写真(上左):アメリカ雑誌『ライフ』に掲載された原爆被爆者の写真:1948年7月15日撮影。Title:US Atomic Energy photographs in Life Magazine Exhibit. Image of bomb burn victim. Photograph of image taken July 15, 1948
National Archives Identifier: 22118260
Local Identifier: 434-LB-5-XBD201207-00408
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7/15/1948. 写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 519384 NAIL Control Number: NWDNS-77-AEC-48(27) 引用。
写真(上左):1945年8月6日、広島への原爆によって破壊された工場の動力室:長崎造船所か。:Title:Photograph of Hiroshima after Atomic Bomb
National Archives Identifier: 22345682
Local Identifier: 243-HP-II-656
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1945。写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 22345682 引用。
1.1939年8月2日、第二次大戦勃発1ヶ月前,アインシュタインは,亡命科学者シラードの勧めで,アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに,ナチスより先にアメリカが原爆を開発するように促した。その後,太平洋戦争勃発半年後の1942年6月になって、ルーズベルト大統領は、ドイツの原爆開発に対抗して「マンハッタン計画(Manhattan Project)」と呼ばれることになる原爆開発計画を実行に移した。この話は、アメリカによる原爆開発は,枢軸国が原爆を開発しているので,それに対抗する必要があるという意味で、アメリカが進んで大量破壊・大量殺戮をもたらす新兵器を開発したわけではない、という論拠とされた。
ドイツのヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg) (1901-1976:1932年ノーベル物理学賞受賞)は,ウラン235の核分裂のエネルギーを、原子爆弾に応用できることを理解していた。1939年、ドイツでは核分裂現象が発見され、原子爆弾の実用化が話題となった。しかし、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーもドイツ軍も、原子爆弾の実現の可能性は低く、原爆開発をスタートさせたわけではない。しかし、1940年のノルウェー攻略によって、ノルスク・ハイドロ工場の重水製造設備を手中にしたことで、重水による中性子減速が可能となり、原爆実用化の可能性が高まった。ハイゼンベルクは、核分裂とそれが生み出すエネルギーの巨大さを訴え、原爆の材料となるウランを製造するサイクロトロン開発を訴えた。
このように1940年になっても、ナチス・ドイツの原爆開発は、実用化に向けた指導したわけではなかったが、これは機密事項であり、ドイツで既に原爆開発が進んでいるのではないかと、世界の物理学者は危惧していた。そこで、ナチスの原爆開発、戦争の勃発に備えるために、1933年のヒトラー首相就任後にドイツから亡命したレオ・シラード(Leó Szilárd)は、当時から世界的な著名人であったアインシュタインAlbert Einstein に働きかけ、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)にアメリカがドイツよりも先に原爆を開発するように促した。このアインシュタイン・シラード原爆開発提案手稿が書かれたのは、1939年8月2日、第二次大戦が始まる1ヶ月前のことだった。
1939年9月1日にドイツ軍がポーランド侵攻(Invasion of Poland)をした理由は、?ポーランド人による在ポーランドの民族ドイツ人(ドイツ系ポーランド人)への迫害を中止させる、?ポーランド軍による国境侵犯・不法攻撃をかけたこと、の2点だった。ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリスは、即座にドイツに戦闘停止を求める最後通牒を送ったが、無視されたため、9月3日、イギリスはドイツに宣戦布告し、フランスもそれに次いだ。
こうして、1939年9月初め、第二次世界大欧州大戦が始まった。アメリカは参戦しておらず中立国だったが、イギリスはアメリカの軍事援助を求め、直ぐに自国で研究中の原子爆弾に関する情報を全てアメリカに譲渡した。
写真(右):1945年8月、アメリカ、テネシー州オークリッジ、オークリッジ国立研究所で壁に掛けたアジア地図の日本本土を睨むアメリカ、テネシー州オークリッジ、レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves:1896-1970)准将:1942年9月、グローブズは、マンハッタン計画の指揮官となった。オークリッジ国立研究所は、1943年にマンハッタン計画の一環として、原爆に使用するウランとプルトニウムの分離精製の施設として、陸軍工兵隊によって建設された。X-10、Y-12、K-25、S-50のコードネームで呼ばれる4施設があった。1943年に、エンリコ・フェルミが 主導しX-10に世界初の実用原子炉を完成させ、そこでプルトニウムの生成され、ファットマン(長崎型原爆)に使用された。
Description
General Groves at Oak Ridge
For more information or additional images, please contact 202-586-5251.
Date 21 March 2013, 16:30
Source HD.30.507
Author ENERGY.GOV
Related Collection:
ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945; Hiroshima-shi (Japan) bombardment, 1945
HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Hiroshima
写真は Wikimedia Commons, Category:Oak Ridge, Tennessee File:HD.30.507 (10444069294).jpg引用。
1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻(Invasion of Poland)で始まった第二次世界大戦には、1941年12月まで中立国として参戦していなかったアメリカだったが、原爆開発は、徐々に加速されてた。参戦前の1941年、全米科学アカデミー(National Academy of Sciences)は、ドイツに対抗すべく原子爆弾を全精力を傾けてall-out effort 開発することを求めたが、これはドイツのヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)らが開始した原爆開発に先んじることが、その目的だった。
1941年10月6日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)は、「マンハッタン計画」(Manhattan Project)と呼ばれることになる原爆開発を、陸軍工兵隊のレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の下で全精力的に推進することを決定した。まだ実用化できるかどうかも定かではない原子爆弾の開発をこの早いうちに本格的に始めたことは、卓見だった。このルーズベルト大統領による早期の原爆開発マンハッタン計画(Manhattan Project)があってこそ、第二次大戦に原子爆弾が実戦使用できたといえるからである。
アメリカは、第二次大戦に参戦していない1941年のうちに、原爆開発を開始したが、当時は長距離重爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」は完成しておらず、運搬手段も未確定なままだった。しかし、原爆投下目標を枢軸国ドイツとして、大急ぎで原子爆弾の開発が始まった。これは、間もなく大量の資材、多額の資金、多数の技術者と労働者を必要とする巨大な原爆開発計画となる。
写真(右):1946年2月、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所、マンハッタン計画の科学者のリーダーとなったジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer:1904-1967)博士:ニューヨークでドイツ移民の子として生まれた。母は東欧ユダヤ系画家だった。1925年、ハーバード大学卒、ケンブリッジ大留学、ニールス・ボーアから理論物理学を教授される。1942年にマンハッタン計画が始動し、1943年にニューメキシコ州ロスアラモスに、ロスアラモス国立研究所が設立されると、オッペンハイマーはその初代所長に任命された。
Description
J. Robert Oppenheimer at the Guest Lodge, Oak Ridge, in 1946
Date February 1946
Source HD.4G.010
Author Ed Westcott (U.S. Government photographer)
写真は Category:Leslie Groves File:HD.30.506 (10444067994).jpg引用。
J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer: 1904年4月22日-1967年2月18日)は、ドイツ系ニューヨーク生れ、母は東欧ユダヤ人で、ハーバード大学卒業。イギリスのケンブリッジ大学留学後、キャベンディッシュ研究所で物理学や化学を修め、科学者オーゲ・ニールス・ボーア(Aage Niels Bohr)と理論物理学を研究。ゲッティンゲン大学で博士号取得。
J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)は、1942年開始された原子爆弾開発「マンハッタン計画(Manhattan Project)」に参加し、1943年にはロスアラモス研究所の初代所長に就任し、原爆開発を主導した。
アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、ドイツのポーランド侵攻(Invasion of Poland)が始まっても参戦しなかったが、1941年になって原爆開発を進めることを決定していた。しかし、原爆開発の本格的な始動は、1942年のマンハッタン計画が実施されてからである。1943年、原子爆弾に不可欠なウラニウムやプルトニウムを生成し、原子爆弾を完成させるために、1943年、ニューメキシコ州ロスアラモスに、ロスアラモス国立研究所(Los Alamos National Laboratory:LANL)が設立された。この初代所長に任命されたのが、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer :1904-1967) である。マンハッタン計画(Manhattan Project)には、21名のノーベル賞受賞歴のある科学者を始め、世界の最高の頭脳と技術者が集められた。それを率いるものの力量・学識も問われ、指導者に最適とされたのがオッペンハイマーである。
マンハッタン計画の下、ロスアラモス国立研究所(Los Alamos National Laboratory)の所長ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer :1904-1967) は、20億ドルの予算を投じて、ウランとプルトニウムを原料とする2種類の原子爆弾が完成した。1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードで、世界初のプルトニウム型原子爆弾の地上爆発実験「トリニティ」が成功した。この知らせは、ドイツ降伏後のベルリン郊外にいたアメリカ大統領ハリー・トルーマンに暗号で知らされた。「出産は無事終了。結果は予想以上。」この時、イギリス首相、ソ連首相と戦後と対日戦争を話し合うポツダム会談が始まる直前だった。
イタリア人エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)は、1938年ストックホルムでノーベル賞物理学(Nobel Prize in Physics)を受賞、受賞理由は、中性子衝撃による新放射性元素の発見と熱中性子による原子核反応の発見である。しかし、妻のローラLaura Caponはユダヤ人であり、 ユダヤ人迫害を行うドイツの影響を恐れ、そのままファシスト・イタリアを離れ,米国に亡命。1939年1月,エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)は、コロンビア大学(Columbia University)でウラン235の核分裂連鎖反応を研究に参加し、1941年10月,米国での原爆開発に加わった。
1942年8月,「マッターホルン作戦」(Operation Matterhorn)が発足,1942年9月23日にの軍事指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将が、マンハッタン計画指揮官に就任した。ノベル賞受賞者21名を含む世界的頭脳の中で、原爆開発に大きく寄与したのが、物理学者ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer :1904-1967) とエンリコ・フェルミ(Enrico Fermi:1901-1954)の二人である。
エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)は、イタリア、ローマ出身の物理学者で、元素に中性子を照射し人工放射性同位元素を生成、熱中性子を発見して、その特性を明らかにした。この業績が評価され、1938年にノーベル物理学賞を受け、ノーベル賞授賞式に出席するために、スウェーデンのストックホルムに行った。この機会を利用フェルミはし、ユダヤ人の妻ローラ(Laura Capon)と共に、アメリカに亡命した。事前にコロンビア大学での職をえて永住権があったが、祖国イタリアにおけるファシスト党の独裁、世界戦争の危機、ユダヤ人迫害への恐怖から逃れる亡命である。
エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)は、ストックホルムでノーベル賞を受け取った後、帰国することなく、アメリカに亡命し、1939年に、コロンビア大学の物理学教授に就任した。そして、ドイツでの原爆開発の脅威に対抗するために、核分裂反応を研究したが、この研究は1942年5月に発足したマンハッタン計画に組み込まれた。その後、エンリコ・フェルミは、シカゴ大学で原子炉の開発に取り組み、1942年11月にはシカゴ大学のフットボール・フィールドに密かに原子炉を建設した。1942年12月2日 原子炉から制御棒を引き抜いて臨界に達したことが確認された。この1942年末に、シカゴ大学で完成した世界初の原子炉「シカゴ・パイル1(CP-1)」と命名された。原子炉で、原子核分裂の連鎖反応を制御できるようになったことで、原子爆弾の原材料となるプルトニウムの生成が可能になった。
その後、1943年、ワシントン州リッチランド、ハンフォードに原子炉「シカゴ・パイル1(CP-1)」を大型化したプルトニウム生産炉、プルトニウム抽出工場として、ハンフォード・エンジニアリング(Hanford Engineering Works)が建設され、そこで世界初のプルトニウムの生産を目指すことになった。1944年9月にハンフォード・エンジニアリングの原子炉の運転が始まり、臨界に達したことがかくにんされた。さらに、テネシー州オークリッジで,原爆用の濃縮ウランを製造,ワシントン州ハンフォードにプルトニウム生産炉も建設された(1944年運転開始)。こうした原子炉の建設を主導したのが、イタリア人亡命・ノベル賞受賞物理学者エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)である。
写真(右):1943年、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所の労働者の一時的旧宅群はトレーラーハウスを代用しているようだ。:オークリッジ国立研究所の4施設(コード名X-10、Y-12、K-25、S-50)には、多数の従業員、労働者が田舎町のオークリッジに投入された。オークリッジの1942年時点の人口は3000人ほどだった。研究所のX-10 は、黒鉛減速空気冷却炉でウランからプルトニウムを生成、沈殿法によりプルトニウムを精製する。Y-12は、ウラン235をウラン238から電磁気分離する。K-25は、ガス拡散法で、S-50は液体熱拡散法で、ウラン235とウラン238の分離濃縮を行う。
Temporary Housing For Manhattan Project Workers
The population in Oak Ridge, Tennessee grew from about 3,000 in 1942 to over 70,000 by 1945. In order to accommodate this type of population growth, temporary housing such as trailers, efficiency apartments, and demountable housing was used as living quarters for the employees of the Manhattan Project.
Creator
Records of the Atomic Energy Commission, Record Group 326
Source
Formerly Classified Correspondence Files, 1942-1947
Date
ca. 1943
Rights
National Archives at Atlanta
Identifier
National Archives Identifier 1518690
Coverage
Oak Ridge (Tenn.)
Original Format
Photograph Print 8" x 10"
写真は National Archives at Atlanta National Archives Identifier 1518690 引用。
写真(右):1943年、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所の新築がなった労働者用アパートメント:トレーラーハウスの代用ではなく、鉄筋コンクリートの建築物が用意された。オークリッジの人口は1942年の3000人から1945年の7万人に急増している。この住所は、テネシー州オークリッジ、ビームクリークロード(Bear Creek Rd, Oak Ridge, TN 37830)。
Temporary Housing For Manhattan Project Workers
The population in Oak Ridge, Tennessee grew from about 3,000 in 1942 to over 70,000 by 1945. In order to accommodate this type of population growth, temporary housing such as trailers, efficiency apartments, and demountable housing was used as living quarters for the employees of the Manhattan Project.
Creator Records of the Atomic Energy Commission, Record Group 326
Source
Formerly Classified Correspondence Files, 1942-1947
Date
ca. 1943
Rights
National Archives at Atlanta
Identifier
National Archives Identifier 1518690
Coverage
Oak Ridge (Tenn.)
Original Format
Photograph Print 8" x 10"
写真は National Archives at Atlanta National Archives Identifier 1518690 引用。
写真(右):1943年、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所に設置するサイクロトロンの図を眺める若い科学者。撮影場所は、カリフォルニア州立大バークレー校かハーバード大学と思われる。:
Photograph Of Cyclotron
This photograph shows a young scientist viewing a diagram of a cyclotron. The photograph was either taken at Harvard University or the University of California at Berkeley. The cyclotron, invented at Cal-Berkeley, was the design used for the Calutrons at Y-12 in Oak Ridge, Tennessee.
Subject
Manhattan Project (U.S.)
Creator
Records of the Atomic Energy Commission, Record Group 326
Source
Oak Ridge Operations, Mail and Records Correspondence, 1942-1949
Date
1942-1945
Rights
National Archives at Atlanta
Format
Still Image
Identifier
National Archives Identifier 6039088
Coverage
Oak Ridge (Tenn.)
Original Format
Photographic Print 8" x 10"
写真は Wikimedia Commons, Category: Hanford B Reactor National Archives Identifier 6039088 引用。
オークリッジ国立研究所の4施設(コード名X-10、Y-12、K-25、S-50)のなかで、Y-12(ウラン235をウラン238から電磁気分離する施設)で使うカルトロンを使うためにデザインされた。エンリコフェルミらの指導によって、原子爆弾の原料となるプルトニウムを製造するために建設された原子炉では、ウラン238を注入し、炉内で核分裂の連鎖反応を起こさせる。
オークリッジ国立研究所Y-12では、回収したスラグから、プルトニウムを濃縮、抽出する。プルトニウムは原子爆弾「ファットマン」の製造に使用された。ワシントン州ハンフォードB原子炉はプルトニウムを使用する長崎型原爆だが、これ以外にも、ニューメキシコ州ロスアラモス研究所(原爆の設計・組み立て)、テネシー州オークリッジ(原子爆弾「リトルボーイ」用のウラン濃縮)もマンハッタン計画で整備された施設である。
写真(右):1940年代、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所Y-12:バージニア州、オークリッジ国立研究所の近くにあるホルストン砲兵工廠(Holston Ordnance Works :HOW) は、ホルストン川近くの24.3平方キロ(6,000エーカー)の敷地にある。建設費用は7700万ドルで、1942年竣工、1944年1月に完成した。原爆開発の作業だけではなく、砲兵工廠にも多額の経費をつぎ込んでおり、カルトロンと似たような施設を作り、女子労働者が動員された。つまり、原爆開発だけが、巨大プロジェクトではなく、いくつもの軍事計画の一つだった。その意味で、原爆投下だけが躊躇されるはずはなかった。
Description
Aerial View of Y-12.
Date Unknown date
Source HD.30.839
Author U.S. Department of Energy from United States
写真は Wikimedia Commons, Category:Y-12 National Security Complex File:Workers laying up the graphite core of the 105-B file. In the lower-left can be seen a portion of the rear face of the pile, the top of its shielding wall, and the gun barrels protruding HAER WA-164-6.tif引用。
オークリッジ国立研究所の4施設(コード名X-10、Y-12、K-25、S-50)のなかで、Y-12は、ウラン238からウラン235を電磁気分離する施設。サイクロトロンが設置されカルトロンを扱う使うためにデザインされた。原爆の核心をなす核分裂連鎖反応には、ウラン235が必要だが、天然ウランの多くはウラン238なので、そこから分離する必要がある。そこで、カルトロンで、ウラン235とウラン238の僅かな質量差を利用したローレンツ力によりイオン化されたウラン同位体を分離する。マンハッタン計画(Manhattan Project)の一環としてオークリッジ国立研究所が設置されたが、そのマンハッタン計画の指揮官はレスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves:1896-1970)准将である。ここでは、ウラン235をウラン238から電磁気分離する。
写真(右):1943年8月、アメリカ、バージニア州キングスポート近く、ホルストン砲兵工廠B地区、建築物Eでフィルタータンクを検分する作業員:
Holston Ordnance Works Employee
A Holston Ordnance Works employee operating filter tanks in "E" building in area B.
Subject Ordnance facilities
Creator Records of the Office of the Chief of Ordnance,
Record Group 156
Source Historical Reports, 1942-1950
Date August 1943
Rights National Archives at Atlanta
Subject :
Manhattan Project | Uranium enrichment | Calutron
Creator :
Records of the Atomic Energy Commission, Record Group 326
Source :
Formerly Classified Correspondence Files, 1942-1947
Date :
ca. 1944
Rights :
National Archives at Atlanta
Identifier National Archives Identifier 6997147
Coverage Kingsport (Tenn.)
