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◆HK財政学:第二次大戦の都市無差別テロ爆撃

写真(右)1939年10月12日、冬戦争勃発1カ月前、フィンランド、ヘルシンキの鉄道駅、ソ連との雲行きが怪しくなり、空襲を受ける危険のあるヘルシンキから地方に疎開する民間人:フィンランドはソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けたが、拒否したため、スターリンの怒りを買った。ソ連軍は1939年11月30日、フィンランドに侵攻、冬戦争Talvisota)が勃発したのである。
väestöä lähdössä junalla Helsingistä maaseudulle mahdollisia pommituksia pakoon
Hufvudstadsbladet, painaja 1939 vaaka, mustavalkoinen
Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 12.10.1939
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK19391118:9 Kuvaustiedot: 12.10.1939 Helsinki Hufvudstadsbladet, painaja .
写真は,Museot Finna HK19391118:9用。


1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデルAimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をしたが、10月11日、ソ連の外務人民委員(外相)モロトフは、フィンランドのパーシビキを団長とする交渉団をモスクワに招き、
1)カレリア地峡の対ソ連防衛戦の撤去
2)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
3)カレリア地峡のソ連国境の30km前進(割譲2200平方キロ)と東カレリア(フィンランド東国境に面したソ連領5000平方キロ)の交換
という要求を突き付けた。フィンランド軍総司令官マンネルヘイム元帥は、ソ連の要求を受諾するしかないと考え、フィンランド政府も、カレリア地峡のソ連国境10km前進、フィンランド湾の島々の譲渡は受け入れたが、ハンコ半島の租借は拒否した。こうして、交渉は決裂し、双方とも10月には、動員を準備し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急事態を認める共和国防衛法を布告した。

写真(右)1939年10月20日、冬戦争の勃発直前、フィンランド、ソ連との外交関係が悪化し、一触即発の危機状態に陥ったフィンランドのタンペレでは、ソ連機の空襲を避けるためにフィンレイソン社の社宅 リトルパレスの住民が家財道具とともにトラックで疎開している。:フィンレイソン社は、ロシア帝国フィンランド大公国で1820年に創業されたフィンランド最古のテキスタイルブランドで、寝装品、ホームテキスタイルを中心とした高級品を販売している会社で、現在も存続している。
Finlaysonin Pikkupalatsin asukkaita evakuoidaan .
Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma D/682 Aamulehti Inventaarionro AL:3260:6 Kuvaustiedot: 1939-10-20 Keskusta I, Hämeenpuisto, Hämeenpuisto 7 Tampere, Suomi Eero Troberg, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna Inventaarionro AL:3260:6用。


写真(右)1939年10月20日、冬戦争の勃発直前、フィンランド、タンペレ(Tampere)、ソ連機の空襲を避けるために家財道具とともにトラックで疎開の準備をするフィンレイソン社の社宅 リトルパレスの住民:現在、フィンレイソン社は、北欧の自然や植物、四季の移り変わり、昔ながらのフィンランドアートなどをデザインした日本風の風呂敷<リバーシブルクロス>を販売し、包むだけでなく、インテリア工芸品として楽しむ発想を唱えている。北欧らしい落ち着いたデザインの1mのクロスは、リバーシブルなので、季節や気分に合わせて、テーブルクロスとして使用できる。また、リビングルームのソファーにかけたり、パーティションやカーテンの代わりに使うこともできる。小型のものは、ナプキン代わりや、ランチョンマットとして使うこともできる。
Finlaysonin Pikkupalatsin asukkaita evakuoidaan .
Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma D/682 Aamulehti Inventaarionro AL:3260:7 Kuvaustiedot: 1939-10-20 Keskusta I, Hämeenpuisto, Hämeenpuisto 7 Tampere, Suomi Eero Troberg, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna Inventaarionro AL:3260:7用。


