鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
戦艦「武蔵」◇Battleship Musashi 2016
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◆レイテ沖海戦の戦艦「武蔵」撃沈◇Wreck of Japan's Battleship Musashi
写真(上左):戦艦「武蔵」の船尾スクリュープロペラ
;2015年3月3日 - 米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレンPaul Allen))氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で、アメリカ海軍艦載機の投下したマーク13型航空魚雷(直径57cm・重量1トン・炸薬600ポンド・速度 33.5ノット・射程5,700ヤード)と爆弾が命中して撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。
写真(上右):戦艦武蔵野の搭載していた八九式12.7センチ高角砲の薬莢底部;ポール・アレン(Paul Allen)氏は、SNS"www.paulallen.com”に武蔵発見(Exploration :Finding the Musashi)の海中撮影動画を公開した。当研究室は、Exploration :Finding the Musashiの動画の静止画像を引用。



◆2016年9月3日(土)21時ー22時13分 NHK総合テレビで「ドラマ 戦艦武蔵」が、「戦艦武蔵をめぐって出会った人々の魂の物語」として石原さとみ主演で放送。NHKのwebsiteには次のようにある。
「戦艦武蔵とは、全長263メートル、総排水量72,809トン。常識を超える厚さの「巨大甲板」、世界最大の「46センチ主砲」を持つ武蔵は、大和と同型艦。いかなる攻撃でも沈まない「不沈艦」として造られました。1944年10月24日のレイテ沖海戦。大和と共に出撃したが、アメリカ軍の猛攻を集中的に受けて、味方の援護もなく孤立。魚雷、爆弾合わせて40発以上という、世界軍艦史上最多の被弾により沈没しました。戦死者は乗組員2 ,399名のうち1 ,023名にのぼります。※数字には諸説あります。
この戦いを生き延びた元乗組員や戦死者たちの遺族にとって、去年3月の武蔵の発見はその心を大きく揺さぶるものでした。夫や父がどこでどのように死んだのか知りたいと願ってきた者、自分だけが生き残ったという罪の意識に苛まれ続けてきた者、不沈艦武蔵の沈没を認めず今回の発見を否定し固く心を閉ざす者・・・。 私たちは、今や高齢化し健在する人が少なくなりつつある武蔵の元乗組員たち、遺族を取材し70年の時を隔てて武蔵と“再会”した彼らの思いをドラマ化しました。合わせて、攻撃を受けて撃沈されるまでの9時間にわたる武蔵の戦闘をVFX(Visual Effects)によって再現、迫力ある映像なども駆使しながら、元乗組員と遺族のメッセージを描きます。(現実を再現したかのように合成画像が安易に多用され、それを売り物にしている:筆者注)
去年3月に発見された戦艦武蔵。世界最大とうたわれた巨大戦艦の元乗組員と遺族の魂の交流を描いた人間ドラマ。28歳の介護職員の真中麻有(石原さとみ)は、ある人物を探しに四国に旅に出た。麻有が探しているのは、武蔵の元乗組員の木山三男(津川雅彦)。実は、麻有の祖父・俊之は戦艦武蔵の元乗組員。その祖父がどのような最期を遂げたのかを知りたいと、年老いた祖母・ふみ(渡辺美佐子)とともに旅に出たのだ。お遍路に出ていた俊之の戦友、木山を何とか探し当てたふたり。そして、そこに現れた謎の(実は、戦争体験者の話を聞いて海軍や武蔵のことが頭から離れなくなった:筆者注)若者、篠原徹(勝地涼)。木山から聞かされたのは、思いがけない事実(武蔵撃沈後生き残った同僚を救命筏にのせずに自分たちが助かろうと見殺しにした)だった。封印を解かれた70年前の記憶に、4人それぞれの思いが(戦死した兵士の息子については語られないままが)交差していく番組では、武蔵の戦闘の様子をVFX(Visual Effects)で再現、迫力ある映像なども駆使しながら、元乗組員と遺族のメッセージをドラマとして描く。(引用終り)

◎当時を生きている老人と現代の若者のコミュニケーション、乗員の苦悩や思いが伝わってきた。特に、撃沈された戦艦武蔵の生き残りが、レイテ沖海戦の大敗北・武蔵撃沈を日本国民に伝えず隠しておくために、1944年末から1945年2月までコレヒドール島でどのような境遇にであったか、自決・突撃を命令されたのかを明らかにしている。武蔵に乗っていた日本人は「勝つために戦った」と若者男女に語らせる一方で、武蔵生き残りの分隊長が1936年、スペイン市民戦争最中に刊行された、花の好きな牛が闘牛になるのを拒否した話、Munro Leaf『フェルジナンドの物語』(The Story of Ferdinand)をし、部下に「捕虜になっても生きろ」と諭す場面も織り込んでいる。戦った兵士や生き残った人々がどのような思いだったか、様々な立場から語られる。
<NHKドラマの疑問他>
1)レイテ沖で戦う戦艦武蔵の乗員たちは、十代の新兵も汚れてはいるが新品の、体に合った軍服を着用している。「体を服に合わせろ」「おさがり中古」が普通の貧しかった時代を払拭してしまっている。
2)25ミリ三連装九六式機関砲の対空射撃をするが、銃弾が敵機近くで爆発してあたかも近接信管(Proximity fuze)を装備しているようだった。
3)重油を炊くボイラーを備えた戦艦武蔵が航行中に煙突から石炭を炊いた時のような黒煙を吐くことがあるのか。
4)15.5サンチ三連装副砲は、対空射撃もある程度可能だったようだが、敵艦載機がすぐ近くにあるときにも頻繁に射撃しているが射撃方位盤を使わない(?)ゼロ距離射撃ができたのか。
5)戦艦武蔵が沈没した地点が夜半になっても火災が広がっていたが、可燃物が残っていて視界が良好だったのか。
6)火災の中、救助の駆逐艦が接近してきた。海上に浮いていた生き残りの乗員たちは疲労憔悴していたため、助けることができた同僚を見捨てたこともあったようだが、ドラマでは、みな元気そうで、危機感も感じられず、同僚を見殺しにする行為がなぜ起きたのか、よくわからない。
7)最終場面で、VFXで戦艦武蔵が陽光の中を単艦、白い航跡をひいて静かに美しく去ってゆく。この美しい思い出が、戦死者・残された遺族の思い、『フェルジナンドの物語』を伝えたいという妻の訴え、戦争を繋ぐ絆であるとすれば不安になる。兵器の問題はドラマであれば放免できる。しかし、このVFXによる戦艦武蔵のシーンだけは武蔵撃沈を扱う戦争ドラマとしては、違和感があり納得できない。

◆NHKドラマ「戦艦武蔵」は有意義な番組であり、NHKの戦争証言アーカイブズは貴重な情報の宝庫であり、素晴らしい。しかし、ドラマでは、撃沈した武蔵の映像を撮影したアレン氏の話は出てきても、アレン氏の問い合わせに対して、日本政府が即座に「撃沈された武蔵には関知してない」と回答をした事実には一切触れられていない。この礼を失した応対が、「美しい」日本国の歴史を吹聴する政治的指導者が明かした、兵士や残された家族に対する偽らざる本心なのであろう。

1.アメリカ海軍の高速空母任務部隊(タスクフォース)による1944年10月10日の沖縄空襲に際して,日本海軍基地航空隊はT攻撃隊を中核に反撃し「台湾沖航空戦」が勃発した。日本の航空隊は正攻法で爆撃、雷撃を試みたが、戦果はほとんど挙げられず,撃沈した艦船はゼロだった。しかし,航空機の自爆を敵艦炎上と見誤ったのか,大戦果を挙げたと錯覚してしまう。日本陸軍もこの大戦果を信じて,フィリピンのレイテ島に上陸してきた米軍相手の決戦を急遽準備する。

アメリカ新鋭戦艦「ニュージャージー」USS New Jersey (BB-62)は、フィリピン攻略戦の時の第3艦隊(任務部隊を含む)旗艦で、ニュージャージー州生まれの司令長官ウィリアム・ハルゼーWilliam F, Halsey)提督が乗艦。その上官が、テキサス州生まれの太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツChester William Nimitz)提督(真珠湾攻撃後の1941年12月16日任命)である。

写真(左):日本陸軍重爆撃機キ-67「飛龍」;1944年10月の台湾沖航空戦では,このように魚雷を抱いた雷撃機として参戦した。海軍と陸軍の搭乗員が協力した珍しい事例である。アメリカ艦隊を攻撃した日本軍の航空精鋭部隊は,「T攻撃隊」と呼ばれた。台風のTをあらわすという。T部隊編成には軍令部の源田実参謀が関わっている。

1944年10月10日、台湾沖航空戦が起こり、日本軍機は米国任部部隊を攻撃して大戦果を挙げたと報道した。しかし、この戦果報告は,不十分な偵察,撃墜した機体の炎上を敵艦撃沈と見間違えたためにもたらされたものであり,後に健在のアメリカ任務部隊が発見されて誤報と判明した。しかし,日本海軍は,誤報とわかった後も,日本陸軍には訂正をしないままに,台湾沖航空戦の大戦果を挙げたことにしてしまう。誤報が訂正されなかった理由は,既に大戦果が大元帥昭和天皇の上聞に達していたためである。大元帥に誤りを伝えた責任を取る勇気は,大本営の司令官,参謀にはなかった。

写真(右):日本海軍航空隊の三菱一式陸上攻撃G4M;開戦時には,英国戦艦「レパルス」「プリンスオブウェールズ」の2隻を雷撃と水平爆撃で撃沈した。しかし,1944年10月10日の台湾沖航空戦では,練度の比較的高い搭乗員を集めた「T攻撃隊」の一式陸攻でも十分な戦果を挙げ得なかった。機首にレーダーを装備している。

 <台湾沖航空戦の大戦果(虚報)>1944/10/19/1800
 「大本営発表 我部隊は十月十二日以降連日連夜台湾及ルソン東方海面の敵機動部隊を猛攻し其の過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり。 
一、我方の収めたる戦果総合次の如し。轟撃沈、航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、巡洋艦若は駆逐艦一隻、撃破、航空母艦八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、巡洋艦若は駆逐艦一隻、艦種不詳十三隻、其の他火焔火柱を認めたるもの十二を下らず。撃墜、百十二機(基地に於ける撃墜を含まず)。
二、我方の損害、飛行機未帰還三百十二機。(注)本戦闘を台湾沖航空戦と呼称す」

 当時,実戦に不慣れな未熟練搭乗員が多く,空母の損傷を撃沈に、巡洋艦の大破を轟沈にと見間違え、誤報を集計したら過大な大戦果になった。しばらくして海軍の軍令部は実際の戦果はそんなに大きなものでない事に気づいたようだが、陸軍に伝えなかった。(→赫々、台湾沖航空戦引用)

海軍航空隊の鹿屋基地に派遣されていた堀栄三参謀(陸士46期)は,1944年10月の台湾沖航空戦の戦果誤認訂正電報を大本営に打電した。しかし,過大な戦果誤報が既に大元帥昭和天皇の上聞に達していたため,大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐中佐は,修正電報を握りつぶし,誤った過大な戦果報告を訂正しなかった。

これは,大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐が,既に昭和天皇の上聞に達した誤報の大戦果を訂正するという,軍人としては最大の失態の責任をとることを恐れたためである。大元帥昭和天皇に大戦果を報告し喜ばせた後,それがが誤りであると認めて謝罪するのであれば,大本営参謀を辞任するか,自害するしかない。しかし、参謀としての高い地位,安全な場所を維持するためには,誤報訂正しない責任逃れをした。

 フィリピン島攻略を目指すアメリカ陸軍の第6軍は、ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)に率いられて1944年10月20日、フィリピン中部レイテ島に侵攻した。

陸軍中将クリューガー(Walter Krueger)司令官の下にある米第6軍は,2個師団からなる軍団2個を擁し,兵員数は20万2,500名に達した。 これはレイテ島を守備する日本陸軍第16師団の10倍の兵員数を誇っていた。これに、大砲、迫撃砲、機関銃などの火力、戦車、トラックなどの機動力、航空機攻撃や艦砲射撃による支援を含めれば、米軍兵力は日本軍の100倍し相当する。

写真(右):1944年10月20日,レイテ島上陸を演じるマッカーサーDouglas MacArthur元帥(1880年1月26日生 - 1964年4月5日没);2005年にレイテ攻略50周年を祝うアメリカ国防総省のバナー。この有名なレイテ島上陸の写真・映像は,完全な演出(ヤラセ)である。1回目の上陸シーンは,威厳が保てず宣伝効果が薄いと判断し,何回も撮り直して仕上げた。フィリピン亡命政府オスメニャ大統領を引き連れて何回も撮影し,取り直したヤラセの映像である。When Americans stormed ashore at Leyte, it fullfilled a promise made by Gen. Douglas MacArthur made in the dark days following the fall of the Philippines to the Japanese in 1942. この写真は、2004年はフィリピン奪回(フィリピン解放60周年)にあわせて公開された。

フィリピン攻略には将軍の執念が込められていた。

1941年12月22日,ルソン島リンガンエン湾に日本軍が上陸したが、米軍極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)隷下のアメリカ・フィリピン軍はマニラを放棄し,バターン半島で持久戦を戦った。しかし、バターン半島南端のマニラ湾口に浮かぶコレヒドール島にいたダグラス・マッカーサー将軍は、大統領命令で、1942年3月31日にフィリピンからオーストラリアに脱出した。マッカーサーは“I shall return.”「私は帰ってくる」と言い放ったが「敗軍の将」だった。


写真(右):1943年初頭、ソロモン諸島ニュージョージア島侵攻を打ち合わせる米海軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ(Chester Nimitz)元帥と第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー(William Halsey)大将(右)
チェスター・ニミッツ(Chester Nimitz)の階級;January 31, 1910海軍大尉、August 29, 1916海軍少佐、February 1, 1918海軍中佐、June 2, 1927海軍大佐、June 23, 1938海軍少将、December 31, 1941海軍大将、December 19, 1944海軍元帥。
ウィリアム・ハルゼーWilliam Frederick Halsey)提督の階級;February 2, 1906海軍少尉、February 2, 1909海軍中尉、February 2, 1909海軍大尉、August 29, 1916海軍少佐、February 1, 1918海軍中佐、February 10, 1927、海軍大佐、March 1, 1938海軍少将、June 13, 1940海軍中将、November 18, 1942海軍大将、December 11, 1945海軍元帥。
US Admirals Chester Nimitz and William Halsey meet in early 1943 to plan Allied war operations against the Japanese, including the upcoming Operation Toenails invasion of the New Georgia Island group in the Solomon Islands.


連合軍西南太平洋方面総司令官に就任し,太平洋戦争を指揮した。これは,彼の能力の高さ,政治手腕と並んで,政府が米国の最高位の将軍が,敗戦の将となる汚名を負うのを避けたためであろう。

連合軍西南太平洋方面総司令官ダグラス・マッカーサー将軍は,1944年10月20日に自らレイテ島上陸した。上陸シーンを撮影させたが,初回の上陸はゆったりと桟橋をわたっている感じになっていた。これでは,迫力がないとして,上陸を再度やり直し,映像も採り直しさせた。こうした手の込んだ演出(ヤラセ)によって,米軍がフィリピンを開放するために戻ってきた,フィリピンの解放者・自由の旗手マッカーサー司令官というプロパガンダを展開した。


写真(上左):フィリピンに物資・兵員を上陸させるアメリカ軍の戦車揚陸艦LST-168
(Landing Ship Tank);1944年10月以降、フィリピンで撮影。写真(上右):アメリカ沿岸警備隊所属の戦車揚陸艦LST-18。 Coast Guard-manned LST-168 prepares to unload its cargo during the Philippine assault. Coast Guard-manned LST-18 unloads at Leyte.

地図(右):レイテ島攻防戦の経緯;フィリピン、レイテ島東海岸タクロバンに上陸した米軍は,1944年10月、トーマス・キンケードThomas C. Kinkaid)中将(Vice Admiral)指揮下の第7艦隊には、戦艦6隻,重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦29隻に加え、トーマス・スプレーグThomas L. Sprague)少将隷下第77任務部隊として,軽空母・低速護衛空母18隻,駆逐艦22隻が配備された。この第7艦隊の下で、アメリカ軍はフィリピン侵攻(Philippines Campaign (June 1944 - Aug 1945) を、戦車揚陸艦LSTs (landing ships, tank) 151隻,輸送艦58隻,戦車揚陸艇LCTs (landing craft, tank) 221隻,上陸用舟艇LCIs (landing craft, infantry)79隻を投入して開始した。10月17日、レイテ湾口のスルアン島に米軍が上陸。10月20日に、第7艦隊の艦砲射撃の下に、Douglas MacArthur)将軍指揮下の米地上軍は、第6軍The U.S. Sixth Armyを主力、レイテ島東岸タクロバンとドラッグに上陸を開始。

  トーマス・キンケードThomas C. Kinkaid)中将(Vice Admiral)指揮下の第7艦隊は,太平洋における米国最大の艦隊である。

第7艦隊には,オーデンドルフJesse B. Oldendorf)少将の指揮の下に支援部隊として6隻の戦艦Battleships, 4隻の重巡洋艦Heavy Cruisers, 4隻の軽巡洋艦Light Cruisers, 29隻の駆逐艦 Destroyersがある。また,スプレーグThomas L. Sprague)少将指揮下の第77任務部隊に,18隻の軽空母・低速護衛空母,22隻の駆逐艦が配備されていた。さらに,フィリピンを攻略するための陸軍部隊を輸送し,揚陸するために,戦車揚陸艦LSTs (landing ships, tank) 151隻,輸送艦58隻,戦車揚陸艇LCTs (landing craft, tank) 221隻,上陸用舟艇LCIs (landing craft, infantry)79隻と数百隻の輸送船を擁していた。
第7艦隊の艦船総数は738隻に達した。

第3艦隊(中核は第38任務部隊の正規空母群),第7艦隊は,フィリピン攻略部隊を支援し護衛する役割を負っていた。空母(正規空母,軽空母,小型・低速の護衛空母)は32隻で、艦載機1500機近くを搭載していた。支援部隊は,戦艦12隻,巡洋艦23隻,駆逐艦100隻以上である。(→The Battle of Leyte Gulf引用)

  ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)に率いられたアメリカ軍は、1944年10月17日にフィリピンのレイテ島東方スルアン島に上陸した。これは,レイテ島上陸準備のためである。米軍のレイテ島上陸部隊の兵力は、15万名で,150万トンの物資,23万トンの車両、20万トンの弾薬を準備していた。レイテ島の守備が手薄であることをゲリラの通報で熟知していた米軍は,1944年10月20日,レイテ島に上陸した。米軍は,海軍艦艇の砲撃,爆撃によって,京都第十六師団の水際陣地を粉砕して上陸した。  

 レイテ決戦を決断した背景には、台湾沖航空戦の誤報以外にも大きな判断の誤りがあった。第一は,米軍の上陸部隊を2個師団と見誤ったことである。第二は,パラオ諸島ペリリュー島,サイパン島におけるよりも遥かに大きいレイテ島にあって,米軍の進撃速度は遅いと考え,橋頭堡の守備を固めてから、内陸に進撃を開始するまで,1週間前後かかると,過大に見積もったことである。

 第35軍鈴木宗作中将は,フィリピン中部ビサヤ途方の担当で,セブ島,ネグロス島,レイテ島などの日本軍を統率していた。しかし,米軍がレイテ島に上陸したときの、レイテ島守備兵力は,牧野四郎中将率いる垣兵団(京都第十六師団)1万名と警備隊併せて2万名に過ぎなかった。

写真(右):空母「レキシントン」に負傷しながらも帰還したブラウアー少尉の戦闘機グラマンF6Fヘルキャット(1944年10月25日,レイテ湾の戦いにて撮影);1943年後半までには,米軍にF6F戦闘機が多用されると速度,武装,防弾,通信の性能の上で,米軍戦闘機が,日本の代表的戦闘機「零戦」を遥かに上回るようになった。また、宇垣纏『戦藻録』にもF6Fの対艦船攻撃力の脅威が記述され、6丁の高貫通力12.7ミリ機銃エクスカリバーで日本艦船を銃撃して人員・計器に大きな被害を与えている。Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: Removing a wounded pilot, Ensign A.A. Brauer, USNR, from his F6F after a strike on the Japanese fleet on 25 October 1944. Photographed aboard USS LEXINGTON (CV-16). The plane appears to have hit the crash barrier. Copyright Owner: National Archives. Original Date: Wed, Oct 25, 1944 アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-284383 引用。

この第十六師団というのも1944年4月、レイテ島移駐してきた部隊であり,砲兵は乏しく,米軍に抵抗できるだけの火力は備わっていない。また,第十六師団第33連隊は師団司令部に遅れて、ルソン島南部の駐屯地からレイテ島に渡ってきている。

米軍はフィリピン、レイテ島上陸した当日,10月21日にタクロバン市を,10月24日に第33連隊を壊滅させてパロ市を陥落させた。この時点で第16師団は通信施設を失い,師団単位の連絡がとれずに,組織的に反撃することが困難になった。第33連隊も,砲撃と爆撃で壊滅してしまう。

米陸軍少将サイバート(Franklin C. Sibert)司令官の第10軍団は,第1騎兵師団と第24歩兵師団からなっていた。陸軍少将ホッジ(John R. Hodge)司令官 の第24軍団は,第7師団,第96師団からなっていた。補給部隊は,ケイセー(Hugh J. Casey)少将に率いられ,橋頭堡での物資補給や道路・飛行場の建設が任務であった。クリュ−ガー将軍の配下の陸上部隊は,合計で20万2,500名で,レイテ島守備部隊の第16師団の10倍ほ兵力である。

1944年10月25日、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)隷下のアメリカ軍は、レイテ島東岸(太平洋側)から内陸20キロブラウエン市を陥落させた。レイテ島東部の主要飛行場は海岸に1ヶ所,内陸ブラウエンに2ヶ所あったが,みな米軍が制圧し,数日で米軍が飛行場を利用するところとなる。

日本軍は,レイテ島への補給には,西岸のオルモックを,米軍は補給に東岸のタクロバンを使った。しかし,島内の飛行場を使用できたのは,米軍だけであり,制空権は米軍に握られていたから,レイテ島への日本軍の海上輸送は,空襲によって大きな被害を受けた。

 日本陸軍は,当初の予定ではルソン島で米軍を迎撃し,他のフィリピンの島々では,遊撃戦を戦う程度に計画していたのを,台湾沖航空戦の誤った大戦果を信じて,急遽,米軍が上陸してきたレイテ島での決戦に変更してしまう。大損害を負った米軍が無謀な上陸作戦をしてきたと判断したのは,民主主義の米国では,世論や政治家の保身を優先する作戦のために,大損害を認めずに,軍事的配慮の欠けた作戦を実施すると考えたからであろう。参謀本部も南方軍寺内寿一総司令官)も台湾沖航空戦の誤った過大な戦果報告を信じて,予定していないレイテ島決戦を山下将軍の第14方面軍に命じた。

 レイテ島の第16師団2万名は、東海岸に若干の防衛陣地を構築しただけで,米軍の大群を迎え撃つ準備はしていなかった。これは第16師団の手抜かりではなく,日本軍のフィリピン防衛計画は,フィリピン最大の島であるルソン島で決戦することが決定していた。つまり,ルソン島以外の島々では,遊撃戦,持久戦を行い,米軍に対する総攻撃はルソン島で実施する方針だった。

しかし,台湾沖航空戦で,米空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破したと誤報を受けた日本陸軍は,10月17日,米軍がレイテ湾東方とサマール島の間にあるスルアン島に上陸してきた。台湾沖航空戦の直後であり、大本営は10月18日夜,「捷1号作戦」を発動した。台湾沖航空戦で大きな被害を受けたという米軍が,無謀な上陸を敢行してきたと錯覚してしまったのである。実際には,米軍艦艇はほとんど損害を受けておらず,台湾沖の航空攻撃の日本軍の戦果は,誤報だったのである。

第14方面軍司令官山下奉文大将は,ルソン島での決戦を準備しており,レイテ島では地上決戦する計画はなかった。総兵力は,朝鮮半島から徴用した建設労働者も含めて43万2,000名だった。

第14方面軍司令官山下奉文大将は,ルソン島での決戦の方針を変更するつもりがなかったが,大本営,南方軍が米軍を撃滅する絶好の機会と誤って,急遽,レイテ決戦を命じた。そこで,山下奉文大将は、やむを得ずレイテ島へ増援部隊を送る。
こうして,10月22日、南方軍総司令官寺内寿一元帥の命令を受けて、第14方面軍山下大将は第35軍司令官鈴木宗作中将に対してレイテ決戦を電命した。

水際で上陸する米軍に日本軍が抵抗できなかったのは,航空兵力・重砲の支援が得られず,堅固な地下陣地の構築ができなかったためであるが,1945年4月1日の沖縄本島に米軍が上陸してきた時も同じ展開になった。
?海岸平野に日本軍の既成の飛行場があり,
?それを上陸してくる米軍から防備できずに,すぐに放棄せざるをえなくなったものも,
?後になって,日本軍が飛行場の奪回を企図し,攻撃するのも,
?必死の空挺部隊(高千穂部隊義烈空挺部隊)を飛行場に突入させるのも,
?空と海の特攻を行うのも,?そして日本軍が惨敗するのも,まったく同じである。
レイテ戦と沖縄戦は似ているところが多い。

写真(左):フィリピンのビサヤ地方レイテ島に戦車揚陸艦LSTで上陸する米軍;1944年10月に米軍は,レイテ島東岸(太平洋側)タクロバン付近に上陸した。

レイテ戦の当初,日本陸海軍は、ルソン島に集中していたためか、偵察も防備も不十分だった。1944年末まで日本軍はレイテ島に歩兵部隊や補給物資を輸送する「多号作戦」を実施した。しかし,輸送に使われた艦船のうち49隻が沈没、機帆船や大発など小型舟艇も300隻が沈没した。

満州に配備されていた東京第1師団も,レイテ島に派遣することが決まっていた。1944年10月30日夜、マニラを出向した第1師団を乗せた船団は、11月1日、レイテ島西岸のオルモック上陸を無事果たした。しかし、これは栗田中将隷下の第二艦隊、小沢中将隷下の第三艦隊(第一機動部隊)がアメリカ艦隊を引き寄せ、その後、特攻作戦が始動していた時期に、隙をついて成功した輸送であった。

こうして、レイテ島に増援部隊を送り込み,ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)隷下のアメリカ軍を地上戦で壊滅させる計画が立てられたが、これは全てレイテ沖海戦で日本海軍が大敗北を喫した後に進められた無謀な作戦だった。

2.レイテ島に上陸したアメリカ軍輸送船団とそれを支援するアメリカ艦隊を迎撃するために、捷一号作戦が発動された、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、戦艦「大和」「武蔵」など戦艦7隻を中核とする第二艦隊を率いる栗田健男中将にレイテ湾に突入を命じた。戦艦「武蔵」は敵艦に対して初めてその驚異的な攻撃力を発揮する機会が与えられた。

写真(右):1941年9月20日、日米開戦、に呉海軍工廠で艤装中の戦艦「大和」;大和級戦艦の全長は263メートル、46サンチ砲の砲身は20メートルある。Description: (Japanese battleship, 1941-1945) In the late stages of construction alongside the large fitting out pontoon at the Kure Naval Base, Japan, 20 September 1941. The aircraft carrier Hosho is at the extreme right. The store ship Mamiya is in the center distance. Note Yamato's after 460mm main battery gun turret, and superfiring 155mm secondary battery gun turret. Courtesy of Lieutenant Commander Shizuo Fukui. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: NH 63433 引用。


軍艦「大和」
起工 1937年11月4日,進水1940年8月8日,竣工1941年12月16日。
基準排水量 6万5,000トン,満載排水量 7万2,808トン。
全長 263.0m,全幅 38.9m,深さ(吃水) 10.58m
最高速力 27.4ノット,機関出力 15万3,000馬力 (軸数4),乗員3300名。
46センチ三連装砲塔3基,大改装後:60口径三年式15.5cm三連装砲塔2基6門,40径八九式十二糎七高角砲2連装砲塔12基24門。
ワシントン条約満了後に完成した列国の新鋭戦艦、たとえばアメリカのニュージャージー級、ドイツのビスマルク級、イタリアのヴィットリオ・ヴェネト級は30ノット以上の高速であり、若干古いイギリスのキング・ジョージ5世級も28ノット以上だったから、戦艦大和級の27ノットという速力では30ノット以上の航空母艦(空母)には同伴できない鈍足となってしまった。しかし、1937年の日中戦争開始時点で建造開始,日米開戦直後に竣工したのは興味深い。

1944年10月22日ボルネオ島ブルネイ出撃,10月23日巡洋艦「愛宕」沈没により第二艦隊旗艦(司令長官栗田健男中将)になる。10月24日シブヤン海海戦。

大和級戦艦が46サンチ三連装砲を使った水上艦艇への砲撃は、このレイテ沖海戦の時だけだった。このとき米機の投下した爆弾が命中。戦艦大和の主砲斉射31回。10月25日、サマール沖海戦。米護衛空母群に主砲斉射124発。10月26日米機の投下した爆弾命中。主砲斉射18発。日本側の戦記では、護送空母や小型駆逐艦を主砲・副砲の射撃によって撃沈したと記しているが、46サンチ砲で撃沈し敵艦は一隻もない可能性もある。


写真(上左);1941年10月30日,九州・四国間の豊後水道で公試中の戦艦「大和」
;(Japanese Battleship, 1941-1945) Running trials, on 30 October 1941. Courtesy of Mr. Kazutoshi Hando, 1970. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 73092 引用。
写真(上右):1941年10月30日、公試中の「大和」;(Japanese battleship, 1941-1945) Running trials, 30 October 1941. This photograph was seized by Occupation Authorities in Japan following the end of World War II. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.Naval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-704702 引用。いずれの写真も,戦後、占領軍に押収されたもの。


日本海軍の軍艦「武蔵」は、大和型戦艦の二番艦として、日中全面戦争の始まった1937年11月仮称「第一号艦」として呉海軍工廠で起工。1940年8月8日,極秘進水。日米開戦後,1941年12月16日竣工。満載排水量 7万2800トン。全長 263m,全幅 38.9m,最大速力 27.4ノット,航続距離 7500マイル/16ノット(海里は「カイリ」ともいうが海軍では「マイル」と読んだ) 主砲 9門 x 18インチ砲(46サンチ三連装砲)。46糎砲は,砲身長20m、砲弾長2m、砲弾重量1.5t、砲弾初速780m/s,射程42km。砲塔は、バーヘッド直径13m、重量2700t.1942年5月のミッドウエー島攻略作戦に初出撃。

レイテ沖海戦で栗田健男中将隷下の日本海軍第一遊撃部隊・通称「栗田艦隊」に所属した戦艦「武蔵」は、宇垣纏中将を司令官とする第一戦隊に加わり、戦艦「大和」、戦艦「長門」とともに戦った。「武蔵」は、左右両舷の副砲の15.5サンチ三連装砲塔を2基撤去して、そこに12.7サンチ連装高角砲を装備する計画だったが、この高角砲の増設工事が完了しないうちに出陣することになった。そこで、高角砲搭載予定場所には、25ミリ三連装機銃を合計6基増設した。

1944年9月25日、「武蔵」航海長が、海兵(海軍兵学校卒業)51期池田貞枝中佐(戦後も存命)から海兵52期の仮谷実中佐へ交替している。戦艦「武蔵」の早田の経験を積んできた航海長を、決戦前夜の緊迫した時期に、定例の定期異動によって変更する感覚は理解しがたい。

1944年10月24日、レイテ沖海戦に参加した戦艦「武蔵」は、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツChester William Nimitz元帥隷下の第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼーWilliam F, Halsey)大将率いる高速空母任務部隊の雷撃・爆撃と機銃掃射を受け、シブヤン海で沈没した。また、沈没前に、第一艦橋(前部艦橋)に直撃弾を受けており、航海・通信関連の部員と資料に大損害を受けた。したがって、戦艦武蔵の戦闘記録は残っているといっても、全て、後からの証言をもとに作成されたものである。戦艦武蔵の戦闘詳報、航跡図、電信記録などの実物は残っていない。そこで、戦闘後に、生き残った戦艦武蔵の海軍士官が、戦闘詳報を作成した。混乱した戦場で第一次記録が消失したため、少数の士官の記憶に頼った戦闘詳報は、その後の戦艦武蔵野生き残った兵・下士官の証言や、公道をともにしていた第二艦隊の他の艦艇の戦闘詳報告、生存者の証言とも食い違いが少なからずある。

写真(右):戦艦「武蔵」の第一艦橋(前部艦橋);最上部に射撃装置・方位盤、その両脇に敵艦との距離を測定する測距儀。1942年6-7月、瀬戸内海で公試最中に撮影されたものと思われる。新造時なので測距儀の上に二一号電波探信儀はまだ装備されていない。レイテ沖海戦で武蔵の第一艦橋は被弾し、猪口敏平(いのぐち としひら:1896-1944)は負傷、多数の司令要員が死傷した。そして戦闘詳報、通信電文、航海図なども焼失した。

戦艦「武蔵」
1938年3月建造開始、1940年11月進水、1942年8月竣工
基準排水量:6万5000トン、 満載排水量(砲弾や燃料を満載した状態):7万4200トン
全長:263メートル、全幅:38メートル
最高速力:27.5ノット(一号艦「大和」公試速力は27.3ノット)
航続距離(燃料満載):16ノットで77200マイル(要求)、16ノットで1万2000マイル、重油搭載量:6400トン 
乗員:2500-3200名(機銃増備に伴い乗員増加)。
兵装:主砲45口径46サンチ三連装砲九門、46サンチ砲の砲身長は20m、砲弾長2m、砲弾重量1.5t、砲弾初速780m/s,射程42km。
副砲60口径15.5センチ三連装砲は当初十二門、改装後六門。
対空兵装:40口径12.7センチ連装高角砲、当初十二門、改装後二十四門に増備予定だったが、十二門のままで高角砲台に25ミリ三連装機銃を配備。
対空機銃:25ミリ三連装機銃35基、25ミリ単装機銃25基、13.2ミリ二連装機銃2基
装甲:舷側水線部410ミリ、甲板220ミリ、主砲防盾650ミリ、防御司令艦橋500ミリ
艦載機:水上偵察機2機・水上観測機2機(合計7機)、爆薬式射出機(カタパルト)2基

戦艦「武蔵」歴代艦長
第一代.有馬 馨 大佐:1942年(昭和17年)8月5日〜1943年6月9日
第二代.古村 啓蔵 大佐:1943年(昭和18年)6月9日〜1943年12月5日
第三代.朝倉 豊次 大佐:1943年(昭和18年)12月6日〜1944年8月11日
第四代.猪口 敏平 少将:1944年(昭和19年)8月12日〜1944年10月24日

写真(右):艦首から望んだ戦艦「武蔵」の砲塔と第一艦橋;1937年(昭和12年)開催の第七〇回帝国議会で建艦予算が承認。秘匿のために「第一号艦」「第二号艦」の仮称が与えられた。二号艦(のちの「武蔵」)は、三菱重工業長崎造船所で、日中戦争開始後の1938年(昭和13年)3月に建造開始。第二次世界大戦後の1940年(昭和15年)11月1日に進水式(下部の船体のみで上部の艤装はなし)。竣工は、一番艦「大和」は呉海軍工廠で1941年12月、二番艦「武蔵」は三菱重工業長崎造船所で1942年8月竣工。世界最大級の戦艦で46センチ砲9門を装備していたが,水上艦艇を砲撃したことは一度もないく,巨砲の威力を実戦で活かすことなく米海軍機に撃沈された。

長崎造船所 史料館 戦艦武蔵コーナーには次のようにある。

長崎造船所が太平洋戦争終結まで建造した80隻の世界に冠たる優秀な艦艇の中で、1942年(昭和17年)8月に竣工した戦艦「武蔵」は建艦技術の頂点に立っている。

主力艦の数の不足を個艦の優秀性で補おうと、極秘のうちに長崎造船所第二船台で建造された当時世界最大、最強の超弩級戦艦であった。1943年(昭和18年)2月には連合艦隊旗艦となり、太平洋各海域に転戦した。1944年(昭和19年)10月レイテへ向けてブルネイを出撃し10月24日19時35分魚雷20発、爆弾17発、至近爆弾多数を受けシブヤン海に戦没した。

戦後11年経過した1956年(昭和31年)、日本にとっても長崎造船所にとっても第1番艦、甲型警備艦「はるかぜ」が誕生した。以来、船体建造、強度、運動性能の改善、並びに兵装の充実に力を注いで、排水量は5,000トンクラスになった。戦後の艦艇では兵装が著しく進歩しており、エレクトロニクスの発達で艦としての性能は飛躍的に向上してきている(長崎造船所 史料館 戦艦武蔵コーナー引用終り)。

写真(右):戦艦「武蔵」の第一艦橋と前甲板の第一・第二砲塔46サンチ砲);1942年6-7月、瀬戸内海で公試最中に撮影されたものと思われる。新造時なので、砲口を覆っているカバー・砲口栓(蓋)も真新しい状態である。46サンチ砲の砲身長は20m、砲弾長2m、砲弾重量1.5t、砲弾初速780m/s,射程42km。


1937年(昭和12年)開催の第70回帝国議会で建艦予算が承認。秘匿のために「第一号艦」「第二号艦」の仮称が与えられた。

大和型戦艦の建造決定後に、建造開始予定の1938年8月までに三菱造船所では、第一船台、第二船台の改造として、?船台の拡張と補強、?ガントリークレーンの拡充、が行われた)。

三菱長崎造船所では、呉海軍工廠と違って46サンチ砲、砲塔、防御用鋼板など大型重量物の生産できなかった。そこで、それらを製造している呉海軍工廠から長崎造船所まで、大型重量物を海上輸送するた特務艦「樫野」が設計、建造された。特務艦「樫野」は呉海軍工廠から三菱長崎造船所まで、合計51回の運行されたという。

二号艦(のちの「武蔵」)は、三菱重工業長崎造船所にて、日中戦争開始後の1938年(昭和13年)3月に建造を開始した。第二次世界大戦後の1940年(昭和15年)11月1日に進水式(下部の船体のみで上部の艤装はなし)を挙行。大和級戦艦の竣工は、一番艦「大和」が呉海軍工廠で1941年12月、二番艦「武蔵」が三菱重工業長崎造船所で1942年8月に竣工、就役している。

