◆鈴木貫太郎内閣とポツダム宣言黙殺・原子爆弾投下・終戦
絵画(上左):1945年8月9日、長崎への原爆投下で破壊された浦上天主堂品:Title:Victim of the Atom Bomb Explosion over Nagasaki.
National Archives Identifier: 519384
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ca. 1945
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8/1945 - 8/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 519384 NAIL Control Number: NWDNS-77-AEC-48(27) 引用。
絵画(上左):1945年8月9日、長崎への原爆投下を描いた1990年の作品:Title:Artwork: "Atomic Landscape" Nagasaki, Japan 1946 - Artist: Robert Graham Catalog Number: 35.3.46 National Archives Identifier: 6446321
Local Identifier: 330-CFD-DA-SC-90-05838.jpeg
Creator(s): Department of Defense. American Forces Information Service. Defense Visual Information Center. 1994- (Most Recent)
Department of Defense. Defense Audiovisual Agency. 6/21/1979-9/30/1985 (Predecessor)
Department of Defense. Department of the Navy. Naval Imaging Command. 1988-ca. 1993 (Predecessor)
From: Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007
Record Group 330: Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 - 2008
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1/1/1990。写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 6446321 Agency-Assigned Identifier: DASC9005838 引用。
写真(上左):1945年7月17日から8月2日,ドイツ降伏後のベルリン郊外ポツダム、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、ソビエト連邦駐アメリカ大使アンドレイ・グロムイコ(Andrei Gromyko)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov):アメリカ海軍参謀総長レーヒ(William D. Leahy)提督, イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)も参加した。7月26日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言(Potsdam Declaration)が表明された。Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945
Description: Group photograph of the Big Three heads of government at Potsdam, Germany, circa 28 July 1 August 1945. Those present are (from left to right): British Prime Minister Clement Atlee; U.S. President Harry S. Truman; Soviet Premier Joseph Stalin. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives.
Catalog #: USA C-1861
写真は、 Harry S. Truman Library & Museumおよび
Wikimedia Commons, Potsdam Conference Potsdam ConferencePotsdam conference 1945-4.jpg引用。
写真(上右):1945年7月17日から8月2日,ポツダム会談時の三首脳。左から、イギリス首相クレメント・アトリー、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連元首ヨシフ・スターリン:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談(Potsdam Conference)には、それまでのビッグ・スリーと異なり、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトからハリー・トルーマンに、イギリス首相は会談途中からウィンストン・チャーチルからクレメント・アトリーに交代した。それ以前の主導会議から継続して参加したのは、ソ連のヨシフ・スターリンだけだった。
Photograph Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945
Description: The Big Three pose with their principal advisors, at Potsdam, Germany, circa 28 July 1 August 1945. The three heads of government are (seated, left to right): British Prime Minister Clement Atlee; U.S. President Harry S. Truman; Soviet Premier Joseph Stalin. Standing behind them are (left ot right): Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff; British Foreign Minister Ernest Bevin; U.S. Secretary of State James F. Byrnes; Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives.
Catalog #: USA C-1860 "Big Three" & Foreign Ministers at Potsdam, ca. July 1945。写真はNaval History and Heritage Command Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1861 引用。
フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt : FDR;1882-1945/4/12)民主党出身の第32代アメリカ大統領を1933年3月4日から1945年4月12日まで務めるが、これはドイツ首相となったアドルフ・ヒトラーの任期とほぼ等しい。世界恐慌の失業対策として、積極財政のニューディール政策を採用し、テネシー渓谷開発公社、公共工事局 などを設けて公共事業を拡大した。マスメディアを活用し、ラジオ演説「炉辺談話 fireside chats」を毎週放送した。1937年10月5日、世界中で行われている侵略行為を憂慮し、このような侵略国は病人と同じく隔離すべきとしたが、これはドイツ、日本を指していた。第二次大戦が始まっても中立を保ったが、1940年7月にスティムソンを陸軍長官に復帰させ、9月に選抜徴兵制を採用し動員を開始した。1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)を成立させ、イギリス、中国に大量の軍事物資を貸与した。のちに、1941年6月に独ソ戦が始まると、ソビエト連邦へも武器貸与を行った。
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◆宮崎駿「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしてるんです。神話の捏造をまだ続けようとしている。『零戦で誇りを持とう』とかね。それが僕は頭にきてたんです。子供の頃からずーっと!」
「相変わらずバカがいっぱい出てきて、零戦がどうのこうのって幻影を撒き散らしたりね。戦艦大和もそうです。負けた戦争なのに」 「戦後アメリカの議会で、零戦が話題に出たっていうことが漏れきこえてきて、コンプレックスの塊だった連中の一部が、『零戦はすごかったんだ』って話をしはじめたんです。そして、いろんな人間が戦記ものを書くようになるんですけど、これはほとんどが嘘の塊です」『CUT』 2013年9月号引用。
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月青弓社刊行,368頁,2100円)が紹介されました。
◆読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、聖断を下し降伏した昭和天皇の否定、民主主義を否定しての独裁政治という本音のようだ。 【沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献】
1.1944年11月以降、アメリカ陸軍航空隊は、マリアナ諸島サイパン島、テニアン島、グアム島を基地としてボーイングB29(Boeing B-29 Superfor)によって、日本本土を空爆した。1945年2月以降、カーチス・ルメイ将軍の下で、都市夜間無差別爆撃が主流になった。さらに、アメリカ海軍の空母任務部隊の艦上機による日本本土空襲、戦艦・巡洋艦などの艦砲射撃による本土攻撃も大々的に実施された。日本本土は、アメリカ海軍潜水艦による交通破壊にあい、海上封鎖されてしまっており、敵兵が上陸していないうちから、資源エネルギー、食料など物資が不足した。日本の抗戦力は大幅に減退していたが、日本は、本土決戦で勝機あるいは和平の契機をつかむつもりでいた。
1944年11月以降、第21爆撃兵団XXI Bomber Commandを設置し,アメリカ陸軍航空隊の戦略爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」は、ハワイ諸島を経由してマリアナ諸島に終結し、日本本土に対する戦略爆撃を開始した。航空機工場などへの精密爆撃、都市無差別爆撃、日本各地の港湾・航路への機雷敷設まで、各種の戦略爆撃が行われた。
B-29の爆弾搭載量は、長距離出撃のために、高高度精密爆撃では2〜3トン、都市無差別低空爆撃では5〜6トンである。
1944年7月に占領されたマリアナ諸島から,アメリカ陸軍航空隊の戦略爆撃機ボーイングB29(B-29 Superfortress)が飛来し,日本の都市爆撃を行ったのは,1944年11月からである。
B-29爆撃機の諸元: 全幅:43.1m、全長:30.2m、全高:8.5m、主翼面積:161.5m2、エンジン:R-3350 2200馬力4基、自重:33800kg、全装備重量:54400kg、最大速度:550km/h(高度7600m)、航続距離:5230km上昇限度:10250m、武装:12.7mm50口径機銃12挺(+20mm機銃1丁)、爆弾搭載量:4500kg-9100kg、乗員:11名。
アメリカ軍は,1944年7月中旬、マリアナ諸島サイパン島攻略が確実になると、7月21日グアム(大宮)島、7月23日テニアン島に上陸。20日とたたない8月初旬、両島を攻略,大規模な航空基地を建設した。マリアナ諸島攻略によって,11月以降、戦略爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」大編隊による日本本土空襲が本格化した。
アメリカ陸軍航空隊の戦略爆撃本部に相当する第20航空軍司令部司令官アーノルドHenry H. ‘Hap’ Arnold大将は、 第21爆撃兵団司令官にハンセルHaywood Hansell准将を任命した。彼は航空機工場など軍事目標を中心にした高高度からの精密爆撃を行ったが、当時の重爆撃機の性能と命中精度では、精密爆撃も都市爆撃もあまり違いは無いようだ。その後、第21爆撃兵団にルメイCurtis LeMay司令官が就任すると、「戦争を早期終結させ、有意な米国の若者の命を救うために」都市無差別爆撃に拍車がかかった。
写真(右):1945年,東京の銀座の爆撃被害状況:1945年、第39部隊の作戦任務で爆撃。39th Mission #24 & 26マリアナ諸島グアム島「ノースフィールド基地」から日本本土を爆撃した。Damage Photos
Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association引用)
1945年3月10日東京大空襲では、長距離重爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」279機が焼夷弾など38万発、1,700tを投下。この低空夜間絨毯爆撃による死者は8万人以上、焼失家屋約27万戸。米軍の損害は、ボーイングB-29「スーパーフォートレス」爆撃機の損失12機、損傷42機。東京大空襲の3日後、1945年3月13日から翌未明に最初の大阪大空襲が行なわれ、3987名の死者と678名の行方不明者が出た。
1944年11月24日以来、日本本土はマリアナ諸島からのアメリカ軍B-29による爆撃を受け,焦土と化した。アメリカ軍は1945年4月1日、沖縄本島に上陸したが、これは戦略爆撃だけでは、日本を降伏させられないと考えたためだった。
アメリカ軍は,日本本土に上陸・占領しなければ日本は降伏しないとの判断の下に,1945年10月〜1946年2月には志布志湾から九州を攻略する「オリンピック作戦」し、ついで九十九里に上陸して東京攻略を目指す「コロネット作戦」を計画していた。
1945年2月のヤルタ協定では、ドイツ降伏(1945年5月8日)3ヶ月以内にソ連は対日戦に参戦すると確約した。米軍は、兵力が低下していた満州駐屯の関東軍の軍事力を過大評価しており、中国大陸の日本軍を壊滅するには、ソ連の軍事力が不可欠であると考えていた。そこで、日本領千島列島だけでなく、蒋介石に、日本が有していた中国・満州での権益をソ連に譲渡させることまでして,スターリンに対日参戦を約束させた。
2. 1945年7月25日、日本本土への原爆投下命令がだされた。その翌日26日、日本への降伏勧告のポツダム宣言が公表された。このポツダム宣言を黙殺したから、日本に原爆投下されたという俗説は、誤りである。原爆投下命令書に大統領の署名はなく、マンハッタン計画の指揮官のグローブズ准将が作成したものだった。原爆投下は、都市無差別爆撃の延長線上に、疑問の余地無く、遂行された。原爆投下の可否が議論されたのは,戦後になってからのことである。これは、原爆投下の非人道性が明らかになったためである。
ヘンリー・ルイス・スティムソン(Henry Lewis Stimson:1867年9月21日-1950年10月20日)1906年、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt)の下でニューヨーク連邦検事に任命されて反トラスト法違反訴訟の検察官を務め、1910年にニューヨーク州知事の共和党候補として立候補したが落選。しかし、1911年にウィリアム・タフト(William Taft)大統領によって陸軍長官に任命、1913年まで務めた。1927年から1929年までフィリピン総督、1929年から1933年まで、ハーバート・フーバー(Herbert Hoover)大統領の下で国務長官を務めた。第二次大戦が始まりアメリカが中立を維持していた1940年7月、スティムソンは陸軍長官に復帰し1945年9月まで、第二次大戦参戦の全期間、任期を務めた。
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アメリカは、日本軍が自爆体当たりという特攻作戦を大規模に実施し、中国・満州方面に陸軍部隊を配置していることからみて、硫黄島の戦い、沖縄戦同様の激しい抵抗が続くと考えた。そこで、日本を降伏させるためには、ソ連に対日参戦させることが有効だと、スターリンに対して参戦を要望した。しかし、暗号解読によって,日本がソ連を通じて和平交渉を求めていることを知る。(7月16日のスチムソン陸軍長官の日記:"I also received important paper in re Japanese maneuverings for peace. It seems to me that we are at the psychological moment to commence our warnings [to surrender] to Japan. ...the recent news of attempted approaches on the part of Japan to Russia impels me to urge prompt delivery of our warning. [マジックによる無線暗号解読通報the Magic Diplomatic Summariesによる日本のソ連への和平仲介依頼を察知していた])
1945年7月のポツダム会談では、スターリン自らが、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領に8月15日に対日参戦することを告げた。(7月17日のトルーマンの日記:He'll be in the Jap War on August 15th. Fini Japs when that comes about. ----I can deal with Stalin. He is honest--but smart as hell.)トルーマンも原爆完成をヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)に告げることを決心する。さらに、日本が和平の仲介を頼んできたことをスターリンはトルーマンに直接,直ぐに伝え、なんとその回答まで教えた。もはやソ連の対日参戦前に日本は降伏してしまうと思われた。(7月18[19]日のトルーマンの日記:Discussed Manhattan (it is a success). Decided to tell Stalin about it. Stalin had told P.M. of telegram from Jap Emperor asking for peace. Stalin also read his answer to me. It was satisfactory. Believe Japs will fold up before Russia comes in.
)しかし、日本がソ連の仲介で降伏してしまえば,戦後のソ連軍が日本に進駐し、ソ連封じ込めも水泡に帰す。
最強兵器の威力を実証しないうちに大戦が終了すれば、戦後、米議会は原爆の威力を理解できず、予算を縮小するであろう。さらに、世界最強の軍隊であることを証明をする機会も失えば、ソ連を抑えて世界の覇権を掌握することも困難になる。 「マンハッタン計画(Manhattan Project)」の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将も米軍も、日本が降伏する前に,原爆を投下し、実戦での実績を誇示したかった。
アメリカは、暗号解読によって、近衛の対米和平、ソ連の和平仲介を知っていた。ソ連からの日本和平交渉仲介の連絡も受けていた。そこで、ソ連が対日参戦をすれば、日本が降伏すると確信できた。ヤルタ協定に従ってソ連が対日参戦する8月15日以前に、日本に原爆を投下することが望まれた。
原爆投下の決定は、 ?核保有国は当時、アメリカだけで、報復の心配はなかった、 ?既に都市無差別爆撃が実施されており,戦略爆撃の延長線上に原爆投下も位置付けられた、 ?原爆投下の可否の議論は、米国ではほとんどされず、アメリカ大統領ハリートルーマンは原爆投下の専門家会合に出席しなかった
以上をふまえれば、第二次大戦終結後の冷戦を見越して、ソ連封じ込め(対ソ外交圧力)、世界覇権掌握、新兵器実験・軍事予算獲得を理由として、無差別爆撃の延長線上に原爆投下がされたといえる。
日本本土への無差別爆撃による大量破壊,大量殺戮は、既に米軍のB-29爆撃機によって実施されており、米軍と日本軍にとって、原爆投下は、同じ範疇の無差別爆撃に過ぎなかったのである。
1945年8月6日に広島への原爆投下、8月9日に長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告があった。この危機に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
「----原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(「海軍大将米内光政覚書」;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)
日本の政治的指導者たちは、日本国民の政府離反、共産主義革命と国体変革の恐怖を認めて降伏することはできない。そこで、原爆という新型爆弾から、臣民の安寧を守るために終戦の聖断がなされたという大元帥昭和天皇の大御心・ご威徳を強調した終戦の詔書が出された。神国日本の降伏は、大義の敗北ではなく、技術の敗北であるとの解釈が流布された。
戦争の大義、日本軍の兵士・国民の戦意喪失が、敗戦の原因ではない。原爆という軍事技術が,日本を降伏に追い込んだ。このよう解釈して、近衛文麿、木戸幸一、米内光政のような一流の政治家たちは、原爆投下を終戦の口実=天佑とした。これは、米政府・米軍の公式見解である「原爆投下が日本を終戦を決断させ、和平をもたらした」という原爆終戦和平説にも沿ったもので、米国の原爆投下の正当性を日本が認めたかたちになった。これでは、日本が世界唯一の被爆国として、他国の核兵器開発を非難する際、説得力を欠いてしまう。
写真(右):1946年3月20日、アメリカ、原爆開発に大きな功績をあげたエンリコ・フェルミ博士にアメリカ一級功労賞を授与するマンハッタン計画の指揮官となったレスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves:1896-1970)准将:オークリッジ国立研究所は、1943年にマンハッタン計画の一環として、原爆に使用するウランとプルトニウムの分離精製の施設として、陸軍工兵隊によって建設された。X-10、Y-12、K-25、S-50のコードネームで呼ばれる4施設があった。1943年に、エンリコ・フェルミが 主導しX-10に世界初の実用原子炉を完成させ、そこでプルトニウムの生成され、ファットマン(長崎型原爆)に使用された。 This image is a work of a United States Department of Energy (or predecessor organization) employee, taken or made as part of that person's official duties. As a work of the U.S. federal government, the image is in the public domain. Description
March 20, 1946, Dr Enrico Fermi receives the Medal of Merit for his wartime service to the US, presented by General Leslie R. Groves.
For more information or additional images, please contact 202-586-5251.
Date 24 February 2014, 11:44
Source HD.1A.019
Author ENERGY.GOV
写真は Wikimedia Commons, Category:Enrico Fermi File:HD.1A.019 (12750062923).jpg引用。
1942年8月13日、陸軍工兵隊レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将をマンハッタン管区最高司令官に、オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として、「マンハッタン計画」が始動。
1944年9月19日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間のハイド・パーク協定で、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更。 1945年4月27日、第一回の目標委員会(Target Committee)では、京都、広島、横浜、小倉の4 都市が選定。 1945年5月4日,ヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)陸軍長官は,陸・海・国務3省および原爆科学者の幹部からなる暫定委員会を設置。 1945年5月28日、原爆の効果を正確に測定できるよう、投下目標都市に対する空襲が禁止。 1945年6月1日、ジェームズ・バーンズ国務長官(トルーマンの先輩上院議員)など暫定委員会は「日本に対してすみやかに原爆を使用すべきこと。それは,労働者の住宅に囲まれた軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきこと。原爆投下の事前の警告なしに使用するべきこと。」とした。これは、原爆の威力実証、対ソ連圧力外交としての原爆示威、早期の日本降伏を意図した結果であろう。
1945年7月16日、ニューメキシコ州で初の原爆実験「トリニティ」成功。ポツダム会談(Potsdam Declaration)参加のためにドイツに出向いていたトルーマン統領に伝えられる(「無事出産。結果は予想以上」)。
写真(右):1948年4月,アメリカ戦艦「テキサス」USS TEXAS (BB-35)の退役・記念展示セレモニーに参加した、アメリカ陸軍第四軍司令官トーマス・ハンディ(Thomas Handy)大将(Thomas T. Handy:1892- 1982)とアメリカ海軍ニミッツ(Chester W. Nimitz)提督:1945年初頭、トーマス・ハンディ(Thomas Handy)大将は陸軍参謀総長代理として、原爆投下命令に署名した。戦艦「テキサス」は、戦後しばらくメリーランド州ボルティモアに繋留されていたが、テキサス州サン・ジャシント州立公園に記念館として保存展示されることとなった。1948年4月21日に退役、4月30日に除籍。4月21日は1836年にサンジャシントの戦いが行われ、テキサス独立戦争の趨勢が決定づけられた記念すべき日でセレモニーが行われた。 Title: USS TEXAS (BB-35)
Caption: Fleet Admiral Chester W. Nimitz, USN, right, and General Thomas T. Handy, USA, COMGEN of 4th US Army are shown at the ceremony presenting USS TEXAS (BB-35) to the state of Texas during the "fiesta week activities" April 1948 at San Jacinto park, Houston Ship Channel Texas, where this old battleship is enshrined.
