鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
イタリアのプロパガンダ:Fascismo 2004
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◆ファシズム発祥国イタリアのポスター

1939年に始まった第二次大戦。しかし,イタリアが参戦したのは,1941年にドイツがフランスを倒す直前。それ以前に,アフリカのエチオピア侵攻を行ったり,リビア植民地に入植を拡大したりしている。戦争中は,戦場で必要な兵士,兵士から食料,鉄鋼,燃料まで動員された。1943年には降伏してしまう。ここでは,ファシストイタリアのポスターから戦時プロパガンを検証します。ポスターは,ロシアのGenstab.RuのオンラインギャラリーMilitary Posters of 20th Centuryからの引用です。このほかの動員については,【写真集 戦争と女性】【ポスター集 戦争プロパガンダ】をご覧ください。
遅れてドイツ側にたって参戦し,2年で降伏し,連合国に寝返ってドイツと戦った戦勝国イタリア。第一次大戦も第二次大戦も参戦した時の同盟国と終戦を迎えたことはないが、常に勝利した。このイタリアでは特異ともいえるファシスト政府が1920年代に成立し、さまざまなポスターで動員を企図した。ここでは,その様子をロシアのGenstab.RuのMilitary Posters of 20th Centuryのポスターから見てみましょう。
写真やポスターを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
◆歴史館「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess ルドルフ・ヘス」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタール」を再検討。


『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。ナチ党の初期のポスター、社会民主党の反ナチポスターから、投票所の写真なども掲載しています。
『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日青弓社刊行,368頁,2100円)では,日露戦争・シベリア出兵の浮世絵,スペイン内戦の反共ポスター,1938年1月の南京陥落直後,松井石根大将が米アジア艦隊司令長官ヤーネル提督を訪問している写真,陸海空全てに設けられた米女性部隊の写真・ポスター,アンネフランクが埋められたと思われるベルゲン=ベルゼン収容所の遺体埋葬地,呉で空襲される戦艦大和の航空写真,2000年に特攻艇に爆破された米駆逐艦コールの写真など,日本ではほとんど紹介されていない図版も収めました。

Thank you for visiting our web site. The online information includes some photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials, are requested to credit the owning instutution or the URL of this site, if they wish to reproduce them from TORIKAI LAB.

<ファシストイタリアの戦時動員>



写真(右)1942年,バルカン半島コロナ,イタリア軍の装甲車:Balkan.- Kolonne italienischer Panzer-Spähwagen Autoblinda 40/41; PK KBK Lw zbV Dating: 1942 ca. Photographer: Gliemann撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。 イタリアは反共産主義の立場から,ソ連に対抗するため,1935年,ドイツと防共協定を結んだ。そして,1936年のスペイン内戦に,スペイン共和国政府をアカ(ボリシェビキ)として,反乱軍フランコ将軍を軍事援助をし,イタリア軍を派遣した。

1939年9月1日,ドイツ軍がポーランドに侵攻,1940年5月,フランスに侵攻した。しかし,イタリアは,参戦しなかった。イタリアがフランスに侵攻したのは,フランスがパリを無防備都市と宣言した1940年6月13日である。ドイツ軍は,翌14日にパリに入城,フランスは,6月22日に降伏した。イタリアの第二次大戦は,宣戦布告が6月10日だったが,対フランス戦争の決着が見えた時期になってから,攻撃したことになる。

しかし,イタリア軍は,アルバニア侵攻し,併合していた。また,1940年9月13日,北アフリカのイタリア領植民地キレナイカ(リビア)からイギリス保護国エジプトに侵攻している。

1941年6月22日,ドイツがソ戦に侵攻するバルバロッサ作戦が始まった。イタリア軍は,3個師団を派遣し戦った。


イタリア兵の勇士。イタリアのドゥーチェ(総統)ムッソリーニは完全に勝利する。勇敢なイタリアのパラシュート部隊。


写真(上):イタリア海軍のザーラ級重巡洋艦が快速で鎖を断ち切るポスターとカラー撮影されたザーラ級巡洋艦
Zara class cruiser:WW?inColor引用。

Navi da guerra italianeによれば、ザーラ級重巡洋艦は、基準排水量13,580トン、全長182.8m、全幅20.6m、喫水 7.2m、8門×203ミリ53口径砲、12門×100ミリ47口径砲、エンジン出力 95,000馬力、最高速力 33ノット、乗員 841名、O.T.O社建造、1929年起工、1931年竣工。「ザーラ」は1941年撃沈喪失。