戦艦「大和」と「武蔵」は、呉海軍工廠の設計・製造になる主砲46センチ3連装砲塔を前部2基、後部1基、合計9門を搭載した。前代未聞の46サンチ砲9門搭載は軍機(日本軍の最高機密)だったため、この新式艦砲は九四式40サンチ砲と口径を小さく偽った秘匿名称が付けられた。

写真(右):レイテ島沖で発見された戦艦「武蔵」の46サンチ砲弾;46サンチ砲の砲身長は20m、砲弾長2m、砲弾重量1.5t、砲弾初速780m/s,射程42km。
2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を最先端の遠隔操作探査機(ROV)を駆使して海底で発見した。そして、The Japan Times Allen releases new video of wreckage of Japanese WWII battleship Musashiに動画が公開された。


大和級戦艦が装備した46センチ砲は、45口径、初速780メートル/秒、最大射程41キロメートル、弾丸重量1,460キロ、装薬360キロ、仰角プラス45度、俯角マイナス5度、砲身重量165トン、砲塔重量2,510トンの世界最大級の艦砲である。垂直に砲弾が当たった場合の貫通力は、射距離2万メートルで750ミリ鋼板、3万メートルで420ミリ鋼板を撃破できた。

大和級戦艦の主砲九四式46センチ砲塔は、日本の戦艦で三連装主砲塔は初めての設計、製造だった。砲塔の装甲は前盾650ミリ、側盾250ミリ、後盾190ミリ、天蓋270ミリ、砲塔旋回部のバーベットは560ミリ鋼板である。これは、対46サンチ砲を想定した装甲である。 九四式46サンチ砲の砲身長は20m、砲弾長2m、砲弾重量1.5t、砲弾初速780m/s,射程42km。


46センチ3連装砲塔の発射反動は圧縮空気で緩和した。は、真ん中の砲用の上部火薬庫と左右の砲用の下部火薬庫があり、弾庫では直立させた弾丸を格納した。砲弾搭載数は、1門当たり100発で砲塔旋回部に60発を収容できた。

46サンチ砲の弾丸は揚弾機を使って1発分ずつ釣瓶式に運搬、水圧で装填するが、装填時の仰角3度に固定しなければならない。発射速度は毎分1.5発。

46センチ砲発射時の爆風・閃光(ブラスト)は強力だったために、対空兵装、射撃指揮装置などには爆風除けの防楯(カバー)が装備されていた。

写真(右):1943年6月24日、連合艦隊旗艦「武蔵」に行幸された大元帥昭和天皇と武蔵幹部の記念写真;武蔵は1943年(昭和18)年1月22日に大和から連合艦隊旗艦の座を譲り受けた。4月18日、ラバウル基地からブーゲンビル島基地視察に空路出発した連合艦隊司令長官山本五十六大将は、アメリカ陸軍航空隊P-38 Lightning戦闘機に伏せ攻撃にあって、乗機は撃墜、戦死。これが海軍甲事件である。山本長官の遺骨は「武蔵」に乗せられて、トラック島より横須賀に帰還し、その際に昭和天皇の武蔵行幸があった。戦艦「武蔵」は基準排水量:6万5,000トン(完成時)、満載排水量:7万2,809トン(完成時)。全長:263.0m、全幅:38.9m、吃水:10.4m、機関:艦本式ロ号缶(ボイラー)12基、艦本式2号丁型タービン4基4軸、15万馬力。最高速力:27.4ノット、航続距離:16ノットで7,200マイル。竣工時兵装:46サンチ45口径砲三連装砲3基9門、15.5センチ(60口径)砲3連装4基12門、四十口径八九式十二糎七高角砲6基12門。Title: Emperor Hirohito of Japan : (front row, center) With officers of the Imperial Navy, on board the battleship Musashi off Yokosuka Naval Base on 24 June 1943. Sixth officer from the left in front row is Admiral Osami Nagano, Chief of the Naval General Staff. This view looks aft on the port side. Note the battleship's searchlights and extensive anti-aircraft armament, including enclosed triple 25mm machine gun mounts in upper left and 5/40 caliber Type 89 twin high-angle guns at right. Courtesy of Mr. Kazutoshi Hando, 1970. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.recrop アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 73091 引用。

 世界的に有名な戦艦「大和」の同型艦である「武蔵」は、ともに世界最大の艦砲である46センチ(18インチ)砲「秘匿名称は四五口径九四式四〇糎砲」を装備した、世界最大の戦艦である。ただし、世界最大の火砲としては、ドイツ・クルップ社製造の80センチ列車砲「グスタフ」があったし、1938年9月竣工のイギリス客船「クイーン・エリザベス」は総トン数 8万3,673トン、全長314メートル、全幅36メートル、最高速力28ノットと、大和型戦艦より巨大だった。

太平洋戦争の勃発時の連合艦隊旗艦は、戦艦「長門」(基準排水量:3万9130t 全長225m 最大幅:35m 喫水:9.5m 出力:82000馬力 最高速力:25ノット 航続距離:8650マイル/16ノット)であり、その後1942年2月から戦艦「大和」が旗艦を引き継いだ。「大和」は約1年間、連合艦隊の旗艦を務め、その後1943年1月に戦艦「武蔵」が旗艦を引き継いでだ。同じ大和級戦艦ではあっても、「武蔵」のほうが艦橋にあった司令部施設が広く機能も充実していたのがその理由である。

戦艦「武蔵」は、1944年5月まで1年2カ月、旗艦を務めた。その後、戦艦が旗艦となることはなく、軽巡洋艦「大淀」が1945年9月まで旗艦を務め、その後、海軍の艦艇が払拭してしまうと、連合艦隊は陸に上がり、1945年10月には日吉の地下壕に移転した。したがって、戦艦「武蔵」は、太平洋戦争中、連合艦隊旗艦を、最も長く務めたことになる。

写真(右):1943年(昭和18年)トラック諸島の戦艦武蔵「武蔵」(右)と戦艦「大和」(左奥):春島を背景にした大和型の姉妹戦艦。一枚の写真に大和型2艦が撮影された唯一のもの。甲板を覆った白色の布は日除け。大和級戦艦の全長は263メートル、主砲は長さ20メートルある。

NHK巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死“大和ホテル”(戸田 文男さん:2012年6月6日収録)に次の証言がある。

トラック島(現・チューク諸島)はね、カロリン群島のトラック環礁基地という基地ですね。そこが日本の艦隊の前線基地でございましたね。そこ行けばもう日本の艦隊、そこが前線基地でいっぱいありますよ。そこを基地として、巡洋艦、駆逐艦、またはそういうのが出撃して行くんですよ。それで大和は出撃しないんだよね。どうしてかなと思うんだ。私らには分かりませんけど、出撃して行く船はね、どんどんどんどん出て行くの。そうすると、その船の乗員がね、「大和ホテル武蔵屋旅館」ってこう、嫌みを言うんです。それほど大和ホテルっていうんだから、もう出ないんですよ。そこをね。
姉妹艦の武蔵も、武蔵屋旅館って言われてたの。大和、武蔵はおるけど、なかなか出ない。

なぜ大和は出撃しないんかなと。冗談じゃないよなんて、そんな気持ちでしたね。でも、(他の船が出るときは)帽を振って見送るんですね。それがもう海軍の礼式で、登舷礼式と言って、見送って行くときには自分たちの船にザーッと並びまして、帽を振って見送るんですね。そうやってしょっちゅう巡洋艦・駆逐艦あたりは行くでしょ。

Q:トラックに傷ついて帰ってくる船なんかも結構あったんですか?
結構ありましたね。もう傷ついた船はすぐ出港して修理に向かいますね。そうですね、シンガポールに行ったり、やっぱり内地に帰ってくる船が多かったですね。

いやあ、やっぱりなあ、戦死した人が何人おるんかなと。よくそんなボロボロで帰ってきたなあと。そのときも、これは明日は我が身かななんて、そんな気持ちにもなりましたですね。

戦闘の船ですからね、まあ楽しいということはまずなかったけどね。まあ楽しいということかなあ、スコール。これがまた「スコール浴び方」ね。にわか雨ですよ。もうお風呂に入るって言ったってね、40度の炎天下でもね、お風呂に入るなんてのはね、週に2回ですよ。それも洗面器3杯の入浴ですよ。洗面器3杯の入浴洗面器3杯で週に2回ですもんね。もう皮膚病が。スコールがね、そうだね、まあスコールはにわか雨ですから、1週間に1回とか来ますでしょ。スコールはね、もう乗員がもう何とでも浴びたいんですね。「スコールに備え」って。「総員スコール浴び方」、号令がかかる。「それー」ってね、石けんを塗って待っているんですよ。するとスコールが来るでしょ。スコールはにわか雨で、そこだけ縦に降るだけで、船のサイドをサーッと。石けんを塗ったけども、スコールがこない、そういうときもありました。そういうときは海水で(石けんの)あとをまた取らなきゃいかんのよね。それは気持ちが悪い。

「それ、スコールだ」ってね、3,000人が上甲板に上がるんだよ。それでキャッキャしてね、スコールを浴びる。10分か20分でスコールは行っちゃう。そのときは軍紀風紀が厳しい中でも無礼講ですよ。ふんどし1本。ふんどし1本が3,000人が甲板でキャッキャキャッキャして洗う。そのふんどしが飛ぼうがそんなこと全然関係ない。それでスコールがね、大体20分ぐらいでサーッと行っちゃう。(「大和ホテル」引用終り)

写真(右):戦艦「武蔵」第一艦橋から俯瞰した前甲板の第一・第二砲塔(46センチ三連装砲塔);1942年6-7月、瀬戸内海で公試最中に撮影されたものと思われる。新造時なので、砲口を覆っているカバー・栓も真新しい状態である。

1944年2月25日、第一戦隊司令官に就任の命を受けた宇垣纏中将は、3月1日、呉から列車で、翌日(福岡)雁ノ巣飛行場から、空路で、台北、海南島の海口、サイゴン(西貢)を経由して、3月6日、シンガポールに到着。セレター軍港から駆逐艦「谷風」に乗艦してリンガ泊地にある戦艦「長門」に着任した。

3月11日「2230リオ水道により(リンガ)泊地に入る。衛所は(磁力を使った)ガードループにより(潜水艦)探知し船体を認めざる旨報告す。放任もなく難く夜半第二配備とし紹介の増加、駆逐艦の待機等を行ひ警戒す。別に異常を認めざりしも、(空母)翔鶴は棒切れを敵潜(潜望鏡)と誤認し又しても一(人)騒がせ起る。虚探知と判断、艦隊は訓練を行ひつつ第一錨地に復帰す。(戦艦・巡洋艦から編成の)一戦隊は1300出港駆逐艦襲撃訓練、主副砲射撃、陣形運動、榴弾射撃、(探照灯の)照射射撃無照射射撃等を実施し、2345第一錨地。順当にして故障無し。」( 宇垣纏『戦藻録』原書房、p.306引用)

写真(右):戦艦「武蔵」第一艦橋から俯瞰した前甲板の第一・第二砲塔(46センチ三連装砲塔);1942年6-8月、瀬戸内海で公試最中に撮影されたものと思われる。新造時なので、砲口を覆っているカバー・栓も真新しい状態である。

4月2日「昨夕刻テニアンの南270浬に敵大部隊ありとの報なれども味方船団の誤認と判明、昨日以来敵情を得ず。最早暴れる丈暴れたれば切り上時なりと判断す。武蔵に就ては大いに心配しつつありしが果してたり本日艦長より入電あり。即ち同艦29日パラオ出撃後27番ビーム左舷水線下6米(メートル)に雷撃を受け12番−40番ビーム破孔揚錨装置全部使用不能其の他軽微なりと。」(宇垣纏『戦藻録』原書房、p.311引用)

5月4日「大和単独訓練の為出港、1315帰泊。1015より(重巡)愛宕に於て昼夜戦訓練研究会続いて改正夜戦部隊戦策に就き聴取す。----特徴とする夜戦も敵の電探及夜間飛行機の使用による殆んど称賛無きに非ずや。---1700住み慣れし長門を去りて(第一戦隊)旗艦を大和に変更す。---余輩之を旗艦とし、山本元帥の嘗て親しまれたる居室公室に起臥す。光栄とや云はん。本館を以って安らけき死どころとし、只々使命達成に邁進せんのみ。」(宇垣纏『戦藻録』原書房、pp.321-322引用)

5月8日「0830大和単独出動対空射撃を実施す。砲数数多くと実際の腕無ければ猫に小判なるべし。1230入港。」(宇垣纏『戦藻録』原書房、p.322引用)

写真(右):1921年ごろ、山城級戦艦の36サンチ連装砲塔;砲身の根元についているのは射撃訓練用の外膅砲。主砲照準射撃には、実弾を発射せず、外膅砲を用いた照準発射訓練もあった。これは、実弾射撃を行うと、?高価な主砲弾を消耗して補充できなくなる、?実弾射撃を繰り返すと砲身内部が摩耗・変形し砲身命数(寿命)が低下する、?実弾射撃をするためには射撃可能な海面と標的を必要とする、といった問題があったためである。そこで、日本海軍は第二次大戦時でも外膅砲射撃の訓練を行っている。大和級戦艦主砲の46サンチ砲の根元にも外膅砲射撃取付金具が取り付けられている。宇垣纏『戦藻録』にも戦隊が1944年8月27日、9月1日外膅砲射撃射撃訓練を行っている記述がある。Title: Big guns looking forward on Japanese YAMASHIRO Class FUSO. 1921. Caption: Big guns looking forward on Japanese YAMASHIRO Class FUSO. Images of the ship in the following years: 1921, 1927, 1928. Description: Japanese Ships: YAHAGI - ZAPPORO. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 111709引用。

マリアナ沖海戦の後、戦艦を中核とする日本の第一戦隊は、宇垣纏中将に率いられて、大和を旗艦に、対空射撃、電探射撃など戦闘訓練を繰り返していた。しかし、その主砲の弾着は散布範囲が大きく、主砲射撃の高度の命中率は全く期待できなかった。これは、砲術長以下乗員の練度が低いというよりも、
?45口径九四式46サンチ三連装砲に、強装火薬による遠距離射撃および一斉射撃時の主砲弾の散布界が大きい、
?レーダー照準射撃(電探射撃)は1944年8月に訓練を始めたばかりであり、レーダー技術の未熟さから光学式測距射撃に頼らざる得ない、
?大型の主砲弾補給の困難、砲身命数の尽きた砲身変換の困難のために実弾射撃訓練を繰り返すことができず外膅砲射撃訓練を行わざるを得なかった、
という大きな技術的・経済的問題があったためである。


NHK巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死「世界最大の主砲」(戸田 文男さん:2012年6月6日収録)に次の証言がある。

Q:戸田さんは大和に乗っていらっしゃるときはどちらにいらっしゃったんですか?
2番主砲の砲員なんですよ。この絵はですね、もう私が見るとピンと来るんですよ。2番主砲の上に機銃が乗っているでしょ。機銃を乗せたというのは、沖縄に向かうときのために機銃を搭載したんですよ。

Q:この2番主砲の中で何をされてたんですか?
ここに15メートルのこれ測距儀、距離を測るレンジファインダー(距離測定器)なんです。これが全く同じものが主砲にも15メートルの測距儀が据わっとる。それで距離を測るんですよね、レンジファインダーで。距離を測って、その距離をコンピュータに入れまして、弾道計算をして弾を撃つと。

その主砲の中にはね、下の方にもね、これもう大体40メートルぐらい下にね、弾庫があるんですよ。弾庫装薬庫が。その46サンチとは、言葉では聞いておったけど、見るとこんなすごいなあ。これに自分が、戦闘部署、自分がこの主砲に入るのかなと思ってね。どんな仕事がやれるのかなと思って、おっかなびっくりの主砲の砲員をやりましたね。それでいついつまでに何を覚えておけって、こういう教育ですので、必死になって。

大和の主砲の部署に乗るのだと。ちょっとね、もう何でもエリート意識を持っちゃうんですね。よし、この船で弾を撃つのは俺しかないんだと。それはそうでしょうね。世界に類のない46サンチ(=センチ)主砲ですからね。よし、俺はこの船に、この弾を撃つために乗ってきたんだ。
これが俺の配置だって言ってね、 46サンチの主砲の砲員なんかね、こうですよ。私らはこうですけどね。

Q:ベテランの砲員たちは・・。
そう。そのために俺はこの船に乗っとるんだと。だから、普通の、ベッドの掃除、甲板掃除だとか、そういうものは俺らはやらないよと。この船の弾を撃つために来とるんだよと、そういう意識を持たれておるような感じがしましたね。

この(サマール)海戦の戦果は、米カサブランカ級護衛空母「ガンビア・ベイ」の撃沈だけではなかった。日本(栗田)艦隊は、フレッチャー級駆逐艦「ホエール(ホーエル)」「ジョンストン」、バトラー級護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ」を撃沈し、米護衛空母「カリニン・ベイ」「ファッション・ベイ(ファンショウ・ベイ)」他、駆逐艦2隻を撃破した。


写真(上左):1943年8月3日、就役直前、サンフランシスコ湾上のフレッチャー級駆逐艦「ホーエル」USS Hoel (DD-533) :1944年10月25日、栗田艦隊による砲撃でサマール島沖にて撃沈。基準排水量:2,050トン。全長 115m、全幅 12m。最高速度 35ノット、航続距離 6,500マイル/15ノット。 乗員280名。兵装 38口径5インチ砲5門、40ミリ機銃10門、20ミリ単装機銃7門、21インチ5連装魚雷発射管2基、爆雷軌条2軌、爆雷投射機6基。レイテ沖海戦の1944年10月25日朝、、トーマス・スプレイグ(Thomas L. Sprague)少将(Rear Admiral )率いる「タフィ3」 "Taffy 3"に所属するアメリカ護送空母ガンビア・ベイ(USS Gambier Bay:CVE-73) 他を守るために、サマール島沖で栗田健男の第一遊撃部隊に突撃し、砲撃で撃沈された。Off San Francisco, California, 3 August 1943, soon after commissioning. She was completed with three 20mm guns mounted just forward of her pilothouse structure. Note the blimp overhead. Photograph from the Bureau of Ships Collection in the U.S. National Archives.アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:19-N-49316引用。写真(上右)1944年10月25日、栗田艦隊に砲撃されたアメリカ護衛空母「ガンビア・ベイ」 (USS Gambier Bay, CVE-73);就役 1943年12月28日。基準排水量:7,800 トン。満載排水量:10,400 トン。全長 156m、全幅 33m。最高速度 19ノット、航続距離10,240マイル/15ノット。 乗員860名。航続距離 6,500マイル/15ノット。 乗員230名。兵装 38口径5インチ砲1基、40ミリ二連装機関砲16基。艦載機28機。1944年10月25日、第77.4.3任務群所属の護衛空母「ガンビア・ベイ」 (USS Gambier Bay, CVE-73)は、サマール島沖にて戦艦・重巡を含む遥かに優勢な栗田艦隊に遭遇した。全速で撤退を開始し、トーマス・C・キンケイド中将隷下の第7艦隊に救援緊急電を発信した。煙幕は展開されていたが、日本海軍の戦艦あるいは重巡からの砲撃で撃沈された。Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: USS GAMBIER BAY (CVE-73) and another escort carrier, and two destroyer escorts making smoke, during the battle off Samar, 25 October 1944. Photographed from USS KALANIN BAY (CVE-68) by Phi Willard Nieth. Copyright Owner: National Archives. Original Creator: Photograph by Phi Willard Nieth. Original Date: Sun, Oct 29, 1944アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-288154 引用。

写真(右):1944年8月1日、アメリカ海軍護衛空母「ガンビア・ベイ」FM-2ワイルドキャット艦上戦闘機パイロットのベネット少尉(Ensign Darrell C. Bennett);1944年10月 25日,レイテ湾海戦(レイテ沖海戦)Battle of Leyte Gulfに参加した「ガンビア・ベイ」は、戦艦大和九四式46サンチ砲を含む栗田艦隊の砲撃によって撃沈された。 Stands beside his plane, a General Motors FM-2 Wildcat fighter, on board USS Gambier Bay (CVE-73), 1 August 1944. Note pinup art and nickname Smokey's Lucky Witch adorning the engine cowling; what appears to be a Composite Squadron Ten (VC-10) insignia below the cockpit windshield; plane numbers (27) in white on the wing leading edge and and in black under the lip of the cowling; and Ensign's Bennett's flight gear and .45 caliber M1911A1 pistol carried in a shoulder holster. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)SC 278010 引用。

レイテ沖海戦ニコニコ大百科)では、サマール海での戦艦「大和」の砲撃戦を次のように記述している。

 艦隊は色めき立った。手の届く先に敵空母がいるのだ。各艦は慌ただしく、敵艦隊への攻撃を始める。
 6時59分、戦艦「大和」の46cmセンチ砲が、初めて敵艦艇に対して火を吹いた。続いて7時に「金剛」、7時1分「長門」「榛名」の各戦艦も発砲を開始する。7時3分、栗田は全艦突撃を下令。敵に近い位置にいた重巡が先陣を切り、続いて戦艦、そして第十戦隊と第二水雷戦隊が後に続く。

写真(右):1939年3月、軽巡洋艦「熊野」艦橋から見た前部の60口径三年式15.5サンチ三連装砲塔3基;太平洋戦争前に15.5サンチ三連装砲5基を50口径三年式20.3サンチ連装砲5基に変換し重巡となった。その後、降ろした15.5サンチ砲塔は大和級戦艦の副砲として活用された。
Title: KUMANO (Japanese Cruiser, 1936) Caption: View of forecastle, taken from the bridge, March 1939. Showing the forward three triple turrets 6.1 inch pieces. These were later replaced with twin-mounted eight inch guns. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 73029引用。


 7時10分、栗田艦隊の先行していた重巡のいずれか(おそら重巡く「羽黒」)が、護衛空母「カリニン・ベイ」に直撃弾を与えた(戦艦「大和」が初弾から空母「ガンビア・ベイ」に命中させたと言われるが、現在は誤認・伝説の類とされる)。

 栗田健男の第一遊撃部隊は、この発見した敵空母をハルゼー艦隊主力の一部と思って攻撃した。しかし実際はキンケードの第7艦隊に所属し陸兵輸送・上陸支援を行う小型空母の艦隊で、護衛空母6隻を中心とする「タフィ3」と呼ばれる集団(指揮官:スプレイグ少将)だった。

 ウィリアム・ハルゼーWilliam Frederick Halsey)提督隷下第38任務部隊の北上と栗田艦隊の再進撃を知らない、トーマス・スプレイグ少将率いる「タフィ3」は、6時30分に警戒態勢から通常態勢へ移行したばかり。すぐさまハルゼーとキンケードへ救援要請を打電したが、ハルゼー艦隊は小沢艦隊を深追いして北方にあり、キンケード艦隊は未明の西村艦隊との戦闘を終えたばかりで、すぐには動けない。

写真(右):1939年3月、重巡洋艦「摩耶」艦橋から見た前部の50口径三年式20.3サンチ(8インチ)連装砲3基;重巡「摩耶」は前部3番砲塔2門を撤去して12.7センチ連装高角砲2基4門と25ミリ三連装機銃を増設して防空巡洋艦としてレイテ沖海戦に参加した。しかし、ブルネイ泊地を出撃してすぐにアメリカ潜水艦の雷撃によって撃沈。
Title: MAYA (Japanese Cruiser, 1930) Caption: View of ship's forward eight-inch guns and forecastle, March 1939. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 73027引用。


 進退窮まった「タフィ3」だったが、しかしそれでも栗田艦隊の砲撃を受けながら、艦載機100機の発艦に成功する。艦載機は母艦に戻らず、既に米軍が確保していたレイテ島の飛行場へ行けばよかったのだ。脚の遅い護衛空母隊が必死の退避行動を取る中、駆逐艦隊がすかさず煙幕を張り、フレッチャー級駆逐艦ホーエル」と「ヒーアマン」が戦艦「金剛」と重巡「羽黒」に、フレッチャー級駆逐艦ジョンストン」が重巡「熊野」に、バトラー級護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ」が重巡「鳥海」に立ち向かう。

 7時30分、第七戦隊旗艦「熊野」は、煙幕から突出してきたアメリカの艦隊型フレッチャー級駆逐艦ジョンストン」の魚雷攻撃を受けて大破。艦首を喪失・落伍する。戦隊は手近にいた重巡「鈴谷」へ司令部を移したが、その「鈴谷」も既に7時24分に米艦爆の爆弾命中で速力低下しており、戦隊司令部は以後の戦闘についていけなくなる。

 7時54分、戦艦「大和」と「長門」はアメリカ駆逐艦の放った魚雷を避けるべく転舵。しかしこの魚雷の速度が戦艦と同じで、なおかつ両側を挟まれる格好となったため、戦艦「大和」「長門」は約10分間にわたって、魚雷の燃料が切れるまで北走、戦場から遠ざかってしまう。


写真(上左):1943年10月27日、フレッチャー級駆逐艦「ジョンストン」USS JOHNSTON (DD-557) 1944年10月25日、栗田健男率いる第一遊撃部隊による砲撃でサマール島沖にて撃沈;起工 1942年6月4日、進水 1942年12月19日、就役 1943年7月29日。基準排水量:2,050トン。全長 115m、全幅 12m。最高速度 35ノット、航続距離 6,500マイル/15ノット。 乗員280名。兵装 38口径5インチ砲5門、40ミリ機銃10門、20ミリ単装機銃7門、21インチ5連装魚雷発射管2基、爆雷軌条2軌、爆雷投射機6基。1944年10月25日朝、トーマス・スプレイグThomas L. Sprague)少将(Rear Admiral )率いる「タフィ3」 "Taffy 3"に所属するアメリカ護送空母ガンビア・ベイ(USS Gambier Bay:CVE-73) 他を守るために、サマール島沖で栗田艦隊に突撃、砲撃戦で撃沈された。USS Johnston (DD-557) : Off Seattle or Tacoma, Washington, 27 October 1943. Courtesy of Mrs. Roger Dudley. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 63495 引用。
写真(上右)バトラー級護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」USS Samuel B. Roberts (DE-413);起工: 1943年12月6日、進水: 1944年1月20日、就役: 1944年4月28日。基準排水量:1,745トン。全長 93m、全幅 11m。最高速度 24ノット、航続距離6,000 マイル/12ノット。 乗員230名。兵装 38口径5インチ砲2門、40ミリ機銃2門、20ミリ単装機銃10門、21インチ3連装魚雷発射管1基、爆雷軌条2軌、ヘッジホッグ投射機1基。1944年10月25日、栗田健男中将隷下の第一遊撃部隊による砲撃でサマール島沖にて撃沈。Photographed in 1944, probably circa June, while off Boston, Massachusetts. Courtesy of Robert F. Sumrall, 1980. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #: NH 90603 アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: NH 90603 引用。


 8時50分、バトラー級護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ」と交戦していた重巡「鳥海」が艦爆の爆弾、8時53分、重巡「筑摩」が艦攻の魚雷によって大破・航行不能に陥る。敵本隊に最も近づいた重巡は「羽黒」と「利根」だったが、重巡「羽黒」は爆弾命中により2番砲塔が吹き飛んだ。

写真(右):1944年10月24日、レイテ沖海戦の時、シブヤン海でアメリカ艦載機の空襲を受ける重巡洋艦「羽黒」;起工1925年3月16日、進水1928年3月24日、就役1929年4月25日。満載排水量13,963トン、全長204m、全幅19m。最高速力35.6ノット、航続距離7,000マイル/14ノはット。兵装:50口径三年式20.3サンチ連装砲5基、40口径八九式12.7サンチ連装高角砲4基 、九二式4連装61サンチ酸素魚雷発射管2基8門。レイテ沖海戦で重巡「羽黒)は、アメリカ軍の護衛空母群「タフィ3」を先頭を切って砲撃した連合艦隊司令長官豊田大将は「天裕を確信し、全軍レイテ湾に突撃せよ」の電命を栗田艦隊に送ったが、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡を夜半突破し、大平洋に出たものの、10月25日朝、サマール島沖で敵空母群に遭遇した。栗田中将は「全軍突撃せよ」と敵空母攻撃に向かうよう命じた。敵空母の飛行甲板からは、艦載機が発艦し始め、護衛していたアメリカ巡洋艦・駆逐艦が向かってきた(実際は駆逐艦のみ)。栗田艦隊の先頭にあった重巡「羽黒」は逃げる敵空母を追撃し砲撃した。此の時、護衛空母に20サンチ砲弾が命中したものの、、敵空母は薄い外板でできたてい輸送船改造の護送空母だったために、命中した徹甲弾が敵の船体を突き抜けたともいう。それなら、触発信管や榴弾を使えばいいと思うが、そのうち接近してきたアメリカ駆逐艦が砲撃してきた。Title: Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944. Description: Japanese heavy cruiser Haguro firing at attacking U.S. carrier planes during the Sibuyan Sea action. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:80-G-272555引用。

 9時11分、栗田は追撃戦を止め、艦隊集結を下令する。
 この時点で米側は、バトラー級護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ」と護衛空母「ガンビア・ベイ」が撃沈。バトラー級護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ」は煙幕から出たところを「金剛」に発見され、36cm主砲弾の直撃を被って大破。集結地点へ向かっていた軽巡「矢矧」の第十戦隊に止めを刺される。重巡「熊野」を大破させた後、戦艦「榛名」や第十戦隊と激しく交戦していたフレッチャー級駆逐艦ジョンストン」も航行不能となり、軽巡「矢矧」によって撃沈された。---

 戦時急造の“ジープ空母”と“ブリキ缶”(カサブランカ級護衛空母バトラー級護衛駆逐艦のアダ名)からなり、とても砲雷撃戦を行えるような艦隊ではなかった「タフィ3」だったが、その“ブリキ缶”の勇戦敢闘によって、空母の損害をわずか1隻に留めることができた。

写真(右):1944年10月24日、シブヤン海でアメリカ軍機の空襲を受ける軽巡洋艦「能代」あるいは「矢矧」;軽巡「能代」 起工1941年9月4日、進水1942年7月19日、竣工1943年6月30日。満載排水量8,338.4トン、全長 175m、全幅 15m、最高速力35ノット、航続距離8000カイリ / 18ノット。兵装:50口径15サンチ連装砲 3基6門 、九八式8サンチ(76.2ミリ)連装高角砲2基4門 、61サンチ連装魚雷発射管4基8門。1944年10月25日朝、サマール島沖でアメリカ護衛空母を旗艦とする「タフィ3」に遭遇したが、スコールとアメリカ駆逐艦の張った煙幕によってアメリカ空母群を見失った。0838、アメリカ駆逐艦の5インチ(12.7センチ)砲弾が命中したが栗田健男中将から追撃停止・反転の命令が下るまでに、巡洋艦1隻撃沈、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻撃破の戦果を挙げたとした。しかし、「タフィ3」には巡洋艦はなく、フレッチャー級駆逐艦を誤認したようだ。
Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. : Japanese light cruiser AGANO or NOSHIRO under attack during the Battle of Sibuyan Sea, 24 October 1444. Copyright Owner: National Archives. Original Date: Tue, Oct 24, 1944 アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-272551 引用。


写真(右):1944年10月25日、サマール島沖でアメリカ艦載機の空襲を受ける重巡洋艦「筑摩」;起工 1935年10月1日、進水 1938年3月19日、就役 1939年5月20日。基準排水量11,213トン、全長 202m、全幅 19m、最高速力35.4ノット、航続距離8,000マイル/18ノット。兵装:50口径三年式20.3サンチ連装砲4基8門、45口径八九年式12.7サンチ連装高角砲4基8門、61サンチ3連装酸素魚雷発射管4基12門。
レイテ沖海戦に重巡「筑摩」は零式水上偵察機( E13A "Jake")5機を搭載し、参加。25日朝、サマール島沖海戦においては、戦艦「金剛」、重巡「羽黒」とアメリカの護衛空母「ガンビア・ベイ」 (USS Gambier Bay, CVE-73) を砲撃。重巡洋艦は、2000ヤード(1.8キロ)に接近し8インチを射撃、「ガンビア・ベイ」には沈没。しかし、0855重巡「筑摩」はアメリカ空母艦載機から雷撃で艦尾に損傷。機動力が低下し、アメリカ艦載機の爆撃を受けた。1600左舷に傾斜した重巡「筑摩」では総員退艦が発令、その後、駆逐艦「野分」により撃沈処分された。
Title: Chikuma. Description: (Japanese Heavy Cruiser, 1939) Photographed from a U.S. Navy carrier plane during the Battle off Samar, 25 October 1944. Her stern has been hit by a torpedo and cut off short, though the ship's outboard propellers are still able to keep her underway. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command) Catalog #: 80-G-287537 引用。


 栗田艦隊は、各艦の報告から正規空母5隻を撃沈・撃破などと判定したが、実際には上記のように護衛空母1と駆逐艦3の撃沈だった。不意の遭遇とはいえ、拙劣な攻撃と米艦の必死の反撃で、思うような戦果を挙げられていない。これに対して、先陣を切った重巡の損害は大きく、「熊野」「鈴谷」「鳥海」「筑摩」が大破となる。重巡「熊野」は単艦でコロン湾へ撤退。重巡「鳥海」は駆逐艦「藤波」の救助後、同艦の魚雷で処分された。

第一遊撃部隊 一一二〇電
 我地点ヤヒマ37針路南西レイテ泊地ヘ向カフ
 北東30浬ニ空母ヲ含ム機動部隊及ビ南東60浬ニ大部隊アリ
ニコニコ大百科「( レイテ沖海戦」引用終り)

写真(右):戦艦「武蔵」第一艦橋から俯瞰した前甲板の第一・第二砲塔(46センチ三連装砲塔);1942年6-7月、瀬戸内海で公試最中に撮影されたものと思われる。新造時なので、砲身を覆っているカバー砲口栓(蓋)も真新しい状態である。

戦艦「大和」「武蔵」の最大の特徴は、世界最大の46サンチ砲砲を持って、最大射程40キロで敵艦船を砲撃できる攻撃力だった。日本では、「水平線上の敵艦を遠距離砲撃できる戦艦は大和と武蔵のみである」と称賛される。また、日本の軍事技術の優秀性を占める証拠として、現在でも引用されている。

戦艦「大和」「武蔵」の火力は自賛するに値するが、二戦艦は撃沈されるまで、遠距離で砲撃したことは一度もなかった。そもそも射撃指揮装置は光学式であり、視力に頼った射撃には完熟していたが、電探射撃は試行段階に過ぎなかった。つまり、戦艦の46サンチ砲の威力は大きくても、夜間や悪天候時には高い命中率は期待できず、攻撃力は大きく制限された。1944年後半には、対空用の21号電波探信儀(レーダー)と水上用の22号電波探針儀が装備されたが、レーダー照準射撃(電探射撃)は訓練を始めたばかりであり、実用性は低かった。レイテ沖海戦で、戦艦大和は、アメリカの護送空母、駆逐艦に会敵し主砲を発砲したが、その火砲の威力を十分に発揮して大戦果を挙げたわけではない。

写真(右):レイテ島沖で発見された戦艦「武蔵」の46サンチ砲弾;2015年3月3日 - 米マイクロソフト社共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を最先端の遠隔操作探査機(ROV)を駆使して海底で発見した。そして、フィリピンNewTVJapanese warship na Musashi, natagpuan sa ilalim ... に動画が公開された。

◆水上艦艇の砲撃力を論じるには、砲弾の命中率、それを高める射撃指揮装置(GFCS:ship gun fire-control systemも大いに問題になる。 大気中の光の歪みのために、日本海軍の測距儀・光学照準器・方位盤を使った光学照準式射撃指揮装置(GFCS)は、イギリス、アメリカのレーダー連動電波式射撃装置よりもはるかに劣勢だった。敵連合軍は、マイクロ波レーダーを実用化しており、実戦でもレーダー管制射撃を行っていたが、日本の長波レーダーでは管制射撃はできず、短波レーダーは精度が低く、故障しがちで信頼性が低かった。したがって、主力艦相互の砲撃戦で雌雄を決する「大艦巨砲主義」を唱え、「艦隊決戦」を目指して猛訓練をしてきた日本海軍ではあるが、アメリカ、イギリスに比して射撃能力が比較にならないほど劣勢であった。

実際、宇垣纏長官の『戦藻録』に記されているように、46サンチ砲は、一斉射撃では、砲弾相互の干渉のためか、弾着散布が広く、遠距離発射でもやはり弾着が数百メートルも散布しているありさまだった。交互射撃、弱装薬の使用によって、46サンチ砲の弾着散布界は狭まったが、これでは発射速度の低下、遠距離砲戦の困難をきたしてしまう。つまり、たとえ日米戦艦同士の艦隊決戦が生じたとしても、戦艦「大和」「武蔵」がレーダー管制射撃を実用化していたアメリカ戦艦に勝利できる可能性は、高くはなかったと考えられる。

戦艦「大和」「武蔵」は、空母機動部隊とともに1944年6月2日、フィリピン南西端のタウイタウイ環礁で、あ号作戦の為、パラオ方面に来寇してくるアメリカ海軍任務部隊迎撃の準備をしていた。第一戦隊の旗艦戦艦「大和」にあった宇垣纏司令官は、戦時日記として『戦藻録』を記録していたが、6月2日「0900大和武蔵、(タウイタウイ)礁内に行動、駆逐艦を目標として35キロの偏弾斉射主砲1門各2発を行ひ、主砲副砲の対空射撃、高角砲弾幕射撃、機銃射撃等を実施、1320帰泊、玄洋丸(1万トン級タンカー)を横付急速補給を為す。」とある。(宇垣纏『戦藻録』原書房、p.334引用)

戦艦「大和」「武蔵」の46サンチ砲は、世界最大の艦砲であり、最大射程40キロというのも、アメリカの新式艦砲と比べて遜色がない。戦艦「武蔵」の火を噴46センチ砲射撃中の写真が砲術長永橋爲茂(ためしげ)氏の遺族提供資料から発見され、毎日新聞2015年5月6日(東京朝刊)に「戦艦武蔵 . 火噴く46センチ砲 砲術長遺族保管の写真見つかる」と題して掲載された。このような迫力ある写真が市民の目に触れ、戦艦武蔵の攻撃力は世界最強だったとの言説が再確認された。そして、日本では、「水平線上の敵艦を遠距離砲撃できる最強戦艦は大和と武蔵で、戦艦対戦艦の艦隊決戦が起これば、日本海軍は勝利できた」と飛躍した発想も喧伝された。また、「日本の技術の高さを実証した」「大和民族の優秀性を示した」との自画自賛的な優越感も生み出している。

