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◆HK財政学:広島・長崎への原子爆弾投下と核兵器の開発

2010年現在、原子爆弾や大陸間弾道弾(核ミサイル)のような核兵器保有国は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国という正規保有を事実上公認さられ五大軍事国のほかに、インド・パキスタン・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が核実験を行い、核兵器を保有していると公言している。さらにイスラエルもアメリカの黙認の下で核兵器を保有し、外国軍による核兵器保有も含めれば、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、カナダ、ギリシャ、トルコ、日本にも核兵器が存在していると考えられる。大量破壊・大量殺戮を可能にする核兵器を保有している理由は、国家を守り、平和を維持し、戦争が勃発することを抑制することである、とされる。核兵器を開発・維持するために、国家財政が投入されて続けている。


写真(上):1945年3月10日東京大空襲の焼死者;米国陸軍航空隊のB-29重爆撃機300機以上が東京を夜間空襲した。主に焼夷弾を投下して,住宅を焼き尽くす作戦である。米軍爆撃機の米国人搭乗員が殺害したのであるが,殺害者が焼死体を直接見ることもないので,罪悪感は感じない場合が多かった。それどころか、米軍兵士や中国の民衆を虐待した日本人が受けるべき報いであると考えた兵士もいた。現在は内外でしられている写真であるが、当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏撮影(東京写真紀行:東京大空襲)。

原子爆弾が完成する前、1944年11月24日から日本は、マリアナ諸島サイパン島、グアム島などアメリカ陸軍航空隊の基地を発進したボーイングB-29重爆撃機による空襲を受けている。当初、武蔵野にあった中島飛行機工場など産業に対する空襲が行われたが、投下した爆弾が工場に命中しないことが多いため、成果が上がらなかった。そこで、1945年1月23日以降、ボーイングB-29重爆撃機による日本の大都市への空襲が本格化した。

 
写真(上):1945年3月10日東京大空襲の焼死者;身元確認のためか、遺体に見入っている。当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏撮影の記録写真。当時このような惨く敗北的な写真は公開できなかった。

都市無差別爆撃では、労働者の住宅の密集する住宅地を標的に、軍需生産を担う労働者を殺害し、その家屋を破壊する。こうして,厭戦気分を高めて、戦意を挫き、戦争指導に支障をきたすことを意図していた。

1945年3月9日から10日に実施された東京大空襲に参加したのはB-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)である。ナパーム弾(油脂焼夷弾)、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾など、投下弾量は約38万発、1,700トンにのぼった。住民の死者は8万〜10万人、焼失家屋は27万8000戸であり、東京の3分の1以上の面積(40平方km)が焼失してしまった。東京大空襲は、無差別テロというにふさわしいものだった。

写真(右)東京大空襲の水辺に流れ着いた焼死体;サイパン島,テニアン島からの米陸軍航空隊の夜間都市無差別爆撃の犠牲者。「川崎・横浜大空襲の記録写真集」引用

親爆弾に子爆弾を内装する焼夷弾は,現在でいうクラスター爆弾(集束爆弾)である。焼夷弾M69には,50センチの焼夷弾筒38発が入っていて、空中で分解。縦に焼夷弾筒が落下,家屋に命中すると,木造家屋であれば,屋根を突き破って,畳に突き刺さる。そこから,パーム油を原料としたゼリー状の焼夷剤が噴出し,火災を起こす。バグウェイ実験場では,実物家屋模型を建築して,焼夷弾の実験をしている。焼夷剤のかいはつには,石油会社が協力した。

1942年8月,「マッターホルン作戦」(Operation Matterhorn)が発足,1942年9月23日にの軍事指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将が、マンハッタン計画指揮官に就任した。ノベル賞受賞者21名を含む世界的頭脳の中で、原爆開発に大きく寄与したのが、物理学者ジュリアス・ロバート・オッペンハイマーJulius Robert Oppenheimer :1904-1967) とエンリコ・フェルミ(Enrico Fermi:1901-1954)の二人である。

