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◆「環境政策II 」:エネルギー白書に示された伝統的エネルギー


写真(右):2004年9月、中国南部、雲南省大理州、出来上がった瓦を「だるま窯」の中から運び出す窯業労働者。この瓦は粘土瓦であるが、日本では石綿スレートをはじめとする粘土を使わないかわらが多くなった。
大理州は、山に囲まれ,渓谷にある盆地は,農地として利用されているが、集落内では窯業も盛んで、集落周辺に8基の瓦を焼く「だるま窯」が現役で瓦やレンガを焼いている。粘土で作った瓦を,庭先の窯で焼いているときは,窯から煙が上っている。
2013年4月18日、中国科学院地球環境研究所がこのほど発表した研究結果によると、中国のレンガ製造の歴史は5000年前まで遡ることが可能で、中国のレンガ製造の確かな歴史が証明された。同研究の関連成果はこのほど、世界的な学術誌「Archaeometry」(考古計測学)のウェブサイトに掲載された。人民日報が伝えた。


写真(右):2013年8月,フィリピン共和国ルソン島北部、コルディリェラ行政地域(Cordillera Administrative Region (CAR))、カリンガ(Kalinga)州の山村の鍛冶屋(Blacksmith)。ブッシュナイフ(鉈)の本体を熱して、大きなハンマーでたたき鍛えている。これを鍛造(たんぞう)という。鍛冶屋の作業でも、みなゴム草履をはいている。 この鍛冶屋では、農機具の修理・製造のほか、ブッシュナイフ、現地フィリピンでは、「ボロ」と呼ぶ片刃の鉈(ナタ)、ボロの鞘(サヤ)・柄(え)を製造している。「ブラックスミス」とは黒金(くろがね)、すなわち鉄を加工する職人で、金加工職人は「ゴールドスミス」という。このような農村家内工業が人々に技術を習得、伝承、蓄積、改良する方向に向かわせたことが窺われる。鍛冶屋の作業は、日本のJFEのような大規模製鉄所とは異なり、労働集約的技術に依拠しているが、金属を加工する製造業の一翼を担っている。
コルディリェラ行政地方は、ルソン島山岳地・内陸地で、棚田、豆栽培が生業の貧しい地域であり、電気・小学校はあるが、医院、道路、ガスなどインフラは未整備である。font>



写真(右):2013年8月,フィリピン共和国ルソン島中央部、マニラ首都圏ケソン市カのスラム、鳥飼ゼミでは、家庭訪問しながら生活や仕事に関すること聞き取り調査し、貧困や能力について研究している。ビニールシートや板でつくったバラックを見せてもらい、話を聞いて回る。笑顔で親切に迎え入れてくれる。筆者撮影。
開発途上国のスラム居住者は、農村から押し出され、あるいは都市の仕事や教育に惹きつけられた出稼ぎ者や移住者が多く、貧しいながらも貧困から抜け出そうと、都市インフォーマル部門において、厳しい低報酬の労働にいそしんでいる。また教育に熱心な傾向も指摘できる。彼らは、農村という地域コミュニティを引き継いで、都市のスラムにあっても一定の自治的な秩序をもって生活している。環境の悪い町外れなどの未開発の地域に住み着いたとしても、住民相互には、暗黙の了解・契約があり「無秩序」ではない。 自分の食べ物にも困るにも拘わらず 、捨て猫を拾って飼って、餌をあげている。バラックが並ぶ地域でも、空き缶を植木鉢代わりに花や観葉植物が植えられている。


雑談:大学教授の課題

University & Education

<今時の日本の大学教員は------?>
従来の大学では,教員が自分の専門を自分のやり方で教授し,学生はそれを好奇心と眠気を持って聞くというスタイルがありました。また,大学教員は,学生にわかりやすく教えるという教師というよりも,世界的な研究を推進する学者,学問ばかりで世間を知らない,あるいは象牙の塔に籠もって研究すると評価されてきました。また,大学生の学力が大幅に低下してどうしようもないと酷評されていますが,本当でしょうか。

