• " ヒストリーチャンネル[5ヶ月総力企画] 終戦70年“私たち”は何を見たのか?"
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  • [5ヶ月総力企画] 終戦70年“私たち”は何を見たのか?

    特別番組「終戦70年 それぞれが見た戦争」

    ナビゲーターを務める社会学者の古市憲寿さんと有識者が、毎月のテーマに沿って語る。あの戦争は何だったのか、当時を生きた人々はそこで何を見たのかに迫り、ナビゲーターと有識者の視点を通して第二次世界大戦を振り返る。

    5ヶ月連続 特別番宣番組 終戦70年 それぞれが見た戦争 8月テーマ:日本人

    70年前に起きた戦争から何を学び、何を未来に残すのか。
    戦時中そして戦後、日本人は何を見たのかに迫る特別番組『終戦70年 それぞれが見た戦争 “日本人”』。
    番組のトーク内容を一部ご紹介します。

    番組本編ではここに掲載されていない話題も多く語られているので、ぜひご覧ください。下記の日程で放送。

    放送日
    8月12日(水)13:00〜13:30/8月12日(水)26:00〜26:30/他

    ナビゲーター:古市憲寿(社会学者)
    ゲスト:秦郁彦(現代史家)、井上寿一(歴史学者) 


    ©東北新社

    日本が参戦する合理性はあったのか?

    古市「当時の日本が戦争する合理性はあったのでしょうか? 当時の日本の理屈ではあの戦争をするのに合理的な理由や根拠はあったのでしょうか?」

    井上「例えばですが、あの戦争はアジア解放のための戦争だったと言われますが、戦争するもっと以前からアジアを解放するプランを持っていたのかと疑問に思います。軍部も含め、東南アジアのちゃんとした地図も持っていない状況で、欧米の植民支配に怒り、アジアを解放しなければいけないと考え、そのためには戦争も避けがたいということを、どこで考えたのか、と言っても、それはないんですね。ですので、状況の積み重ねの中で南方に進出し、アメリカとの関係が悪くなる中でアメリカやイギリスとの戦争になり、さらに東南アジアで戦線拡大していったんだということですよね」

    命を落とした日本兵

    古市「戦場で亡くなった兵士は戦闘行為で死んだ兵士ばかりではなく、餓死をした兵士が多いという話を聞きましたが、どうなんでしょうか?」

    秦「全体で日本の戦死者は約230万人で、そのうち約4割が、南方戦線に限りますと約6割が餓死だと言われています」

    古市「膨大な数ですよね。その割合は他国と比べるとどうなんでしょうか?」

    秦「歴史上、前例がほとんどないんじゃないんでしょうか。そうなる前にやはり降伏してますよ。でも、歴史が始まって以来、日本は対外戦争で負けた経験がありませんよね。だから『最後まで戦うんだ』という号令をかけるだけで、当時の日本に降伏はあり得ない状況でした」

    井上「これは秦先生にお伺いしたいんですが、『兵士はいくらでも補給がきくから死んでも構わないけれど、鉄砲は大事にしなければいけない』みたいな、非常に本末転倒な話があるのは、第二次世界大戦時の日本軍の悪い意味での特質なのでしょうか?」

    秦「これは日本人の民族性の一つだと思うんですが、非常に『律儀』なんですね。ですから、どんな悪条件下でも、日本の場合は『最後まで戦え、玉砕せよ』と言われると、みんな、律儀にその通りにして、反抗しないんですね」

    古市「でも、日露戦争の時は反抗する人もたくさんいたと思いますが、なぜ1940年代になると、反抗する人がいなくなってくるんでしょうか」

    秦「じわじわと思想統制が厳しくなっていったという過程もあったんだとは思います。また日露戦争で勝ったこともあって、『どんなにたくさん死んでも、日本軍なら勝てるんだ。絶対負けないんだ』という教育が国民の中にずいぶんと浸透していったということではないでしょうか」

    南方戦線を拡大し、パラオ・ペリリュー島に約1万人の日本軍が上陸。2ヶ月以上に及ぶアメリカ軍との戦いの末、日本軍で生き残ったのはわずか34人だった。

    かつては敵だった〜日米の激戦地ペリリュー島で〜

    太平洋戦争時、日本軍とアメリカ軍が激しい戦闘を行ったペリリュー島を、日本軍の生き残りの1人・土田喜代一さんが約60年振りに訪れる。目的は敵として戦ったアメリカ人兵士に会うためだった。長い年月を経て、平和的に会うことになった元兵士たちはその出会いに何を感じたのか。