写真(右)1939年10月20日、冬戦争の勃発直前、フィンランド、ソ連との外交関係が悪化し、一触即発の危機状態に陥ったフィンランドのタンペレ(Tampere)では、ソ連機の空襲を避けるために避難船を手配して疎開するフィンランド人避難民を運搬した。:戦争の初期の頃、フィンランド政府は、市民を危険な地域から疎開させようと、避難列車、避難自動車、避難船を手配したが、子供たちが最優先された。
Tamperetta evakuoidaan .
Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma D/682 Aamulehti Inventaarionro AL:3260:8 Kuvaustiedot: 1939-10-20 Särkänniemi VIII, Mustalahti Tampere, Suomi Eero Troberg, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna Inventaarionro AL:3260:8用。


ソ連=フィンランド戦争の終了直後の1940年3月29日、ソ連の外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ は、ソビエトで、次のように述べた。
「昨年 [1939 年]の10-11月、ソビエト政府は,悪化する国際情勢に鑑み、我が国、特にレニングラードの安全を守るうえに絶対に必須かつ緊急と考えた提案を,フィンランド政府と討議した。この交渉は,フ ィンランド側代表の非友好的な態度ゆえに実を結ばず、事は戦場で決されることとなった。もしもフィンランドが外国からの影響に屈しなければ、もしもフィンランドが第三国の煽動にのらずに、ソ連に対する敵対的態度をとらなければ、ソ連とフィンランドの関には昨秋平和裡に了解が成り立ち,事は戦争を経ずして解決されたはずである。ソビエト致府が要求を最低限の要求をしたのに,外交的な手段による解決はできなかったのである」
「議論の余地なく、昨秋に直面したフィンランド側の敵対的政策は偶然のものではなかった。ソ連に敵対する勢力は,フィンランドが,わが国、特にレニングラードに対する作戦のために基地を整備し、ひとたび国際情勢がソ連に不利となるや否や,帝国主義的な反ソ勢力および フィンランドの反ソ連同調者の計画にしたがって、行動を起こすことのことになっていたのである。」モロトフは, ソ連=フィンランド戦争の意義は,ソ連赤軍が,フィンランド国内のソ連攻撃の炒めの作戦基地の存在を明らかにし、基地を破壊して,「第三国が過去数年間にわたって企ててきたた反ソ計画を粉砕したことである」とした。


写真(右)1939年11月30日、冬戦争の中盤、ソ連空軍機の空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ市街地
;すでに第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。
raunioita Helsingin pommituksen jälkeen vaaka, mustavalkoinen
Aineistotyyppi Kuva Aiheen paikka Helsinki
Aiheen aika 30.11.1939 Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK19780731:222 Kuvaustiedot: 30.11.1939 Helsinki
写真はMuseot Finna HK19780731:222用。


第二次世界大戦の勃発から1ヶ月後、1939年10月11日、ソビエト連邦は、ソ連の外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ を通じて、フィンランドに、
1)ソ連国境に面したカレリア地峡の防衛戦の撤去、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方の東カレリア領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
を要求した。しかし、交渉は決裂し、国境で発生した武力衝突を理由に、1939年11月30日、ソ連はフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

写真(右)1939年11月30日、冬戦争の中盤、空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ、ソビエト空軍の空襲を受けて破壊された工科大学のビル家屋と消防救助活動に当たる兵士:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Teknillisen korkeakoulun pommitus Fremling F. E., kuvaaja 1939
vaaka, mustavalkoinen Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 30.11.1939
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK10000:4027 Kuvaustiedot: 30.11.1939 .
写真は,Museot Finna HK10000:4027用。