Original Format Photograph Print 8" x 10"
写真は National Archives at Atlanta National Archives Identifier 6997147引用。
アメリカ陸軍工兵隊レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将 (1896年8月17日 - 1970年7月13日)
ワシントン大学・MITを経て、1918年陸軍士官学校 West Point卒業。陸軍工兵隊 Army Corps of Engineersに入隊。
1936年参謀大学General Staff College、1939年陸軍大学Army War College卒業、1940年陸軍大佐。
1942年9月、准将Brigadier Generalとなり、マンハッタン工兵管区(Manhattan Engineer District of the US Army Corps of Engineers)、すなわち原爆開発「マンハッタン計画(Manhattan Project )の指揮官となる。前任者は、ジェームズ・マーシャルJames Marshall大佐。
1942年9月、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)の下で陸軍工兵隊(Army Corps of Engineers)レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves准将が、マンハッタン工兵管区司令官に任命され、マンハッタン計画 (Manhattan Project.)と呼ばれる原爆の開発計画が本格的に始動した。
1942年中に史上初の原子核連鎖反応の実験に成功、1945年7月16日、プルトニウム239の核爆発実験「トリニティ」がニューメキシコ州アラモゴードで大成功。この知らせを受けた、ポツダム会談に参加していたトルーマン大統領は、すぐにソ連首相スターリンに、この驚異的爆弾の成功を伝えた。
原爆開発のために、全米19州とカナダに計37の工場が動員された。ワシントン州でプルトニウム生産,テネシー州でウラニウム濃縮とプルトニウム生産などに支えられ,Los Alamos(ニューメキシコ州)で原爆製造計画が始動した。原爆開発には
科学者、軍人、公務員など6万人が参加、予算20億ドル(2004年換算200億ドル)が投入された。(⇒B-29爆撃機による日本本土無差別爆撃(1944年6月-1945年8月)参照。)
2.1944-45年の日本本土空襲、原爆投下によって数十万人の日本人が殺戮された。しかし、その7年前、日本も中国の諸都市を無差別爆撃していた。大規模な都市無差別爆撃、特に敵首都への戦略爆撃は、世界で初めてだった。米軍では,ミッチェルらが航空機による対艦船攻撃を主張していたが,四発エンジンの大型爆撃機の開発が開始された。1934年,アメリカ軍は、四発重爆撃機の開発を計画したが,本格的な量産開始は,1939年の第二次大戦のころからだった。1937年当時の日本軍は,戦略爆撃を始めて長期間実施した先見の明ある航空隊をもっていた。
1937年4月26日、スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)中のバスク地方ゲルニカ(Guernica)が、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍「コンドル軍団」 Legion Condorの爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。
特攻長官大西瀧治郎 (光人社NF文庫)生出寿著:日本海軍の大西中将は、日中戦争のはじまった1937年8月からの中国本土空襲を主導した。これは、上海、杭州、南京、重慶への爆撃であり、陣地、兵舎、飛行場、鉄道・港湾など交通インフラを目標としてはいたが、命中精度の上からは、周辺への被爆も当然のこととされた。その意味で、事実上の都市爆撃である。当時の日本は、敵地に対して空襲、爆撃し、非戦闘員、民間人、市民、女子どもを殺戮しても犯罪であるとは思わなかった。しかし、日本本土が空襲され、原爆が投下される頃には、無差別爆撃が犯罪的な悲惨さを招くことを知ることになる。原爆の残虐性を指摘し、反核のメッセージを主張するのであれば、自ら行った空爆に対する認識も明らかにしなければならないであろう。主に九六式陸攻(中攻)による空襲を主導したのは、航空本部教育局長の大西瀧治郎大佐であり、彼は実際に空襲にも爆撃機に搭乗して参加している。 |
スペインでのドイツ軍によるゲルニカ空襲から4か月もたたず、1937年8月第二次上海事変の時に、上海駐留の日本海軍陸戦隊や艦隊を支援する目的で、日本海軍航空隊は第一連合航空所属の木更津航空隊を朝鮮半島南の済州島に、九州の鹿屋航空隊を台湾の台北に進出させた。そして、1937年8月14日から1週間、上海の中国軍航空基地を爆撃し、中国の首都南京や南昌を空襲した。
1937年8月15日の長崎県大村基地からの渡洋爆撃では、日本海軍の新鋭九六式陸上攻撃機(中攻)G3M20機が、南京まで960kmを往復4時間で飛行。爆撃機は、1機当たり60kg陸用爆弾12発を搭載、2ヶ所の飛行場を爆撃目標とした。爆弾が目標以外の市街地にも落ちることは当然許容されていた。これが、無差別爆撃ということである。(そうでないなら、目標を逸脱した爆撃失敗の責任が生じる)
海軍航空本部教育部長大西瀧治郎大佐(後の特攻隊司令官)は、1937年11月15日経済倶楽部にて「南京に対してどの位空襲をおこなったかと申しますと空襲回数36回で飛行機の延機数は600機、投下爆弾は約300トン」と述べた。
都市への無差別爆撃の目的は、商業施設・住宅・交通網に打撃を与え,労働者を殺傷し、軍需生産を停滞させ,生活難に市民を陥れて厭戦気分を起こさせることである。工場、住宅,繁華街など爆撃目標は,爆撃機部隊ごとに定められている。無差別爆撃は,市民も軍人と同等に無差別に扱い,爆撃目標にいる市民に一切関知しないということである。
後のアメリカ軍は、日本の民間人を殺傷する日本の都市爆撃、商船撃沈を躊躇しなかった。真珠湾攻撃の3時間後、1941年12月7日、アメリカ海軍は即座に無制限潜水艦作戦の指令を出し、日本の民間商船を軍艦と無差別に撃沈することとした。1942年5月、ドーリットル空襲(日本への16機のB-25による東京・横浜などへの爆撃)でも、目標は都市中心部である。
⇒上海事変・渡洋爆撃と日中全面戦争参照。
日本の雑誌「少年クラブ」(1940年)には「重慶を爆撃に!!」の見出しで、「X月X日 快晴。すばらしい爆撃日和」の記事がある(「快晴、素晴らしい爆撃日和。重慶を爆撃に!!」..??引用)。
1938年2月から1943年8月までの5年間、中国の戦時首都・重慶を218回爆撃,合計9513機出動、爆弾2万1593発を投下、市民1万2889人を殺害、1万4700人を負傷させ、家屋1万7608軒を損壊させた。これは、1945年の米B-29爆撃機の日本本土空襲1〜10回分に相当する程度で、1944-45年の連合国の空爆と比較すれば小規模である。しかし,都市無差別爆撃の嚆矢であった(Zero Fighters in Chongqing and Pearl Harbor:Wakamiya Yoshibumiおよび中華人民共和国駐日本国大使館 重慶2005/08/06発新華社参照)。
世界初の本格的な戦略爆撃は,1937年8月、日本軍による中国への首都爆撃、都市無差別爆撃である。1940年11月から1943年8月には、中国の首都重慶への長期間の無差別爆撃が実施された。戦略爆撃の嚆矢となった日本は、1944年11月以降、より大規模に戦略爆撃を受ける。米軍の日本本土空襲は、中国本土空襲への報復という負の遺産ともいえる。日本人は中国人が空爆の下でどのような体験をしたか、空襲の悲劇はどのようなものかを知った。
1937-1940年の日中戦争(日華事変)の時代、中国を空爆した日本機に拍手喝采を送った日本人は、1944年から空爆される側になって、初めて、空爆の非人道性を理解できたのかもしれない。未だに大規模に空爆された経験のない米国人は、どのようにして空爆された側の気持ちがわかるのか。それとも9.11以降、理解したのか。長崎原爆資料館「C-1 日中戦争と太平洋戦争」は、1931年9月の満州事変から太平洋戦争まで、15年間の戦争を扱っている。「とりわけ日中戦争の長期化は、国内の統制経済と国民支配の強化をもたらし、さらに日本の南進政策は米英仏蘭との対立をまねき、より過酷な太平洋戦争へと国民を導いた。日本人だけでなく、アジア諸国の多くの民衆が戦争に巻き込まれ、さまざまな形で犠牲となった。」
原爆に関して世界平和を論ずる場合、総力戦にあって、市民・兵士全てが、戦争の被害者・犠牲者であったが、同時に、加害者として動員に協力し、参戦していたことは認識しておくべきであろう。
3. 1941-42年、日本陸海軍は別々に原爆開発を開始した。日本の技術、人材、設備、資源では原爆開発は不可能であったが、日本の原爆開発は、仁科芳雄らによって1945年まで継続された。ドイツからウラン235を譲渡されることになったが、日本派遣潜水艦U-234は、ドイツの敗戦で、米国に降伏。ウラン入手が不可能となった日本は、1945年6月に原爆開発を放棄した。万が一、日本が原爆を開発したら,戦局挽回のために、原爆の先制使用を躊躇しなかったはずだ。
1941年4月、日本陸軍航空本部は、安田武雄の大河内所長に原爆開発を要請し、仁科芳雄研究室が「ニ号研究」(「ニ」はニシナの頭文字)が受託し、ウラン濃縮研究を開始した。
仁科芳雄 原子物理学の父 [井上泉著] 日本の原子核物理学者仁科芳雄は、1890年12月6日、岡山県浅口群里庄町浜中で父・仁科在正と母・津禰の四男として生まれた。1937年、理化学研究所(駒込)で日本発(世界第2位)のサイクロトロンを建設して、原子核・素粒子研究の基礎を築き、日本の原爆開発にも参加した。同位元素(ラジオアイソトープ)を医学、生物学へ応用し、1946年には文化勲章を授与されている。 |
1943年1月、理化学研究所の仁科芳雄
博士を中心に、天然ウラン中のウランU235を熱拡散法で濃縮する計画がはじまり、1944年3月、理研に熱拡散塔が完成した。他方、日本海軍も1942年に核物理応用研究委員会を設け、原子爆弾の可能性を検討しはじめた。
日本軍が具体的に原子爆弾の開発を開始する以前に、科学評論や戦記小説の中で、核エネルギーの軍事利用が注目されていた。第一大戦直後、『新青年』大正9年7月号「将に開かれんとする世界の最大秘密の扉」では次のように原爆を語った。
「バーミンガム大学のアーネスト・ラザフオード教授-----は、原子(アトム)を分解する事に成功した。で、----或る「力」を解放するに至つた。そして人間を殆ど神様と同様の物にするか、それとも人類文明なるものを粉微塵に破壊して終ふかも、実にこの「力」の掌中に握られてゐるのである。」
「日本に居て米国の市街を灰燼に帰せしめる力」:「若し右の方法が成功した場合には、恰も今日無電が大洋を越える事が出来るやうに、吾々は原子力を放つて、この大地を透過させ、地球の反対の面、例へば日本から云へば亜米利加(アメリカ)の一市街を灰燼に帰せしめるやうな事が出来やう。」
「原子爆弾(アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」:「若しこの原子力が、誤れる掌中に入つたならば何うか?/例へば前独逸皇帝の如き人が、この力の秘密を得たならば、其結果は何うであらうか?恐く彼れは、ポツダムの安楽椅子に腰を下して、軽く机上のボタンを押し、それに依つて容易に文明を灰燼に帰せしめることが出来やう…が、併しこれが有益に使用された暁には、人類を塗炭の苦しみに陥るゝ彼の戦争なるものは、永久に不可能のものとなるに相違ない。何となればこの原子爆弾の威力に対しては、如何なる強国と雖も対抗できぬからである。…」(『新青年』大正9年7月号/「世界の最大秘密:モリオカ三行日記」引用終わり)
『新青年』(第二十五卷)七月號(1944年)米本土空襲科學小説「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ・・立川賢 」は、戦争末期の空想科学的な戦記小説である。内容は、日本が原子爆弾を完成し、原子力エンジン搭載の爆撃機で、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下し、ビルを壊滅させ,70万人を殲滅して、戦局を逆転するというものである。
編輯後記では「米本土空襲、爆砕の夢は吾人の抱くもののうちもっとも大いなるもの。本号では立川賢氏が科学的見地に立っていち早くそれを実現してくれた。夢を夢とするは痴人である。戦うものにとっては、あらゆる夢は現実でなければならない。ワシントン城下の誓いに拍車をかけよう。」と記した。民間人殺戮という非人道性を一顧だにしない点で、戦局挽回の市民的願望がこもっている。(→)『新青年』1944年7月号/「遅すぎた聖断」昭和天皇と日本製原爆開発計画;山崎元引用)
写真(右):1945年5月14日、アメリカ海軍護衛駆逐艦「サットン」USS Suttonに投降したドイツ海軍潜水艦UボートXB型U234(左)の前甲板には機雷敷設用の穴6個が並んで見える。;アメリカ東岸のポーツマス海軍工廠(Portsmouth Naval Shipyard)で、手前のUボートIXC/40型(U-805あるいはU-1228)より撮影。奥の2隻はUボートIXC/40型とより大型のUボートIXD型U-873。UボートXB型U234には日本軍に譲渡する原爆開発研究用に酸化ウラン560kg、ジェットエンジン,誘導爆弾など260tの物資が搭載されていた。しかし、ドイツ敗北により、洋上でアメリカ軍艦艇に降伏した。同乗していた日本海軍士官2名は自決した。
Description
Four surrendered submarines at the Portsmouth Naval Shipyard, New Hampshire (USA), in May 1945. The photo was taken from one of the Type IXC/40 submarines U-805 or U-1228;
The minelaying Type XB submarine U-234 is visible to the left;
Tied up in front is one of the IXC/40 submarines and U-873 (Type IXD).
Date May 1945
写真はWikimedia Commons, Category:U-234 (submarine, 1943) File:Surrendered German submarines at Portmouth Navy Yard 1945.jpg引用。
1945年3月24日、ドイツ海軍潜水艦UボートXB型U234は、酸化ウランUranium Oxide(U235)560kg、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262やターボジェットエンジンの部品・設計図など機密物資260tを運搬し、日本海軍庄司元三技術中佐と友永英夫技術中佐、ドイツ空軍ウーリッヒ・ケスラー大将、海軍士官4名、ドイツ人技術者2人などを日本に送り届ける任務をうけてキール軍港を出港した。
しかし、1945年5月8日、日本に向かうドイツ海軍大型潜水艦Uボート?型BU234は、大西洋上でドイツ無条件降伏の打電を受ける。Uボート?型Bの乗員たちは討議の末、日本人士官二人,日本海軍庄司元三技術中佐と友永英夫技術中佐を監禁し、洋上で米軍に降伏することを決める。U-234拿捕前、日本人海軍士官2名は服毒自殺。
ドイツ海軍潜水艦UボートXB型U234の搭載していたU235酸化ウランは、1945年5月14日に米軍の手に落ち、日本には届かなかった。そのため、日本は、1945年6-7月、原爆開発研究を中止した。ただし、中止の名目は、連合軍でも原爆開発は不可能であるということである。
陸軍第八技術研究所から、上級の陸軍兵器行政本部に一通の報告書が届けられた。
『アクチノウラン』(U235)研究現状 昭和二十年六月十八日 第八陸軍技術研究所
一、理研仁科研究室ニ於ケル熱拡散法ニヨル「アクチノウラン」分離ノ研究ハ、数回ノ実験ノ結果不可能ナルコト判明シ、「アクチノウラン」ノ原子核「エネルギー」ノ研究ハ中止スルコトトナレリ。
二、「アクチノウラン」分離ハ目下殆ド不可能ナルコトヲ以テ、敵国側ニ於テモ「アクチノウラン」ノ「エネルギー」利用ハ当分為シ得ザルモノト判明セルヲ以テ、研究ノ中止モ不可ナラズト考ヘラレアリ。
三、京都帝国大学理学部荒勝教授ハ別ニ遠心分離法ニヨル「アクチノウラン」分離ニ就キ研究中ノ由ナリ。(此研究ハ海軍関係ト連絡研究中ノモノナリ。)
付記 一、「アクチノウラン」利用ノ研究ニ関シ軍需省ハ「ウラン含有鉱物」ヲ奨励鉱物トシソノ産出ヲ助長シアルヲ以テ、「アクチノウラン」利用ニ関スル研究中止ニヨリ陸軍省トシテ「ウラン含有鉱物」ヲ必要トセザル場合ニハ、至急非鉄金属局鉱山第二課長ニ連絡スベキコト。(→「遅すぎた聖断」昭和天皇と日本製原爆開発計画;山崎元引用)
ウラン235を用いた日本陸軍の原爆開発は、1945年6月に中止された。そして、海軍の研究も1945年7月に放棄された。連合国の原爆開発は不可能であるというのがその理由であるが、ドイツからのウラン235入手が不可能になったことが影響していよう。原爆が非人道的兵器であるといった今日的理由は、一切配慮されていない。枢軸国の原爆開発こそが、連合国による原爆開発の第一番目の口実(アインシュタインの手紙)であったことが思い起こされる。
現在でも、Robert K. Wilcox(1995)Japan's Secret War: Japan's Race Against Time to Build Its Own Atomic Bomb は、日本の原爆開発を過大評価しているようである。日本が原爆を開発し、アメリカに原爆投下をするより先に、米国が日本に原爆投下をした。このような原爆開発競争論は、日本の原爆開発を、アメリカの原爆投下を正当化する口実とした所詮、軍隊とは、最新最強の兵器を使用したがるものだ。
4. 日本へ原爆投下は、最新兵器の実験,戦略爆撃の延長として実施され、さらに戦後も原爆の開発予算を獲得するという経済上の理由、対ソ外交を有利に運ぶという政治上の理由もあった。
<原爆投下の理由>
1.1945年7月26日のポツダム宣言を、翌27日、日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとするポツダム宣言黙殺説:
鈴木貫太郎首相が、1945年7月27日ポツダム宣言(Potsdam Declaration)黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断された。鈴木貫太郎首相は、世界に向かって降伏の呼びかけを拒否したのであるから、鈴木内閣が終戦のために組閣されたという俗説は、誤りである。内閣総理大臣鈴木貫太郎がポツダム宣言黙殺発言をする以前に、マンハッタン計画指揮官のグローブズ准将の作成した原爆投下命令書が出ていたのであり、ポツダム宣言黙殺説は成り立たない。
2.アメリカ政府・アメリカ軍の公式見解といえる終戦和平説:
日本上陸作戦を実施した場合、戦後のスチムソン陸軍長官の回顧録では、予測される死傷者を100万人と過大に見積もっている。この数値に軍事的根拠はない。戦後になって、原爆投下に残虐行為ではないかと疑念が上がった時、投下を正当化するために、死傷者に注目したのである。
原爆投下されたために日本が降伏したと誤解している識者も多い。最新機密兵器である原爆の技術と威力について、日本の指導者たちは認識・理解できなかった。彼らが危惧したのは、日本国民、日本軍の一部が、敗北続きの軍上層部・政治指導者に反感を持っており、それが国体を覆す革命につながるのではという国内の危機だった。
3.終戦後のアメリカによるソ連封じ込め説(対ソ外交説)・世界覇権掌握説:
ソ連はドイツ降伏までは、米英と共同歩調を取ってきたが、ポーランド国境問題などヨーロッパの戦後処理について東西対立、冷戦が始まっていた。アメリカでも、フランクリン・ルーズベルト大統領が死去すると、ハリー・トルーマン大統領の先輩議員であるジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)国務長官は、原爆をソ連に対する外交を有利に運ぶための手段として、使用することを強く求めた。原子爆弾が巨大な破壊力を持つことを世界に示し,原爆保有国アメリカこそが、世界最強の軍事大国であることを証明することが求められた。対ソ外交を有利に展開する手段として、原爆を投下したともいえるが、国連常任理事国の中で,傑出した兵器を持っていることを世界に示し、世界の覇権を掌握することが最高次元の原爆投下の理由であろう。
4.アメリカ軍新兵器実験説・アメリカ陸軍世界最強立証説:
現在でこそ、核兵器の威力を世界の人々が知っているが、1945年8月以前、原爆は未知の兵器で,その威力は、トリニティ(原爆爆発の初実験)で立証されていたが、それは極秘事項だった。原爆の威力を世界に示せなければ、アメリカ陸軍のもつ世界最強兵器のことを誰も信じないであろう。陸軍は、海軍との対抗して、アメリカ連邦議会で多額の予算を獲得するにも、原爆の威力を見せつたかった。他方、原爆を保有従ったアメリカ海軍は、陸軍に対抗して、対艦船攻撃用の原爆、潜水艦搭載の核兵器の開発を早急に進めることになる。ビキニ環礁の原爆実験では、艦船への破壊力を観察した。
5.戦後の軍事予算獲得説:
原爆を開発/製造するために膨大な予算を獲得するには、原爆の威力を連邦議会の議員に納得させる必要があった。戦時下の極秘計画として20億ドルが投じられた原爆開発だが、戦争が終われば、このように都合のいい、各種兵器の増産は終了させられる。実際、空母などの大型艦船、B-17爆撃機など航空機は、量産が停止させられた。兵器生産の多くが終了すると考えられる戦後世界で、原爆に多額の資金を投入し続けるには,アメリカ連邦議会と選挙民に原爆の威力を示す必要があった。原爆予算だけは削減できないものであると議会と世論に訴える必要があった。
6.連合国と枢軸国との原爆開発競争に勝った米国が原爆を先制使用しただけという原爆開発競争説:
1939年のアインシュタイン・シラードのルーズベルト大統領当ての手紙では、ドイツが原爆開発を成功させる恐れがあり、それに先んじて、アメリカが原爆を開発すべきであることを訴えた。ドイツの科学力,技術力を高く評価していたからである。日本軍も1941年から優秀な科学者を動員して原爆を開発しようとした。そこで、日本が原爆を開発し、アメリカに原爆投下をするより先に、アメリカが日本に原爆投下をしただけであると主張される。
しかし、実際には、日本の化学力,技術力で原爆を開発することは不可能であった。当時のアメリカは、科学的根拠をもとに日本の原爆開発能力を評価したわけではなかったようだ。しかし、人種的,民族的偏見から、日本人による原爆開発の可能性を信じていなかったと考えられる。したがって、原爆開発競争説は、日本への原爆投下の理由として、戦後になって主張された説である。ただし、ドイツの原爆開発には、連合軍は神経を尖らせていた。ノルウェーにあった重水生産工場を特殊部隊を送って破壊したほどである。
7.通常爆弾による無差別爆撃の延長線上に原爆投下があるという戦略爆撃延長説(鳥飼研究室新説):
戦略爆撃とは、軍事施設・インフラ(運輸・エネルギー・医療・教育の基盤)・住宅・商業地区などを破壊し、労働者・市民を殺害することで、敵国の世論を反政府に向かわせ、軍事力を弱体化することで、敵の抗戦意思を粉砕することを企図している。原子爆弾も通常爆撃と同じく戦略爆撃に投入され、両者の違いは、爆弾一発の持つ破壊・殺傷能力の大小である。放射能傷害など,原子爆弾に特有の被害(原爆症)もあるが、これは、殺傷力の違いである。したがって、原爆投下は、大規模な戦略爆撃であり、実際の効果、すなわち大量破壊・大量殺戮の上で,同じように非人道的である。大量破壊・大量殺戮を伴う無差別「通常」爆撃が許されるのであれば、原爆投下も許容される。
つまり、1945年8月時点では、米軍の日本本土への無差別爆撃という戦略爆撃の延長線上に原爆投下があるのであって,原爆投下だけを特別扱いする必要はなかった。原爆の保有・投下目標は最高度の軍事機密であり、特別な情報管理がなされたが、原爆投下自体は、容易に決断されている。
フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)が進めていた原爆開発やその後の原爆投下の議論に、トルーマンが副大統領としても、大統領としても、ほとんど加わっていないのは,戦略爆撃がすでにドイツと日本に大規模に実施されていたからといえる。爆撃機千機相当の戦略爆撃をたった1機(観測機を含めても数機)で実施できるように改良したのが原爆投下である。この意味で、原子爆弾があれば、数百機の爆撃機とそれを運用する航空基地.搭乗員,整備員、航空機生産工場、資材・燃料を節約できる。原爆は、軍機であるが、威力のある最新兵器として戦略爆撃に利用することは、原爆開発の当初から決まっていた。
写真(右):1945年8月1日、アメリカ、テキサス州、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29爆撃機「スーパーフォートレス」Boeing B-29 Superfortress :
Description
English: Two U.S. Army Air Forces Boeing B-29 Superfortress bombers (B-29A-45-BN s/n 44-61722 in the foreground) in flight over Laredo Army Air Field, Laredo, Texas (USA), on Army Air Forces Day, 1 August 1945. Note the four fighters barely visible in front of the second B-29.
Date 1 August 1945
Source AFHRA photo 080129-f-3927s-212
Author USAAF
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing B-29 Superfortress File:B-29.jpg引用。
1942年マンハッタン計画が本格的に始まった時、まだボーイングB-29四発爆撃機(Boeing B-29 Superfortress)は完成していなかった。そこで、原爆を完成させたときに、原爆をどのように敵の目標まで運搬するかが検討された。イギリス空軍が実用化していたランカスター四発爆撃機も候補に挙がったが、威信の上でもアメリカ自国の爆撃機を用いるべきであるとされ、原爆搭載機としての試作中のB-29 爆撃機の早期実用化が求められた。1940年6月27日、試作機としてXB-29が発注され、1942年9月21日に試作第一号機XB-29-BOの初飛行が成功した。
写真(右):1945年、マリアナ諸島グアム島、ノースフィールド飛行場上空のアメリカ陸軍航空隊第20航空軍ボーイングB-29爆撃機「スーパーフォートレス」Boeing B-29 Superfortress :
Description
English: B-29, tail number 42-63674, in flight over Northwest Field, Guam. Records indicate this particular bomber was assigned to the 315th Bomb Wing, 501st Bomb Group.