Description: Courtesy of US Army Signal Corps
Catalog #: NH 58206
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Mon, Apr 05, 1948
写真は Naval History and Heritage Command NH 58206 USS TEXAS (BB-35) 引用。
フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領の急死によって副大統領から昇格したハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、原爆の開発・投下にはほとんど関与していない。
陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ(Thomas Handy)大将は、1944年2月8日,米陸軍参謀本部の難民非救援指示書:Memorandum for the Chief of Staff, February 8, 1944, on reassuring the British that military forces will not be used to rescue refugeesによって,欧州戦で難民が大量発生しても、軍本来の職務である作戦行動に障害をあたえないように,英軍と歩調を合わせて、難民を救援しない方針を採用した。 米軍にとって,敵民間人への人道的配慮はもともと無かった。原爆投下が終戦得和平に結びついたおかげで、米国将兵、日本将兵、戦渦に巻き込まれ犠牲となる民間人の生命をも救った、との原爆終戦和平説の真偽は、この難民非救援措置を見ても明らかであろう。
アメリカ軍戦略爆撃航空団司令官カール・スパーツ(Carl "Tooey" Spaatz)大将 (1891年6月28日ペンシルベニア州生-1974年7月14日);1914年、陸軍士官学校を卒業、1915年10月、陸軍航空部隊に配属。アメリカが第一次世界大戦へ参戦した1917年、スパーツはアメリカ遠征軍第31航空部隊として、フランスに派遣、アメリカ航空学校の指揮官となる。1918年には、前線での戦闘に参加し、敵機3機の撃墜を果たし、殊勲十字章を受章。1918年6月に臨時少佐に昇進するも、第千終了に伴い1920年2月に本来の階級の大尉に戻る。1935年8月に指揮参謀学校に入学、1936年6月に卒業。1939年、第二次世界大戦が勃発すると、1939年11月に大佐に昇進し、1940年のバトル・オブ・ブリテンのオブザーバーとしてイギリスに派遣された。1940年10月、准将に昇進、1941年12月、アメリカの参戦後、1942年1月に少将に昇進する。1942年5月に第8航空軍の指揮官に任命され、7月にはイギリスに司令部を開設、第8航空軍による対ドイツ攻撃を中心に、ヨーロッパ戦線におけるアメリカ陸軍航空隊の最高指揮官となった。1943年3月、ヨーロッパ方面戦略爆撃空軍司令官(陸軍中将)として、対ドイツ爆撃を実施。1945年3月11日、アメリカ陸軍航空隊太平洋方面戦略空軍司令官に就任。1945年7月にグアム島に司令部を設置。Master of Airpower General Carl A. Spatz
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1945年7月25日、アメリカ陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ(Thomas Handy)大将は、アメリカ陸軍戦略航空団司令カール・スパーツ(Carl "Tooey" Spaatz:1891年6月28日-1974年7月14日)大将に対して、原子爆弾の投下命令を発した。その原爆投下の命令書(ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB)には、アメリカ大統領ハリー・トルーマンの署名はなく、陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ(Thomas Handy)大将の署名と、大統領に代わってマンハッタン計画指揮官レスリー・グローブズ准将の代理署名があるだけである。その上、スパーツ大将は、太平洋戦略航空軍の指揮官として、7月にグアムの本部に赴任中であった。
アメリカ軍戦略爆撃航空団司令官カール・スパーツ(Carl Spaatz)大将は、1943年3月欧州方面戦略爆撃空軍司令官(陸軍中将)として、対ドイツ爆撃を実施。1945年3月11日、米陸軍航空隊太平洋方面戦略空軍司令官に就任。1945年7月にグアム島に司令部を設置。スパーツ大将がグアムへ向かっている途上の1945年7月25日、原爆投下命令が出された。これは、日本に対するポツダム宣言の出る前日のことだった。
ポツダム宣言(Potsdam Declaration)の出る前日、1945年7月25日、アメリカ陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ(Thomas Handy)発・宛アメリカ陸軍戦略航空団司令カール・スパーツ(Carl Spaatz)大将へ原爆投下の命令書(ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB)。スパーツ大将は、太平洋戦略航空軍の指揮官として、7月にグアムの本部に赴任中。
1.第20航空軍第509混成部隊は1945年8月3日以降、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに原爆を投下すること。原爆効果確認のため、(レーダー爆撃ではなく)必ず目視爆撃をし、観測用航空機を随伴させること。 ⇒筆者注:現地指揮官に、原爆の実戦効果を明確に記録することを指示したのは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説を裏付ける。
2.追加爆弾は準備完了後すみやかに上記目標に投下。 ⇒筆者注:現地指揮官の判断で随時、原爆の連続投下が可能。米大統領や統合参謀本部は、米軍の威力を見せつける原爆連続使用を望んだ。このことは、原爆投下が、米世界覇権説、米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説を裏付ける。
3.原爆使用について、情報の配布は国防長官および合衆国大統領により留保される。この件に関するいかなる文書または情報の公表も、当該部局の許可なしには行なってはならない。すべての報道文を特別検閲のため国防省に送ること。 ⇒筆者注:秘密兵器の原爆について、情報管理を行い、原爆投下方法も含め,原爆技術を秘匿し、他国への漏洩を防いだ。これは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。原爆投下の可否ではなく、原爆の技術に注目している点で、戦略爆撃延長説をも支持する。
4.以上は陸軍長官および合衆国参謀総長の指示と承認のもとに発せられたものである。本命令書の複写を、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)とニミッツの両陸海軍元帥に、貴官から手交すること。 ⇒筆者注:太平洋戦線の陸海最高位の指揮官にすら、原爆投下の事前通告をしていない。原爆情報の集中管理は、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。戦後、マッカーサー将軍が原爆投下を非人道的であるとして非難したが、これは、自分を無視して行われた原爆投下への反感からであり,人道的な配慮からではないだろう。朝鮮戦争の時、米軍・国連軍の前線指揮官として、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥は、中国への原爆投下を提案している。
署名 陸軍参謀総長代理 Thomas Handy 副署 Groves
⇒筆者注:原爆投下命令書には、トルーマン大統領の署名はない。参謀総長代理ハンディ大将の署名だけで十分だったのは、原爆投下自体、議論の末に行われたことではないことを示している。将軍の最低ランクのレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将が作成しているが、マンハッタン計画にかかわった軍事指揮官の影響力がつよければ、20億ドルを投じた原子爆弾を使用しないで済ませるはずがない。これは、原爆投下の理由が、米新兵器実験説,米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説であることを裏付ける。
写真(右):アメリカ、テネシー州東部、オークリッジ(Oak Ridge)、原爆開発を進める結節機関となったオークリッジ国立研究所、電話で指示を出すマンハッタン計画指揮官、陸軍工兵隊レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves:1896-1970)准将:アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、1941年に原爆開発を進めることを決定していたが、その本格的な始動は、1942年のマンハッタン計画が実施されてからである。1943年、原子爆弾に不可欠なウラニウムやプルトニウムを生成し、原子爆弾を完成させるために、1043年、ニューメキシコ州ロスアラモスに、ロスアラモス国立研究所(Los Alamos National Laboratory:LANL)が設立された。この初代所長に任命されたのが、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer :1904-1967) である。マンハッタン計画には、21名のノーベル賞受賞歴のある科学者を始め、世界の最高の頭脳と技術者が集められた。 This image is a work of a United States Department of Energy (or predecessor organization) employee, taken or made as part of that person's official duties. As a work of the U.S. federal government, the image is in the public domain. Description
General Groves at Oak Ridge
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Date 21 March 2013, 16:30
Source HD.30.509
Author ENERGY.GOV
写真は Wikimedia Commons, Category:Leslie Groves File:HD.30.509 (10444230526).jpg引用。
原爆は当初から、どこに、どのように投下するかだけが議論されていたが、投下の是非をめぐる議論はなかった。原爆の仕組みや開発の実態について、全体像を把握していた人物は限られていた。秘密兵器原爆を手中に収めていたマンハッタン計画の軍事指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)の先輩政治家ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)上院議員(後の国務長官)の影響力は、原爆投下準備を進めるに当たって絶大である。
1945年7月25日のトルーマン大統領の日記には、女子供への被害を少なくするように、軍事目標に投下するように,ヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)陸軍長官に言ってある、との記載がある。原爆投下される日本人が被る苦しみについて、軍事に暗い大統領は、原爆被害との関連で、投下が意味することを把握できなかったようだ。大統領が原爆投下に大きな役割を果たして折らず、部下たちの提案を承認しているだけ----」というような印象を受ける。未知の兵器原爆について、その仕組みはもちろん,世界への影響について、理解し切れなかったとしても無理はない。
1945年7月25日、原爆投下命令書;ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB
Handy to Spaatz, National Archives (July 25, 1945)
25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces
1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. To carry military and civilian scientific personnel from the War Department to observe and record the effects of the explosion of the bomb, additional aircraft will accompany
the airplane carrying the bomb. The observing planes will stay several miles distant from the point of impact of the bomb.
2. Additional bombs will be delivered on the above targets as soon as made ready by the project staff. Further instructions will be issued concerning targets other than those listed above.
3. Discussion of any and all information concerning the use of the weapon against Japan is reserved to the Secretary of War and the President of the United States. No communiques on the subject or releases of information will be issued by Commanders in the field without specific prior authority. Any news stories will be sent to the War Department for specific clearance.
4. The foregoing directive is issued to you by direction and with the approval of the Secretary of War and of the Chief of Staff, USA. It is desired that you personally deliver one copy of this directive to General MacArthur and one copy to Admiral Nimitz for their information.
(Sgd) THOS. T. HANDY
THOS. T. HANDY
General, G.S.C.
Acting Chief of Staff
copy for General Groves ( atomic bomb:
decision引用。)
1945年7月26日、ポツダム宣言。 1945年8月6日、広島に原爆投下。原爆投下の可否など公に議論されたことなどない。原爆をどこにどのように投下するかが議論され、それがハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領に報告されただけである。原爆投下の決定は、陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ(Thomas T. Handy)大将は、陸軍戦略航空団司令カール・スパーツ(Carl "Tooey" Spaatz)大将への原爆投下の命令書に宛てに原爆投下命令書を出したが、この命令書に署名したのは、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領でも、ジェームズ・バーンズ(James Francis Byrnes)国務長官でも,ヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)陸軍長官でもない、「マンハッタン計画(Manhattan Project )の指揮官でレスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves)准将だった。
トルーマン大統領の1945年7月25日の日記Harry S. Truman, Diary, July 25, 1945 We met at 11 A.M. today. That is Stalin, Churchill, and the U.S. President. But I had a most important session with Lord Mountbatten and General Marshall before that.
We have discovered the most terrible bomb in the history of the world. It may be the fire destruction prophesied in the Euphrates Valley Era, after Noah and his fabulous Ark.(我々は歴史上最も恐ろしい爆弾を手に入れた。それは、ノアが箱舟に乗り込んだとき、ユーフラテス川流域で起きた業火のようだ。) <中略>
This weapon is to be used against Japan between now and August 10th. I have told the Sec. of War, Mr. Stimson, to use it so that military objectives and soldiers and sailors are the target and not women and children. Even if the Japs are savages, ruthless, merciless and fanatic, we as the leader of the world for the common welfare cannot drop that terrible bomb on the old capital or the new. (この兵器は8月10日までに日本に対して使用される。スチムソン陸軍長官には、女子供ではなく軍事目標と兵士・水兵を目標に狙えと言ってある。喩えジャップが野蛮人、無慈悲、冷酷で狂信的だったとしても、我々は世界のリーダーとして、共有すべき福利を尊ぶから、古都や東京に原爆を投下することはできない。)
He and I are in accord. The target will be a purely military one and we will issue a warning statement asking the Japs to surrender and save lives. I'm sure they will not do that, but we will have given them the chance. It is certainly a good thing for the world that Hitler's crowd or Stalin's did not discover this atomic bomb. It seems to be the most terrible thing ever discovered, but it can be made the most useful...(目標は純軍事的なものであり、日本に降伏するように勧告もしよう。彼らは降伏しないはずだが、我々は彼らに機会を与えてやったことにはなる。ヒトラーとスターリンが原爆を開発してないことは、世界にとって喜ばしい。これは、発見された中で最も悲惨なものであるが、最も役に立つものでもある-----)(引用終わり)。
日本の俗説では、1945年7月26日ポツダム宣言を日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとされる。しかし、鈴木貫太郎首相が、7月27日、ポツダム宣言(Potsdam Declaration)黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断されたから、原爆投下がなされたとする「ポツダム宣言黙殺説」は誤りである。鈴木首相のポツダム宣言の黙殺発表は、降伏しない、徹底抗戦するという内閣組閣当初からの方針を述べただけで、鈴木首相が終戦のために組閣されたという俗説の誤りを証明することにはなる。しかし、鈴木首相のポツダム宣言(Potsdam Declaration)の黙殺発言をする以前から、米国は日本に原爆を投下することを決定していた。それも、トルーマン大統領の主導ではなく、「マンハッタン計画(Manhattan Project)」指揮官のレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の作成した命令書によってである。トルーマン大統領も、日本がポツダム宣言を受諾しないと考え、軍事目標に対して原爆を8月10日までに投下することを決めていた。対ソ戦略を有利にするために使用したのである。
写真(右):アメリカ陸軍航空隊U.S. Army Air Forces司令官ヘンリー・ハップ・アーノルドHenry Harold "Hap" Arnold元帥(1886年7月25日 – 1950年1月15日)1938年陸軍少将、1941年7月、新編成された陸軍航空軍の司令官に着任。1943年3月19日陸軍大将、1944年12月21日史上5番目の陸軍元帥 General of the Army。National Leadership Foundation.org:VirtualMuseum引用。
1945年7月16日、ニューメキシコ州・アラモゴードで世界初の核実験コードネーム「トリニティ」が行われた。爆弾コードネーム「ガジェット」で、長崎に投下された「ファットマン」と同じプルトニウム型原爆であった。「トリニティ」は、原爆爆発失敗という大失態を回避するために必要であったが,1945年7月16日の実験成功から、実戦配備を行ったため、原爆投下が可能な期日は、1945年8月上旬となった。配備して直ぐに原爆投下に出撃した。
1945年8月6日0245(現地時間):日本本土に向けて、第509混成部隊の重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ:Enola Gay」は、テニアン島ノースフィールド基地を離陸。2分間隔で、2機の観測機のB-29も後を続く。 1945年8月6日0815:重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ」は、31600フィートから原子爆弾を広島に投下。50秒後に爆発。市街の80%を破壊し、7万1,000任意上を殺戮。 1945年8月6日1458:重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ:Enola Gay」テニアン島に帰還。1時間以内に2の観測機も帰還。
1945年8月7日1530,大本営発表「1. 昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり 2. 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」
写真(上):2007年7月、アメリカ、バージニア州フェアファックス、スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センター、広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の復元・展示:1995年の戦勝50周年の時には、ボーイングB-29「エノラ・ゲイ」は、機首部分のみ復元・展示された。当時のエノラ・ゲイ展では、博物館側は、エノラ・ゲイとその投下した原子爆弾の威力だけでなく、原爆被害も同時に展示しようとしたため、退役軍人から大きな反対を受け、議会からも圧力がかかり、被害展示はなされなかった。2003年12月15日、ワシントンDCのスミソニアンにある航空宇宙博物館別館ウドヴァール・ヘージーセンターにてエノラ・ゲイ展のオープニングセレモニーが開催された。、完全に復元された広島原爆投下機ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ:Enola Gay」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。 Description
English: B-29 Superfortress Enola Gay in the Steven F. Udvar-Hazy Center, Chantilly, VA near Washington DC.
