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戦争と平和の本


◆大学での講義「開発経済学」「環境協力論」「環境政策?」「環境政策?」は、持続可能な開発を、開発途上国、地域コミュニティの視点も含めて、分析する授業です。俗説とは異なる議論も展開しています。

『地域コミュニティの環境経済学−開発途上国の草の根民活論と持続可能な開発』(多賀出版2007年):少子高齢化・ジェンダー,再生可能エネルギー,熱帯林,廃棄物輸出を分析しました。

『社会開発と環境保全―開発途上国の地域コミュニティを対象とした人間環境論』(東海大学出版会2002年)は農家、商店など個人経営体、都市インフォーマル部門の積極的な役割に注目して、草の根民活論を展開しました。

『開発と環境の経済学―人間開発論の視点から』(東海大学出版会):「環境協力論」「開発経済学」「環境政策?・?」のテキストで,難民,軍縮など平和人権も扱っています。

『環境ネットワークの再構築−環境経済学の新展開』田中廣滋編(中央大学出版部)の一章を担当し、熱帯林現象の要因と森林保全対策について、草の根民活に依拠した議論を展開しました。

『地球環境政策』宇沢弘文・田中廣滋編著(中央大学出版部)の一章を担当し、持続可能な開発のための環境政策を、南北格差に注目して、展開しました。

『ポスト福祉国家の総合政策−経済・福祉・環境への対応』丸尾直美・益村真知子編著(ミネルヴァ書房)の一章を担当し、個人経営体に着目した草の根の環境支援について、具体的な方法を検討しました。

『学習漫画 サリバン先生』(集英社2011年刊行)を監修し、ヘレンケラーの先生だったアン・サリバンの伝記とノーマライゼーションの邦画について検討し、巻末の解説を書きました。