戦艦「大和」「武蔵」が46サンチ三連装砲塔を搭載し、乗組員たちが奮闘・活躍した歴史は称賛できる。日本が自信を以って送り出した二戦艦には、ついに艦隊決戦が想起することはなかったが、遠距離で砲撃戦が起これば、射撃指揮装置が全て光学式照準であり、視力に頼った射撃では命中率は低かったであろう。また、46サンチ三連装砲の弾着が広く散布してしまうこともやはり命中率の低下につながったと思われる。

◆日本の最新鋭戦艦である大和級には、従来の日本戦艦と同様に、?測距儀に依存した光学式照準の困難さ、?主砲の弾着散布の大きさ、という二つの欠点がある。そこで大和級戦艦が、仮に敵アメリカ主力艦との主砲を交えて艦隊決戦を戦うことがあったとしても、戦艦「大和」「武蔵」の46サンチ砲の命中率が低いために、砲弾の飛距離と破壊力は驚異的であるとしても、敵艦への命中率が低く、大戦果を挙げることは難しかったと考えられる。

写真(右):軽巡「熊野」の前部の15.5サンチ三連装砲塔3基;太平洋戦争前に15.5サンチ三連装砲5基を20.3サンチ連装砲5基に変換し重巡となった。その後、降ろした15.5サンチ砲は大和級戦艦の副砲として活用された。
アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 73029引用。


 他方、大和級戦艦の重装甲の砲塔、甲板防御、舷側防御が敵砲弾の貫通を防ぎ、被害を抑制できた可能性はある。ドイツ海軍戦艦「ビスマルク」と同じく容易に撃沈されず、造船技術や最後まで戦った乗員の忠誠心が評価されたかもしれない。
また、光学式照準器でも、熟練した砲塔要員の高度な技術に支えられ、精緻な射撃方位盤が十分に機能すれば、敵艦へ命中弾を送り込むこともできたであろう。レイテ沖海戦の終盤、戦艦「大和」は、サマール海で、アメリカ護送空母(上陸部隊支援)に遭遇し、護送空母「ガンビア・ベイ」に46サンチ主砲弾を、護衛駆逐艦に15.5サンチ副砲弾を命中させたとも伝えられている。これは、日本の射撃指揮装置、火砲の技術的優秀性という以上に、接近戦における乗員たちの練度の賜物であったろう。

新聞(右):戦艦「武蔵」の主砲発射の写真発見を伝える『毎日新聞』2015年5月6日;第二次世界大戦で日本海軍連合艦隊の旗艦を務めた巨大戦艦「武蔵」が主砲を発射した瞬間を捉えた写真を、主砲の射撃指揮官の砲術長永橋爲茂(ためしげ)大佐の遺族が保管していた。

毎日新聞2015年5月6日 東京朝刊戦艦武蔵 . 火噴く46センチ砲 砲術長遺族保管の写真見つかるに次の記事がある。

第二次世界大戦で日本海軍連合艦隊の旗艦を務めた巨大戦艦「武蔵」が主砲を発射した瞬間を捉えた写真を、同艦幹部の遺族が保管していることが分かった。姉妹艦「大和」を含め、世界最大の46センチ砲を撃つ写真が見つかったのは初めて。専門家は「『大和』型の詳細を伝える貴重な資料」と話している。。写真は横10.5センチ、縦7.5センチの白黒で、発砲する様子を艦尾側から撮影。「武蔵」は最大幅が40メートル弱あるが砲煙はその倍近くに及び、射程約40キロの砲の威力を示す。撮影場所や時期は不明。

保管していたのは、1942年8月5日の「武蔵」完成と同時に、主砲の射撃を指揮する砲術長に就任した永橋爲茂(ためしげ)大佐の遺族。映像制作会社「セレブロ」(東京都)の本多敬さん(72)が、海軍の歴史を紹介するDVDを制作する過程で発見した。 永橋さんの遺族によると「父は『武蔵の写真』と言っていた。主砲発射の爆風の強さを調べる実験でウサギやアヒルを甲板に置くと、内臓が飛び出したとも聞いた」という。毎日新聞2015年5月6日 東京朝刊戦艦武蔵 . 火噴く46センチ砲 砲術長遺族保管の写真見つかる引用終り。

さらなる戦艦の攻撃力の問題は、大気中の光の歪みや天候に左右されるために、測距儀・光学式照準装置は、結局、イギリス、アメリカのレーダー連動式電波式射撃管制装置よりもはるかに劣勢だった。したがって、艦隊同士の砲撃戦で雌雄を決する「大艦巨砲主義」を唱えた日本ではあるが、アメリカ、イギリスに比して射撃気指揮装置の圧倒的に劣勢であり、たとえ戦艦同士の艦隊決戦が生じたとしても、戦艦「大和」「武蔵」が勝利したとは必ずしも言えなかった。

写真(右):海底の戦艦「大和」46サンチ砲弾;撃沈44年後に発見。実用化された最大の艦砲。しかし、80cm砲も実戦使用されており「世界最大口径の火砲」ではない。1999年8月撮影。Wreck of "YAMATO" as found in August引用。

戦艦「大和」「武蔵」は、空母機動部隊とともに1944年6月2日、フィリピン南西端のタウイタウイ環礁で、あ号作戦の為、パラオ方面に来寇してくるウィリアム・ハルゼーWilliam Frederick Halsey)大将率いるアメリカ第38任務部隊 (Task Force 38)迎撃の準備をしていた。第一戦隊の旗艦戦艦「大和」にあった宇垣纏司令官は、戦時日記として『戦藻録』を記録していたが、6月2日「0900大和、武蔵、(タウイタウイ)礁内に行動、駆逐艦を目標として35キロの偏弾斉射主砲1門各2発を行ひ、主砲副砲の対空射撃、高角砲弾幕射撃、機銃射撃等を実施、1320帰泊、玄洋丸を横付急速補給を為す。」とある。」(宇垣纏『戦藻録』原書房、p.334引用)

そして翌6月3日に射撃訓練の研究会を開いた。そこで「35キロに於ける主砲一斉打方の散布(弾着の分散)、一番艦(戦艦「大和」)800余、二番艦(「武蔵」)1000余(1弾宛近弾を除けば600)にして失望と云ふべし。将に戦闘に赴かんとするに此の状況は寒心に堪へず。何とかして解決せんとするも未だ両案に達せず、大難問なり。」(宇垣纏『戦藻録』原書房、p.334引用)

◆戦艦「大和」「武蔵」の九四式46サンチ砲は、同一目標を35キロの遠距離一斉すると、弾着が一点に集中することができず、1000メートル近くも散布してしまった。これでは、全長300メートルのアメリカ海軍大型戦艦にたいしても命中はおぼつかない。1944年後半になってもレーダー管制射撃が不可能で、最高速力27ノットというのでは、33ノット以上の航空母艦に随伴、護衛することができない。戦艦「大和」「武蔵」の46サンチ砲の使い道は、捷一号作戦のように、陸上砲撃かあるいは低速の輸送船団への砲撃に限られていた。

ただし、天候、風向、艦の動揺状態、測距儀・方位盤の調整など条件が整えば、熟練した砲員によって、46サンチ主砲、15.5サンチ副砲の命中率が向上したであろう。特に、光学照準の方位盤射撃で威力を発揮できる接近戦になれば、命中率が高まり、46サンチ砲の威力を発揮できたかもしれない。レイテ沖海戦の時の戦艦大和乗員は、サマール海でアメリカ軍の護送空母、駆逐艦を撃破したと伝えている。戦艦大和が、最大射程27キロの15.5サンチ副砲の命中弾でアメリカ駆逐艦を撃破したのであれば、46サンチ主砲の誇る40キロ以上の遠距離砲戦ではなく、10-20キロにまで接近して命中弾を得たということであろう。


写真(上):戦艦「ミズーリ」BB63 ;「アイオワ」級戦艦:排水量 45,000t, 全長 887' 3" (oa) x 108' 2" x 37' 9" (Max),主砲 9 x 16"/50 対空砲 20 x 5"/38AA, 対空機関砲 80 x 40mm 対空機銃 49 x 20mm, 装甲 12 1/8" (水線部), 17" (主砲塔), 1 1/2" +6" +5/8" (甲板), 17 1/4" (司令艦橋). 出力 212,000馬力; G.E. Turbines, 4 screws,速力 33ノット,乗員 1921名。
主砲に16インチ(40センチ)三連装砲塔3基を備えた最高速度33ノットの高速戦艦。空母任務部隊と行動を共にした。排水量6万8000トンの大和より小さく,4万5000トン。しかし、速力は33ノットと6ノットも速い。竣工は1944年1月29日で大和より3年新しい。近接信管付き4インチ(12.7センチ)対空砲、レーダー連動の射撃指揮装置など大和級にない新技術を採用した。大和がアイオワ級を上回っているのは、46センチ(18インチ)砲三連装砲塔3基という大口径、重防御の装甲の利点であろうか。NavSource Online: Battleship Photo Archive引用.


3.アメリカ軍は1944年10月20日にレイテ島に上陸したが、劣勢だった日本軍の航空兵力,艦隊は,正攻法では反撃できなかったために,第二艦隊(基幹戦艦7隻)をレイテ湾に突入させ,砲撃する作戦を実施した。これがレイテ沖海戦である。戦艦「武蔵」は、艦隊の囮、被害担当官として撃沈された。他方、第二艦隊のレイテ突入を支援するために,日本陸海軍は、航空機による体当たり特攻作戦を実施した。戦艦「武蔵」も特攻機も帰還を期待されていなかったのは同じである。

写真(右):1944年10月21日、レイテ沖海戦直前、ボルネオ島ブルネイ泊地に集結した第二艦隊の戦艦長門、戦艦武蔵、戦艦大和(左奥):右手前の戦艦「長門」の奥には重巡洋艦最上の艦首が覗いている。Photographed just prior to the Battle of Leyte Gulf. Ships are, from left to right: Musashi, Yamato, a cruiser and Nagato. Courtesy of Mr. Kazutoshi Hando, 1970. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.recrop アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH NH 73090引用。

 台湾沖航空戦のとき、フィリピンに赴任する途中、台湾に着いた大西瀧治郎中将は,おなじく台湾にいた連合艦隊豊田副武長官とともに,じきに台湾沖航空戦の過大戦果報告に気づいたと思われる。しかし、大西中将は16日に台湾の新竹を出発、17日マニラの第1航空艦隊司令部に到着し、特攻攻撃の編成に着手する。第1航空艦隊司令官への正式な任命は10月20日である。

同じころ連合艦隊司令部も、シンガポール南方のリンガ泊地で訓練中だった栗田健男中将の第二艦隊に対して、決戦場であるフィリピンに近くのボルネオ島ブルネイ泊地に集結するように命令している。  

写真(右):1944年10月22日、レイテ沖海戦直前、ボルネオ島ブルネイ泊地を出撃した第二艦隊:右手前から戦艦「長門」、戦艦「武蔵」「大和」、重巡洋艦「摩耶」「鳥海」「高雄」「愛宕」、重巡洋艦「羽黒」「妙高」。The Japanese Center Force leaves Brunei Bay, Borneo, on 22 October 1944, en route to the Philippines. Ships are, from right to left: battleships Nagato, Musashi and Yamato; heavy cruisers Maya, Chokai, Takao, Atago, Haguro and Myoko. Courtesy of Lieutenant Tobei Shiraishi. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 63435引用。

捷一号作戦では、日本海軍連合艦隊は,陸上基地に展開する第一航空艦隊第二航空艦隊という航空部隊,特にその特攻隊の支援の下に,戦艦「大和」「武蔵」、戦艦「長門」など栗田健男海軍中将率いる第二艦隊第一遊撃部隊(水上艦隊)をアメリカ軍の主上陸地点のレイテ湾に突入させようと企図した。

日本海軍のレイテ戦海上兵力の部隊編成は次の通りだが,豊田副武大将の連合艦隊司令部は「船団撃滅」を命じたのに対して,栗田健男中将率いる第二艦隊は空母相手の艦隊決戦を企図しており,作戦目的に齟齬をきたしてしまう。日本海軍は最後まで、艦隊決戦(空母艦隊決戦を含む)の思想を抜けきらないまま、補給や輸送任務の重要性に気づかなかったようにみえる。

写真(右):1938年、中国沿岸の重巡洋艦「鳥海」;イギリス軍が撮影し日本のシンガポール占領後に押収された写真。それが再びアメリカ軍が押収された。重巡「鳥海」起工 昭和3年(1928年)3月26日、進水 昭和6年(1931年)4月5日、就役 昭和7年(1932年)6月30日。基準排水量1万トン、全長 204m、全幅 19m、最高速力35.5ノット、航続距離8,000マイル/15ノット。兵装:50口径三年式20サンチ連装砲5基、45口径十年式12サンチ単装高角砲4門、八九式61サンチ連装魚雷発射管4基8門。1944年10月25日朝、サマール島沖でアメリカの護衛空母を旗艦とする「タフィ3」に遭遇、正規空母の任務部隊と早合点した栗田艦隊は、重巡洋艦戦隊を先頭にアメリカ空母群を攻撃させた。しかし、「タフィ3」を護衛するアメリカ駆逐艦、上空からの艦載機の襲撃によって、日本の重巡は大損害を受け、重巡「鳥海」「筑摩」「鈴谷」の3隻が沈没した。
Title: Chokai Description: (Japanese Heavy Cruiser, 1932) View of the ships starboard side from just aft of the bow to the aircraft catapults, circa 1938. Probably photographed off the coast of China. The original photograph came from Rear Admiral Samuel Eliot Morison's World War II history project working files. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: NH 82080 引用。


写真(右):1936年4月、重巡洋艦「羽黒」;起工1925年3月16日、進水1928年3月24日、就役1929年4月25日。満載排水量13,963トン、全長204m、全幅19m。最高速力35.6ノット、航続距離7,000マイル/14ノット。兵装:50口径三年式20.3サンチ連装砲5基、40口径八九式12.7サンチ連装高角砲4基 、九二式4連装61サンチ酸素魚雷発射管2基8門。レイテ沖海戦では損傷したが生き残った。1945年5月16日、ペナン沖でイギリス駆逐艦によって撃沈される。
Title: Haguro. Description: (Japanese Heavy Cruiser, 1929) Underway in April 1936. Donation of Kazutoshi Hando, 1970. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.recrop アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 73016引用。


第一遊撃部隊

第1部隊(第二艦隊司令長官 栗田健男中将);戦艦3隻(大和武蔵長門),重巡洋艦6隻(愛宕、高雄摩耶鳥海妙高羽黒),軽巡洋艦1隻(能代),駆逐艦9隻

第2部隊;戦艦2隻(金剛榛名),重巡4隻(熊野鈴谷利根筑摩),軽巡1隻(矢矧),駆逐艦6隻

第3部隊(第二戦隊司令官 西村祥治中将);戦艦2隻(山城扶桑),重巡1隻(最上),駆逐艦4隻

第二遊撃部隊 (第五艦隊司令長官 志摩清英中将)
重巡2隻(那智足柄),軽巡1隻(阿武隈),駆逐艦7隻

第一機動艦隊 (第三艦隊司令長官 小沢治三郎中将)
空母4隻(瑞鶴千歳千代田瑞鳳 ),戦艦2隻(伊勢日向),軽巡3隻(多摩五十鈴大淀),駆逐艦8隻,空母艦載機116機

写真(右):1944年10月24日、レイテ沖海戦で回避運動をする戦艦「大和」;世界最大の46センチ砲を備えた戦艦は,航空兵力が戦闘の主流となると,あまり使い道がなかった。
Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944. Japanese battleship Yamato (lower center) and other ships maneuver while under attack by U.S. Navy carrier-based aircraft in the Sibuyan Sea. The shadow of one plane is visible on a cloud in lower right center. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:80-G-46986引用。


 戦艦「武蔵」は、レイテ沖海戦でウィリアム・ハルゼー大将率いるアメリカ第38任務部隊 (The Fast Carrier Task Force)艦載機の攻撃によって、爆弾44発、5インチHVARロケット弾9発、魚雷25本が命中・至近弾になったとされるが、これだけの激しい航空攻撃を受けても、戦艦「武蔵」は沈没するまで5時間もかかっている。

 戦艦「武蔵」の強靭性が発揮できた理由は、?雷撃が左舷と右舷に行われ、魚雷の命中も左右両舷だったため、浸水のバランスが均等になったこと、?機関が最後まで停止せず強力な排水ポンプが作動し続けたこと、?乗員の緊急時の対処が優れていたこと、が指摘できる。

◆戦艦「大和」艦上にあった宇垣纏中将は、『戦藻録』に10月24日の状況を次のように記している。
「1330更に第三次来襲、29機、此の時より武蔵の艦首左舷外板まくれて大波を立つ。高速の使用は益々無理を来さしむるを以て注意して全体の速力は20ノット(節)として回避せるも武蔵は遅れ気味なり。-----撃墜敵機の少なきは残念なり。武蔵益々後落し、同行の望みなきに依り、(駆逐艦)清霜を附して馬尼刺(マニラ)に向はしむる事となる。」

「1426第四次50機来襲、1520第五次80乃至100基来襲し、長門中央部に二発命中、武蔵は本体より大分離れたる位置にありて苦戦する事甚しく、第五次に於ては黒煙を吐き左に傾斜し傾斜し航行不能に陥る。其の状態心もとなきに依り更に駆逐艦一の増派を需む。第二部隊は気を利かして(重巡)利根を警戒に派出し呉れたり。」

写真(右):1944年10月25日、サマール島沖で対空戦闘中の戦艦「大和」と重巡洋艦「利根」;レイテ沖海戦で1944年10月、フィリピン、サマール島で米艦載機の雷撃と爆撃を受けたが,大和は生き残った。他方、同型艦「武蔵」は第二艦隊の囮、被害担当艦となり、身代りに撃沈された。Japanese battleship Yamato (foreground) and a heavy cruiser in action during the Battle off Samar. The cruiser appears to be either Tone or Chikuma. Photographed from a USS Petrof Bay (CVE-80) plane. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:80-G-46986引用。

「1530艦隊は反転す。後より司令部は意見具申を為し、基地航空部隊の攻撃相当に奏功したる後、決戦場に進出するを可と為せる事を承知す。----本反転において麾下の片腕たる武蔵の傍らを過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。すべての注水可能部は満水し終り、左舷に傾斜十度位、御紋章は表し居るも艦首突込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上にあり。魚雷の命中11本爆弾又数発、其の一は全て戦艦に於て警戒せる誘爆、舵故障、第一艦橋の吹飛の三者を起せり。即ち電探枠に命中せる一弾は防空指揮所に在りたる猪口(敏平)艦長の右肩を傷け第一艦橋、作戦室を全滅せしめたりと云ふ。」( 宇垣纏『戦藻録』原書房、pp.418-419引用)

「全力を尽くして保全に努めよ。又艦首を附近島嶼沿岸の浅瀬にのして、応急処置を講ずべきを司令官として注意したり。一度行き過ぎて再び半反転日没近く(1900前)更に武蔵の傍を過ぐ。状態大なる変化なく機械の一部及舵も利くとの信号を最後に受く。何等泣き事を云はず、全員其の守所に頑張り通せるものの如し。此の分ならば明朝迄持ちこたえ得んかと考へたるが、利根は如何とも為し難し。突入の列に加へられん事を望むと願ひ、1830原隊に復帰を命ぜらるる。
武蔵は1937急に傾斜沈没せりとの報を受く。嗚呼我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さら乍(なが)ら其の斃れたるや大和の身代りとなれるものなり。今日の武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれ両艦は敵の集中攻撃を喰ふ身なり。思へば限り無き事なるも無理な戦なれば致方もなし。----宜しく豫て大和を死所と思ひ定めたる如く、潔く艦と運命を共にすべしと堅く決心せり。」(宇垣纏『戦藻録』、p.419引用)

写真(右):アメリカ海軍正規空母「レキシントン」USS LEXINGTON (CV-16) 艦上の急降下爆撃機SB2C「ヘルダイバー」;1944年10月25日,レイテ湾海戦での撮影。急降下爆撃機「ヘルダイバー」は,全幅15.16m、全長11.20m。最大速度452km/h、爆弾227〜726kg×1、Mk.18航空魚雷×1、20mm×2、7.62mm×1. 油圧で自動的に翼を折りたたむ。日本機は翼を折りたたむのは,全て人力だった。Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: Loading drop tanks on SB2Cs aboard USS LEXINGTON (CV-16) before a search mission, on 25 October 1944. Catalog #: 80-G-284381 Copyright Owner: National Archives Original Date: Wed, Oct 25, 1944.アメリカ海軍歴史遺産司令部Naval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-284381 引用。

1944年10月のレイテ沖海戦,戦艦「武蔵」に搭載したレーダー(二一号探信儀二二号探信儀)では、搭載した46サンチ砲を水上艦艇に対しても、航空機に対しても、レーダー管制射撃をすることはできなかった。対空兵器である12.7センチ高角砲,25ミリ機銃は,射撃管制装置(方位盤)と連動して、同一目標に対して数基を同時に連動、指向して射撃することができたが、射撃照準には,レーダー誘導ではなく、光学式だった。これらの砲弾も、信管が時限式であり,高速の米軍機に対して命中率は著しく低かった。米軍は航空機に接近した弾丸が自動的に爆発する近接VT信管を実用化し,1944年6月から5インチ砲(12.7cm)以上の対空砲に大規模に使用していた。

戦艦武蔵・大和は、レイテ沖海前に多数の25ミリ機銃を増加装備し,対空能力を強化したが,航空機の上空の護衛がないために、レイテ湾にたどりつくのは不可能であると考えられた。

写真(右):艦上爆撃機カーチス「ヘルダイバー」Curtiss SB2C-3 "Helldiver";1945年1月中頃南シナ海、アメリカ海軍正規空母「ホーネット」(第2代)USS HORNET (CV-12)に所属する艦上機。空母「ホーネット」(第2代)起工 1942年8月3日、進水 1943年8月30日、就役 1943年11月29日。排水量t 2万7,100 Tons, 兵装 12 x 5"/38AA, 32 x 40mm, 46 x 20mm, 搭載機 82機. 装甲 4"(インチ)舷側, 2 1/2" 格納庫甲板Hanger deck, 1 1/2" 飛行甲板Deck, 1 1/2" 艦橋. 機関出力 15万馬力 速力 33 Knots, 乗員 3448名。Title: USS Hornet (CV-12). Description: Curtiss SB2C-3 Helldiver aircraft bank over the carrier before landing, following strikes on Japanese shipping in the China Sea, circa mid-January 1945. Photographed by Lieutenant Commander Charles Kerlee, USNR. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史遺産司令部Naval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-469319 引用。

1944年10月20日,日本の第二艦隊はブルネイ泊地を出撃、24日・25日にはウィリアム・ハルゼー大将率いるアメリカ第38任務部隊 (Carrier Task Force:空母任務部隊)艦載機の戦闘機F6F,急降下爆撃機SC2B,雷撃機TBF/TBMによる激しい攻撃を受けた。アメリカ軍艦載機はレーダーと無線で誘導されて,的確に栗田健男中将率いる第二艦隊第一遊撃部隊「武蔵」他を攻撃した。アメリカ機は雷撃機も急降下爆撃機も前向きに12.7ミリ機銃を備えており,機銃掃射を仕掛け、多数の日本海軍艦艇乗員を殺傷した。艦上戦闘機F6Fヘリキャットも、12.7ミリ機銃6丁と5インチロケット弾を用いて、日本艦隊を攻撃した。

アメリカ軍空母艦載機は,速力が低下し落伍し始めた戦艦「武蔵」に攻撃を集中。これは,猪口艦長が企図していた通りで、戦艦「武蔵」は囮の被害担当艦の任務をこなし、アメリカ軍の攻撃を引き付けた。また、小沢治三郎中将率いる空母機動部隊はも囮艦隊として、ウィリアム・ハルゼー大将率いるアメリカ第38任務部隊 (Fast Carrier Task Force:高速空母任務部隊)による空襲を一手に引き付けていた。こうして、栗田健男中将の第二艦隊(第一遊撃部隊)の第一部隊・第二部隊は、戦艦大和・長門を含む過半の艦艇をレイテ湾口に進めることに成功した。これは、予期した以上の成功である。 


写真(上左)アメリカ軽空母「モンテレー」USS Montereyの飛行甲板上のTBFアベンジャー雷撃機:1944年6月、マリアナ沖海戦の時期、テニアン島の攻撃に発進するアベンジャー(復讐者)。Title: Marianas Operation, June 1944. Description: TBM Avenger bombers prepare to take off from USS Monterey (CVL-26) to attack targets on Tinian, June 1944. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史遺産司令部Naval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-432851 引用。
写真(上右)アメリカ正規空母「エセックス」の格納庫のTBM「アベンジャー」雷撃機;TBF/TBM「アベンジャー」雷撃機など米艦載機は,主翼を反転して折りたたむことができた。1トン航空魚雷を戦艦武蔵・大和に各々12本命中させた撃沈に寄与した。エンジン:ライトR-2600/1700馬力、最大速度:420km/h、航続距離:1955km。武装:固定12.7mm×1、旋回銃・上12.7mm×1、旋回銃・下7.62mm×1、Mk.13またはMk.18航空魚雷×1あるいは454kg爆弾×1または227爆弾×4。TBFはグラマン社製、TBMはジェネラルモーターズ社製。総生産数9800機。四分の三はジェネラルモーターズGM製造。性能は一見すると日本の攻撃機よりも劣るが、機体の信頼性、防御、無線通信装置・レーダー(航法装置、索敵機能)は遥かに優れていた。
 

ウィリアム・ハルゼー大将率いるアメリカ第38任務部隊 (Fast Carrier Task Force:日本でいう空母機動部隊)は,雷撃機(日本海軍でいう攻撃機)「アベンジャー」などを発進させ,戦艦「武蔵」を中心に,栗田健男中将率いる第二艦隊の第一部隊・第二部隊の戦艦「武蔵」など大型艦船を攻撃した。日本艦隊の航空機による上空援護は,全くなかったため、アメリカ軍機は,日本の戦闘機の妨害を一切受けることなく,対艦攻撃に専念できた。

写真(左):Mk13航空魚雷・水上艦艇用魚雷;1930年に製造が開始され,MK14,Mk15と改良された。直径: 569mm 重量: 1005 kg 全長: 4089 mm 最大射程: 5760 m / 6300 yards at 33.5kts 炸薬量: 262 kg / 600 lbs.

アメリカ海軍の魚雷torpedoesは,第二次大戦中に6万4,000本を量産された。
アメリカ軍の主要な航空魚雷Mk 13 Air-Dropped, Surface-Launched Anti-Surface Torpedoで,航空機,水上艦艇のいずれでも使用可能だった。製造開始は1930年であるが順次改造された。直径Bore: 569mm,重量: 1005 kg / 2216 lbs,全長: 4089 mm / 13ft 5in,最大射程Max. Range: 5760 m / 6300 yards at 33.5kts,炸薬量Explosive Charge: 262 kg / 600 lbsである。

写真(右):1944年10月24日、レイテ沖海戦に参加したアメリカ海軍正規空母「エセックス」USS ESSEX (CV-9);5インチ連装高角砲塔と主翼を折りたたんだ艦上戦闘機F6Fヘルキャット。起工 1941年4月28日、進水 1942年7月31日、就役 1942年12月31日。排水量t 30,800トン, 兵装 38口径5インチ連装砲4基8門、38口径5インチ単装砲4門, 搭載機 90機。機関出力 15万馬力、 最高速力 33ノット。乗員 3,200名。Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: Scene on the flight deck of USS ESSEX (CV-9) during the Japanese air attack on T.F. 38, 24 October 1944. A Japanese plane is burning on the water in the background. Copyright Owner: National Archives . Original Date: Tue, Oct 24, 1944 アメリカ海軍歴史遺産司令部Naval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-284724 引用。

当初、アメリカの航空雷撃は、機から速度110ノット(knots:時速200キロ)で,投下高度は50フィート(16メートル)とされたが,改良され,1944年にはより高速で,投下高度100フィート(32メートル)で発射可能になった。空気魚雷のために気泡による雷跡は残るが、頑丈な航空雷撃である。Mk-13/-14/-15 の三種は類似したシリーズである。
アメリカ海軍の魚雷は、第二次大戦中,161本を戦艦,航空母艦に命中させ,56本を駆逐艦に, 182本を輸送船に命中させている。 合計で1287回の雷撃で40%の命中率とされる。1945年4月7日,沖縄方面に出撃した大和を撃沈し乗員2740名を殺害するのに寄与したという。戦艦「武蔵」の死者は1000名以上。

雷撃箇所の損傷から浸水した武蔵は、艦の左右のバランスを保つため、雷撃を受けた反対側に海水を注入したが、注水可能な区画には海水を入れてバランスを保っても、浮力は低下してしまう。そこで、艦首に付けられた「菊の御紋章」に波がかかるくらい吃水線が沈んでしまい、上甲板の部分まで海水が被るようになった。


写真(上左);1944年10月22日(?),ブルネイ泊地を出撃する戦艦「武蔵」
;Title: Musashi: (Japanese battleship, 1942-1944) Leaving Brunei, Borneo, in 1944, possibly on 22 October, when she departed to take part in the Battle of Leyte Gulf. Courtesy of Lieutenant Tobei Shiraishi. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. アメリカ海軍歴史遺産司令部Naval History and Heritage CommandCatalog #: NH 63473 引用。 写真(上右):1944年10月24日、シブヤン海で大破し吃水の沈下した戦艦「武蔵」;Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944: The Japanese battleship Musashi down at the bow after being hit by U.S. Navy carrier plane attacks in the Sibuyan Sea. Courtesy of Lieutenant Tobei Shiraishi. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.アメリカ海軍歴史遺産司令部Naval History and Heritage Command Catalog #: NH 63434 引用。武蔵は、レイテ沖海戦にブルネイ泊地を出撃した時の左写真より、アメリカ空母搭載機の波状攻撃を受けて、触雷・被爆した後に撮影された右写真では、浸水により吃水が大きく下がっている。このように魚雷、爆弾を多数受けた武蔵だったが、浸水した海水の中排水によって左舷と右舷のバランスを保っており、傾斜はわずかなままに保っている。


◆NHK 巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死 「戦艦 武蔵沈没」(戸田 文男さん:2012年6月6日収録)に次の証言がある。

戦闘の小休止に私は2番主砲の上へ乗ってみたらね、武蔵はもう前の方が沈んでおるんですよ。でね、もうこれはもう駄目だと、だからね、近付こうちゅって近付いたんでしょうね。姉妹艦ですから。で、武蔵に1,000メートルぐらいまで近付きました。そうしたら武蔵の乗員はいっぺんに沈みませんから、前甲板に1,000名ぐらいが整列して待っている。前甲板はもう水面とすれすれですよ。で、駆逐艦の横付けをするのを待っておったね。そこへ大和が行って、「登舷礼式用意」。 こういうマイクが(号令が)かかった。登舷礼式というのはお別れの儀式なんでね。で、私はその大和の右舷にずうっと並んでね、帽を振るんですよ。帽を振ってね、これがお別れの印、これで別れて。一路レイテ湾に突入が目的ですから、それで別れてね。

泣きの涙ですね。これで姉妹艦、妹がこれで沈んだってね、自然に涙が出てきましたね。声を出して泣いている人もいましたよ。黙ってね、「さようなら」って言う人もおりますよね。そんなこと言ったって、もう私らレイテ湾に行かなきゃいかんもんね。サッとただすれ違うだけですよ。こうね。で、1,000メートルも離れておりますから、武蔵の乗員と会話するなんていうこともできませんよね。旗りゅう信号を揚げてね、さようならって旗りゅう信号を揚げて、いやあ、武蔵が沈んだか。次は我が身かななんて、そんな気持ちが。だんだんとそういう気持ちになりましたね。
昭和・・入ったときの気持ちから、昭和19年、20年、だんだんと青雲急を告げるようになりますとね、やっぱり考えがね、これは、というような気持ちにだんだんなっていきましたね。それはもう私の気持ちですけど。

Q:次の日、敵艦隊に向けて主砲を発射しますが。
水上戦闘ですか?

Q:ええ。水上戦闘。
2番砲塔はね、私の砲塔ですね。よーし、これだと、もうこのために我々はこの大和に乗っておるんだとね。対空戦闘ではね、まあ撃つには撃ったけど、戦果のほどは分からんけど、今度は航空母艦艦隊だね。輸送空母(輸送船改造の護送空母)だっちゅうことは最初は分かりませんでしたから「航空母艦艦隊だ、列を解き全艦突入せよ」と栗田艦隊の命令が出たよね。そうしたら砲術長は、すぐに「左砲戦」って砲戦号令ですね。

その声を私は電話で聞いて、その通りのことを砲員に言うんですよ。
私ももうね、それが私の本職(砲伝令)ですのでね。方位盤照準一斉撃ち方発令発射」。「撃ち方始め」って。この2番砲塔の中であらん限りの声で私も負けん気でね。そうしたらトップの砲術長が引き金を引くんですね。「発射用意」っていうのでね。ブザーが鳴るんです。プップップー。「発射用意、てい」っと。撃てとは言わないですね。「発射用意、てい」って砲術長自ら号令を掛けて引き金を引く。

Q:そのときは命中っていうような声は聞こえてこなかったんですか?
ありましたね。砲術長がね、「初弾命中」って言いましたね。だからトップからでは分かっておるんだろうね。

Q:初弾命中っていうふうに聞いて戸田さんどうしたんですか?
やったと思いましたね。私は直接伝令と、測距儀のようにのぞいておりませんけどね、「やった」って。したら班長がね、15メートル測距儀で距離を測っとったんだよね、「戸田、見てみい」って言うからパッと見たら、うやうやうやーって。戦闘小休止になりました。砲塔の上に上がって見えるんですよ。そうしたらね、航空母艦が黒煙を吐いて、こう沈むとこだったね。アメリカの兵隊が泳いでおる。(ライフ)ジャケットを着けている。ライフジャケットなんて見たこともない。日本ではね。もうあれを着けておればね、本人、自分はね、気を失っておっても浮いておられるんですよ、(ライフ)ジャケットで。みんなアメリカは(ライフ)ジャケット着けておる。それで「助けてくれ」って言っとるんよね。でも、止まって助けるわけにいかないから、もう。でもね、そこ直通で行くとスクリューに巻いちゃうでしょ。だからちょっと蛇行してね、その人間をスクリューに巻き込まないようにして、敵艦隊に突っ込んで行きましたよ。もうそのときはこれが水上戦闘かと思いましたね。 それが悲しいかな、3年4か月の大和の寿命のうち、水上戦闘はその2時間だけ。あとは全部対空戦闘。対空戦闘はね、あまり飛行機と船ではね。ゼロ戦も優秀でした、でもミッドウェー(海戦)でやられちゃったんだからね。だからマリアナ沖(海戦)のときもレイテ(海戦)のときも、沖縄特攻作戦のときも、飛行機がないんですものね。来るのはみんな敵機ですから。

この大和に乗って、苦しいけども、この戦いで国民のために俺は命を投げるのだと、そんな気持ちでおりましたですね。まあそれが純真な気持ちっていうか、それは分かりませんけど、いったん男が志を立てて、軍艦に乗って相手と戦うんだと。もうこれで最後だと。そういう気持ちにだんだんなってきましたですね。

Q:レイテ前とレイテ後で、戸田さんの中でいちばん変わったことって何だったですか?
まあ人生ですね。やっぱり性格が変わっていきましたね。だんだんと大人しくなってきた。若いときの威勢のいいときはだんだんなくなってきたね。で、だんだん若いって言ったって16、17(歳)ですもんね。ちょっと考えが、変わってきたような。死に近付いておるような心境になってきましたですね。

写真(右):1944年10月24日、シブヤン海で爆撃を受ける戦艦「武蔵」;レイテ湾に集まっているアメリカ輸送船団・戦車揚陸艦を砲撃するために、栗田艦隊の戦艦武蔵はレイテ突入を企図した。しかし、ウィリアム・ハルゼーWilliam Frederick Halsey)提督隷下の第38任務部隊の雷撃機アベンジャーと急降下爆撃機ヘルダイバーの攻撃によって大きな損傷を受けた。 Title: Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944 : Japanese battleship Musashi is hit, during attacks by Task Force 38 aircraft in the Sibuyan Sea. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:80-G-281766引用。

ニコニコ大百科「(レイテ沖海戦」では、次のように記している。

8時20分、栗田艦隊は米軍の索敵機に発見される。この時フィリピン東部に展開していたウィリアム・ハルゼーWilliam Frederick Halsey)大将の第3艦隊は正規空母5隻、軽空母6隻、戦艦6隻を基幹とする大機動部隊。10時26分、第一波の攻撃隊が栗田艦隊に襲いかかる。この攻撃で戦艦「武蔵」と重巡「妙高」が被雷。速力が半減した「妙高」は落伍し、第五戦隊司令部を僚艦「羽黒」へ移して単独で戦線離脱する。

 第二波・第三波と空襲が繰り返される中、米軍機の目標は戦艦「武蔵」に集中した。ブルネイ出撃直前、船体を塗りなおしたのを「死装束のようだ」と言われた「武蔵」は、輪形陣中央の旗艦「大和」からやや離れた位置におり、一説では「被害担当艦」を想定されていたという。----

 浸水で艦首が沈み、速力は低下。第一群の輪形陣から落伍し、後続の第二群の輪形陣との間に取り残される格好となった「武蔵」へますます攻撃は激化し、推定で各20発の魚雷と爆弾が命中。14時53分、栗田長官は「武蔵」に駆逐艦「清霜」を護衛として戦線離脱を命じ、「清霜」と重巡「利根」、駆逐艦「島風」「浜風」が警戒にあたった。

 米軍の攻撃は「武蔵」へ集中されたが、他の艦も大なり小なり損害をこうむった。
 重巡「妙高」は戦線離脱。戦艦は「大和」も「長門」も爆弾が命中し、「長門」は一時機関が停止した(速力23ノットまで回復、副砲4門使用不能)。ほか重巡「利根」、軽巡「矢矧」、駆逐艦「清霜」「浜風」も爆弾で損傷。栗田艦隊は、計画では約束されていた航空機の防空支援が全く行なわれ無いことに苛立ち、刻々と増加していく空襲損害にたまりかね、いったん反転・空襲圏外への離脱を決意する。

