers for the rate of Specialist (Transport Airman), are accompanied by their instructor, Lieutenant (Junior Grade) Helen J. Merrill. Those present are (from left to right): LtJG Merrill, Seaman 2nd Class Helen Ranlett, Seaman 2nd Class Gloria Marx, Seaman 2nd Class Margaret Chapman, Yeoman 2nd Class Carolyn Fish, Seaman 2nd Class Gale Collier, Seaman 2nd Class Marilyn Wheeler and Yeoman 2nd Class Helen Niravelli. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-272752
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-272752 Transporting WAVES by air, November 1944 引用。


写真(右):1944年11月13日、アメリカ、カンザス州オレイサの海軍航空基地にダグラスR4D-6(海軍使用のダグラスDC-3)輸送機で移動するWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち (1945年1月8日公開):オレイサ海軍航空隊訓練センター で飛行訓練をするために、付き添いのヘレン・メリル海軍中尉(左)が、航空輸送員となるWAVEsの2等兵を引率している。他方、日本の高女たちは、無償奉仕であり、全くのタダ働きで、手当も活動資金もなかった。軍は、彼女たちを能率的に働かせるシステムを作っておらず、尊敬・愛に依拠した熱心な活動、心のこもった応対こそ彼女たち奉仕者の信条だった。日本軍は、彼女たちの活動を組織化したり、支援したりするシステムを作ることがなかった。現地の奉仕者の自主性に任せていたようだが、これは彼女たちを尊重したのではなく、その能力を過小評価し、認めていなかったからであろう。
Title: Transporting WAVES by air, November 1944 Description: WAVEs en route to Naval Air Station, Olathe, Kansas, in a Douglas R4D-6 transport plane, accompanied by their instructor, Lieutenant (Junior Grade) Helen J. Merrill. Most of the enlisted WAVES are strikers for the rate of Specialist (Transport Airman). Those present are (from left to right): LtJG Merrill; Yeoman 2nd Class Carolyn Fish; Seaman 2nd Class Gale Collier; Seaman 2nd Class Margaret Chapman; Seaman 2nd Class Gloria Marx; Yeoman 2nd Class Helen Niravelli; Seaman 2nd Class Marilyn Wheeler; and Seaman 2nd Class Helen Ranlett. Note cargo track in the plane's deck. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-272753
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-272753 Transporting WAVES by air, November 1944引用。


写真(右):1945年1月8日、アメリカ、ハワイ諸島真珠湾に向かう船上のWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :彼女たちの任務は、補給物資の管理、管理事務、薬剤管理など、前線で火器を手にした任務ではないが、海軍の後方勤務として重要な役割を担った。緊急任務女子志願兵の「緊急」とは、第二次大戦という未曽有の緊急事態に対応するものであり、女子の永続的な兵役を認めるものではないといった内容を醸し出している。ジェンダー府病のの時代、軍隊に勤務した男子兵士が、女子の上官に命令されたり、同じ勤務地・同じ部隊・同じ艦船で、戦友・恋人になったりすることは、自由の国アメリカでも認められなかったであろう。
Description: Storekeeper 2nd Class Francella Leigh, Yeoman 2nd Class Patricia McRae and Pharmacist's Mate 3rd Class Suzanne Hosmer (listed left to right) in their stateroom on board a transport, while they and other WAVES were en route to their new duty stations at Pearl Harbor, Hawaii, 8 January 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-47595 WAVES en route to Hawaii, 1945 引用。


写真(右):1945年1月8日、アメリカ、ハワイ諸島真珠湾に輸送船の三段ベットの船室で移動したWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :彼女たち三人の任務は、補給物資の管理、管理事務、薬剤管理。WAVESは、第二次大戦中に人手不足に悩んだアメリカ海軍が急遽採用したともいわれるが、実際には、有能な女子を部下に迎えたいとの男性将校たちの意向があったと考えられる。また、婦人の権利保護や権利獲得などジェンダー平等を求めたアメリカ婦人の意向も強く働いている。つまり、女子の兵役について、需要と供給の双方を調整し、WAVESが誕の生したといえる。1942年の段階で、アメリカ連邦議会は、大統領の後押しもあって、アメリカ海軍は、波(WAVES:Women Accepted for Volunteer Emergency Service;緊急任務女子志願兵)というカッコいい略称で、女子の兵役を後方勤務全般に受け入れ始めた。
Description: Storekeeper 2nd Class Francella Leigh, Yeoman 2nd Class Patricia McRae and Pharmacist's Mate 3rd Class Suzanne Hosmer (listed left to right) remove knapsacks in their stateroom after arriving on board a transport. They and other WAVES were en route to their new duty stations at Pearl Harbor, Hawaii, circa early January 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-47597 WAVES en route to Hawaii, 1945引用。