コウノトリから爆弾を投下。

敵愾心を煽るブラック・プロパガンダ

サルのような米軍の黒人兵は、文化を理解できない。略奪した地中海文化の華「ミロのビーナス」も、たった2ドル(今の100倍の価値)で売りに出してしまう。文化の破壊者のアメリカ。爆撃機で空襲したり,ギャングのアメリカ兵は子供も容赦なく殺す。鉄の刀を鍛え、敵に備えよ。

自由の女神は死神と同じ。イタリアを焼き尽くそうとしている。自由の女神のアメリカは,残虐な金持ちユダヤ人として打ちかかってきている。金満なデブのアメリカをドイツ兵(後方)とともにやっつけるイタリア兵士(左)。

労働者の動員

イタリアも航空機を増産して進撃しよう。タンクだ,タンクだ,勝利のために戦車を増産しよう。 前線で戦うのも,工場で働くのも同じ戦争協力。

強いイタリア

敵のイギリス軍は続々投降している。閉ざされた鉄条網からローマ帝国の伝統を受け継ぐ神聖イタリアが再び解放される。勇敢なイタリア兵士が束縛する鎖を断ち切る。コウノトリから爆弾を降らせる。

ファシストの象徴である束ねた斧を倒そうとする敵は,古代から続くイタリアにくらべれば,ちっぽけな存在。ガルバルディ以来,祖国のために戦ってきたイタリア兵士。1943年にイタリア半島のサレルノに上陸した栄米軍。だがその歩みはカタツムリのように遅くて問題ない。ローマまでまだまだ先のこと。

イギリス兵が聞き耳をたてている。だから,スパイの防諜に注意して噂話をするな。「うわさ話をやめよ。その一言が兵士の命を奪う。」は連合軍側でも同じようにやかましくいわれた。

<イタリアの戦争協力>


ドイツ軍とともに闘うイタリアの武装親衛隊。1943年にイタリアが連合国に降伏した。しかし,その後もムッソリーニ,ドイツとともに連合国と闘ったイタリア共和国の兵士や武装親衛隊の兵士がある。イタリアを守る愛国的なドイツ軍。

<ヨーロッパの守護者ドイツ軍>


フランスの子供たちを保護するドイツ兵。イタリア,イギリスもドイツとともに進む。反共産主義のソ連に対抗しヨーロッパを守る戦いに。アルザスからは,フランス語やフランス文化などを吐き出して,アーリア人化せよ。アルザスはドイツのものだ。

◆イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ(豚)」

<イタリア海軍の人間魚雷>
1944年7月21日の大海指第431号で奇襲特殊兵器の人間魚雷「回天」を正式に開発した日本軍であるが,イタリア,英国,ドイツでも,同様の奇襲特殊兵器「人間魚雷」Human Torpedoを,早くから開発し,実戦で使用していた。

写真(右):イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」(Siluro a Lenta Corsa Il Maiale);1940年には部隊配備され,港湾に停泊する英国艦船を攻撃して大きな戦果を挙げた。

イタリア海軍Siluro a Lenta Corsa(SLC)「マイアーレ 」(Il Maiale, 豚),イギリス海軍「チャリオット」「X艇」,ドイツ海軍「ネガー」「マーダー」がそれである。

イタリア海軍では1935年に人間魚雷の計画(Torpedo humano)が持ち上がり,1936年には試作品が完成した。そして,1940年にはイタリア第10軽装艦隊the Italian 10th Light Flotillaに,2人乗りの人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa;低速走行魚雷)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」が配備された。

写真(右):イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」;1940年には部隊配備され,港湾に停泊する英国艦船を攻撃して大きな戦果を挙げた。体当たり自爆攻撃ではなく,停泊している艦船の底に時限爆弾を仕掛けてから脱出する。

低速走行魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : Il Maiale (The Pig)」の性能
全長6,70 meters,幅 533 mm
潜行深度 15〜30 meters
電動モーター 1.6 HP
最高速度 4,5 knots - 巡航速度 2,3 knots
航続距離4.5ノットで 4 miles,2.3ノットで75 miles
兵装Mark I: 高性能爆弾 220 kg,後期型 高性能爆弾250 kg,最終型 高性能爆弾300 kg

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」を2基搭載したイタリア海軍潜水艦Gondar(ラ・スペッツァ港にて);1940年9月29日,ジブラルタル港攻撃と同日にエジプトのアレキサンドリア港の英軍艦船を「マイアーレ」で攻撃する計画だった。しかし,潜水艦「ゴンダー」Gondarは英軍に発見され,撃沈された。

低速人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」は,電動モーターで無音走行し,二人の搭乗員によって操縦される。そして,高性能爆弾を敵艦船の竜骨下の海底に配置し,時限爆破装置を作動させる。二人の搭乗員は,その爆破前に脱出するのである。