写真(右):1943年、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所の新築がなった労働者用アパートメント:トレーラーハウスの代用ではなく、鉄筋コンクリートの建築物が用意された。オークリッジの人口は1942年の3000人から1945年の7万人に急増している。この住所は、テネシー州オークリッジ、ビームクリークロード(Bear Creek Rd, Oak Ridge, TN 37830)。
Temporary Housing For Manhattan Project Workers The population in Oak Ridge, Tennessee grew from about 3,000 in 1942 to over 70,000 by 1945. In order to accommodate this type of population growth, temporary housing such as trailers, efficiency apartments, and demountable housing was used as living quarters for the employees of the Manhattan Project.
Creator Records of the Atomic Energy Commission, Record Group 326 Source Formerly Classified Correspondence Files, 1942-1947 Date ca. 1943 Rights National Archives at Atlanta Identifier National Archives Identifier 1518690 Coverage Oak Ridge (Tenn.) Original Format Photograph Print 8" x 10"
写真は National Archives at Atlanta National Archives Identifier 1518690 引用。


オークリッジ国立研究所の4施設(コード名X-10、Y-12、K-25、S-50)のなかで、Y-12(ウラン235をウラン238から電磁気分離する施設)で使うカルトロンを使うためにデザインされた。エンリコフェルミらの指導によって、原子爆弾の原料となるプルトニウムを製造するために建設された原子炉では、ウラン238を注入し、炉内で核分裂の連鎖反応を起こさせる。

オークリッジ国立研究所Y-12では、回収したスラグから、プルトニウムを濃縮、抽出する。プルトニウムは原子爆弾「ファットマン」の製造に使用された。ワシントン州ハンフォードB原子炉はプルトニウムを使用する長崎型原爆だが、これ以外にも、ニューメキシコ州ロスアラモス研究所(原爆の設計・組み立て)、テネシー州オークリッジ(原子爆弾「リトルボーイ」用のウラン濃縮)もマンハッタン計画で整備された施設である。

写真(右):1940年代、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所Y-12:バージニア州、オークリッジ国立研究所の近くにあるホルストン砲兵工廠(Holston Ordnance Works :HOW) は、ホルストン川近くの24.3平方キロ(6,000エーカー)の敷地にある。建設費用は7700万ドルで、1942年竣工、1944年1月に完成した。原爆開発の作業だけではなく、砲兵工廠にも多額の経費をつぎ込んでおり、カルトロンと似たような施設を作り、女子労働者が動員された。つまり、原爆開発だけが、巨大プロジェクトではなく、いくつもの軍事計画の一つだった。その意味で、原爆投下だけが躊躇されるはずはなかった。
Description Aerial View of Y-12. Date Unknown date Source HD.30.839 Author U.S. Department of Energy from United States
写真は Wikimedia Commons, Category:Y-12 National Security Complex File:Workers laying up the graphite core of the 105-B file. In the lower-left can be seen a portion of the rear face of the pile, the top of its shielding wall, and the gun barrels protruding HAER WA-164-6.tif引用。


オークリッジ国立研究所の4施設(コード名X-10、Y-12、K-25、S-50)のなかで、Y-12は、ウラン238からウラン235を電磁気分離する施設。サイクロトロンが設置されカルトロンを扱う使うためにデザインされた。原爆の核心をなす核分裂連鎖反応には、ウラン235が必要だが、天然ウランの多くはウラン238なので、そこから分離する必要がある。そこで、カルトロンで、ウラン235とウラン238の僅かな質量差を利用したローレンツ力によりイオン化されたウラン同位体を分離する。マンハッタン計画(Manhattan Project)の一環としてオークリッジ国立研究所が設置されたが、そのマンハッタン計画の指揮官はレスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves:1896-1970)准将である。ここでは、ウラン235をウラン238から電磁気分離する。

写真(右):1943年8月、アメリカ、バージニア州キングスポート近く、ホルストン砲兵工廠B地区、建築物Eでフィルタータンクを検分する作業員
Holston Ordnance Works Employee A Holston Ordnance Works employee operating filter tanks in "E" building in area B. Subject Ordnance facilities Creator Records of the Office of the Chief of Ordnance, Record Group 156 Source Historical Reports, 1942-1950 Date August 1943 Rights National Archives at Atlanta
Subject : Manhattan Project | Uranium enrichment | Calutron Creator : Records of the Atomic Energy Commission, Record Group 326 Source : Formerly Classified Correspondence Files, 1942-1947 Date : ca. 1944 Rights : National Archives at Atlanta Identifier National Archives Identifier 6997147 Coverage Kingsport (Tenn.) Original Format Photograph Print 8" x 10" 写真は National Archives at Atlanta National Archives Identifier 6997147引用。