『写真ポスターから学ぶ戦争の百年−二十世紀初頭から現在』(青弓社2008年刊行)では、二十世紀の戦争を扱い大量破壊、大量殺戮からプロパガンダまで扱いました。

『写真ポスターから見るナチス宣伝術−ワイマール共和国からヒトラー第三帝国』(青弓社2011年刊行)では、暴力、テロによるナチ党政権奪取と戦争動員を解説しました。


パラオ 海底の英霊たち 記録写真集
パラオ 海底の英霊たち 記録写真集


アッツ島玉砕戦 われ凍土の下に埋もれ

アッツ島玉砕戦 われ凍土の下に埋もれ


DVD コレヒドール戦記

DVD コレヒドール戦記


コミック版 男たちの大和 YAMATO

コミック版 男たちの大和 YAMATO


太平洋戦争の時代 写真記録

太平洋戦争の時代 写真記録


神風(かぜ)よ鎮め 史料からみた海軍神風特攻隊員の青春

神風(かぜ)よ鎮め 史料からみた海軍神風特攻隊員の青春


白菊特攻隊 還らざる若鷲たちへの鎮魂譜 光人社NF文庫 / 永末千里 〔文庫〕

あゝ神風特攻隊―むくわれざる青春への鎮魂

あゝ神風特攻隊―むくわれざる青春への鎮魂


日本海軍・太平洋戦史 3 ~硫黄島攻防戦・神風特攻隊・終戦と平和~


大本営に見すてられた楽園―玉砕と原爆の島テニアン

大本営に見すてられた楽園―玉砕と原爆の島テニアン


ペリリュー アンガウル・トラック

ペリリュー アンガウル・トラック


アンガウル、ペリリュー戦記 玉砕を生きのびて
アンガウル、ペリリュー戦記 玉砕を生きのびて


撤退―ガダルカナル・コロンバンガラ・キスカ

撤退―ガダルカナル・コロンバンガラ・キスカ


父のガダルカナル戦争日誌

父のガダルカナル戦争日誌


ガダルカナル決戦記 孤島を血と硝煙で染めた六カ月

ガダルカナル決戦記 孤島を血と硝煙で染めた六カ月


射殺されたガダルカナル日本兵捕虜 フェザーストン収容所事件を追う

射殺されたガダルカナル日本兵捕虜 フェザーストン収容所事件を追う


ドキュメント/硫黄島の真実と東京大空襲

悲劇の幕開け ガダルカナル勝者と敗者の研究

悲劇の幕開け ガダルカナル勝者と敗者の研究



パンツァータクティク―WW2ドイツ軍戦車部隊戦術マニュアル


第653重戦車駆逐大隊戦闘記録集


捕獲戦車


フンクレンクパンツァー―無線誘導戦車の開発と戦歴

アルベール・カーンコレクション よみがえる100年前の世界
アルベール・カーンコレクション よみがえる100年前の世界



ヤフーショッピングを通じて,書籍を含め,多数の種類の商品をネット購入できます。

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戦争と平和の文献リスト:鳥飼研究室別館リンク
1.沖縄戦,集団自決,特攻,玉砕戦に関する書籍とモデルを紹介しています。本表紙は,書店・販売店作成のアフェリエイト仕様の宣伝ですので,そのまま掲載し,加工していません。クリックすると解説,大画像に移ります。
2.分野別の書籍リンクはコチラです。
3.紹介した書籍の内容・見解は,鳥飼行博研究室で展開している議論とは異なる場合,あるいは反する場合があります。
4.20世紀の戦争は,『写真・ポスターで見る戦争の百年』青弓社で分析しました。平和と戦争の書籍購入リンクもご覧ください。
4.書籍の画像は,広告アフェリエイトですので,クリックすることで,書籍の内容・目次・著者紹介・価格など情報・広告が表示されます。気に入れば購入,宅急便での自宅配送もできます。注文1500円以上の場合は,送料無料です。
5.書籍購入時の支払い方法は,クレジットカード決済,あるいはコンビニ店頭支払いが,手数料がかからず有利です。書籍受け取り時の現金払い(代金引換)の場合,1回200円の手数料がかかります。
6.当ページは,宣伝用アフェリエイトを使って書籍情報を提供しています。これが,規約に基づく「商品の情報提供」として利用を認められているためです。鳥飼研究室での書籍販売が目的ではありませんが,書店,出版社の営利行為にも関わってきます。このような著作権・営利行為と書籍情報提供の相克をご理解の上,ご利用ください。

硫黄島の戦い  Ioujima
鳥飼行博著,青弓社,368p,2008年8月発行
「戦争の世紀」といわれる二十世紀から現在までの歴史を、戦争にまつわる写真やポスター、新聞記事や公式報告をふんだんに紹介しながらたどり、それぞれの時代背景をわかりやすく解説する。近・現代史を学び直したい人の格好の入門書。
佐藤好美著, 国土社,31p,2004年8月発行
おとずれたイラクで目にしたのは、人なつこい子どもたちの笑顔と、一方で、劣化ウラン弾の被害にくるしむ子どもたちのすがたでした。戦争がはじまると、報道されるのは爆発現場や亡くなった人の数ばかり。「あの子たちはぶじなの?」うつした写真を手わたしながら子どもたちのぶじをたしかめたい。女性として、母親としての視点のイラクの人々。
針生一郎著,国書刊行会,287p,2007年12月発行
1 作品図版1―戦闘図・戦地での生活など、軍と兵士を取り巻く環境や、銃後の生活/2 大陸・南方、歴史画、仏画、象徴、彫刻、現所在不明作品/3 論考(戦後の戦争美術―論儀と作品の運命/「戦争画」をめぐる広大な密室―外へ/「作戦記録画」小史1937〜1945/戦争画の行方1945〜現在/戦争下のヨーロッパ美術研究/裏面から見た戦争記録画/戦争と日本の彫刻1937〜1945/イギリスの戦争画とケネス・クラーク)/4 作品解説
ラッセル・マーティン /木下哲夫著,白水社,257p,2003年12月発行
名画誕生とその後の波瀾万丈。惨劇を描いた真意、内戦とフランコとの確執、バスク自治問題。
1 スペインの死/2 闘牛場の記憶/3 指先から迸る絵/4 スペインを救え!/5 まだ履ける靴/6 亡命生活/7 最後の難民/8 ゲルニカの“ゲルニカ”




沖縄の戦い

 Okinawa

 
































 