また,日本海軍の特殊潜航艇が真珠湾を攻撃して戦果を挙げることなく全滅して2週間と経っていない1941年12月19日,イタリア海軍の低速走行魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」3基は,エジプトのアレキサンドリア港攻撃を実施し,イギリス海軍戦艦「ヴァリアント 」(H.M.S Valiant) ,同じく戦艦「クイーンエリザベス 」(H.M.S. Queen Elizabeth),タンカー「サゴーナ」Sagonaの艦底に各々300kgの爆弾を仕掛けた。目標とした空母「イーグル」が不在だったので大型タンカーを爆破することにしたのである。(目標を誤認したわけではない。人間魚雷「回天」のウルシー基地攻撃の戦果もタンカーだった。)

写真(左):人間魚雷「マイアーレ」(SLC IL Maiale)の搭乗員:スキューバダイバーと同様の潜水服を着用する。爆弾装着後は,脱出する。

低速人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」指揮官ルイジ・ドゥランド・デラペンネLuigi Durand de la Penne中尉とダイバーのビアンチは,捕虜となった。そして英戦艦「ヴァリアント」に監禁された。捕虜となったイタリア海軍のデラペンネ中尉とダイバーのビアッチは,何の情報も与えなかったが,十分な時間が経過した後,この戦艦は爆破されるので,乗員を退避させるように警告した。

英軍は,その警告を聞き入れたが,デラペンネ中尉は独房に監禁されたままで,爆破時間を迎えた。イタリア海軍将兵は,捕虜になっても義務・任務を果たしたとして堂々としていた。英国海軍も敵の捕虜を虐待することなく扱ったようだ。

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」の攻撃で大破した英国戦艦「ヴァリアント」と「クイーンエリザベス」:スキューバダイバー2名の搭乗したイタリア海軍の人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」に攻撃され大損傷を受けた。攻撃日は1941年12月19日で真珠湾攻撃(12月8日)から11日後である。潜航艇の性能を比較すると,日本の甲標的のほうが速力もはるかに速く,攻撃力,航続距離も大きい。しかし,出撃後は生還も捕虜になることもできず死ぬだけであり、失敗は許されないという緊張感、死を免れないという恐怖は、沈着冷静さが必要な回天操縦にはマイナスに作用したはずだ。他方、イタリアの「マイアーレ」は、低速で航続距離も短いが、操縦性と隠密性では回天より優れていた。また,攻撃後,イタリアでは投降が認められており,勇戦の後の降伏は不名誉ではなかった。この寛容な将兵の扱いは、士気を高めると同時に、沈着冷静さを維持するのに役立った。

0600,イタリア海軍低速人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」が設置した第一発目の爆弾がタンカー「サゴーナ」で爆発し,燃料補給をしていた駆逐艦 「ジェービス」ともども大破した。「ヴァリアント」の爆弾は0620に爆発し,「クイーンエリザベス」の爆弾は0624に爆発した。

イギリス海軍戦艦「ヴァリアント 」(H.M.S Valiant)は,弾薬庫などに浸水しアレキサンドリア港で応急修理の後,ダーバンで1941年4月15日から7月7日までかけて修理された。戦艦「クイーンエリザベス 」(H.M.S. Queen Elizabeth),は着底し,引き揚げられた後,米国で1942年9月2日から1943年6月1日まで修理された。結局,17ヶ月以上,戦列を離れたことになる。

図(左):人間魚雷「マイアーレ」を搭載した秘匿商船「オルテラ」Olterra:The Olterra redesigned for Human Torpedo attacks

ダイバー2名の搭乗したイタリア海軍の人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」は,速度は遅いが,無音走行・後進もでき,操縦性も決して悪くはなかった。アレキサンドリア港の攻撃日は1941年12月19日で真珠湾攻撃(12月8日)から11日後である。日本とイタリアの特殊潜航艇「甲標的」と人間魚雷「マイアーレ」の性能を比較すると,日本の甲標的のほうが速力もはるかに速く,攻撃力,航続距離も大きい。しかし,操縦性と隠密性ではイタリアの「マイアーレ」のほうが優れていたようだ。また,攻撃後,イタリアでは投降が認められており,勇戦の後の降伏はぬ名誉ではなかったという将兵の扱いの際も大きい。

さらに,ジブラルタルの英軍基地の近くのスペイン領に秘密基地を作ったイタリア軍は,そこから商船を改造し「マイアーレ」を搭載し,海面下の舷側の秘密扉から潜伏,発進した。そして,ジブラルタルの英国海軍艦艇や商船を攻撃したのである。軍艦を攻撃した際には,搭乗員の80%が生還しなかったが,防備の手薄な商船に対する攻撃では,少ない被害で大きな成果を上げることができた。