Date 1945
Source USAAF Via http://www.315bw.org
Author USAAF
Permission
(Reusing this file)
USGOV-PD
写真は Wikimedia Commons, Category:Northwest Field, Guam File:B-29overnorthwestfield.jpg引用。
1944年11月24日から、日本本土に対する第20航空軍ボーイングB-29爆撃機「スーパーフォートレス」(Boeing B-29 Superfortress)による空襲を開始した時は、B-29爆撃機111機が出撃、途機体不調で引返したり、目標を見失ったりした機もあり、東京空襲にはB-29爆撃機88機が参加。目標は、日本の主力戦闘機工場の中島飛行機武蔵製作所。B-29爆撃機による東京空襲は終戦までに100回以上の実施された。11月27日、中島飛行機武蔵製作所への第2回目の空襲が実施された。中島飛行機武蔵製作所へのB-29 爆撃機による空襲は4月12日まで11回実施。
1945年5月29日,横浜空襲では、昼間にアメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29重爆撃機517機、P-51戦闘機101機が来襲した。この「横浜大空襲」」は1時間続き、中区、西区、南区、鶴見区、神奈川区、保土ケ谷区が壊滅的な被害を受けた。横浜市街地の3割が焼け、人口の3分の1に相当する31万人が被災した。横浜大空襲による被災家屋は5割近く、空襲による死者は8000人から1万名といわれている。
1944年11月24日の武蔵野の中島飛行機空襲以来,サイパン島やテニアン島から出撃したB29爆撃機が,連日のように本土を空襲した。1945年3月10日,米B29爆撃機340機が東京を大空襲し,死者10万人、負傷者11万人、家を失った者100万人に達した。B29爆撃機は,5月24日250機、翌25日250機が東京を再び大空襲した。戦略爆撃は,大量破壊、大量殺戮では原爆投下と同じである。つまり、大規模に無差別爆撃をしていた米軍が、原爆投下だけを慎重に扱ったとすれば,それは最新極秘兵器だったからであり、原爆投下自体の可否は問題となららなかった。
写真(右):1945年11月,空襲の受けた前橋市の戦後の様子;1945年8月5日2230、前橋市内4ヶ所に照明弾が投下された。来襲したのはボーイングB-29爆撃機92機で、焼夷弾 691トン、炸裂爆弾17トンが投下され、前橋市の22%が被災し、被災戸数は全市5割以上、被災者人口は全市6割以上という。
Description
English: Maebashi after the 1945 air raid
日本語: 空襲後の前橋
Date
English: November 1945
日本語: 1945年11月
Source
English: Japanese book "Showa History of 100 million people: Occupation of Japan Vol.2" published by Mainichi Newspapers Company.
日本語: 毎日新聞社「一億人の昭和史 日本占領2」より。
Author Unknown
写真はWikimedia Commons, Category:Bombing of Japan in 1945 File:Maebashi after the 1945 air raid.JPG
長崎原爆資料館「C-2 原爆投下への道」では、「1938年にドイツで発見された核分裂は、原爆に応用できることが示唆された。1942年、アメリカはマンハッタン計画(Manhattan Project)をレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の下に発足させ、当時の日本の国家予算をしのぐ巨費を投じて原爆を開発した。原爆はドイツを対象に開発されたが、後に目標を日本に変更、京都など18ヶ所が候補に上がった。結局、1945年8月6日広島、同9日長崎に投下された。原爆投下の理由として、早期終戦のためと言われているが、20億ドルを投じたマンハッタン計画を誇示する目的もあった。また、ソ連との冷たい戦争の最初の作戦という性格も持っていた。」とする。
写真(右):1945年頃、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所、マンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves:1896-1970)准将:ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer:1904-1967)博士など世界的物理学者と共同して、1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードで世界初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆発実験「トリニティ」を成功させた。その威力は高性能爆薬TNT20,000トンの同規模のものだった。
Description
General Groves at Oak Ridge
For more information or additional images, please contact 202-586-5251.
Date 21 March 2013, 16:30
Source HD.30.506
Author ENERGY.GOV
写真は Category:Leslie Groves File:HD.30.506 (10444067994).jpg引用。
広島・長崎への原子爆弾の投下により、大量破壊・大量殺戮を実行したことに関して、連合国市民、連合軍の退役軍人協会などが、正義の戦いのための「当然の犠牲」であるとか、戦争継続によって失われるはずだった命を救ったとか、強弁するのは、死者遺族にとっては納得できないであろう。人命の犠牲の上に、現在の平和と繁栄がある、と主張するのも、違和感が残る。殺害された市民にとって、「言い訳」は、受け入れがたい。
しかし、総力戦にあって、市民といえども、労働力,食料増産,資源燃料の節約、世論形成の面で、戦争に参加している。つまり、総力戦は,敵味方双方にとって、大量殺戮,大量破壊が戦争の形態となる。戦略家は、人々の犠牲もやむをえないことを、当然、受け入れているはずだ。
マンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves)准将のような軍人は、勝つことを最優先し、自国民の犠牲すら厭わない。いわんや原子爆弾投下による敵国市民の犠牲など当然のことだった。ジェームズ・バーンズ(James Francis Byrnes)ジェームズ・バーンズ(James Francis Byrnes)国務長官のように国民を選挙民として常に意識していた老齢な政治家は、敵による民間人,市民の犠牲を非難し、敵愾心を煽るプロパガンダを展開しつつ、残された家族には、遺族年金、勲章・功労賞、慰めの言葉を贈る必要性を十分認識し、原爆投下により外交を有利に展開する事を常に優先していた。
アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 スーパーフォートレス爆撃機:
B-29爆撃機の諸元:全幅:43.1m、全長:30.2m、全高:8.5m、主翼面積:161.5m2、エンジン:R-3350 2200馬力4基、自重:33800kg、全装備重量:54400kg、最大速度:550km/h(高度7600m)、航続距離:5230km上昇限度:10250m、武装:12.7mm50口径機銃12挺(+20mm機銃1丁)、爆弾搭載量:4500kg-9100kg、乗員:11名。アメリカ軍は,1944年7月中旬、マリアナ諸島サイパン島攻略が確実になると、7月21日グアム(大宮)島、7月23日テニアン島に上陸。20日とたたない8月初旬、両島を攻略,大規模な航空基地を建設した。マリアナ諸島攻略によって,11月以降、戦略爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」大編隊による日本本土空襲が本格化した。
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アメリカ軍は、1944年7月23日にテニアン島に上陸、飛行機格納庫は、破壊されていたが、滑走路、司令監視塔、コンクリート製建物を接取。日本軍は,まるで、アメリカ軍のために航空基地を整備したようなものだった。アメリカ軍は、1944年8月3日にテニアンを占領した。そして、アメリカ軍はテニアン島上陸直後から、海軍建設大隊によって日本軍の建設したバコイ飛行場を整備し、接収から1週間後には戦略爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」の試験的運用を開始した。
アメリカ軍は,テニアン島北飛行場を大幅に拡張して「ノースフィールド基地」として整備。ここから、戦略爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」が本土空襲に、原爆投下に飛び立った。グアム島にも海軍シービーズ建設部隊が進出,B-29爆撃機が使用できる「ノースフィールド基地」を完成。 マリアナ諸島から日本本土までの長距離爆撃は、途中の天候・気象条件の変化に即応することが難しく、高高度からの航空機工場などへの精密爆撃は、命中精度が低かった。
アメリカ軍による日本本土空襲による殺害率(キルレート)は、アメリカ人3000人対日本人30万〜50万人であり、100-180倍もあり、破壊家屋・工場を含めれば,B-29爆撃機500機弱の損失に比べて、大戦果をあげた。対日戦争に勝利をもたらした最大の要因は,米軍によれば,日本本土空襲、原爆投下、無制限潜水艦作戦による交通破壊とされ、日本の政治家・軍人に衝撃を与えたソ連の対日参戦、満州侵攻は無視している。
1942年8月13日、レスリー・グローブズ准将をマンハッタン管区最高司令官に、オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として「マンハッタン計画(Manhattan Project)」が始動。
1944年9月19日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間のハイド・パーク協定で、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更。
1945年4月27日、第一回の目標委員会(Target Committee)では、京都、広島、横浜、小倉の4 都市が選定。
1945年5月4日,スチムソン陸軍長官は,陸・海・国務3省および原爆科学者の幹部からなる暫定委員会を設置。
1945年5月28日、原爆の効果を正確に測定できるよう、投下目標都市に対する空襲が禁止。
1945年6月1日、ジェームズ・バーンズ国務長官(トルーマンの先輩上院議員)など暫定委員会は「日本に対してすみやかに原爆を使用すべきこと。それは,労働者の住宅に囲まれた軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきこと。原爆投下の事前の警告なしに使用するべきこと。」とした。これは、原爆の威力実証、対ソ連圧力外交としての原爆示威、早期の日本降伏を意図した結果であろう。
1945年7月16日、ニューメキシコ州、アラモゴードで、世界初の原子爆弾の爆発実験「トリニティ」に成功。ポツダム会談参加のためにドイツに出向いていたトルーマン大統領に伝えられる(「無事出産。結果は予想以上。」)。
写真(上左):1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、原子爆弾の爆発実験「トリニティ」:Atom Bomb Explosion, Test at Alamagordo, New Mexico.
Date: ca. 1945
Related Collection: Robert A. Lovett Papers
ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945
HST Keywords: Atom Bomb
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 61-53引用。
写真(上右):1945年8月6日0815、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「エノラゲイ」が広島市に投下したウラン型原爆「リトルボーイ」の原子雲(キノコ雲):広島での原爆爆発直後、爆数の乱気流の中で生じた灰色の原子雲が、上昇気流に吹き上げられ、投下5分で直径5kmに広がり、雲の中心から白い煙の柱が立ち上り、やがて1万7,000メートルに達した。原子雲の頂上が広がったため、キノコ雲と呼ばれる。爆心地点を中心に半径2kmの範囲の木造家屋は全壊・全焼し、倒壊しなかったコンクリート製建築物もガラス窓は吹き飛び、内部で火災が発生した。爆心地近くの木造家屋は、閃光の熱線で直接燃焼した。At the time this photo was made, smoke billowed 20,000 feet above Hiroshima while smoke from the burst of the first atomic bomb had spread over 10,000 feet on the target at the base of the rising column.Two planes of the 509th Composite Group, part of the 313th Wing of the 20th Air Force, participated in this mission, one to carry the bomb, the other to act as escort.
National Archives Identifier: 542192
Local Identifier: 342-AF-58189
This item was produced or created:
8/6/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 542192
NAIL Control Number: NWDNS-342-AF-58189 引用。
5. 1945年7月25日、日本本土への原爆投下命令がだされた。その翌日26日、日本への降伏勧告のポツダム宣言が公表された。このポツダム宣言を黙殺したから、日本に原爆投下されたという俗説は、誤りである。原爆投下命令書に大統領の署名はなく、マンハッタン計画の指揮官のグローブズ准将が作成したものでハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領の署名はなかった。原爆投下は、都市無差別爆撃の延長線上に、疑問の余地無く、遂行された。原爆投下の可否が議論されたのは,戦後になってからのことである。これは、原爆投下の非人道性が明らかになったためである。
陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ(Thomas T. Handy)大将は、1944年2月8日,米陸軍参謀本部の難民非救援指示書:Memorandum for the Chief of Staff, February 8, 1944, on reassuring the British that military forces will not be used to rescue refugeesによって,難民を救援しないことを次のように指示していた。
欧州に戦禍が拡大し、難民が大量発生しても、彼らを救済することは、軍本来の職務である作戦行動に障害になる。そこで、英国軍と歩調を合わせて、難民を救援しないことを方針とした。Regarding the enclosed memorandum from the Office of the Chief of Staff dated 7 February 1944 on above subject, it appears highly desirable to communicate with the British Government offering assurance that military forces, units or individuals will not be used in rescuing refugees except insofar as these rescues may result from planned military operations conducted to defeat the Axis military.
米軍にとって,敵民間人への人道的配慮はもともと無かったのであり,原爆投下が終戦得和平に結びついたおかげで、米国将兵、日本将兵、戦渦に巻き込まれ犠牲となる民間人の生命をも救った、との原爆終戦和平説の真偽は、この難民非救援措置を見ても明らかであろう。
写真(右):1948年4月5日,テキサス州サンアントニオ、アメリカ戦艦「テキサス」USS TEXAS (BB-35)の退役・記念展示セレモニーに出席するために飛行機でケリー・フィールドに到着したアメリカ海軍チェスター・ニミッツ(Chester W. Nimitz)提督(左。中央奥は、アメリカ陸軍第四軍司令官トーマス・ハンディ(Thomas Handy)大将(中央奥)と(左):1945年初頭、トーマス・ハンディ(1892- 1982)大将は陸軍参謀総長代理として、原爆投下命令に署名した。戦艦「テキサス」は、戦後しばらくメリーランド州ボルティモアに繋留されていたが、テキサス州サン・ジャシント州立公園に記念館として保存展示されることとなった。1948年4月21日に退役、4月30日に除籍。4月21日は1836年にサンジャシントの戦いが行われ、テキサス独立戦争の趨勢が決定づけられた記念すべき日でセレモニーが行われた。
Title: USS TEXAS (BB-35)
Caption: Fleet Admiral Chester W. Nimitz, USN, lands at Kelly Field, San Antonio, Texas, on 5 April 1948, for ceremonies presenting USS TEXAS (BB-35) to the state of Texas as a lasting memorial. In center is General Thomas T. Handy, USA, COMMGEN of 4th US Army.
Description: Courtesy of Fleet Admiral Nimitz
Catalog #: NH 58192
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Creator:
Original Date: Mon, Apr 05, 1948
写真は Naval History and Heritage Command NH 58192 USS TEXAS (BB-35)l引用。
1945年7月25日、陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ(Thomas Handy)大将発・宛合衆国陸軍戦略航空団司令カール・スパーツ(Carl "Tooey" Spaatz)大将への原爆投下の命令書ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB(スパーツ大将は、太平洋戦略航空軍の指揮官として、7月にグアムの本部に赴任中)。
1.第20航空軍第509混成部隊は1945年8月3日以降、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに原爆を投下すること。原爆効果確認のため、(レーダー爆撃ではなく)必ず目視爆撃をし、観測用航空機を随伴させること。
⇒筆者注:現地指揮官に、原爆の実戦効果を明確に記録することを指示したのは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説を裏付ける。
2.追加爆弾は準備完了後すみやかに上記目標に投下。
⇒筆者注:現地指揮官の判断で随時、原爆の連続投下が可能。米大統領や統合参謀本部は、米軍の威力を見せつける原爆連続使用を望んだ。このことは、原爆投下が、米世界覇権説、米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説を裏付ける。
3.原爆使用について、情報の配布は国防長官および合衆国大統領により留保される。この件に関するいかなる文書または情報の公表も、当該部局の許可なしには行なってはならない。すべての報道文を特別検閲のため国防省に送ること。
⇒筆者注:秘密兵器の原爆について、情報管理を行い、原爆投下方法も含め,原爆技術を秘匿し、他国への漏洩を防いだ。これは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。原爆投下の可否ではなく、原爆の技術に注目している点で、戦略爆撃延長説をも支持する。
4.以上は陸軍長官および合衆国参謀総長の指示と承認のもとに発せられたものである。本命令書の複写を、マッカーサーとニミッツの両陸海軍元帥に、貴官から手交すること。
⇒筆者注:太平洋戦線の陸海最高位の指揮官にすら、原爆投下の事前通告をしていない。原爆情報の集中管理は、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。戦後、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥が原爆投下を非人道的であるとして非難したが、これは、自分を無視して行われたマンハッタン計画と原爆投下への反感からであり,人道的な配慮からではないだろう。朝鮮戦争の時、米軍・国連軍の前線指揮官として、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥は、中国への原爆投下を提案している。
署名 陸軍参謀総長代理 Thomas Handy 副署 Groves
⇒筆者注:原爆投下命令書には、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領の署名はない。陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ(Thomas T. Handy)大将の署名だけで十分だったのは、原爆投下自体、議論の末に行われたことではないことを示している。将軍の最低ランクのレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将が作成しているが、マンハッタン計画にかかわった軍事指揮官の影響力がつよければ、20億ドルを投じた原子爆弾を使用しないで済ませるはずがない。これは、原爆投下の理由が、米新兵器実験説,米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説であることを裏付ける。
原爆投下目標選定委員会も組織され、バーンズ国務長官、スチムソン陸軍長官らが主導したが、原爆は当初から、どこに、どのように投下するかだけが議論されていた。投下の是非をめぐる議論は、原爆投下目標選定委員会でも大統領を交えた話し合いでも出なかった。最新の軍事機密を体現した原爆の仕組みや開発の実態について、全体像を把握していた人物はごく少数で、科学的理解が可能だった人物はさらに限られていた。
秘密兵器原爆を手中に収めていた「マンハッタン計画(Manhattan Project)」の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の影響力は、原爆投下準備を進めるに当たって絶大である。
1945年7月25日のハリー・トルーマン(Harry S.Truman)大統領の日記には、女子供への被害を少なくするように、軍事目標に投下するように,ヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)陸軍長官には言ってある、との記載がある。原爆投下される日本人が被る苦しみについて、軍事に暗い大統領は、原爆被害との関連で、投下が意味することを把握できなかったようだ。
ハリー・トルーマン大統領は、自分が副大統領時代に開始された「マンハッタン計画(Manhattan Project)」について、ルーズベルト大統領からは何も知らせれていなかったし、その後の原爆投下にも大きな役割を果たしていない。トルーマン大統領は、スチムソン陸軍長官、バーンズ国務長官など有能な部下たちの提案を承認しているだけ----というような印象を受ける。未知の兵器原爆について、その仕組みはもちろん,世界への影響について、理解し切れなかったとしても無理はない。
1945年7月25日、原爆投下命令書;ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB
Handy to Spaatz, National Archives (July 25, 1945)
25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces
1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. To carry military and civilian scientific personnel from the War Department to observe and record the effects of the explosion of the bomb, additional aircraft will accompany
the airplane carrying the bomb. The observing planes will stay several miles distant from the point of impact of the bomb.
2. Additional bombs will be delivered on the above targets as soon as made ready by the project staff. Further instructions will be issued concerning targets other than those listed above.
3. Discussion of any and all information concerning the use of the weapon against Japan is reserved to the Secretary of War and the President of the United States. No communiques on the subject or releases of information will be issued by Commanders in the field without specific prior authority. Any news stories will be sent to the War Department for specific clearance.
4. The foregoing directive is issued to you by direction and with the approval of the Secretary of War and of the Chief of Staff, USA. It is desired that you personally deliver one copy of this directive to General MacArthur and one copy to Admiral Nimitz for their information.
(Sgd) THOS. T. HANDY
THOS. T. HANDY
General, G.S.C.
Acting Chief of Staff
copy for General Groves ( atomic bomb:
decision引用。)
写真(右):1945年8月6日、広島に原子爆弾を投下しテニアン島に帰投したボーイングB-29 爆撃機「エノラ・ゲイ」:写真にある署名は、B-29「エノラ・ゲイ」の機長・操縦士ポール・ティベッツ(Col. Paul Tibbets, Jr., pilot; Capt. )大佐、航法士ヴァン・カーク大尉(Capt. Theodore Van Kirk, navigator)、レーダー手リチャード・ネルソン一等兵(PFC Richard Nelson, radar operator)、爆撃手トーマス・フェレビー少佐(Major Thomas Ferebee, bombardier)、機銃員ジョージ・キャロン軍曹(Staff Sgt. George Caron, gunner)、レーダー警戒要員ジャコビ・ベサー中尉(First Lieutenant Jacob Beser, radar countermeasure observer)。
Description: A photograph of the Enola Gay, the Airplane used to drop the first atomic bomb on Hiroshima on August 6, 1945, sitting on an airfield. The photograph bears six signature (copies) of the men who were aboard during its flight as follows: Col. Paul Tibbets, Jr., pilot; Capt. Theodore Van Kirk, navigator; PFC Richard Nelson, radar operator; Major Thomas Ferebee, bombardier; Staff Sgt. George Caron, gunner; and First Lieutenant Jacob Beser, radar countermeasure observer. The original picture with the original autographs is owned by the family of Inguanez. From: Dr. Marcel-Dingli-Attard-Inguanez.