確かに,大学・短大への進学率が,20%程度の時代,それも大変が男子学生で,女子の四年生大学進学率が10%未満の時代には,そのような教員(公立では「教官」)が多かったかもしれません。しかし,いまや女子も含め,進学率が48%にも高まり,女子の四年制大学への進学も当たり前になった時代です。

◆にもかかわらず, 「大学では研究が重視され,教員が教育に不熱心なために,授業をつまらなくなっている----」と一部有名大、一部の教授を引き合いに出した議論があります。しかし、この議論は、日本の大衆化した大学には当てはまりません。もちろん,従来の一部,そのような傾向が残っていることは確かです。学会あるいはメディア・社会で評価されている有名教授でも,授業が面白くない----と思っている学生諸君もいるでしょう。いい加減な授業,教え方の下手な授業,レベルの低い授業は,いつでも,どこにもあったのだと思います。すべての学生を満足させる授業など,いつの時代でも稀だったのではないでしょうか。

◆「象牙の塔」に籠もって大学で研究している大学教授も,研究熱心でかつ教育不熱心な大学教授,研究不熱心で教育熱心な大学教授を,私は一人も存じあげません。研究はするが教育しない大学,あるいは教育は施すが研究しない大学など,聞いたことも見たこともありません。。つまり,大多数の大学では,高等教育の大衆化の中で、研究重視の弊害が表面化するほど,大学教授は研究や教育の双方に不熱心ではありません。研究と教育は両輪のように並んでいるものであって,片方では,大学は前進できないのです。

◆大学の研究運営方針といっても,体系化し,専門化できるほど十分な予算とスタッフを揃える事は,大半の大学にはなかなかできないというのは本当です。また,大学スタッフの全てが研究と教育に重きを置いているわけではないのです。結論から言えば,世界大学大学競争を踏まえれば,研究も教育もどちらも世界市場で評価されなければ,大学の評価が高まらないと考えられるのです。研究と教育は一体ですから,どちらかに偏重するしているということは,まずないのです。授業がつまらない教授は,研究にも不熱心でしょう。研究していない教授の授業は,レベルの低いものと決まっています。いわゆる最高学府というからには,研究と教育の双方が備わっているはずで,どちらか一方だけが欠けているということはないのです。欠けているとすれば,研究も教育も双方がいい加減なのだと思います。重点の置き方は異なっても,研究か教育かという二者択一の大学はありえないと思います。

◆現在,私立短期大学や四年制大学でも,定員が集まらず,外国人を形式的に入学させたり,定員割れになって倒産・廃校になったりしているのが現状です。2004年10月19日、文部科学省による学校法人北九州学院解散命令もでました。文部科学省は、北九州短期大学を経営していた学校法人北九州学院(柿原博理事長)に対し、私立学校法に基づく解散命令を出しましかた、これは1978年以降、大学生が在籍せず、運営停止状態となっていたからです。多数の中国人留学生がアルバイト目的で集めた山形県の酒田短期大学を経営する瑞穂学園にも2004年7月、解散命令がでています。福岡市の東和大学も、学生募集を中止、在校生が卒業する2009年度で廃校になる可能性が出ています。

有名とはいえないような大学・特定の学部、短期大学では,入学希望や受験者が集まらない以上,大学経営は成り立ちませんから,学生集めを最優先することのにも十分に理由があることなのです。しかし,これは,教育も研究も双方を放棄する結果を生み出しました。人集めに狂奔する大学は,教育もいい加減なものだと思います。