 作戦計画ではこの日、小沢艦隊がウィリアム・ハルゼー大将率いる高速空母任務部隊(Task Force 38)を北方へ誘引し、栗田艦隊はその間隙を縫ってシブヤン海からサンベルナルジノ海峡を抜けるはずだった。ところが、ウィリアム・ハルゼーWilliam Frederick Halsey)提督の高速空母任務部隊が北から接近する小沢艦隊を発見したのはこの日の夕方だったため、日中の栗田艦隊は米機動部隊の猛攻に曝される羽目に陥った。

 基地航空隊は、第二航空艦隊(福留中将)が栗田艦隊の上空警護ではなく米艦隊への直接攻撃を行なっていた。しかし戦果は捗々しくなく、わずかに軽空母「プリンストン」を撃沈するに留まる。

第一遊撃部隊 一六〇〇電
 ・・・1YB主力ハ日没一時間後『サンベルナルヂノ』強行突破ノ予定ニテ進撃セルモ・・・逐次被害累増スルノミニシテ・・・一時敵機ノ空襲圏外ニ避退シ友隊ノ成果ニ策応シ進撃スルヲ可ト認メタリ・・・

 15時30分に後退を発令(16時付、連合艦隊通知)した栗田艦隊は、西方へ転進する。
 16時40分、米空母「レキシントン」の索敵機は南下してくる日本空母艦隊(小沢艦隊)を発見。栗田艦隊の反転を「退却」と判断したウィリアム・ハルゼーWilliam Frederick Halsey)大将は、栗田艦隊に貼り付けていた索敵機を呼び戻し、麾下の戦力を集結。翌25日の出撃を期し、20時過ぎに全力北進を開始した。

 西進する栗田艦隊は、まだ日が沈んだわけでもないのにパッタリ空襲が途絶えたことを訝しんでいた。先の後退電に対する連合艦隊からの返信は来ないし、小沢艦隊からの連絡もない(※17時15分付電で「瑞鶴」は米索敵機の出現を発信したが、「大和」には受信記録が無い)。---
 17時14分、栗田艦隊は連合艦隊の返電を待たず再び東進を開始した。

 18時頃、栗田艦隊は微速後退中の「武蔵」とすれ違う。「大和」と「武蔵」の間で発光信号が交わされる。「武蔵」の状態は『機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不能』。

 18時30分頃、「武蔵」は前日に救助していた重巡「摩耶」の乗員を駆逐艦「島風」に移送。「島風」は栗田本隊に戻り、同じく「武蔵」警護に当たっていた重巡「利根」へも艦隊へ復帰する。

 19時15分頃、傾斜を増した「武蔵」は総員上甲板を発令。19時30分、総員退艦。護衛の駆逐艦「清霜」「浜風」が救助にあたる(「浜風」は半年後、戦艦「大和」と運命を共にする)。両艦は救助作業ののち、マニラへ撤退。

 19時35分、巨大戦艦「武蔵」は、その空前絶後の砲撃力を発揮すること無く、フィリピンの海に沈んだ。猪口敏平艦長以下1000名余が戦死。「島風」へ移らず「武蔵」に残った、重巡「摩耶」乗員100名余も、沈没する「武蔵」と運命を共にした。(引用終り)

◆「戦艦武蔵は艦首から徐々に沈んでいった」という言説もある。当時戦艦「大和」に乗艦していた宇垣長官の日記『戦藻録』では、伝聞ではあるが、爆発し転覆したとある。撃沈された戦艦「武蔵」から生還した水兵の渡辺清さんは次のように証言している。

「鼻から生ぐさいものが流れているようだったが、おれは無我夢中だった。いまは寸刻 をあらそう瞬間だ。きわどい生と死の境目だ。艦はすでに人参色の艦底を宙にもちあげてきて いるではないか。
 傾斜は加速度的にくわわっていく。
 四十二度、四十五度、四十九度――。
 突然、艦体ががくんと前にのめって艦尾をあげた。右舷のスクリューが二基とも宙に浮いた。 真鋳製の大きなスクリューの羽根が闇のなかに不気味に光る。そしてその上にも、四、五人の 兵隊がのっかって、なにか金切り声で叫んでいる。
 後甲板には一部の負傷者が寝かされていたが、彼らは艦の傾斜とともに、折り重なって海へ 転げ落ちていった。それといっしょに、そこらに投げ捨ててあった防毒面鉄カブト、短靴、 土官用の皮脚絆や軍刀、双眼鏡、そのほか右舷側に移動しておいた弾薬筺、要具箱などの重量 物が、いっせいにがらがらと転げだした。悲鳴があちこちにあがった。」

写真(右):1944年10月24日、シブヤン海で爆撃を受ける戦艦「武蔵」;煙突からは黒煙が吹いている。レイテ湾への突入を図る武蔵は、アメリカ第38任務部隊の雷撃機と急降下爆撃機の空襲を受け、艦橋よりも高い水柱が立っている。武蔵の喫水線(吃水)からか第一艦橋トップの主砲射撃方位盤まで45メートルある。Title: Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944: Task Force 38 aircraft attack the Japanese battleship Musashi (foreground) and a destroyer in the Sibuyan Sea. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 63432引用。

「五十五度、六十度、六十八度――。
 傾斜の鈍い、くぐもった反動が、抗でも打ちこむようにズズン、ズズンと、伏せている下腹 に響いてくる。前部のほうで、なにか崩れ落ちる音がつづけざまに聞えた。やがて艦橋が横倒 しになり、甲板はほとんど垂直に傾いた。同時におれの体は棒のように甲板にぶらさがってし まった。
 もうどこにも足をひっかけるところがない。鉄板をくわえていた前歯がはずれて、両 腕ものびきってしまった。指先の爪が、わずかにへりの角にかかっているだけだ。

 だが、ここで手を離したらもうおしまいだ。それこそ艦の下敷だ。そう思うと、身のすくむ ような恐怖に、全身が突然発作的に震えだした。冷たい汗が顔から首へ、首から背筋へと湧く ように流れる。吸う息、吐く息までがのどをしめて苦しい。垂れ下がった体の重みで、首がひ とりでに肩にめりこんで、いまにも腕がぬけそうだ。」

写真(右):1944年10月24日、シブヤン海で爆撃を受ける戦艦「武蔵」;レイテ湾への突入を図る武蔵は、アメリカ第38任務部隊の雷撃機と急降下爆撃機の空襲を受け、艦全体が爆風、水柱に覆われている。煙突からは黒煙が吹いている。Title: Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944: Japanese battleship Musashi under intense attack by Task Force 38 aircraft in the Sibuyan Sea. A destroyer is also receiving attacks beyond the battleship. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-281764 引用。

「すると、立ちあがったおれの限の前に、べた一面牡かきがら蠣殼におおわれた、白っちゃけたサビ色 の艦底がもり上がるように茫洋と迫ってきた。艦が大きく一回転しようとしているのだ。
 おれはとっさに腰をかがめ、横むきになると、艦底の上を斜めにつっきって走った。走りながら踏みくだいていく牡蠣殼のジャリジャリいう音を聞いた。暗い視野のなかに、何か白いものが激しく入り乱れた。おれは夢中だった。いちど牡蠣殼に足をとられて膝をついたが、すぐはね起きてまた走った。走りに走った。そしてそのまま艦尾のスクリューの手まえから、両手をひろげ、転げこむように体を海に投げだした。

 おれが、いったん沈んだ海中から浮び上がったのと、艦底が宙に逆さか立ったのとは、ほとんどまばたきするぐらいの間しかなかった。危ない。少しでも艦から離れなければ……。おれは泳いだ。両手でめちゃくちゃに波をたたいて泳いだ。
 波のうねりは上で見ていたときより高かった。手のひとかきごとに波が大きく顔にかぶさってくる。体が横っとびにはねる。そのためなかなか前に進まない。ただ、ひとつところを空しく廻っているようだ。おれは後ろにそそりたった艦底をせつないほど背中に意識しながら、それでもどうにか三十メートルほど離れたとき、もう一度、総毛立つ思いで後ろを振りかえってみた。
 そしてその瞬間だった。」

 「武蔵は、もう精も根もつきはてたように、艦底を高々と空にさらして転覆した。艦橋が、マストが、煙突が、砲塔が、そしていっさいの艦上構造物が、逆さまにひっくり返った一瞬、突然轟然たる大音響とともに、眼もくらむような凄まじい火焔が空に噴きあがった。火焔は巨大な一本の柱となって、旋風のように沸騰し、ひらめき、迸ほとばしり、閃々と空を突いて屹立した。

 海は吼ほえ、空は轟き、空気は煮えたぎった。重油タンク弾火薬庫の爆発らしかった。瞬間、あたり一帯は白熱し光芒に赤々と染めだされ、海は焔の光をはじいて、さながら真昼のように照り映えた。武蔵はその爆発の衝撃で、艦体を割って全身火だるまとなり、ついに濛々とたちこめる喪服のような黒煙につつまれながら海中深く沈んでいった。(時に午後七時三十五分だった。」
渡辺清(1971)『戦艦武蔵の最期』朝日選書 引用)

海底に沈んでいた戦艦「武蔵」を撮影したMicrosoft共同創業者ポール・アレン氏の動画が、2015年3月に公開され、そこ第一艦橋の破壊、船体の損傷、転覆した船体と分離し正常に着底した後甲板が撮影されている。したがって、戦艦武蔵の最期は、転覆と爆発と思われる。

◆日本海軍は1944年10月のレイテ沖海戦において、次の25隻の有力な艦艇を撃沈された。
戦艦3隻: 武蔵扶桑山城(基準排水量:34,700トン、全長:212m、全幅33m、出力16万馬力、速力24ノット、航続距離1.2万マイル/16ノット、主砲:36サンチ連装砲6基12門) 
正規空母1隻:瑞鶴(基準排水量:25,675トン、全長:258m、全幅26m、出力16万馬力、速力34ノット、航続距離1.1万マイル/18ノット、搭載機80機)  
補助空母3隻:瑞鳳千歳千代田(基準排水量:11023トン、全長:193m 水線長:184m 全幅:21m、出力:5万7160馬力、速力:28.9ノット、航続距離:1.1万マイル/18ノット、搭載機30機)
重巡洋艦6隻: 愛宕・摩耶・鳥海・筑摩・最上・鈴谷(基準排水量:34,700トン、全長:201m、全幅20m、出力15万4,000馬力、速力35.5ノット、航続距離8000マイル/14ノット、主砲:20.3サンチ連装砲5基10門) 
軽巡洋艦3隻: 多摩・能代・阿武隈(基準排水量:5,170トントン、全長:162m、全幅14m、出力9万馬力、速力35.5ノット、航続距離8000マイル/14ノット、主砲:14センチ単装砲5門) 
駆逐艦9隻:秋月初月朝雲満潮山雲藤波野分・若葉・不知火

4.レイテ沖のアメリカ軍輸送船団とアメリカ艦隊を攻撃する捷一号作戦が発動された、連合艦隊は、戦艦「大和」「武蔵」など戦艦7隻を擁する第二艦隊にレイテ湾に突入を命じた。戦艦「武蔵」の少年兵だった吾田 豊さんは、NHK[証言記録 市民たちの戦争]フィリピン・シブヤン海 “戦艦武蔵の最期”で海軍やレイテ戦に纏わる戦争体験を語っている。

写真(右):1942年8月、公試時期の戦艦「武蔵」の46センチ三連装砲塔と第一艦橋:砲塔は砲耳で砲塔に取り付けられている、方針は上下に水圧で駆動。

志願して海軍に(吾田 豊さん)
これ、乗るとき。武蔵に乗るときね。

Q:どこで撮った写真なんですか?
 呉。
Q:で、右側の?
 ああ、横須賀。帰ってきてね、(のちにレイテ沖海戦大敗を隠すため、撃沈された武蔵生き残りを拘留していた)コレヒドール(島)から帰ってきて、横須賀(海兵団)に入ったときのあれです。

Q:若いころのお写真。何歳ぐらいですか? これ?
 17ですよ、こっちは。
Q:17歳?
 ああ、こっちは16だし。
Q:ほんとに、少年のようですね。
 少年だわ。入れば(軍人の給与で生活が)保証されるということが、まず、原点でしょ。生きるっていう、(貧し家庭でも生活が)保証はされるってことは、いいっていうんだもね。(戦死しても遺族年金が出る。)

だけども、入ってみてわかったのは、現実に入ってみてわかったのは、(少年兵の生活が)保証されるんでなくて、あとはね、(兵は)物扱いなんだよ。おれらは。物扱いですから。ゴミみたいなもんだ。だめなものはだめ。いいものはいい。それが、自分がそういうことを、考えられないんだよ、当時は。ひどいもんだよ。だから、いわゆる(私的)制裁ってやつがあって、精神バット(精神注入棒)くらったり、おれ、何十発も、食らったことあるんだよ。

Q:何十発?
 うん。精神棒(精神注入棒)って、あの棒があるでしょ。いや、棒があって、あんたはわからんかもしれないけど、それで、ケツベタ。それをね、バッターの振り方でもってね、骨盤がね、折れることある。

規律は確かに、人によっては、厳しいと思うかもしらんけど、おれらが(横須賀)海兵団入ったときに、やっぱりトイレのね、トイレにある真ん中に、バーッと、こうあの、あれがはってるのね。

Q:あれとは?
 あれっていうのは、柱がね、トイレのね、あの(横須賀)海兵団のトイレっていうのは、柱がね、真ん中にね、ど真ん中にバーッと、はってるんです、はり、はりが。

  Q:はりが?
 うん。それでもって、(海兵団の少年が)首つりして、死んだのはいたけどね。それと、脱走したのもいたけどね。だけどね、脱走したってね、そのときは、おれらのときは脱走してもね、すぐつかまって、戻されるんだよ。

武蔵で艦長命令で出てたのは、「一切、制裁をしてはいけませんよ」と。「第一線の勤務だから、そういう制裁はいけませんよ」。そしたら、それの裏をかいて、艦底まで引っ張って行くんだよ。

Q:艦底?
 うん、艦底。いわゆる釜室。釜室。船の釜、あるでしょ動かす釜が。
だから、釜室っていうのは、音が大きいでしょ、あれ、釜がゴンゴン、ゴンゴンってなってるから。だからね、制裁してどなったって、何したって、わからないわけだ。全然、わからんわけだ。そういうことは、上部のいわゆる士官とか艦長とかには、わからないわけですよ。(制裁があったのは知っていたとしても、兵下士官の問題には不介入を決め込み、統率の責任を負わなかった。)

もう、何ていうのかな、人間でないからね、あれは、船、乗ってる間っつうのは、一番下っ端の人間っていうのは、ごみ、みたいなものだからね。(日本の陸海軍の新兵が最も恐れたのは、前線に送られることよりも、部隊内部での私的制裁、暴力、陰湿ないじめだった。)

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の九六式25粍三連装機銃;46センチ砲の射撃時に発生するブラストから操作員と機械を守るために、防楯がつけられていた。ただし、竣工後に追加増備された機銃には、防盾はつけられていない。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

砲術学校(吾田 豊さん)
上部からね、おまえはどこへ行け、どこへ行けっていう、あれでもって、昔はみんな、そうなんですよ、あれ。自分が入りたくて、入ってないんだよ。

新兵を終わる前に、おれは言われたの。「こういう、あれがあるよ」と、「おまえ、どこどこ、どこどこへ行くか、決めれ」って言われたの。いわゆる、(将校の下にあって兵を統率する)下士官からね、言われたの。

これ、どんなことを考えてるのかなっていう、探りでねえかと、おれは思ったけどもね、そのときは。だから、おれは砲術学校」っつった。いちばん無難だと、思ったの、それ。無難ですよ、だれでも、行けるだもん。砲術は、第一線だから、本当は行きたくないよね。

Q:そうですか?
 したってそうでしょ。第一線だもの。でも、軍隊っていうのは、第一線に行ってるんだから、それに、一線っていうのは、やっぱり、(命を懸けて戦う最前線の任務は)誇りに思うわけでしょ。だとすれば、そこしかないわけだもの。おれはそう思った。

Q:それで砲術学校では、何を学ばれたんですか?
機銃さ、もちろん。

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の九六式25粍三連装機銃;25ミリ三連装機銃は、竣工時に装備されたものには、爆風除けのシールド(防楯)がついている。しかし、増設されたものには、閃光・爆風除けのシールド(防楯)はついていなかった。そこで、46センチ砲の射撃時に発生するブラスト・爆風を酒つために、手法発射前にブザーが鳴った。機銃操作員は館内に退避した。しかし、手法を発射すると爆炎が広がったために、機銃操作員の視界はさえぎられてしまい、敵機を視認することはできなかった。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNSに動画が公開された。

Q:大砲とかじゃなくて?
 ううん。機銃。25ミリ、25ミリ機銃の学校さ。

Q:大砲とか、高角砲とか、そういったものは全然、学ばなかったんですか?
 いや、学ばない。


Q:そういうのは、教えてくれなかったんですか?
 いいや、機銃だもんさ。機銃って、25ミリ機銃っていうことで、横須賀の第1海兵団の隣が砲術学校だから。そこに行って、25ミリ機銃班に。

Q:実際に、機銃を撃ったりとかもされたんですか?
 いや、当時はあの(砲術)学校に入ってるときはない、ないですよ。武蔵に乗ってからは、あったけどもね。
(機銃実弾射撃の訓練場も標的も限られていた上に、弾丸の節約の目的もあって、対空実弾射撃はしなかった。したがって、対空射撃の命中率が低いままだったのは当然だった。)

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」のシールド付き25ミリ三連装機銃;25ミリ三連装機銃を3基から4基をまとめて連動させて対空射撃をすることができる。46センチ砲の射撃時に発生するブラストから操作員と機械を守るために、防楯がついている。竣工後に追加増備された機銃には、指揮装置は連動していない。2015年3月3日 - マイクロソフト社の共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNSに動画が公開された。

機銃増設(吾田 豊さん)
呉でもって、改造したんだよね。改造したのさ。その前に、あの武蔵、やられてるからね。改造して、そして、直って出るっていうときに、おれが乗ったのさ。改造したから、おれが乗れたっていうのもあるんだよ。

Q:なぜですか?
 増やしたからさ。機銃のあれを、増やしたからさ。
設備を増やしたから。

Q:いちばん、初めて見た武蔵っていうのは、どういう印象でしたか?
 いや、広い、広い。広い。ああ、タラップ上がってたってね、どこがどこだか、わからんぐらい広いよ。

Q:怖いとは思わなかった?
 思わん。でかいし、あれだし、おまえ、デッテラ、デッテラっておまえ、隣にいたらね、駆逐艦だとか、巡洋艦だとかは、もう、こんなんなって、もう嵐のときだって、武蔵の場合だったら、エーってだけだもの。

武蔵の場合だったら、(嵐でも)何もない。せいぜいあれして、波をかぶるだけのことさ。それだけ、大きいんだもの。いや、本当。

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の九六式25粍三連装機銃の射撃指揮装置;九六式25粍三連装機銃を3基から4基をまとめて連動させて対空射撃をすることができる。46センチ砲の射撃時に発生するブラストから操作員と機械を守るために、防楯がついている。竣工後に追加増備された機銃には、指揮装置は連動していない。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で、マーク13航空魚雷(直径57cm・重量1トン・炸薬600ポンド・速度 33.5ノット・射程5,700ヤード)と爆弾の命中によって撃沈した戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

"砲火を浴びる「武蔵」(吾田 豊さん)
Q:10月23日に(重巡洋艦)愛宕とか(重巡洋艦)摩耶とかが、攻撃されるじゃないですか。それっていうのは、ご覧になってます?
 ええ。でもあれ、ごう沈だからね、あの摩耶にしても、愛宕にしても、轟沈だから、すごかったんでないの。

Q:10月24日というのは、そのときは、朝はどうされたんですか?
 早朝訓練が始まって、そのまま居座りで、「今、来るぞ」って言って、そしたら、あれしたのは、もう、始まりさ。だから、もう朝食も、何もとれない。だから戦時給食ちゅて、にぎり弁当みたいなものが、上がってくるだけの。

ツバメみたいに、バーババ、ババーッと、来るのはわかったけども、そのうちに、主砲がボーンと出たらもう、弾幕が出たらね、何も見えないすよ。


あれは、戦闘ちゅたってね、弾幕で何もわからん。主砲を撃ったってね、あれ、20何メートルかい、射程距離はね。1万8000でなくて、ああ、2万4000ぐらいだからね、射程距離はね。でも、バッと見えたときに撃ったって、どこで効くのか、わからないですよ、主砲っちゅのは。

真っ黒んなったらね、上にワーッと音、したってね、どこにどれが来てんだか、わからんですよ。

だから何機、落としたとか、どうとかっていったって、そんなものはもう、軍隊っていうのは、おかしなとこだよね。あれで、弾むだにして。したって、マッハで来る飛行機がね、狙って、撃てったって、狙えるわけないでしょう。どこ狙って撃つのさ、したら。

Q:敵機は、もう本当に近くまで、来たんですか?
 いやあ、近くって、艦の上にバーッと、行くんだから、近くでなくて、そばまで来たでしょう。だから、直撃を食らうわけです。
ウーッて、音だけは聞こえるよ、おれらの場合は。いわゆる、主砲のね、黒煙があれしたら、見えないですよ、全然、普通は。おれはもう、見えなかったです。でもね、ウーンっていうのはわかるんだよ。

写真(右):レイテ沖海戦で撃沈された戦艦「武蔵」の46センチ主砲弾;2,500トン三連装46センチ砲塔から発射される直径46cmの主砲弾は、全長1,955ミリ、重量 1,460キロ、射程42キロメートル。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、戦艦「武蔵」 シブヤン海の海底から生中継【同時通訳】に動画が公開された。

Q:そんなに主砲の黒煙っていうのは、すごかったんですか?
 すごいでなくて、もうカも、被るだけの黒煙だ。あれは誰が見たって、わからん、わからんね、と思うよ。 したって、もう砲が、もう真っ赤んなって、焼けただれるぐらい撃ってるんだから。

装ってやつは、もう焼けただれて、もう弾、出なくなっちゃった。おれらの機銃だよ。そのぐらい撃ってるんだよ。


地下のあれがもう、直撃、食らって爆発して、そこに死がいがいっぱいあるってのは見たよ。

もう、ババババーってなってるから、もうそこにも、壁にぶつけられていたりするわけでしょ。 直撃、食らってるから、ボーンとこう、穴あいてる。そしてこっちに、いわゆる高角砲だな、あれ、の塀があって、そこに、たたきつけられて、エーっていうもんですよ。それは右舷側だよ。おれらが右舷だから。

Q:相当、悲惨な感じだったんですか?
 あれを悲惨っていわなかったら、何が悲惨さ。戦争なんて、そんなもんだよ。そんなもんだと思うけどな。おれはそう思う。悲惨だよ。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の46センチ主砲塔の基部旋回盤(バーヘッド);三連装砲塔1基で2,500トンの重量があったが、沈没時に転覆したために、旋回盤(バーヘッド)から分離、脱落した。2015年3月3日 - 米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖シブヤン海で撃沈された戦艦「武蔵」を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して水深1000メートルの海底で発見した。SNS戦艦 『武蔵』 の動画がある。

傾く「武蔵」(吾田 豊さん)
(午後)3時25分だ。アメリカのあれによると、3時25分は第6次の攻撃だろう。

Q:その空襲が終わったあとっていうのは、どうされていたんですか?
 いや、どうたって、船のバババババーンと、こうなってるでしょ。

Q:吾田さんは、ずっとその機銃?
 いや、いや、いや、もう、退去用意でもって、もう、みんな、もう職場から、職場っていうか、いわゆる機銃なり、機銃から、配置から、みんな降りて来て、「中部甲板に以降に集結せよ」っていう命令が下るわけでしょ。したら、おれらは甲板のあの艦橋のね、いわゆる上部的な、とこだから、3番機銃つのは。一番、艦橋の1番、3番だから、そして5番、7番だから。(右舷の機銃は奇数番号、左舷の機銃には偶数番号が当てられていた。)だから、降りて来て、そしたら、あれが何だ、通信科か、が、今度は艦旗をおろすのにマットを上がって行って、そしてマットを、いわゆる軍艦旗を取って、降りて来て、そして総員隊形、それがかかったんです。したらもう、そんときは、もうかなり、こんなんなったんでないかい。だから、おれの場合は、いわゆる水平線って、知ってる?

水平線っちゅうのはね、船がこうあると、ここにこう、(波の位相の谷間に)水平線ちゅうのが、あるんだよね。ボーンと出てるんだよ。ボンと出てるの、これ。船の上のほうで、ここにこう、ボンと出てる。ここまで行ったのさ、おれね。右舷のだよ。右舷のここまで行ったの。

ほしたらボーンっと、投げられちゃった。だから、その(波と波の間の)水平線をとっ越して、いけなかった。で、ボーンておっぽり出されて、上がってきたら、恐らくおれ、いちばん先に、上がってきたと、思うんだけどね、誰も、浮いてこられないから。だから、割とおれは、元気だったの。でも、元気のない人間だって、いっぱい、あとから、上がってくるわけですよ。したら、ああいうときってのは、油の中にしか、浮き上がれないんだよね。

もう、重油だらけんなって、そこに、ボーンとおれらが、上がってくるわけでしょ、浮いて来るわけでしょ。しかし、沈められて、上がったり、沈められて、上がったりする人間だって、いるわけだから。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の46センチ主砲塔の基部旋回盤(バーヘッド);2,500トン三連装46センチ砲塔は転覆したときに、旋回盤(バーヘッド)から分離、脱落した。2015年3月3日 - 米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

傾く「武蔵」から海中へ(吾田 豊さん)
ああ、6時間ぐらい、いたんでないかい。夜明けだ、夜明けっていうか、あれ、1時ごろだと思う、時間的にはよくわからんけども、ヒトナナサンゴウかい、うん。ヒトナナ、19時、ヒトキュウサンゴ(1935)だね、うん。沈んで、そして助けられたのが、1時ごろでないかな。おれらはね。

Q:その間、海の中でどうされてたんですか?
 ただ、浮きにつかまって、浮いていただけです。それしか、方法ないでしょ。

おれらの場合には、もうしゃにむに、そこに浮いてつかんでるんだから。油だらけの中でも、ガボガボしているんだから。そういう人間は、割と多いんだよ、生きてるね。

助けられた駆逐艦に乗ったときに、それまで、元気だったのが、乗ってパーになった、死んだのもいるよ、目の前で、おれの目の前で。だから、戦闘なんて、そんなもんだって。

救われる最後だと、思うよ。上がったときはもう、ふんどし1本、ふんどしも、なかったぐらいだからね。あれ、おかしなもんだよね、沈むときたら、軍服に、作業服着て、あれして、沈んでったのに、上がったらなんも、がらっぱちだもんね。なんで、あんなふうになるんだべ。

極秘にされた「武蔵」沈没(吾田 豊さん)
真っすぐね、日本に向かえば、大した距離ではないんだよ。

日本には向かえないと。極秘のあれがあるから。武蔵が沈んだっていうことが、国にみんな、披露されたから、披露っていうか、わかったら、大変なことんなると、ねっ。だから、一時、コレヒドールに上がると。それでコレヒドールへ上がったんです。で、そのときはもう、ふんどし1本。いやあ、本当だよ。みんなそうだよ。
ところが、食糧がないですよ。ひどい目にあったよ。でも、何日でも、なかったからね、あそこにいたのは。

それからコレヒドールから、マニラに移って、そして帰還準備、帰還てのは帰る準備をして、マニラに移って、そこにユニオン大学っていう、おれはユニオン大学と、聞かされていたんだけども、そこへ行って、泊まって、そして次の日に、出てきて、マニラから、巡洋艦に乗ったのさ。そして帰ってきて、台湾の沖かな、で、魚雷食らって、ボーンとやられて、そのまま佐世保に、本当は舞鶴に入るんだったけども、佐世保に入ったのさ。それから、佐世保から呉に、引っ越して、呉から横須賀に来て、そこで横須賀、おれは、横須賀管轄だから、横須賀のあれから、今度は駆逐艦に配属されて、呉へ来て駆逐艦に、「萩」に乗ったの。

「萩」のあのう、士官やってたの。上曹だったのが少尉になって、士官やってたのさ。甲板士官やってたのさ。それ、おまえ、武蔵ん、乗ったんでねえかっちゅ、したら、おい、ちょっと来いっちゅて、あれ、准士官室ってあるからね、個人の部屋が持ってるから、駆逐艦でもあるから、そこへ行ったら、おい、おまえ「艦長従兵やれ」って。おれが武蔵で、やってたっちゅうの、知ってるもんだから、「艦長従兵、いや、おれ、いいわ、もう、従兵いいわ。」言ったの、おれ。

Q:何でですか?
 いいや、面倒くさくて、面倒くさくて、おまえ、夜中に、水は持ってかなきゃならん、もう大変でしょ、あの(駆逐艦「萩」艦長)従兵っちゅうのは。だから、おれ、「いいわ」っちゅたの。「でも、おまえしかやるのいねえから、まあ、名前だけでも貸しとけ」そしたら、艦長が来て、「いや、何もしなくてもいいから、名前だけでいいから」って言うわけさ。「それだったら」っちゅて、本当に名前だけさ。

昭和20年8月6日(吾田 豊さん)
あのう(駆逐艦)「萩」に乗っててね、「萩」に乗ってて、呉に入ってるときに、終戦さ。あのう広島ね、広島に原爆が落ちたときに、おれは、呉にいた。

してね、呉にいてね、朝なもんだから、おりゃ、甲板に出て涼みしてたの。バカーンっつな、オヤ、親子爆弾落ちたぞっつうんだよ。あのころ、親子爆弾って言ったんだよ、原爆のことをね。そしたらすぐ、今度は救援ちて、船からみんな、兵隊が出て、汽車に乗って、広島まで行ったの。そしたら広島行ったら、ガチャガチャ、ガチャガチャでね、全然もう、降りて救援も、何も、できないの。して、そのまま、すぐまた戻って来た。

Q:吾田さんにとって、武蔵に乗っていた、武蔵での経験ってのは、何だったんですか?
 やっぱり、おれの一生を転がした船だけね、ああ、早い話、そうでしょ。海軍志願して行った、それまでは、チョロチョロチョロって、いったけども、ここっていうときに、武蔵に乗せられて、何ヵ月もたたんうちに、ボカボカボカーンって、やられて、不沈艦っていわれたんだよ、あれ、武蔵っちゅうのは。それがまあ、ボカボカーンってやられて、そしたら、今度はあとは引きずり回しでしょ。今、日本に帰ったら、危ないから今、こっちに帰るとか。

戦争、誰、得するの、と、両方みんな損するんだよ、両方。戦争っていうのはもう、取るか、殺すか、殺されるかだ。それしかないんだよ。


やっぱり、沈んだときだろうね。沈んだときでないかね、記憶に残ってんのはね、軍服っていうか、戦闘中は作業着だからね、軍服、着てはいないんだから、作業着だけど、上がったときはもう、何もないんだ。なんではがれたかっていうのは、おれ、今でも、記憶に残ってる。(武蔵から退去し海を漂流していたら)素っ裸。あれ、なんで素っ裸になるだね。うん、素っ裸だよ。


写真(上左):戦艦「武蔵」の第一艦橋トップの主砲射撃指揮装置。
;レイテ沖海戦では被爆の衝撃によって方位盤が故障。3基の砲塔を連動して照準し一斉射撃する統一指揮ができなくなった。
写真(上右):戦艦「武蔵」の横倒しになった破壊された艦橋
;アメリカ基の爆撃によって大きく破損している。2015年3月3日 - 米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして氏は、SNS"www.paulallen.com”に武蔵発見(Exploration :Finding the Musashi)の海中撮影動画を公開した。当研究室は、Exploration :Finding the Musashiの動画の静止画像を引用。


5.1944年10月、日本海軍連合艦隊(豊田副武大将)は、第二艦隊(栗田健男中将)に対して、捷一号作戦に基づいて、レイテ湾に突入し、アメリカ軍輸送船段の壊滅を命じた。第二艦隊の主力戦艦「武蔵」に乗り込んでいた少年兵・塚田 義明さんは、NHK[証言記録 市民たちの戦争]フィリピン・シブヤン海“で戦艦武蔵の最期”で海軍やレイテ戦に纏わる戦争体験を語っている。

15歳で海軍に志願(塚田 義明さん)
反対しましたね。反対したっていうか、おふくろしか当時もう、いませんでしたからね。あとは小さいあの、弟や妹でしたからね。おふくろはもう、相談すれば反対されるっていうのは、わかってましたから。判子を持ち出して、そいで志願書に判子を押してね、志願をしたわけですよね。合格通知が来てから、初めておふくろに打ち明けたら、そんときに言われましたよね。「お前なんで、そんなに死に急ぐんだ」って。

死に急ぐもねえ、そんな風に言われたもんだから、もう、返事が出来なくって、しばらくあれですよ、悶々の日を送って、行こうか行くまいか、友達なんかにも、相談したりなんかしてね。そんときは、ずいぶん、親父も亡くなっていないし、おふくろも、当時の軍需工場ですかね。立川飛行機という会社に、勤めて、われわれ子供たちを、育ててたわけですから、その留守を狙って、判子を持ち出してね、そいで志願書に判を押して、出したと。

そんないきさつがあってね、もう時代がね、そういう時代でしたから。軍国主義の時代ですし。また当然、そういう時代に育った、育ちましたからね。こちらももう軍国少年ですよね。当時で言えば。もう当然、行く行かないに、そういうあれは、自分では、あれでしょ。選べないんですよね。どうせ、もう二十歳になれば徴兵で取られる、徴兵の義務がありましたからね。当時はね。そうなら早く、行ってしまおうと。少しでも早く行ってね、行けば、というような考えで行ったと思うんですよね、当時ね。

Q:海兵団での訓練や砲術学校での訓練はどんな感じでしたか?
 訓練そのものはね、当然やらなきゃならんこと、覚えなきゃならんこと、いろいろあって、それは当然、厳しく仕込まれるわけですけどもね。それはもう、それでね、当然だと思う。当たり前だと。それはそれで、みんなもう歯を食いしばってでもね、みんな我慢してやってたわけですし。

ただその他に、軍隊独特のね、その制裁とか 罰直があるわけですよ。それはなかなか、耐えられないという、そのケースがだいぶありましたからね。だからその、訓練とかね、教科とか、そういうものに対しては、厳しく当然、仕込まれるのは当たり前なんで。これはもう、一般の企業だって同じだしね。だからそれに対して、文句、言うやつはもちろん一人もいなかったと思うんですよ。ただ、なぜ殴られるのか。こんなことやらされるのかいう、ことがあったもんだから、それに対する不満というのは、ずいぶんありましたよね。

不沈艦(塚田 義明さん)
 横須賀からね、そういう、あの船団を組んで行ったんですよ。何しろ、内地に軍艦、いないですから。みんなもう、トラック島に集結してましたから。当時ね、トラック島連合艦隊の根拠地だったわけですから。そこまでその行かなければ、船に乗れないわけですからね。そのためには船団を組んで、そういう、その乗組員を決まった乗組員を乗せて連れてかなきゃ、ならんわけですよね。

それで、船団で行ったわけですけども、一週間くらいかかったんですかね。当時の船ですからね、トラック島に入って見たときにね、何しろ大きいんですよね。それがね、二隻重なるように、こう見えたんですよ。「あれは何だ?」つって「あれ島かな?」なんつってみんなでね。そしたら「そうじゃない、あれは武蔵と大和だ」と。そのもちろん、長門なんかも、いたんですけれども、まあ、長門も小さく見えるっていうんじゃないんだけども、それよりも、ほんとにあれですよね、山のようにこう、大きく見えたんですよね。 

初めて受けたのはね、確かあれは、パラオだと思うんですよね。パラオ。

そこを出て、間もなく行ったら、見張りから、「魚雷オン」っていう叫びがね、叫び声が聞こえて来て、聞こえたんですよ。われわれ、ほら、甲板にいますからね。常に、いつも、そいでもう、見張りはすぐ上ですから、艦橋のちょっと上、その艦橋のちょっと下が、われわれの配置でしたからね、「魚雷オーン」つってこう、指さしてやってんですよ。

そしたらこう左舷にちょうど武蔵とこう平行してこう走ってきたんですよね。それがまた、遅いんですよ。そいであの航海長の池田(貞枝)っていう中佐でしたけれども。池田航海長のつうのが、これが、日本海軍でも、名航海長と言われた人なんですけどね。これがもう、船をその魚雷22.4" (56.9 cm) Mark 13 Torpedo)にぶつけられないように、うまくうまく、こう避けながら、そしたら、どうしてもその船、速度って いうのがね、ありますよね。あの魚雷(直径57cm・重量1トン)の、その思ったよりその遅い魚雷で、もうこっちが、もうほんとに、こう体を、こんちくしょうと思うくらいに、こう遅い魚雷でしてね。

そいでついに、避けきれなくて、それが、ぶつかって当たったんですよ。それで左の、左舷の、上の、左舷のいちばん上の甲板のね、甲板ていうか、あの、このパーマンがなくて薄い、いちばん薄いとこ、当たっちゃったんだよね。運悪くね。

Q:当たった瞬間はわかったんですか?
 いやそれがね、全然、振動がないんですよ。なかったんですね。だからねもう、僕らわかったんですよ。その信号員が叫んで、そいで、魚雷も見ましたからね。雷跡を見てますからね。これ、ああつって、案の定ぶつかって、で、それがそのあそこへぶつかった瞬間にこう、水蒸気がこう上がりますから。水煙が上がりますからね。わかったわけです。
他の連中はわかんないんですよ。というのは全然、その当たったっていう衝撃がなかったんですよ。ぐらいに武蔵てのは、一発の航空魚雷ぐらいではね、ビクともしなかっということの証明なんでしょうけどね。

だけどそのときに、やっぱり7人くらい、死亡者が出るっていうんですよね。戦死者が初めて出たんですよ。そんときに。それで初めて、みんなぶつかったっていうのは後でわかったんだけども。だけど全然、衝撃感じてないから、実感としてね、「へえ、魚雷(直径57cm・重量1トン)当たったんですか?」なんて言うね、連中もね、何人かいましたよね。そんときはね、それが最初の武蔵の被害でしたよね。