玉砕戦と特攻作戦  Kamikaze Sucide Attack
【アッツ島玉砕】玉砕第一号・キスカ島撤退・タラワ島玉砕
【サイパン島玉砕・テニアン島玉砕】日本軍捕虜と天皇サイパン訪問
【神風特別攻撃隊】関行男大尉が特攻第一号、大西瀧治朗中将が特攻の生みの親という神話
【沖縄特攻菊水作戦】練習機・水上機の特攻
【特攻兵器「回天」「桜花」「震洋」】
【ハワイ特別攻撃隊】九軍神と甲標的
【特攻作戦の崩壊】特攻の戦果と特攻自然発生説
【特攻機出撃数・戦果・被害の統計】
【「玉砕」美化】(2006年8月17日)朝日新聞北海道版 小川原脩の生涯
【特攻は自爆テロか】真珠湾攻撃と9・11同時テロ
【石原慎太郎『俺は、君のためにこそ死ににいく』中国論評】特攻隊員と「特攻の母」富屋の鳥濱トメ
【特攻隊員と学徒動員】出陣壮行会・勤労奉仕
【特攻基地「知覧」と知覧高女・鳥浜トメ】群青

中国大陸での戦い

  Sino-Japan War 1937-1945

【列強の中国認識】義和団事件以降の米中接近
【第一次上海事変】海軍特別陸戦隊と爆弾三勇士の神話
【盧溝橋事件・第二次上海事変】日中全面戦争
【西南聨合大學の抗日戦争】
【近衛文磨の暴支膺懲】
【ノモンハン事件】モンゴル・満州国での日ソ戦争
【フライングターガーズ】アメリカ義勇軍の対日戦
【南京事件】兵士,便衣隊,POW,敵性住民の処刑

日米戦争

 Pacific War 1941-1945

 
【ハワイ真珠湾奇襲攻撃】騙し討ちと軍神
【東京初空襲・ドーリットル空襲】真珠湾の報復
【レイテ沖海戦とレイテ島侵攻】マッカーサー将軍
【沖縄戦と住民】ひめゆり学徒隊と鉄血勤皇隊
【反日プロパガンダ】メディアリテラシー
【マリアナ沖海戦】海軍乙事件と空母艦隊決戦
【日本本土空襲】B-29による都市無差別爆撃
【戦艦「大和」沖縄突入作戦】天一号作戦の水上特攻
【広島・長崎への原爆投下】グローブズ将軍の投下命令
【昭和天皇の聖断】終戦と日本降伏

沖縄戦

 Battle of Okinawa 1945

 
【沖縄地上戦】バックナー将軍と牛島将軍
【沖縄戦の住民集団自決】渡嘉敷島・座間味島・チビチリガマ
【学童疎開船「対馬丸」遭難】無制限潜水艦作戦
【沖縄戦の統計】:兵力・砲弾発射数・揚陸トン数

総力戦における動員

 Total War & Mobilization

 
【米国の労働者動員】航空機産業に動員された女子労働者
【米国の戦時動員ポスター】【米軍の兵士動員】
【アメリカの産業】【アメリカの生活】
【戦争プロパガンダ】メディアリテラシー
【イタリアのファシズム宣伝】
【フランス・フィンランド・ノルウェーの戦争】ヴィシー政府と対独協力
【ナチスの宣伝】【戦争と英国女性】
【連合軍捕虜POWの運命】捕虜死亡率と収容所

戦争を巡る人物伝

Surrender of Japan

 
【大元帥昭和天皇の開戦と終戦】対米英宣戦布告の大詔
【鈴木貫太郎内閣の終戦】ポツダム宣言黙殺発言
【宇垣纒司令官の特攻】最後の特攻
【近衛文磨の上奏文】国体変革と共産主義革命
【米内光政と阿南惟幾】海軍大臣の特攻推進・世渡りと陸軍大臣の忠義・自決
【石川啄木の社会主義と戦争】時代閉塞の現状
【魯迅の日本留学・戦争】阿Q正伝と革命

兵器開発と戦歴

  Weapons & Peace Maker

【特攻兵器「回天」】人間魚雷
【海軍航空技術廠MXY-7「桜花」】神雷部隊野中五郎少佐
【突撃艇「マルレ」「震洋」】陸海軍の特攻艇
【最後の特攻兵器】「蛟龍」「海龍」特殊攻撃機キ115「剣」
【日本の核兵器】原爆開発の経緯:日本は被害者でなく加害者になった可能性はあるのか。

