水説:世界の変革に加わる=中村秀明

毎日新聞 2015年9月30日 東京朝刊<sui−setsu>

http://mainichi.jp/shimen/news/20150930ddm003070177000c.html の複写記事

 「教育となると、今の世界の指導者たちほどケチな人を私は見たことがない」

 「私」はマララ・ユスフザイさん(18)。教育への投資次世代への投資を求め、世界のリーダーをしかった。

 フランシスコ・ローマ法王は「希望の兆しだ」と言いつつも、「利己的な欲求と物質的繁栄を優先する風潮が、自然資源過剰な消費を招き、弱者や貧者はしわ寄せを受けている」と語った。

 いずれも先週の国連サミットが採択した「持続可能な開発目標」について、それぞれの立場から訴えたものだ。

 貧困や乳幼児死亡を減らすため、2000年から15年間にわたって国連が掲げてきた「ミレニアム開発目標」に代わる新たな指針だ。

 ミレニアム目標は、途上国での衛生状態の改善や教育の普及などを目指したが、これからの15年の新たな目標は「世界を変革する」を合言葉に、先進国も含む全世界に目を向けている。格差の解消や、女性の社会進出をはじめ、資源や環境に配慮した生産や消費、温暖化対策食品廃棄の削減、公正な社会の実現など17分野の目標が並ぶ。

 「目標が多すぎ、焦点がぼける」との批判もあるが、世界が壊れずに持ち続けるには、どれもおろそかにできない。それほど、たくさんの課題が目の前にあるのだ。

 私たちは何をすればいいのかを聞こうと、環境平和学が専門の東海大学教養学部鳥飼行博教授を訪ねた。

 「17分野もの幅広い課題があるので、それぞれが自分にできること、身近なことに思いをはせ、取り組めばいいということでしょうか?」と問うた。すると、「うちのゼミの学生が、そんな内容の論文を書いたら落第にしますよ」と苦笑された。
 「途上国の人々はそれでもいい。しかし、先進国の責任は非常に重い。そこに暮らす人は、できることだけでなく、どんな犠牲を払えるかを考えなくてはいけない」
 「世界が続いていくため、犠牲を払う覚悟はあるのかが問われていると思う。とりかかるのは早い方がいい」

 そういえば、車いすの物理学者スティーブン・ホーキング博士のビデオメッセージは切迫した様子だ。「時間がないのです。みなさんの力を貸してください」と。

 二つの映像を検索し見てほしい。そして考えよう。

 一つは「ホーキング グローバル・ゴールズ」。
 もう一つは世界の若者が呼びかける「We the people グローバル・ゴールズ」。(論説委員



水説:従属を嫌った暗殺者=中村秀明

毎日新聞 2015年10月14日 東京朝刊<sui−setsu>

http://mainichi.jp/shimen/news/20151014ddm003070127000c.html の複写記事

 こんな人物が実在したことを初めて知った。ドイツ人の家具職人ゲオルク・エルザーだ。

 1939年秋、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まる。その直後、36歳の彼はミュンヘンの演説会場に手づくりの時限爆弾を仕掛け、総統ヒトラーの殺害を計画した。
 その一部始終を描いた映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」が今週公開される。

 無差別殺人の爆弾テロは狙いがどうであれ、非難されるべきものだ。彼の爆弾は7人の命を奪った。映画の中では、秘密警察の局長が「お前は何の罪もない人間を殺したんだ」と厳しく責めたてる。その局長は後に、ユダヤ人絶滅計画で中心的な役割を果たすのだが……。
 エルザーは、なぜ独裁者を殺さなくてはならないと考えたのか、その過程が彼の目を通して描かれる。

 ドイツ南部の小さな町。美しい田園風景や酒場でのダンスと音楽に包まれた日常が、次第に変わっていく。自由にものが言えない息苦しさが漂い、ナチス支持者とそうではない者との「分断」が生まれる。影響されやすい子どもの言動も変わった。異論をはさむ者、障害を持った者ユダヤ人と親しくする者への差別と排除が公然と始まる。エルザーが臨時で働く工場では戦車生産が進んだ。

 パンフレットに解説を書いた東海大学鳥飼行博教授(環境平和学)は、労働者で高等教育も受けていないエルザーの鋭い感受性と強い覚悟を指摘する。「だれに言われたわけでもなく、自らの目と頭で大きな危険を察知し、だれにも相談せず1人で動いた。無力だからとあきらめたり、だれかがなんとかしてくれるだろうと任せたりはしなかった」と語っている。