Date 26 July 2007
Source Own work by uploader of an object in the National Air and Space Museum, Steven F. Udvar-Hazy Center, Washington DC
Author Ad Meskens
写真はWikimedia Commons, Category: Enola Gay in Steven F. Udvar-Hazy Center File: Enola Gay 116.JPG引用。
写真(上):2016年7月、アメリカ、オハイオ州デイトン郊外、ライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館、長崎に原爆「ファットマン」を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」の復元・展示:機長チャールズ・スウィーニー少佐の指揮で、第509混成部隊B-29「ボックスカー」は、テニアン島を離陸、小倉に原爆を落とす予定だったが、雲にさえぎられて有視界照準爆撃の条件を満たすことができす、長崎に目標を変更。長崎でも雲にさえぎられたが、原爆投下の栄誉を担いたかったスウィニーは少佐は、雲の切れ間を見つけたことにして、レーダー照準で長崎を爆撃。燃料不足でテニアン島ではなく沖縄に帰還した。1961年9月26日にオハイオ州デイトンの国立アメリカ空軍博物館に運ばれ、復元された「ボックスカー」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。 Description
Boeing B-29 Superfortress "Bockscar"
Date 3 July 2016, 15:09
Source Boeing B-29 Superfortress "Bockscar"
Author Clemens Vasters from Viersen, Germany, Germany
写真はWikimedia Commons, Category: B-29 Bockscar at National Museum USAF File: Boeing B-29 Superfortress "Bockscar" (27992885491).jpg引用。
写真(右):「原子爆弾」投下を報じる「共同新聞」(毎日・読売・朝日などが統一されたもの);投下直後に原子爆弾と判明しており、それが記事になったが、すぐに「新型爆弾」と記述するように変更された。朝日・毎日など主要新聞は統一され、紙数も少なかった。終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」引用。 新聞第一報は、新型爆弾ではなく原子爆弾として、報じているのは、日本軍も原爆開発をしていたから、容易に識別できたという証拠である。ただし、原爆が戦後冷戦にもたらす戦略的影響には思い至っていない。なにしろ、戦後=日本降伏を正面から分析する組織は一切なかった。鈴木貫太郎内閣も、大元帥昭和天皇の意向を受けて「全軍特攻化」「一億総特攻」への組織的取り組みに忙しかったはずだ。終戦工作=無条件降伏に熱中していたとはずはない。
終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」には、次の記述がある。 広島に投下された原子爆弾は、かなり大きいニュースとして受け取られました。---原子爆弾」はすぐ「新型爆弾」と呼ぶように訂正されました。新聞にそう書かれ、学校からも、そんな通達が出されました。
新聞記事(「惨禍の広島市」「原子爆弾の解剖−強烈な赤外線作用 爆弾ではない落下傘つき物体 激甚な爆風に被害甚大])を限り、新型爆弾は強い輻射熱を発するとされてあるものの、放射能については殆ど触れられていません。最後に僅かに付記されている程度です。これは、意図的に放射能の被害には言及を避けたとみるべきです。言及を避けたその事が原子爆弾の恐ろしさを物語っています。然し、当局では原子爆弾がどのような構造でいかなる性能を持った爆弾であるか、かなりの知識は持っていた事でしょう。
対策として列記されているのは[輻射線(紫外線を主とし熱線及び可視線が伴ふ)による火傷効果が大きく爆風破壊も従来の爆弾に比し甚大であるから、特別の警戒が必要である。.....そのためには------白い服を着る。なるべくメガネをかける。曇天又は雨天の日は輻射線は減少するが晴天の日には充分注意する。中空に閃光を認めた時は伏せる。防空壕は在来のものでよい。火傷の療法は一般の火傷と全く同じだから動植物油を二倍か三倍に薄めそれを常に携帯する事。....]これですべてです。
長崎に投下された原子爆弾(「長崎にも新型爆弾−相当数の家屋倒壊 死傷」)についての記事は、そのあまりの小さいのに改めて驚きます。当局の情報操作による作為が見え見えの大きさです。
終戦近くになっても新聞は間違いなしに配達されていました。郵便や小包み等も極度な被災地を別にしたら、全国的に届いていた筈です。汽車は本数も少なく、時間にも乱れはありましたがこれも間違いなく走っていました。東北のこの地では電気も、水道、郵便局、配給システム、等々、生活に必要な環境は最低限保たれていた気がします。空襲によって直撃を受けない限り、生活が出来ない状況でもなかったのです。学校は市内では終戦ギリギリになって閉鎖されましたが、郡部ではそんな事はありませんでした。この方もちゃんと機能していたのです。物資はすべて配給制で、これもギリギリではあってもなんとか手に入りました。
写真(右):1945年8月6日、広島に投下されたウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」Little Boy;原爆1発で高性能爆薬2万トン分の破壊力がある。機長ティベッツ大佐指揮のボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ:Enola Gay」によって、1945年8月6日0815、広島に原爆を投下。ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。「リトルボーイ」は、長崎に投下された「ファットマン」(長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t)より、若干小型である(The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc.)。 Description: Nuclear weapon of the "Little Boy" type, the kind dentonated over Hiroshima, Japan, in World War II. The bomb is 28 inches in diameter and 120 inches long. The first nuclear weapon ever dentonated, it weighed about 9,000 pounds and had a yield equivalent to approximately 20,000 tons of high explosive.
Date: ca. 1945
Related Collection: Robert A. Lovett Papers
ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945; Hiroshima-shi (Japan) bombardment, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 61-55引用。
1944年7月当時の戦記小説に原爆が登場していたくらいであるから、新聞記者も「原爆投下」の事実を知ったのかもしれない。あるいは、軍が米国に自らの科学的知見を表明しておくために、原爆と表現させたのかもしれない。
原爆かどうかを調べるために、海軍の呉鎮守府調査隊が8月7日に広島入りし、未使用のエックス線フィルムが感光していたことなどから「ウラン爆弾と推定できる」と8日付で報告した。また、京都帝国大荒勝文策教授を中心とした調査団6人は海軍の要請を受け、1945年8月10日、広島に入った。そして、海軍の調査団と合流し、8月14日までに計二回、土壌調査を実施。8月15日付で海軍技術研究所に「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンケツス」の緊急電報を発信。受け取った海軍は「新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス」の一文を電報に書き込んだ。(⇒中国新聞'05/7/24「被爆9日後の電報」引用)
日本の軍部・政治的指導者は、原爆の威力を認識したが、被害については、他の諸都市への無差別爆撃と同じく「広島市が焦土化した」に過ぎない。原爆だから大変だ、という意識はなかった。軍部・政治的指導者たちは、日本の諸都市が焦土と化していることに慣れてしまっていた。原爆の威力を恐れて降伏しようとするものはなかった。
原子爆弾は,中性子をぶつけ原子核を分裂させる原子核分裂によって、結合エネルギーを外部に大量放出する爆弾である。
広島に投下されたウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」は、ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。爆発は,ガンバレル方式で、ウランを半球に二分して、爆弾筒の両端に設置して、投下時に起爆装置を使って片方を移動させて合体させることで、超臨界に達せさせる。
長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」は、長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。爆発はインプロージョン方式で、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬の爆発によって位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し超臨界にいたる。
1945年8月9日1102:
長距離重爆撃機ボーイングB-29”Bockscar”
長距離重爆撃機ボーイングB-29「Bockscar:ボックスカー」によって長崎市に原子爆弾「ファットマン」が投下されたのは広島の3日後。第一目標が八幡製鉄所に近い小倉市、第二目標が長崎市、そのほか福岡市、佐世保市のいずれかであった。しかし、福岡と佐世保は1945年6月に爆撃済みであり、第一発目の大成功を聞き及んでいたスウィニー少佐は、なんとしても今回、原爆を投下し、所定の第一級の選定目標を壊滅させたかったに違いない。当時、長崎市の人口は24万人と推定されており、即死は推定3万5千名、負傷6万名。投下後の負傷者の死亡を含めると死者7万名以上。
3.戦争末期,日本軍・鈴木貫太郎内閣は,全軍特攻化,一億国民総特攻を唱えた。この期に及んでも、本土決戦で連合軍に一撃を与えて,和平の契機を得る、国体護持の条件を認めさせるという非現実的な望みを抱いていたのである。1945年7月26日のポツダム宣言黙殺はその当然の結果であった。しかし、ポツダム宣言黙殺が原爆投につながったという俗説は、原爆投下の公式命令が1945年7月25日とポツダム宣言の公表前日であることから否定される。
写真(左):沖縄戦当時の首相鈴木貫太郎大将;慶応3年(1867)12月24日〜1948年4月17日。大阪生まれ。海軍軍人。明治20年(1887)海軍兵学校卒業。日清戦争に従軍。1898年海軍大学校卒業。日本海海戦に参加。海軍省人事局長、第2次大隈内閣海軍次官、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官を歴任。1925年海軍軍令部長。1929年侍従長兼枢密顧問官に就任。侍従長在任中の1936年、2・26事件の襲撃を受け、生き残るも引責辞職。1944年枢密院議長、1945年4月7日という沖縄戦の最中に組閣の大命を受け、77歳で内閣総理大臣。戦後,組閣とともに終戦に奔走したようにいわれるが,有利な条件で和平交渉を切り出すために,沖縄戦での大戦果を期待していた。ポツダム宣言受諾後、130日で総辞職。 写真(右):小磯国昭;1930年軍務局長。陸軍次官、関東軍参謀長、第5師団長、朝鮮軍司令官を歴任し、1937年大将となる。1939年平沼内閣の拓務相、1942年朝鮮総督。1944年東条内閣辞任のあとを受けて首相に就任した。しかし,米軍の沖縄本島上陸から1週間もたたないうちに辞任。戦後,A級戦犯として、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けるが服役中に病没。
図(右):米国雑誌TIME(1945年5月21日号)の表紙を飾った大元帥昭和天皇; タイム誌では「米国はドイツ降伏後の欧州から太平洋に軍を回しているが,それは現人神に対する戦いのためである。わが無敵艦隊は天皇の島を壊滅させ,航空部隊は天皇の町を焼き払った。わが陸軍は,天皇の土地の侵攻する準備をしている。To the god's worshipers this would be a sacrilege such as the desecration of a church would be to the invaders. 大半の米国人にとって,日本の現人神は,がに股の薄っぺらなちびに見える。To them this god looked like a somewhat toothy, somewhat bandy-legged, thin-chested, bespectacled little man......米国のプロパガンダは、昭和天皇を扱き下ろした。
1945年1月25日、最高戦争指導会議(1944年8月4日以降、小磯国昭内閣で設けられた)で、「決戦非常措置要綱 」が決定され,「物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」として,「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」とされた。つまり、政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席し、天皇が臨席する最高の会議である。
天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏によって最新・最高度の情報が伝達された。つまり,戦局・戦争方針について,大元帥昭和天皇は,明確な情報をもとに,裁可を下した。
「天皇は戦争の実態をしらなかった」という戦後の俗説は誤りである。軍人は,臣下として天皇に忠誠を尽くすことを本分としており,戦局の悪化も隠さず報告している。不興をかえば,進退伺いをする覚悟である。大本営発表では,国民相手に,偽りも多かったが,最高の戦略策定能力=統帥権を保持する大元帥には,戦局の実相と作戦企図もほぼ明確に伝えられた。
写真(右):1945年7月11日、ポツダム会談に出席するために、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」でヨーロッパに向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマンと先輩議員でハルの後任の国務大臣に就任したジャームズ・バーンズ。艦長のジェームズ・フォスケット大尉が案内している。:水平になるように置かれたコンパスを試している。 From left to right, President Harry S. Truman, Secretary of State James Byrnes and Captain James Foskett, commanding officer of the USS Augusta. Captain Foskett describes a pelorus to the others. They are aboard the Augusta en route to the Potsdam Conference in Germany.
Date: July 11, 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-02引用。
写真(右):1945年7月11日ごろ、ポツダム会談に出席するために、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」でヨーロッパに向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマン。乗員と同じ食事をカンティーンでとる大統領:重巡洋艦「オーガスタ」の新造時の排水量: 9,050 トン
全長: 600 ft 3 in (182.96 m)
全幅: 66 ft 1 in (20.14 m)
吃水: 16 ft 4 in (4.98 m)
最高速力: 32.7 ノット
乗員: 735名
兵装: 8インチ(20.3cm)砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門
7.62mm機銃8基
21インチ魚雷発射管6門。Description: President Harry S. Truman (front line, second from left) answers mess call with the crew of the USS Augusta, as he travels to the Potsdam Conference. All other sailors are unidentified.
Date: ca. July 1945
Related Collection: William Rigdon Papers
ARC Keywords: Dinners and dining; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Sailors; Ships
HST Keywords: Truman - Potsdam - USS Augusta
People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: Accession Number: 70-5871引用。
写真(右):1945年7月15日,ドイツ降伏後のベルリン郊外、ポツダム会談に向かうためにベルギー、アントワープ港に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)一行。左より、海軍参謀長ウィリア・レーヒ提督、アメリカ海軍作戦部長ハロルド・スターク提督、国務長官ジェームズ・バーンズ、駐ベルギー大使チャールズ・ソーヤー、トルーマン大統領、連合国遠征軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワー将軍、巡洋艦「オーガスタ」艦長ジェームズ・バードマン大尉
Title: President Harry S. Truman
Description: (3rd from right) With senior officers and officials on board USS Augusta (CA-31) at Antwerp, Belgium, on 15 July 1945, while he was en route to the Potsdam Conference. Those present include, from left to right: Fleet Admiral William D. Leahy, USN; Admiral Harold R. Stark, USN; Secretary of State James F. Byrnes; U.S. Ambassador to Belgium Charles Sawyer; President Truman; General of the Army Dwight D. Eisenhower; and Captain James K. Vardaman, Jr., USNR, Naval Aide to the President. Collection of Admiral Harold R. Stark. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 93302
写真はNaval History and Heritage Command NH 93302 President Harry S. Truman引用。
写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ポツダム会談に参加するためにガトー飛行場に到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)。後ろに続くのは四女のマリー(Mary:15 September 1922-31 May 2014):1945年5月のドイツ降伏後、それまでの挙国一致内閣で保守党チャーチル首相に協力してきた労働党が連立から脱退した。その後、7月の総選挙で、総選挙で保守党は敗北し、第二次大戦を勝利に導いた保守党のチャーチルは、首相の座から降りた。これがなんとポツダム会談の最中だった。こうして、チャーチルは野党党首の地位にとどまったが、ソビエトとの対立が表面化し、東西冷戦がはじまると、それまで主張してきた反共産主義色を再び鮮明にした。大戦後、イギリスはアメリカと同様戦勝国のはずだったが、労働党政権は、インドなど植民地の独立を認め、大英帝国は崩壊していた。こうして、イギリスは、完全に米ソの次となってしまった。こうした中で、チャーチルの強気な外交姿勢が評価され、1951年にチャーチルは再び首相を務めた。そして、米ソに次いで三番目の核兵器保有国となることを宣言し、東南アジア条約機構(SEATO)などソ連・共産主義の封じ込めを目指した。戦争までの記録が評価され、1953年、ノーベル文学賞受賞。ノーベル平和賞は、戦争屋チャーチルには相応しくない。1955年、首相を辞め、次期首相には、1935-1938年、1940‐1945年に外務大臣を務めたアンソニー・イーデンが就任した。 ベルリンにチャーチルを運んだ輸送機は、イギリスの記章をつけているが、アメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」。チャーチル夫妻には1909年生まれ長女ダイアナ、1911年生まれ長男ランドルフ、1914年生まれ二女サラ、1918年生まれ三女マリーゴールド、1922年生まれ四女メアリー の5子がある。1941年からロンドンの対空部隊に配属されたメアリーは、ポツダム会談に出席する父チャーチルに同行した。トルーマン大統領、スターリン首相とも会っている。保守党政治家クリストファー・ゾームズ(Christopher Soames)男爵と結婚。 Prime Minister Winston Churchill steps off his airplane at Gatow Airport in Berlin. He is en route to the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945
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ARC Keywords: Military aircraft; Potsdam Conference, 1945; Prime ministers
HST Keywords: Airports - Gatow; Potsdam - General file; Truman - Potsdam - Berlin
People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-14引用。
写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場、アメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したイギリス労働党クレメント・アトリー(Clement Attlee:1883-1967) 。左から二人目。首相のウィンストン・チャーチル(1874-1965)も同じ日にガトー空港に到着しているが、別の機だったのか。 Description: Clement Attlee (fourth from left) arrives at Gatow Airport in Berlin en route to the Potsdam Conference. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945
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People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-25引用。
写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ガトー飛行場に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマン。国務長官ジェームズ・バーンズとともにアントワープについたが、ベルリンに到着したのはバーンズよりも1日早い。トルーマンの周囲には、ヨーロッパ遠征の終了後、ベルギーにいたアメリカ軍首脳。後方は、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」。:ダグラスC-54輸送機は、プラット&ホイットニー空冷ラジアルエンジンR-2000(1,290馬力)4基搭載、1942年に開発され1947年までに1200機生産。最高速度:450 km/h
巡航速度:365 km/h
座席数:50名
航続距離:6,800 km
全長:28.6 m
全幅:35.8 m
全高:8.38 m
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg
全備重量:28,123 kg。 Description: A crowd gathers around a caravan of automobiles carrying the presidential party as it leaves an airport in the Potsdam, Germany area. The planes in the background brought President Harry S. Truman and members of his advisory staff from Belgium to Potsdam for the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-49引用。
写真(右):1945年7月16日、ドイツ、ベルリン、ガトー飛行場、ポツダム会談に参加するアメリカ国務大臣ジェームズ・バーンズとソビエト連邦アメリカ大使アントレイ・グロムイ、右端はソ連外務人民委員(外務次官)アンドレイビ・シンスキー(Vyshinsky, Andrey Yanuaryevich):ビシンスキーは、スターリンの腹心の検察官として、スターリンに反対する共産党幹部を粛清した。1949年 - 1953年、ソビエト連邦外務大臣(第4代)に就任。 Description: Secretary of State James Byrnes (left) is greeted at the airport en route to the Potsdam Conference by Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko (center) and Soveit Foreign Affairs Minister Andrey Vyshinsky(right).
Date: July 16, 1945
People Pictured: Vyshinsky, Andrey Yanuaryevich, 1883-1954; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909- 写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-44引用。
写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿の正面:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が建設した。ポツダム宮殿とも呼ばれた。1990年、ツェツィーリエンホーフ宮殿と庭園が「ポツダム・ベルリン宮殿・公園群」の一角としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。
Description: Front of Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. Left in the photo is the section used as the British quarters. The long windows in the center are those of the Conference Room, and on the right are the quarters of the American delegation and President Truman. In the center, just to the right of the Conference Room, are the windows of the offices of Soviet leader Josef Stalin. From Potsdam album, 1945.
Date: July 13, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-13引用。
1945年7月、アメリカ合衆国大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、ソ連首相ヨシフ・スターリンという米英ソのビッグスリーがツェツィーリエンホーフ宮殿(Schloss Cecilienhoff)に勢揃いし、ポツダム会談が始まったが、この時はすでにドイツ総統アドルフ・ヒトラーは自殺し、ドイツは降伏していた。ドイツに勝利した連合軍は、ポーランドの国境画定、ドイツの占領統治などヨーロッパの戦後処理を話し合ったが、対日戦についてもソ連の参戦が話題になった。
写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿、イギリス代表団の宿舎に割り当てられた一角:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設され、ポツダム宮殿とも呼ばれた。1990年、ツェツィーリエンホーフ宮殿と庭園が「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」(Palaces and Parks of Potsdam and Berlin)の一角としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。 The members of the British delegation occupy this section of the Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany.