◆新聞やTVに登場されるビジネスマンや評論家は,たくさんいらっしゃいます。その中には、有益な論も多いです。早稲田大学の改革など大きな成果を挙げた大学改革があるのも間違いないでしょう。教育改革かわら版は、大学受験を目指す高校生とその保護者向けに、国立大学法人化など大学改革に関する情報を提供して、公私の見解が広く掲載されています。大学競争など死語になったように見えますが、そこには、「平成19年度 全国主要公立高校の難関国立大学合格実績とその評価分析」として、旧帝国大学7校+東工大・一橋大+旧帝大以外の医学部医学科+国公立大合計合格者が誇らしげに掲載されています。これを見ると、世界最高峰の科学技術,文化を誇る日本ですが,研究や科学技術,教育の面から見て,世界に渡り合える「日本の最高学府」がたくさんあるように思えてきます。しかし,実は研究教育に関して,世界的に最高位の評価を受けている日本の大学は,それほど多くはありません。その証拠が,日本の大多数の大学では,入学希望者や定員の充足を気にせざるを得ない状況にあることです。少子化の影響だ,という人もいますが,これは短絡的です。世界の教育熱は高まっており,日本がすばらしい大学を擁しているのであれば,世界から優秀な留学生が勉強にやってくるはずです。日本語を学ぼうとする意欲的な学生が増えてくるはずです。

しかし,世界の学生,ビジネスマン,メディア関係者,留学生,研究者から一般市民まで,日本の大学に対する関心・興味は,それほど高くはないのが現状です。世界の大学ランキングからみても,日本の大学研究・大学教育の評価は,最高位のレベルにあるわけではありません。これは歴然としています。こうした状況で,研究重視で大学が成り立たないとか,大学教授が研究ばかりしているから,大学の授業がつまらないといったことは、ありえないのです。たぶん,教育も低位にあるから,世界評価が低いと考えられます。世界大学大学競争を踏まえれば,研究も教育もどちらも評価されていないので,大学の評価が高まりません。どちらかが評価されるのであれば,世界ランキングでは,最上位に大学名が登場してくることでしょう。


残念なことに,アジアの大学ランキングにも,日本の私学はほとんど出てこないのです。「今の日本の大学は------」といえば,日本の大学とその技術・教育が世界トップクラスの評価を受けていた,あるいはいると錯覚してしまいます。世界評価は,日本国内の内輪褒めとは違うのです。世界大学競争の時代では,国内外格差をを理解すべきです。多分,MBAをお持ちの識者や評論家の方々は,2006年ビジネススクール世界ランキングをご覧になって,自画自賛的な日本の大学評価はできないことをご存知だったので外国の大学でMBAを取得されたのでしょう。

国公私立大学を通じた大学教育改革の支援として、2007年度予算額:602億円(2006年度予算額:562億円)が投じられています。この大規模改革案では次の四点を重視しています。
1. 課程に応じた教育内容・方法の高度化・豊富化の充実
2. 現代的課題に対応できる人材養成と大学の多様な機能の展開
3. 社会の養成に応える専門職業人養成の推進
4. 国際競争力のある世界最高水準の研究教育拠点形成
つまり、 特色ある優れた取組みを支援するプロジェクトであり、選定された計画の大半は、有名大学のものなのです。有名大学ばかり見ていて、学力低下がはなはだしい大学生のいる大学は、恩恵を受けていません。しかし、大学生の大半が、このような大衆化した普通の大学に在籍しているのです。彼らを教育している大学教授が多いのです。大学内に格差もあるでしょうし、大学教授・大学生の格差はもっと大きいでしょう。そこで、大学上層部の手腕・能力と相まって、大学の経営・研究・教育方針は、異なってくるのです。しかし,すべての日本の大学は,グローバル化の中で,世界の大学と競争していことを定められているのです。世界大学競争のなかで,小手先の大学改革が,このような大競争時代にどこまで通用するかが問題です。

◆世界大学大学競争を踏まえれば,研究も教育もどちらも世界で評価されなければ,大学の評価が高まりません。少子化と高学歴化(大学の大衆化)のために,大多数の大学にとっては,魅力をアピール必要性は強まっています。そのために,スタッフ,施設,プログラムを準備することが求められています。