写真(右):1945年1月8日、アメリカ、ハワイ諸島真珠湾に到着したWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :彼女たちこそ、WAVES初の海外勤務である。ハワイ島は、海外扱いで、その宿舎は、清潔そうで、二段ベッドが並んでいる。WAVEsの任務は、補給物資の管理、管理事務、薬剤管理など後方勤務。緊急任務女子志願兵の「緊急」とは、第二次大戦という未曽有の緊急事態に対応するものであり、女子の永続的な兵役を認めるものではないといった内容を醸し出している。
Title: "First Contingent of WAVES goes Overseas" Description: Photo #: NH 97532 First Contingent of WAVES goes Overseas Everything shipshape for their last inspection! WAVES about to go overseas put their barracks in perfect order at the distribution center on the west coast. The first contingent of WAVES assigned to duty in Hawaii arrived in Pearl Harbor, January 6, 1945. Quoted from the original caption released with this photograph on 8 January 1945. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. Catalog #: NH 97532
写真はNaval History and Heritage Command NH 97532 "First Contingent of WAVES goes Overseas"引用。


写真(右): 1944-1945年、アメリカ、バージニア州ノーフォーク、アメリカ海軍航空基地の飛行管制塔で無線電話の送受信装置で指示を出すアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員と双眼鏡で監視する管制官の男性。:日本では「電話」というと有線通信をさすが、世界では送信・受信が同時にできる無線送受信装置、マイク・レシーバー付きの通信機も電話である。
Title: Naval Air Station, Norfolk, Virginia Description: Control tower operators, including a WAVE, at work, circa 1944-45. Note what appears to be snow on the window ledge. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-2923
写真はNaval History and Heritage Command NH 97522 WAVES study Link Celestial Navigation 引用。


写真(右): 1945年3月、アメリカ海軍航空基地の管制塔、ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の二人のアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の飛行管制官Lovel LeedsとBryn Mawrが無線電話を使って支持を出している。:飛行場には、ノースアメリカンT-6「テキサン」(あるいは海軍仕様のSNJ練習機)10機が並んでいるのが見える。
Title: Catherine S. Pinzhoffer, Specialist (Y) Third Class of Philadelphia, Pennsylvania, and Lovel Leeds, Specialist (Y) Third Class of Bryn Mawr, Pennsylvania Caption: On duty in the control tower at Naval Air Station, Anacostia, D.C., give directions to pilots coming in for a landing, March 1945. Description: Catalog #: 80-G-44787 Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-44787 Catherine S. Pinzhoffer, Specialist (Y) Third Class of Philadelphia, Pennsylvania, and Lovel Leeds, Specialist (Y) Third Class of Bryn Mawr, Pennsylvania 引用。


写真(右):1945年春、アメリカ、カリフォルニア州南、チャールストン、飛行場の管制塔で勤務するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :無線通信装置の性能も信頼性も高いために、管制塔と飛行機との間の通信は十分通じたであろう。航空専門用語、天候、緯度・経度、数学的思考など、管制官としてたくさん覚えることがあったであろう。航空機の安全航行のために、操縦をするパイロットとは別に、安全を確認して飛行を決める管制官の仕事は重要で、航空機は管制官の指示に従って飛ぶ。飛行には「計器飛行方式(IFR)」と視界がいい昼間に、管制官の指示によらずに飛ぶ「有視界飛行方式(VFR)」がある。航空管制官は、空港の航空管制塔からレーダーや無線電話を使い、フライト中のパイロットに対して飛行ルート、天候の指示や情報を提供する。航空機は、他の航空機との衝突や悪天候を避けられるよう、航空管制官が常に飛行状況を確認し、誘導する。一人の管制官がいくつもの航空機に次々と指示を出しており、業務中は常に緊張していたであろう。
Description: Specialist 3rd Class Nora Scott (left) and Specialist 3rd Class Virginia Chenoweth at work in the air station's control tower, circa spring 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5470 (Color) Naval Air Station, Charleston, South Carolina 引用。