Date: July 13, 1945
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ARC Keywords: Historic buildings; Palaces; Potsdam Conference, 1945
HST Keywords: Cecilienhof Palace; Potsdam - Conference area; Truman - Potsdam - Conference area 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-64引用。
ポツダム会談の場所は、ドイツ第三帝国降伏後のベルリン郊外ポツダムである。ここには、ドイツ第二帝国皇帝ヴィリヘルム2世が1917年に建設させたツェツィーリエンホーフ宮殿(Cecilienhof)がある。この宮殿がポツダム宮殿とも呼ばれたが、本来は、皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのためのものである。
写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム、ツェツィーリエンホーフ宮殿を発つ直前のアメリカ大統領ハリー・トルーマンの乗用車と二輪車に乗ったアメリカ軍の警備兵:Description: President Harry S. Truman (not visible) in his car preparing to leave the Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. From Potsdam album, 1945.
Date: July 17, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-32引用。
ベルリン郊外、湖と森に囲まれたポツダムは、広大な地域に、宮殿群と広大な庭園のある世界遺産の町である。第2次欧州大戦の戦後処理を話し合うポツダム会談が行なわれた、歴史的舞台ツェツィリエンホーフ宮殿、ドイツ・ロココ建築の最高傑作サンスーシー宮殿、広大なフランス式のサンスーシー庭園など、18世紀、19世紀のプロイセン王国の栄華を今に伝えている。これら宮殿や公園は、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」(Palaces and Parks of Potsdam and Berlin)としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。一部は、ホテルとして利用されているが、世界遺産の宮殿は、プロイセン王国時代に創建されたものである。「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」(Palaces and Parks of Potsdam and Berlin)には、フリードリヒ大王の離宮となったサンスーシ宮殿、ポツダム会談の舞台となったツィーリエンホーフ宮殿などがある。全体で30カ所近くの遺跡が登録されており、その歴史的な価値は高く評価されている。
写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム、アメリカ軍司令部に接続された電話交換機を監督するロレイン・ロバタイユ軍曹:電話をかけるために2つの電話機の間の通信回線をつなげるのが、電話交換の仕事である。個々の電話間を電話交換機と接続し、電話交換手の手で、一時的に相手の電話とと接続する。現在では、送信側が受話器を取り上げて電話番号を押すと自動的に相手の電話に回線がつながる自動交換方式・ダイアル通話が普及しているが、電話交換機の場所が限定されていること、電話交換機手が通信内容を把握できることなど秘密確保の上から、自ら専用の電話交換台を持つことが望ましい。 Description: Staff Sergeant Lorraine Robitaille, switchboard supervisor at the United States headquarters at the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945
People Pictured: Robitaille, Lorraine 写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-79引用。
1945年7月17日,ドイツ・ベルリン郊外のポツダム会談において、米大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman:4月12日就任),イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)((後日、新首相アトリーに変更)、ソ連首相スターリンの三巨頭は,ドイツ敗北後の欧州戦後処理を話しあった。その際,日本に対する降伏勧告も検討された。ポツダム会談(Potsdam Conference)前日,1945年7月16日、米ニューメキシコ州で初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆破実験に成功した。米国は,ソ連に対して強硬な態度に出た。日本に対する降伏勧告から国体護持を認める可能性は、一切排除された。
写真(右):1945年7月17日から8月2日,ドイツ降伏後のベルリン郊外ポツダム、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov):7月26日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言(Potsdam Declaration)は、次のようなものだった。 1)合衆国大統領、中華民国政府主席及グレート・ブリテン国総理大臣は、数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し、今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見一致せり。 2)合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の聯合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。 3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合に於て全ドイツ国人民の土地、産業及生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し測り知れざる程更に強大なるものなり。吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。-----この「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」が原爆投下を暗示すると解釈されることもある。 Description: Soviet Prime Minister Josef Stalin meets President Harry S. Truman for the first time at the Little White House during the Potsdam Conference. The Little White House is the residence of President Truman during the conference. Front row, from left to right: Vyacheslav Molotov, Soviet foreign minister; Secretary of State James Byrnes; President Harry S. Truman; and Prime Minister Josef Stalin. Back row, left to right: Charles Bohlen, assistant to Mr. Byrnes; Admiral William D. Leahy; and V. N. Pavlov, Russian interpreter. Standing at the top of the stairs are Major General Harry Vaughan (left) and Captain James Vardaman (second from the left of the pillar on the right). Others are unidentified. From Potsdam album, 1945
Date: July 17, 1945
People Pictured: Bohlen, Charles E. (Charles Eustis), 1904-1974; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-75引用。
写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿(1917年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が建設) 、正面奥にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、国務長官ジェームズ・バーンズ、海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督、右端にイギリス首相ウィンストン・チャーチル、左端にソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、中央手前クレメント・アトリー(Clement Attlee)、:7月26日、ポツダム宣言(Potsdam Declaration)で、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: Delegates gathered around the conference table at the Potsdam Conference in Germany. Soviet Prime Minister Josef Stalin is on the left, seated opposite the Soviet flag on the table; Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov is on Stalin's right. British Prime Minister Winston Churchill is seated on the right, opposite the the British flag on the table; Clement Attlee is seated two to the left of Churchill. President Harry S. Truman is near the center, opposite the United States flag, wearing a bow tie and gesturing with his hand. Secretary of State James Byrnes is on the left of Truman; Admiral William D. Leahy is to the left of Byrnes. Interpreter Charles Bohlen is to the right of Truman. Seated behind Bohlen is Captain James Vardaman. Averell Harriman is seated to the right of Vardaman (partly obscured). General Harry Vaughan is standing, fifth from the right. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945
Date: July 19, 1945
People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Bohlen, Charles E. (Charles Eustis), 1904-1974; Harriman, W. Averell (William Averell), 1891-1986; Vardaman, James K.
写真は Harry S. Truman Library & Museum・Potsdam Conference Accession Number: 63-1456-45引用。
写真(右):1945年7月17日から8月2日,ポツダム会談:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談(Potsdam Conference)開催の前、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトは死去、副大統領ハリー・トルーマンが継いだ。開催最中、イギリス総選挙で保守党がまさかの敗北、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは地位を失い、労働党クレメント・アトリーが後を継いだ。ソ連のヨシフ・スターリンだけが戦前から一貫して権力を握っている。 Potsdam, a meeting of the foreign ministers, including Vyacheslav Molotov, Anthony Eden, James Byrnes and aides. From the album: President's Trip to the Berlin Conference.
Date: ca. July 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-75引用。
写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill):7月26日、ポツダム宣言(Potsdam Declaration)において、アメリカ、イギリス、中国(実際はソ連)は、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: Participants in the Potsdam Conference in Germany stand mingling in the conference room at Cecilienhof Palace. British Prime Minister Winston Churchill, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin pose for cameramen at the top of photo. Anthony Eden and Vyacheslav Molotov far right. Clement Attlee, far left. From Potsdam album, 1945.
Date: July 17, 1945
People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-
Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission
写真は Harry S. Truman Library & Museum・Potsdam Conference Accession Number: 63-1453-22引用。
写真(上右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム、オープニングセッション最中のポツダム会談:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談:Opening session of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. President Harry S. Truman is seated foreground (back to camera). Soviet Prime Minister Josef Stalin is at right. British Prime Minister Winston Churchill is at left. Secretary of State James Byrnes is seated to the right of President Truman. Admiral William Leahy is seated two to the right of President Truman. British foreign minister Anthony Eden is to the left of Winston Churchill. Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov is to the left of Prime Minister Stalin. From Potsdam album, 1945.
Date: July 17, 1945
People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov,
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-29引用。
写真(右):1945年7月23日、ポツダム会談、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill):Description: British Prime Minister Winston Churchill (left), President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin on the steps of Mr. Churchill's house during the Potsdam Conference in Germany. Mr. Churchill has just given a dinner for Mr. Truman and Mr. Stalin. Others in photo are unidentified. From Potsdam Album, 1945 Date: July 23, 1945
People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-58引用。
写真(右):1945年7月,ポツダム会談の三巨頭 "Big Three":英首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、新イギリス首相アトリーに交替した。1945年7月26日,ポツダム宣言で、米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置が公表された。 Description: Left to right: Prime Minister Winston Churchill of Great Britain, President Harry S. Truman, and Generalissimo Joseph Stalin of Russia, sitting in the garden at Potsdam in front of a barrage of cameras. Fourth from the left of those standing is General Harry Vaughan, Military Aide to Truman. From: Kirke B. Lawton, Major General, United States Army. Date: ca. July 1945
People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真は Naval History and Heritage Command Accession Number: 2006-341引用。
写真(右):1945年7月19日,ポツダム、チャーチル、トルーマン、スターリンの三巨頭 "Big Three"のポツダム会談:1945年7月26日,ポツダム宣言で、米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置が公表された。1945年7月26日、原爆投下命令の出た翌日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言(Potsdam Declaration)が発せられた。ここでは、2)合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の聯合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。---吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。----この「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」が原爆投下を暗示すると解釈することもある。Description: Delegates seated for Potsdam Conference at the conference table at Cecilienhof Palace. President Harry S. Truman, left foreground (facing the American flag on the table), James F. Byrnes and Admiral William Leahy to his right; British Prime Minister Winston Churchill, upper left (facing the British flag on the table) with Clement Attlee two to the right of Mr. Churchill. Premier Josef Stalin (facing the Russian flag on the table, gesturing with his right arm) and Vyascheslav Molotov at right. Averell Harriman at extreme left. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945
People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Harriman, W. Averell (William Averell), 1891-1986; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は Naval History and Heritage Command Accession Number: 63-1456-42引用。
写真(右):1945年7月28日-8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three":英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee;
米大統領トルーマンU.S. President Harry S. Truman;
ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin。後列は、アメリカ海軍参謀総長レーヒ(William D. Leahy)提督, イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ( James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)。 海軍参謀長レーヒ提督は、日本軍兵士の心理研究書を執筆し,日本人ガールフレンドもいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。国務長官バーンズは、対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治的先輩。ソ連外相モロトフは、独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結で枢軸国とも同盟的な関係を結んだ人物。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。 Potsdam, a meeting of the foreign ministers, including Vyacheslav Molotov, Anthony Eden, James Byrnes and aides. From the album: President's Trip to the Berlin Conference.
Date: ca. July 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-
写真は Naval History and Heritage Command Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1860 引用。
イギリス戦時内閣首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill:1874年11月30日-1965年1月24日)1939年9月3日、イギリスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発した。この時、ウィンストン・チャーチルは海軍大臣(First Lord of the Admiralty:海軍卿)として戦時内閣の閣僚に復帰したが、緒戦のノルウェー侵攻に失敗し、さらにチェンバレン首相の後任として1940年5月に首相に就任するも、ドイツ軍のフランス侵攻、フランス敗北、イギリス遠征軍の本土撤退と敗退を重ねた。その後、1940年夏のイギリス本土航空決戦で何とかドイツ空軍を撃退した。1942年には、ソ連への軍事援助を続けながら、北アフリカでドイツ軍に手痛い敗北を負わせた。1943年1月、アメリカ大統領ローズヴェルトとイギリス首相チャーチルはモロッコのカサブランカ会談で、地中海域での反攻作戦を協議し、イタリアのシチリア島上陸を決定した。1943年11月、イタリアを降伏させ、エジプトのカイロ会談で、ルーズヴェルト・蒋介石と対日戦と対日戦後処理の方針について話し合った。1943年12月に発表されたカイロ宣言では、日本に対する無条件降伏、降伏後の日本領は第一次世界大戦以前に戻すこと、満州・台湾・澎湖島の中国への返還、朝鮮独立が公表された。ルーズヴェルトとチャーチルは、カイロ会談後にイランのテヘランに飛び、1943年11月からヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)とのテヘラン会談に臨んだ。テヘラン会談では、主にヨーロッパ第二戦線の問題について協議が行われた。
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ポツダム宣言(Potsdam Declaration)は,米大統領ハリー・S・トルーマン,英首相チャーチル,中国主席蒋介石が署名した(とされた),日本への無条件降伏勧告であり,概略は次の通り。
1 米大統領、中華民国政府主席,英首相ハ 数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上,日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フル。
2 米英中ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ 数倍ノ増強ヲ受ケ 日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ。
3 世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ 日本国国民ニ対スル先例ヲ明白ニ示スモノナリ。---吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ 日本国軍隊ノ不可避 且完全ナル壊滅ヲ意味スベク 必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ。
4 日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル 我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国ガ引続キ統御セラルベキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履(ふ)ムベキカヲ 日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ。
5 吾等ノ条件ハ以下ノ如シ。右ニ代ル条件存在セズ。遅延ヲ認ムルヲ得ズ。
6 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ 平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルヲ以テ 日本国国民ヲ欺瞞シ 之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ 永久ニ除去セラレザルベカラズ。 There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
7 新秩序ガ建設セラレ 且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ 連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ --占領セラルベシ。
8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。(1943年11月27日のカイロ宣言では,日本は,第一次世界大戦で奪った太平洋諸島の放棄、中国から奪った満州・台湾・占領地の中国返還、朝鮮独立など「大西洋憲章」領土不拡大の原則が引き継がれた。)
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月18日、グルジア生まれ、1953年3月5日没)ソビエト連邦は,1938年の満ソ国境での張鼓峰事件,1939年のモンゴル・満州国境のノモンハン事件に際しては,T-26軽戦車が投入され,日本軍を攻撃した。他方、スターリンの承諾の下、1939年8月23日、ドイツと独ソ不可侵条約秘密議定書が締結した。この独ソ不可侵条約(THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT)は,
?相互に相手の領土の不可侵,
?一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない
?相互間の紛争の平和的解決
を骨子とした,期限10年の条約である。
1941年6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を反故にしてソ連を電撃的に攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していたイギリス,アメリカは即座にソ連支援を公言した。1939年には日ソ中立条約を締結したが、1945年には延長せずと破棄通告(日ソ中立条約は半年は有効)。ヤルタ会談では、スターリンはドイツ敗北2-3カ月後に対日参戦することをルーズベルト大統領、チャーチル首相に約束した。ドイツ降伏3か月後の1945年8月9日、アメリカが長崎に原爆を投下した昼、スターリンは、ヤルタ密約と符合するように、佐藤駐ソ日本大使に対日宣戦布告をしたが、その理由は、日本がポツダム宣言を拒否して世界平和を乱しているということだった。
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9 日本国軍隊ハ 完全ニ武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ 平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ。 The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
10 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ 奴隷化セントシ 又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ 厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル 民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ。 We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
11 日本国ハ 経済ヲ支持シ 実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ 許サルベシ。但シ 日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ 此ノ限ニ在ラズ。右目的ノ為原料ノ入手ヲ許可サルベシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ。 Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese, participation in world trade relations shall be permitted.
12 前記目的ガ達成セラレ 日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ 平和的傾向ヲ有シ 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ 連合国ノ占領軍ハ 直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ。
13 日本国政府ガ 直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ 政府ノ誠意ニ付 保障ヲ提供センコトヲ 同政府ニ対シ要求ス。 右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。 We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.
(⇒「ポツダム宣言」(米英中三国宣言)およびUCLA Asia Institute;Potsdam Declaration引用)。
ポツダム宣言(Potsdam Declaration)を要約すれば,日本軍の無条件降伏(13),軍国主義者の排除(4),占領地・植民地(朝鮮・台湾など)放棄・本土への領土限定(8),戦争犯罪人の処罰(10)を求めた降伏勧告がなされたといえる。
ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。米大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltは,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman:61歳)が、4月12日に第33代大統領に就任。イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)も、1945年イギリス総選挙(1945 UK General Election )で敗北し、7月27日に英国新首相クレメント・アトリー(1951年10月26日まで在籍)へ政権交代し,ポツダムには戻らなかった。他方,ポツダム会談に加わったスターリンは,ポツダム宣言には参加していない。欠席した中国の蒋介石は,ポツダム宣言の提唱者のひとりとなった。
連合国の枢軸国への強硬政策が基本方針とされていたために,ポツダム会談では各国首脳陣の入れ替わりや複雑な事情によても,ポツダム宣言における無条件降伏の勧告は,全く変更されなかった。
米海軍参謀長ウィリアム・ダニエル・レーヒ(William Daniel Leahy)提督や陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソン(Henry Lewis Stimson)は,天皇制の維持,すなわち国体護持を条件とすれば,本土の都市空襲と無制限潜水艦作戦による物資供給の途絶によって戦争遂行能力の低下した日本と講和できると考えていた。
写真(右):1945年7月26日、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、アメリカ陸軍ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)元帥、ドイル・ヒッキー(Doyle O. Hickey)中将: Description: President Harry S. Truman (left), accompanied by General Dwight D. Eisenhower (center), chats with Brigadier General Doyle O. Hickey, before reviewing troops at Neuisenburg, Germany. President Truman is in Germany to attend the Potsdam Conference. General Hickey is the Commanding General of the Third Armored Division, Seventh Army. From Potsdam album, 1945
Date: July 26, 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Armed forces officers; Potsdam Conference, 1945; Presidents
HST Keywords: Germany - Cities and towns - Neuisenberg; Potsdam - Military reviews; Truman - Potsdam - Military reviews
People Pictured: Eisenhower, Dwight D. (Dwight David), 1890-1969; Hickey, Doyle O. (Doyle Overton), 1891-1961; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-79引用。
写真(右):1945年7月-8月、ドイツ、ポツダム会談に向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、アメリカ陸軍ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)元帥、オマール・ネルソン・ブラッドレー(Omar Nelson Bradley:1893-1981)中将: President Truman is shown in an open car with General Dwight Eisenhower (center) and General Omar Bradley on their way to a Potsdam conference. From: Frank Gatteri, U.S. Army Photographer.