平和・人権と戦争

 Peace & War

 
【平和・人権と戦争(1):現代の問題】:対人地雷,難民,テロ,軍縮,大量殺戮兵器
【平和・人権と戦争(2):世界大戦】動員,慰安婦,ホロコースト,航空兵器
【与謝野晶子の戦争】石川啄木・芥川龍之介の社会思想
【戦争文学】石川啄木、与謝野鉄幹、三好達治、石川達三、火野葦平、斎藤茂吉、高村光太郎、永井荷風、サンテグジュペリ
【自爆テロと特攻】真珠湾攻撃と同時テロ

終戦と戦後

 World War II Conferences

 
【靖国神社参拝と戦没者追悼】国家神道・軍神・マサダの要塞
【大元帥の聖断】カイロ会談・ヤルタ会談・ポツダム会談
【生きた米内光政と自決した阿南惟幾】
【極東軍事裁判】人道に対する罪

 

半藤一利

 Review

「戦没者230万人:兵士を「駒」扱い 愚劣な軍事指導者たち」
2014年8月15日
はんどう・かずとし 1930年、東京生まれ。東京大文学部卒。「文芸春秋」編集長などを経て作家に

 「戦没者230万人」という数字を、私たちはどのように読み解けばいいのだろうか。昭和史の著作が多い「歴史探偵」こと作家の半藤一利さん(84)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

 戦前の日本は近代国家の体をなしていなかった。「戦没者230万人」という数字はそのことを端的に示していると思います。国民を戦地に送り込むならば、国家は責任を負わなければなりません。いつ、どこで、どのように戦没したのか。確実に把握していなければならない。ところが、「戦没者230万人」という大枠のみが残り、具体的なデータは部分的にしか残っていません。厚生省(当時)は戦後、戦域別で戦没者数を算出しましたが、そこまで。死因までは分類できていない。230万人というざっくりとした数字も、私は過小評価ではないかと疑っていますよ。

 詳細が分からないということは道義的にはもちろん、軍事的にも非常に問題があります。前線に送り込んだ部隊のうち、戦闘に耐えうる兵士は何人なのか。あるいは戦傷、戦病者は何人いるのか。正確な戦力を測れずして、作戦を立てることはできません。そもそも、前線に送らなければならない武器弾薬、糧食、医薬品などを算出するためにも、絶対に必要です。それができていなかったのではないか。

 兵站(へいたん)を軽視した、あるいは無視したのが日本軍でした。「輜重(しちょう)が兵隊ならば チョウチョ、トンボも鳥のうち」というざれ言があります。輜重とは兵站部門のことです。そもそも、陸軍参謀本部や海軍軍令部のエリート将校にとって、兵卒はしょせん、1銭5厘(当時のはがき代)で集められる存在。作戦時には3日間分のコメ6合など25キロの荷物を背負わせ、前線へとおっぽり出した。食糧がなくなれば、現地調達しろと。降伏はありえないのだから、負け戦になれば玉砕しかありえません。敗残兵の消息など気にもとめなかった。

 これに比べ、米国の手厚さは語るまでもないでしょう。あるエピソードがあります。ブッシュ元大統領(第41代ジョージ・H・W・ブッシュ、第43代大統領の父)は戦時中に小笠原諸島の父島沖で撃墜されました。元大統領は救助されましたが、この時に捕虜になった同僚がいました。戦後、米軍の調査団が父島を訪れ、彼が埋葬された墓地を掘り返したんです。すると、遺骨の首は切断されており、日本軍に処刑されたことが明らかになった。一兵士に対するまで、その死をないがしろにしない。国家としての責任を果たしているんですね。

 日本軍は自己の実力を顧みず、攻勢の限界線をはるかに越えました。餓死者が続出するのは当然のことです。私は戦没者のうちの7割が、広義での餓死だと思っています。このような軍隊は古今東西にありません。人間をまるで、将棋の駒のように扱っている。

 海上を移動中に乗船が沈められ、死亡した陸軍将兵は18万人にも上ると見積もっています。これも補給軽視、つまりは人命軽視の表れです。開明的とされている海軍ですが、陸軍とそんなに違いはありません。レイテ沖海戦で、小沢艦隊はおとりになりました。基幹の空母4隻に搭載した航空機は定数をはるかに下回る100機余りしかなかったのに、整備員は必要もないのに定数を乗せた。帳簿上の員数合わせだけを気にする官僚主義としかいいようがない。

 軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやりました。特攻作戦も同様です。特攻隊員たちの純粋な気持ちを利用した。「日本的美学」などと言われるが、とんでもない。立派な作戦であるような顔をして、机の上で「今日は何機出撃」などと記していた参謀らを許すべからずです。

 集団的自衛権の行使について、容認する声があります。何を言ってんだ、と思いますよ。戦後の日本は平和だった。その権利を行使しなかったため、何か問題があったのでしょうか。 

 太平洋戦争を巡り、これまで各国の将軍、提督たちを数多くインタビューしてきました。みんな、偉い人は生きているんですよ。戦争とはそういうものです。「戦没者230万人」の犠牲のうえに日本は成り立っています。その数が示していることは何か、考えてみるべきじゃないでしょうか。  

保阪正康

 Review

特攻70年:「特攻は日本の恥部、美化は怖い」 
2014年10月24日

 特攻とは何か。特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点というノンフィクション作家、保阪正康さん(74)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

     ある元海軍参謀にインタビューをした際、戦時中の個人日誌を読ませてもらったことがあります。特攻隊についての記述があり、「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」と記してありました。部外秘の文字も押されて。この元参謀によると、特攻機は離陸した後はずっと、無線機のスイッチをオンにしているそうなんですよ。だから、基地では特攻隊員の“最後の叫び”を聴くことができた。「お母さーん」とか、女性の名前もあったそうです。「大日本帝国万歳」というのはほとんどなかった。ところが、そうした通信記録は残っていない。故意に燃やしてしまったに違いありません。“軍神”が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺい)すべきことだったでしょうから。

 高校時代に「きけわだつみのこえ」を読みました。それが特攻隊について、考えるようになった契機です。その後、生き残りの隊員や遺族らに取材を重ねてきました。学徒出陣した上原良司氏(陸軍大尉。1945年5月、沖縄で戦死)の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していました。彼らは「向こうの奴(やつ)ら(=米軍)何と思うかな」「ホラ今日も馬鹿(ばか)共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」と言い合っていたそうです。取材後の彼女の何気ない言葉は重く、響いています。「指揮官たちは『後に続く』と言いながら、誰も飛び立たなかったそうです。その言葉を信じた兄たちが事実が分かったら、どんな気持ちになるでしょう」

 高級参謀をはじめ、日本の職業軍人とは何者だったのでしょうか。英国は階級社会ですが、国を守るという点では王族・貴族もありません。戦争で死ぬということについて、平等性がある。戦争に貴賤(きせん)なしです。日本でも高松宮さまなどは前線勤務を希望していたようです。ある陸軍大学校出身の元参謀には「息子を入学させるなら、陸大だよ」と言われました。彼の同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです。

 兵士への危険負担を限りなく、低くすることが本来の指揮官の役割です。国民的バックグラウンドの下で、西洋の民主主義国家にはそれがあった。彼我の戦力を客観的に分析する。物量主義も、兵士を死なせないためにあるんです。日本にあったのは生煮えの軍事学です。仏独に学んだ上っ面だけの西洋軍事学に“日本精神”である武士道を乗っけた。「武士道と云(い)ふは死ぬこととみつけたり」(「葉隠」)の文言だけを取り出し、都合良く利用した。

 特攻は日本の恥部です。命を慈しむ日本の文化や伝統に反することです。命中率99%であったとしても、だめなんです。志願を建前としていましたが、実際には強制でした。本人が望んでいない死を要求し、死なせる。こんなものは軍事ではない。国家のため、大義のためという、自己陶酔でしかない。戦争とは人の生死をやり取りする闘争です。ロマンなどないんです。特攻は米軍に畏怖(いふ)心を与え、日本本土上陸をためらわせた−−との説がありますが、とんでもない。米軍は暗号名「コロネット」「オリンピック」などの上陸作戦を着々と準備していました。一方の日本軍は「義勇兵役法」で国民の根こそぎ動員を決め、1億総特攻に駆り出そうとしていた。国民一人一人が特攻要員だったんです。