人間魚雷SLC「マイアーレ」の戦果は,1941年3月から実戦に参加し,終戦(1943年9月)までに連合国の軍艦 8万6,000 tを撃沈破,民間商船 13万1,527 tを撃沈破する戦果を挙げた。1943年9月にイタリアが連合国に降伏すると、イギリス海軍はイタリアのマイアーレを鹵獲し、イタリア人の教えを受けて「マイアーレ」を複製し特殊潜航艇「X艇」を建造し、イタリア人のアドバイスを受けて部隊を特殊部隊を訓練した。実戦に投入され、ノルウェーのフィヨルドに停泊していたドイツ海軍の戦艦ティルピッツやシンガポールの日本海軍の重巡「高雄」を撃破することに成功している。

写真(右):イタリア、ミラノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館(Museo della Scienza e della Tecnologia Leonardo da Vinci)、低速人間魚雷SLC「マイアーレ」;魚雷頭部には、触発信管はない。替わりに時限信管付きの炸薬が切り離しできるようになっている。この時限弾頭を敵艦船の船底に設置あるいはロープ等で固定して、乗員2名は潜水服とボンベを装備したまま脱出する。目標は、港湾に停泊している艦船で、航行している艦船を攻撃することはできない。航続距離は短いので、艦船や潜水艦に搭載され,目標近くまで運ばれた、密かに発進する。
Description English: siluro guidato detto maiale al Museo della scienza e tecnologia Date 19 November 2012, 13:46:09 Source Museo della Scienza e della Tecnologia "Leonardo da Vinci" Link back to Institution infobox template wikidata: Q947082 070MilanoMuseoScienza.JPG Link to OpenStreetMapLink to Google Maps wikidata:Q947082 Author Alessandro Nassiri
写真はWikimedia Commons File: IGB 005838 siluro guidato detto maiale al Museo della scienza e tecnologia.jpg引用。


写真(右):イタリア、ミラノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館(Museo della Scienza e della Tecnologia Leonardo da Vinci)に展示中の低速人間魚雷SLC「マイアーレ」; 全長 685cm、直径 68cm、高さ 110cm。1936年にS.L.C(Siluro a Lenta Corsa)、すなわち低速走行魚雷の秘匿名称で開発された。1941年以降、地中海のアレキサンドリア港,ジブラルタル港では、イギリス海軍の艦船・輸送船を攻撃、撃破して大戦果を挙げた。
Description Italiano: Siluro a lenta a corsa o Maiale - 1936 - museo della scienza e della tecnica - Milano - lunghezza 685cm - larghezza 68cm - altezza 110cm English: slow running torpedo dubbed "Maiale" - 1936 Date 3 February 2013, 16:53:05 Source Own work Author Stefano Stabile
写真はWikimedia Commons File: Siluro a lenta corsa o Maiale - 1936 - slow running torpedo dubbed Maiale - museo della scienza e della tecnica - Milano - 01.JPG引用。


写真(右):ミラノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館(Museo della Scienza e della Tecnologia Leonardo da Vinci)に展示している低速人間魚雷SLC「マイアーレ」; ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館Museo della Scienza e della Tecnologia Leonardo da Vinci)は、レオナルド・ダ・ヴィンチの生誕500年を記念して科学の発達と工業技術の進歩をテーマに1953年に作られた。3つの建物は、各々記念館、鉄道館、空と海の交通館とあいて、分類されている。特に16世紀の修道院を利用した記念館2階レオナルド・ダ・ヴィンチ・ギャラリーにはヘリコプターや城壁を攻撃するための装置などダ・ヴィンチの自筆の設計図や模型が展示されている。大人:10ユーロ、 子供:7ユーロ.
Description Italiano: Siluro a lenta a corsa o Maiale - 1936 - museo della scienza e della tecnica - Milano - lunghezza 685cm - larghezza 68cm - altezza 110cm English: slow running torpedo dubbed "Maiale" - 1936 Date 3 February 2013, 16:54:17 Source Own work Author Stefano Stabile
写真はWikimedia Commons File: Siluro a lenta corsa o Maiale - 1936 - slow running torpedo dubbed Maiale - museo della scienza e della tecnica - Milano - 03.JPG引用。


イタリア海軍が,低速人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa)マイアーレ : IL Maiale (The Pig)」を駆使して大きな戦果を挙げえたのは,1943年当時のイギリス軍の戦備の甘さ,イタリア海軍の作戦の適切さもあったが,「マイアーレ」搭乗員たちの勇気と技能も寄与している。大胆不敵な作戦を実施できたのは,捕虜になっても,殺害されるわけでも,自決する必要もないという心理的負担の小ささが背景にあると考えられる。日本軍将兵の切羽詰った心理的負担は,訓練にあっても実技より精神修養(死の覚悟)に偏重し、実戦にあっても帰還できないというたった一回のチャンスという重圧があり、作戦にはマイナスに作用したであろう。