 彼は収容所で5年以上すごした後、敗戦直前に銃殺された。東西分裂のせいで歴史から消されたが、再統一後にようやく日が当たる。ドイツメルケル・首相は昨年、「戦争を防ぐために自らの意志に従って行動した」と賛辞を贈った。

 日本での公開を前に監督ヒルシュビーゲル氏は面白いことを言っている。「日本人にはしっかり考えてほしい。というのも、日本もドイツと同じように、言われたことに、流れに従属してしまう国民性だから。どんどん問いかけをし、何も考えずに受け入れることはやめよう」と。

 守りたいものは何か、大切にするものは何か。それを阻むものに、どう立ち向かうか。多くのことを問いかける映画である。(論説委員



水説:経団連も味方しない=中村秀明

毎日新聞 2015年9月16日 東京朝刊<sui−setsu>
http://sp.mainichi.jp/shimen/news/20150916ddm003070139000c.html の複写記事

 知り合いの教授ら大学関係者の多くが疑問を感じ、腹を立てていた。

 総合大学を生んだ欧州では、文系出身者が理系にうとくてもまあ許されるが、歴史や文化を語れない理系出身者は相手にされない」
 「機械や物体がどうやって動くかがわかっても、人が何を考え、どう行動するかを理解しない人間が世の中を動かせますか」

 文部科学省が6月、全国86の国立大に出した通知が発端だ。人文社会科学系の学部や大学院について「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」を求め、「社会が必要とする人材を大学は育てる必要がある」と強調した。

 「稼ぐ力」や「競争力」が好きな現政権が、産業界の欲しがる人材を供給するため、文系よりも理工系など実践的な分野の学部を重視するよう促したものと受け止められた。実際、いくつかの国立大学は、文系の定員を減らしたり、文系理系にまたがる新しい学部設置に動いたりしている。交付金など財政面での冷遇を恐れたようだ。

 ところが先週9日、意外なところから異論が出た。産業界の総本山で現政権の政策を強く支持する経団連だ。
 「国立大学改革に関する考え方」を公表し、通知について「即戦力を有する人材を求める産業界の意向を受けたものとの見方があるが、産業界が求める人材像は、その対極にある」と“ぬれぎぬ”を主張した。そのうえで、大学改革は国主導でなく「学長の強い指導力による主体的な取り組みを」と訴えている。

 遅ればせながらの異議だが、効き目はあった。下村博文文科相は直後、「人文社会科学系の廃止ではなく見直しを求めたもので誤解を与えた」と釈明している。

 よく考えると「文系つぶし」と言われた通知で、最も苦い思いをしたのは理系学生や理系出身者かもしれない。
 通知への批判では「政府は従順で批判精神に乏しい学生がほしいのだろう」といった声が目立った。慶応大理工学部の前身で、戦前に創設された藤原工業大学の初代工学部長・谷村豊太郎氏の「すぐに役立つ人間は、すぐに役に立たなくなる人間だ」という言葉を引用した人もいた。

 文系と理系を対立させ、優劣を論じるかのような通知自体が不毛だった。そもそも政府の願望ならわかるが、もっともらしく「社会のニーズ」「時代の要請」というのは根拠が乏しいことの裏返しだろう。経団連も味方してくれないなら、潔くさっさと取り下げた方がいい。(論説委員



水説:ただ祈るだけでなく=中村秀明

毎日新聞 2015年7月8日 東京朝刊<sui−setsu>
http://mainichi.jp/shimen/news/20150708ddm003070050000c.html の複写記事

 「私たちの共通の家・地球はゴミの山のようだ」

 地球温暖化を憂えたフランシスコ・ローマ法王が6月に発表した公文書「回勅(かいちょく)」の一節である。

 法王は「温暖化は人類がつくり出した」との考えを明確にしたうえで、ハイテク信仰や化石燃料への依存、衝動的な消費といった生活のあり方を改めるよう説いた。また「政治力、経済力を持つ人々が、この問題を覆い隠そうとしている」と米国などの消極的対応も強く非難した。

 教えを説く回勅で環境問題は初めてのうえ、12億人のカトリック教徒だけでなく「この惑星に住むすべての人」と呼びかけた。そんな異例の言動が波紋を広げている。

 この国でも、宗教者の発言が注目を集めている。
 「先の大戦で国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧(ざんき)する教団として強く反対します」