1939年11月28日、ソ連はフィンランドと1932年に締結した不可侵条約を破棄し、2日後の11月30日、ソ連赤軍レニングラード方面軍司令官キリル・メレツコフKirill Meretskov)大将隷下の兵力23個師団45万名、火砲1800門、戦車2300輌、飛行機700機がフィンランドを攻撃した。これが、フィンランドの言う冬戦争の始まりであり、対するフィンランド国防軍は、当初12個師団18万名で、総動員によって30万名以上の兵士を確保たものの、火砲700門、戦車20輌、飛行機130機で劣勢であった。カヤンデル首相は親ソ的とされ、1939年12月1日、カヤンデル内閣は総辞職し、後継にリスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)首相が任命され、ソ連と対決することとなった。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の中盤、空爆によって破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキの市街地:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
pommitettu Abrahaminkadun ja Lönnrotinkadun kulmatalo vaaka, mustavalkoinen
Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 1.12.1939
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK19721231i:1 .
写真は,Museot Finna HK19721231i:1用。


第二次世界大戦緒戦にあって、西側で都市爆撃が回避されていた理由は、
1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、
と政治的指導者が考えており、それが軍事的に容易な都市爆撃を回避させていたのであろう。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。


写真(上)1939年12月上旬、冬戦争の緒戦、フィンランド、ヘルシンキ、ソ連機の空襲を避けるために、夜間、バスに乗って疎開するフィンランド人避難民
:バス正面の行き先表示板には、ヘルシンキ=ラハティと書いてある。ラハティは、ヘルシンキの北100キロ、現在はラハティ郡パイヤト=ハメ県の県庁所在地である。
Evakuoimista Helsingissä joulukuun alussa 1939.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-111019用。


フィンランドを攻撃したソ連軍レニングラード方面軍の主力は、カレリア地峡に展開する第7軍20万名、ラドガ湖北に第8軍13万名、フィンランド中東部に第9軍と北部に第14軍の併せて12万名を配備した。他方、フィンランド軍は、カレリア地峡に主力の12万名、ラドガ湖に4万名、中東部・北部に1万6000名の配置であったが、総動員によって、兵力は暫時補充されている。

写真(右)1939年12月2日、冬戦争の緒戦、フィンランド、ソ連地上軍の侵攻・ソ連機の空襲を避けるために貨物列車に乗車して疎開するフィンランド人避難民と、この貨物列車で移送されてきたと思われるフィンランド国防軍の兵士たち:戦争の初期の頃、フィンランド政府は、市民を危険な地域から疎開させようと、避難列車、避難自動車、避難船を手配した。
Evakuointia Karjalan kannaksella sodan alkupäivinä. Kuvassa isoisä Antti Siira ja lapsenlapset Tauno Kuosa ja Vilho Kuosa, isoäiti Aune Siira, lasten äiti Riitta Kuosa sekä hänen veljensä Antti Siira.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1939-12-02 Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-165485用。


つまり、ソ連の大軍相手に少数のフィンランド軍が前線し世界に感銘を与えたというう「冬戦争」は、攻撃側45万名対防衛側25名名の戦いとなったが、攻撃側は防衛側の2倍の兵力でしかなく、防衛陣地に対する攻撃を仕掛けるには、決して優勢とは言えない状況だった。もちろん、火力、航空兵力は、攻撃するソ連赤軍が圧倒的に有利だったが、森林地帯、それも厳冬の雪の中の戦いで、気象条件・地形条件は、頑丈な半地下式陣地を幾重も整備した防衛側に有利であった。

また、フィンランド軍将兵祖国防衛の信念を抱き、地形を熟知していて士気が高かった。それと対照的に、攻撃側のソ連赤軍下級兵士の戦意は、小国の侵略的戦争では、全く振るわなかった。独ソ戦で見せたような愛国心溢れる戦いは、一部の共産主義イデオロギーを妄信する将校以外は、期待できなかったのである。ソ連軍は、バルト三国の時と同じく、無血の武力進駐で終わると錯覚していたようで、進攻作戦も補給計画も十分に検討されてはいなかったと考えられる。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド、カレリア地峡、ライシャラ、ソ連地上軍の侵攻・ソ連機の空襲を避けるために馬の引く橇に乗って住み慣れた故郷を去るフィンランド人避難民一家:戦争の初期の頃のカレリア地峡から避難する人々。写真は、祖父Antti Siiraと孫Tauno KuosaとVilho Kuosa、祖母Aune Siira、子供の母親Riitta Kuosaと彼女の兄弟Antti Siiraである。
Evakuointia Karjalan kannaksella sodan alkupäivinä. Kuvassa isoisä Antti Siira ja lapsenlapset Tauno Kuosa ja Vilho Kuosa, isoäiti Aune Siira, lasten äiti Riitta Kuosa sekä hänen veljensä Antti Siira.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-111155用。