Date: ca. 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Armed forces officers; Automobiles; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents
HST Keywords: Automobile - Truman in; Potsdam - General File; Truman - Dignitaries - Military - Bradley, Omar; Truman - Dignitaries - Military - Eisenhower, Dwight D.; Truman - Potsdam - Berlin
People Pictured: Bradley, Omar Nelson, 1893-1981; Eisenhower, Dwight D. (Dwight David), 1890-1969; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Accession Number: 2000-3引用。
表 第二次大戦中の主な連合国首脳会議
名 称 (コードネーム) |
期 日 |
参加首脳 |
内 容 |
大西洋会談 Atlantic
Conference アルゼンチアNewfoundland Argentia |
1941/8/9-12 |
Winston Churchill,
Franklin Roosevelt |
大西洋憲章 Atlantic Charter |
アルカディア会談 Arcadia Conference ワシントン |
1941/12/22-42/1/14
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チャーチル,ルーズベルト |
欧州戦線優先Europe first, 連合国共同宣言 |
カサブランカ会談 Casablanca Conference (SYMBOL & ANFA) |
1943/1/14-24 |
チャーチル,ルーズベルト, ドゴール, ジロードGiraud |
イタリア侵攻計画, 1944年の大陸侵攻計画, 枢軸国の無条件降伏unconditional surrender要求,ロンドン亡命仏政府とアルジェリア仏政府の統合 |
ケベック会談 Quebec Conference (QUADRANT) |
1943/8/17-24 |
チャーチル,ルーズベルト, カナダ首相Mackenzie King |
大陸侵攻上陸日 D-Dayを1944年と決定。 東南アジア司令部設置,ケベック秘密協定:核兵器情報の秘匿 |
カイロ会談 Cairo
Conference (SEXTANT) |
1943/11/23-26 |
チャーチル,ルーズベルト,蒋介石 |
戦後アジアに関するカイロ宣言Cairo Declaration |
テヘラン会談 Tehran
Conference(EUREKA) |
1943/11/28-12/1 |
チャーチル,ルーズベルト,スターリンJoseph Stalin |
米英ソ3巨頭初会談, ドイツに対する最終戦略と大陸侵攻Operation Overlordの日程決定 |
ブレトンウッズ会談 Bretton Woods conference |
1944/1/1-15 |
44カ国代表 |
国際通貨基金IMF,世界銀行 IBRDの創設合意 |
ダンバートンオーク会談Dumbarton Oaks Conference |
1944/8/21-29 |
39カ国代表, 米国務長官Edward Stettinius, 英外務次官Alexander Cadogan, ソ連駐米大使グロムイコAndrei Gromyko |
国連United Nations創設の合意 |
ヤルタ会談 Yalta Conference(ARGONAUT & MAGNETO) |
1945/2/4-11 |
チャーチル,ルーズベルト,スターリン |
ドイツ敗戦後の計画,戦後欧州計画,国連総会準備,ソ連の対日戦の条件 |
サンフランシスコ国連会議 UN Conference on International Organization |
1945/4/25-6/26 |
50カ国代表 |
国連憲章 United Nations Charter |
ポツダム会談 Potsdam Conference(TERMINAL) |
1945/7/17-8/2 |
チャーチル, スターリン, 米大統領トルーマンHarry S. Truman,英新首相アトリーClement Attlee1945/7/27就任 |
ポツダム宣言 (日本への無条件降伏勧告),戦後ドイツ占領に関するポツダム合意 Potsdam
Agreement |
出所)Wikipedia/
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_conferencesよリ作成。
写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談終了後、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」に乗って、イギリス南西ハロービアー飛行場(Harrowbeer Airport)に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ。周囲にいる女性隊員は、アメリカ軍の女性補助空軍(WAAF) のメンバー:C-54輸送機でイギリスに到着後、アメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」に乗艦して、8月7日、アメリカに帰国。Description: President Harry S. Truman and Secretary of State James Byrnes with three members of theWomen's Auxiliary Air Force at Harrowbeer Field near Plymouth, England, where the President's airplane landed enroute to the ship USS Augusta. President Truman has just completed attending the Potsdam Conference in Germany. From left to right: Section Officer Eira Buckland-Jones, President Truman, Corporal Clarice Turner, Secretary of State Byrnes, and Leading Aircraft Woman Audley Bartlett. Others in the background are unidentified. From the album, number 2: "President Truman's Trip to Potsdam."
Date: August 2, 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Cabinet officers; Potsdam Conference, 1945; Presidents; Women soldiers
写真は、Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1453-31引用。
30回の連合国首脳会談が開催され,出席回数はチャーチル14回,ルーズベルト12回,スターリン 5回。 会談は,枢軸国への無条件降伏の要求が1943年1月カサブランカ会談から主張され,対ドイツが優先された。
大戦中の連合国首脳会議20回のうち,中国代表が率先して参加したのは,国連関連を除き,1943年カイロ会談だけで,日本と対日戦争が明示的に取り上げられた会談も5回に過ぎない。これは,対日戦争、アジアは,米国主導下に置くことを連合国に合意されていたことの反映である。
戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,ポツダム宣言(Potsdam Declaration)の文言よりも、米国が暗黙裡に国体護持を認めていることに注目した。終戦後,米軍に積極的に協力することによって,国体が護持できると考えた。つまり,日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。
主戦国アメリカ合衆国は,連合国のリーダーとしてポツダム宣言(Potsdam Declaration)で日本への無条件降伏の要求を取り下げることはできない。日本が特攻作戦を大規模に展開して,日本本土上陸作戦で多数の米軍死傷者が見込まれるとしても,無条件降伏の要求は変更できない。米国は,日本を無条件降伏させるためには,手段を選ばなかった。マンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves)准将は、原爆の破壊力が大きいのであれば,使用するのが当然であると考えていた。
戦後,原爆投下の惨状が明らかになると,米軍の死傷者を少なく抑えるために,日本へ原爆を投下したと,トルーマン大統領,ヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)陸軍長官は弁明した。しかし、1945年前半の米国の戦略において,味方の死傷者推計数は,本土上陸作戦には問題とはなっていなかった。
写真(右):1945年8月7日、ポツダム会談が終了し、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」でワシントンDC東、チェサピーク湾に帰着したアメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ、報道官・ジャーナリストのチャールズ・ロス(Charlie Ross:1885-1950)、政治顧問・法律家ジェームズ・ワルドマン(James K. Vardaman Jr:1894-1972)海軍大尉ほかアメリカ代表団:重巡オーガスタは、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ルーズベルト大統領の「御召艦」としての任務が加わり、近代化改装工事が行われる。1941年8月9日、大西洋会談に際して、イギリス首相チャーチルの御召艦・戦艦プリンス・オブ・ウェールズとニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地で会合。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談に向かうトルーマン大統領らを乗せて、ベルギーに向けて出航、7月14日にアントワープ港に到着。1945年8月2日、イギリス、プリマス港でポツダム会談から帰ってきたトルーマン大統領を乗せ、8月7日、アメリカ東部、ワシントンDC東のチェサピーク湾に到着。President Harry S. Truman and members of his party aboard the USS Augusta as the ship entered Chesapeke Bay, returning President Truman from the Potsdam Conference in Germany. Front row, left to right: unidentified man; two unidentified military personnel; Captain James Vardaman; Press Secretary Charles Ross; Secretary of State James Byrnes; President Truman; Admiral William D. Leahy. All others are unidentified. From the album President's trip to the Berlin Conference, vol. 2 of 2.
Date: August 7, 1945
People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-48引用。
枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の抗戦意志を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。米軍は、日本本土上陸作戦を実施し、日本を無条件降伏させる準備をしていた。
日本政府は、1945年7月27日、ポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に新聞紙上で「笑止」「聖戦飽くまで完遂」と報道。鈴木貫太郎首相は、記者会見で「共同声明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争戰争完遂に邁進する」と述べ、1945年7月29日朝日新聞で「政府は黙殺」と報道された。ポツダム宣言「黙殺」発言は、日本の代表的通信社の同盟通信社では"ignore it entirely"、ロイターとAP通信では"Reject"と翻訳され世界に伝わった(ポツダム宣言wikipedia)。
鈴木貫太郎首相のポツダム宣言(Potsdam Declaration)黙殺発言について,鈴木貫太郎自身は,戦後一年経ってから「この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり…」と後悔した。しかし,鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言について、高木惣吉海軍少将は、米内光政海軍大将大将に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内は沈黙したままで、鈴木貫太郎首相のみが責をとった形となった。米内大臣を始め閣僚・重臣はみな徹底抗戦やむなしと考えていた。
日本は,アメリカや連合国とは,全く異なる視点、すなわち国体(天皇制)を思い戦争の前途を心配していた。鈴木貫太郎も、無条件降伏という歴史的大敗北、日本と皇祖への最大の恥辱を大元帥昭和天皇の治世の時代に決断することはできなかった。
4.アジア太平洋戦争の連戦連破を背景に,日本の軍部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性があった。1945年2月14日「近衛上奏文」において,国体を護持するために終戦の聖断を求めた背景は,共産革命への恐怖だった。天皇の権威は,天孫降臨の神話を象徴する三種の神器によっており、アメリカ軍による伊勢神宮占領,三種の神奪取が危惧された。原爆投下や都市の壊滅ではなく、国体護持の観点が重要であり、その意味で、ソ連参戦の政治的悪影響が懸念されていた。 当時,原子爆弾は機密の最先端技術であり,日本の軍人・政治家の理解を超えていた。一夜にして、都市が破壊され、数万人が殺戮された事例は、1945年3月10日東京大空襲などいくつもあった。本土が焦土とされても徹底抗戦を主張していた指導者が、理解不能の原爆の威力に恐れおののき、降伏を決断することはありえない。 他方,ソ連は、国体・天皇制に敵対する共産主義のイデオロギーを信奉しており、ソ連が日本を占領すれば、国体は変革される。この恐怖から、アメリカへの降伏、国体護持を請うたのが大元帥昭和天皇による終戦の聖断である。
写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。-----しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といったとされる。
近衛文麿は、1937年第1次近衛内閣を組閣,1937年7月に日中全面戦争を開始し、1938年1月16日、蒋介石の「国民政府を対手(あいて)とせず」の発言と宣言して、戦争を泥沼に引き入れた。近衛は三次にわたり首相を務め、政権を担っことになるが、?1937年7月の日中全面戦争の開始、?1938年11月3日の東亜新秩序建設・新体制の提唱、?1940年9月23日の北部仏印進駐、?1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟の締結、?1941年4月13日の日ソ中立条約、?1941年7月の関特演と東軍南部仏印進駐、?1941年9月6日の帝国国策遂行要領(対米要求が10月上旬までに貫徹できなければ対米英蘭の開戦)の決定、など重要な国策が決まったのは、近衛文麿政権での出来事である。
近衛文麿は、日米開戦の前に首相を辞任していたが、1945年2月14日に「近衛上奏文」で「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,昭和天皇に上奏文を提出した。
----英米ノ世論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス。---敗戦ダケナラハ 国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ 敗戦ヨリモ 敗戦ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。
----ソ連ハヤガテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候。---右ノ内特ニ憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。
----勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ 滿洲事變以來 今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。
---此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。」(「近衛上奏文」引用)。
昭和天皇は、上奏文を提出した近衛文麿に,次のように御下問された。(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)
天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」
近衛文麿(このえ ふみまろ:1891年10月12日生まれ、1945年12月16日自殺):五摂家の筆頭・近衞家に生まれ、東京帝国大学哲学科と京都帝国大学法科大学に学び、さらに貴族院議長、内閣総理大臣、外務大臣)、拓務大臣、司法大臣を務める。1934年、アメリカを訪問、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、国務長官コーデル・ハルと会見した。1937年の日中戦争勃発時の首相、1938年11月3日には「東亜新秩序声明:第二次近衛声明」を発した。1940年7月22日に、第2次近衛内閣を組閣、松岡洋祐を外相から排除して、1941年7月18日から10月18第3次近衛内閣で、日米和平交渉を続けたが、成果を上げられず、辞任。終戦2か月後の1945年10月4日、近衞文麿は、GHQ(連合国軍総司令部)司令官ダグラス・マッカーサー元帥を訪問し、日本の赤化防止、憲法改正について話し合った。しかし、1945年12月6日、GHQからの逮捕命令が出て、近衛はA級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれることが決定すると、出頭起源の12月16日未明、荻外荘で青酸カリを服毒して54歳で自決。
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天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」
近衛「それは、陛下のお考え…。」
天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
近衛「従来、軍は永く一つの思想[統制派]によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者[皇道派]もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。----この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。賀陽宮は[皇道派による]軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないと[皇道派によって軍を立て直し終戦に持ち込むのは]なかなか話は難しいと思う。」
近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」
1945年2月14日、近衛文麿は,昭和天皇への上奏文によって,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明した。そして,軍部の統制派が戦争終結の障害になっているので,彼らを一掃し,米英中と和平交渉しようと考えた。軍部を建直し,共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだ。しかし,結局は、戦闘を継続し,一戦に勝利して国体護持を条件とする和平交渉を始めようとした。国体護持の確証は無く終戦の決断はできなかった。
1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。1945年6月8日の御前会議では,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,戦争完遂,本土決戦準備を決定した。
1945年7月26日,ポツダム宣言が通告されても,終戦を即断できなかった。
写真(上左):1945年テニアン島ノースフィールド基地の第509混成部隊The 509th Composite Group,広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」 ENOLA GAYと遠方の長崎の原爆を投下した「ボックスカー」Bockscar:サインは、「ボックスカー」副操縦士フレド・オリーブのもの。Signed Photo of the Enola Gay and Bockscar (in background) - Signed by Fred Olivi, Co-Pilot of Bockscar.
テニアン島を発進し、日本本土を攻撃した。原爆投下部隊は、秘匿名称「第509混成部隊」509th Composite Groupと呼ばれた。 The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc.
:The Joseph Papalia Collection引用。
写真(上右):長崎に原爆を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」BOCKSCAR:最高速度: 357 mph (575 km/h)、巡航速度: 290 mph (467 km/h)、上昇時間 25,000 ft. (7620m): 43 分、上昇限度: 36,000 ft. (10,973 m)、航続距離 (10,000 ポンドの爆弾搭載):
3,250 miles (5230 km)。Warbirds Resource Group引用。
写真(右):1945年,広島で原子爆弾に被爆した女子挺身隊:識別コード:SA152-1 陸軍船舶司令部写真班撮影:陸軍船舶司令部は、中国大陸や南方への輸送の要であった宇品港が主活動の場であったが、宇品向かいの似島にも検疫所があった。広島平和記念資料館の許可を得て掲載。
平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸は,宮中グループの日記や手記の次のような文書を紹介している。
岳父近衛文麿公爵秘書官細川護貞『細川日記』 1945年8月8日
「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信−内務省得意の無電も−途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、----是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----木戸[幸一]内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。
1945年8月9日
「----[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。---」と言上、十一時半荻窪に[近衛文麿]公を訪ねたる所、---ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。---宮中にては最高六人会議---を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。
侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」
1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。---」
写真(右):1945年8月7日、似島検疫所に横たえられた被爆者:識別コード SA003-1:尾糠政美氏撮影;尾糠氏は8月7日に広島湾宇品港沖に浮かぶ似島(にのしま)検疫所に入り、軍医の指示で撮影。ここには野戦病院が開設され、8月6日午前中から次々と船で負傷者が運ばれた。応急手当とクレゾール入浴を施された。6日に運び込まれた患者は約2000人、軍医以下80人の衛生部員が救護に当たった。通常1000人の収容能力を持つ検疫所付属病院は、1日3000人から9000人の患者を扱った。このような尾糠政美氏の写真は、米軍の占領・検閲が終わり、『アサヒグラフ』1952年8月6日号に、撮影者の氏名なしに掲載されたという。広島平和記念資料館「平和データベース」引用。軍事技術の粋を集めたB-29爆撃機、原子爆弾、そして、優秀な科学者、訓練された搭乗員、有能な指揮官,世界情勢を考える大物政治家が、原爆を開発、投下を決断・実行した。広島平和記念資料館の許可を得て掲載
写真(右):1945年8月6日、原爆「リトルボーイ」LBを広島に投下したボーイングB-29 爆撃機「エノラ・ゲイ」:B-29「エノラ・ゲイ」の機長・操縦士ポール・ティベッツ(Col. Paul Tibbets, Jr., pilot; Capt. )大佐、航法士ヴァン・カーク大尉(Capt. Theodore Van Kirk, navigator)、レーダー手リチャード・ネルソン一等兵(PFC Richard Nelson, radar operator)、爆撃手トーマス・フェレビー少佐(Major Thomas Ferebee, bombardier)、機銃員ジョージ・キャロン軍曹(Staff Sgt. George Caron, gunner)、レーダー警戒要員ジャコビ・ベサー中尉(First Lieutenant Jacob Beser, radar countermeasure observer)。 [Enola Gay after strike at Hiroshima, entering hard-stand.]
Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan
National Archives Identifier: 519393
Local Identifier: 77-BT-91
Creator: War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946
This item was produced or created:
8/6/1945 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 519393 引用。
芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日
2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.