第二次世界大戦は、1939年から1945年まで6年間も続いた大戦争だったために、航空兵力を用いた大量破壊・大量殺戮が日常化してしまい、民間人・市民が空爆の対象となることが普通になった。こうなれば、どのような航空機で攻撃するか、攻撃兵器が爆弾か焼夷弾か銃撃かといった問題は、空襲の成功の可能性・効率性からだけ論じられるようになる。国家財政の観点からは、投入した国家資金が戦勝をもたらすことが重要であり、敵の民間人死傷者の数を抑制する発想はほとんどなくなってしまった。大半の国家予算を使うことになった国家総力戦では、大量破壊・大量殺戮が日常化し、財産はもちろん、いのちの価値も過小評価されるようになった。

無差別テロを筆頭とする大量破壊・大量殺戮は、国家財政に支えられて続行していたために、戦争下の財政、戦時財政こそが人々の生活の質(QOL)や福祉水準を大幅に退化させたといえる。

その最終段階、マリアナ諸島テニアン島を基地とするアメリカ陸軍航空隊の四発大型爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレスが、1945年8月6日、広島県広島にウラン型原爆「リトルボーイ」を、8月9日、福岡県小倉にプルトニウム型原爆「ファットマン」を搭載して出撃した。

原爆ドームは、広島県物産陳列館として1915(大正4)年に竣工した。その後、1921年に広島県立商品陳列所、1933年に広島県産業奨励館に名称変更。1944年3月からは、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材・日本木材広島支社などの物資統制・業界統制のための事務所となる。原爆投下時、館にいた30名余は全員死亡と思われる。爆心地に近く真上からの爆風だったため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠も燃え残った。占領後に「原爆ドーム」という名称が定着した。

写真(右):1945年9月頃、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「エノラゲイ」が投下した原爆で破壊された広島。奥には、原爆ドームが見える
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.] National Archives Identifier: 22345671 Local Identifier: 243-HP-I-31-2 Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent) From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947 ARC Identifier: 22345671
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 540225引用。


世界の原爆投下記念碑として有名な広島市「原爆ドーム」は、1915年(大正4年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建設され、広島県美術展覧会、博覧会の会場ともなった施設で、本来は、 「広島県物産陳列館」という名称である。しかし、その後、広島県立商品陳列所、1933年(昭和8年)には「広島県産業奨励館」に改称されている。設計者のチェコ人建築家ヤン・レツルは、鉄骨・煉瓦造の構造に、石材・モルタルの外装で、中央部分5 階建の階段室と、その上の銅板の楕円形ドーム(長軸11メートル、短軸8メートル、高さ4メートル)がある。当時の広島市の建築物は、この中心街でも木造2階建てどまりであり、「広島県物産陳列館」のヨーロッパ風の様式は、広島名所の一つになった。しかし、1945年8月6日午前8時15分、広島県産業奨励館から南東200メートル、高度 600メートルで、世界初の原子爆弾が爆発した。熱線が放出され 風速440メートルの爆風は、1平方メートル当たり35トンの圧力だった。「広島県産業奨励館」は全焼したが、爆心地近くで、爆風が垂直に吹いてきたために、本館は倒壊しなかった。

写真(右):1945年8月7日、広島県、似島検疫所に横たえられた被爆者:識別コード SA003-1:尾糠政美氏撮影;尾糠氏は8月7日に広島湾宇品港沖に浮かぶ似島(にのしま)検疫所に入り、軍医の指示で撮影。似島には野戦病院が開設され、8月6日午前中から次々と船で負傷者が運ばれた。応急手当とクレゾール入浴を施された。6日に運び込まれた患者は約2000人、軍医以下80人の衛生部員が救護に当たった。通常1000人の収容能力を持つ検疫所付属病院は、1日3000人から9000人の患者を扱った。このような尾糠政美氏の写真は、アメリカの占領統治・検閲が終わり、『アサヒグラフ』1952年8月6日号に、撮影者の氏名なしに掲載されたという。広島平和記念資料館「平和データベース」引用。軍事技術の粋を集めたボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイEnola Gay」、原子爆弾、そして、優秀な科学者、訓練された搭乗員、有能な指揮官,世界情勢を考える大物政治家が、原爆を開発、投下を決断・実行した。写真は広島平和記念資料館の許可を得て掲載。