◆四年制大学への女子進学率は、1970年6.5%、1980年12.3%、1990年15.2%から2000年には31.5%へと大幅に上昇しています。大学教育の大衆化がすすめば、大学生は勉強のできるエリートだけではなく、勉強以外の興味から、進学してくる学生が多くなっています。そのなかで、高等教育を授けるべき大学が研究だけ重視していたのでは、学生の教育は進展しません。昔の旧制中学のような有能なエリートであれば、「教え方の下手な大学の授業」であっても、十分に知識をはぐくむことができたはずです。しかし、世界的に大学入試の大衆化が進行し、学生の大衆化の中で、学力の低下した入学者を対象に、大学が「下手な授業」を提供しても、全うな高等教育は不可能です。研究はいくらできても、教え方に魅力がなければ「興味ある授業」を行うことはできません。その意味で、「研究ばかりしている大学教授は、教員としては失格」という俗説は真実を含んでおり、下らない噂も、フィクション、間違いだけとは言い切れません。大学の教員は、研究と並んで教育に力を入れることが必要です。大学教授は、研究者兼教育者でもあるのですから、研究と教育の両輪を充実させることは、大衆化された大学では当然のことなのです。

大学改革の第一歩は、「興味ある授業」を展開できるような体制を作ることであり、それには、大学教授が研究を深めて自己研鑽を積み,その上で、教育にも十分配慮することが望まれます。十のことを知っていても,三のことしか教えることはできません。十のことを教えるには,三十のことを知っていることが求められます。世界大学競争のなかで,研究も教育のどちらか,できればどちらもできる大学教授がいてこそ,日本の大学評価が高まると考えられるのです。(2008年鳥飼行博記述のまま、変更・追加・削除なしに掲載)

スマートシティ(?)にある鳥飼行博研究室写真館や電脳掲示板(?)ブログ掲示もご覧ください。

「環境政策II」講義コンテンツ

Annual Report on Energy (Japan’s Energy White Paper)


以下には、授業の課題となるレポートを作成するための資料がありますので、まず読んで、それから短冊レポート作成に進んでください。

      平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書)
 

はじめにを見ると、「第1章 明治維新後のエネルギーをめぐる我が国の歴史」冒頭に、「2018年(平成30年)は、1868年(明治元年)の明治維新から150年の節目の年となります。本章では、明治維新以降の近代化の歴史の中で、我が国のエネルギー開発や利用の歴史を振り返ります。」と日本のエネルギー150年を振り返ると書いています。そして、その具体的項目は、「(1)明治維新以降、それまでの薪炭から石炭の利用が本格化し、国内の石油開発が始まった1868年〜1900年頃までの時代、(2)二度の世界大戦を経験し、大規模発電所や工場の電化等により電気市場が拡大した1900年頃から1950年頃までの時代、 」として、以下、(6)最大の供給危機に直面し、3E(エネルギーの安定供給、経済効率性の向上、環境への適合)に加え安全性の重要性を再認識した2011年の東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事故までの時代について、まで分類しています。

 今回の講義では、この日本の伝統的な一次エネルギー総供給を見たいのですが、『エネルギー白書』を俎上に挙げて、エネルギー行政を担う経済産業省エネルギー庁の伝統的エネルギーの認識を「第1節 1868年〜」を引用して示しながら、◆の後で批判的検討をしてみました。
 
◆表題からして「〜」を使うのは、年代区分のためでしょう。目次に節が並んでいるときはともかく、独立した節が「〜」が前後に着くのはどうかと思います。本文は次のように続きます。
 
1.照明から始まったガス利用

日本のガス事業は、1872年10月31日(旧暦9月29日)に、横浜の馬車道にガス灯が点灯したことから始まりました。神奈川県庁付近および大江橋から馬車道・本町通りまでの間にガス灯十数基が点灯され、日本で初めての近代的照明となったガス灯の点灯は、産業近代化を象徴するものでもありました。ガス灯が点灯された当日は、横浜市民だけではなく、東京方面からも多くの見物人が訪れ、祭りのような賑わいになりました。