 320万門徒を抱える真宗大谷派(東本願寺)の声明だ。5月、政権の安保関連法案への反対を打ち出した。

 「愚かな戦争行為を再び可能とする憲法解釈や新しい立法が『積極的平和主義』の言辞の下に、何ら躊躇(ちゅうちょ)もなく進められようとしています」と指摘し、「人々の深い悲しみと大いなる願いの中から生み出された日本国憲法の立憲の精神を蹂躙(じゅうりん)する行為を、絶対に認めるわけにはまいりません」と訴えた。

 里雄康意(さとおこうい)・宗務総長は「私たちは自らの戦争責任に向き合い続け、常に『これでいいのか?』と問いかけてきました。人間性の尊厳が損なわれかねないことから目をそらし、黙っているわけにはいかない」と背景を話す。

 明治以降の戦争を「聖戦」と呼び、敵を殺すなと説いて「非国民」とされた僧らを処分してきた罪と反省を共有しているため、内部に異論はなかったという。この声明は英文で世界にも発信した。

 里雄さんは「声明をきっかけに住職と門徒、地域の人々が積極的に話し合ってほしい。この問題は一人一人が自らのこととして受け止めるべきものです」と語っている。

 洋の東西を問わず、宗教に今、求められるのは個人の心の問題のみならず、社会が抱える問題と積極的に関わることだろう。祈るだけ、「平和」を唱えるだけで沈黙していてはいけない。

 宗教との距離感は人それぞれである。だが、耳を傾け、自らの考えをめぐらす意味はあると思う。(論説委員)



水説:脱「経済学の貧困」=中村秀明

毎日新聞 2015年05月13日 東京朝刊<sui−setsu>
http://mainichi.jp/shimen/news/20150513ddm003070181000c.html の複写記事

砲撃爆撃と砲撃でがれきだらけの街だった。なぜか中年女性ばかりに会い、『どうして、私たちはこんな災難にあうのか』と語っていたのが印象深い。男や子どもの姿は見かけなかった」

 元モスクワ特派員の同僚は1995年春、ロシアの侵攻を受けて廃虚となったチェチェン共和国の首都グロズヌイに入った時の様子を今こう振り返る。

 4年後に再びロシアが、テロ対策の名目でチェチェンに攻め込んだ。その時の多くの生と死、光と闇、被害者と加害者を題材にした映画「あの日の声を探して」が今週末から公開される。

 監督はフランス人のアザナビシウス氏。5部門のアカデミー賞を受けた「アーティスト」を手がけた。無声映画で話題となった監督が、今度はショックのあまり声を失ったチェチェンの男の子を主人公にした。

 目の前で両親を射殺され、赤ん坊の弟を他人の家の玄関先に捨てて戦火を逃れる9歳のハジ。セリフを言わない分、観客は想像力をめぐらして彼が言いたいだろうこと、考えていることに思いをはせる。いつの間にか、私はハジになっていた。

 来日したアザナビシウス氏は、ある対談で「われわれは無力かもしれないが、無関心であることをやめるのは自分の意思でできる。戦争の最も強大な共犯者は無関心ではないか」と語った。

 ユニセフ親善大使でもあったオードリー・ヘプバーンの言葉を思い出した。92年、激しい内戦が続くのに、国際社会から忘れ去られたようなアフリカのソマリアを訪れた。飢えでやせた子どもたちを前にこう言った。

 「私たちはこの状況に関与しているのです。罪はなくとも、責任はあるはずです」

 記憶に残るいくつかの映画が、あるいは影響力のある人が呼びかけても、戦争はなくならず、親を殺され故郷を追われる子どもは絶えない。だから、結局は無力と無関心に押し流されるしかないということだろうか。
 そうではない、と思う。

 「あの日の声を探して」の広報担当・徳嶋万里子さんは、ハジと同じ年代の若者だ。この映画に出あわなければ「チェチェン問題が今も未解決のまま続き、なぜロシアが彼らをテロリストと決めつけるのかも知らずにいたでしょう」という。

 無関心でいられなくなった彼女は「女性、とりわけ子どもを持つお母さんに、ぜひ見てほしい戦争映画です」と呼びかけている。(論説委員)



水説:無関心こそ共犯者=中村秀明

毎日新聞 2015年4月22日 東京朝刊<sui−setsu>
http://mainichi.jp/articles/20150422/ddm/003/070/176000c の複写記事

 「私たちの共通の家・地球はゴミの山のようだ」

 地球温暖化を憂えたフランシスコ・ローマ法王が6月に発表した公文書「回勅(かいちょく)」の一節である。

 法王は「温暖化は人類がつくり出した」との考えを明確にしたうえで、ハイテク信仰や化石燃料への依存、衝動的な消費といった生活のあり方を改めるよう説いた。また「政治力、経済力を持つ人々が、この問題を覆い隠そうとしている」と米国などの消極的対応も強く非難した。