対空戦に備えて(塚田 義明さん)
もう艦橋の周り、要するに甲板の空いてるところ、上甲板とか、飛行甲板を除いて、はほとんど機銃で埋まってしまったというような状況に、なってしまったですよ。

だから、とりあえず、兵器を増強すりゃあいいって、いうもんじゃなくてね、やっぱり、それにその伴うものがあるでしょ。例えば、それに熟練した扱う兵隊ね。あの人員とか、それから要するに、兵器だけ付けたって、弾がなきゃ何にもならないんで、その弾をどこへ、どういう風に格納するのか。

それでなくたって、主砲だとか、ああいう大きい大砲、抱えてて、その弾丸も一杯、あるわけでしょ。さらに機銃も、その機銃つったって陸軍が使うような、こんな小さい機銃じゃなくって、こういう何十ミリというね、機銃弾ですからね。相当なやっぱり、荷物になるわけですよ。そういうのをどこへ、格納するかっていう問題も出てくるし。まず問題は、扱うその人員の問題ですよね。熟練者がいないわけですよ。

今までその、乗ってる熟練者はね、それでいいわけだけども、その連中はそっちを使えないわけだから、自分は部署持ってるわけだからね。そしたら新しく兵隊、乗せるわけですよ。その連中がみんな、寄せ集めて悪いけれども、そういうその訓練半ばで来てる連中が、多いわけですよね。だから、戦争そのものも、もちろん初めてだし、そういう実弾も撃つのもね、初めてだという連中がかなり、乗ってきてるわけですよね。

あとで、もうあの、われわれが乗ったときとは、ちょっと、違いましたね。そういう風に対空兵器の増強で、増員されたときには、そういうまだ、未訓練の連中が乗って来ましたからね。

写真(右):米軍機の攻撃を受け回避運動をする日本空母「瑞鶴」(上);1944年6月20日午後,マリアナ沖海戦のときの撮影。Japanese aircraft carrier Zuikaku (top) and destroyer maneuvering, while under attack by U.S. Navy carrier aircraft. Zuikaku was hit by several bombs during these attacks, but survived. Naval Historical Center引用。

1944年6月 マリアナ沖海戦(塚田 義明さん )
僕自身としては、もう、初陣ですよね。それこそ。船には乗っていたけれども。本当のその戦闘の場面に出るのは、そのときが、初めてだったんだけれども。まあ、戦闘というものはどういうものか、もちろんわからないし。ただ、勇ましい感じだけを、持っていましたけどね。何しろ、当時はまだ、連合艦隊が健在でしたから。航空母艦もたくさんいたし。戦艦、航空母艦とかを中心に、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、それがもう、大きな輪をつくって、それでサイパン沖に向かったのは、あのときは全く、あれですよね、もう本当に、これが日本海軍なんだな、というようなね。ものすごい、誇りを持ちましたよね。あのときは。

しかし、何しろ、レーダーがないというのか、日本軍には、レーダーがなかった、時代ですからね。もう、サイパンに着く前に、母艦から艦載機が飛び立って、敵の機動部隊を攻撃に行ったんだけれども、その攻撃に、敵の機動部隊が攻撃をつくる前に、向こうの、航空機に早めにもう、日本の編隊は発見されちゃって、それでもう、待ち伏せみたいにあってね、それでやられてしまう、という状況が、刻々、報告されてくるわけですよね。連合艦隊に。

それで、行ったはいいけれども、機動部隊を攻撃したという、情報も入ってこなければ、飛行機も帰ってこないんですよ。そんな状況の中で、何かこう、嫌な感じでね、進むだけ進んで、行ったけれども。その第1次攻撃隊、第2次攻撃隊、同じような状況で、戻ってくるものは、1機か、2機という程度でね、状況だったんですけれども。

それでこれは、この状態では戦争はできないと、戦闘はできないと、いうので、サイパンを目の前にして引き揚げざるを得なくなったわけで。サイパン沖海戦(マリアナ沖海戦)なんていう、名前だけは立派なものは、付けているけれども、実際には何もしなかったんですよね。ただ、飛行機が飛び立って、やられて帰ってきた、というだけの話で。それで、われわれ、連合艦隊は引き揚げたわけですよ。その引き揚げる途中に、輪形陣という輪をつくって、進んでいったんだけれども、その輪形陣の体形を、崩さなきゃならない。その崩すときがまた、大変な作業で。われわれは、あの、すぐそばに千代田という確か、航空母艦だったと思うけれども。もう危うく、衝突するようなね、場面もありましたしね。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の46センチ主砲弾;2,500トンの三連装46センチ砲塔から発射される直径46cmの主砲弾は、全長1,955ミリ、重量 1,460キロ、射程42キロメートル。2015年3月3日 -米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、Raw: Sunken Japanese WWII Battleship Foundに動画が公開された。

1944年10月 レイテ沖海戦(塚田 義明さん )
それは、捷号作戦が始まったときですよね。リンガから、レイテ沖へ向かったときにね。そのときは、このときも、まだ連合艦隊は、艦隊そのものは健在だったんだけれども、何しろ、飛行機がなかった。本当に、これからの戦争がね、続けられるんだろうかという疑問は、みんな持っていたし。本当に、日本の飛行機なんてね、見る機会がね、ほとんどなくなってしまったですよね。そのときはもう。

今、あのときには、もうレーダー(Raeder)も発達し、敵のレーダーですよ。日本は駄目だったけれども。レーダーも発達し、飛行機がね、数も全く日本から比べたら、もう雲泥の差だったですよ。飛行機もどんどん飛んでいるし。そんなときに、こちらが動けば、すぐ敵に発見されるという、そういうときになってきているわけですよね。

それならば、やっぱり日本ができること、夜襲しかないじゃないかということに、なったわけですよ。それで、昔のそういう野戦訓練が、始まったわけです。だから、事実、そういうことをわれわれも、やったわけですよ。レイテで。なぜね、こんなことをやるんだと。もう、こんなの時代遅れじゃないかと、まあ、いうね、われわれは、素朴な疑問を持ってね、は、いたんだけども。だけど、そういう状況に、なってきているんだなという認識は、もちろんあったし。そんなようなときに、捷号作戦というのが発動されて。

それで、そのレイテにね、米軍が上陸するから、それを攻撃するために、これから行くんだと、いうことで、レイテ、リンガ(泊地)を出て、ボルネオのブルネイ(泊地)という、ブルネイの沖でね、われわれは停泊したんですよ。そのときにもう、敵の飛行機に、米軍の偵察機にね、もう発見されたんですね。もうそこから、もう既に、もう連合艦隊の動きというのは、もう米軍側に、筒抜けになっていたわけですよ。こちらも、もう既に発見されたということは、もう既にわかったわけですし。でも、わがほうの飛行機が全く、1機も飛んでこないし、飛行機なしで、われわれは戦わなければならないんだということもね、新たにしながら、進んでいくわけですよね。

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の舷側の破壊跡;鋼鉄の船体に亀裂が開いている。マーク13航空魚雷(直径57cm・重量1トン・炸薬600ポンド・速度 33.5ノット・射程5,700ヤード)と爆弾の攻撃を受けた武蔵野舷側には破坑が開いている。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、戦艦「武蔵」 シブヤン海の海底から生中継【同時通訳】に動画が公開された。

1944年10月23日 レイテ沖海戦の戦闘(塚田 義明さん )
レイテへ行く、ブルネイを出て間もなくでしたかね。海峡、何海峡と言ったか、ちょっと忘れちゃいましたけれども。そこでまた潜水艦の攻撃を受けるわけですよ。もう敵も、だから、飛行機の、偵察機の逐一、報告で、もう米軍の艦隊も、日本の連合艦隊の動きをもう、刻一わかっているわけですね。逐一、報告があって、わかっているわけですよ。ですから、先回りして、潜水艦を、配置してね、置くわけですよ。

案の定、日本の連合艦隊の、当時、最新鋭ではないけれども、いちばん動きの、早くて、攻撃力もある第4戦隊というのが、あったんですよね。重巡。巡洋艦の重いほうですよね。愛宕、高雄、摩耶、鳥海という、この4隻で第4戦隊という、戦隊を組んで、それが先頭に立って、そして、その旗艦もね、当時、小沢治三郎(彼は囮機動部隊指揮官で実際は栗田健男)という人が、連合艦隊の司令長官(小沢は次代長官に就任)で、愛宕という巡洋艦を旗艦にして、先頭を切っておったわけですよ。また、それがやられてしまったわけですね。潜水艦に。

Q:実際に肉眼でご覧になったんですか? その愛宕が沈むのを?
 ええ。もう目の前でやっているわけですから。まあ、愛宕がやられた。あ、高雄がやられたと、鳥海がやられたというのでね、見ていましたからね。やっぱりね、自分の船じゃないからね、それをね、ああ、やられているっていうのはわかるけれども、一体、その実感として、それは、一体ね、あれは何が、起こっているんだろうかと。そういう気持ちですよね。

だけど、やっぱり、僚艦が沈んでいくと、いうことをやっぱり見ればね、ああ、やられた、ああ、やられたと。沈んでいくんだと。これが戦争なんだと、いうことは感じても、実感として湧かないですよね。自分がやられているわけじゃないから。

写真(右):レイテ沖シブヤン海水深1キロで発見された戦艦「武蔵」:2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

米軍機の波状攻撃(塚田 義明さん )
シブヤン海に24日の日に入るんですね。それが23日に(重巡)愛宕は沈んでしまう。前の日にね。24日に入って、25日がレイテに、突っ込む日だった。24日にシブヤン海に入って、それで敵の空襲もあるかもしれない。朝、早めにね、総員起こしがあって、それで配置についたんですよ。配置について、明けるころ、黎明時に一応、訓練が終わって、ああ、これでこないなと、思ったわけですね。飛行機は、このときには。まだ。

最初はね、当然、向こうも編隊で来るわけですよね。編隊で来るときには、かなりの距離を、まだ、距離があるんですね。ですから、水平線の上をちょっとこうぐらいのところに、こう見えるぐらいの感じなんですよね。感じとしては。

だからもう、あっという間に、上空に敵機が来ちゃったわけです。もう、上空に来ると、もう、そういう主砲とかね、副砲とか、大きい砲は役に立たないんですよね。高角砲だって、そうですよ。ほとんど、もう機銃だけなんですよ。もう、真上に来ちゃいますとね。すると、もう機銃がほとんど、相手をしなきゃならない。という状況になってしまったんですよね。向こうもね、やっぱりね、敵だって、やっぱりかなり、勇敢ですからね。もう急降下で突っ込んで来る。機銃掃射をかけてくる。そして、海上からは、海上すれすれに、迫って来て、魚雷を落としていく。そういう攻め方。これは、日本も同じだけれども、同じような攻撃を、そういう攻撃を繰り返してくるわけですよ。

なかなか、その機銃は撃っても当たらないし高角砲を撃ってもなかなか、当たらない。それは熟練したね、われわれの部隊でも、落とすのは容易じゃないんですよね。それで、増強して、それは対空兵器を増強して、したけれども、やっぱりまだ、それを扱う者の未熟さで、なかなかやはり、撃ち落とせない。それはもう、艦長も、もう認めているんですよね。やっぱり下手だったということを、もうはっきり遺書で書いていますよね。

最初に、空襲、第1波でもう、主砲が駄目になっちゃったでしょう。ということは、その方位盤というのが、艦橋のいちばん上にあるんですよ。測儀があるんですよ。その下にね。

方位を測って、方位盤というのがあって、その敵の行動を全部測る。測距儀で測ったものがそこにいって、そこで、きちっと整理されて、それが主砲の大砲の、砲側に行くわけですよ。大砲がそのとおりに、動いて撃つという。それは高角砲も同じなんですよ。高射機(高射器)で全部、それを測って。高射機(高射器)は、その方位盤じゃなくて、その甲板の下に、射撃盤というものをもっていましてね。その距離で測って、測ったものが射撃盤に行って、射撃盤でそこで整理されて、整理されたものが、砲側へいって、高角砲の砲側にいって、高角砲はそのメーターがあって、その針がこう、動いているわけですよ。赤い針に、合わせるようにして、いろいろ針をこう合わせておけば、もう大砲もそのとおり動いているわけで。というふうに、自動的に何でも、できるようになっていたんです。

写真(右):「武蔵」 砲術長永橋爲茂(ためしげ)大佐の遺族提供の戦艦「武蔵」46センチ砲の発射の写真(2015年5月6日公開);呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム館長戸?一成氏は、武蔵の主砲発射の写真について、次のように述べている。「戦艦「武蔵」の主砲発射(多分、公試発射と思います)写真でした。私の知り合いが「こんな写真があるのですが本物でしょうかね?」とメールをくれました。見るとすぐに大変な写真だと思い、所有者である永橋様にお会いして準備中の特別企画展「日米最後の戦艦展」のためにお借りしました。ただ、写真は逆光なので大和型であることは間違いありませんが、細部は黒くつぶれているので、大和なのか、武蔵なのかは、写真からは判断が困難でした。しかし永橋様は戦艦「武蔵」の初代砲術長の御子息であり間違いないと思いましたが、私としては大和型としてきました。 なぜ気になったかというと、戦艦「大和」の設計主任であった牧野茂(技術大佐)さんから、「大和が出来上がった際に、主砲を発射している写真と500分の1くらいの模型を天皇陛下にお見せした」「普通はそのまま宮中に献上してしまうのだが、こればかりは、と持ち帰り焼却することになっていたが、すぐに焼くこともないだろうと暫く艦本に置いておいたが、終戦時には焼いたと思う」との話を聞いており、この写真は天皇に見せた戦艦「大和」の主砲発射の写真ではないか、武蔵砲術長にはこの写真を参考資料として渡したのではないか?と思っていたからです。それから特別企画展が始まり、毎日のようにこの写真を見ているうちに、あるいは・・と思い当ることが有り元の画像デーを極度まで拡大したところ、艦橋上部から左右に出ている信号ヤードの左端に並んで薄く2つの突起を確認しました。アッと思いました。これで「武蔵」という事が写真から確定出来たのです。実は、戦艦「大和」と「武蔵」の相違点は微細な個所まで探すと数十個所あります。どれもあまりに細かいので今回の写真では判断できる箇所は無いと思っていました。しかし、有ったのです。艦橋の上部から左右に伸びている信号ヤードの先端にある風向風速計のレイアウトが、「大和」は風速計の上に風向計が乗っていて一体になっているのに対して、「武蔵」では風速計風向計とが別々に設置されているのです。そこで先の写真を拡大して見直したところ、ヤードの先端には2つの小さな突起が微かに見え、これで私も安心して戦艦「武蔵」の主砲発射の姿だと確信できました。写真のことでもあり同型艦なのだから、そんなに気にしなくても良いようなものですがそこはやはり確定したいのです。 この写真は、前部の1・2番砲塔の発射で後部の3番砲塔は発射していませんが、これは色々な条件下での発射をテストしたためと思っています。恐らく前部2砲塔の、それぞれ2門ずつ、4門の発射かと思います。さて、先の牧野さんの話にある天皇陛下にお見せしたという戦艦「大和」の模型ですが、恐らくこれがそうであろうと思われる写真が残っています。サッパリした造りですが、プロポーションの良い模型です。ちなみに、昭和天皇実録を読むと、昭和18年に天皇が「武蔵」に行幸したいとの意向を海軍大臣に伝えています。この時は、海軍大臣は「何か戦果を挙げてお褒めの言葉を頂く際にお願いしたい。」と言うような理由で断っていますが、間もなく再度「武蔵」に行きたいということで、有名な「武蔵」行幸が実現したという記述がありました。よほど「武蔵」を見てみたかったのだろうなあ、と思いました。「武蔵」が選ばれたのは、当然ながら連合艦隊旗艦であったからで、もしもこの時連合艦隊旗艦が「大和」ならば、「大和」に行幸されたのです」という。大和ミュージアム運営グループ2015年11月21日館長ノートvol.43 戦艦「武蔵」引用。

写真(右):レイテ沖シブヤン海水深1キロで発見された戦艦「武蔵」の第一艦橋;46センチ砲の射撃時に発生するブラスト・爆風から要員を守るために、閉鎖式のパゴタ艦橋となっている。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、FOCUS News :Japanese WW2 battleship found off coast of the Philippines に動画が公開された。

写真(右):戦艦「武蔵」の第一艦橋;艦橋のトップには、爆風除けで覆われた主砲射撃装置、方位盤、測距儀、二一号電波探信儀が装備されていた。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そしてwww.paulallen.comの"Exploration :Finding the Musashi"に動画を公開した。これはその静止画像。

それが主砲の場合は、その方位盤がいちばん最初に、やられてしまったものだから、自動操縦ができなくなって、自動射撃ができなくなって、今度は、砲側で大砲が自身で、撃たなければならない。こういう状態に、なっていたわけですよ。だから、第1回にその三式弾を、撃ってね、編隊をかなり、やっつけておけば、敵もかなり、怖気がついていたと思うんだけれども。だから、敵にそういう怖気も与えないで、何の役にも立たないで終わらせてしまった。ということが、ひとつあるのと。

そして、その方位盤がやられて、敵機がもう、すぐ上空に来てしまった。機銃を撃ち合う。高角砲もあまり、役に立たなくなってしまった。だけど、機銃も、もうその高角、われわれの。測敵(測的)の指揮装置のすぐ周りが、全部機銃でしたからね。機銃にもみんなわれわれの、仲間がいたわけですよ。「おい、あそこに飛行機が来ているぞ、ここに、仕掛けている」って、みんな指揮ができるわけですよ。彼らは何も、その指揮装置を持っていないですから。ただ、自分の見た目でこうやるだけですからね。機銃の連中というのはね。ですから、われわれが、射撃指揮装置にして、それが、たまたま下に、機銃の仲間がいたものだから、それを伝えることができたわけです。それをやって、おったんですよ。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の舷側の破壊跡;鋼鉄の船体に亀裂が開いている。マーク13航空魚雷(直径57cm・重量1トン・炸薬600ポンド・速度 33.5ノット・射程5,700ヤード)と爆弾の攻撃を受けた武蔵野舷側には破坑が開いている。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS:Sunken World War II battleship Musashi was found に動画が公開された。

1944年10月24日 レイテ沖海戦の米軍の波状攻撃(塚田 義明さん)
第一砲がね、そんなことで、方位盤がやられて、主砲がやられて、方位盤がやられてしまったために、主砲がね、役に立たなくなったのと、同じ状況になってしまった。もうそこでね、もう戦争というのが、初めてそこで、自分も経験したわけですよ。初めて敵と戦うということをね。

それがね、怖いっていう感じはなかったですよ。怖いっていうよりも、恐ろしいとか、怖いとかって、そういう感じは全くなくて。一体、これから、何をどうすれば、いいんだろうかとかね。いいんだとか。そんなことまで主に、自分でね、考えるというよりも、これでいいんだ、あれでいいんだとね。こうしてやるんだから、これでいいんだとか。そんな程度のことだけれども。何しろ、後でみんなわかること、わかったことなんですけどね。そのぐらい、第1波の空襲があったときは初めてのあれで。本当に怖いっていう気持ちも、何もわからないで。ただ、無我夢中でこう戦ったと。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の舷側の破壊跡;鋼鉄の船体に亀裂が開いている。マーク13航空魚雷(直径57cm・重量1トン・炸薬600ポンド・速度 33.5ノット・射程5,700ヤード)と爆弾の攻撃を受けた武蔵野舷側には破坑が開いている。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

それで、敵機が引き揚げて、空襲が終わった後に、まあ、何て言うのかね、もう今まで、そこにあったものは、もう、ないわけですよ。機銃はもう、飛散してしまって、鉄のあれですね、破片があっちこっち飛んでいる。肉の破片が飛んでいる。そんな状況がもう、目の前にあるわけです。それこそ今度はね。それでもう、まだ、気持ちの上で、興奮しているっていうか、緊張しているっていうか。全然、わからないんですよね。要するに、そういう気持ちが、何て言うんですかね。怖い。恐ろしい。そういった気持ちっていうのは、湧いてこないんですよね。

間もなく、そうすると、第2波の攻撃が来るわけですよ。すぐ空襲警報がかかるわけです。「よし、今度こそは」という、何て言うか、敵がい心というかは、さらに強く起こってくるんですね。それで第2波が来て、そのときに、今度はね、爆撃ですかね。機銃掃射っていうよりも。爆撃だったです。爆弾が、もうそれこそ、もう雨、あられのように、こう、落ちてくるわけですよ、もう。もう向こうは急降下で、次から次へと、1発、2発じゃないですからね。持っているものを一遍にこう、落としてきますから、5発、6発を一機で。それが、続いてこう、来るわけですからさ。もうそれこそ、本当に雨、あられなんです。どこへ、当たってくるかわからない。こっちは逃げるところは、もちろんないわけですからね。その配置についたままで。

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の舷側の損傷;鋼鉄の船体が折れ曲がっているが、これは舷側の防御鋼板がずれて湾曲したものと思われる。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS:Sunken Japanese WWII Battleship Located in the Philippines に動画が公開された。

たまたま、直撃弾が、船にそれが全部、当たるわけではなくて、海中に落ちるものも、随分あるんですよ。それは至近弾と言いますけどね、そばにこう。だから、船に当たるのはね、意外と少ないんです。あれはおかしなもので、敵もかなり狙って、来るんでしょうけども。狙ってきても、外れるほうが多い。というのは、船はやっぱりこう、回避しているから。常に動いて、回避しているでしょう。ですから、そういう、雨、あられと降ってきても、意外とわれわれが感じているほど、当たっているわけではないんで。

たまたま、ある1発がね、艦橋と煙突の中間に、直撃したんですよ。そこがちょうど、待機所になっていたんですね。要するに、配置についた連中が、居住区まで、下の居住区まで行くのは大変だから、そこで待機している場所というのを、つくっておくわけですよね。鉄の覆いで囲まれた、場所なんですけれども。そこへ、直撃弾が当たって、それが破片になってこう、飛び散ったわけですよ。

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の舷側の破壊跡;鋼鉄の船体に亀裂が開いている。魚雷(直径57cm・重量1トンMk13)と爆弾の攻撃を受けた武蔵の舷側には破坑が開いている。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS:Microsoft co-founder says he found sunken Japan WWII warship に動画が公開された。

僕はちょうど、右舷の待機所のちょうど真ん前に、配置所があって、そこの天蓋に、よじ登っていたわけですよ。海上のほうに向かってこう、見ているわけですから。上とか海上とかね。後ろは全然、振り向かないですから。それがね、まともに後ろへ、その破片が、バラバラっと、こう降ってきて。当たったんですね。そしたらね、一瞬ね、右手がね、感覚がなくなっちゃったんですよ。こっちが動かなく、動いているんだけれどもね、わからないんですね。自分でも。その、感覚がなくなっちゃって。その、どうしたのかと思ったらね、ここから血が、タラタラっと。そして、ここへ、破片が当たって。と、同時に腰に、ここのところの腰にね、こんな厚い破片が当たって。動けなくなっちゃったんですよね。

それで、もう、「あれ? これが死ぬっていうことなのかな。これで死んでしまうのかな」と、そのときは思いましたけどね。だけど、怖いっていう感じは、もちろんなかったですよ。ただ、もう相手をにらんでいるだけで。それで、そのときには、10分足らずで、敵は引き上げていったです。その後、看護兵が来てくれてね。まだ船の中もまともに動いていましたから。組織がね、動いていましたから、看護兵が来てくれて。それで、まず、ここに挟まった破片をね、取らなくちゃいかんという。それを取るのにね、取れないんですよ。この骨に挟まっちゃっているからね。それでね、やっとこみたいな、こうペンチですかね。あれを持ってきて、ペンチで挟んで、抜いて。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の舷側の破壊跡;鋼鉄の船体に亀裂が開いている。アメリカ海軍の直径57cm・重量1トンの航空魚雷(Mk XIII Aerial Torpedo)と爆弾の攻撃を受けた武蔵の舷側には破坑が開いている。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンPaul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNSに動画が公開された。

それが、第2波の攻撃でね。そういう状況になってしまって。それで、機銃兵はばたばた、倒れてしまう。機銃兵が倒れた後の補充に、主計とか看護兵とかね、そういう連中がみんな、当たるわけですよ。そうすると、今度は本来の看護の仕事もできなければ、主計の仕事もできなくて、機銃の仕事を、やらなきゃいけない。なかなか、もう今度は、組織的に動けなくなってしまう。で、第2波以降は、もうそれぞれ、決められた部署で、自分たちが勝手に、動くしかなくなってきて。そういう状況が、今度は第3波攻撃を受けてから、そういう状況が続くわけですよ。

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の第一艦橋最上部の測距儀;15メートルの長さがある光学式測距儀は、敵艦との距離と角度を観測する射撃関連装置。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS:'Musashi' wreckage is an archaeological site に動画が公開された。

1944年10月24日 退艦命令(塚田 義明さん)
この船は絶対に、沈まないんだと。事実、傾きはしましたけれども、そういう傾きも、ひどいものではなくてね。1波でこのぐらい、2波でこのぐらいって、本当に、こうミリで測るぐらいの、程度だったんですよ。でも、第3波の攻撃を受け、第4波の攻撃を受けてくると、何十センチとかっていうような、傾きになってきましたけれども。それでも、まだ、退艦命令が出るまではね、傾いているとはいってもね、さほど、感じなかったんですよ。感じるほどではなかったと、なかったんですよ。

それで、最終の段階に入って、退艦命令が出て、しばらくすると、船が沈む間際というのかね、間際にはものすごい音がするんですよ。何て言うのかな、響きっていうのかな。あれは何で、起こるのか知らないけど、やっぱり下の釜に水が、やっぱり海水が入るから、それが破裂したり、いろんな影響を起こして、それで、ゴーッってうなり声を上げるようなね。響くっていうか。そういうあれが、起こるんですね。そこへ来たら、もう断末魔ですよね。それで退艦命令が出て。そうなると船が、傾きもグッと、ひどくなってくるわけですよ。で、左舷のほうにグーッとこう傾いて。

もう、退艦命令が出て、その響きが起こったときには、もう、甲板にはいられないですよ。もう、甲板は傾いていますから。人間はそこへ立っていられないです。そうすると、みんな右舷のほうに、右舷の手すり寄りに、みんな寄ってくるわけですよ。みんなそこに、寄っていったわけですよ。だから、そこで、それでも、沈まないという感じは、まあ、持ちたいとは思ってはいても、もう駄目だな、という感じはありましたよね。

退艦命令が出たときには、もう、これが最後だと、さすがにみんなは、覚悟をしたわけですよ。覚悟はしたけれども、さて、どうやって逃げるのかね。問題はそれなんですよね。それで、一部の人は、もうボートで、ボートっていうか、カッターっていうんですけども、内火艇カッターって持っていますけどね。それで、逃げたというよりも、下りたという話が、聞こえてきたりね、何かはしましたけど。誰がそうしたのかは、わからないけども。だけども、ほとんどの、兵士は、みんな右舷の手すり寄りに、寄ってね。だからね、よかったのは、退艦命令が意外と早めに出たものだから。

下にいた機関兵とか、倉庫の担当者とか、弾庫、弾を入れているところ。そういう、下にいた連中が、みんな上がることができた
という、ことですよ。 退艦命令が出て、それで、軍艦旗下ろしって、やるんですよ。それはね、なかなか、まあ、言ってみるとさ、あれですよね。そんなのんきなこと、と思うけれども。それはひとつの、セレモニーみたいなものでね。軍艦旗下ろし、君が代を歌って。 軍艦旗下ろしをやって、それで、海に飛び降りるんですよ。そんな暇なかったですね。軍艦旗下ろしの、退艦命令が出て、軍艦旗下ろしが始まって、君が代の歌を、途中までいかなかったでしょう、たぶん。それこそ、今度は音を立てて、船が沈みだしたわけですよ。それで、ワーッってみんなが叫んだけども、飛び降りられなかったんですよね。飛び降りられないというのは、みんな、右舷寄りに寄ったけれども、船そのものが大きいから、船がこう傾くと、この舷側というのがね、こう、真っ直ぐに立っているときは、こう、直接あるけども。でも、20メートルやさ、そこいらの距離はあるわけだけど。そうじゃなくて、こう傾くわけですよ。ところが、滑り台みたいに、この距離がものすごく、長くなるわけですよ。要するに、飛び込む、海の部分に飛び込む、この距離が、長くなるわけですよね。こういうときには、すぐ、飛び込めばいいけど、こうなるからさ、うんと、飛ばないと、この舷側にみんな、当たっちゃうわけですよ。

小さい船ならまだ、いいですよ。この舷側が短いからね。そうでなくて、大和、武蔵なんてなると、やっぱり、きっ水が深いからね。こう傾くと、これがね、舷側の斜めになった、傾斜部分というのが、ものすごい長いんですよ。そうすると、飛び込む距離が長くなる。だから、そこへ飛び込める者はいいけども、そうでない者は、みんな甲板に、舷側に飛び込んで、頭を打ったりして、しまうわけですよね。でも、僕らは、幸いにして、こう飛び込めたから、いいんですけども。そうでないものは、飛び込む勇気のない者、あるいは泳ぎをわからない者、怖くて、どうしても飛び降りられない者、というのは、結局ね、舷側のね、いいところをさ、滑り台のようにして、こう滑り落ちるわけですよ。背中をこうしてね。そうすると、船っていうのは、きっ水艦はね、水に沈んでいる部分というのは、カキが付くんですよね。貝殻。あれがちょうど、こう止まって突っついて。いっぱい付いているんですよ。そこへ滑り落ちるものだから、背中をみんなズタズタに、割かれちゃうわけです。

飛び降りられる者は、まだいいんですよ。だけど、飛び降りられない者はいるわけですよ。というのは負傷兵ですよ。そういう連中は、みんなこう斜めになった甲板の上で、それはもう、のたうち回っているわけですよ。助かりたいからね。助けてくれと言っても、助けようにも、助ける手段がないわけですよ。それを抱えていれば、自分がやられるわけですからね。死んでしまうわけだから。ですから、結局、見捨てるしかないわけですよね。そういう負傷兵の人を、僕の仲間でいるんですけどね。1人、この腹をやられて。ちょうど破片で、腹を上手にこう、うまく、こう上を切られたんでしょうね。ですが、内臓は何でもないんです。ところが、腹を切られたものだから、内臓も飛び出してしまった。内臓は自分の腕で、こう抱えながら。それで助けてくれ、助けてくれって言っているわけですよ。「おい、大丈夫か、大丈夫か」って言ったって、それは言うだけであって、何もすることはできないし。

それで、そういうもう、退艦命令が出て逃げなくちゃならないっていう事態に、なったときに、それを抱えて逃げるわけにいかない。共倒れになってしまうでしょう。すると、われわれは行かなくちゃいけないから。結局、仲間はね、そのまんま、左舷に沈む方向に、流されたですよ。船が沈むと同時に、こう流されたです。だから、それがまたよかったんですね。だからね、右舷でわれわれは飛び込んだ。生きて、元気な連中は飛び込んだ。さっき言ったように、滑り台のようにして、滑ったやつもいる。カキで背中をやられたやつもいる。その魚雷に当たった、ワニ口のようになったところに飛び込んだやつもいて、死んでしまったやつもいる。そういうのは直接、見なくても、一緒に飛び込んだんだからわかるわけですよ。「あ、あいつはあそこへ行っちゃった」とかね。「あんなところへ行っちゃった」とかね。みんなわかるわけですよ。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の艦首近くの錨孔(hawsehole);大型の錨を上下する鎖がここを通っていた。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNSに動画が公開された。

退艦の漂流(塚田 義明さん)
僕はね、幸いにして、何て言うんですかね、もう本当に、とんでもないところに、ぽつんと1人で、こう浮き出たようなものなんですね。もう船が沈むと、渦が起こるのは当然だし。そして、重油が流れますからね、もう海が、真っ黒なんですよ。ですから、もう真っ黒な上に、渦に巻き込まれて、その海の中を、ちょうど、ゲンゴロウと同じですよね。上へ出てしまえば、もうそのまま、助かるんですけども。そうじゃなくて、海中の中で、こう行ったり来たり、何回かするわけですよね。往復。それで、そのまま沈んでしまえば、それで終わりだし。そうでなくて、そういうふうに何回もゲンゴロウのように、浮き沈みしながらも、ポコって、浮かび上がったやつは、助かるんですよ。僕が、たまたま、その1人だったわけですよ。それで、また運がいいのには、その船から、流れた流木がすぐそばに、来ていましたんでね。それにすがって、助かったんですね。まあ、泳いで。まあ、泳いでというよりも、その流木につかまりながら。

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の艦橋最上部に測距儀;15メートルの長さがある光学式測距儀は、敵艦との距離と角度を観測する射撃関連装置。2015年3月3日 - マイクロソフト社の共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS:Battleship 'Musashi' wreckage found in Philippines に動画が公開された。

どうも、泳げないんですよ。もう、ちょうどさっき言った、渦に巻き込まれていましたからね。渦に巻き込まれると、もう衣類やなんかは、はぎ取られてしまうんですよね。ですから、素っ裸。それこそ何もない素っ裸になる。ただ、体中に巻いていた、包帯がほどけて、足に絡み付いちゃって。足がいうことを利かないんですね。動かない。ですから、泳ぐわけにいかない。流木がたまたま、流れてきたので、それにつかまって、泳ぐというよりも、流木につかまっていたという状況だったんですよ。

それで、それも波がね、かなり高くなっていましたからね。うねりでね。もうこれで、もう何も見えないし、だんだん暗くなってくるし、日は落ちてきてね、暗くなってくるし。そうするとね、歌声が聞こえたんですよ。はるか彼方で。そうすると、向こうのほうで、かなりの、まとまったグループがあってね、そこでいろんな、軍歌や流行歌やなんかを歌ってね。気を紛らせていたんですね。その歌声が聞こえていて、「ああ、向こうにいるんだな」と。でも、向こうに泳ぎ出す勇気も、もちろん、力も、勇気も、もちろんなかったんだけれども。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の艦尾スクリュープロペラ(逆さま); 大和・武蔵のスクリュープロペラは、マンガン鋳物で、直径5m、艦尾下側4基装備されていた。ポール・アレン(Paul Allen)氏は、自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して、1944(昭和19)年10月24日、レイテ沖海戦でシブヤン海で撃沈で撃沈された戦艦武蔵を海底で発見、SNS:Sunken Japanese WWII Battleship Located in the Philippines に動画が公開された。

そしたら、そこに、どのぐらい時間がたったか、わからないけれども、そこにカッターが、それこそカッターが来たんですよ。駆逐艦のね。救助する。

そしたらね、すぐもう、上げてくれましてね。駆逐艦まで行って。駆逐艦はもう、われわれをまた、そのきちっと上に上げてくれるだけの時間的な余裕もないから、駆逐艦はまたすぐ、ボートをすぐまた、助けにいかなきゃならない。そしたら、駆逐艦の舷側に、網、網のようなね、網のように織った、綱ばしごっていうんですかね、が、下りていましてね、それに伝わって、こう上がるんですよ。

駆逐艦だから、その舷側も短いですからね、上がる距離はまあ、大したことがないんだけど。だけど、こっちは負傷はしている。重油は飲まされる、泳ぎ疲れているし。もうそれで、眠くもなっていたしね。あれ、どういうわけか、眠くなるんですよね。眠くなったら、終わりなんですよね。寝ちゃったら。上にいた、甲板にいた仲間がね、駆逐艦の仲間が、すぐ引きずり上げてくれて、それで重油を、洗い流してくれて。それで、病室へ行って、医務室へ行って、薬を飲まされて、毛布をあてがわれてね、それで寝かされて、それで助かったんだけれども。

写真(右)レイテ沖海戦で撃沈された戦艦「武蔵」の艦首右舷の錨(anchor);錨(アンカー)の重量は15トン。レイテ沖海戦当時、戦艦武蔵はアメリカ海軍の炸薬600ポンド・速度 33.5ノット・射程5,700ヤードの航空魚雷(MK 13 Torpedo)と爆弾による攻撃を受け、艦首が沈降した。そこで、沈みを抑えるために、戦闘中に左舷の主錨は海中に放棄したという。戦艦武蔵は、全長263メートル、基準排水量(砲弾や燃料を搭載していない状態)6万5千トン。2015年3月3日 - 米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNSに動画が公開された。

連合艦隊の最期(塚田 義明さん)
その後はみじめでしたね。やっぱりね、武蔵の乗組員となればね、それなりの、自負心も持っていたんだけど。相手もそれを、認めてくれたですよね。ところが、船も、乗る船もなくなって、要するに、もう、敗残兵と同じ、状況ですよね。それで、最初に、まして僕は、負傷しておったものですからね。そんな状況にあったから、化のうしちゃったんですよね。それで痛くてね。しばらくは、もう傷みで、悩んでいましたけどね。悩んでいたんですけどね。何しろ、すぐ病院に、連れて行ってくれないんですよ。

それで、最初に連れて行かれたのが、武蔵の連中はね、コレヒドール島へ、連れて行かれたんですよ。コレヒドールというのは、まあ最初に、初戦のときに、米軍の司令官がいたところですよね。マッカーサー司令官がいて。それで、日本軍の攻撃を受けて退却した。いわく付きの、島ですよね。それなりに、それなりの施設も、ととのっておったわけですよ。要塞砲なんていうのは、素晴らしい要塞砲があって。

ところが、われわれが上陸したときには、もうそれが、廃墟でしたからね。兵舎なんか、レンガ造りだったけれども、もう窓や、ガラスやなんかはもう、めちゃくちゃに壊れて、中はもう、めちゃくちゃだし。残された紙切れや、何かがもう、散らばってね。それこそ、もう人の住むような、場所じゃなかったんだけど。そこに入れられて。食べるものがないわけですよね。配給があるわけではないし。輸送船が来て、物資を運んでくれるわけではないし。残っているもので、そこに守備隊、数少ない守備隊が、いたんですけどね。その守備隊のものを、分けてもらうしかなかったわけで。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の艦首右舷の錨(anchor);錨(アンカー)の重量は15トン。レイテ沖海戦当時、戦艦武蔵は魚雷と爆弾による攻撃を受け、艦首が沈降した。そこで、沈みを抑えるために、戦闘中に左舷の主錨は海中に放棄したという。戦艦武蔵は、全長263メートル、基準排水量(砲弾や燃料を搭載していない状態)6万5千トン。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そしてABS-CBN News :'Musashi' wreckage is an archaeological siteに動画が公開された。