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    大艦巨砲主義の大和と世界一流の零戦

    古市「降伏はあり得ないという戦争が、1945年に終わるわけですよね。それは何が決め手になったんですか?」

    井上「私は非合理性と計画性のなさが、必然的に敗戦をもたらしたんだと考えています。よく言われているのが、戦艦大和の中にはエアコンがついていて、軍楽隊まで乗っていて、大変立派なものでしたが、そういった大艦巨砲主義のようなものは日露戦争まではよかったんです。しかし、第二次世界大戦の頃には機動力のある空軍・戦闘機が中心で、船は空母でなくてはならない状況でした。日露戦争の勝利がそのまま変に長く続いて、新しい戦争の形態に対応できなかったことの象徴が戦艦大和なのではないかと思います」

    秦「日本全体の国力が非常に低かったときに、無理に背伸びをして、一流国と肩を並べて、場合によっては戦おうとしたんですね。すると一点豪華主義に行き着くわけです。戦艦大和もその一つで、『アメリカはこれだけの巨艦はパナマ運河の関係で作れない。ひとつ、上を行こう』という考えにたどり着いた。それから零戦の場合も、誕生した当時は世界一流だったんです。しかし、不思議なことに零戦を作っている工場には飛行場がないんですよ。なので名古屋の工場で作られた零戦を牛が引っ張る牛車に載せて、岐阜の飛行場まで運ぶんですね」

    大和、零戦……技術の粋を集め、軍備を進めた日本。かかわった人物たちは何を見たのか。

    戦艦大和の最期

    日本の象徴として魂と最高の技術をもって、建造された「戦艦大和」。本作では「大和」の真実の能力を徹底的に分析。そして大和乗組員であり、映画「男たちのYAMATO」のモデルとなった八杉康夫氏のリアルな体験をインタビュー。再現ドラマで収録。「大和」建造から沈没までの一生を追った作品。

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    大和、零戦……技術の粋を集め、軍備を進めた日本。かかわった人物たちは何を見たのか。

    戦争の記憶〜零戦にかけた青春の日々〜

    太平洋初期、連合国に対してその優れた性能を見せつけた零式艦上戦闘機、通称・零戦。この戦闘機に青春を注ぎ込んだ一人のエンジニアの極めて貴重な証言記録。開発秘話が明かされる。

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    古市 憲寿(ふるいち・のりとし)

    社会学者。1985年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶應義塾大学佐藤古市C研究所上席研究員。 若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)などで注目される。日本学術振興会「育志賞」受賞。著書には、数年間かけて国内外の戦争・軍事に関する博物館を巡り、各国の戦争の捉え方を考察した『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社)、日本社会の様々な「ズレ」について考察した『だから日本はズレている』(新潮新書)などがある。

    秦郁彦(はた・いくひこ)

    現代史家。1932年山口県生まれ。 専門は、日本近現代史。第二次世界大戦期を中心に研究している。 著書に『昭和史の謎を追う』『明と暗のノモンハン戦史』のほか多数。

    井上寿一(いのうえ・としかず)

    歴史学者。1956年生まれ。学習院大学学長。 専門は日本政治外交史。 主に近現代日本の国内政治と外交政策の相互関連を中心に研究。 著書に「第一次世界大戦と日本」、「日中戦争下の日本」などがある。

    5ヶ月連続 特別番宣番組 終戦70年 それぞれが見た戦争 7月テーマ:カメラ

    70年前に起きた戦争から何を学び、何を未来に残すのか。
    戦争の歴史と共に技術発展を遂げてきたカメラ。写真や映像、数々のフィルムに残された真実とは。
    第二次世界大戦でカメラは何を捉えてきたのかに迫る特別番組『終戦70年 それぞれが見た戦争 “カメラ”』の内容を一部ご紹介します。

    番組本編ではここに掲載されていない『カメラ』についても多く語られているので、ぜひご覧ください。下記の日程で放送。

    放送日
    7月17日(金)24:15〜24:45/7月20日(月・祝)20:30〜21:00/他

    ナビゲーター:古市憲寿(社会学者)
    ゲスト:佐藤卓己(歴史学者) 丹羽美之(社会学者)