 教えを説く回勅で環境問題は初めてのうえ、12億人のカトリック教徒だけでなく「この惑星に住むすべての人」と呼びかけた。そんな異例の言動が波紋を広げている。 

 この国でも、宗教者の発言が注目を集めている。
 「先の大戦で国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧(ざんき)する教団として強く反対します」

 320万門徒を抱える真宗大谷派(東本願寺)の声明だ。5月、政権の安保関連法案への反対を打ち出した。

 「愚かな戦争行為を再び可能とする憲法解釈や新しい立法が『積極的平和主義』の言辞の下に、何ら躊躇(ちゅうちょ)もなく進められようとしています」と指摘し、「人々の深い悲しみと大いなる願いの中から生み出された日本国憲法の立憲の精神を蹂躙(じゅうりん)する行為を、絶対に認めるわけにはまいりません」と訴えた。

 里雄康意(さとおこうい)・宗務総長は「私たちは自らの戦争責任に向き合い続け、常に『これでいいのか?』と問いかけてきました。人間性の尊厳が損なわれかねないことから目をそらし、黙っているわけにはいかない」と背景を話す。

 明治以降の戦争を「聖戦」と呼び、敵を殺すなと説いて「非国民」とされた僧らを処分してきた罪と反省を共有しているため、内部に異論はなかったという。この声明は英文で世界にも発信した。

 里雄さんは「声明をきっかけに住職と門徒、地域の人々が積極的に話し合ってほしい。この問題は一人一人が自らのこととして受け止めるべきものです」と語っている。

 洋の東西を問わず、宗教に今、求められるのは個人の心の問題のみならず、社会が抱える問題と積極的に関わることだろう。祈るだけ、「平和」を唱えるだけで沈黙していてはいけない。

 宗教との距離感は人それぞれである。だが、耳を傾け、自らの考えをめぐらす意味はあると思う。(論説委員)



水説:はっとするニュース=中村秀明

2014年12月17日 東京朝刊<sui−setsu>
http://mainichi.jp/shimen/news/20141217ddm003070074000c.html の複写記事

毎日新聞  東京朝刊 <sui−setsu>

 ノーベル賞の授賞式に目を奪われ、総選挙に気をとられたせいだろう。はっとするようなニュースが先週あったのに、日本ではあまり話題になっていない。
 経済協力開発機構(OECD)による報告書「所得格差と経済成長」である。

 加盟する先進34カ国で、格差がどのくらい拡大し、それが経済成長にどう影響したかを分析・推計した。
 1980年代に上位1割の金持ち層最下層1割の人々の平均7倍の所得を得ていたが、2011年には9・5倍に拡大した。

 国別では、北欧などは低くデンマークは5・3倍。一方で英国は9・6倍で米国は16・5倍だった。最もひどいのはメキシコの30倍である。日本は10年の数値で10・7倍となっている。

 格差の拡大は、経済成長にどう作用したのだろう。
 報告書は、90〜10年の成長率について、米国では格差が拡大しなかった場合に比べると累積6・7%落ち込み、英国は9%近く、メキシコは10%低下したと推計した。日本では成長率を6%押し下げたとみている。

 格差が成長の足かせになる。なぜなら、貧しくて質の高い教育を受けられない人たちは、知識や技能を身につけられず、働いても生み出す成果が小さいからだ。それで国全体の経済力も頭打ちとなる。日本の発展が、明治以降の教育の普及に支えられたことを思えばわかりやすい。
 それは発展途上の国だけでなく、成熟した国にも言えることだという。

 日本や欧米では「自由な競争こそが経済に活力を生み成長をもたらす」という考えが強い。だが、報告書が言いたいのは違う。「不平等の解消を目指す政策は社会をより豊かにする可能性を持つ」「教育への投資が成長戦略になりえる」という発想の転換である。

 そして、その政策に必要な財源は金持ち層への税率引き上げでまかなえばいい、と単純明快だ。「富裕層の税負担能力は以前より高まっている」と分析する。

 確かに成長の果実はいずれ金持ち層にも及び、持ち出す一方ではない。課税強化も成長の妨げにはならないのだ。貧しい層への配慮が富裕層にも見返りとなってもたらされる「逆トリクルダウン」効果である。

 社会の分断世代の対立などを超え、新たな視界が広がった気になるのは単純すぎるだろうか。少なくとも、私はこの報告書に大きな希望を感じた。(論説副委員長)

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