写真(上左):ドイツ海軍の人間魚雷「ネガー」Neger
:潜行はできず,水面すれすれを走行した。潜行可能に改良した「マーダー」もほぼ同型である。魚雷を応用した本体の下に魚雷を搭載し,攻撃も久料を雷撃する。体当たり自爆攻撃を企図したものではない。
写真(上右):ドイツ海軍特殊潜航艇「ビーバー」Biber:小型魚雷2本を搭載する。体当たり自爆を企図したものではない。


写真(右):英国海軍の人間魚雷(特殊潜航艇)「X艇」X-Craft (Midget Submarine):全長 15,76 meter 全幅 1,8 meter 深さ 1,62 meter 浮上排水量 27 tons 潜水排水量 29,7 tons 舷側搭載重量 4 tons。特殊潜航艇 X5 Class midget submarine は、小型爆雷2発を搭載する。体当たり自爆を企図したものではないが英軍では「人間魚雷」と呼称する。X艇(とその改良型XE艇)は,1944年にドイツ戦艦「ティルピッツ」をノルウェーの湾内で,1945年に日本巡洋艦「高雄」をシンガポール港で航行不能に陥れている。

ドイツ海軍の人間魚雷「ネガー」(Neger:黒人),「マーダー」(テン),特殊潜航艇「ビーバー」Biberも,水上4.2kts,水中 3.2ktsという低速ながら,1944年6月の連合軍ノルマンディー上陸部隊を護衛する軽巡洋艦HMS DRAGON(4.850t), 掃海艇HMS MAGIC(1,110t),HMS PYLADES, HMS CATOと軍艦4隻を撃沈し,成果を挙げている。このような大戦果をイタリア海軍人間魚雷「マイアーレ」が揚げたのに対して,特殊潜航艇「甲標的」,人間魚雷「回天」は,被害に比して,戦果はごくわずかだった。


日本海軍の人間魚雷「回天」の場合,一たび発進したら,敵艦に体当たりするしかないが,途中で機械が故障したり,目標を見失ってもどうすることもできない。自爆するのみである。故障しがちな機械を操り,訓練もつんできた搭乗員を,1回の出撃で,戦果を挙げることなく失ってしまう確率が非常に高い。また,「回天」搭乗員も,一たび出撃したら失敗は許されないという心理的な圧迫感に,攻撃行動が真剣になる反面,極度の緊張が過失をもたらす危険もある。また,目標に命中できないと判明した場合,いつまでも洋上にとどまることはできないと考えると,余裕がなくなり,拙速な行動に出てしまうかもしれない。

経験をつむことなく,たった1回の出撃で,次回に生かされることはない。搭乗員たちは,回天の状況や技術的問題に関して多くのメモや伝言を残しているが,これはたった1回の出撃しか許されないからである。強い将兵は、経験,実戦を経て養成されていくが、自爆特攻の場合はそれが不可能であり,士気の高い戦士を。たった1回の出撃で殺してしまうという意味で、非常に非効率的な作戦であった。

写真(左):伊53潜で出撃する「回天」多聞隊;1945年7月14日に発進した伊53潜には7月24日米駆逐艦「アンダーヒル」を体当たり撃沈した勝山淳中尉(海兵73期)も乗艦している。これら隊員たちの締めた鉢巻が,勤労女子学徒の手になる血染の鉢巻と思われる。

日本でいう「女子挺身隊」とは、戦時中の動員された女子労働者のことである。女子の動員は、1943年9月、女子挺身隊(14歳以上25歳以下)として、本格的に開始された。当初、市町村長、町内会、部落会、婦人団体等の協力によって家庭の遊休婦人・女子学生を中心に結成されていたが、これを法律によって、女子徴用としたのである。

日本の家族制度と婦女の美徳に配慮すれば、女子労働者としての大量動員には抵抗もあったが、戦局の悪化により労働力不足となり、それを補うために女子の労働参加が求められたのである。そして、1944年8月、女子挺身勤労令が公布され、女子は挺身隊員として、徴用されることになった。しかし、このような女子の労働者化は、日本は米国に遅れをとっていた。


写真(左):米国の女性工場労働者米国航空機生産計画によると,生産数は1957機(前月実数1811機)で,これは英国の生産数1688機,カナダの生産数98機を上回る。そして,外国への供与予定機数は,ロシア275機,オーストラリア106機,インド40機など,世界の兵器庫として企画されている。
写真(右):1942年6月カリフォルニアの航空機工場で働く米人女性労働者。;Woman aircraft worker, Vega Aircraft Corporation, Burbank, Calif.