1945年8月8日
午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。⇒平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用。
⇒本土決戦兵士:特攻専用機「剣」人間魚雷「海龍」:実現しなかった一億総特攻。
木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940-1945年に内大臣を務める。
木戸幸一『木戸幸一日記』(「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、------真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず(引用終わり)。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島「原爆ドーム」:原爆ドーム
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
National Archives Identifier: 39147856
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03734
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
Type(s) of Archival Materials: Photographs and other Graphic Materials
This item was produced or created:17/3/1948 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 39147856 引用。
世界の原爆投下記念碑として有名な広島市「原爆ドーム」は、1915年(大正4年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建設され、広島県美術展覧会、博覧会の会場ともなった施設で、本来は、 「広島県物産陳列館」という名称である。しかし、その後、広島県立商品陳列所、1933年(昭和8年)には「広島県産業奨励館」に改称されている。設計者のチェコ人建築家ヤン・レツルは、鉄骨・煉瓦造の構造に、石材・モルタルの外装で、中央部分5 階建の階段室と、その上の銅板の楕円形ドーム(長軸11メートル、短軸8メートル、高さ4メートル)がある。当時の広島市の建築物は、この中心街でも木造2階建てどまりであり、「広島県物産陳列館」のヨーロッパ風の様式は、広島名所の一つになった。しかし、1945年8月6日午前8時15分、広島県産業奨励館から南東200メートル、高度 600メートルで、世界初の原子爆弾が爆発した。熱線が放出され 風速440メートルの爆風は、1平方メートル当たり35トンの圧力だった。「広島県産業奨励館」は全焼したが、爆心地近くで、爆風が垂直に吹いてきたために、本館は倒壊しなかった。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。右奥には、原爆ドームが見える。:原爆ドームは、広島県物産陳列館として1915(大正4)年に竣。その後、1921年に広島県立商品陳列所、1933年に広島県産業奨励館に名称変更。1944年3月からは、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材・日本木材広島支社などの物資統制・業界統制のための事務所となる。原爆投下時、館にいた30名余は全員死亡と思われる。爆心地に近く真上からの爆風だったため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠も燃え残った。占領後に「原爆ドーム」という名称が定着した。 [Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-360. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147834
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03723Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 39147834引用。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。奥には、原爆ドームが見える:原爆ドームは、広島県物産陳列館として1915(大正4)年に竣。その後、1921年に広島県立商品陳列所、1933年に広島県産業奨励館に名称変更。1944年3月からは、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材・日本木材広島支社などの物資統制・業界統制のための事務所となる。原爆投下時、館にいた30名余は全員死亡と思われる。爆心地に近く真上からの爆風だったため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠も燃え残った。占領後に「原爆ドーム」という名称が定着した。 [PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
National Archives Identifier: 22345671
Local Identifier: 243-HP-I-31-2
Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent)
From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947
ARC Identifier: 22345671 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 540225引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「越智晴子さん 直接被爆・距離1.7km(千田)被爆時22歳」 には、次のようにある。
・太陽が落ちて来たと思った程、すさまじい火球が炸裂した様子。
・瓦礫に埋まりながら、死を覚悟した時の心境。
・血達磨の兄夫婦のおそろしい姿。
・丸い顔、細くなった目、髪の毛も、着衣もなく、肩から垂れ下がった皮フをボロ 切れの様にヒラヒラさせながら走り去って行った人々の姿。
・爆風が止み、瓦礫の中から立ち上がり見た、視界に入る限りの建物が全部壊滅し ていた事。
・大怪我の三人の少女を自分が助かり度い為、途中に置いて避難した事。おそらく 亡くなられたと思う。
どの様な思いで息絶えて逝かれたかと思うと言葉が無い。亡くなった方達の思いを 考える時、何時も、何故、死んで居たはずの私が生き残ったのか?という事を考える。 そして与えられた命の重みと使命を考える。
戦争は殺人以外の何者でもない。正義の戦争など存在しない。まして、その戦争で 核兵器を使用するなどは、人間のやる事ではない。自然の災害は人間の力で止める事は出来ないが、戦争は人間の行為である。止める 努力をすれば止める事が出来る。命は一つしかない、という事をよく考える可き。 思いやりのある人間になって欲しい。 (2005年) 「越智晴子さん 直接被爆・距離1.7km(千田)被爆時22歳」引用終わり。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。:広島城跡にあった旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)は、原爆の爆風圧と熱線であとかたもなく消滅してしまったが、その一角の半地下式壕の防衛司令室 (通信室) は焼失をまぬがれた。この通信壕にあった情報室には当時、学徒動員の比治山高等女学校三年の生徒90人が24時間三交代制で勤務していた。ここには半地下式の防空作戦室で軍人、軍属に混じって学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆が投下され、市内の電信電話が破壊されたものの、旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)の軍事専用電話は残っており、それを使って女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。 [PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan
National Archives Identifier: 22345672
Local Identifier: 243-HP-I-31-3
Creator: War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 22345672 引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「竹田国康さん 直接被爆・距離1.8km(二葉の里)被爆時14歳」 には、次のようにある。
(1)被爆時体験したあの爆風の衝げきと白黄色のあのせん光。うめき苦しみ木の葉のよ うに散乱した黒こげの人の群。手を前にぶら下げて沈黙したまま避難して行く性別 をも分からない路上の人々。 (2)弟が「死にたくない、死にたくない」と叫びながら命を失ったその瞬間(被爆2ヶ月後。 (3)核兵器は人類と共存できない極悪の兵器である事。 (2005年)
現在私の一番恐れているのは核兵器や核物質がテロリストなどに盗まれるのではないかという不安だ。彼らの手に渡らないという保証は現在のところ何もないように思われる。だから兎に角核兵器のない社会の構築こそ重要な課題だと思っている。
(2010年追記) 「竹田国康さん 直接被爆・距離1.8km(二葉の里)被爆時14歳」 引用終わり。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。手前の石畳と線路は、路面電車(市電)の運航路線。:1945年8月6日 朝8時15分、広島市上空でプルトニウム型原子爆弾が爆発、その爆風、火災で多数の路面電車(市電)が破壊された。広島を走行していた路面電車123両のうち108両が破壊され、線路も大打撃を受けた。しかし、放射能の危険を知らなかった当時の日本人は、即座に救護活動、復旧作業を開始し、原爆投下の3日後には路面電車が運航を再開している。 [PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan
National Archives Identifier: 22345672
Local Identifier: 243-HP-I-31-3
Creator: War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 22345672 引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「出島艶子さん 直接被爆・距離0.6km(下中)被爆時18歳 」 には、次のようにある。
顔や体にガラスに依るケガが今でもはっきりとのこっていて右うでにガラスや砂のよう なものが今でもあること。父、姉、弟を八月六日に別れたきり二度と逢うことが出来なか った。生きていろいろなことがしたかっただろう。どうしてもっと早く戦争を止めなかった か。どうして核兵器のようなおそろしいものを落したのか。この60年忘れることができ ないで涙がこぼれます。
原爆の実態を一人でも多くの人々に話し、人類との共存はあり得ないものだと知ってほ しい。広島、長崎を見て下さい。本当の様子を見てください。原爆が地球上から一発もなくな ることこそが平和だと知ってください。 (2005年)
もうすぐ83才になり、年々体力のおとろえを感じるようになり、被爆者も今だに残る原爆をなくしてほしい。 生きているうちにこの体で生きてきて、がんばったのだ。本当に平和になったのだと言いたい。 被爆時18才 (2010年追記)「出島艶子さん 直接被爆・距離0.6km(下中)被爆時18歳 」 引用終わり。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。手前の石畳と線路は、路面電車(市電)の運航路線。:
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan
National Archives Identifier: 22345676 Local Identifier: 243-HP-I-33-1
Creator: War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 22345676引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「小学四年生の原爆: 手島喜久子(旧姓吉田)」 には、次のようにある。
原爆が消した廣島:原爆ドームは、建設当は広島県物産陳列館として、1915(大正4)年4月5日に竣工、建立者は広島県であるが、1953年に広島市へ譲渡された。設計者は、チェコ出身の建築家ヤン・レツル。地上3階一部5階建て、レンガと鉄筋コンクリートの構造で、モルタル仕上げ、玄関部分は石造り。広島県物産陳列館は、第1階は主に事務用、第2階・3階が陳列用の広島県物産品の販売の商業施設で、ヨーロッパ風の豪華な建物は、物産品の展示・販売だけでなく、博物館・美術館としての役割も担っていた。その後、1921年に広島県立商品陳列所、1933年に広島県産業奨励館と名称が変更されている。戦争末期1944年3月、産業奨励館の業務はなくなり、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材・日本木材広島支社などの物資統制・業界統制のための事務所として使用されていた。原爆の投下で大破、全焼し、建物にいた30名余は全員死亡と思われる。爆風が真上から作用したためか、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠も燃え残った。その形状から、占領後になって「原爆ドーム」という名称が普及した。
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昭和二十年八月、大芝国民学校の四年生であった私は、市の中心から北へ約二・三キロの住宅街の外れに住んでいた。その頃には、日本の戦況は悪くなるばかりで、食料の配給も途切れがちで、両親と女の子四人のわが家では、前の道路まで耕してトウモロコシやサツマ芋を植えて食糧の足しにしていた。畑の水やりを手伝ったりして、その夏はとくに暑かったように思う。その頃の学校は、小学四年生以下は家の近くのお寺などで勉強し、五年と六年生は学校で授業が行われていた。四年生の私は、家の前の畑を横切った所にある藁葺(わらぶ)き屋根の農家で授業を受け、二つ年上の姉は六年生だったので、家から約二百メートル東にある学校の方へ行っていた。
八月六日の朝、私はいつものように防空頭巾を肩に下げて、その寺子屋の教室に行った。部屋で騒いでいると空襲警報のサイレンが鳴り、程なく解除になったので、数人の子どもたちと庭に出て遊び始めた。空は青空で日差しがきついので、私は木の陰に入り、六、七人が丸く輪になりじゃんけんをしていると、突然、物凄い閃光(せんこう)がピカッと光り、ドーンという轟音(ごうおん)と共に、凄まじい爆風に身体が突き飛ばされた。辺りは真っ暗で、灰か砂塵が舞い上がって、もう何がなんだか分からなかった。頭の上には木の幹のような物が乗っかり、空のドラム缶や板切れが身の回りに重なっていた。異様な臭いに目を凝らしてみると、さっきまで居た教室の屋根が赤く燃えていて、あまりの恐ろしさに、「お母さーん、お母さーん」と泣きながら、もがいてドラム缶や木の枝を押し退けて立ち上がった。目を凝らして周りを見回すと、足元にさっきまでじゃんけんをしていた男の子が煤にまみれ、灰色に黒ずんで横たわっていた。
そこら中、瓦礫(がれき)が折り重なり、私はその子がもう死んでいると直感した。幸いに私は日陰にいたので火傷はしていなかった。藁屋根の教室は恐ろしい勢いで燃え盛り、背中に熱気を感じながら無我夢中で家を目指して走って帰った。横切る野菜畑は土が盛り上がり、足は靴もなくして裸足であった。家の近くまで来ると、どの家も崩れそうに傾いてガタガタになっていて、その前を人が右往左往して口々に何か叫んでいた。
家の玄関にたどり着くと、母が額から血を流しながら飛び出して来て私を抱きしめた。ガラスが飛び散って刺さったらしい。五歳になる妹寿代と母が背に負うた一歳の節子も怪我はないようだが、震え声で「お母さん、お母さん」としがみつくばかりだった。家は、玄関から中は畳が盛り上がり、家具や建具も倒れていて入れない。でも、母はその中から夏布団や私たちの服を引きずり出してきた。
そこへ、学校へ行っていた六年生の姉が血だらけで、両手を空に浮かすようにしてフラフラと帰ってきた。服はズタズタで、腕は火傷で火ぶくれのようだった。私は、ちゃんと姉を見るのが辛くて、どうなるのだろうと震えていた。母はタオルのようなもので姉の頭を覆い、とにかく救護所のある北の方へ行こうと準備した。そして、どこからか大八車を探してきて姉を寝かせ、母は下の妹節子をおんぶし、私はすぐ下の妹寿代の手を引いて五十メートル西の国道の方へと向かって行った。
振り返ると、街の方はすでにどす黒い煙と赤い炎に包まれ、その火の手は南に五百メートルぐらいの所まで迫っていた。そして、市内から北へ逃れてくる人の群れが、国道いっぱいに溢れてきた。その人たちの姿は、みな煤けて、灰まみれで、髪の毛は逆立ち、着ているものはボロボロで皮膚に張り付き、異様な姿であった。まさに地獄絵図のようだった。その列の中に入って私たち母子もただひたすら北へ逃げていった。
傍らに火傷をした人がいて、皮膚は破れて垂れ下がり、身体には帯か布切れなのか、お腹に何か抱えて歩いていた。誰かが、「あれは内臓よ、もうだめだ」と言っていたが、まもなく道端に倒れてしまった。また、バタリバタリと座り込むように倒れて、そのまま立てない人がいても、みんな気にとめる力もなく、ひたすら歩き続けた。兵隊さんもいたし、馬もいた。国道の両側は畑だったが、馬が急に畑に向かって走って行き、バタリと倒れた。道路の両側は倒れた人、死んだ人でいっぱいであったが、何も考える余裕もなく、ただ妹の手を握り締めて母に付いて歩き続けた。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島で病院に収容された被爆者。アメリカ海軍兵士の撮影になる。:1945年8月6日 朝8時15分、広島市上空でプルトニウム型原子爆弾が爆発、その爆風、火災で多数の死傷者が出た。原爆は、空襲に備えていたた医療救護体制も壊滅させた。生き残った医師、看護婦によって、救護活動がすぐに始められたが、器材も薬品も不足したために、被爆者に対しする応急措置も不十分だった。そこで、被災地から負傷者を市街に運び出すために、救援列車が運行された。市内中心部に進んだ列車は、途中で停車し、多数の負傷者を沿線の病院へ運んだ。原爆投下の夕方には、海軍病院の救護隊、夜には県下の町村ごとの警防団を動員した救援隊が長崎に入ってきた。しかし、放射能に直接被爆した住民以外に、彼らのように爆発直後に救護活動に従事した者、胎児など多数の人々が原爆による被害に苦しむことになった。この中には、日本人、朝鮮半島出身者、アメリカ人、中国人、インド人が含まれる。
Navy photographer pictures suffering and ruins that resulted from atom bomb blast in Hiroshima, Japan. Victim lies in make-shift hospital in bank building.
National Archives Identifier: 520933
Local Identifier: 80-G-473739
Creator(s): Department of Defense. Department of the Navy. Naval Photographic Center. (12/1/1959 - ca. 1998) (Most Recent)
From: Series: General Photographic File of the Department of Navy, 1943 - 1958
Record Group 80: General Records of the Department of the Navy, 1804 - 1983
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9/1945 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 520933 NAIL Control Number: NWDNS-80-G-473739引用。
それから、どれだけ時間が経ったのか、午後になって、市内から十キロぐらいの所(今の安古市)で、母は国道をそれ、小川(今の古川)の橋の下で、「ここで私が帰るまでじっと待っていなさい」と言った。姉の様子がどんどん悪くなるので近くの学校の救護所に連れて行くと言うのだ。橋の下でじっと妹と待っていると、田んぼの向こうの農家からおばさんが出てきて、「街の方では大変な事が起こったねえ」と言って、おむすびをくれた。はじめてお腹のすいていたのに気付いた。橋の下でうずくまっていると、雨が降り出し、空が暗くなって地面には墨を流したような黒い雨水があふれた。
夕方になって、やっと母が戻ってきた。姉は頭に包帯をしてもらい、大八車の上で、「痛い、痛い」とうめいていた。市内の方はまだ燃えていて、異様な臭いはこの辺りまで漂ってきた。でも、母は「家がどうなったか。お父さんが帰ってくるかもしれないから」と言って、来た道を帰ることになった。午後の四時か五時ごろだったと思う。まだ北に逃げる人が大勢いたが、それと反対に帰って行った。
帰り着くと、今朝そこにあった家の辺りは何もない焼け野原となっていた。まだ煙の燻る前で呆然とする私たちに、母は家の前を掘って作った防空壕の中から米やかぼちゃなど食料を取り出し、食べる物を作り始めた。と、そこへ父が帰って来た。見たところ火傷や怪我をしている様子がなかったので、みんなで喜び合った。父は、当時、広島湾にある元宇品の山の洞窟で通信業務をしていた。六日は夜勤明けで、朝八時に宇品を出て、帰宅途中に被爆したのである。
やがて日が暮れ、あたりは焼け跡の残り火が燃え続いており、鼻を突く何ともいえない臭いと、ムッとする暑さが辺りに充満していた。父は、そこらのトタン板や焼け残りの板切れを寄せ集めて家族の寝る場所を作ってくれた。
父の話では、その時、宇品線電車の広島高等師範学校(現在の広大付属高校)停留所の辺りにいたそうだ。ピカッと閃光がきて電車が急停車し、人の下敷きになり瞬間には何がなんだか分からないままようやく這い出し、焼け爛(ただ)れた人があちこち逃げ惑う恐ろしい状況を目にしたのだ。それから家族のいる家に向かったのだが、一面火の海の街中は通れず、干潮であった川を渡り(市内には六つの川があった)、西の三滝山まで行って、夕方ようやくわが家にたどり着いたのだ。途中の川では火傷や、燃え盛る炎の熱さで川に飛び込む人が多く、水際にはたくさんの人が死んでいたそうだ。 「小学四年生の原爆: 手島喜久子(旧姓吉田)」引用終わり。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島:広島市北部の太田川が、市街地に流入してくるが、河川が分流して、平和記念公園付近でもさらに分かれている。原爆ドームの脇を流れるのは元安川である。 [PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan
National Archives Identifier: 22345677
Local Identifier: 243-HP-I-33-2
This item was produced or created:1945
Creator: War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 22345676引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「渡辺カナエさん 救護被爆 (安芸高田市)被爆時18歳 」 には、次のようにある。
8月6日の朝の異様な光景は、今も目の前にふつふつと蘇ってくる。あの宙に浮き上がった怪しげ な大くろ雲。私は、当時、毛利元就公の居城のあった吉田町、官立青年師範学校の生徒であった。その日は、丁度登校してきたばかりの校庭で地を鳴らすような爆音を聞き、山の間から傘を広げたよう な黒くもが出てくるのを見た。「何事があったのだろう。」「根野の方かな。」(当時根野飛行場 建設の話を聞かされていたので)などと話したりしたが、教室内でもこの事で騒ぎになっていたよう だった。
午後から女子学生は、吉田女学校でけが人の手当てに当たるよう出動命令がでた。何のことか判らぬ まま出向き、医師の指導に従い、消毒液を携えてそこらに横たわっている人たちの傷の手当をして廻っ た。その数の多いこと。どんどん搬送されて来る。どこからこんなに沢山の人が運び込まれるのか全く 判らない。廊下にムシロが敷かれるようになり、そこに寝かされたり膝をかかえてぐったりしている 人々の中を爪先立てて消毒しながら廻った。
その人々の異様な臭いとペロペロ皮がむけ垂れ下がった形相は、言い様の無い驚きでありむごさで あった。息も絶え絶えで、時をおかず意識をなくしていく人々。中には、息の絶えた母親の胸をさぐ りながら泣き続ける乳のみ児もみた。人間とは思えない、これこそ生き地獄の様であった。亡くなった 人々は次々と運び出され校舎の裏の隅で荼毘に付される。
翌7日になって「B29が広島の街へ原子爆弾を落としたのだそうな。」「街は全滅でおおごと じゃそうな。」と聞かされた。私たちの任務は1週間で終わったように記憶しているが、当時お世話させてもらった方々のうち命を 取り止める事ができたのは何人ぐらいであっただろうか…と思うとき胸が痛くなる。
被災後60余年経った今、何事もなかったかのように見える広島市のすばらしい復興ぶりは、残さ れた人たちの並々ならぬ努力とこうした計り知れない幾多の尊い命、財物の無差別な破壊損失の上に 成っているという事実がある。このことを1人でも多くの人に知って、感じて、再認識してもらいた い。そして、特に次世代には、非核の平和、安穏の世界実現に向かって努力してもらいたいことを 強く希うものである。 「渡辺カナエさん 救護被爆(安芸高田市)被爆時18歳 」引用終わり。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。:1905年創業歴清社は、爆心地から2.2km地点の西区三篠町に今も残っている。1935年に5階建てに増築した歴清社本社工場は、原爆で焼失。化学薬品を入れていた1階のコンクリート製倉庫、1943年に建てた高さ20mのコンクリート製煙突が残った。当時の久永清次郎社長は、爆風でガラスの破片が全身に突き刺さる重傷を負ったが、1946年からバラックの屋根を覆う防水紙の製造を始めた。歴清社は1950年代に金銀箔の壁紙づくりを再開、1959年に被爆した倉庫と煙突を取り囲む形で現在の本社工場を建てた。所々に爆風の痕跡が残る倉庫は、材料や道具の置き場として今も使われている。焼け野原の中で近所の人が避難の目印にしたという煙突は、壁紙を乾かす時に出る熱を逃がす機能がある。現在の久永清治歴清社は社長は、
建物が古くなる中、耐震構造の調査を依頼、倉庫や工場の柱とはりを鉄で補強し、煙突に炭素繊維を巻き震度7の地震にも耐えられるようにしたいと考えている。工事費は工場全体で数千万円に上る。従業員26人、売上高約4億円の会社にとって負担は大きい。 (ヒロシマ平和メディアセンター中國新聞2015年5月27日朝刊引用) [PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
National Archives Identifier:22345678
Local Identifier: 243-HP-I-33-3
Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent)
From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947
ARC Identifier: 22345671 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 540225引用。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島市の日本生命保険広島支社:日本生命保険職員殉職碑は、昭和24年(1949年)建立。建立者は、日本生命広島支社関係者一同とある。当時、日本生命広島支店は広島の金融街として発展する大手町二丁目(爆心地から180メートル)にあった。原爆でコンクリート製の社屋は破壊され、日本生命全体で職員28人が犠牲となったという。1948年社屋を再建、犠牲者を慰霊するため碑を建立した。その後、中区中島町3番25号(ニッセイ平和公園ビル北西角) に社屋の移転とともに2006年現在地に移設。碑の背面に、犠牲者28人の名前が刻まれている。 (広島市の観光情報サイト日本生命保険職員殉職碑引用) [PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
National Archives Identifier:22345679
Local Identifier: 243-HP-II-26
Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent)
From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947
ARC Identifier: 22345671 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 22345679 引用。
写真(右):1947年3月17日、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された建築物:アメリカ連邦アーカイブの写真記録と公開は充実しているが、原爆被害の一連の写真の中には広島の写真を長崎撮影と誤記しているものがある。この写真の撮影場所は広島か? Title: Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-352. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147818
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03715
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
Type(s) of Archival Materials:
Photographs and other Graphic Materials
This item was produced or created:
17/3/1948 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147818
Agency-Assigned Identifier: JHL-352引用。
写真(右):1945年9月、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」によりプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下され壊滅した。:左側の鉄道は復旧している。
Title: Nagasaki, Japan, in September 1945 after A-bomb attack.