今までもう、食うに困ったこと、ないですからね。船に乗っているときは。そこでは、おかゆなんていうとね、言葉はいいけども、何のことはない、お湯の中に米粒が、何粒か浮いている程度のものですよ。それが、そんなものとか。あとは、野菜なんていうのはないから、草の根を切って、海水で炒めてね、温めて、それで、みそ汁代わりに、飲んだりさ、何かしてね、やっていたんですよ。

そんな、状況が続いて、それで、どうして、われわれをちゃんと処遇してくれないのかな、と思ったら、要するに武蔵が沈んだことは、極秘なんだと。人に知られては困るんだという。要するに、秘密扱いにされていたんですよね。だから、これから、マニラへね、移動するということになったときに、コレヒドール島の守備隊に残る部隊、人間と、それから、負傷者は病院に連れて行く、ということで、3つに分かれて、こう、移動が始まったわけです。まあ、そのときにも、そういうことで口止めを厳重にされて。

その帰る者、残る者を、分けることになって、クラークの飛行場の防備隊、コレヒドール島、それと、マニラの防備隊、この3つの部隊にね、それぞれ、人員を配置することになって。それで、あと、負傷者の、われわれ負傷者と、それから残務整理のためにね、内地でいろいろ仕事しなきゃならん連中が、帰ることになったわけ。それで合わせてどのぐらいになったのかな。200〜300名かね。

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の球状艦首(バルバスバウ:Bulbous Bow)バルバスバウは、船が前進するときに、舳先が作り出す波による抵抗、すなわち造波抵抗を減らす構造となっている。舳先が作り出す波とは位相が正反対になる逆位相の波をバルバスバウで作り出し、二つの位相の波が相互に相殺しあうようにする。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNSに動画が公開された。

それで、その残務整理班は、最初にサントス丸(大阪商船 7,267総トン 1925年竣工)といって商船を徴用したやつ、それに乗って帰ったんですよ。そしたらね、それがね、バシー海峡で、やっぱり、潜水艦の魚雷で攻撃を受けて、沈んだんですよ。それで、またね、200〜300人いた連中が、また半分以上、死んじゃったんですよ。それで、あと、残った連中は、みんな今度は台湾の防備隊に残されて。内地に帰ったのは、ほんわずかの人という状況で。

それで、残った負傷者のわれわれはね、それこそ米軍が、上陸する本当の前々日ぐらいに、隼鷹という航空母艦がいましてね、それが内地に、帰ることになったと。それしかもう、便はないだろうと。最後の便ですよね。最終便。それに乗っていけと言われて。それに乗って、帰ってきたわけですよ。

写真(右):レイテ沖で発見された戦艦「武蔵」の球状艦首(バルバスバウ:Bulbous Bow)バルバスバウは、船が前進するときに、舳先が作り出す波による抵抗、すなわち造波抵抗を減らす構造となっている。舳先が作り出す波とは位相が正反対になる逆位相の波をバルバスバウで作り出し、二つの位相の波が相互に相殺しあうようにする。2015年3月3日 - 米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

最年少の兵士として闘った「戦争」(塚田 義明さん)
武蔵というのはね、あれだけの船を造った、ということも大変なことだし。よくね、日本というね、こんな、小さな国が、ああいう、船を造ったと、思いますよね。それも、ただ大きい船っていうんじゃなくて、その持っている、機能からしても、これだけの船、機能を持った、素晴らしいメカを持った、その船を造れるというのはね、やっぱり大したもんだと、いうふうには思っていたし、それに乗れたと、いうことは、ものすごく、幸せだと思っていますよ。それは戦争がいい、悪い、じゃなくて、やっぱり、日本のその技術力っていうのかな。日本人の素晴らしさっていうのがね、やっぱりそう思いましたよね。

と、同時に、やっぱり僕らは、やっぱり最初に、言ったけども、軍国時代に軍国少年として、育てられてきましたからね。その時代背景を考えても、もうそれしか、要するに軍人になるしか、われわれは、望みがなかったわけですよね。ですから、早く行けば、行くほど、やっぱり、自分たちはいいんだと。そして、本当に、あの当時の言葉で言えば、国を、国のため、君っていうのは、天皇ですよね。君のため。だから、聖戦なんだと。これに戦える、戦って、国を守るんだと、そういうね、気持ちは、強かったですから。また、そういうふうに、教えられたし、そうも思っていた、いましたからね。だから、やっぱり、その純粋さっていうのは、あのときの、自分の純粋さっていうのはね、戦争そのものを離れて、大事にしていかなきゃ、いけないなとは思っていますよ。あの戦争を通じて、そう思っていますよ。

写真(右):1944年(昭和19年)10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」の機銃弾;レイテ沖海戦当時、戦艦武蔵は25ミリ機銃、13.2ミリ機銃を装備していた。2015年3月3日 - ビル・ゲイツとともに米マイクロソフトを創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、YouTube "Musashi (武蔵) Expedition Live "に動画を公開した。これはその静止画像。

これは、当時、海軍時計って言いましてね。海軍の兵隊が、みんな買って、持っていたものなんですよね。これは沈んだときに、手旗訓練と、ともに沈んだときに、これを、腕に巻いておったんですけれども。これが、重油で真っ黒になっちゃいまして。短針が確か7のところに、ありましたかね。長針が外れちゃっていて。短針が7のところにあって、真っ黒になって、残っていたんですよ。腕にはまっていたんです。そのうち、皮も切れちゃって。大事に、形見だと思って、残していますけど。

写真を見るよりもね、これを見るほうがね、身につまされるんですよ。これはもう、実際にもう、一緒に戦って、一緒に沈んで、一緒に来ましたからね。だから、船の上で撮った写真とかも、あるんですよ。仲間同士で撮ったやつもあるんですよ。そういうのは、もう、みんな沈めてきちゃったでしょう。

でも、考えてみれば、本当に、あのときにいった連中というのは、僕らと同じような考えを持って、みんな来ていて、あそこで国のために本当に、散っていったと思うとね、それはそれなりに、おまえたちは、それでよかったなと言ってやりたいですよね。そう言わなきゃ、浮かばれないですよ。何であんなところで、あそこで死ぬんだ、なんて言われないですよね。だから、もう僕らは、そう思っていますよ。本当におまえたちが、守ってくれたから、今の日本はね、これだけ裕福な、いい国になったと、いうことを言ってやりたいと、思いますよね。そういう日本に、なってもらいたいけれども。今はどうなのか。


写真(上):戦艦「武蔵」の船尾スクリュープロペラ
;左はスクリュー軸が折れ曲がっている。アメリカ軍機の投下した爆弾が至近弾になったのか、あるいは船体などに衝突して折れたのか。右のスクリューに特に損傷は見えない。2015年3月3日 - 米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして氏は、SNS"www.paulallen.com”に武蔵発見(Exploration :Finding the Musashi)の海中撮影動画を公開した。そして、YouTube "Musashi (武蔵) Expedition Live "に動画を公開した。これはその静止画像。


6.1944年10月、捷一号作戦に基づいて、レイテ湾突入の命令を受けた戦艦「武蔵」の少年兵・遠藤 義正さんは、NHK[証言記録 兵士たちの戦争]フィリピン・シブヤン海“で戦艦武蔵の最期”(2008年12月12日収録)で海兵団や戦艦「武蔵」に纏わる戦争体験を語っている。

生きるために志願した(遠藤 義正さん)
養成所におりました。技能者養成所、今で言うと工業学校ですか。そこにおりまして、そこの寮におりました。

われわれも学校は、朝の8時から12時まで。午後からは、今度はアルバイト。工場行って、ものつくりやっているでしょ。それで、夜、放課後になってから、柔道とか相撲をやって、稽古していたわけですよ。

そういっているうちに、今度、まもなく卒業。卒業っていうか、(技能者)養成所を終わるころになって、「こんなことをしていたら、駄目だ」と思って。そうしたらね、あそこになんていうんですか。海軍の軍艦旗が、ペラペラ、響いてんですよね。そこで、年がら年じゅう、その講師が来て、海軍の中尉、大尉ぐらいが来てね、訓練するわけですよ。陸軍のが、陸軍の中尉とか、大尉ぐらいの人たちが。ところが私、兄弟が全部、5人いるんです、男の。1人はけがしていて、これは行く気がない。あとは4人、3人ともみんな、陸軍に行ったんですよ。3番目が戦死したんです、ガダルカナルで。その葬式の帰りに、私は「よし、海軍に行こう」と思って、東京へ帰って、すぐ志願したわけですよ。

嫌だったっていうよりもね、やっぱり海軍への憧れだろうね。当時は猫も杓子も、軍人でしょ。政府、国が、そういう面で。「入れ」ということで、そういうのに、やっぱり煽られた、というのがあるんだろうね。 それと同時にね、何よりもこれがない。これ(お金)がない。だってね、もう、うちの親父から10円、当時、送ってくれたんですよ。その他にこんどはアルバイト料が入るから、10円だったかな、10円だったね。大体、15円ないと、生活できないんですよ。1カ月15円ないと。10円送ってくるはずが、兄貴たちはみんな、戦争に行っちゃったでしょ。そうすると、1銭も入らないわけだよ。親父がなんかあったら、漁師をやったり、なんかして、それで、稼いで、送ってくれたのが、5円になっちゃったの。だから、飯も食えないでしょ。会社からもらう、アルバイト料だって知れたものでしょ。

それで、本当に飯、食うものね、月末まで、ないものですから、それで、飯が食えない。だから、今度は各食、1本、2枚、3枚が。2枚か3枚で何枚か、10銭かな。10銭じゃない、そんなにしない。なんぼだったんだろう。何銭かだったですね。それを3枚買って、朝から、晩まで、水飲んではそれをかじったり、水飲んじゃこれかじって、一日暮らすわけですよ。何銭かで。それを2日ぐらい、続けるんですよ。会社も行かないで。腹へって、どうしようもないんだもの。金ないし。それが原因さ、要するに、志願した大きな元は。こうしていたら、とっても食っていけないと。

訓練兵は食べれるでしょ。衣食住、見れるでしょ。そのほかに、小遣いくれるでしょ。こんないいところないでしょ。

Q:そういうのはご存じだったんですか? 海軍入ったら食べられる?

 そう、そうそう、そりゃあそうですよ。だって一般、どこへ行ったって、ただで食わせて、飲まして、小遣いくれるところはありますか。日本帝国だから、それをやってくれるんだと思って。それ一筋ですよ。だから戦争が悪いとか、何とかって、そんな観念、ひとつもないですわ。その当時はね、大日本帝国万歳、ですからね。天皇陛下のためなら、いかなることがあっても、奉仕するっていう、そういう愛国青年だから、愛国少年というか。徹底的に、そういうのを教えられたんですからね。

厳しかった海兵団での訓練(遠藤 義正さん)
手旗訓練でしょ。
手旗訓練をやるわけですよね、そうすると、そこにも罰則があるわけですよ。下手に、間違えが多かったり、何かすると。そうすると、30分でも、40分でもやらされる。手旗を挙げたまま、こういう格好で、イの字書いた、このままで立たせるわけですよ。旗、持ってですよ。

部下がやると、全員責任だからね。連帯責任だから。だからお互いが協力しないと、ぶたがられる。あくまでも、連帯責任っていうこと。

海軍とかは、ビンタはやらないから、全部あごというか。ビンタをやらないというのはね、ここやるとね、鼓膜破れるわけですよ。だから、絶対に平手でやるんだね。全部これで。で、親指をつめて、こうやって、ガン、かち上げるっていうやつ。バーン。あるいは、その精神棒。バーン。ほらあ、痛いですよ。あごよりも、歯が抜けちゃうほど、痛い。それで、ケツの後ろね、2本、3本ぐらい、こう、内出血するのか。一週間は、消えないですよ。

制裁あります。
制裁をやらないっていう、ことはないですよ。それはもう、しょっちゅうありますよ。ある機関科か、機関科かだったな、どこかで、やっぱり制裁で、死んだのいますよ。ある1人の兵隊は、制裁を逃げて歩いて、艦の中で行方不明になったの。2日間にかけて、みんな全艦を捜索したの。それでいよいよ、見えなくなると思って、今度は機関科の連中らしいからね、機関のなんか、下水を調べたらしいんだね。船の中での下水。流れている。そこまで行ったらね、その奥に潜んでいるのが見つかった。

制裁はまず、あご、カチアゲ、それこそ精神棒、それから今度は、相棒の叩き合い。二人並んでね、そっちからガーンと殴るでしょ。向こうも、こっちをガーンとやる。お互い殴り合い。そういう制裁とマエササエ、これもやりますよ。

私も1回、ぶんなぐられたことがあってね。そして、鼓膜破れたのかな。それで2日、3日ぐらい病室で休養したことがあるのね。

学校を何か月、いたんだろう。普通の大体、普通の6割ぐらいで、終わったんじゃなかったのかね。記述やなんかについては、あまり記憶はないですよね。だから、普通から見たら、6割ぐらいで終わったのじゃないかね。例えば10か月あるとしたら、6か月で終わっちゃう。それぐらいで早期卒業させて。させられたんじゃないですか。ただ、あの当時ね、やっぱり順位っていうのは、厳しかったんですよ。1位から5位ぐらいまでは卒業成績が、そういうのがね、司令部か、戦艦以上、戦艦以上5位から10位ぐらいまでかな。
だから、戦艦だとかそういうのに乗るには、やっぱり成績が良くなかったら駄目なんです。

「武蔵」乗艦(遠藤 義正さん)
それで、それまで武蔵に乗るなんて全然、知らない。ところが、呉に行くというだけで、武蔵なんていう名前、どうにも知らない。

そこに、武蔵がいるなんてことは全然、知らない。それで、連れていかれて、呉の日からどこどこ、歩いていたら、なんかいっぱい、ぶら下がったものがあるの。「何、こんなのぶら下がっているんだろう」と思ったよ。引率した人に聞いたって「知らない」っていうんだもの。

行ったらね、シートなんですよね。ダーッと隠しているの。シートの中、要するに今、家建てるっていったって、シートかけて隠しているでしょ。あれと同じだから。だから武蔵だって、ダーッと隠しているでしょ。だから、それを私、知らないで、「何のために、こんなのかかっているんだろう」と思って。れで、こんなところに、仮設の階段をのこのこ、上がって行ったら、そこにまあ、でっかい船があるんだ。目ひっくり返るようだった。すごい船だもの。今だかつて、私ら見たことないですよ。

そんな、巨大な船が陸上に、上がっているなんてね、本当に、驚天動地っていうか、いやいや、びっくりしたね。そのときに初めて、武蔵っていう船にお目にかかったんです。

艦内旅行というのがあるんですよ。艦内旅行。艦内を歩いて、案内してくれるわけよ、先輩が。ところが、歩いたって分かるわけ、ないでしょ。そんなね、廊下、歩くといちいちこうして、穴の中、潜っていかないと、ならないんだからね。頭は鉄骨にぶつかるしね、どこがどこやら、全然迷路だもの。だからここは何だ、あそこが何だ、って言われたらね、われわれ、空耳ですよ。それを2日かな、3日ぐらいあったかなあ。ここはどこだ、ここは機関室だ、ここは倉庫だ、ここは何だって、言われたって、全然、分からないですよ。
迷路ですよ、本当の迷路ですよ。どこがどれにあって、何が、何が、あるんだかね、本当に分からない。

飯は、麦が4割ぐらい、入っているんじゃないのかな。米が6割ぐらい、入っていたかな。それ、記憶にはあまり、新しくないけれど。それからあと、おかずが一品と、お汁みたいなのが、物が何もないっていない、中身のないおつゆみたいなのが少しと、それを、食卓番が次々やって、入って、班長に「食事の用意、食事の用意できました」とやるわけだ。「席つけ」「はい」こういうことで、本当に朝食なんて、2〜3分で終わっちゃう。みんな、ガツガツしてたんだから。

そりゃあ、食べれたっていうことは、嬉しいですよ。3度、3度、食べさせてもらえるなら、こんないいこと、ないですよ。ね、こんなありがたいこと、ないでしょう。

その中でもそれ、月末なりは、5銭だか10銭だか給料、出るんだから。ただ外泊とか、外出とかはないからね。船に乗れば、そういうことはありませんから。これは陸上に入港すれば、また別だろうけれど、海の上では一切、そういうことないし、お菓子だって、なんだって買えるったって、買うところがないから。ただ戦給品として、お菓子が1日、なんかお菓子みたいな、煎餅みたいなのが、ちょこちょこっと、少しずつ配るみたいだから。それは確かにあったような気がしますよ。

風呂はね、もう、3日に1回ぐらいかな。1週間に2回ぐらい。ただし、こういう洗い桶ありますよね、小さいの。あれにお湯、水はね、2杯、限界。それ以上はもう、駄目。それで、入浴時間っていうのは10分ぐらい。それで、こっちに入りますでしょ。入ると、順々に並んで、そっちにポンと上がって、それで体洗って、頭洗って、それで終わり。だから、2杯目のお湯を大事に使って、最後まで流して、それで、上がるという。それはもう、あわれなものですよ。10分間ですよ、入浴時間っていうのは。1500人の人間が、いるんですからね。それが、1つのお湯でやるんだから、これは、仕方ないかもしれない。

写真(右):1944年10月24日、シブヤン海で爆撃を受ける戦艦「大和」;レイテ湾への突入を図る大和はアメリカ第38任務部隊の艦載機による攻撃を回避しよう回頭を繰り返した。46サンチ三連装砲塔は全部の2基のみ左舷を指向しているが、角度が異なる。艦橋トップの射撃指揮装置を使って主砲塔を統一指揮できるはずだが、故障か、対空射撃の困難のためか、砲身のむ向きはバラバラで、不統一な運用となってしまったようだ。砲身を左右に分けて艦の左右のバランスをとると推測するものもある。しかし砲身による風・空気抵抗の大きさから、砲身を左右に回転させ、操艦性能を悪化させるとは思えない。Title: Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944: Japanese battleship Yamato is hit by a bomb near her forward 460mm gun turret, during attacks by U.S. carrier planes as she transited the Sibuyan Sea. This hit did not produce serious damage. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-325952 引用。

「武蔵」への攻撃(遠藤 義正さん)
朝の9時ごろ、だかな。遥かに、水平線のところに飛行機を2〜3機、見つけたんですよ。それは報告しました。そして報告して、「厳重に警戒せよ」ってもう痛烈な声にもう、どなり声が聞こえてくる。ほれで今度は、目を皿のようにして、もう一生懸命、見ているとね、10時ごろだったかな。もう空が、真っ黒になるぐらいの飛行機が、何十個も編隊で来るんですよ。襲いかかってくるんです。そのときはだから、どうしようもない。目を三角にして見たってね、そのもう、群れのすごいこと。あれあれっていううちに、頭の上に行っちゃう。

ワーワーと、武蔵が集中攻撃を受ける。そしたらね、甲板の上にゴロゴロ、今度は人間が落っこってくるの。

甲板の上に。それが誰かというと、機銃員でしょう。機銃員が外ですから。4〜5人ぐらい捕まったんだよね。それらがガタンとやると、バランと甲板の上に落っこってくるわけですから。軍艦は全速で走っているから、波がガーッと来るとね、その板が後方にババーッと、流れてくるんですよ。
ほらもう、惨憺たるものだね。

Q:それは見張所から見えたんですか? その甲板の?

 見えます。甲板の上から、見張り所から、甲板の上に転がっているの、見えますよ。

アメリカのこういう、空中攻撃ですよ。大砲とかそういうもんじゃなく。全部、飛行機です。飛行機からね、機銃掃射でばたばた倒れて、機銃とあと爆弾。あれが、ガーンガン、鳴るでしょ。それで、機銃の音でしょ。もう、ガンガン、ガンガンでもう、耳がつんざけるように。

(飛行機の中の米軍の顔は)見えます。だってすぐ、目の前だもの。
頭の上ガーッと行くんだもの。だから、乗っている連中もすっかり、見えますよ。ああ、すごい。

50メートルぐらいのところから、ガーッと。この、おまわりさんのところから、ああしていると、ガーッと行くんだから。艦橋スレスレと。すごいもんだねえ。戦闘機っていうのは、あんなに恐ろしい。本当にスレスレだ。それが次から次へ、右から左、右から左と、よく空中衝突しないものだと思って。

いやあ、自分が当たるとか、当たらんとか、そんなこと考える余裕なんて、ないですよ。ともかく、何をしたらいいのかも、分かんないし、手当たり次第のものは、やるしかないですよ。そういうところで、冷静にものを判断し、行動するっていうことはね、これ、不可能に近いですよ。火事場から、逃げるようなものでね。前後の見境なんか、つかないですよ。

主砲はね、ほとんど打ってないよ。主砲はほとんど打ってない。主砲を打っているどころじゃないもの。

防空見張所が全員、戦死したから、後部見張員は直ちに艦橋に上がれ」という号令が出たんですよ。それで急きょ、今度ドアを開けて、飛び出していった。飛びだした瞬間に、グシャーと、足が何か腐ったようなものに、なんか足が入っちゃった。見たら、遺体なんですよ。遺体の腹の中に、足が突っ込んだんだね。いやあ、気持ち悪かったけど。

夢中になって、見張り台に上がった。 上がってみたら、見るも無残。生きてる人間、ひとりもいない。20人ぐらい、いたのね、あそこに。全部いないの。そこに見張りの、二等兵曹が一番先輩だったけれど、召集かなんかで来た人。その人もいないの。その隣のところに座っている、大きな機密書類を持っている、座って見てる人がいるんですよ。その下は首だけ、ないの。その首のないところからね、血が、ぐうっと流れているんですよ。そうしたら、中は全部、死体がぐるぐる、ぐるぐる。一ぴきもいないの。そうして今度は、ウロウロしていたらね、その死体の中からね、一人の兵隊がグアーッと立ち上がったのよ。その人は少尉の人だったと、思うよね。グアーッと死体の上から、立ち上がって、「ウアーッ」て言って、そのままバタッと、そのままいっちゃった。

写真(右):1944年10月24日、シブヤン海で爆撃を受ける戦艦「大和」;レイテ湾への突入を図る大和はアメリカ第38任務部隊のTBF雷撃機アベンジャー、カーチス急降下爆撃機ヘルダイバーの空襲を回避しよう操舵している。46サンチ三連装砲塔は3基前部が異なった方向を指向している。砲身を左右に分けて艦の左右のバランスをとるとの仮説は、砲身を回転させ空気抵抗を大きくし、操艦性能や速力22ノット(時速40キロ)を悪化させるので否定される。艦橋トップの射撃指揮装置(方位盤)の故障か、対空射撃の困難さのために、射撃指揮装置を使った主砲塔の統一射撃をしていないと考えられる。あるいは、対空射撃に46センチ砲を使用できないため、3基の主砲塔の統一射撃も必要ないということになる。Title: Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944: apanese battleship Yamato in action with U.S. carrier planes, as she transited the Sibuyan Sea. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-325953引用。

「武蔵」沈没(遠藤 義正さん)
やることはやるったって、何をやったらいいか分からないもの。だから手当たり次第、なんかやる以外、ないですよ。そこに、いちいち何も、命令する人もいないし、指導する人もいないし。自己判断以外、ないでしょ。

今度、うちの見張り長が「書類、焼け」と言われたのが、そのときだった。書類、焼くのは、このね、今、船が沈むときに、何のために、機密書類焼くんだ、と思ったけれども、上官の命令には従わなければならん。そうしているうちに、死体がゴロゴロ、ゴロゴロ並んでいるんですよ。その甲板から今度は、船が傾斜していくものだから、ゴロゴロ、ゴロゴロ死体が左のほうに流れて、ボチャボチャ、海の中に落っこちるでしょ。

そしたら今度は、甲板にいる連中がなんか、をとにかく左のほうへ。 左に船がとにかく、傾いているから。左のほうにをドボーンと、こういう、つなぎののねじを切って、落としてやったら、少し、浮いたな。何センチか。だけど、そんなものはちょっと、一瞬の間だけだ。また沈んでいくでしょ。

船の横に牡蠣殻とかがびっしり、付いているの。見てたら、そこを滑り降りてくるわけ。滑り降りて行ったら、今度背中から、血がバーッと噴き出したやつがいる。牡蠣殻に引っかかって。ドボーンと落ちてくる。中で滑りながら今度魚雷で、できた穴の中にボコンボコンと行くやつもいる。それを、十分確かめてから、これはこうこう、こういった、作戦を練って、穴やなんかが、ないところへ、今度、走って行って、足の裏、海の中へ痛かったけれど、そんな痛いとか、かゆいとか言ってられないから、そこは少しでも遠くへ飛ぼうと思って、そこからジャンプして、飛び込んだんですよ。その飛び込んだときはね、それほど、苦しくはなかったの。ああ、生きたと思って、浮きあがったと思ったら、今度はぐいぐい、ぐいと引きこまれた。引き込まれたんで、船が沈みかけたものだから、それに引き込まれるんだね。

いや、そのときは苦しかった。夢中になって、駆け上がって、駆け上がって、ようやく浮き上がったら、ウワーッとしたら、グウアーと、武蔵の煙突の頭から、炎が上がったんですよ。そのまま、ガガガーッと沈んでいった。

写真(右):1944年10月25日、サマル海で空襲を受けながら護衛空母を砲撃しようとする戦艦「大和」と戦艦「長門」(左奥);レイテ湾への突入の直前、不意に空母部隊と遭遇した栗田艦隊は、これを高速正規空母の任務部隊と早合点し、狂喜して迎撃した。しかし、敵は正規空母ではなく、商船改造の護送空母であり、最高速力20ノット以下、搭載機20機程度だった。もしも大和など空母に接近した日本の戦艦・重巡洋艦の光学機器が優秀なら、大型空母と小型空母との大きさや艦形の際に気が付いたはずだ。しかし、栗田艦隊は、最後まで遭遇したのが護送空母だと気づかなかったようだ。大型双眼鏡や見張り員の優秀性が謳われる日本海軍だが、これが戦争末期の実力だった。Title: Battle off Samar, 25 October 1944 : Japanese battleship Yamato (right) in action with U.S. carrier planes off Samar. Another battleship is in the left distance, steaming in the opposite direction. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-48888引用。

重油の海にまみれて(遠藤 義正さん)
そうして、今度もがいているうちに、ポカッて浮かんできたもの。幸運って、みんなどこにあるか分からない。これぐらいのかな、これぐらいの、機銃の木の箱なんですよ。ポカンと浮かんできた。何という神の幸運か。それをウワッと拾って、腹の下に収めました。

それが、私の救命胴衣です。生きながらえた、大きな神様ですよ。そうして今度は、雨の中を泳いで。いよいよ行っても、どこに行くか分からないでしょ。そっちでも、こっちでも、ポカポカ、ポカポカ浮かんでくるわ、浮かんでくるわ。もう戦友が次々、浮かんでくる。そうしたら、私がそういう格好しているものだから、そばにくるわけですよ。ところが、それにすがらせたらね、私まで沈んでしまう。それで、バシャバシャ、すがりつく手を、放してやるわけです。

これは仕方ないよ。自分が生きるためならね。ところが、バシャってはねられて、ガーッと流れたら、そのままバーッと、沈んでいくんですよ。

残酷でしょ。人を助けるという気持ちは、ないことはないけども、やっぱり自己防衛というのは、一番大事なわけだから。次から、次来るから、バチャバチャはねるわけです。そのうち、どんどん、どんどん暗くなってくるわ、あっちからこっちから。そしたら、いつのまにかみんな、集まってきたのよね。そうして今度集まってくるうちに、みんな軍歌歌い出したの。何、歌ったかなあ。カンセンケイブがなんかだったのかな、あれ。みんなで大きな声で、海の上でね、合唱しているのですよ。

そうしているうちに駆逐艦(一等駆逐艦夕雲型「清霜」)が来てくれて、これを幸いと思って、寄って行った。そしたら、あの駆逐艦の上からロープ下がったですよ。そのロープにすがって、上がっていく連中を見たんだよ。ところが途中まで行くけど、みんな油でしょ。すごいから重油が。武蔵から出る重油なんて、すごいもんだよ。その油があるものだから、手が滑るでしょ。滑ってダーッと落ちたら、そのまま上がって来ないの。駆逐艦の下に潜って、そのまま上がってこないんです。私、それを見ていて、「ああ、これは駄目だ」と。 もっといい方法はないかと、思ってみたら次に目についたのがね、網の目に編んだロープがずうっと、10メートルぐらい渡って、ぶら下がっているの。これはいいと思って、それにすがった。ほれでこれにすがって、ともかくなんだかんだと上がった。私、上がりきったのは早かったようだなあ。

上がったらね、そこでね、今度は海軍の食器あるでしょ。その食器にワァーッと水くれたんですよ。これはうまいと、思ってね。喉乾いてカラカラですよ。ガーッと飲んだんだよ。ところがそれは焼酎なんだよね。私は酒というのは飲まないでしょ。だけど焼酎とか、そんなことは関係ない。ともかく飲んだ。ほうして、飲んで今度、ほっと思ってね、駆逐艦の上から、今度、上がっていって。寒いですから。なんぼ、南の海だってね、やっぱり夜は、海から上がったら寒くて、ガタガタ震えるわけ。それで、煙突の横に行って、寝たんですよ。そうしたら、疲労困憊しているものだから、そのまま寝てしまったんだね。明け方ふっと、目を覚ました。見たらそっちにも、こっちにも、眠っている人がいるんですよ。「ああ、これ助かったんだな」と思って。見たらみんな、死んだ人なんですよ。ゴロゴロ、ゴロゴロ。

生きてない。みんな息、絶えている。何人かは生きてた人もいますよ。

また良く見たら、このね、機銃弾の跡からウジが、湧いているの。南の国っていうのはね、ハエが来て、バンと種播いたらね、すぐに子どもが、生まれてくるからね。それからウジが湧いてる。これは可哀そうだと思ってね、一生懸命ウジを手ではいでたの。ウジを取ってやってたんですよ。手当のしようもないもの。そしたら衛生兵が来て、アカチン1つ置いてくれた。それで、アカチン塗ってやって。アカチンぐらいぬったってね、そんなの何も、役に立つわけない。「頑張ってよ、頑張って」って。そしたら後ろから、私の上着を引っ張るやつがいるんですよ。「誰だ」と思っていったら、顔面全部、包帯だらけなんです。そうして「誰だ」って言ったら。なんにも言わないんですよ。今度、名前見たら、シモザキと書いてあるんだよね。いやびっくりしたよ。本当に。あそこにわが班の連中が、2人もいるとはね、本当にびっくりした。

「隔離」された生き残りの兵士たち(遠藤 義正さん)
その後ね、助けられてマニラへ上陸したんだね。マニラの兵舎で何日間いたんだろうなあ。そのうちに今度、船に乗せられて、コレヒドール島に行ったんですよ。コレヒドール島に上がって。コレヒドール島になぜ、行かれたっていったってね、これはあくまでも命令ですから。われわれには、なんで行ったのか分からない。

その不満ていうのはね、いうなれば兵隊を捨てて、士官たちが次々と飛行機で日本へ帰っちゃったんですよ。われわれを置き去りにしていなくなったの。それに対しての不満なんですよ。

ええ、不満はありますけども、そんなこと言ったって、どうしようもないでしょう。そりゃあ、一等水兵ぐらいがね、そんな不満を言ったからって、誰が聞いてくれますか。そんな、心の中ではそう思っていてもね、それを言いうる立場じゃないですよ。やっぱり、言いうるのは、下士官以上、少し上の連中。あるいは中堅連中。その下の連中は何も。心の中には、不満はあっても、それを外に出すことは不可能です。

心の中では、ある程度、思いますけどもね、そんなこと口にするなんてことはね、これですから、これかこれだから、だから言わんことですよ。下手なこと言ったらね、アホウと怒鳴られるか、ケツ精神棒もらうか、ともかく上官の命令はその如何を問わず、もって直ちに服従せよだから、それ以外に兵隊には、なすべき道というのはないですよ。

「武蔵」のことは口にするな(遠藤 義正さん)
戻ってからね、今度、呉から汽車に乗って、横須賀に帰ったんですね。横須賀に帰ったけども、海兵団に帰って、海兵団の、別棟のほうの、屋上の兵舎に収容されたんですよ。だから「武蔵」っていう名前は一切に口に出しちゃいけないっていう、箝口令(かんこうれい)が敷かれて、同時に、隊の連中と付き合いは一切、できないですよ。それからまもなくして、久里浜のほうに移されたんですよね。

久里浜でいるうちに終戦、迎えたんだね。

やっぱり、一番きつかったのは、やっぱり、防空見張所に上がったときだね。これが一番きついね、私の中では。上がって行って、中を見た瞬間にもう、どうしようもなかったもの。そのときは本当に、愕然とした。あの狭い中にあの死体でしょ。

その中にいる白い死体が、うようよ、うようよいるんだね。そこでセキグチ兵長のような首がない遺体が、こうして座っている。その姿を見ると、ぞっとするね。それが一番、印象に残るね。あの20人近い1隊がね、あんな狭いこれぐらいのちょうど、こういうものがまん中にあって、それで淵にこうして、20人ぐらいの人がゴロゴロ転がったら、どうします。だからさ、2メートル近い人間だよ。それが20人いたら、何ぼになる。あれが一番、残酷ですよ。あと1つ思い出すのはね、マニラでね、ちょっと出かけたことがあったんですよ。ちょうど広場でね、日本の兵隊がね、柱に縛り付けた、どこの人間か知らないけども、バサーッと切るの。それを見たことが一回ありました。

(「武蔵」は)これだけの大きなものだからね。だって外壁の鋼板だってね、並大抵のものじゃないですよね。それでね、弾が当たったって、通るなんてこと考えられない。そんなこと、跳ね返す力があるだろうと思っていた。それはやっぱり、ひとつの誇りだろうと、思って乗ったわけですから。ところがそんなものはね、全然、通じない。

まあ、乗っていたということはね、世界一の巨大軍艦大和・武蔵という有名な軍艦に乗ったということは、まあ自分でも誇りだと、思っていますよ。まあ、戦争っていうのは、悪ですけどね、その軍艦に乗れたっていうことは、私も誇りに思うし。

7.1944年10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に戦艦「武蔵」が撃沈した後、栗田健男中将隷下の第一遊撃部隊(第二艦隊主力)は、1944年10月25日の朝、サマール海でアメリカ護衛空母部隊に遭遇した。このとき、戦艦による対水上艦艇砲撃の絶好の機会を得たが、アメリカ護送空母部隊の艦載機・護衛の駆逐艦による果敢な反撃を受けて、損害を被り、戦果を拡大できなかった。

写真(右):1944年10月24日、シブヤン海でアメリカ艦載機の空襲を受ける栗田健男中将の第二艦隊第一遊撃部隊第一部隊・第二部隊;左2隻目の巨艦が戦艦「大和」あるいは「武蔵」、右の2隻は第七戦隊(司令官:白石萬隆中将)の重巡洋艦「鈴谷」あるいは「熊野」、上が第四戦隊の「鳥海」。日本の戦艦は、対空射撃用(空中爆発する榴弾)の三式弾があったが、レーダー射撃管制装置も近接触発式VT信管も備えていなかったために、航空機の編隊に三式弾を発射し的確に爆発させることはできなかった。12.7センチ高角砲も射撃照準装置が光学式であり、やはり命中率が悪かった。
Title: Battle of the Sibuyan Sea, 24 October 1944: A Japanese battleship (at lefteither Yamato or Musashi) and other warships maneuver while under attack by U.S. carrier planes in the Sibuyan Sea. Ship in lower left and the two at the extreme right are heavy cruisers. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:80-G-272550引用。


写真(右):1944年10月25日、サマール島沖でアメリカ艦載機の空襲を回避する日本海軍第二艦隊の一等駆逐艦:日本の駆逐艦は、吹雪型(特型)から陽炎型・夕雲型(甲型)まで、いずれも61センチの大型酸素魚雷を搭載し、最高速力は35ノット以上。主砲には12.7センチ二連装砲塔を装備し、水上用も対空用の高角射撃も可能である。このため、両用砲とも言われているが、砲弾の装填には、砲身を水平にしなければならず、対空射撃の発射速度は遅かった。
Title: Battle of Leyte Gulf, 1944. Caption: Japanese destroyer firing at planes, probably during the battle off Samar on 25 October. Photographed by a plane from USS WHITE PLAINS (CVE-66). Copyright Owner: National Archives. Original Date: Wed, Oct 25, 1944 アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:80-G-384221引用。


写真(右):近代化改装後の1934年以降撮影の戦艦「扶桑」:「扶桑」の語源は、古代中国で日の出る東海の中にある神木で、転じて、扶桑のある土地の日本の異称である。1934年10月下旬、呉海軍工廠において、速力向上のための艦尾の延長・第三主砲塔係留位置の変更・水上機用カタパルトの設置など第二次近代化改装を実施。1944年9月10日、栗田中将率いる第二艦隊の第二戦隊[第三部隊](司令官・西村祥治少将)に旧式低速戦艦の「山城」「扶桑」の2隻が所属された。10月8日、リンガ泊地からブルネイ泊地へ進出、22日1530出撃。捷一号作戦では、フィリピンのスルー海・スリガオ海峡を突破しレイテ湾に突入、タクロバンのアメリカ輸送船団を砲撃する計画だった。しかし、10月25日、スリガオ海峡でアメリカ艦隊に砲撃・雷撃された撃沈。
Title: FUSO (Japanese Battleship, 1914-1944) Caption: Starboard bow view, taken after 1934. Note jack and ensign at half- staff. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 90770引用。


写真(右):1944年10月、スルー海でアメリカ軍機の襲撃を受ける西村中将の第二戦隊(第一遊撃部隊第二部隊)所属戦艦「扶桑」あるいは「山城」;戦艦「扶桑」起工1913年11月20日、進水 1915年11月3日、就役 1915年11月3日。基準排水量(当初):29,326t。全長192m、全幅 29m。最高速力 22ノット、航続距離8,000マイル/14ノット。主砲:45口径35.6サンチ連装砲6基12門。
レイテ沖海戦では、栗田中将率いる第一遊撃部隊(第二艦隊)の第三部隊(第二戦隊司令官西村祥治)の主力戦艦2隻中1隻として参加。10月25日、ジェシー・B・オルデンドルフ少将隷下のアメリカ第7艦隊第77任務部隊の迎撃を受ける中、第二戦隊西村艦隊は駆逐艦「山雲」、「満潮」「朝雲」、戦艦「山城《旗艦》」「扶桑」、重巡「最上」、旗艦(山城)の左右に駆逐艦「山雲」「時雨」を配してスリガオ海峡に突入。アメリカPTボート(魚雷艇)、駆逐艦の迎撃を受けた。アメリカ駆逐艦の発射した魚雷(27本)のうち1本は、0300「扶桑」右舷に命中、大損傷を与え戦列から落伍させた。此の時、駆逐艦「満潮」「山雲」「朝雲」も雷撃で沈没または落伍した。0338「扶桑」は弾火薬庫が爆発し轟沈。
Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: Japanese battle ship YAMASHIRO or FUSO under attack in the Sulu Sea, 24 October 1944. Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Oct 24, 1944 アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-281762引用。