 「特攻隊員は我々である」との視点が必要です。あの時代に生きていれば、あの時代が繰り返されれば、自分も特攻隊員になるかもしれない。特攻を考える時、必要なのは同情ではなく、連帯感です。隊員の苦衷、苦悶(くもん)が分かれば、美化することなどできないはずです。「特攻で死んだ人に失礼ではないか」「彼らのおかげで今の日本がある」などと言ってくる人がいます。どうして、そんな軽々なことを言えるのか。特攻を命じた指揮官たちと変わりませんよ。

 クラウゼビッツ(プロイセンの軍事学者)は戦争を「他の手段をもってする政治の延長」と位置付けました。本来は政治こそが、軍事の上になければならなかった。日本が陥った軍部独裁は政治家たちだけの責任でもありません。国民も軍をもてはやし、甘やかした。勝つことこそが軍の目的ですから、負けると分かっても戦争をやめることなどできなかった。行き着いた先が特攻です。

 特攻について、時に涙が止まらなくなるほどの感傷を持っています。それとともにわき上がるのは軍への怒りです。この二つがあってこそ、特攻に向き合えるのではないでしょうか。どちらかに傾いてもいけない。特攻は時代を測るメルクマールだと思っています。いたずらに美化することは非常に怖いことです。集団的自衛権によって、自衛隊が海外派兵される可能性が高まっています。良くも悪くも、軍隊というものには国民性が表れます。今こそ、旧軍について、十分に検証すべきです。それが無くては、特攻というシステムを採用するような組織が再び、生まれてしまうかもしれません。

 ◇ほさか・まさやす
 1939年、札幌市生まれ。74歳。同志社大文学部卒。出版社勤務を経て、著述活動に入る。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。長年の昭和史研究で2004年に菊池寛賞を受賞した。  

いのちへの希求

 Life

◆戦時中、日本軍の将官は、部下に対して一度も「降伏命令」を出したことがなかった。大元帥昭和天皇の聖断が、降伏命令として唯一のものである。太平洋戦争初期の米英軍は、現地司令官が、部下に降伏命令を出した。英領シンガポール、米領フィリピン、オランダ領インドネシアなど、みな現地の最高司令官が、部下に降伏命令を出したために、部下は「名誉の降伏」をすることができた。命令で投降、捕虜になったのであり、勝手に戦闘を放棄したのではない。戦場のビラ伝単も,日本兵の投降を呼びかけるものだった。

◆枢軸国のドイツ軍、イタリア軍も集団投降したが、これも現地司令官が連合軍に降伏し、部下に降伏命令を出したためである。つまり、軍司令官・指揮官の降伏命令とは、部下に戦闘終了、武装解除に従って捕虜となることを命じることであり,司令官が降伏の全責任を負うという、きわめて勇気のいる行為である。ソ連軍では,投降命令を出した指揮官だけでなく,それに従って捕虜となった兵士まで,罰せられた。昭和天皇による終戦の聖断も投降命令であり,勇気の要る行動だった。

◆日本軍の捕虜POWは、前線の将兵が個々に投降したり、収容されたりしたことで、個別に生じたものである。一般将兵は、最前線で戦い、やむを得ず捕虜となった。しかし、軍司令官たちは、作戦指導の失敗、敗戦責任を認めず、降伏命令を出さなかった。徹底抗戦を命じてから自決した。これは、任務に忠実に尽くした後に,敵に破れた自らを処すことであり,忠義の臣のような印象を与える。しかし、司令官として,配下の部下に対して,自決の道連れにする行為で,あるいは事実上の玉砕命令である。 

◆1943年5月,玉砕第一号とされたアリューシャン列島アッツ(熱田)島守備隊(山崎部隊)の場合,北海道札幌の軍司令官からアッツ守備隊長山崎大佐への玉砕命令が出ていた。これは,大本営の意向だったが,山崎隊長は,部下に最後の突撃を命じ,自らも玉砕した。山崎隊長は,援軍・補給を要請し,守備隊は援軍・補給を期待して戦っていたのであるが,軍はこれに応えるに,玉砕を命じたのである。