    ©東北新社

    戦争とともに発展した映像技術

    古市「現代の私たちは戦争を写真や映像で目にする機会は多いと思いますが、いつ頃から戦争を写真や映像で残すようになったんですか?」

    丹羽「映画の誕生は1896年と言われていますが、それ以降、戦争を撮影して、広く国民に伝えるということが盛んに行われてきました。技術的な観点で言えば、カメラの技術というものが戦争を契機に発展していくところもあって、その意味でも写真や映画、映像技術と戦争は切っても切り離せないものだと思います」

    佐藤「そもそもテレビの定時放送を始めたのはナチス・ドイツです。もともとはナチス・ドイツの空軍が誘導ミサイル用のカメラを開発する過程で、その技術を宣伝省に渡し、1936年のベルリンオリンピックの時にテレビ放送を開始させたのが始まりです」

    当時の国民は戦争映像をどう見たか?

    古市「戦争映像や写真は当時、国民にどういうインパクトを与えたんでしょうか」

    佐藤「映像を見る場所を考えることが重要です。いつでもどこでも映像を見ることができる時代ではなかったので、映画館へ動画を見に行くこと自体が貴重な娯楽の一つでした。なので、劇場映画と劇場映画の合間に入るニュース映画も、当時としては珍しい『動く映像』として、受け入れられていたと考えることができます」

    NHK特集 激動の記録

    戦時下の昭和15年から日本映画社により制作され、劇場で放映されたニュース映画「日本ニュース」。私たちは画面に映る「事実」に隠された「真実」をどう読み解くことができるのか。

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    従軍カメラマンについて

    古市「従軍カメラマンは、当時どんな存在だったんですか?」

    丹羽「従軍カメラマンには二通りあると考えられます。一つは軍が兵士にカメラを持たせるというもの。例えば、沖縄戦では上陸作戦を行った海兵隊の中にカメラを持った専属部隊があって、上陸していく様をつぶさに記録していきました。私たちがよく目にする沖縄戦の映像は海兵隊員がカメラマンとして撮ったものなんですね。もう一つの従軍カメラマンとは、もともとの報道記者やそうした人が部隊に従軍して撮影するタイプです。ただし、報道カメラマンだからといっても、自由に何でも撮ることができたわけではなく、ある種の取材の制限や様々な制約のもとで撮らなければいけなかったんです。戦地に行くことが命がけの作業なので、軍隊と共に行動し、装備や食料なども軍隊から支給される。そうして、ほとんど軍部と一体化していくので、撮れるもの・撮れないものという制限や制約が当然出てきます。様々な制約の中で撮られた映像や写真が今残っているということですね」

    原爆の夏 遠い日の少年

    原爆により廃墟と化した長崎に立ったアメリカの従軍カメラマン、ジョー・オダネル。
    彼は任務を越えて、焼け跡に生きる日本人の姿を数千コマに及ぶフィルムに焼き付けた。
    その日から58年後、彼は写真に写る一人の少年に出会うため、再び長崎を訪れる。

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    古市 憲寿(ふるいち・のりとし)

    社会学者。1985年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶應義塾大学佐藤古市C研究所上席研究員。 若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)などで注目される。日本学術振興会「育志賞」受賞。著書には、数年間かけて国内外の戦争・軍事に関する博物館を巡り、各国の戦争の捉え方を考察した『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社)、日本社会の様々な「ズレ」について考察した『だから日本はズレている』(新潮新書)などがある。

    佐藤卓己(さとう・たくみ)

    歴史学者。1960年生まれ。京都大学大学院教育学研究科教授
    専門は、メディア史、大衆文化論。著書に『言論統制』、『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』のほか、多数。

    丹羽美之(にわ・よしゆき)

    社会学者。1974年生まれ。丹羽HKディレクターを経て、東京大学大学院情報学環准教授
    専門は、メディア研究、ジャーナリズム研究、ポピュラー文化研究
    記録映画やテレビ番組のアーカイブ活動にも取り組んでいる。編著に『記録映画アーカイブ2 戦後復興から高度成長へ』(東京大学出版会、2014)などがある。

    5ヶ月連続 特別番宣番組 終戦70年 それぞれが見た戦争 6月テーマ:市民

    70年前に起きた戦争から何を学び、何を未来に残すのか。
    兵士を見送り、国に残った一般国民。彼らは様々な形で戦争に巻き込まれていく。戦時下の市民は何を見たのかに迫る特別番組『終戦70年 それぞれが見た戦争 “市民”』。
    番組のトーク内容を一部ご紹介します。