写真(右):1945年7月28日、アメリカ、海外・艦船勤務の海軍兵士と家族や司令部との連絡と伝言を効率的に交換するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の通信兵 :テレグラフを操作し読み解くWAVESの隊員。オリジナル解説では「世界を繋ぐWAVES」とある。
Title: "WAVES pass the Word" Description: Photo #: NH 97518 WAVES pass the Word ... Both speedy and accurate are the WAVES who 'man' Naval Communications at Washington, D.C. heart of the Navy's far-flung communications network. Through their hands flow the unending stream of messages attendant upon a Navy at war. Replacing male experts needed at sea or distant bases, these alert, competent members of the Women's Reserve are 'passing the word' for the men behind the guns. Telegrapher Third Class Ida May Rowley ... checks monitor tape. Quoted from the original caption released with this photograph effective 28 July 1945. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. Catalog #: NH 97518
写真はNaval History and Heritage Command NH 97518 "WAVES pass the Word" 引用。


写真(右):アメリカ海軍司令部から通信を前線部隊や艦船に指示するためにディクタフォンを操作するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の通信兵 : ディクタフォン とは、本来、口述録音器だが、部隊に司令を伝える通信装置として使用されてきた。現在のものは、デバイスで音声を録音できるオーディオレコーダー・アプリケーションが付属しており、録音を他のメディアに移転・保存することもできる。
Title: WAVE Yeoman Description: WAVE Yeoman transcribing dictation from Dictaphone. Catalog #: USN 1000110 Tags: NHHC_Tags:people/communities/waves, NHHC_Tags:people/diversity/women Copyright Owner: National Archives & Records Administration
写真はNaval History and Heritage Command NH 97518 "WAVES pass the Word" 引用。


写真(右):1945年7月24日、アメリカ東部、ロードアイランド州、コンセット・ポイントの海軍航空基地、飛行訓練シュミレータを使った地上飛行訓練士として勤務するWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の第一期生たち :アメリカ東北部、ニューイングランド地方のロードアイランド州は、州都がプロビデンスで、アメリカ諸州の中で最小の州。彼女たちは、日本陸軍航空兵たちに奉仕活動を行った知覧高女たちの敵となる。
Title: Air Transport Squadron 12 (VR-12) Description: First group of WAVES to report for duty with VR-12, 24 July 1945. They are in the Link trainer building, a Quonset hut at Naval Air Station, Quonset Point, Rhode Island. They are identified as Frances Jacobs, Janice Angle, Evelyn M. Gifford, Mary van Velzer (seated in Link trainer, center), Dorothy Drawbert, Jeanne Euettl, Janet B. Greenwood, Joan de Vore, Fay Mildred Marlette and Priscilla C. Morrison. Identifiable rating badges are Specialist (Teacher), indicating that these WAVES operated the squadron's Link training unit. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-326212 .
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-326212 Air Transport Squadron 12 (VR-12) 引用。


写真(右):1944-1945年、アメリカ南部、バージニア州ノーフォークの海軍航空基地で整列して格納庫に向かう女子海兵隊(Women Marines)とそれに続くアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)と;右手前には艦上雷撃機TBMアベンジャー、右奥にはボート(Vought)OS2Uキングフィッシャー (Kingfisher:カワセミ)水上偵察機、左奥にはマーチン(Martin)PBM マリナー(Mariner)飛行艇が見える。立ち並ぶ飛行機の中を腕を振って行進してゆくWAVES隊員は誇らしげである。
PBM-3Dマリナー飛行艇の諸元 全長:24.33m、全幅:35.97m
全高:8.38m、主翼面積:130.8平方メートル
全装備重量:26,308kg、乗員:8名
発動機:ライト R-2600-22 空冷星型14気筒 1,900hp2基
最高速度:325km/h(4,840m)
巡行速度:217km/h
航続距離:4,800km
実用上昇限度:6,350m
兵装 0.5インチ(12.7mm)機関銃8丁
爆弾搭載量 3,630kg
Title: Naval Air Station, Norfolk, Virginia Description: Women mechanics march to their work area, circa 1944-45. This group appears to include both Navy WAVES and Women Marines. Planes present include PBM-3D flying boats, OS2U floatplanes (right distance) and a TBM torpedo plane (right foreground). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-2920
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-2920 Naval Air Station, Norfolk, Virginia 引用。