◆現地司令官を指導する本土の参謀本部、軍令部は、作戦の指導の失敗を、現地司令官の自決、玉砕命令によって、現地部隊に押し付けた。軍上層部の作戦指導の失敗は覆い隠された。「玉砕」した将兵・民間人を賞賛し、彼らの立派な忠勇を無為にするなと訴えることで、軍上層部の作戦の失敗、敗戦の責任は追及されなかった。遺族は、無謀な作戦で肉親が犬死したとは考えたくなかった。立派に義務を果たし、死んだのだから。 

◆玉砕して立派に義務を果たしたという評価が定着すると,この犠牲者を盾にとった指導者に対して,作戦失敗・敗北の責任を追及できなくなった。軍指導者は、捕虜の存在、投降の事実を黙殺し、「玉砕戦」だけを喧伝した。そして,戦死者を英霊とし,彼らへの冒涜を,許さなかった。しかし,これは同時に,作戦を指導した自分たちに対する「人の盾」だった。戦没者は犬死ではないのであるから,指揮官たちの失策・無責任さ・無能さを責める理由はなくなった(ように思われた)。日本は、1945年1月18日、「一億総特攻」、本土玉砕戦を最高戦略として決定した。国民が特攻して守るものは,国体である。

◆1945年沖縄戦の集団自決について、軍命令の存在が裁判で争われた。確かに、民間人がなぜ手榴弾を配布されたのかを思えば、兵器を管理している日本軍の関与は明らかである。日本の将兵は「捕虜となれば虐待、処刑される。それよりも自ら死んだほうがましだ」ということを、自らの経験・伝聞から、住民に伝えた。捕虜となった場合に受ける残虐行為を恐れる余りの忠告だったようだ。しかし、配下の将兵に対してでなく、民間人・軍属に対し「捕虜となるくらいなら自決せよ」と軍人が言い放ったことは、どのように認識すべきか。軍人の放言は,形式上は「軍の命令」ではない。しかし,軍人の言うことを信じていた住民は,軍人の放言ではあっても,口に出された言霊である以上,「自決すべき」命令として忠実に尊重した。

◆沖縄で自決命令を出したとされた日本軍将校は、特攻艇の部隊の戦隊長で捕虜となって生き残った。死が目前にあった特攻隊の将兵は、自決をどのように考えたのか。統帥上,軍民共死がとなえられたが、自らもそれを信じていたのか。しかし、住民、将兵は、捕虜になり、生き残ることができた。中には、手榴弾を起爆しようとしたが、中古不良品だったために爆発せず、生き残った住民もいた。

◆陸軍特攻艇マルレを配備された海上挺進隊(整備)の戦隊長たち,慶良間列島・沖縄本島の日本軍の将兵は,投降命令もなく,米軍に投降したり,捕まったりした。彼らが,徹底抗戦の命令あるいは玉砕命令に忠実だったといえるかどうかは、軽々しくは判断できない。しかし、投降して,捕虜になって,生き残ったことは、結果として,良かったことだと思う。捕虜になることを,自決するには及ばない。が,生き残り同士がいがみ合い争うことになっては悲しい。そう思っての謝罪だったのであろう。その心情をイデオロギーの立場で曲解したり,命惜しさ・金銭欲しさの行動だったと批判してはならない。

◆フィリピンのルソン島西側ルバング島で、終戦後も投降しなかった中野学校(軍諜報員養成機関)出身者は、終戦を信じずに、戦争を戦い続けたと主張する。それが処罰されないための方便だったことは、当時の生き残り将兵は,知っていた。本来、大元帥昭和天皇から降伏命令を信じずに戦っていたのであれば、軍律違反である。戦後、フィリピン住民の生命、財産を奪ったのであれば、殺人、強盗で刑罰の対象である。彼は,戦争,戦闘行為の継続という名目が無ければ、処罰を受けずに日本に帰国することはできなかった。

◆当時の日本には、終戦、投降、武装解除、捕虜収容、復員の経験者が多かった。戦い続けた勇士として賞賛するものもいたが、フィリピンの戦いの最中,長期「集団自活」を、物資略奪抜きに長期継続するのは不可能である。1944-45年、フィリピン山中に逃げ込んだ日本軍将兵は、補給物資が枯渇すれば、山中での自活が不可能なことを、身をもって体験していた。徹底抗戦、持久戦、敵兵力拘束を目的に、山中で生活し、地獄を見た生き残り日本軍将兵は、ルバング島での長期「戦闘継続」の理由と(生き残るためのやむをえない)方便を理解した。