ガス灯は、当時の合言葉であった「文明開化」の象徴となり、急速に普及していきました。1872年11月に約100基、12月に約240基、点灯の3か月後には、約300基に達しました。また、初めてガス灯が点灯してから2年後の1874年11月には神戸で、12月には東京で相次いでガス事業がスタートしました。

当時1本のガス灯にかかった料金は、1か月に3円55銭5厘で、現在の貨幣価値にして数万円と言われます。ガス料金は、今よりも高価なものでありました。このような理由もあり、ガス事業が始まったものの、ガス灯の利用はもっぱら街灯に限られており、庶民の家庭では、依然、江戸時代と変わらない行灯やろうそくが使用されていました。

◆ここでは、ガス灯の歴史が記述されていますが、「当時1本のガス灯にかかった料金は、1か月に3円55銭5厘で、現在の貨幣価値にして数万円」というのはいい情報です。しかし、このガス灯が日本のエネルギーというなら、農村・地方の生活には関係ありませんし、数百のガス灯が大都市に備わっても、大多数の都市庶民には、余興でしかないでしょう。

2.電気事業の勃興と戦前の電源開発

日本最初の電力会社である東京電燈は、1883年に設立許可を受け、1886年に開業しました。1887年には、東京電燈は日本で最初の一般供給用発電所である、第二電灯局(石炭火力発電所:25kW)を東京府日本橋区南茅場町(東京都中央区茅場町)に建設しました。
発足当初の東京電燈は、電気の供給事業のみではなく、全国各地で発電機の据え付け工事の請負や、電灯の宣伝を行うなど、電気事業の開拓に指導的役割を果たしました。1900年には全国の電力会社は53社まで増加することとなります。こうした流れの中、1891年には日本初の事業用水力発電所である、蹴上発電所が運転を開始しました。

日本各地で電気事業者が増加する中、電気の需要のうち主に家庭向けの需要である電灯需要が大半を占めており、主に産業向けの需要である電力需要はわずかで、電気の動力としての利用はまだまだ限られていました。また、当時の電気料金は、終夜灯1灯が1か月2〜3で、当時の米価3〜4斗(45〜60kg)に相当するほど大変高価なものでした。

◆ここは、明治時代から始まった電気事業の創業の歴史です。「当時の電気料金は、終夜灯1灯が1か月2〜3で、当時の米価3〜4斗(45〜60?)に相当するほど大変高価なものでした」というのは、ガス灯同様の状態を表しています。同じ表現で繰り返せば、いい情報ではありますが、これが日本の電機エネルギーというなら、農村・地方の生活には関係ありませんし、僅かの発電電力量で高価であれば、産業上も大きな影響力はありません。

◆「2.電気事業の勃興と戦前の電源開発」と題した小節ですが、「戦前」とはいつのことでしょうか。現在では、第二次世界大戦・太平洋戦争の勃発前をさすのが「戦前」ですが、エネルギー白書のいう戦前とは1894年の日清戦争の前ということでしょうか、よくわかりません。西暦区分は明瞭ですが、「伝統的」では曖昧です。しかし、「伝統的」とは、個々人の常識や発想に依拠した言葉ですから、解釈の余地が広くなります。

3.石炭利用の本格化 〜近代炭坑の開始〜(◆副題の「〜」と混同)