第二次世界大戦の終了後の1948年、ソ連の公式見解は、次のように、ドイツの侵略的陰謀を強調するものである。
「ソ連=フィンランド戦争は,フィンランド政府が国際反動を援けて,国内の様々な反ソ的冒険の手段に利用させる政策をとった一例である。すなわち、第二次大戦の脅威とヒトラ一派の侵略を自前に控えていたソ連政府は。フィンランドをソ連攻撃の基地とする帝国主義者の計画に無関心ではいられなかった。そこで, ソ連政府は、1938 年春、フィンランドに ソ連の西北国境ならびにフィンランドの安全を保障する相互援助条約を提案したが拒絶され,次に1939年10-11月に,ソ連邦の安全保障, とくにレニングラードの安全保障の問題を具体的に検討することを提案した。しかし、帝匡主義列強の反動派の干渉したため,協定は合意できなかった……戦争煽動者らは,直ちに,手段をつくしてフィンランドとソ連の協調を妨害し始め.フィンランド政府に頑迷な態度をとらせ、最終的にフィンランドをソ連との紛争に追い込んだ。」

11月26日,カレリア地峡のマイニラ村で砲撃事件が勃発、フィンランド首相は、ソ連の撤兵要求を拒んで、兵力の増強を続け、危機的状況に陥ったソビエト政府は, レニングラード軍管区の部嫁に対して,ソ連=フィンランド国境とレニングラードの安全を保樟する手段をとるようにとの命令を,止むなく発したのである。」

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド、カレリア地峡、ライシャラ、ソ連地上軍の侵攻・ソ連機の空襲を避けるために疎開するフィンランド民間人:馬車が飼料の秣(まぐさ)を橇に積んで曳いている。その後ろにはやはり重要な家畜の牛が繋がれている。農業を営む一家の避難民であろう。
Evakuointia Räisälässä joulukuussa 1939.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-104739用。


ライシャラ(Räisälä)は、カレリア地峡のレニングラード北150キロに位置し、冬戦争ではフィンランドとソ連が争う戦場となった。現在、ロシア連邦領でメリニコヴォ(Мельниково)と呼ばれている。フィンランドはソ連に、カレリア地峡Karjalankannas)の割譲や海軍のハンコ港租借を要求されたが、拒否したため、ソ連の攻撃を受けた。冬戦争敗北後、フィンランドは、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に復讐戦争を仕掛けて、レニングラード近郊まで占領地を拡張した。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の中盤、フィンランド南部、首都ヘルシンキの北西200キロ、ミッケリ(Mikkeli)鉄道駅から出征するフィンランド軍兵士たち:ミッケリは、現在、フィンランド南部の南サヴォ県ミッケリ(Mikkeli)郡で、サイマー湖畔に位置する。
sotilaita Mikkelin asemalla vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 33 x 23 cm
Aineistotyyppi Kuva Aiheen aika 18.12.1939
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK19541228:53 Mitat 5 x 8 cm.
写真は,Museot Finna HK19541228:53用。


航空兵力が大規模に投入された国家総力戦Total War)となった第二世界大戦では、後方にあったの民間人も戦闘員も重爆撃機による無差別に空襲にあった。これは、国力を担う都市、港湾・飛行場、発電所、鉄道、架橋など後方の施設も優先攻撃目標とされたためである。無差別爆撃Terror Bombing )によって、物資、資源、燃料、食料、資金、技術、労働、技術を破壊することで、敵の国力を低下させ、勝利につなげるのである。市民も兵士も区別しない無差別爆撃が冷徹な計算の下に実行された。戦争を継続する意思を有していた国民が、戦争に疲れ、倦むようにさせるのも無差別爆撃の目標である。