    番組本編ではここに掲載されていない『市民』についても多く語られているので、ぜひご覧ください。下記の日程で放送。

    放送日
    6月6日(土)21:00〜21:30/6月13日(土)21:00〜21:30/他

    ナビゲーター:古市憲寿
    ゲスト:矢野久(歴史学者) 井上寿一(歴史学者)


    ©東北新社

    地域によって異なる“戦争”

    古市「日本の映画やドラマをみると、戦争末期の悲惨な国民と戦争と国の関わり、というイメージが非常に強いです。しかし実際はそうでもなかったという話も聞きましたが、どうだったのでしょう?」

    井上「実は、戦争末期ですら違いがありました。これは有名な話ですが、東京に住んでいる永井荷風が、京都の谷崎潤一郎の家を訪れたら、戦時中だからこんなものしか出せないが・・と言われたが、白米や魚もあれば、山海の珍味などあらゆる食べ物が出てきた、これは戦争中じゃないだろうと思った、という話があります。こんな具合に地域差ってありますよね。空襲においても、下町の住宅密集地で軍需工場があったような場所は、本当に悲惨な状況でしたが、例えば世田谷は特別に軍需施設もなく世田谷の辺りで空襲で死んだ人はほとんどいません。それくらい末期であっても非常に大きな違いがありますね」

    矢野「今、井上先生がおっしゃられた空襲の地域差というのはドイツでも相当ありました。空爆の対象になった大都市の人々が住んでいた人々への影響はものすごく大きいものでしたが、農村などになってくると、少なくともその時点まで空爆によって日常生活が大きく変化していく、悪化していくという経験がないわけです」

    井上「そうですね、ですから農村の人達は戦争に負けた時に『もっと戦おう』となりました。被害が比較的軽かったので『まだまだ負けていない。食べるものもそれなりにあるぞ』と。ところが、東京を中心とした都市は惨憺たる状況で、とても戦争なんか続けられるはずがなかった。目に見えた被害が全く違いますからね」

    空襲の中での生活

    古市「例えば、軍需工場があった都市は空襲の可能性があったわけじゃないですか。ただ、それがわかっていてもその都市の全部の人達が逃げたわけではなくて、多くの人はそこで暮らしていたんですよね。人々は、どんな気分で毎日暮らしていたのでしょう?」

    井上「私たちの感覚からすると、そんなところに居たら、いつ空襲にあって死ぬかもしれない。なんで農村などに逃げないのかと思いますが、そんな簡単なことではないんです。常に、毎日空襲を受けていたらそれは逃げるのでしょうが時々しか来ません。生活が東京や大阪にある人が、その仕事を放棄してとにかく逃げよう、という状況ではないですよね。そういう不安定な中で慣れてしまう部分もあって、それで実際には生活していかなければならない、そういうところがありますよね」

    終戦の前年から本格化した日本本土への空襲。終戦のわずか10時間前に襲われた秋田・・・。
    体験者が真実を語る。

    語り継ぐ土崎空襲~終戦前夜の悲劇〜

    1945年8月14日夜から15日未明にかけて、アメリカ軍の爆撃機によって秋田市土崎は、1万2047発もの爆弾が投下され250人以上が犠牲となった。この日本最後の空襲を知る証言者が、無差別爆撃の惨状を生々しく語り伝える。

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    国民はどう統制されたのか?

    古市「国は、国民に対してどれくらいの関与をしていったのですか?」

    井上「日本の場合だと、一番わかりやすいのは治安維持法という法律を巧みに使ってコントロールしていました。この法律によって、大衆自身が、実際の共産主義者でなくても、自分の言動がもしかしたら共産主義者と間違われるのではないかと思い、非常に強い自己規制をしていったんです。戦争末期に戦争をやめようというビラを米軍がまいて、それを持って帰ると特高(※特別高等警察)が監視していて逮捕されたという風によく言われますが、実際は、そんなに特高はいなくて、それを拾ったら自発的に近くの警察に届け出るということをしていたんです。自己規制が非常に強く働く、あるいは空気が支配する・・・治安維持法というのは、そういった政治的な効果を持っていました。ですから、日本は合法的にそういうことができていたんです。独裁国家のように見えるけれども、決して独裁国家ではなくて、法律に従ってそういうことをやっていたんですね」