1944年に米国は,14万機もの航空機を製造したが,航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。日本で学徒勤労動員された女子と間接的に殺しあうことになった。双方とも祖国,家族を守ることを大義名分にして。

 
写真(上):輸送艦「ネソーバ」NESHOBA APA 216(排水量14,833t)乗員のSwede Larson-Ray Allen(写真左)とWavrin-Ray Allen-Sullivan-Klein-Reiger(写真右)
;人間魚雷「回天」が撃沈しようとした米軍艦船の乗員も若者である。轟沈の響きの中で、米国人の命も失われる。「回天」特攻隊員や「回天」の生産に従事した勤労学徒は、このような米国の若者の命を奪いたかったわけではないであろう。相手への憎しみがあったのか。なぜ、日米の若者が、殺しあうことになったのか。
輸送艦「ネショーバ」は速力18ノット、貨物積載量2,900 tの大型輸送艦である。
1945年4月沖縄攻略に参加し、グアム、真珠湾、グアム、沖縄、サイパンと輸送任務に従事し、そこで終戦を迎えた。マリアナ、沖縄は、人間魚雷「回天」が頻繁に攻撃した海域である。サンフランシスコに帰還後、日本占領軍を東京湾に運んだ。NESHOBA PICTURES FROM RAY ALLEN( Amphibious Forces of WWIIより許可を得て写真掲載)

写真(右):1944年12月1日にイ56潜水艦で出撃する「回天」金剛隊;ニューギニア島北岸のマヌス島アドミラルティ基地に向かうも警戒厳重のため攻撃不能で,1945年2月3日帰還。しかし,多々良隊として,4隻の潜水艦で1945年3月28日に沖縄海域に出撃するも,消息不明。6名の回天乗員とともに艦長正田啓治少佐以下122名戦死。(→回天特別攻撃隊潜水艦戦死者名簿

故勝山 淳海軍少佐「最後の書簡」 
 拝啓、御両親様はじめ皆様益々御元気に御過しの事と拝察致し居り候。
降て不肖淳相変らず頑健、一意専心本務に邁進致し居り候間、御休心遊ばされ度く候。
戦局正に逼迫、真に神国興廃の決す秋、不肖、唯不撓の精神、旺盛なる体力、体得せる技を以って醜敵を撃滅致し、大御心を安んじ奉らんと期し居り候。右取急ぎ一筆相認め候。
末筆乍ら皆様の御健康を祈り上げ候。
                   敬具
                   淳拝

写真(左):1945年2月21日、伊370潜水艦(輸送用大型潜水艦)に搭載され回天特攻「千早隊」が出撃。伊370潜は、輸送潜水艦で、魚雷装備は貧弱だったが、人間魚雷「回天」5基を搭載できる排水量があった。硫黄島近海に到達したが、1945年2月26日、伊370は米駆逐艦「フィネガン」により撃沈された。「回天」は発進できず、潜水艦搭乗員もろとも全滅した。

1945年2月21日、回天特攻「千早隊」
 海軍第一潜水部隊は硫黄島を包囲する米艦隊を攻撃するため、伊44(回天4基搭載)・伊368(同5基)・伊370(同5基)の3隻で「回天特別攻撃隊千早隊」を編成した。出撃は1945年2月21日で,2月25日には硫黄島近海に到着した。しかし、2月26日に伊370が、駆逐艦「フィネガン」FINNEGAN (DE-307)に、翌27日には伊368が護衛空母「アンティオ」USS ANZIO (CVE-57)搭載機によって撃沈された。

写真(右):1945年2月26日、伊370潜水艦を撃沈した米駆逐艦「フィネガン」USS Finnegan (DE-307)排水量: 1,140 (std), 1,430 tons (full)
兵装: 3 x 3"/50 Mk22 (1x3), 1 x 1.1" / 75 cal. Mk2 quad AA (4x1), 9 x 20mm Mk 4 AA, 1 Hedgehog Projector Mk10 (144 rounds), 8 Mk6 depth charge projectors, 2 Mk9 depth charge tracks
機関: 4 GM Model 16-278A diesel engines, 6000 shp, 2 screws
速度: 19 knots 航続距離: 4,150 nm @ 12 knots 乗員: 15 / 183。

U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945
2/26の米海軍艦艇の損害
軽巡洋艦PASADENA (CL-65), by naval gunfire, 本州南部、31 d. 20'N., 141 d. 15'E.
駆逐艦 PORTERFIELD (DD-682), by naval gunfire, 本州南部、33 d. 10'N., 143 d. 30'E.
掃海艦 SAUNTER (AM-195), by mine, ルソン島近海、14 d. 17'N., 120 d. 38'E.
戦車揚陸艦 LST 121, by collision and grounding,硫黄島近海、24 d. 46'N., 141 d. 19'E
LST 760, and LST 884, by coastal defense gun, 硫黄島近海