写真(右):1944年10月、スルー海でアメリカ軍機の襲撃を受ける西村中将の第二艦隊第二部隊(第二戦隊)所属戦艦「扶桑」あるいは「山城」;戦艦「山城」起工1912年3月11日、進水 1914年3月28日、就役 1915年11月8日。 基準排水量(改装後):39,130t。全長212m、全幅 29m。最高速力 24ノット、航続距離11,800マイル/16ノット。主砲:45口径35.6サンチ連装砲6基12門。
レイテ沖海戦に、栗田中将率いる第一遊撃部隊(第二艦隊)の第三部隊(第二戦隊司令官西村祥治少将)の旗艦として参加。10月18日に発令された捷一号作戦では、第二部隊(栗田艦隊)に比して、兵力・速力とも劣る第三部隊(第二戦隊西村艦隊)は別行動とし、南北両方向からレイテ湾に突入、タクロバン沖の輸送船団を砲撃する計画だった。アメリカ軍任務部隊の艦載機は、栗田艦隊に集中攻撃したため、西村艦隊への空襲は軽微だった。25日未明、スリガオ海峡に突入したが、ジェシー・B・オルデンドルフ少将隷下のアメリカ第7艦隊の迎撃を受け、魚雷艇から駆逐艦から雷撃を、戦艦から砲撃を受けた。西村艦隊・その後にスリガオ海峡に入った志摩艦隊は、戦艦「山城」「扶桑」、重巡「最上」、軽巡「阿武隈」、駆逐艦「山雲」「最上」、軽巡「「」、駆逐艦「山雲」「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)">満潮」「朝雲」の合計7隻が撃沈され死者4000名以上の損害を被った。
Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: Japanese battle ship YAMASHIRO or FUSO under attack in the Sulu Sea, 24 October 1944. Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Oct 24, 1944 アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-281763 引用。


写真(右):1944年10月、スルー海で西村艦隊を迎撃したのと同型のアメリカ海軍80フィート・エルコ魚雷艇PT-333;アメリカ、ニューヨーク沖、モター魚雷艇戦隊(MTB:Motor Torpedo Boat Squadron)第24戦隊が高速航行で訓練を行っている。80フィート・エルコ魚雷艇(80' Elco Motor Torpedo Boat:)諸元:1943年5月以降の就役したアメリカの最新型魚雷艇。排水量 56 t.、全長(Length) 80フィート、全幅(Beam) 20' 8"、深さ(Draft) 5'。最高速度 41 kts.、乗員 17名、兵装(Armament):40mm機銃1丁, 21インチ魚雷、12.7ミリ連装機銃2基、1,500馬力パッカード(Packard)W-14 M2500ガソリンエンジン3基, 3軸。1944年10月のレイテ沖海戦では、西村艦隊の偵察を行い、その戦艦、巡洋艦、駆逐艦を襲撃、レイテ沖海戦で、アメリカ魚雷艇は第二戦隊/西村艦隊の戦艦「山城」「扶桑」、重巡「最上」、軽巡「多摩」、駆逐艦「山雲」「満潮」「朝雲」を襲撃した。西村艦隊の必死の反撃を受け、魚雷艇が放った魚雷は命中しなかったようだが、西村艦隊を撹乱し、その後、アメリカ駆逐艦隊に雷撃のチャンスを与えることに成功した。
Title: USS PT-333 Description: USS PT-333 Operating at high speed off New York, New York, 20 August 1943, during Motor Torpedo Boat Squadron 24 training exercises. Note her green-tone camouflage scheme, and the nickname Green Beast on her cabin side. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-K-3913 USS PT-333引用。


写真(右):1944年10月、スリガオ海峡で西村艦隊を砲撃するアメリカ戦艦「ウェストバージニア」USS WEST VIRGINIA (BB-48)の閃光 ;戦艦「ウエストバージニア」諸元:起工 1920年4月12日、進水 1921年11月17日、就役 1923年12月1日。1941年12月、ハワイで日本艦載機の奇襲によって大破、着底。しかし、その後、戦艦「ウエストバージニア」は引揚げ、復旧、近代化改装工事が行われ、1944年7月、戦線復帰。10月にレイテ島への艦砲射撃を実施。 当初の基準排水量:32,500トン、満載排水量:33,590トン、全長 190m、全幅 33m、兵装(Armament):16インチ(40.6センチ)二連装砲塔4基8門、51口径12.7センチ砲8門、38口径12.7センチ高角砲8門。第二戦隊司令官西村祥治少将の戦艦群を砲撃し、大損害を与えた。
Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: USS WEST VIRGINIA (BB-48) firing during the Battle of Surigao Straight, 24-25 October 1944. Photographed from USS PENNSYLVANIA (BB-38). Copyright Owner: National Archives アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-288497引用。


写真(右):1944年10月24-25日、スリガオ海峡で西村艦隊を砲撃するアメリカ巡洋艦群の閃光 ;戦艦「ペンシルベニア」USS PENNSYLVANIA (BB-38)(45口径14インチ(35.6センチ)砲12門装備)から撮影。1941年12月、ハワイで日本艦載機の奇襲によって戦艦「ペンシルベニア」は中破し、復旧工事が行われ、1942年4月、アッツ島攻撃、10月にレイテ島への艦砲射撃を実施。 レイテ沖海戦時に、オルデンドルフ少将率いる 第7艦隊(司令長官トーマス・キンケード中将) 第77任務部隊第2群には、戦艦6隻(ペンシルベニア・カリフォリニア・テネシー・ミシシッピー・メリーランド・ウエストバージニア)、重巡洋艦3隻(ルイスビル・ポートランド・ミネアポリス)、軽巡洋艦4隻(デンバー・コロンビア・フェニックス・ボイス)、 駆逐艦21隻、魚雷挺39隻があった。しかし、戦艦「ペンシルベニア」USS PENNSYLVANIA (BB-38)は、戦隊の最後尾にあり、僚艦が列する中、射界が制限されたため、スリガオ海峡を突破してくる西村艦隊を砲撃する機会はなかった。
Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: Gun flashes of U.S. cruisers during the Battle of Surigao Straight, 24-25 October 1944. Photographed from USS PENNSYLVANIA (BB-38). Copyright Owner: National Archives アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-288494引用。


2013年8月16日『週刊大衆』双葉社8月19・26日合併号には以下のような記述がある。

なるほど、この空襲で戦艦「武蔵」は、魚雷23本と爆弾17発を受けて沈没しているが、「大和」は爆弾1発を受けただけであった。翌25日、米第3艦隊を吊り上げる“おとり役”を引き受けた小沢艦隊としての空母4隻が、米艦載機の攻撃を受けて沈没。さらに、第二戦隊西村艦隊の主力であった戦艦「山城」「扶桑」を含む6隻が沈没し、第二戦隊西村艦隊は事実上全滅した。

一方、小沢艦隊としての空母4隻が、米艦載機の攻撃を受けて沈没。さらに、栗田艦隊は、重巡「鈴谷」「鳥海」「筑摩」が撃沈されるも、戦艦「大和」をはじめとする日本戦艦群が、米護衛空母「ガンビア・ベイ」を仕留める戦果を挙げた。深井氏は、当時の様子をこう振り返る。

写真(右):1944年10月25日、サマール島沖で撃沈されることになるアメリカ海軍護送空母「ガンビア・ベイ」;レイテ沖海戦の半年前、1944年4月、入港時に撮影。レイテ沖海戦の1944年10月25日朝、トーマス・スプレイグ(Thomas L. Sprague)少将(Rear Admiral )率いる「タフィ3」 "Taffy 3"所属のカサブランカ級護衛空母ガンビア・ベイ( USS Gambier Bay:CVE-73) は、艦載機によって栗田艦隊を攻撃し、巡洋艦を撃沈したものの、日本の戦艦・巡洋艦の砲撃によって撃沈された。Title: USS Gambier Bay(CVE-73) ;Caption: Photo taken in April 1944, showing her camouflage pattern. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)NH 79408 引用。

「水平線から、敵艦隊がだんだん見えてきたんですよ。それで主砲を撃ったら、初弾が命中したんです。現在市販されている史実とされる本の類には、そんなことは書かれていませんが、私らは双眼鏡で見ていましたから間違いありません。『大和』の主砲弾は、『ガンビア・ベイ』の艦尾のあたりに命中しました。当時、栗田艦隊着弾したのが自分の弾かどうかが判別できるように、爆煙に色が着いていたんです。当然、この色は戦艦ごとに違って、戦艦『長門』はピンク、『大和』は白だったんですよ」

深井氏が続ける。「『ガンビア・ベイ』の艦尾に主砲弾が命中すると、船首がバーッと浮き上がったんです。それでもまだ、なんとか持ちこたえてすぐには沈みませんでしたが、この艦はもう、これでよかろうということで、次の目標に射撃を始めました」とろが、スコールが襲ってきて、敵艦の姿が見えなくなったという。「それで、レーダー射撃したんですが、当時のレーダ―は精度が悪いから、どうなったかはわかりません」


写真(上左):1944年10月25日、栗田艦隊に砲撃されたカサブランカ級護衛空母「ガンビア・ベイ」 (USS Gambier Bay, CVE-73)レイテ沖海戦の1944年10月25日朝、トーマス・スプレイグ(Thomas L. Sprague)少将(Rear Admiral )率いる「タフィ3」 "Taffy 3"に所属するカサブランカ級護衛空母ガンビア・ベイ(USS Gambier Bay:CVE-73) は、サマール島沖で栗田艦隊の砲撃で沈没。Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944: USS GAMBIER BAY (CVE-73) bracketed by Japanese shells while making smoke, during the battle off Samar, 25 October 1944. After these near misses USS GAMBIER BAY (CVE-73) appeared to slow down and fall behind the rest of her task group. Photographed from USS KALANIN BAY (CVE-68) by Phi Willard Nieth. Copyright Owner: National Archives. Original Creator: Photograph by Phi Willard Nieth. Original Date: Sat, Oct 28, 1944 アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:80-G-288149 引用。
写真(上右)1944年10月25日、栗田艦隊に砲撃されたアメリカ護衛空母「ガンビア・ベイ」 (USS Gambier Bay, CVE-73)[あるいは護衛空母セント・ロー]と煙幕を張る2隻の駆逐艦;カサブランカ級護衛空母「ガンビア・ベイ」 は満載排水量:10,400 トン、全長 156m、全幅 33m、最高速度 19ノット、航続距離10,240マイル/15ノット。 乗員860名。兵装 38口径5インチ砲1基、40ミリ二連装機関砲16基。艦載機28機。1944年10月25日、第77.4.3任務群所属のカサブランカ級護衛空母「ガンビア・ベイ」 は、サマール島沖にて戦艦・重巡を含む遥かに優勢な栗田健男中将率いる第一遊撃部隊(第二艦隊主力)に遭遇した。アメリカ護衛空母「ガンビア・ベイ」 (USS Gambier Bay, CVE-73)は、全速で撤退を開始し、トーマス・C・キンケイド中将隷下の第7艦隊に救援緊急電を発信した。煙幕は展開されていたが、日本海軍の戦艦あるいは重巡からの砲撃で撃沈された。Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: USS GAMBIER BAY (CVE-73) and two destroyer escorts making smoke at the start of the battle off Samar, 25 October 1944. Japanese ships are faintly visible on the horizon. Photographed from USS KALANIN BAY (CVE-68) by Phi Willard Nieth. Copyright Owner: National Archives. Original Creator: Photograph by Phi Willard Nieth. Original Date: Fri, Oct 27, 1944アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-288144 引用。


写真(右):1943年8月3日就役直後、サンフランシスコ湾のフレッチャー級駆逐艦「ホーエル」;起工 1942年6月4日、進水 1942年12月19日、就役 1943年7月29日。基準排水量:2,050トン。全長 115m、全幅 12m。最高速度 35ノット、航続距離 6,500マイル/15ノット。 乗員280名。兵装 38口径5インチ砲5門、40ミリ機銃10門、20ミリ単装機銃7門、21インチ5連装魚雷発射管2基、爆雷軌条2軌、爆雷投射機6基。1944年10月25日、栗田艦隊による砲撃でサマール島沖にて撃沈。当日、トーマス・スプレイグ(Thomas L. Sprague)少将(Rear Admiral )率いる「タフィ3」 "Taffy 3"に所属するアメリカ護送空母ガンビア・ベイ(USS Gambier Bay:CVE-73) は、艦載機によって栗田艦隊の巡洋艦他を激しく空襲した。アメリカ駆逐艦は、煙突から煙幕を展開し、日本軍の光学射撃照準を妨害しつつ、、護送空母群を守るために戦艦金剛、重巡洋艦羽黒に接近して砲撃を開始した。日本軍の36センチ砲、20センチ砲の射程に劣るアメリカ駆逐艦の5インチ(12.7センチ)砲では10マイル以内に接近しなければ効果はなかったが、レーダー照準のマーク37射撃指揮装置があった。そして、5マイルで重巡に21インチ魚雷5本を発射し命中魚雷を得たとされる。日本海軍巡洋艦から数十発の命中弾を受けたホーエルは、機関が停止、艦長レオン・キンツバーガー中佐は退艦を命じた。沈没後、救助された乗員は、艦長以下89名で、253名は戦死・行方不明である。キンツバーガー艦長はホーエルでの勇敢な戦闘を讃えられ、海軍十字章を授与された。 USS Hoel (DD-533): Off San Francisco, California, 3 August 1943. Photograph from the Bureau of Ships Collection in the U.S. National Archives. アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:19-N-49318 引用。

写真(右):1944年8月7日、フレッチャー級駆逐艦「ホーエル」;起工 1942年6月4日、進水 1942年12月19日、就役 1943年7月29日。基準排水量:2,050トン。全長 115m、全幅 12m。最高速度 35ノット、航続距離 6,500マイル/15ノット。 乗員280名。兵装 38口径5インチ砲5門、40ミリ機銃10門、20ミリ単装機銃7門、21インチ5連装魚雷発射管2基、爆雷軌条2軌、爆雷投射機6基。レイテ沖海戦の半年前、1944年4月、入港時に撮影。1944年10月25日、サマール島沖で栗田健男中将の第一遊撃部隊(第二艦隊主力)に遭遇したフレッチャー級駆逐艦「ホーエル」(USS Hoel :DD-533)は、トーマス・スプレイグ(Thomas L. Sprague)少将(Rear Admiral )隷下「タフィ3」 "Taffy 3"所属のアメリカ護衛空母「ガンビア・ベイ」( USS Gambier Bay:CVE-73) を守るために、煙突から煙幕を展開し、日本軍の光学射撃照準を妨害しつつ、戦艦、巡洋艦を主力とする栗田艦隊を攻撃した。USS Hoel(DD-533) : Underway in San Francisco Bay, California, 7 August 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:80-G-65436 引用。


写真(上左):1944年11月25日、サンディエゴ基地のカサブランカ級護衛空母「カリニン・ベイ」USS Kalinin Bay (CVE-68) :起工 1943年4月26日、進水 1943年10月15日、就役 1943年11月27日。基準排水量:7,800 トン。全長 156 m、全幅 33m。最高速度 19ノット、航続距離 10,240マイル/15ノット。 乗員280名。兵装 38口径5インチ砲1基、40ミリ機関砲16基。艦載機28機。レイテ沖海戦の1944年10月25日朝、トーマス・スプレイグ(Thomas L. Sprague)少将(Rear Admiral )隷下「タフィ3」 "Taffy 3"に所属するカサブランカ級護衛空母「カリニン・ベイ」(USS Kalinin Bay, CVE-68)は、栗田健男中将が率いる第一遊撃部隊(第二艦隊主力)にに遭遇、巡洋艦の砲撃を受けたが、艦載機を発進させて栗田艦隊を空襲させた。攻撃後は、空母ではなくレイテ島タクロバン基地に帰還することになった。スコールによる天候悪化、駆逐艦の張った煙幕、そしてなにより護衛していたアメリカ駆逐艦による果敢な反撃によって、日本艦隊は「カリニン・ベイ」(USS Kalinin Bay, CVE-68)に接近砲撃できなかった。カサブランカ級護衛空母「カリニン・ベイ」(USS Kalinin Bay, CVE-68)は、戦艦金剛の14インチ砲あるいは戦艦長門の16インチ砲も命中した可能性があるが、重巡の8インチ(20.3センチ)砲弾が有効弾となったようだ。しかし「カリニン・ベイ」(USS Kalinin Bay, CVE-68)は唯一の5インチ砲で日本艦隊に砲撃を実施し、撃沈されることなく生き残った。Title: USS Kalinin Bay(CVE-68)arriving at San Diego, California on 25 November 1944 for repair of damages received in the Battle off Samar a month earlier. Photographed by Naval Air Station San Diego personnel. The ship is painted in Camouflage Measure 33, Design 10A. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. Catalog #: NH 106571 アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:19-N-49316引用。写真(上右)1944年1月17日、護衛空母「ファンショウ・ベイ」USS Fanshaw Bay (CVE-70);飛行甲板上に、アメリカ陸軍航空隊のA-20ハボック攻撃機, P-38ライトニング戦闘機、P-47サンダーボルト戦闘機を載せて運送中。 護衛空母「ファンショウ・ベイUSS Fanshaw Bay起工 1943年5月18日、進水 1943年11月1日、就役 1943年12月9日。基準排水量:7,800 トン。全長 156m、全幅 33m。最高速度 19ノット、航続距離10,240マイル/15ノット。 乗員860名。航続距離 6,500マイル/15ノット。 乗員230名。兵装 38口径5インチ砲1基、40ミリ機関砲16基。艦載機28機。1944年10月25日、、第77.4.3任務群所属の護衛空母「ファンショウ・ベイUSS Fanshaw Bay(CVE-70)は、サマール島沖にて栗田中将率いる第二艦隊主力に遭遇、ただちに全速で撤退。トーマス・C・キンケイド中将隷下の第7艦隊に救援要請を緊急発信。煙幕を展開し退避したが、日本海軍の重巡からの砲撃で20センチ砲弾4発が命中。タフィ3の護衛空母「カリニン・ベイ 」(USS Kalinin Bay:CVE-68)、「ホワイト・プレインズ」 (USS White Plains: CVE-71) も損傷を受けた。護衛空母「ガンビア・ベイ」 (USS Gambier Bay, CVE-73) は戦艦と重巡洋艦の砲撃で撃沈されたが、護衛空母「ファンショウ・ベイUSS Fanshaw Bay(CVE-70)は、アメリカ駆逐艦と艦載機の働きで損傷するにとどまった。Title: Photo # USS Fanshaw Bay (CVE-70) Transporting aircraft on 17 January 1944. Among the planes parked on her flight deck are U.S. Army A-20, P-38 and P-47 types. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: NH 106573引用。

写真(右):1944年、フレッチャー級駆逐艦「ジョンストン」;起工 1942年5月6日、進水 1943年3月25日、就役 1943年10月27日。基準排水量:2,050トン。全長 115m、全幅 12m。最高速度 35ノット、航続距離 6,500マイル/15ノット。 乗員327名。兵装 38口径5インチ砲5門、40ミリ機銃10門、20ミリ単装機銃7門、21インチ5連装魚雷発射管2基、爆雷軌条2軌、爆雷投射機6基。1944年10月25日朝、トーマス・スプレイグ(Thomas L. Sprague)少将(Rear Admiral )隷下「タフィ3」 "Taffy 3"所属の艦隊型駆逐艦「ジョンストン」(USS Jhonston:DD-557)は、護送空母群を守るために、煙突から煙幕を展開、日本軍の光学射撃照準を妨害しつつ、戦艦、巡洋艦を主力とする栗田艦隊に突撃、攻撃した。しかし、栗田健男中将が率いる第一遊撃部隊(第二艦隊主力)には戦艦、巡洋艦があり、フレッチャー級駆逐艦ジョンストン」は、当初F20分以上、砲撃できなかった。なぜなら5インチ(12.7センチ)砲の射程距離外の遠方に日本艦艇があったためである。勇敢に戦艦、巡洋艦を含む日本艦隊に接近した駆逐艦「ジョンストン」は、最も近くにあった重巡「熊野」を目標に砲撃を開始、魚雷発射までの5分間に200発以上を発射した。艦長ジャック・ベデル(Jack K. Bechdel)中佐は、21インチ魚雷10本を発射、煙幕を張って回頭した。煙幕から出たとき、重巡「熊野」は損傷しており、これは魚雷命中によると推測された。此の時、駆逐艦「ジョンストン」は14 インチ (36センチ)砲弾3発を戦艦金剛から受けており、その他6インチ (15センチ) 砲弾3発を軽巡矢作か戦艦大和から受けていた。撃沈された「ジョンストン」の乗員327名のうち、141名のみが救助された。186名が沈没で死亡、50名が日本軍の攻撃で殺されたという。脱出した45名も負傷し死亡。USS JOHNSTON (DD-557) : Port side view of ship underway, in 1944. Photograph retouched by censor. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 52319引用。

写真(右):1943年8月7日、サンフランシスコ湾のバトラー級護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」;起工: 1943年12月6日、進水: 1944年1月20日、就役: 1944年4月28日。基準排水量:1,745トン。全長 93m、全幅 11m。最高速度 24ノット、航続距離6,000 マイル/12ノット。 乗員230名。航続距離 6,500マイル/15ノット。 乗員230名。兵装 38口径5インチ砲2門、40ミリ機銃2門、20ミリ単装機銃10門、21インチ3連装魚雷発射管1基、爆雷軌条2軌、ヘッジホッグ投射機1基。1944年10月25日の朝、「サミュエル・B・ロバーツ」Samuel B. Roberts (DE-413)は77.4.3任務部隊を護衛中に、サマール島沖で、サンベルナルジノ海峡を通過した、栗田健男中将が率いる戦艦「大和」を含む第一遊撃部隊(第二艦隊主力)と遭遇した。艦長ロバート・コーぺランド(Robert W. Copeland,)少佐は、護衛空母「ガンビア・ベイ」他を隠すために煙幕を張りつつ、5インチ砲の射程内に接近しようと、重巡「鳥海」めがけて突進し、21インチ Mark 15魚雷3本を発射した。「サミュエル・B・ロバーツ」は多数の20センチ砲を浴びてたが、戦艦金剛の36センチ砲弾が機関室に命中した。艦長コープランド少佐は退艦を命令したが、接近してきた軽巡洋艦「矢矧」、駆逐隊「雪風」他は執拗に砲撃し撃沈した。Samuel B. Roberts (DE-413) : Photographed from USS Walter C. Wann (DE-412) in October 1944, a week or two before she was lost in the Battle off Samar on 25 October 1944. Courtesy of the USS Samuel B. Roberts Survivors Association, 1986. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. アメリカ海軍歴史遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #:NH 96011引用。

写真(右):1944年10月26日、サマール島沖海戦で救助されるアメリカ軍艦艇乗員;サマール海で撃沈された護衛空母「ガンビア・ベイ」、フレッチャー級駆逐艦「ホーエル」「ジョンストン」、バトラー級護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」の乗員は、海戦翌日以降に救助された。Title: Battle off Samar: 25 October 1944 American survivors of the battle are rescued by a U.S. Navy ship on 26 October 1944. Some 1200 survivors of USS Gambier Bay (CVE-73), USS Hoel (DD-533), USS Johnston (DD-557) and USS Samuel B. Roberts (DE-413) were rescued during the days following the action. Photographed by U.S. Army Private William Roof. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)SC 278010 引用。

深井氏の脳裏には、当時の光景が克明に蘇っているのだろう。凛とした表情で、目を輝かせて言う。「敵駆逐艦の2隻は、私が指揮する『大和』の副砲で沈めたんです。あの時、私は“左砲戦、左四十度、駆逐艦!”と発して、射撃に要するデータが揃ったところで“撃ち方始め!”と命令しました。一斉射目(初弾の射撃)は遠く外れましたが、“下げ6!”と指示して、600メートル手前に砲弾が落ちるよう修正して撃ったら、それが見事に命中したんですよ」

「最初に狙った艦は、副砲弾が命中し、燃え出したので、“撃ち方待て!”と言って、“目標を右に変え!”と命じました。別の艦に射撃を始めたら、同じ敵艦に向けて戦艦『長門』が、主砲を撃ってきたんです。これでは、ひとたまりもありませんよ。敵艦は両艦の命中弾を浴びて、まさしく轟沈されました。」
2隻目の敵駆逐艦「大和」の副砲の餌食となった。…

このサマール島沖海戦の戦果は、アメリカ海軍の護衛空母「ガンビア・ベイ」の撃沈だけではなかった。日本(栗田)艦隊は、フレッチャー級駆逐艦「ホエール(ホーエル)」「ジョンストン」、バトラー級護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」を撃沈し、米護衛空母「カリニン・ベイ」「ファッション・ベイ(ファンショウ・ベイ)」他、駆逐艦2隻を撃破した。


写真(上):戦艦「武蔵」の60口径三年式15.5センチ三連装副砲塔
;1930年ロンドン海軍軍縮条約撤廃により余剰保管されていた軽巡洋艦「最上」型の15.5センチ三連砲塔を副砲として装備した。2015年3月3日 - 米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして氏は、SNS"www.paulallen.com”に武蔵発見(Exploration :Finding the Musashi)の海中撮影動画を公開した。当研究室はExploration :Finding the Musashiの動画の静止画像を引用。



写真(上):戦艦「武蔵」の60口径三年式15.5センチ三連装副砲塔
;1930年のロンドン海軍軍縮条約により、補助艦(巡洋艦)の保有制限がなされ、重巡洋艦の口径は8インチ(20.3センチ)以下、軽巡洋艦の主砲は口径6.1インチ(15.5センチ)以下に制限された。そこで、日本海軍は60口径三年式15.5cm3連装砲を5基装備する大型の軽巡洋艦「最上」型を建造した。しかし、ロンドン条約撤廃後、最上型軽巡は20.3センチ二連装砲塔に変換され、15.5センチ三連装砲塔は余剰となった。そこで大和級戦艦に駆逐艦撃退用の速射可能な60口径三年式15.5cm3連装砲を4基装備することになった。のちに対空兵装を充実するために、左右舷側に配備された15.5センチ三連装砲塔2基は撤去され、高角砲あるいは機銃が増備された。2015年3月3日 - 米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNSに動画が公開された。当研究室は、Exploration :Finding the Musashiの動画の静止画像を引用。


8.栗田健男中将は、第一遊撃部隊一二三六電で、「1YBハレイテ泊地突入ヲ止メサマール東岸ヲ北上シ敵機動部隊ヲ求メ決戦 爾後サンベルナルヂノ水道ヲ突破セントス」 と発信、レイテ湾突入中止、反転・北上を開始した。結局、連合艦隊司令長官豊田副武大将のレイテ突入命令に従わずに、急遽、反転したことで、戦艦「武蔵」が被害担当艦となり、アメリカ軍機の攻撃を引き付け、北方の小沢治三郎中将の機動部隊が囮となり、ハルゼー艦隊を誘致したものの、それを活かすことができず、日本艦隊は大損害を被っただけで、アメリカ輸送船団の撃滅という作戦目的は全く叶わなかった。

2013年8月16日『週刊大衆』双葉社8月19・26日合併号には以下のような戦艦「大和」副砲長・深井俊之助元海軍少佐の証言がある。

「私が乗っていた戦艦「大和」が、当初の計画だったレイテ湾に向かわず、北へ進路を取ったので、私は指揮所から艦橋に行って、“どうして北へ行くんだ?”と聞いたんです。すると航海士は“わかりません!”と言うんです。ふと見ると、艦橋の後ろのほうに参謀が三人ほど集まっていて何やら話していたので、そのうちの作戦参謀に“レイテ湾は南じゃないんですか?どうして北へ行くんですか!”と言ったら、その参謀がえらい剣幕で怒り出しましてね。手元の電報を見ながら“この電報にある敵を攻撃しに行くんだ!”と。けれど、その電報には発信者がいなかったんですよ……」

今年99歳を迎えた戦艦「大和」の副砲長・深井俊之助元海軍少佐は、栗田艦隊の旗艦「大和」の艦橋内部の様子をこう語る。

栗田艦隊が“決戦場”レイテ湾へは向かわず、突如、進路を北へ向けて転進し、戦場を離脱したのは、大東亜戦争最大のミステリーとされている。いわゆる“謎の反転”である−−。

昭和19年10月17日、ウォルター・クルーガーWalter Krueger)中将率いる数十万の米上陸部隊を乗せた400隻の輸送船と、戦闘艦艇、補助艦艇合わせて300隻余を誇るトーマス・カッシン・キンケイドThomas Cassin Kinkaid)中将の77機動部隊が、暴風雨吹き荒れるフィリピンのレイテ湾に姿を現した。もはや一歩も譲れない日本軍と、フィリピンを奪還して対日戦に王手をかけたい米軍の間で、いままさに壮絶な戦いの火蓋が切られようとしていた。

当時の日本にとって、フィリピンは南方の資源供給地との中間に位置する要衝であった。フィリピンがアメリカの手に陥ちれば、日本の継戦能力は潰えてしまう。したがって、日本軍はどんなことがあってもフィリピンを守らねばならなかった。フィリピンを巡る戦いは、まさしく大東亜戦争の天王山だったのだ。

写真(右):レイテ沖海戦時の連合艦隊司令長官豊田副武(そえむ)大将;パラオ諸島からフィリピンのミンダナオ島ダバオへ移動中に飛行艇が墜落して殉職した古賀峰一長官の後をついで,連合艦隊司令長官に就任した。1944年6月19日,20日のマリアナ沖海戦(あ号作戦)、10月25,26日のレイテ沖海戦(捷1号作戦)、1945年4月の戦艦「大和」沖縄海上特攻(天号作戦)を命令したが,いずれも惨敗した。豊田副武(そえむ)は,1885年(明治18)5月22日大分生まれ - 1957年9月22日没。1944年(昭和19年)5月3日 - 1945年5月29日の期間,連合艦隊司令長官を務め,沖縄戦で天一号海上特攻作戦も発令した。重光葵・元外務大臣と同じく,県立杵築中(現・杵築高校)の出身。豊田副武(そえむ)長官は,母校に日の丸を贈り,在校生たちは、毎日、同級生の吹くラッパの音とともに国旗を掲揚していた。及川古志郎は,1940年9月5日から海軍大臣を1941年10月18日まで務め,1944年8月2日から軍令部総長。盛岡中学校の出身で,後輩には板垣征四郎陸軍大臣,石川啄木,同窓には金田一京助,先輩には米内光政海軍大臣がいる。幼年学校出身ではなくとも,軍の最高司令官になった人物はたくさんいる。

 連合艦隊司令長官だった豊田副武大将の承認のもとに、“神風特別攻撃隊”がフィリピン決戦におい編成された。「将兵はここに死傷逸せざるの覚悟を新たにし、獅子奮戦、もって驕敵(きょうてき)を殲滅(せんめつ)して皇恩に応ずべし」連合艦隊司令長官豊田副武(そえむ)大将は、レイテ湾に向けて驀進する艦隊の壮途をこう激励した。

1944年10月20日、「レイテ島に米軍上陸」の報を受け、大本営は「捷(しょう)一号作戦」を発令。陸軍のレイテ島への戦力集中に呼応して、海軍も敵上陸部隊を撃滅せんと、レイテ湾に急行したのである。

 連合艦隊司令長官豊田副武大将は,フィリピン戦での捷1号作戦では,水上部隊によるレイテ湾突入を計画したが,現地指揮官栗田健男中将は「全軍突撃せよ」との上官豊田大将の命令を無視したかのように,反転,撤退してしまう。第一航空艦隊は,特攻作戦を採用し,第一遊撃部隊のレイテ湾突入を援護したつもりでいたが,水上部隊の指揮官は,敵艦隊,敵輸送船に対する突撃,砲撃を決断できなかった。

◆レイテ湾突入直前の栗田艦隊の「なぞの反転」には諸説がある。
1)近くにいる米任務部隊の航空母艦を攻撃するために反転したとの説(栗田長官の言):既に敵空母部隊に遭遇、砲撃し引き揚げている以上,再び空母部隊を発見し攻撃できるとの言動には信憑性がないか、混乱・矛盾している。
2)レイテ湾に突入しても空の輸送船しかなかったとの説(戦史家伊藤正徳):アメリカ軍の輸送船団攻撃の命令を無視する理由にはならない。出撃した時点で、日本艦隊の接近を米軍が察知し、対処するのは分かりきっていた。また、アメリカ軍が輸送船に水上艦艇の護衛をつけずに放置するはずはなく、「からの輸送船」のみを指摘するのは誤りであり、これも信憑性がない。
3)米軍の水上艦隊・航空機の同時攻撃によって全滅してしまう悲劇を回避するために,レイテ湾に突入しなかったという説。(『レイテ戦記』著者の大岡昇平の説):合理的である。死ぬこと、特に戦局に寄与できない犬死は、兵士であってもしたくはない。今後、機械はいくらでもあるのだから、死に急ぐことはない、と考える生きる本能・欲が出ても、人間としてはやむを得ない。

栗田中将が臆病者であるとは思わないが,日本海軍上層部や作戦に参加しなかった高級将校は,命を惜しんだと判断した。下級士官や下士官・兵からなる特攻隊員が命を捧げるのを潔いとして大宣伝していた海軍にあって,将官クラスが無事撤退した。日本軍では,将兵の命は軽んじられ,軍艦。航空機を破壊すれば,元は取れるという物質主義的計算をしていた。兵士よりも,資金,兵器を貴重なものであるとする貧しい国の発想だった。

昭和19年10月20日、「レイテ島に米軍上陸」の報を受け、大本営は「捷(しょう)一号作戦」を発令。陸軍のレイテ島への戦力集中に呼応して、海軍も敵上陸部隊を撃滅せんと、レイテ湾に急行したのである。

 同じ10月17日,米軍はフィリピンのレイテ島・サマール島の海峡に浮かぶ小島のスルアン島に上陸した。これは,フィリピン侵攻の足がかり、機雷掃海のためである。第一航空艦隊には,40機程度の航空機兵力しかないまま,10月18日に「捷(しょう)一号作戦」が発動された。

写真(左):マリアナ沖海戦,レイテ沖海戦で日本空母機動部隊を率いた小沢治三郎提督;1944年6月19日,マリアナ沖海戦で「アウトレンジ」戦法を採り先制攻撃に成功したが,惨敗した。しかし,これに懲りず,レイテ沖海戦でも,囮として日本海軍空母部隊を率いて,ハルゼー提督の米海軍任務部隊を北方にひきつける役を果たした。1944年6月にマリアナ諸島東方海上において米軍任務部隊を迎撃する「あ」号作戦は,日本海軍が乾坤一擲の空母機動部隊,基地航空隊を準備した大作戦であったが,日本海軍は,大型正規空母撃沈2隻(「大鳳」「翔鶴」),中型改装空母撃沈1隻(「飛鷹」),艦載機の損失400機など,大敗北に終わってしまう。この史上最大の空母同士の対決は,日本ではマリアナ沖海戦というが,米国ではマリアナ諸島攻略作戦Campaign In the Marianasの最中に起こったこの海戦を,Battle of the Philippine Sea(フィリピン海戦)という。

捷(しょう)一号作戦」−−。17年6月のミッドウェーでの惨敗を機に、空母や航空機の大半を失った日本海軍が、残存する空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千代田」「千歳」を中心とする最後の空母機動部隊(第一機動部隊=第三艦隊司令長官・小沢治三郎(じさぶろう)中将)17隻で“おとり艦隊”を結成。…

これをルソン島北方海域に進出させ、ハルゼー提督の米第3艦隊を吊り上げている隙に、主力艦隊(第二艦隊=第一遊撃部隊)がレイテ湾に突入し、敵輸送船団を殲滅するという一大作戦である。主力艦隊(第二艦隊=第一遊撃部隊)の指揮を執ったのは第二艦隊司令長官・栗田健男(たけお)中将であり、栗田司令長官直率の第二艦隊所属の第一部隊(第一戦隊の戦艦「大和」「武蔵」「長門」・第四戦隊・第五戦隊の重巡6隻他)と第二部隊(第三戦隊司令官・鈴木義尾中将の戦艦「金剛」「榛名」・重巡4隻他)が「栗田艦隊」と呼ばれた。

10月22日、栗田中将直率の第一戦隊の戦艦「大和」「武蔵」「長門」、第四戦隊の重巡「愛宕」「高雄」鳥海「摩耶」、第五戦隊の重巡「妙高」「羽黒」、第二水雷戦隊の軽巡「能代」、駆逐艦6隻の第一遊撃部隊第一部隊、第三戦隊(司令官鈴木義尾中将)の戦艦「金剛」「榛名」、第七戦隊の重巡「熊野」「鈴谷」「利根」「筑摩」、第十水雷戦隊の軽巡「矢矧」、駆逐艦6隻の「栗田艦隊」合計32隻がレイテ湾を目指して、ブルネイ泊地を出港した。栗田艦隊は、シブヤン海からサンベルナルジノ海峡を抜けてサマール島東岸沿いに一路、レイテ湾へ向かう。

さらに、戦艦「山城」「扶桑」以下、7隻の第二艦隊[一遊撃部隊]第三部隊=第二戦隊は「西村艦隊」と呼ばれ、第二戦隊司令官・西村祥治(しょうじ)中将に率いされて、ミンダナオ島北方のスリガオ海峡を抜けてレイテ湾を目指した。
第二艦隊第一遊撃部隊の第三部隊[第二戦隊]は「西村艦隊」として、旧式戦艦「山城」「扶桑」、航空巡洋艦「最上」、第四駆逐隊の駆逐艦4隻の合計7隻からなっていた。西村艦隊(第二戦隊)は、旧式戦艦が低速のために、栗田艦隊とは別行動とし、短距離でスリガオ海峡を突破し、最短距離でレイテ湾突入を目指す。