    古市「さきほど、井上さんがおっしゃった相互監視みたいなものはドイツでもあったんですか?」

    矢野「ゲシュタポは全能のイメージがありますが、これはたぶん間違いで、1人のゲシュタポが対象にする住民はだいたい2万〜3万人くらいなんですね。じゃあ、どのようにしていたかというと密告なんです。ゲシュタポだけではなく、党の組織などに人々は密告する。ナチスドイツをイメージすると、人々自身が密告という形でその独裁制のなかに参画していったのです」

    古市「人々は、進んで独裁政権に協力していったということですね」

    矢野「そういったものがないと独裁制なんて維持できないです」

    古市「強大な権力者がいたくらいで、国民は管理なんてされないわけですね」

    矢野「監視、管理の末端のところに人々がいた、という構造がナチスドイツの注目すべき点だと思いますね。」

    昨年アカデミー賞を受賞した短編ドキュメンタリー。
    ナチスによるユダヤ人大量虐殺ホロコーストの恐怖のなか前向きに生き抜いたピアニストの姿を描く。

    弾くことは生きること〜ホロコーストを生き延びた109歳のピアニスト

    撮影当時109歳のアリス・ヘルツ=ゾマーは、世界最年長のピアニストでありホロコーストの生存者である。彼女が、恐怖のなか音楽に希望を見いだし、いかにして生き抜いてきたのかが語られる、人間の魂の強さを伝える感動のドキュメンタリー。

    詳しくはこちら

    古市 憲寿(ふるいち・のりとし)

    社会学者。1985年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所上席研究員。
    若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)などで注目される。日本学術振興会「育志賞」受賞。著書には、数年間かけて国内外の戦争・軍事に関する博物館を巡り、各国の戦争の捉え方を考察した『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社)、日本社会の様々な「ズレ」について考察した『だから日本はズレている』(新潮新書)などがある。

    矢野久(やの・ひさし)

    歴史学者。1950年生まれ。慶應義塾大学経済学部教授。専門は現代ドイツ社会史、特にナチス時代の社会史などを研究。著書に『ナチス・ドイツの外国人―強制労働の社会史』、共著に『ナチズムのなかの20世紀』などがある。

    井上寿一(いのうえ・としかず)

    歴史学者。1956年生まれ。学習院大学学長。専門は日本政治外交史。主に近現代日本の国内政治と外交政策の相互関連を中心に研究。著書に「第一次世界大戦と日本」、「日中戦争下の日本」などがある。

    5ヶ月連続 特別番宣番組 終戦70年 それぞれが見た戦争 5月テーマ:兵士

    70年前に起きた戦争から何を学び、何を未来に残すのか。
    2000万人の兵士の命が失われた第二次世界大戦。戦火の中、兵士たちが何を見たのかに迫る特別番組『終戦70年 それぞれが見た戦争 “兵士”』。
    兵士たちにとって『戦争』とはなんだったのかを、『終戦70年 それぞれが見た戦争 “兵士”』の内容を一部抜粋し、ご紹介します。
    番組本編ではここに掲載されていない『兵士』についても多く語られているので、ぜひご覧ください。下記の日程で放送。

    放送日
    5月15日(金)21:00〜/5月16日(土)8:00〜/他

    ナビゲーター:古市憲寿
    ゲスト:等松春夫(国際政治学者) 一ノ瀬俊也(歴史学者)


    ©東北新社

    兵士になる理由

    古市「現代の感覚からすると兵士になって命を落とすかもしれない戦場へ行くという感覚はよくわからないものなんですが、なぜ当時の人々は戦地に行けたのか、兵士になれたのでしょうか?」

    一ノ瀬「日清戦争や日露戦争、当時の外国と戦争して勝ったわけで、その結果日本が栄えることで、“日本国民”という意識が人々の間に生まれ、『日本国民たる者、戦争が起これば軍隊に入るのが当たり前だ。行かない奴はダメなやつ』という空気がだんだんと作られていったということが明治時代から続いていたからだと考えられます」

    古市「兵士になることがある種、栄誉や名誉になっていったということですね」

    等松「あともう一つ付け加えるとすると、現代の我々はよほど想像力を働かさないとわからないのですが、当時の日本はアメリカの1/10以下のGNPしかなく、非常に貧しい国でした。極端な話、どんなに厳しい訓練があっても軍隊に入ったほうがまだ楽だという価値観もあったんですよ。当時の日本人は同世代の3〜4%ほどしか大学には行けず、中学校卒業でさえも十分高学歴でした。小学校卒業後はすぐに働きに出る青年たちが恐らく同世代の7〜8割いた時代に、軍隊はステップアップできる教育機能を持っていたんですね。軍隊に入って初めて機械の使い方や車の運転ができるようになった人もいるわけです。だから軍隊から戻ってくると『お前も一人前だ』と認められて、就職にも有利かもしれないし、いいお嫁さんにお世話してもらえるかもしれない。やはり地域社会に大人として認めてもらえる、通過儀礼的なこともあったと思うんですね」

    戦場で人は変われるのか?