写真(右):1945年8月6日、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「エノラゲイ」が広島市に投下した原子爆弾「リトルボーイ」に被爆した女子挺身隊(勤労奉仕隊):識別コード:SA152-1 陸軍船舶司令部写真班撮影
:陸軍船舶司令部は、中国大陸や南方への輸送の要であった宇品港が主活動の場であったが、宇品向かいの似島にも検疫所があった。写真は広島平和記念資料館の許可を得て掲載。


広島平和記念資料館の企画展としては、平成13年度「サダコと折り鶴:時を超えた生命の伝言」、平成14年度「原爆の絵:市民の手によるヒロシマの記録」、平成15年度「似島(にのしま)が伝える原爆被害:犠牲者たちの眠った島」、平成18年度「託された過去と未来」などが紹介されている。
平和記念館西館では、「原子爆弾の爆発の瞬間、 空中に発生した火球は、 0.3秒後には直径200メートルを超える大きさとなり、その表面温度は、7,000度にも達しました。」としてwebで熱線による被害の映像を流している。
また、爆発の瞬間、爆発点 には数十万気圧という超高圧がつくられ、まわりの空気 が大きく膨張して強烈な爆風が発生しました。 その圧力は、爆心から500メートルの所でさえ、1平方メートルあたり19トンに達するという強大なものでした。このため、ほとんどすべての建物が 押しつぶされ、人々も吹き飛ばされ大きな被害をうけました。」として爆風による被害の映像を配信している。
広島に建物疎開命令が出され、中学校、高等女学校、国民学校高等科1・2年生等を対象に建物疎開作業の学徒動員がされ、1945年8月6日も、8000人以上の学徒が出勤し、うち約6,300人が死亡。



写真(右):1945年8月9日、長崎への原爆投下で破壊された浦上天主堂(カトリック浦上教会):Title:Victim of the Atom Bomb Explosion over Nagasaki. National Archives Identifier: 519384 This item was produced or created: ca. 1945 The creator compiled or maintained the series between: 8/1945 - 8/1945 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 519384 NAIL Control Number: NWDNS-77-AEC-48(27) 引用。

浦上天主堂(カトリック浦上教会)は、1895年(明治28年)2月に、フランス人宣教師フレノーの設計で、起工されたが、東洋一の規模を誇ったために、完成したのは、1914年(大正3年)だった。3月17日、 浦上天主堂の献堂式が開催された。31年後の1945年8月9日、アメリカ軍のB-29 爆撃機「ボックスカー」は、プルトニウム型原爆「ファットマン」を投下し、聖堂は破壊された。

浦上天主堂は爆心地から500メートルで、赤レンガ造りの構造だった聖堂は、爆風によって倒壊し、火災によって屋根や床は焼失した。堂壁も大半が崩壊し、敷地の聖人石像なども大破した。鐘楼は左右にあったが、片方は聖堂内部に倒れ、もう片方は近くの外側に転げ落ちた。原爆投下の時間帯には、大浦天主堂では、聖母被昇天祭が開かれており、信徒が参集していたため、司祭・西田三郎以下、多数の信徒が殺された。

浦上天主堂(カトリック浦上教会)は、原爆爆心地から北東へ500mの地点であり、全壊した建築物は、1959年に再建された。原爆を記念するために、遺壁の一部は爆心地に移設され、長崎原爆資料館にも聖堂南側入口の再現、被爆した石造などが保管・展示されている。



長崎は6回の空襲を受けた。第一回空襲は1944年8月11日で目標は市街地。死者13人、重軽傷者26人、全壊1戸、全半焼9戸の被被害を被った。
第2回空襲は1945年4月26日、目標はドック地区。被害は死者129人、重軽傷者278人、全壊1戸、半壊3戸。
第3回空襲は1945年7月29日、目標はドック地区、被害は死者22人、重軽傷者41人、行方不明者3人、全壊43戸、半壊113個、校舎半壊1棟。
第4回空襲は1945年7月31日、目標は川南造船所、被害は死者11人、重軽傷者35人、全壊72戸、半壊76戸。
第5回空襲は1945年8月1日、目標は三菱造船所・操車場、被害は死者169人、重軽傷者215人、行方不明者40人、全壊107戸、半壊134戸。
第6回空襲は、1945年8月9日、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」による被害である。