Caption: Nagasaki, Japan, in September 1945 after A-bomb attack.
Description: Courtesy of Admiral H.W. Hill.
Catalog #: NH 66186
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command 写真はNaval History and Heritage Command NH 66186 Nagasaki, Japan, in September 1945 after A-bomb attack. 引用。
長崎は6回の空襲を受けた。第一回空襲は1944年8月11日で目標は市街地。死者13人、重軽傷者26人、全壊1戸、全半焼9戸の被被害を被った。 第2回空襲は1945年4月26日、目標はドック地区。被害は死者129人、重軽傷者278人、全壊1戸、半壊3戸。 第3回空襲は1945年7月29日、目標はドック地区、被害は死者22人、重軽傷者41人、行方不明者3人、全壊43戸、半壊113個、校舎半壊1棟。 第4回空襲は1945年7月31日、目標は川南造船所、被害は死者11人、重軽傷者35人、全壊72戸、半壊76戸。 第5回空襲は1945年8月1日、目標は三菱造船所・操車場、被害は死者169人、重軽傷者215人、行方不明者40人、全壊107戸、半壊134戸。 第6回空襲は、1945年8月9日、原爆による被害である。
写真(右):1947年3月17日、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された長崎大学付属病院一帯の建築物。耳鼻咽喉科・内科病棟、本館と2階から3階建てのコンクリート建築があった。背景の市北西に位置する岩屋山(いわやさん)標高4752m。岩屋山は信仰の上で崇められた山。:焼け残ったコンクリート製の長崎大学付属病院の本館屋上から撮影したようだ。: Title: Roman Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-359. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147824
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03718
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
ca. 1945
The creator compiled or maintained the series between:
8/1945 - 8/1945
General Note(s):
Use War and Conflict Number 1243 when ordering a reproduction or requesting information about this image. 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147824
Agency-Assigned Identifier: JHL-355 引用。
写真(右):1948年3月17日、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された長崎大学付属病院付近:
Title:Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-364. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147842
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03727
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
is item was produced or created:
17/3/1948 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147842
Agency-Assigned Identifier: JHL-364引用。
爆心地に近かった長崎医科大学、長崎医科大学附属医院は、大きな被害を受けた。長崎医科大学には、高台に上に本館、基礎学教室、二つの専門部があったが、木造建築であったため原爆爆発による爆風・熱風で倒壊、炎上した。基礎学教室に居合わせた教官・学生もほとんどが爆死あるいは被爆死亡した。講堂5カ所あるが、解剖、生化、生理、細菌、病理学の講義中に爆風で倒壊し、多数な死亡した。講義に出席していた学生480人のうち65%の314人が爆死したといわれる。
現在の長崎市坂本、長崎大学、原爆後障害医療研究所の資料収集保存・解析部では、当時医大生だった西森一正氏(元名誉教授) の血染の白衣が展示されている。西森一正氏は、長崎医科大学附属医院の皮膚泌尿器科外来で患者の診察中に被爆したが、その時に着用していた白衣は、30カ所のガラス片による出血で血に染まっている。
写真(右):1948年3月17日、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆した山王神社の一の鳥居・二の鳥居、被爆大楠と街並み:一の鳥居は倒壊せずに残り、その奥に中央に小さく片足となった二の鳥居が見える。一の鳥居は1962年3月までは残っていたが、交通事故で倒壊し、行方不明になったという。 Title: Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-368. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147850
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03731
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
is item was produced or created:
17/3/1948 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147850
Agency-Assigned Identifier: JHL-368 引用。
写真(右):1948年3月17日、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆した工場と残った煙突: Title: Roman Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-359. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147832
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03722
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
ca. 1945
The creator compiled or maintained the series between:
8/1945 - 8/1945
General Note(s):
Use War and Conflict Number 1243 when ordering a reproduction or requesting information about this image. 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147832
Agency-Assigned Identifier: JHL-359 引用。
写真(右):1945年8月以降、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆したローマ・カトリック教会の浦上天主堂:br>Title: Roman Catholic Cathedral in background on hill, Nagasaki, circa 1945.
National Archives Identifier: 519387
Local Identifier: 77-AEC-52(4459)
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
ca. 1945
The creator compiled or maintained the series between:
8/1945 - 8/1945
General Note(s):
Use War and Conflict Number 1243 when ordering a reproduction or requesting information about this image. 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 519387
NAIL Control Number: NWDNS-77-AEC-52(4459) 引用。
浦上天主堂(カトリック浦上教会)は、1895年(明治28年)2月に、フランス人宣教師フレノーの設計で、起工されたが、東洋一の規模を誇ったために、完成したのは、1914年(大正3年)だった。3月17日、 浦上天主堂の献堂式が開催された。31年後の1945年8月9日、アメリカ軍のB-29 爆撃機「ボックスカー」は、プルトニウム型原爆「ファットマン」を投下し、聖堂は破壊された。 浦上天主堂は爆心地から500メートルで、赤レンガ造りの構造だった聖堂は、爆風によって倒壊し、火災によって屋根や床は焼失した。堂壁も大半が崩壊し、敷地の聖人石像なども大破した。鐘楼は左右にあったが、片方は聖堂内部に倒れ、もう片方は近くの外側に転げ落ちた。原爆投下の時間帯には、大浦天主堂では、聖母被昇天祭が開かれており、信徒が参集していたため、司祭・西田三郎以下、多数の信徒が殺された。<
写真(右):1948年3月17日、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆した浦上天主堂(ローマ・カトリック教会): Title: Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-365. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147844
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03728
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
17/3/1948. 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147844
Agency-Assigned Identifier: JHL-365 引用。
写真(右):1945年8月以降、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆したローマ・カトリック教会の司祭。: Title: Roman Catholic Cathedral, Nagasaki.
National Archives Identifier: 519386
Local Identifier: 77-AEC-52(4457)
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
ca. 1945
The creator compiled or maintained the series between:
8/1945 - 8/1945
General Note(s):
Use War and Conflict Number 1243 when ordering a reproduction or requesting information about this image. 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 519386
NAIL Control Number: NWDNS-77-AEC-52(4457) 引用。
写真(右):1948年3月17日、長崎への原子爆弾「ファットマン」による被爆者。原爆の効果を調査する資料として撮影された。: Title: Nagasaki, Japan bomb victim after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-351. [Photograph by: Unknown] Archives Identifier: 39147820
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03716
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
This item was produced or created:
17/3/1948 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147820
Agency-Assigned Identifier: JHL-351 引用。
被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)
1. 直接被爆者 原子爆弾が投下された際、当時の地名で次の区域において、直接被爆した者。
<広島>
広島市内
安佐郡祇園町
安芸郡戸坂村のうち、狐爪木
安芸郡中山村のうち、中、落久保、北平原、西平原、寄田
安芸郡府中町のうち、茂陰北 <長崎>
長崎市内
西彼杵郡福田村のうち、大浦郷、小浦郷、本村郷、小江郷、小江原郷
西彼杵郡長与村のうち、高田郷、吉無田郷
2.入市者 原子爆弾が投下されてから2週間以内に、救援活動、医療活動、親族探し等のために、広島市内または長崎市内(爆心地から約2kmの区域内)に立ち入った者。
※広島にあっては昭和20年8月20日まで、長崎にあっては昭和20年8月23日まで。
3.救護、死体処理にあたった者
原子爆弾が投下された際、又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者。例えば、被災者の救護、死体の処理などをされた者。
4.胎児 上記の1から3に該当した方の胎児であった者。
※長崎にあっては、昭和21年6月3日まで、広島にあっては、昭和21年5月31日までに生まれた者。
写真(右):1946年1月21日、広島への原子爆弾「リトルボーイ」、長崎への原子爆弾「ファットマン」による被爆者。原爆の効果を調査する資料として撮影された。: Title: Studies of atom bomb effects on human. Formerly secret. Declassified 9/10/1959. Photograph taken January 21, 1946. John H. Lawrence Collection-193. [Photograph by: Unknown] National Archives Identifier: 39147814
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03713
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
This item was produced or created:
21/1/1946 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147814
Agency-Assigned Identifier: JHL-193引用。
被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)は、2017年(平成29年)3月末現在、で
1号被爆者 10万2,346人
2号被爆者 3万6,962人 3号被爆者 1万8,158人
4号被爆者 7,155人 合計 16万4,621人である。 2001年(平成23年)3月31日時点の被爆者は、全国で21万9410人だった。
「被爆者」には、被爆者健康手帳が交付される。被爆者が病気やけがなどで医者にかかりたいとき、この手帳を健康保険の被保険者証とともに、都道府県知事が指定した医療機関に持参することで、無料で診察、治療、投薬、入院がうけられる。
写真(上):2009年9月、アメリカ、オハイオ州デイトン郊外、ライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館、長崎に原爆「ファットマン」を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」の復元・展示:機長チャールズ・スウィーニー少佐の指揮で、第509混成部隊B-29「ボックスカー」は、テニアン島を離陸、小倉に原爆を落とす予定だったが、雲にさえぎられて有視界照準爆撃の条件を満たすことができす、長崎に目標を変更。長崎でも雲にさえぎられたが、原爆投下の栄誉を担いたかったスウィニーは少佐は、雲の切れ間を見つけたことにして、レーダー照準で長崎を爆撃。燃料不足でテニアン島ではなく沖縄に帰還した。1961年9月26日にオハイオ州デイトンの国立アメリカ空軍博物館に運ばれ、復元された「ボックスカー」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。 Description
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Date 25 September 2009, 11:35
Source Boeing_B-29-45MO_Superfortress_Bockscar_LFront_wide_Airpower_NMUSAF_25Sep09
Author Valder137
写真はWikimedia Commons, Category: B-29 Bockscar at National Museum USAF File: Boeing B-29-45MO Superfortress Bockscar LFront wide Airpower NMUSAF 25Sep09 (14599164112).jpg引用。
1945年8月7日、『戦藻録』によれば、宇垣纒長官は、別府海軍病院(現国立病院機構-別府医療センター )で歯科治療を受け、8月8日は「夕刻付近の川に雑魚釣りに行く」となる。 しかし、8月9日、別府海軍病院の院長室に電話があり、宇垣長官はソ連参戦の放送があったことを知らされ、直ちに帰隊した。「過般のポツダム声明には何の触るる處なかりしがスターリンの現実主義遂に敵たるに至れり。---帝国は之にて全世界を相手として戦うに至る。運命なる哉、今更泣き事[言]は云わず。敗れても悔いなき一戦に最後の御奉公を期するのみ。」
写真(右):第五航空艦隊司令長官宇垣纏(まとめ)中将;1890年(明治23年)2月15日−岡山県赤磐郡潟瀬村に誕生、
1909年(明治42年)3月、岡山県立第一中学校卒業、9月11日、海軍兵学校生徒(入校成績順位150名中第9位)、1912年(明治45年)7月17日−海軍兵学校卒業(40期:成績順位144名中第9位)、1913年(大正2年)12月 海軍少尉、1921年(大正11年)、海軍大学校甲種学生(大尉)、1928年(昭和3年)11月、ドイツ駐在海軍武官補(−30年)、1931年(昭和6年)12月、第二艦隊参謀、1932年(昭和7年)11月、海大教官(兼陸軍大学校教官:海軍中佐)、1935年(昭和10年)10月、連合艦隊参謀(兼第1艦隊参謀)、1936年(昭和11年)12月、海防艦「八雲」艦長、1937年(昭和12年)12月、戦艦「日向」艦長、
1938年(昭和13年)11月、海軍少将、12月、軍令部第一部長、1941年(昭和16年)4月、第八戦隊司令官、8月、連合艦隊参謀長(兼第1艦隊参謀長)、1942年(昭和17年)11月、海軍中将、1943年(昭和18年)4月18日、山本長官の僚機で被弾、1944年(昭和19年)2月、第一戦隊司令官 11月、軍令部出仕、1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊司令長官、 8月10日、第三航空艦隊司令長官に親補(着任せず)、8月15日、沖縄方面へ特攻戦死。これは終戦当日の,終戦を知らない部下を率いた「私兵特攻」ともいえる。
宇垣纒『戦藻録』1945年8月7日
「昨日6日0825頃B-29二、三機宛広島上空に侵入、落下傘付大型爆弾を投下(2-3個)地上50米位にて大閃光大爆発し瞬時にして家屋倒壊8割方焼失。死傷十数万に及びたり。本日7日午後桑港(サンフランシスコ)放送は17時間前広島市(陸軍基地)に対し有史未曽有の原子爆弾攻撃を実施せり。三万尺の密雲の為結果確認し得ざりしも同爆弾B-29の爆弾(グランドスラム)の2万倍、TNT2000頓に相当する効果を有する。7月16日ニューメキシコに於て実験の結果装置したる鉄塔は蒸発し250浬の地の硝子窓はガタガタ振ひ6浬の人間はたたき伏せられたりと。右に依れば豫て各国にて研究せられつつありしウラ二ウム原子の利用によるものなる事明瞭にして真に一驚異にして戦局の前途に一層の暗雲を加えるものなり。我方速に之が対策を講ずると共に同様爆弾の創始を望むものなり。」
8月15日、「昨今日を以て離別の印として各幕僚に1枚宛と考え揮毫中、度々総員退避を喰いたるも漸く完成するを得たり。 而して午後に及び最もいまわしきニュースを情報主任眼の色変えて持参せり。曰く
桑港[サンフランシスコ]放送-----日本は、裕仁を基儘とする条件の下にポツダム宣言に対して其の他無条件降伏を申し込めり。
時間若干後----戦略爆撃作戦司令部隊司令官(在マリアナ)は日本がポツダム宣言に対し回答する迄原子爆弾の使用を中止す。 嗚呼!何事ぞ火の無き處煙は立たざるべし。本早朝受信セルGB電令は決作戦準備の如何を問はず敵の軌道兵力に対しては積極的攻勢を執り、又沖縄方面に向かっても攻撃を強化すべく下令あり。従来執り来れる決号に拘束せられたる覇制をかねて云うが如く已むなく脱却せるものにて一時式の昂揚を見たるが、前期ニュース受領御幕僚の日吉[連合艦隊司令部]に連絡せる處によれば敵の宣伝と思惟せる本件を朧気乍ら裏付ける如き言あり。斯る重大事項を何故に全責任を帯ぶる長官に一言とせざるや。小輩等に之を秘して半信半疑の前期放送は、余をして甚だしき驚愕を感じせしめたり。」(『戦藻録』引用終わり)
5.原爆投下によって日本の敗戦が決定的になり終戦の聖断が下ったという俗説は誤りである。日本の政治家・軍部は、核兵器の威力も核戦略も認識できておらず、国民にも被害状況は伏せられていた。都市壊滅、大量破壊・大量殺戮は、1945年3月10日の東京大空襲以降、すでに日本国民にも政府にも当たり前になっていたが、それでも降伏はあり得なかった。したがって、2発の原爆投下が、終戦決定=聖断に決定的な影響力をもったとは考えにくい。原爆投下を口実にして、国体を護持するために降伏したが、これは連敗の軍部への反感、国難を救済できない天皇・政府への不満、共産主義国ソ連の対日参戦によって、国体護持への危機感が以上に高まったことによる。民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦にあって、国民の離反が確実になる前に、終戦が決断された。
天孫降臨の神話,三種の神器は,天皇の大権の基盤であり,象徴である。天皇が下した大日本帝国憲法によって,天皇大権が定められるのではない。万世一系の皇祖からの伝統・神勅が,国体を正当化する。三種の神器は,天皇にとって皇祖との契約でもあり,守るべき責任がある。
しかし,敵の連合国,連敗続きの国軍(日本陸海軍),困窮に陥れられた国民は,いずれも天皇の権威を認めるとはかぎらない。日本軍の統制派とソ連,中国共産党とが共謀して,国民を煽動して,共産革命を引き起こすかもしれない。昭和天皇は、国体護持に関する巨大な不安に襲われた。国体護持への不安が、大元帥昭和天皇に,終戦の聖断を下させた。
『昭和天皇独白録』では終戦の聖断を下した理由として「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」とある。
天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、葦原中国の平定,統治のために高天原から高千穂峰に降臨した日本建国神話である。その時,王権のシンボルとして三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)が与えられ、神勅が伝えられた(『古事記』)。
1945年8月9日の御前会議:ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べた。終了後,昭和天皇は木戸幸一に次のように語った。
「本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。----(『木戸幸一日記』[御前会議
引用])。
写真(右):1945年8月13日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンが国務大臣ジェームズ・バーンズに陸軍最高功労勲章(Distinguished Service Medal:陸軍傑出服役勲章)を授与する。隣の女性はバーンズ国務長官夫人(Maude Byrnes)。左からアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥、陸軍航空隊ハップ・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)将軍:この叙勲は、事実上、対日戦争勝利に向けた功績を称えるものだった。しかし、後にバーンズ国務長官はトルーマン大統領から煙たがられ、マーシャル元帥が後任の国務長官となる。 President Harry S. Truman awarding Secretary of State James F. Byrnes the Distinguished Service Medal in the Rose Garden at the White House. From left to right are: General George Marshall, General Henry Arnold, President Truman, Secretary Byrnes, Mrs. Maude Byrnes, John Snyder, and General Harry Vaughan.