    古市「兵士になり、これまで人を殺したことがない人が、戦場で人を殺せるようになれるものなんですか?」

    一ノ瀬「これはアメリカでの統計なんですが、実際に敵に向かって発砲したアメリカ兵の割合は2割前後と言われています。多くの人は引き金を引けないんですよ。人を殺すのが嫌だから。では日本はどうだったのかというと、わかりませんが、ただ最終的には大勢の人が日本軍の手によって亡くなっている。それはやはり、殺さないと殺される。という思いが第一にあったからなのかもしれません」

    世界で行われた激しい戦いの記録を追い、兵士たちの思いに迫る。


    ©2015 A&E Television Networks. All rights reserved.

    ノルマンディー上陸作戦〜失われたフィルム〜

    ナチス占領下だった欧州に連合軍が侵攻し、多くの死傷者を出した『ノルマンディー上陸作戦』。第二次世界大戦で最も重要な転機とも言われるこの作戦から生還した兵士たちのインタビューを交えて、作戦に秘められた真実に迫る。

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    カラーで甦る第二次世界大戦〜世紀の空中戦〜

    カラーで甦る第二次世界大戦〜世紀の空中戦〜

    第二次世界大戦中、空からドイツに攻撃を仕掛けた連合軍飛行隊の戦いを、そこに参加した5人の退役軍人とともに振り返る。制空権を得るための歴史的な戦いが貴重な高解像度のカラー映像で甦る。

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    戦没者の死因

    古市「日本兵は戦闘で戦って亡くなった人もいるけれど、餓死で亡くなった兵士も多くいるんですよね」

    一ノ瀬「そうですね。これは色々な研究があって、栄養失調による病気での死亡も含めると、亡くなった兵士の半分、もしくはそれに近い数が広い意味での餓死だと言われています」

    等松「派遣される地域によって違うことを象徴する、兵隊の間で流行った言葉があります。『ジャワの極楽 ビルマの地獄 生きて帰れぬニューギニア』という言葉で、意味はジャワ島をはじめとする現在のインドネシアに相当する地域は、当時日本軍が占領してはいましたが、最後までほとんど戦場にならずに済んでるんですね。多少ゲリラがいたりすることはあるかもしれませんが、基本的に住民が協力的で、割に住民との関係が良好で、物資があった。内地にいるよりはるかにいい生活ができて、占領軍としての役得があったんですね。ところがニューギニアは15〜6万ほどの日本の兵士が戦うんですが、生還率は7%ほどで、死んだ人たちのほとんどが餓死・病死・事故死なんですね。こうした悲惨な戦いをさせられた軍隊は世界的にも珍しかったのですが、実際に太平洋ではこうしたことが起こっていた。ですから同じ兵士の経験でもずいぶん差があるんだってことは知らないといけないです」

    太平洋での激戦の地・タラワ島でアメリカ兵や、当時を知る住民たちが目撃し、経験した戦争の悲劇を知る。

    激戦タラワ〜日米将兵の再会〜

    太平洋に浮かぶキリバス共和国の首都・タラワ島。1943年に日本軍とアメリカ軍の壮絶な戦場となった。
    アメリカ軍側に残された貴重な映像と証言を組み合わせ、上陸から交戦までを克明に辿り、タラワ島の戦いが如何に熾烈を極めたかを検証してゆく。

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    当時の日本における「戦争のリアリティ」

    古市「当時の日本人は戦争に対するリアリティをそれほど持っていなかったんですか?」

    一ノ瀬「空襲が始まるまで、戦争とはよくわからないもので、なにか『勇敢な争い』のようなもの、という認識だったかもしれません。もちろん水面下でこっそり語られるということはあるかもしれないけれど、決して表には出てこない。だから国が戦場になるというのがどういうことなのか、わからなかったと思います」