表1 日本本土空襲による死者数の推計(空襲死者数全国調査)

推計機関

空襲による死者総計

通常爆撃による死者

原爆による死者

死者合計

構成比

東京区部

東京以外

広島死者

長崎死者

死者合計

構成比

経済安定本部(1949)

299,485

197,583

66.0%

95,374

102,209

78,150

23,752

101,902

34.0%

建設省戦災復興史(1957)

336,738

184,575

54.8%

91,444

93,131

78,150

74,013

152,163

45.2%

戦災都市連盟(1956)

509,734

175,130

34.4%

94,225

80,905

260,000

74,604

334,604

65.6%

第一復員[陸軍]省(1957)

238,549

182,692

76.6%

93,056

89,636

42,561

13,296

55,857

23.4%

米国戦略爆撃調査団(1947)

252,769

168,096

66.5%

93,056

75,040

71,379

13,294

84,673

33.5%

東京新聞(1994)

558,863

224,635

40.2%

115,000

109,635

260,000

74,228

334,228

59.8%

【出所】激しい空襲(http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub59kuushyu.htm)より作成。
【注】本土空襲の死者数は、推計機関により大きな差異がある。これは、調査期日、推計方法、原爆による死者数(期間)などについて、正確な把握が困難なため生じたとされる。空母艦載機による死傷者、艦砲射撃(釜石など)による死傷者については、どのように取り扱われたのか。 

鳥飼行博研究室戦争写真集[左段]「広島・長崎への原爆弾投下 Hiroshima & Nagasaki」と「原爆被害写真 Hiroshima & Nagasaki」にアクセスし、日本への原子爆弾投下について考えてもらいたい。

HK「財政学」の課題

Report Writing

20世紀の帝国主義国家がヨーロッパで衝突した第二次大戦は、ヨーロッパで始まったが、アフリカ・中東・アジアに拡張し、大西洋・地中海、インド洋・太平洋など世界の海の戦いにも発展した。この人類史上最大級の大戦争は、国家が財政・産業・農業・交通・労働力・技術力の総力を挙げて戦った結果、大量破壊・大量殺戮をもたらした。しかし、この総力戦は、国民や植民地の支持がないと戦えないことは明らかだったため、国民と植民地の支援を得るためのプロパガンダ行われた。これは、戦争は国家・国民を守るための正義の戦いであり、敵は残虐非道な悪であるとの煽動であった。

鳥飼行博著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』青弓社「11章 太平洋戦争後期」(pp.301-337)に掲載されたような玉砕戦(殲滅戦)、日本本土空襲、特攻、原爆投下といった大量破壊・大量殺戮の総力戦の枠組みの中で、広島・長崎の原爆投下の意義を考えなさい。

その際、鳥飼行博研究室戦争写真集
[左段]「広島・長崎への原爆弾投下 Hiroshima & Nagasaki」
[左段]「原爆被害写真 Hiroshima & Nagasaki」」
の2本から引用しつつ、考察を進めなさい。

第二次世界大戦の原子爆弾攻撃という無差別テロを受けたのは、日本の広島と長崎である。マリアナ諸島テニアン島の航空基地を発進したアメリカ陸軍航空隊の四発大型爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレスによる原子爆弾の投下が決定された経緯と原爆投下の理由について、考察していただきたい。

1)「まとめレポート」をワード(word)で作成、ふさわしい題名,学番,学生氏名を明記。
2)まとめレポートの文字数は、1000文字以上、2400文字以下。他サイトの引用は不可。
3)このレポート課題はサンプルなので提出には及びません。実際の課題レポートは、授業支援システム(OpenLMS)に掲載。

東海大学教養学部社会環境課程

TorikaiLab, Tokai University



教養学部の講義HK「財政学」は、環境平和学と持続可能な開発を踏まえて、財政学を多様な視点で扱う授業です。

当研究室へのご訪問ありがとうございます。論文,データ,写真等を引用する際は,URLなど出所を記載してください。ご意見,ご質問をお寄せ下さる時には,ご氏名,ご所属,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。 連絡先: torikai@tokai-u.jp
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鳥飼 行博 TORIKAI Yukihiro
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