元隊員が語る特攻艇「震洋」 - Y!トップ
|
8月13日(土)15時56分〜17時54分
|
|
|
|
ベニヤ板のボート「震洋」で特攻を強いられた仲間を思い、寺に手製の零戦の模型を安置する村上さん=静岡市葵区の瑞雲寺で、扇沢秀明撮影(毎日新聞) | <特攻艇「震洋」>元隊員、手作り「零戦」で供養へ 「もう、お前たちの乗る飛行機はない」。大空にあこがれて日本海軍に入った少年飛行兵に、上官は告げた。10代の少年たちを待っていたのは、小型モーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」だった。生き残った元震洋隊員たちが、この日本軍の「人間兵器」について証言した。(毎日新聞) [記事全文]
1944年10月20日、奈良県の三重海軍航空隊奈良分遣隊。予科練と呼ばれた海軍航空隊の講堂に、当時18歳の村上孝道さん(84)らが集められた。上官は呼びかけた。「特殊な兵器ができた。志願する者はないか」
「家族を守ろう」と志願した村上さんらは、窓を目隠しされた汽車で長崎県川棚町の臨時魚雷艇訓練所へ向かった。そこで見たのは、小さな木製ボートだった。
「何じゃこりゃ。これに乗るのではないだろう」。海軍に入って初めての愚痴だった。
45年3月、茨城県土浦市の予科練で震洋隊に選ばれた当時18歳の根本栄さん(85)も、川棚町の訓練所で震洋を見た印象を「波で壊れないかと思った」と振り返る。根本さんの場合は志願ではなかった。「上官から告げられた。なぜ自分が選ばれたのか今でも分からない」という。
村上さんは3カ月間、操縦、自爆装置の扱いなどの訓練を受けた。45年3月に赴いた中国南部の廈門(アモイ)で、8月11日に出撃命令を下された。待機の間、着用を指示されたのは飛行服だった。「飛行兵として死なせてやりたいという配慮だったのでしょう」。だが、そのまま15日を迎える。「特攻兵は全員殺される」といううわさが流れる中、日本に復員した。
一方、根本さんは6月に本土決戦要員として静岡市清水区三保の震洋隊に配属された。25隻あるはずの震洋は4、5隻しか配備されていなかった。玉音放送を聴き「死なないで帰れる」と思った。
戦後、「生き残った負の思いがある」という村上さんは仲間の霊を慰めるため仏門に入った。住職を務める寺の本堂に、手作りの全長約3メートルの零戦が安置してある。「仲間はこれに乗りたくて予科練に入った。飛行機を置けば、みんなここに戻って来るのでは」。そんな思いで3年かけて作った。今年も「二度と戦争はしてはならない」との思いを込め、15日に零戦を供養する。
根本さんは家業の農業を継いだ。「多くの先輩が死んだ。死んだつもりで働こう」と農民運動から政治へ。故郷の茨城県高萩市議を9期務めた。特攻の経験は「自慢話になるようで」若い市議たちには話していない。【扇沢秀明】
◇震洋
旧日本海軍の水上特攻兵器。全長5.1メートルの1人乗りと6.5メートルの2人乗りがあった。自動車エンジンを積み、船首に爆薬250キロを搭載。44年に開発開始。約6200隻が建造され、フィリピン、沖縄、日本本土などに配備された。特攻や出撃基地への移動中に戦死した隊員は約2500人という。
◇「震洋」など特攻に使われた兵器 ・ 特攻兵器:人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」 - 鳥飼行博研究室
・ 回天記念館 - つれづれやまぐち
◇特攻に向かった隊員の心境を知る資料
・ 遺書遺詠に偲ぶ特攻隊員の心情 - 特攻隊戦没者慰霊顕彰会
・ 隊員達の遺書 - 神風KAMIKAZE ・ 息づまるような状況下で、軍の指定食堂「富屋食堂」を経営する鳥浜トメは、娘たちとともに、出撃する特攻隊員をあたたかく迎え。そして送り出した。 - 富屋食堂
・ 太平洋戦争史 - 関連情報エリア
◇8月15日は「終戦の日」 ・ 8月15日は「終戦記念日」「終戦の日」? - NHK放送文化研究所 ・ 終戦の日 - 9月2日を「終戦の日」とする国家も。ウィキペディア ・ ソ連の不法占拠 - 北方領土問題対策協会
|
この記事を掲載したトピック -
太平洋戦争 |
ヘルプ・お問い合わせ
Copyright 2011 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.
このページは毎日新聞 8月13日(土)11時37分配信
<特攻艇「震洋」>元隊員、手作り「零戦」で供養へ
を Yahoo!ニュース から直接貼り付けた記録保管用ニュースです。(鳥飼行博研究室)
|