    膨大な映像によって、戦争のリアリティを知ることができる。

    秘録・第二次世界大戦

    全世界18カ国に及ぶフィルムアーカイブから集められた貴重な映像によって、大戦の全貌を明らかにする。全世界92カ国以上で放映され、エミー賞や数々の賞を受賞した。

    詳しくはこちら

    『終戦70年 それぞれが見た戦争 “兵士”』番組本編では、ここに掲載されていない『兵士』についても多く語られているのでぜひご覧ください。

    放送日
    5月15日(金)21:00〜/5月16日(土)8:00〜/他

    古市 憲寿(ふるいち・のりとし)

    社会学者。1985年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所上席研究員。
    若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)などで注目される。日本学術振興会「育志賞」受賞。著書には、数年間かけて国内外の戦争・軍事に関する博物館を巡り、各国の戦争の捉え方を考察した『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社)、日本社会の様々な「ズレ」について考察した『だから日本はズレている』(新潮新書)などがある。

    等松春夫(とうまつ・はるお)

    1962年生まれ。国際政治学者。防衛大学校国際関係学科教授。 政治外交史と比較戦争史を中心に研究を行っている。 著書に『日本帝国と委任統治 −南洋群島をめぐる国際政治 1914-1947―』、共編著に『日露戦争』(全2巻)、『日中戦争の軍事的展開』、『PKOの史的検証』、 監訳書にH・P・ウィルモット『第一次世界大戦の歴史大図鑑』、ジョン・ストウシンガー『なぜ国々は戦うのか』などがある。

    一ノ瀬俊也(いちのせ・としや)

    1971年生まれ。歴史学者。埼玉大学教養学部准教授。 専門は日本近現代史。戦前の日本軍兵士に関心を持ち、研究を行っている。 著書に、『日本軍と日本兵 米国報告書は語る』『皇軍兵士の日常生活』、『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』などがある。

    5ヶ月連続 特別番宣番組 終戦70年 それぞれが見た戦争 4月テーマ:権力者

    70年前に起きた戦争から何を学び、何を未来に残すのか。
    第二次世界大戦で各国を指揮し、人々を煽った権力者たちが何を見たのかに迫る特別番組『終戦70年 それぞれが見た戦争 “権力者”』。
    ここでは『権力者』がどのように誕生したのかを、『終戦70年 それぞれが見た戦争 “権力者”』の内容を一部抜粋し、ご紹介します。
    番組本編ではここに掲載されていない『権力者』についても多く語られているので、ぜひご覧ください。下記の日程で放送。

    放送日
    4月24日(金)24:00〜/4月26日(日)21:00〜/4月26日(日)29:30〜

    ナビゲーター:古市憲寿
    ゲスト:鳥飼行博(経済学者) 小谷賢(国際政治学者)


    ©東北新社

    なぜ『権力者』は生まれたのか?

    古市「ヒトラーをはじめ様々な権力者が生まれたわけですが、なぜそういった『権力者』というものが生まれたのでしょうか」

    鳥飼「一つの考え方としては、第一次世界大戦と第二次世界大戦を連続した戦いのように捉えてみるとわかりやすいかなと。第一次大戦で負けた国、特にドイツのようにベルサイユ条約で多額の賠償金を取られたり、海外の領土も自国の領土も大幅に縮小してしまったような国からすると、ある意味では劣等感のようなものを克服したいとか、もう一度ドイツを再興するんだ、という思いの中で『権力者』が登場してくる一つの要素なのではないかと思いますね」

    小谷「もう一つ大きかったのはやはり社会的な要因と言えるものかと思います。大恐慌にいかに対処するかという方法を模索していく中で、ルーズベルトは大統領になりましたし、ヒトラーやムッソリーニは再軍備という道を歩んでいったんだと思います」

    古市「世界中で大恐慌が起こった時代の中で国ごとの違いもあったんですか?」

    鳥飼「多くの敗戦国、ドイツにしても日本にしても、議会政治が強まっていきますが、議会の中で不況や大恐慌にうまく対処できるか、ということですよね」

    古市「つまり世界がうまくいっていない中で、『議会』というのがまどろっこしく感じたということでしょうか?」

    鳥飼「民主主義は、効率的でなんでも良くなるという認識は大間違いで、民主主義的に進めるからこそ、時間はかかり、妥協の産物みたいでどっちつかずになることがある。だから効率的にやるのであれば、独裁者が出て、スパッとやって、財政再建でも大幅な軍事支出でも、その人に託して、任せる方が効率的に感じるかもしれません」