◆米国領グアム島で、終戦を知らずに、27年以上、山中に隠れ住んでいた日本兵がいた。日本兵だった彼は、物資輸送・調理係だった。彼は、人には見つからないように、隠れて暮らしていた。住民の物資を奪って暮らしたのではなく、存在を知られないようにサバイバル技術・精神を身に着けていた。発見され帰国できたとき、「恥ずかしながら生き永らえて帰って参りました」と述べた。日本政府が、終戦の不徹底さを恥じるべきだったかもしれない。彼の場合、本当に終戦を知らなかったのであるから、敵を殺傷しても、やむをえなかった。万が一、傷つけていたのであれば、日本政府が補償するべきであった。

◆グアム島の片隅で本当に終戦を知らず28年間も耐乏生活を続けた横井庄一さんは,戦闘を回避して,ひっそり暮らしていた。彼は、誰も傷つけなかった。意思と技術のなせる真のサバイバルだった。盗みや強盗を繰り返して物資を調達していたわけでなかった。グアム島で、秘匿生活を送った元日本兵の記念館が,2006年6月に開設された。妻美保子さんが元兵士7回忌後、自ら開いたものである。自宅を名古屋市に寄贈し、記念館とする計画は、実らなかった。

◆若いころ、グアム島の輜重兵は軟弱だ、ルバング島の諜報将校は勇敢だ、と感じていた。今にして思えば、この浅はかな思い違いはとても恥ずかしい。今は,終戦後の生き方として、どちらも感ずるところがある。いまさら投降できず、山中を部下とともに「残留諜報戦」を続けるのは苦闘である。他人の生命と財産を侵すことなく山中で一人で暮らすのも困難で孤独である。略奪を働くことなく,真のサバイバルを続けたことに驚嘆を感じ得ない。フィリピンの山中ですら,自活,自給自足など不可能だったのに。二人に共通しているのは、日本軍将兵として、捕虜になれば、投降すればどうなるかを、軍の伝統・経験の中で思い描いて、恐れていたことである。

◆突撃せよと命令する司令官,特に安全な場所にいた軍上層部にとって、死は他人事であり、作戦立案者の参謀が死を恐れないのは当然である。しかし、前線に立った兵士は、戦意の高い勇士であっても、やはり死を恐れたという。死の恐怖を乗り越えようと、ひたすら思いつめた将兵もあった。死を忘れようとする将兵もあった。しかし、勇士たち皆は、死そのものからは、容易に逃れられないのを知っていた。死は避けられないと覚悟したこともあったが,勇士にもいのちは大事であり、死を恐れる理由があった。

◆戦争は、祖国、家族あるいは正義、民主主義を守るための戦いなのか。聖戦として,悪を倒すために戦うものなのか。しかし、戦争には破壊と殺戮が付きまとう。大量破壊と大量殺戮を伴う総力戦は恐ろしい。自らの破壊と殺戮を回避しようとして、敵を壊し殺すことを正当化する。憎悪と報復を煽るプロパガンダが展開される。ひとたび始まった総力戦を止めるのは、敵の徹底的な破壊と殺戮が実現した後でしかない。

◆生き延びようとした前線の将兵は、戦い続けたり、逃避生活を送ったりした。負傷し、病にかかり、投降し、捕虜になった。部下や戦友の命を救うため投降したものもあった。皆、大東亜共栄圏の確立だとか、国威発揚のためとかいう「国家の大儀に滅す」ために「聖戦」を戦ったのであろうか。日本軍は,一億総特攻を,戦略の最高方針として,公式に決定したが,国民はそれに疑問を抱かず従ったであろうか。

◆戦時中も,皆,自らの生命を、戦友の命を守るために、生き続けようとした。家族に会うために、家族を支えるために生き延びようとした。諜報将校も、炊事係りの兵も、ともに、生への渇望が見て取れる。兵士は,死にたくないとは口に出さないが,根底に流れる「いのちへの希求」は、肯定できる。とにかく、生き残れるだけで助かった、生き残ってよかったと思えるときがある。

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