写真(右):1945年2月26日、伊368潜水艦を撃沈した米護衛空母「アンティオ」USS ANZIO (CVE-57)排水量: 7,800
兵装: 1 x 5"/38AA 16x 40mm, 20 x 20mm, 27 Aircraft
機関: 9,000 IHP
速度: 19 knots 乗員: 860
ANZIO resumed combat support operations on 16 February. Three days later, she launched a strike to the north on Chichi Jima in the Bonin Islands. From 19 February through 4 March, ANZIO followed a schedule of launching her first flight just before sunset and recovering her last just before dawn. During these nocturnal operations, she completed 106 sorties without a single accident.
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2/26の日本軍艦艇の損害
潜水艦 伊-368, by aircraft (VC-82) from 護衛空母 Anzio (CVE-57), 硫黄島近海、 24 d. 43'N., 140 d. 37'E.
潜水艦 伊-370, by 護衛駆逐艦 FINNEGAN (DE-307),父島近海、22 d. 45'N., 141 d. 27'E.
潜水艦 呂-43, by aircraft (VC-82) from 護衛空母 Anzio (CVE-57)、父島近海, 24 d. 07'N., 140 d. 19'E.
海防艦 SHONAN, by 潜水艦 HOE (SS-258), 南シナ海、17 d. 08'N., 110 d. 01'E.
哨戒艇, by naval gunfire, 本州南部

 伊44は米軍に発見されて制圧され、攻撃可能距離まで近づけず、46時間の追跡から脱出し帰還した。同艦は長時間の戦闘と潜水により艦内の酸素が不足するなど危険な状況に陥り、乗員の必死の努力で生還したが、第六艦隊司令部は「回天を発進させずに引き返した」ことを命令違反・戦意不足と判定して、艦長を更迭した。その後、伊44は回天特攻隊「多々良隊」の一艦として1945年4月に沖縄へ出撃、米駆逐艦隊と交戦して撃沈された。強行突入はなんら成果をあげることなく全乗員が戦死した。


イタリア空軍

写真(上):イタリア機搭乗員とサボイア・マルケッティSM79爆撃機
;WW?inColor引用。

イタリア空軍は、ドイツ軍の足手まといになったとはいえないが、低速、弱武装の爆撃機は、雷撃機として以外、目立った戦果をあげられなかった。


写真(上):イタリア空軍のCR42「ファルコ」Falco複葉戦闘機とフィアットG50「フレッチア 」戦闘機
;第二次大戦には、ソ連のポリカルロフI-15と並ぶ代表的複葉戦闘機である。

マッキMacchi社の戦闘機として、次の各種が開発・生産された。

フィアットCR42「ファルコ」:2,300kg フィアット空冷840馬力エンジン 最高速度440km/h 12.7ミリ機銃×2丁、 1938年5月初飛行。1939年4月に実戦配備開始。1,781機生産。 フィアットG50「フレッチア」戦闘機:全備重量 2,700kg フィアット空冷840馬力エンジン 最高速度470km/h、ブレダ12.7ミリ機銃×2丁、 1937年2月初飛行、546機生産。

1940年6月10日、ドイツの電撃戦で崩壊間際のフランスを攻撃した。イタリア領だったサヴォイア、ニース地方に侵攻したが、フランス軍の戦線を突破できなかった。

ムソリーニ統領は1940年10月、併合していたアルバニアからギリシャへ侵攻したが、ギリシャ軍はそれを撃退した。

1940年9月から北アフリカの植民地キレナイカ(リビア)から英国属国エジプトに侵攻、しかし、1940年12月は英軍に敗北し、13万人が捕虜となる。トリポリ陥落前に、ドイツのヒトラー総統は北アフリカとバルカン半島へドイツ軍を派遣することになる。


写真(上):イタリア空軍のマッキMC200「サエッタ」Saetta戦闘機とマッキMC202「フォゴーレ」Folgore戦闘機
;MC200「弓矢」の空冷840馬力エンジンをドイツ設計のダイムラーベンツDB601液冷エンジンに返還した性能向上方が、MC202「電光」である。WW?inColor引用。

マッキMC200「サエッタ」:全長8.2m 全幅10.6m、フィアット空冷エンジン 870馬力、兵装 ブレダ12.7ミリ機関銃2丁、最高時速514km/h、1937年12月初飛行、1939年7月実戦配備。1,153機生産。