    ヒトラー、ムッソリーニ、東條英機、スターリン、ルーズベルト……
    権力者誕生の背景を知るには


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    ザ・ワールド・ウォーズ〜権力者が生きた世界大戦〜

    1914年の第一次世界大戦から1945年の第二次世界大戦の終結まで、30年あまりに渡る二つの戦いを“ひとつの戦争”としてとらえ、第一次世界大戦でまだ若く前線で生き抜いてきた男たちが、その経験から第二次世界大戦で指揮を執り、いかにして多くの命を左右するほどの“権力者”に変わっていったのかを辿る大作ドキュメンタリーシリーズ。

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    独裁者ヒトラー

    古市「ヒトラーというと『巨悪』として描かれることが多いですが、実際はどんな人物だったのでしょうか?」

    小谷「彼はプロパガンダや演説などの面では天才的だったと思います。しかし軍事的な才覚や外交的な面ではそれほど大した才能はなかったのかな、という印象です」

    鳥飼「私自身はちょっと違う印象で、彼がいなければ第二次大戦はあそこまで大きな戦いにはならなかっただろうし、ホロコーストもあそこまでの状況にはならなかったのではないのかな、と思います。だけど彼が全部一人でやったのかと言われれば、大衆のある程度の支持を受けていたし、産業界の支持も受けていて、そして軍の支持も受けていたわけですので、そこまでは言い切れない部分もあります。」

    ナチスのプロパガンダの様子が当時の映像からつぶさに見ることができる

    ナチス第三帝国 知られざる真実

    ナチスがいかに国民を扇動し、第三帝国を作り上げていったのか。ナチスが残した公文書、ロシア軍の持ち帰った映像などのアーカイブから、近年で最も複雑な政治形態を作り上げた人々について、知られざる真実を掘り起こす。

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    ナチスの権力者たち

    古市「ナチスの中にはヒトラー以外にも『権力者』というのはたくさんいたんですか?」

    鳥飼「空軍大臣にもなっているゲーリングや国民啓蒙・宣伝大臣ゲッペルス、親衛隊を任されているヒムラーなどがいました。全員が(トップを務めている分野において)自分自身の帝国のようなものを作っていくのですが、最後にどこでまとめるのかとなったら、仲介できるのはヒトラーしかいないんですよ。だからみんな『ヒトラーが言ったから、こうなんだ』と、自分の帝国を作っていくわけですよ。各分野の権力者を束ね、調整する中で自分自身の権威を高めていくという意味ではヒトラーは独裁者と言っていいと思いますね」

    ナチスNo.2の権力者ゲーリング、プロパガンダの天才ゲッペルス、親衛隊指導者ヒムラー
    ナチスの権力者10人の悪行と彼らの生活を知るなら


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    ナチス権力者:究極の悪

    ナチスを極悪非道な組織に作り上げたのはヒトラー1人のアイデア・手腕だけではない。
    ヒトラーのアイデアを合法化し、それぞれの作り上げた帝国の中で実現していったナチス構成員たちがいた。ゲーリング、ゲッペルス、ヒムラーをはじめ10人を取り上げ彼らがどのような悪行を重ね、どのような結末を辿っていったのかを追う。

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    『終戦70年 それぞれが見た戦争 “権力者”』番組本編では、ここに掲載されていない『権力者』についても多く語られているのでぜひご覧ください。

    古市 憲寿(ふるいち・のりとし)

    社会学者。1985年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所上席研究員。
    若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)などで注目される。日本学術振興会「育志賞」受賞。著書には、数年間かけて国内外の戦争・軍事に関する博物館を巡り、各国の戦争の捉え方を考察した『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社)、日本社会の様々な「ズレ」について考察した『だから日本はズレている』(新潮新書)などがある。

    鳥飼 行博 (とりかい・ゆきひろ)

    経済学者。1959年茨城県生まれ。東海大学教養学部教授。持続可能な開発の研究、平和人権・戦争に関するメディア・リテラシーなどを研究している。著書に、ナチスの政権獲得から第三帝国崩壊に至る歴史を詳解した『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』(青弓社)などがある。

    小谷賢(こたに・けん)

    国際政治学者。1973年京都生まれ。防衛省防衛研究所戦史研究センター主任研究官。専門はイギリス政治外交史、日英米関係史、インテリジェンス研究。著書に『インテリジェンス 国家・組織は情報をいかに扱うべきか』(ちくま学芸文庫)、『日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか』(講談社選書メチエ)などがある。

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