Date: ca. 1945
HST Keywords: Airplanes - Enola Gay; Atom Bomb; Autographs - Beser, Jacob; Autographs - Caron, George; Autographs - Ferebee, Thomas; Autographs - Nelson, Richard; Autographs - Tibbets, Paul, Jr.; Autographs - Van Kirk, Theodore; Enola Gay
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2003-150引用。
1945年7月26日,ポツダム宣言(Potsdam Declaration)。
1945年8月6日、広島に原爆投下。原爆投下の可否など公に議論されたことなどない。原爆をどこにどのように投下するかが議論され、それがトルーマン大統領に報告されただけである。原爆投下の決定は、ハンディ参謀総長代理がマンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves)准将の作成した命令書で決定していた。
ハリー・トルーマン大統領の1945年7月25日の日記/Harry S. Truman, Diary, July 25, 1945
This weapon is to be used against Japan between now and August 10th. I have told the Sec. of War, Mr. Stimson, to use it so that military objectives and soldiers and sailors are the target and not women and children. Even if the Japs are savages, ruthless, merciless and fanatic, we as the leader of the world for the common welfare cannot drop that terrible bomb on the old capital or the new. (この兵器は8月10日までに日本に対して使用される。ヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)陸軍長官には、女子供ではなく軍事目標と兵士・水兵を目標に狙えと言ってある。喩えジャップが野蛮人、無慈悲、冷酷で狂信的だったとしても、我々は世界のリーダーとして、共有すべき福利を尊ぶから、古都や東京に原爆を投下することはできない。)
He and I are in accord. The target will be a purely military one and we will issue a warning statement asking the Japs to surrender and save lives. I'm sure they will not do that, but we will have given them the chance. It is certainly a good thing for the world that Hitler's crowd or Stalin's did not discover this atomic bomb. It seems to be the most terrible thing ever discovered, but it can be made the most useful...(目標は純軍事的なものであり、日本に降伏するように勧告もしよう。彼らは降伏しないはずだが、我々は彼らに機会を与えてやったことにはなる。ヒトラーとスターリンが原爆を開発してないことは、世界にとって喜ばしい。これは、発見された中で最も悲惨なものであるが、最も役に立つものでもある-----)(引用終わり)
6. 1945年8月6日、マリアナ諸島テニアン島を飛び立ったアメリカ陸軍第509混成部隊(509th Composite Group)B-29 爆撃機「エノラゲイ」によって、広島にウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」が投下された。
写真(右):1945年8月、テニアン島、原子爆弾「リトルボーイ」L-11を飛行場に掘ったピットからボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」に搭載した。;原子爆弾をボーイングB-29「エノラ・ゲイ:Enola Gay」に搭載するには、胴体下と滑走路との間(クリアランス)が狭いので,穴(ピット)に原子爆弾を入れ,そこから持ち上げてB-29の胴体に搭載した。これとは別に、2発目のプルトニウム型原子爆弾「ファトマン」用のピットもある。2004年6月、原爆投下記念碑、原爆部品を揚陸後日本潜水艦に撃沈された重巡「インデイアナポリス」追悼碑、広島に原爆投下したティベッツ以下三名の元B29乗員テニアン来島記念碑、そして、広島原爆ピット(Pit No.1)と長崎原爆ピット(Pit No.2)の除幕が行われた。
Description :English: This shows "Little Boy" being raised for loading into the Enola Gay's bomb bay. (Photo from U.S. National Archives, RG 77-BT)
Date 1945
Source National Security Archive
Author US Army
写真はWikimedia Commons, Category:Little Boy File:Little Boy being raised for loading into the Enola Gay's bomb bay.jpg引用。
1995年の原爆投下50周年特別展では、広島原爆投下機ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ:Enola Gay」の機首のみが展示された。1998年にこの展示は終了して、「エノラ・ゲイ」の完全復元作業が開始された。2003年12月15日、ワシントン国際空港Washington Dulles International Airportのスミソニアン航空宇宙博物館の別館ウドヴァール・ヘージーセンター(展示103)Steven F. Udvar-Hazy Center:Exhibition Gallery 103で完全復元展示されている。
写真(上):2009年8月、アメリカ、バージニア州フェアファックス、スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センター、広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の復元・展示:1995年の戦勝50周年の時には、ボーイングB-29「エノラ・ゲイ」は、機首部分のみ復元・展示された。当時のエノラ・ゲイ展では、博物館側は、エノラ・ゲイとその投下した原子爆弾の威力だけでなく、原爆被害も同時に展示しようとしたため、退役軍人から大きな反対を受けた。また連邦議会からも圧力がかかり、被害展示はなされなかった。2003年12月15日、ワシントンDCのスミソニアンにある航空宇宙博物館別館ウドヴァール・ヘージーセンターにてエノラ・ゲイ展のオープニングセレモニーが開催された。完全に復元された広島原爆投下機ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ:Enola Gay」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。
Description
English: Main section of Steven F. Udvar-Hazy Center
Date 22 August 2009
Source Own work
Author Jarek Tuszyński
写真はWikimedia Commons, Category: Enola Gay in Steven F. Udvar-Hazy Center File:NASM - Steven F. Udvar-Hazy Center.jpg引用。
スミソニアン航空宇宙博物館ウドヴァール・ヘージーセンター(展示103)原爆投下第一号機「エノラ・ゲイ」解説(Statement on Exhibition:Boeing B-29 Superfortress Enola Gay)は、次のように述べている。
ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(Boeing B-29 Superfortress)は、第二次世界大戦中の巧妙なプロペラ推進の爆撃機である。爆撃機として初めて与圧室を備え、高高度飛行での上院の活動を容易にしている。もともとヨーロッパ戦線に投入する計画だったが、実際にはB-29は、地球の反対側に出現した。太平洋でB-29は航空兵器として戦いに加わり、通常爆弾、焼夷弾、機雷、そして2発の原子爆弾を投下した。
1945年8月6日、マーチン社で製造されたこのB-29-45-MO(エノラゲイ)は、日本の広島に対して、世界で初めて原子爆弾を投下した。3日後には、「ボックスカー」Bockscar (オハイオ州、デイトン近くのアメリカ空軍博物館に展示)が二発目の原子爆弾を、日本の長崎に対して投下した。三期目のB-29「グレートアーチスト」Great Artisteは、両方の作戦に観測機として同行した。
アメリカ空軍によるデータ
全幅 : 43 m (141 ft 3 in)
全長 : 30.2 m (99 ft)
全高 : 9 m (27 ft 9 in)
空虚重量 : 32,580 kg (71,826 lb)
総重量 : 63,504 kg (140,000 lb)
最高速度 : 546 km/h (339 mph)
エンジン :ライト R-3350-57 サイクロン・ターボ過給機付空冷星形エンジン2,200 馬力4基
乗員 : 12 人(広島への出撃時)
武装 : 0.50インチ(12.7ミリ)機銃2丁
兵装 : リトルボーイ"Little Boy"原子爆弾
製造 : マーチン社ネバダ州オマハ工場 1945年 A19500100000
写真(右):1945年8月頃、原爆を投下する広島の爆心地を中心に同心円を描き、範囲内の被害効果を検証するアメリカ軍の空中偵察写真。四角い堀に囲まれたや太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが識別できる。広島城には、中国軍管区司令部(防空作戦室)があった。
Description: Area of devastation by the atomic bombing of Hiroshima, Japan.
Date: ca. 1945
Related Collection: Robert A. Lovett Papers
ARC Keywords: Aerial photographs; Atomic bomb; World War, 1939-1945; Hiroshima-shi (Japan) bombardment, 1945
HST Keywords: Atomic Bomb- Hiroshima
People Pictured:
Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 61-54引用。
1945年1月、広島の留守第五師団は福岡の西部軍管に組みこまれ、中国軍管区司令部と改称され、広島城の第五師団司令部は無くなっていた。しかし、戦争末期のことであり、広島県民にとって、広島城では、依然として第五師団司令部の名称で認識されている。旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)は、原爆の爆風圧と熱線であとかたもなく消滅してしまったが、その一角の半地下式壕の防衛司令室 (通信室) は焼失をまぬがれた。この通信壕にあった情報室には当時、学徒動員の比治山(ひじやま)高等女学校三年生90人が24時間三交代制で勤務していた。
旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)には、半地下式の防空作戦室で軍人、軍属に混じって学徒動員された比治山高等女学校(第5期生など)の女学生90名が昼夜3交替体制で働いていた。原爆が投下され、市内の電信電話が破壊されたものの、旧第五師団司令部の軍事専用電話は残っており、それを使って女学生が広島の壊滅を九州と福山司令部に連絡がした。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。現在でも、半地下式防空壕は、広島護国神社境内の東南角地に保存されている。
写真(右):1945年8月6日、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「エノラゲイ」が投下したウラン型原爆「リトルボーイ」で壊滅した広島:
Description:Aerial view of Hiroshima depicts the terrific destructive force of the atomic bomb. This includes a duplicate photo and negative. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946.
Date: ca. August 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Aerial photographs; Atomic bomb; World War, 1939-1945
HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Hiroshima
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2459引用。
広島市内には、太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが幾筋もの川が流れている。原爆の爆心地は、相生橋の南東で、B-29 爆撃機「エノラゲイ」の投下目標は、相生橋だった。しかし、投下後、上空の風で南東に300メートルの流された。相生橋は、広島市中心街の太田川が分岐する地点にあり、形状がT字型であったため、上空からでもその特徴がよく把握できた。目視の投下目標としては容易に判別できるため、中心街に落とすには最適な目標だった。
爆心地から300メートルの相生橋は、衝撃波に襲われ、北側の欄干は川に落ち、歩道の一部が持ち上がってしまった。また、相生橋の橋桁は、鉄製で持ちこたえたが、変形してしまった。戦後、被爆した相生橋は、復旧工事が施され長らく使用されたが,老朽化が進んだため1983(昭和58)年、新しい橋に架けけ替えられた。被爆資料として、原爆資料館に破損した橋桁が展示されている。
写真(右):1945年8月、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「エノラゲイ」が投下したウラン型原爆「リトルボーイ」で壊滅した広島:ロバート・ヘイガン(Robert Emmet Hannegan :1903-1949) は、アメリカのミズーリ州の政治家で1943年10月から1944年1月まで国内徴税の担当で、1944年から1947年には民主党国務委員会、郵政長官として活躍した。戦後の1946年7月、彼は東京にあったアメリカ陸軍司令部を訪問した。その時にこの写真スクラップが彼に手渡された。
Description: Hiroshima on Honshu Island lies in ruins as a result of August, 1945 atomic bombing that hastened Japanese capitulation. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946.
Date: ca. August 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945; Hiroshima-shi (Japan) bombardment, 1945
HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Hiroshima
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2460引用。
1945年8月6日0815:アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊のボーイングB-29「エノラ・ゲイ:Enola Gay」が31600フィートから原子爆弾を広島に投下。50秒後に爆発。市街の80%を破壊し、7万1,000任意上を殺戮。
写真(右):1945年8月、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「エノラゲイ」が投下したウラン型原爆で壊滅した広島:原爆ドームは平和公園とは元安川で分かれており、灯篭流しなど原爆の日に関するイベントは、元安川を中心に開催される。東岸の土手も平和大通まで整備され、春は花見客が両岸にあふれ、夏はストリートアクターで賑わう。この中心が、元安橋の袂、東岸である。
Description: Another view of Hiroshima, showing devastation caused by first atomic bomb dropped on Japan in August, 1945. This includes a duplicate photo and negative. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946.
Date: ca. August 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2461引用。
重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ:Enola Gay」によって広島に投下されたウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」は、ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。爆発は,ガンバレル方式で、ウランを半球に二分して、爆弾筒の両端に設置して、投下時に起爆装置を使って片方を移動させて合体させることで、超臨界に達せさせる。
長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」は、長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。爆発はインプロージョン方式で、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬の爆発によって位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し超臨界にいたる。
原爆が爆発するためには、核分裂によって生まれた中性子が次の原子核に吸収され、連鎖反応を起こすことが必要で,連鎖反応が起きる核分裂物質の最小量(臨界量)は、ウランの場合は90%以上の高濃縮ウラン235が15kg、プルトニウムの場合も94%以上のプルトニウム239が5kgは必要とされる。
写真(右):1945年9月、アメリカ陸軍航空隊第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「エノラゲイ」によりウラン型原爆を投下され焦土となった広島と立ち尽くす日本兵:広島市内には、太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが幾筋もの川が流れている。原爆ドームは平和公園とは元安川で分かれており、灯篭流しなど原爆の日に関するイベントは、元安川を中心に開催される。
東岸の土手も平和大通まで整備され、春は花見客が両岸にあふれ、夏はストリートアクターで賑わう。この中心が、元安橋の袂、東岸である。
Title: Hiroshima, Japan
Caption: A Japanese soldier walks through the atomic-bomb leveled city, September 1945. Photographed by Lieutenant Wayne Miller, USNR.
Catalog #: 80-G-473733
Copyright Owner: National Archives
Original Creator: Photograph by Lieutenant Wayne Miller, USNR.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-473733 Hiroshima, Japan引用。
1945年8月7日1530,大本営発表「1. 昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
2. 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」
原爆かどうかを調べるために、海軍の呉鎮守府調査隊が1945年8月7日に広島入りし、未使用のエックス線フィルムが感光していたことなどから「ウラン爆弾と推定できる」と8日付で報告した。また、京都帝国大荒勝文策教授を中心とした調査団6人は海軍の要請を受け、1945年8月10日、広島に入った。そして、海軍の調査団と合流し、8月14日までに計二回、土壌調査を実施。8月15日付で海軍技術研究所に「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンケツス」の緊急電報を発信。受け取った海軍は「新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス」の一文を電報に書き込んだ。(⇒中国新聞'05/7/24「被爆9日後の電報」引用)
写真(右):1945年8月6日、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「エノラゲイ」が投下したウラン型原爆で壊滅した広島を戦後になって訪問したアメリカ海軍の将兵たち:1945年9月3日の東京湾上、戦艦「ミズーリ」艦上の日本降伏調印式の後、広島を訪問した海軍艦艇の将兵たち。
Title: UA 563.14 Janet Ish Bennett Collection
Caption: Collection Photo UA 563.14.01 - Damage in Japan after nuclear bombings
Description: Black and white photos from William Francis Ish taken during WWII. Photos show: Crossing the line, USS Landsdowne (DD-486), Japanese officials from the WWII surrender ceremony in Tokyo Bay, scenes ashore in Japan, USS Buchanan (DD-484), USS Medea (AKA-31), USS Nicholas (DD-449), LCI-599, unidentified Pacific island post-battle scenes, Rome and scenes in Italy, numerous identified warships.
Accession #: UA 563
Catalog #: UA 563.14
Tags: atomic_bomb, ship_type/destroyer, NHHC_Tags:conflicts-and-wars/world-war-ii-wwii, NHHC_Tags:phototags/celebrations-ceremonies/crossing-the-line, NHHC_Tags:phototags/celebrations-ceremonies/surrenders, ship_type/cargo_ship
Donor: Janet Ish Bennett
Copyright Owner: NHHC
写真はNaval History and Heritage Command UA 563.14 Janet Ish Bennett Collection 引用。
日本の軍部・政治的指導者は、原爆の威力の一端を認識したが、被害は、他の諸都市への無差別爆撃と同じく「広島市が焦土化した」に過ぎない。原爆を特別視することはなかった。連敗続きで一億特攻を呼号する軍部・政治的指導者は、日本の諸都市が焦土となることを受入れており,原子爆弾が中性子をぶつけ原子核を分裂させる原子核分裂によって、結合エネルギーを外部に大量放出する爆弾であることを理解したものはいなかったであろう。政治家や軍人が理解しがたい原爆の威力に怯えて,降伏することはありえない。
写真(右):1945年9月頃、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「エノラゲイ」が投下したウラン型原爆で壊滅した広島市中心街の「広島県産業奨励館」。この建物が、戦後復興の最中から「原爆ドーム」と呼ばれるようになる。:原爆ドーム
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
National Archives Identifier: 39147856
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03734
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
Type(s) of Archival Materials: Photographs and other Graphic Materials
This item was produced or created:17/3/1948
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 39147856 引用。
原爆ドームは、広島県物産陳列館として1915(大正4)年に竣工した。その後、1921年に広島県立商品陳列所、1933年に広島県産業奨励館に名称変更。1944年3月からは、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材・日本木材広島支社などの物資統制・業界統制のための事務所となる。原爆投下時、館にいた30名余は全員死亡と思われる。爆心地に近く真上からの爆風だったため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠も燃え残った。占領後に「原爆ドーム」という名称が定着した。
写真(右):1945年9月頃、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「エノラゲイ」が投下した原爆で破壊された広島。奥には、原爆ドームが見える:
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
National Archives Identifier: 22345671
Local Identifier: 243-HP-I-31-2
Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent)
From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947
ARC Identifier: 22345671
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 540225引用。
世界の原爆投下記念碑として有名な広島市「原爆ドーム」は、1915年(大正4年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建設され、広島県美術展覧会、博覧会の会場ともなった施設で、本来は、 「広島県物産陳列館」という名称である。しかし、その後、広島県立商品陳列所、1933年(昭和8年)には「広島県産業奨励館」に改称されている。設計者のチェコ人建築家ヤン・レツルは、鉄骨・煉瓦造の構造に、石材・モルタルの外装で、中央部分5 階建の階段室と、その上の銅板の楕円形ドーム(長軸11メートル、短軸8メートル、高さ4メートル)がある。当時の広島市の建築物は、この中心街でも木造2階建てどまりであり、「広島県物産陳列館」のヨーロッパ風の様式は、広島名所の一つになった。しかし、1945年8月6日午前8時15分、広島県産業奨励館から南東200メートル、高度 600メートルで、世界初の原子爆弾が爆発した。熱線が放出され 風速440メートルの爆風は、1平方メートル当たり35トンの圧力だった。「広島県産業奨励館」は全焼したが、爆心地近くで、爆風が垂直に吹いてきたために、本館は倒壊しなかった。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。右奥には、原爆ドームが見える
[Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-360. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147834
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03723Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 39147834引用。
東友会「被爆証言」の「高橋一さんの被爆証言」 には、次のようにある。
陸軍鉄道部隊兵士として従軍、広島市楠町にあった中学校校舎を借りた仮兵舎で被爆。戦後も原爆後遺症病気・生活・心の苦しみが続く。2006年10月8日に亡くなられました。
・原爆は、からだ・くらし・心のなかにまで
被爆した所は、爆心地から1.8キロメートル、広島市楠木町3丁目で、旧崇徳中学を仮兵舎に使用していた鉄道部隊、線13352部隊の兵舎の2階です。一瞬、気を失って何も記憶がありませんが、木造2階建ての兵舎は倒壊し、2時間後には完全に焼失していました。失神していた私を、戦友のだれかが救け出してくれたはずですが、その命の恩人の名はついにわからずじまいです。
私はその翌日、太田川の土手で意識がもどりましたが、もうろうとして、何が起ったのか、まして原爆が落ちたなんて夢にも思いませんでした。広島市の北、安佐郡安村国民学校で傷の手当を受け、治療も不十分なまま、10月末に復員、帰京しました。
数年ぶりに東京の新橋駅ホームに降り立ったとき、目に入る変りはてた東京の姿には、しばらく立ちつくしてしまいました。戦争が、終わった喜びも、軍隊から解放されたうれしさも、気の抜けた思いで焼跡を眺めていました。川口市の妹の家に一時、厄介になることにしました。思った以上にひどい食糧難で空きっ腹を満たすことはとてもできませんでした。28歳の独身者、軍隊で無駄に過ごした数年間を取りもどすため、盗み以外はなんでもするつもりで必死に働きました。数年後、やっと池袋に20数坪の土地と粗末な家を持つことができ、長男も生れ元気に成長し、幸せな将来も感じられる日を迎えることができました。
被爆後5年ぐらいたったときでした。夏の終わり、体にだるさを感じるようになりましたが、働きすぎぐらいに思っておりました。けれど、だるさは日増しに強く、食欲もだんだんなくなり、2カ月くらいすぎたころには、立っているだけでも辛く、仕事もできず、不安の日々を過ごすようになりました。そして、頭にぼつぼつの吹き出物が出始め、だんだん増えて、ついに頭全面に広がり、そのウミが顔にまで垂れるようになりました。そのかゆさは一通りではないのです。そんな折も折、半年ほど前に、私が銀行の保証人になっていた建築請負業の友人が借金したまま雲隠れしてしまい、私は何回も銀行に支払いながら行方を探す破目に追い込まれました。降って湧いたような思わぬ出来事に、世間知らずの自分を嘆く暇もなく、早急に住み家を売る決心をしました。せめて銀行の取り立てがゆるやかなうちにと思ったのです。
自分の病気療養と3歳になる息子のためにもと思い、緑の多い練馬区に手ごろな中古の家を見つけて引越しました。この環境のよい所で静かに療養すれば、1、2年もすれば元の身体にと思ったのです。しかし、2年たっても、相変わらず膿と痒さとだるさに悩まされつづけました。小康を得ても、またぶり返す。そのくり返しで気力もなくなる。床に寝つくほどのこともなく、ただぶらぶらと一日を過ごす。世間でいう原爆ぶらぶら病です。見かけより、とっても辛いものです。
全く収入のない今、家を売って残ったわずかな手持ちも、だんだんと残り少なくなります。家内が生活の足しにと精出す造花の内職の収入ぐらいでは、子どものお菓子代にしかなりません。 そのころ、アメリカから輸入された抗生物質ペニシリン軟膏が、痒み止めにすごく効きました。数カ月使いましたが、当時、とてつもなく高価でした。使いましたその間、痛みからずいぶん解放されましたが、効きめの少なくなったことを理由に、ペニシリンの塗布を中止しました。
家内は中止の理由がわかっていたようで、悲しげに私の頭を見つめながら何か心に決しているようでした。 練馬に来て1年くらいたったころは、高い薬を買ったゆえか、手持のお金も底が見えてきました。家内も何回か田舎の姉妹からお金を送ってもらっていたようでした。 炭やお米のほか、いろいろまとめ買いをすることもあります。そんなあるとき、家内がぽつりと、「あなたが被爆者なんて知らなかったわ」 「それに、田舎の親も、とても不服に思っている」と、もらしました。あのときほど、家内の顔がうらめしく、いやみに見えたことはありません。同じ部隊の被爆した戦友が離婚した原因も、どうも結婚前に被爆者だと言わなかったことのようでした。再婚したかどうかは定かではありません。
しかし、私の家内は今日まで、わがままな自分をよく支えてきてくれました。 生活の手段は借金に頼るしかない。金利のかからない身内から借りるしかありません。弟にも数回頼んで、その額もかなりになっています。弟は、永福町で小さなブティックの店を営んでいますが、手形を落とす時期にはだいぶ苦労しているのが、なんとなくわかるものです。けれど催促されたことは一度もないだけに、かえって心が痛みます。
「原爆症は伝染しないでしょうね」 「奥さんは一人で苦労をさっているのに、ご主人は毎日ぶらぶらしているが、ほんとうに具合が悪いのかしら」 「働く気がないんじゃないの」近所の人のひそひそ話が最近はとても気になるようになりました。この家を売って、近所のうわさ話と借金を返済し、気分的に楽になれたら、病気の方も少しはよくなるんじゃないのか?家内もそんなふうに考えていたようでした。