Date: August 13, 1945
People Pictured: Arnold, Henry Harley, 1886-1950; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Snyder, John W. (John Wesley), 1895-1985; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Byrnes, Maude, 1882-1976
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2028引用。
写真(右):1945年8月13日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンが国務大臣ジェームズ・バーンズに陸軍功労賞の勲章を授与する。夫人はバーンズ国務長官夫人(Maude Byrnes)。左からアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥、陸軍航空隊ハップ・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)将軍:この叙勲は、事実上、対日戦争勝利に向けた功績を称えるものだった。1945年9月17日発行”TIME”の表紙を飾ったジェームズ・バーンズ国務長官は,ハリー・トルーマン(Harry S.Truman)大統領の先輩上院議員として振る舞い,反ソ連、反共産主義の立場を優先し,原爆投下により戦後アメリカの覇権確立を企図した。 Description: President Harry S. Truman awarding the Distinguished Service Medal to Secretary of State James Byrnes in the Rose Garden at the White House. From left to right: General George C. Marshall; General Henry "Hap" Arnold; the President; Secretary Byrnes; his wife, Maude Byrnes; John Snyder of the Office of War Mobilization and Reconversion; and General Harry Vaughan, the President's Military Aide.
Date: August 13, 1945
People Pictured: Arnold, Henry Harley, 1886-1950; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Snyder, John W. (John Wesley), 1895-1985; Byrnes, Maude, 1882-1976
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2027引用。
写真(右):1945年8月13日、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(右端)が国務大臣ジェームズ・バーンズに陸軍最高功労勲章(Distinguished Service Medal)を授与し握手する。バーンズの左にアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥、右に陸軍航空隊ハップ・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)将軍:1945年9月17日発行”TIME”の表紙を飾ったジェームズ・バーンズ国務長官は,ハリー・トルーマン(Harry S.Truman)大統領の先輩上院議員として振る舞い,反ソ連、反共産主義の立場を優先し,原爆投下により戦後アメリカの覇権確立を企図した。 From left to right: President Harry S. Truman, General George C. Marshall, Secretary of State James F. Byrnes, and General Henry "Hap" Arnold after President Truman awarded Byrnes a Distinguished Service Medal.
Date: August 13, 1945
People Pictured: Arnold, Henry Harley, 1886-1950; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2026引用。
1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,米国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)に降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したい希望がある」"The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, ---(日本政府は,ポツダム宣言の受諾準備よし。)
図(右):1945年9月17日発行TIMEの表紙を飾ったアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes (May 2, 1879-April 9, 1972);米国の孤立主義から,第一次大戦の国際連盟は不参加だったが,第二次大戦後は,米国務長官バーンズが,地球儀が象徴する世界(国連)の舵取りをする。This time the method and manner would be different. Would the results be different? 国務長官バーンズは,ハリー・トルーマン(Harry S.Truman)大統領の先輩として振る舞い,反ソ連の立場を優先し,原爆投下によって,米国の戦後の覇権を確立することを企図した。("Jimmy" Byrnes—the "Assistant President." )
1945年8月11日,米国務長官ジェームズ・バーンズ(James Byrnes)の返答
米英ソ中を代表して,ポツダム宣言は,天皇統治権(国体)に関して言及していないが,?天皇が全軍を降伏させるべきこと、?天皇の軍隊が連合国最高司令官の下に置かれるべきこと、を要請し、暗に国体護持を認めた。
"The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration,-----
"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people. "(日本国民の自由に表明する意思によって,日本の最終的な政治体制を決定するものとす。)宮中グループは国民の国体護持への忠誠心が発揮されることを望み、かつ世論の戦争指導者への反感、国民離反、国体変革の陰謀を警戒した。
写真(右):1947年,東京裁判でA級戦犯として尋問される木戸幸一元内大臣(1889.7.18〜1977.4.6);Autographed photograph of Kido Koichi testifying at the Tokyo Trial, 1947. Collection George Picard. 木戸孝允の養子の木戸孝正の子。妻は陸軍大臣児玉源太郎の四女ツル。東京出身。近衛文麿と共に革新貴族を代表し,現状維持派の西園寺公望らと区別される。厚相・内相時代を通じ産業報国連盟顧問。1940年内大臣に就任、首相前歴者・枢密院議長からなる重臣会議を招集して、内府の責任で後継を奏請する方式を実施。近衛文麿の<新体制>を助ける(歴史が眠る多磨霊園:木戸幸一引用)。
木戸幸一『木戸幸一日記』二〇・七・三一(「カマヤンの虚業日記」引用) 御召により---御前〔昭和天皇〕に伺候す。大要左の如き御話ありたり。
先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身辺に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。----宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。
〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
----御文庫にて拝謁す。ソ連が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、----。首相は十時半より最高戦争会議を開催、態度を決定したしとのことにて辞去せらる。(略)
一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せりとのことなりき(引用終わり)。
1945年8月9日の御前会議の終了後,昭和天皇は木戸幸一に「忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ(『木戸幸一日記』[御前会議
引用])。
図(右):アメリカ雑誌TIMEMarch 4,1940の表紙を飾った米内光政海軍大将1940年1月16日、第37代内閣総理大臣に就任したため、『タイム』1940年3月4日号の表紙を飾った。 Son of a Samurai:Admiral Mitsumasa Yonai was amazed and wildly happy. He had been aloft in giddy rigging before—had climbed to power (as Admiral of the Combined Fleet, beginning in 1936) and into politics (as Navy Minister in three crucial Cabinets, 1937-39).
1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)。
近衛文麿は、1945年2月14日、昭和天皇への上奏文によって,,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。近衛公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とするなど,宮中グループは,終戦の形式的な理由が与えられたことに思い当たった。
海軍大臣米内光政大将は,鋭い政治感覚の持ち主である。東京裁判(極東国際軍事裁判)では、被告ではなく証人席に立った。
1945年8月14日の最後の御前会議では,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。---戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下した(御前会議引用)。
最後の陸軍大臣阿南惟幾: 徹底抗戦を呼号するも自決(1887年2月21日生まれ、1945年8月15日自決):大分県竹田市出身、陸軍幼年学校、陸軍士官学校(18期:920名中席次24位)、陸軍大学校(30期)を経て侍従長鈴木貫太郎の下で侍従武官を務める。日中戦争の勃発した1937年に陸軍省人事局長、1939年10月から1941年4月まで陸軍次官を務める。その後、第十一軍司令官として中国で長沙作戦を指揮するも失敗。1943年、陸軍大将に進級、1945年4月、鈴木貫太郎内閣の下で陸軍大臣に就任。参謀総長梅津美治郎大将と同じく本土決戦による「徹底抗戦を最後まで主張するも、大元帥昭和天皇によって終戦の聖断が下るとそれに従い、終戦の8月15日早朝に自決。
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原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたとすることはできない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは,広島・長崎への原爆投下を,終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。
終戦の詔勅の「-----敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ノ測ルヘカラサルニ至ニ----」とあるが、大量破壊・大量殺戮は、原爆投下前の都市無差別爆撃でも同じだった。原爆投下は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化するのに用いられた。
原爆は、日本の軍人・政治家にとって理解を超えた機密兵器であり,1945年8月の時点では,核兵器が戦後世界や世界覇権を左右するとは、日本軍指導者たちは思い当たらなかった。日本の諸都市が破壊され、数十万人が殺戮されても、徹底抗戦を主張してきた指導者たちにとって、原爆の威力(大量破壊,大量殺戮)が降伏の決断に結びつくはずがない。
国体・大元帥昭和天皇を敵視する共産主義国ソビエト連邦の軍事力、政治思想こそ最大の脅威である。国体変革という脅威を前に,米国への降伏、国体護持を企図したのが,終戦の聖断である。原爆投下によって終戦・和平がもたらされたという「原爆終戦和平論」は、事実ではない。原爆終戦和平論は、核兵器の保有・使用を正当化してきた。
総力戦の本質は、カネ、モノ、ヒト、ワザを動員しての大量破壊、大量殺戮であり、戦闘員と民間人の区別は明確ではなくなった。戦線で兵士として、銃後で労働者として戦っているからである。食糧増産、資源節約、世論形成には、子供や婦女子も多数参加している。国民誰もが戦争に積極的に戦争に加わっている総力戦では、都市や工場、市民を標的にした戦略爆撃が行われる。この戦略爆撃思想の延長線上に原爆投下を想定すると、原爆がなぜ投下されたのか、といった問題にたいしては、当然のように投下された、なぜと疑問を抱く者はほとんどいなかった、という答えになる。
写真(右):1945年8月12日、ワシントンDC,日本のポツダム宣言への問い合があり、日本降伏の期待からホワイトハウスに集まってきたアメリカ人:1945年8月6日、広島に、8月9日、長崎に原爆投下、同日、ソ連軍が日本・満州を攻撃、8月10日、ポツダム宣言につき日本から中立国スイスを通じた問い合わせがあり、8月12日に、アメリカ国務長官バーンズが「日本の政体は日本国民の意思により決定される。統治権は、連合国軍最高司令官の制約下に置かれる」と回答した。このニュースが世界に伝えられると、対日戦争がすぐにも勝利で終わるのでと考えられた。日本の無条件降伏が濃厚となったため、メディアもその確報に懸命となった。 Description: A crowd of people outside the White House around 7:09 P.M., the time President Harry S. Truman was sworn into office.
Date: April 12, 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Crowds; Presidential residences
HST Keywords: Roosevelt, Franklin D. - Ref. To; White House - Exterior
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-1913引用。
写真(右):1945年8月14日、ワシントンDC、日本のポツダム宣言受諾、降伏の申出がなされたことを知って、ホワイトハウスに参集したアメリカ市民:1945年8月9日、長崎に原爆が投下された日に、ソビエト連軍が日本・満州を攻撃、8月10日、ポツダム宣言につき国体護持の条件を照会、8月12日、アメリカ国務長官バーンズより回答、「日本の政体は日本国民の意思による。統治権は、連合国軍最高司令官の下に置かれる」。8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達。このときが実際の日本の無条件降伏で、そのニュースが世界に伝えられた。8月15日、ラジオの玉音放送で日本の降伏が国民に知らされたが、これは国際的には丸一日以上の遅れである。
Description: Crowd pressing against the gates of the White House on the date of announcement of the Japanese surrender ending World War II.
Date: August 14, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number:73-2024 引用。
写真(右):1945年8月14日、ワシントンDC,日本のポツダム宣言受諾、降伏の申出がなされたことを知って、ホワイトハウスに押し寄せたアメリカ民間人: ポツダム宣言を受諾したことで、日本の無条件降伏が決まった。これを国ではなく軍隊の降伏だ、国体護持の条件は認められたから条件付講和だというのは、屁理屈で本質を見失っている。当時の人々は、そんなことを考えなかったし、理屈屋が反論をしても負け惜しみだと嘲笑された。萬世一系昭和天皇の終戦の宣言は、建国神話以来初めての降伏、日本の敗戦であると考えられた。だからこそ昭和天皇も皇祖に申し訳ない、建国神話に汚点を残したと苦悩した。まさに日本そのものの降伏、敗北であると悲しんだのである。天皇の終戦の聖断に逆らう者は、反逆者と見なされ、実際、終戦を妨害しようとする試みは、反逆と同様に扱われた。なにより天皇への忠誠心あるいは罰せられる恐怖で、大半の軍人・政治家、そして国民は反論せず、日本の聖断にしたがった。日本の主権は、統治権者昭和天皇の降伏の申出によって、完全に敵の手にゆだねられた。一億総懺悔が唱えられた。大戦争における敗北の末路は悲惨である。戦争に負ける苦渋を日本国民は噛みしめ、耐えがたきを耐えたのである。 Description: Scenes around the White House showing crowds and reporters receiving news of the surrender of Japan, ending World War II.
Date: August 14, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2022引用。
写真(右):1945年8月16日、VEデー(対日東洋戦線戦勝記念日)の戦勝宣言(Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer)に署名するアメリカ大統領トルーマンと見守る国務大臣ジェームス・バーンズ:
Description: President Harry S. Truman (left) signing Proclamation 2660: Victory in the East-Day of Prayer. James Byrnes, Secretary of State, looks on.
Date: August 16, 1945
HST Keywords: Truman - Signing-Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 59-1037引用。
Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer
August 16, 1945 By the President of the United States of America
第33代アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman: 33rd President of the United States)1884年生まれ―1972年没;1934年にミズーリ州選出の上院議員として、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持した。1944年の大統領選には、トルーマンは副大統領候補となり、ルーズベルトが先例のない4選を果たすと、トルーマンは副大統領に就任した。しかし、体調を崩していたルーズベルトは、ヤルタ会談に参加したものの、1945年4月12日に急死し、トルーマンが大統領に昇格した。トルーマンには外交経験がなかった上に、ルーズベルト大統領とのコミュニケーションにも疎いままだったため、原子爆弾についても知らないままだった。そこで、上院議員の先輩ジェームズ・バーンズの指導を受けることになり、5月のドイツ降伏後には、ヨーロッパの戦後処理と並んで、太平洋戦争勝利後のアジアの戦後処理が、ソ連との関連で問題になった。1945年7月のポツダム会談で、そのことが話し合われた。
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The war lords of Japan and the Japanese armed forces have surrendered. They have surrendered unconditionally. Three months after victory in Europe victory has come in the East.
The cruel war of aggression which Japan started eight years ago to spread the forces of evil over the Pacific has resulted in her total defeat.
This is the end of the grandiose schemes of the dictators to enslave the peoples of the world, destroy their civilization, and institute a new era of darkness and degradation. This day is a new beginning in the history of freedom on this earth.
Our global victory has come from the courage and stamina and spirit of free men and women united in determination to fight.
It has come from the massive strength of arms and materials created by peace-loving peoples who knew that unless they won decency in the world would end.
It has come from millions of peaceful citizens all over the worldturned soldiers almost overnightwho showed a ruthless enemy that they were not afraid to fight and to die, and that they knew how to win.
It has come with the help of God, Who was with us in the early days of adversity and disaster, and Who has now brought us to this glorious day of triumph.
Let us give thanks to Him, and remember that we have now dedicated ourselves to follow in His ways to a lasting and just peace and to a better world.
Now, Therefore, I, Harry S. Truman, President of the United States of America, do hereby appoint Sunday, August 19, 1945, to be a day of prayer.
I call upon the people of the United States, of all faiths, to unite in offering their thanks to God for the victory we have won, and in praying that He will support and guide us into the paths of peace.
I also call upon my countrymen to dedicate this day of prayer to the memory of those who have given their lives to make possible our victory.
In Witness Whereof, I have hereunto set my hand and caused the seal of the United States of America to be affixed.
Done at the City of Washington this sixteenth day of August, in the year of our Lord nineteen hundred and forty-five, and of the Independence of the United States of America the one hundred and seventieth.
対日東洋戦線戦勝記念日の戦勝宣言: 8年前(1937年の日中戦争)から、東洋を侵略し悲惨な戦争を引き起こした日本は、完全に敗北し、無条件降伏しました。これは、神のご加護で得られた輝かしい功績であります。神が我らを勝利に、平和に導いたことに感謝します。何百万の平和を欲する人々と兵士が、多大な努力で兵器と物資を動員し、戦うこと、死ぬことを恐れずに、無法な敵に立ち向かい勝利したのです。この勝利のために、自らの命をささげた人々の思いを祈念し、その証拠として、私はアメリカ合衆国の国章において、署名をしました。
写真(右):1947年1月21日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンを真ん中に、国務大臣ジェームズ・バーンズ(右)と握手するアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥(左):国務長官ジェームズ・バーンズの見下すような態度に業を煮やしたトルーマン大統領は、1947年、国務長官を元参謀総長のジョージ・マーシャル将軍と交代させた。 Description: James Byrnes (right) congratulating George Marshall (left) upon his swearing in as Secretary of State. President Harry S. Truman stands between them, with Admiral William Leahy (left) and Attorney General Tom Clark (right) in the background.
Date: January 21, 1947
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Clark, Tom C. (Tom Campbell), 1899-1977; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 59-1225-4引用。
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