日本で石炭が発見されたのは、1469年(文明元年)、九州の三池村稲荷村(とうかむら、現在の大牟田市)の百姓伝治左衛門が近くの稲荷山に薪を取りに行き、枯れ葉を集めて火を点けると、突然地上に露出していた黒い岩が燃え出した、これが”燃える石”つまり石炭の発見であると伝えられています(1859年(安政6年)、橋本屋富五郎発行「石炭由来記」外)。
石炭は17世紀後半には、筑前・長門地区等で、薪の代替として家庭用燃料などの自家消費を主たる目的として利用されていましたが、産業用に使用され始めたのは18世紀初頭になってからです。瀬戸内地方で製塩業者向けに販路を見出すと大きく発展を遂げることになります。
1765年イギリスでワットが蒸気機関を改良した際、石炭は蒸気機関向けの燃料として注目されるようになり、その後、鉄道や船舶の燃料として大量に使用されることになりました。江戸時代の末期に日本が開国した頃には、日本の石炭は外国商船の燃料用として供給されるようになりました。

日本政府は1872年に「鉱山心得」、1873年に「日本坑法」を制定し、石炭を採掘する資格を日本人に限定し、外国人による共同出資も認めない本国人主義を採用しました。1874年には国内出炭量の正式記録が始まりました。

◆いい情報です。1868年以降の明治時代を語る節だったはずが、石炭が昔から使われたので、少し歴史を遡ったのでしょう。

4.国内石油開発の開始〜石油ランプの輸入による灯油需要の増大〜

我が国最古の石油・アスファルトに関する記述は、668(天智7)年に越の国(現在の新潟県)から燃える土、燃える水が宮廷に献上された、とされる「日本書紀」の記述です。江戸時代の見聞録では、自然に地表に表れた石油が、その独特の油気から「くそうず(草水・臭生水)」と呼ばれています。また1812(文化9)年に刊行された「北越奇談」に“越後七ふしぎ”の一つとして越後の火井(天然ガスの炎)の絵図が残されているなど、我が国では古くから石油・天然ガスの採取が行われていました。

日本の石油開発産業の始まりは、1859年に米国のペンシルバニア州でエドウィン・ドレークが油井の機械堀りを行ってから遅れること12年、1871年に長野県善光寺の浅川油田で行われた綱式掘削と言われています。この掘削を行ったのが、石坂周造が設立した、日本初の石油会社とされる長野石炭油会社であり、採取された原油は近傍に設置したこちらも日本初の石油精製所で精製・販売されました。

こうした動きの背景となっているのが、1859年の開国により西洋から石油ランプが輸入されたことです。文明開化の象徴として街路灯や商業用として一般の目に触れ、次いで家庭や工場にも急速に普及し、石油ランプ用の灯油需要が急増することとなりました。当時、そのほとんどは米国からの輸入によりまかなわれており、1868年に121klであった灯油輸入量は、1894年には1600倍超となる20万klにまで達しています。このような灯油の商品価値の高まりを受け、国内での石油開発推進の機運が高まりを見せました。

1888年、新潟県において「日本石油会社」が資本金15万円という当時では巨大な資本金で設立され、新潟県出雲崎海岸において尼瀬(あまぜ)油田を発見しました。これは、我が国で初めて機械堀りでの石油掘削の成功であり、以降他の企業の掘削の機械化を促したこと、この掘削が世界初の海洋掘削と言われていること、石油生産量の飛躍的な増加により一般の石油開発への関心を高めたことなど、以後の我が国石油開発に大きな影響を与えたことから、我が国の近代的石油産業の出発点であるといえます。
1893年には同じく新潟県に「宝田石油会社」が設立され、他の鉱業者の買収・併合を繰り返すことで成長し、日本石油会社と並んで明治時代における我が国の石油開発・精製部門を二分することとなりました。

なお、1873年に施行された日本坑法において、初めて石油が法令上鉱物として扱われることとなり、1890年の鉱業条例では石油鉱業者に鉱区税・鉱業税の納税義務が課せられました。また、1899年に施行された関税定率法では石油関税が課されるなど、石油開発の発展に合わせ、政府の制度整備も進むこととなります。