それから半年くらいたって、下石神井の家を売り、弟や、田舎へ、それぞれ少しばかりのお礼の利息をつけ、借金を全部返済しました。家は失いましたが、何かすっきりとした思いです。気のせいか、病気の方も快方に向っているように感じられました。
あの一発の原子爆弾のため、亡くなった多くの方々はもとより、私のように経済的、肉体的にも悩んでいる人、いつ発病するかの不安の日々を送る人もたくさんいます。それ以後も、3回も似たような症状で病院に通いましたが、1ヶ月ぐらいで治りました。しかし、あのときの二の舞いではと、ほんとうに不安を感じます。原爆とは、気長につき合っていくほかなさそうです。
憎んでもあまりある原爆です。憎さと恐ろしさを忘れないために、そうさせられるのでしょうか。50数年経った今も、まだ世界は、とくにアメリカ、フランスなどの核保有国は軍拡競争に、新たな国まで参加して…。この軍拡競争にストップをかけるのは、だれよりも、被爆者がやらなければと思います。
年々高齢化する被爆者の、最後のたたかいになるのかも知れない。生命ある限りがんばりたいと思っています。命をたすけてくれた戦友のためにも、被爆の証言をして核兵器廃絶に少しでも役立てればと思います。 「越智晴子さん 直接被爆・距離1.7km(千田)被爆時22歳」引用終わり。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。:広島城跡にあった旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)は、原爆の爆風圧と熱線であとかたもなく消滅してしまったが、その一角の半地下式壕の防衛司令室 (通信室) は焼失をまぬがれた。この通信壕にあった情報室には当時、学徒動員の比治山高等女学校三年の生徒90人が24時間三交代制で勤務していた。ここには半地下式の防空作戦室で軍人、軍属に混じって学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆が投下され、市内の電信電話が破壊されたものの、旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)の軍事専用電話は残っており、それを使って女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan
National Archives Identifier: 22345672
Local Identifier: 243-HP-I-31-3
Creator: War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 22345672 引用。
東友会「被爆者の証言」の田邉俊三郎さん 「NPT再検討会議にあたって訴えたいこと」 には、次のようにある。
皆さん、こんにちは。お元気ですか。私は今から65年前、広島で20歳のとき2.1キロメートルの所で被爆した、サバイバーの田邉俊三郎です。被爆後65年経って、平和を愛する皆さんとお会いできて嬉しく思います。また、皆様の素晴らしい協力と援助により、被爆の実相と訴えを皆様にお話しする機会を設けて下さいましたことを感謝致します。
1945年8月6日8時15分、人間の頭上に初めて原子爆弾が広島に落とされました。原子爆弾は地上580メートルの所で炸裂しました。地表でも3,000度から5,000度の熱線を出したといわれています。この瓦はその熱で表面が溶けたのです。真下の人は溶けて消えてしまいました。近くの人はこの絵のように、目玉が蟹や蝦のように飛び出して、指先は肉が溶け、骨が残りました。体は真っ黒に焼けてしまいました。
中心から離れた所にいた人はこの絵のように火傷をしました。皮膚がぼろきれのように垂れ下がり、痛さにうめきながら手を前に出して、幽霊のようにして逃げました。力尽きて息切れ、倒れ「水を、水を」と求めました。生き地獄とはこのことです。
私も火傷しましたが、薬を作り、顔にべたべた塗って痛みを抑えながら、水を飲める人々に焼け跡の中の噴き出ている台所の水を茶碗に汲んで飲ませてあげました。皆「ゴクゴク」飲みました。しかしその後、静かになりました。死んだのです。「体が3分の1以上火傷している人に水を飲ませると死ぬぞ」と言われていました。でも可哀想なので水をあげました。死に水になりました。
3,000度の熱で広島の家は瞬時に焼け、秒速500メートルの爆風で吹き飛び、人々は焼け出され、広島市内を流れる大田川には火傷の痛さを癒そうと、この絵のように川の中に入った人々は溺死して、瀬戸内海の塩でふやけて白豚のように白くなり膨れて、何千と数え切れない溺死体が潮の千満で広島から離れがたいかのように、行ったり戻ったりして漂っていました 焼け野原になった広島市内にはこの絵のように焼け死体が至る所に散乱していました。母と赤ちゃんの焼け死体がありました。赤ちゃんの頭を可哀想にと撫でましたら、ペシャッと崩れて灰になりました。私は「南無阿弥陀仏」と唱えて逃げるように立ち去りました。
また、被爆者は65年経った今日まで、放射能で苦しみ続けています。私は白血球減少症・肝臓障害・貧血・慢性気管支喘息・不整脈・大腸癌・食道炎・前立腺肥大症・膝腰脊椎関節炎・脳梗塞・高血圧症等で病院通い中です。毎日、このように12種類の薬を飲んでいます。
広島で5万人・長崎で2万人が瞬時に殺され死にました。その年の暮れまでに広島で14万人、長崎で7万人が死にました。そして放射能障害で毎年8,000人が亡くなっています。こんな悪魔の原爆がまだ世界中に2万発以上もあるのです。もし今後使われたら、地球上の生物は消えて地球は死の世界になります。こんな核爆弾は一刻も早くなくさねばなりません。
平和を愛する皆さん、全世界に声高く叫び、訴えましょう。この崇高な叫びは神の声となり、核兵器廃絶は実現するでしょう。この時こそ、青い地球は残り、平和と繁栄の鐘は鳴り続けるでしょう。有難うございました。そして、この崇高な平和の闘いに対し、後世の子どもたちはどんなにか敬虔な感謝をもって歴史上に褒め称えるでしょう。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ・ノーモア・ウォー。世論に勝る兵器はない。平和の勝利が訪れるでしょう。 竹田邉俊三郎さん「NPT再検討会議にあたって訴えたいこと」 引用終わり。
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。手前の石畳と線路は、路面電車(市電)の運航路線。:1945年8月6日 朝8時15分、広島市上空でプルトニウム型原子爆弾が爆発、その爆風、火災で多数の路面電車(市電)が破壊された。広島を走行していた路面電車123両のうち108両が破壊され、線路も大打撃を受けた。しかし、放射能の危険を知らなかった当時の日本人は、即座に救護活動、復旧作業を開始し、原爆投下の3日後には路面電車が運航を再開している。
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan
National Archives Identifier: 22345672
Local Identifier: 243-HP-I-31-3
Creator: War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 22345672 引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「出島艶子さん 直接被爆・距離0.6km(下中)被爆時18歳 」 には、次のようにある。
顔や体にガラスに依るケガが今でもはっきりとのこっていて右うでにガラスや砂のよう なものが今でもあること。父、姉、弟を八月六日に別れたきり二度と逢うことが出来なか った。生きていろいろなことがしたかっただろう。どうしてもっと早く戦争を止めなかった か。どうして核兵器のようなおそろしいものを落したのか。この60年忘れることができ ないで涙がこぼれます。
原爆の実態を一人でも多くの人々に話し、人類との共存はあり得ないものだと知ってほ しい。広島、長崎を見て下さい。本当の様子を見てください。原爆が地球上から一発もなくな ることこそが平和だと知ってください。 (2005年)
もうすぐ83才になり、年々体力のおとろえを感じるようになり、被爆者も今だに残る原爆をなくしてほしい。 生きているうちにこの体で生きてきて、がんばったのだ。本当に平和になったのだと言いたい。 被爆時18才 (2010年追記)「出島艶子さん 直接被爆・距離0.6km(下中)被爆時18歳 」 引用終わり。
写真(右):1945年8月6日、原爆が投下された広島。原爆の閃光が、 爆心地から880メートル離れた萬代橋の欄干の影を路上に焼き付いた白い影を映し出した。:この写真にたいするアメリカのオリジナル解説では、長崎で1946年1月21日撮影となっている。しかし、アメリカ国立アーカイブカタログの写真解説の中には、明らかに広島で撮影された写真であっても長崎での撮影と誤記しているものがある。写真を厚またときに、広島と長崎の被爆写真が混交したために、誤記してしまったと考えられる。
[Nagasaki, Japan waterfront after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-353. [Photograph by: Unknown] ]
National Archives Identifier: 39147816
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03714
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
This item was produced or created:
21/1/1946
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147830 Agency-Assigned Identifier: JHL-358 引用。
萬代橋の欄干の影から、爆発地点・爆発高度の角度と距離を推測すると、38度方向、距離880mと算出できる。萬代橋は、1916年(大正5年)にドイツ人技師の設計になる鋼板桁構造だったが、欄干が吹抜け構造のために、爆風が通り抜けたこと、爆心地に近く爆風が上から葺いたことで、落ちずに残ったと考えられる。現在の橋は、1981年に建て代えられた万千橋で、橋長94m、幅16mの鉄製の架橋である。
写真(右):1945年8月6日、原爆が投下された広島。原爆の閃光が、萬代橋の上の通行人や荷車、リヤカーらしき焼き付いた白い影が残っていた。:被爆した直後は、萬代橋近くは焼け跡が広がり、川の中には死体があった 。オリジナルの写真解説では長崎で1948年3月17日撮影となっており、上記の写真より2年後とされる。しかし、アメリカ国立アーカイブカタログの写真解説の中には、明らかに広島で撮影された写真を長崎での撮影と誤記しているものがある。
[Nagasaki, Japan waterfront after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-353. [Photograph by: Unknown] ]
National Archives Identifier: 39147816
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03714
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
This item was produced or created:
17/3/1948
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147830
Agency-Assigned Identifier: JHL-358 引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「水野潔子さん 直接被爆・距離1km(上流川)被爆時17歳 / 東京都武蔵野市6136」 には、次のようにある。
高齢になり(76才)、色々の記憶は失う場合は多いが、被爆時(1km)建物の崩壊時(3階建築鉄筋)一瞬で光線と同時に埋まってしまったことは、今も忘れることが出来ない。 原爆症になり、死線をさまよったこと等、当時、17才の少女にはたえがたいものがあった。
敗戦後、新憲法が制定され、一応凡ての武器は捨て、戦争は放棄するの項目もぬり変えら れんとしている今日、どんなことがあっても、平和憲法を守っていきたいと思っている。 これから育っていく若者に二度と再びあのむごい体験はさせたくないと思う昨今である。 鉄筋の建物に生きうめになり、私及び数人の友はそこから脱出出来たが建物の下敷きになり 残され、火炎に合い焼け死んだ友のことは、申しわけなく、今になっても心に残ってる。
写真(右):1948年3月17日、原爆が投下された広島。コンクリート製の建築物が残っているが、爆風と熱戦のために火災が発生し、付近の木造家屋の火事が延焼した。コンクリート製だからと言って安全なシェルターにはならなかった。そこで、原爆対策には、地下シェルターが構築されることになった。:オリジナルの写真解説には、長崎での写真としているが、アメリカ国立アーカイブカタログには、明らかに広島の写真も長崎として説明されている。
Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-356. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147826
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03719
This item was produced or created:
17/3/1948
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147826
Agency-Assigned Identifier: JHL-356 引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「渡邉定二さん 直接被爆・距離1.8km
被爆時19歳 / 福岡県うきは市」 には、次のようにある。
私は原子爆弾投下直後数秒後の原子雲の発生時をこの眼で見たため原爆の爆風を真正面か ら受けて、爆風で吹き飛ばされて一時失神して顔面キズだらけで眼を傷つき甚んど失明状態 になり、1人では動けないため南側に人の助けを受けて治療を受けるべくさまよい歩いた が処置してくれる所がなく、当日の夕方、重傷者として小舟で似島の検疫所に送ら れた。もう着いた時は病室はマッチの軸を並べた様に足の踏み場もない患者でいっぱいだった。
夜には四方八方より助けを求める声で眠ることはできなかった。夜が明けると、無数の人 が帰らぬ人となっていた。9日に帰隊し、11日には広島を発って新潟に13日について 即陸軍病院に入院した。初めて医師の診断を受ける。そして、10月まで入院治療をして帰家する。 (2005年)
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島で病院に収容された被爆者。アメリカ海軍兵士の撮影になる。:1945年8月6日 朝8時15分、広島市上空でプルトニウム型原子爆弾が爆発、その爆風、火災で多数の死傷者が出た。原爆は、空襲に備えていたた医療救護体制も壊滅させた。生き残った医師、看護婦によって、救護活動がすぐに始められたが、器材も薬品も不足したために、被爆者に対しする応急措置も不十分だった。そこで、被災地から負傷者を市街に運び出すために、救援列車が運行された。市内中心部に進んだ列車は、途中で停車し、多数の負傷者を沿線の病院へ運んだ。原爆投下の夕方には、海軍病院の救護隊、夜には県下の町村ごとの警防団を動員した救援隊が長崎に入ってきた。しかし、放射能に直接被爆した住民以外に、彼らのように爆発直後に救護活動に従事した者、胎児など多数の人々が原爆による被害に苦しむことになった。この中には、日本人、朝鮮半島出身者、捕虜として連行されていたアメリカ人、中国人、インド人が含まれる。
Navy photographer pictures suffering and ruins that resulted from atom bomb blast in Hiroshima, Japan. Victim lies in make-shift hospital in bank building.
National Archives Identifier: 520933
Local Identifier: 80-G-473739
Creator(s): Department of Defense. Department of the Navy. Naval Photographic Center. (12/1/1959 - ca. 1998) (Most Recent)
From: Series: General Photographic File of the Department of Navy, 1943 - 1958
Record Group 80: General Records of the Department of the Navy, 1804 - 1983
This item was produced or created:
9/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 520933 NAIL Control Number: NWDNS-80-G-473739引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「橘高博さん 直接被爆・距離2km(千田)
被爆時17歳 / 広島県三原市」 には、次のようにある。
私は広島の千田町(2キロ内)で被爆。当時は夏休みもなく授業が始まった矢先だった。 目もくらむ閃光、大音響と共に校舎の下敷となり、目の前はまっ暗となり、奈落の底に突 き落とされた。
背中にガラスの破片が多数突き刺さったが、幸い九死に一生を得ることが出来た。何が 起きたか分からぬまま、似島検疫所に送られたが、その夜、見ておられないような凄惨な 光景に接した。全身火ぶくれ「水を!水を!」と泣き叫ぶ声々、あちこちで重傷者のうめ き声、正に地獄図そのものであった。
そしてその夜、多くの人が無念にも死んでいかれたことを思うと実に胸が痛む。いまだ に脳裏にやきついて離れない。私は数年前までは、この出来ごとを余り口にしなかった。 子供や孫たちにも。
しかし被爆者の減る中で、誰がこの悲劇を次世代へ伝えてゆくのか、私もその中の一員 であり、その責任の重大さを痛感したのである。以来私は、積極的に集いの場や友人、知 人に話すようにしている。それは一人でも多く、核の恐ろしさを認識して貰い、戦争もな く、核兵器もない平和な世界を築くための一助になればと思う一心からである。
(2005年)
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島:広島市北部の太田川が、市街地に流入してくるが、河川が分流して、平和記念公園付近でもさらに分かれている。原爆ドームの脇を流れるのは元安川である。
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan
National Archives Identifier: 22345677
Local Identifier: 243-HP-I-33-2
This item was produced or created:1945
Creator: War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 22345676引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「男性 直接被爆・距離1.2km(千田)
被爆時15歳 」 には、次のようにある。
私は被爆後、広島市二葉山の東照宮に逃げ、軍人と一緒に多くの被爆者に水を与えた り、亡くなった人達を荼毘にふしたりしましたが、今でも忘れられないのは、軍医から、 背中にヤケドをしている者には助かる見込みがあるから、水を飲ましてはいけないが、 腹部をヤケドした人は、どうせ死ぬのだから、水を飲ませてやれと命令され、水を飲 ませると、「ありがとう」と感謝されたが、直ぐ亡くなったこと。又、死ぬと思われる人には、 身体に荷札をつけ、住所氏名を書いておけと命令され、死ぬと直ぐ多く の被爆した人の前で荼毘にふしたこと等は絶対に忘れることができず、今でも夢に見 ることがあります。
一緒に被爆運動をしていた広島、長崎の友人達が多く亡くなり、今度は自分の番かと いう思いを何度となく感じました。
急性被爆者障害後、私は昭和25年頃、肺結核を患い、昭和30年には白血球が20 00以下になり、体がだるく、血圧が180−110にあがり、その後、胃かいよう を患い、更に平成元年には咽頭ガンを手術、更に一昨年には脳梗塞を患うなど、ずっ と病院とつきあっていますが、この様に被爆すると被爆時の傷害は勿論のこと、死ぬ まで色々と病気に苦しめられます。このことを次世代の人達に訴えていきたいと思い ます。
(2005年)
写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島:1905年創業歴清社は、爆心地から2.2km地点の西区三篠町に今も残っている。1935年に5階建てに増築した歴清社本社工場は、原爆で焼失。化学薬品を入れていた1階のコンクリート製倉庫、1943年に建てた高さ20mのコンクリート製煙突が残った。当時の久永清次郎社長は、爆風でガラスの破片が全身に突き刺さる重傷を負ったが、1946年からバラックの屋根を覆う防水紙の製造を始めた。歴清社は1950年代に金銀箔の壁紙づくりを再開、1959年に被爆した倉庫と煙突を取り囲む形で現在の本社工場を建てた。所々に爆風の痕跡が残る倉庫は、材料や道具の置き場として今も使われている。焼け野原の中で近所の人が避難の目印にしたという煙突は、壁紙を乾かす時に出る熱を逃がす機能がある。現在の久永清治歴清社は社長は、
建物が古くなる中、耐震構造の調査を依頼、倉庫や工場の柱とはりを鉄で補強し、煙突に炭素繊維を巻き震度7の地震にも耐えられるようにしたいと考えている。工事費は工場全体で数千万円に上る。従業員26人、売上高約4億円の会社にとって負担は大きい。 (ヒロシマ平和メディアセンター中國新聞2015年5月27日朝刊引用)
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
National Archives Identifier:22345678
Local Identifier: 243-HP-I-33-3
Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent)
From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947
ARC Identifier: 22345671
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 540225引用。
日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「 三宅大悟さん 直接被爆・距離2km(荒神)
被爆時14歳 / 埼玉県春日部市 」 には、次のようにある。
私は広島県工の4年生の時、学校の職員室の中で被爆を受ける。同級生は呉市広の海軍の 工場に動員されて、私は体の不調から広島県久村の家から学校へ通学していました。
被爆時にいた校舎は1階が全部職員室、2階が全生徒を収容できる木造の大講堂で、その1階 の職員室内に同級生と三人いました。窓ガラスから強い光と共に、その校舎がたおれ、下敷となりました。幸いに机の間にふせ、真暗になった中で三人が一緒になり、何がなんだか解らない中で、前方に明かりが見えたので、三人は這出す事が出来ました。
その結果、光線を直接受ける事もなくすんだのは幸いでした。私共3名は、顔、身体に ガラスの破片を受けていました。翌日、翌々日と、私の弟、当時中学1年生(死亡)を探 しに、爆心地附近を歩き、又、広島市内在住の親類の家族を探して歩きました。天気は晴天で黒い雨にあたる事はありませんでした。地球上で、原爆の一切の廃止と戦争の廃絶を望みます。 (2005年)
写真(右):1945年9月頃、1945年8月6日、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「エノラゲイ」が広島市に投下した原子爆弾「リトルボーイ」で破壊された日本生命保険広島支社:
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.]
National Archives Identifier:22345679
Local Identifier: 243-HP-II-26
Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent)
From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947
ARC Identifier: 22345671
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 22345679 引用。
日本生命保険職員殉職碑は、昭和24年(1949年)建立。建立者は、日本生命広島支社関係者一同とある。当時、日本生命広島支店は広島の金融街として発展する大手町二丁目(爆心地から180メートル)にあった。原爆でコンクリート製の社屋は破壊され、日本生命全体で職員28人が犠牲となったという。1948年社屋を再建、犠牲者を慰霊するため碑を建立した。その後、中区中島町3番25号(ニッセイ平和公園ビル北西角) に社屋の移転とともに2006年現在地に移設。碑の背面に、犠牲者28人の名前が刻まれている。 (広島市の観光情報サイト日本生命保険職員殉職碑引用)
写真(右):1945年8月7日、広島県、似島検疫所に横たえられた被爆者:識別コード SA003-1:尾糠政美氏撮影;尾糠氏は8月7日に広島湾宇品港沖に浮かぶ似島(にのしま)検疫所に入り、軍医の指示で撮影。似島には野戦病院が開設され、8月6日午前中から次々と船で負傷者が運ばれた。応急手当とクレゾール入浴を施された。6日に運び込まれた患者は約2000人、軍医以下80人の衛生部員が救護に当たった。通常1000人の収容能力を持つ検疫所付属病院は、1日3000人から9000人の患者を扱った。このような尾糠政美氏の写真は、アメリカの占領統治・検閲が終わり、『アサヒグラフ』1952年8月6日号に、撮影者の氏名なしに掲載されたという。広島平和記念資料館「平和データベース」引用。軍事技術の粋を集めたボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ:Enola Gay」、原子爆弾、そして、優秀な科学者、訓練された搭乗員、有能な指揮官,世界情勢を考える大物政治家が、原爆を開発、投下を決断・実行した。写真は広島平和記念資料館の許可を得て掲載。
写真(右):1945年8月6日、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「エノラゲイ」が広島市に投下した原子爆弾「リトルボーイ」に被爆した女子挺身隊(勤労奉仕隊):識別コード:SA152-1 陸軍船舶司令部写真班撮影:陸軍船舶司令部は、中国大陸や南方への輸送の要であった宇品港が主活動の場であったが、宇品向かいの似島にも検疫所があった。写真は広島平和記念資料館の許可を得て掲載。
広島平和記念資料館の企画展としては、平成13年度「サダコと折り鶴:時を超えた生命の伝言」、平成14年度「原爆の絵:市民の手によるヒロシマの記録」、平成15年度「似島(にのしま)が伝える原爆被害:犠牲者たちの眠った島」、平成18年度「託された過去と未来」などが紹介されている。
平和記念館西館では、「原子爆弾の爆発の瞬間、
空中に発生した火球は、 0.3秒後には直径200メートルを超える大きさとなり、その表面温度は、7,000度にも達しました。」としてwebで熱線による被害の映像を流している。
また、爆発の瞬間、爆発点 には数十万気圧という超高圧がつくられ、まわりの空気 が大きく膨張して強烈な爆風が発生しました。
その圧力は、爆心から500メートルの所でさえ、1平方メートルあたり19トンに達するという強大なものでした。このため、ほとんどすべての建物が 押しつぶされ、人々も吹き飛ばされ大きな被害をうけました。」として爆風による被害の映像を配信している。
広島に建物疎開命令が出され、中学校、高等女学校、国民学校高等科1・2年生等を対象に建物疎開作業の学徒動員がされ、1945年8月6日も、8000人以上の学徒が出勤し、うち約6,300人が死亡。
写真(右):原子爆弾の被爆者;広島,長崎は、熱線による被害,爆風による被害、火災による被害,放射線による被害を被った。そこに居合わせた人々もその犠牲になった。長距離重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ:Enola Gay」のもたらしたものが終戦和平であり,それによって100万人もの人命が救われたというのであれば、原爆の被害者はそれに引き合う損害として許容しなければならないのであろうか。このような悲惨な写真は,原爆を投下した米国が加害者であり,日本が犠牲者であるような錯覚を与える、として米国のスミソニアン航空宇宙博物館(Terror of the Atomic Bomb-Hiroshima-Nagasaki)引用。
井伏鱒二『黒い雨』などで、放射能に汚染された塵の恐ろしさが描かれているとも言われる。原爆投下直後に救援に出向く人々は、黒い雨の恐ろしさを知らない。放射能汚染された地域に立ち入って、救難活動をした人たちが受けるであろう原爆症のことを思うと、放射能の恐ろしさを感じる。
8. 1945年8月9日、マリアナ諸島テニアン島を飛び立ったアメリカ陸軍第509混成部隊(509th Composite Group)B-29 爆撃機「ボックスカー」によって、長崎にプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」が投下された。
現在でも核兵器に使用する核物質として生み出されているプルトニウム(Plutonium:Pu)は、天然の元素ではなく、人工的な元素で、陽子の数は94個で、ウランの陽子92個よりも重く不安定な元素である。核分裂反応は、ウラン235に中性子を衝突させることによって生み出す。ウラン235は、純度95%の濃縮ウランとして核分裂の連鎖反応を急速に引き起こし、大爆発を生じさせる。対照的に、原子力発電所では原子炉で安定的に核分裂を起こすように、ウラン235は5%程度の濃縮ウランであり、ウラン238が多く、核分裂は制御されている。
写真(右):1945年8月5日、マリアナ諸島テニアン島、アメリカが「マンハッタン計画」で開発したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」;1945年8月9日、ボーイングB-29爆撃機「ボックスカー」によって、長崎に投下された原爆「ファットマン」は、長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。7月26日のポツダム宣言(Potsdam Declaration)の前日に、二発目以降速やかに投下すべしとの原子爆弾投下命令が出ていた。ポツダム宣言で「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と恫喝したのは、1発で高性能爆薬2万トンの破壊力を持つ原爆の威力を踏まえてのことであろう。
Description
English: Fat Man bomb is readied on Tinian
Date 5 August 1945
Source National Museum of the U.S. Navy
Author United States Navy
写真は Wikimedia Commons, Category:Fat Man File:Fat Man on Tinian 77-BT-186.jpg引用。
ウラン型原子爆弾は、中性子を通路に打ち出しウラン235に衝突させる起爆方式で、比較的簡単な構造であり、広島に投下予定のウラン型原子爆弾の起爆実験は省略された。しかし、長崎への投下予定のプルトニウム型原子爆弾の規模く構造は複雑なため、起爆実験「トリニティ」が実施された。
プルトニウム型原爆の起爆方式は、ウラン238球状容器の外周に起爆薬を装着し、爆発の衝撃波が、球の中心に向かい、中心部のプルトニウム239(Plutonium 239)が一気に圧縮、濃縮される。そこで、プルトニウム原子の間隔が縮まり、超臨界に達し、核分裂の連鎖反応が始まる。プルトニウム239(Plutonium 239)を用いた原爆が「ファットマン」(太っちょ)というのは、原爆本体に、球状の起爆装置を内包しているためである。
原爆「ファットマン」は、長さ3.2メートル、直径1.5メートル、重さ4.5トンで、これ1発で、2万トンの高性能爆薬と同じ破壊力がある。B-29爆撃機の爆弾搭載量は、最大10トン程度であるから、B-29爆撃機1機が搭載する原爆1発の威力は、B-29 爆撃機2000機が搭載する爆弾の総重量に匹敵する。
写真(上):2015年7月、アメリカ、オハイオ州デイトン東、ライト・パターソン空軍基地、国立アメリカ空軍博物館(Aircraft at the National Museum of the United States Air Force)、長崎に原爆を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」の復元・展示:機長チャールズ・スウィーニー少佐の指揮で、第509混成部隊B-29「ボックスカー」は、テニアン島を離陸、小倉に原爆を落とす予定だったが、雲にさえぎられて有視界照準爆撃の条件を満たすことができす、長崎に目標を変更。長崎でも雲にさえぎられたが、原爆投下の栄誉を担いたかったスウィニーは少佐は、雲の切れ間を見つけたことにして、レーダー照準で長崎を爆撃。燃料不足でテニアン島ではなく沖縄に帰還した。1961年9月26日にオハイオ州デイトンの国立アメリカ空軍博物館に運ばれ、復元された「ボックスカー」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。
Description
日本語: Boeing B-29 / National Museum of the U.S. Air Force / 2015年7月26日
Date 26 July 2015
Source Own work
Author Goshimini
。
Description
English: B-29 Superfortress Enola Gay in the Steven F. Udvar-Hazy Center, Chantilly, VA near Washington DC.