 人権を無視して、大量破壊・大量殺戮を行う無差別爆撃Terror Bombing)は、空襲を受けた側では無差別テロとも呼ばれた。しかし、「民間人の殺害」「非戦闘員を攻撃目標としない」という騎士道精神spirit of chivalry)な戦争のルールは放棄された。破壊し殺し尽くす無差別テロが湖劇手段として正当化されたのが、第二次世界大戦だったが、この背景には、国家財政が、総力戦に勝つために爆撃機のような大量破壊兵器を生産し、それをい使う兵士を訓練していたことが指摘できる。無差別テロであっても、それを敵を弱体化させる空襲として正当化するプロパガンダが展開され、戦争支持の世論が形成された。

  第二次世界大戦は、1939年から1945年まで6年間も続いた大戦争だったために、参戦国の国家財政は戦争に大半の予算を使うことになり、多額の借金を追うことになった。戦争下の財政、戦時財政こそ人々の生活の質(QOL)や福祉水準を大幅に退化させるものだった。無差別テロを筆頭とする大量破壊・大量殺戮は、国家財政に支えられて続けられた。

第二次世界大戦の無差別テロによって最も被害を交付ったのは、枢軸国のドイツと日本の都市だった。日本では、1944年11月以降、サイパン島・テニアン島・グアム島などマリアナ諸島に基地を置いたアメリカ陸軍航空隊の四発大型爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレスによる空襲が始まった。

鳥飼行博研究室戦争写真集[左段]「本土東京大空襲Boeing B-29 Superfortress」にアクセスし、日本への無差別爆撃の実相について理解していただきたい。

鳥飼担当 HK「財政学」の課題

Report Writing

20世紀の帝国主義国家がヨーロッパで衝突した第二次大戦は、ヨーロッパで始まったが、アフリカ・中東・アジアに拡張し、大西洋・地中海、インド洋・太平洋など世界の海の戦いにも発展した。この人類史上最大級の大戦争は、国家が財政・産業・農業・交通・労働力・技術力の総力を挙げて戦った結果、大量破壊・大量殺戮をもたらした。しかし、この総力戦は、国民や植民地の支持がないと戦えないことは明らかだったため、国民と植民地の支援を得るためのプロパガンダ行われた。これは、戦争は国家・国民を守るための正義の戦いであり、敵は残虐非道な悪であるとの煽動であった。

鳥飼行博著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』青弓社「第9・10章 第二次世界大戦中期」(pp.254-286)に掲載されたような第二次世界大戦の飛行増産・空軍増強・ポスターのように、航空機生産充実のための動員事例を説明しなさい。

その際、鳥飼行博研究室戦争写真集
[右段]「アメリカの軍用機生産 Color Pictures:Mobilization」
[右段]「アメリカの兵士動員 Color Pictures:US Soldiers」
の2本にアクセスし、アメリカの航空機生産と航空兵力充実の事例に言及しなさい。

ここで、第二次世界大戦の無差別テロによって最も被害を交付ったのは、1944年-1945年の空襲えお受けた枢軸国のドイツと日本の都市だった。日本では、1944年11月以降、サイパン島・テニアン島・グアム島などマリアナ諸島に基地を置いたアメリカ陸軍航空隊の四発大型爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレスによる空襲が始まった。
鳥飼行博研究室戦争写真集[左段]「本土東京大空襲Boeing B-29 Superfortress 」にアクセスし、日本への無差別テロ爆撃について説明せよ。

1)「まとめレポート」をワード(word)で作成、ふさわしい題名,学番,学生氏名を明記。
2)まとめレポートの文字数は、1000文字以上、2400文字以下。他サイトの引用は不可。
3)このレポート課題はサンプルなので提出には及びません。実際の課題レポートは、授業支援システム(OpenLMS)に掲載。

東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程

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