写真(右):飛行訓練シュミレータを使った地上飛行訓練士として勤務するWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service):海軍航空基地(Norfolk,ヴァージニア州)のWAVEリンク訓練士が将校を指導。フライトシュミレーター(FTD)飛行訓練装置は、地上で飛行機に乗って体験をしながら操縦を覚える訓練装置である。現在では、飛行機の操縦にはコンピューターが多用されているが、当時の飛行機は、パワーステアリングが装備されておらず、制御機器を操作する感覚や実際の操縦方法、その際の手足など筋肉の使い方、力の入れ具合など、経験・体験しないとわからないことが多い。
Title: Naval Air Station, Norfolk, Virginia Description: A WAVE Link Trainer Instructor gives pointers to an officer, who is checking out in a Link aircraft control simulator, during World War II. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-3205
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-3205 Naval Air Station, Norfolk, Virginia 引用。

写真(右):1945年中頃、アメリカ東部、カリフォルニア州サンタアナ、海軍航空基地で飛行訓練シュミレータを使った地上飛行訓練士として勤務するWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)と訓練を受ける男子操縦練習生 :飛行機の操縦訓練は、実機では危険があるために、実機での搭乗飛行訓練をする以前に、地上訓練で操作を体で覚えておく必要がある。そして、実機で飛行訓練する場合、少なくとも基本レベルは完全に理解していることを実際に体験し、自信をもって、安全にスキルを磨くことに努めるべきである。飛行機の操縦は、知的作業で成り立っている。制御機器や計器を見て状況を把握し、何をすべきかわかるようにならなければ、実際にそれらを効果的かつ適切に扱うことはできない。しかし、知識としてだけでなく、飛行中は体で覚えておかないと迅速に行動することができなくなる。
Description: Runs ground support for Ensign Victor L. McCallen, who is receiving aviation training in a Link flight simulator at Naval Air Station, Santa Ana, California, circa mid-1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.color
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5796 Specialist (Teacher) 1st Class Marjorie Kane, USNR(W) 引用。


写真(右):1945年中頃、アメリカ、海軍航空基地でアメリカ海軍ダグラスR5D(海軍使用のダグラス DC-4)四発大型輸送機のプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2000(1290馬力)第1エンジンを整備する3名のWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)vice)の整備士:アメリカ陸軍航空隊の四発大型輸送機ダグラス DC-4をアメリカ海軍も採用した。ただし、名称はダグラスR5Dと異なった命名である。日本陸海軍は、同一の機首を採用したことは一度もない。それどころか、エンジン、部品まで陸軍と海軍は全て異なっていた。飛行機内の計器類も陸軍と海軍ではもちろん、会社ごとに別規格だった。機体に搭載した戦闘機前方固定器中の発射レバー・ボタンも、日本海軍ではスロットルレバー頂頭部のスライドスイッチが7.7ミリ機銃の発射スイッチ、スロットルレバー前のレバーが20ミリ機銃の発射スイッチだったが、陸軍戦闘機は操縦桿の頂東部ボタンが発射スイッチだった。
Title: Naval Air Station, Oakland, California Description: WAVES aircraft mechanics working on the port outboard engine (a Pratt & Whitney R-2000) of a Naval Air Transport Service R5D, circa mid-1945. They are (left to right): Seaman 1st Class Gene Reinhold, Seaman 1st Class Lorraine Taylor and Seaman 1st Class Mary Harrison. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.color Catalog #: 80-G-K-5663
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5663 Naval Air Station, Oakland, California 引用。

写真(右):1945年中頃、アメリカ、海軍航空基地でアメリカ海軍ダグラスR5D(海軍使用のダグラス DC-4)四発大型輸送機のプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2000第1エンジンを分解し整備するWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)のロレイン・テーラー1等兵(右)とマルタ・ハリソン1等兵
ダグラスR5Dスカイマスター輸送機Douglas R5D Skymaster)の諸元
最高速度:450 km/h、巡航速度:365 km/h
座席数:86席(兵員50名)
航続距離:4250マイル(6,839 km)
全長:28.6 m、全幅:35.8 m、全高:8.38 m
主翼面積:135.6平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg
発動機:プラット&ホイットニーR-2000
  1,290馬力エンジン4基。
Description: Seaman 1st Class Lorrain Taylor (right) and Seaman 1st Class Martha Harrison working on the # 1 engine (a Pratt & Whitney R-2000) of a Naval Air Transport Service R5D, circa mid-1945. Both WAVES are assigned to Naval Air Transport Squadron Four. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.color
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-6095 (Color) Naval Air Station, Oakland, California 引用。


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