Date 26 July 2007
Source Own work by uploader of an object in the National Air and Space Museum, Steven F. Udvar-Hazy Center, Washington DC
Author Ad Meskens
写真はWikimedia Commons, Category:B-29 Bockscar at National Museum USAF File:Boeing B-29 National Museum of USAF 20150726 2.JPG引用。
ボーイングB-29 原爆搭載爆撃機「ボックス・カー」(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9,600メートルの上空からプルトニウム型原爆を長崎に投下した。チャールス・スウィーニー少佐によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市小倉と同じく雲におおわれていた。スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。沖縄基地に緊急着陸する燃料しかなく、目視するまで爆撃航路を伸ばすことはもはや不可能だった。そこで彼は、原爆投下の栄誉を得るために、あるいは重い原爆を持ち帰って燃料不足や事故のリスクを冒さないために、公式的には目視爆撃したと称したが、レーダー爆撃で原爆を投下した。
写真(右):1945年10月、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が広島市に投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」によって破壊された長崎の工場:
Destruction in Nagasaki, Japan
Description: This is a view of a destroyed area in Nagasaki, Japan after the atomic bomb. From Basil Rice.
Date(s)
October 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2463引用。
三菱造船幸町工場は、爆心地から南1.7キロの幸町1丁目にあった。幸町工場は北側から鋳造工場、機械工場、薄板(製缶)工場と並んでいた。長崎本線の国有鉄道側には、旧紡績工場跡の一棟が残っており、ここでは刑務所囚人で編成された長崎造船護国隊本部、福岡俘虜収容所第十四分所となっていた。
三菱造船幸町工場の従業員は、最盛期には2,500人に達したが戦争が激化すると、兵役、応召、工場分散によって従業員は減少、被爆時点では、学徒報国隊、囚人・捕虜を含めて、機械工場600〜700人、鋳造工場300〜400人、薄板工場200〜250人、総合事務所150〜200人の従業員がいたようだ。しかし、原爆当日の出勤者や死傷者数は、明らかではない。8月6日は朝から空襲警報発令となり、学徒報国隊の勤労奉仕者に欠勤者が多数出た。三菱造船幸町工場の学徒報国隊には、県立長崎中学校、県立長崎工業学校、長崎市立商業学校、長崎市立高等女学校、東陵中学校の学生が動員された。
写真(右):1945年9月、1945年8月9日午前11時2分に8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が長崎市に投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」によって破壊された長崎三菱魚雷製造工場:
Description: Photograph taken in Nagasaki, Japan after the atomic bombing on August 9, 1945. The image shows only a few structures standing surrounded by rubble.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3122引用。
原爆投下直前、長崎の浦上では、戦闘帽、巻脚はん、防空頭巾を肩にした女子挺身隊、動員学徒の群れが汽車、電車に乗車し続々と集結していたが、そこに空襲警報が発令された。しかし、B-29 の飛行は市民から「定期便」と呼ばれるほど一般化しており、揶揄して「時報」ともみなさる場合もあった。
警報解除となり、防空壕などに退避していた工場従業員が職場に戻り、女たちも家事に取り掛かったころ、ラジオで“B29,島原半島上空を北進中”が伝えられた。香焼島(爆心地から南10キロ)の高射砲隊は、B29捕捉し、金比羅山(爆心地から南東1.7キロ)高射砲隊も射撃準備をしものの、装備していた90式測高機によるとB-29 の飛行高度は、9500〜10000メートルで射程圏外だった。「戦闘態勢乙」と警戒度が下げられたが、落下傘(測定器が吊るしてあった)を目にした人々も少なくなかった。午前11時2分、閃光が走り、すさまじい爆風が来襲し、ごう音、衝撃波、熱線が照射され、火事嵐となった。
写真(右):1945年9月、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」の投下した原爆で破壊された長崎の三菱魚雷製造工場:上の写真と同じ工場と思われる。工場を支えていた鉄骨が残っている。
Description: Photograph of a destroyed building's interior caused by the dropping of the atomic bomb in Nagasaki, Japan on August 9, 1945. Rubble covers the floor of the building and metal beams from the roof still hang over the walls.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3117引用。
原爆爆発と同時に空中の一点に摂氏数千万度の火球が発生、爆発から一万分の一秒で、直径は約30メートル、温度は摂氏30万度に上昇、その後、火球は一秒の間に直径100〜280メートルに達した。火球からの放射熱線は、爆発から3秒間続き、人体に熱傷を与えた。原爆の直下では恐らく3,000〜4,000度にも達したと推定されている。爆発で生じた気圧変化は、衝撃波となって広がり、建物を破壊し、押し潰し、同時に爆風で大きな被害が発生した。
写真(右):1945年9月、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」がプルトニウム型原爆を長崎市中心部に投下、破壊された残骸を残す建築物。キリスト中町教会(長崎県長崎市中町1‐13)の尖塔が奇跡的に残っている。
Description: Seven unidentified Japanese survivors walk down a street in Nagasaki, Japan after the atomic bomb was dropped on August 9, 1945. In the background are rubble and the remains of two buildings. Two of the women in the photograph are carrying children on their backs.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3116引用。
長崎県長崎市中町にある中町教会は、フランスのパピノー神父の設計になり、1891年8月に起工、1897年9月8日、聖母マリア生誕の祝日に献堂式が挙行された。1945年8月9日の原爆による爆風と火災に遭いながらも、中町教会の尖塔と外壁は維持されており、焦土に希望を与える。現存する被爆建築としても貴重である。この近くにある新興善小学校は、被爆の際に臨時救護所本部となった。
1951年10月、長崎市中町にある中町教会は、被爆しても残っていた外壁と尖塔をそのまま生かして再建された。現在でも貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けており、教会の門の側に銘版が設置されている。
写真(右):1945年、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原爆「ファットマン」で壊滅した長崎の避難所とそこで暮らす被災者:爆心地よりの距離による被害状況は、1キロ以内の区域では人畜は爆発圧力および熱気によってほとんど即死、家屋その他の建物、木柱は紛砕、爆心付近は同時に焼失、他はほとんど同時に各所より火災が発生。墓石倒壊。草木は爆風の方向へ薙ぎ倒され、幹枝も切断、炎上した。2キロ以内の区域では人畜は強力な爆風および熱気によって一部は即死し、大部分は重軽傷を負った。家屋その他の建物、木柱は約80パーセント倒壊、各所より次第に火災を発生し大部分が焼失。コンクリート柱、鉄柱は倒壊しなかった。草木は一部炎上枯死。
Description: Japanese family camps in ruins of Nagasaki, having built temporary shelter from bits of metal and wood debris on the terraced hill that was once row on row of houses. From scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters, U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July, 1946.
Date: ca. 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; World War, 1939-1945
HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Nagasaki
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2462引用。
写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎。橋にはアメリカ軍兵士がもたれている。後方のサークルはアメリカ軍の設置した通信用のアンテナ。爆心より放出した爆風は放射状に地上の物体を傾け倒し、爆心より1キロまでは立木はことごとく爆風の方向へ薙ぎ倒され、2キロの鉄筋コンクリート建物は屈曲した。
Description: Photograph of a man pulling a car loaded with items across a bridge that was damaged during the bombing of Nagasaki, Japan on August 9, 1945. American soldiers stand and sit along the sides of the bridge during the occupation period. In the background, two large cylinder forms appear along with electrical wire poles. All people are unidentified.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3118引用。
昭和20年(1945)9月1日の長崎県知事の報告書(第11報)には、屍体検視済のもの19,743人とある。検視はほとんどが原爆直後の混乱期に、被災地現場でなされたため、即死状態の氏名不詳、性別不詳など身元不明の死体も約2,000体に及んでいる。行方不明として届出のあった者は1,927名あり、何れも死亡したものと思われる。
写真(右):1945年9月、8月9日のアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原爆により破壊された長崎:左側にはアメリカ軍の設置した通信用の電柱と電線が写っている。
Description: Steam from a train can be seen as it goes by the destruction of Nagasaki, Japan with mountains in the background. In the photograph, new wire poles have been erected along the damaged brick road. .
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3114引用。
長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の長崎原爆の被害状況は、死者 73,884人、重軽傷者 74,909人、合計 148,793人 、罹災人員 120,820人 (半径4キロ以内の全焼全壊家屋の世帯員数)、罹災戸数 18,409戸 (半径4キロ以内の全戸数。市内総戸数の約36%)。 全焼 11,574戸 (半径4キロ以内。市内の約3分の1に当る)、全壊 1,326戸 (半径1キロ以内を全壊と見なしたもの) 、半壊 5,509戸 (全焼全壊を除く半径4キロ以内を半壊と見なしたもの)
写真(右):1945年9月、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原爆「ファットマン」で壊滅した長崎の焼け野原:長崎消防署の『原子爆弾記録』に「閃光に次いで物体の破壊音と共に砂ぼこりを巻き上げ夕やみのようになった」とある。砂ぼこりは「黒ぼこり」ともいわれ瞬間燃焼の黒い灰、紙片、布切れなどの多様な微軽量物も含まれる。落下紙片――三菱兵器製作所大橋工場の文書と三菱製鋼所の伝票――から推すると、その範囲は、爆心地から半径1,500メートルに及ぶ。地上約500メートルの空中で炸裂した原爆は、直径3,000メートルに及ぶ巨大な竜巻を現出した。
Description: A scene of destruction in the aftermath of the atomic bomb that was dropped on Nagasaki, Japan on August 9, 1945.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3111引用。
写真(右):1945年,アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊B-29爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原爆「ファットマン」で被爆した谷口稜曄(すみてる)少年(当時16歳):背中に大火傷を負ってケロイドが残った。少年は爆心地から約2.0kmのところで熱線にさらされた。1946年2月。
撮影:アメリカ軍 A-Bomb WWW Projectに同じ写真が掲載されている。この少年は、原爆被害の生き証人として語り続ける谷口稜曄(すみてる)長崎原爆被災者協議会長。16歳の時、郵便配達中に爆心地から1.8 キロで被爆し、瀕死の重傷を負った。日本原水爆被害者団体協議会の代表委員も務める。長崎市在住で2016年1月26日に米寿88歳を迎えた。2016年12月、長崎市で開催された国連軍縮会議の開会式では、原爆の熱線で背中一面を焼かれた被爆直後の自身の写真を掲げ「原爆は悪魔の兵器だ」とスピーチをした。
原子爆弾は,中性子を衝突させ原子核を分裂させる核分裂反応によって、結合エネルギーを外部に大量放出する爆弾である。
アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ:Enola Gayが広島に投下したウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」は、ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。爆発は,ガンバレル方式で、ウランを半球に二分して、爆弾筒の両端に設置して、投下時に起爆装置を使って片方を移動させて合体させることで、超臨界に達せさせる。
長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」は、長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。爆発はインプロージョン方式で、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬の爆発によって位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し超臨界にいたる。
原爆が爆発するためには、核分裂によって生まれた中性子が次の原子核に吸収され、連鎖反応を起こすことが必要で,連鎖反応が起きる核分裂物質の最小量(臨界量)は、ウランの場合は90%以上の高濃縮ウラン235が15kg、プルトニウムの場合も94%以上のプルトニウム239が5kgは必要とされる。
日本政府は、原爆症への対策をとってきたが、被爆者は健康の不安には、「被爆者として原爆症の認定」の壁が残っている。
原爆症の認定とは、厚生労働大臣の下の審査機関が、
?原爆放射線によるものである(起因性)
?医療を必要とする状態にあるもの(要治療性)
の条件を満たすかどうか審査し「原爆症」と認定されると「医療特別手当」が支給される仕組みである。
しかし、原爆症認定は非常に厳しい。厚生労働省の認定率は、2000年67.4%、2001年22.5%、2002年19.5%、2003年24.0%であり、認定基準が同じでも、申請者がその基準を満たしていることを証明するのは困難になってきていることが窺われる。
原因確率論(いわゆる入市被爆と2km以遠の人は影響ない)で切り捨てた結果、近距離での直接被爆以外は、救護や肉親を探すため跡から中心地に入った人はほとんど却下されており、認定されている被爆者は全被爆者(約28万人)の0.7%(約2000人)に過ぎないとされる。原爆被害者たちによる集団訴訟もおきている。
写真(右):1948年3月17日、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊ボーイングB-29爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原爆「ファットマン」で壊滅した長崎大学付属病院の建築群:コンクリート製の建築物は、木造家屋に比べれば遥かに強度が高く、外観が残っている。しかし、高温、爆風によって大規模な火災が発生し、付近の木造家屋が焼失する中で、コンクリート製だからと言って安全なシェルター・避難所になるわけではなかった。
Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-356. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147826
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03719
Creator: War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical This item was produced or created:
17/3/1948
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147826
Agency-Assigned Identifier: JHL-356 引用。
長崎市内の医療機関は、原爆により壊滅状態であったが、8月9日当日は、4本の救援列車が運行された。救援列車により市外の医療機関に運ばれた人もいたという。放射能汚染や二次被爆について知らなかった当時の人々は、通常爆撃の場合と同じく、被災者たちの救援に当たった。しかし、その人道的な行動によって、自らも原爆症に苦しむことになる。
写真(右):1945年8月9日,アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊ボーイングB-29爆撃機「ボックスカー」が長崎に投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」に被爆した14歳の少女:She was just a junior high school girl, only 14 years old....Terror of the Atomic Bomb引用。体の皮がはげてしまった少女。大村海軍病院にて。1945年10月。
撮影:大村海軍病院。A-Bomb WWW Projectに同じ写真がある。
長崎原爆資料館:原爆被災資料には、原爆炸裂の瞬間、11時2分を指して止まっている時計などが展示されている。
広島平和記念資料館:市民が描いた原爆の絵には、原爆投下時の様子が描かれている。
中国新聞社/松重美人撮影ヒロシマの記録 原爆・平和写真データベース化
被爆者の悲惨な写真は、アメリカの公的な展示会には、出品されないものである。その理由は、戦争の「被害者と加害者の取り違え」の誤解を避けるためとも言われる。アメリカ連邦議会も、スミソニアン航空宇宙博物館「1995年原爆投下50周年記念事業」で、被爆者写真の展示を許さなかった。展示では、長距離重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ」の機首が誇らしげに置かれた。現在は完全に復元展示中。
他方、原爆投下の実態を視覚的に伝えるwebとしてHiroshima A-bomb Photo Museumがある。そこには、アメリカ軍がカラーで撮影した被災地や被爆
者の悲惨な写真も掲載されている。
広島平和記念資料館平和データベーズでは、原爆、平和関連の証言・写真・動画・被爆資料などをデータベース化し展示している。
写真(右):1945年9月、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」のプルトニウム型原爆で破壊された長崎:原爆で破壊された建築物だが、倒壊しなかった煙突が立っており、付近からは煙が上がっている。燃え残りというよりも、煮炊きをする住民がいるためであろうか。
Description: A smoke stack still stands from a building that was destroyed during the atomic bombing of Nagasaki, Japan on August 8, 1945. Rubble can be seen to the horizon were a mountain range is visible.
Date: ca. September 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Description: Hiroshima on Honshu Island lies in ruins as a result of August, 1945 atomic bombing that hastened Japanese capitulation. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946.
Date: ca. August 1945
引用。
アメリカ軍は、新兵器原爆の効果測定上、被爆に起因する症状に関心を持ち、ABC委員会(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)を中心に標本採取、写真撮影を含む調査・研究を行った。日本人の中には治療機関と錯覚させられたり、後世のために積極的に情報提供したりした人もいた。しかし、ABC委員会(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)の被爆情報収集は、被爆した人々の治療ではなく、原爆の威力を高め、防衛方法を考察するための軍事研究であった。
日本政府は、原爆症への対策をとってきたが、被爆者は健康の不安には、「被爆者として原爆症の認定」の壁が残っている。
原爆症の認定とは、厚生労働大臣の下の審査機関が、
?原爆放射線によるものである(起因性)
?医療を必要とする状態にあるもの(要治療性)
の条件を満たすかどうか審査し「原爆症」と認定されると「医療特別手当」が支給される仕組みである。
しかし、原爆症認定は非常に厳しい。厚生労働省の認定率は、2000年67.4%、2001年22.5%、2002年19.5%、2003年24.0%であり、認定基準が同じでも、申請者がその基準を満たしていることを証明するのは困難になってきていることが窺われる。
原因確率論(入市被爆と2km以遠の人は影響ない)で切り捨てた結果、近距離での直接被爆以外は、救護や肉親を探すため跡から中心地に入った人はほとんど却下されており、認定されている被爆者は全被爆者(約28万人)の0.7%(約2000人)に過ぎないとされる。原爆被害者たちによる集団訴訟も起きた。
写真(右):アメリカ陸軍ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された長崎の被害;1945年8月9日、テニアン島を出発したアメリカ陸軍航空隊第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」ボーイングB-29「ボックスカー:Bockscar」は、第一目標の小倉上空に達したが、雲のため目視爆撃できず投下を断念。(指令書にはレーダー爆撃ではなく、効果を視認・撮影できるように目視爆撃を要請。)目標を第二目標の長崎に変更。長崎市の中心部は、雲のため投下できなかったが、北部の浦上地区、松山町上空の雲の切れ間から(といわれる)、高度9600mで投下。
VC-98 水上艦載機のボートOS2U(Vought OS2U)キングフィッシャー(Kingfisher)搭乗員が撮影し寄贈した写真。
Title: UA 563.07 Emilie Marvil Collection
Caption: Collection Photo: UA 563.07.01 Damage from the atomic bomb at Nagasaki, Japan.
Description: Photographs of atomic bomb damage at Nagasaki, Japan taken by Frederick L. Marvil, United States Navy. Additional photographs show men of VC-98 and a OS2U Kingfisher landing.
Accession #: UA 563
Catalog #: UA 563.07
Tags: NHHC_Tags:conflicts-and-wars/world-war-ii-wwii, atomic_bomb
Donor: Emilie Marvil
Copyright Owner: NHHC
写真はNaval History and Heritage Command UA 563.07 Emilie Marvil Collection 引用。
写真(右):1945年9月、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された長崎の救護避難所:Navy photographer pictures suffering and ruins that resulted from atom bomb blast in Hiroshima, Japan. Blast victims live in fly-infested hospital in bank building.