MC202「フォゴーレ」:全備重量 3,100kg ダイムラーベンツDB601 液冷エンジン1,075馬力、最高速度590km/h、兵装:主翼 7.7ミリ機銃×2丁、機首 12.7ミリ機銃×2丁。航続距離870km。1940年8月初飛行。

1941年2月、ドイツ軍侵攻から国土を防衛するために、ギリシャは、英軍の進駐を要請し、1941年3月末、英軍3個師団がバルカン半島に上陸。

バルカンが戦場になることで、枢軸よりだったブルガリア、ハンガリー、ルーマニアは、ドイツ軍の進駐・通過を認めるだけでなく、日独伊三国軍事同盟に参加<した。

イタリア軍は弱いと日本では酷評されるが、航空機に関しては、日本機と同等以上の性能を誇っていた。


<アメリカの戦争ポスター>


大戦時の米国ポスターは,ミネソタ大学図書館/ミネアポリス公立図書館が保有するもので,教育用にデジタル展示されている。ポスターの引用は,デジタルライブラリーA Summons to Comradeship:World War I and II Postersからのもの。
The University of Minnesota Libraries owns six thousand items and the Minneapolis Public Library's collection consists of nearly two thousand posters.

敵は誰か

東条英機のような「日本人の獄吏が,故国や家庭を脅かす」。「空腹(belly)を追放せよ。ミンチにしてやるから,卑怯で残虐なJAPを送れ。」「1分でも時間を無駄にすれば,日本軍に有利になる」東条英機を模した日本兵はメガネ低脳動物。「ヒトラーのパンツ(Panzers:戦車部隊)を引きずりおろせ。」



女性兵士に応募しよう。1942年には,米国では,日本やドイツの空襲を監視するために,6000人の女性が対空監視哨で働いていた。女性陸軍予備隊法は,1942年5月(真珠湾だまし討ちの5ヶ月後)に成立した。資格は,21歳以上,健康で性格がよいことである。女性海軍予備隊は,WAVE(Women Accepted Volunteer Emergency)と呼ばれた。資格は大卒あるいは2年以上大学に在籍して実務経験をもつものである。沿岸警備女性予備隊は,1942年11月に成立したが,21歳以上,高卒以上の資格である。ただし,これらの入隊年齢制限は,後に20歳に引き下げられた。海兵隊の女子入隊が法的に認められたのは1943年1月である。1943年7月には,女性陸軍予備隊は「女性陸軍部隊」となったが,給与,年金,住宅手当などの待遇は男子よりも悪かった。そのために,1943年の15万人の動員目標に対して,6万人しか集まらなかった。それ以前の動員も含めて,女性陸軍予備隊は,8万人であるが,1943年10月15日〜1944年12月末までに,2万7047人が航空女性陸軍部隊に応募し,1830人が女性パイロットとして仕事を許された。海軍が黒人の募集を始めたのは,1944年10月で,戦争末期である。 

<労働者の動員>

女性も労働者として動員されなくてはならない。女子も航空機生産に従事。「リベット打ちのロンジー」は,航空機製造や造船では鉄板を繋ぐためにリベット(鉄の鋲)を打った。1944年に米国は,14万機もの航空機を製造したが,航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。リベット打ちは金属に刺繍するようなもので,女性に向いた仕事であると認識された。1942-43年に「全国戦争奉仕法」が提案されたが,これは妊婦,18歳以下の子どもを扶養するもの,障害者を除いて,18〜50歳の女子を登録させ,労働力として徴用(動員)する義務制度である。しかし,戦局の好転,反ルーズベルト派への配慮,女子の緩やかな動員が功を奏しているなどの理由のために,投票にかけられなかった。女性労働者は,1940年の1200万人から1945年の1900万人に700万人も増えている。

【戦争・難民リンク集】


<戦争資料・ポスターリンク集>

太平洋戦争写真集:戦争遺跡・強制連行

【大戦中の反日のアメリカポスター】

IWM戦時中の女性:帝国戦争博物館

IWM真珠湾攻撃:帝国戦争博物館の分析
 

IWMメディアと戦争:メディアリテラシーと宣撫工作
 

ミッドナイトワッチ大戦中の英国女性

ミッドナイトワッチWW2の配給制度

【大戦中の世界のポスターリンク集】

【大戦中の米国のポスター】

【大戦中の反日ポスター】

【大戦中の戦争協力ポスター】

【WW1・WW2の英国ポスター】

【ナチスのプロパガンダのポスター】

【大戦中の世界のポスターリンク】ポスター販売を目的にしたロシアのサイト/ソ連に加えて,ドイツと共に戦った枢軸国のポスターも掲載されている。

【大戦中の武装SSのポスター】

【第三帝国のポスター】

ポスター販売など営利目的のサイトも含まれていますので,引用には注意してください。


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