◆以上で「第1章 明治維新後のエネルギーをめぐる我が国の歴史」「第1節 1868年〜」の明治時代までの日本のエネルギーを解説が終わりで「第2節 1900年頃〜」と続きます。ここまでの基本的な問題は、日本のエネルギーはどのようなものだったのかということです。ガス、電気、石炭、石油と新たに利用が始まり、その後大幅に消費が増えたエネルギーが暗示的に記述されています。エネルギー白書では、ガス灯、電気、石炭、石油が徐々に普及してきたこと、それも僅かな利用にとどまったとしていますから、明治時代の日本ではほとんどエネルギーを使ってこなかった、ということになりそうです。となれば、明治時代以前の日本では、エネルギーの供給も需要も少なく、現代のエネルギーの視点から見れば、無視できるような微量のエネルギーしか利用していなかったのでしょうか。「日本書紀」の石油への言及は、古代日本で石油のエネルギー利用はなかったことを意味します。古代から中世まで、エネルギーなしの生活を、近世になっても日本人はエネルギーにはほとんど依存しない生活を送ってきたというのでしょうか。

 エネルギー白書の言及した基本的問題、すなわち伝統的エネルギーについて皆さんたちに考えてもらいたいのです。官僚や政治家は、日本のエネルギー利用の歴史を振り返った結果、テクノロジー・技術水準が低かった時代は、ガス・石炭・石油、電気のエネルギー利用ができなかったことを強調します。それでは、古代から近世まで、生活・経済でほとんどエネルギーを利用してこなかった、というのは本当でしょうか。

現代の視点で見れば、明治時代まで日本人はエネルギー利用は限られたものでした。それでは、大昔から、世界で、エネルギーを利用しないで生活が成り立っていたのでしょうか。20世紀になるまでは、産業・経済の上で、エネルギー利用は重要な役割を果たしていなかったのでしょうか。エネルギー行政を担う経済産業省 資源エネルギー庁の官僚・政治家の認識・知性・発想力が問われるところです。

「環境政策II」課題レポートサンプル

Report writing


「環境政策I/II」授業の短冊レポートの作成には、教科書拙著『開発と環境の経済学―人間開発論の視点から』東海大学出版部を入手していることが前提です。教科書ページを指定したレポートも課します。受講にテキスト必須です。入手しないと講義は理解できません。

この講義コンテンツを全て閲覧し、manabaレポートで開示される課題で短冊(レポート)を作成し、manaba経由で提出してください。

1)レポートは、ワード作成、添付ファイルでmanabaレポート提出機能で送信。
2)文字数は、1200文字以上2400文字以下。他サイトの引用は不可。
3)レポート本文には,ふさわしい題名,学番,学生氏名を明記。
4)manabaレポート提出時、メール件名は「明治1868」に続けて学生氏名を明記のこと。
例「明治1868 山田花子」
条件を満たさないレポートは、未整理となるので採点できません。
誤送信、添付忘れ、誤字・脱字などあっても、1回だけの提出で、出し直しはできません。
不備な場合は、書き直し・再提出をしてもらうかもしれません。

<レポート課題サンプル>
manabaのレポート参照。

短冊課題の事例
『平成29年度エネルギーに関する年次報告(エネルギー白書)』「第1章 明治維新後のエネルギーをめぐる我が国の歴史」「第1節 1868年〜」 では、明治時代までの日本ではエネルギーはごく一部にすぎず、生活・経済では重要な役割を果たしていないかのように記述している。このような経済産業省 資源エネルギー庁の認識に対して、批判的検討を加えなさい。

東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程

TorikaiLab, Tokai University

大学での講義「環境政策I/II」「開発経済学」「環境協力論」は、持続可能な開発を、開発途上国、地域コミュニティの視点も含めて、経済学的に分析する授業です。俗説とは異なる議論を展開し、批判的検討能力を身につけます。

当研究室へのご訪問ありがとうございます。論文,データ,写真等を引用する際は,URLなど出所を記載してください。ご意見,ご質問をお寄せ下さる時には,ご氏名,ご所属,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。 連絡先: torikai@tokai-u.jp
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