National Archives Identifier: 520934
Local Identifier: 80-G-473741
Creator(s): Department of Defense. Department of the Navy. Naval Photographic Center. (12/1/1959 - ca. 1998) (Most Recent)
From: Series: General Photographic File of the Department of Navy, 1943 - 1958
Record Group 80: General Records of the Department of the Navy, 1804 - 1983
This item was produced or created:
9/1945
写真は NATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 520934
NAIL Control Number: NWDNS-80-G-473741 引用。
同じ写真は20th century history:The New York Times Companyにも所蔵がある。
原子爆弾による被災によって健康に障害をもたらす原爆症が出ることが多い。これには、?熱線による創傷・熱戦による火傷、?放射線による急性放射線障害、?放射線による晩発性障害(白血病、白内障、瘢痕性萎縮など)がある。
広島平和記念資料館平和データベーズでは、原爆、平和関連の証言・写真・動画・被爆資料などをデータベース化し展示している。
アメリカ軍は原子爆弾による症状に関心を持ち、ABC委員会を中心に標本採取、写真撮影を含む調査・研究を行った。日本人の中には治療機関と錯覚させられたり、後世のために積極的に情報提供したりした人もいた。しかし、ABC委員会の被爆情報収集は、被爆した人々の治療ではなく、原爆の威力を高め、防衛方法を考察するための軍事研究であった。
被爆者の悲惨な写真は、アメリカの公的な展示会には、出品されないものである。その理由は、戦争の「被害者と加害者の取り違え」の誤解を避けるためとも言われる。米国議会も、スミソニアン航空宇宙博物館「1995年原爆投下50周年記念事業」で、被爆者写真の展示を許さなかった。展示では、長距離重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ:Enola Gay」の機首が誇らしげに置かれた。現在は完全に復元された。
他方、原爆投下の実態を視覚的に伝えるwebとしてHiroshima A-bomb Photo Museumがある。そこには、アメリカ軍がカラーで撮影した被災地や被爆
者の悲惨な写真も掲載されている。
長崎に原爆を投下機した長距離重爆撃機ボーイングB-29「Bockscar」パイロットのスウィニー少佐は、戦後、退役軍人教会の会長、1995年のスミソニアン航空宇宙博物館(The Smithsonian's National Air and Space Museum)での原爆50周年展示計画について、原爆投下に疑問を抱かせることを容赦しなかった。アメリカ連邦議会も、原爆投下した米国が加害者であるとの「誤解」を認めなかった。
写真(右):1945年9月、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」によりプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下され壊滅した。:左側の鉄道は復旧している。
Title: Nagasaki, Japan, in September 1945 after A-bomb attack.
Caption: Nagasaki, Japan, in September 1945 after A-bomb attack.
Description: Courtesy of Admiral H.W. Hill.
Catalog #: NH 66186
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command NH 66186 Nagasaki, Japan, in September 1945 after A-bomb attack. 引用。
長崎は6回の空襲を受けた。第一回空襲は1944年8月11日で目標は市街地。死者13人、重軽傷者26人、全壊1戸、全半焼9戸の被被害を被った。
第2回空襲は1945年4月26日、目標はドック地区。被害は死者129人、重軽傷者278人、全壊1戸、半壊3戸。
第3回空襲は1945年7月29日、目標はドック地区、被害は死者22人、重軽傷者41人、行方不明者3人、全壊43戸、半壊113個、校舎半壊1棟。
第4回空襲は1945年7月31日、目標は川南造船所、被害は死者11人、重軽傷者35人、全壊72戸、半壊76戸。
第5回空襲は1945年8月1日、目標は三菱造船所・操車場、被害は死者169人、重軽傷者215人、行方不明者40人、全壊107戸、半壊134戸。
写真(右):1945年8月、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」の投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された長崎中心街:
Title: Hiroshima in ruins.
Description: Another view of Hiroshima, showing devastation caused by first atomic bomb dropped on Japan in August, 1945. This includes a duplicate photo and negative. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946.
Date: ca. August 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2461引用。
写真(右):1945年8月、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」の投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された長崎市街と長崎湾(左)。左端は稲佐山(標高333 m )と右端の烽火山(標高426m):
Title:Scenic View of Japanese City
Description: Photograph of a Japanese city, possibly Nagasaki, Japan. The city sits nestled in a valley along mountains. A bay or river appears in the left side of the image.
Date: ca. 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3121引用。
第6回空襲は、1945年8月9日、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」による被害である。
写真(右):アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された長崎の被害;1945年8月9日、テニアン島を出発した長距離重爆撃機ボーイングB-29”Bockscar”は、第一目標の小倉上空に達したが、雲のため目視爆撃できず投下を断念。(指令書にはレーダー爆撃ではなく、効果を視認・撮影できるように目視爆撃を要請。)目標を第二目標の長崎に変更。長崎市の中心部は、雲のため投
下できなかったが、北部の浦上地区、松山町上空の雲の切れ間から(といわれる)、高度9600mで投下。Damage Photos
Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association)Air Raid against Cities引用。
長崎市 > 平和・原爆 > 被爆体験講話 >広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「利根川シヅエさん 直接被爆・距離0.7km(坂本)被爆時19歳 / 和歌山県橋本市」 には、次のようにある。
1945年8月9日(原爆投下日)。 私が18才の時、諫早市に住んでいました。8月10日に坂本町に住む従兄弟(当時17才)は、学徒動員で鹿児島県鹿屋市にある航空隊へ出向する事が決まり、送別会のために坂本町にきていました。親族が送別会の買出しで外出したので、その間、私は、近くに住む友人の家に向かっていた。
空襲警報は、午前10時30分ごろ、解除になっていたので、安心していた。 その時、私の近くにいた警防団が西の空から2機の飛行機が飛んで来るのを見つけ「B-29が来た。早く逃げろ。命が亡くなるぞ」と叫んでいた。 この付近には、防空壕が五つ並んでいた。
しかし、私は、諫早市の住人なので、防空壕に避難するのを遠慮していた。その時、50歳 くらいの警防団の方が私を防空壕に押し込むように入れてくれた。その瞬間、目がくらむ ような光線が見えたと同時に、爆風で気を失いました。
気が付いたのは、午後五時ごろだった。体は、鉛の扉の下敷きになっていて、身動きがとれず、唸っていたところを「誰か生きている?」と叫びながら身内を捜しに来た見知らぬ親子が身動きできない私を助けてくれた。立ち上がった時には、防空壕に避難していた人は、全員死亡しており、その死体は、皮膚が黒こげ腫れあがった死体や得体の知れない肉の塊に変化し、男女の区別も判らないようになっていた。私を防空壕にいれてくれた警防団の方も変わり果てた姿になっていた。
周りは、火の海で黒く焦げ硬直した死体が幾重にも重なっていた。逃げるには、焦げた死体の上を踏み鼻を突くような悪臭の中を走り、坂本町の外人墓地まで逃げた。その後は、私は、原爆が投下された事、従兄弟とその妹は、家の下敷きになり焼死、身内27人の死亡を知る事になる。私は、髪の毛が全部抜け落ち、血便で苦しみ、50キログラム近くあった体重が32キログラムまで減少した。
あっという間の出来事が60年たった今でも鮮明に覚えているし、思い出しては涙する 日々。被爆者の生存者が減ってきている現在、戦争は、人間が起こし大勢の人を殺し、家を焼き全てを奪い、身も心もボロボロにする。被害にあった人のみが知る悲しみ。震災は、避けられないが戦争は、回避することが出来るのです。 戦争がおこらないように願ってます。 (2005年)
写真(右):1947年3月17日、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された建築物:アメリカ連邦アーカイブの写真記録と公開は充実しているが、原爆被害の一連の写真の中には広島の写真を長崎撮影と誤記しているものがある。この写真の撮影場所は広島か?
Title: Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-352. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147818
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03715
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
Type(s) of Archival Materials:
Photographs and other Graphic Materials
This item was produced or created:
17/3/1948
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147818
Agency-Assigned Identifier: JHL-352引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「飛永頼節さん 直接被爆・距離1km(西町)
被爆時18歳 / 東京都小金井市」 には、次のようにある。
当時、18才、学徒動員、爆心地から1Km。ピカッとドンは一緒だった。私は顔面が黒焦げになった。衣服を焼かれた裸の女性が「キャーッ」と叫び声を上げて目の前を走り去った。お百姓さんが田んぼに顔を突っ込んで息絶えていた。何かわめきながら川原の草地を転げまわる女性。虫の息の人に水をせがまれたりしながら、私はよろめき、歩いた。何がおきたのかさっぱり分らない。この世の終末の恐怖を感じた。収容された病院では、数日間被爆者が次々と死んでいった。自分の血尿が白い便器を染める。「次はおれか」。絶望的な気持ちで血尿を眺めた。
「科学技術の進歩が人を幸福にするとは限らない」という当り前のことに原爆で気づ き、今迄の技術者への夢を捨て、画家の道を歩む決心をした。被爆直後の、見渡す限りの 一瞬の破壊の後、しばらく不気味な静寂が続き、「あっ、これが終末というものだろうか」 という恐怖と不安として、思春期の胸にあざやかに刻まれた。この時の情景が私の絵の 原風景となっている。被爆者への鎮魂の思いを込め、今も尚、絵を描き続け画廊等で発表している。
核兵器は即座に廃絶すべき。風化を食い止め、永遠に忘れない日とするため、原爆の日 を国民の休日にしてほしい。作品を美術館など大作を多数展示出来る広い会場に展示して、多くの人に見ていただければと希望している。(2010年修正)
写真(右):1945年8月9日、長崎は、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された。市内の路面電車の軌道のある石畳を通って避難する人々:
[Survivors moving along the road after the atomic bombing of Nagasaki, Japan.]
National Archives Identifier: 558581
Local Identifier: 434-OR-75(2)
Creator(s): Department of Energy. Office of Public Affairs. 10/1/1977-1985 ? (Most Recent)
From: Series: Photographs of Construction, Facilities, and Community Life at Oak Ridge and Other Manhattan Project Sites, 1943 - 1946
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
This item was produced or created:
8/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 558581
NAIL Control Number: NWDNS-434-OR-75(2)
引用。
写真(右):1945年8月10日正午前、アメリカ陸軍航空隊第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が投下した原子爆弾「ファットマン」でよって破壊された長崎、爆心地から1マイルの地点に開設された救護所から握り飯を配給された原爆被災者家族:Record Group 434:
General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
Series:
Photographs of Construction, Facilities, and Community Life at Oak Ridge and Other Manhattan Project Sites, 1943 - 1946
Item: Before noon on August 10, 1945, a mother and her son have received a boiled rice ball from an emergency relief party. One mile southeast of Ground Zero, Nagasaki, 8/10/1945
National Archives Identifier: 558580
Local Identifier: 434-OR-75(1)
Creator(s): Department of Energy. Office of Public Affairs. 10/1/1977-1985 ? (Most Recent)
From: Series: Photographs of Construction, Facilities, and Community Life at Oak Ridge and Other Manhattan Project Sites, 1943 - 1946
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 558580
およびTerror of the Atomic Bomb引用。
朝日新聞「広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ」の「渡辺イサ子さん 直接被爆・距離1.2km(浦上)
被爆時19歳 / 福岡県北九州市八幡西区」 には、次のようにある。
当時、18才、学徒動員、爆心地から1Km。ピカッとドンは一緒だった。私は顔面が黒焦げになった。衣服を焼かれた裸の女性が「キャーッ」と叫び声を上げて目の前を走り去った。お百姓さんが田んぼに顔を突っ込んで息絶えていた。何かわめきながら川原の草地を転げまわる女性。虫の息の人に水をせがまれたりしながら、私はよろめき、歩いた。何がおきたのかさっぱり分らない。この世の終末の恐怖を感じた。収容された病院では、数日間被爆者が次々と死んでいった。自分の血尿が白い便器を染める。「次はおれか」。絶望的な気持ちで血尿を眺めた。
「科学技術の進歩が人を幸福にするとは限らない」という当り前のことに原爆で気づ き、今迄の技術者への夢を捨て、画家の道を歩む決心をした。被爆直後の、見渡す限りの 一瞬の破壊の後、しばらく不気味な静寂が続き、「あっ、これが終末というものだろうか」 という恐怖と不安として、思春期の胸にあざやかに刻まれた。この時の情景が私の絵の 原風景となっている。被爆者への鎮魂の思いを込め、今も尚、絵を描き続け画廊等で発表している。
核兵器は即座に廃絶すべき。風化を食い止め、永遠に忘れない日とするため、原爆の日 を国民の休日にしてほしい。作品を美術館など大作を多数展示出来る広い会場に展示して、多くの人に見ていただければと希望している。(2010年修正)
写真(右):1947年3月17日、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍航空隊第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で破壊された長崎大学付属病院一帯の建築物。耳鼻咽喉科・内科病棟、本館と2階から3階建てのコンクリート建築があった。背景の市北西に位置する岩屋山(いわやさん)標高4752m。岩屋山は信仰の上で崇められた山。:焼け残ったコンクリート製の長崎大学付属病院の本館屋上から撮影したようだ。
Title: Roman Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-359. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147824
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03718
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
ca. 1945
The creator compiled or maintained the series between:
8/1945 - 8/1945
General Note(s):
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写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147824
Agency-Assigned Identifier: JHL-355 引用。
爆心地に近かった長崎医科大学、長崎医科大学附属医院は、大きな被害を受けた。長崎医科大学には、高台に上に本館、基礎学教室、二つの専門部があったが、木造建築であったため原爆爆発による爆風・熱風で倒壊、炎上した。基礎学教室に居合わせた教官・学生もほとんどが爆死あるいは被爆死亡した。講堂5カ所あるが、解剖、生化、生理、細菌、病理学の講義中に爆風で倒壊し、多数な死亡した。講義に出席していた学生480人のうち65%の314人が爆死したといわれる。
写真(右):1948年3月17日、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆した長崎大学付属病院付近:現在の長崎市坂本、長崎大学、原爆後障害医療研究所の資料収集保存・解析部では、当時医大生だった西森一正氏(元名誉教授) の血染の白衣が展示されている。西森一正氏は、長崎医科大学附属医院の皮膚泌尿器科外来で患者の診察中に被爆したが、その時に着用していた白衣は、30カ所のガラス片による出血で血に染まっている。
Title:Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-364. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147842
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03727
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
is item was produced or created:
17/3/1948
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147842 Agency-Assigned Identifier: JHL-364引用。
写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎に残った山王神社の一の鳥居と石灯籠。現存する山王神社二の鳥居(一本柱鳥居)は、2016年10月3日に、長崎原爆遺跡として、国の史跡に指定されている。
Description: A Japanese Torii gate survives the atomic bombing of Nagasaki, Japan. Surrounding the torii is destruction. Two unidentified people can been seen walking under the torii.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3113引用。
山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まであった。原爆の爆風に対して平行に立っていた一の鳥居と二の鳥居の片方の柱は倒れず残った。この山王神社二の鳥居は、一本柱鳥居と呼ばれ、原爆の強烈な風圧により片側の柱が吹き飛ばされたが、現在でも長崎市坂本町の住宅地の中に一本柱で建つ貴重な原爆被爆建築である。三、四の鳥居は倒れ、山王神社境内に保管されている。一の鳥居は、1960年代まで原型をとどめていたが、1962年の交通事故で倒壊、撤去され、行方不明である。
写真(右):1945年9月24日、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍第509混成部隊のボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆した石仏坐像、右遠方に山王神社の二の鳥居(一本柱鳥居)、左遠方に長崎大学付属病院のコンクリート製ビル:石仏は、国際墓地にななかったようなので、この地点は、浦上駅から200メートルの地点の善教寺かと思われる。2016年10月3日、山王神社二の鳥居を含む長崎原爆遺跡は、国の史跡に指定された。
Title: Battered religious figures stand watch on a hill above a tattered valley. Nagasaki, Japan.
National Archives Identifier: 532564
Local Identifier: 127-N-136176
Creator(s): Department of Defense. Department of the Navy. U.S. Marine Corps. 9/18/1947- (Most Recent)
This item was produced or created:
9/24/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 532564
NAIL Control Number: NWDNS-127-N-136176 引用。
写真(右):1948年3月17日、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆した山王神社の一の鳥居・二の鳥居、被爆大楠と街並み:一の鳥居は倒壊せずに残り、その奥に中央に小さく片足となった二の鳥居が見える。一の鳥居は1962年3月までは残っていたが、交通事故で倒壊し、行方不明になったという。
Title: Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-368. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147850
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03731
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
is item was produced or created:
17/3/1948
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147850
Agency-Assigned Identifier: JHL-368 引用。
写真(右):1948年3月17日、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆した三菱製鋼所と残った2本の煙突:
Title: Roman Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-359. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147832
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03722
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
ca. 1945
The creator compiled or maintained the series between:
8/1945 - 8/1945
General Note(s):
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写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147832
Agency-Assigned Identifier: JHL-359 引用。
写真(右):1945年8月以降、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆したローマ・カトリック教会の浦上天主堂(左の高台の上):
Title: Roman Catholic Cathedral in background on hill, Nagasaki, circa 1945.
National Archives Identifier: 519387
Local Identifier: 77-AEC-52(4459)
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
ca. 1945
The creator compiled or maintained the series between:
8/1945 - 8/1945
General Note(s):
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写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 519387
NAIL Control Number: NWDNS-77-AEC-52(4459) 引用。
写真(右):1945年8月9日、長崎への原爆投下で破壊された浦上天主堂(カトリック浦上教会):Title:Victim of the Atom Bomb Explosion over Nagasaki.
National Archives Identifier: 519384
This item was produced or created:
ca. 1945
The creator compiled or maintained the series between:
8/1945 - 8/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 519384 NAIL Control Number: NWDNS-77-AEC-48(27) 引用。
浦上天主堂(カトリック浦上教会)は、1895年(明治28年)2月に、フランス人宣教師フレノーの設計で、起工されたが、東洋一の規模を誇ったために、完成したのは、1914年(大正3年)だった。3月17日、 浦上天主堂の献堂式が開催された。31年後の1945年8月9日、アメリカ軍のB-29 爆撃機「ボックスカー」は、プルトニウム型原爆「ファットマン」を投下し、聖堂は破壊された。
浦上天主堂は爆心地から500メートルで、赤レンガ造りの構造だった聖堂は、爆風によって倒壊し、火災によって屋根や床は焼失した。堂壁も大半が崩壊し、敷地の聖人石像なども大破した。鐘楼は左右にあったが、片方は聖堂内部に倒れ、もう片方は近くの外側に転げ落ちた。原爆投下の時間帯には、大浦天主堂では、聖母被昇天祭が開かれており、信徒が参集していたため、司祭・西田三郎以下、多数の信徒が殺された。
浦上天主堂(カトリック浦上教会)は、原爆爆心地から北東へ500mの地点であり、全壊した建築物は、1959年に再建された。原爆を記念するために、遺壁の一部は爆心地に移設され、長崎原爆資料館にも聖堂南側入口の再現、被爆した石造などが保管・展示されている。
写真(右):1948年3月17日、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆した浦上天主堂(カトリック浦上教会):
Title: Nagasaki, Japan after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-365. [Photograph by: Unknown]
National Archives Identifier: 39147844
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03728
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
17/3/1948.
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147844
Agency-Assigned Identifier: JHL-365 引用。
写真(右):1945年8月以降、九州、長崎、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆したローマ・カトリック教会の司教:
Title: Roman Catholic Cathedral, Nagasaki.
National Archives Identifier: 519386
Local Identifier: 77-AEC-52(4457)
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:
ca. 1945
The creator compiled or maintained the series between:
8/1945 - 8/1945
General Note(s):
Use War and Conflict Number 1243 when ordering a reproduction or requesting information about this image.
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 519386
NAIL Control Number: NWDNS-77-AEC-52(4457) 引用。
被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)
1. 直接被爆者 原子爆弾が投下された際、当時の地名で次の区域において、直接被爆した者。
<広島>
広島市内
安佐郡祇園町
安芸郡戸坂村のうち、狐爪木
安芸郡中山村のうち、中、落久保、北平原、西平原、寄田
安芸郡府中町のうち、茂陰北
<長崎>
長崎市内
西彼杵郡福田村のうち、大浦郷、小浦郷、本村郷、小江郷、小江原郷
西彼杵郡長与村のうち、高田郷、吉無田郷
2.入市者 原子爆弾が投下されてから2週間以内に、救援活動、医療活動、親族探し等のために、広島市内または長崎市内(爆心地から約2kmの区域内)に立ち入った者。
※広島にあっては昭和20年8月20日まで、長崎にあっては昭和20年8月23日まで。
3.救護、死体処理にあたった者
原子爆弾が投下された際、又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者。例えば、被災者の救護、死体の処理などをされた者。
4.胎児 上記の1から3に該当した方の胎児であった者。
※長崎にあっては、昭和21年6月3日まで、広島にあっては、昭和21年5月31日までに生まれた者。
写真(右):1948年3月17日、長崎への原子爆弾「ファットマン」による被爆者。原爆の効果を調査する資料として撮影された。:
Title: Nagasaki, Japan bomb victim after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-351. [Photograph by: Unknown] Archives Identifier: 39147820
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03716
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
This item was produced or created:
17/3/1948
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147820
Agency-Assigned Identifier: JHL-351 引用。
被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)は、2017年(平成29年)3月末現在、で
1号被爆者 10万2,346人
2号被爆者 3万6,962人
3号被爆者 1万8,158人
4号被爆者 7,155人
合計 16万4,621人である。
2001年(平成23年)3月31日時点の被爆者は、全国で21万9410人だった。
「被爆者」には、被爆者健康手帳が交付される。被爆者が病気やけがなどで医者にかかりたいとき、この手帳を健康保険の被保険者証とともに、都道府県知事が指定した医療機関に持参することで、無料で診察、治療、投薬、入院がうけられる。
写真(右):1946年1月21日、広島への原子爆弾「リトルボーイ」、長崎への原子爆弾「ファットマン」により被爆した長崎。原爆の効果を調査する資料として撮影された。:
Title: Studies of atom bomb effects on human. Formerly secret. Declassified 9/10/1959. Photograph taken January 21, 1946. John H. Lawrence Collection-193. [Photograph by: Unknown] National Archives Identifier: 39147814
Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03713
Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent)
From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014
Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
This item was produced or created:
21/1/1946
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147814
Agency-Assigned Identifier: JHL-193引用。
広島県庁北側(現在の平和記念公園付近)で安田高等女学校女子生徒は、空襲による火災炎上を食い止めるために建物と建物の間に空間を作る建物疎開作業に動員されていた。女生徒ばかりでなく、引率の教師たち5名も亡くなった。広島市中区白島北町1‐41、安田学園には、安田高等女学校の職員13人、生徒315人の死亡者の名前を刻んだ安田高等女学校職員生徒慰霊碑があった。
戦後、アメリカ軍は原爆被害と防備について調査するために、安田高等女学校の生徒・職員の犠牲者、その正確な被爆位置を調べたが、遮蔽物があり助かった生徒の経験に関心があり、「なぜ助かったのか」がウォーターソン大佐の率いる調査団の研究対象だった。対照的に、壊滅した日本人の犠牲者には関心を示していない。原爆投下でも生き残るための防御方法を研究すために、建築物の素材・構造、生存者の助かった理由などが軍人の関心事であり、犠牲者のいのち自体は、全く大切にはされなかった。
建築物の素材ごとの死亡率は、爆心地1マイル(1.6キロ)範囲で、木造建築物は36%、コンクリート建築物8.3%との結果を得ている。爆風に耐えたコンクリート建築と耐えられなかったコンクリ建築物を比較して、爆心地200mならコンクリート193センチの厚みで遮蔽防御可能と対策を打ち出していあるが、これは将来起こるであろう核戦争の準備である。
安田高等女学校は、罹災生徒の健康診断47人が受診、その際、安田高等女学校の原爆被災と犠牲者の詳細な個人ごとの調査記録報告書を作成していた。これは、職員・生徒の記録の為だったが、女学校の報告書を校長は、学校復旧や生徒の健康回復など医学のためになると手渡した。アメリカ軍の調査団一行は、この調査から、原爆の威力、その防御方法について、放射線被爆について、技術的報告書を取りまとめることができた。原爆爆心地からの距離と死亡率の相関関係を曲線に、建築物内外の区分も含めて、データを整理することができた。生き残った被爆者の治療を期待していた被爆者、医療関係者など日本人の協力者たちは、裏切られることになった。
1947年には、原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission)が設けられ、継続的に原爆被爆者を調査しデータを集めることになった。原爆傷害調査委員会(ABCC)の目的は、被爆者へのインタビューを通じてデータ集することであるが、被爆者たちは、被爆治療の準備だと錯覚させられて、日本側の医師や医学生とともに、調査に協力してしまった。
1951年、この原爆報告書は、主にアメリカ軍に向けて公開されることになったが、第6巻の安田高等学校の女子生徒の被爆詳細が述べられていたため、アメリカ軍の原爆投下への非難を回避するために、機密扱いされ公開されなかった。これは、子供たちの被害・個人情報の公開制限の問題とはほとんど関係ないものであって、政治的、軍事的戦略の問題だった。原爆配備を進めていたアメリカ軍は、広島原爆において、放射線での死亡原因が36%もあることが指摘されているが、アメリカではこのような放射線被爆の被害や悲惨な末路、原爆被爆の後遺症について、情報を秘匿したたまま、1990年代末まで公開することを避けてきたのである。
9. 1945年7月26日、米英中によるポツダム宣言が出され、日本に原爆が投下された。日本は、原爆投下直後から,自ら原爆を開発していたことに言及せずに、原爆の悲惨さ,非人道性を攻撃した。対照的に,アメリカは,原爆終戦和平説が常識化しており,原爆投下部隊は平和と勝利をもたらした英雄である、とされた。しかし、その後、原爆被害の悲惨さ、女子、子供たちの殺戮、被爆の後遺症などが世界に知れ渡るようになると、減額投下の正当性に疑念を持つ人々が増えた。そして、核兵器の抑止力による平和ではなく、原爆など核兵器廃絶の声が高まってきた。
写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたことのメモ:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティ(THE TRINITY TEST)が成功した。
Truman's handwriting on the back of a Potsdam photograph describing telling Stalin about the atomic bomb.