スール海から第二十一戦隊の重巡「那智」「足柄」、第一水雷戦隊の軽巡「阿武隈」、駆逐艦7隻の合計10隻からなる志摩艦隊(第五艦隊司令長官・志摩清英中将)は第二遊撃部隊となり、第一遊撃部隊第三部隊[第二戦隊]西村祥治(しょうじ)中将の艦隊に合流して、レイテ湾に突入する計画だった。また、第六艦隊は日本海軍の潜水艦部隊のことであるが、司令長官・三輪茂義中将に率いられた潜水艦50隻があり、先遣部隊として、捷一号作戦に参加することになっていた。航空部隊としては、フィリピン方面に第一航空艦隊(司令長官・大西瀧治郎中将)の150機、第二航空艦隊(司令長官・福留繁中将)の450機が動員される計画だった。

こうして、日本海軍は、水上艦艇を総勢66隻を捷号作戦に動員し、航空作戦も並行して、レイテ決戦に連合艦隊の総兵力を投入して、勝機をつかもうと計画していたのである。

最後の日米艦隊決戦ともいえる比島沖海戦は、ブルネイ泊地を出撃してしばらくして、1944年10月23日、重巡「愛宕」「摩耶」「高雄」がアメリカ潜水艦による雷撃を受けて撃沈されことを皮切りに、10月26日まで続いた。

10月24日、「大和」と同級の超ド級戦艦「武蔵」がウィリアム・ハルゼーWilliam Frederick Halsey)大将隷下のアメリカ任務部隊の空母艦載機の雷爆撃により沈没した。 「大和」副砲長深井俊之助元海軍少佐は、こう述懐する。
「あのとき、雲霞(うんか)のごとく押し寄せてきた敵機は、『大和』と『武蔵』を狙ってきました。しかし『大和』の艦長・森下信衛(のぶえ)大佐は、水雷戦隊出身で、現場主義の艦長でしたから操艦がたいへん上手かった。それに『大和』は、これまでずっと訓練してきましたからね。ところが『武蔵』は、新しい艦だったため練度が大和より劣っていたうえに、猪口敏平艦長が砲術畑の人でした。そんなところにも、違いがあったと思います」

2013年8月16日『週刊大衆』双葉社8月19・26日合併号(追記修正)引用終わり

レイテ島に上陸したアメリカ軍を迎撃する役割は、日本海軍の連合艦隊にも与えられた。捷一号作戦では、フィリピンに来寇したアメリカ軍を海軍の航空兵力、連合艦隊の水上兵力のほぼ全力を投入して迎え撃つことになった。連合艦隊は、小沢中将率いる機動部隊を米ハルゼー任務部隊を北方につり上げる“囮(おとり)艦隊”として、その隙に、栗田中将率いる戦艦・巡洋艦部隊をレイテ湾に突入させ、アメリカの輸送船を壊滅しようとした。

写真(右):レイテ沖海戦の時の第二艦隊司令長官栗田健男中将(1889年4月28日、水戸生まれ- 1977年12月19日没):1910年7月18日 海軍兵学校38期卒業。1916年水雷学校普通科・砲術学校普通科を経て12月より海軍大学校乙種学生。1917年12月水雷学校高等科卒。1934年11月15日、軽巡「阿武隈」艦長。1937年12月1日、戦艦「金剛」艦長。1941年12月、南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)の下でマレー攻略作戦に参加。1942年10月、ガダルカナル島米軍ヘンダーソン基地の艦砲射撃、南太平洋海戦に参加。1943年8月、第二艦隊司令長官に就任。1944年6月、マリアナ沖海戦に参加。1944年10月に戦艦「大和」「武蔵」を率いて,米軍艦船の攻撃のためにレイテ湾突入を図った。しかし,途中で反転して引き返してしまう。1945年1月10日参内、大元帥昭和天皇より御言葉下賜後、海海軍兵学校校長に就任。

小沢艦隊は、見事に囮作成を成功させ、アメリカの空母を中核とする任務部隊を引きつけており、栗田健男中将率いる第二艦隊はアメリカ軍の輸送船団が集結しているレイテ湾に突入する準備が整ってた。ところが第二艦隊を率いる栗田健男中将はレイテ湾への突入を中止した。栗田健男中将は、レイテ湾入り口で突如、艦隊を反転させ、来た航路を戻るかのように北上を端また。これは、近くにいるアメリカ任務部隊を攻撃するためとも言われたが、結局、栗田艦隊は、出撃点であるボルネオ島ブルネイへ引き返してしまった。これは大東亜戦争の謎とされたが、戦後、“謎の反転”を命じた栗田中将は、アメリカ戦略爆撃調査団のインタビューに応え、その理由を次のように釈明した。

「艦隊はレイテ湾に向針していたが、その日の攻撃状況、われわれの対空砲火がその航空攻撃を撃退できない点から見て、もしこのままレイテ湾に突入しても、いっそう激しい航空攻撃を受けて、大」損害を受ける。せっかくレイテに突入しても、その甲斐が全くないと考えた。それななむしろ、北上して米任務部隊に対して、小沢部隊と共同で攻撃してやろうと思った(『丸エキストラ:戦史と旅4−レイテ湾突入ならず』潮書房)。

この栗田健男中将の回顧には疑問が残る。囮艦隊となって米軍の攻撃を引き付けて満身創痍となった小沢艦隊が連絡も取れず、事前に打ち合わせたこともないのに、遠く離れた栗田艦隊と共同作戦をとれるはずがない。

「大和」副砲長深井俊之助元海軍少佐が秘蔵している短刀が、謎の反転の“答え”だった。その短刀には、鞘の部分に墨文字で、「義烈小沢冶三郎」と小沢中将の揮毫(きごう)がある。

「実は、栗田長官にはいわば“前科”があったんです。それはミッドウェー海戦の時のことです。空母4隻を沈められて引き揚げる際、当時、第七戦隊司令官だった栗田長官は、ミッドウェー島に上陸する予定だった陸軍の兵士を満載した2隻の輸送船を護衛する予定だったんです。

ところが栗田長官は、護衛すべき輸送船をほっぽらかして、さっさと日本へ逃げ帰ったんですよ。このことが、海軍内で大きな問題となったんです」(「大和」副砲長深井俊之助元海軍少佐の証言)

この前科から小沢冶三郎中将は、国運を賭けた乾坤一擲のレイテ湾突入作戦の前、戦艦「大和」の一部の士官に短刀を手渡していたというのだ。「大和」副砲長深井俊之助元海軍少佐は言う。
「小沢長官から、“栗田がもし途中でレイテ突入を止めるようなことがあったら、この作戦はダメになるから、『大和』の士官で司令部を守って、必ずレイテ湾に突っ込め。決死の覚悟だ!”と訓示され、この短刀をいただいたんです」

栗田艦隊が突入を断念した後も、洋上の死闘は続いた。翌日の10月26日、米艦載機の攻撃を受けて、軽巡洋艦「能代」「阿武隈」が沈没。4日間にわたるこの比島沖海戦の結果、日本艦隊は、戦艦3隻、空母4隻、重巡6隻、軽巡3隻、駆逐艦9隻を失い、その他多数の艦を大・中破された。無傷で帰還できたのは、わずかに戦艦「日向」と駆逐艦9隻を数えるだけであった。

レイテ湾突入ならず! 栄光の連合艦隊は、この比島沖海戦で事実上壊滅したのである。

「戦艦「大和」最後の生き残り士官が激白!レイテ沖海戦「謎の反転」70年目の真相 」
2013-8-17『週刊大衆』8月19・26日合併号(追加修正)引用。

写真(右):戦艦「武蔵」第一艦橋と46センチ三連装第二砲塔・15.5センチ三連装第一副砲塔;1942年8月ごろ、日本近海で公試最中に撮影されたものと思われる。新造時なので、測距儀には二一号レーダーは取付けられてはいない。艦橋周囲のホチキス社(Hotchkiss)パテント九六式25ミリ三連装機銃は、爆風・ブラスト(閃光)よけの防楯カバーで覆われている。

2015年4月17日(金) 「元乗組員が語る 戦艦武蔵の最期 」NHK には次のようにある。

「武蔵」の元乗組員、大塚健次さん
70年あまりたって武蔵の姿を再び目にし、仲間の悲惨な死が頭をよぎりました。

武蔵 元乗組員 大塚健次さん
「見つかってよかったという気持ちもいっぱい。 でも中に入っている、多くの人が。」

「武蔵」建造に関わった 田中?幸さん
「特異な船だった。 板の厚みから違う。先輩が自信を持って言った、『この船は魚雷で沈まないぞ』と。」

昭和19年10月24日。 大和と共にレイテにむかう武蔵。 午前10時頃、アメリカ軍の航空機部隊が襲いかかってきました。

空からの攻撃を警戒する防空指揮所。そこで任務にあたっていた大塚さんは、容赦ない攻撃を目の当たりにしました。

武蔵 元乗組員 大塚健次さん
「次から次へと魚雷、爆弾、魚雷、爆弾、また魚雷と攻撃されると、もうよけきれないというような状態。」

レイテ沖の海戦に先立って、武蔵の甲板には敵の航空機を迎撃する機銃が増設されていました。 急きょ設置したため、中には土のうで囲っただけの機銃もありました。

「武蔵」元機銃員 千木良礼一さん
「対空機銃でやる時は『食うか食われるか』だった。 一騎打ちというか、ずっと本当に自分で向かってくる。 爆弾を落とすだけじゃなく機銃を撃ちながら来る。」

今回の取材で、20年前に録音された元乗組員たちの証言を入手しました。 当時の生々しい戦闘の様子が克明に語られています。

「武蔵」元乗組員 小高則律さん
「敵の飛行機も、ものすごい勢いで機銃に突っ込んできて、爆弾の落ちた周囲の機銃員は銃座ごと飛ばされたり、機銃員はもうほとんど全滅に近い状態になってしまって、手足ばらばら、ものすごい惨状を呈している。」

「武蔵」元乗組員 遠藤義正さん
「(機銃員の)連中がばたばた倒れていく。 血しぶきが私の窓ガラスにばっと飛んでくる。それが赤くない、真っ黒になる、焼けてしまって。そうすると生きている連中が、死んだやつを露天甲板に投げ下ろす。 邪魔になるから。」

武蔵の機銃員が次々と命を落としていく一方、アメリカは脱出したパイロットを海上で救助する態勢を整えていました。

「武蔵」元乗組員 遠藤義正さん
「パラシュートで脱出するのもアメリカの潜水艦が外かくにいて待っている、救助するために。アメリカという国は兵隊を大事にする。」

戦闘開始から5時間余りたった午後3時。とどめをさす爆弾が、幹部が指揮を執る艦橋に落とされました。

武蔵 元乗組員 大塚健次さん
「落とした、爆弾投下って、信管が抜ける音がシャシャシャシャ、『投下!』と言ったときダーッときた。 4メートルくらい脇にいた少佐、その方は顔面にあたって首が落ちた。 本当に気の毒だ。その時は本当に『これが戦争か』と。」

魚雷と爆弾、20発以上を受け大きく傾いた船体。 午後4時頃、乗組員が甲板に集められました。 告げられたのは副長による、「武蔵を守れ」という命令でした。

「武蔵」元軍医 細野清士さん
「『本艦は長い年月とたくさんの費用をかけてつくった不沈艦である、絶対に沈まない』と。 『今、船が傾いているのでそのために重いものを全部右舷に運べ、本艦を見捨てるようなことをしてはいけない』という訓示だった。」

「武蔵」元乗組員 前多孝二さん
「ここ(甲板)の重量物はかなりのもの、兵隊を押しつぶして転がりだした。ごろごろびしゃびしゃ、もう地獄、阿鼻叫喚(あびきょうかん)。それを見て初めて副長が初めて『飛び込め、総員飛び込め』。」
午後7時35分。 武蔵は大爆発を起こし、1,000人の乗組員とともにフィリピンの海に沈んでいきました。 70年ぶりにその姿を現した戦艦「武蔵」。 際限なく命が奪われていった現実を、今に語りかけています。

写真(右)レイテ沖海戦で撃沈された戦艦「武蔵」の残骸分布図;2015年3月3日 - ビル・ゲイツとともに米マイクロソフト社を創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。

戦後70年 武蔵からのメッセージは

和久田 「戦後70年の今年、姿を見せた武蔵ですが、私たちにいったいどんなメッセージを発していると受け止めてらっしゃいますか?」

大和ミュージアム 館長 戸高一成さん
「私はこの70年という時間を考えたときに、太平洋戦争が本当に忘れられていく時間があるんですね。これが、忘れてはいけない、本当に改めて戦争を考えなければいけないというメッセージを、私たちに強く与えてくれたんだというふうに考えています。」

阿部
「そして証言を聞けるのは、この戦後70年、最後のチャンスと言ってもいいかもしれませんね。」

大和ミュージアム 館長 戸高 一成さん
「そうですね、ここで本当に私たちはもう1回、戦争でどんなことがあったのかというのをきちんと考え直さなければならないと考えています。」

2015年4月17日(金) NHK「元乗組員が語る 戦艦武蔵の最期 」引用終り。

<1944年10月のレイテ沖海戦における日本海軍艦艇の撃沈>

戦艦3隻: 武蔵・扶桑・山城
正規空母1隻: 瑞鶴 
補助空母3隻:瑞鳳・千歳・千代田
重巡洋艦6隻: 愛宕・摩耶・鳥海・筑摩・最上・鈴谷
軽巡洋艦3隻: 多摩・能代・阿武隈
駆逐艦9隻: 秋月・初月・朝雲・満潮・山雲・藤波・野分・若葉・不知火

9.米マイクロソフトMicrosoftのビル・ゲイツとの共同創業者にして資産家のポール・アレン氏は、2015年3月2日、SNSで1944年10月24日、フィリピン、レイテ沖でアメリカ海軍艦載機によって撃沈された戦艦「武蔵」の船体を発見した。そしてその時の動画を公開した。



写真(右):1944年10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」を捜索した「オクトパス」号;2015年3月3日 - 米マイクロソフト社の共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日に戦艦武蔵の残骸を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を使って撮影した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

 2015年3月2日、フィリピン、レイテ沖の水深約1000メートルの海底で、米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(Paul Gardner Allen, 1953年1月21日生)氏は、調査船「オクトパスOctopus」と搭載していた遠隔操作無人潜水艇によって、1944年10月、アメリカ軍空母艦載機による雷撃と爆撃によって沈没した戦艦「武蔵」を発見した。

写真(右):1944年10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」を捜索した「オクトパス」号;2015年3月3日 - ビル・ゲイツとともに米マイクロソフト社を創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日に戦艦武蔵の残骸を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を使って撮影した。そして、Musashi Live Media Alert - Paul Allenに動画が公開された。

 戦艦「武蔵」が見つかったのは、2015年2月からの探査期間の終盤3月1日で、ポール・アレン(Paul Gardner Allen, 1953年1月21日生)所有のヨット「オクトパスOctopus」号(全長126メートル)から、無人潜水探査機を発進させ、水深1000メートルの海底で武蔵を発見した。船首には「菊の紋章」と巨大な錨(いかり)が映し出され、バルブには「開」「主」など日本語が確認できた。3月4日には、その武蔵の船体の映像をポール・アレン氏のウェブサイトで公開した。

ポール・アレン(Paul Gardner Allen, 1953年1月21日生)氏は父がアメリカ陸軍に従軍し第ニ次世界大戦史や軍事に強い興味を抱いている。戦艦武蔵の建造に至った技術と努力に対し、一エンジニアとして深い敬意を捧げている

写真(右)レイテ沖で撃沈された戦艦「武蔵」を発見した海底探査潜水艇( AUV)「M/Yオクトパス」;レイテ沖海戦当時、戦艦武蔵は対空機銃として25ミリ機銃、13.2ミリ機銃を装備していた。2015年3月3日 - 米マイクロソフト社をビル・ゲイツとともに創業したポール・アレン(Paul Gardner Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日に戦艦武蔵の残骸を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を使って撮影した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

ポール・アレン(Paul Gardner Allen, 1953年1月21日生)氏は、8年間、調査チームを率いて武蔵の探索を行ってきたが、船体は「戦没者の慰霊の場として適切に扱われるべきである」と考え、発見した武蔵について、戦没者の墓所として慎重に敬意をもって扱うとした。その上で、ポール・アレン氏は、日本の伝統に従い敬意を持って対応すべく、日本政府に協力する意向を示している。これに対し、菅義偉 官房長官は2015年3月5日の記者会見で、政府として関知しないと素っ気ない対応をした。

「武蔵」関係者には引揚げを強く望む声もあれば、遺族には「武蔵」をそっとしておいてほしいとの希望もある。「武蔵」をどうするかは、フィリピン政府の意向も含め、日本政府がすぐに決められるものでないことはよくわかる。

しかし、日頃から興味も関心もないことを急に聞かされた政治家は、事前の模範答案を用意させることができず、返答に窮してしまった。国防軍を創設し国の誇りを取り戻すと意気込んでみせていた政治家たちは、戦争・戦死者・科学・仁義のかかわる問題に対して、「政府は武蔵には関知していない」といった貧弱な回答しか示さなかった。過去の歴史など、選挙の票にも、防衛産業の興隆にも、政治資金にも結び付かないと短絡的に考える無礼な態度に落胆させられた。


レイテ海戦70年で慰霊/海自艦隊、フィリピンに」2014/10/13
マニラ共同海上自衛隊練習艦隊(司令部・広島県呉市)が2014年10月13日、フィリピンの首都マニラに入港した。太平洋戦争で日本海軍の連合艦隊が壊滅したレイテ沖海戦から70年となるのを目前に控え、10月17日には戦場となった海域で洋上慰霊祭を行う。
 練習艦隊司令官の湯浅秀樹海将補は記者団に対し、この時期にフィリピンを訪れたのは意図的ではないとしながらも「(戦場海域を)航行して実習幹部に歴史を感じさせ、今後のことを考えさせる」と述べ歴史から学ぶことの意義を強調した。
1944年10月下旬のレイテ沖海戦では戦艦「武蔵」が撃沈されるなど、連合艦隊は壊滅した。(ニュース引用終り)

◆日本の海上自衛隊の練習艦「かしま」4050トン、 練習艦「せとゆき」3050トン、護衛艦「あさぎり」3500トンから編成され練習艦隊は、2014年5月22日(木)から10月24日(金)の156日間、平成26年度遠洋練習航海を実施した。このとき、最後にフィリピンを訪れた第64期幹部候補生課程修了170名(うちタイ王国海軍少尉1名)を含む720名の隊員は、レイテ沖海戦の慰霊を当然のこととして実行した。総航程は5万7,000キロに及ぶ。

写真(右):無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)を操縦する「オクトパス」号の正副パイロット;Paul Allen@PaulGAllenによれば、RIP crew of Musashi, appx 1023 lost. The pic of the valve 1st confirmation of Japanese origin (clues 2 use apprec). pic.twitter.com/BcJgkhWskbおよび、WW2 Battleship Musashi sank 1944 is FOUND > 1K M deep by MY Octopus Sibuyan sea, bow Chrysanthemum, huge anchor. pic.twitter.com/b9ZMA0icI8、とある。 2015年3月3日 - 米マイクロソフト社の共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日に戦艦武蔵の残骸を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を使って撮影した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

「オクトパスOctopus」号は、全長126メートル、全幅18メートル、排水量9 932 トン、最高速力20ノット。巡航速度17ノット、航続距離 8000マイル、燃料搭載量 850キロリットル。Lurssen Yachts 社で2003年竣工。乗員57-60人、小型潜水艇、ヘリコプター2機、スピード・ボート7隻、無人遠隔操作潜水艇を搭載している。建造経費2億5000万ドル。

写真(右):1944年10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海に沈没した戦艦「武蔵」を探査した「オクトパス」号の調査チーム;アレン氏たち調査チーム全員が、多数の戦死者とともに沈んでいる武蔵に対して敬意を表した。菅官房長官は、アレン氏の武蔵発見が伝えられると、日本の内閣を代表する官房長官は武蔵発見に関与していない(かんよしない?)と黙殺にも等しい回答をした。2015年3月3日 -米マイクロソフト社をビル・ゲイツとともに創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日に戦艦武蔵の残骸を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を使って撮影した。そして、SNS"www.paulallen.com”Exploration :Finding the Musashiに動画を公開した。これはその静止画像。

2015年3月3日、シブヤン海の深さ1000m以上の海底に沈んでいる戦艦武蔵を発見したのは、マイクロソフトの共同創設者の1人で、現在は資産運用や投資を業務とするバルカン社を経営しているポール・アレン氏。氏はイギリス海軍艦艇によって撃沈されたドイツ戦艦ビスマルクも発見し、画像を撮影している。

写真(右):戦艦「武蔵」艦首の菊花紋章(木製)の台座痕;2015年3月3日 -米マイクロソフトをビル・ゲイツとともに創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日に戦艦武蔵の残骸を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を使って撮影した。そして、The Japan Times LTD.:WWII battleship Musashi found, says Microsoft’s Allenに動画が公開された。

戦艦武蔵は、艦首を若干傾斜した状態で、レイテ沖に着底している。艦首にある天皇の軍艦であることを表象する菊花紋章(木製)は脱落していたが、紋章台座痕は明確に残っていた。戦艦大和の菊花紋章は、脱落せずに残存していた。武蔵艦首の左右にあるはずの錨は、右舷だけで、左舷の錨がなかった。触雷、爆弾命中によって艦首が沈んだ武蔵は、重量軽減のために左舷の錨を切り離したためである。46センチ(18インチ)砲は沈んだ戦艦大和と同じく、沈没時に転覆したために、バーヘッドから脱落して抜け落ちた。副砲の駆逐艦攻撃用の15.5センチ三連装砲塔が海底の沈殿物に埋もれた横倒しの状態で発見された。

写真(右):1944年10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海で沈没した戦艦「武蔵」の軸の折まがった艦尾スクリュープロペラ;2015年3月3日 -米マイクロソフト社をビル・ゲイツとともに創業したポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日に戦艦武蔵の残骸を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を使って撮影した。そして、IBTimes Co., LtdのResearchers broadcast live underwater tour of sunken Japanese warship Musashiに動画が公開された。

戦艦「大和」の第一艦橋は、沈没時に脱落し、船尾で押し潰した状態だった。しかし、戦艦大和」とは違い、武蔵の第一艦橋は半壊しいたものの横倒しの状態で確認された。艦橋トップに装着された15メートル測距儀が発見され、その基部にも観測用の多数の開口部が見られた。 羅針盤のある艦橋に設置された射撃指揮装置、爆風除け防楯つき25ミリ三連機銃も発見された。

武蔵」は艦尾を上にして沈んでいたために、4基のスクリューも明瞭に撮影された。4基のスクリュープロペラのうち3基は原型を保っていたが、1基はスクリュー軸が折れ曲がっていた。

写真(右):1944年10月24日、 アメリカ軍機の攻撃を受けて、シブヤン海で沈没した戦艦「武蔵」の後甲板の航空機射出機;呉式二号五型カタパルト。2015年3月3日 - 米マイクロソフト社の共同創業者ポール・アレン(Paul Allen)氏は、1944(昭和19)年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦武蔵を無人遠隔操作潜航艇・自立型海底探査機(AUV)「M/Yオクトパス」を駆使して海底で発見した。そして、www.news.com.auのBattleship Musashi wreck found by Microsoft founder Paul Allenに動画が公開された。

艦尾の後甲板上部に装着された艦載機主射出用カタパルトと艦載機の移動用レール、ターンテーブルを持つ飛行甲板が撮影された。艦尾のスクリュープロペラ周囲は完全に転覆・横転した状態で着底していることから、その上にあったはずの飛行甲板は分離して沈没したようだ。つまり、艦尾は、上部と下部で分解して別々に海底に着底したことになる。

写真(右):1942年、公試最中と思われる戦艦「武蔵」の後甲板:第二艦橋(後部艦橋)から俯瞰すると、搭載機を準備する飛行甲板、左右にカタパルト(飛行機射出機)2基、艦尾部分に搭載機吊り上げ用のクレーンが見える。搭載機は、翼を折りたためない零式水上偵察機2機、翼を折りたたんで飛行甲板下の格納庫に収容可能な零式観測機5機を搭載できる。

10.1944年10月、レイテ島に上陸した米軍を迎撃する日本軍の航空兵力,空母部隊は劣勢で,正攻法では撃退することは不可能だった。そこで,日本海軍は、レイテ湾突入を成功させるために,神風特攻作戦を実施した。これは、戦艦「武蔵」が第二艦隊で囮・被害担当艦として犠牲になったのと同じ発想で、日本軍では,特攻作戦は,戦局の悪化を憂えた将兵の発意による自己犠牲、自発的な体当たり攻撃とする「特攻自然発生説」が唱えられた。

 1943年,ケネディJohn F. Kennedy海軍中尉(後の大統領)が魚雷艇指揮官としての1ヶ月以上の任務を終えて,ソロモン群島ツラギ島に帰還すると,ハルゼー提督が掲げるように命じた大きな看板が目に入った。そこには次のように書かれていた。「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ!もし任務を的確に果たそうとするなら,黄色い野獣を殺すようにせよ。」

KILL JAPS !KILL JAPS !KILL MORE JAPS ! You will help to kill the yellow bastards if you do your job well " [From "PT 109 - The Wartime Adventures of President John F. Kennedy" by Robert J. Donovan](→Fleet Admiral William F. 'Bull' Halsey 引用)

写真(右):ウィリアム・ハルゼー(William Halsey)提督;"Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' His 'bloodthirstiness' was not just a put-on to gain headlines.
ウィリアム・ハルゼー(William Halsey)の階級;February 2, 1906海軍少尉、February 2, 1909海軍中尉、February 2, 1909海軍大尉、August 29, 1916海軍少佐、February 1, 1918海軍中佐、February 10, 1927、海軍大佐、March 1, 1938海軍少将、June 13, 1940海軍中将、November 18, 1942海軍大将、December 11, 1945海軍元帥。提督は海軍元帥に相当するが、少将以上であれば陸軍で将軍と見做すのと同様、海軍は提督と呼称することもある。


ハルゼー提督は,敵国日本人が過酷な戦場では肉体的に優れているという米軍の恐怖心を否定することがぜひ必要であると信じていた。そこで,「'Kill Japs 日本人どもを殺せ」というスローガンを掲げた。「死んだ日本人がいい日本人だ」として人種的に侮辱し,戦意を高めた。勇猛果敢な戦闘精神の権化ともいえるハルゼーは,特攻をジャップの自爆テロとして,卑劣な行為として憎悪した。
He strongly believed that by denigrating the enemy he was counteracting the myth of Japanese martial superiority . . . ' "Halsey's racial slurs made him a symbol of combative leadership, a vocal Japanese-hater . . . "

 戦時中、アメリカ軍にとって,戦友や自らの命を奪うカミカゼ特攻は自爆テロであり、特攻隊員ジャップは英雄どころか,卑劣な憎むべき敵である。ハルゼー提督は,日本人狩り(Japanese-hater)を辞さない敵愾心を戦闘意欲,士気に結び付けようとした。

 フィリピン人の特攻への評価については,愛国心,忠誠心を重視する立場から,肯定的なものもある。日本とのビジネスも考慮して,高い評価を与える人もいる。特攻隊慰霊碑や反米軍的な研究書もある。しかし,特攻攻撃によって米軍が撃滅されても,それがフィリピンの自由,解放につながらない以上,特攻作戦の目的=米軍艦船の撃沈,を高く評価するものはいない。愛国心や国家への犠牲的精神は讃えらるが,行為自体は,現在の自爆テロと同様,許容できるものではない。

特攻隊員が自ら体当たり自爆攻撃を志願したとしても、航空機を勝手に消耗品(特攻機)として使用する裁量が,兵士個人に与えられることはない。実際,特攻実施の3ヶ月前、1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図していた。これは、軍による特攻「作戦」の計画である。体当たり自爆攻撃の発案自体は、この特攻作戦命令(大海指第31号)の発令よりも数週間前,恐らく1944年6月のマリアナ沖海戦大敗北(正規空母2隻,軽空母1隻撃沈、艦載機350機喪失)が契機になったと考えられる。

フィリピンで米軍を迎撃する捷一号作戦のために,日本海軍は,大西中将をフィリピン防衛を担任する第一航空艦隊の司令長官に任命し、戦局打開を図った。この人事は,海軍の最高司令部が,「特別攻撃」の名の下に体当たり自爆攻撃を作戦として実施することを認めたことを意味する。体当たり攻撃を作戦として実施させるには、航空関係者に信望のある大西中将が必要であると考えた。

こうして,特攻隊を編成し,作戦を遂行することが決定したが,特攻作戦の命令系統,戦闘序列が問題になる。もしも,特攻作戦を軍上層部が計画し、実行すれば、指揮官の権限を明確にし、訓練も充実できる。しかし、特攻という必ず死ぬ作戦を命じたものは、その責任を取る必要に迫られる。「勝利か、死か」、作戦が失敗すれば、部下を無駄死にさせた責任を負わなくてはならない。そして、その責任は、最終的には、赤子を死地に送り出すことを命じた(認可した)大元帥が追わなくてはならない。あるいは、大元帥の身代わりとして、将官クラスが死をもってお詫びしなければならない。
将官、佐官クラスの高級将校など軍上層部にとって、命令による特攻は、自ら責任の所在を明らかにすることであり、勝利したとしても、部下を死地に送り出した責任をとる覚悟が必要である。それはできない。

写真(右):1944年10月25日、神風特攻隊の体当たり攻撃を受けて炎上するアメリカ海軍護衛空母「セント・ロー」USS ST. LO (CVE-63) ;サマール島沖で日本の戦艦・巡洋艦を主力とする栗田艦隊(第一遊撃部隊)の砲撃に見舞われながら、「セント・ロー」は搭載機を発艦させて、追撃してくる栗田艦隊を攻撃した。0738、1万4,000ヤードまで接近した日本の重巡に対して、単装5インチ砲で応戦した。栗田艦隊の砲撃を1時間半浴びたものの、煙幕、悪天候、上空の艦載機、護衛の駆逐艦の奮戦によって、日本艦隊の砲撃の命中度は低く、0920には反転してしまった。1047にタフィ3は、第1神風特別攻撃隊「敷島隊」の特攻が始まり、護送空母「セントロー」は自爆体当たりを受けた。積載していた爆薬、燃料の爆発によって撃沈。
Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: USS ST. LO (CV-63) burning and being abandoned off Samar, after a Kamikaze hit on 25 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Photographer, Phi Willard Nieth. Original Date: Wed, Oct 25, 1944 アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-270511引用。


司令官が特攻作戦の最終責任を負うことを回避するには、部下の下級将校、あるいは下士官・兵が自ら発意して、自己犠牲の精神を特攻に発揮してもらうのがよい。第一線の将兵が、国土を守り、国体を護持し、家族を敵のヤイバから救うために、自発的に特攻(体当たり自爆)を志願してくれるのが望ましい。第一線指揮官が臨時に特攻隊を編成して、第一線将兵の自らの犠牲の上に特攻を行うのである。この場合は、大元帥の名において、将官や高級将校が特攻を命令する必要はない。部下の発意に、「よし。頼む」と特攻の承諾を与える場合、将官・高級将校には「特攻に部下を送り出した」という表現は馴染まない。

日本軍は、特攻は第一線の将兵が、自発的な発意として実施を迫ったものであり、志願者(ボランティア)による行動であるとの建前をとった。尊王殉国の志士の集団が,やむにやまれない心情から,志願して体当たり攻撃を仕掛けた、だから司令官は特攻を命じたわけではなく、特攻の責任もないというのである。

写真(右):1944年10月25日、神風特攻隊の体当たり攻撃を受けて炎上するアメリカ海軍護衛空母「セント・ロー」USS ST. LO (CVE-63) ;栗田艦隊のレイテ湾突入を援護するために、ゼロ戦に250キロ爆弾を搭載して自爆する特攻機が命中し,レイテ湾海戦(レイテ沖海戦)Battle of Leyte Gulで撃沈された護送空母「セントロー」。
Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: Explosion on USS ST. LO (CVE-63) after she was hit be a Kamikaze of Samar on 25 October 1944. Copyright Owner: National Archives Original Creator: Photographer, Phi Willard Nieth. Original Date: Wed, Oct 25, 1944
写真は、アメリカ海軍歴史・遺産司令部(Naval History and Heritage Command)Catalog #: 80-G-270516 引用。


 海軍の初の組織的な特攻攻撃は,「神風特別攻撃隊」として,敷島隊,山桜隊など4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男(23才)を特攻隊指揮官に任命した。そして,レイテ戦における特攻第一号は,1944年10月25日,護衛空母「セントロー」を撃沈した関行男大尉(海軍兵学校出身)とされる。

 関大尉の特攻第一号は,連合艦隊が全軍に告示したものだ。しかし,10月21日の特攻「敷島隊」初出撃では,この隊は突入せず,引き返してきた。しかし,同し10月21日、「大和隊」久納好孚中尉(学徒出身)は,未帰還になった。大和隊の久納中尉は,特攻第一号とは認められず黙殺された。戦果の不明な特攻が第一号では,特攻を出撃させた軍上層部の面子が立たないからである。久納好孚中尉の爆装零戦は、実際には、重巡洋艦「オーストラリア」に損害を与えたが日本軍にはそれが判明していなかった。


写真(上左):1944年10月24日、日本海軍機の爆撃で炎上したインディペンデンス級軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)に巡洋艦「レノ」が消火作業に接近中
;1944/10/24,USS Princeton on fire east of Luzon, 24 October 1944 USS Reno (CL-96) stands off the starboard quarter of USS Princeton (CVL-23), while fighting fires on board the bombed carrier, 24 October 1944. Note Reno's forward 5"/38 twin gun mounts in the foreground, with local fire control sights on top.Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval Historical Center (# NH 63439).
写真(上右):1944年10月24日、空襲で被弾したインディペンデンス級軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)
;巡洋艦「バーミンガム」から損傷した空母「プリンストン」を見た。この後、「プリンストン」は搭載していた爆弾・燃料が引火して爆発を起こし撃沈。接舷して救助に当たっていた巡洋艦も大損害を受けた。View of Princeton's after port side and flight deck, seen from USS Birmingham (CL-62) as she came alongside to help fight fires during the afternoon of 24 October 1944. Note aircraft elevator blown out of position and turned upside down, and flight deck buckled by the hangar deck explosions that followed a Japanese bomb hit. The ships were operating off the Philippines.Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives (# 80-G-270359).


1944年10月24日には、軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)が,ルソン島東部で艦上爆撃機「彗星」の通常爆撃により火災,撃沈された。軽空母「プリンストン」は、シャーマン部隊の正規空母「エセックス」Essex を旗艦とする第38任務部隊3(Task Group Three, TG38.3)に所属していた。最高速力32ノットの「インディペンデンス級」の高速小型空母であり、低速小型の護衛特設空母ではない。しかし、この通常攻撃による軽空母「プリンストン」撃沈の戦果は、大本営には、特攻でないために無視された。

1944年10月25日の出撃に関しても,神風特別攻撃隊の朝日隊,山桜隊,菊水隊はミンダナオ島ダバオ基地を0630に出撃している。敷島隊の出撃はルソン島マバラカット基地を0725の出撃であり,1時間近く遅いうえに,出撃基地からレイテ島近海にあると思われる目標までの距離も遠い。あきらかに,敷島隊の関行男大尉以外の特攻隊員のほうが,出撃,突入,戦死の時間は早い(→●特別攻撃戦果一覧 参照)。しかし,敷島隊以外の諸隊が,特攻第一号とは認められなかったし,有名になることもなかった。

敷島隊指揮官(海軍兵学校出身)関行男大尉が特攻第一号となることは,既定の事実だったようだ。海軍のエリートである海軍兵学校の指揮官が自ら部下を率いて体当たりし,大戦果を揚げる。(下級将校・下士官・兵の)諸君も軍神関行男大尉に続け,というプロパガンダである。戦果を揚げずに行方不明になった学徒出身の特攻隊員,特攻隊長が直接率いていなかった部隊の特攻隊員,これらの人々は軍上層部に黙殺された。10月28日には,連合艦隊司令長官豊田副武大将から関行男大尉ほか敷島隊5名だけが全軍布告され二階級特進の栄冠を与えられた。もしも、10月21日の「大和隊」久納好孚中尉(学徒出身)が戦果なしの為、大本営に無視されても当然だというなら、特攻隊員のほとんどは、戦果なしで、無視されても当然だということになってしまう。しかし、このような戦果第一主義こそ当時の日本軍最高幹部の考えだった。

 フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,大西瀧治郎海軍中将で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられ,事実上,特攻を行った軍人の責任を全て背負うことになった。

 大西瀧治郎中将は,1937年に中華民国の首都南京への渡洋爆撃という戦略爆撃を実施してた航空部隊の専門家であり、特攻を「統率の外道」であるが必要悪と考えていた。しかし大西中将は,内地から第一線のフィリピンに来たばかりである。つまり、大西瀧治郎中将は,現地で神風特攻隊を発案したわけでも,特攻隊を時間をかけて編成,準備したわけでもない。そもそも,フィリピンで特攻作戦が開始されるよりも3ヶ月前,1944年7月21日には,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」を整備することが決定していた。

1944年10月、レイテ侵攻艦隊は,ハルゼー William Halsey )提督のアメリカ第3艦隊Third Fleet)に援護されてレイテ地上戦を展開したが、大雨のために占領した飛行場を使用するのは困難であった。そこで、空母の指揮官たちは、レイテ海岸にとどまり、上陸部隊を援護することにした。しかし、1944年10月25日以来、神風"Divine Wind" - Kamikazeの攻撃が始まった。これは、米国水兵たちから皮肉を込めて、悪魔のダイバー "Devil Diver"と呼ばれた。特攻隊は、爆弾を搭載して目標に急降下、体当たりする。These attack groups would dive their bomb-laden planes into their targets, preferably carriers.1944年10月29日、空母「イントレピット」Intrepidは、初めて特攻を受けたが、ほとんど被害はなかった。

レイテ沖海戦の米軍と日本軍の動向は,The Battle for Leyte Gulfを参照。 

⇒レイテ沖海戦に続くフィリピン戦での特攻作戦:「神風特別攻撃隊と陸軍特攻隊」を読む。
⇒◆特攻作戦の崩壊:「特攻自然発生説の否定」を読む。

Leyte:The U.S. Army Campaigns of World War II ;米国陸軍レイテ戦記
沖縄戦の特攻:菊水作戦

◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。

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