Description: Harry S. Truman's handwriting on the back of a photograph of the Potsdam Conference area, accession number 63-1456-46: "In which I tell Stalin we expect to drop the most powerful explosive ever made on the Japanese. He smiled and said he appreciated my telling him--but he did not know what I was talking about--the Atomic Bomb! HST". See also 62-769 and 769A for negatives." From Potsdam album, 1945
Date: July 19, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-46A引用。
1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、世界初の核実験コードネームトリニティ(TRINITY)が行われ、爆発実験は大成功だった。このアメリカによるロスアラモスでの原子爆弾の爆発実験「トリニティ」の成功まで、アメリカはポツダム会談の開催を引き延ばしていた。翌7月17日(この写真では19日となるがトルーマンはこの場所であって日付は17日)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、ソ連指導者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)に、驚異的な破壊力の爆弾を開発したと、次のように告げ、スターリン相手に優越感を楽しんだ。
"In which I tell Stalin we expect to drop the most powerful explosive ever made on the Japanese. He smiled and said he appreciated my telling him--but he did not know what I was talking about--the Atomic Bomb! HST”
この(ポツダム会場)の中で、私(トルーマン大統領)は、(7月17日)日本に対して最大級の爆発力を持つ爆弾を投下するだろうと、スターリン(ソ連首相)に話した。彼は、笑って私が隠さず言ってくれて感謝するといった------しかし彼は何について話したのか、それは原子爆弾なのだが、分からなかったようだ!ハリー・S・トルーマン。
しかし、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)は、ロスアラモスやイギリスにいたソ連のスパイから、アメリカ軍の原爆開発が完成まじかなことを知っていたし、原爆の破壊力についても聞いていた。実際、ソ連でも原爆も開発が徐々に進んでいたのである。原爆について、関心ないそぶりを見せたのは、ソ連が原爆を恐れる、アメリカの軍事力に対抗できないといった懸念を一切表に出さないためであろう。スターリンは、このトルーマンの言葉をポーカーフェイスで聞いたが、内心ではソ連も原子爆弾を早急に完成させなければならないと決意したであろう。
ポツダム宣言 千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言 (千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)
一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ
五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
出所)国立国会図書館>憲法条文・重要文書>ポツダム宣言:外務省編(1966)『日本外交年表並主要文書』下巻 原書房 の転載
写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日のビッグスリー、前列右から白軍服のソ連首相スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、左端下がイギリス新首相クレメント・アトリー。後列で指導者の後ろに立つのが、右からソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:労働党員アーネスト・ベヴィンは、イギリスの労働組合の代表でTGWUの書記長を1922年から1940年まで務めた現場のベテラン政治家。戦時内閣ではチャーチル首相の下で労働大臣に就任。ストライキを抑え戦時動員に協力した。労働党アトリー首相の下で1951年まで外務大臣を歴任。アメリカのマーシャルプランの積極的受け入れを進める一方で、インド、中東などの植民地独立を認めた。反共産産主義者として、北大西洋条約機構(NATO)の創設に加わった。
The "Big Three" and their foreign ministers gather in the garden of Cecilienhof Palace during the last day of the Potsdam Conference. Seated, left to right: British Prime Minister Clement Attlee, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin. Standing, left to right: Admiral William Leahy, British Foreign Minister Ernest Bevin, Secretary of State James Byrnes, and Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. From Potsdam album, 1945.
Date: August 1, 1945
People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Bevin, Ernest, 1881-1951
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-23引用。
日本の俗説では、1945年7月26日ポツダム宣言を日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとされる。しかし、鈴木貫太郎首相が、7月27日ポツダム宣言黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断されたから、原爆投下がなされたとする「ポツダム宣言黙殺説」は誤りである。鈴木首相のポツダム宣言の黙殺発表は、降伏しない、徹底抗戦するという内閣組閣当初からの方針を述べただけで、鈴木首相が終戦のために組閣されたという俗説の誤りを証明することにはなる。
他方、鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言をする以前から、アメリカは日本に原爆を投下することを決定していた。それも、トルーマン大統領の主導ではなく、「マンハッタン計画(Manhattan Project)」指揮官のレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の作成した命令書によってである。ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領も、日本が,ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)国務長官の作成したポツダム宣言を受諾しないと考え、軍事目標に対して原爆を8月10日までに投下することを決めていた。対ソ戦略を有利にするために使用したのである。
1945年7月16日、ニューメキシコ州・アラモゴード(Alamogordo)で世界初の核実験コードネーム「トリニティ」が行われた。爆弾コードネーム「ガジェット」で、長崎に投下された「ファットマン」と同じプルトニウム型原爆であった。「トリニティ」は、原爆爆発失敗という大失態を回避するために必要であったが,1945年7月16日の実験成功から、実戦配備を行ったため、原爆投下が可能な期日は、1945年8月上旬となった。配備して直ぐに原爆投下に出撃した。
1945年8月6日0245(現地時間):日本本土に向けて、第509混成部隊の重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ」は、テニアン島ノースフィールド基地を離陸。2分間隔で、2機の観測機のB-29も後を続く。
1945年8月6日0815:31600フィートから重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ」が原子爆弾を広島に投下。50秒後に爆発。市街の80%を破壊し、7万1,000任意上を殺戮。
1945年8月6日1458:重爆撃機ボーイングB-29「エノラ・ゲイ:Enola Gay」テニアン島に帰還。1時間以内に2の観測機も帰還。
原子爆弾による被災によって健康に障害をもたらす原爆症が出ることが多い。これには、?熱線による創傷・熱戦による火傷、?放射線による急性放射線障害、?放射線による晩発性障害(白血病、白内障、瘢痕性萎縮など)がある。
写真(右):1945年10月、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が広島市に投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」によって破壊された長崎で見つかった白骨:
The Destroyed Steel Frame of Fragmented Human Skeleton Left by the Atomic Bomb in Nagasaki, Japan
This is a photograph of a fragmented human skeleton left by the atomic bomb in Nagasaki, Japan. From Basil Rice.
Date(s)
October 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2018-228引用。
史跡探訪:長崎原爆資料館チャールズ W.スゥイーニー(1997)黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(原書房)
「午前2時56分(現地時間)、ボックスカーは十三名の乗員を乗せテニアン島A滑走路を離陸した。7時45分、屋久島上空9000mで随伴機一機と会合し、先発した気象観測機から第一目標の 北九州・小倉は快晴が期待できるとの報告を得て、予定通り小倉に原爆を投下することとした。ところが爆撃行程に入って、小倉上空には前夜の八幡攻撃で発生した大量の煙が流れ込んで目標を視認できなかった。ボックスカーは 爆撃行程を3回繰り返したが目視攻撃ができず、その上高射砲や戦闘機の迎撃が激しくなったので、あきらめて第二目標の長崎に向かった。」
長崎には高度9000mで北西方向から進入。1800〜2500mの間が80〜90%積雲に覆われていた。レーダー爆撃を決心したが、投下寸前に雲の隙間から地上が現れたので、11時1分、原爆を投下。予定照準点から3km北の地点であった。投下後、直ちに急降下しつつ左へ急旋回し、北東へ向け全力で離脱。爆発の衝撃波を避けた後、旋回しつつ観測を続け、沖縄に向け南下。
4.5トンの重さのあるプルトニウム爆弾「ファットマン」は高度580mで確実に炸裂するよう四種類の信管各二個が取り付けていた。時限信管は投下四十三秒後、気圧信管は気圧高度五百八十メートルで、近接信管は地上580mからのレーダーエコーで、着発信管は地上に衝突したときに作動するよう設定されていた。その作動性を確認する投下試験に出発の僅か24時間前に成功するという綱渡りを続けてきた。
巨大な爆弾(パンプキン)をB-29の弾倉から投下し急旋回して離脱する訓練をしたあと、実際に爆薬入りのパンプキン(1万ポンド爆弾)を日本の諸都市に投下する経験を積んで本番に備えた。」(チャールズ W.スゥイーニー(1997)黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(原書房)引用おわり)。
写真(右):1945年10月、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が広島市に投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」によって破壊された長崎の鉄骨:
The Destroyed Steel Frame of This Unidentified Building in Nagasaki, Japan
Description: This is a view of a destroyed area in Nagasaki, Japan after the atomic bomb. From Basil Rice.
Date(s)
October 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2018-219引用。
長距離重爆撃機ボーイングB-29”Bockscar”機長チャールズ・スウィニー(Charles W. Sweeney)少佐がナガサキ上空で雲の切れ目を見つけ、原爆を目視投下したとの虚言を使ったのは、レーダー爆撃では命令違反となってしまうためだった。原爆投下という至高の命令を実施するために小倉上空まで飛び、雲で目標視認できず、長崎に向かった。ここでも、目標は視認できず、燃料不足から、沖縄に向かうしかない状況だった。このまま原爆を投下せずに帰投すれば、この次の投下命令は、違う搭乗員に命じられる。したがって、自分が英雄になるためには、何としても原爆を投下するしかなかった。そのために、雲の切れ目が見つかり、すかさず投下したと嘘をついた。 雲の切れ間に目標を発見したとして、すかさず原爆を投下できるわけがない。投下には進路・速度・高度などを割り出す必要があるり、雲の切れ目が目標に最適な投下地点だったという僥倖だったとしても、このことはすぐにはわからないのだから。自分たちクルーが英雄になることに比較すれば、レーダー爆撃は許される方便だった。
戦後退役軍人会を主導し、戦後50年(1995年)
スミソニアン航空宇宙博物館(ボーイングB-29”Bockscar”によって長崎市に原子爆弾「ファットマン」が投下されたのは広島の3日後。第一目標が八幡製鉄所に近い小倉市、第二目標が長崎市、そのほか福岡市、佐世保市のいずれかであった。しかし、福岡と佐世保は1945年6月に爆撃済みで、第一発目の大成功を聞き及んでいた長距離重爆撃機ボーイングB-29”Bockscar”機長スウィニー(Charles Sweeney)少佐は、なんとしても今回、原爆を投下し、第一級の選定目標を壊滅させたかった。当時、長崎市の人口は24万人と推定されており、即死は推定3万5千名、負傷6万名。投下後の負傷者の死亡を含めると死者7万名以上。
1945年8月、長距離重爆撃機ボーイングB-29「ボックスカー」は、第一目標は、小倉(北九州)だったが、目視爆撃できなかったため第2目標の長崎に向かった。ここで、雲の切れ目があり原爆を投下したことになっているが、実際に目視爆撃したのかどうか疑わしい。目視爆撃という「不適切な行動」を認めるわけにはいかないので,運良く雲の切れ目が見つかったとの報告が受け入れられた。マイクロ波レーダー搭載の爆撃機は、海岸線にある長崎を明瞭に捉えており,目視爆撃でなくとも原爆投下可能だった。しかし、原爆を抱えたまま、沖縄に不時着するという失点を犯したくなかった重爆撃機ボーイングB-29「Bockscar」搭乗員が、雲の上からレーダー爆撃したのかもしれない。不名誉な「目標を視認できず」は黙殺され,米軍内部でも不問に付された。
写真(右):1945年10月、8月9日にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」が広島市に投下したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」によって破壊された長崎の市街地:
Effects of the Atomic Bomb in Nagasaki, Japan
Description: This photo shows the damage caused by the atomic bomb dropped on Nagasaki, Japan. The buildings in the back of the photo may have been sheltered by the hill behind it. From Basil Rice.
Date(s)
October 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2018-226引用。
1944年7月当時の戦記小説に原爆が登場していたくらいであるから、新聞記者も「原爆投下」の事実を知ったのかもしれない。あるいは、軍が米国に自らの科学的知見を表明しておくために、原爆と表現させたのかもしれない。
原爆かどうかを調べるために、海軍の呉鎮守府調査隊が8月7日に広島入りし、未使用のエックス線フィルムが感光していたことなどから「ウラン爆弾と推定できる」と8日付で報告した。また、京都帝国大荒勝文策教授を中心とした調査団6人は海軍の要請を受け、1945年8月10日、広島に入った。そして、海軍の調査団と合流し、8月14日までに計二回、土壌調査を実施。8月15日付で海軍技術研究所に「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンケツス」の緊急電報を発信。受け取った海軍は「新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス」の一文を電報に書き込んだ。(⇒中国新聞'05/7/24「被爆9日後の電報」引用)
日本の軍部・政治的指導者は、原爆の威力を認識したが、被害については、他の諸都市への無差別爆撃と同じく「広島市が焦土化した」に過ぎない。原爆だから大変だ、という意識はなかった。軍部・政治的指導者たちは、日本の諸都市が焦土と化していることに慣れてしまっていた。原爆の威力を恐れて降伏しようとするものはなかった。
1945年8月9日、長崎に原爆を投下したアメリカ陸軍の重爆撃機ボーイングB-29”Bockscar”の機長チャールズ・スウィニー(Charles Sweeney)少佐は、戦後、退役軍人教会の会長にもなり、1995年のスミソニアン航空宇宙博物館(The Smithsonian's National Air and Space Museum)での原爆50周年展示計画について、原爆投下に疑問を抱かせることを容赦しなかった。米国議会も、原爆投下の正当性を主張し、投下した米国が加害者であるとの「誤解」を認めなかった。
1945年8月6日、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「エノラゲイ」は、広島にウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下、午前8時15分に原爆が炸裂した。
1945年8月8日、モスクワでソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフは、日本の駐ソ連大使佐藤尚武を呼び、「日本がポツダム宣言の降伏提案を拒否したため、連合国が申し出た戦争終結を早め、犠牲者を少なくするためにソ連の対日参戦提案を受諾し、8月9日から日本と戦争状態に入る」と対日宣戦布告をした。これは、ヤルタ密約で、ドイツ降伏後、2から3カ月で対日参戦するという期限が丁度到来した日時だった。8月9日未明、ソ連は満州に侵攻した。ソ連軍が日本領の南樺太、千島列島に侵攻するのは数日だってからである。
1945年8月9日、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」は、長崎にプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下、午前11時2分に原爆が炸裂した。
1945年8月9日、原爆投下に関して,西部軍管区司令部発表「---敵は口に正義人道を唱えつつ,無辜の市民を爆殺する暴挙にで出ている----。この新型爆弾を使用することによって,戦争の短期終結を急ぐ焦慮ぶりを、いよいよあらわしていると見るべきである。----今回の新型爆弾に対しても着々として対策が講じられるであろう。-----」
陸軍大臣阿南惟幾の訓示「死中活あるを信ず。---全軍将兵宜しく一人も残さず楠公精神を具現すべし,而して又時宗の精神を再現して醜敵撃拭に邁進すべし」。
1945年8月9日、御前会議では、ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べた。終了後,大元帥昭和天皇は、木戸幸一に次のように語った。
「本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。(『木戸幸一日記』[御前会議
引用])
1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズに降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したい希望がある」"The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, ---(日本政府は,ポツダム宣言の受諾準備よし。)
マリアナ諸島には、日本を敵として戦ったアメリカ軍の退役軍人なども訪れ、戦争と自分・戦友・敵の経験を見つめなおしている米英など連合国では、原爆終戦和平説が信じられ、原爆の非人道性を問題視する人々は、少数派でだった。しかし、近年、核兵器廃絶を支持する世論が着実に高まっているようだ(⇒TheWE.cc website.)。
2004年6月15日、サイパン侵攻を記念して第二次世界大戦60周年記念式典が挙行された。行事は15日にまずサイパンのガラパン市アメリカン記念公園、16日にテニアン旧北飛行場で挙行された。テニアンでは、埋め戻されていた二個の原爆搭載ピットを掘り返して公開された。以下は,式典に参加した唯一の日本人研究者の史跡訪問「テニアン島周遊」の引用である。
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「2004年6月の式典では、最後に原爆投下第一号B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」機長だったティベッツ大尉が車椅子から立ち上って演説した。89歳になる彼はパイロットか航空技術者らしい実直な話し振りで広島に原爆を投下した当時を時には笑いも交えて克明に語った。原爆を投下したがために、日本本土上陸作戦を行わずして日本を降伏させることができたというくだりも淡々と語った。広島長崎の市民が多数犠牲になったとしても、上陸作戦で失われたであろう数十万人のアメリカ軍兵士の命に代え難い、というのがティベッツを始め退役軍人達の意見であり広く米国人の間に受け入れられている。」
枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の抗戦意志を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。米軍は、日本本土上陸作戦を実施し、日本を無条件降伏させる準備をしていた。
原爆投下によって終戦の聖断が下ったという俗説は誤りである。原爆投下は、口実であり、本質は、国体を護持するためである。国体護持への危機感は、連敗続きの軍部への反感、国難を救済できない天皇への不満、共産主義国ソ連の対日参戦に由来する。民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦にあって、国民の離反が確実になる前に、終戦が決断された。日本の大多数の政治家・軍部は、核兵器と核戦略を認識していなかった。国民に被害状況のわからない原爆投下は、終戦決定=聖断に大きな影響力をもっていない。
終戦の詔勅の「-----敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ノ測ルヘカラサルニ至ニ----」とあるが、大量破壊・大量殺戮は、原爆投下前の都市無差別爆撃でも同じだった。原爆投下は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化するのに用いられた。
しかし、世界で唯一の被爆国という日本の政治指導者が「国民保護ポータル」で訴えているのは、安田高等女学校の生徒・職員の犠牲者をデータとして扱う次の「武力攻撃やテロなどから身を守るために:原爆戦争防御方法」である。
みなさんの身の回りで急な爆発が起こった場合は、警報が発令された、 されていないに関わらず、以下のことに留意しましょう。
(1) 火災が発生した場合 ●できる限り低い姿勢をとり、急いで建物 から出ましょう。 ●口と鼻をハンカチなどで覆いましょう。
(2) 瓦礫に閉じこめられた場合 ●明るくするためにライターなどにより火をつけないようにしましょう。 ●動き回って粉じんをかき立てないようにしましょう。口と鼻をハンカチなどで 覆いましょう。 ●自分の居場所をまわりに知らせるために、配管などを叩きましょう。 ●粉じんなどを吸い込む可能性があるので、大声を上げるのは最後の手段と しましょう。
●とっさに姿勢を低くし、身の安全を守り ましょう。 ●周囲で物が落下している場合には、落 下が止まるまで、頑丈なテーブルなど の下に身を隠しましょう。 ●その後、爆発が起こった建物などから できる限り速やかに離れましょう。 ●警察や消防の指示に従って、落ち着いて 行動しましょう。 ●テレビやラジオなどを通じて、行政機関 からの情報収集に努めましょう。(「国民保護ポータル」引用終わり)
原爆終戦和平論は、核兵器の保有・使用を正当化してきた。しかし,日本も都市無差別爆撃を実施し,原爆開発をしていたのであって,一方的に空襲と原爆の被害者であると主張しても,その主張は,中国や米国など連合国だった軍人・市民には,受け入れがたいものであった。また,日本の原爆開発は未熟すぎてお話にならないというのは,軍事技術だけに注目した過小評価である。原爆を開発,保有しようとした軍事的意図こそ議論されるべきであろう。21世紀の軍事技術の水準で言えば,近隣国が未熟な核兵器を少量もっていること簡単に粉砕できるから,そのような核兵器開発は無視できる----とは思えない。そうであれば,日本による原爆開発も無視してはいけないのであろう。
総力戦の本質は、大量破壊、大量殺戮であり、戦略爆撃思想の延長線上に「勝利と平和のための」核兵器の開発・使用がある。
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